ハリー・ポッターと謎のプリンス

楽天地シネマズ錦糸町シネマ2 ★★☆

■最終篇の序章は、校長の死と惚れ薬騒動?

『ハリー・ポッター』も完結篇なのだから観ておこうか、って、全然違うじゃないの(原作が完結したのを取り違えてたようだ。ま、私がその程度の観客ってことなんだけど。そもそもファンタジーは苦手だし)。映画の最後で、次は二部作(えー)の最終篇が来るってお知らせが……ほへー。

簡単にいってしまうと(詳しく言えないだけなんだが)、この六作目の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』は、その最終篇の序章のようなものらしく、だからいきなり現実部分で、三つの黒い渦巻きのようなものがロンドンのミレニアム橋を襲い、破壊する場面を見せるのに、それは、最近よく起きている怪奇現象の一つみたいに片付けられてしまい、そして話の方も、もう現実世界でのことには触れることなく、学校に戻って行ってしまう。

ただし今回は、ダンブルドア校長の死という痛ましい結果が待ち構えている。そして、その前の段階でダンブルドアとハリーの二人三脚場面が多くあり、ハリーにも選ばれし者という自覚が芽生えているので、それなりに盛り上がってはいくんだが、地味っちゃ地味(スペクタクル場面は予告篇で見せちゃってるし、それも橋破壊とクィディッチ場面くらいだから)。

そのハリーだが、早々に簡単な魔法にかかって学校に遅刻しそうになるんで、これで選ばれし者なの、と言いたくなるが、まあご愛敬ってことで。

ヴォルデモート卿に関しては、毎回のようにその影響がハリーたちに降りかかるという設定なので、私のようにいい加減にしか観ていないものには、全部が似たようなイメージになってしまっている。しかし今回は(たって前がどうだったかは、って、しつこいか)ヴォルデモート卿の過去に遡っての話(だからトム・リドルという実名で登場する)で、少しずつヴォルデモート卿の輪郭をはっきりさせてもいるのだろう。

題名の『謎のプリンス』は、ヴォルデモート卿の過去から弱点を探るために、ダンブルドアがハリーを出汁に連れてきたホラス・スラグホーンの授業で、ハリーがたまたま手に入れた(ずるいよなぁ)ノートに記されていた名前で、正確には原題のthe Half-Blood Princeである。

実は、これは昔スナイプが書いた署名なのだが、それはあっさりスナイプがそう言うからで、謎って言われても、なのだが、スナイプは今回特別な役回りを与えられているのだった。

怪しさ芬芬のアラン・リックマンならではのスナイプは、ダンブルドアからも信頼(ではないのかもしれないが、映画だとよくわからなかった)され、しかし、破らずの誓いによって、ドラコ・マルフォイの保護者のような立場になってしまう(それは前からなのだが、この誓いではドラコが失敗した場合、その代役にならざるを得なくなる)。

つまり今回は、the Half-Blood Princeによるダンブルドアの死というのが大筋なのだ。出てくる小道具や交わされる言葉が、魔法学校のため、とまどうことがしばしばなのであるが(今更何を言ってんだか)、話はほぼ一直線。来るべき戦いを前に(分霊箱探しに)決意を新たにするハリーに、ハーマイオニーが私たちも行くと力強く続き、次作への期待を高まらせて終わりとなる。

ところで、すべてが次ではあんまりと思ったのか、学園ラブコメディ的要素が多くなった。出演者たちが成長したからこそだし、観客も彼らをずっと観てきたわけだから、これも楽しみの一つには違いない。が、なにしろここには惚れ薬なんてものまであるので、ロンのキスしまくり状態などという、だらけた場面に付き合わされることになる。ついでにロンを好きになっているハーマイオニーの嫉妬ぶりとかもね。

ハリーに至っては前作のファーストキスのことは忘れてしまったようで、ロンの妹のジニーに熱を上げていた。ジニーは付き合っている人がいたみたいなのに、何で二人はくっついちゃったのかしら。恋愛感情がどうのこうのというよりは、くっつき合いゲームになってしまっているのだ。展開が雑といってしまえばそれまでだけど、せっかく彼らの成長ぶりを観客だって見守ってきたのだから、これはもったいないよね。時間だってそれなりに割いてあるっていうのに。

こういうところも、原作にはちゃんと書かれているのだろうか。このシリーズ、まさか原作を読んだ人専用ってことはないだろうが、いつもそんな気になってしまうのだ。

  

原題:Harry Potter and the Half-Blood Prince 

2008年 154分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:岸田恵子 監修:松岡佑子

監督:デヴィッド・イェーツ 製作:デヴィッド・ハイマン、デヴィッド・バロン 製作総指揮:ライオネル・ウィグラム 原作:J・K・ローリング 脚本:スティーヴ・クローヴス 撮影:ブリュノ・デルボネル クリーチャーデザイン:ニック・ダドマン 視覚効果監修:ティム・バーク 特殊メイク:ニック・ダドマン プロダクションデザイン:スチュアート・クレイグ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:マーク・デイ 音楽:ニコラス・フーパー

出演:ダニエル・ラドクリフ(ハリー・ポッター)、ルパート・グリント(ロン・ウィーズリー)、エマ・ワトソン(ハーマイオニー・グレンジャー)、ジム・ブロードベント(ホラス・スラグホーン)、ヘレナ・ボナム=カーター(べラトリックス・レストレンジ)、ロビー・コルトレーン(ルビウス・ハグリッド)、ワーウィック・デイヴィス(フィリウス・フリットウィック)、マイケル・ガンボン(アルバス・ダンブルドア)、アラン・リックマン(セブルス・スネイプ)、マギー・スミス(ミネルバ・マクゴナガル)、ティモシー・スポール(ピーター・ペティグリュー)、デヴィッド・シューリス(リーマス・ルーピン)、ジュリー・ウォルターズ(ウィーズリー夫人)、ボニー・ライト(ジニー・ウィーズリー)、マーク・ウィリアムズ(アーサー・ウィーズリー)、ジェシー・ケイヴ(ラベンダー・ブラウン)、フランク・ディレイン(十六歳のトム・リドル)、ヒーロー・ファインズ=ティフィン(十一歳のトム・リドル)、トム・フェルトン(ドラコ・マルフォイ)、イヴァナ・リンチ(ルーナ・ラブグッド)、ヘレン・マックロリー(ナルシッサ・マルフォイ)、フレディ・ストローマ(コーマック・マクラーゲンデヴィッド・ブラッドリー、マシュー・ルイス、ナタリア・テナ、ジェマ・ジョーンズ、ケイティ・ルング、デイヴ・レジーノ

バンコック・デンジャラス

新宿ミラノ2 ★☆

映画宣伝シール(トイレ用)

■自分がデンジャラス

引き際を考えはじめた殺し屋が、バンコクに最後の仕事でやってくる。映画は、自己紹介風に始まる。安定して報酬もいいが万人向きではない孤独な殺し屋をやっていること。名前はジョーで、仕事には「質問するな」「堅気の人間と交わるな」「痕跡は残すな」というルールを課していること……。自分の殺しの哲学を披瀝しているのだが、別に出会い系サイトや結婚紹介所に釣書を提出しているわけではないし、こんなことを言い出すこと自体が、いくら内面の声とはいえ、殺し屋らしくないので笑ってしまう。

ま、それはいいにしても、ジョーは自分で言っていたことを、ことごとく破ってしまうのだ。いつもなら平気で使い捨てにしてきた(つまり殺していた)通訳兼連絡係に雇ったコンというチンピラを、「あいつの目の中に自分を見た」と、殺さないどころか、何を血迷ったか弟子にしてしまうのだ。コンはジョーのメガネにかなった男にはとても見えないのだが……。

もう一つはフォンという耳の聞こえない女性に惹かれてしまうことで、これも四つの依頼の最初の仕事で、傷を負ったジョーが立ち寄った薬局でのことだからねぇ。自分の潮時を意識してしまうとこうも変わってしまうものなのだろうか。そうではなく、それだけフォンが魅力的だったと言いたいのか。たとえそうであっても、少なくともフォンに関しては、仕事が終わるまで待つくらいの自制心もないのだろうか(あったら映画にならないって。まあね)。

とにかく理由らしい理由もないまま、まるで塒にしている家にある像の絵が悪いとでもいうかのように、ことごとくルールを破ってしまうのだ(像の鼻が下を向いていると縁起が悪いとコンに言われて、ジョーもそれを気にするのだが、これもねぇ)。いままでミスをしたことのない完璧な殺し屋がどうして変わっていったのか、これこそがこの映画の狙いのはずなのに、そこが何一つきちんと描けていないのではどうしようもない。

四つめのターゲットは次期大統領候補で、政治的な暗殺は契約外と言っておきながら、ここでもルールを犯してしまう。これで最後と思ったからなのかどうか。こういう説明が足らなすぎるのだ。

違和感を覚えて暗殺に失敗したことで(ついにやってしまったのね)依頼人のスラットからも狙われ、コンと彼の恋人を人質にされてしまう(スラッとは、彼らから足が付くのを恐れたのだった)。

そして壮絶な銃撃戦(でもないんだよな、これが。やたら銃はぶっ放してたけど)の末、最後はスラットと道連れ、っていくらなんでもあきれるばかり。何かあるだろうとは思っていたが、こんな終わり方じゃあね。

見せ場は「猥雑で堕落した街」バンコクと水上ボートのチェイスだが、これだけ大げさなことになっちゃったら「痕跡は残すな」どころか沢山残っちゃうよね。

原題:Bangkok Dangerous

2008年 100分 アメリカ ビスタサイズ 配給:プレシディオ R-15 日本語字幕:川又勝利

監督:ザ・パン・ブラザーズ(オキサイド・パン、ダニー・パン) 製作:ジェイソン・シューマン、ウィリアム・シェラック、ニコラス・ケイジ、ノーム・ゴライトリー 製作総指揮:アンドリュー・フェッファー、デレク・ドーチー、デニス・オサリヴァン、ベン・ウェイスブレン 脚本:ジェイソン・リッチマン オリジナル脚本:ザ・パン・ブラザーズ 撮影:デーチャー・スリマントラ プロダクションデザイン:ジェームズ・ニューポート 編集:マイク・ジャクソン、カーレン・パン 音楽:ブライアン・タイラー

