MW ムウ

2009/8/2 新宿ミラノ3

■成立しない、毒ガス暴走人間物語

脚本も駄目なら演出も駄目。なんで、書く気がしないのだが……。

十六年前に沖之真船島で、米軍の毒ガス兵器「MW」が微量ながら流出し、島民が虐殺されるという事件が起きるが、その真相は政府により闇に葬られたはずだった。が、島から奇跡的に逃げ延びた二人の少年がいて、彼らが大人になった今、二人はまったく正反対の道を歩んでいたのだった。結城美智雄は優秀な銀行員で、しかし裏では復讐に生きる悪魔のような存在となり、賀来裕太郎は神に身を捧げる神父となっていた……。

映画が駄目なのは、何故二人がそうなったかという部分で手を抜いたからで、二人の関係に踏み込めていないことにある。もちろん一通りの説明はあって、結城が賀来を助けた時にMWを吸ってしまい、死には至らなかったものの後遺症が残ってしまったことが、賀来の結城に対する遠慮となっているとしている。

結城のそれが後遺症というのなら、MWには殺人科学兵器だけではなく、人を悪へと走らせる効果があることになる。ここだけを膨らませても話としては面白くなりそうなのだが、そういうところは軽く流してしまっているので、ドラマは深化せず、どころか成立していない部分までいくつもあって、ただただ結城が暴走していくだけの映画になっていた。

賀来が言うように「人間ではなくなった」結城は、自分たちをこんな目に合わせた者たちへの復讐の鬼と化す。そして、最初は関係者の殺害だったのに、MWを手に入れてからは世界の滅亡へと結城の目的が変わってしまうのだが、ここだって説明不足だろう(「お前にはわからないだろうが、異様に喉が渇くんだ」と賀来には言っていたが)。

原作の主眼は、二人の対比にあったと思われる(MWという毒ガスの名前もそれをイメージして付けられたのだろう。カタカナのムとウもアルファベットと同様、相似形になっているのが面白い)。だから、本来なら半分は賀来の映画なのに、彼は結城の前ではなすすべもなく(時には片棒まで担がされ)苦悩するばかり……って、苦悩している場合じゃないだろうに。いくら山田孝之を配して玉木宏とのキャスティング的なバランスをとっても(とれているかどうかは私にはわからないが)、これではどうしようもない。

人間ドラマの部分を捨て、アクション映画として割り切ったのだろうか。だったらこの原作を選んだ意味がないではないか。ポスターには「手塚治虫、禁断の問題作」という字があるが、禁断の部分(結城と賀来の同性愛)を描かないで、問題作とは恐れ入る。

しかもアクション映画として評価できるのは、冒頭のタイでの捕り物劇(沢木はいいところで結城を逃がしてしまう)と小型飛行機がビルに翼をぶつけながら飛んでいく場面くらいなのだ。それにタイの場面は、終わってみると浮いてしまっていて、取って付けたような印象だ。

沖之真船島でのMWの発見や、そこで米軍のヘリに攻撃を受ける場面(隠れ場所もないのに、逃げられっこないって)、また、米軍の東京基地への潜入など、あまりに都合よく展開してしまうため、いろいろなことは起きるが大して盛り上がらない。

セリフも大袈裟だ。賀来が記者の牧野(彼女も別の方向からMWに迫っていた)に言う「国家が僕たちを脅そうとしているんじゃなくて、彼(結城)が国家を脅そうとしているんだ」とか、結城の沢木に言うセリフ「撃ちたければ撃て、ただ撃てば、あなたが歴史的な犯罪者だ」は、大袈裟だけでなくピントまでずれている。

沢木が米軍基地に乗り込んで行くと「君たちの争いだ。君たちで解決してくれ」と言われてしまうのだが、米軍が大いに関わっている事件で、それも基地内でのことに、こんな鷹揚にしてくれるだろうか(沖之真船島では侵入者をヘリで射殺しようとしていたわけだし)。

最後は、結城が生き延びての犯行予告(予行演習)なんだけど、まさか続編を作る気じゃないよね。

岩本仁志監督のことは知らなかったが、調べてみると日本テレビの演出家で、その前はフジテレビでも演出を手がけていて、相当数のドラマにかかわっていたとある。テレビドラマの延長らしいが『明日があるさTHE MOVIE』(2002年)という映画まで監督しているのだ。で、この醜態なの?

例えば、これは予告篇でいくらでも観ることが出来るのでサイトに行って確認してほしいのだが、結城がビルの屋上から落とした人間が下のトラックに激突する場面がある。屋上からのカットだと、下には人通りはほとんどないし、トラックも停車していないんだよね。第一突き落とされたのではなくロープを切られての落下なのに、歩道ではなくトラックが停車している車道にどうしたら移動できるのだろう。

筋が繋がっていればいいくらいの感覚で、適当に撮っているのだとしたら、いい作品など出来るはずがない。監督は猛省すべきだ。

2009年 130分 シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ PG-12

監督:岩本仁志 製作:松崎澄夫、宇野康秀、白井康介、阿佐美弘恭、堀越徹、李于錫、樫野孝人、松谷孝征、竹内茂樹、久松猛朗、島村達雄、菅野信三 プロデューサー:松橋真三 エグゼクティブプロデューサー:橘田寿宏 原作:手塚治虫 脚本:大石哲也、木村春夫 撮影監督:石坂拓郎 Bカメ撮影:迫信博 特殊メイク:飯田文江 美術:太田喜久男 編集:浅原正志 音楽:池頼広 主題歌:flumpool『MW ~Dear Mr.& Ms.ピカレスク~』 VFXスーパーバイザー:田口健太郎 スクリプター:湯沢ゆき スタイリスト:村上利香 スタントコーディネーター:釼持誠 ヘアメイク:細川昌子 照明:舘野秀樹 整音:佐藤忠治 装飾:竹内正典 録音:原田亮太郎 助監督:戸崎隆司

出演:玉木宏(結城美智雄/銀行員)、山田孝之(賀来裕太郎/神父)、石田ゆり子(牧野京子/新聞記者)、石橋凌(沢木和之/刑事)、山本裕典(溝畑/新聞記者、牧野の部下)、山下リオ(美香)、風間トオル(三田/新聞記者、牧野の同僚)、鶴見辰吾(松尾/望月大臣の秘書)、林泰文(橘誠司/刑事、沢木の部下)、中村育二(岡崎俊一/建設会社役員)、半海一晃(山下孝志/銀行員、結城の上司)、品川徹(望月靖男/大臣)、デヴィッド・スターズィック

ディア・ドクター

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

写真1:西川美和、笑福亭鶴瓶、瑛太、八千草薫のサイン入りポスター。写真2、3:「実際の撮影で使われた神和田診療所の看板や、鶴瓶師匠が演じたDr.伊野愛用のドクターバッグや聴診器、その他の小道具を展示しております。」(写真3にある黒いプレートにあった説明文)

■人を判断するもの

『ゆれる』に続いてのこの『ディア・ドクター』(『蛇イチゴ』は未見だし『ユメ十夜』の[第九夜]は、短すぎてピンとこなかったが)、やはり西川美和は只者ではなかった。最後の方にちょっとした疑問はあるが、傑作なのは間違いない。溶け出したアイスという小道具にまで目が行き届いた演出に、『ゆれる』でのたくっていたホースを思い出した。

話は単純だ。伊野が無医村に来て三年、彼の評価は上々で、どころか上がるばかりだったのに、突然失踪してしまい、刑事が行方を調べはじめる。映画は、その聞き込み調査と、伊野のところに研修医の相馬がやってきて来てからの、つまり現在と少し前の過去を巧みに組み合わせた構造になっていて、この二つは、ところどころで、伊野(だけではない)の実像と虚像とを対比する。

虚像とはむろん伊野が偽医者だったことを指す(と書いてしまったが、これは周囲が勝手に作り上げたもののようでもあり、なかなかに難しい)。伊野の虚像部分に対する松重豊演じる刑事の歯に衣着せぬ物言いは的を射たものだが、反面、伊野に対する村人たちの見方や反応を限定してしまいそうで、心配になる。

伊野を連れてきて鼻高々だった村長の落胆は大きく、伊野様々だった村人たちでさえ、もう陰口をききはじめる始末だ。そういう光景を散々見ながらも、刑事は、いま伊野がここに戻ったら、案外袋だたきになるのは僕らの方かも、と漏らす。失踪調査で偽医者であることが判明して、すぐにこんな状況なのは、結局のところ、伊野への評価もすべて肩書きがあったからということになってしまう。それとも刑事の発言は、村人たちの反応が、刑事である自分へ向けた表向きの顔であることを見透かしてのものなのか(なら、自分の発言の及ぼす力のこともわかっているのだろう)。

もっとも映画の主眼は、そういうことの追求ではなさそうである(付随した効果という意味では大いに意識してやっているのだろうが)。また逆に、偽医者に対する関係者の反応を面白がっているというのでもなく、ただ、事例を並べていったという感じなのだ。まあ、それこそ巧妙に並べられているのではあるが。

他にも薬屋(問屋?)の営業マンとの怪しい関係など、なんとも興味深いものもあるが、結局、伊野が何を考えていたのかはわからない。推測するならば、高給(年二千万円もの大金を村は支払っていた)に見合ったことくらいは多少なりともしようと思ったのか(偽物としては本物以上の気配りが必要だったはずだ)。あるいは(またはその結果として)人に喜ばれることの楽しさを知ってしまったのだろう(これは大いにありうることだ)。

そして映画は、その喜ばれていることが一筋縄ではいかないことを描くのも忘れていない。

死にかけている老人を前に伊野は手を尽くそうとする。が、家族の方はもう大往生なのだからと、死んでくれることを願っている場面がある。臨終宣言のあと、伊野が老人を抱きかかえて「よう頑張った」と背中をさすってやると、つかえていた物がとれ息を吹き返す。集まっていた村人の万歳三唱の中、帰って行く伊野。万歳の中に家族の姿があったかどうか思いだせないのだが、たとえあったとしても、もうそれは伊野には知られてしまったことで、だからってそれすら家族は何とも思ってはいないのだろうが……。

伊野の命取りとなる鳥飼かづ子の場合にも、それぞれの事情が存在する。胃の調子の悪いかづ子は、娘たちの、とりわけ東京で女医になったりつ子には心配をかけまいと思っていて、伊野に一緒に嘘ついてくれと言う。りつ子の方は、父の死の時にも取り返しのつかないことをしてしまったという想いがあるらしく、知らないまま何かがあってはと、医者のはしくれとしての恐れもあるのだった。

伊野の必死の勉強(偽医者だからね)にもかかわらず、当然ながらかづ子の胃癌は進行し、盆休み?で帰ったりつ子と伊野の間で、偽(薬屋)の胃カメラの写真を前に、医学的見解が述べられ、りつ子も伊野の意見に納得する(勉強の成果なんだろう)。が、このあと、りつ子の次の帰省が早くて一年後ということを知ると、急に慌てたように、ここで待つようにりつ子言い残して伊野は姿を消してしまうのだった(この、ここで待ては、自分の代わりに村で診療し、母親を診ろと言っているようにもみえるが、これは考えすぎか)。

伊野は、経験豊かな看護婦の大竹主導で気胸の患者を救い(この場面は見物だった)、街の総合病院に運んで手術が行われている時にも姿を消そうとしているかのようだった。だから伊野は慌ててはいたが、逃げ出すタイミングを計っていたのかもしれず、でなければ相馬に僕は免許がない(これは車のだったが)とか、偽医者だ、とは冗談にでも言えなかったのではないか。

伊野の失踪で、診療所の看板は下ろさざるを得なくなる。なにしろ年収二千万でもなり手がいないのだ。ってことは、それ以上に医者は儲かるのか。または、やはり僻地生活などしたくないってことなのだろう。必要以上に多くを語らないのがこの映画だが、こういう誰もが抱く疑問や無医村の問題については、なるほどと思う。しかしそれにしても、大竹や相馬の失踪後の伊野評がはっきりしないのは何故か。一番の関係者たちなのに時間もそう長くとっていないから、これはわざとなのか。

大竹は地元での職を失うわけで、といって伊野を弁護しても何も得られないことくらいはわきまえていそうである。刑事も大竹には伊野との関係に話題を振っていた(大竹は否定)。相馬は伊野に入れ込んでいて、将来はここにこようと思っていたくらいだから、しどろもどろなのも無理はない。そしてやはり研修医という立場では自分を取り繕うしかなかったのだろう。こんなだから「伊野を本物に仕立てようとしたのはあんたらの方じゃないのか」と刑事に毒づかれてしまう。

意外なことに(かづ子の家族としてなら意外でも、医者としてなら必然なんだろう)最後になって伊野を信頼(そこまではいっていないのかも)しようとしたのはりつ子で、「あの先生なら、どんなふうに母を死なせたのかなぁ」と刑事に伊野を捕まえたら聞いてほしいと頼んでいた。

ここでどうにも気になるのがかづ子の応対で、刑事の事情徴収に、伊野を信用したことを怖いと言い、あなたに何かをしてくれたかという問いには、何も、と答えているのだ。何もしてくれないように頼んだのは他ならぬかづ子自身で、だからその答えは間違いではないにしても、伊野は彼の持てる力以上のことをしてくれたのではなかったか。だからかづ子の答えは、成り行きで言ってしまったにしても、そう簡単には受け入れられないものだ(これが最初に浮かんだ疑問である)。

このあと、伊野と刑事たちが駅のプラットホームで、気付くこともなくすれ違う場面がある。そして最後は、入院中のかづ子と伊野が鉢合わせして、二人が笑って、映画はお終いとなる。

この場面のためにホームでのすれ違い場面を用意したのだろう。これは気が利いた処理である。が、二人の笑顔で終わらせたいのであれば、かづ子の刑事に対する答えはもう少し違ったものでなければ、と思ってしまう。そうでないのなら、このラストは外してしまうべきではないか。

ただ、伊野が東京の、それもわざわざりつ子が勤務する病院の職員(それとも出入りの業者か何かなのか)になっているのが、大いに引っかかるところである。伊野はりつ子の勤務先までは知らなかったのだろうか。そうでなくても病院に出入りした場合の危険性は考慮するのが当然ではないか。それともこれはわかっていてのことなのか。職員でなく、単にかづ子に会いに行ったのだとしたら……。

考え出すと切りがなくなるのだが、笑顔の裏にある伊野という男のある部分がちらついて仕方がなくなってくる。そこまでを含めたラストということなら、これはこれで人間の業を考えさせる怖い結末だろう。

  

2009年 127分 ビスタサイズ 配給:エンジンフィルム、アスミック・エース

監督・原作・脚本:西川美和 プロデューサー:加藤悦弘 企画:安田匡裕 撮影:柳島克己 美術:三ツ松けいこ 編集:宮島竜治 音楽:モアリズム 音楽プロデューサー:佐々木次彦 衣裳デザイン:黒澤和子 照明:尾下栄治 録音:白取貢、加藤大和

出演:笑福亭鶴瓶(伊野治)、瑛太(相馬啓介/研修医)、余貴美子(大竹朱美/看護婦)、八千草薫(鳥飼かづ子)、井川遥(鳥飼りつ子/かづ子の娘、医師)、香川照之(斎門正芳/薬屋の営業)、松重豊(刑事)、岩松了(刑事)、笹野高史(村長)、中村勘三郎(総合病院の医師)

ハリー・ポッターと謎のプリンス

楽天地シネマズ錦糸町シネマ2 ★★☆

■最終篇の序章は、校長の死と惚れ薬騒動?

『ハリー・ポッター』も完結篇なのだから観ておこうか、って、全然違うじゃないの(原作が完結したのを取り違えてたようだ。ま、私がその程度の観客ってことなんだけど。そもそもファンタジーは苦手だし)。映画の最後で、次は二部作(えー)の最終篇が来るってお知らせが……ほへー。

簡単にいってしまうと(詳しく言えないだけなんだが)、この六作目の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』は、その最終篇の序章のようなものらしく、だからいきなり現実部分で、三つの黒い渦巻きのようなものがロンドンのミレニアム橋を襲い、破壊する場面を見せるのに、それは、最近よく起きている怪奇現象の一つみたいに片付けられてしまい、そして話の方も、もう現実世界でのことには触れることなく、学校に戻って行ってしまう。

ただし今回は、ダンブルドア校長の死という痛ましい結果が待ち構えている。そして、その前の段階でダンブルドアとハリーの二人三脚場面が多くあり、ハリーにも選ばれし者という自覚が芽生えているので、それなりに盛り上がってはいくんだが、地味っちゃ地味(スペクタクル場面は予告篇で見せちゃってるし、それも橋破壊とクィディッチ場面くらいだから)。

そのハリーだが、早々に簡単な魔法にかかって学校に遅刻しそうになるんで、これで選ばれし者なの、と言いたくなるが、まあご愛敬ってことで。

ヴォルデモート卿に関しては、毎回のようにその影響がハリーたちに降りかかるという設定なので、私のようにいい加減にしか観ていないものには、全部が似たようなイメージになってしまっている。しかし今回は(たって前がどうだったかは、って、しつこいか)ヴォルデモート卿の過去に遡っての話(だからトム・リドルという実名で登場する)で、少しずつヴォルデモート卿の輪郭をはっきりさせてもいるのだろう。

題名の『謎のプリンス』は、ヴォルデモート卿の過去から弱点を探るために、ダンブルドアがハリーを出汁に連れてきたホラス・スラグホーンの授業で、ハリーがたまたま手に入れた(ずるいよなぁ)ノートに記されていた名前で、正確には原題のthe Half-Blood Princeである。

実は、これは昔スナイプが書いた署名なのだが、それはあっさりスナイプがそう言うからで、謎って言われても、なのだが、スナイプは今回特別な役回りを与えられているのだった。

怪しさ芬芬のアラン・リックマンならではのスナイプは、ダンブルドアからも信頼(ではないのかもしれないが、映画だとよくわからなかった)され、しかし、破らずの誓いによって、ドラコ・マルフォイの保護者のような立場になってしまう(それは前からなのだが、この誓いではドラコが失敗した場合、その代役にならざるを得なくなる)。

つまり今回は、the Half-Blood Princeによるダンブルドアの死というのが大筋なのだ。出てくる小道具や交わされる言葉が、魔法学校のため、とまどうことがしばしばなのであるが(今更何を言ってんだか)、話はほぼ一直線。来るべき戦いを前に(分霊箱探しに)決意を新たにするハリーに、ハーマイオニーが私たちも行くと力強く続き、次作への期待を高まらせて終わりとなる。

ところで、すべてが次ではあんまりと思ったのか、学園ラブコメディ的要素が多くなった。出演者たちが成長したからこそだし、観客も彼らをずっと観てきたわけだから、これも楽しみの一つには違いない。が、なにしろここには惚れ薬なんてものまであるので、ロンのキスしまくり状態などという、だらけた場面に付き合わされることになる。ついでにロンを好きになっているハーマイオニーの嫉妬ぶりとかもね。

ハリーに至っては前作のファーストキスのことは忘れてしまったようで、ロンの妹のジニーに熱を上げていた。ジニーは付き合っている人がいたみたいなのに、何で二人はくっついちゃったのかしら。恋愛感情がどうのこうのというよりは、くっつき合いゲームになってしまっているのだ。展開が雑といってしまえばそれまでだけど、せっかく彼らの成長ぶりを観客だって見守ってきたのだから、これはもったいないよね。時間だってそれなりに割いてあるっていうのに。

こういうところも、原作にはちゃんと書かれているのだろうか。このシリーズ、まさか原作を読んだ人専用ってことはないだろうが、いつもそんな気になってしまうのだ。

  

原題:Harry Potter and the Half-Blood Prince 

2008年 154分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:岸田恵子 監修:松岡佑子

監督:デヴィッド・イェーツ 製作:デヴィッド・ハイマン、デヴィッド・バロン 製作総指揮:ライオネル・ウィグラム 原作:J・K・ローリング 脚本:スティーヴ・クローヴス 撮影:ブリュノ・デルボネル クリーチャーデザイン:ニック・ダドマン 視覚効果監修:ティム・バーク 特殊メイク:ニック・ダドマン プロダクションデザイン:スチュアート・クレイグ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:マーク・デイ 音楽:ニコラス・フーパー

出演:ダニエル・ラドクリフ(ハリー・ポッター)、ルパート・グリント(ロン・ウィーズリー)、エマ・ワトソン(ハーマイオニー・グレンジャー)、ジム・ブロードベント(ホラス・スラグホーン)、ヘレナ・ボナム=カーター(べラトリックス・レストレンジ)、ロビー・コルトレーン(ルビウス・ハグリッド)、ワーウィック・デイヴィス(フィリウス・フリットウィック)、マイケル・ガンボン(アルバス・ダンブルドア)、アラン・リックマン(セブルス・スネイプ)、マギー・スミス(ミネルバ・マクゴナガル)、ティモシー・スポール(ピーター・ペティグリュー)、デヴィッド・シューリス(リーマス・ルーピン)、ジュリー・ウォルターズ(ウィーズリー夫人)、ボニー・ライト(ジニー・ウィーズリー)、マーク・ウィリアムズ(アーサー・ウィーズリー)、ジェシー・ケイヴ(ラベンダー・ブラウン)、フランク・ディレイン(十六歳のトム・リドル)、ヒーロー・ファインズ=ティフィン(十一歳のトム・リドル)、トム・フェルトン(ドラコ・マルフォイ)、イヴァナ・リンチ(ルーナ・ラブグッド)、ヘレン・マックロリー(ナルシッサ・マルフォイ)、フレディ・ストローマ(コーマック・マクラーゲンデヴィッド・ブラッドリー、マシュー・ルイス、ナタリア・テナ、ジェマ・ジョーンズ、ケイティ・ルング、デイヴ・レジーノ

