ヤッターマン

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★★☆

■隠し味は変態

元アニメ(注1)を知っている人はきっと得意顔で、この実写版映画のデキ(というよりも似てたり違っているところ)を延々と語るんだろうな。映画を観ていたら私もそうしたくなったのだけど、『ヤッターマン』については、それこそ題名を聞いても何の感慨も湧かないくらい完璧に知らないのだった。くやしー。

だってものすごくくだらないのに(くだらなくて、だな)面白かったんだもの。予告篇で、あれ、これ、もしかしたら私向きかもとは思っていたが、観て、やっぱり、楽しいじゃん、だったのだ。

玩具店(注2)の息子のガンちゃんはガールフレンドの愛ちゃんとヤッターマン1号、2号になって、ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーのドロンボー一味と日夜戦っている(注3)。ドロンボー一味はドロンジョが一応リーダーだが、自称「泥棒の神様」のドクロベエにいいように使われていて、失敗すると、というか必ず失敗して「お仕置き」になるらしい。

今回は、四つ揃うと願いが叶うというドクロストーンの争奪戦。話はありきたりでいたって単純。でもないか、愛憎劇という側面もあるから。単純に見えるのは話の繋ぎが乱暴で、面倒と思われるところは、ちゃっちゃっちゃと端折った説明ですましちゃっているからだ(いきなり「説明しよう」と言って、解説を始めちゃったりもする)。

まず先に愛憎劇について語ると、ドロンジョがヤッターマン1号に恋してしまうというもの。もっとお高くとまっているのかと思ってたので、ドロンジョの恋心が可愛いくみえた(ドクロベエに責められて初恋だと告白していた)。「物を盗むのが大事な女から一番大事なものを盗んだ。盗んだのは許さない。おまえ(ヤッターマン1号)の心を盗ませてもらうよ」はセリフ優先にしても、彼女の夢が好きな人の奥さんになって子供を産むことだとは。これは深田恭子をもってきたことによる変更なんだろうか(いや、別にどうでもいいんだけどさ)。

1号もまんざらではないから2号は面白くないし、ドロンジョは恋の成就のため2号をやっつけようとする。ここに至って1号は「ヤッターマンは二人で一人」(と言われてもよくわからないのだが、そういう決まりなんだろう)ということに気づき、二人のキスシーンとなる(偶然成り行きとはいえ1号はこの前にドロンジョとキスしているのだ)。ここいらも端折りなんで、あれまあ展開。だいたい1号は節操がないし(この件については後述)、この映画では全然魅力がなくて、これでいいのかと思ってしまうくらいなのだ。

で、ドロンジョはふられてしまうのだけど、ドロンジョに秘めた(?)想いを抱いていたボヤッキーはうれしいような悲しいような。ドロンジョには追い打ちをかけるように友達宣言までされてしまって泣きたい気分。これとは別に、ドクロベエまでがドロンジョを我が物と思っていて、端折りあっさり進行にしては複雑。ドロンジョが絶世の美女という設定にしても毎回こんなことを繰り返していたのかしらね。

ドクロストーンの争奪戦に話を戻すと、一つ目のドクロストーンを娘の翔子に預けた海江田博士は、二つ目を探しに行ったきりになっていて、翔子は父に会いたいと1号と2号に助けを求める。

海江田博士が消息を絶ったというオジプトでは、翔子がサソリに刺される注目の場面があって、1号の節操のなさが露呈する。翔子の腿から血を吸い出すのに、1号は「じゃまだ」と2号を突き飛ばしてしまう(順番としてはドロンジョとのキスの前)。今回あんまりパッとしない1号を庇うまでもなく、これは監督か脚本家の趣味なんだろう。

まあ、そんなふうな流れの中で、ドロンボー一味が「セレブなドレス」や「どくろ鮨」の阿漕な商売で金を儲けては(注4)新兵器を開発し、ヤッターマンの方も一週間のうちに次なる「今週のビックリドッキリメカ」をヤッターワンに仕込んで(たんに「メカの素」と投げるだけなのか?)の対戦をはさんで、映画はクライマックスに突入していく(私の説明もだけど、元が大雑把なのよ)。

ドクロベエは海江田博士の体に取り入ってすでに一体化していて、さらには集まりだしたドクロストーンの影響で時空がゆがみだしたものだから、それを利用して(未来にも過去にも行って)好きなものを盗めるようになろうとするが、そのことで神にもなれると失言し、つまり現状は神でもなんでもないことがバレてしまい、ドロンジョの反撃に合う。

1号はここでもドクロベエと戦えるのは翔子ちゃん一人とか言ってるだけで、どうにもたよりない。2号がドロンジョを助けてドクロベエの野望も潰える、って続篇(最後に予告していたが、どこまで本気なんだろ)ではもう出てこないのかしらね(キャラクターとしては特にどうってこともなかったのでいいんだけど)。

こうやって書いてしまうと何ていうこともないのだが、阿部サダヲ(海江田博士)の顔を振りながら二人芝居が秀逸で、おかしさがこみ上げてくる。が、どうしようもなくいいのはボヤッキーの生瀬勝久で、これには誰も異論がないだろう。が、他は役柄に馴染んでいたのかどうか。

岡本杏理の翔子も添え物で終わっていたが、監督のオモチャにされていた部分はすごすぎる。1号に腿を吸われてしまう場面もだが、ヤッターワンや岩場にしがみついている姿では必ずガニ股にされていた。ドロンジョのお色気路線に、おっぱいマシンガンやおっぱいミサイルなど、こういうのも『ヤッターマン』のお約束なんだろうけど、翔子に関しては変態路線っぽい。いやー、ごくろーさんでした。

あとところどころでしまりがなくなるが、まあドロンジョからして最初の戦いで勝利に酔って自爆装置を押してしまうお間抜けキャラなんで、そうなっちゃうのかなぁ。なにしろ、背景に出てくる歯車など、そもそも噛み合ってもいないのに動いているのだから。

最後になったが、メカの造型が素晴らしい。寺田克也の名前を見つけたのはエンドロールでだが、私の場合、こういう部分のデキで好き嫌いを決めてしまうんでね。

注1:『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』は1977年(昭和52年)から1979年にわたってフジテレビ系列で放送されたタツノコプロ制作のテレビアニメ。2008年1月14日からはそのリメイクアニメ『ヤッターマン』が日本テレビ系列で放送されている。こちらは読売テレビとタツノコプロの制作。