出演:ニコラス・ケイジ(ジョー)、シャクリット・ヤムナーム(コン)、チャーリー・ヤン(フォン)

パッセンジャーズ

新宿武蔵野館3 ★★★

■死を受け入れるためには

観てびっくり、私の嫌いな手法を使ったひどいインチキ反則映画だった。なのに不思議なことに反発心が起きることもなく、静かな安心感に包まれて映画館をあとにすることができた。

100人以上が乗った航空機が着陸に失敗し、機体がバラバラになって炎上する大惨事となる。わずかに生き残った5人のカウンセリングをすることになった精神科医のクレアは、生存者の聞き取り調査を進める過程で、不審な人物を見かけるし、会社発表の事故原因とは違う発言をする生存者がいて、不信感を強めていく。グループカウンセリングの参加者は、回を追うごとに減ってしまうし、不審者にはどうやら尾行されているようなのだった。

また、生存者の中でカウンセリングは必要ないと言って憚らないエリックの言動もクレアを悩ます。事故が原因で躁状態にあるのか、エリックはクレアを口説きまくるのだ。当然のように無視を続けるクレアだが、エリックの高校生のようなふるまいに、次第に心を許し、あろうことか精神科医としてはあってはならない関係にまでなってしまう(あれれれ)。

航空会社追求にもっと矛先を向けるべきなのに、エリックとのことを描きすぎるから、妙に手ぬるい進行になっているんだよな、と思い始めた頃、もしやという疑問と共に、話の全体像が大きく歪んでくる。そうなのか。いや、でもさ……。

何のことはない。クレアも乗客の1人であって、実際には生存者などいなかった、という話なのだ。つまり、死にきれないクレアやエリックやパイロットなどが、生と死の境界のような場所で繰り広げていた、それぞれの妄想(がそのまま映画になっている)なのだった。

最初、私はこれをクレア1人が作り上げた世界と思ってしまったのだが、そうではないようだ。自分の死が納得できない人間の住む世界を複数の人間で共有しているらしい。そして、死を受け入れられるようになるとその人は消えて、つまり死んでいくわけだ。グループカウンセリングの参加者が減ったのは、陰謀による失踪などではなかったのである。

しかしとはいえ、クレアだけは事故の生存者でなく、カウンセラーになっているのはずるくないだろうか。クレアの場合、他の乗客とは違って死を受け入れる以前に、乗客であることすらも否定していたというのだろうか。そんなふうにはみえなかったし、説明もなかったと思うのだが。

結末がわかった時点で、謎だった人物の素性も判明する。すでに他界してしまった大切な人が、死を受け入れるための手助けに来てくれていたというのだ。うれしくなる心憎い設定なのだが、その人たち(エリックにとっては犬だった)のことを本人が忘れてしまっていては意味がないような気もしてしまう。まあ、気がついてしまうということは、すべてのことがわかってしまうことになるから、他にやりようがないのだろうが。そしてむろん、そのことよりも、何故自分のためにそうまでしてくれたかということを知ることが大切と言いたいのだろう(私としてはトリックの強力な補強剤になっているので、とりあえずは文句を言っておきたかったのだな)。

また、喧嘩をしたことをずっと悔やんでいて、いくら電話をしても連絡がとれないクレアの姉エマについても、ほとんど誤解をしていた(エマも航空機の同乗者だったのではないかと思ってしまったのだ)。電話に出てこないのは、エマが生きている人間だからで、だから最後の場面になるまで(これはもう実際の世界の映像である)、エマはクレアの手紙(「姉さんのいない人生は寂しすぎる」と書かれたもの)を読んでいなかっただけなのだ。

ありもしない世界(そういいきれるのかと言われると困るが)でのことだから、いくらでも話は作れてしまうわけで、それにイチャモンをつけてもキリがないのだが、それよりそんなトリッキーなことをされて腹が立たなかったのは、この作品が、不測の死を迎えることになっても、せめて納得して(仕方がないという納得であっても)死にたいという、大方の人間が多分持っているだろう願望を、具現化してくれたことにありそうだ。

人はすべてを納得して死にたいのではないだろうか。死が幸福であるわけがないが、少なくとも不幸というのとも違うのだよ、と言っているような希有な映画に思えたのである。

と書いてきて、急に気になったことがある。クレアとエリックは死の前の航空機内であれだけ心を通わせていたのに、何故別世界の中ではカウンセラーと生存者という対照的な存在として現れたのだろう。むろんまた2人の心は繋がっていくのだが、でも、ということは、やり直してみないことにはわからないくらいの危うい関係だったのだろうか(って、こんなことは思いつかない方がよかったかも……)。

それに(もうやめた方がいいんだが)、エリックは「事故の後は、まるで生まれ変わったみたいに感じる」と言っていたが、これではクレアとのことはすっかり清算してしまったみたいで、あんまりではないか。ま、それ以上にクレアのことを賞賛して埋め合わせはしていたけれど(クレアもわかっていないのだからどっちもどっちなのだけど)。

考えてみると、エリックは死ななくてはいけないのに「生を実感」しているなんともやっかいな患者なのだった。彼に死を受け入れさせることは、クレア以上に大変だったのかもしれない。そうか、だからクレアは精神科医として(ばかりではないが)現れ、エリックを診てあげる必要があったのだ。というのは、好意的すぎる解釈かしら。それにエリックは、クレアより先に自分たちの立場に気づくから、この解釈は違ってると言われてしまいそうだ。

いままで特別感心したことのなかったアン・ハサウェイだが(好みじゃないってことが一番だが)、この作品では精神科医という役柄のせいもあり、自己抑制のきいた、あるいはきかせようという気持が伝わってくる落ち着いた演技をしていて好感が持てた。

原題:Passengers

2008年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ショウゲート 日本語字幕:松浦美奈

監督:ロドリゴ・ガルシア 製作:ケリー・セリグ、マシュー・ローズ、ジャド・ペイン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン 脚本:ロニー・クリステンセン 撮影:イゴール・ジャデュー=リロ プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:トム・ノーブル 音楽:エド・シェアマー

出演:アン・ハサウェイ(クレア・サマーズ)、パトリック・ウィルソン(エリック・クラーク/乗客)、デヴィッド・モース(アーキン/パイロット)、アンドレ・ブラウアー(ペリー/クレアの上司、先生)、クレア・デュヴァル(シャノン/乗客)、ダイアン・ウィースト(トニ/クレアの隣人、叔母)、ウィリアム・B・デイヴィス、ライアン・ロビンズ、ドン・トンプソン、アンドリュー・ホイーラー、カレン・オースティン、ステイシー・グラント、チェラー・ホースダル

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

新宿ミラノ1 ★★☆

■もう勝手にしてくれぃ

なんでこのシリーズがヒットするんだろ。私にはけっこうな謎だ。海賊映画の伝統があるアメリカならいざ知らず、日本人に食指が動くのかなーと。近年は『ONE PIECE』のようなマンガもあるし(内容は知らん)、ディズニーランドのアトラクションでもお馴染みだから(いや映画はこれが元でしたっけ)、それほど違和感はないのかも。内容重視というのではなく、アトラクションムービーとして楽しめればそれで十分なのだろうか。

そうはいっても170分間全部をその調子でやられてはたまらない。たしかに流れに身をまかせているだけで、退屈することもなく最後まで観せてはくれるが、でも何も残らないんだよな。

デイヴィ・ジョーンズの心臓を手に入れた東インド会社のベケット卿によって窮地に立たされた海賊たちは、死の世界にいるジャック・スパロウを救い出すことにし、ってそうだった、2作目の最後でジャック・スパロウを当然どうにかしなければならないことはわかってはいたんだけど、あらためてこれはないよなー、と思う。早々にもうどうでも良い気分になってしまったもの。

何でもありのいい加減な映画の筋など書く気分じゃないのでもうお終いにしちゃえ。それにしても3作まで作り、ヒットし(金もつぎ込んでるか)、キャラクターも育ったというのに、結局は話に振り回されているだけの印象って、あーもったいない。

 

原題:Pirates of the Caribbean: At Worlds End

2007年 170分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オマン、ブルース・ヘンドリックス、エリック・マクレオド 脚本: テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー キャラクター原案:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、スチュアート・ビーティー、ジェイ・ウォルパート 視覚効果:IKM プロダクションデザイン:リック・ハインリクス 衣装デザイン:ペニー・ローズ 編集:クレイグ・ウッド、スティーヴン・リフキン 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(キャプテン・ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ジェフリー・ラッシュ(キャプテン・バルボッサ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、チョウ・ユンファ(キャプテン・サオ・フェン)、ステラン・スカルスガルド(ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ジェームズ・ノリントン)、トム・ホランダー(ベケット卿)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、デヴィッド・スコフィールド(マーサー)、ケヴィン・R・マクナリー(ギブス航海士)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、マッケンジー・クルック(ラゲッティ)、デヴィッド・ベイリー(コットン)、キース・リチャーズ

初雪の恋 ヴァージン・スノー

2007/05/27  TOHOシネマズ錦糸町-7 ★

■京都名所巡り絵葉書

陶芸家である父の仕事(客員講師として来日)の都合で韓国から京都にやってきた高校生のキム・ミン(イ・ジュンギ)は、自転車で京都巡りをしていて巫女姿の佐々木七重(宮﨑あおい)に出会って一目惚れする。そして彼女は、ミンの留学先の生徒だった。

都合はいいにしてもこの設定に文句はない。が、この後の展開をみていくと、おかしくないはずの設定が、やはり浮ついたものにみえてくる。これから書き並べるつもりだが、いくつもある挿話がどれも説得力のないものばかりで、伴一彦(この人の『殴者』という映画もよくわからなかったっけ)にはどういうつもりで脚本を書いたのか訊いてみたくなった。それに、ほとんどミンの視点で話を進めてるのだから、脚本こそ韓国人にすべきではなかったか。

