消されたヘッドライン

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■テレビじゃないんだから、じゃなかったの

よくできたサスペンスドラマと感心していたら、英BBC製作のテレビミニシリーズ『ステート・オブ・プレイ 陰謀の構図』(NHK BS2で放映されたらしい)を、舞台をアメリカにリメイクしたものだという。なるほど、よく練り込まれた脚本だ。が、ミニとはいえテレビシリーズを映画にまとめた弊害も出てしまっている。

弊害は大げさにしても、贅沢に配したキャストがもったいないくらいに、それぞれの挿話が詰め込みすぎな(というか観ている方にとってはあっさりすぎな)感じがしてしまうのだ。映画の出来が悪いというのではなく(一番悪い部分は最後だろうか)、もっともっと人物の相関図の中に入っていきたくなるのである。

女性スタッフのソニア・ベーカーが死んだという知らせに、スティーヴン・コリンズ議員が大事な公聴会で涙を見せるという出だしには、あんまりな気がしてしまったが、これと別の殺人事件が繋がっていることに気づいたワシントン・グローブ紙の記者であるカル・マカフリーが、ベテランらしい記者魂で調査を進めていく流れは、見応えがある。

カルが長髪のむさくるしいデブ男で、ちっとも颯爽としていないのもいい。『グラディエータ-』の戦士が九年でこうも変わってしまうものなのか。これがラッセル・クロウの役作りであるのならいいんだが。

新聞社の内部事情が面白い。紙媒体の新聞はもう売上増は見込めず、ウェブ版の女性新進記者デラ・フライが重用されているような雰囲気だったりするのだが、このデラが新米ながらなかなかで、カルと仕事を通して信頼関係を築いていくサブストーリーも上出来。また女編集局長のキャメロン・リンは立場上、カルの記事にいろいろな意味での圧力をかけざるを得なくなるのだが、ここらへんの匙加減もうまいものだ。

コリンズ議員に話を戻すと、彼はカルとは大学時代からの親友で、あの涙はやはりスティーヴンの不倫の証なのだった。マスコミに追われたスティーヴンは、行き場を失ってカルの家にやってくるのだが、カルにしてみればスティーヴンは情報源でもあり、しかし、それ以上にスティーヴンの妻アンにカルが惚れていたことがあり、それはお互い単純に昔のこととは割り切れずにいるようなのだ。

スティーヴンに、アンに対する愛情がもうなくなっているからいいようなものの(って書くとまずいかしら。愛情がないにしては「友達なのに俺の妻と寝た」などとも言っていた。これは相当昔の話ではないかと思うのだが?)、でもカルが、スティーヴンを助け君(アン)を守りたい、と言った時などのアンの反応にはあまり惹かれるものがなかったので、私としては少々ほっとしたのも事実。そんなだから、カルはアンにも「私はただの情報源」などと言われてしまう。

事件を追うことで、カルは自分の生き方も問われることになるのだが、そこに深入りしている暇がないのは惜しい。最初に書いたように、映画の出来がいいので、もっとこういった部分を覗きたくなってしまうのだ。現実の世界だと、人間関係は曖昧なままであることが多いのだが、小説や映画では、読者や観客はそういう部分こそを知りたいのだから。

と考えると、最後に明らかにされるコリンズ議員の企みは、やはりひねりすぎだろうか。ソニアにはいろいろ事情があって、最初こそスパイとして送り込まれたものの、スティーヴンを愛して、そして妊娠もしていては、もうそれで十分じゃないかという気になってしまったのだったが。

軍事産業の陰謀という構図が浮かんできたところで、テレビじゃないんだから、と映画の中でも言わせていたが、この結末はエンタメ指向の何物でもなく、テレビじゃないんだから、とさらに派手にしてしまったのだろうか。テレビ版にすでにあったにしても削除すべきだし(映画の方はただでさえ尺が短いのだから)、なくて加えたのなら問題だろう。

ところで、『消されたヘッドライン』という邦題はインチキで、せいぜい「消されかかった」だった。

原題:State of Play

2009年 127分 アメリカ、イギリス シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松浦美奈

監督:ケヴィン・マクドナルド 製作:アンドリュー・ハウプトマン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ポール・アボット、ライザ・チェイシン、デブラ・ヘイワード、E・ベネット・ウォルシュ 脚本:マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ オリジナル脚本:ポール・アボット 撮影:ロドリゴ・プリエト プロダクションデザイン:マーク・フリードバーグ 衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト 編集:ジャスティン・ライト 音楽:アレックス・ヘッフェス

出演:ラッセル・クロウ(カル・マカフリー/新聞記者)、ベン・アフレック(スティーヴン・コリンズ/国会議員)、レイチェル・マクアダムス(デラ・フライ/ウェブ版記者)、ヘレン・ミレン(キャメロン・リン/編集局長)、ジェイソン・ベイトマン(ドミニク・フォイ)、ロビン・ライト・ペン(アン・コリンズ/コリンズの妻)、ジェフ・ダニエルズ(ジョージ・ファーガス)、マリア・セイヤー(ソニア・ベーカー)、ヴィオラ・デイヴィス、ハリー・J・レニックス、ジョシュ・モステル、マイケル・ウェストン、バリー・シャバカ・ヘンリー、デヴィッド・ハーバー、ウェンディ・マッケナ、セイラ・ロード、ラデル・プレストン

ラスト・ブラッド

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■オニを吸血鬼とする日本観

またしても新趣向の吸血鬼映画がやって来た!? って、オニ(=鬼?)が吸血鬼なのか。で、日本が舞台なのに主演はチョン・ジヒョン(って、誰の、どういう発想なのさ。エンドロールでは名前が、欧文表記でGiannaになっていた)。おー、久しぶり『デイジー』以来か。セリフは三カ国語を流暢?に喋っていたが、吹き替えでないのなら立派。

でもいくらなんでも十六歳は無理だろうと思ったが(セーラー服まで着せられちゃってさ)、映画の質感を変えていることもあって(実際のことは知らないが)そう違和感はなかった。ま、どーせ設定では何百歳なんだから、誤差の内みたいなものなんだろうが。

出てくる風景も、看板は日本語でも見たこともない家並みで(けど『魍魎の匣』のようにはモロ中国ではなく、どこか違う国というイメージなので救われている)、浅草なのに古い丸ノ内線の車両だったりするのだ(七十年代だから形としては合ってるが、銀座線じゃないのね)。まるで嘘臭いのだが、イヤな絵になっていないので、全部許しちゃってた。

舞台も話もいい加減で、簡単なこともほとんど説明する気がないようだ。父をオニゲンに殺されたサヤは、CIAをかたるオニゲン退治の組織(このくらいもう少しは説明しろってんだ!)に、日本にある米軍基地内のアメリカンスクールに送りこまれ、教師に化けたオニゲンの手下から基地の司令官の娘アリスを救い出す。

日本人だからセーラー服って、アメリカンスクールなのにぃ、というのは野暮な話で、そうしたいからそうしちゃったんでしょう。イメージやアクションシーン優先で、後は何でもござれ状態なのだ。