注2:高田玩具店は駅前にあって、これが秘密基地。堂々とした秘密基地で、人がいるのもものともせずヤッターワンが出撃していく。駅前は、蒸気機関車のある新橋駅に似ていた。

注3:実は週一。アニメ放映に合わせてそう言ってたのね。こんなところも映画ではそのまま使っているようだ。「ヤッターマンがいる限り、この世に悪は栄えない!」と言うわりには、毎週ドロンボー一味(だけなの?)に手を焼いていたってことになる。

注4:阿漕商売はうまいのだから、ここでやめておけばいいのに。それに毎回資金稼ぎ部分では成功しているということは、ヤッターマンはちっとも庶民の味方になっていないわけで……。

 

2008年 111分 シネスコサイズ 配給:松竹、日活

監督:三池崇史 製作:堀越徹、馬場満 プロデューサー:千葉善紀、山本章、佐藤貴博 エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、由里敬三 製作総指揮:佐藤直樹、島田洋一 原作:竜の子プロダクション 脚本:十川誠志 撮影:山本英夫 美術:林田裕至 編集:山下健治 音楽:山本正之、神保正明、藤原いくろう CGIディレクター:太田垣香織 CGIプロデューサー:坂美佐子 スタイリスト:伊賀大介 メカ&キャラクターデザインリファイン:寺田克也 音響効果:柴崎憲治 整音:中村淳、柳屋文彦 装飾:坂本朗 録音:小野晃、藤森玄一郎 助監督:山口義高 キャラクタースーパーバイザー:柘植伊佐夫

出演:櫻井翔(ヤッターマン1号/高田ガン)、福田沙紀(ヤッターマン2号/上成愛)、深田恭子(ドロンジョ)、生瀬勝久(ボヤッキー)、ケンドーコバヤシ(トンズラー)、岡本杏理(海江田翔子)、阿部サダヲ(海江田博士)
声の出演:滝口順平(ドクロベエ)、山寺宏一(ヤッターワン、ヤッターキング)、たかはし智秋(オモッチャマ)

酔いどれ詩人になるまえに

銀座テアトルシネマ ★★★

■書くことにおいて選ばれし者

説明のしにくい映画は、好きな作品が多いのだけど、これはどうかな。かなり微妙。だって、やる気のない男のだらしない生活、それだけなんだもの。それにその生活は私の理解を超えたものだし。

けれど、こういうだらしない生活は、できないからではあるが、どこか憧れてしまうところがある。だからなんだろう、気分でみせるような映画なのに(そこがいいのかもね)意外と客の入りがいいのには驚いた。2005年作品を今頃公開するのは、配給会社も悩んでいたんだろうけど、ちゃんと需要はあるみたいだ。

飲んだくれては失業を繰り返すチナスキー(マット・ディロン)だが、バーで知り合ったジャン(リリ・テイラー)をはじめ、女には不自由しないようだし、ある時期などよほど運がついていたのか競馬の天才ギャンブラー「ミスタービッグホースプレイヤー」(これはジャンの言葉)となって、高級な靴と服できめまくる。

もっとも「小金を稼いだらすっかり別人」とジャンには不評で、そのせいかどうか2人は別れてしまう(形としてはチナスキーがジャンをふっていたみたいだが)。

ジャンの生き方もチナスキーに負けないものだ。先のことなど考えずにセックスにあけくれる方がいいのだろうか。理解不能なのにこんな2人がなんだかうらやましくもなってきて、やっとよりを戻したのにまた別れるときけば、それはそれで悲しくなるし、ジャンが結局は生活のために好きでもない男(競馬場でチナスキーと一悶着あったヤツじゃないか)と暮らしている場面では目をそむけたくなった。

チナスキーはローラ(マリサ・トメイ)という女との縁で金持ち連中の道楽仲間になったりもするのだが、基本的には惨めすぎる毎日の繰り返しだ。2日でいいから泊めてもらえればと家に帰れば、母は黙って食事を出してくれるが、父親にはすぐ追い出されてしまう。

こんなどん底生活でも、チナスキーには言葉があふれ出てくるらしい。ノートに、メモ帳に、紙切れに、それこそ気が付くと何かを書き綴っている姿が描かれる。凡人には書く行為はなにより苦痛を伴うし客観的な視点だって生まれてしまうから、チナスキーのような生活を送っていて、なおかつ書くというのは、信じがたいものがあるのだが、なにしろ彼には「言葉が湧き上が」ってくるのだ。

きっとチナスキーは選ばれし者なのだろう。それを自覚しているからこそ、週に2、3本も短篇や詩をニューヨークタイムズに投稿し続け、職業を尋ねられれば作家と名乗っていたのだ。なにしろ「言葉を扱う能力に自信がなくなった時は、他の作家の作品を読んで心配ないと思い直した」というんだから。なにが自信がなくなっただか。

それとも「言葉が湧き上が」ってくると言っていたのは照れなのか。自分の才能を信じ、努力を怠らなかったからの、最後の場面の採用通知なのかもしれないのだが。でも凡人の私には「愛なんていらない」と、毛虱をうつされた仲のジャンに言ってしまう部分がやっぱり気になってしまうから、選ばれし者にしておいた方が安心なんである。

これが作家の修業時代さ、と言われてしまうと、いやそうは言ってないんだけど、どうもねー。

  

原題:Factotum

2005年 94分 ビスタサイズ アメリカ、ノルウェー 配給:バップ、ロングライド 日本語字幕:石田泰子

監督:ベント・ハーメル 製作:ベント・ハーメル、ジム・スターク 製作総指揮:クリスティン・クネワ・ウォーカー 原作:チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』 脚本:ベント・ハーメル、ジム・スターク 撮影:ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド プロダクションデザイン:イヴ・コーリー 衣装:テラ・ダンカン 編集:パル・ジェンゲンバッハ 音楽:クリスティン・アスビョルンセン、トルド・グスタフセン

出演:マット・ディロン(ヘンリー・チナスキー)、リリ・テイラー(ジャン)、マリサ・トメイ(ローラ)、フィッシャー・スティーヴンス、ディディエ・フラマン、エイドリアン・シェリー、カレン・ヤング

