王の男

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆

■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい

旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。

かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。

チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。

しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。

燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。

宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。

芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。

コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。

そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。

最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。

  

英題:The King and the Clown

2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
 
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)

敬愛なるベートーヴェン

シャンテシネ1 ★★★★☆

■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる

導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェン(エド・ハリス)のコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエに行くことになる。

1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンに至っては激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。

音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。

女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。

シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。

今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、そうして第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しむつもりでいたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。

この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。

第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。

晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された男(思い込みにしても)と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。

そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナが譜面をベートーヴェンに見せれば、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。

アンナに非礼を詫びることになるベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことには苦言を呈する。

が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはこのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。

いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないとも思わなくもないのだが、これはこの映画を貶めることになるのかも。でないと最期までアンナに音楽を伝えようとしていた病床のベートーヴェンとアンナの場面が台無しになってしまう(それはわかってるんだけどね、私が下品なだけか)。

お終いは、アンナが草原を歩む場面である。ここは彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、アンナという架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。

 

【メモ】

アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。

甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。

原題:Copying Beethoven

2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕

監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
 
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ

インビジブル2

シネパトス2 ★★

■透明だから見せ場も作れない、てか

ライズナー研究所の開いたパーティで起きた不思議な殺人事件を担当していたフランク・ターナー刑事(ピーター・ファシネリ)とリサ・マルチネス刑事(サラ・ディーキンス)だが、国防総省の介入で捜査をはずされ、代わりに女性科学者マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)の警護を命じられる。

マギーは犯人の次の標的らしいのだが、フランクたちには肝腎なことは何も知らされない。半年前に研究所を解雇されている当のマギーも、守秘義務を盾に口を開こうとしない。張り込み中に、姿の見えぬ犯人はリサを殺害。そこへ何故か突入してきた特殊部隊。犯人はマギーに襲いかかるが、混乱の中、なんとかフランクに助けられ車に乗り込む。

あらすじだと緊迫感がありそうだが、映画は平凡な仕上がり。姿の見えぬ犯人=透明人間の怖さがほとんど出ていないのだ。目に見えないのだから、描きようがないのかもしれないが、だったら映画なんか作るな、と言いたくなる。ビデオカメラにうっすらと影が映ることで恐怖を予感させたり、透明人間を映像として捕捉するカメラ(ナイトビジョン搭載ビデオ)も出てくるが、どれもあまり機能していない。透明人間対透明人間の雨の中の決闘という、考え抜いただろう今回最大の見せ場も、不発。さらに言えば、雑踏で透明人間がフランクたちを追いかけるのはまったく無理がある(考えればわかることなのに!)。

やっとのことで犯人を振りきって逃げ込んだ警察でも、マギーを軍に引き渡すように言われるし、特殊部隊の突入にも不信感を抱いていたフランクは、またマギーと共にそこから逃げ出す。そして、マギーの口からもついに真相が……。

5年前の惨事(2000年公開の第1作)によって中断していた研究は、「見えない戦士」に期待を寄せる国防総省の援助のもと、ライズナー博士(デヴィッド・マキルレース)によって引き継がれていた。しかし透明化には、次第に細胞が損傷しついには死に至るという副作用があった。その緩和剤を完成させたのがマギー。だが、被験者となった特殊部隊員のマイケル・グリフィン(クリスチャン・スレイター)には、何故か緩和剤は投与されなかったらしい。そしてマギーには、解雇は緩和剤で死亡したためと説明されていたのだった。

国防総省が自ら出動して警察の動きを封じながら、しかしそれにしては悪玉の陰謀はスケールの小さいものだし、ひねりもない(ひねりすぎが流行った反動?)ものだ。とはいえ、兵器としてではなく、政敵の抹殺が目的というのは案外単純で正しい使い方かもしれない。ただし、このあたりの説明もあっさりしたものだ。

この政敵暗殺計画を語ったのは、第2号被験者というティモシー・ローレンス。彼はすでに瀕死の状態にあり、しかも可視化のだいぶ進んでいるおぞましい姿で登場する。この他にもマギーの妹ヘザー(ジェシカ・ハーモン)に魔の手を伸ばさせたり、なんとか平坦さを避けようとしているが、全体に人間関係に無頓着で深みがないから、用意した状況が生きてこない。フランクといい関係に見えたリサは、簡単にマギーの身代わりになって早々に退場させてしまうし、そのあと、フランクがマギーと近しい雰囲気になっていくあたりもまったくの書き込み不足。