そのアクションだが、今更のワイヤー使いまくりで、これもきっとうるさ方には嫌われそうなのだが、私はこの映画には合っていたように思う。

サヤの武術の先生で、育ての親でもあるカトウと、オニゲンの手下たち(オニというより忍者だし、これだとアメリカンスクールにいたオニとは別物になってしまう気がするのだが)との死闘もよくできていた。でもカトウはサヤを突き放したりはせず、最初から一緒に戦ってもよかったと思うのだが。結局サヤは戻ってきてしまうし、自分は無駄死にではね。なんかこういう話の繋ぎがすこぶる悪いのだな。

サヤとオニゲンの対決も迫力という意味ではおとなし目ながら(ちょいあっけない)、ビジュアル的にはいい感じだ。

オニゲンはサヤが現れるのを心待ちにしていたようでもあり、それはサヤが自分の娘だからなのだが、そこらへんは曖昧なままで、よくわからないうちに話が終わってしまった。オニゲンが殺してしまったというサヤの父との関係だって、解き明かしていったら面白かろうと思うのだが、そういうことには興味がないらしい。

サヤは組織が欲しいもの(血)をくれるので、彼らの命令に従うと言っていたが、この説明もわかったようでわからない。第一これだと、彼女が子供の頃はどうしていたのか、って話になってしまう。

とにかく全部がいい加減なのだが、こういうムチャクチャ映画は結構好きなのだな。雰囲気的にもこの間観た『トワイライト』よりは私向きだった。甘いの承知で★★★。

 

原題:Blood:The Last Vampire

2008年 91分 香港、フランス シネスコサイズ 配給:アスミック・エース R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督:クリス・ナオン アクション監督:コリー・ユン 製作:ビル・コン、アベル・ナミアス 原作:Production I.G 脚本:クリス・チョウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ネイサン・アマンドソン 衣装デザイン:コンスタンサ・バルドゥッシ、シャンディ・ルイフンシャン 編集:マルコ・キャヴェ 音楽:クリント・マンセル

出演:チョン・ジヒョン(サヤ)、アリソン・ミラー(アリス)、小雪(オニゲン)、リーアム・カニンガム(マイケル)、JJ・フェイルド(ルーク)、倉田保昭(カトウ)、コリン・サーモン(ミスター・パウエル)、マイケル・バーン、マシエラ・ルーシャ、ラリー・ラム

60歳のラブレター

楽天地シネマズ錦糸町シネマ3 ★★

■映画的飾り付けが逆効果

三十代後半ですら探すのが難しい、ほぼ全員五十歳以上という(何のことはない、自分もこの現象の一部を担ってるのな)、その割には客の入った客席で画面を見つめながら、あー、やだな、こういう映画に泣かされて(くだらない映画にも泣かされてしまう口なのでそれはいいんだが)、しかも高評価を与えなきゃならなくなったら(ってそれはいいことなのに)、恥ずかしいものなーと、しょうもないことを考えていたら、やってくれました。映画の方で勝手にこけちゃってくれました。

熟年の恋三つがそれぞれ多少交差する形で描かれるのだが、粗筋を書くほどのものではないので、いきなり問題場面について書くことにする。

自分のことは棚に上げてちひろ(旧妻)の恋を邪魔するのに、あの大きな布に書いたラベンダーの絵はないだろう。運良く花はみんな刈り取られていて、って、そういう問題じゃなくて、わざわざ北海道まで行って、しかも夜っぴいて描き上げた絵を丘に飾ったってねぇ(橘孝平本人も言っていたが、「(絵が)見えたかな」なんだもの)。

孝平は若い時には画家志望だったらしいので、絵を買くのはいいにしても、でもそんなことより一番は、ちひろが北海道に麻生圭一郎と出かける前にそれを阻止することではないか。で、最悪なことに、二人(というのは幸平となのだけど)でやり直してみるか、となった時に、刈り取られたはずのラベンダーが咲き乱れている中に二人がいる場面になるのだ。なるほど、これがやりたかったのね。けど外してるよなぁ。

それにしても、ちひろは何で元旦那を選んだのだろう。どう考えても、ちひろを無視し続けてきた孝平よりは、若くておしゃれな麻生(それに売れっ子作家だし、って関係ないか)にするのが自然ではないか。いや、すべきではないかとさえ思うのだ。「すべてを捨ててきた」という幸平に、「もう遅い」とちひろもいったんは言っていたのにね。映画的に見栄えのする場面を演出することより、こういうちひろの心境こそきちっと描いてもらいたいのだが。

二つ目は、娘からの英語の手紙を医師の佐伯静夫が読み上げて、翻訳家の長谷部麗子が訳していく場面。この演出もひどくて、恥ずかしくなった。「娘がどうしても訳してほしいからって」と手紙を渡すくらいが関の山で、読んでも黙読のはず。こんな場面がどうやったら成立するっていうのだろう、ってやっちゃってたけど。映画的だからという理由でやられてもなぁ。

結局、病室で、妻の光江に買ってもらったマーチンをかき鳴らし、ミッシェルを歌い続ける魚屋の松山正彦が一番カッコよかった、かな(でもこれもわずかだけど長めだ)。

あと、ちひろが大昔に新婚旅行先で書いた手紙を30年後に届ける話も、もう少しうまい説明が考えられなかったものか。ストーカーのような青年はずっと不気味だったもの。で、何だよそんなことか、じゃあね(一応この手紙が幸平の気持ちを切り替える一つのきっかけにはなっているのだが)。

2009年 129分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:深川栄洋 エグゼクティブプロデューサー:葉梨忠男、秋元一孝 プロデューサー:鈴木一巳、三木和史 共同プロデューサー:松本整、上田有史 脚本:古沢良太 原案:『60歳のラブレター』(NHK出版) 撮影:芦澤明子 美術:黒瀧きみえ 編集:坂東直哉 照明:長田達也 録音:南徳昭 監督補:武正晴 助監督:菅原丈雄 音楽:平井真美子 主題歌:森山良子『candy』 協力:住友信託銀行 制作プロダクション:ビデオプランニング 製作:テレビ東京、松竹、博報堂DYメディアパートナーズ、大広、ビデオプランニング、テレビ大阪

出演:中村雅俊(橘孝平)、原田美枝子(橘〈小山〉ちひろ)、井上順(佐伯静夫)、戸田恵子(長谷部麗子)、イッセー尾形(松山正彦)、綾戸智恵(松山光江)、星野真里(橘マキ/孝平の娘)、内田朝陽(八木沼等)、石田卓也(北島進)、金澤美穂(佐伯理花/静夫の娘)、佐藤慶(京亜建設・会長)、原沙知絵(根本夏美/孝平の愛人)、石黒賢(麻生圭一郎/作家)

天使と悪魔

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■神を信じている悪魔

カトリック教会の法王の座を巡る陰謀に『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドン教授が巻き込まれる。ラングドンは、「あの事件(『ダ・ヴィンチ・コード』)でヴァチカンから嫌われた」はずだったが、宗教象徴学者の協力が必要と感じた警察の要請で、捜査に加わることになり、ローマへと出向いて行く。

