恋極星

新宿武蔵野館2 ★

武蔵野館に掲示してあった戸田恵梨香と加藤和樹のサイン入りポスター(部分)

■思い出なんかいらないって言ってるのに

戸田恵梨香と加藤和樹のファン以外はパスでいいかも。

菜月を男で一つで育ててくれた父も今は亡く、残された弟の大輝は精神障害があり施設で暮らしているが、何かある度に施設を抜け出しては父の経営していたプラネタリウムへ行ってしまう。菜月は、大輝のことで気の抜けない毎日を繰り返していた。そんなある日、菜月は幼なじみの颯太と再会するが、彼も難病を抱えていて……。

こんな設定ではうんざりするしかないのだが、それは我慢するにしても颯太の行動はかなり一人よがりで(カナダから日本に4年前に帰っていて、このことは菜月もけっこうこだわっていたが、そりゃそうだよね)、病気ということを差し引いても文句が言いたくなってくる。

デートで菜月を待ちぼうけにさせてしまったのは病気が悪化してのことだからともかく、問題はそのあと態度だ。こうなることは早晩わかっていたはずではないか。いや、颯太の気持ちはわからなくはないんだけどね。私だってこんな状況にいたら自分の我が儘を通してしまいそうだから。でも映画の中ではもっとカッコよく決めてほしいじゃないのさ。

「私は思い出なんかいらない。もう置いてきぼりはいや」と菜月は言っていたのに。颯太はその時「もう1回この町に来たかった」と自分の都合を優先させていたけれど、菜月の言葉もそれっきり忘れてしまったのだろうか。

颯太の甘え体質(並びに思いやりのなさ)は母親譲りのようだ。颯太の死後、菜月に遺品を渡すのだが(「つらいだけかなぁ」と言いながら、でも「やっぱりもらってほしい」と)、それは菜月が望んだらでいいのではないか。菜月には思い出を押しつけるのではなく、嘘でも颯太のことは忘れて、新しい人生を生きてほしいと言うべきだった。

で、恋人の死んでしまった菜月だが、父親のプラネタリウムを再開して(取り壊すんじゃなかったの)健気に生きてます、だとぉ。生活していけるんかい。

菜月が流星群を見るために、町の人たちに必死で掛け合って実現した暗闇も、ちょっとだけど明かりを消してくれる人もいたんだ、というくらいにしておけば納得できたのにね(だって、ふんっていうような対応をされる場面を挟んでいるんだもの)。こういう映画にイチャモンをつけても仕方がないのかもしれないが、もう少しどうにかならんもんかいな。

2009年 103分 ビスタサイズ 配給:日活

監督:AMIY MORI プロデューサー:佐藤丈 企画・プロデュース:木村元子 原案:ミツヤオミ『君に光を』 脚本:横田理恵 音楽:小西香葉、近藤由紀夫 主題歌:青山テルマ『好きです。』

出演:戸田恵梨香(柏木菜月)、加藤和樹(舟曳颯太)、若葉竜也(柏木大輝/菜月の弟)、キムラ緑子、吹越満(柏木浩一/菜月の父)、熊谷真実(舟曳弥生/颯太の母)、鏡リュウジ

昴 スバル

新宿ミラノ3 ★★

■主役(だけじゃないが)ありき、でないと

群れを離れた狼とか野良猫と呼ばれてきたという宮本すばるが「私が私でいられる」バレエの世界で生きていく決心をする……。それはいいんだが、話の展開がやたら強引。だから物語だけという印象だし、多分マンガだと効果的なセリフも上滑りだ。

双子の弟とバレエ教室をのぞいてはその世界に憧れていた幼い日も入れているのは、弟の死(脳腫瘍から記憶障害になる)を引きずってきたすばるを位置づけるためなのだろうが、弟しか見ていない父(とすばるは感じていた。母はもっと早くに亡くなっている)も含めてこのあたりはもう少しあっさりでもよかった。特に弟絡みの部分は。映画で思い出を映像化すると重たくなるんだもの。

ストリップ小屋(この設定はイメージしにくいが)のおばちゃんとそこのダンサーたちとの出会いから(おばちゃんが最初のすばるの先生となる)、バレエ教室の先生の娘呉羽真奈との「白鳥の湖」のオーディションでの競争、コーヘイという恋人のような存在もでき、彼に誘われたストリートダンスで、オーディションでみんなと呼吸を合わせることが出来ずにいたのを解消? さらにはアメリカン・バレエ・シアターのリズ・パークがすばるをライバルと認め、だからか度々すばるの前に現れる(でもなぁ)。そして真奈とリズも出る上海でのバレエ・コンクールに挑戦することに。そのための新たな指導者天野は、実はバレエ教室の先生の元夫(真奈の父親)という因縁めいた展開。それ以前に、準ライバルにしかなれない真奈は、母子共々複雑な立場だ。コンクールの直前には、おばちゃんの死の知らせがすばるを苦しめる……。

すっ飛ばして書いてもこんな感じ。運命の黒猫が要所に配置されてるから、それがうまい具合に交通整理してくれればいいのだけど、あれは絵としての効果しかないみたいで、だからやっぱり強引な展開にしかみえない。

なかでも不可解なのがリズ・パークで、場末にあるおばちゃんの小屋でボレロを踊るすばるに一目惚れしてしまうのだが、何でこんなところにいるのさ。世界的ダンサーが、いくらすばるに才能を感じたからといって、こんなふうにいろいろちょっかいを出してくるっていうのがねぇ。ま、それだけリズにすごさが伝わってしまったということなのだろう。ライバルに対する正しい接し方、というか、同じ価値観を持つ者同士がこんなふうに挑発したり一緒に買い物したくなる気持ち、ってわかるような気がするもの。

リズは韓国系のアメリカ人という設定らしいので、日本語がたどたどしいのは今回はいいにしても、Araは日本だとこれが限界と思われても仕方ないかな。私はちょいファンなんで(ってよくは知らない)残念なのだが。

黒木メイサは決して悪くないと思う。全身をなめ回すようにカメラが追っても、私のようにダンスのわかってない人間には十分鑑賞に耐える踊りだったから。

とはいえ、だからって天才的バレリーナとなるとどうなんだろう。正式な修行は積んでいなくてもその才能は横溢して、なのだからうまいとかうまくないというのとは違うレベルの話のような気もするのだが。

だいたいこの手の映画で、こういう疑問が少しでも出てしまうようならその企画は諦めた方が無難と思うのだが。そしてそれは、黒木メイサ一人の問題ではないだろう。彼女の場合は、まだ挑みかかるような目つきがあったから……。

2008年 105分 日本、中国、シンガポール、韓国 ビスタサイズ 配給:ワーナー

監督・脚本:リー・チーガイ 製作:三木裕明 製作総指揮:ビル・コン、松浦勝人、千葉龍平、リー・スーマン 原作:曽田正人 撮影:石坂拓郎 美術監督:種田陽平 衣装デザイン:黒澤和子 編集:深沢佳文 振付:上島雪夫 音楽プロデューサー:志田博英 テーマ曲:冨田ラボ『Corps de ballet』 主題歌:倖田來未『faraway』 メインテーマ:東方神起『Bolero』 照明:舘野秀樹 装飾:伊藤ゆう子 録音:前田一穂

出演:黒木メイサ(宮本すばる)、桃井かおり(日比野五十鈴)、Ara(リズ・パーク)、平岡祐太(コーヘイ)、佐野光来(呉羽真奈)、前田健(サダ)、筧利夫(天野)

リリィ、はちみつ色の秘密

シャンテシネ2 ★★★

■少女は安らぎの地を見つける

いくら四歳の時とはいえ、そしてそれが暴発(らしいのだが)であったにしても、大好きなママを銃で撃ち殺してしまったのだとしたら……。そんな拭いきれない悪夢を抱えてずっと生きていかなければならないとしたら……。考えただけでも気が遠くなりそうになる。しかも当のリリィはまだ十四歳なのだ。だから、ということはもう十年間もそうやって生きてきたことになるわけで、そんな少女時代を、私は想像することすらできない。

誕生日にも関心を示してくれないパパT・レイに、リリィはママデボラの話をせがむが、デボラはお前を捨てたとにべもない。その日、投票権の登録に町へ出かけた使用人のロザリンが、今からは考えられないような(とはいえまだ五十年も経っていないんだよね)(注1)黒人蔑視のリンチにあったこともあって、リリィはロザリンを病院から連れ出し、置き手紙を残して一緒に家を出る。

さらに待ち受ける困難、と早とちり予想をしていたら、それは杞憂で、母親の形見の木札にある絵に似たハチミツのラベルに導かれるように、そのハチミツを作っているオーガスト、ジューン、メイの黒人三姉妹の家にたどり着く。オーガストが受け入れてくれたことで(ジューンはそう快くは思っていなかった)、ロザリンとも別れることなく、ミツバチの世話をしながらの落ち着いた日々がはじまる。

リリィとロザリンが家を出てからの流れが安直すぎるきらいはあるし、三姉妹の意外な裕福さが(よほどハチミツ商売があたったのだろう)、当時の黒人の置かれた状況からは恵まれすぎているようで、切り口が甘くならないかと心配になったが、これまた杞憂だった。姉妹を裕福にすることで、甘くなるどころか、安易な同情の対象としての黒人に貶めることなく、より普遍的な人間のつながりを描きえているからだ。

三姉妹の生活は、黒人の聖母像を崇めるちょっと風変わりな信仰によっても満たされている。信仰のあるなしはともかく、今の我々にとっても羨ましいくらいの生活といえそうだ。

むろん、裕福であることと社会にある偏見は別問題である。公民権法案にジョンソン大統領が賛成した(リリィとロザリンがこのニュースをテレビで見ている場面が最初の方にある)とはいえ、なにしろ偏見色の強い南部のことである。養蜂場で友達になったザックと行った映画館で、一緒に座ってポップコーンを食べながら映画を観ているところを見つかり、ザックが拉致されてしまうという騒動となる(注2)。

翌朝になって、知人の弁護士と共にザックは戻ってくるのだが、このことが引き金になって(注3)、前日の夜、病的に繊細だったメイは「この世の重みに疲れた」と命を絶ってしまう。

また、独立心がありプライドの高いジューンは、恋人ニールのプロポーズを素直に受けられずにいる。彼女たちにもそれなりに悩みや問題があるのである。そんなことは当然で、でも少なくとも肌の色の違いなどというものさしで人を差別したりはしない。だから彼女たちは、リリィを家に受け入れたのだ。