一番怖くて面白い場面は、フランクが追いつめられて透明人間の薬を自分に打つところか。で、このあとグリフィンと対決し彼を殺戮するのだが、これがシャベルで刺し殺すという残忍なもの。今回は製作総指揮ながらポール・ヴァーホーヴェンらしさもうかがえる。

それにしても、グリフィンはどこまでが暴走だったのだろうか。透明人間より制御不能人間部分に重みをおいた方が、数段面白い作品になったはずだ。続編を暗示して終わった(次作はフランクの暴走か!)が、もう観ないかも。

クリスチャン・スレイター(最近活躍してないよね)は、ほとんど顔を見せることがなかったが、透明人間場面のギャラはもらえるのだろうか。

原題:Hollow Man 2

2006年 91分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:加藤リツ子

監督:クラウディオ・ファエ 製作:デヴィッド・ランカスター、ヴィッキー・ソーサラン 製作総指揮:ルーシー・フィッシャー、ポール・ヴァーホーヴェン、ダグラス・ウィック、レイチェル・シェーン キャラクター創造:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ 原案:ゲイリー・スコット・トンプソン 脚本:ジョエル・ソワソン 撮影:ピーター・ウンストーフ 視覚効果スーパーバイザー:ベン・グロスマン プロダクションデザイン:ブレンタン・ハロン 編集:ネイサン・イースターリング 音楽:マーカス・トランプ
 
出演:ピーター・ファシネリ(フランク・ターナー刑事)、ローラ・レーガン(マギー・ダルトン博士)、クリスチャン・スレイター(マイケル・グリフィン)、デヴィッド・マキルレース(ライズナー博士)、ウィリアム・マクドナルド(ビショップ大佐)、サラ・ディーキンス(リサ・マルチネス刑事)、ジェシカ・ハーモン(ヘザー・ダルトン)、ソーニャ・サロマ

プラダを着た悪魔

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■ファッションセンスはあるのかもしれないが

ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、何故か一流ファッション誌「ランウエイ」のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のセカンドアシスタントに採用される。大学では学生ジャーナリズム大賞もとった優秀なアンディだが、ファッションには興味がないし(どころか見下してもいた)、「ランウエイ」など読んだことがなく、世間では憧れの人であるミランダのことも知らないという有様。話を面白くしているのだろうが、ここまでやるとアンディがお粗末な人になってしまっている。

腰掛け仕事のつもりでいたアンディだが、ミランダの容赦のない要求に振り回され、ジャーナリストとはほど遠い雑用の毎日を送ることになる。が、次第にプロとしての自覚が出て、という話はありがちながら、わかりやすくて面白い。

ミランダの悪魔ぶりとアンディの対応。冷ややかな目の周囲と思いきや、案外心遣いのある先輩たち。アンディの負けん気は、当然仕事か私生活かという問題にもなるし、仕事絡みで一夜のアバンチュールまで。ミランダの意外な素顔に、思いがけない内紛劇。1つ1つに目新しさはないものの、次から次にやってくる難題が、観ている者には心地よいテンポになっている。

だからアンディと同じような、ファッションに興味のない人間も十分楽しめる。が、サンプル品(でもブランド品)で着飾ったアンディより、おばあちゃんのお古を着ているアンディの方が可愛く見えてしまう私などには、車が横切ったり建物に隠れたりする度に、違う服で現れるアンディという演出は効果がない(それに着飾っただけで変わってしまうのだったら安直だ)。

そんな街角ファッションショーはどうでもいいが、ミランダが毛皮などをアンディの机に毎度のように乱暴に置いていくのは気になってしかたがない。ミランダがただの悪魔ではなく、部下の資質ややる気などを試し、そして育てようとしていることを伝えたいのだろう。それはわかるのだが、細かい部分で文句付けたいところがあっては、悪魔の本領を発揮する前に品格を問われてしまうことになる。

自分の(双子の)子供にハリーポッターの新作を誰よりも先に(出版前に)読ませたい、という難題をアンディに課すのは公私混同でしかないし、なによりミランダには食べ物に対するセンスが欠けている。職場にステーキやスタバのコーヒーを持ち込ませて、果たしておいしいだろうか。予定が変わって、あの冷めたステーキは食べずにすんだようだが、頭に来たアンディがそれをごみ箱行きにしてしまうのは、食べ物を粗末にするアメリカ人をいやというほど見せつけられているからもう驚きはしないが、やはりがっかりだ。

