ハリー・ポッターと謎のプリンス

楽天地シネマズ錦糸町シネマ2 ★★☆

■最終篇の序章は、校長の死と惚れ薬騒動?

『ハリー・ポッター』も完結篇なのだから観ておこうか、って、全然違うじゃないの(原作が完結したのを取り違えてたようだ。ま、私がその程度の観客ってことなんだけど。そもそもファンタジーは苦手だし)。映画の最後で、次は二部作(えー)の最終篇が来るってお知らせが……ほへー。

簡単にいってしまうと(詳しく言えないだけなんだが)、この六作目の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』は、その最終篇の序章のようなものらしく、だからいきなり現実部分で、三つの黒い渦巻きのようなものがロンドンのミレニアム橋を襲い、破壊する場面を見せるのに、それは、最近よく起きている怪奇現象の一つみたいに片付けられてしまい、そして話の方も、もう現実世界でのことには触れることなく、学校に戻って行ってしまう。

ただし今回は、ダンブルドア校長の死という痛ましい結果が待ち構えている。そして、その前の段階でダンブルドアとハリーの二人三脚場面が多くあり、ハリーにも選ばれし者という自覚が芽生えているので、それなりに盛り上がってはいくんだが、地味っちゃ地味(スペクタクル場面は予告篇で見せちゃってるし、それも橋破壊とクィディッチ場面くらいだから)。

そのハリーだが、早々に簡単な魔法にかかって学校に遅刻しそうになるんで、これで選ばれし者なの、と言いたくなるが、まあご愛敬ってことで。

ヴォルデモート卿に関しては、毎回のようにその影響がハリーたちに降りかかるという設定なので、私のようにいい加減にしか観ていないものには、全部が似たようなイメージになってしまっている。しかし今回は(たって前がどうだったかは、って、しつこいか)ヴォルデモート卿の過去に遡っての話(だからトム・リドルという実名で登場する)で、少しずつヴォルデモート卿の輪郭をはっきりさせてもいるのだろう。

題名の『謎のプリンス』は、ヴォルデモート卿の過去から弱点を探るために、ダンブルドアがハリーを出汁に連れてきたホラス・スラグホーンの授業で、ハリーがたまたま手に入れた(ずるいよなぁ)ノートに記されていた名前で、正確には原題のthe Half-Blood Princeである。

実は、これは昔スナイプが書いた署名なのだが、それはあっさりスナイプがそう言うからで、謎って言われても、なのだが、スナイプは今回特別な役回りを与えられているのだった。

怪しさ芬芬のアラン・リックマンならではのスナイプは、ダンブルドアからも信頼(ではないのかもしれないが、映画だとよくわからなかった)され、しかし、破らずの誓いによって、ドラコ・マルフォイの保護者のような立場になってしまう(それは前からなのだが、この誓いではドラコが失敗した場合、その代役にならざるを得なくなる)。

つまり今回は、the Half-Blood Princeによるダンブルドアの死というのが大筋なのだ。出てくる小道具や交わされる言葉が、魔法学校のため、とまどうことがしばしばなのであるが(今更何を言ってんだか)、話はほぼ一直線。来るべき戦いを前に(分霊箱探しに)決意を新たにするハリーに、ハーマイオニーが私たちも行くと力強く続き、次作への期待を高まらせて終わりとなる。

ところで、すべてが次ではあんまりと思ったのか、学園ラブコメディ的要素が多くなった。出演者たちが成長したからこそだし、観客も彼らをずっと観てきたわけだから、これも楽しみの一つには違いない。が、なにしろここには惚れ薬なんてものまであるので、ロンのキスしまくり状態などという、だらけた場面に付き合わされることになる。ついでにロンを好きになっているハーマイオニーの嫉妬ぶりとかもね。

ハリーに至っては前作のファーストキスのことは忘れてしまったようで、ロンの妹のジニーに熱を上げていた。ジニーは付き合っている人がいたみたいなのに、何で二人はくっついちゃったのかしら。恋愛感情がどうのこうのというよりは、くっつき合いゲームになってしまっているのだ。展開が雑といってしまえばそれまでだけど、せっかく彼らの成長ぶりを観客だって見守ってきたのだから、これはもったいないよね。時間だってそれなりに割いてあるっていうのに。

こういうところも、原作にはちゃんと書かれているのだろうか。このシリーズ、まさか原作を読んだ人専用ってことはないだろうが、いつもそんな気になってしまうのだ。

  

原題:Harry Potter and the Half-Blood Prince 

2008年 154分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:岸田恵子 監修:松岡佑子

監督:デヴィッド・イェーツ 製作:デヴィッド・ハイマン、デヴィッド・バロン 製作総指揮:ライオネル・ウィグラム 原作:J・K・ローリング 脚本:スティーヴ・クローヴス 撮影:ブリュノ・デルボネル クリーチャーデザイン:ニック・ダドマン 視覚効果監修:ティム・バーク 特殊メイク:ニック・ダドマン プロダクションデザイン:スチュアート・クレイグ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:マーク・デイ 音楽:ニコラス・フーパー

出演:ダニエル・ラドクリフ(ハリー・ポッター)、ルパート・グリント(ロン・ウィーズリー)、エマ・ワトソン(ハーマイオニー・グレンジャー)、ジム・ブロードベント(ホラス・スラグホーン)、ヘレナ・ボナム=カーター(べラトリックス・レストレンジ)、ロビー・コルトレーン(ルビウス・ハグリッド)、ワーウィック・デイヴィス(フィリウス・フリットウィック)、マイケル・ガンボン(アルバス・ダンブルドア)、アラン・リックマン(セブルス・スネイプ)、マギー・スミス(ミネルバ・マクゴナガル)、ティモシー・スポール(ピーター・ペティグリュー)、デヴィッド・シューリス(リーマス・ルーピン)、ジュリー・ウォルターズ(ウィーズリー夫人)、ボニー・ライト(ジニー・ウィーズリー)、マーク・ウィリアムズ(アーサー・ウィーズリー)、ジェシー・ケイヴ(ラベンダー・ブラウン)、フランク・ディレイン(十六歳のトム・リドル)、ヒーロー・ファインズ=ティフィン(十一歳のトム・リドル)、トム・フェルトン(ドラコ・マルフォイ)、イヴァナ・リンチ(ルーナ・ラブグッド)、ヘレン・マックロリー(ナルシッサ・マルフォイ)、フレディ・ストローマ(コーマック・マクラーゲンデヴィッド・ブラッドリー、マシュー・ルイス、ナタリア・テナ、ジェマ・ジョーンズ、ケイティ・ルング、デイヴ・レジーノ

バンコック・デンジャラス

新宿ミラノ2 ★☆

映画宣伝シール(トイレ用)

■自分がデンジャラス

引き際を考えはじめた殺し屋が、バンコクに最後の仕事でやってくる。映画は、自己紹介風に始まる。安定して報酬もいいが万人向きではない孤独な殺し屋をやっていること。名前はジョーで、仕事には「質問するな」「堅気の人間と交わるな」「痕跡は残すな」というルールを課していること……。自分の殺しの哲学を披瀝しているのだが、別に出会い系サイトや結婚紹介所に釣書を提出しているわけではないし、こんなことを言い出すこと自体が、いくら内面の声とはいえ、殺し屋らしくないので笑ってしまう。

ま、それはいいにしても、ジョーは自分で言っていたことを、ことごとく破ってしまうのだ。いつもなら平気で使い捨てにしてきた(つまり殺していた)通訳兼連絡係に雇ったコンというチンピラを、「あいつの目の中に自分を見た」と、殺さないどころか、何を血迷ったか弟子にしてしまうのだ。コンはジョーのメガネにかなった男にはとても見えないのだが……。

もう一つはフォンという耳の聞こえない女性に惹かれてしまうことで、これも四つの依頼の最初の仕事で、傷を負ったジョーが立ち寄った薬局でのことだからねぇ。自分の潮時を意識してしまうとこうも変わってしまうものなのだろうか。そうではなく、それだけフォンが魅力的だったと言いたいのか。たとえそうであっても、少なくともフォンに関しては、仕事が終わるまで待つくらいの自制心もないのだろうか(あったら映画にならないって。まあね)。

とにかく理由らしい理由もないまま、まるで塒にしている家にある像の絵が悪いとでもいうかのように、ことごとくルールを破ってしまうのだ(像の鼻が下を向いていると縁起が悪いとコンに言われて、ジョーもそれを気にするのだが、これもねぇ)。いままでミスをしたことのない完璧な殺し屋がどうして変わっていったのか、これこそがこの映画の狙いのはずなのに、そこが何一つきちんと描けていないのではどうしようもない。

四つめのターゲットは次期大統領候補で、政治的な暗殺は契約外と言っておきながら、ここでもルールを犯してしまう。これで最後と思ったからなのかどうか。こういう説明が足らなすぎるのだ。

違和感を覚えて暗殺に失敗したことで(ついにやってしまったのね)依頼人のスラットからも狙われ、コンと彼の恋人を人質にされてしまう(スラッとは、彼らから足が付くのを恐れたのだった)。

そして壮絶な銃撃戦(でもないんだよな、これが。やたら銃はぶっ放してたけど)の末、最後はスラットと道連れ、っていくらなんでもあきれるばかり。何かあるだろうとは思っていたが、こんな終わり方じゃあね。

見せ場は「猥雑で堕落した街」バンコクと水上ボートのチェイスだが、これだけ大げさなことになっちゃったら「痕跡は残すな」どころか沢山残っちゃうよね。

原題:Bangkok Dangerous

2008年 100分 アメリカ ビスタサイズ 配給:プレシディオ R-15 日本語字幕:川又勝利

監督:ザ・パン・ブラザーズ(オキサイド・パン、ダニー・パン) 製作:ジェイソン・シューマン、ウィリアム・シェラック、ニコラス・ケイジ、ノーム・ゴライトリー 製作総指揮:アンドリュー・フェッファー、デレク・ドーチー、デニス・オサリヴァン、ベン・ウェイスブレン 脚本:ジェイソン・リッチマン オリジナル脚本:ザ・パン・ブラザーズ 撮影:デーチャー・スリマントラ プロダクションデザイン:ジェームズ・ニューポート 編集:マイク・ジャクソン、カーレン・パン 音楽:ブライアン・タイラー

出演:ニコラス・ケイジ(ジョー)、シャクリット・ヤムナーム(コン)、チャーリー・ヤン(フォン)

フロスト×ニクソン

新宿武蔵野館2 ★★★☆

■遠い映画

予告篇で「インタビューという名の決闘」と言っていただけのことはある。地味な題材をこんなに面白く見せてくれるんだから。大物といえどニクソンが登場するくらいじゃ、そのインタビューが娯楽映画(は言い過ぎか)になるとは思わないだろう。けれど、いつの間にか身を乗り出して、二人のやりとりを聞き逃すまいとしていた。それなのに、映画が終わってみると意外にも、そんなに感慨が残ることはなかった。

というわけで、映画に想いを巡らすまでにはなかなかならず、何故そんな気持ちになるのかという一歩手前を考えてしまうのだった。それでいてその考えに捕らわれるまでにもならなかったのは、要するに、面白くても私には遠い映画だったのだろう。

トークショーの司会者である英国人のフロストは、掛け持ちでオーストラリアの番組も持っている人気者だ。ニクソン辞任の中継を見ていたフロストは、その視聴率に興味を持ち、ニクソンとの単独テレビインタビューを企画する。が、ニクソン側は出演料をつり上げてくるし、三大ネットワークへの売り込みは失敗するしで、自主製作という身銭を切っての賭とならざるを得なくなる。

成功すれば名声と全米進出を手にすることができる(アメリカで成功することは意味が違うというようなことを言っていた)わけで、彼がそれにのめり込むのも無理はないのだが、負けず嫌いなのか、プレイボーイを気取っているのか、飛行機でものにした彼女には苦境にあることはそぶりも見せない。インタビュー対決はもちろんだが、こうしたそこに至る道筋がインタビュー以上にうまく描けている。

巨悪のイメージのあるニクソンだが、やはりすでに過去の人でしかないからか。フロストのインタビューやその前後の様子からは、老獪さよりは人間味が感じられてしまい、え、ということは、私もあっさり(映画の)ニクソンに籠絡されてしまったことになるのだろうか。だとしたらそのままでは終わらせなかったフロストは、やはり大した人物だったのかもしれない。

が、フロストとニクソンとの白熱(とは少し違う。三日目まではニクソンの完勝ペースだし)したやりとりも、結果としてニクソンの失言待ち(フロストが引き出したものだとしても)だった印象が強いのだ。うーん、これもあるよなぁ。

それにすでにニクソンは失脚しているわけで、このことで政界復帰の道は完全に閉ざされたにしても、日本にいる身としは、このインタビューがそれほどの意味があったとは思えなかったのだ(映画では政界復帰の野望を秘めていたことになっている。ついでながらこの話に乗ったのは金のこともあるが、フロストを与しやすい相手と判断したようだ)。それにしつこいけど、過去のことだし。

アメリカ人にとっては意味合いが全然違うのだろうな。そもそも大統領に対する人々の持つイメージや、メディアなどでの扱いが日本における首相とは比べものにならないと、これは常々感じていることだけど。だから、ま、仕方ないってことで。あ、でもフロストは英国人。いや、でも同じ英語圏だし、兄弟国みたいなもんだから、って映画からはずれちゃってますね。

書き漏らしてしまったが、ニクソンの失言は「大統領がやるのなら非合法ではない」というもの。フロストはこれを突破口にして「国民を失望させた」という謝罪に近い言葉をニクソンから引き出す。もっともこの展開は少し甘い。ニクソンならいくらでも弁解できたはずで、逆に言うとニクソンは告白したがっていたという映画(深夜の電話の場面を入れたのはそういうことなのだろう)なのが、私としては気に入らない

罪を認めたからって軽くはならないのだから、どうせならニクソンには沈黙したままの悪役でいてほしかった、のかなぁ私は。ニクソンのことよく知らないんで、どこまでもいい加減な感想なんだけど。

 

原題:Frost / Nixon

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松岡葉子

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ピーター・モーガン、マシュー・バイアム・ショウ、デブラ・ヘイワード、ライザ・チェイシン、カレン・ケーラ・シャーウッド、デヴィッド・ベルナルディ、トッド・ハロウェル 脚本・原作戯曲:ピーター・モーガン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:マイケル・コレンブリス 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:マイク・ヒル、ダン・ハンリー 音楽:ハンス・ジマー

出演:フランク・ランジェラ(リチャード・ニクソン)、マイケル・シーン(デビッド・フロスト)、ケヴィン・ベーコン(ジャック・ブレナン)、レベッカ・ホール(キャロライン・クッシング)、トビー・ジョーンズ(スイフティー・リザール)、マシュー・マクファディン(ジョン・バード)、オリヴァー・プラット(ボブ・ゼルニック)、サム・ロックウェル(ジェームズ・レストン)、ケイト・ジェニングス・グラント、アンディ・ミルダー、パティ・マコーマック

パッセンジャーズ

新宿武蔵野館3 ★★★

■死を受け入れるためには

観てびっくり、私の嫌いな手法を使ったひどいインチキ反則映画だった。なのに不思議なことに反発心が起きることもなく、静かな安心感に包まれて映画館をあとにすることができた。

100人以上が乗った航空機が着陸に失敗し、機体がバラバラになって炎上する大惨事となる。わずかに生き残った5人のカウンセリングをすることになった精神科医のクレアは、生存者の聞き取り調査を進める過程で、不審な人物を見かけるし、会社発表の事故原因とは違う発言をする生存者がいて、不信感を強めていく。グループカウンセリングの参加者は、回を追うごとに減ってしまうし、不審者にはどうやら尾行されているようなのだった。

また、生存者の中でカウンセリングは必要ないと言って憚らないエリックの言動もクレアを悩ます。事故が原因で躁状態にあるのか、エリックはクレアを口説きまくるのだ。当然のように無視を続けるクレアだが、エリックの高校生のようなふるまいに、次第に心を許し、あろうことか精神科医としてはあってはならない関係にまでなってしまう(あれれれ)。

航空会社追求にもっと矛先を向けるべきなのに、エリックとのことを描きすぎるから、妙に手ぬるい進行になっているんだよな、と思い始めた頃、もしやという疑問と共に、話の全体像が大きく歪んでくる。そうなのか。いや、でもさ……。

何のことはない。クレアも乗客の1人であって、実際には生存者などいなかった、という話なのだ。つまり、死にきれないクレアやエリックやパイロットなどが、生と死の境界のような場所で繰り広げていた、それぞれの妄想(がそのまま映画になっている)なのだった。

最初、私はこれをクレア1人が作り上げた世界と思ってしまったのだが、そうではないようだ。自分の死が納得できない人間の住む世界を複数の人間で共有しているらしい。そして、死を受け入れられるようになるとその人は消えて、つまり死んでいくわけだ。グループカウンセリングの参加者が減ったのは、陰謀による失踪などではなかったのである。

しかしとはいえ、クレアだけは事故の生存者でなく、カウンセラーになっているのはずるくないだろうか。クレアの場合、他の乗客とは違って死を受け入れる以前に、乗客であることすらも否定していたというのだろうか。そんなふうにはみえなかったし、説明もなかったと思うのだが。

結末がわかった時点で、謎だった人物の素性も判明する。すでに他界してしまった大切な人が、死を受け入れるための手助けに来てくれていたというのだ。うれしくなる心憎い設定なのだが、その人たち(エリックにとっては犬だった)のことを本人が忘れてしまっていては意味がないような気もしてしまう。まあ、気がついてしまうということは、すべてのことがわかってしまうことになるから、他にやりようがないのだろうが。そしてむろん、そのことよりも、何故自分のためにそうまでしてくれたかということを知ることが大切と言いたいのだろう(私としてはトリックの強力な補強剤になっているので、とりあえずは文句を言っておきたかったのだな)。

また、喧嘩をしたことをずっと悔やんでいて、いくら電話をしても連絡がとれないクレアの姉エマについても、ほとんど誤解をしていた(エマも航空機の同乗者だったのではないかと思ってしまったのだ)。電話に出てこないのは、エマが生きている人間だからで、だから最後の場面になるまで(これはもう実際の世界の映像である)、エマはクレアの手紙(「姉さんのいない人生は寂しすぎる」と書かれたもの)を読んでいなかっただけなのだ。

ありもしない世界(そういいきれるのかと言われると困るが)でのことだから、いくらでも話は作れてしまうわけで、それにイチャモンをつけてもキリがないのだが、それよりそんなトリッキーなことをされて腹が立たなかったのは、この作品が、不測の死を迎えることになっても、せめて納得して(仕方がないという納得であっても)死にたいという、大方の人間が多分持っているだろう願望を、具現化してくれたことにありそうだ。

人はすべてを納得して死にたいのではないだろうか。死が幸福であるわけがないが、少なくとも不幸というのとも違うのだよ、と言っているような希有な映画に思えたのである。

と書いてきて、急に気になったことがある。クレアとエリックは死の前の航空機内であれだけ心を通わせていたのに、何故別世界の中ではカウンセラーと生存者という対照的な存在として現れたのだろう。むろんまた2人の心は繋がっていくのだが、でも、ということは、やり直してみないことにはわからないくらいの危うい関係だったのだろうか(って、こんなことは思いつかない方がよかったかも……)。

それに(もうやめた方がいいんだが)、エリックは「事故の後は、まるで生まれ変わったみたいに感じる」と言っていたが、これではクレアとのことはすっかり清算してしまったみたいで、あんまりではないか。ま、それ以上にクレアのことを賞賛して埋め合わせはしていたけれど(クレアもわかっていないのだからどっちもどっちなのだけど)。

考えてみると、エリックは死ななくてはいけないのに「生を実感」しているなんともやっかいな患者なのだった。彼に死を受け入れさせることは、クレア以上に大変だったのかもしれない。そうか、だからクレアは精神科医として(ばかりではないが)現れ、エリックを診てあげる必要があったのだ。というのは、好意的すぎる解釈かしら。それにエリックは、クレアより先に自分たちの立場に気づくから、この解釈は違ってると言われてしまいそうだ。

いままで特別感心したことのなかったアン・ハサウェイだが(好みじゃないってことが一番だが)、この作品では精神科医という役柄のせいもあり、自己抑制のきいた、あるいはきかせようという気持が伝わってくる落ち着いた演技をしていて好感が持てた。

原題:Passengers

2008年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ショウゲート 日本語字幕:松浦美奈

監督:ロドリゴ・ガルシア 製作:ケリー・セリグ、マシュー・ローズ、ジャド・ペイン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン 脚本:ロニー・クリステンセン 撮影:イゴール・ジャデュー=リロ プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:トム・ノーブル 音楽:エド・シェアマー