ミンは留学生という甘えがあるのか、お気楽でフラフラしたイメージだ。七重の気を引こうとして彼女の画の道具を誤って川に落としてしまう。ま、それはともかく、チンドン屋のバイトで稼いで新しい画材を買ってしまうあたりが、フラフライメージの修正は出来ても、どうにも嘘っぽい。バイトは友達になった小島康二(塩谷瞬)の口添えで出来たというんだけどね。

他にも、平気で七重を授業から抜け出させたりもするし(出ていった七重もミンのことがすでに好きになっているのね)、七重が陶器店で焼き物に興味を示すと、見向きもしなかった陶芸をやり出す始末(ミンが焼いた皿に七重が絵をつける約束をするのだ)。いや、こういうのは微笑ましいと言わなくてはいけないのでしょうね。

七重が何故巫女をしていたのかもわからないが、それより彼女の家は母子家庭で、飲んだくれの母(余貴美子)がヘンな男につけ回され、あげくに大騒動になったりする。妹の百合(柳生みゆ)もいるから相当生活は大変そうなのに、金のかかりそうな私立に通っているし、しかも七重は暢気に絵なんか描いているのだな。

結局、母の問題で、七重はミンの前から姿を消してしまうのだが、いやなに、そのくらい言えばいいじゃん、って。ま、あらゆる連絡を絶つ必要があったのかもしれないのでそこは譲るが、その事情を書いたお守りをあとで見てと言われたからと飛行機では見ずに(十分あとでしょうに)、韓国で祖母に私のお土産かい、と取られてしまう、ってあんまりではないか。メッセージが入っているのは知っていてだから、これは罪が重い。

2年後に七重の絵が日韓交流文化会で入選し、2人は偶然韓国で再会するのだが、少なくてもミンがあのあと日本にいても意味がないと2学期には帰ってしまったことを友達の香織(これも偶然の再会だ)からきいた時点で、ミンに連絡することは考えなかったのか(学校にきくとか方法はありそうだよね)。ミンがすぐ韓国に帰ってしまったのもちょっとねー。それに七重が消えたことで、よけいお守りのことが気になるはずなのに。

再会したものの以前のようにはしっくりできない2人。なにしろ言葉が不自由だからよけいなんだろうね。ミンは荒れて七重の描いた絵は破るし、七重に絵を描いてもらうつもりで作っていた大皿も割ってしまう。お守りの中の紙を見た祖母が(この時を待ってたのかや)、これはお前のものみたいだと言って持ってくる(簡単だが「いつか会える日までさようなら」と七重の気持ちがわかる内容だ)。

ミンは展覧会場に急ぐが、七重の姿はなく、彼女の絵(2人で回った京都のあちこちの風景が描かれたもの)にはミンの姿が描き加えられていた。しかし、これもどうかしらね。夜中の美術館に入って入選作に加筆したら、それは入選作じゃあなくなってしまうでしょ。まったく。自分たちの都合で世界を書き換えるな、と言いたくなってしまうのだな。

ミンは七重を追うように京都に行き、七重が1番好きな場所といっていたお寺に置いてあるノートのことを思い出す。そこには度々七重が来て、昔2人で話し合った初雪デート(をすると幸せになるという韓国の言い伝え)のことがハングルで書いてあり、ソウルの初雪にも触れていた。

そして、ソウルに初雪が降った日に2人は再会を果たす。

難病や死といううんざり設定は避けていても、こう嘘くさくて重みのない話を続けられると同じような気分になる。まあ、いいんだけどさ、どうせ2人を見るだけの映画なのだから。と割り切ってはみてもここまでボロボロだとねー。言葉の通じない恋愛のもどかしさはよく出ていたし、京都が綺麗に切り取られていたのだが。

【メモ】

初級韓国語講座。ジャージ=チャジ(男根)。雨=ピー。梅雨=チャンマ。約束=ヤクソク。

韓国式指切り(うまく説明できないのだが、あやとりをしているような感じにみえる)というのも初めて見た。

七重の好きな寺にいる坊さんとミンが自転車競争をしたのが、物語のはじまりだった。

2006年 101分 ビスタサイズ 日本、韓国 日本語版字幕:根本理恵 配給:角川ヘラルド映画

監督:ハン・サンヒ 製作:黒井和男、Kim Joo Sung、Kim H.Jonathan エグゼクティブ・プロデューサー:中川滋弘、Park Jong-Keun プロデューサー:椿宜和、杉崎隆行、水野純一郎 ラインプロデューサー:Kim Sung-soo 脚本:伴一彦 撮影:石原興 美術:犬塚進、カン・スン・ヨン 音楽:Chung Jai-hwan 編集:Lee Hyung-mi 主題歌:森山直太朗

出演:イ・ジュンギ(キム・ミン)、宮﨑あおい(佐々木七重)、塩谷瞬(小島康二)、森田彩華(厚佐香織)、柳生みゆ(佐々木百合)、乙葉(福山先生)、余貴美子(佐々木真由美)、松尾諭(お坊さん)

バベル

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

ハンニバル・ライジング

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■常識人の創った怪物

あの「人食い(カニバル)ハンニバル」の異名を持つ殺人鬼レクター博士の誕生話。

トマス・ハリスなら最初の『レッド・ドラゴン』を書いた時点で、当然レクター像もかなり煮詰めていたはずである。といってこの作品までの構想があったかというと、むろん私にはわからないのだが、全体の輪郭が当初からあったと聞けばなるほどと思うし、後付けであるならそれもさすがと思ってしまうくらいよく出来ている(文句を書くつもりなのにほめてしまったぞ)。

そして、結論は意外と単純なものであった。あれだけの反社会的精神病質者を生みだしたのは、そのレクターの存在以上に狂気が至るところにあった戦争だったというのだから。

第二次大戦中の1944年、6歳のハンニバル・レクターは、リトアニアの我が家レクター城(名門貴族なのね)にいた。戦争は彼の恵まれた環境をいとも簡単に壊してしまう。ドイツ空軍の爆撃で父母を奪ばわれたハンニバルは、幼い妹のミーシャと山小屋に隠れ住むが、そこに逃亡兵がやってきたことで悲劇が起きる……。

戦後ソ連軍に解放された家は孤児院となり、ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)はあれから8年間をそこで過ごしていたが、他の孤児のいやがらせに脱走し、手紙の住所をたよりにフランスにいる叔父を訪ねる。

ただ、この逃避行で、彼はすでにかなりの非凡さを披露してしまう。なにしろ孤児院を抜けるだけでなく、冷戦時代の国境まで越えてしまうし、いやがらせをした相手への復讐も忘れないなど、後年のレクター博士がすでにここにいるのである。

これでは興味が半減してしまう。もちろんまだカニバルの部分での謎は残っているし、映画としての娯楽性を損ねることなく進行させねばならない、という理由もあってしたことだろうから、それには目をつぶっておく。

さて、フランスに無事たどり着いたレクターだが、叔父はすでに死んでいて、しかし日本人の未亡人レディ・ムラサキ(コン・リー)の好意で、そこに落ち着くことになる。が、肉屋の店主がムラサキに性的侮辱の言葉を浴びせたことで、彼の中の獣性が目を覚ます……。

ムラサキの下でハンニバルは日本文化の影響を受けることになる。ムラサキによる鎧と刀を使った儀式めいたものが演じられるし、ハンニバルが肉屋の首を斬りとったのもこの日本刀を使ってだった。ただ、この部分は日本人には首を傾げたくなるものでしかない。

ポピール警視の追求を受けるものの、ハンニバルは最年少で医学部に入学する。なるほど、後年、精神科医にはなるが、人間を解剖したりする知識は早くから学問として学んでいたというわけか。

このあと、度々悪夢に襲われるハンニバルは、ミーシャの復讐を次々と果たしていく。この復讐劇が予定通りに成し遂げられていくのは、青年ハンニバルがもうレクター博士になっている証拠のようなもので(フランスへの逃避行からだった)、特別な見せ場にもならないほど粛々と進行していく。

が、このことで復讐相手のグルータス(リス・エヴァンス)の口から、飢えをしのぐためにミーシャを食べたのはお前もだと逆襲されることになる。これはかなり衝撃的な事実であるし、ここを映画のクライマックスにもしているので、これをもってカニバルの説明としたいところだが、妹の人肉を食べたことがハンニバルの中で嫌悪にはならず、人肉食を追求するようになった理由にまではなっていないように思われる。

それにこれは本当に説明可能なことなのだろうか。青年ハンニバルを描くことになれば、当然それが明かされるはずと思い込んでいたが、それが簡単なものでないことは誰しも気付くことだ。

ムラサキはハンニバルの最初の殺人を容認するばかりか擁護してしまうのだが、最後は彼に復讐を断念し脱走兵を許すことを求める。が、もう耳を貸すようなハンニバルではなくなっている。けれど、それなのに、ハンニバルはムラサキに「愛している」と言うのだ。

ハンニバルもここまでは夢にうなされるし、愛という言葉を口にする人間だったのである。だから彼の犯罪もこの作品では、非礼に対する仕返しであり、妹への復讐であって、彼の側にも正当性がかろうじてあったのだ。しかしムラサキに「あなたには愛に値するものがない」と言われてしまったことで、ハンニバルにあった人間は消えてしまう。

説明つきかねるものをやっとしたという感じがなくもないが、しかしそうさせたのは、レクター博士を想像したのが常識人のトマス・ハリスだったからではなかったか。いや、これはまったくの推論だが。

なお蛇足ながら、ギャスパー・ウリエルのハンニバル像は、アンソニー・ホプキンスにひけを取らぬ素晴らしいもので、彼にだったら続編を演じてもらってもいいと思わせるものがあった。そうして、今回定義出来なかった悪をもっと語ってもらいたいと思うのだ。さらに的外れになることを恐れずにいうと、善から悪への道は『スターウオーズ エピソード3 シスの復讐』の方がよほど上で、ハンニバルは最初から悪そのものを楽しんでいたという設定にすべきではなかったか。