アンディの私生活部分がありきたりなのもどうか。ネイト(エイドリアン・グレニアー)との関係がもう少しばかり愛おしいものに描けていればと思うのだが、それをしてしまうとクリスチャン(サイモン・ベイカー)とパリで寝てしまうのが難しくなってしまうとかね。クリスチャンに誘われて、「あなたのことはよく知らないし……異国だし……言い訳が品切れよ」と言っていたが、こういうセリフはネイトと一緒の場面にこそ使ってほしい。それにしてもこういう女性のふるまいを、ごんな普通の映画でもさらっと描く時代になったのか、とこれはじいさんのつまらぬ感想。

また、アンディにミランダとの決別を選ばせたのは、サクセスストーリーとしてはどうなのだろう(仕事を投げ出すことは負けになってしまうという意味で)。ま、これがないとミランダがアンディのことをミラー紙にファクスで推薦していてくれていたという、悪魔らしからぬ「美談」が付けられないのだけどね。

文句が先行してしまったが、離婚話でアンディにミランダの弱気な部分を見せておいて(仕事に取り憑かれた猛女と書かれるのはいいが、娘のことは……と気にしていた)、最後に危機をしたたかに乗り切る展開は鮮やかだ。アンディの心配をよそにちゃんと手を打っていたとは、さすが悪魔。一枚上手だ。ただ、とまた文句になってしまうが、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の昇進話とこの最後のからくりの繋がりは少々わかりづらかった。

先輩アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)の挿話もよく考えられたもので納得がいく。ミランダがナイジェルにした仕打ちをアンディがなじると、あなたもエミリーにもうやったじゃない、と切り返される場面では、仕事の奥深さ、厳しさというものまで教えてくれるのである。

  

【メモ】

見間違いかもしれないが、久々にスクリーンプロセス処理を観たような。

原題:The Devil Wears Prada

2006年 110分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督:デヴィッド・フランケル 製作:ウェンディ・フィネルマン 製作総指揮:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、カーラ・ハッケン、カレン・ローゼンフェルト 原作: ローレン・ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』 脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール 衣装デザイン:パトリシア・フィールド 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ
 
出演:アン・ハサウェイ(アンドレア・サックス)、メリル・ストリープ(ミランダ・プリーストリー)、エミリー・ブラント(エミリー)、スタンリー・トゥッチ(ナイジェル)、エイドリアン・グレニアー(ネイト)、トレイシー・トムズ(リリー)、サイモン・ベイカー(クリスチャン・トンプソン)、リッチ・ソマー(ダグ)、ダニエル・サンジャタ(ジェームズ・ホルト)、レベッカ・メイダー、デヴィッド・マーシャル・グラント、ジェームズ・ノートン、ジゼル・ブンチェン、ハイジ・クラム

鉄コン筋クリート

新宿ミラノ3 ★★☆

■絵はユニークだが、話が古くさい

カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。

この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。

ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。

旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。

だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。

たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。

題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。

  

【メモ】

もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。

2006年 111分 サイズ■ アニメ

監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
 
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)

無花果の顔

シネマスクウェアとうきゅう ☆

■わかりたくもない桃井ワールド

部下のやった手抜き工事を直す工務店勤めの父親(石倉三郎)。近所のようだったのに、わざわざウイークリーマンションまで借りて、しかも配管は複雑でも大した工事とは思えないのだが、こっそりやる必要があるからなのか、夜間だけ。でも、バレるでしょ。マンションの窓越しに見える女(渡辺真起子)が気になって仕方がなかったが、工事が終わってしまえばそれっきりである。「おとうさんが帰ってくるとうるさくていいわ」と、それなりにウキウキの母(桃井かおり)。でもその父に突然の死がやってきて……。

葬式で様子のおかしい母であったが、物書きになった娘(山田花子)と東京タワーの見えるマンションで暮らしだす。時間経過がよくわからないのだが、勤めだした居酒屋の店長(高橋克実)にプロポーズされてあっさり再婚し、新居に越していく。何故かそこに、前の家にあった無花果の木を植え(家はまだ処分していなかったのか)、前夫の遺品を埋める。娘は不倫のようなことをしていたようだが、子供を生む。

家族のあり方、それも主として母(妻)の置かれている立場を描いたと思われる。しかし、何が言いたいのかはさっぱりわからない。

例えば最初の食事の場面から家族がだんだんと消えていき、無花果の木に残されたカメラに向き合う母という構図で、彼女の見えない孤独を提示していたのかもしれないのだが、しかしこの場面を削ったり入れ替えたりしても、全体としてそうは影響がなさそうだ。そして、他にもそう思える場面がいくつもあるのだ。映画というのは単純に時間から判断しても相当凝縮された空間のはずで、本来削除できない場面で構成されるべきものと考えると、これはまずいだろう。