出演:アン・ハサウェイ(クレア・サマーズ)、パトリック・ウィルソン(エリック・クラーク/乗客)、デヴィッド・モース(アーキン/パイロット)、アンドレ・ブラウアー(ペリー/クレアの上司、先生)、クレア・デュヴァル(シャノン/乗客)、ダイアン・ウィースト(トニ/クレアの隣人、叔母)、ウィリアム・B・デイヴィス、ライアン・ロビンズ、ドン・トンプソン、アンドリュー・ホイーラー、カレン・オースティン、ステイシー・グラント、チェラー・ホースダル

フェイク シティ ある男のルール

新宿武蔵野館3 ★★☆

■真実より、それぞれの正義

キアヌ・リーヴス演じるラドローは、飲んだくれの少々危険な刑事(またかよって感じ)。飲んだくれに関しては、過去を引きずってのことが多少あるにしても(注1)、冒頭の単独捜査はやり過ぎもいいとこで、刑事というよりはまるで射殺魔だ。双子の姉妹の救助で、かろうじて釈明が成立する程度。それは本人もわかっているから、正当防衛の偽装にも躊躇することがない。

そんな彼に何かと目をかけてくれるのが上司のワンダーで、今回のこともラドローを警察苦情相談所に移動させ、お前の尻ぬぐいをしてやったと恩を着せてくるのだが、何のことはない、自分が上り詰めるためにラドローを道具として使っていただけのことだった。

こうしたワンダーのふるまいは内務調査官のビッグスがすでに目を付けていて、ラドローの元同僚ワシントンがビッグスに協力したことから、コンビニ強盗を装った2人組の警官に、ワシントンはあろうことか、ラドローの目前で殺されてしまう(注2)(ラドローはワシントンの真意をこの時点では知らず、彼の行動を疑ってさえいいて、で、後を付けていたのだが、そんなだから事件の直前のコンビニでは2人の間には険悪な空気が漂って、つかみ合いになっていた)。

要するに、警察内部にはすでにワンダーによるネットワークができていて、すべてのことがデッチ上げで進行し、ワンダーの思いのままとなっていたのだった。

真相を書いてしまったが(隠しておくようなものでもないってこともある)、何も知らないラドローは、疑念や後悔の残る犯人捜しをしないではいられない。というわけで、映画はワシントン殺しの謎解きを軸に進んでいくが、この過程は時間はかかるものの、謎解きというほどのものではないから、場面場面は派手に作ってあっても、盛り上がらない。入り組んでいるだけで行き着く先の見えている、つまり遠回りしているだけの迷路だろうか。ラドローの飲んだくれ頭でも解けてしまうのだ。だからかもしれない、ラドローの捜査に付き合ってくれたディスカントは、話の飾り付けで、あえなく殉職となる。

悪玉のワンダーに魅力がないのも痛い。最後にラドローに問い詰められて、話をそらすように金を埋め込んだ壁を壊せと言うのだが、秘密を明かして状況が変わるとは思えない。もっともこれ以前に、あのワシントン襲撃の一部始終が映っているディスクをラドローに手渡してしまったことの方が問題かも。後で必死になって取り戻そうとしてたからね。ラドローを信用させるために渡したのなら危険すぎるし、ラドローが疑問を抱いて入手しようとした二人組の逮捕歴のデータなどはシュレッダーにかけさせてしまうなど、一貫性もない。

逮捕するよりは殺し(邦題の「ある男のルール」だよね)のラドローによって、結局ワンダーは殺されてしまうのだが、そこへビッグスが駆けつけてくる。しかし、ラドローの罪を問いもせず、ワンダーの共犯者が金目当てで殺した、とビッグスまでがデッチ上げで締めくくろうとする。君だけが頼りだったと言うのだ(注3)。なんだかなー。さらにはワンダーに弱みをにぎられていた署長にも感謝されるかもしれない、というようなことも言っていた(これは皮肉だろう。でなきゃ、こわい)。

正義が貫かれるのなら真実などどうでもいい、とでもいいたいのだろうか。まあその前に本当に正義なのか、って問題もあるが。だって「それぞれの正義」にすぎないんだもの。ふうむ。こんな微妙な結末で締めくくるとはね。この部分は掘り下げがいがあるはずなんだけどな。

注1:不倫をしていた妻が脳血栓を起こしたのに放っておいて死んでしまった、というようなことをラドローは、ワシントンの妻に話したと思うのだが、この話が出てくるのはここだけなので、ちょっと不確か。

注2:まったくいい加減にしか観ていないことがわかってしまうが、何故目前で殺されるというような状況になってしまったのか。また、ラドローが襲われなかったのは偶然なのかどうか、思い返してみるのだが、これまたよくわからない。

注3:確かにラドローも途中で、「法を越えた仕事は誰がやる、俺が必要だろ?」とビッグスに言ってはいたが。

原題:Street King

2008年 109分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス映画 PG-12 日本語字幕:戸田奈津子

監督:デヴィッド・エアー 製作:ルーカス・フォスター、アレクサンドラ・ミルチャン、アーウィン・ストフ 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ミシェル・ワイズラー 原案:ジェームズ・エルロイ 脚本:ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス 撮影:ガブリエル・ベリスタイン プロダクションデザイン:アレック・ハモンド 編集:ジェフリー・フォード 音楽:グレーム・レヴェル

出演:キアヌ・リーヴス(トム・ラドロー)、フォレスト・ウィッテカー(ジャック・ワンダー)、ヒュー・ローリー(ジェームズ・ビッグス)、クリス・エヴァンス(ポール・ディスカント)、コモン(コーツ)、ザ・ゲーム(グリル)、マルタ・イガレータ(グレイス・ガルシア)、ナオミ・ハリス(リンダ・ワシントン)、ジェイ・モーア(マイク・クレイディ)、ジョン・コーベット(ダンテ・デミル)、アマウリー・ノラスコ(コズモ・サントス)、テリー・クルーズ(テレンス・ワシントン)、セドリック・ジ・エンターテイナー(スクリブル)、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン

悲夢

2009/2/14 新宿武蔵野館3 ★★☆

キム・ギドク、オダギリージョー、イ・ヨナンのサイン(監督のサインはこれだと切れちゃってますが)『悲夢』ポスター

■パズルとしては面白そうだが

ジンという男の見る夢が、ランという見ず知らずの女を夢遊病という行動に走らせるという、まあくだらない話。

くだらないのは設定だけじゃない。自分が眠ってしまうことでランに犯罪を起こさせてしまうことを知ったジンが、何とか眠らないように努力をするのだけれど、努力したってもねー。ランが殺人事件を起こしたあとには「もう絶対眠りません」とまで言っていたジンだけど、そしてそれはランを好きになったからにしても、幼稚すぎて失笑するしかないではないか。目を見開いたり、テープを貼り付けたりはコメディレベルだけど、頭に針や彫刻刀を刺したり、足をカナヅチで叩いたりは異常者でしょうが。

ジンは印鑑屋(芸術家?)で、ランは洋裁(デザイナー?)で食っているらしいから、もともと無関係な2人が時間帯をずらすのは(どちらかが昼夜を逆にすれば)そう難しいことではないはずなのに、眠るのを我慢しようとしたり(交替で寝ようとはしていたが、同じ時間帯でやろうってたってさ)、手錠を嵌めてランの行動を制限しようとするのだけれど、手錠の鍵を隠そうともしないから(何これ)、取り返しのつかないことになってしまう。

そんな細かいことに一々目くじら立てなさんな、とキム・ギドクは言いたいのだろう。なにしろオダギリジョーは最初から最後まで日本語のセリフで通してしまうし、もちろん劇中でそんなことに驚くヤツなど誰もいない、韓国が舞台でも日本語の通じてしてしまう映画なのだ。

あんまりな話(くだらなさには目をつむってもこの評価はかえようがない)ということを別にすれば、ジンの夢とランの現実という構造はなかなか興味深いものがある。ジンは別れた恋人が忘れられない。それが夢となって結実すると、眠りに中にいるランを夢遊病者に仕立て、別れた恋人に引き合わせることになる。ランは別れた恋人をものすごく嫌っているというのに。

ジンの元恋人は男が出来てジンをふったらしいのだが、その男というのはランがふった男で、つまりジンとランの元恋人同士が恋人という(ああややこしい)、入れ子のような関係になっているわけだ。最初に無関係な2人と書いてしまったが、ジンの夢で繋がっているだけでなく、現実でも間に1人置くようにして2人は繋がっているのである。

この4人が葦原にいる場面では、奇妙さよりも胸苦しさを覚えてしまう。思いは伝わらずねじれたように4人を行き来する。はじめこそ第三者のようにしていたジンとランだが、それぞれ影のように存在する同性に自分の姿を見てしまうのか、互いにその同性を慰めたりする。が、考え出すとこの場面はわからなくなる(これも夢なのか)。

なるほど映画の早い段階で女精神科医が言っていたように、ジンの幸せはランの不幸で、「2人は1人」なのだから「2人が愛し合えば」解決することなのかもしれない(白黒同色という言葉が出てくる。ジンがこの言葉を刻印している場面もあったし、タイトルの「悲夢」も印影が使われていた。そういえば、ジンは印面に鏡文字を直接描いていたが?)。

結局、ジンはランに対する責任感もあって彼女のためにいろいろ手を尽くし、それが好意に変わっていったのだろう。ランの方も、最初こそ自分の置かれている状況が理解出来ないでいたが、自分に代わって罪まで負おうとするジンの姿勢に、最後は「どんな夢でも恨まない」と彼に言う。

結ばれる運命にあった2人という話の流れがあっての結末なのかも知れないが、ジンの夢は恋人が忘れられないくらい思い詰めているから見たものだし、これでは辻褄が合わなくないか。それに何故、恨まないと言われたのにジンは自殺しなければならなかったのか。それとも、これもやはりジンのランに対する愛(夢で人を操作することの嫌悪も含まれた)と解すればいいのか。

パズルとしての面白さはそこここにあって、蝶のペンダントの役割なども考えていけば、もう少しは何かが見えてきそうな気もするのだが(ただ胡蝶の夢を表しているだけなのかも)、これもそこここにあるくだらなさが邪魔をして、何が何でもパズルを解いてやろうという気分には至らない。ジンの仕事場、町の佇まいやお寺など、撮影場所は魅力的だったのだが……。

原題:悲夢 ・・ェス 英題:Dream

2008年 93分 韓国/日本 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム PG-12 日本語字幕:●

監督・脚本:キム・ギドク 撮影:キム・ギテ 照明:カン・ヨンチャン 音楽:ジ・バーク

出演:オダギリジョー(ジン)、イ・ナヨン(イ・ラン)、パク・チア(ジンの元恋人)、キム・テヒョン(ランの元恋人)、チャン・ミヒ(医師)、イ・ジュソク(交通係調書警官)、ハン・ギジュン(強力係調書警官)、イ・ホヨン(現場警官1)、キム・ミンス(現場警官2)、ファン・ドヨン(警官1)、ヨム・チョロ(警官2)、ソ・ジウォン(タクシー運転手)

ブロークン・イングリッシュ

銀座テアトルシネマ ★☆

■運命の人をたずねて三千里(行きました!パリへ)

仕事にも友達にもめぐまれているのに運命の人にはめぐり会えなくって(男運が悪い)、とノラは言うのだけれど、あれだけ片っ端から恋していっては、切実感などなくなろうというものだ(いや、切実だからこそそうしてるのか)。というか、気持はわかるのだけれど、なんか恋愛をはき違えているような。

俳優との一夜のアバンチュール(でないことをノラはもちろん願ってはいたけれど)や、失恋から抜け出せない男とのデートを経て、でもなんとかこれぞと思うような相手に行きつくが、でもそのジュリアンはフランス人で、仕事が終われば帰国という現実が当然(知り合って2日目だからノラにとっては突然)やってくる。実を言うとジュリアンが何故、ノラにそんなに執心になるのかがわからないのだけど、それはまた別の話になってしまうのでやめておく。

恋に臆するような伏線があるから情熱的なジュリアンには引いてしまう(ノラ自身がニューヨークで築いてきたことを諦めなければならないということも大きいとは思うが)、という流れにしたのだろうけど、でもここにくるまでに観ている方はちょっとどうでもよくなってきてしまったのだ。筋がどうのこうのじゃなく、恋探しゲームでくたびれてしまったのかどうか、それが三十路だかアラフォーだかしらないけれど、そういった年代の恋なのか。ようするに私にはよくわからないだけなのだが。

親友は結婚してしまうし、母親からは「その歳でいいものは残っていない」なんて言われてしまうし。じゃないでしょ。で、まあ、そういう、じゃなくなる映画を監督は撮ったつもりなのかもしれないのだけれど。

どこにでもあるような話でしかないとなると、あとは結末で勝負するしかなく、実際そう思って観ていたのだが(というか、こんな覚めた目で恋愛映画を観てしまったらもうダメだよね)、結局は「偶然」でまとめてしまうのだから芸がない。もちろん、ノラがパリへ行ったからこその偶然と強弁できなくもないが、それを裏づけたり生かすような演出は残念ながら私には見つけられなかった。例えば、バーで紳士から「自分の中に愛と幸せを見つけろ」みたいな忠告はもらって、それはそうにしても、ここまできてこれかよ、なんである。

この「偶然」に照れてしまったのは案外監督自身だったか。だからか、パリへ行ってからの演出は生彩を欠いていて(好き嫌いでいったらニューヨーク篇の方がいやだけど)、ノラに対しては表面的な優しさばかりの、それこそ異国人に対するお出迎えになってしまったのだろうし、地下鉄の偶然の場面でも、ノラの内面ほどにはカメラは動揺しなかったのだろう。

原題:Broken English

2007年 98分 ビスタサイズ アメリカ/フランス/日本 配給:ファントム・フィルム 日本語字幕:■

監督・脚本:ゾーイ・カサヴェテス 製作:アンドリュー・ファイアーバーグジェイソン・クリオット、ジョアナ・ヴィセンテ 製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キューバン 撮影:ジョン・ピロッツィ プロダクションデザイン:ハッピー・マッシー 衣装デザイン:ステイシー・バタット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:スクラッチ・マッシヴ

出演:パーカー・ポージー(ノラ・ワイルダー)、メルヴィル・プポー(ジュリアン)、ドレア・ド・マッテオ(オードリー・アンドリュース)、ジャスティン・セロー(ニック・ゲーブル)、ピーター・ボグダノヴィッチ(アーヴィング・マン)、ティム・ギニー(マーク・アンドリュース)、ジェームズ・マキャフリー、ジョシュ・ハミルトン、ベルナデット・ラフォン、マイケル・ペインズ、ジーナ・ローランズ(ヴィヴィアン・ワイルダー・マン)

HERO

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■ちんちくりんのゆで卵との掛け合いは楽しいんだが

テレビドラマの映画化ということで、ある程度ドラマを観ていた観客を想定して作られているようだ。だから門外漢が口を出すとおかしなことになりそうだが、しかしそのテレビも放送されていたのは6年前らしく、この6年の空白が映画にも引き継がれている内容になっているのは面白い。

でもということは、久利生公平(木村拓哉)は、テレビではチョンボを犯して飛ばされていたってことになってしまいそうなのだけど。あれ、違うのかな。どうもこういうちょっとしたことがわからず、困るところがいくつもあった(だからってつまらなくはないんだけどね)。

例えば滝田明彦(中井貴一)の扱いなど違和感が残るばかりで(久利生の性格を語る重要な場面でもあるのだが、やっぱり必要ないよね)、さらに雨宮舞子(松たか子)とも連絡すらしていなかったって、そんな。

「6年も」とやたら言葉にはこだわっていたが、言葉以外では空白を埋めようとしていないけど、これで納得なんだろうか。6年も離れていて、違いが雨宮の香水くらいというのは、それほど信頼関係があるということなのかもしれないのだけど、手抜きではないよね。東京地検の城西支部には久利生の席が当然のようにあり、同じように?雨宮が久利生の事務官となるというのもねー。

こういうたぐいの演出は他にもずいぶんあって、裁判所から傍聴人がほとんど退席していなくなったり、そこに久利生の同僚たちが新たな証拠を持って現れたりするのだが、この羽目の外し方はドラマを踏襲しているのかもしれないが、作品としては軽いものになってしまう。久利生に検事としてはラフな恰好をさせた時点で、そんな細かいことには文句を言うなってことなのかもね。

被告も犯行を認めていた単純な傷害致死事件が、花岡代議士(森田一義)の贈収賄事件に利用されたことで予想外の展開となっていく。花岡側がうかつにもアリバイ工作に久利生が担当していた事件の被告を使ってしまったことから、その場所にいてはいけない被告が犯行を否認。そしてやっかいなことに蒲生一臣(松本幸四郎)というやり手の弁護士がつくことになる。

窮地に立たされる久利生だったが、雨宮が「どんな小さな事件にも真剣に取り組み」「決して諦めない」彼を、そして一見バラバラな城西支部の連中が、意外なチームワークを発揮して地道な協力を厭わず、というのはもうドラマでも繰り返されてきた筋書きなんだろうが、この一体感は現実にはそう味わえそうもない心地よいものだ。サラリーマンの夢の代弁である。

ただ、犯行の車を追って韓国でも聞き込み調査を繰り広げるあたりは、さすがにだれる。最後に証拠のためケータイの写真を探す場面でも足で稼ぐ聞き込みがあるから、本当にこれはこのドラマの持ち味にしても、こんなに効率が悪いことをしていたんじゃ、見つかっても見つからなくて話が嘘っぽくなってしまう。第一、韓国語もわからない2人を送り込んだりするのだろうか。「彼女を絶対離すな」と言うイ・ビョンホンの使い方はいいのに残念だ。

でもそんなことより1番残念なのは蒲生を話のわかる弁護士にしてしまったことだ。久利生の姿に昔の自分をみて方針を変えたと思わせるような場面もあるのだが、そこまでの深みはない。裁判が真実を明らかにする場所から裁判というゲームになりかけている風潮を考えるなら、ここは蒲生を悪徳弁護士にしておいてもよかったのではないか。蒲生に負けて廃人になってしまった検事もいると言わせているんだから、そのくらいの凄味はほしい。

裁判という敷居の高いものを、ドラマの気安さでわかりやすくみせてくれるのはいいのだが、「人の命の重さを知るための裁判」などと言い出すと少し荷が重くなってしまうようだ。雨宮を「ちんちくりんのゆで卵みたいなヤツ」と久利生に評させている時は快調なんだけどね。うん、2人は名コンビかな。

  

2007年 130分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:鈴木雅之 製作:亀山千広 プロデューサー:現王園佳正、牧野正、宮澤徹、和田倉和利 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 統括プロデュース:石原隆 企画:大多亮 脚本:福田靖 撮影:蔦井孝洋 美術:荒川淳彦 編集:田口拓也 音楽:服部隆之 VFXスーパーバイザー:西村了 スクリプター:戸国歩 ラインプロデューサー:森賢正 照明:疋田ヨシタケ 録音:柿澤潔 助監督:片島章三、足立公良 監督補:長瀬国博
窶ソr
出演:木村拓哉(久利生公平)、松たか子(雨宮舞子)、松本幸四郎(蒲生一臣)、香川照之(黛雄作)、大塚寧々(中村美鈴)、阿部寛(芝山貢)、勝村政信(江上達夫)、小日向文世(末次隆之)、八嶋智人(遠藤賢司)、角野卓造(牛丸豊)、児玉清(鍋島利光)、森田一義(花岡練三郎/代議士)、中井貴一(滝田明彦)、綾瀬はるか(泉谷りり子)、国仲涼子(松本めぐみ)、岸部一徳(桂山薫/裁判長)、山中聡(里山裕一郎)、石橋蓮司(大藪正博)、ペク・ドビン(キム・ヒョンウ)、眞島秀和(東山克彦)、波岡一喜(梅林圭介)、長野里美(柏木節子)、イ・ビョンホン(カン・ミンウ)、伊藤正之(川島雄三)、正名僕蔵(井戸秀二)、田中要次(マスター)、古田新太(郷田秀次/放火犯)、MEGUMI(河野桜子)、奥貫薫(芝山良子)、鈴木砂羽(黒川ミサ)

ベクシル 2077日本鎖国

新宿ジョイシネマ2 ★★★

■鎖国という壮大な話が最後は同窓会レベルに

ロボット産業で市場を独占していた日本はアンドロイドを開発。脅威を感じた国連は規制をかけようとするが、日本はなんと鎖国をしてしまった、というぶったまげたSFアニメ。荒唐無稽部分以外もアラの目立つ設定なんだけど、例えば『ルネッサンス』のような発想のつまらない作品に比べたらずっと評価したくなる。

舞台はハイテク技術が可能にした完全鎖国(妨害電波で衛星写真にも何も映らないようになっている)から10年後の2077年で、鎖国の間1人の外国人も入国したことのない日本が、いったいどう変貌しているのかという興味で引っ張っていく。

もっとも部分的には貿易は行われているらしく、大和重鋼のDAIWAブランドがアメリカにも入っているような描写がある。日本が市場を独占というのは、もうすでに現時点でも危うそうなのに、そして鎖国などしていたら余計取り残されてしまいそうなのに、引き合いがあるというのは大甘な設定としか思えないが、ま、これは日本人にとっての夢的発想として見逃しとこう。