重力ピエロ

新宿武蔵野館3 ★★★★

写真1:おっ、また出演者の不祥事か……と思ったが(『今度の日曜日に』の時と同じと思ってしまったのだな)、何のことはない、5.23という公開日を武蔵野館が紙を貼って消しているだけだった(この変則?公開のお陰で観ることができたのだが)。あと、別に「エロ」を強調しているわけではなくて、たまたま……。写真2:元のポスターはこれ。

■親殺しを肯定

泉水と春の兄弟が市内(舞台は仙台)で起きている連続放火事件に興味を持ち、その謎を追う。春が落書き(グラフィティアート)消しの仕事をしているうちに、必ずそのすぐ近くで放火が起きていることに気付き、泉水に相談したのだった。

そしてこの謎が、自分たち家族に刻印されてしまった、ある忌まわしい事件と結びついていることが次第にわかってくる……。

まず、この落書き消しの仕事っていうのが、そもそも怪しいんだが、それには触れていないのがどうもね。バラバラな場所で書かれた落書きなのに(ということは依頼主もバラバラだろうから)、その始末を何で春が全部やっているんだろう、とかね(そりゃ春が手を回せば仕事を取るのは可能にしても、泉水にはそのことも含めて不自然なのがわかってしまいそうなんだもの。ま、最終的には、気づけ!という意味もあるんで、これで正解なのかもしれないが)。

これに限らず、この落書きがあるメッセージを持っていて、それが遺伝子配列を使った暗号だということがわかったりするのだが(泉水は大学院で遺伝子を研究しているのな)、このミステリー部分は、実はいらなかったりもするのだな(え、そんな!)。

この凝ったつくりは、原作(未読)が伊坂幸太郎だからのような気もするが、そしてだからってそれほどうるさくはないのであるが(仕掛けが多い割にはわかりやすい映画だろうか)、泉水を巻き込む必要があったとはいえ、春の凝りようは凡人には理解しづらい面がある。

また、二十四年前のレイプ事件(犯人は高校生だった)で授かってしまったのが春で、その噂話が家族を苦しめ(転居もするのだが、父の正志が公務員ということもあって、噂話圏内からは逃れられなかったのか)小学生の時には泉水と春にもそのことが耳に入っていたという場面(春の疑問に、泉水はとっさにファンタ・グ・レイプと誤魔化す)は、映像になると突出してしまうので、もう少しぼかしておいてもよかった気がする。

けなしてばかりなのに、★四つ評価なのは、この作品には別の魅力があったからで、泉水の兄としての微妙な立場の描き方がその一つ目だ。

なにしろ彼の弟は、カッコがよくて女の子にはもてるし、これはおまけだが絵もうまい。ぼわっとしたイメージの泉水としては、どうしても弟と比較されてしまうから相当ストレスがあったらしいのだが、泉水は(むろん春も)両親の愛情の下、それがけっしてやっかみにはならないように育てられたのだった。とはいえ春の出生の秘密を知っていて、仲のいい兄弟でい続けるのは難しいことだったと思われる。

そしてこの作品は、泉水の目を通して語られる家族の物語であり、そこに春は何よりも不可欠な存在としてあるのである。

二つ目は春が実の父親を殺してしまうことで、これについては「ムチャクチャだな」と泉水に言わせてはいるが、警察に行くという春を泉水は「世の中的には悪いことじゃない」と断言し、そして「実は俺もあいつを殺そうとした」と春に告白するのだった(事実これは実行段階寸前だった)。

最後の場面は父の死後(結局胃癌で死んでしまったのだった)、二人が父の趣味をついで?養蜂作業(蜜の分離)をしているところで終わっている(注1)から、あの泉水の言葉は、春が自首することをおしとどめたようである。つまり作品として、春の行為を正当な殺人として肯定しているのである。そして、どう考えても「ムチャクチャ」なのに、それを受け入れてしまっている自分がいて、これも驚きなのだった。殺人はバットを何度も振り下ろすという、かなり残忍なものだったのに。

確かに春の実父葛城由紀夫の精神構造は不快としかいいようがないもので(好きになれない渡部篤郎だが、この役はうってつけだった)、こいつの言い分を聞かされていると、あまりの身勝手さに怒りが湧いてくる(三十人レイプは葛城の青春の一ページになってしまうし、他のセリフも書くのが躊躇われるようなものばかりなのだ)。正義など、それを振りかざす人間の数だけいるのだろうとは思うが、ここまで極端だと、こちらの正義をぶつける気にもならなくなってしまう。

むろん、だから殺人を犯していいのかといえばすぐには頷けないのであるが、春を責める気になるのも難しい。尊属殺人罪など、とうの昔になくなりはしたが、同じ殺人でも親殺しや子殺しになると、今だに道義的な解釈が余計にプラスされてついてまわることになる。親子関係というのはどうしてもそういう部分から抜けられないのだろう。

あんな奴が実の父親であることがわかったら、一体どんな気持ちがするだろうか。そして遺伝子は、いろいろな部分を葛城から春に正確にコピーしているのである(注2)。だから、春は女性に興味がないみたい、なのではなく、興味を持たないようにしていたのかもしれないではないか。学生時代にクラスのむかつく女をレイプしようとした相手に本気で向かっていったのは、そういうことだったのである。

市内の落書き消しという凝った設定がわかりづらいと最初の方で書いたが、もしかしたらそれは、春にとっては父親(が過去に三十件ものレイプをした場所)の痕跡を消す作業だったのかもしれない。そこに父親を度々呼び出し、春なりに過去に向き合わせようとしたのに、葛城は反省するそぶりすら見せなかったのだろう。

春がこのことを泉水に知らせようとしたのは、自分は臆病で大事な時には兄貴がいないと駄目、だからと言うのだが、これはあまり説得力がない。自分の中にある暴力性に自信が持てない春が、表面的には役に立ちそうもない泉水を側におくことで、抑止力としていたと考えればわかりやすくなるが、どうだろう。

あと映画を観ていて気になったのが、家族四人でサーカスに行った場面で、この時のことが題名になっているので外せなかったのだろうが(注3)、これと「俺たちは最強の家族」という言葉が繰り返される部分は、削除した方がいいと思うのだが。

注1:厳密にはこのあとストーカー女の夏子があらわれ、そして巻頭と同じ「春が二階から落ちてきた」というモノローグに合った場面となる。

注2:「どうして僕だけ絵がうまいの」というセリフはあったが、これが葛城の遺伝かどうかは定かではない。アルコールに弱いのは共通している。

注3:「家族の愛は重力を超える」はポスターの惹句だが、そう言ってたかどうかは忘れてしまった。楽しくしてれば地球の重力だって消せる、だったか。空中ブランコをしているピエロが落ちそうになるのを心配する子供たちに、大丈夫よ、と母親が言ってくれるのだ。

  

2009年 119分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:森淳一 プロデューサー:荒木美也子、守屋圭一郎 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎 企画:相沢友子 原作:伊坂幸太郎『重力ピエロ』 脚本:相沢友子 撮影:林淳一郎 美術:花谷秀文 編集:三條知生 音楽:渡辺善太郎 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:S.R.S『Sometimes』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:皆川悦子 照明:中村裕樹 装飾:山下順弘 録音:藤本賢一 助監督:安達耕平

出演:加瀬亮(奥野泉水/大学院生)、岡田将生(奥野春/泉水の弟)、小日向文世(奥野正志/泉水の父、元公務員)、吉高由里子(夏子/春の元?ストーカー)、岡田義徳(山内/泉水の友人、大学院生)、渡部篤郎(葛城由紀夫/春の実父、デリヘル業)、鈴木京香(奥野梨江子/泉水の母)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

新宿ミラノ1 ★★☆


写真1~8:2009年6月28日(日)のミラノ座前。「第3新歌舞伎町宣言」のコスプレイベント。私はただの通りすがり。この日は『ターミネーター4』を観たので。あ、でもちゃっかり『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のクリアファイルをもらっちゃいました。

写真9~12:こちらは映画を観た日に新宿ミラノ1内で撮った写真。関連商品が沢山。ロビーに展示されていたフィギュア。イベント時にあったものと同じ物だが、零号機ははじめて? だったらちゃんと写真を撮ればいいのに、と言われちゃいそうだけど、ま、そんな熱心なファンじゃないんで。

■未だ不明なり

「エヴァンゲリオン」のことは「ヱヴァンゲリヲン」でしか知らないので、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の時も混乱しているうちに終わってしまったくらいで(最初だったので今回よりさっぱりだった)、こんなだから私が何かを書いてもロクなものになりそうにない。なので、感想はパスするつもりでいたが、そうすると次作の時にまた混乱してしまいそうなので(一応次のも観るつもり。ここでやめたら馬鹿らしいので)、メモ程度になってしまいそうだが、それを残しておくことにした。エヴァンゲリオンに詳しい人からみたら噴飯ものになっていそうだが、こういう観客もいるっていうことで……。

使徒の正体が不明なのはともかく、それがぽつんぽつんとやってくるのが相変わらずわからない。一気に攻撃したらひとたまりもなさそうなのに、それが出来ない、もしくはそのことに気づいていない理由でもあるのだろうか。相手が人間とは違う思考形態ということも考えられるが、この設定はまるでテレビ放映に合わせているかのようで、でもそれじゃあさすがにおかしいと気づいたのか、今回は多少だが、矢継ぎ早の使徒登場という感じになっていた。

そもそも使徒ばかりでなく、どういう状況に世界がなっているのかということすらなかなか明かにならない。今回で言えば、セカンドインパクトによって海は赤くなってしまい、水族館のような所(海を元に戻すための研究所)で、セカンドインパクト前の生き物を見たりしているのだが、それにしては第三新東京市の日常は、ごくごく普通のもので、防災都市として造られている部分を見ていなければ、とてもセカンドインパクト(というかこれだって?)後とは思えない風景なのだ。

だからシンジたちが学園生活を送っていること自体がまったく現実感のないものなのだが、あまりにも当然のようにそこには日常があるので、どう解釈すればいいのかとまどってしまうのである。

それに、よくぞ第三新東京市を造る暇(余裕と言うべきか。たんなる再建じゃないんだから)があったなと。第三新東京市と称してはいるが、他にもこういうところがあるのか。世界的にはどうなのか。ネルフというのは何でも国連の直属の非公開組織らしいんだが(これはネット出調べたのな)、そんなこと言ってたっけ。で、何で本部が第三新東京市で、シンジの父親ゲンドウが総司令なんだ(ここまで言っちゃったら身も蓋もなくなるが)。

にしては、バチカン条約とやらを急に持ち出してきて、各国のヱヴァンゲリヲンは三体までに制限されているという。各国のエゴがからんでいるらしいのはセリフからもわかったが、でも軍縮で牽制し合っているわけじゃあるまいし、使徒という人類共通の敵に対抗するのに制限……って、そうか、これはヱヴァンゲリヲンが貴重品なため割り当てを決めているだけとか? ってことはネルフの本部があってもそこまでは自由にならないんだ?

これだけ説明が不十分でよく客がついてきているものだと、別のところに感心してしまうが、この不親切さはテレビ時代からのものらしい、って。はぁ。この作品の魅力って、もしかしたら謎だらけだから、とかねぇ。

父親との確執というか、ただ父親に認めてもらいたいだけのシンジがまたまた出てくるのだが、これもなぁ。巻頭の母親の墓参りで「父さんと話せて嬉しかった」ってシンジが言うのだけれど、十四歳の子供が父親にこんなこと言うかしら(たとえ思っても口には出さないんじゃ)。

ヱヴァンゲリヲンの搭乗員が、シンジ以外は女の子って、これもすごい設定なんだけど(職員も女性が多いんだから!)、それぞれが少しずつ信頼関係を築いていって、協力して使徒を倒していって、ついにはシンジとレイとで「初号機の覚醒がなった」のな。はは。裏コードがあったり、エネルギーが切れて活動限界にあるのに動いちゃって、ヱヴァにこんな力があったとは、って驚かれちゃってもですね。ま、覚醒に至る伏線は、巧妙に貼られてはいましたがね。

「世界がどうなっても綾波だけは絶対助ける」って、シンジってこんなだったんだ。けど、異常なまでの綾波レイ人気が私にはよくわからないんで(レイが孤独にしているような部分と「私も碇君にぽかぽかしてほしい」というセリフに違和感を感じてしまうからかなぁ)、シンジの快挙にも「やったぜ」とはならず。

あと、戦闘場面で、三百六十五歩のマーチ、今日の日はさようなら、翼をください、って、ちょっとない発想だよね。曲をリアルタイムで体験してきた身にとっては恥ずかしいだけなんだもの。って、もうこのへんでやめとくわ。あ、でも人類補完計画は? ヱヴァの仮設5号機って? パイロットなしのダミーシステム? ?が沢山過ぎで、未だ不明なり。

  

2009年 108分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

総監督・企画・原案・脚本:庵野秀明 監督:摩砂雪、鶴巻和哉 キャラクターデザイン:貞本義行 メカニックデザイン:山下いくと 作画監督:鈴木俊二、本田雄、松原秀典、奥田淳 原画:橋本敬史、西尾鉄也、小西賢一、山下明彦、平松禎史、林明美、平田智浩、向田隆、田中達也、高倉武史、朝来昭子、奥村幸子、押山清高、室井康雄、板垣敦、合田浩章、柿田英樹、飯田史雄、桑名郁朗、羽田浩二、松田宗一郎、コヤマシゲト、川良太、上村雅春、すしお、錦織敦史、吉成曜、高村和宏、今石洋之、前田明寿、寺岡巌、高田晃、田村篤、鈴木麻紀子、横田匡史、長谷川ひとみ、鎌田晋平、北田勝彦、黄瀬和哉、前田真宏、庵野秀明、鶴巻和哉、摩砂雪、小松田大全、中山勝一、増尾昭一、鈴木俊二、松原秀典、奥田淳、本田雄 第二原画:松尾祐輔、竹内奈津子、矢吹佳陽子、吉田芙美子、西垣庄子、益山亮司、関谷真実子、茶山隆介、矢口弘子、ジョニー・K、柏崎健太、小磯沙矢香、城紀史、阿部ルミ、平松岳史、岡穣次、井下信重、立口徳孝、松本恵、久保茉莉子、大原真琴、杉浦涼子、竹上充知子、大薮恭平、何愛明、斎藤梢、小野和美、大洞彰子、諏訪真弘、鶴窪久子 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康イメージボード:樋口真嗣、前田真宏 デザインワークス:高倉武史、渡部隆、佐藤道明、鬼頭莫宏、あさりよしとお、本田雄、増尾昭一、小松田大全、小林浩康、松原秀典、鈴木俊二、奥田淳、鶴巻和哉、コヤマシゲト、庵野秀明、吉浦康裕、きお誠児、浅井真紀、okama、前田真宏 作画監督補佐:錦織敦史、奥村幸子、貞本義行 色彩設計:菊地和子 動画検査:寺田久美子、犬塚政彦 特技監督:増尾昭一 副監督:中山勝一、小松田大全 デジタル演出:鈴木清祟 画コンテ:鶴巻和哉、樋口真嗣、橘正紀、佐藤順一、山本沙代、増井壮一、錦織敦史、合田浩章、小松田大全、中山勝一、摩砂雪、庵野秀明

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、林原めぐみ(綾波レイ)、宮村優子(式波・アスカ・ラングレー)、坂本真綾(真希波・マリ・イラストリアス)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、山寺宏一(加持リョウジ)、石田彰(渚カヲル)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、優希比呂(日向マコト)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、麦人(キール・ローレンツ)

ノウイング

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン5 ★★☆

東京限定ポスターなんて書いてあるので写しちゃったが、田名部生来(AKB48)のことを宣伝してるだけらしい。日本語版イメージソングと同じかしらね。何でも便乗すりゃいいってもんじゃないだろうに。あ、でも、こうやって反面教師的にでも取り上げてもらえば向こうはいいのかもね。あー、片棒かついじゃったよ。

■ヒーローでも何でもなかった

見せ物と割り切らないと腹が立つ映画だ(でもまあ、楽しめちゃうんだが)。

で、その見せ物は主に大惨事スペクタクルなのだが、これが意外にも少なくて、惨事に限ると三つしかないのである(三つしかないのに、かなりの部分を予告篇で見せちゃってるのな。たくぅ)。が、その場面の見せ方は、なかなか心憎いものになっていた。

まずは、旅客機事故。息子のケイレブの迎えに遅れ、気の急くジョンだが、車が渋滞して動かない。前方で事故があり、この場所で今日、八十一人が死ぬことをちょうど突き止めたばかりのジョンは、車を降り事故現場へ向かうが、これは単なる交通事故で、でもその時、ジョンを牽制していた警官の顔がひきつり逃げ出してしまう。ジョンが振り向くと今まさに、機体を大きく斜めにした旅客機が送電線に引っかけながら、ジョンの方へ突っ込んで来るところで、そのまま目の前で機体は爆発炎上し、何人かは外に出てきたものの炎に包まれて逃げまどう場面へと有無を言わせずなだれ込んでいく。この一瞬にして地獄と化してしまう映像がものすごい。

二つめは地下鉄事故で、いかにも爆破犯でもいるかのような思わせぶりな演出ではじまるのだが(この前にはジョン自身が妙な行動をして追いかけられる)、地下鉄が暴走し、ホームにまで突っ込んで人を跳ね飛ばしてしまう場面は、これまた目を覆いたくなる。ただし、これはやりすぎで、少なくとも時間だけでも気持ち削った方が、嘘っぽくなくなったのではないか。

三つ目はもう人類(生物)消滅(ポスターは「地球消滅」だけど、それだと言い過ぎような)だから、ものすごいことになる。スケールも大きいが、逆にあれよあれよという感じだろうか。自分の居場所がわかるくらいでないと(登場人物たちの居場所は示されるが)、恐怖心も出てこない。

そう、これは、人類消滅の物語なのだった。

で、映画は何でか五十年前からはじめている。ルシンダという少女がタイムカプセルに入れる絵(のはずだったが)に謎の数字の羅列(時間切れで最後まで書けずに)を残し、それが五十年後に宇宙物理学者のジョン・ケストラー教授の息子ケイレブの手に渡るという手の込んだ話にしているのである。ただ、どうしてそうしたのかが、ちっともわからないのだ。

ルシンダが残した数字の羅列は惨事の予告で、日付と死亡者数に場所(座標軸)なのだった。そして、タイムカプセルで眠っていた五十年間で、そのほとんどが完了し(実際に起こり)、残りがあと三つになっていたというわけだ。

その事実を知ったジョン(9.11や妻が死んだ事故が含まれていたことが、解読の手がかりになる)が、次の惨事を阻止しようとするのだが(これが地下鉄事故になる)、むろんそんな手立てもなく、まあ結果として、右往左往するばかり、で終わってしまう。座標軸が示す交差点を封鎖するように電話をするが信じてもらえず、ムキになっていたけれど、大学教授なのだからそのくらいはわかりそうなはずなんだけどねぇ。

ジョンをそんな行為に駆り立てたのは、あの数字を自分への警告と受け止めたからのようだ。これは妻の事故が大きく影響していて、妻の死に何も感じなかったジョンは、偶然の重なりである未来のことなどわかるはずがないと思い知るのだが、数字の存在を知ってからは、これがあれば妻を救えたはずだと思うようになっていく。

これがさらに、私に救えと言っている、になるのだが、ジョンがそう思うのも無理はない。スーパーフレアが太陽で起きる可能性についての論文も出していたらしいし(それともそういう論文について教授仲間のフィルと話し合ったのだったか)、目の前で連続して起きた事故に、ルシンダ探しで知り合ったその娘のダイアナ(+孫のアビー)とで、ルシンダが書き残した残りの数字の続き(死は全ての人類にやってくる)を突き止めたのだから、ケイレブ経由で数字を手に入れたことは、ジョンにとってもはや偶然であるはずがなかったのだ。

けれどジョンの勘違いは、少々悲しい結末となる。自分は地球を救うヒーローでも、選ばれし者でもなかったのである。選ばれたのは息子のケイレブとダイアナの娘アビーなのだった。

でもまあダイアナの突然の事故死(これもルシンダによって予言されていた)よりははるかにマシだろうか。人類が滅んでいく中、不仲だった父親とも和解した場面も入っていたから。しかしそういうことを考えていくと、ダイアナが九歳の時に自殺したというルシンダなど不幸としかいいようがない一生ではなかったか(娘を授かった喜びとかはあったのだろうが)。何かに憑かれたように数字の羅列を書き殴った時からそのあとも、ルシンダの頭の中からはそのことが消えてくれなかったようであるから。

となると、あの予言(数字)は、別段五十年も眠っている必要があったのかどうかということになってしまう。それとも予言はしてやったのだから、あとは人類が決めることと冷ややかに宇宙人は傍観していたのだろうか。

すべてのことは宇宙人たちのもたらしたことで、だからこれだと宇宙人というよりは神(映像として出てきたのは天使?)になってしまうと思うのだが(予言の部分をなくし、スーパーフレアが起きることだけにすれば高知能の宇宙人の予測ということにもなるのだが)、神のやることは人間にははかりしれないという、超解釈で逃げているようにもみえる。ルシンダには情け容赦がないし、ケイレブとの不可解な接触(黒い石を渡しただけで去ったりしている)も、ケイレブに囁く声が聞ける能力があるかどうかを試していただけなのかもしれないが、やたら回りくどいものだからだ。