完成したばかりの反物質が盗まれて、それを爆弾代わり(五トンの爆弾に相当する強力なもの)にヴァチカンを消滅させると脅されてしまうのだが、まずその反物質が完成するタイミングとそれを盗み出す労力を考えると、かなり馬鹿げた話になってしまう。いや、完成が確実になった時点で、って少し苦しいが、暗殺に取りかかればいいのか。でもこれだと教皇選挙(コンクラーベ)にはリンクしなくなってしまうものなぁ。

教会と対立するイルミナティの存在を暗示して目をそらすために四教皇(次期法王候補者)を殺害する設定(この最後にヴァチカン消滅の反物質というのが犯人の予告シナリオ)もどうかと思うし、ラングドンと反物質の研究にかかわっていたヴィットリアが捜査の中心になる展開も強引だ。とくに最後の真犯人がわかる録画を二人が見ることになる場面は御都合主義もいいとこで、首をひねりたくなる。

が、観ている時は次から次へと殺人が予告されているので、余計なことを考える余裕などはない(なにしろ一時間刻みの殺人予告だから、のんびりなどしていられないのだ)。しかも現場到着が、いつも五分前だったりする(わけはないが、そんな感じ。で、手遅れになっちゃったりもするのだ)。

とにかく見せ場はふんだんすぎるくらいあって、カメルレンゴ(これは役職名なのね)が反物質を持ってヘリコプターに乗り込むという、思ってもみなかった人物のスーパーマンぶりまで見ることができる(ヘリコプターの操縦までできちゃうのだ! そうか、だからユアン・マクレガーだったのね。って、違うか)。また、ラングドンが推理を間違えるので(殺人の予告場所をひとつとカメルレンゴが危ないという二つ)、こちらもそれに振り回されるっていうこともあるが、息つく暇がないくらいだ。

しかしそれ以上に興味深かったのが、ヴァチカンの記録保管所に入るための交換条件のようにカメルレンゴから突きつけられた、神を信じるかという問いと、それに対するラングドンの答えだった。正確な言葉は忘れたが、私は学者だから信じていないが、心の部分では神に感謝しているというもの(いや、贈り物と思っている、だったか)。

これはなかなか頷ける答えだ(私の答えは、「神は信じないが、神という視点で考えることを人間は忘れてはならない」だから、これだと、神を信じないで神の視点がわかるのかと反論されてしまいそうで、だから閲覧はさせてもらえそうにない)。

反物質なんて物をわざわざ持ち出した設定も、要するに科学によって人間が神の領域に踏み込んでいく象徴的な意味を込めたかったのだろう。けれど神を信じる人がこんな物語を作るだろうか。

カメルレンゴの思考は間違ったものだが、科学に宗教が抹殺されると思ってのことと、少しは肩入れしてやってもいいのだろうか。でないと、彼の英雄的行為は説明できなくなってしまうが、これくらいの博打が打てないようでは法王にはなれないと踏んだのかもしれない。もちろんだからといって、暗殺者と繋がっていいわけがないし、自分も殺人という過ちを犯してしまっている(そうは感じないのだろうが)のだから何ともやっかいだ。正義(彼にとってのだが)のためなら手段を選ばずというわけか。

作者はここに悪魔をみているのだろうか。追い詰められて自殺する時も、神の手に委ねると言っていた者に。それとも天使と悪魔というのは単なる符合にすぎないのか。

宗教に欠点があるのは人間に欠点があるのと同じ、という最後に出てくるセリフも、私には、いかにも宗教を作ったのは人間と言っているようにしか思えないのだが、そのすぐあとで、恵深い神はあなた(ラングドン)をつかわしたとも言わせていて、これはずるいよね。というか、この曖昧さ(科学と宗教の共存)を結論にしてしまったようだ。

面白かったのは、それまで馬鹿丁寧にピンセットで扱っていた古文書を、解読している暇がないとみたヴィットリアが、いきなり該当ページを引きちぎってしまう場面だ。これにはラングドンも唖然とするばかりで(観客もびっくり!)、やったのは自分ではなくヴィットリアだと、後に二度も否定していた。宗教象徴学者としては正しい見解だろうか。強く否定したお陰かどうか、ラングドンは最後にヴァチカンから、研究にお使い下さいと、彼にとっては垂涎のそれを貸し出してもらっていた。

  

原題:Angels & Demons

2009年 138分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳監修:越前敏弥

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ジョン・キャリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』 脚本:デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:アラン・キャメロン 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダン・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー

出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)、ステラン・スカルスガルド(リヒター隊長)、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ(オリヴェッティ刑事)、ニコライ・リー・コス(暗殺者)、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)、トゥーレ・リントハート、デヴィッド・パスクエジ、コジモ・ファスコ、マーク・フィオリーニ

鈍獣

新宿武蔵野館1 ★★

武蔵野館にあった監督、出演者のサイン入りポスター

■映画と演劇の差に鈍獣

期待した分、つまらなかった。だって、凸やんの死なない理由がちっともわからないんだもの。

原作は宮藤官九郎で、第49回岸田國士戯曲賞の同名戯曲だ。演劇のことをほとんど知らない私(だから原作も未読)が言ってしまうのは憚れるが、こういう作風のものは、演劇でなら面白くても、映画に持ってきたからといってすんなり楽しめるとは思えないのである。例えば安部公房の『友達』。これも演劇ならよくても、ってそもそも戯曲なんだけどさ、果たしてそのまま映画にして成功するとは到底思えないのだ。

映画というのは、改めて言うまでもなく虚構にすぎないのだが、しかし意外にもリアリティというものを補強剤としているもので、それが適度にないと居心地が悪いものになってしまうというやっかいな側面を持つ(と私は思っている)()。

演劇が映画以上に虚構なのは、最初から空間が舞台に限定されているからで、それは当然の前提であるから、演劇を鑑賞していてリアリティ補強剤のことを言い出す野暮はいないだろう。演劇空間では、物事の関係性や粗筋に神経を集中できるから、寓意も込めやすくなる。演劇において不条理劇は(って変な書き方だが)成立しやすいが、映画でそういう非論理的な展開に考察を巡らすのは不向きなのだ。

そこでそれを避けるため、演劇空間をそのまま映画に持ち込んだラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(03)のような作品もあって、これだとリアリティ補強剤が不足していても、観客は安心できるから不思議である(映画なので空間的には多少の広がりはあるが、抽象性は保たれている)。

くどくなるが、この『鈍獣』が何故面白くないかというと、映画に置き換えた時のリアリティが欠如しているからで、なるほど「鈍感な奴ほど恐ろしい者はいない」というこの作品の指摘は、ものすごい真実であるし、「その鈍感から逃げるべく、鈍感の象徴である凸やんを抹殺しようとするのだが、鈍感故に毒も効かず、車で轢いても生き返り」と、そこを突き詰めていった話が面白くないはずがない、と作り手は思ったのだろうが、そうはいかないのだった。

もっとも映画化に際しての脚本も宮藤官九郎自身が書いていて、だからそこらへんのことは相当意識したと思われるのだが、映画を観た限りでは、演劇からの移植がうまくいったかどうかは疑問だ。アニメを入れたり(これもちょっとねー)、エレベーターに乗ってやって来る凸やん登場場面などは緊張感をもって描かれてはいたのだが。