しかしその10年の間に、日本人はすべてアンドロイド化されてしまったというのだ。そればかりか、日本は陸地としての形は残っているものの山も川も街もなくなっていて、わずかに東京の23区ほどの場所に押し込められた人間(じゃないか)たちが、戦後の闇市のようなスラムで生活していた。そして日本を牛耳っているのは、国家ではなく東京湾の沖合の人口島にある大和重鋼という企業体だった。

鎖国に至った経緯(国際関係)も、一研究者のように見えたキサラギが大和重鋼の社長(途中でなったのか?)で、それも昔は彼だっていったんは逮捕されるような状況(この時は日本もまだ国家として機能していた)だったのに、大和重鋼がいつ日本のすべてを支配してしまったのかもよくわからない。国土の荒廃は金属を食い尽くすジャグによるものと推測されるが、しかしそれだったら何でジャグが入れないように外壁で囲まれている東京までが平坦なのか。

どんな状況を持って来ても私は大歓迎。想像を絶するくらいの設定の方が楽しいのだけど、それに類推可能な部分だってあるのだが、でもやっぱり詳しい説明はしてくれないと。2時間近くでまとめなくてはならない制約があるにしても、ここまで情報不足ではまずいだろう。日本人がアンドロイド化された(が人間としてのかけらが残っている)ことについては説明があったが、なにしろ状況が奇異すぎるから、説明しだすときりがなくなってしまうのかもしれない。

それと関係があるのかないのか、判明したベクシル、レオン(ベクシルの恋人で日本潜入部隊の生き残り)、マリア(レオンは昔の恋人)、キサラギ(マリアとは学生時代からの知り合い)の関係は、お友達繋がりの同窓会のようで、わかりやすいけれどあまりにこぢんまりしすぎだ。その他大勢はアンドロイドなのかもしれないが、悪役はキサラギとサイトウだけで、日本にしても東京の一角と人口島しか語るべき部分が残っていないのでは、どうにもこうにも薄っぺらでなものにしかみえない。

最初に『ルネッサンス』を引き合いに出してしまったが、キサラギも「私たちは進化の最終形態」「人間を母体にした体は選ばれたものだけが進化を遂げ、今や神とは私のことだ」などと『ルネッサンス』のイローナと似たようなことを口走る。ただそう言いながらキサラギ自身は、まだ出来損ないの技術を自分に使うことはためらっていたらしい。実験材料が日本にはいなくなってアメリカにアンドロイドを送り込んだりしていたのだが、逆に感づかれ特殊部隊のSWORDに日本潜入されてしまったというわけだ(これが物語の発端)。

キサラギの正体については、妨害電波を一時的に破って確認した生体反応が3つで、ベクシルとレオンを引くと……というあたりや、キサラギがペットのジャグの頭を撫でてやっている場面があって、こういうわかりやすい観客サービスはいいのだけど、最後にジャグの力を借りて人口島を壊滅させるあたりでは、また説明不足が徒となって乗れなくなってしまう。

ジャグはこの距離は飛べないという説明がぴんとこなかったし、そもそも通路には金属がまったく使われていないのか(ジャグ対策がされているのかもね)、キサラギに通じていたスラムの議長の行動(スラムの外壁を開ける)とか、疑問だらけなのだ。

そういえば、日本に侵入したベクシルはスラムの光景を見て「みんな生き生きしている」と驚いていたが、なに、鎖国をしていない日本以外の世界も決してユートピアにはなっていないってことなのね(ま、そうだろうけど)。ベクシルは「あなたたちが守ろうとしているのは、失って初めて大切だと気づいたもの」とも言っていたけど、そっちは失う前にすでになくしてるんじゃ……。それに、ここを強調してしまうとキサラギのしてきたことを断罪できなくなってしまいそうだ。

マリアがキサラギと運命を共にして、日本は滅亡。そこに特殊部隊のヘリがやってきてベクシルとレオンは助かるのだけど、これがなんだかハリウッド的で。だいたい何でアメリカ女性(に見えないんだけど)のベクシルを主人公にしたのかしらね。

絵の方は「3Dライブアニメ」とかいう方式で作られているらしいが、そちらの興味はあまりなく、よくわからない。でもなかなか迫力のある映像になっていた。ただ表情はもの足りない。出来ればCGにして欲しかったが、それだと予算的に無理なんだろうか。

 

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:曽利文彦 プロデューサー:中沢敏明、葭原弓子、高瀬一郎 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉 脚本:半田はるか、曽利文彦 音楽:ポール・オークンフォールド 主題歌:mink『Together again』
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声の出演:黒木メイサ(ベクシル)、谷原章介(レオン・フェイデン)、松雪泰子(マリア)、朴路美(タカシ)、大塚明夫(サイトウ)、櫻井孝宏(リョウ)、森川智之(キサラギ)、柿原徹也(タロウ)

ファウンテン 永遠に続く愛

銀座テアトルシネマ ★☆

■永遠の勘違い男

そうわかりにくい話ではないのに、現実と物語を交錯させ、さらにもう1つ主人公の精神世界のような映像も散りばめ、そしてそれらの境目までも曖昧にしてしまう。しかもそこにある概念といえば仏教の輪廻もどきのもの。これではダーレン・アロノフスキーとの相性が多少はいい人でも観るのは相当キツイのではないか。とにかく初見(かどうかは関係ないか)の私にはとてもついていけなかったのである。だから粗筋すら書く気が失せているのだが……。

医師のトム・クレオ(ヒュー・ジャックマン)は、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)が脳腫瘍の末期にあることを知って、死は病気の1つという信念で研究に冒頭していく。が、イジーの方は、残された短い時間を夫と一緒に過ごせれば、もう死を受け入れる覚悟ができていた。

イジーが書き進めていた物語は、そのことをトミーにわからせたいが故のものだろう。そして未完成部分の第12章をトミーに完成して欲しいと願うのだ。映画の中で何度もイジーの「完成して」という言葉が繰り返されるが、それはきっとそういう単純なことだったのではないか。観ている時は何かあるのかもれないと思っていたのだが、そもそもこの映画は、構成こそ入り組んでいるが、伏線らしきものは見あたらないのである。

トミーといえば、行き過ぎた猿への実験で上司のリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)に休日を言いわたされる始末。が、そのことで手がかりを掴めそうになると、さらに狂気のごとくその研究にのめり込んでいく。しかしこんな実験で、余命幾ばくもない人間の命を救えることになるなどと実際に医療にたずさわっている者が本気で考えるだろうか。新薬が日の目をみるには、動物実験を経た後も、治験を繰り返す必要があることくらい常識だろうに。

かくの如く、まったく奇妙なことにこの現実部分は、イジーの書いた物語より現実離れしているのだ(これには何か意味でもあるのだろうか)。それもと体裁としては現実ながら、イジーの物語と同列扱いにしたかったのかもしれない。

イジーの書いた『ファウンテン』と題された物語は、16世紀のスペインのイザベル女王が、騎士トマスに永遠に生きられる秘薬を探せと命じるというもの。11章まで書いたというのに、映画では最初の命令部分と任務途中でのアクション場面があ少しあるだけのものでしかない。これをイジーとトミーがそれぞれ演じていて(ここはヒュー・ジャックマンとレイチェル・ワイズがと書かなくてはいけないのかもしれないが)、イジーの顔のアップとイザベル女王のアップを交互に見せたりしている。

そしてトミーはマヤに古くから言い伝えのある生命の木にたどり着き、花を蘇生させるその樹液でもって、永遠の命を得ようとする。現実部分のトミーが新しい治療法の手がかりを見つける(やはりある樹皮を猿に投与する)のもこのことと重なっている。またこれとは別にトミーの精神世界のような場所でも、同じような行為が繰り返される。

球体に囲まれた小さな世界の中に、イジーが横たわっていて(すでに死んでいるのか?)、そこには剃髪したトミーがいて、その球体の中に聳えている生命の木の樹液を飲むのだ。樹液を飲んだトミー(いや、これは騎士のトマスだったか)は歓喜の表情となるのだが、直後、トミーの全身からは花が芽吹き、トミーは花に包まれてしまう。この場面は単純なものだが、この映画唯一の見所となっている。

繰り返しになるが、イジーが「完成して」と言った意図は11章まで物語を丹念に読むこと、つまりイジーが何を考え、生き、トミーと生活してきたかを自分がしたように辿ってほしかっただけなのだ。そうすれば12章は自動的に完成したはずなのだ。まあ、勘違い男のトミーが、不死の秘薬探しを即自分の職業に結びつけてしまったのは無理からぬところではある。しかしイジーからペンとインクまでプレゼントされて「完成して」と言われたら、さすがにわかりそうなものなんだけどね。

実は私の中ですでに混乱してしまっていているので断言できないのだが、トミーが花にとって変わってしまう場面が騎士トマスにもあったとしたら、物語を書いたイジーもそのことを予言していたことになる。永遠の命はその樹にとってのもので、トマスはただ養分になったにすぎないことを。

映画はトミーの暴走によって不死というテーマへと脱線していくのだが、そこで語られる不死観に具体的なものは何もない。生命が渦巻いているような光の洪水の中に漂う球体は美しいけれど、ただそれだけなのである。輪廻の映像化というよりは、小さな閉じた世界にとどまっているようにしかみえないのだ。

剃髪したトミーが座禅し黙想する姿は仏教そのもののようだが、生命の木についてはマヤの言い伝えとしているし、スペインによる南米搾取はキリスト教の布教絡みでもあったわけだから、何がなんだかわからなくなる。

とにもかくにも、最後になって一応はトミーも死を受け入れても精神は死なないという世界観を会得したらしいのだが、イメージだけでみせているからそれだって大いに疑問。それにすでにそこに至る前に、イジーのメッセージを読みとれずにいるトミーには、永遠に勘違いしていろ、と何度も言ってしまっていた私なのだった。

(070801 追記)公式サイトに次のような文章があった。

    「舞台を現代だけにして、不死の探求についての物語を伝えるのは難しかった。そこで、トミーの物語を16世紀、21世紀、そして26世紀と、3つの時代を舞台にすることにした」とアロノフスキー監督は語る。「しかしこの映画は、伝統的な意味での時空を超えた物語ではない。むしろ、1人の人間の3つの側面を体現する各キャラクターを異なる時代に描いて、3つの物語を結合させている」

私が精神世界と思っていたのは26世紀なのか! それはまったくわかりませんでした。もう少しヒントをくれてもいいと思うのだが。

原題:The Fountain

2006年 97分 ビスタサイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー 製作:エリック・ワトソン、アーノン・ミルチャン、イアイン・スミス 製作総指揮:ニック・ウェクスラー 原案:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル 撮影:マシュー・リバティーク プロダクションデザイン:ジェームズ・チンランド 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ジェイ・ラビノウィッツ 音楽:クリント・マンセル

出演:ヒュー・ジャックマン(トマス/トミー/トム・クレオ)、レイチェル・ワイズ(イザベル/イジー・クレオ)、エレン・バースティン(リリアン・グゼッティ博士)、マーク・マーゴリス、スティーヴン・マクハティ、フェルナンド・エルナンデス、クリフ・カーティス、ショーン・パトリック・トーマス、ドナ・マーフィ、イーサン・サプリー、リチャード・マクミラン、ローン・ブラス

ボルベール〈帰郷〉

シネフロント ★★★

■男なんていらない

映画のはじまりにある墓地の場面で、大勢の女たちがそれぞれの墓を洗い、花を飾っていた。墓石の形も花も違うのだが、スペインの風習も日本のそれとそうは変わらないようだ。強い日差しと風のせいもあるのかもしれないが、女たちの表情が、死者を想って悲しみいたむというより、自分たちの中から湧き出る生を抑えきれずにいるという印象。男たちの姿がほとんど見えないのは本篇と同じで、生と死をめぐる女たちの話にふさわしい幕開けとなっている。

15歳の娘パウラ(ヨアンナ・コボ)からの連絡で家に戻ったライムンダ(ペネロペ・クルス)は、パウラが夫のパコを殺害した事実に驚くが、パコに本当の父親ではないのだからと関係を迫られ、包丁で刺してしまったと聞くと、パウラにはパパを殺したのはママだと記憶に刻めと言って、警察には届けず遺体を始末する決意をする。

それはないだろうと思ってしまうから、居心地の悪いまま映画を観ることになるのだが、これにはちゃんとした理由があるのだった。もちろん、理由がわかるのは映画も後半になってからである。ライムンダもやはり酔った父親に強姦されて、身籠もった子がパウラだったというのだ。つまりパコの自分は父親でないという発言は本当だったわけだ。

パコは失業したというのに飲んだくれて(これは失業したから、なのかも)、自慰だけでは性欲を発散できずに娘に手を出してしまうのだから、とんでも男でしかないのだが、ライムンダはパコの死体を彼が好きだった場所に運んで埋め、そこにある木を墓に見立てて生年などを刻んでいたから、パコを全否定しているわけでもなさそうだ。

もっともいくら娘のためとはいえ、死体を隠してしまうのだからあまり褒められたものではない。たまたま休業になって鍵を預かっていた隣のレストランの冷蔵庫に、死体をとりあえず入れてしまうのはわからなくもないが、それを冷蔵庫のまま運び出すのはどうか(調べられたらすぐばれてしまうだろう)。女たちの連係プレーを演出したかったのかもしれないが、埋める時点では協力者は娼婦だけだから、穴を掘るのだって無理そうなのだ(あまりくだらないところにケチを付けたくないんだが、これはちょっとね)。

パウラが事件を起こした時に入ってきたのが、故郷のラ・マンチャに住む伯母の死の知らせ。巻頭の墓掃除は、姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)とパウラの3人でボケだした伯母を見舞った折りのことだったが、事件を抱えたライムンダは、今度は帰るに帰れず、ソーレと伯母の家のそばに住むアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)に葬儀のことを任せるしかない。

ライムンダは葬式から戻ったソーレの自宅兼美容室を訪ねるが、何故かそこに4年前に死んだはずの母イレーネ(カルメン・マウラ)の匂いと影を感じる……。

イレーネについてはソーレも死んだと思っていたのだが、本人が噂通りに現れてびっくりという展開(どうせ姿を現すのだから車のトランクに隠れることはないと思うが)。仲の悪かったライムンダには会わせられないと、映画はちょっとコメディタッチとなる。イレーネをロシア人だと客まで騙したり、というようなのもあるのだけど、そういうのではなく、たとえば、まだ死体のあるレストランにライムンダがいる時、ちょうど近所に来ていた映画の撮影隊が食事のできる場所を探していて、ライムンダはオーナーの不在をいいことに、近所の女たちの手や食料品を借りて、勝手にレストランを開いてしまったりするというような。

ペドロ・アルモドバルの作品を観るといつも感じることなのだが、この人にはやはり独特の感覚があるということだ。肯定できる時もできない時にもそれはあって、うまく表現できないのだが、自分とは違う人種だと感じざるを得ない。この作品の場合だと、死体を作っておいてのこの悠長さ、だろうか。それを恐れているのでも楽しんでいるのでもない、というのがどうもわからないのだ。

それはともかく、レストランは評判で、次の予約までもらってしまい、打ち上げパーティの席では、ライムンダはイレーネに教わったという『Volver』を歌う。歌も聴かせるが(ペネロペ・クルスが歌っているかどうかはエンドロールで確認できなかった)これを隠れていたイレーネが聞いていて、2人の和解へと繋がっていく。

ただ、ここからの展開はどうしてもイレーネによる説明となるので少々飲み込みにくい。イレーネの夫は彼女を死ぬまで裏切り続けていて、アグスティナの母親と浮気をしていたというのだ。4年前の火事で死んだのは夫と浮気相手で、イレーネはそのこと(火を付けたのも彼女)で身を隠していた。

ライムンダがイレーネと確執を持つに至ったのは、父の強姦をイレーネがどう対処したかによるだろう。ライムンダにしてみれば、自分がパウラにしたように自分を守って欲しかったはずだが、そこらへんははっきりしたことがわからない。イレーネは「許して欲しくて戻った」と言っているのだから、そしてライムンダがそのことを納得したのならそれで十分だろうか。

しかし、ライムンダの事件は彼女が10代の頃で、父とアグスティナの母親の死は4年前だから、それまでに10年という月日が経っていることになる。これはずいぶん長いから、4年前の真相をライムンダが知ったとしても気が晴れはしないだろう。イレーネもそのことはわかっているのだろう。それに2人を始末したのは、娘のためというよりはやはり自分のためだったはずだ。ライムンダと暮らすのではなく、アグスティナの最期に付き合おうとするのはそのこともあるのではないか。

複雑になるので触れなかったが、アグスティナは不治の病になってしまい、彼女にとってもヒッピーの母の失踪は気になるのだろう、ライムンダにイレーネが本当に現れたら(最初は幽霊の噂が立っていた)母のことを訊いてくれと何度も言われていたのだ。

ライムンダはイレーネにパコのことを話そうとする。イレーネの答えは「あとでゆっくり聞きましょう」というもの。この感覚はいい。

それにしても男達をここまで愚かに描く意図がわからない。アドモバルの女性讃歌。物語を作った結果。ま、どうでもいいか。それにパコなんて姿を消しても誰も気にもしないし、彼の捜索で警察が動いたという形跡もないのだ。まるで男なんていらない、といってるような映画なのである。でもさー、だったら胸を強調するような服をペネロペ・クルスに着せて、胸元を真上から撮る必要はないよね。

原題:Volver

2006年 120分 シネスコサイズ スペイン 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル 製作:エステル・ガルシア 製作総指揮:アグスティン・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 編集:ホセ・サルセド 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ペネロペ・クルス(ライムンダ)、カルメン・マウラ(イレーネ/母)、ロラ・ドゥエニャス(ソーレ/姉)、ブランカ・ポルティージョ(アグスティナ)、ヨアンナ・コボ(パウラ/娘)、チュス・ランプレアベ(パウラ伯母さん)、アントニオ・デ・ラ・トレ(パコ/夫)

不完全なふたり

新宿武蔵野館2 ★★

■黒いカットはNGか

ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)とマリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)という結婚して15年になる金持ちの夫婦が、友達の結婚式に出席するためにリスボンからパリにやってくる。映画はホテルに向かうタクシーの映像で始まる。

交わされる会話はありきたりで他愛のないものだが、この映像は撮り方が印象的(進行方向は右。車全体ではなく顔がわかるところまで近づいたもの。一応会話を追っているのにわざわざ外側から撮っている)なだけでなく、このあとに展開される2人の気持ちのゆらぎや夾雑物を、タクシーのガラス窓に映し込んでいた。

次はホテルの1室。簡易ベッドを運び込ませている。これについては合意事項らしいのに、どちらがそれを使うかで、くだらない意地を張り合う。

夜のレストランに2人の友人夫婦ときている。2人は彼らにとって理想の夫婦だったようだ。新しい仕事の話が出たところだったが、ニコラの切り出した離婚という言葉でその場の雰囲気が変わってしまう。

ホテルでもレストランでもカメラは動こうとしない。長回しはいい意味で俳優に緊張感を強いる場面で使われることが多いが、ここでは言葉が途切れた、その時を際立たせるために使用しているように思えた。あるいは、大まかな流れの中で、セリフを俳優たちにまかせて撮っていったことの結果かもしれない。具体的な撮影方法について知っているわけではないので、憶測でしかないが、もしかしたらこの黒い画面はNG部分だったのかとも思えてしまう。全体で10カットもなかったと思われるが、でもこれだけあるとやはり気になる。監督の意図が知りたくなる。

この長回しは、最後のホームの場面まで続くから、カット数は相当少なそうである。だからといって、全篇それで押し通そうとしているというのではなく、顔のアップなどでは手持ちカメラも含めて、わりと自在にカメラをふっている。

ニコラとマリーの離婚話に戻るが、ニコラの言い出したそれは、マリーには唐突だったらしい(まさかとは思うが、友達に話したのが最初だったとか?)。部屋に鍵を置いたまま出かけてしまったニコラを責めるのは当然としても、結婚パーティーに出かけるのにドレスや靴のことであんなに情緒的になられては(私と行きたい?とマリーはニコラに何度か訊いていた。しかしこのセリフはものすごく理論的でもある)、ニコラとしてもやりきれなくなるだろう。

ふくれっ面で結婚式を通したらしいマリーに、今度はニコラがあたって、夜の街に飛び出していく。着信履歴があったからとカフェに女性を呼びだし、結局何もなかったのだが、ホテルに戻ったら夜明けになっていた。

眠れなかったというマリーと帰ったニコラの会話は、自由を感じたかったというニコラと何年も孤独だったというマリーの、もう刺々しくはない穏やかな、でも接点のないものだ。

マリーはその日、2日続けで来たロダン美術館で、古い友達のパトリック(アレックス・デスカス)に声をかけられる。娘を連れてきている彼に妻を亡くした話を聞き涙するマリー。流れがうまく読めないのだが、それにしてもこの涙には危うさを感じないではいられない。