映画が何も説明していないのはずるいとしか言いようがないのだが、それにしてはエゼキエル書をもちだしたり、人類の再スタートをアダムとイヴのようにしたり、ジョンの確執の相手が神父だった父だったことなど、過剰な宗教色(欧米の感覚だとこのくらいは普通なのか)がなんともうるさい。

また「世界規模の大惨事」と言っているにしては、映画がはじまってからは、すべてジョンの周りのことばかりと世界規模にはほど遠いもので、最後の場面もルシンダが住んでいた家の側で、選ばれし者まで白人の男の子と女の子(と何故かウサギ二匹)というのもずいぶんな話ではないか。光る水晶の塊のような宇宙船は、ジョンのところでも十機ほどいたから、そしてこれが全世界でも同じことをしていたと考えればいいのかもしれないが、映画にそこまでの言及はなかった。

原題:Knowing

2009年 122分 シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:林完治

監督:アレックス・プロヤス 製作:アレックス・プロヤス、トッド・ブラック、ジェイソン・ブルメンタル、スティーヴ・ティッシュ 製作総指揮:スティーヴン・ジョーンズ、トファー・ダウ、ノーマン・ゴライトリー、デヴィッド・ブルームフィールド 原案:ライン・ダグラス・ピアソン 脚本:ライン・ダグラス・ピアソン、ジュリエット・スノードン、スタイルズ・ホワイト 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:スティーヴン・ジョーンズ=エヴァンズ 衣装デザイン:テリー・ライアン 編集:リチャード・リーロイド 音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:ニコラス・ケイジ(ジョン・ケストラー)、ローズ・バーン(ダイアナ・ウェイランド/ルシンダの娘)、チャンドラー・カンタベリー(ケイレブ・ケストラー/ジョンの息子)、ララ・ロビンソン(ルシンダ・エンブリー/ダイアナの母、アビー・ウェイランド/ダイアナの娘)、ベン・メンデルソーン(フィル・ベックマン/ジョンの同僚)、ナディア・タウンゼンド(グレース・ケストラー)、D・G・マロニー、アラン・ホップグッド、エイドリアン・ピカリング、タマラ・ドネラン、トラヴィス・ウェイト

ごくせん THE MOVIE

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★

■路上同窓会(顔見せ大会)

『ごくせん』が何なのか、映画を観るまで何も知らなかったので(今回は何故か予告篇にも出会わなかったのだな)、ヤンクミとか言われても何が何だか、なのだった。

成田空港での、ハイジャック犯を投降させてしまう場面には少々面食らったが(それにこれは大分たってから教えてもらえるのだが、犯人説得って、ありえねー)、ヤンクミのキャラクターと行動パターンはすぐ理解出来るわかりやすさだった。というか脚本が単純すぎるという側面もあるのだが。

数々の事件だか難敵教え子だかを攻略してきたらしいヤンクミだが(だから知らないんだってば)、今度の生徒たちとはまだ馴染めるまでにはなっていなかった。そこにかつての教え子の小田切が、教育実習生としてやってくる。自分と同じ道を選ぼうとしている小田切の姿に、勘違い感動に震えるヤンクミは「一緒に生徒の為に汗を流そうじゃないか」と言うのだが、小田切は「いっそう暑苦しくなったな」とそっけない。大学には行ったもののいまだに何をしていいのか迷っているのだった。

極道一家に育てられたヤンクミ(それで「ごくせん」なのか、って鈍くてスマン)は、義理人情に厚く筋の通らないことには目をつぶっていられない。これは任侠映画の嘘部分の受け売りだから可笑しいのだけど、まあ、生徒(仲間)のためなら命がけ、というのはともかく、やたら昔の青春ドラマのノリで熱くなって「夕陽に向かって走るぞ」って、これ、今だとかえって受けるのかしら。

とにかくヤンクミがあり得ないキャラなので、そのつもりで観るしかないのだが、やっぱり暑苦しいのだった。ギャグも寒いし。

でも一番の欠点はやはり脚本で、生徒と他校生のいざこざが暴走族との対決にエスカレートしてしまうのもありきたなら、割のいいバイトにひかれた卒業生の風間が覚醒剤取引に関わってしまい、それが今をときめく花形IT企業の経営者黒瀬健太郎に繋がっていたというメインの話に至っては、みちゃいられないレベルだ。

んで、これはヤンクミならではなのかもしれないが、その悪玉の黒瀬にまで「もう一度償ってやり直せ」と説教を垂れるのだ。ちょっと前まで「絶対許せない」って言っていたのに(もっともこれは黒瀬が、ヤンクミが昔好きだった人に似ているという伏線があって、黒瀬の衆議院議員立候補演説にメタメタになってしまった自分が許せなかったとかね)。

こんな勘違い単細胞ヤンクミを大真面目で演じている仲間由紀恵は、偉いというか何というか、とにかく七年もこの役を演じてきた底力みたいなものがあった、って褒めすぎ? とはいえ、テレビの連続ドラマならともかく、このノリで二時間一気はきついのも確かだ。

ヤンクミの信念を通す支えは、彼女の格闘術(握力も強いのね)なのだが、これはヘボかった。今の技術ならもっとまともなアクション場面にだって出来るだろうに。でも結局は腕っぷしが強いというのはどうもねぇ。

私としては、ヤンクミが信念を通そうとすると、必ず大江戸一家や、今までヤンクミの世話になってきた誰かが、その手助けをしてしまう、または知らないうちに手助けしてしまっていたというような話にしてほしかったのだが。でもそれだと、イメージが違っちゃうのかしら。

キャストも全部テレビからのをそのまま移行しているらしく、映画は最初からヤンクミの「おっ、○○、久しぶり」の連発で、道を歩けばかつての教え子当たる、状態なのだった。なるほどこれは今までのテレビの集大成で、顔見せ大会でもあったわけだ。

  

2009年 118分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:佐藤東弥 プロデュース:加藤正俊 原作:森本梢子 脚本:江頭美智留、松田裕子 音楽:大島ミチル 主題歌:Aqua Timez『プルメリア ~花唄~』

出演:仲間由紀恵(山口久美子/赤銅学院数学教師)、亀梨和也(小田切竜/黒銀学院卒業生)、生瀬勝久(猿渡五郎/赤銅学院教頭)、高木雄也(緒方大和/赤銅学院3年D組)、三浦春馬(風間廉/赤銅学院3年D組)、石黒英雄(本城健吾/赤銅学院3年D組)、中間淳太(市村力哉/赤銅学院3年D組)、桐山照史(倉木悟/赤銅学院3年D組)、三浦翔平(神谷俊輔/赤銅学院3年D組)、玉森裕太(高杉怜太/赤銅学院3年D組)、賀来賢人(望月純平/赤銅学院3年D組)、入江甚儀(松下直也/赤銅学院3年D組)、森崎ウィン(五十嵐真/赤銅学院3年D組)、落合扶樹(武藤一輝/赤銅学院3年D組)、平山あや(鷹野葵/赤銅学院英語教師)、星野亜希(鮎川さくら/赤銅学院養護教諭)、佐藤二朗(牛島豊作/赤銅学院古典教師)、魁三太郎(鳩山康彦/赤銅学院世界史教師)、石井康太(鶴岡圭介/赤銅学院物理教師)、内山信二(達川ミノル/大江戸一家)、脇知弘(熊井輝夫/白金学院卒業生、熊井ラーメン)、阿南健治(若松弘三/大江戸一家)、両國宏(菅原誠(大江戸一家)、小栗旬(内山春彦)、石垣佑磨(南陽一)、成宮寛貴(野田猛)、速水もこみち(土屋光)、小池徹平(武田啓太)、小出恵介(日向浩介)、沢村一樹(黒瀬健太郎)、袴田吉彦(寺田雅也)、竹内力(鮫島剛)、金子賢(朝倉てつ/大江戸一家)、東幹久(馬場正義/赤銅学院体育教師)、江波杏子(赤城遼子/赤銅学院理事長)、宇津井健(黒田龍一郎/大江戸一家/久美子の祖父)

ウィッチマウンテン 地図から消された山

新宿武蔵野館3 ★★

■信じているのはオヤジだが、実は子供向き映画

『星の国から来た仲間』(1975)のリメイク(注1)だが、それは今調べてわかったことで、情報をほとんど仕入れずに映画を観ているため、ディズニーのマークが出てきて、あれ、もしかして子供が主役?となって、はじめて子供向け映画だったことを知る。けど、それにしちゃ、そんな売り方をしてたっけな? 観客だって大人ばかりだし……なのだった。

タクシー運転手のジャック・ブルーノ(彼が主役かなぁ)は、乗せたつもりのない(気がついたら乗っていた)兄妹に、お金は払うからと荒野のど真ん中(の廃屋)まで連れて行ってくれるよう頼まれる。実は、というかすぐ正体は明かされてしまうのだが、セスとサラは宇宙人なのだった。

セスは分子密度を変えて物体をすり抜けられるし、逆に車にぶつかってその車を粉々にしてしまう。サラは念力で、ジャックの代わりに車を操ったりもするし、一番近くの人間の心が読め、動物とも話ができるのだ。もっともこれらは禁じ手に近いから、最初からこんなのを見せられるとげんなりで、宇宙人であることの証明はもっと違うことでしてくれりゃいいのに、と思ってしまう。

話の方もいきなりカーチェイスになるなど、テンポを優先しているから展開は大雑把。三人を追うのが、政府の特殊機関に宇宙人の暗殺者、そしてマフィアまで出てきてだからややこしい。UFOや宇宙人の存在を知られたくない政府は、とにかくセスとサラを確保しようとするし、暗殺者はセスとサラを追って地球にやって来て二人の行動を邪魔しようとする。マフィアの妨害はおまけみたいなものだが(ジャックはその世界から足を洗って運ちゃんになってたのね)、じゃまくさいことにはかわりがない。

追跡者は入り乱れているが、話はわかりやすい(単純というべきか。言葉で説明しただけのものだし)。高度な文明をもつセスとサラの星(地球とは三千光年離れているがワームホールを利用してやってきたという)だが、ひどい大気汚染で死にかけていた。地球の気候に目をつけ科学的な再生をはかろうとしているのたが、軍がてっとりばやい侵略を主張していて(文明は高度でも似たような問題をかかえているわけだ)、セスとサラが実験結果を持ち帰らないととんでもないことになってしまう、のだと。

何の実験なのか(汚染撤去のヒントなんだろうが? 最初に行った廃屋の秘密の地下に巨大な植物が育っていたから、実験は成功したってことなのか?)、何故子供のセスとサラ(見た目じゃわからないが、両親が、と言っていた)を寄越したのかは聞き漏らしてしまったのだけど(言ってた?)。

話としてはそれだけなんだが、派手なアクション場面はいくつも散りばめてあるし、円盤や基地なども丁寧に作られているからSFファンなら楽しめる。

が、やはり展開は単純すぎだろう。UFOの存在を主張しても信じてもらえないフリードマン博士(注2)などを話に強引に巻き込んではいるが、原題通り一直線に宇宙船の隠し場所であるウィッチマウンテンをめざしちゃうんだもの。

それにしても、これはやはり子供向け映画として宣伝すべきではないか。アクション映画の要素は多いが暴力に繋がるイメージはなく、だから死体がゴロゴロということもない。そこらへんの配慮はディズニーなんで行き届いているから、夏休み映画にはぴったりなのにねぇ。でも今時の子供はこの程度の話じゃ納得しないのかもね(私が小学生なら大喜びしてたはずだ)。

子供映画としての配慮があると書いたが、ロボットのような敵の暗殺者がヘルメットを取った時には、おぞましい頭部が見えてぞっとした。一瞬だからよかったものの……ってことは、セスもサラも同じような形状なんだよね(ええっ!?)。それとか、セスとサラが捕まったら解剖される、なんていうけっこう気味の悪い発言もあった。もちろん子供映画だからって、綺麗事だけで作れるなどとは思っちゃいないが。

考えてみるとジャックなんて、基本的には最初から二人を信じて行動していたからねぇ。どちらかというとセスの方が、人間を信じていいのかどうか再三迷っていたけれど、これはセスの方が正しいだろう。人間の少年少女に化けたのも正解。お人好しのジャックでも化け物だったら信じなかったろうから。

注1:オフィシャル・サイトにいくと、オリジナル版で兄妹を演じたアイク・アイゼンマンとキム・リチャーズとに、保安官とウェイトレスの役をあてたらしい(英語なんで違ってたらごめん)。これが日本語のサイトにないのは(ざっと見ただけだが)、二人が日本では知名度がないからなんだろうけど、でも教えて欲しいよね(プログラムには書いてあるのかも)。昔の映画の方が兄妹が幼いのは、実年齢にあった層を狙ってのことで、当時はこういう作りの映画が今よりずっと多かったと記憶する。

注2:ラスベガスのSFオタクの集まりで自説を熱く語るのだけど、オタクたち、というよりUFOを見たとか乗ったとか言ってるだけの人たちは、博士の話などロクに聞いちゃいなくて、結局、UFO隠しにやっきになっている政府もいけないが、UFOがいると言っている人たちもほとんどがインチキなのだと、フォローしてたような。

原題:Race to Witch Mountain

2009年 98分 シネスコサイズ 配給:ディズニー 日本語字幕:林完治

監督:アンディ・フィックマン 製作:アンドリュー・ガン 製作総指揮:マリオ・イスコヴィッチ、アン・マリー・サンダーリン 原作:アレグサンダー・ケイ 原案:マット・ロペス 脚本:マット・ロペス、マーク・ボンバック 撮影:グレッグ・ガーディナー プロダクションデザイン:デヴィッド・J・ボンバ 衣装デザイン:ジュヌヴィエーヴ・ティレル 編集:デヴィッド・レニー 音楽:トレヴァー・ラビン 音楽監修:リサ・ブラウン

出演: ドウェイン・ジョンソン(ジャック・ブルーノ)、アンナソフィア・ロブ(サラ)、アレクサンダー・ルドウィグ(セス)、カーラ・グギーノ(アレックス・フリードマン博士)、キアラン・ハインズ(ヘンリー・パーク)、トム・エヴェレット・スコット(マシスン)、クリストファー・マークエット(ポープ)、ゲイリー・マーシャル(ドナルド・ハーラン博士)、ビリー・ブラウン、キム・リチャーズ、アイク・アイゼンマン、トム・ウッドラフ・Jr

蟹工船

テアトル新宿 ★

SABU監督のコメントと撮影で使われた歯車とシンボルマークが描かれた旗。

■なまぬるさは現代的?

年に何本か体質的に受け入れられない映画にぶつかるが、この作品もそうだった。映画が素晴らしければそれを堪能すればよく、駄作であっても作品をけなしまくる楽しみというのがあって、意外とそれが面白かったりする。が、そういう気が起きない映画というのもあって、もうメモをとるのすら憂鬱なんである。あー、何から書きゃいいんだ。

とりあえず原作を読んだときに感じた悲惨さがまるでなかったことでも書いておくか。けど、私が原作を読んだのは四十年近くも前の話で、ほとんどと言っていいくらい何も覚えてないのだが。それに原作に忠実であればいいってもんでもなし……。

「今は何時だ。今日は何曜日だ」というセリフは、重労働が続いて時間の感覚がなくなっていることを訴えているのだろうが、この映画の蟹工船内にそんな感じはない。どころか、歯車(これも俺たちは歯車だ、というセリフにリンクさせたのだろうけどねぇ)を回している者はまだしも、蟹缶の仕分け作業など、見た目通りの軽作業にしか見えない。軽作業だから楽とは限らないが、その描きこみがない(言葉ではあっても)んじゃ話にならない。ま、それ以前にこの蟹工船での操業が、カムチャッカという凍り付くような北の海(特にこの部分)での、つまり逃げ場のない労働なのだ、ということすらあまり伝わってこないのだが。

長時間労働にしては全員で議論したり愚痴り合ったりする時間が案外たっぷりあるようで、だから労働はきついのだろうが、搾取されているという図式までにはならない。なにしろ、みんなが語り出すこれまでの貧乏生活自慢の方が、蟹工船より悲惨に見えてしまうのだ。このイメージ映像は逆効果としか思えないものではあるが、貧乏比べになっているだけまだ見ていられるのだが、これと対になっているかのようなお金持ち(に生まれ変わったら)イメージ映像の陳腐さといったらなく、監督の感性を疑いたくなった。

その貧乏自慢を後ろ向きと決めつける新庄が、前向きだからと提案するのが集団自殺。どうやっても勝てないから来世に賭けるというのだが、そんな妄想でみんなを煽動するなんてどうかしている。お前が一番後ろ向きだとか、死にたくないという奴もいたのに、そろそろ楽になろうぜと、という新庄の言葉に、いつのまにか全員で首つりをしようとしているのだからたまらない。船が大きく揺れたものだから踏み台が外れて未遂に終わる、って、これも馬鹿らしい。

運良くロシア船に救助された新庄と塩田は、ロシア船で歌って踊って思想転換?し、またまた運良く帰ってきて、今度は死ぬ話ではなく生きる話、とみんなが夢を語る方向へと持って行く。けど、やっていることに真実味がないし、自殺に比べたら大分マシな話とはいえ、またしても煽動されてしまう労働者どもの主体性の無さも気になる。

こんなだから彼らは、監督の浅川の言動の矛盾にも気づきもしないのだろう。浅川は蟹工船の操業を国家的事業と位置づけ、人口増に対する食料政策は日本とロシアの戦争でもあるという。そのくせ同じ蟹工船の秩父丸が救助を求めてきた時も、沈んだら保険金が入ってかえって得するなどと言っていた(これは船長への脅し文句だが)。浅川にとっては日本とロシアの戦争ではなく、他の蟹工船との戦争(=自分の成績)にすぎないことは他の場面でも明らかなのに、これについては追求されることがない。

「俺は人間の体力の限界を知っている」などと言ってはキレまくっている浅川だが、彼のしごきが空回りに見えてしまうのは、労働者の方に最初に書いたような切実さがないからだろう。だから、浅川によって絶望感がもたらせられる、という図にはならず、「俺たちの未来は俺たちの手で勝ち取ろう」という蜂起にどう繋がっていったのかもよくわからない。新しい言葉が発せられて、それになびいただけ、という印象なのだ。

だから、どうしてそうなったかがわかりにくいのだが、労働者たちは団結して浅川たちを追い詰める。が、これは日本軍の駆逐艦がやってきて、あっけなく鎮圧されてしまう。

代表者となっていた新庄の死で「代表者なんか決めなければよかった。俺たちは全員が代表者なんだ」と再度みんなが目覚めたところで終わりになるのは、多分原作がそうなのだろうが、いかにも甘い。もう一度同じことが起きたらどうするつもりなのか、何の回答も示されてないというのに。原作は悲惨さは描けていたからまだしも(というかそれ以上の比較が私には出来ないだけなのだが)、映画にはそれがないから、団結場面はおよそ現実感のないものにしか見えなかったのである。

こう言ってしまっては悪いが、映画が小説の人気に便乗したのは間違いなく、そして小説がワーキングプアに受け入れられたにしても、入場料が千八百円の映画を彼らが観るかといえばそれはあまり考えられないし、となるとこの映画は誰に観てもらいたくて制作したのかという話になってしまう(とりあえず『蟹工船』ブームで、『蟹工船』が何かを知りたい人とかは観るのかしら。でもだとしたらもう遅いような?)。

むきだしの歯車を並べた現場や、太い管が積み上げられたような労働者に割り当てられたベッド、こういうセットも内容で躓いているので、ただ奇異なものとしか映らない。タコ部屋的状況を表したいのだとしたらいかにも中途半端だろう。歯車の中に人の手を三本組み合わせた旗や鉢巻きにさえ、労働者たちの妙な余裕に思えてしまう。やはり過酷な労働という部分をおろそかにしたことが全てを台無しにしてしまったようだ。

が、よくよく考えてみると現代の労働環境が、小林多喜二の『蟹工船』ほど過酷とは考えられず、このなまぬるさは案外現代的なのかもしれない。

 

2009年 109分 ビスタサイズ 配給:IMJエンタテインメント

監督・脚本:SABU プロデューサー:宇田川寧、豆岡良亮、田辺圭吾 エグゼクティブプロデューサー:樫野孝人 原作:小林多喜二 撮影:小松高志 美術:磯見俊裕、三ツ松けいこ 編集:坂東直哉 音楽:森敬 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:NICO Touches the Walls『風人』 VFXスーパーバイザー:大萩真司 スクリプター:森直子 スタイリスト:杉山まゆみ ヘアメイク:河野顕子 音響効果:柴崎憲治、中村佳央 照明:蒔苗友一郎 装飾:齊藤暁生 録音:石貝洋 助監督:原桂之介 スーパーバイジングプロデューサー:久保田修 共同エグゼクティブプロデューサー:永田勝治、麓一志、山岡武史、中村昌志