もうひとつにはオーガストが、幼いデボラを家政婦として七年間も世話をしていたということがあった(注4)。オーガストがリリィをデボラの娘と認識したのがどの時点なのかは明かにされないが、リリィはデボラに瓜二つという設定になっている。初見でオーガストは何かを感じとっていたのかもしれない。

そしてこれは最後に近い場面になるが、T・レイがリリィを探し当てた時、リリィが付けていたブローチで、リリィのことをデボラと見間違え錯乱してしまうところがある(注5)。ただでさえ粗暴なT・レイのこの錯乱は悲しい。が、このことでT・レイは、あの日デボラはリリィを迎えに来たのだと、真実を語る。嘘をついたのは俺を見捨てたからだとも白状し、力ずくでも連れ帰るつもりでいたリリィを残して一人帰って行く。

母親を殺してしまった罪悪感とは別に、リリィの中には、母親に捨てられたという思いが棘のようにあったのだが、母はちゃんと自分を愛してくれていたのだ。

が、このことはすでにオーガストから聞いていたことではなかったか。その話を聞いたあと、部屋に戻ったリリィは「ママなんて嫌い」「何故愛してくれなかったの!」とハチミツの瓶をドアに投げつけていたが、私にはこの行為はよくわからなかったし、瓶が壊れてハチミツがドアを流れ落ちていく場面は不快ですらあった。父ならよくてオーガストからでは何故駄目だったのだろう。そもそも「お前を捨てた」発言は、父からのものではなかったか。

それとも私がうまくリリィの気持ちを汲み取れないだけなのか。私は愛するということがよくわかっていないし、だから実はこういう映画は苦手なのだ。が、この作品にある誠実さは心に止めておきたいと思ったのである。

リリィとザックの恋一歩手前のような関係も微笑ましい。リリィは作家でザックは弁護士になりたいのだと将来を語り合っていた。でも後の方では、キスのあと、十年か十五年後に君の本のサイン会で会おう、って。何だか老成しすぎじゃない? ま、弁護士志望だったら、このくらいのことは言うのかもね。

注1:映画の全米公開は2008年10月。11月にはバラク・オバマが大統領に選出されている。この映画がオバマ選出を祝う映画みたいになったとしたら、それも感慨深いものがある。
注2:別々に料金を支払い、ザックは「有色人種専用入口」から入っている。ザックと一緒にいたリリィは「黒人の愛人野郎」と罵られる。
注3:メイにはこの事実が自分には知らされていなかったことも、つまり特別扱いされていることもショックだったようだ。
注4:リリィがオーガストに「ママを愛していたか」と訊く場面がある。遺品を手渡される場面だ。オーガストの答えは「複雑だけど愛してた」というもの。「私は子守でママと住む世界が違っていた」し「偏見の時代だった」とも。考えてみると、デボラとオーガストの関係は、リリィとロザリンの関係でもある。オーガストは「偏見の時代だった」と過去形で言うが、でもこの時点では少しも変わったようには見えず、でもロザリンの方がより権利意識は芽生えた時代での関係に思えるから、リリィのことはさらに複雑に愛してくれているのだろうか。
注5: 鯨のブローチ。オーガストが渡してくれたデボラの少ない遺品の中にあったもの。T・レイが22歳のデボラにプレゼントしたものなのだった。

 

原題:The Secret Life of Bees

2008年 110分 アメリカ シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ジーナ・プリンス=バイスウッド 製作:ローレン・シュラー・ドナー、ジェームズ・ラシター、ウィル・スミス、ジョー・ピキラーロ 製作総指揮:ジェイダ・ピンケット・スミス 原作:スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』 撮影:ロジェ・ストファーズ プロダクションデザイン:ウォーレン・アラン・ヤング 衣装デザイン:サンドラ・ハーネンデス 編集:テリリン・A・シュロプシャー 音楽:マーク・アイシャム 音楽監修:リンダ・コーエン

出演:ダコタ・ファニング(リリィ・オーウェンズ)、クイーン・ラティファ(オーガスト・ボートライト)、ジェニファー・ハドソン(ロザリン)、アリシア・キーズ(ジューン・ボートライト)、ソフィー・オコネドー(メイ・ボートライト)、ポール・ベタニー(T・レイ・オーウェンズ)、ヒラリー・バートン(デボラ・オーウェンズ)、ネイト・パーカー(ニール)、トリスタン・ワイルズ(ザック・テイラー)、ションドレラ・エイヴリー(グレタ)

ダウト -あるカトリック学校で-

シャンテシネ2 ★★★★

■疑わしきは疑え!?

張り詰めたセリフの応酬には唸らされ(セリフに乗った言葉の面白さにも舌を巻き)、かつ人間が犯す罪の在処までずぶずぶと探られて、背筋が寒くならずにはいられなかった。戯曲の映画化と知ってなるほどと納得。何度も繰り返し演じられ、鍛えられてきたセリフには隙がない。

フリン神父は、教会に新しい風を入れようとしている意欲的な人物である。生徒からの人望が篤く、彼の説教は人気を集めていた。片や、シスター・アロイシアス校長のガチガチに固まった価値観には、息が詰まるばかりだ。校長自らが監視カメラのようになっては生徒一人一人に目を光らせていた。管理教育以上の恐怖政治(とまでは言っていなかったが)を敷いていると、新任のシスター・ジェイムズは思ったに違いない。

二人の違いは食事風景に歴然とあらわれる。フリン神父たちの賑やかで楽しげな食卓。校長の方は大人数の時でさえ静まりかえっている。生徒たちの歌はつまらなさそうに聞くし、目の仇の果てはボールペンにまで及んで、いったいどこまで憎たらしい人物に仕立て上げれば気が済むのかと思ってしまうが、目の悪い老シスターには気遣いを忘れない。彼女の素晴らしいところはもしかするとこれくらいだろうか。が、この気遣いが、彼女をギリギリのところで、信頼するに値する人間にしている(というか、そう思わせている、のか)。

ところで題名になっているダウト(疑惑)の部分であるが、それ自体は単純なものだった。フリン神父が個人的に生徒のドナルド・ミラーと「不適切な関係」をもったのではないかという疑惑を、ガチガチ校長が追求するという映画なのである(注1)。

二人のやり取りがすこぶるスリリングで、目が放せなくなるが、でもフリン神父がどこまでも鉄壁かというとそんなこともなく、いまにも落ちそうだったり、泣きまで入れてくるのだが、しかし肝心なことは認めようとはしないから、すべては計算ずくのことなのか(もしくはシロってことなのだが)。

校長が追求を止めないのは、彼女の確信による。そう、証拠ではなく確信があるだけなのだ。確信を後押ししたのは、授業時間にドナルドを呼びつけたとシスター・ジェイムズが言ったことでだが、その報告がなくても校長自身は、フリン神父がウィリアムという生徒の手首をつかみ、ウィリアムが手を引っ込めたところを見ていて、もうそれで確信していたらしいから、早晩追求を始めていたはずである。

この映画を観ていると、すべてのことを疑ってかかるよう強要されている気分になってくる。だものだから逆に、フリン神父の弁解(注2)を信じてしまうシスター・ジェイムズの単純さを純粋さと理解したくなる。

が、そのシスター・ジェイムズからして、フリン神父がドナルドの下着をロッカーに戻したことは校長に話さず、あとになって一人でフリン神父に問い質している。シスター・ジェイムズもやはり疑惑を捨てきれなかったのか。それとも、校長の確信があまりに強すぎたので、話すことを躊躇したのだろうか。もっとも彼女は最初の時と同様に、この時もフリン神父の言葉を素直に受け入れていた。エンドロールには「元シスター・ジェイムズに捧ぐ」という言葉があったから、彼女目線の物語と判断するのが一番無難なはずなのだが。

校長はドナルドの母親のミラー夫人にも連絡を取り、あれこれ聞き出そうとする。この時のやり取りがまたまたすごく、見応えのあるものになっている。校長は、神父がドナルドを誘惑していた可能性を告げるが、ミラー夫人は涙目になりながら、それを望んでいる子もいるのだと答える。それを知って夫が息子を殴るが、神が与えた性質で息子を責められない、とも。ミラー夫人には、息子を気にかけてくれる人が必要なのであって、校長の追求などは余計なおせっかいでしかないのだ。許さない、と校長が執拗に食い下がると、それなら神父を追放してくれという発言まで飛び出す。

校長の追求を、フリン神父は相手を攻撃することで躱そうとし、校長のことを「不寛容」と言い放つ(キリスト教の教義に沿うものかどうか、これだけでもいくらでも書けそうだが、私が問うことではないのでやめておく)。フリン神父はまた「罪を犯したことは」と逆に校長に詰め寄りもする(注3)。「自分もどんな罪であれ告白し罪を受けてきた」のだから「我々は同じ」ではないかと。不寛容発言以上にこの質問はいやらしい。校長もたじろぐが、結局はきっぱりと、同じではないし噛みつく犬の習性は直らないと答える。

校長は、フリン神父とのやり取りでは勝利を勝ち取るが、結末は、フリン神父の栄転という形で終わる。彼の辞任は告解と同じだと校長はシスター・ジェイムズに語り、彼を追い出したことに満足しているようにもみえる(それでいいの!)のだが、ここからが少し難解だった(もう一度観て確認したいくらいだ)。

このあと映画は、校長が自分の確信を証明するためについた嘘についても言及している(注4)。フリン神父が前にいた教会に電話して、そこの司祭と彼がしたことについて話したというのは嘘だったというのだ。が、これまたキリスト教の教義にからめて語る資格などないので(別にからめなくてもいいのかもしれないが)、深入りはしないでおく。

説明がふらついていて申し分けないが、結局映画の中でのフリン神父の疑惑は疑惑のままにしておき、それについての答えは、観客がそれぞれ出すよう仕向けているのだろう。

私の答えは、フリン神父はクロ。人間のやることなど信じられっこないんだもの。前歴がなければともかく、それこそ校長と同じく、噛みつく犬の習性は直らないと、とりあえずは言い切ってしまおう。というのも、フリン神父は問題が起きなくても、誤解を招くような行為だけは絶対してはいけなかったと思うからである。悪ふざけされたドナルドを廊下で抱きしめてやるのはいいが(この場面があることでフリン神父を信じたくもなるが)、少なくとも部屋に呼ぶべきではなかった。神父なのだからそこまで考える必要があるし、疑惑を持たれることをしてしまった時点で、すべてが言い訳にしかならないことを知るべきなのだ。