ところでチラシには「天才精神科医にして殺人鬼、ハンニバル・レクター。彼はいかにして「誕生(ライジング)」したのか?――その謎を解く鍵は“日本”にある」となっているのだけど、ないよ、そんなの。

原題:Hannibal Raising

2007年 121分 シネスコサイズ アメリカ、イギリス、フランス R-15 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ピーター・ウェーバー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アマール 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード 原作:トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』  脚本:トマス・ハリス 撮影:ベン・デイヴィス プロダクションデザイン:アラン・スタルスキ 衣装デザイン:アンナ・シェパード 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネッリ 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂
 
出演:ギャスパー・ウリエル(ハンニバル・レクター)、コン・リー(レディ・ムラサキ)、リス・エヴァンス(グルータス)、ケヴィン・マクキッド(コルナス)、スティーヴン・ウォーターズ(ミルコ)、リチャード・ブレイク(ドートリッヒ)、ドミニク・ウェスト(ポピール警視)、チャールズ・マックイグノン(ポール/肉屋)、アーロン・トーマス(子供時代のハンニバル)、ヘレナ・リア・タコヴシュカ(ミーシャ)、イヴァン・マレヴィッチ、ゴラン・コスティッチ、インゲボルガ・ダクネイト

バッテリー

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★☆

■勝手にふてくされてれば

ピッチャーとして天才的な素質を持つ原田巧(林遣都)が、引っ越し先の岡山県新田市(新見市か)で中学に進み、成長していく姿を描く。

病弱な弟の青波(鎗田晟裕)のことだけで精一杯の家族や、管理野球の中学野球部監督、先輩や同級生とのトラブル、ライバルの登場に、信頼していたキャッチャーの永倉豪(山田健太)との軋轢……。

こんな書き方では何もわからないのだが、手抜き粗筋にしてしまったのは、どうにも気が進まないからで、といってこの作品がそんなにひどいかといえばそんなことはないのだが、ようするに私が中学生の悩みに付き合えるほど人間ができていないということだろうか。

「野球に選ばれた人間」である巧。いくら速い球を投げても、それを受けとめてくれる者がいなくては自分の存在理由もなくなる。そんな自分を誰もわかっちゃくれないとばかりにふてくされてみせるのは、多感な中学生が、でも表現は追いつかないということなのだろう。が、祖父の井岡洋三(菅原文太)のようにはしっかり付き合えない私としては、いつまでもそうしてれば、と突き放すしかない。

話にしてもたとえば、丸刈りにしなければ退部なのに、監督の戸村(萩原聖人)をショートフライに打ち取ったことで、それをなしにしてしまうというのが、はなはだ面白くない。生徒にそそのかされて対決してしまう戸村もどうかしているのだが、中学の野球部の監督が野球を実力だけで評価してしまっていいのか。

巧を嫉む上級生の描き方もひどくて、部活に入っていれば内申書がよくなるから野球をやっていた、っていうのがね。巧への暴行も見捨てておけるものではないが、「言いてぇこと言って、やりたいことやって、我慢しないでいきなりレギュラーか」という彼の言い分はわかる。で、そのことにはちゃんと答えてやっていないのだ。

さらに問題なのは、最後のまとめ方だろうか。青波の病気が悪化したは巧のせいだという母の真紀子(天海祐希)に、頼りなさそうだった父の広(岸谷五朗)が、どうしてそんなに巧につらく当たるのかと問いただす。真紀子は「八つ当たり」を認め、「好きなものに打ち込める巧を見ているとイライラする」と答える。

ここまでならわかるのだが、広は調子に乗って「野球って自分の気持ちを伝えるスポーツなんだ。ぼくはこの発見を巧に伝えたいんだ。君だって伝えたいんだろ、お前だってお母さんの大切な子供だって」とまで言う。小中学生向けとしてなら、まあこれもアリだろう。でも大人の広が「発見」してもねー。

そう言われて球場に駆けつけてしまう真紀子、という演出もどうかと思うのだけど……。

いやなところばかりを書いてしまったが、『バッテリー』というタイトル部分の巧と豪の関係はよく描けていたように思う。「ボールの成長に追いつけない」豪の自分への叱責。それはわかっていてもやはり「手抜きのボールはキャッチャーへの裏切り」なのだ。でも、こんな豪の葛藤に比べると、巧のは単なる苛立ちのようにしかみえないのがねー。

映像としては、巧の剛速球はうまく表現出来ていたと思う。投球フォームをじっくり見せるのもいい。だけど、毎回これではあきてしまう。あれ、またけなしてしまったか。ここまでボロクソに言うつもりはなかったのだけどね。

  

2006年 118分 シネスコサイズ

監督:滝田洋二郎 製作:黒井和男 プロデューサー:岡田和則、岡田有正 エグゼクティブプロデューサー:井上文雄、濱名一哉 企画:信国一朗、島谷能成 原作:あさのあつこ『バッテリー』 脚本:森下直 撮影:北信康 美術:磯見俊裕 編集:冨田信子 音楽:吉俣良 主題歌:熊木杏里『春の風』 CGIプロデューサー:坂美佐子 スクリプター: 森直子 照明:渡部篤 録音:小野寺修 助監督:足立公良
 
出演:林遣都(原田巧)、山田健太(永倉豪)、鎗田晟裕(原田青波/弟)、蓮佛美沙子(矢島繭)、天海祐希(原田真紀子/母)、岸谷五朗(原田広/父)、萩原聖人(戸村真/監督)、菅原文太(井岡洋三/祖父)、上原美佐(小野薫子)、濱田マリ(永倉節子)、米谷真一(沢口文人)、太賀(東谷啓太)、山田辰夫(草薙)、塩見三省(阿藤監督)、岸部一徳(校長)

ハッピー フィート(日本語吹替版)

109シネマズ木場シアター6 ★☆

■タップで環境問題が解決するなら世話はない

皇帝ペンギンに1番必要な「心の歌」が歌えない音痴のマンブルだが、タップダンスなら生まれた時から天才的(卵も嘴でなく足で割って出てくる)。でも、この個性が災いして、学校も卒業させてもらえない。皇帝ペンギン界には、心の歌を歌えなければ大人になった時に最愛の人を見つけられないという常識があるのだ。

ママは理解してくれるし、幼なじみのグローリアも気にかけてはくれるのだが、なにしろ成長したのに外見も産毛のかたまり(ペンギンは見分けがつかないのと、小さい時の可愛さとのギャップでこのキャラクターなんだろか)で、あまりに皇帝ペンギンらしからぬマンブルには居場所がない。

ところが失意の中で知り合ったアデリー・ペンギンの5匹、アミーゴスの面々からは、「お前のすげーダンスを見たら女どもは寄ってくるぜ」とベタ褒めされる。イワトビペンギンのライブレイスという怪しげな愛の伝道師にも会って、マンブルはいろいろな世界を知り、自分にも次第に自信が持てるようになる。

しかし何故ヨチヨチ歩きのペンギンにタップダンスなんだろう。雰囲気は出ているが、ペンギンは足の動きがわかりずらいからね。タップはやはり不向きと思うのだが。

とはいえアニメの出来は素晴らしいもので、ここまでくると逆に細部までの描き込みすぎが心配になってくるほどだ。それに、普通は手を抜けるところなのにね。特にすごいのが、画面を埋め尽くしたペンギンの群れが歌って踊る場面だ。アニメのことはよくわからないが、この集団アニメは画期的なのではないか(一体何羽のペンギンがあの画面にはいたんだろう!)。

マンブルは皇帝ペンギンたちにも自分の特技を披露して、新しい楽しさをわかってもらいかける。が、頑固な長老たちはタップダンスを若者どもの反乱と受け入れようとしない。それどころか、秩序を乱すマンブルこそが最近の魚不足の原因と決めつけられて、誰も逆らえなくなってしまう。

ダンスと歌が満載の動物アニメには、個性の排除に立ち向かっての自分探しの旅は、無難なとこではあるのだが、それでは物足りないと考えたのだろうか、映画は思わぬ方向に突き進む。

魚が減った原因を調べると言って仲間の元を去ったマンブルは、エイリアン(人間)が魚を捕っていることを突きとめるが、結局人間に捕まって動物園に入れられてしまう。3日後に言葉を失ない3ヶ月後には心を失ったマンブルだったが、ある日タップを踊ったことが話題になって(「ショーに出したら金になる」という発言もあった)、生態調査のため発信器を付けられて南極へ戻ってくる。そして最後は何やら会議での議論の末「それでは禁漁区にする」宣言が飛び出す。

この流れはいい加減で、しかもあれよあれよという間だから、後になったら理屈がわからなくなっていた。人間だけでなく、皇帝ペンギンたちの反応もひどいんだもの。マンブルに魚を捕った犯人がわかったと報告されているのに、ヘリコプターでやってくる人間と一緒になって踊ってしまうのだから。しかも長老たちまで。誰か私にわかりやすく説明してくれないものか。

保守的だったパパが「(マンブルの個性は)もとは俺が卵を落としたせいだし、マンブルには1日だってパパらしいことをしてあげられなかった」と反省するくだりはいいのにね。「もう音楽がなってない」という表現には、さみしさがにじみ出ていた。

こういう部分をみると、ありきたりであってもはじめの路線でまとめておくべきだったと思わずにはいられない。人間と共存なんてことを言い出すから、食べられる魚の立場や、見せ場だったシャチやアザラシに襲われるシーンを、どう解釈すればいいのかわからなくなってしまうのである。

ところで人間たちは実写なのだろうか。それとも……。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 長編アニメ映画賞受賞