出演:松田龍平(新庄/漁夫)、西島秀俊(浅川/監督)、高良健吾(根本/雑夫)、新井浩文(塩田/漁夫)、柄本時生(清水/雑夫)、木下隆行(久米〈TKO〉/雑夫)、木本武宏(八木〈TKO〉/雑夫)、三浦誠己(小堀/雑夫)、竹財輝之助(畑中/雑夫)、利重剛(石場/漁夫)、清水優(木田/漁夫)、滝藤賢一(河津/雑夫)、山本浩司(山路/雑夫)、高谷基史(宮口/雑夫)、手塚とおる(ロン/支那人)、皆川猿時(雑夫長)、矢島健一(役員)、宮本大誠(船長)、中村靖日(無電係)、野間口徹(給仕係)、貴山侑哉(中佐)、東方力丸(大滝/釜焚き係)、谷村美月(ミヨ子)、奥貫薫(清水の母親)、滝沢涼子(石場の妻)、内田春菊(久米の妻)、でんでん(和尚)、菅田俊(畑の役人)、大杉漣(清水の父親)、森本レオ(久米家の通行人)

群青 愛が沈んだ海の色

新宿武蔵野館3 ★☆

長澤まさみ、佐々木蔵之介、良知真次、田中美里、中川陽介監督のサイン入りポスター。

■呪いのサンゴが沈んだ海の色

じじい係数が上がって、ゆったり映画の方が受け入れやすくなっているのだが、でもこの作品ように大した内容ではないのに長いのは困りものである。

第一章は、病気で南風原島に帰ってきたピアニストの由紀子と漁師(ウミンチュ)の恋。漁師の仲村龍二は由紀子のピアノの演奏を聞いて夢中になってしまう。「芸術というのはいいものだ」などとぬかしちゃったりしてさ。すさんだ由紀子の演奏に乱れがなかったかどうか気になるところではあるが、私と同じく龍二にそこまで聞き分ける耳があったとも思えない、じゃ話にならないから、そんなことはわざわざ言ってなかったが。

それはともかく、自棄になっていた由起子だが、龍二の想いが次第に彼女を癒していく。龍二は由起子のために、女のお守りであるサンゴを二日がかりで採ってくる。「身につけていれば病気が治る」はずであったが、そして二人は結ばれはするのだが、由紀子は赤ん坊の娘を残して死んでしまう。

その娘涼子が育って、同年代が他に上原一也と比嘉大介の男二人だけの、兄弟のように育った三人の複雑な恋物語になるのかと思っていると、仲良しと好きは違って、で、あっさり決着。失恋した大介は島を去って行く。が、涼子の心を掴んだ一也も、十九歳にもなっていないのは若すぎると、結婚の許しを龍二からもらえない。龍二のようにサンゴを探してくれば一人前の漁師として認めてもらえるのではないかと懸命になる一也だったが、十日目に命を落としてしまう。これが第二章。

第三章は、一也の死のショックで精神に異常をきたしてしまった涼子のもとに、一年ぶりで大介が戻ってくる(巻頭の場面にもなっていた)。島で昔作られていた焼き物を復元したいという理由はともかく(そういや大介は那覇の芸術大学へ行ったのだった)、龍二の家に居候っていうのがねぇ。龍二には大介の力を借りてでも涼子を何とかしたいという思いがあったのだろうが……。

どの話も中途半端で深味がないかわりに(事故という大袈裟な設定はあるが)、誰にでも思い当たる部分はありそうで、だから共感が出来ないというのではないのだが(って無理に褒めることもないのだけど)、各章の要となる部分が恐ろしく嘘っぽいため、せっかく積み上げてきた挿話が実を結ぶには至らない。

なにより酷いのが死を安易に使いすぎていることで、特に一也の無駄死には、経験は少なくても彼が一応漁師の端くれであることを考えるとあんまりだろう。素潜りが得意と言っていたから過信があったのかもしれないが。そして、他にも説明がうまくいっていない部分が沢山あるのだ。

龍二は涼子に、サンゴを採ったからって一人前の漁師になれるわけではないし、家族を守るためにはまず自分を守らなければいけないと言う(これは、事故が起きる直前の会話)のだが、考えてみれば龍二のサンゴ採りも嵐の中、二日も連絡なしでやっていたのだから褒められたものではないのだが、まあ、若さというのはそんなものか。

大介の事故に至っては、その行為が唐突で、何で龍二が大介を見つけられたのかもわからないし(島のみんなが総出で探してたのにね)、涼子には母の由紀子が、そして大介には一也が来て(現れて)助かった、って、何だこれってオカルト映画だったのか、とも。

大介の行為を唐突と書いてしまったが、大介は涼子の精神が破綻しているのをいいことに彼女を抱こうとした自分への嫌悪感があった(これはわかる)。このことの少し前に、大介の焼き物作りが涼子の心を少し開いたかと思わせる場面(涼子も花瓶を作り、大介と一緒に一也の家に届ける)があるのだが、「涼子のためだったら何でもする」と大介が言った時の涼子の答えは「一也を連れてきて」だった。

けれど、だからといって大介までもがサンゴ探しとなるのは飛躍しすぎで、これではやはり呪いのサンゴ説としかいいようがなくなってしまう。

映画が茫洋としていてつかみどころがないのは涼子の精神荒廃そのもののようでもあるが、もしかしたら誰に焦点を当てているのかがはっきりしないからではないか。語り手を大介にしたのなら第一章はなくてもすみそうだし、でもだったら主人公は涼子なのか、龍二なのか。そもそもこの映画の言いたいことは何なのか。もっとしゃんとして映画を作ってほしいものだ。

あとこれはどうでもいいことなのだが、私の観たフィルムでは、題名は原作と同じ『群青』のみで、副題はどこにも表示されていなかった。

 

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス

監督:中川陽介 プロデューサー:山田英久、山下暉人、橋本直樹 アソシエイトプロデューサー:三輪由美子 原作:宮木あや子『群青』 脚本:中川陽介、板倉真琴、渋谷悠 撮影:柳田裕男 美術:花谷秀文 衣裳:沢柳陽子 編集:森下博昭 音楽:沢田穣治 主題歌:畠山美由紀『星が咲いたよ』 スタイリスト:安野ともこ ヘアメイク:小林博美 ラインプロデューサー:森太郎 音響効果:勝俣まさとし 照明:宮尾康史 装飾:谷田祥紀 録音:岡本立洋 助監督:橋本光二郎

出演:長澤まさみ(仲村凉子)、佐々木蔵之介(仲村龍二/凉子の父)、福士誠治(比嘉大介)、良知真次(上原一也)、田中美里(仲村由起子/凉子の母)、洞口依子、玉城満、今井清隆、宮地雅子

マン・オン・ワイヤー

テアトルタイムズスクエア ★★★

テアトルタイムズスクエア通路での作品に関する展示。写真1の中央下は、日本にやってきたフィリップ・プティが、5/19に渋谷区の桜丘公園で大道芸を披露したときのもの。

■人生を変えた伝説の綱渡り

昔のマンガ故(四十年以上前か)うろ覚えなので申し訳ないのだが、一峰大二の忍者マンガに次のような場面があった。殿様が忍者に術を見せてくれとせがむと、その忍者は襖の敷居の上をスタスタと歩いてみせるのだ。殿様が、そんなことなら儂にもできると言うと、忍者は敷居の左右が断崖絶壁でも同じように出来るでしょうか、と平然と答えるのである。

綱渡りは、敷居歩きとは違ってさらなる技もいりそうだが、でもたとえそれが五メートルや十メートルの高さで出来たからといって、地上四百十一メートルで同じことが可能かというと、やはり別問題のような気がしてしまう。で、マンガを思い出してしまったのだが、しかし達人にとってはやはり同じことのようなのだ。これは、私にそのことを証明してくれた映画なのでもあった。

やってしまったことがいくら大それたことであっても、そしてその行為が「四十五分間とどまり八回渡った」という予想外に長い時間におよんだにしても、でも、それだけでは映画にはなるはずがないと思っていたが(実際その場面は、四十五分よりずっとずっと短いものであった)、そんな心配は杞憂にすぎず、すこぶる面白いドキュメンタリーに仕上がっていた。

今となってはワールド・トレード・センターのツインタワーが9.11(二千一年)で姿を消してしまったことも、直接関係はなくてもこの綱渡り伝説の一部を彩っていそうである。が、むろんそれはたまたま付加された一挿話にすぎない。そのことより、フィリップ・プティがこの計画を閃いたのが、ツインタワーの完成予想図を見てのことだったのには、なるほどと思ってしまう。なにしろツインタワーという形状が、綱渡りを可能にしているのだから。ツインタワーの頂上を目指したのはキングコングだけじゃなかったのだ。

当時の関係者(恋人や友達など)がいまだに興奮状態で語っている様子をみても、その行為のとんでもなさがわかるのだが、偽の身分証を作ったり、まだ建築中(完成間近)の建物に忍び込んでも二つのタワーの間にワイヤーをかけなくてはならないなど、意外と綱渡りの前までにクリヤーしなければならない関門が多いのだった。

そしてこれがさながらサスペンス映画ばりの侵入映像(犯罪だからね)で語られていく。チームには雇われ要員?までいて何やら不穏な雰囲気にもなって、って、まるで銀行強盗映画ではないか。この再現が巧みで、一瞬とはいえ当時のフィルムかと思ってしまったくらいなのだが(でもまあ芸術的すぎたかしらね)、綱渡りの瞬間でさえ、至近からのものは写真しか残っていないのだから、そんなわけはないのだった。

今のようにムービーが身近なものではなく(その他の映像はいくつも残っていて、この映画でも使われているから、珍しいというのではないのだが)、そして千九百七十四年当時、世界はまだまだ遠くにあったのだ。日本にもこのニュースは流れたというが、私がぼんやり人生を送っていたからにしても、こんな快挙が伝わってなかったなんて今では考えられないことだからだ。

映画としてはこのハイライト部分で終わりのはずだが、この行為によって人気者(実体は犯罪者なのだが)になったプティの、犯罪としてではない過ち場面を、映画は再現フィルムにしてまで、あえて付け加えている。それは昂揚したプティが、彼の前に現れた女性ファンとどこかのベッドへ行った、というものだ。この場面を入れたということは、プティは今では過ちとは思っていないのだろうか。「アニー(恋人の名)への裏切り」と、はっきり言っていたが。そしてそのアニーも「二人の愛はそこが終点」と。

伝説になるようなことをしてしまったら、やはり何かが変わってしまうのだろう。そうに違いない。

が、またそれとは別に、あれから何年も経ってしまったという、ただ単に時間が経ってしまったということもあるだろう。プティはあのあとツインタワーの永久入場証をもらったらしいが、ツインタワーが丸ごと無くなってしまっては永久も何もないではないか。時の前では、不変であることの方が難しいようだから。

ところで、綱渡り場面のプティはパンタロン姿だった。そういや、あの頃、流行ってたよなぁパンタロン。パンタロンって風の影響を受けやすそうなんだけど(考えすぎ?)、若いプティは、それよりスタイルを気にしたんだろうね。

 

原題:Man on Wire

95分 イギリス ビスタサイズ 配給:エスパース・サロウ 日本語字幕:?

監督:ジェームズ・マーシュ 製作:サイモン・チン 製作総指揮:ジョナサン・ヒューズ 原作:フィリップ・プティ 撮影:イゴール・マルティノヴィッチ 編集:ジンクス・ゴッドフリー 音楽:マイケル・ナイマン

出演:フィリップ・プティ

真夏のオリオン

109シネマズ木場シアター6 ★★☆

■生きるために戦う

すでに敗戦となってから六十四年。現代に結びつけるためには主人公の孫娘に登場願わないではいられないほど昔のことになってしまった(孫娘でもきついような?)。これほど時が経ってしまうと、すぐそこにあったはずの太平洋戦争(もちろん私だって知らないのだが、戦争はそんな私にとっても、そう古くない時期にあったのである)も、映画などには次第に現代風な装飾がほどこされていくのだろうか。

女教師の倉本いずみが古い楽譜を手に鈴木老人を訪ね、祖母有沢志津子の名(署名も欧文というのがねぇ)のある楽譜を、何故アメリカ兵が持っていたかを聞き出す。楽譜にはイタリア語で「オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように」と書いてあるのだが、まずこの構成(楽譜が悪いというのではない。お守りとして適切かどうかはともかく)が気に入らない。戦争映画のくせに何故か格好を付けているような気がしてしまうのだ。

格好の話でいけば、相変わらず戦争映画なのに長髪で、まあそれは目をつぶるにしても、とても出演者があの頃の戦争当事者には見えない。これは時代劇なのにお歯黒じゃなかったりするのと同じと、そろそろ観念しなくてはならないのかもしれないのだが。

というわけで、戦争映画にしては泥臭さのまったくない作品となった。舞台がイ-77潜水艦なので、その艦長である倉本に言わせると、潜水艦乗りは「いったん海に出てしまえば自由」な場所だからということもあって(倉本がそういう自由な雰囲気を作っていたこともあって)、日本軍につきもののしごきなどの場面もなく、目の前には戦争という個人ではぬぐいきれない困難こそあるものの、その他は善意でなんとかなってしまう世界にしてしまっているのだ。

もっとも同乗している回天の乗組員たちはそんな空気にはなじめずにいるのだが、倉本は特攻兵器の回天でさえ、端っから特攻させる気などなく(軍法会議ものなのじゃないかしら)、駆逐艦の攻撃を受けて動けなくなり酸欠になれば、回天にある高圧酸素を使ってしまうし、攻撃の際には、偽装のため二基の回天を(スクリュー音の数を潜水艦に合わせるため)、乗組員なしで発鑑させてしまう(二つともなかなかのアイデアだった)。

「俺たちは死ぬために戦っている」という彼らに対し、「たった一つの命なのにもったいない」「死ぬために戦っているのではない、生きるために戦っている」と倉本の言は明快なのだが、ここまで格好よくしていられただろうかと、逆に落ち着かなくなってしまうほどだ。

倉本は有沢志津子にも絶対帰ってくると言っていたし、これはやはり今の視点で太平洋戦争を解釈してみせたととった方がわかりやすそうだ。「始めた戦争を終わらせるのも軍人の仕事」とイ-81の艦長有沢(志津子の兄)と語り合うのもそういう視点でのことだったのだ、と思えばとりあえずは納得できる(もちろん、そう考えていた人もいただろうが)。

というわけで、マイク・スチュワートを艦長とする米海軍駆逐艦パーシバルとの戦いも陰湿なものではなく、お互いの存在を認め合ったゲーム的な感覚に終始したものとなっている。倉本とスチュワート艦長が互いに秘術?を尽くしたあとに、イ-77は回天の偽装で駆逐艦の船尾に最後の魚雷を命中させる。撃沈こそできなかったものの一矢を報いたのだ、とうまくまとめている。ただ、敵のソナーをかいくぐっている状況にしては音に無頓着だったり(昔のマンガや映画ではこれがもっと緊迫感ある場面として使われていたが?)、CGやミニチュア?がちゃちに見えてしまうのは残念だった。

攻撃兵器を使い果たしたイ-77はパーシバルの前に浮上するが、スチュワート艦長もいきなりの攻撃はせず、イ-77の総員退艦を待つよう命じる。そしてその時、駆逐艦上が歓声に包まれる。日本の降伏が知らされたのだ。回天搭乗員の遠山は先に行った仲間に顔向けできないと倉本に銃を向け徹底抗戦を迫るが、倉本のこれが終わりではなく始まりだという説得に銃を下ろす。結局倉本のイ-77は、事故で水雷員一人を失っただけで日本に帰ることが出来た、って、うーん、やっぱりなんか格好よすぎなんだけど……。

   

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:篠原哲雄 監修・脚色:福井晴敏 製作:上松道夫、吉川和良、平井文宏、亀井修、木下直哉、宮路敬久、水野文英、吉田鏡、後藤尚雄 プロデューサー:小久保聡、山田兼司、芳川透 エグゼクティブプロデューサー:梅澤道彦、市川南、佐倉寛二郎 企画:亀山慶二、小滝祥平 原作:池上司『雷撃深度一九・五』 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 撮影:山本英夫 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:阿部亙英 音楽:岩代太郎 主題歌:いつか『願い星 I wish upon a star』 照明:小野晃 製作統括:早河洋、島谷能成 装飾:尾関龍生 第2班監督:岡田俊二(ニューヨークユニット監督) 録音監督:橋本文雄

出演:玉木宏(倉本孝行/海軍少佐、イ-77潜水艦艦長)、堂珍嘉邦(有沢義彦/海軍少佐、イ-81潜水艦艦長)、平岡祐太(坪田誠/軍医中尉、イ-77軍医長)、黄川田将也(遠山肇/イ-77回天搭乗員)、太賀(鈴木勝海/イ-77回水雷員)、松尾光次(森勇平/イ-77水雷員)、古秦むつとし(早川伸太/イ-81水雷長)、奥村知史(小島晋吉/イ-77水測員)、戸谷公人(山下寛二/イ-81水測員)、三浦悠久(保憲明/イ-77回天搭乗員)、山田幸伸(岡山宏次/イ-77水雷員)、伊藤ふみお(有馬隆夫/イ-77機関科員)、鈴木拓(秋山吾朗/イ-77烹炊長)、北川景子(倉本いずみ、有沢志津子/有沢義彦の妹、いずみの祖母)、デヴィッド・ウィニング(マイク・スチュワート/米海軍駆逐艦パーシバル艦長)、ジョー・レヨーム(ジョセフ・フリン/パーシバル副長)吉田栄作(桑田伸作(特務機関大尉、イ-77機関長)、鈴木瑞穂(現在の鈴木勝海)、吹越満(中津弘/大尉、イ-77航海長)、益岡徹(田村俊雄/特務大尉、イ-77水雷長)

愛を読むひと

109シネマズ木場シアター4 ★★★★☆

■娘に聞かせる自分の物語

原作を読んだのは五年くらい前だったと思うが、例によって細部はすっかり忘れていて(恨めしい記憶力! しかもその文庫本もどこへ行ったのやら)、でもそれだからマイケルがハンナに出会うところから全部を、まるで自分の回想のように、ああそうだった、と確かめるような感じで観ることができた(すべてが原作と一緒というのではないのだろうが、曖昧な記憶力がちょうどいい作用をしてくれたようだ)。

これはちょっとうれしい経験だった。なにしろ前半は甘美で、舞い上がりながらも年上のハンナに身を任せていればいいのだから……。そうして、その先に起きることも知っているのに、映画にひき込まれていたのだった。

それにしてもハンナは何故自殺してしまったのか。無期懲役の判決で希望はなくても生きていたというのに。坊やからのカセットで、罪と引き換えにしてまでも隠そうとした文盲であることの恥からも解放されていたというのに。坊やの態度があまりにも他人行儀だったからか。生まれた希望が消えそうになった時、人は死を選ぶのだろう。

映画はマイケルの回想でもあるから現代ともリンクしていて、だからそこにはマイケルの主観が強く反映されているはずなのに、心理的な説明には意外と無頓着でさえある。けれど、そのことによって、マイケルの、そしてハンナの気持ちも探らずにはいられなくなるのである。

十五歳の時に二十一歳年上の女を愛せたマイケルは、七十三歳のハンナには惹かれることのない五十二歳になっていたのか。皮肉なことにケイト・ウィンスレットは私の目には三十六歳の時よりも七十三歳のメイクの時の方が美しく見えたのだが……(まあ、これは本当の年齢を知ってるからかもしれないが)。

それはともかく、マイケルのハンナに対する感情はそんな簡単なものではなかったのだろう。マイケルは、ハンナが着せられた罪が真っ当でないことは知っていたが、しかし、彼の学友がハンナを糾弾したように(注1)、程度の差こそあれナチスに加担したハンナを、いくら時間が経過したとしても、喜んで受け入れられはしなかったのではないか(注2)。

話がそれたが、問題はハンナがマイケルの心象についてどこまで考えていたかだが、もしかしたら、そんなにも問題視していなかったような気もする。

罪は法的な意味合いしかないにしても償ったわけだし、少なくともハンナはハンナに罪をなすりつけた元同僚たちのような、相手を貶めるような嘘はついていない(文盲についての嘘はついたが)。また、例えばマイケルの前から姿を消してしまったのも、市電の勤務状態がよく、昇進してしまっては文盲などすぐバレてしまうからなのだが、経歴詐称をしていたことなどは考えられないだろうか。これは考えすぎにしても、ドイツが戦争に対する反省を繰り返して来たことからも、ハンナが普通の人間であれば、罪の意識は十分あったはずである(だからといって、過去の行為を深く反省していたかどうかはまた別の問題ではあるが)。

けれど、ハンナの自殺は、そんなことではなくて、マイケルの手に重ねた自分の老いた手を引っこめなければならなかったことにあったような気がする。女性看守が「昔はきちんとしていたのに、最近はすっかりかまわなくなってしまって」とマイケルに言っていたが、ハンナの部屋はすべてが整然としていた。ここでの映画の説明は、荷物を片付けなかったのはハンナがここを出て行くつもりがなかったこととしていたが、身辺にかまわなくなったハンナにしては、マイケルによってもたらされた文字という世界を知った喜びを表現したような部屋になっていた(注3)。

私としては、身の回りのことをかまわなくなったハンナが、マイケルの来訪を知って、出来る限りのことをしたのではないかと思いたいのだが……。でもだからこの部屋はハンナにとって、もう悲しみ以外の何物でもなくなっていたのではないか。

もうひとつ。これは本がそうだったかどうかの記憶がないのだが、つまりすっかり忘れてしまったのだが、この物語が、マイケルが娘に語る自分に関する話になっていることで、これだけの話を娘に語れるのであれば、マイケルと娘との関係はそうは心配しなくてもいいのではないだろうか。妻とは別れてしまっていて、その影すらほとんど出てこないのは気がかりではあるが(作品としてはこれでいいにしても)。