ただ彼の行いがたとえ「不適切な関係」であっても、それが責められることかどうかは、ドナルドが決めることである。だから、私の考えはミラー夫人に近いかもしれない。

となると、最後に校長がシスター・ジェイムズの前で泣き崩れる場面はなんなのだろうか(難解なのはここ)。校長は、フリン神父を追いやった嘘についての償いをするというのだが? もしかしたら校長にも同性愛的嗜好があるということなのか。そしてその対象がシスター・ジェイムズだったとしたら? 最初のは多分当たっているはずである。これなら大げさな涙を説明できるからだ。が二つ目のはどうか。話としては俄然面白くなるが、これはやはり深読みしすぎだろうか(やはりもう一度観て確認したいところだ)。

シスター・ジェイムズは校長に手を差し伸べ、身を寄せ、カメラは鳥瞰になってエンドロールとなる。ここだけを観ていると、シスター・ジェイムズが校長の告解だか告白を受け入れたようには思えないが、でもどうなのだろう(深読みと言っておきながら、まだこだわってら)。それとももっと単純に、やはり嘘をついて神から遠ざかったことを悔いているだけなのだろうか。罪は意識した人にだけにあるのだ。校長の涙が大げさに見えて、そこからとんでもない憶測をしてしまった私は、罪を意識する気持が薄いのだろう。

エイミー・アダムスって『魔法にかけられて』のお姫様なの? 同一人物とはねぇ。彼女には癒されたけど、この映画は観客をへとへとにさせるよね。感想書くのも疲れました。

そうだ。強風が校長を襲う?のと、羽根が舞う映像効果に、電球が二度切れるオカルト?場面があったが、どれもなくてもよかったような。嫌悪するようなものではなかったけれど。
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注1:舞台は1964年のニューヨーク市ブロンクスのニコラス・スクールというカトリック学校。フリン神父の説教に「去年、ケネディが暗殺された時」という言葉が出て来る。ドナルドは校内で唯一の黒人男子生徒。公立では殺されるのでこの学校へ来たのだとミラー夫人があとで校長に語っている。

注2:ドナルドから酒の臭いがしたのは彼がミサのワインを飲んだからで、フリン神父はそのことを庇おうとしたというのだ。この弁解は自己美化めいて見えるし、またドナルドの行為を知らしめることになるから、弁解が本当ならフリン神父がなかなか言おうとしなかったのも頷ける。

注3:厳密に言うと、ここからは二度目の対決場面で、シスター・ジェイムズは兄の見舞いで故郷に帰っていて同席していない。校長とフリン神父は真っ向からぶつかり合う。

注4:校長は、最初にシスター・ジェイムズがフリン神父のことを言い淀んでいた時にも、悪いことをなくすなら神から遠ざかってもいいのではないかと言って、シスター・ジェイムズに発言を促していた。

原題:Doubt

2008年 105分 アメリカ ビスタサイズ 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本・原作戯曲(『ダウト 疑いをめぐる寓話』):ジョン・パトリック・シャンリー 製作:スコット・ルーディン、マーク・ロイバル 製作総指揮:セリア・コスタス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:アン・ロス 編集:ディラン・ティチェナー 音楽:ハワード・ショア

出演:メリル・ストリープ(シスター・アロイシアス)、フィリップ・シーモア・ホフマン(フリン神父)、エイミー・アダムス(シスター・ジェイムズ)、ヴィオラ・デイヴィス(ミラー夫人/ドナルドの母親)、アリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスター二世、ブリジット・ミーガン・クラーク

アンダーワールド ビギンズ

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■ぐちゃぐちゃ混血異人種戦争

今回監督がレン・ワイズマンからパトリック・タトポロスに変わっている。が、そもそもタトポロスは前二作の関係者であるし、ワイズマンも製作には名を連ねていて、だからかあの独特の雰囲気はちゃんと受け継がれているから、アンダーワールドファンなら十分楽しめるだろう。ただ、私のような中途半端なファンには、今更という感じがしなくもなかった。

時代が大幅に遡ったことで、当然使われる武器も、銃器から弓や剣などの世界に逆戻りすることになった。射抜く太い矢のすさまじさなど、映像の力は相変わらずなのだが、古めかしいヴァンパイアものがスタイリッシュにみえたのは、なんのことはないあの銃撃戦にあったような気がしてきた。

また、込み入ったヴァンパイアとライカンという部分の説明を外すと、単純な奴隷の反乱を扱った史劇のイメージとそう変わらなくなってしまうことにも気づく。まあ、こんなこと言い出したらほとんどのものが従来の物語と同じになってしまうのだろうが。

時間軸でいけばこれが最初の話になるわけで、三部作が順を追っての公開だったなら、もう少しは興味が持てただろうか。前二作を見直してちゃんと予習しておけばいいのだが(なにしろ忘れっぽいんで)、DVDを観る習慣も余裕もないので、巻頭のナレーションによる説明は、むろん理解を助けるために入れてくれているのだろうが、駆け足過ぎて私には少々きつかった。

ヴァンパイア(吸血鬼族)とライカン(狼男族)が同じ人間から生まれたというのはむろん覚えていたが、ルシアンがそれまでの狼男族の突然変異で、ライカンとしては彼が始祖。ありゃ、これはウィリアムじゃなかったのね。ウィリアムは狼男の始祖であって、狼男の進化形がライカン、か。やっぱり混乱しているなぁ。

ルシアンが人間族を咬むとライカンになる。それをビクターは奴隷としていた。奴隷製造器としてのルシアンは、ビクターにとって大いに利用価値があり優遇されていたが、他のヴァンパイアたちにとっては同胞ではなく、やっかみの対象にすぎない。そしてそんなルシアンは、ビクターの娘ソーニャと愛し合う仲になっていた。もちろんこのことはビクターたちにはあかせるはずもないことだ。だが、ビクター側近のタニスに勘付かれ(彼はこのことを議席を得る為の取引材料にする)、結局はビクターの知ることとなって、悲劇へと繋がっていく。

ルシアンはソーニャを守るためにライカンに変身する。力を得るためだが、それには首輪を外すという禁を犯す必要があり、ビクターに背いたルシアンは奴隷に戻らされてしまう。ソーニャを守るためには平気でライカンを殺してしまうが、抑圧されたものとしてのライカンには同情もする。ライカンたちもルシアンにつくられたからか、ライカンとなったルシアンの声は聞こうとする(ライカンを殺したことと矛盾するような気もするが)。

運命とはいえ、ルシアンという人間(じゃなくてライカンか)の置かれたこの微妙な立場には、思いを馳せずにはいられない。

しかし映画は、娯楽作であるためのスピード感を重視したせいか、複雑な立ち位置にいるルシアンというせっかくの題材を生かしきれずに、ライカンの反乱劇へと進んでしまう。ソーニャとの恋も、同じ理由で始まり部分を入れていないのだろうか。全部を描けばいいというものではないが、結局はライカンとして生きるしかないルシアンの苦悩が弱まってしまったような気がしてならない。

それにしてもこの物語は、吸血という血の混じりが新たな人種を生み、さらにそれが混じって複雑な関係となり、無間地獄のような状況を作り出している。それがヴァンパイアとライカンとのことなので(前作では人間マイケルがヴァンパイアとライカンの血を得て変身という展開もあったが)、鼻で笑って観ているわけだが、これはそのまま、我々のいる今の世界ではないか。

セリーンがビクターの娘に似ていることが反映されて、ソーニャはケイト・ベッキンセイル似(そうか?)のローナ・ミトラになったらしいが、魅力はもうひとつ。マイケル・シーンにもそんなには感心できなかった。セリーン似と禁断の恋とで「過去に、もう一人の私がいた」というのがコピーになっているが、「いま明かされる女処刑人の謎」にはなっていない。というか謎はすでに解けちゃってるんでは?

原題:Underworld:Rise of the Lycans

2009年 90分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:藤澤睦実

監督:パトリック・タトポロス 製作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、レン・ワイズマン、リチャード・ライト 製作総指揮:スキップ・ウィリアムソン、ヘンリー・ウィンタースターン、ジェームズ・マクウェイド、エリック・リード、ベス・デパティー キャラクター創造:ケヴィン・グレイヴォー、レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 原案:レン・ワイズマン、ロバート・オー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド、ダーク・ブラックマン、ハワード・マケイン 撮影:ロス・エメリー プロダクションデザイン:ダン・ヘナ 衣装デザイン:ジェーン・ホランド 編集:ピーター・アムンドソン 音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:マイケル・シーン(ルシアン/ライカンの始祖)、ビル・ナイ(ビクター/ヴァンパイア族領主)、ローナ・ミトラ(ソーニャ/ビクターの娘)、スティーヴン・マッキントッシュ(タニス/ビクターの副官)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ/奴隷、ルシアンの右腕)、シェーン・ブローリー(クレイヴン/ビクターの後継者)、デヴィッド・アシュトン(コロマン/議員)、エリザベス・ホーソン(オルソヴァ/議員)、ケイト・ベッキンセイル(セリーン)

ヤッターマン

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★★☆

■隠し味は変態

元アニメ(注1)を知っている人はきっと得意顔で、この実写版映画のデキ(というよりも似てたり違っているところ)を延々と語るんだろうな。映画を観ていたら私もそうしたくなったのだけど、『ヤッターマン』については、それこそ題名を聞いても何の感慨も湧かないくらい完璧に知らないのだった。くやしー。

だってものすごくくだらないのに(くだらなくて、だな)面白かったんだもの。予告篇で、あれ、これ、もしかしたら私向きかもとは思っていたが、観て、やっぱり、楽しいじゃん、だったのだ。

玩具店(注2)の息子のガンちゃんはガールフレンドの愛ちゃんとヤッターマン1号、2号になって、ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーのドロンボー一味と日夜戦っている(注3)。ドロンボー一味はドロンジョが一応リーダーだが、自称「泥棒の神様」のドクロベエにいいように使われていて、失敗すると、というか必ず失敗して「お仕置き」になるらしい。

今回は、四つ揃うと願いが叶うというドクロストーンの争奪戦。話はありきたりでいたって単純。でもないか、愛憎劇という側面もあるから。単純に見えるのは話の繋ぎが乱暴で、面倒と思われるところは、ちゃっちゃっちゃと端折った説明ですましちゃっているからだ(いきなり「説明しよう」と言って、解説を始めちゃったりもする)。

まず先に愛憎劇について語ると、ドロンジョがヤッターマン1号に恋してしまうというもの。もっとお高くとまっているのかと思ってたので、ドロンジョの恋心が可愛いくみえた(ドクロベエに責められて初恋だと告白していた)。「物を盗むのが大事な女から一番大事なものを盗んだ。盗んだのは許さない。おまえ(ヤッターマン1号)の心を盗ませてもらうよ」はセリフ優先にしても、彼女の夢が好きな人の奥さんになって子供を産むことだとは。これは深田恭子をもってきたことによる変更なんだろうか(いや、別にどうでもいいんだけどさ)。