夕凪の街 桜の国

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■「原爆」は生きている

戦後62年、繰り返されてきた原爆忌の式典。6月30日のしょうがない久間発言で、今年は注目度が増したが、広島や長崎から遠いところにいる私にとって、新聞には1面に載っていても片隅にある記事程度になっていた。しょうがない発言のひどさには驚いてみせたけれど、意識の低さの点では私もそうは変わらなさそうだ。

これまでも広島の原爆を扱った作品にはいくつか出会い、その度に当時の悲惨な状況を刻み込まれてはきたが、この作品ほどそれを身近に感じたことはなかった。別に以前に観た作品を貶めるつもりはないのだが、総じて原爆の脅威を力ずくで描こうとするきらいがあったように思う。が、この映画は、銭湯の女風呂を覗いたら、そこにはケロイドの女性たちが何人もいた(実際に出てくる場面だ)というように、日常の少し先(もちろんこれは私という観客にとっての認識で、被爆者にとってはそれが日常なのだが)に、原爆がみえるという作りになっている。

2部構成の最初にある『夕凪の街』は、昭和33年、原爆投下後13年の広島を舞台にしている。26歳の平野皆実(麻生久美子)は、海岸沿いのバラックに母のフジミ(藤村志保)と2人暮らしだ。父と妹の翠を原爆で失い、弟の旭(伊崎充則)は戦争中に水戸の叔母夫婦の元に疎開し、そまま養子となっていた。

皆実は会社の打越豊(吉沢悠)から好意を持たれ、皆実も打越のことが気になっていたのだが、いまだに被爆体験が皆実を苦しめ、自分が生きていること自体に疑問を感じていた。被爆時に倉庫にいたため助かった皆実だったが、そのあと巡り会った妹の翠をおぶってあてどなく市内をさまよううちに、翠は皆実の背中で死んでしまう。13歳の皆実にとって決して忘れることのできない思い出だった。この話は本当に悲しい。大げさな演出でなく、皆実が翠をおぶって歩くのを追うだけなのだが、この時の皆実の気持ちを考えたら何も言えなくなってしまう。

生きていることが疑問の皆実にとって、打越の愛を受け入れることなど考えられないことだった。自分は幸せになってはいけない、と思いこんでいたのだ。そんな皆実だったが、打越の真剣な想いに次第に心を開いていく。が、突然原爆による病魔が彼女を襲う……。

私の説明がヘタなので暗い話と思われてしまいそうだが、磨り減るからと、家の近くの河原の土手にくると靴を脱いで帰る皆実が、なんだか可愛らしいし、なにより2人の昔風の恋がいい感じだ。農家出の打越に雑草のおひたしか何か(よくわからん)を出してしまったり、会社の同僚のために、やはり会社の2階からのぞける洋品店の服を真似て型紙(作ったのはフジミだが)をプレゼントしたり、と貧乏なんてへっちゃらの昭和30年代が微笑ましく描写されている。

昭和33年は『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じ設定だが、片や東京タワーが完成しつつあるというのに、広島ではまだ戦争の影がケロイドが消えないように残っているのだ。皆実の住むバラックの近くにも不法占拠地らしいことがわかる立看があったり、私が単純になつかしいさを感じてしまう光景であっても、住んでいる場所や立場で、当然のことだが実際はずいぶんと違うものなのだろう。

ここから第2部の『桜の国』は、平成19年の東京へと飛ぶ。石川七波(田中麗奈)が、定年退職した父の旭(堺正章)の最近の様子がおかしいことを弟の凪生(金井勇太)に相談していると、その旭が家を抜け出していくではないか。旭をあわてて追いかける七波。何も持たずに家を出てしまった七波だが、駅でちょうど幼なじみの利根東子(中越典子)と出会い、彼女に言われるままに、一緒に旭の後を付けることになる。

1部から内容ががらっと変わってサスペンスもどきの展開になるのは、現代風なイメージとなっていいのだが、旭が黙って家を出る理由くらいは説明しておくべきではないか(最後に七波の尾行には気付いていたというのだから余計だ。その時今度の旅が皆実の50回忌という意味合いがあったことがわかるのだが、であればやはり何も言わないで出かけることはないだろう)。堺正章もはじまってすぐは旭役にうってつけと思われたが、残念なことにあまり役に合っていなかった。

予想外のところでつまずきをみせるものの(ま、たいしたキズじゃないからね)、3人を乗せた夜行バスが広島に向かったことで、1部との繋がりから、若き日の旭の恋に、七波の母京花(粟田麗)の死、そして凪生と東子の恋までが明らかになっていく構成は見事だ。第2部の途中からは、旭が巡る皆実の思い出の地や旧友にだぶるように、七波が過去の映像に登場し(つまり過去に想いを馳せているわけだ)。第1部と第2部が自然融合した形にもなる。そしてそれは母の死の場面なども七波に呼び起こすことになる。

ただ、それらを繋ぐのがすべて「原爆」というのだから、途方もなく悲しい。けれど、その悲しさの中にある美しいきらめき(3つの恋)をちゃんとフィルムに定着させているのは素晴らしい。皆実と打越は、皆実の自責の念と死。旭と京花は、思わぬフジミの反対。凪生と東子には東子の両親が壁となる。3番目のはまだまだこれからだけど、死以外のことならなんとかなりそうだと思えてくる。

静かな作品だが、皆実には強烈なことを言わせている。水戸から戻った旭に久しぶりに対面したというのに(皆波の死期が近づいて駆けつけたのだろう)、原爆は広島に落ちたんじゃなく、落とされたのだと断固として訂正する。そして、自分の死を悟って、あれから13年も経ったけど原爆落とした人は私を見て「やったぁ、また1人殺せた」って思ってくれてるかしらとも。広島弁をうまく再現できなし、ちゃんと聞き取れたか不安なのだが、この言葉の前には「うれしい」とも言ってるのだ。

これは当然、原爆を落とした人間に聞いていることになるのだが、大量虐殺兵器使用者への使用したことへの怨念(には違いないのだけど)というよりは、殺そうと思った人間の1人1人が何をどう感じていたかなんて、今となってはもう何も考えてなどいないでしょう、と言っているようにみえた。