しかし作品の中でケイト・ウィンスレットがいかに好演したにしても(デヴィッド・クロスもよかったが、十五歳はきついか)、これはやはりドイツ語によって演じて欲しかった。その弊害がいろいろなところで出てしまっているのだ(注4)。語学に疎い私ではあるが、マイケル・バーグという名のドイツ人といわれてもしっくりこない。やはりミヒャエル・ベルグでなくては(ハンナ・シュミッツは同じなのかしら)。

注1:この裁判は目くらましで、たまたま生き残った囚人が本を書いたからスケープゴートにされたに過ぎないと言っていた。また、この学生は君が見ていたあの女(ハンナ)を撃ち殺したい。出来れば全員を撃ち殺したいとも発言している。

この作品ではナチス狩りの正義が、まるで魔女狩りの如くだったことも描かれていて、これも重要なテーマの一つとなっている。ロール教授の法的見解(問題は悪いことかどうかではなく法に合っているかどうか)もそれを踏まえたものになっている。

注2:だから最初の面会も手続きをすませながら、マイケルは姿を消してしまったのだろう。ただ、これについてはあまり自信がない。単純にかつて愛したハンナの老いに、やはり戸惑ったととるべきか。ただし、ハンナの秘密を守ったのはハンナの意志を尊重したマイケルの愛で、だからこそハンナにカセットテープを送り続けたのだろう。

注3:ハンナが文字を覚えていく過程は、涙が出るくらい素晴らしい感動に溢れていた。

注4:注3で触れた場面だが、ハンナが本の「the」の部分に印を付けていったり、もっと前ではマイケルに朗読をせがむ場面では、ハンナはラテン語やギリシャ語を美しいとまで言うのだ。こんな言葉にこだわったセリフがあるのに、ドイツ語を英語にしてしまう神経がわからない。

 

原題:The Reader

2008年 124分 アメリカ、ドイツ 配給:ショウゲート 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンスプロダクションデザイン:ブリジット・ブロシュ 衣装デザイン:アン・ロス 編集:クレア・シンプソン 音楽:ニコ・ムーリー

出演:ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ)、レイフ・ファインズ(マイケル・バーグ)、デヴィッド・クロス(青年時代のマイケル・バーグ)、レナ・オリン(ローズ・メイザー/イラナの母親、イラナ・メイザー)、アレクサンドラ・マリア・ララ(若き日のイラナ・メイザー)、ブルーノ・ガンツ(ロール教授)、ハンナー・ヘルツシュプルング(ユリア/マイケルの娘)、ズザンネ・ロータ(カーラ/マイケルの母)

ターミネーター4

新宿ミラノ2 ★★★

写真:六月七日に先行上映された時のミラノ座の入口のタイムテーブル。六時十五分の回に来た強者は何人いたのかしら。

■未来の話なのに新鮮味に乏しい

シリーズものの映画感想文を書く度、記憶力のなさという弁解から始めなくてはならないのは気が引けるが、事実なのでどうしようもない。真面目な映画ファンならDVDで過去の作品をおさらいしておくのだろうが、そういうマメさを持ち合わせていないので、かなりアバウトな鑑賞になっていることをまず断っておく。

しかしながらこの作品、過去のしがらみから切り離してみると(記憶力の乏しさ故そういう観方しかできないのではあるが)なかなかよく出来ていることに気づく。

なんとも不気味なコロムビア映画のタイトルから、「審判の日」を迎えてしまった二千十八年の世界を覆い尽くしている暗さが、尋常でないことを物語る。次々と登場する人間狩りマシーンによってもたらされる殺伐とした世界の描写にはお手上げで、とてもこんなヤツらの目をかすめてなど生きていけそうもない気分になる。巨大ロボットやモトターミネーターに水中ターミネーターの出来映えが素晴らしく、つまり恐ろしいことこの上ないのだ。

が、圧倒的な機械軍(スカイネット)に対し、抵抗軍がかなりの戦力をもって組織されていることには、とりあえず安堵もできる。また対機械という戦いの、ぬぐいきれない暗澹たる気分の前で、ジョン・コナーの戦いぶりがかすかな希望となっているのもよくわかる導入部になっている。

いままでの作品が、未来から使命をおびてやってきたターミネーターといういささか荒唐無稽な設定であったのに比べ、その未来に飛んだこの作品ではそのあたりの無理矢理さがなくなり、すっきりとしたわかりやすい話になっている(むろんカイル・リースの確保が重要であったり、ジョンの母親が残した予言テープみたいなものが絡んきだりと、従来作から引き継がれたタイムスリップ的要素が出てくるのは言うまでもない)。

スカイネットのロボットを混乱させるシグナルを手に入れた総司令部が、結局は、まるで
原子力潜水艦で逃げ回ってばかりの頼りない連中だからという烙印を押されるかのように、そのシグナルは司令部の場所を探知するためのスカイネットが仕組んだ罠だったため、あっさり葬り去られてしまうのだが、総攻撃時にもジョンのような信頼感を得ているわけではないから、司令部連中の面子は丸潰れで、味方の人間がやられたというのに、あーそりゃ残念でしたと茶化し気分になってしまう。

実際、このあたりから失速しだしてしまうのだが、単純な私など、これは本当に大傑作かもと、巻頭からわくわくしながら観ていたのである。

抵抗軍の女性兵士ブレア・ウィリアムズがマーカスという男を連れて帰るのだが、実はマーカスがサイバーダイン社の謀略から生まれた機械人間で、本人も自分が人間であることを疑っていないというのが、この作品での鍵になっている。

マーカスの力を借りて捕虜になったカイル(殺しちゃえばすむのにね)を助けにスカイネットの基地に侵入するのだが、マーカスはスカイネットにとっては仲間で、だから簡単に入場許可されて(機械と認識されてしまったわけだ)、少なからず落胆したようなマーカスという図が面白い。

もっともこのマーカスの存在自体が、いくら人間の中に入り込むために作られたにしても、こうはっきり人間性を取り戻して?しまったのでは、スカイネットとしては手落ちもいいところで、ちょっと白けるところだ。マーカス自身も元はといえば死刑囚だったわけで、復活した途端善人になっていたというのでは書き込み不足だろう。

だからブレアとの恋のようなものが挟まれているのだろうが、これがブレアの一方的とも思われる積極さで、マーカスを逃がす伏線にはなってはいるが、マーカス自身の心のありようにまでは踏み込んでいないのが惜しまれる。『ターミネーター2』では、T-800のチップをいじって人間の味方としていたが、身体は機械ながら心はまだ人間のマーカスとの面白い対比となったはずである(けど、どう違うのかは難しい問題だ)。

マーカスをロボット化する医師のセレナ・コーガンが、スカイネットの反乱(これは別の技術者が絡んでいたはずだ)と重なってしまうようで気になるのだが(マーカスの前にセレナの映像を出したのはスカイネットの単なるサービスなのか)、そこらへんはもう一度観て確認したいところだ。

セレナの映像はサービスにしても、スカイネットの中枢と対峙した時の造型など、これまでにもよく出てきたものと大差がないから、まったく面白味がない。T-800の量産工場そのものがスカイネットなのだ、というような解釈でもできるような新しい発想があってもよかったのではないか。

繰り返しになるが、マーカスの苦悩が、そもそもの機械人間として誕生したところの部分がうまくないので、せっかくの設定がちっとも生きてこないのだ。マシーンの動きや世界観などがよくできているのに平凡な作品にしかみえないのは、こういうところの独創性のなさに尽きそうである。

そう思ってみると、T-800との戦いでもまた溶鉱炉が使われていて、その断末魔の動きなども、これはわざと前の作品をなぞっているのだろうが、新鮮味がないのだ。

次回作が、カイルが千九百八十四年に行く物語で(しかしこれだとまたタイムスリップものになっちゃうか)、これはその前置きというのならわからなくもないが、何だか惜しい結果となってしまった。

  

原題:Terminator Sslvation

2009年 114分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:菊池浩司

監督:マックG 製作:モリッツ・ボーマン、デレク・アンダーソン、ヴィクター・クビチェク、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:ピーター・D・グレイヴス、ダン・リン、ジーン・オールグッド、ジョエル・B・マイケルズ、マリオ・F ・カサール、アンドリュー・G・ヴァイナ キャラクター創造:ジェームズ・キャメロン、ゲイル・アン・ハード 脚本:ジョン・ブランカトー、マイケル・フェリス 撮影:シェーン・ハールバット 視覚効果スーパーバイザー:チャールズ・ギブソン プロダクションデザイン:マーティン・ラング 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:コンラッド・バフ 音楽:ダニー・エルフマン

出演:クリスチャン・ベイル(ジョン・コナー)、サム・ワーシントン(マーカス・ライト/元死刑囚の機械人間)、アントン・イェルチン(カイル・リース/ジョン・コナーの将来の?父)、ムーン・ブラッドグッド(ブレア・ウィリアムズ/抵抗軍の女性兵士)、コモン(バーンズ)、ブライス・ダラス・ハワード(ケイト・コナー/ジョン・コナーの妻)、ジェーン・アレクサンダー(ヴァージニア)、ジェイダグレイス(スター/不思議な力を持つ少女)、ヘレナ・ボナム=カーター(セレナ・コーガン/医師)、マイケル・アイアンサイド、イヴァン・グヴェラ、クリス・ブラウニング、ドリアン・ヌコノ、ベス・ベイリー、ヴィクター・ホー、バスター・リーヴス、ケヴィン・ウィギンズ、グレッグ・セラーノ、ブルース・マッキントッシュ、トレヴァ・エチエンヌ、ディラン・ケニン、マイケル・パパジョン、クリス・アシュワース、テリー・クルーズ、ローランド・キッキンジャー(T-800)

宮本武蔵 双剣に馳せる夢

2009/6/28 テアトル新宿 ★★★

■押井守流宮本武蔵論

アニメを使った宮本武蔵に関する文化映画みたいなものか。予告篇では「押井流“歴史ドキュメンタリー”登場」と紹介されていた。

アニメをベースにしたのは、作り手にとってそれが手慣れた手法ということもあるのだろうが、こういう文化映画でのアニメは、観るとわかるのだが、解説との調和が抜群で、映画を非常にわかりやすいものにしている。だからアニメがベースなのは、そういう利点を取り入れた結果でもあるのだろう。

事実、この作品にはアニメの他、実写もあれば、単純に写真も使い、ギャグキャラ押井守似宮本武蔵研究家(+役に立たない助手)の研究成果=蘊蓄(これが実にわかりやすくて面白かった)でほとんどを語っているものの、関ヶ原の合戦などでは浪曲を取り入れたりと、形にとらわれずに解説しまくっていた。まあ、こうすれば理解しやすくなるのはわかったが、構成や美的な趣味を考えると、私なら躊躇ってしまいそうだ。

内容も、いきなり有名な巌流島の決闘から始め、これについて武蔵が終生語ろうとしなかったのは何故か、という疑問で引っぱり、飽きさせない。知っているようで知らない宮本武蔵像に迫っていく。私も吉川英治の小説と、多分それを元にした映画くらいしか知らなかったからねぇ。「武蔵を巡る虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描きだすこと、それこそが、私の研究テーマであり、そしてこの映画の主題です」と、武蔵研究家がズバリ言っていたが、ここでの論に自信があるのだろう。

武蔵の剣法が合戦をイメージしたものと結論づけるのだが、そこに至るまでの道筋を武士の成り立ちから考えるなど、奥の深い整然としたものだ。西洋、東洋、日本の武士の違いから、西洋の騎士はエリート特科部隊としての騎兵であって、彼らが付けていた紋章は身代金を払うためのサインだったという、びっくり論にまで及んでいて、これを聞いただけでも観る価値があった。

他にも、明治まで武士道など存在しなかったなどという、これまた言われてみると、なるほどと思うような話があったが、だけど、何で今、武蔵なんだろね?

2009年 72分 シネスコサイズ 配給:ポニーキャニオン

監督:西久保瑞穂 原作:Production I.G 原案・脚本:押井守 撮影:江面久美術監督:平田秀一 編集:植松淳一 主題歌:泉谷しげる『生まれ落ちた者へ』 CGIアニメーション:遠藤誠 キャラクターデザイン:中澤一登 音響:鶴岡陽太 作画監督:黄瀬和哉 美術監督:平田秀一 色彩設計:遊佐久美子 制作:Production I.G 浪曲:国本武春

劔岳 点の記

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■「未踏峰」かどうかではなく……

明治四十年に、前人未到の地であった立山剱岳登頂を果たした、日本陸軍参謀本部陸地測量部測量手柴崎芳太郎を主人公に、当時の陸軍内部の事情、日本山岳会との駆け引き、案内人の宇治長次郎や家族との信頼関係などを描く、新田次郎の同名小説を原作としたドラマである。

この狭い日本で、明治も三十九年になって、まだ未踏峰があったという事実にはびっくりするが、この未踏峰制覇に一番やっきだったのが陸軍のお偉いさんたちというのが面白い。日本地図の最後の空白点を埋めるべく、そこに国防という大義名分を振りかざすのだが、何の事はない、実は日本山岳会会員である小島烏水らの剱岳登頂計画を知ったからというあたり、日本がこのあと戦争に突き進んでいった元凶をみる思いがするのだが、もちろんそんな暴論で映画が進むはずもなく、もっと足に地の付いた作品になっている。

初登頂に心が動いたのは当事者たちも同じであったはずだが、しかし柴崎の淡々とした地道な仕事ぶりが変わることがない。剱岳の登頂ルートを探りながらも測量という本来の仕事を黙々とこなしていく。若い生田が焦ること方が当然のような気がするのだが、柴崎の仕事優先の態度は、日本山岳会の小島たちにも競争相手という意識を次第に薄れさせ、最後には尊敬の念を抱かせるまでになっていく。

けれど、苦労の末、やっとこ登ってみれば、そこには先人の残した錫丈があり、すでに昔から入山していたことがわかるだけであった。

この結末は、やっぱりな、という思いをもたらすが、と同時に古田盛作(三年前に引退した柴崎と同じ元測量手で、剱岳に挑むが失敗した経験を持つ)からの手紙にあった「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大切」という言葉の意味を考えずにはいられなくなる(こんなことを言われてしまっては、この映画を評価するのも躊躇われるのであるが……というか、ここにだらだらと書いている映画の感想文、全てが、だもんなぁ。……とりあえず私のことに関しては、この言葉は忘れてしまおう)。

地道な人柄を描くために柴崎を淡泊な人物にしてしまったのだろうが、ドラマとしてはいささか大人しすぎた嫌いがある。陸軍の上層部とやり合えとは言わないが、生田や小島とはやはりもう少し何かがあってもいいはずで、多少の歯がゆさが残る。

しかし、そうするとまた別な映画になってしまうわけで、一々起承転結を用意したり大袈裟な事件を持ってこなくても、生田は、子供の誕生の喜びを素直に口に出来るようになっていたし、小島たちとは、互いの登頂を喜び合う山の仲間になれた(手旗信号で合図し合うのがラストシーンになっている)ことで十分、とする謙虚さがこの映画のスタンスなのだろう。これは、自然の前での小さな人間、という位置関係とも通じるものがありそうだ。

ただ、長次郎が案内人となったことで、立山信仰のある芦峅寺集落で働く息子とは険悪になってしまい、けれど、あとでそのことを詫びる息子から食べ物と手紙が届く場面には違和感を覚えた。手紙でのやり取りは、この他にもあって、当時は手紙の他には通信手段がないのだから、例えば柴崎の妻の葉津よがそうしているのはわかるのだが、長次郎親子にそれをさせてしまうと、何か違うような気がしてしまうのだ。

だいたい長次郎(と彼の妻もなのだが)は明治の山男にしては洗練されすぎていて、まあ、これは日本映画の場合、ほとんどすべての作品に及第点をあげられないのであるが(髪型だけでもそうであることが多い)、黒澤映画に師事し、とリアリズムを学んだことを宣伝などでは強調しているのだから、もっと徹底してほしかったところである。

長年撮影監督として腕をふるってきた木村大作が監督となったことで、CGを一切排除し、空撮までしていないことが話題になっていて、確かにその映像は堂々としていて立派なのだが、相手が自然なだけに一本調子になりがちなのは否めない。嵐の中、行者が修行を積んでいるような、自然と人間が張り合っているような(そんな修行をしていたわけではないのだろうが)場面では、単調であってもそういう懸念はなくなるのだが。

登頂や陸軍内での評価など、実際の経緯については多分原作にあたった方が多くの情報を仕入れられると思うのだが、そして、だから映画では撮影にこだわったのだろう。けれどこういう映画なのだから、それこそCGでも取り入れて解説部分を増やしてくれた方が観客としてはありがたい。そうしてしまうと映画の風格は損なわれてしまいそうだが、登頂ルートについて柴崎たちが、何をどう苦労していたのかはずっとはっきりしただろう。「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」という言い伝えを教えてくれた行者の言葉が、科学的にも裏打ちできたのなら、ドラマの平坦さをも補えたのではないか。

また、西洋登山術を取り入れた当時としては最新の日本山岳会の装備や岩壁登攀方法などの解説もあれば、映画ならではの(原作以上の)情報が得られたと思うのだが、木村大作はそんな映画を撮るつもりはなかったんだろうな。

 

2008年 139分 シネスコサイズ 配給:東映

監督・撮影:木村大作 製作:坂上順、亀山千広 プロデューサー:菊池淳夫、長坂勉、角田朝雄、松崎薫、稲葉直人 原作:新田次郎『劔岳 点の記』 脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 美術:福澤勝広、若松孝市 衣装:宮本まさ江 編集:板垣恵一 音楽プロデューサー:津島玄一 音楽監督:池辺晋一郎 音響効果:佐々木英世 監督補佐:宮村敏正 企画協力:藤原正広、藤原正彦 照明:川辺隆之 装飾:佐原敦史 録音:斉藤禎一、石寺健一 助監督:濱龍也

出演:浅野忠信(柴崎芳太郎/陸軍参謀本部陸地測量部測量手)、香川照之(宇治長次郎/測量隊案内人)、松田龍平(生田信/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、モロ師岡(木山竹吉/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、螢雪次朗(宮本金作/測量隊案内人)、仁科貴(岩本鶴次郎)、蟹江一平(山口久右衛門)、仲村トオル(小鳥烏水/日本山岳会)、小市慢太郎(岡野金治郎/日本山岳会)、安藤彰則(林雄一/日本山岳会)、橋本一郎(吉田清三郎/日本山岳会)、本田大輔(木内光明/日本山岳会)、宮崎あおい(柴崎葉津よ/柴崎芳太郎の妻)、小澤征悦(玉井要人/日本陸軍大尉)、新井浩文(牛山明/富山日報記者)、鈴木砂羽(宇治佐和/宇治長次郎の妻)、笹野高史(大久保徳昭/日本陸軍少将)、石橋蓮司(岡田佐吉/立山温泉の宿の主人)、冨岡弘、田中要次、谷口高史、藤原美子、タモト清嵐、原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、前田優次、市山貴章、國村隼(矢口誠一郎/日本陸軍中佐)、井川比佐志(佐伯永丸/芦峅寺の総代)、夏八木勲(行者)、役所広司(古田盛作/元陸軍参謀本部陸地測量部測量手)

トランスフォーマー リベンジ

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★☆

■何故変身するのか?