なにしろ、場面の空気はわかっても映画は説明することをしないから、観客は自分に引きつけて考えるしかなくなるのだが、とはいえニコラは建築家でマリーは写真家だったらしいし、なにより裕福そうだから、私などそう簡単には映画に入っていけない。少なくともニコラが離婚を言い出した理由くらいは明らかにしてくれないと、もやもやするばかり(でもこれで十分という見方もできるのが人間関係のやっかいさかも)。また、説明は排除しても俳優の個性は残るから、普遍性を持たせた(かどうかは知らないが)ことにもならないと思うのだが。

マリーが別に部屋をとったからか、自分の知らない旧友に会ったからかどうか、ニコラがマリーにキスの雨を降らせる場面があるのだが、ベッドに移りながら何故かそれはそこで中断となって、ニコラはマリーに、明日はボルドーに行くから1人で帰ってと言われてしまう。

次の日駅にやって来た2人はホームで見つめ合う。荷物は乗せたのに、いつまでも見つめ合っているものだから、列車は行ってしまうのだ。で、ふふとか言って笑いだすのだけど、いやもう勝手にしてくれという感じ。

『不完全なふたり』は原題だと『完全なふたり』のようだけど、これはどっちでも大差ないということか。だったら「完全な」の方がよくないか。「私たち何をしたの? 何をしなかったの?」という問いかけを、あんな笑いにかえられるんだもの。これ以上の完全はないでしょ。

ところでびっくりしたことに、監督はフランス語がほとんどわからないのだそうだ。公式ページのインタビューでそう答えている(http://www.bitters.co.jp/fukanzen/interview.html
)。「もし全能の立場を望むのであればこの映画をフランスで撮りはしなかった」とも。なるほどね、やはりそういう映画なんか。しかし私としては、監督はあくまで全能であってほしいと思うのだけどね。

原題:Un Couple Parfait

2005年 108分 ビスタサイズ フランス 日本語字幕:寺尾次郎 製作:コム・デ・シネマ、ビターズ・エンド 配給:ビターズ・エンド

監督:諏訪敦彦 プロデューサー:澤田正道、吉武美知子 構成:諏訪敦彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 衣裳:エリザベス・メウ 編集:ドミニク・オーヴレ、諏訪久子 音楽:鈴木治行

出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(マリー)、ブリュノ・トデスキーニ(ニコラ)、アレックス・デスカス(パトリック)、ナタリー・ブトゥフー(エステール)、ジョアンナ・プレイス(ナターシャ)ジャック・ドワイヨン(ジャック)、レア・ヴィアゼムスキー(エヴァ)、マルク・シッティ(ローマン)、デルフィーヌ・シュイロット(アリス)

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

新宿ミラノ1 ★★☆

■もう勝手にしてくれぃ

なんでこのシリーズがヒットするんだろ。私にはけっこうな謎だ。海賊映画の伝統があるアメリカならいざ知らず、日本人に食指が動くのかなーと。近年は『ONE PIECE』のようなマンガもあるし(内容は知らん)、ディズニーランドのアトラクションでもお馴染みだから(いや映画はこれが元でしたっけ)、それほど違和感はないのかも。内容重視というのではなく、アトラクションムービーとして楽しめればそれで十分なのだろうか。

そうはいっても170分間全部をその調子でやられてはたまらない。たしかに流れに身をまかせているだけで、退屈することもなく最後まで観せてはくれるが、でも何も残らないんだよな。

デイヴィ・ジョーンズの心臓を手に入れた東インド会社のベケット卿によって窮地に立たされた海賊たちは、死の世界にいるジャック・スパロウを救い出すことにし、ってそうだった、2作目の最後でジャック・スパロウを当然どうにかしなければならないことはわかってはいたんだけど、あらためてこれはないよなー、と思う。早々にもうどうでも良い気分になってしまったもの。

何でもありのいい加減な映画の筋など書く気分じゃないのでもうお終いにしちゃえ。それにしても3作まで作り、ヒットし(金もつぎ込んでるか)、キャラクターも育ったというのに、結局は話に振り回されているだけの印象って、あーもったいない。

 

原題:Pirates of the Caribbean: At Worlds End

2007年 170分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オマン、ブルース・ヘンドリックス、エリック・マクレオド 脚本: テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー キャラクター原案:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、スチュアート・ビーティー、ジェイ・ウォルパート 視覚効果:IKM プロダクションデザイン:リック・ハインリクス 衣装デザイン:ペニー・ローズ 編集:クレイグ・ウッド、スティーヴン・リフキン 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(キャプテン・ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ジェフリー・ラッシュ(キャプテン・バルボッサ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、チョウ・ユンファ(キャプテン・サオ・フェン)、ステラン・スカルスガルド(ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ジェームズ・ノリントン)、トム・ホランダー(ベケット卿)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、デヴィッド・スコフィールド(マーサー)、ケヴィン・R・マクナリー(ギブス航海士)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、マッケンジー・クルック(ラゲッティ)、デヴィッド・ベイリー(コットン)、キース・リチャーズ

眉山

2007/05/29 109 ★★

■かっこいい母であってくれたなら(願望)

母の死に至る数ヶ月を娘の目で綴った作品。

32歳の河野咲子(松嶋菜々子)は母の龍子(宮本信子)が入院したという知らせを受けて東京から徳島へ帰る。慌ただしく着いた病室からは、龍子の看護師の仕事ぶりに対する叱責が聞こえてきて、咲子はいきなりイヤな気分になる。

神田生まれの江戸っ子の龍子は、徳島に来てからは小料理屋を切り盛りしながら、女手ひとつで咲子を育ててきた。気っぷがよくて分け隔てのない性格でファンの多い龍子だが、その遠慮のない物言いで衝突することも少なくなかった。娘にとってはそれが耐えられないのだ。

この母を見る娘の視点は大いにうなずけるもので、この場面に親近感を持った人は多いのではないか。ただずるいのは、龍子がちょっとかっこよすぎることだろうか。私の母も龍子と少しながら似た要素を持っているのだが、遙かに年上で、だから加齢による偏狭さも加わっていて(じゃないのかなー。もともとの性格かしらね)、そしてその息子である私も映画の咲子ほどには母のことを本心から考えていないから、それは納得なんだけど。

話がだいぶそれてしまったが、そもそもそういう想いを抜きにしては観られない映画で、作り手もそれを意識していると思われるところがある。映画という完成度は低くなるが、それでもいいかなという、割り切りが感じられるのだ。

咲子は東京でひとりながらちゃんと生活しているキャリアウーマンである。旅行代理店の企画という仕事の厳しさを導入できっちり描いているのに、一旦徳島に帰ってしまうと、会社に連絡をとっている場面こそあるものの、もうそのあとは仕事のことなどすっかり忘れてしまったかのようなのだ。余分と思われるものは思いきって削ぎ落として、母と娘に直接関係するものだけに絞り込んでいるのである。

この母娘は「仕事は女の舞台」(これは龍子のセリフ)と考えていて手を抜かないし(だから仕事の場面が最初だけというのがねー)、互いに相手を頑固と思っていそうだし、やはり似ているのだろう。だから余計父のこととなると素直にはなれず対立してしまうのかもしれない。咲子はかすかに記憶のある父に会いたくて仕方のない時期があったのだが、母には死んだと言われていたのだ。お父さんとは結婚していないけれど、大好きな人の子だからお前を産んだ、と。

そう言われてそのまま長い年月が経ってしまっていたが、龍子の店の元板前で今も信頼関係にある松山(山田辰夫)から、死後渡すように言われていた「遺品」を受け取り、そこにあった篠崎孝次郎(夏八木勲)という男からの手紙の束を読んで、その男が父で、多分まだ生きていることを確信する。

思い切って問いただすと、龍子はお互い様だと言う。咲子が末期ガンを告知しないでいることを知っていたのだ。

映画とはいえ、2人の関係は羨ましい。龍子は、人様の世話にはなりたくないと車椅子に乗ることを拒否したり、人形浄瑠璃では客席で舞台に合わせて小さいとはいえ声を出したり、我が儘な部分も見せるのだが、私の母もこれくらいなんだったら許しちゃうんだけどな(あれ、また自分のことを書いてるぞ)。

咲子が東京に戻って父を訪ねたり、病院の医師寺澤大介(大沢たかお)と恋人になっていく過程を織り込みながら、しかし情報量としては最小限にとどめているため、観客は自分の中にある母への想いという個人的な感情を思い出しながら映画を観ることができるのだ(弁解してやんの)。

そうして映画は、2つの見せ場を用意する。1つは阿波踊りの中での母と父との再会だ。迫力ある阿波踊りが繰り広げられているところを横断する咲子という暴挙もあれば、そもそもこんな混乱の中で出会うという設定自体がボロいのだが、ここでも阿波踊りを隔てた遠景で篠崎と再会を果たした龍子が寺澤に「そろそろ帰りましょうか。十分楽しませてもらったから」というセリフが爽快で、まあいいかという気持ちになる。

2つ目は、龍子が死んで2年後に、献体依頼時に龍子が書いていたメッセージを咲子が読む場面。「娘河野咲子は私の命でした」と書かれたその紙は、本来医学生宛のもので、咲子が読むべきものではないという説明がすでにされていて、この抜け目のなさは感涙度を高めている。

献体はこの作品のもう1つのテーマで、咲子の父が医師であることが龍子に献体をさせたのだし、彼女が咲子の相手の寺澤医師に信頼を寄せた(むろん軽はずみな失言に対してすぐ詫びを入れてきたという部分が大きかったのだろうが)理由があるというわけだ(医学や医師への理解は、篠崎への愛の揺るぎなさからきているはずだから)。

流れであまりけなしていないが、全体として説明不足なのは否めない。30年ぶりに徳島に帰ってきたのだから篠崎にだってもっと語ってもらいたいところだが、語らせたら結局はどこにでもある不倫話にしかならないと逃げてしまっていては、映画にいい点はあげられない。

なのに、こんなダメ映画に泣いてしまった私って……。

   

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:犬童一心 原作:さだまさし『眉山 -BIZAN-』 脚本:山室有紀子 撮影:蔦井孝洋 美術:瀬下幸治 編集:上野聡一 音楽:大島ミチル 主題歌:レミオロメン『蛍』 照明:疋田ヨシタケ 録音:志満順一
 
出演:松嶋菜々子(河野咲子)、宮本信子(河野龍子)、大沢たかお(寺澤大介)、夏八木勲 (篠崎孝次郎)、円城寺あや(大谷啓子)、山田辰夫(松山賢一)、黒瀬真奈美(14歳の咲子)、永島敏行(島田修平)、中原丈雄(小畠剛)、金子賢(吉野三郎)、本田博太郎(綿貫秀雄)

初雪の恋 ヴァージン・スノー

2007/05/27  TOHOシネマズ錦糸町-7 ★

■京都名所巡り絵葉書

陶芸家である父の仕事(客員講師として来日)の都合で韓国から京都にやってきた高校生のキム・ミン(イ・ジュンギ)は、自転車で京都巡りをしていて巫女姿の佐々木七重(宮﨑あおい)に出会って一目惚れする。そして彼女は、ミンの留学先の生徒だった。

都合はいいにしてもこの設定に文句はない。が、この後の展開をみていくと、おかしくないはずの設定が、やはり浮ついたものにみえてくる。これから書き並べるつもりだが、いくつもある挿話がどれも説得力のないものばかりで、伴一彦(この人の『殴者』という映画もよくわからなかったっけ)にはどういうつもりで脚本を書いたのか訊いてみたくなった。それに、ほとんどミンの視点で話を進めてるのだから、脚本こそ韓国人にすべきではなかったか。

ミンは留学生という甘えがあるのか、お気楽でフラフラしたイメージだ。七重の気を引こうとして彼女の画の道具を誤って川に落としてしまう。ま、それはともかく、チンドン屋のバイトで稼いで新しい画材を買ってしまうあたりが、フラフライメージの修正は出来ても、どうにも嘘っぽい。バイトは友達になった小島康二(塩谷瞬)の口添えで出来たというんだけどね。

他にも、平気で七重を授業から抜け出させたりもするし(出ていった七重もミンのことがすでに好きになっているのね)、七重が陶器店で焼き物に興味を示すと、見向きもしなかった陶芸をやり出す始末(ミンが焼いた皿に七重が絵をつける約束をするのだ)。いや、こういうのは微笑ましいと言わなくてはいけないのでしょうね。

七重が何故巫女をしていたのかもわからないが、それより彼女の家は母子家庭で、飲んだくれの母(余貴美子)がヘンな男につけ回され、あげくに大騒動になったりする。妹の百合(柳生みゆ)もいるから相当生活は大変そうなのに、金のかかりそうな私立に通っているし、しかも七重は暢気に絵なんか描いているのだな。

結局、母の問題で、七重はミンの前から姿を消してしまうのだが、いやなに、そのくらい言えばいいじゃん、って。ま、あらゆる連絡を絶つ必要があったのかもしれないのでそこは譲るが、その事情を書いたお守りをあとで見てと言われたからと飛行機では見ずに(十分あとでしょうに)、韓国で祖母に私のお土産かい、と取られてしまう、ってあんまりではないか。メッセージが入っているのは知っていてだから、これは罪が重い。

2年後に七重の絵が日韓交流文化会で入選し、2人は偶然韓国で再会するのだが、少なくてもミンがあのあと日本にいても意味がないと2学期には帰ってしまったことを友達の香織(これも偶然の再会だ)からきいた時点で、ミンに連絡することは考えなかったのか(学校にきくとか方法はありそうだよね)。ミンがすぐ韓国に帰ってしまったのもちょっとねー。それに七重が消えたことで、よけいお守りのことが気になるはずなのに。

再会したものの以前のようにはしっくりできない2人。なにしろ言葉が不自由だからよけいなんだろうね。ミンは荒れて七重の描いた絵は破るし、七重に絵を描いてもらうつもりで作っていた大皿も割ってしまう。お守りの中の紙を見た祖母が(この時を待ってたのかや)、これはお前のものみたいだと言って持ってくる(簡単だが「いつか会える日までさようなら」と七重の気持ちがわかる内容だ)。

ミンは展覧会場に急ぐが、七重の姿はなく、彼女の絵(2人で回った京都のあちこちの風景が描かれたもの)にはミンの姿が描き加えられていた。しかし、これもどうかしらね。夜中の美術館に入って入選作に加筆したら、それは入選作じゃあなくなってしまうでしょ。まったく。自分たちの都合で世界を書き換えるな、と言いたくなってしまうのだな。

ミンは七重を追うように京都に行き、七重が1番好きな場所といっていたお寺に置いてあるノートのことを思い出す。そこには度々七重が来て、昔2人で話し合った初雪デート(をすると幸せになるという韓国の言い伝え)のことがハングルで書いてあり、ソウルの初雪にも触れていた。

そして、ソウルに初雪が降った日に2人は再会を果たす。

難病や死といううんざり設定は避けていても、こう嘘くさくて重みのない話を続けられると同じような気分になる。まあ、いいんだけどさ、どうせ2人を見るだけの映画なのだから。と割り切ってはみてもここまでボロボロだとねー。言葉の通じない恋愛のもどかしさはよく出ていたし、京都が綺麗に切り取られていたのだが。

【メモ】

初級韓国語講座。ジャージ=チャジ(男根)。雨=ピー。梅雨=チャンマ。約束=ヤクソク。

韓国式指切り(うまく説明できないのだが、あやとりをしているような感じにみえる)というのも初めて見た。

七重の好きな寺にいる坊さんとミンが自転車競争をしたのが、物語のはじまりだった。

2006年 101分 ビスタサイズ 日本、韓国 日本語版字幕:根本理恵 配給:角川ヘラルド映画

監督:ハン・サンヒ 製作:黒井和男、Kim Joo Sung、Kim H.Jonathan エグゼクティブ・プロデューサー:中川滋弘、Park Jong-Keun プロデューサー:椿宜和、杉崎隆行、水野純一郎 ラインプロデューサー:Kim Sung-soo 脚本:伴一彦 撮影:石原興 美術:犬塚進、カン・スン・ヨン 音楽:Chung Jai-hwan 編集:Lee Hyung-mi 主題歌:森山直太朗

出演:イ・ジュンギ(キム・ミン)、宮﨑あおい(佐々木七重)、塩谷瞬(小島康二)、森田彩華(厚佐香織)、柳生みゆ(佐々木百合)、乙葉(福山先生)、余貴美子(佐々木真由美)、松尾諭(お坊さん)

主人公は僕だった

新宿武蔵野館2 ★★★

■魔法のタイプライター

作家の書いた物語通りに動く男がいるなんて、ホラーならともかく、至極真面目な話に仕上げるとなると、やはり相当な無理がある。だからその部分が納得出来るかどうかで、作品の評価は決まる。で、私はダメだった(そのわりには楽しんじゃったけど)。

最初に「ハロルド・クリック(ウィル・フェレル)と彼のリスト・ウォッチの物語」と出るように、国税庁の検査官である彼は、もう12年間も、同じ時間に起き、同じ回数歯を磨き、同じ歩数でバス停まで行き……同じ時間に眠り、仕事以外は人と関わらない生活を送っていた。ある日、彼の1日のはじまりである歯磨きをしていて「1日のはじまりは歯磨きから」という女性の声を聞く……。

声の主はカレン・アイフル(エマ・トンプソン)という作家で、実はスランプ中。といったってもう10年も新作を出せていないのだが、それでも出版社がペニー・エッシャー(クイーン・ラティファ)という見張り役(助手と言っていたが)をよこすくらいだから実力はあるのだろう。問題なのは彼女の作風で、彼女の作品の主人公は、常に最後は死んでしまうのだ。それは現在執筆中の作品も同様だったが、しかしまだその方法を思いつけずに悩んでいたのである。

ところで、ハロルドは何故そんな声を聞いたのだろう。規則正しい単調な生活を送っていて、何かを考えるようなこととはほとんど無縁だったからではないか(いや、そういう生活をしていたからって声が聞こえるはずはないんだけど、そう言ってるんだと思う、この映画は)。

しかし、声が聞こえるようになって、しかもその声の語る内容が自分の行動そのものを書いた小説としか思えなくなっていたハロルドに、「このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった」という声は、もう無視できないものとなっていた。

このままでは自分は死んでしまうと、ハロルドは自分の力で考え行動し始める。文学研究家(プールの監視員もしてたけど)のジュールズ・ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)の力を借りて。

最初こそハロルドの言うことを信じなかったヒルバートだが、ハロルドの聞く声に文学性を感じとり、その声の内容を分析して、これは悲劇だから死を招くのであって喜劇にすればいいと助言する。喜劇は結婚で、それには敵対する相手と恋に落ちるのがいいと言うのだ(飄々としてどこか楽しげなダスティン・ホフマンがいい。私はあんまり彼が好きではないんだけどね)。

実はハロルドには敵対する相手がいて、しかもお誂え向きに恋にも落ちかかっていたのだ。その相手は、未納の国税があると出かけて行ったパン屋の店主のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)で、未納の22%は軍事費など納得出来ない金額を差し引いたものというのが彼女の主張だった。

右肩から上腕にかけてお大きな刺青のあるアナにはちょっとぎょっとさせられるが、彼女の人柄で店は繁盛していて、貧しい人にも優しく接している。アナの当たり前の好意(であり、税務調査に意地悪したことのお詫び)のクッキーのプレゼントも、杓子定規のハロルドは受け取れず、お金を払うと言ってしまう。ハロルド、というかウィル・フェレルのぎこちなさが微笑ましい。

が、益々彼女に嫌われてしまっては「悲劇」になってしまう。その報告を聞いたヒルバートは、今度は、その声は君の行動をなぞっているだけなのだから何も行動するなと言う。何もしないで物語が進行するかどうかを見極めようというのだ。

仕事を休み、電話にも出ず、テレビも消せないでいるハロルドを襲ったのはクレーン車で、ハロルドの家の壁をいきなり壊してしまう。番地を間違えただけだったのだが、このアパートに穴の開いた場面が美しく見えてしまって、妙な気分を味わえる。「ひどい筋書き」という彼に、ヒルバートはもっといろんなことをやってみろと言う。

ハロルドは壊れた家を出、同僚の所に転がり込み、やってみたかったギターを弾き、アンの気持ちも射止めるのだが(すげー変わりよう!)、それは「幾多のロックに歌われているようにハロルドは人生を謳歌した」にすぎない。と、やはりアイフルの声で説明されちゃうのである。

このあとハロルドはヒルバートの仕事場で見たテレビ番組によって声の主を突き止め、アイフルに電話する。物語を書きながら自分に電話がかかってくるのにびっくりするアイフルというのもヘンなのだが(それより前提がおかしいのだけどさ)、この場面はまあ楽しい。