週刊大亜の連載小説『鈍獣』が文学賞候補になるが、作家の凸川は失踪。編集者の静は凸川の故郷に出向き、凸川の同級生たちから事情を聞き回る。そののらりくらりとした返事の中に、だんだんと真実が見えてくるというわけだ。

彼らは凸川(凸やん)が小説の中で、彼らの昔の私生活や秘密(触れられたくない最大のタブー)を次々に暴いていくことに恐怖を感じていたのだった。が、当の凸やんは、いじめられたことは覚えていないし、そもそも小説などは書いていないという……。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンは不死身で、すでに逃れられない恐怖と化しているわけだ。だから凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンはすでに意識レベルの存在になっていて、だから不死身なのは言うまでもなく、逃れられない恐怖と化しているわけだ。つまり凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

:それではミュージカルはどうなんだと言われてしまいそうだが、ミュージカルの場合はショー的要素が加わるので、また全然違う次元の話になるし、セリフを歌でカバーする旧来のミュージカルであるならそれだけで、演劇空間と同程度の虚構、という前提を持つことになる。

 

2009年 106分 ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:細野ひで晃 アニメーション制作:スタジオ4℃ 製作:宇野康秀、山崎浩一 プロデューサー:曽根祥子、菅原直太、高瀬巌 アソシエイトプロデューサー:山崎雅史 企画プロデューサー:松野恵美子 脚本:宮藤官九郎 撮影:阿藤正一 美術:富田麻友美 音楽プロデューサー:緑川徹 主題歌:ゆずグレン『two友』 VFXスーパーバイザー:川村大輔 スクリプター:長坂由起子 照明:高倉進 録音:山田幸治 助監督:甲斐聖太郎 劇中画:天明屋尚

出演:浅野忠信(凸やん、凸川/小説家)、北村一輝(江田っち)、ユースケ・サンタマリア(岡本/警官)、南野陽子(順子/江田の愛人、「スーパーヘビー」のママ)、真木よう子(静/編集者)、佐津川愛美(ノラ)、ジェロ(明)、本田博太郎(編集長)、芝田山康(理事長)

交響詩篇 エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい

テアトルタイムズスクエア ★★

テアトルタイムズスクエアにあったサイン入りポスター(部分)

■じじいには理解不能の萌えキャラファンタジー!?

骨格はSFながらファンタジー色が妙に強くてなじめなかった。観た直後の印象はそんなに悪いものではなかったのに、何かを書き残そうとしている今、よからぬ部分ばかりが浮かんできてしまうのだ。

宇宙からやってきた謎の生命体イマージュとの戦いがもう四十五年も続いていて……というSF部分の設定も、高度な文明体同士の戦いが長続きするはずがない、と断言したい口なので、同じぶっ飛び設定でも、ハリウッド映画にありがちな、危機があっという間に拡大して、でも意外にもお間抜けな解決策で目出度し目出度し、の方がまだしもという気がする。そういえば、戦いが長期化しているのは『ヱヴァンゲリヲン』もで、これは主人公の成長ドラマを詰め込むには、その方が好都合なのかと、余計なことを考えてしまう。

また、ホランド・ノヴァク隊長率いる戦闘母艦・月光号のメンバーは「ドーハの悲劇」(付けも付けたりだよね)の生き残りで、ある実験によって通常の三倍の早さで年をとるようになってしまっている。そういう部分と幼生ニルヴァーシュ(この造型も苦手だし、戦闘機?もニルヴァーシュって何なのさ。それに、レントンだけが幼生の言葉を理解出来る選ばれし者って言われてもな)を同居させてしまう神経が私には理解できない。

エウレカが人間でなく、どころかイマージュのスパイロボットというのもどこかで聞いたような話で、でもエウレカとレントンの一途な想いにはぐっときてしまう。と言いたいところだが、これも二人の感情の流れが見えすぎてしまうのが難点だろうか。二人が最初から好き合っているのはいいにしても、そればっかりでは(見せ方に工夫がないと)、観ている方は既定路線を押しつけられた感じになる。

まあここらへんは好みの問題なのだが、エウレカの幼児時代が、ロリコン萌えキャラみたいなのもねぇ。よくわかっていないのでそういうのとは違うと言われてしまうかもしれないが、とにかく、じいさんにはついていけなかったのだ(『ポケットが虹でいっぱい』という副題を見た時に気づくべきだったか)。

テレビ版の元アニメをまったく知らない門外漢が、的外れなことを長々と書いても仕方ないのでもうやめるが(きちんと理解出来ていないことが多くて書けないってこともある)、月光号に乗り込むようになったレントンでもまだ14歳だから、これを単純に少年少女ものと思えば、そして私がそうだった頃のものに比べたら、とんでもなくよくできている(複雑すぎるともいえる)のだけどね。

  

2009年 115分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

総監督:京田知己 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 撮影監督:木村俊也 美術監督:永井一男 音楽:佐藤直紀 主題歌:iLL『Space Rock』 アニメーションディレクター:斎藤恒徳 キャラクターデザイン:吉田健一 音響監督:若林和弘 特技監督:村木靖 色彩設計:水田信子 製作:バンダイビジュアル、バンダイナムコゲームス、ボンズ、博報堂DYメディアパートナーズ、毎日放送

声の出演:三瓶由布子(レントン)、名塚佳織(エウレカ)、藤原啓治(ホランド)、根谷美智子(タルホ)、山崎樹範(ドミニク)、小清水亜美(アネモネ)

ウォーロード 男たちの誓い

新宿ミラノ3 ★★☆

■投名状の誓いの重さ

『レッドクリフ』二部作の物量攻勢の前では影が薄くなってしまうが、こちらもジェット・リー、アンディ・ラウ、金城武の共演する歴史アクション大作である。アクション映画としての醍醐味はもちろんだが(物量ではさすがにかなわないが、リアルさではこちらが上だ)、戦いの本質や指導者の力量といったことにまで踏み込んだ力作になっている。

時は十九世紀末、外圧によって大国清の威信は大いにぐらつき、足元からも太平天国の乱などが相次いで起きていた。

友軍の助けを得られず、千六百人の部下を失った清軍のパン将軍は、ある女に介抱され一夜を共にしたことで、再び生きていることを実感する。そしてウーヤンという盗賊に見いだされ、アルフ率いる盗賊団の仲間となり、三人は投名状という誓いの儀式(これも『三国志』の桃園の誓いと似たようなものだものね)を交わし義兄弟となる。また、アルフに会ったことでパンは、あの時の女リィエンがアルフの妻だったことも知るのだった。

アルフは盗賊団となった村人たちからの信望が厚く、統率力もあるのだが、所詮やっていることは盗賊行為のため、クイの軍隊(清)がやってきてそのことを咎められ、逆に食料を持ち去られてしまう。軍に入れば俸禄がもらえるのだから、盗賊行為はやめようというパンの助言で清軍に加わることになり(三人が投名状の誓いをするのはこの時)、手土産に太平軍を襲うことを決める。