1号もまんざらではないから2号は面白くないし、ドロンジョは恋の成就のため2号をやっつけようとする。ここに至って1号は「ヤッターマンは二人で一人」(と言われてもよくわからないのだが、そういう決まりなんだろう)ということに気づき、二人のキスシーンとなる(偶然成り行きとはいえ1号はこの前にドロンジョとキスしているのだ)。ここいらも端折りなんで、あれまあ展開。だいたい1号は節操がないし(この件については後述)、この映画では全然魅力がなくて、これでいいのかと思ってしまうくらいなのだ。

で、ドロンジョはふられてしまうのだけど、ドロンジョに秘めた(?)想いを抱いていたボヤッキーはうれしいような悲しいような。ドロンジョには追い打ちをかけるように友達宣言までされてしまって泣きたい気分。これとは別に、ドクロベエまでがドロンジョを我が物と思っていて、端折りあっさり進行にしては複雑。ドロンジョが絶世の美女という設定にしても毎回こんなことを繰り返していたのかしらね。

ドクロストーンの争奪戦に話を戻すと、一つ目のドクロストーンを娘の翔子に預けた海江田博士は、二つ目を探しに行ったきりになっていて、翔子は父に会いたいと1号と2号に助けを求める。

海江田博士が消息を絶ったというオジプトでは、翔子がサソリに刺される注目の場面があって、1号の節操のなさが露呈する。翔子の腿から血を吸い出すのに、1号は「じゃまだ」と2号を突き飛ばしてしまう(順番としてはドロンジョとのキスの前)。今回あんまりパッとしない1号を庇うまでもなく、これは監督か脚本家の趣味なんだろう。

まあ、そんなふうな流れの中で、ドロンボー一味が「セレブなドレス」や「どくろ鮨」の阿漕な商売で金を儲けては(注4)新兵器を開発し、ヤッターマンの方も一週間のうちに次なる「今週のビックリドッキリメカ」をヤッターワンに仕込んで(たんに「メカの素」と投げるだけなのか?)の対戦をはさんで、映画はクライマックスに突入していく(私の説明もだけど、元が大雑把なのよ)。

ドクロベエは海江田博士の体に取り入ってすでに一体化していて、さらには集まりだしたドクロストーンの影響で時空がゆがみだしたものだから、それを利用して(未来にも過去にも行って)好きなものを盗めるようになろうとするが、そのことで神にもなれると失言し、つまり現状は神でもなんでもないことがバレてしまい、ドロンジョの反撃に合う。

1号はここでもドクロベエと戦えるのは翔子ちゃん一人とか言ってるだけで、どうにもたよりない。2号がドロンジョを助けてドクロベエの野望も潰える、って続篇(最後に予告していたが、どこまで本気なんだろ)ではもう出てこないのかしらね(キャラクターとしては特にどうってこともなかったのでいいんだけど)。

こうやって書いてしまうと何ていうこともないのだが、阿部サダヲ(海江田博士)の顔を振りながら二人芝居が秀逸で、おかしさがこみ上げてくる。が、どうしようもなくいいのはボヤッキーの生瀬勝久で、これには誰も異論がないだろう。が、他は役柄に馴染んでいたのかどうか。

岡本杏理の翔子も添え物で終わっていたが、監督のオモチャにされていた部分はすごすぎる。1号に腿を吸われてしまう場面もだが、ヤッターワンや岩場にしがみついている姿では必ずガニ股にされていた。ドロンジョのお色気路線に、おっぱいマシンガンやおっぱいミサイルなど、こういうのも『ヤッターマン』のお約束なんだろうけど、翔子に関しては変態路線っぽい。いやー、ごくろーさんでした。

あとところどころでしまりがなくなるが、まあドロンジョからして最初の戦いで勝利に酔って自爆装置を押してしまうお間抜けキャラなんで、そうなっちゃうのかなぁ。なにしろ、背景に出てくる歯車など、そもそも噛み合ってもいないのに動いているのだから。

最後になったが、メカの造型が素晴らしい。寺田克也の名前を見つけたのはエンドロールでだが、私の場合、こういう部分のデキで好き嫌いを決めてしまうんでね。

注1:『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』は1977年(昭和52年)から1979年にわたってフジテレビ系列で放送されたタツノコプロ制作のテレビアニメ。2008年1月14日からはそのリメイクアニメ『ヤッターマン』が日本テレビ系列で放送されている。こちらは読売テレビとタツノコプロの制作。

注2:高田玩具店は駅前にあって、これが秘密基地。堂々とした秘密基地で、人がいるのもものともせずヤッターワンが出撃していく。駅前は、蒸気機関車のある新橋駅に似ていた。

注3:実は週一。アニメ放映に合わせてそう言ってたのね。こんなところも映画ではそのまま使っているようだ。「ヤッターマンがいる限り、この世に悪は栄えない!」と言うわりには、毎週ドロンボー一味(だけなの?)に手を焼いていたってことになる。

注4:阿漕商売はうまいのだから、ここでやめておけばいいのに。それに毎回資金稼ぎ部分では成功しているということは、ヤッターマンはちっとも庶民の味方になっていないわけで……。

 

2008年 111分 シネスコサイズ 配給:松竹、日活

監督:三池崇史 製作:堀越徹、馬場満 プロデューサー:千葉善紀、山本章、佐藤貴博 エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、由里敬三 製作総指揮:佐藤直樹、島田洋一 原作:竜の子プロダクション 脚本:十川誠志 撮影:山本英夫 美術:林田裕至 編集:山下健治 音楽:山本正之、神保正明、藤原いくろう CGIディレクター:太田垣香織 CGIプロデューサー:坂美佐子 スタイリスト:伊賀大介 メカ&キャラクターデザインリファイン:寺田克也 音響効果:柴崎憲治 整音:中村淳、柳屋文彦 装飾:坂本朗 録音:小野晃、藤森玄一郎 助監督:山口義高 キャラクタースーパーバイザー:柘植伊佐夫

出演:櫻井翔(ヤッターマン1号/高田ガン)、福田沙紀(ヤッターマン2号/上成愛)、深田恭子(ドロンジョ)、生瀬勝久(ボヤッキー)、ケンドーコバヤシ(トンズラー)、岡本杏理(海江田翔子)、阿部サダヲ(海江田博士)
声の出演:滝口順平(ドクロベエ)、山寺宏一(ヤッターワン、ヤッターキング)、たかはし智秋(オモッチャマ)

罪とか罰とか

テアトル新宿 ★★★☆

■さかさまなのは全部のページ

まず、どうでもいいことかもしれないが、『罪とか罰とか』って題名。これが『罪と罰』だったら、それはドストエフスキーということではなくて、って、こう書くまで気がつかなかったのだけど、無理矢理恩田春樹をラスコーリニコフにしてしまえば円城寺アヤメはソーニャ的とも言えなくはないが、って言えない。

書くことが整理できてないんで、いきなり脱線してしまった。(気を取り直して)『罪と罰』だと、『罪と罰』だ、『罪と罰』である、『罪と罰』でしょ、みたく断定になるが、『罪とか罰とか』だと、『罪とか罰とか』だったり、『罪とか罰とか』かもしれない、って曖昧になっちゃう。って、ならない? 私的にはそんな気がしちゃってるんで。

えー、のっけからぐだぐだになってますが、要するによくわからない映画だったのね。めちゃくちゃ面白かったけど……でも、終わってみたら?で。

(もいちど気を取り直して)だってこの映画を真面目に論じたら馬鹿をみそうなんだもん。ギャグ繋ぎで出来ているんで、あらすじを書いたら笑われちゃうかなぁ。でも実のところそうでもなくて、物語は時間軸こそいじってはいるが、ものの見事に全部がどこかで繋がっていて、練りに練った脚本だったのね、と最後にはわかるのだが、とはいえ、あらすじを書いて果たして意味があるかどうかは、なのだな。

ですが、それは面倒なだけ、と見透かされてしまうのは癪なので、ちょっとだけ書くと、まず冒頭で、加瀬という46歳の男が朝起きてからの行動を、やけに細かくナレーション入りで延々と語りだす。これは忘れてはならぬと、頭の中で復誦していると、女が空から降ってきて、加瀬はトラックにはねられて、「加瀬の人生は終わり、このドラマは始まる」って。で、本当に加瀬はほぼ忘れ去られてしまって、そりゃないでしょうなのさ。

女が降ってきた(突き落とされたのだ)そのアパートの隣部屋では3人組がスタンガンコントを、これまたけっこう時間を使ってやってみせる。コンビニ強盗を計画しているっていうんだが、結果は見え見え。

んで、このあとやっと崖っぷちアイドル(これは映画の宣伝文句にある言葉)の円城寺アヤメ主人公様がコンビニで雑誌をチェックしている場面になる(この前にも登場はしてたんだが)。アヤメとは同級生で、スカウトされたのも一緒だった耳川モモは表紙を飾っているというのに、掲載ページのアヤメは印刷がさかさま! 思わずその雑誌を万引きして(なんでや?)逮捕されてしまうアヤメ。

このあたりの撒き餌部分は多少もたもたかなぁ。だからか、こっちもどうやって映画に入り込んでいったらいいのかまだ迷っていて(最初の加瀬の部分でもやられていたので)、時間がかかってしまったが、いつの間にかそんなことは忘れてしまって、だからもうここから先は完全に乗せられてたかしらね。

アヤメは万引きの罪の帳消しに、見越婆(みこしば)警察署の一日署長にさせられてしまう。一日署長はきっかり日付が変わるまでで、長期署長も可。むしろ署員はそれを希望してるし、かつ一日署長の指示待ち状態。そこの強制捜査班の恩田春樹刑事はアヤメの元カレで殺人鬼(女を突き落としたのもこいつ)。春樹は自首しなきゃと思ってはいるが、副署長にはとっくに見抜かれていて、お前だけコレにしとくってわけにいかないから、と取り合ってもらえない。お前だけって見越婆警察署は全員が犯罪者なの? 春樹の正体というか殺人癖はアヤメも昔から知っていて(注1)、もう何がなんだか展開。で、そこに「殺したら(撃たれたら)射殺してやる」回路標準装着者のいる三人組によるコンビニ襲撃事件が発生する。

ここまですべてをありえない展開にしてしまうと、いくらブラックジョークといえど、いろいろ困るのではないかと余計なお世話危惧をしなくもなかったが、見越婆警察署の内部が自白室や測量室(別に高級測量室というのもあったが?)のある古びた病院だか魔窟のようになっていたことで、私はあっさり了解することにしましたよ。なーんだ、これは異世界なんだって。

ところがその異世界でアヤメは、いろいろなことに違和感を抱いていて、でも昔は殺人鬼の春樹と平気で付き合っていたわけだし、耳川モモとも対等だったはずなのに、なんでアヤメだけが、と考えてみると、これはですね、アヤメがグラビア雑誌に反対に印刷されてしまったことで、異世界の住人とは妙にズレた感覚が身についてしまったのではないかと?