だけどここから先はちょっと苦しい。アイフルはシンプルで皮肉に満ちた最高のハロルドの死に方を思いつき『死と税金』(これがアイフルの書いていた小説の題)を完成させる(最後の部分は紙に書いただけ)。それを読んだヒルバートは、最高傑作と持ち上げ、他の結末は考えられないから君は死ぬとハロルドに言う。いつかは死ぬのだから死は重要ではないけれど、これほど意味のある死はない、気の毒とは思うが悲劇とはこういうもの、って、おいおい。で、文学にうといハロルドまでそれを読んで同じような感想を持ち、アイフルにどうか完成してくれと言うのだ。

こうなってしまっては映画は、もはやアイフルの心変わりに頼るしかなくって、死んだはずのハロルドはリストウォッチの破片が動脈を押さえて(えー!)救われることになる(とアイフルが書くのね)。

こんな陳腐な結末にしてしまったものだから、小説は「まあまあの出来」になってしまうのだが(映画もだよ)、アイフルは納得のようだ。大傑作ではなくなってしまったが、このことにより作家も自分の生を取り戻したのではないか(彼女自身が死にたがり病だったのではないかと思わせるエピソードもあった)、そんなことを思わせる結末だった。でも、しつこいんだが、これでこの映画も価値を低めてしまったような……。

もう1つ気になったのはハロルドの行動を規定するのが、アイフルではなく彼女の使っているタイプライターであることだ。物語をアイフルが変えても、紙に書きつけてもハロルドには何も起こらないが、それをタイプで文字を打って文章となって意味が成立した時点で、それは起きるのだ(ハロルドからの電話の場面)。だがこの映画では、そのことにはあまり触れようとはしない。わざわざアイフルの肉声をハロルドに聞かせているのは恣意的ではないだろうから、そこまでは考えていなかったのかもしれない。うーむ。

哲学的考察をユーモアで包んだ脚本は、すっかり忘れていた未納の税金についても、死を決意したハロルドがアナに、ホームレスにパンをあげていた分が控除になるから未払いでなくなる、と最後にフォローするよく出来たものだ。だけど、そもそも発想に無理があるとしかいいようがないのだな。

【メモ】

「私のおっぱいを見ないで」とアナに言われたハロルドは「アメリカの役人として眺めていたんです」と答えていた。

カレン・アイフルはヘビー・スモーカー。ペニー・エッシャーがニコチンパッチをすすめても「長生きなんて興味がない」と言う。

画面にはデータ処理をイメージした白い情報がときたま入る。これが作家が作った世界を意味しているのかどうかは確認していないが、あまりうるさくないスタイリッシュなもの。

原題:Stranger than Fiction

2006年 112分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:梅野琴子

監督:マーク・フォースター 製作:リンゼイ・ドーラン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン、エリック・コペロフ 脚本:ザック・ヘルム 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:ケヴィン・トンプソン 編集:マット・チェシー 音楽:ブリット・ダニエル、ブライアン・レイツェル 音楽スーパーバイザー:ブライアン・レイツェル
 
出演:ウィル・フェレル(ハロルド・クリック)、エマ・トンプソン(カレン・アイフル)、マギー・ギレンホール(アナ・パスカル)、ダスティン・ホフマン(ジュールズ・ヒルバート)、クイーン・ラティファ(ペニー・エッシャー)、リンダ・ハント、トニー・ヘイル、クリスティン・チェノウェス、トム・ハルス

プレステージ

新宿厚生年金会館(試写会) ★★

■手品はタネがあってこそ

100年前ならいざ知らず(ってこの映画の舞台は19世紀末なのだが)、手品というのはタネも仕掛けもあって、それはわかっていながら騙されることに快感があると思うのだが、この映画はそれを放棄してしまっている。

巻頭に「この映画の結末は決して誰にも言わないで下さい」と監督からのことわりがあるが、そりゃ言いふらしはしないけど(もちろんここはネタバレ解禁にしているので書くが)、そんな大した代物かいな、という感じなのだ。

売れっ子奇術師のアルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベイル)が、同じ奇術師で長年のライバルだったロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)を殺した容疑で逮捕される。

ボーデンとアンジャーは、かつてミルトンという奇術師の元で助手をしていた間柄だったが、舞台でアンジャーの妻であるジュリア(パイパー・ペラーポ)が事故死したことで、2人は反目するようになる。水中から脱出する役回りになっていたのがジュリアで、彼女の両手を縛ったのがボーデンだったのだ。

このハプニングにあわてて水槽を斧で割ろうとするのがカッター(マイケル・ケイン)。彼は奇術の考案者で、この物語の語り部的存在だが、映画は場面が必要以上に交錯していて、まるで作品自体を奇術にしたかったのかしら、と思うような作りなのだ(ここまでこね回すのがいいかどうかは別として、そう混乱したものにはなっていないのは立派と褒めておく)。

アンジャーの復讐心は、ボーデンが奇術をしている時に、客になりすましてボーデンを銃撃したりと、かなり陰湿なものだ。アンジャーの気持ちもわからなくはないが、ボーデンにしてみれば奇術師としては命取りとなりかねない左手の指を2本も失うことになって、こちらにも憎しみが蓄積されていくこととなる。しかも2人には奇術師として負けられないという事情もあった(このあたりは奇術が今よりずっと人気があったことも考慮する必要がある)。

ボーデンはサラ(レベッカ・ホール)と出会い家庭を築いて子供をもうけるのだが、アンジャーにとってはそれも嫉妬の対象になる。ボーデンの幸せは、「僕が失ったもの」だったのだ。アンジャーは、敵のトリックを調べるのもマジシャンの仕事だからと、オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)という新しい弟子を、ボーデンのもとに送り込み、彼の「瞬間移動」の秘密を探ろうともする。

オリヴィアにボーデンの日記を持ち出させ、それをアンジャーが読むのだが、映画は、物語のはじめで捕まったボーデンも刑務所で死んだアンジャーの日記を読むという、恐ろしく凝った構成にもなっている。しかしこれはすでに書いたことだが、そういう部分での脚本は本当によくできている(ただ、ジュリアの死についてのボーデンの弁明はわからない。こんなんでいいの、って感じがする。ジュリアとボーデンで目配せしてたしねー、ありゃ何だったんだろ)。

ボーデンの「瞬間移動」は、実は一卵性双生児(ファロン)を使ったもので、ここだけ聞くとがっかりなんだが、ボーデンは奇術のために実人生をも偽って生きていて、このことは妻のサラにも明かさずにきたという。しかしサラは彼の2重人格は嗅ぎ取っていて(すべて知っていたのかも)、結局ボーデンが真実を語ろうとしないことで自殺してしまう。

ボーデンとファロンの2人は、愛する対象もサラとオリヴィアというように使い分けていたというのだが、いやー、これはそういうことが可能かどうかということも含めて、この部分を取り出して別の映画にしたくなる。それとか、オリヴィアの気持ちにもっと焦点を当てても面白いものが出来そうではないか。

アンジャーの「瞬間移動」も、オリヴィアから紹介された売れない役者のルートを替え玉にしたものだから、タネは似たようなものなのだが、当然ボーデンの一卵性双生児にはかなわず、アンジャーはトリックが見破れずに焦るというわけだ。ルートの酒癖は悪くなるし、アンジャーを脅迫しだしてと、次第に手に負えなくなりもする。

で、最初の方でアンジャーがのこのことコロラドのスプリングスまで発明家のニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)を訪ねて行った理由がやっとわかる。このきっかけもボーデンの日記なんだけど、でもこのことで嘘から誠ではないが、アンジャーは本物の「瞬間移動」を手に入れることになる。

テスラの発明品は、別の場所に複製を作るというもの(物質複製電送機?)で、瞬間移動とは意味が違うのだが、奇術の応用にはうってつけのものだった。って実在の人物にこんなものを発明させちゃっていいんでしょうか。それにこれは禁じ手でしかないものねー。いくらその機械を使ってボーデンを陥れようが(彼に罪を着せるのは難しそう)、またその機械を使用することで、複製された方のアンジャーが自分の元の遺体を何人も始末する、理解を超えた痛ましい作業を経験することになる、という驚愕の物語が生み出せるにしてもだ。

この結末(機械)を受け入れられるかどうか、は大きいが、でもそれ以上に問題なのが、復讐に燃えるアンジャーにも、嘘を重ねて生きていくしかなかったボーデンにも感情移入できにくいことではないか。

〈070710 追記〉「MovieWalkerレポート」に脚本家の中村樹基による詳しい解説があった。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4897.html
サラに見せたマジックの謎はわからなかったけど、そうだったのか。ただ、映画としては説明しきれていないよね、これ。他にも(これと関連するが)ボーデンがいかに実生活で、いろいろ苦労していたかがわかるが、やはり映画だとそこまで観ていくのは相当大変だ。

そして、私がすっきりしないと感じていたジュリアの死についてのボーデンの弁明。なるほどね。でもこれこそきちんと映画の中で説明してくれないと。

あと、ルートの脅迫はボーデンのそそのかしにある、というんだけど、観たばかりなのにすでに記憶が曖昧なんでした。そうだったっけ。

【メモ】

原作は世界幻想文学大賞を受賞を受賞したクリストファー・プリーストの『奇術師』。

冒頭でカッターによるタイトルに絡んだ説明がある。1流のマジックには3つのパートがあって、1.プレージ 確認。2.ターン 展開、3.プレステージ 偉業となるというもの。

原題:The Prestige

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:菊池浩司

監督:クリストファー・ノーラン 製作:クリストファー・ノーラン、アーロン・ライダー、エマ・トーマス 製作総指揮:クリス・J・ボール、ヴァレリー・ディーン、チャールズ・J・D・シュリッセル、ウィリアム・タイラー 原作:クリストファー・プリースト『奇術師』 脚本:クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター プロダクションデザイン:ネイサン・クロウリー 衣装デザイン:ジョーン・バーギン 編集:リー・スミス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:ヒュー・ジャックマン(ロバート・アンジャー/グレート・ダントン)、クリスチャン・ベイル(アルフレッド・ボーデン/ザ・プロフェッサー)、マイケル・ケイン(カッター)、スカーレット・ヨハンソン(オリヴィア)、パイパー・ペラーボ(ジュリア・マッカロー)、レベッカ・ホール(サラ)、デヴィッド・ボウイ(ニコラ・テスラ)、アンディ・サーキス(アリー/テスラの助手)、エドワード・ヒバート、サマンサ・マハリン、ダニエル・デイヴィス、ジム・ピドック、クリストファー・ニーム、マーク・ライアン、ロジャー・リース、ジェイミー・ハリス、ロン・パーキンス、リッキー・ジェイ、モンティ・スチュアート

バベル

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

ハンニバル・ライジング

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■常識人の創った怪物

あの「人食い(カニバル)ハンニバル」の異名を持つ殺人鬼レクター博士の誕生話。

トマス・ハリスなら最初の『レッド・ドラゴン』を書いた時点で、当然レクター像もかなり煮詰めていたはずである。といってこの作品までの構想があったかというと、むろん私にはわからないのだが、全体の輪郭が当初からあったと聞けばなるほどと思うし、後付けであるならそれもさすがと思ってしまうくらいよく出来ている(文句を書くつもりなのにほめてしまったぞ)。

そして、結論は意外と単純なものであった。あれだけの反社会的精神病質者を生みだしたのは、そのレクターの存在以上に狂気が至るところにあった戦争だったというのだから。

第二次大戦中の1944年、6歳のハンニバル・レクターは、リトアニアの我が家レクター城(名門貴族なのね)にいた。戦争は彼の恵まれた環境をいとも簡単に壊してしまう。ドイツ空軍の爆撃で父母を奪ばわれたハンニバルは、幼い妹のミーシャと山小屋に隠れ住むが、そこに逃亡兵がやってきたことで悲劇が起きる……。

戦後ソ連軍に解放された家は孤児院となり、ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)はあれから8年間をそこで過ごしていたが、他の孤児のいやがらせに脱走し、手紙の住所をたよりにフランスにいる叔父を訪ねる。

ただ、この逃避行で、彼はすでにかなりの非凡さを披露してしまう。なにしろ孤児院を抜けるだけでなく、冷戦時代の国境まで越えてしまうし、いやがらせをした相手への復讐も忘れないなど、後年のレクター博士がすでにここにいるのである。

これでは興味が半減してしまう。もちろんまだカニバルの部分での謎は残っているし、映画としての娯楽性を損ねることなく進行させねばならない、という理由もあってしたことだろうから、それには目をつぶっておく。

さて、フランスに無事たどり着いたレクターだが、叔父はすでに死んでいて、しかし日本人の未亡人レディ・ムラサキ(コン・リー)の好意で、そこに落ち着くことになる。が、肉屋の店主がムラサキに性的侮辱の言葉を浴びせたことで、彼の中の獣性が目を覚ます……。

ムラサキの下でハンニバルは日本文化の影響を受けることになる。ムラサキによる鎧と刀を使った儀式めいたものが演じられるし、ハンニバルが肉屋の首を斬りとったのもこの日本刀を使ってだった。ただ、この部分は日本人には首を傾げたくなるものでしかない。

ポピール警視の追求を受けるものの、ハンニバルは最年少で医学部に入学する。なるほど、後年、精神科医にはなるが、人間を解剖したりする知識は早くから学問として学んでいたというわけか。

このあと、度々悪夢に襲われるハンニバルは、ミーシャの復讐を次々と果たしていく。この復讐劇が予定通りに成し遂げられていくのは、青年ハンニバルがもうレクター博士になっている証拠のようなもので(フランスへの逃避行からだった)、特別な見せ場にもならないほど粛々と進行していく。

が、このことで復讐相手のグルータス(リス・エヴァンス)の口から、飢えをしのぐためにミーシャを食べたのはお前もだと逆襲されることになる。これはかなり衝撃的な事実であるし、ここを映画のクライマックスにもしているので、これをもってカニバルの説明としたいところだが、妹の人肉を食べたことがハンニバルの中で嫌悪にはならず、人肉食を追求するようになった理由にまではなっていないように思われる。

それにこれは本当に説明可能なことなのだろうか。青年ハンニバルを描くことになれば、当然それが明かされるはずと思い込んでいたが、それが簡単なものでないことは誰しも気付くことだ。

ムラサキはハンニバルの最初の殺人を容認するばかりか擁護してしまうのだが、最後は彼に復讐を断念し脱走兵を許すことを求める。が、もう耳を貸すようなハンニバルではなくなっている。けれど、それなのに、ハンニバルはムラサキに「愛している」と言うのだ。

ハンニバルもここまでは夢にうなされるし、愛という言葉を口にする人間だったのである。だから彼の犯罪もこの作品では、非礼に対する仕返しであり、妹への復讐であって、彼の側にも正当性がかろうじてあったのだ。しかしムラサキに「あなたには愛に値するものがない」と言われてしまったことで、ハンニバルにあった人間は消えてしまう。

説明つきかねるものをやっとしたという感じがなくもないが、しかしそうさせたのは、レクター博士を想像したのが常識人のトマス・ハリスだったからではなかったか。いや、これはまったくの推論だが。

なお蛇足ながら、ギャスパー・ウリエルのハンニバル像は、アンソニー・ホプキンスにひけを取らぬ素晴らしいもので、彼にだったら続編を演じてもらってもいいと思わせるものがあった。そうして、今回定義出来なかった悪をもっと語ってもらいたいと思うのだ。さらに的外れになることを恐れずにいうと、善から悪への道は『スターウオーズ エピソード3 シスの復讐』の方がよほど上で、ハンニバルは最初から悪そのものを楽しんでいたという設定にすべきではなかったか。

ところでチラシには「天才精神科医にして殺人鬼、ハンニバル・レクター。彼はいかにして「誕生(ライジング)」したのか?――その謎を解く鍵は“日本”にある」となっているのだけど、ないよ、そんなの。

原題:Hannibal Raising

2007年 121分 シネスコサイズ アメリカ、イギリス、フランス R-15 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ピーター・ウェーバー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アマール 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード 原作:トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』  脚本:トマス・ハリス 撮影:ベン・デイヴィス プロダクションデザイン:アラン・スタルスキ 衣装デザイン:アンナ・シェパード 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネッリ 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂
 
出演:ギャスパー・ウリエル(ハンニバル・レクター)、コン・リー(レディ・ムラサキ)、リス・エヴァンス(グルータス)、ケヴィン・マクキッド(コルナス)、スティーヴン・ウォーターズ(ミルコ)、リチャード・ブレイク(ドートリッヒ)、ドミニク・ウェスト(ポピール警視)、チャールズ・マックイグノン(ポール/肉屋)、アーロン・トーマス(子供時代のハンニバル)、ヘレナ・リア・タコヴシュカ(ミーシャ)、イヴァン・マレヴィッチ、ゴラン・コスティッチ、インゲボルガ・ダクネイト

ホリデイ

109シネマズ木場シアター5 ★★☆

■何故かエピソードが噛み合わない

恋に行き詰まった女性が、憂さ晴らしにと、ネットで流行の家交換(ホーム・エクスチェンジ)をし、2週間のクリスマス休暇に「別世界」を手にする。日本では発想すら難しそうな家交換だが、家具付き賃貸物件が一般的という欧米ではそれほど違和感はないのかも(それにしてもね)。

ロンドンで新聞社の編集の仕事をしているアイリス(ケイト・ウィンスレット)は、3年も想い続けているジャスパー(ルーファス・シーウェル)の仕事場での婚約発表(つまり相手も職場の人間)に、目の前が真っ暗になって……。

ロサンジェルスで映画の予告篇製作会社を経営するアマンダ(キャメロン・ディアス)は、仕事中毒故か恋人のイーサン(エドワード・バーンズ)とはしばらくセックスレス状態。だからってイーサンの浮気を許せるはずもなく……。

アイリスはプール付きの大邸宅にびっくりで大喜びだが、アマンダはロンドンの田舎のお伽話に出てくるような1軒屋には6時間で飽きてしまい、帰国を考え出す始末(雑誌ではなく本が読みたいと言ってたのだから、うってつけなのにね)。が、アイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)の突然の出現で、たちまち恋に落ちてしまう。

2週間ながら新天地でのそれぞれの生活+多分新しい恋は、家交換のアイディアが示された時点で誰もが先を読める展開で、だからこちらのワクワク度が先に高まってしまうからなのか、そうは盛り上がってくれなし、アイリスとグラハムの熱愛ぶりに煽られて、かえって腰が引けてしまったりもする。

謎だらけでやきもきさせられたグラハムには、ソフィとオリビアという2人の娘(子役がいい)がいて、家に押しかけたアマンダは4人で楽しい時を過ごす。三銃士のイメージは重なるし、オリビアの「女の人が来たのは初めて、うれしいな」というグラハムへの応援にもなるセリフには本当にうれしくなるし、グラハム演じるナプキンマンの微笑ましいこと。

アマンダとアイリスの電話中にグラハムからもかかってきて、アイリスが中継役になるアイディアもいいし、2人は最初こそいきなりセックスになってしまったものの、途中からはキスそのものを楽しんでいるようで好感が持てる(あれ、腰が引けてたって書いたのに)。

そういう工夫は沢山あるのに、何でなんだろ。

一方のアイリスもただ豪邸を楽しんでいるだけでなく、アマンダの元カレの友達で作曲家のマイルズ(ジャック・ブラック)と知り合いになる。マイルズはやはり浮気されての失恋病男で、アイリスと同じように「便利でいい人」なのがミソ。だからこちらは2人共、元の恋人に決着を付けてからやっと恋が始まる。2人共恋人に復縁を迫られるあたりも似ているのだな(ジャスパーはわざわざロンドンからやってくるのだ)。

アイリスはまた、たまたま知り合った90歳の元脚本家アーサー(イーライ・ウォラック)にも、君が主演女優だと励まされる。実はこの老脚本家がらみの挿話は、アイリスが家にこもっていた彼に手を貸して、祝賀会に出かけていくようになる場面があるように、時間もそれなりに使っているのだが、何故か機能しているとはいえない。その証拠に、アーサーが祝賀会の壇上で話しているのに、アイリスとマイルズでお喋りしてしまう場面があるのだけど、これはないでしょう。

マイルズには、いつものジャック・ブラック調で映画ネタをふんだんに語らせたり(『卒業』ではビデオ屋で、ダスティン・ホフマンに「顔がバレたか」と言わせるわかりやすいカメオシーンまである)、アマンダには映画の予告篇のように自己分析してしまう場面が何度かあったりと、先にも書いたように細かな工夫が多い。

極めつけは、15歳で親が離婚したことから強くならねばと頑張って泣けなくなっていたアマンダが、泣き虫のグラハムと大泣きすることだろうか。でもね。

この噛み合わなさは何故なのか。結末が読めていたから。切実さが伝わらないから。ふむ。
よくわからんのだが、とにかくそういう印象のまま終わってしまったのだな。基本的には女性の目線での願望映画だから私には合わなかったのかも。

2週間が終わったらどうするのかって問題が残るとは思うのだけど、最後は4人共(子供たちも)ロンドンで楽しそうにしていました。ここから先は、考えてもしょーがないしょーがない。