結束した三人は次々と戦果をもたらし、パンを将軍とした彼らの力は清の三大臣も認めるところとなる。そして、ハイライトともいうべき蘇州城攻めになるのだが、ここには終戦を望まない三大臣や、どこまでも状況を見てからでないと動かないクイ軍らの思惑がからんだものになっていて、いってみればアルフのような盗賊の首領としてなら通用するような世界ではないところに、三人は来てしまっていたのだった(でありながら、開城はアルフの力によるという皮肉な流れとなっている)。

この戦いはお互いが共倒れになりそうな壮絶なものとなり、結果は投降兵の殺害という、アルフが蘇州城主を騙したようなことになってしまう(パンにとっては四千人の捕虜を養う食料がないという、当然の理由になるのだが)。このことがあって、信義を重んじるアルフと、大義のためなら手段を選ばないパン、という亀裂となっていく。ウーヤンはパンの野望の中にも希望を見ていて、だからパンの正しさを何度も口にするのだったが、パンとリィエンの密会現場を目の当たりにしたことで、リィエンを殺してしまう。

実はここにもクイたちの陰謀があって、アルフは闇討ちにあってしまうのだが、それをパンの仕業と思ったウーヤンは、南京攻略の功績により西太后から江南と江北両江の総督に任命されたパン(これはウーヤンも望んでいたことだったのに)までを殺してしまうことになる。

投名状の誓いをした三人の、それぞれの考え方の違いを鮮明にした図式的構成は申し分ないのだが、ウーヤンの行動がそれをぶち壊している。リィエン殺害も、アルフがパンに殺されないようにと思ってのことなのだが、そしてそれには投名状という絶対守られねばならないものがあるにしても、ウーヤンの行動はそうすんなりとは理解出来ない。ナレーションをウーヤン当人にしているにしては、手際の悪いものだ。

理解しづらいのはリィエンもで、冒頭のパン介護はすでにアルフの妻なのだから(パンは知らなかったこととこの時点では弁解もできようが)ずいぶんな感じがして、観ている間中、ずっと気になっていた。が、リィエンについては、ウーヤンに殺害されると知って、「来年は二十九」で「私を殺すと夫を救えるの」か、と彼に子供っぽい抗いの言葉を口にしている場面があり、これで、それこそ何となくではあるが、彼女の心情がわかるような気になってしまったのだった。

両江総督の馬新貽の暗殺事件(千八百七十年四月十八日)が基になっているとサイトにある。手元の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(中央公論社)をあたってみたが、この程度の概略世界史では簡単な記述にもならないようだ。けれど、この時期の列強と清の関係、また太平天国の乱など、どれも驚くような興味深い話ばかりで、もちろん、この映画で敵になる太平天国側についてほとんど何も触れていないのは、時間的制約からも正しい選択なのだが、もっともっと映画にされていい題材(時代)だろう。

もう当たり前になってしまった日本語版エンディングテーマ曲だけど、いい加減やめてほしいよね。

原題:投名状 英題:The Warlords

2008年 113分 中国、香港 シネスコサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:税田呑介

監督:ピーター・チャン 共同監督:イップ・ワイマン アクション監督:チン・シウトン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 脚本:スー・ラン、チュン・ティンナム、オーブリー・ラム 撮影:アーサー・ウォン プロダクションデザイン:イー・チュンマン 衣装:イー・チュンマン 音楽:ピーター・カム、チャン・クォンウィン

出演:ジェット・リー(パン・チンユン)、アンディ・ラウ(ツァオ・アルフ)、金城武(チャン・ウーヤン)、シュー・ジンレイ(リィエン)、グオ・シャオドン(蘇州城主ホアン)

チェイサー

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■すり抜けた結果なのか

韓国映画の荒っぽさ(と言ったら悪いか)がいい方に出た問題作だ。力まかせに撮っていったのではないかと思われるところもあるのだが、そういう部分も含めて、人の執念を塗り込めたような濃密さが全篇から溢れている、息の詰まりそうな映画だった。

二十一人を殺害し(のちに三十一人と供述したらしい)三年前に死刑判決の出た連続殺人犯ユ・ヨンチョル事件を下敷きにしているというが、どこまで事実を取り入れているのだろうか。

デリヘルの元締めをしているジュンホは、店の女の子が相次いで行方をくらましたことに疑問を持つ。調べているうちに、4885という電話番号に行き当たり、そこからヨンミンという男を割り出す。

何ともあっけないことにこのヨンミンが犯人で、捕り物劇の末、ジュンホはヨンミンを警察に突き出すのだが、ジュンホの立場が微妙だ。二年前までは刑事だったが、今は風俗業を生業としているからか、頼みのギル先輩以外は冷たい視線しか寄越さない。言動が粗暴ということもあって、犯人を逮捕したというのに、逆に見られてしまうくらいで、言ってることをなかなか信じてもらえない。

ジュンホがどこまでもヨンミンに執着するのは、そのことに加え、体調が悪いとしぶるデリヘル嬢の一人ミジンを、無理矢理ヨンミンのところに行かせたことに責任を感じているからで(注1)、ミジンが生存している可能性があることを知って、余計躍起になざるを得ない。

捕まったヨンミンは殺害をほのめかし、どころか認め、殺害の手口さえ供述するのだが(ミジンの生存を口にしたのもヨンミンなのだ)、証拠不十分で釈放されることは経験から知っていたのだった。だからなんだろう、ヨンミンにはどこか余裕があって、女性警官との会話など、たまたまその時は二人きりになったのかもしれないが(たまたまだってありえそうもないが)、警察署内でのことなのに、何かとんでもないことが起きるのではないかとドキドキしてしまう。

ヨンミンを不能と決めつけ、女性を殺したのはセックスができないからで、ノミの使用はそれを自分の性器に見立てたからだと取り調べで分析されて、ヨンミンは捜査官(彼は精神分析医なのか)に襲いかかる。ヨンミンが激昂したのはこの時くらいだから、分析は当たっていたのではないか。

が、そのことより、そこまで追求しておきながらのヨンミン釈放という流れは、少々理解に苦しむ(映画に都合よく作ってしまったのなら問題だが?)。それに、ジュンホでさえヨンミンの行動エリアを絞り込んでいくのに(注2)、警察のだらしなさといったらなく、釈放後の尾行もドジってしまうし、ミジンの生死よりも証拠(遺体)を探すことの方に必死だったりする。実際の事件だって、多分どこかでいろいろなものをすり抜けてきたから二十一人もの殺害になったのだろう。そう思うと、案外こんなことの連続だったのではないか。

そして、ヨンミンのところからやっとのことで逃げ出し、近くの商店に助けを求めほっとしていたミジンだが、何もそこまで、とこれは監督(脚本も担当)のナ・ホンジンに言いたくなってしまうのだが、再び商店の女性共々ヨンミンの餌食となってしまう(映画としては、これは正解なのだけどね)。

ミジンが意識を取り戻したのは偶然も味方してくれたようだが、彼女の執念の脱出劇は七歳の娘の存在が大きかったはずだ。ミジンの娘は途中からジュンホと行動を共にするようになって、だから当然その描写も出てきて、となるとどうしても子供に寄りかかってしまう部分がでてきてしまうのだが、しかしそれは許せる範囲になっていた。

