TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆
■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい
旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。
かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。
チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。
しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。
燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。
宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。
芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。
コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。
そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。
最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。
英題:The King and the Clown
2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵
監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)