【メモ】

グラハムは妻とは2年前に死別。謎だったのは、週末に子供を預けて独身男のように振る舞っていたからで、携帯に違う2人の女性の名前を見たアマンダは余計勘違いしてしまう。

三銃士のように暮らしていたというアマンダのセリフが、子供たちによってなぞられる。

映画ネタは『炎のランナー』『ミッション』など。他にリンジー・ローハンとジェームズ・フランコの映画の予告篇(これは架空か)も。それと元脚本家の机にはオスカー像が見えた。

原題:The Holiday

2006年 135分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ナンシー・マイヤーズ 製作:ナンシー・マイヤーズ、ブルース・A・ブロック 製作総指揮:スザンヌ・ファーウェル 撮影:ディーン・カンディ 美術:ジョン・ハットマン 衣装デザイン:マーリーン・スチュワート 編集:ジョー・ハッシング 音楽:ハンス・ジマー
 
出演:キャメロン・ディアス(アマンダ)、ケイト・ウィンスレット(アイリス)、ジュード・ロウ(グラハム)、ジャック・ブラック(マイルズ)、イーライ・ウォラック(アーサー)、エドワード・バーンズ(イーサン)、ルーファス・シーウェル(ジャスパー)、ミフィ・イングルフィールド(ソフィ/グラハムの長女)、エマ・プリチャード(オリビア/グラハムの次女)、シャニン・ソサモン(マギー)、サラ・パリッシュ(ハンナ)、ビル・メイシー(アーニー)、シェリー・バーマン(ノーマン)、キャスリン・ハーン(ブリストル)

フライ・ダディ

銀座シネパトス1 ★☆

■父よ、あなたは弱かった

娘のダミ(キム・ソウン)をカラオケボックスで同じ高校生のカン・テウク(イ・ジュ)に暴行されたチャン・ガピル(イ・ムンシク)は、「深く反省している」相手のあまりに不遜な態度に復讐を誓い、包丁を手にチョンソル高校に乗り込むが、居合わせたコ・スンソク(イ・ジュンギ)に簡単に気絶させられてしまう。が、このことでスンソクと彼の同級生チェ・スビン(キム・ジフン)とオ・セジュン(ナム・ヒョンジュン)は、ガピルに力を貸すことになる。

テウクは3年連続優勝を目指す高校ボクシングのチャンピオンで、取り巻きもいれば、高校の教頭も彼の味方。息子が不祥事を起こしても姿を見せない「国の仕事」で忙しい両親(事件すら知らないのかも)と憎まれ役に相応しい陣容だ。

対する39歳のガピルは平凡なサラリーマン。二流大学出ながら仕事ではまあまあ活躍しているようで営業部長にもなれそうだ。マンションのローンはあと7年。堅実なのね。でも禁煙がなかなか成功しないのは意志薄弱なのか。命をかけて妻と娘を守るつもりでいたが、気が付けば体はぶよぶよで、テウクとまともに戦えるとはとても思えない。

師匠に対する礼儀を守り一切質問はしないという条件の上で、スンソクの与えた指示は特訓の繰り返し。体はなまっているし非力すぎのガピルだから、まずは正攻法でいくしかないのだろう。それはわかるが、だったら余計、方法や見せ方に工夫がほしいところだ。が、特別なアイディアなどはない。荒唐無稽路線を取りたくなかったのかもしれないが、映画としては少しさびしい。

食事療法を取り入れて体重と体脂肪を減らすところは、イ・ムンシクが身をもって体を引き締めたのがわかるので(実際には体重を15キロ増やし、映画の撮影に会わせてまた減らしていったという)、本当に応援したくなる。が、あとは反射神経を養うくらいだし、ボクシング(何も相手の得意とするもので戦わなくてもね)での対策はラグビーみたいにタックルしろ、では何とも心許ない。

しかもこの対決を、日にちの制限があるわけではないのに、なぜか25日後(いくらなんでもね無理でしょ)に設定してしまうし、「明日の作戦を訊いて俺はあきれかえった」とガピルは言うのだが、体育館を占拠して生徒たちだけの前で行うだけの、ま、ホントにあきれかえっちゃうもので、実際の戦いになってもガピルは一方的に殴られるばかりでいいところがない。あれ、なのにガピルが勝ってたけど。なんでや。見せ場が結果として誤魔化しのようになってしまっては、盛り上がるはずもない。

これだったら前日のバスとの競争の方がまだ見せてくれたものね。そのバスの運転手(ペク・ソンギ)がいつの間にかローラーブレードができるようになっているのは、ちょっとした映像だからいいのであって、ガピルの特訓には乗り気でなかったスンソクが、娘のために戦うという姿勢に、小学生のとき離婚して出ていってままの父親を重ね合わせていたのだとか、ガピルにも「お前みたいな息子がいたら」などと言わせて妙な味付けをしてしまうと、急につまらないものになってしまう。

韓国でならば『フライ,ダディ,フライ』(未見)のリメイクは、それなりの興行価値があるのかもしれないが、元の作品が2005年に公開されたばかりの日本にもってくる意味があったとはとても思えない。現に、まあ、銀座シネパトスということもあるのかもしれないが、イ・ジュンギだけではとても売れそうもないくらいガラガラの初日だったのだけどね。かわいそ。

 

原題:嵓誤攵・エ ・€・煤@英題:Fly,Daddy,Fly

2006年 117分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チェ・ジョンテ 原作:金城一紀『フライ、ダディ、フライ』 脚本:チェ・ジョンテ 撮影:チェ・ジュヨン 音楽:ソン・ギワン
 
出演:イ・ムンシク(チャン・ガピル)、イ・ジュンギ(コ・スンソク)、イ・ジュ(カン・ウテク)、キム・ジフン(チェ・スビン)、ナム・ヒョンジュン(オ・セジュン)、イ・ヨンス(ガピルの妻)、キム・ソウン (チャン・ダミ/娘)、イ・ジェヨン(イ・ドックン/教頭)、ペク・ソンギ(バスの運転手)

ブラッド・ダイヤモンド

新宿ミラノ1 ★★★

■ディカプリオが主演なのにキスシーンがない

最近アフリカを舞台にした映画が多いが、これもアフリカのダイヤモンドをめぐる利権を描いた作品。ダイヤの争奪戦が悪玉と善玉という切り口で描かれるのはこの作品も同じだが、善玉側に立場の違う3人を配して、ダイヤを通して見えてくる欲望を、ダイヤに翻弄される姿を、そしてダイヤを仲介してできた絆を、角度を変えて映しだす。

1999年のシエラレオネ。反政府軍RUFに拉致されたソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)はダイヤモンドの採掘場で強制労働をさせられる。そこで偶然100カラットほどの大粒のダイヤを見つけて隠すが、政府軍の襲撃にあって捕まってしまう。

メンデ人の漁師にすぎないソロモンにとって何より大切なのは家族。愚直な彼は見つけたダイヤを、拉致で引き離された家族を取り戻す駆け引きの道具にする、というのが映画の設定だが、彼にももう少し欲をまぶしておいた方が、流れとしては自然になったのではないか(と考えるのは私が俗なだけか)。

ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)はローデシア出身の元傭兵。アフガニスタンやボスニアにもいたという。今はシエラレオネの反政府組織から武器と交換で手に入れたダイヤを密売業者に流している。彼の立場は複雑だ。足を洗いたいと思っているが、南アフリカにある秘密の武装組織の大佐(アーノルド・ヴォスルー)にも借りがあるようで、そう簡単には今までのしがらみから抜け出せそうもない。

密輸に失敗したダニーは刑務所に投獄されるが、そこでRUFのポイズン大尉とソロモンのやりとりを聞いて巨大なピンク・ダイヤの存在を知る。ダニーにとってはピンク・ダイヤはこの世界から抜け出すチャンス。とはいえ、状況によっては長年身に染みついた悪が、どう作用するかは彼自身にもわからなさそうだ。

釈放されたダニーは、バーでアメリカ人ジャーナリストのマディー・ボウエン(ジェニファー・コネリー)と出会う。彼女はRUFの資金源となっているダイヤ密輸ルートを探っていて、ダニーの正体を知ったことで、匿名でいいからと情報提供を求めてくる。

マディーが追っているのは密輸の証拠か、ジャーナリストとしての名声か。自分の書いた記事を読んだからといって誰かが助けにくるわけではないし、また自分が悲しみを利用して記事を書いていることも自覚している。とはいえ「確かにひどい世だが、善意もある」と思っていて、ダニーにはそれがないと言い放つ。

ダニーは裏から手を回してソロモンを釈放させ、彼にはダイヤと引き換えに家族探しを手伝うことを、マディーにはジャーナリストの持つ情報でソロモンの家族を探してくれれば密売の情報を提供することを持ちかける。

それぞれの思惑を持った3人が目指すのは、ギニアにあるアフリカで2番目に大きい難民キャンプであり、ソロモンの息子ディア(カギソ・クイパーズ)がRUFによって少年兵に仕立て上げられたところであり、ピンク・ダイヤの隠し場所である。

キャンプでソロモンは妻と娘に再会するが、ディアの行方はわからない。難民が100万人もいるのに簡単に見つかってしまうのは映画だから仕方がないのか。それとも難民リストで行き先が判明したくらいだから、意外とそういう情報は整理されているのか。難民に反乱兵が紛れ込んでいる可能性があるので停戦までは解放しないというようなことも言っていたが、だとすると難民キャンプというのは収容所でもあるのか。

そんなことは考えたこともなかったが、むろん、映画はそこにとどまってなどいない。あくまで娯楽作だから、市街戦にはじまって、内戦も激化するし、少年兵の襲撃があったり、ダニーの要請した大佐の軍隊がやってきたりと、アクションシーンでも大忙しだ。が、殺伐とした風景を続けて見せられたせいか、感覚が麻痺してしまって、単調にさえ感じていたのだから困ったものだ。

ディアを見つけたソロモンが、その息子から銃を突きつけられる場面は衝撃的だが、ソロモンの説得でおさまるのを当然と思って観ていては、あきれられてしまうかも。しかし前半にあった少年兵に育てあげていく場面はすごみがあった。そうしてこれは、形こそ違え9歳で両親を殺され(母親はレイプも)、傭兵になっていたダニーの生い立ちではなかったか。

映画はRUFから子供たちを取り戻して助けている元教師のベンジャミン(ベイジル・ウォレス)を登場させて希望を語らせ、ソロモンにも「あの子が大人になって平和になればここは楽園になる」と言わせているのだが、さすがに素直にはうなずけない。

ダニーはソロモンの願いを叶え、ピンク・ダイヤも手に入れるのだが、深手を負い、自分の運命を知ることになる。追っ手をひとりで迎えるちょっとかっこつけの場面ではあるが、ディカプリオいいかも。ソロモンに「息子と家に帰れ」と言うセリフは、自分のような人間を作るなと言っているようだ。

最後のマディー(はすでにダニーに密輸について書かれた手帳を託されて立ち去っていた)との電話は、ソロモンのことをたのんだ他は会えてよかったといった簡単なものだが、これも泣かせる。そういえば最初の方とはいえ、マディーには「あなたが証言を拒み、私と寝る必要がないなら去ってよ」とまで言わせていたくせに、あのまま2人はキスもしていなかったのな。

最後は、ロンドンでマディーが取引の写真を撮り、真相が書かれ、ソロモンの証言も得てダイヤ密輸のからくりが暴かれる。これが付け足しのように思えてしまうのは、ダニーによってリベリアに空輸したあとリベリア産の偽造書類で輸出というのがすでに観客(マディーに言ったのだが)には周知ということもあるが、ディカプリオを山で殺してしまったからとかね。

2003年にはキンバリープロセス(ダイヤモンド原石の国際認証制度)の導入で紛争ダイヤが阻止されるようになり、シエラレオネは平和になったが、まだ20万の少年兵がいるというような内容の字幕がでる。あまりにも簡単に平和という言葉がでてきたので、疑ってしまったが、内戦が終結したという意味でなら本当のようだ。ただこの少年兵というのは、どこにどうやっているのだろうか。

どうでもいい話だが、デビアス社の給料3ヶ月分のダイヤモンドのCMは流れなかった。ってあれが映画館であきるほどかかっていたのはもう10年?くらい前でしたね。

 

【メモ】

1999年を印象付けるのに、アフリカのテレビでもクリントンの不倫が流れていた、という演出。いつまで経ってもこうやって使われちゃいますねー。

元教師のベンジャミンがRUFから子供を助けることなど不可能そうだが、彼によると地元の司令官は昔の教え子なのだそうだ。

〈070517追記〉ウィキペディア(Wikipedia)の「ブラッド・ダイヤモンド」の項目に「この映画では、反政府勢力のRUF側にのみ少年兵が登場するが、実際にはシエラレオネ政府軍も少年たちを兵士にしていた」という記事があった。

原題:Blood Diamond

2006年 143分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:今泉恒子

監督:エドワード・ズウィック 製作:ジリアン・ゴーフィル、マーシャル・ハースコヴィッツ、グレアム・キング、ダレル・ジェームズ・ルート、ポーラ・ワインスタイン、エドワード・ズウィック 製作総指揮:レン・アマト、ベンジャミン・ウェイスブレン、ケヴィン・デラノイ 原案:チャールズ・リーヴィット、C・ギャビー・ミッチェル 脚本: チャールズ・リーヴィット 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ダニー・アーチャー)、ジャイモン・フンスー(ソロモン・バンディー)、ジェニファー・コネリー(マディー・ボウエン)、マイケル・シーン(シモンズ)、アーノルド・ヴォスルー(大佐)、カギソ・クイパーズ(ディア・バンディー)、 デヴィッド・ヘアウッド(ポイズン大尉)、ベイジル・ウォレス(ベンジャミン・マガイ)、 ンタレ・ムワイン(メド)、スティーヴン・コリンズ(ウォーカー)、マリウス・ウェイヤーズ(ヴァン・デ・カープ)

ブラックブック

テアトルタイムズスクエア ★★★☆

■事実に着想を得た「出来すぎた」物語

ハリウッド監督になっていたポール・バーホーベンがオランダに戻って作った娯楽色たっぷりのレジスタンス戦争映画(「事実に着想を得た物語」という字幕が出る)。

ユダヤ人歌手のラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)は、湖に出ていた時に隠れ家にしていたオランダ人の農家が爆撃機に攻撃され、知り合ったロブ(ミヒル・ホイスマン)という青年のところに身を寄せるが、夜にはオランダ警察のファン・ハイン(ピーター・ブロック)に知られてしまう。「オランダの警察には善人が多い」というハインの手引きで脱出することを決めたラヘルは、父に頼れと言われていた公証人のW・B・スマール(ドルフ・デ・ヴリーズ)を訪ねる。

スマールから父の金の一部を手にしたラヘルはロブと一緒に船着き場へ向かい、そこで合流した別のユダヤ人グループの中に両親や弟を発見する。が、乗り込んだ船は夜更けにドイツ軍の襲撃を受け、皆殺しのうえ金品を略奪されてしまう。川に飛び込んで難を逃れたラヘルは、農民に助けられ、チフスにかかった遺体に化けて検問を抜けハーグに着く。そこで彼女は髪をブルネットからブロンドに、名前をユダヤ人名からエリス・デ・フリースに代え、レジスタンスの青年ティム・カイパース(ロナルド・アームブラスト)と彼の父親でリーダーでもあるヘルベン・カイパース(デレク・デ・リント)の無料食堂で働くことになる。

5か月後にレジスタンスの仲間の女性が脱落したことで、エリスに白羽の矢が当たる。連合国からの投下物資の移送に女性を同伴して注意をそらすのだという。元医師のハンス・アッカーマンス(トム・ホフマン)と恋人を装って列車に同乗するが、機転をきかすうち、エリスはナチス諜報部長のムンツェ大尉(セバスチャン・コッホ)の個室に入り込んでしまう。が、そのことで2人は検閲の目をそらすことに成功する。ほどなく武器輸送が発覚してティムたちが捕まってしまう。ヘルベンは彼らの救出のため、エリスにムンツェに近づいてほしいと申し出る。

かなりすっ飛ばしたつもりだが、この調子で粗筋を書いていたら少なくてもあと3倍は書かなくてはならないだろう。とにかく密度の濃い物語で、次々に事件が待っているのだ。しかもそれが巧みに絡まって、思わぬ登場人物が思わぬところで活躍するというサービス満点の脚本になっていて、144分という長さをまったく感じさせない。

が、その盛り沢山さが、逆に観客に立ち止まる余裕を与えず、余韻にひたらせてくれないうらみにもなっている。エリスの隠れ家生活の描写で、隠れ家を提供している農家の主人が、エリスに「イエスに従えばユダヤ人は苦しまなかった」と言ったり、聖書を暗記させエリスにお祈りをさせる場面があって、私などそのあたりの事情をもっと知りたくなったものだが、映画はどんどん先に行ってしまうというわけだ。それはエリスが家族を失うところでも同じで、場面としての残虐さは叩き込まれても、感情の永続性という配慮はない。

ムンツェに取り入ったエリスはそのままパーティに行くことに成功し、そこにピアノを弾く家族を殺したフランケン(ワルデマー・コブス)を見つけるのだが、歌手のエリスは一緒に歌を歌わなければならなくなる。この場面はかなり衝撃的で演出として心憎いものだが、ここでも物語はとどまらずに進行する。

フランケンの愛人ロニー(ハリナ・ライン)と親しくなり、諜報部で働きだし、スマールによるムンツェとのティムたちの助命交渉があり、盗聴器を設置するが、ムンツェにはユダヤ人であることを見破られ、でも恋に落ち、盗聴からはファン・ハインとフランケンの陰謀が判明する。ロニーから仕入れたフランケンのユダヤ人殺害による金品の着服をカウトナー将軍(クリスチャン・ベルケル)の前で暴こうとするムンツェだが、証拠は見つけられず、逆にレジスタンス側と連絡をとっていたことで逮捕されてしまう。

さらに端折ってみたが、まだ物語を終わらすことができない。細かく書かないと公証人のスマール(彼の持っていた黒い手帳がタイトルになっている)やハンスの悪巧みを、印象的に暴くことが出来なくなってしまうのだが、それは映画を観て楽しめばいいことなのでもうやめることにする。ようするに、レジスタンス側にもドイツ軍側にも、自分さえよければと、敵と裏取引していた人間が多数いたということをいいたいのだろうが、ここまで人間関係を複雑にしてしまうと、どんでん返しや謎解きの娯楽性の方ばかりに目がいってしまわないだろうか。

物語をいじくりまわしたせいで、終戦後にナチに通じていたとみなされ虐待を受けていた(汚物まで浴びせられていた)エリスを、レジスタンスの英雄になっていたハンスが助けた意味がわからなかったりもする。多分自分で確実に始末しておかないと安心できなかったのだろう(さらに言うなら戦争中のハンス自身は危険を犯し過ぎだし、裕福なユダヤ人狙いということでは、スマールならばもっと簡単かつ安全に財産を横取り出来たのではないか)。ここでも鎮痛剤と偽られてエリスがインシュリンを打たれてしまうのだが、大量のチョコレートで難を逃れるといった見せ場がある。

英国は降伏後もドイツ軍の刑の執行を認めているという説明があって(カウトナー将軍の協力の下に)、終戦に希望を見出していたムンツェは処刑されてしまう。エリスはハンスから財宝を取り戻すが、私のものではなく死者のものだと言う。

この戦後風景の中で面白いのがロニーで、街中では髪を切られてナチの売女と晒し者になっている女性がいるというのに、彼女は戦勝パレードをしている新しい彼にちゃっかり乗り換えてしまっているのだ。それも「笑顔を振りまいていたらこうなった」というのだから彼女らしい。彼女はエリスがスパイだと知った時も、マタハリのガルボは捕まっちゃうのよ、とは言うが、エリス自身のことについてはとやかく言わなかったっけ。

ローリーは1956年10月にはイスラエルに夫とバス旅行にやってきていたから、幸せにやっているのだろう。そこでエリスと再会するというのが映画のはじまりだった。エリスも夫に2人の子供と仲良くやっているらしい。そして、このイスラエルのキブツの建設に、エリスが取り戻したユダヤ人犠牲者の資金があてられたことが述べられて終わりとなる。

1956年10月という設定は、興味深いものだ。29日にはイスラエルがシナイ半島へ侵攻を開始して第2次中東戦争がきって落とされるからだ。何事もいろいろなところで繋がっているということなのだろうが、それはまた別の話……。

【メモ】

ムンツェの趣味は切手蒐集(「占領した国の切手を集めている」)で、だから地理学者になったと言っていた。

エリスは陰毛まで染めて敵地に乗り込むが、ムンツェにはすぐ見破られてしまう。「ブロンドが流行ですもの」と言い逃れるが、ムンツェは「金髪か、完璧主義者だな」と余裕綽々だ。ムンツェにはあとにも「私を甘く見るな」というセリフがある。そりゃそうだろう。でなきゃナチス諜報部長にまでなれなかっただろうから。

ムンツェは、妻子を英国軍の爆撃で失っていた(「ゲーリングは英国の爆弾はドイツには落ちないと言っていたがハンブルグに……」)。

フランクは盗聴を知っていたから、ムンツェの行動を予測したのか?