あと、犯行現場のヨンミン宅の浴室が、ホラー映画顔負けの不気味さだったことは書いておきたい。シャワーを借りる口実で携帯からジュンホに連絡を取りに浴室へ行くのだが、送信はできず、その時の浴室の薄汚さには、それだけで背筋が凍り付いた。恐怖にかられたミジンは窓を破るのだが、窓の外はレンガで塞がれているし、排水口には髪の毛が貼り付いているのだ。

ミジンのことは、考えると気の毒としか言いようがない。浴室で意識を回復した彼女が最初に見たものは二つの死体だし(注3)、散々恐怖を味わった末に、最後は水槽の中に、まるでオブジェのように頭部を飾られてしまうのである。それを見てジュンホの怒りが爆発するのだが、しかし、ミジンだけをこんな形にしたのは、映画的効果というのなら、それはさすがに減点したい気持ちになる。

注1:最初は、店の女の子に逃げられてはかなわないという金銭的な理由だったが。

注2:ジュンホはヨンミンを暴行し、なんとかミジンの居場所を吐かせようとするのだが、やりたくてもできない警察(ギル先輩も)はそれを見て見ぬふりをしている場面がある。

注3:これは以前に殺害したものでなく、ミジンを殺そうとした時にたまたま訪ねてきた教会の中年男女のもの。この偶然によってミジンは致命傷を負わずにすんだのだったが。

原題:・緋イゥ・吹i追撃者) 英題:The Chaser

2008年 125分 韓国 製作:映画社ビダンギル シネスコサイズ 配給:クロックワークス、アスミック・エース R-15 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:ナ・ホンジン 撮影:イ・ソンジェ 編集:キム・ソンミン 照明:イ・チョロ 音楽:キム・ジュンソク、チェ・ヨンナク

出演:キム・ユンソク(オム・ジュンホ)、ハ・ジョンウ(ヨンミン)、ソ・ヨンヒ(ミジン)、チョン・インギ(イ刑事)、パク・ヒョジュ(オ刑事)、キム・ユジョン(ミジンの娘)

スラムドッグ$ミリオネア

新宿ミラノ2 ★★★☆

■運命は手に入れられる!

成る程、よくできた脚本だ。映画は主人公ジャマールがハイライトを浴びるクイズ番組が進行していく①と、実はその番組の途中、続きは明日というところで、理不尽なことに警察にしょっ引かれて拷問されたあと、警部に真相を語る②、さらに、ジャマールの幼少時代から今へと続いてくる③の三つの時間軸から構成されている。この①②③は、その配置が絶妙なだけでなく、最後には全部が同じ時間(現在)に重なるようになっている。

スラム育ちで教養のないジャマールがクイズ番組を勝ち進むのは、どう考えても不正をしているに違いないというのが警察の言い分(実は、逮捕はクイズ番組司会者の差し金で、こいつがまた何とも胡散臭い男なのだ)だが、ジャマールの語る今までの体験談(つまり③)の中にクイズに出題されたほとんど(正確には二問以外の全部)の答えがあったというわけだ(③は②の裏付けという意味合いもあるのだ)。

そして、そのジャマールの物語は、同じみなし児でスラム育ちのラティカという少女への想いの物語でもあって、ジャマールにとっては、クイズ番組に出たのもラティカが聞いていてくれるのではないかという願いからなのだった。

ミリオネアになる夢物語とクイズ正解の謎、それに純愛。映画としての要素はもう十分すぎるのだが、カメラは、スラムという、言葉では知っていても実体となるとどこまで把握しているかあやふやな場所へと乗り込んでいる。そしてここでの映像は、見事なほど躍動感に満ちたもので、生きる力をまざまざと感じさせてくれるのである(注1)。

宗教対立でジャマールの母親は殺されてしまうし(注2)、子供をダシに稼いでいる悪党(『クリスマス・キャロル』のスクルージといった役所)のやることも悪辣で残酷極まりない(注3)のに、彼らが生きようとする力の前では、そう大した障害とも思えない気分になってしまうのだ。で、多分そういうことも含めて、いや、それこそが、かな、「運命だった」と言いたいのだろう。

であれば、最後の問題を振られたラティカ(ジャマールは兄のケータイへかけたはずだったが、兄からラティカに渡されていた)には、何が何でも正解を言ってほしかったのだが、これをしてしまうと、また最後に答えの謎解き映像を挿入することになって、その分しまりのない映画になってしまう可能性もある。まあ、それは今までの構成に準じてやったらの話ではあるが。

私がうまい映画と思いながらもうひとつ乗れなかったのは、「運命だった」を「ついていた」に置き換えてしまいたくなるところもあるからで、だって、どうでもいいことだが、クイズは最後まで四択なんだもの。ま、これはこれは元の番組がそうなんだろうけど、ツキで勝ち抜いてしまうこともないとは言い切れないんでね。

最後になったが、小ずるい性格に育ってしまった兄のサリームには、ちょっぴり同情もしたくなる。ま、それは映画だからで、実例としてあったら許せないのだけど、最後は彼なりに、弟のために命を賭けて頑張ってくれるのだ。

注1:仰天場面もある。貸トイレ番で稼いでいた兄弟だが、映画スターがやって来た時に、ジャマールはサリームに意地悪をされてトイレに閉じ込められてしまう。映画スターに会いたいジャマールは意を決して肥だめに飛び込んで脱出する。糞まみれになってサインをもらいに行くのだが、思ったほどには周りは騒がないし、映画スターもちゃんとジャマールにサインをくれるのだった(えらい!)。

注2:ヒンズー教徒によるイスラム教徒への襲撃らしい。ここらへんの事情はさっぱりなのだが、これだとヒンズー教徒は悪者になってしまうけど、いいのかしら。

注3:同情がかいやすくなる(=稼ぎが増える)からと、歌のうまい子供の目を潰して路上で歌わせていたのだ。数年後に、このめくらの歌い手からジャマールが「偉くなったんだね」と声をかけられる、なんとも胸をつかれる場面がある。が、彼が目を潰されたその時にジャマールとサリームは逃げ出したので、ジャマールの声を彼が覚えていたというのは、多少苦しい気がしてしまう。

   

原題:Slumdog Millionaire

2008年 120分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ PG-12 日本語字幕:松浦奈美

監督:ダニー・ボイル 共同監督:ラヴリーン・タンダン 製作:クリスチャン・コルソン 製作総指揮:ポール・スミス、テッサ・ロス 原作:ヴィカス・スワラップ『ぼくと1ルピーの神様』 脚本:サイモン・ボーフォイ 撮影:アンソニー・ドッド・マントル  プロダクションデザイン:マーク・ディグビー 衣装デザイン:スティラット・アン・ラーラーブ編集:クリス・ディケンズ 音楽:A・R・ラーマン

出演:デヴ・パテル(ジャマール・マリク)、マドゥル・ミッタル(サリーム・マリク/ジャマールの兄)、フリーダ・ピント(ラティカ)、アニル・カプール(プレーム・クマール/クイズ司会者)、イルファン・カーン(警部)、アーユッシュ・マヘーシュ・ケーデカール(幼少期のジャマール)、アズルディン・モハメド・イスマイル(幼少期のサリーム)、ルビーナ・アリ(幼少期のラティカ)