あと気になったのが、広島で東子の気分が悪くなって七波と一緒にラブホテルに行く場面。細かいことだがラブホの看板が遠くて、これなら茶店でもよかったのではないかと思ってしまう。この場面自体はいいアクセントになっているから余計残念だ。旭の家出場面同様いくらでも説明の仕方がありそうだからもったいなかった(困ったらすぐそこに入口があったくらいにしておけばね)。

ところで、題名の『夕凪の街』が広島で『桜の国』が東京なのはわかるのだが、映画だと桜の国は、七波がまだ元気だった京花(彼女は被爆時に胎児だった)もいる4人が暮らした団地を特別に指しているようにとれたのだが……。

  

【メモ】

原作のこうの史代の同名マンガは、平成16年度文化庁メディア芸術賞マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。

2007年 118分 ビスタサイズ 配給:アートポート

監督:佐々部清 製作:松下順一 プロデューサー:臼井正明、米山紳 企画プロデュース:加藤東司 原作:こうの史代『夕凪の街 桜の国』 脚本:国井桂、佐々部清 撮影:坂江正明 美術:若松孝市 音楽:村松崇継 照明:渡辺三雄

出演:田中麗奈(石川七波)、麻生久美子(平野皆実)、吉沢悠(青年時代の打越豊)、中越典子(利根東子)、伊崎充則(青年時代の石川旭)、金井勇太(石川凪生)、田山涼成(打越豊)、粟田麗(太田京花)、藤村志保(平野フジミ)、堺正章(石川旭)

善き人のためのソナタ

シネマライズ(地下) ★★★★

■監視しているだけではすまなくなった男の物語

東独崩壊の5年前(1984年)から始まる国家保安省(シュタージ)という秘密警察・諜報機関にまつわる映画だが、監視という低俗かつスリリングな部分の興味だけでなく(これだけでも十分面白いのに)、物語としての工夫もちゃんとあって、堪能させられた。

国家保安省のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は上司のグルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)に劇作家で演出家のゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の盗聴による監視を命じられる。そもそもドライマンの監視に対しては、彼はシロだから墓穴を掘ることになると乗り気でなかったグルビッツだが、ヘムプフ大臣の人気女優でドライマンの同棲相手でもあるクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)狙いという思惑で、急遽実行に移されることになる。

この屋根裏での盗聴を通して、体制派だったヴィースラーが、何故か次第にドライマンとクリスタの2人を擁護する行動に出る、というのが映画の見所になっている。盗聴者のできることなど、限られているはずなのだが……。

ここで効果を上げているのがヴィースラーの無表情だ。彼がどうして、あるいはいつ、そういう気持ちになったのかはもうひとつよくわからないのだが、彼の内面が見えにくいことが薄っぺらな理解を排除しているし、ついでに心変わりを推理する楽しさまで提供してくれているのである。

車に誘い込み強引に関係を結んだクリスタを目撃させるために、ベルを誤作動させてドライマンをアパートの下に向かわせるとは、まったくいけすかない大臣の考えそうなことだが、ヴィースラーもこの時点では、単純にこれから起きる事件を面白がっていたようにみえる。

イェルスカという今では目を付けられて干されている演出家がドライマンに贈ったブレヒトの本をヴィースラーが持ち出して読んでいるのはそれから間もなくのことで、さらにこれもイェルスカが贈った楽譜「善き人のためのソナタ」を弾くシーンでは「この曲を本気で聴いた者は悪人になれない」という説明がつく。しかしその直前に、ヴィースラーは本の贈呈者イェルスカの死(自殺)を聴いている。音楽が変節の契機になるというのは話としては出来すぎで、だから私は本とイェルスカに影響を受けたのだと判断した(もちろん、それだけでなくドライマンを取り巻くいろいろな事柄からなのだろうが)。

事情を知ったドライマンと、大臣の所に行こうとするクリスタとで口論になるのだが、ヴィースラーの盗聴は部下のライエ軍曹との交代時間になってしまう。ヴィースラーはいても立ってもいられなくなり(観客も同じ気持ちにさせる)、近くのバーで飲み始めるのが、そこにクリスタがあらわれる。クリスタを翻意させるのに使った「あなたのファン」という言葉は、観ている時には方便なのだろうと思ったのだが、今となってみるとファンというのは本当だった可能性もある。

次の日、「いい報告書だ」と交代するライエを褒めるヴィースラー。そこには「クリスタが戻り、ドライマンは喜びに包まれ激しいセックスが続いた……新しい作品を生む創作意欲が……」と書かれていた。

イェルスカの自殺も大いに影響したのだろう、ドライマンは東ドイツで多発している自殺についての文章を書き、西側の雑誌に匿名で発表する。この時盗聴の有無を調べようとして、ドライマンたちがガセネタを流して当局の動きを知ろうとする場面があるのだが、ここでもヴィースラーは、今日だけは見逃してやるなどと言っているのだ。しかし、その一方でドライマンたちの行動に不審を感じたライエに、彼らは台本を書いているだけだと言いくるめ、余計な詮索をしないよう釘を刺す。

薬物を常用しているクリスタは、その入手にかかわって捕まり、脅かされ、雑誌の記事はドライマンが書いたことを認めたため、家宅捜査となるが、何も見つけられずに終わる。盗聴しながら見破れなかったヴィースラーの立場は悪くなるが、優秀な尋問者だった彼にはチャンスが与えられる。

尋問で対面したヴィースラーのことをクリスタが覚えているかどうかという興味もあるが、それには触れることなく、ヴィースラーは証拠のタイプライターの隠し場所をききだすことに成功する。が、なんとそれを持ち出してしまう。彼に先回りする時間があったのはおかしい気もするが、とにかくドライマンは罪を問われずにすむ。が、自責の念にかられたクリスタは、ふらふらとアパートから外に出たところで車に轢かれてしまう。

ヴィースラーにも疑惑は向けられ、地下室での郵便物の開封作業が彼の仕事となる。これから20年という脅しはあったが、彼への疑惑が曖昧なままですんでしまったのは、クリスタの死で大臣の興味が他に移ってしまったからだろうか。