仕方ないのかもしれないが、出だしはドキュメンタリーの『皇帝ペンギン』そっくり。

ブラザー・トムの2役は、ロビン・ウイリアムスがそうしてることに合わせている(だから?)。

挿入歌は吹き替えされずそのまま流れていて(だからここは字幕)、最後にNEWSの『星をめざして』がイメージソングとしてついていた(これは字幕版も?)。

原題:Happy Feet

2006年 109分 シネスコサイズ アメリカ 

監督:ジョージ・ミラー 共同監督:ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 製作: ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、ビル・ミラー 製作総指揮:ザレー・ナルバンディアン、グレアム・バーク、デイナ・ゴールドバーグ、ブルース・バーマン 脚本:ジョージ・ミラー、ジョン・コリー、ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 振付:セイヴィオン・グローヴァー(マンブル)、ケリー・アビー 音楽:ジョン・パウエル アニメーションディレクター:ダニエル・ジャネット
 
声の出演(日本語吹替版):手越祐也(マンブル)、ブラザー・トム(ラモン、ラブレイスの2役)、 園崎未恵(グローリア)、てらそままさき(メンフィス/パパ)、冬馬由美(ノーマ・ジーン/ママ)、水野龍司(長老ノア)、石井隆夫(アルファ・スクーア/トウゾクカモメ)、真山亜子(ミセス・アストラカン)、 さとうあい(ミス・バイオラ)、稲葉実(ネスター)、多田野曜平(ロンバルド)、小森創介 (リナルド)、高木渉(ラウル)、加藤清史郎(ベイビー・マンブル)

パフューム ある人殺しの物語

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■神の鼻を持った男はいかにして殺人鬼となったか-臭気漂う奇譚(ホラ話)

孤児のジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、13歳の時7フランで皮鞣職人に売られるが、落ち目の調香師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)に荷物を届けたことで、彼に自分の才能を印象付けることに成功し、50フランで買い取ってもらい晴れて弟子となるが……。

巻頭の拘置所にいるグルヌイユの鼻を浮かび上がらせた印象的なスポットライトに、死刑宣告の場面をはさんで1転、彼の誕生場面に移る。パリで1番悪臭に満ちた魚市場で、彼はまさに「産み落とされる」のだ。この場面に限らず、匂いにこだわって対象をアップでとらえた描写は秀逸で、匂いなどするはずのない画面に思わず鼻腔をうごめかしてしまうことになる。そして、なんと次は産まれたばかりの血にまみれた赤ん坊が演技をする(これはCGなのだろうけど)という、映画史上初かどうかはともかく、とにかくもう最初から仰天続きの画面が続く。

こんな筆致で、どんな物も嗅ぎ分ける神の鼻を持った男が殺人鬼となるに至った一部始終を描いていくのだが、おぞましいとしか言いようのない内容を扱いながらギリギリのところで観るに耐えうるものにしているのは、この映画が全篇ホラ話の体裁をまとっているからだろう。

例えば、次のような描写がある。孤児院に連れて行かれた赤ん坊のグルヌイユは、そこの子が差し出した指を握り、匂いを嗅ぐ。だいぶ大きくなったグルヌイユが、他の子がいたずらで彼にぶつけようとしたりんごを、後ろ向きなのにもかかわらず、匂いを感知してよける。

グルヌイユの桁違いの嗅覚については、この後も枚挙にいとまがないほどだ。バルディーニが秘密で研究していた巷で人気の香水が、彼の服についていることを言い当てることなどグルヌイユにとっては何でもないことで、瓶に密封された香料までわかるし(多少は瓶に付着しているということもあるのかもしれないが)、調合すら自在。そんなだから、人の気配までもが匂いでわかってしまうし、これはもっとあとになるが、何キロも先に姿を消した人間まで、匂いで追跡してしまうのである。

次のような例もある。グルヌイユに関わった人間は次々と死んでしまう。まず母。グルヌイユの最初に発した(泣き)声で、母親は子捨てが発覚し絞首刑。彼を売った孤児院の女は、その金を狙われて殺されるし、鞣職人は思わぬ金を手にして酔って溺死。職人証明書を書く代わりにグルヌイユから100種類の香水の処方箋をせしめたバルディーニは、幸せのうちに眠りにつくが、橋が崩れてしまう(この橋の造型を含めた川の風景は見事。セーヌにかかる橋の上が4、5階ほどのアパートになっていて、そういえば時たま天井から土が落ちてきていた)。

バルディーニから、グラース(これはどのあたりの町を想定しているのだろう)で冷浸法を学べば生き物の体臭を保存できるかもしれないと聞いていたグルヌイユは、究極の匂いを保存しようとその地を目指す。途中の荒野で彼は自分自身が無臭だということに気付く。彼にとって無臭は、誰にも存在を認められないということを意味するようである。なるほどね。ただ、この場面はやや哲学的で私にはわかりずらかった。

グラースで職に就いたグルヌイユは、女性の匂いを集めるために次々と殺人を犯すようになる(パリでの1番はじめの殺人こそ成り行きだったが)のだが、そのすべてが完全犯罪といっていい巧みさでとりおこなわれていく。匂いで察知し、追いかけ、家に忍び込んでからは、もう嗅覚がすぐれているからという理由では説明がつかないようなことを、最後の犠牲者になるローラ(レイチェル・ハード=ウッド)には用心深い父親のリシ(アラン・リックマン)が付いているにもかかわらず、すべてを手際よくやりのけてしまうというわけである。

リシの厳しい追及でグルヌイユは捕まり死刑台に登るのだが、彼はあわてることなく完成した香水(拷問までされていたのに隠し持っていたこと自体もホラ話というしかない)で、まず死刑執行人に「この男は無実だ」と叫ばせる。匂いを含ませたハンカチを投げると、ハンカチは広場を舞い、司祭は「人間でなく天使」と言い、500人を越すと思われる死刑見物人たち(全員がグルヌイユの死を望んでいた)はふりまかれた匂いに酔ったのか服を脱ぎ捨て、司祭も含め広場では乱交状態となる(グルヌイユ自身は、生涯にわたって性行為とは無縁だったようだ)。そして、私は騙されんぞと言っていたリシまで、最後には「許してくれ、我が息子よ」となってしまう。

ホラ話は最後まで続く。この香水で世界を手にすることもできたグルヌイユだが、パリに戻って行く。香水で手に入れた世界など虚構とでも思ったのだろうか。彼は産まれた場所に出向き、香水を全部自分にふりかけてしまうのである。

そうか、無臭でいままで存在していなかった彼(犬にも気付かれないのだ)は、このことによって、今やっと誕生したのかもしれない(もっともそう感じるのは彼だけのような気もするのだが。しかし人はその人の価値観でしか生きられないわけで、彼には必要な行為だったのだろう)。と、そこにいた50人くらいの人が「天使だわ、愛している」と言いながら彼に殺到する。

グルヌイユが彼らに食われてしまったのか、ただ単に姿を消してしまったのかはわからないのだが(翌日残っていた上着も持ち去られてしまう)、もはやそんなことはどうでもいいことなのだろう。なにしろホラ話なのだから。

グルヌイユの倫理観を問うことが正しいことかどうかはさておき、ローラから採った香りを、殺害場所からそうは離れていないところで抽出している彼の姿は美しく崇高ですらあった。彼は捕まって殺害理由を問われても、必要だったからとしか答えないのである。

(071018追記)
17日にやっと原作を読み終えることができた(読むのに時間がかかったわけではない)。グルヌイユが無臭であることは、原作だと生まれたときからの大問題であって、飛び抜けた嗅覚の持ち主であること以上にこのこと自体が、彼の生涯を決めたことがわかる。

なにしろ彼が忌み嫌われる原因は「無臭」だからというのだ。これについてはちゃんとした説明があって、その時はふむふむと読み進んでしまったのだが、でも説得力があるかというとどうか。グルヌイユの嗅覚が天才的ということとは別に、当時の人々にも相当な嗅覚がないと「無臭」に反応したり、グルヌイユ(の香水にか)を愛したりは出来ないことになると思うのだが。

グルヌイユが7年間を1人山で過ごすことになるのも、このこと故なのだが、これもわかったようでやっぱりわからなかった。

というようなことを考えると、映画は多少の誤魔化しがあるにしても、うまく伝えられない部分は最小限にして、挿話も目立たないところは書き換え(彼を売った孤児院の女などそのあと52年も生きるのだ)、壮大なホラ話に仕立て上げていたと、改めて感心したのだった。

  

【メモ】

果物売りの女の匂いを知った(服を剥ぎ取り、体をまさぐり、すくい取るように匂いを嗅ぐ場面がある)ことで、惨めなグルヌイユの人生に崇高な目的が生まれる。それが、香りの保存だった。

グルヌイユの作った香水だが、そもそもバルディーニから聞いた伝説による。その香料は、何千年も経っているのに、まわりの人間は楽園にいるようだと言ったとか。12種類の香料はわかっているが13番目が謎らしい。

グルヌイユの殺人対象は処女のようだが、娼婦も餌食になっている。

グルヌイユのとった香りの保存法は、動物の脂を体中に塗りたくり、それを集めて抽出するというもの。

犠牲者が坊主姿なのは、体毛を全部取り除いたということなのだろうか。犠牲者の飼っていた犬が、埋めてあった頭髪(死体)を掘り起こして、彼の犯罪が明るみとなる。

原題:Perfume:The Story of a Murderer

2006年 147分 シネスコサイズ ドイツ、フランス、スペイン 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トム・ティクヴァ 製作:ベルント・アイヒンガー 製作総指揮:フリオ・フェルナンデス、アンディ・グロッシュ、サミュエル・ハディダ、マヌエル・マーレ、マーティン・モスコウィック、アンドレアス・シュミット 原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』 脚本:トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー 撮影:フランク・グリーベ 美術監督:ウリ・ハニッシュ 衣装デザイン:ピエール=イヴ・ゲロー 編集:アレクサンダー・ベルナー 音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:サイモン・ラトル ナレーション:ジョン・ハート