一作目の『トランスフォーマー』(2007)同様、映像はよくできているのだが、結局最後までノレなかったのも同じ。私など、なにしろトランスフォーム(変身)する意味がいまだによくわかっていないのだ。もっともこの映画が楽しめる人は、この変身場面だけで十分満足なんだろうが。

オートボットが単なるロボットではなく、金属生命体であり、地球に住むためには変身する必要があるというのは納得できても、戦闘のためにも変身しなくてはならないのは、何かと無理がある。確かにある種の攻撃に特化した最適の形状というのはありそうだ。が、変身するには、そのために余計な労力がいるわけで、さらに変身過程では弱点を晒すことにもなるはずなのだが、ひたすら変身することだけに夢中で、そういう部分には触れようとさえしていない。

こういう部分にこだわった方が戦闘場面だってずっと面白くなると思うのだが、ま、そういうところで映画を作ってはいないのだろう。とにかく派手指向なんで、そんな細かいところまでは気が回らないのかも。逆に、人間にまで変身できるロボットまで、少しとはいえ出してしまっては、マイケル・ベイの頭を疑いたくなる(マイケル・ベイに限らず、すぐこういう禁じ手を使いたがるのは何故なんだ)。

物語が前作からそのまま二年後なのはいいにしても、異星人ロボットたちの戦いに人間が巻き込まれるという話(主人公のサムはキューブのかけらを服に見つけたことで、意味不明の文字や幻覚を見るようになっていた)が、ディセプティコンの復活でまた繰り返されるだけだから芸がない(スケールアップはしているが)。というか、例によって一作目の細かな内容はほとんど忘れてしまっているので、よけいそう思えてしまったのだが。

違うのはすでにオートボットたちと米軍とで同盟のようなものができあがっていることか。それなのに舞台は、エジプトだったりして、ピラミッドという歴史的遺産群を背景に、というかリングに見立てて、度派手な戦いが展開されていく。手を触れてはいけない場所でやりたい放題やってみたいという観客の願望をうまく代弁している。オバマ大統領は早々にシェルターに避難してしまったし、補佐官が暴走してるだけだから、いいらしいよ。

その中をサムたちが、こちらはひたすら人力のみを頼りに目的地へ駆けつけるという対比がなかなかだ(オプティマス復活の鍵をサムが握っているのだ)。ただし、こんなところにまで家族愛を押し込んでくるマイケル・ベイの気持ちがよくわからない(ヨルダン軍まで押し込んでた!)。

家族愛については、最初の方でもサムとの別れを母親のジュディにやたら大袈裟に演じさせていたが、これを面白がれるようなセンスが私にはないのだな。サムのボディガードになっていたバンブルビーとの別れも似たようなもので、少々うるさく感じてしまう。

だから一番感心したのは、米軍空母がまるで隕石のように降ってきたディセプティコンたちに甲板を貫かれ、沈没していく場面で、これには『タイタニック』以来の興奮が蘇った。私としては目まぐるしいだけのぐちゃぐちゃ変身場面(実際、映像的にも何が何だかなんだもの)よりは、よほど血がたぎったのだが……。

  

原題:Transformers: Revenge of the Fallen

2009年 150分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント・ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:松崎広幸

監督:マイケル・ベイ 製作:ドン・マーフィ、トム・デサント、ロレンツォ・ディボナヴェンチュラ、イアン・ブライス 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ、マイケル・ベイ、ブライアン・ゴールドナー、マーク・ヴァーラディアン 脚本:アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ベン・セレシン プロダクションデザイン:ナイジェル・フェルプス 衣装デザイン:デボラ・L・スコット 音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー

出演:シャイア・ラブーフ(サム・ウィトウィッキー)、ミーガン・フォックス(ミカエラ/サムの恋人)、ジョシュ・デュアメル(ウィリアム・レノックス/米国陸軍少佐)、タイリース・ギブソン(ロバート・エップス/米国空軍曹長)、ジョン・タートゥーロ(シーモア・シモンズ/元セクター7のエージェント)、ケヴィン・ダン(ロン・ウィトウィッキー/サムの父親)、ジュリー・ホワイト(ジュディ・ウィトウィッキー/サムの母親)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(セオドア・ギャロウェイ/国家安全保障問題担当大統領補佐官)、ラモン・ロドリゲス(レオ・スピッツ/サムのルームメイト)、グレン・モーシャワー(モーシャワー将軍/NEST司令官)、マシュー・マースデン(グラハム/SAS“陸軍特殊空挺部隊”エージェント)、レイン・ウィルソン、イザベル・ルーカス、アメリカ・オリーヴォ、サマンサ・スミス、ジャレブ・ドープレイズ

レスラー

シャンテシネ1 ★★★★

■ランディ・ロビンソンというミッキー・ローク

ミッキー・ローク渾身の一作。

プロレスなんて好きじゃないし(半世紀前のならよく見ていたが)、全盛期を過ぎたレスラーの話って、誰しもロッキーもどきを予想してしまうと思うのだが、見事に裏切られた。

極端に言ってしまうと、俳優というのは、映画の中では与えられた役割の一つくらいにしか思っていない私だが、この映画のミッキー・ロークは、そのままランディ・ロビンソンその人で、それは観終わった今も変わっていない。『フランチェスコ』(1989)のロークも熱演ではあったが、ロークはフランチェスコではなかった。けれど、ランディ・ロビンソンをロークと言われたら、うん、そうだね、と答えてしまいそうなのだ。

八十年代にはスタープロレス選手だったランディ「ザ・ラム」ロビンソンだが、今ではトレーラー暮らしの身で、その家賃の支払いもままならない。週末にある小規模インディー団体の興行ではとても足りず、スーパーでバイトまでしている有様だ。それでもステロイドを欠かさず、日焼けサロンにまでいく姿は哀れでしかないのだが、興行でのランディは仲間から一目置かれる存在で、このあたりの書き込みが素晴らしく、ランディが最も生き生きする場としてのリングをうまくイメージさせている。

このレスリング場面が、試合風景はもちろんだが、控え室を含めてひどく生々しい。ショーとはいえ試合だから、お互いの肉体を痛めつけ合うのは当然で、いくら口裏を合わせているにしても私のように暴力慣れしていない人間(映画は別物だけど、これはそう見えないのだ)には目を塞ぎたくなる場面が続く。

ただ一方で、老眼鏡に補聴器となると(これは職業病なのかもしれないが)、さすがにどうにかしなくちゃ駄目だろ、と言いたくなってくる。そして、ある日、試合後にロッカーで急に気分が悪くなってもどした彼は、そのまま意識を失い、医師からは試合は死を意味すると宣告されてしまう。

レスラーのように鍛え抜かれた肉体がなくては成り立たない職業にとっての老いは、一層悲しいものがある。そんな時、よりどころになるのは、過去の名声でもプロレス仲間でもなく、やはり家族なのだろうか。ランディが娘と連絡を取り、やっとのことで二人で出かけるようになるまでの場面はいじらしくなってしまうが(これには馴染みのストリッパー
キャシディの手助けもある)、それだけ今までのランディは、娘にとっては受け入れがたい存在だったのだ。

ランディが娘に電話をする時に手にしていたのは、娘が七歳くらいの時の小さな写真で、その裏にある電話番号は五つほど書き換えられていた。古い写真しか手元にないのは、ランディがどう娘と接してきたを示しているし、いくつもの電話番号は、住まいが一定することなく生きてきた娘の状況を物語っている。

せっかくたぐり寄せた娘の気持ちを、ランディはちょっとした誘惑に負けてフイにしてしまう。約束をしたレストランで待ちぼうけをさせてしまうことなど、むろん悪いことには違いないが、こんなことだけで娘に一切のことを拒絶させてしまうのは、今までのことがあるからに他ならない。

そのこともあって、真面目に勤めていたスーパーで、怒りが爆発してしまうのだが、この場面がすごい。行く先のことも考えていたのだろう、仕事の欲しいランディは時間延長を申し出て、接客係をやらされるようになっていた。自分の指をスライサーに突っ込んで血まみれにしてしまう描写のすごさもあるが、それまで客の言いなりになっているところをドキュメンタリー風(この映画は他の場面もそうだ)に追っていたことが、この場面を効果的に見せているのだ。

一度決めた引退を撤回し、ボロボロの身体で記念試合に臨むランディは、痛々しいとしか言いようがないのだが、もうここまでくると、こちらも死が目の前にあるのに引き留める術も知らず、そうそれでいいんだよ、ランディ、と言ってしまっていたのだった。ストリッパーのキャシディが観客の代わりになって試合会場に駆けつけてくれたのだから、それでもう十分じゃないかと、私はランディではないのに、自分に言い聞かせていたのである。

ところで(これは断じて付け足しではない)、マリサ・トメイの熱演ぶりにも頭が下がった。考えてみれば、ストリッパーも身体が資本だから、キャシディも年齢のことを考えずにはいられなかっただろう。そしてなにより、自分の子供が母親についていろいろ知ってしまう年頃になっていて、そう長くはこの仕事を続けているわけにはいかない状況なのだ。キャシディについて、多く語られることはなかったが、キャシディがランディを放っておけなくなるのは、二人が似た者同士だからなのである。

原題:The Wrestler

2008年 109分 アメリカ シネスコサイズ 配給:日活 R-15 日本語字幕:太田直子

監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 製作総指揮:ヴァンサン・マルヴァル、アニエス・メントレ、ジェニファー・ロス 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ プロダクションデザイン:ティム・グライムス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:クリント・マンセル 音楽監修:ジム・ブラック、ゲイブ・ヒルファー 主題歌:ブルース・スプリングスティーン

出演:ミッキー・ローク(ランディ・ロビンソン)、マリサ・トメイ(キャシディ)、エヴァン・レイチェル・ウッド(ステファニー)、マーク・マーゴリス、トッド・バリー、ワス・スティーヴンス、ジュダ・フリードランダー、アーネスト・ミラー、ディラン・サマーズ

インスタント沼

テアトル新宿 ★★★☆

写真1:麻生久美子着用の「沈丁花ハナメの衣装」+「まねきねこ」。写真2:監督、出演者のサイン。写真3:監督からのメッセージ(いずれもテアトル新宿にて)。

■見えない物が見える!

目に見える物しか信じられない沈丁花ハナメだが、担当雑誌が危機になったことで、心霊スポット紹介など、意に染まぬ仕事をさせられることになり、どころか結局雑誌は廃刊(部長は休刊と言っていたが)が決まり、男にもフラれた彼女は出版社を辞めてしまう(編集長?だったのにね)。

そんなジリ貧人生、どころか底なし沼人生真っ只中のハナメが、昔の母の手紙で、聞いていなかった自分の父親の存在を知る。真相を確かめるべく母のところに行くが、彼女は河童を捕まえようとして池に落ち、意識不明のまま入院してしまっていた。現実主義者のハナメに対して母には河童や妖精が見えるのだった(そう言われてもなぁ。ここらへんではまだ全然映画にのれてなかったからね、いい加減にしろよ三木聡、などと言っていた)。

というわけで、父親は一体……という興味がハナメならずとも湧いてくるのだが、「沈丁花ノブロウ」は電球商会なる骨董品屋を営む、「電球」と呼ばれる怪しいオヤジで、そう簡単には正体がわかりそうもない、というかそれは買いかぶりにしても、ハナメに何かをもたらしたのは確かで、そこに出入りするパンクロッカー(姿だけ?)のガス(電気屋なのにね)たちとの奇妙な交流が始まる(電球には自分が娘であるということは隠したままになってしまい、あとで悔いていた)。

くだらない話なんだけど、これが楽しいのだ。「ツタンカーメンの占いマシーン」やテンションを上げるための「水道の蛇口」(をひねる。もったいないので私にはできないのだが、ここではとりあえず水を無駄にはしていなかった。ま、あとで、ホントかどうか大量の土砂に大量の水をまいてたから、やっぱりもったいないんだが)に、何でもない「曲がった釘」とか。

いつしかハナメは骨董品にはまって、骨董品屋の才能があるかも、とこれは電球におだてられて、なけなしの貯金百万円で骨董品屋を開いてしまう。が、そううまくいくはずもなく、でもここで電球の秘法?「水道の蛇口」に力づけられて、黒にこだわった骨董品屋に変えて久々の成功を手にすることが……。

ところが電球は急に店を辞めると言い出し、ハナメには沈丁花家に代々伝わる蔵の鍵を百万円で売りつけてとんずらしてしまう。蔵から出てきたのは大量の土砂で、けど、ハナメのどういう思考回路がそう結論づけたのか、あの土砂はインスタント沼で、水を注げば沼になるのだ、って。はぁ? いやもう、すっかり目に見えない物が見える思考回路になっちゃってるじゃないのよ。

まあこのあたりごり押しもいいところなんだけど、でもガスが最後までハナメに付き合ってくれて(ぶーたれてたが)、案外親切なヤツだってことがわかったり、で、びっくり仰天の龍まで出てきちゃってさぁ……。うん、見えない物が見えない私も見たよ、龍(当たり前か。映画館で寝なかった人は全員見られます!)。寝たっきりだった母親も「龍に助けてもらった」と、目を覚ます。なんだよ、やっぱり死んだフリだったのかよ(って、違うか)。

まあ、そんないい加減でそんなにうまくいくものか、とは思うのだが(龍の件は別にしても)、馬鹿馬鹿しい展開の先の、この幸福感は捨てがたいものがある。「しょうもない日常を洗い流すのだぁ」というハナメの宣言は、私のような変人向きへのエールにもなってくれているのだった。

フラれた男を違う角度(頭上)から見ると、彼の頭は禿げていて(「あっ、河童だ!」)、つまりハナメは、しっかり見えなかったものも見えるようになっていた(ってたまたま上から見下ろすところにいただけなんだが)というオチが愉快だ。

  

2009年 120分 ビスタサイズ 配給:アンプラグド、角川映画

監督・脚本:三木聡 撮影:木村信也 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 主題歌:YUKI『ミス・イエスタデイ』 コスチュームデザイン:勝俣淳子、山瀬公子(ハナメ・コスチュームデザイン) 照明:金子康博 録音:小宮元 助監督:中里洋一

出演:麻生久美子(沈丁花ハナメ)、風間杜夫(電球、沈丁花ノブロウ/ハナメの父)、加瀬亮(ガス)、松坂慶子(沈丁花翠/ハナメの母)、相田翔子(飯山和歌子)、笹野高史(西大立目/出版社部長)、ふせえり(市ノ瀬千)、白石美帆(立花まどか)、松岡俊介(雨夜風太)、温水洋一(サラリーマン)、宮藤官九郎(椹木/刑事)、渡辺哲(隈部/刑事)、村松利史(東/リサイクル業者)、松重豊(川端/リサイクル業者)、森下能幸(大谷/リサイクル業者)、岩松了(亀坂/泰安貿易社長)

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

新宿武蔵野館1 ★★☆

■シタオ=イエス?

私立探偵のクラインは、大企業を裸一貫で育てたという男から息子の捜索依頼を受ける。息子の名はシタオ(木村拓哉が演じていることもあり、日本人と思ってしまうが、シタオというのがねぇ? 妙な名前を考えたものである)。シタオはミンダナオにいると言われたクラインはロサンゼルスから現地へ向かうが、すでにシタオは殺されたという。

どうやらシタオは貧しい人たちを救済しようとしていて、寄付を頼んでまわっていたらしい。寄付を断ると何時間も説得し続け、うるさく感じた者によって殺されてしまったようだ。で、このあとは香港へ舞台が移るのだが、この説明はあやふやだ。「状況は死亡を示しているが、俺の勘は、生きている」って言われてもなぁ(香港の母の墓に花があったという情報はあった)。まあ、捜索費用をふんだんにもらっているんで、香港にまで足を伸ばすくらいは屁でもなかったのだろうが。

このクラインは元刑事で、実は二年前に連続猟奇殺人犯を殺してしまい、そのことが深い傷となっていた。この場面は繰り返されるだけでなく、香港で再会した刑事時代の仲間であるメン・ジーにも、クライン自身が退職理由として語っている(精神科に入院していたとも言っていた)。犯人は二十四人も殺した彫刻家(目がなく口が異様に大きく開いた彫刻のおぞましさを見よ!)で、被害者が生きているうちに切断したのだという。そして、二十七ヵ月犯人を追っていたクラインは「ヤツに同化」してしまう。そのことを「汚染」と形容していたが、しかしこれはあくまでクラインの告白であって、内容に比べるとあっさりしすぎている嫌いがある。

クラインが犯人にどう同化したのかがわかりにくいのだ。そこを明確にし、この話だけに絞った作品にしたら面白いものになったと思うのだが、映画は場面こそ執拗に繰り返すものの、これを挿話のひとつにしてしまっている。実は冒頭の衝撃的な場面がまさにクラインが犯人を追い詰めたところなのだが、ここでの眼目も「イエスの苦悶は終末まで続く」と言わせることにあるようなのだ(つまりそういう物語なのだ、と)。

映画は更にもう一人の人物を登場させる。香港マフィアのボス、ス・ドンポで、彼は姿を消した愛人のリリが、シタオと一緒にいるらしいことを知る。ドンポは卑劣で冷酷極まりない男だ。残忍さも連続猟奇殺人犯に負けていない。それでいてリリには異常な執着をみせるが、このことがリリを薬物中毒から救ったシタオへの憎悪となり、彼を殺してしまう。いや、それはリリがシタオを介抱したからか(むろん、これはリリが快復したあとのこと。シタオもリリによって癒されるのだ)。あるいは、シタオを「世界一美しい」と言ったことへの嫉妬か。または、シタオに「あなたのような人が僕を恐れる」と言われたからだろうか。

シタオについては、ミンダナオではそう明らかにされなかったが、香港に場面が移った直後に、血だらけの子供を、シタオは特殊な力で救っている。他人の痛み(傷)を、自分で引き受けるかのようにして。なるほど彼にはそんな力があったのだ。ドンポに手を打ち付けられるのはまるでイエス・キリストで、これはドンポの悪趣味がそうさせたのかも知れないが、さすがに「あなたを赦す。愚かさの故に」とシタオに言われてしまっては、「地獄を見てきた」ドンポも涙を流さずにはいられない。

この場面の直前には、またクラインと連続猟奇殺人犯の場面があって、「至高の肉体の完成には人類の苦痛が必要」だとか「キリストの受難の完成」「ついに苦悶が成就する」などという言葉がばらまかれているから、どうしてもイエスに関連付けたいのだろう。だが、シタオはイエスなのだろうか(イエスのようだがイエスではない男を語りたいがためにしていることともいえるが、本当のことは私にはわからない)。

シタオは確かに他人の痛みを取り除く奇蹟は見せるが、他の力は明らかにはされていない。いや、復活はしているか。しかも何度も。そしてもしかしたら、香港に来たのはミンダナオからの移動復活だった可能性もある。だが、シタオは、寄付を要求したが、説教はしていないようだ。積極的に神の国を説こうとはしていないのだ。すでにイエスによって行われたことを、神がまたするとは思えないので、この比較は意味がないのだが。

最期は、クラインがシタオのところにやってきて、連れ帰るよう父親に依頼されたことを告げ、シタオの手から釘を外し、お終いとなる。この時シタオは金粉で飾られているのだが、これはシタオの信者らしき青年がしたもので、彼に言わせると主(シタオのことか?)ならば、どこにでも行ける(つまり自由に動けるということなのか?)かららしい。

ここから先は、無神論者の妄想なので、読まない方がいいかもしれない。

シタオ(シタオは下男、つまり神に遣わされた下界の人間なのだ)が何度も復活するのは、愚かな人間が過ちを繰り返すからで、案外イエスが復活を繰り返した結果が、今のシタオなのかもしれない。だから彼はイエスと呼ばれなくても、イエスと同じなのだ。神の国を説かず、幾重にも小ぶりになってしまったイエスだが、神はもう人間には、そんな人物(というか神の子だが)を遣わすしかなく、そして、シタオの父=神は、結局はシタオを回収することにしたのだ。クラインという連続猟奇殺人犯に同化した人間を使者に仕立てて……。

クラインを使者にしたのがグロテスク過ぎるような気もするが、人間はもう神に見放されてしまったのだ。I Come with the Lain なら、いつでも彼はやって来そうだが、回収されてしまった今となっては、彼はもう来ないのである。まあ、私には神はいないので、この妄想は根本的に間違ったものなのだが……。

原題:I Come with the Lain

2009年 114分 フランス シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:トラン・アン・ユン 製作:フェルナンド・サリシン、ジャン・カゼ、ジョン・キリク 製作総指揮:サイモン・フォーセット、アルバロ・ロンゴリア、ジュリー・ルブロキー 撮影:ファン・ルイス・アンチア プロダクションデザイン:ブノワ・バルー 衣装デザイン:ジュディ・シュルーズベリー 編集:マリオ・バティステル 音楽:レディオヘッド、グスターボ・サンタオラヤ

出演:ジョシュ・ハートネット(クライン/私立探偵)、イライアス・コティーズ(ハスフォード/連続殺人犯)、イ・ビョンホン(ス・ドンポ/香港マフィアのボス)、木村拓哉(シタオ/失踪者)、トラン・ヌー・イェン・ケー(リリ/ドンポの愛人)、ショーン・ユー[余文樂](メン・ジー/クラインの刑事時代の仲間)、ユウセビオ・ポンセラ

スター・トレック

新宿ミラノ2 ★★☆

■最強物質電送機

(スタートレックに詳しい人は読まない方がいいかも)

CGの技術が日進月歩だから、というのも理由になるのではないかと思うが、エンタメ系SF人気作のリメイクや続編が装いも新たにといった形で登場(ビギンズやエボリューションとして)している。この作品は題名もシンプルに『スター・トレック』のみ。つまり今までの作品は清算して、ここからまたはじめるつもりなんだろう。

そういうわけで、ジェームズ・T・カークやその他の乗組員たちが、ロミュラン人のネロが引き起こした事件に平行して、揃っていくという物語になっている。ただ、特にファンでもない私など(映画も二、三本しか観ていないはす)、スポックの変わったイメージくらいしか頭に残っていないから、これはおいおいでもよかったのだが……。

カークとスポックに関しては少年時代から始めている。まずカークだが、これがなんとも危ない少年なのだ。度胸試しだけならまだ自己責任と見逃すこともできるが、自分のものでもないビンテージカーを谷底に落としてしまうのはやりすぎ。数年後もその性格はあんまり変わっていなくて、でもそんなカークに目を付けたのが、父の最期の場に居合わした新型艦U.S.S.エンタープライズの初代船長パイクで、12分間だけだったがU.S.S.ケルヴィンの船長で、それでも800人を救った父を超えてみろ(この経緯が巻頭の場面で、カークは父と入れ違うかのように生を受けたのだった)、とカークに言う。

パイクは、無鉄砲な性格が今の艦隊には欠けていると常々感じていたらしいのだが、でもこんなカークが士官になってさらに船を持ったらどうなるのさと思ってしまう(司官昇任試験で不正行為というのも見過ごせない)。まあ、だから直情的なカークと論理的なスポックというなかなか得難いコンビの誕生になるのだろうけど。でもねぇ。

このあとU.S.S.エンタープライズに乗り込むことになるのも緊急事態に乗じてだし(ボーンズの機転による)、何ともいい加減なものなのだ。で、最期には正式な船長になってしまうのだけど、なんだかえらく軽いノリなんだよね。さすがに見かねて(としか思えないのだ。自分は感情に負けて船長の座を降りたのに、こいつときたら……、だからね。って、この文章は感情的だが)、スポックがサブリーダーに立候補するのだけど、スポックの補佐がないのだったらカークには辞めてもらう他ないんだもの。ただの戦闘機乗りならともかく、U.S.S.エンタープライズの船長となるとねぇ。