「戦争は終わったよ。僕たちにははじまりだ」というのはエリスへの慰めか。ムンツェにしては甘い予測だ。

父にもらったライターをハンスのところで見つけるラヘル(エリス)。

1942年からハンスはユダヤ人を助けていた。ラヘルの弟はハンスの手術を受けたようだ。この時すでにフランケンと取引していたことになる。

原題:Zwartboek / Black Book

2006年 144分 スコープサイズ オランダ、ドイツ、イギリス、ベルギー 日本語字幕:松浦美奈 オランダ語監修:池田みゆき

監督:ポール・バーホーベン 製作:テューン・ヒルテ、サン・フー・マルサ、ジョス・ヴァン・ダー・リンデン、イエルーン・ベーカー、イェンス・モイラー、フランス・ヴァン・ヘステル 製作総指揮:グレアム・ベッグ、ジェイミー・カーマイケル、アンドレアス・グロッシュ、ヘニング・モルフェンター、アンドレアス・シュミット、マーカス・ショファー、チャーリー・ウォーケン、サラ・ギルズ 原案: ジェラルド・ソエトマン 脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・バーホーベン 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ 衣装デザイン:ヤン・タックス 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(W・B・スマール/公証人)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)、ロナルド・アームブラスト(ティム・カイパース)、スキップ・ゴーリー(ジョージ/ロニーの夫)

バッテリー

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★☆

■勝手にふてくされてれば

ピッチャーとして天才的な素質を持つ原田巧(林遣都)が、引っ越し先の岡山県新田市(新見市か)で中学に進み、成長していく姿を描く。

病弱な弟の青波(鎗田晟裕)のことだけで精一杯の家族や、管理野球の中学野球部監督、先輩や同級生とのトラブル、ライバルの登場に、信頼していたキャッチャーの永倉豪(山田健太)との軋轢……。

こんな書き方では何もわからないのだが、手抜き粗筋にしてしまったのは、どうにも気が進まないからで、といってこの作品がそんなにひどいかといえばそんなことはないのだが、ようするに私が中学生の悩みに付き合えるほど人間ができていないということだろうか。

「野球に選ばれた人間」である巧。いくら速い球を投げても、それを受けとめてくれる者がいなくては自分の存在理由もなくなる。そんな自分を誰もわかっちゃくれないとばかりにふてくされてみせるのは、多感な中学生が、でも表現は追いつかないということなのだろう。が、祖父の井岡洋三(菅原文太)のようにはしっかり付き合えない私としては、いつまでもそうしてれば、と突き放すしかない。

話にしてもたとえば、丸刈りにしなければ退部なのに、監督の戸村(萩原聖人)をショートフライに打ち取ったことで、それをなしにしてしまうというのが、はなはだ面白くない。生徒にそそのかされて対決してしまう戸村もどうかしているのだが、中学の野球部の監督が野球を実力だけで評価してしまっていいのか。

巧を嫉む上級生の描き方もひどくて、部活に入っていれば内申書がよくなるから野球をやっていた、っていうのがね。巧への暴行も見捨てておけるものではないが、「言いてぇこと言って、やりたいことやって、我慢しないでいきなりレギュラーか」という彼の言い分はわかる。で、そのことにはちゃんと答えてやっていないのだ。

さらに問題なのは、最後のまとめ方だろうか。青波の病気が悪化したは巧のせいだという母の真紀子(天海祐希)に、頼りなさそうだった父の広(岸谷五朗)が、どうしてそんなに巧につらく当たるのかと問いただす。真紀子は「八つ当たり」を認め、「好きなものに打ち込める巧を見ているとイライラする」と答える。

ここまでならわかるのだが、広は調子に乗って「野球って自分の気持ちを伝えるスポーツなんだ。ぼくはこの発見を巧に伝えたいんだ。君だって伝えたいんだろ、お前だってお母さんの大切な子供だって」とまで言う。小中学生向けとしてなら、まあこれもアリだろう。でも大人の広が「発見」してもねー。

そう言われて球場に駆けつけてしまう真紀子、という演出もどうかと思うのだけど……。

いやなところばかりを書いてしまったが、『バッテリー』というタイトル部分の巧と豪の関係はよく描けていたように思う。「ボールの成長に追いつけない」豪の自分への叱責。それはわかっていてもやはり「手抜きのボールはキャッチャーへの裏切り」なのだ。でも、こんな豪の葛藤に比べると、巧のは単なる苛立ちのようにしかみえないのがねー。

映像としては、巧の剛速球はうまく表現出来ていたと思う。投球フォームをじっくり見せるのもいい。だけど、毎回これではあきてしまう。あれ、またけなしてしまったか。ここまでボロクソに言うつもりはなかったのだけどね。

  

2006年 118分 シネスコサイズ

監督:滝田洋二郎 製作:黒井和男 プロデューサー:岡田和則、岡田有正 エグゼクティブプロデューサー:井上文雄、濱名一哉 企画:信国一朗、島谷能成 原作:あさのあつこ『バッテリー』 脚本:森下直 撮影:北信康 美術:磯見俊裕 編集:冨田信子 音楽:吉俣良 主題歌:熊木杏里『春の風』 CGIプロデューサー:坂美佐子 スクリプター: 森直子 照明:渡部篤 録音:小野寺修 助監督:足立公良
 
出演:林遣都(原田巧)、山田健太(永倉豪)、鎗田晟裕(原田青波/弟)、蓮佛美沙子(矢島繭)、天海祐希(原田真紀子/母)、岸谷五朗(原田広/父)、萩原聖人(戸村真/監督)、菅原文太(井岡洋三/祖父)、上原美佐(小野薫子)、濱田マリ(永倉節子)、米谷真一(沢口文人)、太賀(東谷啓太)、山田辰夫(草薙)、塩見三省(阿藤監督)、岸部一徳(校長)

ハッピー フィート(日本語吹替版)

109シネマズ木場シアター6 ★☆

■タップで環境問題が解決するなら世話はない

皇帝ペンギンに1番必要な「心の歌」が歌えない音痴のマンブルだが、タップダンスなら生まれた時から天才的(卵も嘴でなく足で割って出てくる)。でも、この個性が災いして、学校も卒業させてもらえない。皇帝ペンギン界には、心の歌を歌えなければ大人になった時に最愛の人を見つけられないという常識があるのだ。

ママは理解してくれるし、幼なじみのグローリアも気にかけてはくれるのだが、なにしろ成長したのに外見も産毛のかたまり(ペンギンは見分けがつかないのと、小さい時の可愛さとのギャップでこのキャラクターなんだろか)で、あまりに皇帝ペンギンらしからぬマンブルには居場所がない。

ところが失意の中で知り合ったアデリー・ペンギンの5匹、アミーゴスの面々からは、「お前のすげーダンスを見たら女どもは寄ってくるぜ」とベタ褒めされる。イワトビペンギンのライブレイスという怪しげな愛の伝道師にも会って、マンブルはいろいろな世界を知り、自分にも次第に自信が持てるようになる。

しかし何故ヨチヨチ歩きのペンギンにタップダンスなんだろう。雰囲気は出ているが、ペンギンは足の動きがわかりずらいからね。タップはやはり不向きと思うのだが。

とはいえアニメの出来は素晴らしいもので、ここまでくると逆に細部までの描き込みすぎが心配になってくるほどだ。それに、普通は手を抜けるところなのにね。特にすごいのが、画面を埋め尽くしたペンギンの群れが歌って踊る場面だ。アニメのことはよくわからないが、この集団アニメは画期的なのではないか(一体何羽のペンギンがあの画面にはいたんだろう!)。

マンブルは皇帝ペンギンたちにも自分の特技を披露して、新しい楽しさをわかってもらいかける。が、頑固な長老たちはタップダンスを若者どもの反乱と受け入れようとしない。それどころか、秩序を乱すマンブルこそが最近の魚不足の原因と決めつけられて、誰も逆らえなくなってしまう。

ダンスと歌が満載の動物アニメには、個性の排除に立ち向かっての自分探しの旅は、無難なとこではあるのだが、それでは物足りないと考えたのだろうか、映画は思わぬ方向に突き進む。

魚が減った原因を調べると言って仲間の元を去ったマンブルは、エイリアン(人間)が魚を捕っていることを突きとめるが、結局人間に捕まって動物園に入れられてしまう。3日後に言葉を失ない3ヶ月後には心を失ったマンブルだったが、ある日タップを踊ったことが話題になって(「ショーに出したら金になる」という発言もあった)、生態調査のため発信器を付けられて南極へ戻ってくる。そして最後は何やら会議での議論の末「それでは禁漁区にする」宣言が飛び出す。

この流れはいい加減で、しかもあれよあれよという間だから、後になったら理屈がわからなくなっていた。人間だけでなく、皇帝ペンギンたちの反応もひどいんだもの。マンブルに魚を捕った犯人がわかったと報告されているのに、ヘリコプターでやってくる人間と一緒になって踊ってしまうのだから。しかも長老たちまで。誰か私にわかりやすく説明してくれないものか。

保守的だったパパが「(マンブルの個性は)もとは俺が卵を落としたせいだし、マンブルには1日だってパパらしいことをしてあげられなかった」と反省するくだりはいいのにね。「もう音楽がなってない」という表現には、さみしさがにじみ出ていた。

こういう部分をみると、ありきたりであってもはじめの路線でまとめておくべきだったと思わずにはいられない。人間と共存なんてことを言い出すから、食べられる魚の立場や、見せ場だったシャチやアザラシに襲われるシーンを、どう解釈すればいいのかわからなくなってしまうのである。

ところで人間たちは実写なのだろうか。それとも……。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 長編アニメ映画賞受賞

仕方ないのかもしれないが、出だしはドキュメンタリーの『皇帝ペンギン』そっくり。

ブラザー・トムの2役は、ロビン・ウイリアムスがそうしてることに合わせている(だから?)。

挿入歌は吹き替えされずそのまま流れていて(だからここは字幕)、最後にNEWSの『星をめざして』がイメージソングとしてついていた(これは字幕版も?)。

原題:Happy Feet

2006年 109分 シネスコサイズ アメリカ 

監督:ジョージ・ミラー 共同監督:ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 製作: ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、ビル・ミラー 製作総指揮:ザレー・ナルバンディアン、グレアム・バーク、デイナ・ゴールドバーグ、ブルース・バーマン 脚本:ジョージ・ミラー、ジョン・コリー、ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 振付:セイヴィオン・グローヴァー(マンブル)、ケリー・アビー 音楽:ジョン・パウエル アニメーションディレクター:ダニエル・ジャネット
 
声の出演(日本語吹替版):手越祐也(マンブル)、ブラザー・トム(ラモン、ラブレイスの2役)、 園崎未恵(グローリア)、てらそままさき(メンフィス/パパ)、冬馬由美(ノーマ・ジーン/ママ)、水野龍司(長老ノア)、石井隆夫(アルファ・スクーア/トウゾクカモメ)、真山亜子(ミセス・アストラカン)、 さとうあい(ミス・バイオラ)、稲葉実(ネスター)、多田野曜平(ロンバルド)、小森創介 (リナルド)、高木渉(ラウル)、加藤清史郎(ベイビー・マンブル)

パフューム ある人殺しの物語

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■神の鼻を持った男はいかにして殺人鬼となったか-臭気漂う奇譚(ホラ話)

孤児のジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、13歳の時7フランで皮鞣職人に売られるが、落ち目の調香師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)に荷物を届けたことで、彼に自分の才能を印象付けることに成功し、50フランで買い取ってもらい晴れて弟子となるが……。

巻頭の拘置所にいるグルヌイユの鼻を浮かび上がらせた印象的なスポットライトに、死刑宣告の場面をはさんで1転、彼の誕生場面に移る。パリで1番悪臭に満ちた魚市場で、彼はまさに「産み落とされる」のだ。この場面に限らず、匂いにこだわって対象をアップでとらえた描写は秀逸で、匂いなどするはずのない画面に思わず鼻腔をうごめかしてしまうことになる。そして、なんと次は産まれたばかりの血にまみれた赤ん坊が演技をする(これはCGなのだろうけど)という、映画史上初かどうかはともかく、とにかくもう最初から仰天続きの画面が続く。

こんな筆致で、どんな物も嗅ぎ分ける神の鼻を持った男が殺人鬼となるに至った一部始終を描いていくのだが、おぞましいとしか言いようのない内容を扱いながらギリギリのところで観るに耐えうるものにしているのは、この映画が全篇ホラ話の体裁をまとっているからだろう。

例えば、次のような描写がある。孤児院に連れて行かれた赤ん坊のグルヌイユは、そこの子が差し出した指を握り、匂いを嗅ぐ。だいぶ大きくなったグルヌイユが、他の子がいたずらで彼にぶつけようとしたりんごを、後ろ向きなのにもかかわらず、匂いを感知してよける。

グルヌイユの桁違いの嗅覚については、この後も枚挙にいとまがないほどだ。バルディーニが秘密で研究していた巷で人気の香水が、彼の服についていることを言い当てることなどグルヌイユにとっては何でもないことで、瓶に密封された香料までわかるし(多少は瓶に付着しているということもあるのかもしれないが)、調合すら自在。そんなだから、人の気配までもが匂いでわかってしまうし、これはもっとあとになるが、何キロも先に姿を消した人間まで、匂いで追跡してしまうのである。

次のような例もある。グルヌイユに関わった人間は次々と死んでしまう。まず母。グルヌイユの最初に発した(泣き)声で、母親は子捨てが発覚し絞首刑。彼を売った孤児院の女は、その金を狙われて殺されるし、鞣職人は思わぬ金を手にして酔って溺死。職人証明書を書く代わりにグルヌイユから100種類の香水の処方箋をせしめたバルディーニは、幸せのうちに眠りにつくが、橋が崩れてしまう(この橋の造型を含めた川の風景は見事。セーヌにかかる橋の上が4、5階ほどのアパートになっていて、そういえば時たま天井から土が落ちてきていた)。

バルディーニから、グラース(これはどのあたりの町を想定しているのだろう)で冷浸法を学べば生き物の体臭を保存できるかもしれないと聞いていたグルヌイユは、究極の匂いを保存しようとその地を目指す。途中の荒野で彼は自分自身が無臭だということに気付く。彼にとって無臭は、誰にも存在を認められないということを意味するようである。なるほどね。ただ、この場面はやや哲学的で私にはわかりずらかった。

グラースで職に就いたグルヌイユは、女性の匂いを集めるために次々と殺人を犯すようになる(パリでの1番はじめの殺人こそ成り行きだったが)のだが、そのすべてが完全犯罪といっていい巧みさでとりおこなわれていく。匂いで察知し、追いかけ、家に忍び込んでからは、もう嗅覚がすぐれているからという理由では説明がつかないようなことを、最後の犠牲者になるローラ(レイチェル・ハード=ウッド)には用心深い父親のリシ(アラン・リックマン)が付いているにもかかわらず、すべてを手際よくやりのけてしまうというわけである。

リシの厳しい追及でグルヌイユは捕まり死刑台に登るのだが、彼はあわてることなく完成した香水(拷問までされていたのに隠し持っていたこと自体もホラ話というしかない)で、まず死刑執行人に「この男は無実だ」と叫ばせる。匂いを含ませたハンカチを投げると、ハンカチは広場を舞い、司祭は「人間でなく天使」と言い、500人を越すと思われる死刑見物人たち(全員がグルヌイユの死を望んでいた)はふりまかれた匂いに酔ったのか服を脱ぎ捨て、司祭も含め広場では乱交状態となる(グルヌイユ自身は、生涯にわたって性行為とは無縁だったようだ)。そして、私は騙されんぞと言っていたリシまで、最後には「許してくれ、我が息子よ」となってしまう。

ホラ話は最後まで続く。この香水で世界を手にすることもできたグルヌイユだが、パリに戻って行く。香水で手に入れた世界など虚構とでも思ったのだろうか。彼は産まれた場所に出向き、香水を全部自分にふりかけてしまうのである。

そうか、無臭でいままで存在していなかった彼(犬にも気付かれないのだ)は、このことによって、今やっと誕生したのかもしれない(もっともそう感じるのは彼だけのような気もするのだが。しかし人はその人の価値観でしか生きられないわけで、彼には必要な行為だったのだろう)。と、そこにいた50人くらいの人が「天使だわ、愛している」と言いながら彼に殺到する。

グルヌイユが彼らに食われてしまったのか、ただ単に姿を消してしまったのかはわからないのだが(翌日残っていた上着も持ち去られてしまう)、もはやそんなことはどうでもいいことなのだろう。なにしろホラ話なのだから。

グルヌイユの倫理観を問うことが正しいことかどうかはさておき、ローラから採った香りを、殺害場所からそうは離れていないところで抽出している彼の姿は美しく崇高ですらあった。彼は捕まって殺害理由を問われても、必要だったからとしか答えないのである。

(071018追記)
17日にやっと原作を読み終えることができた(読むのに時間がかかったわけではない)。グルヌイユが無臭であることは、原作だと生まれたときからの大問題であって、飛び抜けた嗅覚の持ち主であること以上にこのこと自体が、彼の生涯を決めたことがわかる。

なにしろ彼が忌み嫌われる原因は「無臭」だからというのだ。これについてはちゃんとした説明があって、その時はふむふむと読み進んでしまったのだが、でも説得力があるかというとどうか。グルヌイユの嗅覚が天才的ということとは別に、当時の人々にも相当な嗅覚がないと「無臭」に反応したり、グルヌイユ(の香水にか)を愛したりは出来ないことになると思うのだが。

グルヌイユが7年間を1人山で過ごすことになるのも、このこと故なのだが、これもわかったようでやっぱりわからなかった。

というようなことを考えると、映画は多少の誤魔化しがあるにしても、うまく伝えられない部分は最小限にして、挿話も目立たないところは書き換え(彼を売った孤児院の女などそのあと52年も生きるのだ)、壮大なホラ話に仕立て上げていたと、改めて感心したのだった。

  

【メモ】

果物売りの女の匂いを知った(服を剥ぎ取り、体をまさぐり、すくい取るように匂いを嗅ぐ場面がある)ことで、惨めなグルヌイユの人生に崇高な目的が生まれる。それが、香りの保存だった。

グルヌイユの作った香水だが、そもそもバルディーニから聞いた伝説による。その香料は、何千年も経っているのに、まわりの人間は楽園にいるようだと言ったとか。12種類の香料はわかっているが13番目が謎らしい。

グルヌイユの殺人対象は処女のようだが、娼婦も餌食になっている。

グルヌイユのとった香りの保存法は、動物の脂を体中に塗りたくり、それを集めて抽出するというもの。

犠牲者が坊主姿なのは、体毛を全部取り除いたということなのだろうか。犠牲者の飼っていた犬が、埋めてあった頭髪(死体)を掘り起こして、彼の犯罪が明るみとなる。

原題:Perfume:The Story of a Murderer

2006年 147分 シネスコサイズ ドイツ、フランス、スペイン 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トム・ティクヴァ 製作:ベルント・アイヒンガー 製作総指揮:フリオ・フェルナンデス、アンディ・グロッシュ、サミュエル・ハディダ、マヌエル・マーレ、マーティン・モスコウィック、アンドレアス・シュミット 原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』 脚本:トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー 撮影:フランク・グリーベ 美術監督:ウリ・ハニッシュ 衣装デザイン:ピエール=イヴ・ゲロー 編集:アレクサンダー・ベルナー 音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:サイモン・ラトル ナレーション:ジョン・ハート

出演:ベン・ウィショー(ジャン=バティスト・グルヌイユ)、ダスティン・ホフマン(ジュゼッペ・バルディーニ)、アラン・リックマン(リシ)、レイチェル・ハード=ウッド(ローラ)、アンドレス・エレーラ、サイモン・チャンドラー、デヴィッド・コールダー、カロリーネ・ヘルフルト

墨攻

新宿ミラノ1 ★★

■1人の男が買って出た無駄な戦の顛末。「墨守」ならぬ「墨攻」とは

「墨守」という言葉にその名をとどめる墨家のある人物を主人公にした歴史スペクタクル大作。

墨家は中国の戦国時代(BC403~BC221)の思想家墨子を祖とし、鬼神を信じ「兼愛」(博愛)と「非攻」(専守防衛)などを説いた実在の思想集団。最盛期には儒教と並ぶほどの影響力を持っていたらしいが、歴史の舞台から姿を消してしまったこともあり(謎の部分が多い)、儒家を批判したことで知られるものの、孔子などに比べると一般的には馴染みが薄いようである。

墨家の思想は今の時代でもかなり興味深いものだ。この作品では、それをさらにすすめて「非攻」を「墨守」でなく「墨攻」としたのだから、当然そこに言及すべきなのに、映画を見た限りではあまりよくわからない(大元の酒見賢一の小説も、森秀樹のマンガも知らないのでその比較も出来ないのだが)。