出演:ベン・ウィショー(ジャン=バティスト・グルヌイユ)、ダスティン・ホフマン(ジュゼッペ・バルディーニ)、アラン・リックマン(リシ)、レイチェル・ハード=ウッド(ローラ)、アンドレス・エレーラ、サイモン・チャンドラー、デヴィッド・コールダー、カロリーネ・ヘルフルト

ハミングライフ

テアトル新宿 ★☆

■習作メルヘン

洋服を作る仕事につくのだと上京したものの、面接に落ち続けてばかりの22歳の桜木藍(西山茉希)は、背にメロンパンはかえられぬ(蛙の置物にひかれて、か)と、通りすがりの雑貨屋でアルバイトをはじめることになった。そんなある日、雑貨屋の近くの公園で藍は、粗大ゴミと犬の餌の皿と、その持ち主?の野良犬(っぽくない)を、そして樹のうろには宝箱を見つける。中には可愛い犬の絵にHollow. What a beautiful would.と書かれたメッセージ。楽しくなった藍が返事を書くと……。

手紙は託児所グーチョキで働く小川智宏(井上芳雄)が書いたもので、いつもひとり託児所に残っているのは、仕事で帰りが遅いくせに子供に当たり散らす母親がいるせいなのか。だからって藍と智宏がまるっきりすれ違いってことはないはずなのに、ふたりは文通だけで名乗り合い、親交を深めていく。

樹のうろを通しての文通なんて大昔の少女漫画にもあったよなー。でも都会の公園の、そんな見つけやすい場所でさあ。オーナーの結婚話で雑貨屋が閉店になってしまうのに会わせたように、粗大ゴミの撤去があって、ドドンパ(ふたりが犬に付けた名前。ひでー)と宝箱も消えてしまう。ドドンパは保健所が捕獲してしまいそう(だから、犬だとまずくないか)だけど、宝箱が一緒になくなってしまうというのはどういうことなのだ。

ということで、お会いしませんかと書いた藍に、さっそくだけど明日の夕方6時に、という智宏の返事は、彼の一方的な約束となってしまう。すっかり綺麗になってしまった公園を前に、文通ができなくなって落ち込む藍だが、服が完成したらぜひ見たいという智宏の言葉を思い出して服作りに励む。雑貨屋では先輩だった後藤理絵子(佐伯日菜子)が訪ねてきて(恋も終わった、友達もいないと言ってた藍だったのにね)、服ができたらそれを持って就職先をあたれば、とうれしいアドバイスをしてくれる。

完成した服を着て藍が街に出ると、ドドンパという共通記号によって智宏と出会う、というのが最後の場面だ。

どこまでもほんわかメルヘン仕立て。別にそれが悪いというのではないが、どれも奥行きがない。そしてそれ以前に、細かいことを書いても仕方ないと思ってしまうくらい、すべてがまだ習作という範囲を出ていない。演技の点でも、西山茉希だけでなく、もうベテランのはずの佐伯日菜子までがヘタクソなのには閉口した。

ただ、文通の中で語られる智宏が作ったお話しは素敵だ。必要がなくなったからとギターを売りにやってきた青年に、質屋が曲を所望し、青年がそれで歌を歌うと、このギターを買えるほどのお金はない、という話はまあ普通(演出は最悪)だが、大きな木の下に残された青年の話はいい。

この青年は、実は前に木の下にずっといた少年に代わってあげたのだった。この子の存在はみんな知っていたのだけど、声をかける人はいなくて、青年はそのこと(無視していたこと)を気にしていた。少年は「ボクに話しかける人を待っていたんです」と言って、青年を残して行ってしまう。でも青年は代わってあげられたことがうれしくて仕方がない。大きな木だから雨が降っても大丈夫だし、おいしい実もなるし……というだけの話なのだけどね。

智宏は自分でお話しを作ったことに勇気づけられるように、子供を叱ってばかりの母親に「少しでいいんです。やさしくあげてほしいんです」と言うのだが、現実部分になるとしっくりこない。「この世界には様々な営みがあって……自分だけが気付く小さな小さな営み」に藍は惹かれているのだけど、だったら映画もそこにこだわって欲しかった。

2006年 65分 シネスコ

監督・編集:窪田崇 原作:中村航『ハミングライフ』 脚本:窪田崇、村田亮 撮影:黒石信淵 音楽:河野丈洋 照明:丸山和志
 
出演:西山茉希(桜木藍)、井上芳雄(小川智宏)、佐伯日菜子(後藤理絵子)、辛島美登里
(雑貨屋のオーナー)、石原聡(大きな木に残された青年)、坂井竜二(ギター弾きの男)、 里見瑶子、長曽我部蓉子、マメ山田、諏訪太朗(質屋)、秀島史香(声のみ)

パプリカ

テアトル新宿 ★★★☆

■現実を浸食する夢、と言われてもねぇ

DCミニは、精神医療研究所の巨漢天才科学者の時田浩作が開発した、他人の夢に入り込んで精神治療を行う器具だ。頭部に装着したもの同士が夢を共有できるというもので、完成すれば覚醒したまま夢に入っていけるようになるらしいが、うかつにもこれが悪用されることまでは考えていなかったようだ。

時田の同僚でサイコ・セラピストの千葉敦子は、そのDCミニを使って「パプリカ」という仮の姿になり、刑事の粉川利美を治療していた。粉川は所長の島寅太郎とは学生時代からの友人で、まだDCミニが極秘段階ながら、その治験者となっていたのだ。

そして、まだアクセス権も設定していないDCミニ3機が盗まれるという事件が起きる。実はここの理事長乾精次郎は、DCミニは夢を支配する思い上がりと、開発には反対の立場。理事長に知られないうちになんとかしなければと、島、時田、千葉の3人が協議をはじめるが、それをあざ笑うかのように何者かが島に入り込み、島は思いもよらぬ行動を取り始める。

島はもちろん覚醒しているしDCミニは装着していない。いきなり前提を覆す展開だが、これについては少しあとに千葉が氷室の夢に侵入されたことで、DCミニにあるアナフィラキシー効果がそういうことも可能にするかもしれない、と時田に言わせて一件落着。ようするに何でもありにしてしまっているのだが、そう思う間もなく、夢と現実が入り交じった世界が次々と現れる。開発者すら予測がつかない、ということもサスペンス的要素としてあるのだろうが、これはちとズルイではないか。

島の夢の分析から、時田の助手の氷室を割り出したり、千葉がパプリカになって島を救うのは流れからして当然にしても、アナフィラキシー効果は何故パプリカには出ないのだろう。それも含め、ここからの展開は急だし、現実が夢に浸食されだすこともあって、話に振り回されるばかりだ。氷室の自殺未遂で警察が動きだし、粉川刑事が担当になって、彼の夢だか過去にまで話が及ぶからややこしいことこの上ない。

そのくせ話はえらくこぢんまりしていて、犯人探しは理事長に行き着く。しかし、理事長はDCミニを毛嫌いしていたのでは。いや、だから「生まれ変わった」と言ってたのか。自分が夢や死の世界も自在にできるようになり、新しい秩序が私の足下からはじまると思い込んでしまったって。でも、だったら、この部分はもっときっちり描いてくれないと。

もっともそうはいっても夢を具現化したイメージはすごい。わけのわからないパレードの映像だけでも一見の価値がある。これは、アニメでなくては表現できないものだ。ただ私の場合、夢の映像って対象以外はほとんど見えていないことが多い。すべてが鮮明な夢というのを見たことがないので、そういう意味では違和感があった。

それと、ここには恐怖感がないのだ。だから大きな穴を前に「繋がっちゃったんですよ、あっちの世界とね」と言われても、そうですか、と他人事な感じ。言葉として理解しただけで。確かに夢が去って、イメージの残骸は消えてしまうものの廃墟は残る場面では、なるほどとは思うのだが。

だから結局何が言いたかったのかな、と。映画への偏愛(犯人を検挙できないことと並んで粉川刑事のトラウマとなっていたもの)と、科学オタクへの応援歌だったり? だって最後に千葉が時田に恋していたっていうのがわかるのがねー。「機械に囲まれてマスターベーションに耽っていなさい」なんて言っていたっていうのにさ。それが急に「時田君を放っておけない」なんて。母性愛みたいなもの? まあ、どっちにしろ、時田もだけど現実の方の千葉も、私にはあまり魅力的ではなかったのだな。

ただ夢の中のパプリカが、冷たい印象(才色兼備と言わないといけないのかなぁ)のする現実の千葉とは違って、孫悟空やティンカーベルのイメージになって楽しげに振る舞っているのは面白かった。治療している当の千葉が、夢の中では自分自身が解放されていたのだろうか。

「抑圧されない意識が表出するという意味ではネットも夢も似てる」という指摘があったが、本当に夢に現れるのは抑圧されない意識なのだろうか。それに、だとしても夢にそれほどの重要性があるのか、とも。

  

2006年 90分 アニメ ビスタサイズ 

監督:今敏 アニメーション制作:マッドハウス 原作:筒井康隆『パプリカ』 脚本:水上清資、今敏 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 撮影監督:加藤道哉 美術監督:池信孝 編集:瀬山武司 音楽:平沢進 音響監督:三間雅文 色彩設計:橋本賢 制作プロデューサー:豊田智紀
 
声の出演:林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、古谷徹(時田浩作)、江守徹(乾精次郎)、 堀勝之祐(島寅太郎)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三(ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今敏(陣内)

バックダンサーズ!