スポックの生い立ちについては、直情的なカーク篇に比べるとよく出来た話になっている。論理的なスポックではあるが、これはそもそもバルカン人の特性で、彼の場合は母が地球人という特殊な状況があり、実は彼にも感情を抑制できない時期があった(実際にはまだ過去形にはなっていなかったのだが)というのが興味深い。逆にいうと、そういう部分を持ちながら常に冷静でいられるようになったのだとしたら……。そして、混血のスポックには、ウフーラとの恋まで用意されているのだ。

このことと関連して気になるのがスポックの父の発言で、地球人と結婚したのは観察のため、とせっかく言わせておきながら、結局は愛していたから、と前言を取り消してしまう。これは非情でも、というかそれがバルカン人なのだから(バルカン人には恋という概念もなさそうなんで)、母の愛情だけでもよかったのではないか。あくまで父親はバルカン人としてふるまってくれないと、スポックが混血でなくてはならない理由がなくなってしまう。ただでさえ流れとしては、論理を捨て正しいと思ったことをせよ、なんだから。で、これには大いに反論したいのだが、映画とは関係なくなりそうなのでやめておく。

ところで、今回の敵のネロだが、これは採掘船ごと未来からやってきたという設定。だからとんでもない科学力も持っていて、惑星を巨大ドリルで穴を開け、赤色物質で惑星ごと消してしまうてんだからイヤになる(これでバルカン星は六十億の民が犠牲になってしまう)。なんでこうまでして派手にするかねぇ(巨大ドリル、よくできてるんだけどね)。さらには老人スポックまで未来からきて、こう都合よく時間移動されちゃうと、緊張感も何もあったもんじゃないんだけれど。

で、さらに調子が狂ってしまったのが、エンジニアのモンゴメリィ・スコットによる物質電送で、これがワープしている船にも転送できちゃったり、最期には「二ヶ所から三人の転送ははじめて」と、もうはしゃぎまくりの使いまくりなんだもの。絶体絶命で転送、って、ある意味最強じゃん! 観客の中にこれが受けて大声で喜んでいた人がいたが、そのくらいの気持ちで観ないと楽しめないかなぁ、と反省。だって、そもそもそういう話なんだろうから。

じいさんにはめまぐるしい作品だったが、宇宙空間の美しさにはひきこまれた。いや、わかってますって、CGなのは。

 

原題:Star Trek

2009年 129分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:松崎広幸

監督:J・J・エイブラムス 製作:レナード・ニモイ、J・J・エイブラムス、デイモン・リンデロフ 製作総指揮:ブライアン・バーク、ジェフリー・チャーノフ、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 原作:ジーン・ロッデンベリー 脚本:ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ダン・ミンデル 視覚効果スーパーバイザー:ロジャー・ガイエット プロダクションデザイン:スコット・チャンブリス 衣装デザイン:マイケル・カプラン 編集:メリアン・ブランドン、メアリー・ジョー・マーキー 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:クリス・パイン(ジェームズ・T・カーク)、ザカリー・クイント(スポック)、エリック・バナ(ネロ)、ウィノナ・ライダー(アマンダ・グレイソン/スポックの母)、ゾーイ・サルダナ(ウフーラ)、カール・アーバン(レナード・“ボーンズ”・マッコイ/医師)、ブルース・グリーンウッド(クリストファー・パイク)、ジョン・チョー(スールー)、サイモン・ペッグ(スコッティ)、アントン・イェルチン(パーヴェル・チェコフ)、ベン・クロス(サレク/スポックの父)、レナード・ニモイ(未来のスポック)、クリス・ヘムズワース(ジョージ・カーク)、ジェニファー・モリソン(ウィノナ・カーク)、ジミー・ベネット(少年期のジェームズ・T・カーク)、ヤコブ・コーガン(少年期のスポック)、ファラン・タヒール、レイチェル・ニコルズ、クリフトン・コリンズ・Jr、グレッグ・エリス、ケルヴィン・ユー、アマンダ・フォアマン

幸せのセラピー

新宿武蔵野館2 ★★

■メタボマスオをセラピーすると

『幸せのセラピー』という邦題に、甘い恋愛映画を思い浮かべていたからだけど、あからさまな内容には驚いてしまった(なのにチケット売り場では『幸せのレシピ』と言ってしまった私。それはもう観たじゃないのねぇ)。

銀行頭取の娘ジェスと結婚したビルは、一族で固められた銀行の主要ポストにはいるものの、すべてのことは義父や義弟に従う習慣にどっぷり漬かっていて、嫌いな鴨狩りにも行きたくないとは言えず、行けば行ったで犬の代わりに獲物を拾いに行くのが関の山。ストレスでチョコバーが手放せず、鏡を見ればそこには冴えない顔があるだけだ。メタボだし、老いを感じずにはいられない。

追い打ちをかけるように発覚したジェスの浮気だが、ビルはジェスが浮気するのも無理からぬと自分でも思ったのか(ある意味偉い?)、浮気現場を撮影したビデオを証拠にジェスに詰め寄るが、何故か怒りの対象は浮気相手のテレビレポーターに向かう(は?)。

まず、これがわからない。ジェスを怒れないのは長年のマスオさん生活よるものにしても、ジェスに「捨てられたらどうしよう」はないだろう。まあ、そういう自分を、メンター制度(OBのところで社会体験をする制度)で知り合ったマセガキ学生と、彼の年上の恋人未満のルーシーの協力で変えていくという話なので、どうしてもビルが情けない人物像になってしまうのは致し方ないのだが、そうではなく、ビルの思考回路が私にはよく理解出来ないのだった。

もしかしたらそれは、彼が負けず嫌いだからなのだろうか。銀行の業務に逆らうようにドーナツ屋のフランチャイズオーナーになろうと努力を重ねていたのも、分散投資の見本を示したかっただけなのか(ちょいスケールがねぇ)、最後の方ではジェスも反省して、このフランチャイズに乗り気になってくれたというのに、ビルはやりたいことではなかったと言ってしまう。単に脱メタボ指向になったのでそう言っただけのようにも見えるが、彼にとっては一人でやり遂げることに意味があったのかもしれない。

執拗に挟まれるプールでのトレーニング映像が、彼の負けず嫌いを語っているのだが、この彼の性格は、彼のことをねじ曲げているように思えてならないのだ。だからって、ビルの選んだ新しい人生を、別に邪魔しようというのではないのだけれど。この際、リセットすべきなのかもしれない。出来る人は大いにやった方がいいと思う。

ただしマセガキ学生との友情関係については、私のようなじじいにとっては、彼がとんでもないヤツにしか見えない。金もふんだんに使える恵まれたお坊ちゃんで、って、もういいか、どうでも。

宣伝ポスターからだと、ジェシカ・アルバはまるでアーロン・エッカートの相手役のような印象を受けるが、マセガキ学生にナンパされるただのランジェリーショップ店員にすぎない。マセガキ学生を諭すようなことも言っていたが、ジェスの嫉妬心を煽る役を買って出たり、なんだか面白くもない役所だった。

そういえば脱メタボに取り組み始めたビルが、カッコよく見せるためなのだろう、体毛を剃る場面があった。胸毛に、あとの方では腕や足の毛まで。アジア圏ならそんな気もするが、アメリカやヨーロッパでは男の体毛はセックスシンボル的役割を果たしていると思っていたが、昨今ではそうでもないのかしら。けどこの場面まで、こう丁寧に見せられちゃってはねぇ。

まとまりのないヘタクソな話なのだが、至る所に本音やら本性は出ていたか。まあ、薦めないけど。

原題: Meet Bill

2007年 97分 アメリカ ビスタサイズ 配給:アートポート 日本語字幕:高内朝子 PG-12

監督メリッサ・ウォーラック、バーニー・ゴールドマン 製作:ジョン・ペノッティ、フィッシャー・スティーヴンス、マシュー・ローランド 製作総指揮:ティム・ウィリアムズ、アーロン・エッカート 脚本:メリッサ・ウォーラック 撮影:ピーター・ライオンズ・コリスター  プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:マリ=アン・セオ 編集:グレッグ・ヘイデン、ニック・ムーア 音楽:エド・シェアマー 音楽監修:デイヴ・ジョーダン、ジョジョ・ヴィラヌエヴァ

出演:アーロン・エッカート(ビル)、ローガン・ラーマン(生徒)、エリザベス・バンクス(ジェス/ビルの妻)、ジェシカ・アルバ(ルーシー/ランジェリーショップ店員)、ティモシー・オリファント(チップ・ジョンソン/テレビレポーター、ジェスの浮気相手)、ホームズ・オズボーン(ジョン・ジャコビー/ジェスの父、銀行頭取)、リード・ダイアモンド、トッド・ルイーソ、クリステン・ウィグ、ジェイソン・サダイキス

チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ

2009/5/31 シネマスクエアとうきゅう ★★

この写真だと見にくいが、「字幕位置 下」の表記があって親切だ。もっとも今の字幕は見にくいことはめったにないし、前の人の頭が気になる映画館も少なくなったからね。って、ミラノだとまだそういう席がいくつかあるのかも(私の場合はかなり前の方で観るのでほとんど大丈夫なのだが)。『从印度到中国』というのは、中国での公開題名なのかしら。最初から、中国のマーケットも考えて作っているわけか。

■勘違いと本気モードで為せば成る、わきゃない

『スラムドッグ$ミリオネア』で一躍脚光を浴びた感のあるボリウッド映画だが、そしてこれもハリウッド資本がかんではいる(ワーナー・ブラザースのインド支社が製作)が、よりインド映画らしさが出た一篇となっている(って憶測です)。

世界最多製作本数を誇るインド映画は、日本でも十一年前に『ムトゥ 踊るマハラジャ』が話題になったが、あの集団で歌って踊ってが何かというと入ってくるパターンは同じ(『スラムドッグ$ミリオネア』にも、最後だけだったがこれがオマケになっていた)、きっとかなりの映画がこうなのかも。

その中でもこれは、主人公が中国まで行って故宮や万里の長城で撮影もしてきた大作なのではないか。感覚的には、昔の日本の『クレイジーメキシコ大作戦』や『ハワイの若大将』的なノリで作ったような気がするのだが(当時は日本もシリーズ物の映画を量産してたからね)。

前半はモロお馬鹿映画。主人公の料理人、シドゥの勘違いに加え、運も目一杯味方してくれて劉勝の生まれ代わりに祭り上げられるが、結局それは簡単にメッキが剥げて、で、それから本気モードになるのはいいのだが、必死でカンフー修行をしたら勝てちゃった、ってそれはないでしょ(長年修練してきた野菜切りの動きを取り入れたからというもっともらしい説明はあったが)。

携帯翻訳機(これで中国人との会話もOK)や防弾+パラシュート傘といった安直な新兵器(じゃなくて新製品でした)まで出てきて楽しませてくれるが、面白さが馬鹿らしさに勝つには至らず。

育ててくれた恩人の死や、北条に殺されかけて記憶を失っていた中国の警官や敵味方に分かれてしまった双子の娘(彼の妻はインド人なのだ)の話など、盛り沢山だが中身は薄い。

途中Intermissionの文字があった。日本では休みなしの通し上映だからギャグと思ってしまったが、ここは普通に休憩になるんだろう。

まだまだインド映画は新鮮なので、ショーとして観るだけでも退屈することはないのだが(でも長いよ)、だけど次回はもっと違った種類の映画を観たいものだ。

原題:Chandni Chowk to China

2009年 155分 インド、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:松岡環

監督:ニキル・アドヴァーニー アクション指導:ディーディー・クー 製作:ラメーシュ・シッピー、ムケーシュ・タルレージャー、ローハン・シッピー 脚本:シュリーダル・ラーガヴァン、ラジャット・アローラ 撮影:ヒンマーン・ダミージャー 振付:ポニー・ヴェルマ 作詞:ラジャト・アローラー 音楽:シャンカル・マハデヴァン、イフサーン・ノーラニー、ロイ・メンドンサー

出演:アクシャイ・クマール(シドゥ)、ディーピカー・パードゥコーン(サキ、ミャオミャオ)、ミトゥン・チャクラバルティー(親方)、ランヴィール・ショウリー(ハシ道士/チョップスティック)、ゴードン・リュウ[劉家輝](北条)、ロジャー・ユアン(チャン刑事)

ザ・スピリット

新宿ミラノ2 ★★

■見所は不死身同士のなまくら殴り合い!?

予告篇はものすごく艶っぽく、そして謎めいても見えたのだが、それは表面的なもので、骨のない無残な作品だった。

で、私といえば、こういうヒーローものが五万とあるから『ウオッチメン』のような作品が出て来るのか、と途中からまったく違うことを考えながら、気もそぞろで観ていたのだった。

モノトーンに赤を効果的に配した映像は確かにアメコミ風な感覚に繋がるものがあるが、中身がなくてはそれまでだろう。それにこれは『シン・シティ』(2005)ですでに観ているものだし。って、別に新しい作風にしろと言っているんじゃないんだけどね。

セントラル・シティを恋人と言ってはばからないスピリットは、今日も宿敵オクトパスと戦いを続けていた。街を恋人と言うのは、モノローグでのことなのだけど、けど、しつこいくらいにスピリットはこれを繰り返すんだよね。「この街のおかげで生きられる。必要な物は何でも与えてくれる」ってなにさ。意味不明だってば。ただそう言われただけじゃ。

これはあとでわかることなのだが、この二人はある実験の結果、不死身になってしまったようなのだ。といっても一応傷は負って、スピリットの場合は外科医で恋人らしきエレンに手当をしてもらうのだけど、スピリットがオクトパスと戦うのは手当をして欲しいのかとも、ってまたヘンなこと考えちゃてたんだよね。

オクトパスもそのことを楽しんでいるかのように(その秘密を知っていたからか)、二人は文字通り最初の対決場面で、沈没した古い貨物船から引き上げた物をめぐって文字通りの泥仕合を繰り広げるのだが、これがなんとも白ける殴り合いなのだ。不死身同士の殴り合いを見せられてもなぁ。

まあ、これはまだ最初だからいいのだけど、最後など、スピリットは防弾チョッキを着込んでた、ってあんまりな。不死身同士のライバルだって(それに二人は双子のようなものなのだから)見せ方によってはいくらでも面白くなるのではないかと思うのだが、これがまったくつまらない。

ここにもうひとり絡んでくるのが、上昇志向が強くキラキラしたものが好きなサンド・サレフという宝石泥棒で、手に入れたいものがあって汚れたこの街に戻ったという彼女は、なんとスピリットの幼なじみで初恋の相手だった。

これは昔の映像で語られるから現在にもそれなりの影を落としているってことなんだろうけど、そこらへんがまったくといっていいほど見えてこないのだ。最後にスピリットとサンドのキスシーンもあるのだが、それ以上にはならない。スピリットの「昔の恋人だ」というこの割り切りがどうにもわからないのだ。

オクトパスの部下のクロ-ン君たちなど、なかなか面白いキャラも出てくるのだが、本筋でずっこけているからちっとも楽しめない。

オクトパスの助手のスカーレット・ヨハンソン(あら、彼女だけ本名で書いちゃった)もいいところなし。というか、コスプレショーができればいいや、くらいの気持ちだったのか(オクトパスもナチス親衛隊のコスプレに嬉々としていたから、この二人はコスプレ繋がりなのか?)。最後に、バラバラになったオクトパスの指(まだ生きてるのだ)を拾って消えてしまったから、見せ場は次回作のお楽しみなのかしら。え、次回作!? どうしよう。

原題:The Sprit

2008年 103分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:林完治

監督・脚本:フランク・ミラー 製作:デボラ・デル・プレト、ジジ・プリッツカー、マイケル・E・ウスラン 製作総指揮:ベンジャミン・メルニカー、スティーヴン・マイヤー、ウィリアム・リシャック、マイケル・パセオネック、マイケル・バーンズ 原作:ウィル・アイズナー 撮影:ビル・ポープ 視覚効果スーパーバイザー:スチュー・マシュウィッツアートディレクション:ロザリオ・プロベンサ 衣装デザイン:マイケル・デニソン 編集:グレゴリー・ナスバウム 音楽:デヴィッド・ニューマン

出演:ガブリエル・マクト(スピリット、コルト刑事)、サミュエル・L・ジャクソン(オクトパス)、エヴァ・メンデス(サンド・サレフ)、スカーレット・ヨハンソン(シルケン・フロス)、ジェイミー・キング(ローレライ)、サラ・ポールソン(エレン)、ダン・ローリア(ドーラン)、パス・ベガ(プラスター・オブ・ハリス)、ルイス・ロンバルディ(フォボス)、スタナ・カティック(モーゲンスターン)、フランク・ミラー、エリック・バルフォー、ダニエル・ハバート、ジョニー・シモンズ、セイチェル・ガブリエル、マイケル・ミルホーン

消されたヘッドライン

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■テレビじゃないんだから、じゃなかったの

よくできたサスペンスドラマと感心していたら、英BBC製作のテレビミニシリーズ『ステート・オブ・プレイ 陰謀の構図』(NHK BS2で放映されたらしい)を、舞台をアメリカにリメイクしたものだという。なるほど、よく練り込まれた脚本だ。が、ミニとはいえテレビシリーズを映画にまとめた弊害も出てしまっている。

弊害は大げさにしても、贅沢に配したキャストがもったいないくらいに、それぞれの挿話が詰め込みすぎな(というか観ている方にとってはあっさりすぎな)感じがしてしまうのだ。映画の出来が悪いというのではなく(一番悪い部分は最後だろうか)、もっともっと人物の相関図の中に入っていきたくなるのである。

女性スタッフのソニア・ベーカーが死んだという知らせに、スティーヴン・コリンズ議員が大事な公聴会で涙を見せるという出だしには、あんまりな気がしてしまったが、これと別の殺人事件が繋がっていることに気づいたワシントン・グローブ紙の記者であるカル・マカフリーが、ベテランらしい記者魂で調査を進めていく流れは、見応えがある。

カルが長髪のむさくるしいデブ男で、ちっとも颯爽としていないのもいい。『グラディエータ-』の戦士が九年でこうも変わってしまうものなのか。これがラッセル・クロウの役作りであるのならいいんだが。

新聞社の内部事情が面白い。紙媒体の新聞はもう売上増は見込めず、ウェブ版の女性新進記者デラ・フライが重用されているような雰囲気だったりするのだが、このデラが新米ながらなかなかで、カルと仕事を通して信頼関係を築いていくサブストーリーも上出来。また女編集局長のキャメロン・リンは立場上、カルの記事にいろいろな意味での圧力をかけざるを得なくなるのだが、ここらへんの匙加減もうまいものだ。

コリンズ議員に話を戻すと、彼はカルとは大学時代からの親友で、あの涙はやはりスティーヴンの不倫の証なのだった。マスコミに追われたスティーヴンは、行き場を失ってカルの家にやってくるのだが、カルにしてみればスティーヴンは情報源でもあり、しかし、それ以上にスティーヴンの妻アンにカルが惚れていたことがあり、それはお互い単純に昔のこととは割り切れずにいるようなのだ。

スティーヴンに、アンに対する愛情がもうなくなっているからいいようなものの(って書くとまずいかしら。愛情がないにしては「友達なのに俺の妻と寝た」などとも言っていた。これは相当昔の話ではないかと思うのだが?)、でもカルが、スティーヴンを助け君(アン)を守りたい、と言った時などのアンの反応にはあまり惹かれるものがなかったので、私としては少々ほっとしたのも事実。そんなだから、カルはアンにも「私はただの情報源」などと言われてしまう。

事件を追うことで、カルは自分の生き方も問われることになるのだが、そこに深入りしている暇がないのは惜しい。最初に書いたように、映画の出来がいいので、もっとこういった部分を覗きたくなってしまうのだ。現実の世界だと、人間関係は曖昧なままであることが多いのだが、小説や映画では、読者や観客はそういう部分こそを知りたいのだから。

と考えると、最後に明らかにされるコリンズ議員の企みは、やはりひねりすぎだろうか。ソニアにはいろいろ事情があって、最初こそスパイとして送り込まれたものの、スティーヴンを愛して、そして妊娠もしていては、もうそれで十分じゃないかという気になってしまったのだったが。

軍事産業の陰謀という構図が浮かんできたところで、テレビじゃないんだから、と映画の中でも言わせていたが、この結末はエンタメ指向の何物でもなく、テレビじゃないんだから、とさらに派手にしてしまったのだろうか。テレビ版にすでにあったにしても削除すべきだし(映画の方はただでさえ尺が短いのだから)、なくて加えたのなら問題だろう。

ところで、『消されたヘッドライン』という邦題はインチキで、せいぜい「消されかかった」だった。

原題:State of Play

2009年 127分 アメリカ、イギリス シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松浦美奈

監督:ケヴィン・マクドナルド 製作:アンドリュー・ハウプトマン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ポール・アボット、ライザ・チェイシン、デブラ・ヘイワード、E・ベネット・ウォルシュ 脚本:マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ オリジナル脚本:ポール・アボット 撮影:ロドリゴ・プリエト プロダクションデザイン:マーク・フリードバーグ 衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト 編集:ジャスティン・ライト 音楽:アレックス・ヘッフェス

出演:ラッセル・クロウ(カル・マカフリー/新聞記者)、ベン・アフレック(スティーヴン・コリンズ/国会議員)、レイチェル・マクアダムス(デラ・フライ/ウェブ版記者)、ヘレン・ミレン(キャメロン・リン/編集局長)、ジェイソン・ベイトマン(ドミニク・フォイ)、ロビン・ライト・ペン(アン・コリンズ/コリンズの妻)、ジェフ・ダニエルズ(ジョージ・ファーガス)、マリア・セイヤー(ソニア・ベーカー)、ヴィオラ・デイヴィス、ハリー・J・レニックス、ジョシュ・モステル、マイケル・ウェストン、バリー・シャバカ・ヘンリー、デヴィッド・ハーバー、ウェンディ・マッケナ、セイラ・ロード、ラデル・プレストン