題名、演技、撮影、照明、小道具と、何から何まで思わせぶりだから退屈することはないが、それでも最後にはうんざりしてくる。人工的な色彩だろうが、ヘンな撮り方をしようが、わざと不思議な寝方や死体の置き方をさせようが、それはかまわない。でも、納得させてほしいのだ。すべてがひとりよがりの域を出ていないのでは話にならない。

興味の対象が違うだけとは思うが、普通の映画のつくりをしていないことは逃げにもなるから致命傷になる。わかりやすい映画だけがいいとは言わないが、少なくともわからない部分を解き明かしたくなるようには創ってもらいたいと思うのだ。

 

2006年 94分 サイズ■

監督・原作・脚本:桃井かおり 製作:菊野善衛、川原洋一 エグゼクティブプロデューサー:桑田瑞松、植田奈保子 統括プロデューサー:日下部哲 協力プロデューサー:原和政 撮影:釘宮慎治 美術:安宅紀史 美術監督:木村威夫 衣装デザイン:伊藤佐智子 編集:大島ともよ 音楽プロデューサー:Kaz Utsunomiya VFXスーパーバイザー:鹿角剛司 スーパーバイザー:久保貴洋英 照明:中村裕樹 録音:高橋義照 助監督:蘆田完 アートディレクション:伊藤佐智子
 
出演:桃井かおり(母)、山田花子(娘)、石倉三郎(父)、高橋克実(新しい父親)、岩松了(男)、光石研(母の弟)、渡辺真起子(隣の女)、HIROYUKI(弟)

スキャナー・ダークリー

シネセゾン渋谷 ★★★

■ロトスコープアニメ=ドラッグの世界?

まず驚くのが実写映像を加工してアニメにしていることで、キアヌ・リーヴスがちゃんとキアヌ・リーヴスに見えることだ(すでに予告篇で圧倒させられていたが)。珍しくも買ったプログラムを読むと、この技術はロトスコープと呼ばれるもので、これには相当手間暇をかけているらしい。

よくわからないのだが、このアニメを作るには実写が必要で、ってことは実写版が存在する!? 確かに巻頭のチャールズ・フレック(ロリー・コクレイン)の体を虫が這い回る場面などはアニメ向きといえなくもないが、でも他の部分でかかる作業をここに振り向ければCGでもかなりのものができたのではないか。あとはスクランブル・スーツの表現だが、これも同じことが言えそうだ。

そして、このロトスコープによって出来た映像はアメリカン・コミックスの質感を思わせる。私にとってアメコミは、たまに見ると総体としては新鮮なものだが、個々のキャラクターとなるとすべてが似た質感で無個性にしか見えない。ロトスコープも同じで、最初のうちこそその効果は絶大だが、次第に疲れてしまっていた。単独に1枚1枚の絵として見ているぶんにはいいんだけどね。

はじめから焦点が合ったり合っていない部分のある普通の映像の方が(もちろん全体に合っているものもあるが)、目線の移動に合わせて焦点も自然に合わせてしまう人間の目よりは不自然なのに、感覚的には自然なのは面白い。焦点が映画の意思であるということを体験的に覚えてしまっているのだろうし、単純に慣れてしまっているからだろうか。これは普通のアニメとの比較でもいえることだが、ロトスコープだとそれがより顕著になるようなのだ。

映画の舞台は、麻薬の蔓延した「現在から7年後」のカリフォルニア州アナハイム。なかでも猛威をふるっているのが、依存性が強く、常用が進むと右脳が左脳を補おうとして認知障害を起こす「物質D」で、政府はこの撲滅に躍起となっていた。

ボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)は、覆面麻薬捜査官として自ら物質Dを服用、彼の自宅は今やジャンキーたちの巣と化すまでになっていた。覆面捜査官は署内や上司にも正体を知られてはならず、刻々と顔や声のパターンが変化するスクランブル・スーツなるものを身につけ、アークターはフレッドというコード名で呼ばれていた。つまり彼にとっても上司が誰なのかがわからないというのがミソとなっている。

アークターは、巻頭に登場したフレック(すでに物質Dにかなり犯されていて、しばしば虫の幻覚に襲われる)、ジム・バリス(ロバート・ダウニー・Jr.)、アーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)のジャンキー共同生活者を監視。さらに恋人関係になった売人のドナ(ウィノナ・ライダー)に大量に物質Dを注文し、密売ルートを探ろうとするが、アークターを疑ったバリスのたれ込みもあって、アークターは自分を監視するように上司から命令されてしまう。