2006/9/16 新宿ミラノ2 ★★

■くどいのは過剰な言葉だけじゃなくて

『東京フレンズ The Movie』に続いての永山耕三作品(公開時期が重なるが、本作品が第1作)は、少女たちの夢を描いていることもあって雰囲気は似ている。が、4人のダンスがしたいという想いが同じだからか、こちらの方がまとまりはいい(ヘンな設定もないしね)。

クラブ通いがばれて高校を退学になったよしか(hiro)と美羽(平山あや)だが、同じダンス好きの樹里(長谷部優)に誘われてストリート(ムーンダンスクラブ)で踊り始める。樹里のスカウトで、よしかと美羽も巴(ソニン)と愛子(サエコ)を入れたバックダンサーとしてデビュー。あっという間に樹里がアイドルとして人気を集めたから「ジュリ&バックダンサーズ」は人気絶頂となる。

が、樹里は恋愛に走って突然の引退宣言。単なる付属物だった4人は事務所にとってもお荷物的存在で、担当も茶野(田中圭)という新米マネージャーに格下げに。それぞれ事情を抱えた4人は、目的を見失ってバラバラになりかける。

茶野は彼のもう1つの担当である時代遅れのロックバンド『スチール・クレイジー』との共同ライブを企画するが、所詮は旅回りにすぎず、樹里が帰ってくるまでの場繋ぎなのがみえみえ。でもそんな中、よしかとスチクレの48歳のボーカル丈太郎は、彼の昔の曲で盛り上がり(丈太郎の住まいであるトレーラーハウスで歌う場面はいい感じだ)なにやら怪しい雰囲気に……と、これは親子だったというオチがあって、同行していたよしかに気のあるDJケン(北村有起哉)は胸をなで下ろす。

美羽と茶野がいい雰囲気になったり(雪の中のキスシーン)、巴が実は子持ちで、ダンスシーンを見た子供に励まされるというようなことがあって、少しは頑張る気分になってきた4人だが、ライバルの後輩ユニットが売れてきた事務所からは、あっさり解散を言い渡されてしまう。

またしても窮地の4人。仲間内の不満も爆発する。よしかと美羽の喧嘩から仲直りまではなかなかの見せ場だ。それぞれの道を行くかにみえたが、ムーンダンスクラブになんとなく集まってきて「このままじゃくやしい」と茶野やDJケンまでけしかけてダンスコンテストというゲリラライブ企画が実現することになる。

喧嘩から仲直りの見せ場もそうだが、美羽と茶野が惹かれあうのも「最後まで面倒を見る」という言葉に美羽が小さい時に飼っていたウサギを持ち出すなど、沢山ある挿話はどれも丁寧でそこそこまとまっているのだが、全部がそこまでという印象なのは何故だろう。

例えば「かっこよくなりたいから」というのは、4人にとっててらいも背伸びもしていない言葉だとおもうのだが、それが何度も繰り返されるとくどくなる。「面倒をみる」「先が見えない」「上がり」「くやしい」という言葉についても同じ。過剰な言葉が映画を台無しにしているのだ。

2010年の冬に始まって、2002年の秋から2006年の冬、そしてまた2010年という構成もあまり意味があるとも思えない。成功物語なのは前提とはいえ、最初から4人が伝説の存在になっていることをわざわざ示す必要はないだろう。で、最後にまた最初の場面が繰り返されると、言葉の反復だけでないくどさを味合わされた気分なのだ。

  

【メモ】

駐車場の空き地がムーンダンスクラブ。

「恋愛に走って本当に戻って来なかったのは山口百恵だけ」

鈴木丈太郎のロックグループの名前は『スチール・クレイジー』。これは映画『スティル・クレイジー』(98)のもじりか。

幻の名曲があり次のアルバムもできていたのだが、かみさんが出ていって封印。

よしかの母親の花屋は、大森銀座でロケ。丈太郎は花屋に花を持って元女房を訪ねてくる。

「何でも自分のせいにしてうじうじしているあんたが嫌い」と美羽をなじるhiroだが、ムーンダンスクラブで美羽を見つけると「私、美羽のために戻ったんじゃないんだよ。私が美羽といたかったから戻ったんだよ。美羽、ここにいてくれてありがとう」と言う。

物語だけでなく映画のスポンサーでもあるのか、サマンサタバサの社長(本人かどうかは?)が登場。

2006年 117分 ビスタサイズ

監督:永山耕三 脚本:永山耕三、衛藤凛 撮影:小倉和彦  美術:稲垣尚夫 編集:宮島竜治 音楽:Sin 音楽プロデューサー:永山耕三 ダンス監修:松澤いずみ/IZUMI
 
出演:hiro(佐伯よしか)、平山あや(新井美羽)、ソニン(大澤巴)、サエコ(永倉愛子)、田中圭(茶野明)、北村有起哉(DJケン)陣内孝則(鈴木丈太郎)、長谷部優(長部樹里)、 つのだ☆ひろ(ロジャー)、甲本雅裕(高橋修)、鈴木一真(セイジ)、舞(如月真由)、梶原善(磯部元)、浅野和之(小西部長)、木村佳乃(美浜礼子)、真木蔵人(テル)、豊原功補(滝川)、石野真子(佐伯なおみ)

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

新宿ミラノ1 ★★☆

■目まぐるしいし、遊びすぎ

情けないが、前作(2003)の記憶はもうすでにほとんどない。海賊+ファンタジー的要素のイメージが残っているだけ。自分の好みとしないところが残っているということは、つまりそんなに評価できなかったのだろう。結論から言ってしまうと、今回も似たようなものかも。が、ファンタジー部分で前回ほどの抵抗は感じなかった。骸骨海賊よりは半魚人の方がいいかなという程度なのだけど。

ウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、結婚式の直前にジャック(ジョニー・デップ)を逃した罪で投獄されてしまう。提督がウィルに示した放免の条件は、ジャックの持つ羅針盤を手に入れることだった。これで3人が出会うお膳立ては完了。だって、ほらね、エリザベスは脱獄してウィルのあとを追ったもの。

そのジャックだが、前作で海賊バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)との死闘のすえブラックパール号には戻れたものの、幽霊船フライング・ダッチマン号の船長デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と契約した13年の支払期限が迫っていた。ジャックはブラックパール号を手に入れるため自分の魂を負債にしていたのだ。

この幽霊デイヴィ・ジョーンズとの約束もだけど、彼の心臓が入った宝箱(デッドマンズ・チェスト)やジャックの不思議な羅針盤、さらにはこれまたジャックとの関係も怪しげな女霊媒師?ティア・ダルマ(ナオミ・ハリス)なども現れて、いくらでも設定自由ときてるから、逆にどうしても本気で観る気になれない。ましてや最後になって、この作品が次回作への橋渡し的位置にあることがわかっては、力が抜けざるを得ないというしかない。

そうはいってもさすがに夏の本命作ということで、見せ場は山とある。前作から3年も経つのに主要配役はすべて確保してだから、力の入れ具合もわかるというものだ。

デイヴィ・ジョーンズの操るクラーケンという大ダコの怪物はド迫力(でかすぎて全体像も見えないのだ)だし、デイヴィ・ジョーンズのタコ足あごひげの動きにもつい見とれてしまう。ただ、人食い人種族から逃げ出すところや、外れてころがる水車の上での3つ巴の剣戟などは、それ自体はよく出来ていても大筋には関係ない余興で、だから観客も例えば宝箱の鍵の争奪戦という目的を忘れかねない話の拡散ぶりなのだ。また笑いの要素もそうで、それがこの映画の持ち味にしても、全体に遊びすぎだろう。

ウィルの父親ビル・ターナーまで登場(バルボッサの怒りを買って靴紐を砲弾に縛られて海中に沈められていた)して、話はますますややこしくなるばかり。ウィルは鍛冶屋見習いだったはずだが、父親は元海賊なんだ(私が忘れているだけなら、ごめん)。詰め込みすぎだから、ジャックの手に表れる黒丸の意味も忘れていて、なんだよせっかくのラブシーンなのに、となってしまう。

それにしてもウィルと式直前までになりながら、ジャックにも惹かれてしまうエリザベスっていうのもねー。ウィルは今回活躍場面も少なかったし、ジャックとエリザベスのキスシーンまで見せられちゃうわで、同情申し上げますです。

あと、デイヴィ・ジョーンズが、海で死んだすべての男の魂を牛耳っている(海で命を落とし適切に埋葬されなかった者が、命は尽きているのに死ぬことは出来ずに彼の船員にされてしまう)のであれば、前作の海賊バルボッサたちとはどういう関係にあるのだろう。

演出で気になったのは、クラーケンの出現にジャックがブラックパール号から早々に逃げ出してしまう部分。こんな簡単に捨ててしまうものを、自分の魂と引き換えにしてたのかよ。まあジャックは、ちゃんと引き返してくるんだけど、でもあの場面では相当ボートを漕いでいたんだけどねー。

帰ってきたジャックはクラーケンとの闘いで姿を消す。で、このあとは3作目を乞うご期待、だって。はぁ、さいですか。

 

【メモ】

自分の魂でなければ、100人分が必要。

ジャックに「いざとなったらあなたは正しいことをする」とエリザベス。

「(デイヴィ・ジョーンズが近づけないように)陸を持ち歩きなさい」とビンに土を入れる。

エンドロールのあとの映像は、犬が酋長の椅子に座っている場面。やっぱり捕まっちゃったんだ。んで、ジャックの代わりに食べられちゃうのだな。

原題:Pirates of the Caribbean: Dead Man’s Chest

2006 151分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ゴア・ヴァービンスキー 制作:ジェリー・ブラッカイマー 脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー 編集:スティーヴン・E・リフキン、クレイグ・ウッド 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、ステラン・スカルスガルド(“ブーツストラップ”・ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ノリントン)、ケヴィン・マクナリー(ギブス)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、マッケンジー・クルック(ラジェッティ)、トム・ホランダー(ベケット卿)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、ジェフリー・ラッシュ(バルボッサ)

ハチミツとクローバー

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■あきらめなければいい

浜美大に通う竹本祐太(櫻井翔)は、教師である花本修司(堺雅人)の研究室で花本の従兄弟の娘という花本はぐみ(蒼井優)に出会い、一目惚れ状態となる。そこにちょうど寮では隣部屋で8年生の森田忍(伊勢谷友介)が帰国してくる。はぐみの才能を、「俺以外に、久々いい」と絶賛する森田。ふたりはすぐに特別な世界を共有してしまうのだった。

一方、山田あゆみ(関めぐみ)が想いを募らせる真山巧(加瀬亮)は、バイト先の年上の女性原田理花(西田尚美)にこれまた片想い。山田も真山も、相手の気持ちを知ることになるが、でも自分の想いをかえることはできない。