異世界にあってそれは危機なのだが、一日署長を体験したことで、アヤメは自信を取り戻し、すっかり元に戻って、つまり全部がさかさまのページとなって(注2)、彼らの異世界の調和は保たれたのでありました。

と、勝手な屁理屈で謎解きしてみたが、これは全然当たってないかも。だって春樹に対するアヤメのことだけを取ってもそう簡単には説明がつかないもの。いや、そうでもないのかな。万引きという初歩的犯罪が認められての一日署長だし、迷宮のような見越婆警察署の署長室にたどり着いても、誰もがなりたがる権力者たる署長は本当に不在。「春樹も自首とか考えないで前向きに」と言っといての逮捕、は完全に「春樹の味方」に戻ったよな、アヤメ(当時は自首していい人になってはいけないということがアヤメにはわかっていたのだ)。ね、やっぱりすべてが逆転してるもの。

でもまぁ、単に面白かったってことでいいのかもね。私のは屁理屈にしても、理屈拒否の為の異世界設定は当たってるんじゃないかな。真面目に考えたり論じたりするべからず映画というのが正しそうだから。
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注1:昔のアヤメは、春樹が自首すると言っても見つからなければわからないと、副署長と同じ見解だった。当初の春樹はだからずっとマトモだった。が、すぐ殺人は「ボーリングより簡単」になってしまう。

注2:コンビニに居合わせたため、耳川モモと一緒に強盗の人質となっていた風間マネージャーが「他のページがさかさまなの!」と言っていたが、こういうことを言ってはいけない。私の『罪とか罰とか』における異世界理論が崩れてしまうではないの。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 企画:榎本憲男 撮影:釘宮慎治 美術:五辻圭 音楽:安田芙充央 主題歌:Sowelu『MATERIAL WORLD』 照明:田辺浩 装飾:龍田哲児 録音:尾崎聡

出演:成海璃子(円城寺アヤメ)、永山絢斗(恩田春樹/見越婆署刑事)、段田安則(加瀬吾郎/コンビニの客)、犬山イヌコ(風間涼子/マネージャー)、山崎一(常住/コンビニ強盗)、奥菜恵(マリィ/コンビニ強盗)、大倉孝二(立木/コンビニ強盗)、安藤サクラ(耳川モモ)、市川由衣(コンビニバイト)、徳井優(コンビニ店長)、佐藤江梨子(春樹に殺される女)、六角精児(巡査部長)、みのすけ(警官)、緋田康人、入江雅人、田中要次(芸能プロ社長)、高橋ひとみ、大鷹明良(トラック運転手)、麻生久美子(助手席の女)、石田卓也、串田和美(海藤副署長)、広岡由里子

ラ・ボエーム

テアトルタイムズスクエア ★☆

■なぜ映画化したのだろう

ジャコモ・プッチーニの作曲した同名四幕オペラの映画化だが、オペラファンというのは、こんな単調な物語であっても、歌や楽曲がよければ満足できてしまうのだろうか。歌詞で繋いでいくだけだから、こねくりまわした話というわけにはいかないのだろうが、それ以前の内容というか精神が、あまりに子供じみたものでびっくりしてしまったのだった(オペラ無知の私が勝手なことを書くのは憚れるので、一応オペラの方の筋書きを調べてみたが、どうやらこの映画、舞台をかなり忠実になぞって作っているようなのだ)。

時は十九世紀半ば、パリの屋根裏部屋に暮らす詩人のドロルフォと画家のマルチェロたちはあまりの寒さに、芝居の台本を燃やして暖をとる。この幕開きは、まあご愛敬で楽しめる。哲学者のコッリーネもうらぶれた体で帰って来るが、音楽家のショナールがたまたまお金を稼いで戻ってきたものだからみんなで大騒ぎとなる。

そこに、溜まった家賃を取り立てに家主がやって来るのだが、払う金が出来たというのに、おだて、酒で誤魔化し、酔った勢いで家主が漏らした浮気のことを聞くや、妻子持ちのくせしてけしからんと追い返し、クリスマス・イブの町へ繰り出す算段をはじめる。ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになって、蝋燭の火を借りにきたミミと知り合い、二人はたちまち恋に落ちる。これが第一幕(むろん、映画にはこういう仕切はないが)のハイライトで、鍵を落としたとか、見つけたのに二人でもう少しいたいからと隠してしまったりで、まあ、勝手にいちゃいちゃしてろ場面。ま、これは許せるんだけど。

カフェでは先のことも考えずに散財し、勘定書が高いなると、誰が払うのだとわめくし(歌ってるだけか)、結局はマルチェッロの元恋人だったムゼッタの連れ(パトロン)の老人に押しつけて得意顔。当時の富裕層と貧乏人(しかも夢も前途もある?若い芸術家たちなんで、大目に見ているとか)にあっただろう格差のことも勘案しなくてはいけないのかもしれないが、ユーモアと呼ぶような品はない。しかし、ともあれマルチェッロはムゼッタを取り戻す。浮かれ気分の第二幕。

舞台だと幕間の休憩でもありそうな。ならいいのだが、映画の第3幕は、幕間という感覚もないから話が急展開すぎで、少々戸惑う。ロドルフォは「愛らしい頬が月の光に包まれている」とおくめんもなくミミのことを歌い上げていたのに、もう根拠のない嫉妬でミミを罵ったりもしているらしい(ホントに急展開だったのな)。ロドルフォがミミを置いて家から出てしまったため、ミミは雪の中、ロドルフォがいるとは知らず、マルチェッロのところに助けを求めて訪ねて来たのだ。

ロドルフォはミミの病のことも知っているのに、だから貧乏人の自分といてはダメと思ったにしても、第三幕でのこの別れはあんまりではないか。助かる見込みがないとまでロドルフォは言っているのに(ミミはそれを物陰で聞いてしまいショックを受けていた)。二人が別々にマルチェッロを相手に心境を語る場面は、舞台なら凝った演出でも、それを奥行きがあって当然の映画で再現すると奇妙なものにしか見えない。「歌と笑いが愛の極意」だとか「俺たちを見習え」と言っていたマルチェッロだが、ムゼッタとはまたしても大喧嘩となって、愛憎半ばする第三幕が閉じていく(どうせなら、本当に幕を下ろす演出にすればよかったのに)。

第四幕はまた屋根裏である。ロドルフォとマルチェッロが別れた恋人のことを想っているところに、ショナールとコッリーネがパンと鰊を持って帰ってくる。みんなでふざけ合っていると、ムゼッタが、階段でミミが倒れたと駆け込んでくる。子爵の世話になっていたが、死ぬ前にロドルフォに一目会いたいとわざわざやって来たという。子爵の世話ってなんなのだ? そういう道があったからロドルフォは別れようとしたのか? 何がなんだかなのだけど、まあ、いいか。で、それぞれがミミのために手を尽くす(ここはみんながいいところを見せるのだな)が、ミミは息をひきとってしまう。

ところでこの部分、最後だけ歌でなく普通のセリフになっていた。特別意味のあるセリフとも思えないが、全体の構成を崩してまでやった意味がわからない。

死を前にしては力強いロドルフォとミミの抱擁、って別にそんなどうでもいいことにまで文句をつけるつもりはないが、せっかく映画にしたのだから、もう少しは舞台とは違った感覚で場面を切り取れなかったものか。四幕という構成にこだわるのはいいにしても、ほとんど舞台をそのまま持って来たようなセットと演出(推測です。そうとしか思えないのだな)というんじゃねぇ。

ミミが死んで、カメラが宙に引いていくとすごく広い部屋(というより床が広がっているだけだが)になって寂寥感を際立たせるが、映画の醍醐味であるカメラワークがこの場面くらいというのではもったいなさすぎる。ま、それは言い過ぎで、カメラが不動なわけではない。ロドルフォとミミの二重唱など、シネスコ画面を分割して二人のアップを並べたりしているが、映画的な面白にはなっていない。

それでも退屈はしないのは、歌の力か。アンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンは現代最高のドリーム・カップルなんだそうである。

そういえばエンドロールは無音だった。館内も全部ではないがかなり明るくなって、もしかしたらこんなところまで舞台を意識して同じようにしたのだろうか(舞台にはエンドロールなどないからね)。

原題:La Boheme

2008年 114分 オーストリア、ドイツ シネスコサイズ 配給:東京テアトル、スターサンズ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ロバート・ドーンヘルム 原作:アンリ・ミュルジェール 撮影:ウォルター・キンドラー 音楽:ジャコモ・プッチーニ 指揮:ベルトラン・ド・ビリー 合唱:バイエルン放送合唱団、ゲルトナープラッツ州立劇場児童合唱団 演奏:バイエルン放送交響楽団

出演:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ:ミミ/お針子)、ローランド・ビリャソン(テノール:ロドルフォ/詩人)、ジョージ・フォン・ベルゲン(バリトン:マルチェッロ/画家)、ニコル・キャベル(ソプラノ:ムゼッタ/マルチェッロの恋人)、アドリアン・エレード(バリトン:ショナール/音楽家)、ヴィタリ・コワリョフ(バス:コッリーネ/哲学者)、イオアン・ホーランダー(アルチンドーロ/枢密顧問官、ムゼッタのパトロン)

映画は映画だ

新宿ミラノ1 ★★★

新宿ミラノのチケット売り場前。舞台挨拶のあった回は満席

■ヤクザはヤクザだ

ポン監督からリアルな演技を求められた映画俳優のスタは、アクションシーンの立ち回り(韓国語でも「タチマワリ」なのね)で熱くなり、共演者を二人も病院送りにしてしまう。危険人物と目され相手役が見つからなくなったスタは、窮余の策でヤクザのガンペを担ぎ出す。彼の本物のリアルさには、たまたま居合わせたクラブでポン監督も驚嘆していたし、何よりガンペは元俳優志望だった。状況を聞かされてもガンペがひるむはずもなく、スタに「マジでやるなら」という条件まで出してくる。こうして演技は素人ながら喧嘩は本物のガンペと、ちょっぴり高慢なスタとの真剣勝負のような撮影が始まることになる。