究極の監視社会を象徴するような光景だが、アークターは結局物質Dにやられ、果てはニュー・パスと呼ばれる更生施設に送られることになる。その過程で、アークターの上司がなんとドナであり、ニュー・パスが更生施設どころか物質Dの栽培農場だということが判明する。

これは一体どういうことなのだろう。ホロスキャナーといわれる常時監視盗聴システムで24時間休むことなく監視された映像を分析しているにもかかわらず、覆面捜査官まで送り込む異常さに、この設定はちょっとあんまりだと思ったものだが、ドナの正体がわかってみると、5人の監視対象のうち2人までもが覆面捜査官ということになってしまうではないか。

アークターが物質Dによる症状がどこまで出ているかというテストを受けさせられることや、ニュー・パスの正体も含めて、登場人物は、結局政府の自作自演物語に踊らされているだけというオチなのだろうか。そして、数人で相互監視をする社会がすでに成立しているのかもしれない。が、その目的などが明示されることはない。情報を知っているのは食物連鎖の上の者だけ、などというセリフはあるが、それ以上のことは何もわからない。

この構図は確かに怖いのだが、ロトスコープアニメの映像が現実に似て現実でないのと同様に、現実離れしすぎていて実感をともなわない。アークターではないが、監視が幻想かもしれないと思い出すと、映画全体がドラッグの世界ということもなってくる。そうか、そのためのロトスコープアニメとか。いや、まさかね。

映画の最後には「これは行いを過度に罰せられた者たちの物語。以下のものに愛をささげる」という字幕のあとに何名もの名前が続く。そして「彼らは最高の仲間だった。ただ遊び方を間違えただけ。……フィリップ・K・ディック」。原作はディックの実体験が生んだ作品とのことだ。しかしそれにしては、ここに出てくるジャンキーたちは簡単に仲間を売ったりするし、自分勝手な御託を並べているだけで、愛すべき存在には見えないた。紅一点のドナにしても、恋人のアークターが肌に触れるのも拒否していた(コカイン中毒によるものらしいのだが)し、「あなたはいい人よ。貧乏くじをひいただけ」というセリフにしても、冷たい感じがしてならなかったのだが。

  

原題:A Scanner Darkly

2006年 100分 ビスタサイズ アメリカ R-15 日本語字幕:野口尊子

監督・脚本:リチャード・リンクレイター 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、トミー・パロッタ、パーマー・ウェスト、ジョナ・スミス、アーウィン・ストフ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、ジョン・スロス、スティーヴン・ソダーバーグ、ベン・コスグローヴ、ジェニファー・フォックス 原作:フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』 撮影:シェーン・F・ケリー プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:カリ・パーキンス 編集:サンドラ・エイデアー アニメーション:ボブ・サビストン 音楽:グレアム・レイノルズ
 
出演:キアヌ・リーヴス(ボブ・アークター/フレッド)、ロバート・ダウニー・Jr(ジム・バリス)、ウディ・ハレルソン(アーニー・ラックマン)、ウィノナ・ライダー(ドナ・ホーソーン)、ロリー・コクレイン(チャールズ・フレック)

イカとクジラ

新宿武蔵野館 ★★★★

■この家の子だったらたまらない

1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。

冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。

共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。

バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。

子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。

悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。

「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。

最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。

(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。

 

【メモ】

オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。

原題:The Squid and The Whale

2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
 
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー

硫黄島からの手紙

新宿ミラノ1 ★★★

■外国人スタッフによる日本映画

この作品が第二次世界大戦における硫黄島の戦いを描いた2部作で、アメリカ側の視点である『父親たちの星条旗』と対をなす日本側の視点を持つ作品であることは当然わかってはいたが、タイトルまでが日本語で出てきたのには驚いた(向こうの公開時ではどうなのだろう)。ついでながら『父親たちの星条旗』は特異な作品だから、この作品と合わせ鏡になることはない。つまり、こちらは表面的には普通の作品となっている。

スタッフはすべてアメリカ人(日系の脚本家などはいるが)ながら、俳優はともかくとしてセリフまでが日本語というのは、これまでのアメリカ映画から考えると画期的だ(『SAYURI』にはそういう面が少しあった)。どこの国の話でも英語のまま作ってしまう無頓着さにあきれていたからだが、しかし例えば日本の映画会社が日露戦争や日中戦争などを、相手国の視点で、しかも劇映画(興行としては少なくとも赤字であってはならない)で撮ろうとすれば、それが相当困難だという結論にすぐ達するはずである。