要するに、美大生のそれぞれの恋模様が綴られていくわけだが、どれもがほぼ片想いで、さらにその段階で止まっていることが、ありえない健全さのままで映画を進行させていくことになる。真山の行動がストーカーまがいで、自分でも警察に捕まって取り調べを受けるという妄想から逃れられないでいるという、お遊び的な映像も入るが、実際キスシーンですら、森田がはぐに一方的にする場面があるだけで、しかもそれも遠景にとどめているという控えめさなのだ。

原作が少女コミックということもあるのだろうが、でもこの健全さは微笑ましいし、清涼感すらある。山田が真山におぶってもらいながら、好き、大好きという場面の切なさは痛いくらいだ。関めぐみは『8月のクリスマス』でも不思議な魅力を見せてくれたが、ここでの彼女は本当に可愛らしい。

その清涼感も、竹本のように海に向かって「青春サイコー」とやられては、恥ずかしくなるばかりだが、これは森田の「俺サイコー」と対比させている部分なので目をつぶるほかなさそうだ。竹本は雰囲気からしても美大生には見えないし、ここまでくると普通の大学であってもつまらないヤツになってしまいそうなのだ。それに比べると森田に与えられた天賦の才能は、彼の奔放さや傲慢さまでも身方にしてしまうのだから、竹本の挫折感は想像するにあまりある。

もっともこの芸術家としての天才部分は、映画で描くとなると、やはりやっかいなのだろう。森田のスケッチブックはそれなりの迫力があるが、はぐの絵はキャンパスの大きさに完全に負けてしまっている。森田とはぐの合作場面の絵も子供の遊びでしかない。才能を掛け合わせたからといって傑作が誕生するわけではないのだから、これは当然なような気もするし、そしてつまりふたりには恋が成立しないという暗示のようでもある。そう思うと、森田のキスにはぐが逃げたのもうなずける。

竹本のような普通の人間を主人公にするのは大変で、それが途中までこの映画の弱さになっている。が、はぐのスランプに、彼は自分が彼女にできることは何かを真剣に考え、彼女を支えられるのは森田さんだけと、彼に詰め寄るのだ。「その時僕が彼女にできるのはそれだけだった」というモノローグには、片想いとは別の深い悲しみが満ちている。

そこから逃げ出す竹本だが、しかし旅先(説明不足)のお寺で修復作業をしている男(中村獅童)から、これからの生きていく指標を見いだすのだ。竹本らしさが生かせる道を。真山もクビになったバイト先に再挑戦するし、この映画の主題はどうやらあきらめないことらしい。そういえば、映画の途中にも「あきらめるにはどうしたらいい」という問いに「あきらめなければいいじゃない」というセリフが用意されていた。

【メモ】

エミリー・ディッキンソン「草原をつくるにはハチミツとクローバーが必要だ」。

竹本(浜美大建築科3年生)、はぐみ(油絵科1年生)、森田(彫刻科8年生)、真山(建築科4年生)、山田(陶芸科3年生)。

竹本の趣味は、お城のプラモデル造り。

森田の彫刻(制作過程で)に、1週間前の方がよかったというはぐ。森田も悪びれずにばれたか、と答える。

真山は原田デザイン事務所をクビになる。理由は「僕があなたを好きだから」。

「いいかげんに負けることを覚えないと、これからの人生苦労しますよ」。竹本も森田にこんなことが言えるのだ。

森田の彫刻には500万円の値が付く。「ギャラリーが値段を付ける。だから俺は全然悪くねぇ」。それを燃やす森田のセリフ「今燃えているのは作品じゃない、札束だ」。

最後、森田「俺は国を出る」。

2006年 116分 

監督:高田雅博 脚本:河原雅彦、高田雅博 原作:羽海野チカ 撮影:長谷川圭二  音楽:菅野よう子 美術:中村桃子

出演:櫻井翔(竹本祐太)、伊勢谷友介(森田忍)、蒼井優(花本はぐみ)、加瀬亮(真山巧)、関めぐみ(山田あゆみ)、堺雅人(花本修司)、西田尚美(原田理花)、銀粉蝶(幸田先生)、中村獅童(修復士)、利重剛(喫茶店マスター)、田辺誠一(原田)

バルトの楽園

109シネマズ木場シアター4 ★★

■ヘタクソな演出に美談もかすむ

1914年、第一次大戦に参戦した日本は、青島攻略で捕虜にしたドイツ兵4700人を日本に強制連行。1917年には全国で12ヵ所あった収容所が6ヵ所に統合されることになり、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所には久留米からの捕虜が移送されてくる。

ここの所長だった松江豊寿(松平健)の、温情ある捕虜の扱いを描いたのがこの映画。戦時下の美談(もっとも日本としてはそれほどの危機感はなかったのではないか)で、だから感動話。楽器の演奏、新聞の発行、パンを焼きお菓子を作る、およそ俘虜収容所というイメージからは遠いことが行われていて、捕虜たちが地元の学生たちに器械体操や演奏を教えるといった交流もあったという。

この話の概略は知っている人も多いだろう。私もユーハイムの創業については耳にしたことがあり、同様の話は映画にもあった。が、簡単に調べてみると細部ではかなり違っている(http://www.juchheim.co.jp/group/baumkuchen/index.html)。もちろんそんなことは大した問題ではないのだが、脚色してのこのデキに少々がっかりだったのである。

一々あげつらっても仕方ないが、例えばハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)の自殺シーンなど決定的な演出ミスだろう。あれでは自殺でなく狂言になってしまう。影に気付いて飛び込んだ兵隊に取り押さえられて腕を撃ってしまうというのならわかるのだが。

だいたいこの将校の書き込みはひどく、尊大にしかみえない。皇帝への忠信と人一倍のプライドはあったようだが、他の捕虜とは違う部屋を与えられて、あとは一体何をしていたのだろう。

それに比べると松江豊寿については手厚く、会津藩出身故の明治政府の冷遇などを父(三船史郎だ!)のエピソードに絡めて語っていた。軍部による俘虜収容所の評価は度々出てきたが、この時代の日本の国際社会における位置などの説明はもっとあってもよかったのではないか。

俘虜収容所の群像劇という面もあるので、故郷の母に手紙を書く若い水兵ヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)に新聞の取材をさせカメラ撮影させる線でまとめていこうとしたのだろうが、中途半端だから収まりが悪い。ただ彼とマツ(中山忍)のほのかな恋は、折り鶴が染料に落ちる出色のシーンがあって忘れがたい。折り鶴に綴られた文字はマツには読むことが出来ない文字なのだ。しかしそれすらも染料によって消えていってしまうのである。

1918年の第一次世界犬戦終結で解放が決まった捕虜たちは、感謝の気持ちを込めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。日本における「第九」の初演ということらしいが、このクライマックスがまた唐突。話の1つ1つはくっきりしているのに、流れがないのは最後まで変わらない。

さらに演奏の最中に、松江にもハインリッヒにも席を立たせるという失礼なことまでさせる。演奏にかぶせてフィナーレを演出したいのはわかるけどねぇ。最後の最後はカラヤンの演奏まで持ってきて、ぶち壊しもいいとこだ。貧弱な楽器に、たぶん一部には演奏者も。それでも心を打たれたのではなかったのかな。

 

【メモ】

楽園は「らくえん」ではなく「がくえん」と読ませる。バルトはドイツ語で髭の意。

板東俘虜収容所は3億円を投じて徳島県鳴門市に忠実に再現されたもの。

ハインリッヒ少将「我々は捕虜であって野蛮人ではない」。でもその前に松江に「君にこの音楽がわかるかね」というくだりがあって、君たちは野蛮人だと言っているみたいなのだが。

ユーハイムの創始者がいたのは広島県似島で、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれたドイツ作品展示即売会に、バウムクーヘンを出品した(1920年)とある。

予算の削減を強いられた松江は、捕虜達に伐採仕事をさせ、経費を補充。

この映画のパン屋職人(オリバー・ブーツ)は、最後は戦友の娘(大後寿々花)を引き取って日本に永住することを決める。彼は脱走名人?なのだが、市原悦子に助けられ収容所に帰ってくるエピソードも。

大後寿々花は青いコンタクトであいの子役に。彼女の父親は神戸で働いていたドイツ人で、志願して戦争に出たが戦場で日本人と戦うことを拒み、戦死してしまう。

國村隼と泉谷しげるがなかなか。板東英二は声がうわずっていたがこういう人はいる。平田満の演技の方が気になった。

2006年 134分 東映

監督:出目昌伸 製作:鶴田尚正、冨木田道臣、早河洋、塚本勲、滝鼻卓雄、渡部世一 プロデューサー:野口正敏、妹尾啓太、冨永理生子、ミヒャエル・シュヴァルツ 製作総指揮:岡田裕介、宮川日斤也 企画:土屋武雄、中村仁、遠藤茂行、亀山慶二 脚本:古田求 撮影:原一民 特撮監督:佛田洋 美術:重田重盛 美術監督:西岡善信 編集:只野信也 音楽:池辺晋一郎 音響効果:柴崎憲治 照明:安藤清人 助監督:宮村敏正
 
出演: 松平健(松江豊寿)、ブルーノ・ガンツ(クルト・ハインリッヒ)、高島礼子(松江歌子)、阿部寛(伊東光康)、國村隼(高木繁)、大後寿々花(志を)、中山忍(マツ)、中島ひろ子(たみ)、タモト清嵐(林豊少年)、佐藤勇輝(幼い頃の松江)、三船史郎(松江の父)、 オリヴァー・ブーツ(カルル・バウム)、コスティア・ウルマン(ヘルマン・ラーケ)、 イゾルデ・バルト(マレーネ・ラーケ)、徳井優(広瀬町長)、板東英二(南郷巌)、大杉漣(黒田校長)、泉谷しげる(多田少将)、勝野洋(島田中佐)、平田満(宇松/馬丁)、市原悦子(すゑ)