スタとガンペの描き方が面白い。服装を白と黒にして映像的にも対照的な二人と印象付けているが、似たもの同士に他ならない。二人も途中で気づいたようだ。でなきゃ映画のこととはいえ、延々と意地を張って殴り合いを続けたりはしないだろう。ガンペはさすがに圧倒的な強さを見せつけるが、スタも俳優歴を武器に一歩も引こうとしない(ポン監督も同じで、ガンペに容赦のない要求をしていた。映画では妥協しないという姿勢か)。

二人の撮影現場をみていると、何故か対抗心というよりは、二人にとってどうしても必要な同化の儀式をしているのではないかと思えてくるのである。それが象徴的なのが干潟でのクライマックスシーンで、殴り合いを続けるうち全身泥まみれになって、遠目では見分けがつかなくなってしまう(この場面も白と黒の服装にするべきだった)。

二人の違いは、もしかしたら世間体を気にしているかいないかという部分だけかもしれない。もっともこれは、二人の属している世界の違いだろうか。俳優のスタは恋人のウンスンと会うのも人目をはばかってばかりだし、会えば真っ先に肉体を求めてしまうから、ウンスンとの間は険悪になるばかりだ。ガンペといえば、なりふりかまわず共演者のミナとのキスシーンを撮影前にリハーサルしてしまうし、強姦シーンでさえ、リアルに徹したつもりでいるのか、平然とやってのけてしまう(注1)。

一方私生活では、スタはウンソンとの密会をネタに強請られるが、それは結局先輩として長年付き合ってきたマネージャーの自作自演の犯行とわかる。が、そんなことも影響してか、ウンソンとの関係を隠そうとはしなくなるし、ガンペは獄中にいるペク会長の指示に逆らってまでパク社長殺しをためらい、そのことで窮地に追い込まれる(注2)。部下への温情(これは以前からだったかもしれないが)や、ミナとの関係の進展も映画の撮影が関係してのことらしい。

そもそも嘘で固めた映画が本物でないかというと、そんなことはないし、本物ばかりを撮った偽物映画はごまんとある。それくらいのことは誰もがわかっていて、それなのにこんな形で取り上げるはどうかと思うのだが、そういう意味での迷いはなく、私にはどこまでも映画のリアルさにこだわろうとするヘンな映画にみえてくる。だからか、撮影現場では相変わらず、「これは映画なのか」というような言葉が飛び交いながら、映画撮影と映画は進展していく(ただしその撮影されている映画の内容はほとんどわからない)。これは映画に対する真摯な想いなのか。それとも単なるアイデアの一つと割り切っているだけなのか。

そうして、それぞれ問題を抱えながら、先にも触れたクライマックスの干潟でのラストシーンの撮影となる。二人の執念がぶつかり合うこの場面は、リアルさを口にしているだけのことはある。が、素手での殴り合いがそう続くわけなどないから、二人が熱演すればするだけ、嘘の部分が多くなっていってしまうことになる。これで、二人の友情で終わるのか、と陳腐な結末を予想したところで、それを見透かしていたかのように、映画にはさらなる場面が付け加えられていた。

その場面とは、ガンペによる、唐突で残忍極まりないペク社長の殺害場面である。ここに至る過程のセリフがすごい。「すっかり俳優らしくなった」ガンペは、スタに行き先を聞かれて、「映画を撮りに」と答える。冗談としか思っていないスタは「カメラもないのに?」と聞き返すのだが、ガンペは「お前がカメラだ」と言うのだ。まるでこれから俺がやることをカメラになって全部記憶しておけとでもいうように。

所詮スタとは住む世界が違うのだ、映画は映画でしかない、であるのなら、ガンペの自首は不要になるが、そこまで彼を悪人にしなかったのは観客への配慮だろうか。何にしても、ガンペが少しは変わってきているような描き方をしていたので、これは思わぬ展開だった。

このラストがなければ、この映画の価値は半減していたことだろう。そうは思うのだが、このラストがもたらす不快感も相当なものがある。ガンペの行動は理解出来ないし、それにこれだと「短い人生、無駄にするな」(注3)ではなくなってしまうと思うのだが。

監督のチャン・フンはキム・ギドクの元で助監督をしていたという。そして製作・原案がそのキム・ギドクときき、なるほどそれで『悲夢』と通じる入れ子設定になっていたわけか、と。で、ついでに、同じようなわかりにくさがあることにも納得してしまったのだった。
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注1:さすがにこれはどうかと思う。というかリアルとは関係ないか。好意を持っていたミナも泣いてしまっていた(もっともその前にミナは「あれって本当にやりませんよね」と訊いていたんだよな)。反対にミナの入水を目撃して、映画の撮影と気づかずに助け出してしまう場面がある。このあと二人が関係を持つことになるきっかけにもなっているのだが、これはガンペが脚本を読んでいないことになってしまうから感心できない。ガンペはミナに惚れていたのだろう、強姦の件もミナに謝ってはいた。しかし、そうはいっても撮影にかこつけてやったことを、そんなに簡単に許してしまっていいものだろうか。ついでながら、ウンソンの扱いもひどいものだった。が、彼女の場合は、スタの心境の変化で最後に救われる。

注2:殺さなかったパク社長の裏切りで、窮地に立ったガンペだが、しかし、ガンペもそのあとパク社長に手心を加えられていた(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注2:完全に立場が逆転してしまうが、しかし、ガンペもパク社長からまったく同じ扱いを受けるのだ(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注3:このセリフは二人が出会ったクラブで、「俳優を目指していた」と言うガンペにスタが返したもの。スタに共演を持ちかけられた時、ガンペにはこのセリフが頭をよぎっていたはずである。
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原題:・・剩・髏€ ・・剩・、 英題:Rough Cut

2008年 113分 韓国 ビスタサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チャン・フン[・・弡・n 製作・原案:キム・ギドク[・€・ー・普n 撮影:キム・ギテ

出演:ソ・ジソプ[・護ァ€・ュ](イ・ガンペ/ヤクザの幹部)、カン・ジファン[・菩ァ€嶹・n(チャン・スタ/映画俳優)、ホン・スヒョン[嶹作・嶸пn(カン・ミナ/女優)、コ・チャンソク[・黴€・ス・掾n(ポン/映画監督)、チャン・ヒジン[・・彧ャ・пn(ウンソン/スタの恋人)、ソン・ヨンテ[・。・ゥ夋怐n(ペク/ヤクザの会長)、ハン・ギジュン[﨑懋クー・早n(パク社長)、パク・スヨン[・菩・・=n(イ室長/スタのマネジャー)

マンマ・ミーア!

新宿ミラノ3 ★★

■結婚式(映画もか)を横取り!

70年代半ばから80年代初頭にかけて活躍したABBAのヒット曲に乗せておくるミュージカル。

ノリのいいABBAの曲は、私のように音楽には詳しくない人種(注1)にも耳に残っているものがいくつかあって、だからそれだけで十分楽しめそうな予感はしていた。一方で、ヒット曲を集めてミュージカルになるのだろうか、とも。しかしながら、欧米(ABBAは北欧だが)のポップスの歌詞には単純なものが多いので、今回のようなミュージカルも出来てしまうのだろう(一部は劇中のショーにして誤魔化していたが)。

物語は、ギリシャのとある島に住むソフィという結婚式を控えた女の子が、ママ(のドナはこの島で小さなホテルを経営している)の若き日の日記を盗み見したことで、会ったことのないパパに結婚式のエスコートをしてもらおうと(なんて可愛らしい望みなんでしょう! ま、それは派生的なものにすぎないにしてもさ。だってどんな男かわかったもんじゃないだろうに)、ママには秘密で呼び寄せるのだが、パパ候補は3人もいて、という仰天話。

そんな馬鹿らしい話にみんなで大騒ぎして、という内容だから目くじらを立てることもないのだが(そう思っても、すぐ次の曲が始まってしまうんだよなぁ)、ソフィと婚約者のスカイが結婚式の前にちょっとした諍いになって、でもそのまま式に、という部分は、まだ気になっている。だから最後に結婚式がとりやめになってしまっても、そんなには気にしていないのだろうか。中止が2人での旅立ちに形をかえたみたいなものだから何の問題もないのかもしれないが、どうにも釈然としない。

だいたいスカイは、影も薄いのだな。ソフィもドナもそれぞれ友達2人を助っ人にしている(特にドナの2人は強力)し、パパ候補もサム、ハリー、ビルの3人組(注2)だからってこともあるのだけれど。

ドナはいきなり現れた3人の登場にあわて、そしてお気楽パパ候補(という認識がなかったんだものねー)たちは、もしかしたら自分がソフィの父親かも知れないということにやっと気づく(ソフィは招待状をママの名前で出している)。

サムが、何故ソフィを島に縛ろうとするのか、とドナに言う場面があって(むろんこのことは、ドナが望んだというのではないのだが)、このことからソフィとスカイの結婚式がサムとドナの結婚式に取って代わってしまうという大団円になっていく。いやはや。まあ、ミュージカルなんで。

ソフィが主導していた話なものだから思い違いをしてしまったが、主役は途中からはドナになってるし、結局、中年向けの映画だったようだ(だからABBAなんだ。そっか)。けど、結婚式まで横取りって、まあ残りの人生が少ないだけあって中年(初老?)が一旦恥も外聞もなくやり出したら止められないのだな。

しかし、だったらもう少しは、ドナやサムが何故今に至ったのかをちゃんと描いてもよかったのではないか。でないとドナのは若気の過ちにしては節操がないし、当時すでに婚約していたサムの行動もドナ以上に節操がなくて、ピアース・ブロスナンはラジー賞の最低助演男優賞に耀いたそうだけれど、この役の設定だと、演技以前にそうなんだもの(彼の歌声もちょっとね)。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』でも聞き惚れたが、メリル・ストリープの歌いっぷりはなかなかだ。とはいえ私的には演歌のようには歌い込まないでほしいのだが。ジュリー・ウォルターズとクリスティーン・バランスキーもそれなりに分をわきまえての大活躍。それに比べると男優陣は見劣りがする。コリン・ファースとステラン・スカルスガルドは何しに島へやって来たんだろ。

注1:曲よりもABBAの2番目のBの字が反対向きだったことの方を思い出してしまう口なので。

注2:この3人は本来なら恋敵ということになるが、なにしろあまりに昔のことだし、それに実際に反目し合っていたわけではなく、互いに相手のことは知らないのだな。

 

原題:Mamma Mia!