このあとは5年後にベルリンの壁が崩れ、ドライマンがある舞台で大臣に会い、盗聴の事実を知るくだりへと進む。盗聴が本当なら彼が無事なはずはなく、そのことは当人が1番よくわかっていることなのだ。しかし、大臣は監視を認め、アパートの電灯スイッチを調べればわかることだと言う。そして、さらに情報公開されたファイルをめくるうちに、ドライマンは「彼の単独行動は信用するな……昇進はやめ、M室の勤務に……」という男の存在を知ることになる。

ドライマンは男を捜し出すが結局声をかけることなく、今度はさらに2年後に、郵便配達中のヴィースラーが、劇作家ドライマンの新作の広告を目にすることになる。彼が書店で『善き人のためのソナタ』という本を手にし、表紙をめくるとそこには……。

店員に贈答ですかときかれ、いや私のための本だ、と答えるヴィースラーがちょっと誇らしげになるのだけれども、それをうれしく感じてしまった私は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督(脚本も)にしてやられたことになる。

先にヴィースラーの変節はイェルスカの影響が大きいのではないかと書いたが、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』の中では、それはきっと曲の演奏になっているのではないか。まあ、どうでもいいことなんだけど。

繰り返しになるが、やはりこの映画ではヴィースラーの描き込みが素晴らしい。彼は巻頭では、尋問の教官として生徒に自分の尋問風景を撮影したものを見せている。生徒のひとりがそれをあまりに非人道的と発言すると、その生徒の名前にチェックをするような男なのだ。

また自宅に娼婦を呼んでいる場面もある。娼婦にもう少しいてくれとヴィースラーは言うのだが、彼女は時間厳守だと帰ってしまう。これだけの場面なのだが、表情を変えない彼の孤独感がよく出ていた。表情を変えないからかどうか、子供にはシュタージの人で、友達を刑務所に送る悪い人だとも言われていたが、彼は傷ついていたのだろうか。そういえば、これはソナタを聴いたあとのことだったが……。

【メモ】

第79回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞受賞

原題:Das Leben der Anderen(他人の人生)

2006年 138分 シネスコサイズ ドイツ 日本語字幕:古田由紀子 監修:高橋秀寿

監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 製作:クイリン・ベルク、マックス・ヴィーデマン 撮影:ハーゲン・ボグダンスキー 衣装:ガブリエル・ビンダー 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
 
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)、ウルリッヒ・トゥクール(グルビッツ部長)、トマス・ティーマ、ハンス=ウーヴェ・バウアー、フォルカー・クライネル、マティアス・ブレンナー

ユメ十夜

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■松尾スズキのひとり勝ち

漱石の『夢十夜』を10組11人の監督で映像化。映画にはプロローグとエピローグもあるが、これだけテンでバラバラなものを無理にくくる必要があったとは思えない(とやかくいうほどのことではないのだが)。

原作は400字詰で50枚程度のもので、映画も1話にして10分少々の計算になる。尺も短いし、なにしろ夢なのだからと割り切れるからか、料理方法は自在という感じで実に楽しめた。

ただ、しばらくするとその印象は驚くほどあせてしまう。1度に10話ということもあるし、いくら凝った画面を創り出しても所詮断片だからか。ま、そういう意味では記憶に残らない方が私には夢らしくみえる(そうでない人もいるかもしれないが)。

原作で面白かったものが映画でも面白かったのは、自在に料理しつつ、とはいえやはり原作に囚われてしまったからなんだろうか。

[第一夜] 妻のツグミは「100年可愛がってくれたんだから、もう100年、待っててくれますか?」と言って死んでしまう。何度も時間が逆行しているイメージが入る。なのに作家の百聞は、100年はもう来ていたんだな、と言う。実相寺昭雄(遺作となった)の歪んだり傾いた映像もこのくらいの時間だとうるさくなく、時間の歪みと相対しているようで効果的だ。外に見えるメンソレータムの広告のある観覧車が安っぽいのだけど、あんなものなのかも。松尾スズキが百閒……イメチェンだ。

[第二夜] モノクロ(短刀の鞘は赤になっている)、サイレント映画仕立て(音はある)。侍なら悟れるはずと和尚に挑発された男が受けて立つが、無とは何かがわからぬまま時間が来てしまう。切腹も出来ずにいると、それでいいのだと言われる。字幕説明ということもあり原作に近い感じがする。が、原作がひとり相撲的なのに、こちらは対決ムードが強い。「それでいいのだ」という救いはあるが、それでいいのかとも。

[第三夜] 子供を背負っていると、その子の目が潰れる。「お父さん、重くない。そのうち重くなるよ」と言われるが、逃げ場などない。そうして言われるがままに着いた先で、自分は人殺しで、子供だった自分を殺したのだと知る。殺した対象が100年前の1人の盲から28年前の自分になっていてよりホラー度が強くなっているが、映像は怖さでは文字にかなわない。6人目の子を身籠もっている鏡子に、子をあやして背負う漱石の部分は、付け足しながらうまい脚本なのだが。最後に「書いちゃおー」とおどけさせなくってもさ。

[第四夜] バスで講演にやってきた漱石だが、そこは何故か面影橋4丁目だった。「見てて、蛇になるから」と言う老人に子供たちが歌いながらついていく。漱石も後を追いながら、昔転地療養をしていた所と思い出す。飛行機が超低空でやってきて爆発する。イメージはバラバラながら、くっきりしたものだ。最近行ったばかりの佐原市の馬場酒造がロケ地として出てくるせいもある。私も子供の頃、蛇になるところ(むろん別のことだが)がどうしても見たくてしかたがなかった記憶がある。この感覚がひどく懐かしい。映画は神隠しをブーメランの笛吹に結びつけているようだ。「夢って忘れちゃうんですよね」(と言って正の字を書いていた)。ですね。

[第五夜] 原作もだが、映画はさらにわからない。「夜が明けて、鶏が鳴くまで待つ」という夫からの電話を受けた側の妻の話にしている(森の中で事故を起こした車に乗っていた夫婦が見た夢)。もうひとりの自分の醜い姿を認めろといっているのが、どうも。あ、でも夫もいいねと言ってました。勝手にしろ。馬に乗る市川実日子に包帯女のイメージははっきり残っているのだが。