趙が燕に侵攻を開始。両国に挟まれた小国の梁(架空の国)がその餌食になるのは間違いなく、梁王(ワン・チーウェン)と息子の梁適(チェ・シウォン)は墨家に救援を求めていた。巷淹中(アン・ソンギ)率いる10万の大軍の前に、住民を含めても4千にしかならない梁王は降伏を決意するが、その時墨家の革離(アンディ・ラウ)が1人で梁城に現れ、趙の先遣隊の志気を殺ぐ1本の矢を放つ。

革離の見事な腕前と、趙の狙いはあくまで燕であり、1ヶ月守りきれば必ず趙軍は撤退するという彼の言葉に、梁王は革離に軍の指揮権を与え、革離の元、趙との攻防戦が繰り広げられることとなる。

説明を最小限にした、いきなりのこの展開は娯楽作にふさわしい。ただ、そのあとの籠城戦は意外にも見せ場が少ない。時代的な制限や、すでにこの手の戦は描き尽くされているため目新しさがないということもあるだろうが、それにしてもなんとかならなかったのだろうか。

例えば、革離は梁城の模型を前に戦略を練る場面がある。こんなものがあるのなら、観客の説明にも利用すべきなのに、それが中途半端なのだ。現在の城と同じ寸法のものをもう1つ造るのも、ワクワクするような説得力がないため盛り上がらず、工事の過程が住民の結束力を高めたという程度にしかみえない。敵は必ず水源に毒を入れるだろうという予測には、城内に井戸を掘るという対策(それも言葉の説明だけ)で終わってしまうといった案配だ。集めた家畜の糞をまいておき火矢を防いだのにはなるほどと思ったが、アイデアとしてはあまりに小粒。中国お得意の人海戦術で、軍隊にあれだけの頭数を揃えてきたのだからそれに見合うものを用意してもらいたいところだ。

被害が甚大な趙軍は1度退却せざるをえなくなるのだが、逆にここから革離の苦悩がはじまることとなる。作戦が成功したことにより革離の人望が高まると、梁王や重臣たちの嫉(そね)みをかこち、指揮権を奪われて追放されるだけでなく、革離と親しくなった人々にまで粛正の手が及んでしまう。

戦術に秀でながら、政治にも愛にも疎いという革離なのだが、しかしここは墨家の徒として、戦術以外でも毅然たる態度を示してほしいのだ。いい年をして若造のように苦悩していたのでは、「墨攻」にまで論が進まないではないか。

親しくなっていた騎馬隊の女兵士逸悦には、一生お側にいたいと迫られるが、革離がはっきりしないでいると、兼愛を説くが愛を知るべき、と痛いところを突かれてしまう。彼女は革離を擁護する発言をしたことで、梁王に馬による八つ裂きの刑を言いわたされる。趙軍の熱気球(お、やるじゃん)による奇襲でそれはまぬがれるが牢が地下水路の爆発で水浸しになり、声帯を奪われていたため声が出ず、革離の救いの手が届くことなく悲惨な最期をとげる(ここの演出は少し間が抜けている)。

この話ばかりでなく、それ以前にも梁適の死、黒人奴隷、子団のラストシーンでの扱い(刀を捨て去っていく)など、盛り沢山の挿話のどれもが戦の虚しさを通して「墨攻」を語る要素であるのに、そうなっていないのは先に述べた通りである。

革離がただ1人でやってきたのは、案外彼の理想論が未熟だということを他の墨家が見抜いていたからとかねー(これについては墨家が要請に応じなかったという簡単な説明しかなかった。つまり、この説はまったくのでっち上げです)。

暴政で梁は5年後に滅びることや、革離が孤児と共に諸国を渡り歩き平和を説いたという説明はつくものの、映画は逸悦の死ばかりか、いやらしい梁王の勝利、と苦い結末で終わる。

 

【メモ】

「墨子」については、松岡正剛千夜千冊が参考になった。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0817.html 

革離の放った矢は格段に飛距離の出るもので、矢には工夫がしてあるのだが、この細工だと余計飛ばなくなってしまうのではないかと心配になってしまうようなもの。

妻子を連れて逃亡をはかる農民たちもいた。趙軍に捕まった彼らから、革離の存在が巷淹中の知るところとなり、革離との盤上の戦い(将棋のようなもの)が行われる。ただし、これは意味不明。単なる当時の儀式みたいなものか。

梁適は、革離が子団を弓隊の長に選んだことに反発し、2人の弓の争いとなる。

趙軍の奇襲で梁王は降伏。革離は民を救おうと城に戻り巷将軍との対決を演出するが、その巷将軍を梁王は非情にも矢攻めにしてしまう。

原題:A Battle of Wits

2006年 133分 シネスコサイズ 韓国、中国、日本、香港 日本語字幕:■

監督・脚本:ジェィコブ・チャン アクション監督:スティーヴン・トン 製作:ホアン・チェンシン[黄建新]、ワン・チョンレイ[王中磊]、ツイ・シウミン[徐小明]、リー・ジョーイック[李柱益]、井関惺、ジェィコブ・チャン 製作総指揮:ワン・チョンジュン、スティーヴン・ン、ホン・ボンチュル 原作:森秀樹漫画『墨攻』、酒見賢一(原作小説)、久保田千太郎(漫画脚本協力) 撮影監督:阪本善尚 美術:イー・チェンチョウ 衣装:トン・ホアミヤオ 編集:エリック・コン 音楽:川井憲次 照明:大久保武志
 
出演:アンディ・ラウ[劉徳華](革離)、アン・ソンギ[安聖基](巷淹中)、ワン・チーウェン[王志文](梁王)、ファン・ビンビン[范冰冰](逸悦)、ウー・チーロン[呉奇隆](子団)、チェ・シウォン[・懍亨・吹n(梁適)

僕は妹に恋をする

新宿武蔵野館1 ★★

■2人は禁断の恋に生きることを選ぶ

同じ高校に通う双子の兄妹の頼(松本潤)と郁(榮倉奈々)。小さい時から結婚を約束するほどの仲良しだったが、最近の2人は「頼に冷たくされるのに慣れた」という郁の独白があるように、どこかギクシャクしていた。同級生の矢野(平岡祐太)に告白されたものの、頼のことが好きでたまらない郁は、返事を先延ばしする(ひどい話だ)。

実は頼も郁がどうしようもなく好きで、そのことはとっくに矢野に見透かされていた。矢野に郁のことはあきらめないと言われたからかどうか、頼は郁に自分に嘘はつけないと迫り、関係を持ってしまう。

禁断の愛だけにそこに至るまでが難関と思っていたら、それはあっさりクリア。話は想いを確かめ合ってからのことに移る。もっとも内容は結ばれる前に予習済みであるはずの罪悪感といったものだ。母親(浅野ゆう子)も何かを察知するが、なんのことはない、彼女はもう1度だけ顔を出すがそれで終わりだ。

兄妹が恋愛感情になることが理解できないからかもしれないが(でも、双子となると? 生まれる前からずっと一緒、というセリフがあったけど、なるほどそこまでは考えなかったな。何か違うものでもあるのだろうか)、主役の2人よりは、郁に恋する矢野と頼に恋するこれまた同級生の楠友華(小松彩夏)の立場の方が私には興味深かった。

郁に好かれたいと想いながら、それは叶わないと諦念しているのか、お前がゆれたらお終いだと頼に説教する矢野って一体なんなのだ。あとの方でも妹だろうが誰だろうが、好きなんだったら自分の気持ちをごまかしてはダメだというようなことを言う。そんなカッコつけてる場合じゃないのに。

楠も頼と郁のことをわかってての恋(キスシーンまで覗いている)だから、矢野と似ている。どころか、郁に「兄妹でなんておかしい」と説教するだけでなく、頼には「郁の代わりでいいから」と、まるで近親相姦阻止が楠の使命かのような行動に出る。頼にしつこくつきまとい、彼から「好きでなくてもいいなら付き合う」という言葉を引き出し、関係を持つ(ラブホテルに誘ったのは頼だけどね)と、郁の前で頼と付き合っていることをバラしてしまう。去った郁を追いかけようとする頼に言うセリフがすごい。「殴っていいよ。嫌われているうちは、頼は私のものなんだから」

もっとも矢野と楠がいくら頑張っても、頼と郁の2人の世界には入っていけない。2人は仲直りをし、幼い時に「郁は僕のお嫁さんだよ」と頼が結婚宣言をした草原へと向かう。が、トンネルの先にあるはずのその場所は、造成地に変わっていた。

結末の付け方は誤解を招きそうだ。造成地を見て、2人はもう昔には戻れないことを知る。おんぶが罰のジャンケンゲームを繰り返したあと、「俺嘘ついちゃったな、郁をお嫁さんなんか出来ないのに」という頼。キスして、好きだと言い合って、手をつないで歩いて行くのだが……。

登場人物も少なければ、話も入り組んでいない。それが全体に長まわしを多用し、じっくりと人物を追うといった演出を可能にしている。でも、ここは他と違って性急だ。そう思ってしまったのは、2人は関係を清算するのだと解釈してしまったからなのだが、しかしよくよく思い返してみると、昔に戻れないことと、お嫁さんにはできないということは言っているが、2人の関係までをまるごと否定しているのではない。これはやっぱり自分たちの気持ちに嘘はつかないという決意表明としか思えない。

わからないといえば、もっとはじめの方で「私たちはどうして離ればなれになったのか」という郁に、頼が「俺は離ればなれになれてよかった、そのおかげで郁が生まれてきてくれたんだから」と答えている場面がある。2人は離ればなれになったことがあったのか。それとも2人にとっては、生まれてくることが離ればなれになることとでも。

双子の気持ちはわからんぞ。というのが1番の感想だから、矢野と楠が消えてしまうと、私にはとたんに冗長なものでしかなくなってしまう。仕方ないのだけど。

  

【メモ】

頼と郁は同じ部屋の2段ベッド(上が頼)で寝起きしている。母親の疑惑は頼と郁が学校に出かけたあとのベッドメイクから。同室なのは、母親が仕事を始めたのが遅いらしく(父親の不在についての言及はない)、本採用でないから(収入が少ないから)と本人が言っていた。

2006年 122分 ビスタサイズ PG-12 

監督:安藤尋 製作:亀井修、奥田誠治、藤島ジュリーK. プロデューサー:尾西要一郎 エグゼクティブプロデューサー:鈴木良宜 企画:泉英次 原作:青木琴美『僕は妹に恋をする』 脚本:袮寝彩木、安藤尋 撮影:鈴木一博 美術:松本知恵 編集:冨田伸子 音楽:大友良英 エンディングテーマ:Crystal Kay『きっと永遠に』 照明:上妻敏厚 録音:横溝正俊 助監督:久保朝洋
 
出演:松本潤(結城頼)、榮倉奈々(結城郁)、平岡祐太(矢野立芳)、小松彩夏(楠友華)、岡本奈月、工藤あさぎ、渡辺真起子、諏訪太朗、浅野ゆう子(結城咲)

ハミングライフ

テアトル新宿 ★☆

■習作メルヘン

洋服を作る仕事につくのだと上京したものの、面接に落ち続けてばかりの22歳の桜木藍(西山茉希)は、背にメロンパンはかえられぬ(蛙の置物にひかれて、か)と、通りすがりの雑貨屋でアルバイトをはじめることになった。そんなある日、雑貨屋の近くの公園で藍は、粗大ゴミと犬の餌の皿と、その持ち主?の野良犬(っぽくない)を、そして樹のうろには宝箱を見つける。中には可愛い犬の絵にHollow. What a beautiful would.と書かれたメッセージ。楽しくなった藍が返事を書くと……。

手紙は託児所グーチョキで働く小川智宏(井上芳雄)が書いたもので、いつもひとり託児所に残っているのは、仕事で帰りが遅いくせに子供に当たり散らす母親がいるせいなのか。だからって藍と智宏がまるっきりすれ違いってことはないはずなのに、ふたりは文通だけで名乗り合い、親交を深めていく。

樹のうろを通しての文通なんて大昔の少女漫画にもあったよなー。でも都会の公園の、そんな見つけやすい場所でさあ。オーナーの結婚話で雑貨屋が閉店になってしまうのに会わせたように、粗大ゴミの撤去があって、ドドンパ(ふたりが犬に付けた名前。ひでー)と宝箱も消えてしまう。ドドンパは保健所が捕獲してしまいそう(だから、犬だとまずくないか)だけど、宝箱が一緒になくなってしまうというのはどういうことなのだ。

ということで、お会いしませんかと書いた藍に、さっそくだけど明日の夕方6時に、という智宏の返事は、彼の一方的な約束となってしまう。すっかり綺麗になってしまった公園を前に、文通ができなくなって落ち込む藍だが、服が完成したらぜひ見たいという智宏の言葉を思い出して服作りに励む。雑貨屋では先輩だった後藤理絵子(佐伯日菜子)が訪ねてきて(恋も終わった、友達もいないと言ってた藍だったのにね)、服ができたらそれを持って就職先をあたれば、とうれしいアドバイスをしてくれる。

完成した服を着て藍が街に出ると、ドドンパという共通記号によって智宏と出会う、というのが最後の場面だ。

どこまでもほんわかメルヘン仕立て。別にそれが悪いというのではないが、どれも奥行きがない。そしてそれ以前に、細かいことを書いても仕方ないと思ってしまうくらい、すべてがまだ習作という範囲を出ていない。演技の点でも、西山茉希だけでなく、もうベテランのはずの佐伯日菜子までがヘタクソなのには閉口した。

ただ、文通の中で語られる智宏が作ったお話しは素敵だ。必要がなくなったからとギターを売りにやってきた青年に、質屋が曲を所望し、青年がそれで歌を歌うと、このギターを買えるほどのお金はない、という話はまあ普通(演出は最悪)だが、大きな木の下に残された青年の話はいい。

この青年は、実は前に木の下にずっといた少年に代わってあげたのだった。この子の存在はみんな知っていたのだけど、声をかける人はいなくて、青年はそのこと(無視していたこと)を気にしていた。少年は「ボクに話しかける人を待っていたんです」と言って、青年を残して行ってしまう。でも青年は代わってあげられたことがうれしくて仕方がない。大きな木だから雨が降っても大丈夫だし、おいしい実もなるし……というだけの話なのだけどね。

智宏は自分でお話しを作ったことに勇気づけられるように、子供を叱ってばかりの母親に「少しでいいんです。やさしくあげてほしいんです」と言うのだが、現実部分になるとしっくりこない。「この世界には様々な営みがあって……自分だけが気付く小さな小さな営み」に藍は惹かれているのだけど、だったら映画もそこにこだわって欲しかった。

2006年 65分 シネスコ

監督・編集:窪田崇 原作:中村航『ハミングライフ』 脚本:窪田崇、村田亮 撮影:黒石信淵 音楽:河野丈洋 照明:丸山和志
 
出演:西山茉希(桜木藍)、井上芳雄(小川智宏)、佐伯日菜子(後藤理絵子)、辛島美登里
(雑貨屋のオーナー)、石原聡(大きな木に残された青年)、坂井竜二(ギター弾きの男)、 里見瑶子、長曽我部蓉子、マメ山田、諏訪太朗(質屋)、秀島史香(声のみ)

不都合な真実

TOHOシネマズ六本木ヒルズ ★★★☆

■これだけの事例を取り上げながら、意外と楽観的!?

民主党クリントン政権下の副大統領で、2000年の大統領選挙では共和党のジョージ・W・ブッシュと激戦を展開し、「一瞬だけ大統領になったアル・ゴア」(これは彼の自己紹介)。彼は、自ら「打撃だった」と語る大統領選敗北のあと、「人々の意識が変わると信じて」地球温暖化問題のスライド講座を始め、米国のみならずヨーロッパやアジアなどにも足をのばし、すでに1000回以上の講演を行ったという。

それを記録したのが本作品だが、ゴアが出版物や放送などのメディアではなく、直接聴衆に語りかけるスタイルをとっているのが興味深い。選挙運動で培ったものなのかどうかはわからないが、人々の意識を変える方法としてこれが1番と思ったようだ。ゴアはもう大領党選には出馬しないようだが、このまま選挙用としても使えそうなデキである。

講座は、この14年間に暑さが集中していること、ほとんど消えてしまったキリマンジャロの雪、海水面の上昇、ハリケーンの大型化、多発する竜巻、モンバイで起きた24時間に940ミリという記録的大雨、溺死したホッキョクグマ、南極の棚氷の縮小……などの事例や予測が、ユーモアを交えた力強い、いかにも政治家らしい口調で語られている。格別目新しい情報というのではないが、スライドを効果的に使ったわかりやすいものになっている(ただし、字幕でゴアの解説とスライドの画面を追うのは大変で、日本人がより内容を知りたいと思うのなら、同時に発売された本を見た方がずっといいだろう)。

温暖化かどうかは、地球規模で考えると誤差の範囲内でしかないという見方もあるが、とはいえ近年の異常現象は人為的なものが大いに影響しているとみるべきで、だからやはり手は打たなければなるまい。

この映画が立派なのは(というか米国があまりにもだらしなさすぎるからなのだが)、米国の責任に言及していることだ。米国人の意識の低さは度を超しているからね(だからってこれを観て、日本は米国よりマシなんて思う人がでませんように)。そしてその矛先は当然ブッシュにも向けられる。ブッシュの側近が気象報告を改竄したのは、彼らがそこに「不都合な真実」を発見したからだ、とはっきり言っていた。巻頭では「政治の問題ではなくモラルの問題」のはずだったのだけど、ここだけは譲れなかったのだろう。

そしてゴアらしいというか、やはり元政治家であり米国人だなと思うのは、正しい温暖化対策を講じさえすれば、それは防げるし経済も発展すると思っているようなのだ(私自身は悲観的。努力はしているつもりだが)。オゾンホール対策の時のようなことができる(フロン削減は実現できたが、だからって間に合ったかどうかはまだわかっていないのだ)はずだとも言っていた。そして、それを米国の民主的プロセスを使って変えよう。危機回避を提案している議員に投票を。ダメなら自ら立候補しよう、と繰り返す。

ゴア自身について語られていた部分も多い。そもそもゴアがどうして環境問題に本気で取り組むようになったかというと(政治家としての関わりは相当古いらしいが)、それは1989年に起きた6歳の息子の交通事故がきっかけという。その時、当たり前の存在(地球)を子供たちに残せなくなることの危機感を強く感じたらしい。

また、豊かな少年時代を送ったゴアであったが、10歳年上の姉がタバコによる肺ガンで亡くなったこと。そのことで父親は家業のタバコ栽培をやめたという話もあった。

この映画を観た誰しもが「あの選挙でゴア氏が当選して大統領になっていたら」と思いそうだが、あ、でもゴアも昔はブッシュのイラク戦争を認めていなかったっけ(記憶が曖昧)。ま、それでもブッシュよりはずっとマシだったろうけどね。

(070228追記) アカデミー賞の「最優秀長編ドキュメンタリー賞」に輝いたのは何はともあれ喜ばしい。新聞によると、授賞式でゴアは「政治の問題ではなくモラルの問題」と映画にあったメッセージを繰り返していたようだが、これは政治を信じている映画としか思えないのだけど。大統領選の立候補もきっぱり否定とあるが、自ら立候補しろって言っていてこれではな。

(070401追記) 2001年11月12日付の朝日新聞夕刊に「ゴア氏、今ごろ大統領だった 激戦のフロリダ 報道機関が州票再点検」という記事があった(今頃こんな古い新聞を見ているというのがねー)。そこには「調査結果について、ゴア氏は、『昨年の大統領選は終わっている。現在、わが国はテロとの戦いに直面しており、私はブッシュ大統領を全力で支える』と語った。」と書かれている。

 

【メモ】

「エコサンデーキャンペーン」:日本テトラパック株式会社のサポートで500円で鑑賞できた。「地球温暖化」へのメッセージを一人でも多くの方にご覧頂きたく実現した画期的な企画です!-とのことだ。TOHOシネマズ六本木ヒルズ、TOHOシネマズ川崎、TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、ナビオTOHOプレックス、TOHOシネマズ二条の5館だけだが、1月21日から2月11日までの4回の日曜日に実施された。

第79回アカデミー賞2部門受賞。「最優秀長編ドキュメンタリー賞」「最優秀歌曲賞
“I Need to Wake Up” byメリッサ・エスリッジ(Melissa Etheridge)」

原題:An Inconvenient Truth

2006年 96分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平+(世良田のり子)

監督:デイヴィス・グッゲンハイム 製作:ローレンス・ベンダー、スコット・Z・バーンズ、ローリー・デヴィッド 製作総指揮:デイヴィス・グッゲンハイム、ジェフ・スコール 編集:ジェイ・キャシディ、ダン・スウィエトリク 音楽:マイケル・ブルック
 
出演:アル・ゴア