2008年 108分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:石田泰子

監督:フィリダ・ロイド 製作:ジュディ・クレイマー、ゲイリー・ゴーツマン 製作総指揮:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース、リタ・ウィルソン、トム・ハンクス、マーク・ハッファム 脚本:キャサリン・ジョンソン 撮影:ハリス・ザンバーラウコス プロダクションデザイン:マリア・ジャーコヴィク 衣装デザイン:アン・ロス 編集:レスリー・ウォーカー 振付:アンソニー・ヴァン・ラースト 音楽:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース 音楽監督:マーティン・ロウ 音楽監修:ベッキー・ベンサム

出演:メリル・ストリープ(ドナ)、アマンダ・セイフライド(ソフィ)、ピアース・ブロスナン(サム)、ジュリー・ウォルターズ(ロージー)、クリスティーン・バランスキー(ターニャ)、コリン・ファース(ハリー)、ステラン・スカルスガルド(ビル)、ドミニク・クーパー(スカイ)

パッセンジャーズ

新宿武蔵野館3 ★★★

■死を受け入れるためには

観てびっくり、私の嫌いな手法を使ったひどいインチキ反則映画だった。なのに不思議なことに反発心が起きることもなく、静かな安心感に包まれて映画館をあとにすることができた。

100人以上が乗った航空機が着陸に失敗し、機体がバラバラになって炎上する大惨事となる。わずかに生き残った5人のカウンセリングをすることになった精神科医のクレアは、生存者の聞き取り調査を進める過程で、不審な人物を見かけるし、会社発表の事故原因とは違う発言をする生存者がいて、不信感を強めていく。グループカウンセリングの参加者は、回を追うごとに減ってしまうし、不審者にはどうやら尾行されているようなのだった。

また、生存者の中でカウンセリングは必要ないと言って憚らないエリックの言動もクレアを悩ます。事故が原因で躁状態にあるのか、エリックはクレアを口説きまくるのだ。当然のように無視を続けるクレアだが、エリックの高校生のようなふるまいに、次第に心を許し、あろうことか精神科医としてはあってはならない関係にまでなってしまう(あれれれ)。

航空会社追求にもっと矛先を向けるべきなのに、エリックとのことを描きすぎるから、妙に手ぬるい進行になっているんだよな、と思い始めた頃、もしやという疑問と共に、話の全体像が大きく歪んでくる。そうなのか。いや、でもさ……。

何のことはない。クレアも乗客の1人であって、実際には生存者などいなかった、という話なのだ。つまり、死にきれないクレアやエリックやパイロットなどが、生と死の境界のような場所で繰り広げていた、それぞれの妄想(がそのまま映画になっている)なのだった。

最初、私はこれをクレア1人が作り上げた世界と思ってしまったのだが、そうではないようだ。自分の死が納得できない人間の住む世界を複数の人間で共有しているらしい。そして、死を受け入れられるようになるとその人は消えて、つまり死んでいくわけだ。グループカウンセリングの参加者が減ったのは、陰謀による失踪などではなかったのである。

しかしとはいえ、クレアだけは事故の生存者でなく、カウンセラーになっているのはずるくないだろうか。クレアの場合、他の乗客とは違って死を受け入れる以前に、乗客であることすらも否定していたというのだろうか。そんなふうにはみえなかったし、説明もなかったと思うのだが。

結末がわかった時点で、謎だった人物の素性も判明する。すでに他界してしまった大切な人が、死を受け入れるための手助けに来てくれていたというのだ。うれしくなる心憎い設定なのだが、その人たち(エリックにとっては犬だった)のことを本人が忘れてしまっていては意味がないような気もしてしまう。まあ、気がついてしまうということは、すべてのことがわかってしまうことになるから、他にやりようがないのだろうが。そしてむろん、そのことよりも、何故自分のためにそうまでしてくれたかということを知ることが大切と言いたいのだろう(私としてはトリックの強力な補強剤になっているので、とりあえずは文句を言っておきたかったのだな)。

また、喧嘩をしたことをずっと悔やんでいて、いくら電話をしても連絡がとれないクレアの姉エマについても、ほとんど誤解をしていた(エマも航空機の同乗者だったのではないかと思ってしまったのだ)。電話に出てこないのは、エマが生きている人間だからで、だから最後の場面になるまで(これはもう実際の世界の映像である)、エマはクレアの手紙(「姉さんのいない人生は寂しすぎる」と書かれたもの)を読んでいなかっただけなのだ。

ありもしない世界(そういいきれるのかと言われると困るが)でのことだから、いくらでも話は作れてしまうわけで、それにイチャモンをつけてもキリがないのだが、それよりそんなトリッキーなことをされて腹が立たなかったのは、この作品が、不測の死を迎えることになっても、せめて納得して(仕方がないという納得であっても)死にたいという、大方の人間が多分持っているだろう願望を、具現化してくれたことにありそうだ。

人はすべてを納得して死にたいのではないだろうか。死が幸福であるわけがないが、少なくとも不幸というのとも違うのだよ、と言っているような希有な映画に思えたのである。

と書いてきて、急に気になったことがある。クレアとエリックは死の前の航空機内であれだけ心を通わせていたのに、何故別世界の中ではカウンセラーと生存者という対照的な存在として現れたのだろう。むろんまた2人の心は繋がっていくのだが、でも、ということは、やり直してみないことにはわからないくらいの危うい関係だったのだろうか(って、こんなことは思いつかない方がよかったかも……)。

それに(もうやめた方がいいんだが)、エリックは「事故の後は、まるで生まれ変わったみたいに感じる」と言っていたが、これではクレアとのことはすっかり清算してしまったみたいで、あんまりではないか。ま、それ以上にクレアのことを賞賛して埋め合わせはしていたけれど(クレアもわかっていないのだからどっちもどっちなのだけど)。

考えてみると、エリックは死ななくてはいけないのに「生を実感」しているなんともやっかいな患者なのだった。彼に死を受け入れさせることは、クレア以上に大変だったのかもしれない。そうか、だからクレアは精神科医として(ばかりではないが)現れ、エリックを診てあげる必要があったのだ。というのは、好意的すぎる解釈かしら。それにエリックは、クレアより先に自分たちの立場に気づくから、この解釈は違ってると言われてしまいそうだ。

いままで特別感心したことのなかったアン・ハサウェイだが(好みじゃないってことが一番だが)、この作品では精神科医という役柄のせいもあり、自己抑制のきいた、あるいはきかせようという気持が伝わってくる落ち着いた演技をしていて好感が持てた。

原題:Passengers

2008年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ショウゲート 日本語字幕:松浦美奈

監督:ロドリゴ・ガルシア 製作:ケリー・セリグ、マシュー・ローズ、ジャド・ペイン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン 脚本:ロニー・クリステンセン 撮影:イゴール・ジャデュー=リロ プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:トム・ノーブル 音楽:エド・シェアマー

出演:アン・ハサウェイ(クレア・サマーズ)、パトリック・ウィルソン(エリック・クラーク/乗客)、デヴィッド・モース(アーキン/パイロット)、アンドレ・ブラウアー(ペリー/クレアの上司、先生)、クレア・デュヴァル(シャノン/乗客)、ダイアン・ウィースト(トニ/クレアの隣人、叔母)、ウィリアム・B・デイヴィス、ライアン・ロビンズ、ドン・トンプソン、アンドリュー・ホイーラー、カレン・オースティン、ステイシー・グラント、チェラー・ホースダル

ストリートファイターIV オリジナルアニメーション featuring さくら

新宿ミラノ3 ☆

■セーラー服で格闘!?

4分の短篇アニメだし、絵柄も好きではないし、人気女子高生キャラクター「さくら」といわれても何も知らないし……。なんで採点不能の☆。

卒業したらどうするとか友達と話したり、戦う意味を問われてもいたが(さくらの答えは、自分がどんなふうになるのか確かめること、だったかな?)、ファン以外が見ても何もわからないし、面白くもなんとないフィルム。

セーラー服着て、格闘されてもなぁ。

?年 4分 ?サイズ 制作:スタジオ4℃ 配給:?

総監修:森本晃司

ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー

新宿ミラノ3 ★☆

新宿ミラノ3では字幕版と吹替版の交互上映だった。私が確認した時間帯だと字幕版の圧勝。私はそうこだわっていないが、日本人は字幕が好きらしい。

■怒りを消せ、と言うのだが

大ヒットしたカプコンの対戦型格闘ゲームを元にして作った映画。

ゲームのことは名前しか知らないので、チュンリー(春麗)のキャラクターや彼女がどんな位置づけをされていたのかはさっぱり。もちろんそんなことはわからなくてもいいように映画はできているのだが、話は荒っぽいし、何より見えない力に導かれて、的な要素が強すぎるので、師匠となるゲンを探す過程も、いろいろあったというモノローグで納得するしかなく、興味をそそられるには至らない。

裕福な家庭に育ち、自分もピアニストとして成功していたのに、ある日届いた謎の巻物に隠されていた情報でやってきたバンコクではもう金に困っているって言われてもですねぇ(実際こんなふうに一文で説明されたような気分なのだ)。ゲンを探すためには過去に決別しろ、みたいなことがあって財産を処分したらしいのだが(別れの場面はある)、要するに話の繋ぎが悪いからしっくりこないのだな。ま、そんなであっても手に蜘蛛の入れ墨のある人(スパイダー・ウェブの仲間)が食べ物をくれたりするんだけどね。

やっとゲン(スパイダー・ウェブの元締め?)を探し出すが「怒りが消えたら教える」って、呼び寄せた(?)くせして突き放されてしまう。いや、まあ、それはいいにしても、あとになっても怒りがチュンリーから本当に消えたかどうかはよくわからなかったのだ。というか、真相を知れば知るほど怒りが増して当然と思うし、ゲンにしても怒りの存在がなければ、ベガと闘う根本のところのものがなくなってしまうのではないか。怒りという感情に流されてはいけないという教えなのだろうが、説明がヘタというしかない。

ゲンには特殊な力があって、傷口は塞いでしまうし、ミサイル攻撃にあっても死なないし、そうじゃありませんでしたって、簡単にやり直してしまうところは、ゲーム感覚なんだろうか(映画にするなら、一番マネしてほしくないところだけどね)。

チュンリーに武術の手ほどきをした実業家の父は、彼女が幼い時にベガに拉致され、娘の安全を餌にいいように操られてきたらしいのだが、その父にそれほど長い間利用価値があったのだろうか。他にも曖昧なことが多く、説明はあっても中途半端だから、話は軽くなるばかりである。地元の女刑事にインターポールの刑事などは完璧な添え物で、まあ、本当にひどい脚本なのだ(書き出すのが億劫になってきた)。