[第六夜] ダントツの面白さ。原作でもこれが1番好きだ。仁王を彫る運慶を見た男が、自分にも出来るような気がして挑戦するが、出てきたのは木彫りの熊だった。TOZAWAが披露するアニメーションダンスがとにかく素晴らしいのだが、このオチがいい。何も出てこないどころか、木彫りの熊!とは。うへへ。でも「結局彫る人間にあったサイズのものしか埋まっていない」という解説は(石原良純も)必要かどうかは。

[第七夜] アニメ。特に絵柄が好きというのではないし、原作と同じくらい退屈。巨大な船で旅をしている青年が、自分の居場所を見つけられなくて海に飛び込むまでは同じだが、男が感じるものはまったく逆で、世界って広いんだなというもの。英語のセリフにした意味がわからない。

[第八夜] 床屋の鏡越しに見えた幻影を、子供が巨大なミミズのような生物を捕まえて育てる話に変えている。原稿用紙を前に悩む41歳の漱石。塀の向こうで、女の子たちに「鴎外せんせー」と言われてしまう。よくわからん度はこれまた原作に同じ。

[第九夜] 赤紙が来て戦争に行った夫のためにお百度参りをする妻。死んでいたことを知らずに続けているのが原作なら、こちらは浮気を受け入れられないという意思表示か。子がその扉を開ける。夢らしくない。

[第十夜] 女にたぶらかされて豚に鼻を舐められる話を、ブスは死んで当然と思っている色男が美女に化けたブタの怪物に仕返しされる話に改変している。理屈は付いたが、わかったとはいいずらい。不思議なイメージが消えてしまったのは残念だが、私の見る夢も悪ノリしていることが多いからね(こんなに下品ではないよ)。女に案内された豚丼しかない食堂で、その豚丼のおいしさにはまるが、豚丼のだし汁は汗で、痰入りというおぞましいものだった(豚丼ではなくハルマゲ丼だそうな)。女が正体をあらわしリングで対決となる。ごめんなさい、もう人は殺しません、と言いながら豚をやっつけようとするのだからこの色男もくわせものだ。

 

【メモ】

以下、漱石の『夢十夜』テキトーダイジェスト。

[第一夜] 「100年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と女は死んでいく。言われたとおりにして、日が昇り落ちるのを勘定し、勘定しつくせないほどになっても100年はやって来ない。女に騙されたかと思っていると、石の下から茎が伸び、見る間に真っ白い百合の花が咲き、骨にこたえるような匂いを放つ。花びらに接吻し、遠い空を見ると暁の星がたった1つ瞬いていて、100年はもう来ていたことに気づく。

[第二夜] 侍のくせに悟れぬのは人間の屑と和尚に言われた男が、悟って和尚の首を取ってやろうと考えるが、どうあがいても一向に無の心境になれぬ。次の刻を打つまでに悟らねば自刃するつもりでいた、その時計の音が響く。

[第三夜] 6つになる自分の子を背負っているのだが、目は潰れているし、青坊主である。言葉付きは大人だし、何でも解るので怖くなり、どこかへ打遣ゃってしまおうと考えると、見透かされたように、「重くない」と問われる。否定するが「今に重くなる」と言われてしまう。……森の中の杉の根の処で、ちょうど100年前にお前に殺されたと言われ、1人の盲を殺したことを思い出す。

[第四夜] 年は「いくつか忘れ」、家は「臍の奧」だという爺さんが、柳の下にいる3、4人の子供たちに、手ぬぐいをよったのを見せ「蛇になるから見ておろう」と言う。飴屋の笛を吹き手ぬぐいの周りを回るが一向に変わらない。今度は手ぬぐいを箱に入れ、「こうしておくと箱の中で蛇になる。今に見せてやる」と言いながら河原へ向かい、川に入っていった。向岸に上がって見せるのだろうと思っていつまでも待っていたが、とうとう上がって来なかった。

[第五夜] 神代に近い昔、軍(いくさ)で負け生けどりになるが、女に会いたいと敵の大将にたのむと、夜が明けて鶏が鳴くまでなら待つという。女は白い裸馬に乗ってやってくるが、鶏の鳴く真似をした天探女(あまのじゃく)に邪魔され岩の下の深い淵に落ちてしまう。蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。

[第六夜] 護国寺で運慶が仁王を刻んでいるという評判をきき出かけると、鎌倉時代とおぼしき背景に、運慶が鑿と槌を動かしていた。見物人に運慶は彫るのではなく、掘り出しているのだときかされ、それならと帰って自分でも試すが、明治の木には仁王など埋まっていないと悟る。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

[第七夜] 大きな船に乗っている男が自殺する。海めがけて飛び降りた途端、乗っていた方がよかったと後悔する。

[第八夜] 床屋で髪を切ってもらいながら、鏡に映る女を連れた庄太郎や豆腐屋、芸者、人力車の梶棒を見るが、粟餅屋は餅を引く音だけだ。女が10円札を勘定しているが、いつまでも100枚と言っている。髪を洗いましょうと言われて立ち上がって振り返るが、女の姿はない。代を払って外に出ると金魚屋がいて、金魚を眺めたまま動かない。

[第九夜] 帰ってこない侍の夫を案じて若い妻は3つの子を欄干に縛り、幾夜もお百度を踏むが、夫はとうの昔もう殺されていた。夢の中で母から聞いた悲しい話。

[第十夜] 女にさらわれた庄太郎が7日目の晩に帰ってくるが、熱も出たと健さんが知らせに来た。庄太郎は女と電車に乗って遠くの原へ行き、絶壁(きりぎし)に出たところで、女に飛び込めと言われる。辞退すると嫌いな豚が襲ってくる。豚の鼻頭を洋杖で打てば絶壁の下に落ちていくが、豚は無尽蔵にやってきて7日6晩で力尽き、豚に鼻を舐められ倒れてしまったという。「庄太郎は助かるまい。パナマ帽は健さん(が狙っていた)のものだろう」。

2006年 110分 ビスタサイズ 

原作:夏目漱石
[プロローグ&エピローグ]監督・脚本:清水厚
[第一夜]監督:実相寺昭雄 脚本:久世光彦
[第二夜]監督:市川崑 脚本:柳谷治
[第三夜]監督・脚本:清水崇
[第四夜]監督:清水厚 脚本:猪爪慎一
[第五夜]監督・脚本:豊島圭介
[第六夜]監督・脚本:松尾スズキ
[第七夜]監督:天野喜孝、河原真明
[第八夜]監督:山下敦弘 脚本:長尾謙一郎、山下敦弘
[第九夜]監督・脚本:西川美和
[第十夜]監督:山口雄大 脚本:山口雄大、加藤淳也 脚色:漫☆画太郎