バンコック・デンジャラス

新宿ミラノ2 ★☆

映画宣伝シール(トイレ用)

■自分がデンジャラス

引き際を考えはじめた殺し屋が、バンコクに最後の仕事でやってくる。映画は、自己紹介風に始まる。安定して報酬もいいが万人向きではない孤独な殺し屋をやっていること。名前はジョーで、仕事には「質問するな」「堅気の人間と交わるな」「痕跡は残すな」というルールを課していること……。自分の殺しの哲学を披瀝しているのだが、別に出会い系サイトや結婚紹介所に釣書を提出しているわけではないし、こんなことを言い出すこと自体が、いくら内面の声とはいえ、殺し屋らしくないので笑ってしまう。

ま、それはいいにしても、ジョーは自分で言っていたことを、ことごとく破ってしまうのだ。いつもなら平気で使い捨てにしてきた(つまり殺していた)通訳兼連絡係に雇ったコンというチンピラを、「あいつの目の中に自分を見た」と、殺さないどころか、何を血迷ったか弟子にしてしまうのだ。コンはジョーのメガネにかなった男にはとても見えないのだが……。

もう一つはフォンという耳の聞こえない女性に惹かれてしまうことで、これも四つの依頼の最初の仕事で、傷を負ったジョーが立ち寄った薬局でのことだからねぇ。自分の潮時を意識してしまうとこうも変わってしまうものなのだろうか。そうではなく、それだけフォンが魅力的だったと言いたいのか。たとえそうであっても、少なくともフォンに関しては、仕事が終わるまで待つくらいの自制心もないのだろうか(あったら映画にならないって。まあね)。

とにかく理由らしい理由もないまま、まるで塒にしている家にある像の絵が悪いとでもいうかのように、ことごとくルールを破ってしまうのだ(像の鼻が下を向いていると縁起が悪いとコンに言われて、ジョーもそれを気にするのだが、これもねぇ)。いままでミスをしたことのない完璧な殺し屋がどうして変わっていったのか、これこそがこの映画の狙いのはずなのに、そこが何一つきちんと描けていないのではどうしようもない。

四つめのターゲットは次期大統領候補で、政治的な暗殺は契約外と言っておきながら、ここでもルールを犯してしまう。これで最後と思ったからなのかどうか。こういう説明が足らなすぎるのだ。

違和感を覚えて暗殺に失敗したことで(ついにやってしまったのね)依頼人のスラットからも狙われ、コンと彼の恋人を人質にされてしまう(スラッとは、彼らから足が付くのを恐れたのだった)。

そして壮絶な銃撃戦(でもないんだよな、これが。やたら銃はぶっ放してたけど)の末、最後はスラットと道連れ、っていくらなんでもあきれるばかり。何かあるだろうとは思っていたが、こんな終わり方じゃあね。

見せ場は「猥雑で堕落した街」バンコクと水上ボートのチェイスだが、これだけ大げさなことになっちゃったら「痕跡は残すな」どころか沢山残っちゃうよね。

原題:Bangkok Dangerous

2008年 100分 アメリカ ビスタサイズ 配給:プレシディオ R-15 日本語字幕:川又勝利

監督:ザ・パン・ブラザーズ(オキサイド・パン、ダニー・パン) 製作:ジェイソン・シューマン、ウィリアム・シェラック、ニコラス・ケイジ、ノーム・ゴライトリー 製作総指揮:アンドリュー・フェッファー、デレク・ドーチー、デニス・オサリヴァン、ベン・ウェイスブレン 脚本:ジェイソン・リッチマン オリジナル脚本:ザ・パン・ブラザーズ 撮影:デーチャー・スリマントラ プロダクションデザイン:ジェームズ・ニューポート 編集:マイク・ジャクソン、カーレン・パン 音楽:ブライアン・タイラー

出演:ニコラス・ケイジ(ジョー)、シャクリット・ヤムナーム(コン)、チャーリー・ヤン(フォン)

ある公爵夫人の生涯

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■世継ぎが出来りゃいいのか

いやはや、途中で何度もため息をついてしまったがな。だって、世継ぎを産む道具だった女の半生、でしょう。こういうのだって一種のトンデモ映画だよね。まあ、映画じゃなくて時代(十八世紀後半の英国)がそうだったのだろうけど。

多分スペンサー家に更なる名声が欲しかった母親の引導のもと、デヴォンジャー公爵に嫁がされたジョージアナだが、男の子(世継ぎ)さえ産んでくれればいいと思っている公爵の願いは叶えられず、産まれてきたのは二人とも女の子だった(男の子は二度流産してしまう)。

ジョージアナが嫁いだときにはすでに公爵には隠し子のシャーロット(家政婦の子のようだ)がいて、お腹の大きい時に「練習にもなるから」(うはは)と、その子の世話も押しつけられてしまう。けれど、シャーロットを我が子として可愛がっても、彼女や産まれてきた子供たち、そしてジョージアナに公爵が関心を寄せることはなかった。

「犬以外には無関心」とジョージアナは言っていたが、むろんそんなことはなく、あろうことか(じゃなくて家政婦に手当たり次第手をつけていたのと同じ感覚で)親友になったエリザベス・フォスターとも寝てしまう。映画だと公爵は政治にも興味がなさそうにしていたから、犬と女、だけらしい。

そして、ことが発覚しても三人の同居生活を崩そうとはしないのだ。ジョージアナとは性的に合わなかったのだろう。だから世継ぎが産まれても結局二人の関係は修復しない(注)。それならば(かどうか)と、自分もかつて心をときめかせたことのあるチャールズ・グレイ(ケンブリッジを出て議員になっていた)と密会し、こちらもエスカレートしていくのだから世話はない(物語としては、彼との間に娘ができたり、子供を取るか愛人を取るかのような話にもなる)。

よくわからないのは、私生児を世継ぎには出来ないと公爵が言っていることで、これは世間体とかではなく公爵自身がそう思っているようなのだ。妻の不倫も、もしや男の子でも宿ってしまったら、と思っての怒り爆発なのだろうか。好きとか嫌いではなく、血統がよければ、だから本当に女は子供を産む道具と考えていたのだろうが(ということはやはり当時の常識=世間体なのか)、映画がジョージアナ目線で描かれているため、公爵の真意は現代人には謎である(当時の人には、ジョージアナの考え方の方が謎だったかも)。

とにかく呆れるような話ばかりなのだが、私も人の子、スキャンダルには耳を欹ててしまうのだな(だからってジョージアナがダイアナ妃の直系の祖先みたいな売りは関心しないし、それには興味もないが。そして映画でもそんなことには触れていない)。で、まあ退屈することはなかったのだけど。

当時の公爵は、その夫人も含めて、庶民にとっては現在のスター並なのが興味深い。ジョージアナは社交的で、政治の場にも顔を出す(利用されたという面もありそうだ)し、ふるまいやファッションも取り沙汰される。たしかにあんな広大な邸宅に住んでいたら、情報や娯楽が少ない時代だから、それだけでスターになってしまうのだろう。母親がジョージアナより公爵の意見を優先するのもむべなるかな、なのだった。