が、一番わからないのは、ベガが生まれる前の娘に自分の良心を移してしまったという件。悪人として生きるためには必要なことだったらしい。妊娠している妻の腹を引き裂く儀式めいた場面がむごたらしい。で、その娘が、何でかはわからないのだが(このくらいはちゃんと説明してくれぃ)大きくなってベガの元に帰ってくるのである。いや、これはベガが呼び寄せたのだったか。

どうせなら、純粋培養した良心である実の娘を抹殺することで、さらなる巨悪になれるというような話にでもしてくれれば盛り上がるのだが(自分で書いていて、これいいアイデアじゃん、と自画自賛したくなった)、バンコクの臨海地域の治安を悪くして安値で買い占めたという話までもが、この娘(わざわざホワイト・ローズというコードネームで呼んでいた)が出てきたことでうやむやになってしまっては開いた口が塞がらなくなる。

チュンリーの前で父を殺したベガが、同じ目にあうことになるという結末(そのためだけのホワイト・ローズだったりして。まさかね)になっては、怒りが消えたらという話はどうなったのさ、と突っ込みを入れたくなった。だって純粋培養良心(これは私が勝手にそう呼んでるだけだが)の娘の前での殺害だよー。この娘につけた傷はどうすんだい! 続編に繋がりそうな終わり方をしていたから、今回は「怒りの鉄拳篇」にしておいて、次でそれはどうにかすればよかったのではないかと……。

まあとにかく、事件は解決しまして、チュンリーは怒りからではなく、戦う価値のあるものを見つけたようなんである。けどこのデキじゃ続編は無理かしらね。

アクションシーンはさすがに迫力のあるものだったが、ゲームファンから見たらどうなんだろ。ポスターにある「可憐にして最強」というキャッチコピーは、本当に再現できたら、それこそ黙っていてもヒットしそうなのだが……。アクションシーンもちゃんとこなしていたまあ可愛い(って、褒め言葉になってないか)クリスティン・クルックだけど、可憐となると微妙かなぁ。

原題:Streetfighter:The Legend of Chun-li

2009年 97分 アメリカ シネスコ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、アミューズソフトエンタテインメント 日本語字幕:伊東武司

監督:アンジェイ・バートコウィアク アクション監督:ディオン・ラム 製作:パトリック・アイエロ、アショク・アムリトラジ 製作総指揮:辻本春弘、稲船敬二、徳丸敏弘 脚本:ジャスティン・マークス 撮影:ジェフ・ボイル プロダクションデザイン:マイケル・Z・ハナン 編集:デレク・G・ブレッシン、ニーヴン・ハウィー 音楽:スティーヴン・エンデルマン

出演:クリスティン・クルック(チュンリー)、ニール・マクドノー(ベガ)、ロビン・ショウ(ゲン/チュンリーの師匠)、マイケル・クラーク・ダンカン(バイソン/ベガの用心棒)、タブー(バルログ)、クリス・クライン(ナッシュ/インターポール刑事)、ジョジー・ホー、チェン・ペイペイ、エドマンド・チャン、ムーン・ブラッドグッド

いのちの戦場 ―アルジェリア1959―

新宿武蔵野館3 ★★★

武蔵野館に展示してあったブノワ・マジメルによる映画の写真展写真7枚とオリジナルポスターの一部(写真がヘタでごめんなさい)

■人殺しの戦場

ブノワ・マジメルが立案、主演したアルジェリア戦争映画。映画の最後に「フランスはアルジェリア戦争を1999年まで公式に認めなかった」という字幕が出る。だからこそ「アメリカがベトナムを描いたようにフランスもアルジェリアを描かねばならない」(これは予告篇にも出てきたブノワ・マジメルの言葉)という。アルジェリア戦争を知らない1974年生まれの彼の想いが伝わってくる、真面目な映画である(注1)。

作戦ミスだか無線連絡の食い違いだかで、同士討ちの末死んでしまった前任者(この夜間戦闘場面で映画の幕があく)の後釜として赴任してきたテニアン中尉は、日常的な戦争という不条理を前にして(そのために失敗も繰り返し)次第に理性を失っていく。

妻子持ちの設計技師が何故志願などしたのだろう。後半に、フランスに一時帰郷したテニアン中尉が、ニュース映画を見ている場面が出てくる。スクリーンには、アルジェリアを語って「平和を保証するのは心の交流」という文言が踊っていた。彼はそのスクリーンの文言に、戦場から離れた本国にいて、戦争の何たるかを知らずに、それこそ踊らされて、ゲリラ戦と化しているアルジェリアの山岳地帯(カビリア地方)まで行ってしまった自分を重ねていたはずである。

軍歴の長い下士官をさしおいて、こうやって赴任してくるのは、どこの国にもあることらしい。テニアンがどこまで中尉としての訓練を受けて来たのかはわからないが、着任早々、フランスとフェラガ=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の二重支配下にあるタイダで、多分見せしめなのだろう、井戸に隠れていたアマール少年以外の村人全員が虐殺されるという惨事が起きる。あまりの惨状を前に、部下への言葉が出てこないでいるテニアン中尉に代わって、ドニャック軍曹は「タイダでみたことを忘れるな」と言う(注2)。

タイダのような「立入禁止区域」での戦闘は、毎日がこうした疑心暗鬼の連続で、テニアン中尉は民間人にカモフラージュしたフェラガを見抜けず醜態をさらしてしまうし、常態化している拷問にも耐えられない。そしてまったくいやらしい脚本というしかなのだが、この2つの出来事をあとになってテニアン中尉に同じようにやらせている。女性と少年が怪しいと、彼はもう最初の時のようには深く疑いもせず、間違った射殺命令を出すし(「立入禁止区域」には入った方が悪いので、咎められることはないのだが)止めさせていた拷問にも自ら手を染めてしまう。

ドニャック軍曹が落ち着いて見えるのは、場数を踏んできたことはもちろんだが、部下にもアルジェリア人がいるという複雑な状況下では、割り切るしかないと腹をくくっているからなのだろう。ドニャック軍曹がフェラガから寝返らせたという者もいれば、第二次世界大戦やインドシナで同じフランス兵として戦った者もいる。裏切りが発覚し、しかしその者を「戦友」として許しても、他の者が家族を殺されたから、と撃ち殺してしまう場面がある。植民地支配による長年のねじれた関係が、すべてを一層ややこしくしているのである。

もっともそのドニャック軍曹にしてからが、最後には、軍隊から脱走してしまうのだ。休暇から戻ったテニアン中尉に「何故戻って来たんです。あんたの居場所はない」と言っていたドニャック軍曹だが、すでにその時点でこれは、テニアン中尉にというよりは、自分に言い聞かせていた言葉だったのではないか。

テニアン中尉が軍隊に戻ったのは、自分の家に居場所がないことを知ったからだろう。民間人まで殺してしまった自分の姿を、彼が家族に見せられるはずがない(声をかければ届くところにいたというのに)。狂人の一歩手前にいて、しかし皮肉なことに家族との関係では、自分とのことを正確に把握していたことになる(注3)。拷問場面では、テニアン中尉は狂ってしまったかに見えたが、そうではなかったのだ。ニュース映画の「心の交流」が戦地のどこにあるのかと、正気の心が別のところから問いかけていたのである。

死んだ仲間が撮影したフィルムをクリスマスイブにみんなで観て、最初ははしゃいでいたもののだんだんみんなの声が小さくなって、しまいには泣き出してしまう、というしょうもない(他に何て言えばいいんだ)場面がある。悪趣味な演出に違いないのだが、戦争映画なんて真面目に撮ったら、すべてが悪趣味になってしまいそうだ。

次の日の朝、テニアン中尉はドニャック軍曹の居場所を尋ねていた(すぐ後の彼のモノローグで、彼はこの日脱走したのだという)。彼を探していてのことかどうか、テニアン中尉は山肌に猪の姿を目にする。そして、双眼鏡で何かを見て笑ったその時、撃たれて絶命してしまう。静かで清々しいくらいの景色と笑顔は、せめてもの餞か。けれど、やがて現れた敵兵の中には、あのアマール少年の姿があった。

拷問を止めさせたり、息子の絵を飾っていたテニアン中尉に親近感を持ったアマール少年だが、テニアン中尉が自分を見失ってからは失望し、軍から抜け出してしまったのだった。もっともこれには、アマール少年の兄がフェラガだったという事情もあるようなのだが。

何とも重苦しい映画である。戦っている当人たちが「インドシナとここはまともじゃない」「チュニジアとモロッコは独立を認めたのに。この戦争はFLNが正しい」などと言っているのだ。テニアン中尉は純粋で真面目な人間だったにしても(ドニャック軍曹に言わせると理想主義者で、だから「中尉が死んだのは幸運」ということになる)、どこまで自分の置かれている立場を理解していたのだろうか。

注1:アルジェリア戦争を扱った映画といえば『アルジェの戦い』(1966、日本公開1967)が有名だが、観ていない。あれはイタリア映画だったはずだが、キネ旬データベース(http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=13792)では制作国がフランス、アルジェリアとなっている。これは完全な誤記だろう。

注2:しかしこれはどっちもどっちで、フランス空軍が禁止爆弾のナパーム弾(特殊爆弾と称していた)を使用し、一面黒こげの死体だらけにしてしまう場面がある。近代兵器に分があるのは当然で、アルジェリア戦争の死傷者数は、最後に出てくる数字でも15倍以上の差があった。

注3:沢山の手紙を未開封のままにしていたのは、家族を目の前にして声をかけられなかったのと同じ理由だろう。

原題:L’ennemi Intime

2007年 112分 シネスコサイズ フランス 配給:ツイン 日本語字幕:齋藤敦子

監督:フローラン・シリ 脚本:パトリック・ロットマン 撮影:ジョヴァンニ・フィオーレ・コルテラッチ 美術:ウィリアム・アベロ 音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:ブノワ・マジメル(テリアン中尉)、アルベール・デュポンテル(ドニャック軍曹)、オーレリアン・ルコワン(ヴェルス少佐)、モハメッド・フラッグ(捕虜)、マルク・バルベ(ベルトー大尉/フランス軍情報将校)、エリック・サヴァン(拷問官)、ヴァンサン・ロティエ(ルフラン)、ルネ・タザイール(サイード/フランス軍兵士、アルジェリア人)、アブデルハフィド・メタルシ(ラシード/ドニャックの部下、アルジェリア人)