出演:
[プロローグ&エピローグ]戸田恵梨香(女学生)、藤田宗久
[第一夜]小泉今日子(ツグミ)、松尾スズキ(百閒)、浅山花衣、小川はるみ、堀内正美、寺田農
[第二夜]うじきつよし(侍)、中村梅之助(和尚)
[第三夜]堀部圭亮(夏目漱石)、香椎由宇(鏡子)、佐藤涼平、辻玲花、飯田美月、青山七未、櫻井詩月、野辺平歩
[第四夜]山本耕史(漱石)、菅野莉央(日向はるか)、品川徹、小関裕太、浅見千代子、市川夏江、児玉貴志、高木均、柳田幸重、五十嵐真人、渡辺悠、谷口亜連、原朔太郎、佐藤蘭、宇田川幸乃、鶴屋紅子、佐久間なつみ、日笠山亜美、樹又ひろこ
[第五夜]市川実日子(真砂子)、大倉孝二(庄太郎)、三浦誠己、牟禮朋樹、辻修、鴨下佳昌、新井友香
[第六夜]阿部サダヲ(わたし)、TOZAWA(運慶)、石原良純
[第七夜]声の出演:sascha(ソウセキ)、秀島史香(ウツロ)
[第八夜]藤岡弘(正造/漱石)、山本浩司、大家由祐子、柿澤司、土屋匠、櫻井勇人、梅澤悠斗、森康子、千歳美香子、森島緑、小川真凛、水嶋奈津希、広瀬茉李愛
[第九夜]緒川たまき(母)、ピエール瀧(父)、渡邉奏人、猫田直、菊池大智
[第十夜]松山ケンイチ(庄太郎)、本上まなみ(よし乃)、石坂浩二(平賀源内)、安田大サーカス、井上佳子

ユナイテッド93

新宿武蔵野館1 ★★★

■比較できないということにおいて等価なもの

結末を観客全員が知っている映画は他にもあるだろうが、この作品の場合は事件としての結末であり、同時多発テロ時にハイジャックされた4機のうち1機が、目的を果たせずペンシルヴェニア州に墜落したという、およそ劇映画の題材としてはふさわしくないと思われるものだ。確かにその時の乗客の携帯電話などから、英雄的行為があったのではないかということは報道されていたが、だからといってそれが映画になるとは思ってもいなかった。

結末を知っていることが、大きな意味を持つことは、映画がはじまってすぐ感じることだ。緊張を持続させられるのも、逆に、何も知らない乗客としてそこにいたならばという想像を働かせることができるのも、事件を知っていればこそだからで、そして、そういういくつもの視点(乗員、乗客、テロリスト、管制官……)を可能にしたつくりに映画はなっているのだ。

しかし、この映画の飛行機内(+テロリストたちの出発前の光景)の出来事はまったくの想像にすぎない。わかりきったことなのだが、あたかも事実を積み上げてつくったかのような映像が提出されているので、一応ことわりを入れておかねばという意識が働いたまでで、とはいえ、この方法は成功しているといっていいだろう。

乗客の英雄的行為は、製作者の願望でもあるだろう。が、そこで選ばれたのはヒーローではなく、生きたいと願った乗客の等価な気持ちだった。機内で自分たちの運命を知って一旦は茫然とする彼らだが、パイロットの死を知ってからは、まるで了解事項のように役割分担が決まり、操縦桿を奪還するという目的に向かって、生きたいと願う、その部分においては等価な気持ちが発露されることになる。

一方で、映画はテロリストの行動を丁寧に追うことも忘れない。そして何とも虚しくなるのは、テロリストの祈りと乗客の祈りが、それぞれの神に向けられることだ。祈りにどれだけの差があるのだろう。比べることが出来ないということにおいて、これまた等価といってしまっていいのではないか。ここまで言ってしまうと、製作者や被害者の家族などからは反発を食らうかもしれないのだが。

映画は事実を装った想像が重要部分を占めるが、地上部分については可能な限り事実を再現したはずである。93便が飛び立ったニューアーク空港管制塔や連邦航空管制センター、それに軍関係者の混乱ぶりが生々しい。特に目の前で世界貿易センタービルの惨状を見せつけられた空港管制塔の職員たちの驚き。この映像を目にしたのは私自身も久しいが、何度観ても釘付けになる。

空港管制塔の表示板が繰り返し映される場面からも目が離せない。アメリカ上空に4200機もの航空機が飛んでいるという事実にも驚くが、それをどの程度正確に把握して運行しているのだろうか。そのあたりの興味も尽きないが、93便の離陸が30分ほど遅れたことが結果として、乗客に世界貿易センタービルの情報を伝え、そのことが彼らを蜂起させ、ホワイトハウスは災難から免れたようだ。

そういう細部については忘れていたが、そのこととは別に、どうしても問題になるのは国防という部分で、映画もそのことについては手厳しい。

『M:i:III』で、アメリカ国内であれだけ乱暴なことをしでかしたら、アメリカ軍が黙っていないだろうと安直な脚本を批判的に書いてしまったが、ここで再現されたことが事実なら、あの部分を批判したのは間違いだったことになる。それだけ現場と上層部との距離は遠く、また現場と直結していたにしても、指揮官が自らの責任においてどれだけの裁量を揮えるのかという、初歩的で難しい問題がどこまでもついてまわるのだろう。

こういう映画を採点するのは気が引けるが、とりあえずということで。

  

原題:Flight 93

2006年 111分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本: ポール・グリーングラス 撮影: バリー・アクロイド 編集: クレア・ダグラス、リチャード・ピアソン、クリストファー・ラウズ 音楽: ジョン・パウエル

ゆれる

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■みんな吊り橋を渡りたいらしい

「なんで兄ちゃんあの吊り橋渡ったの」という早川猛(たける=オダギリジョー〉のセリフは予告篇にも登場するのであるが、観終わったあとも暫くはこの意味がはっきりしないままだった。