ところでジョージアナの相手のグレイは彼女の幼なじみみたいなものなのだが、最後の説明で、後に首相になったそうな。うーむ。むろんスキャンダラスな部分と政治的手腕とは別物だし、とやかく言うようなことではないんだが……。

注:男の子は、公爵のレイプまがいの行為の末に授かる。産まれると小切手がジョージアナに渡されるのには驚くが、これを見ても本当に結婚は単に男子を産むという契約にすぎなかったんだ、と妙なところで感心してしまった。

原題:The Duchess

2008年 110分 イギリス、フランス、イタリア シネスコサイズ 配給:パラマウント・ ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:古田由紀子

監督:ソウル・ディブ 製作:ガブリエル・ターナ、マイケル・クーン 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、クリスティーン・ランガン、デヴィッド・M・トンプソン、キャロリン・マークス=ブラックウッド、アマンダ・フォアマン 原作:アマンダ・フォアマン『Gergiana:Duchess of Devonshire』 脚本:ソウル・ディブ、ジェフリー・ハッチャー、アナス・トーマス・イェンセン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:マイケル・カーリン 衣装デザイン:マイケル・オコナー 編集:マサヒロ・ヒラクボ 音楽:レイチェル・ポートマン

出演:キーラ・ナイトレイ(ジョージアナ)、レイフ・ファインズ(デヴォンジャー公爵)、ドミニク・クーパー(チャールズ・グレイ/野党ホイッグ党政治家、ジョージアナの恋人)、ヘイリー・アトウェル(レディ・エリザベス・フォスター/ジョージアナの親友、公爵の愛人)、シャーロット・ランプリング(レディ・スペンサー/ジョージアナの母)、サイモン・マクバーニー(チャールズ・ジェームズ・フォックス/野党ホイッグ党党首)、エイダン・マクアードル(リチャード・シェリダン)、ジョン・シュラプネル、アリスター・ペトリ、パトリック・ゴッドフリー、マイケル・メドウィン、ジャスティン・エドワーズ、リチャード・マッケーブ

今度の日曜日に

新宿武蔵野館2 ★★★

大麻所持で逮捕されちゃったのでポスターからも消されちゃった中村俊太

■興味を持つと見えてくる

ソウルからの留学生ソラと、中年の、まあ冴えない男との交流を描くほのぼの系映画。

ソラが実習授業で与えられた課題「興味の行方」の興味は、ヒョンジュン先輩をおいて他にないはずだったが、事情はともあれ、彼とは悲しい失恋のようなことになって、変な人物に行き当たる。それが学校の用務員の松元で、他にピザ配達と新聞配達をしているのは、彼が借金まみれだからなのだった。

交差しそうもない二人が自然と繋がりができていく過程はうまく説明されているし(でも松元のドジ加減や卑屈さは強調しすぎ。もっと普通でいい)、この組み合わせだと危ない話になってしまいそうなのだが、ユンナと市川染五郎のキャラクターがそれを救っていた。あと、松元の小学生になる息子が訪ねて来るんでね。本当に(ソラが)ただの学生だとお母さんに誓って言える、と指切りまでしちゃったら、悪いことは出来ないよな。

ソラが何故日本で映像の勉強をしているかというと(注)、母親の再婚話への反発がちょっぴりと、でも一番は、ビデオレターの交換相手で、想いを寄せる先輩と同じことをしたかったからなのだが、はるばる日本へやってくると、先輩は実家の火事で父親が亡くなり、行き違いで韓国へ戻ってしまっていたのだった。

ヒョンジュンを巡る話は、彼がソラに会うのがつらくて逃げていたという事情はあるにせよ、行き違いの部分も含めて少々無理がある。だから、最初は削ってしまった方がすっきりすると思ったのだが、でもソラの心の微妙なゆれは、留学を決めたときから最後のヒョンジュンの事故死(彼の役回りは気の毒すぎて悲しい)を聞くところまでずっと続いているわけで、そう簡単には外せない。

ヒョンジュンが死んだことを聞いて、ソラは、松元が集め心のよりどころにしていたガラス瓶を積んでいる自転車を倒してしまう。落ち込むソラを松元がアパートのドアの外から執拗に語りかける場面は、ここだけ見ると、おせっかいで迷惑にも思えるが、もうこの時にはお互いに踏み込んでいい領域はわかっていたのだろう。

それに二人で松元の子供を駅に見送るあたりから、松元はソラさんは強いから大丈夫などと言っていたから、ソラがどこかに寂しさを抱えていることを見抜いていたのだろう。ソラが松元に自分の気持ちを打ち明けているような場面はなかったはずだが。興味の行方を自分のような中年男にしたことで、松元は何かを感じていたのだろうか。

やっとドアを開けたソラから瓶を割ってしまったことを聞いた松元は、ソラがなんとか修復しようとしていた瓶を「人が悲しむくらいならない方がいい」と言って全部外に持ち出して割ってしまう。「瓶なんか割れたっていいんだ。大切なのはソラさんなんだ」とも言って。

ただ、ここと、クリスマス会(瓶で音楽の演奏する練習もしていたのに)にも来ないで、ありがとうという紙切れを残していなくなってしまう松元、という結末は説明不足だし唐突だ。ソラの「興味の行方」の映像も、これでは未完成のままだろうに。

映画のテーマは何だろうか。普段見過ごしているようなこと(人)も興味を持つと見えてくる、そんなところか。あまりにも普通すぎることだけど、多分みんな見過ごしているとが沢山あるはずだと思うから……。

そういえば「興味の行方」の課題が出た授業で、せっかく韓国から来たのだからと言う級友に、ソラは「あたし、韓国代表じゃありません」と言っていた。そして映画もことさらそういうことにはこだわらず、だから別段留学生でなくてもいい話なのだが、でも隣国の韓国ともこんなふうにごく自然に付き合っていけるようになってきたのなら、それはとてもいいことだ(と書いてるくらいだからまだまだなんだろうけど)。

注:留学先は信州の信濃大学という設定である。ロケは信州大学でやったようだ(http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/2008/03/post-138.html)。

2009年 105分 ビスタサイズ 配給:ディーライツ

監督・脚本:けんもち聡 プロデューサー:小澤俊晴、恒吉竹成、植村真紀、齋藤寛朗 撮影:猪本雅三 美術:野口隆二 音楽:渡辺善太郎 主題歌:ユンナ『虹の向こう側』 企画協力:武藤起一 照明:赤津淳一 録音:浦田和治

出演:ユンナ(チェ・ソラ/留学生)、市川染五郎(松元茂/用務員)、ヤン・ジヌ(イ・ヒョンジュン/ソラの先輩)、チョン・ミソン(ハ・スジョン/ソラの母)、大和田美帆(伊坂美奈子/ソラの同級生)、中村俊太(大村敦史/ヒョンジュンのバイト仲間)、峯村リエ、樋口浩二、谷川昭一朗、上田耕一、竹中直人(神藤光司/教授)