ラスト・ブラッド

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■オニを吸血鬼とする日本観

またしても新趣向の吸血鬼映画がやって来た!? って、オニ(=鬼?)が吸血鬼なのか。で、日本が舞台なのに主演はチョン・ジヒョン(って、誰の、どういう発想なのさ。エンドロールでは名前が、欧文表記でGiannaになっていた)。おー、久しぶり『デイジー』以来か。セリフは三カ国語を流暢?に喋っていたが、吹き替えでないのなら立派。

でもいくらなんでも十六歳は無理だろうと思ったが(セーラー服まで着せられちゃってさ)、映画の質感を変えていることもあって(実際のことは知らないが)そう違和感はなかった。ま、どーせ設定では何百歳なんだから、誤差の内みたいなものなんだろうが。

出てくる風景も、看板は日本語でも見たこともない家並みで(けど『魍魎の匣』のようにはモロ中国ではなく、どこか違う国というイメージなので救われている)、浅草なのに古い丸ノ内線の車両だったりするのだ(七十年代だから形としては合ってるが、銀座線じゃないのね)。まるで嘘臭いのだが、イヤな絵になっていないので、全部許しちゃってた。

舞台も話もいい加減で、簡単なこともほとんど説明する気がないようだ。父をオニゲンに殺されたサヤは、CIAをかたるオニゲン退治の組織(このくらいもう少しは説明しろってんだ!)に、日本にある米軍基地内のアメリカンスクールに送りこまれ、教師に化けたオニゲンの手下から基地の司令官の娘アリスを救い出す。

日本人だからセーラー服って、アメリカンスクールなのにぃ、というのは野暮な話で、そうしたいからそうしちゃったんでしょう。イメージやアクションシーン優先で、後は何でもござれ状態なのだ。

そのアクションだが、今更のワイヤー使いまくりで、これもきっとうるさ方には嫌われそうなのだが、私はこの映画には合っていたように思う。

サヤの武術の先生で、育ての親でもあるカトウと、オニゲンの手下たち(オニというより忍者だし、これだとアメリカンスクールにいたオニとは別物になってしまう気がするのだが)との死闘もよくできていた。でもカトウはサヤを突き放したりはせず、最初から一緒に戦ってもよかったと思うのだが。結局サヤは戻ってきてしまうし、自分は無駄死にではね。なんかこういう話の繋ぎがすこぶる悪いのだな。

サヤとオニゲンの対決も迫力という意味ではおとなし目ながら(ちょいあっけない)、ビジュアル的にはいい感じだ。

オニゲンはサヤが現れるのを心待ちにしていたようでもあり、それはサヤが自分の娘だからなのだが、そこらへんは曖昧なままで、よくわからないうちに話が終わってしまった。オニゲンが殺してしまったというサヤの父との関係だって、解き明かしていったら面白かろうと思うのだが、そういうことには興味がないらしい。

サヤは組織が欲しいもの(血)をくれるので、彼らの命令に従うと言っていたが、この説明もわかったようでわからない。第一これだと、彼女が子供の頃はどうしていたのか、って話になってしまう。

とにかく全部がいい加減なのだが、こういうムチャクチャ映画は結構好きなのだな。雰囲気的にもこの間観た『トワイライト』よりは私向きだった。甘いの承知で★★★。

 

原題:Blood:The Last Vampire

2008年 91分 香港、フランス シネスコサイズ 配給:アスミック・エース R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督:クリス・ナオン アクション監督:コリー・ユン 製作:ビル・コン、アベル・ナミアス 原作:Production I.G 脚本:クリス・チョウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ネイサン・アマンドソン 衣装デザイン:コンスタンサ・バルドゥッシ、シャンディ・ルイフンシャン 編集:マルコ・キャヴェ 音楽:クリント・マンセル

出演:チョン・ジヒョン(サヤ)、アリソン・ミラー(アリス)、小雪(オニゲン)、リーアム・カニンガム(マイケル)、JJ・フェイルド(ルーク)、倉田保昭(カトウ)、コリン・サーモン(ミスター・パウエル)、マイケル・バーン、マシエラ・ルーシャ、ラリー・ラム

60歳のラブレター

楽天地シネマズ錦糸町シネマ3 ★★

■映画的飾り付けが逆効果

三十代後半ですら探すのが難しい、ほぼ全員五十歳以上という(何のことはない、自分もこの現象の一部を担ってるのな)、その割には客の入った客席で画面を見つめながら、あー、やだな、こういう映画に泣かされて(くだらない映画にも泣かされてしまう口なのでそれはいいんだが)、しかも高評価を与えなきゃならなくなったら(ってそれはいいことなのに)、恥ずかしいものなーと、しょうもないことを考えていたら、やってくれました。映画の方で勝手にこけちゃってくれました。

熟年の恋三つがそれぞれ多少交差する形で描かれるのだが、粗筋を書くほどのものではないので、いきなり問題場面について書くことにする。

自分のことは棚に上げてちひろ(旧妻)の恋を邪魔するのに、あの大きな布に書いたラベンダーの絵はないだろう。運良く花はみんな刈り取られていて、って、そういう問題じゃなくて、わざわざ北海道まで行って、しかも夜っぴいて描き上げた絵を丘に飾ったってねぇ(橘孝平本人も言っていたが、「(絵が)見えたかな」なんだもの)。

孝平は若い時には画家志望だったらしいので、絵を買くのはいいにしても、でもそんなことより一番は、ちひろが北海道に麻生圭一郎と出かける前にそれを阻止することではないか。で、最悪なことに、二人(というのは幸平となのだけど)でやり直してみるか、となった時に、刈り取られたはずのラベンダーが咲き乱れている中に二人がいる場面になるのだ。なるほど、これがやりたかったのね。けど外してるよなぁ。

それにしても、ちひろは何で元旦那を選んだのだろう。どう考えても、ちひろを無視し続けてきた孝平よりは、若くておしゃれな麻生(それに売れっ子作家だし、って関係ないか)にするのが自然ではないか。いや、すべきではないかとさえ思うのだ。「すべてを捨ててきた」という幸平に、「もう遅い」とちひろもいったんは言っていたのにね。映画的に見栄えのする場面を演出することより、こういうちひろの心境こそきちっと描いてもらいたいのだが。

二つ目は、娘からの英語の手紙を医師の佐伯静夫が読み上げて、翻訳家の長谷部麗子が訳していく場面。この演出もひどくて、恥ずかしくなった。「娘がどうしても訳してほしいからって」と手紙を渡すくらいが関の山で、読んでも黙読のはず。こんな場面がどうやったら成立するっていうのだろう、ってやっちゃってたけど。映画的だからという理由でやられてもなぁ。

結局、病室で、妻の光江に買ってもらったマーチンをかき鳴らし、ミッシェルを歌い続ける魚屋の松山正彦が一番カッコよかった、かな(でもこれもわずかだけど長めだ)。

あと、ちひろが大昔に新婚旅行先で書いた手紙を30年後に届ける話も、もう少しうまい説明が考えられなかったものか。ストーカーのような青年はずっと不気味だったもの。で、何だよそんなことか、じゃあね(一応この手紙が幸平の気持ちを切り替える一つのきっかけにはなっているのだが)。

2009年 129分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:深川栄洋 エグゼクティブプロデューサー:葉梨忠男、秋元一孝 プロデューサー:鈴木一巳、三木和史 共同プロデューサー:松本整、上田有史 脚本:古沢良太 原案:『60歳のラブレター』(NHK出版) 撮影:芦澤明子 美術:黒瀧きみえ 編集:坂東直哉 照明:長田達也 録音:南徳昭 監督補:武正晴 助監督:菅原丈雄 音楽:平井真美子 主題歌:森山良子『candy』 協力:住友信託銀行 制作プロダクション:ビデオプランニング 製作:テレビ東京、松竹、博報堂DYメディアパートナーズ、大広、ビデオプランニング、テレビ大阪

出演:中村雅俊(橘孝平)、原田美枝子(橘〈小山〉ちひろ)、井上順(佐伯静夫)、戸田恵子(長谷部麗子)、イッセー尾形(松山正彦)、綾戸智恵(松山光江)、星野真里(橘マキ/孝平の娘)、内田朝陽(八木沼等)、石田卓也(北島進)、金澤美穂(佐伯理花/静夫の娘)、佐藤慶(京亜建設・会長)、原沙知絵(根本夏美/孝平の愛人)、石黒賢(麻生圭一郎/作家)

天使と悪魔

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■神を信じている悪魔

カトリック教会の法王の座を巡る陰謀に『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドン教授が巻き込まれる。ラングドンは、「あの事件(『ダ・ヴィンチ・コード』)でヴァチカンから嫌われた」はずだったが、宗教象徴学者の協力が必要と感じた警察の要請で、捜査に加わることになり、ローマへと出向いて行く。

完成したばかりの反物質が盗まれて、それを爆弾代わり(五トンの爆弾に相当する強力なもの)にヴァチカンを消滅させると脅されてしまうのだが、まずその反物質が完成するタイミングとそれを盗み出す労力を考えると、かなり馬鹿げた話になってしまう。いや、完成が確実になった時点で、って少し苦しいが、暗殺に取りかかればいいのか。でもこれだと教皇選挙(コンクラーベ)にはリンクしなくなってしまうものなぁ。

教会と対立するイルミナティの存在を暗示して目をそらすために四教皇(次期法王候補者)を殺害する設定(この最後にヴァチカン消滅の反物質というのが犯人の予告シナリオ)もどうかと思うし、ラングドンと反物質の研究にかかわっていたヴィットリアが捜査の中心になる展開も強引だ。とくに最後の真犯人がわかる録画を二人が見ることになる場面は御都合主義もいいとこで、首をひねりたくなる。

が、観ている時は次から次へと殺人が予告されているので、余計なことを考える余裕などはない(なにしろ一時間刻みの殺人予告だから、のんびりなどしていられないのだ)。しかも現場到着が、いつも五分前だったりする(わけはないが、そんな感じ。で、手遅れになっちゃったりもするのだ)。

とにかく見せ場はふんだんすぎるくらいあって、カメルレンゴ(これは役職名なのね)が反物質を持ってヘリコプターに乗り込むという、思ってもみなかった人物のスーパーマンぶりまで見ることができる(ヘリコプターの操縦までできちゃうのだ! そうか、だからユアン・マクレガーだったのね。って、違うか)。また、ラングドンが推理を間違えるので(殺人の予告場所をひとつとカメルレンゴが危ないという二つ)、こちらもそれに振り回されるっていうこともあるが、息つく暇がないくらいだ。

しかしそれ以上に興味深かったのが、ヴァチカンの記録保管所に入るための交換条件のようにカメルレンゴから突きつけられた、神を信じるかという問いと、それに対するラングドンの答えだった。正確な言葉は忘れたが、私は学者だから信じていないが、心の部分では神に感謝しているというもの(いや、贈り物と思っている、だったか)。

これはなかなか頷ける答えだ(私の答えは、「神は信じないが、神という視点で考えることを人間は忘れてはならない」だから、これだと、神を信じないで神の視点がわかるのかと反論されてしまいそうで、だから閲覧はさせてもらえそうにない)。

反物質なんて物をわざわざ持ち出した設定も、要するに科学によって人間が神の領域に踏み込んでいく象徴的な意味を込めたかったのだろう。けれど神を信じる人がこんな物語を作るだろうか。

カメルレンゴの思考は間違ったものだが、科学に宗教が抹殺されると思ってのことと、少しは肩入れしてやってもいいのだろうか。でないと、彼の英雄的行為は説明できなくなってしまうが、これくらいの博打が打てないようでは法王にはなれないと踏んだのかもしれない。もちろんだからといって、暗殺者と繋がっていいわけがないし、自分も殺人という過ちを犯してしまっている(そうは感じないのだろうが)のだから何ともやっかいだ。正義(彼にとってのだが)のためなら手段を選ばずというわけか。

作者はここに悪魔をみているのだろうか。追い詰められて自殺する時も、神の手に委ねると言っていた者に。それとも天使と悪魔というのは単なる符合にすぎないのか。

宗教に欠点があるのは人間に欠点があるのと同じ、という最後に出てくるセリフも、私には、いかにも宗教を作ったのは人間と言っているようにしか思えないのだが、そのすぐあとで、恵深い神はあなた(ラングドン)をつかわしたとも言わせていて、これはずるいよね。というか、この曖昧さ(科学と宗教の共存)を結論にしてしまったようだ。

面白かったのは、それまで馬鹿丁寧にピンセットで扱っていた古文書を、解読している暇がないとみたヴィットリアが、いきなり該当ページを引きちぎってしまう場面だ。これにはラングドンも唖然とするばかりで(観客もびっくり!)、やったのは自分ではなくヴィットリアだと、後に二度も否定していた。宗教象徴学者としては正しい見解だろうか。強く否定したお陰かどうか、ラングドンは最後にヴァチカンから、研究にお使い下さいと、彼にとっては垂涎のそれを貸し出してもらっていた。

  

原題:Angels & Demons

2009年 138分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳監修:越前敏弥

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ジョン・キャリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』 脚本:デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:アラン・キャメロン 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダン・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー

出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)、ステラン・スカルスガルド(リヒター隊長)、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ(オリヴェッティ刑事)、ニコライ・リー・コス(暗殺者)、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)、トゥーレ・リントハート、デヴィッド・パスクエジ、コジモ・ファスコ、マーク・フィオリーニ

鈍獣

新宿武蔵野館1 ★★

武蔵野館にあった監督、出演者のサイン入りポスター

■映画と演劇の差に鈍獣

期待した分、つまらなかった。だって、凸やんの死なない理由がちっともわからないんだもの。

原作は宮藤官九郎で、第49回岸田國士戯曲賞の同名戯曲だ。演劇のことをほとんど知らない私(だから原作も未読)が言ってしまうのは憚れるが、こういう作風のものは、演劇でなら面白くても、映画に持ってきたからといってすんなり楽しめるとは思えないのである。例えば安部公房の『友達』。これも演劇ならよくても、ってそもそも戯曲なんだけどさ、果たしてそのまま映画にして成功するとは到底思えないのだ。

映画というのは、改めて言うまでもなく虚構にすぎないのだが、しかし意外にもリアリティというものを補強剤としているもので、それが適度にないと居心地が悪いものになってしまうというやっかいな側面を持つ(と私は思っている)()。

演劇が映画以上に虚構なのは、最初から空間が舞台に限定されているからで、それは当然の前提であるから、演劇を鑑賞していてリアリティ補強剤のことを言い出す野暮はいないだろう。演劇空間では、物事の関係性や粗筋に神経を集中できるから、寓意も込めやすくなる。演劇において不条理劇は(って変な書き方だが)成立しやすいが、映画でそういう非論理的な展開に考察を巡らすのは不向きなのだ。

そこでそれを避けるため、演劇空間をそのまま映画に持ち込んだラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(03)のような作品もあって、これだとリアリティ補強剤が不足していても、観客は安心できるから不思議である(映画なので空間的には多少の広がりはあるが、抽象性は保たれている)。

くどくなるが、この『鈍獣』が何故面白くないかというと、映画に置き換えた時のリアリティが欠如しているからで、なるほど「鈍感な奴ほど恐ろしい者はいない」というこの作品の指摘は、ものすごい真実であるし、「その鈍感から逃げるべく、鈍感の象徴である凸やんを抹殺しようとするのだが、鈍感故に毒も効かず、車で轢いても生き返り」と、そこを突き詰めていった話が面白くないはずがない、と作り手は思ったのだろうが、そうはいかないのだった。

もっとも映画化に際しての脚本も宮藤官九郎自身が書いていて、だからそこらへんのことは相当意識したと思われるのだが、映画を観た限りでは、演劇からの移植がうまくいったかどうかは疑問だ。アニメを入れたり(これもちょっとねー)、エレベーターに乗ってやって来る凸やん登場場面などは緊張感をもって描かれてはいたのだが。

週刊大亜の連載小説『鈍獣』が文学賞候補になるが、作家の凸川は失踪。編集者の静は凸川の故郷に出向き、凸川の同級生たちから事情を聞き回る。そののらりくらりとした返事の中に、だんだんと真実が見えてくるというわけだ。

彼らは凸川(凸やん)が小説の中で、彼らの昔の私生活や秘密(触れられたくない最大のタブー)を次々に暴いていくことに恐怖を感じていたのだった。が、当の凸やんは、いじめられたことは覚えていないし、そもそも小説などは書いていないという……。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンは不死身で、すでに逃れられない恐怖と化しているわけだ。だから凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンはすでに意識レベルの存在になっていて、だから不死身なのは言うまでもなく、逃れられない恐怖と化しているわけだ。つまり凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

:それではミュージカルはどうなんだと言われてしまいそうだが、ミュージカルの場合はショー的要素が加わるので、また全然違う次元の話になるし、セリフを歌でカバーする旧来のミュージカルであるならそれだけで、演劇空間と同程度の虚構、という前提を持つことになる。

 

2009年 106分 ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:細野ひで晃 アニメーション制作:スタジオ4℃ 製作:宇野康秀、山崎浩一 プロデューサー:曽根祥子、菅原直太、高瀬巌 アソシエイトプロデューサー:山崎雅史 企画プロデューサー:松野恵美子 脚本:宮藤官九郎 撮影:阿藤正一 美術:富田麻友美 音楽プロデューサー:緑川徹 主題歌:ゆずグレン『two友』 VFXスーパーバイザー:川村大輔 スクリプター:長坂由起子 照明:高倉進 録音:山田幸治 助監督:甲斐聖太郎 劇中画:天明屋尚

出演:浅野忠信(凸やん、凸川/小説家)、北村一輝(江田っち)、ユースケ・サンタマリア(岡本/警官)、南野陽子(順子/江田の愛人、「スーパーヘビー」のママ)、真木よう子(静/編集者)、佐津川愛美(ノラ)、ジェロ(明)、本田博太郎(編集長)、芝田山康(理事長)

交響詩篇 エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい

テアトルタイムズスクエア ★★

テアトルタイムズスクエアにあったサイン入りポスター(部分)

■じじいには理解不能の萌えキャラファンタジー!?

骨格はSFながらファンタジー色が妙に強くてなじめなかった。観た直後の印象はそんなに悪いものではなかったのに、何かを書き残そうとしている今、よからぬ部分ばかりが浮かんできてしまうのだ。

宇宙からやってきた謎の生命体イマージュとの戦いがもう四十五年も続いていて……というSF部分の設定も、高度な文明体同士の戦いが長続きするはずがない、と断言したい口なので、同じぶっ飛び設定でも、ハリウッド映画にありがちな、危機があっという間に拡大して、でも意外にもお間抜けな解決策で目出度し目出度し、の方がまだしもという気がする。そういえば、戦いが長期化しているのは『ヱヴァンゲリヲン』もで、これは主人公の成長ドラマを詰め込むには、その方が好都合なのかと、余計なことを考えてしまう。

また、ホランド・ノヴァク隊長率いる戦闘母艦・月光号のメンバーは「ドーハの悲劇」(付けも付けたりだよね)の生き残りで、ある実験によって通常の三倍の早さで年をとるようになってしまっている。そういう部分と幼生ニルヴァーシュ(この造型も苦手だし、戦闘機?もニルヴァーシュって何なのさ。それに、レントンだけが幼生の言葉を理解出来る選ばれし者って言われてもな)を同居させてしまう神経が私には理解できない。

エウレカが人間でなく、どころかイマージュのスパイロボットというのもどこかで聞いたような話で、でもエウレカとレントンの一途な想いにはぐっときてしまう。と言いたいところだが、これも二人の感情の流れが見えすぎてしまうのが難点だろうか。二人が最初から好き合っているのはいいにしても、そればっかりでは(見せ方に工夫がないと)、観ている方は既定路線を押しつけられた感じになる。

まあここらへんは好みの問題なのだが、エウレカの幼児時代が、ロリコン萌えキャラみたいなのもねぇ。よくわかっていないのでそういうのとは違うと言われてしまうかもしれないが、とにかく、じいさんにはついていけなかったのだ(『ポケットが虹でいっぱい』という副題を見た時に気づくべきだったか)。

テレビ版の元アニメをまったく知らない門外漢が、的外れなことを長々と書いても仕方ないのでもうやめるが(きちんと理解出来ていないことが多くて書けないってこともある)、月光号に乗り込むようになったレントンでもまだ14歳だから、これを単純に少年少女ものと思えば、そして私がそうだった頃のものに比べたら、とんでもなくよくできている(複雑すぎるともいえる)のだけどね。

  

2009年 115分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

総監督:京田知己 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 撮影監督:木村俊也 美術監督:永井一男 音楽:佐藤直紀 主題歌:iLL『Space Rock』 アニメーションディレクター:斎藤恒徳 キャラクターデザイン:吉田健一 音響監督:若林和弘 特技監督:村木靖 色彩設計:水田信子 製作:バンダイビジュアル、バンダイナムコゲームス、ボンズ、博報堂DYメディアパートナーズ、毎日放送

声の出演:三瓶由布子(レントン)、名塚佳織(エウレカ)、藤原啓治(ホランド)、根谷美智子(タルホ)、山崎樹範(ドミニク)、小清水亜美(アネモネ)