でも何のことはない、吊り橋を渡って(田舎を捨て)東京でカメラマンという華やかな仕事をしている(まあ成功しているようだ)弟の猛と、吊り橋を渡れずに(田舎にとどまって)いる兄の稔(香川照之)と単純に考えればよかったのだ。

実家で頑固な父親(伊武雅刀)とガソリンスタンドを経営している稔は、温厚で優しい性格で、だからいろいろなしがらみの中にいる。田舎町という閉塞的な環境で折り合いをつけながら生活していることは、母の一周忌の場面であきらかだ。服装のことも気にせず(少しはしてたか)久しぶりに帰った法事の場でさっそく父と衝突してしまう猛とは好対照で、稔はふたりの取りなしにやっきとなる。

今はガソリンスタンドで働く川端智恵子(真木よう子)は、猛と昔付き合いがあり、その日も法事のあとスタンドに寄った猛の送っていくという口実のままに、結局は彼をアパートに上げ関係を持ってしまう。他人行儀でいようとしていたのに、猛の「(兄貴と)ふたり息が合ってるね、嫉妬しちゃったよ俺」という悪魔のような囁きに応えてしまうのだ。実は彼女も、昔猛と一緒に東京に出ようとしたことがあったのに、「吊り橋を渡ることができなかった」のだ。

翌日は3人で近くの渓谷に遊びに行くことになっていて、ここの吊り橋で問題の事故が起きる。

先に吊り橋を渡った猛を探しに行くかのように智恵子が渡り始めると、背後から追ってきた稔がしがみつく。稔はゆれる吊り橋が怖いのだが、智恵子にはそれがわからない。いや、知っていたのかもしれないが、猛が見ている可能性のあるところで抱きつかれたくないという気持ちも働いたのではないか。

この吊り橋を渡る、渡ろうとする関係性はあまりに図式的ではあるが(なのに最初に書いたように暫くの間わからなかったのだが)、そこで起きる智恵子の転落が過失なのか故意なのかという興味へ映画は突き進んでゆく。猛は現場を見ているのに、観客にはその場面はあかされない。だから裁判を通して、場面が二転三転すると観客もそれに引きずられ、真実がどこにあるのかと考えさせられるというわけだ。

話をまとめると、事実は次のようになるだろうか。

稔は智恵子と結婚を考えていた。彼はそれを言い出せないでいたが、彼女も周囲もそう思っていてくれたはずだ。が、猛の帰省で状況は一変する。あの晩、猛が智恵子と酒を飲んだと嘘をついたことで稔にはすべてがわかってしまったのだ(稔が背中をまるめるように洗濯物をたたんでいた場面は印象深い)。

智恵子の心も川原では、すでに東京に行って猛と新しい人生を始めていた。なのに猛ははぐらかすようにその場から去り、吊り橋を渡って行ってしまう。ふたりのことはおかまいなしに、花の写真を撮ることに夢中になっているのは東京での生活を暗示しているかのようだ。

稔にとって智恵子が猛を追うことはたまらないことだったろう。智恵子は希望の光だったのだから。稔だって吊り橋を渡って、猛のように生きていきたかったのだから。拘置所で猛に向かって、仕事は単調で女にもてず家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈を聞き、とぶちまけるのも当然だ。それでもやはり智恵子が死んでしまったことでは、自責の念に駆られたはずである。

そして稔は、自分が吊り橋を渡れないばかりか(猛には何故渡ったと言われるが)、引き返す場所さえもないことを悟って判決を受け入れるのだ。もしかしたら猛が裁判に熱心で、弁護士の伯父(蟹江敬三)を担ぎ出したことにもいらついたのではないか。

次第に、猛にとっては知らない兄が姿を現してくる。人を信じないのがお前だとか自分が人殺しの弟になるのがいやなだけとまで言われて、彼も兄が智恵子を突き落としたと証言してしまう。自分の兄貴を取り戻すために。しかしその兄貴とは、自分にとって都合のいい兄ではなかったか。「兄のことだけは信じられたし、繋がっていた」と言うけれど、彼には何も見えていなかったのだ。

法事で見つけた母の8ミリフィルムを、何故か7年後に見ている猛。そこには、幼い猛が怖がる稔の手を引いて吊り橋を渡ろうとしている映像が残こされていた。

刑期を終えた稔をやっと見つけた猛が、道の向こう側から大声で呼びかける。猛に気付いて、とりあえず稔は笑ってしまうのだ。たぶん昔からの癖で。笑顔はやって来たバスに隠れてしまう。稔はバスに乗ったのだろうか、残ったのだろうか。

猛としては兄を今度こそ本当の意味で取り戻そうとしているのだろうけどね。この時点では「最後まで僕が奪い、兄が奪われた」と認識しているわけだから。でも、どうなんだろ。私が稔ならもうそんなことには関わりたくない気がする。兄弟というものがよくわかっていないし、必要性も感じていない私としては、少々食いつきにくい最後だ。

結末は観る人によっていくらでもつけられるだろう。強いて言うならその部分と、映像的な面白味に乏しいこと(これは全体にいえる)が惜しまれる。あとは智恵子が忘れ去られてしまったことが、悲しくて可哀想だ。彼女の母親も言っていた。「智恵子は殺されるような子だったのかな」と。

  

【メモ】

巻頭の東京の事務所での猛。冷蔵庫は開けっ放しで平気だし、女性の存在も。

渓谷は蓮美渓谷(架空の場所?)。

智恵子の母親は再婚(アパート暮らしだが、智恵子も居場所がない?)。

「怖いよ、あの人もう気付いているんじゃないかな」(智恵子のセリフ)。

猛に小遣いを渡す稔。

水を流しながら動くホース。

8ミリ撮影が趣味だった母が残したフィルムの日付はS55.9.8。

2006年 119分 1:1.85(ビスタサイズ)

原案・監督・脚本:西川美和、撮影:高瀬比呂志 、編集:宮島竜治 、美術:三ツ松けいこ 、音楽:カリフラワーズ

出演:オダギリジョー(早川猛)、香川照之(早川稔)、伊武雅刀(早川勇)、新井浩文(岡島洋平)、真木よう子(川端智恵子)、蟹江敬三(早川修/弁護士)、木村祐一(検察官)、ピエール瀧(船木警部補)、田口トモロヲ(裁判官)