そして、内容的にも日本人の心情をかなり代弁してくれているという、心憎いものとなっている(日本のマーケットがあるからという発想もあったか)。多用された回想部分はクリント・イーストウッド監督らしからぬ情緒的なものが多いので、日本人が作ったといわれても違和感がないくらいなのだ。

気になる部分をしいて上げるなら、アメリカ留学経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)とロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリストの西竹一中佐(伊原剛志)が共に西洋かぶれだということぐらいか。もちろんそんなふうには描かれていない。少し意地悪く言ってみただけだ。敵を知る人間が日本にもいたというところか。逆に、ほとんどの兵は敵を知らずに戦っていたのだと、映画は繰り返していた。

そして、だからこそ最後に天皇陛下万歳と叫びながら玉砕する栗林中将の姿に、複雑な思いが交錯することになる。ただ、西中佐が馬を連れて硫黄島にやって来ているというのは、どうもね。馬が可哀想だし、他に運ぶべきものがあったのでは、と思ってしまうからだ。

そうはいっても栗林中将を中心とした守備隊の上層部の視点だけでなく、西郷(二宮和也)や清水(加瀬亮)といった一兵卒に目が向けられているのは、映画を2部作としてアメリカ側と日本側から描いたのと同じ配慮だろう。とくに西郷にはかなりの時間を割いていて、彼が着任早々の栗林の体罰禁止令によって救われ、2度、3度と接点を持って最後の場面に至るあたりは映画的なお約束となっている。映画は2005年に硫黄島で大量の手紙が発見される場面ではじまるが、映画の中では手紙を書くのは西郷と栗林の2人で、そういう意味でも2人が主役ということになるだろうか。

もちろん一兵卒の西郷に劇的なことなどできるはずもなく、穴掘りに不満をぶつけ、内地に残してきた身重の妻に思いを馳せる場面にしかならないが、絶望という地獄の中で生き続けようとする彼の姿(見方を変えると自決も出来ず、投降も辞さない愛国心のない頼りない男ということになる)をなにより描きたかったのだろう。

対して栗林は、着任早々旧来の精神論的体制を合理的なものに改め、戦法も水際に陣地を築くというやり方から島中に地下壕を張り巡らせるという方法をとるなど、指揮官故に見せ場も多い。もっとも無意味な突撃や自決も禁じたため、西中佐のような理解者も現れるが、古参将兵からは反発を買うことになる。

伊藤中尉(中村獅童)がその代表格で、アメリカの腰巾着で腰抜けと栗林を評し、奪われた摺鉢山を奪還するのだと、命令を無視して逸脱した行動に出る。が、無謀なだけの精神論でそれが果たせるはずもなく、最後はひとり死に場所を求めてさまようのだが、ここらあたりから自分が何をしているのかわからなくなっていく。

おもしろいことに映画の描き方としてもここは少しわかりにくくなっている(これは嫌味)のだが、西郷と同じところに配属されてきた元憲兵の清水の運命と考えあわせると、ここにも戦争(に限らないが)というものの理不尽さをみることができるだろう。捕虜を殺してしまう米兵、自決が強要される場面や西中佐が米兵の手紙を読む挿話など、すべてがその理不尽さに行き着く。

しかし実をいうと、2部作としての意義は認めるものの、私には凡庸で退屈な部分も多い映画だった。そして『父親たちの星条旗』と同じく、この作品でも(つまり両方の作品を観ても)硫黄島の戦いの全貌がわからないという不満が残った。もちろんこれはイーストウッドと私の興味の差ではあるが、できれば情緒的な挿話は少し減らしてでも、客観的事実を配すべきではなかったか。そのことによって日本兵のおかれていた立場の馬鹿馬鹿しさが際だったはずだし、画面にも緊迫感が生まれたと思うからだ。

 

【メモ】

「家族のためにここで戦うことを誓ったのに、家族がいるからためらう」(西郷のセリフ)

原題:Letters from Iwo Jima

2006年 141分 シネスコ アメリカ

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ポール・ハギス 原作:栗林忠道(著)、吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
 
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(バロン西/西竹一中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)、裕木奈江(花子)

パプリカ

テアトル新宿 ★★★☆

■現実を浸食する夢、と言われてもねぇ

DCミニは、精神医療研究所の巨漢天才科学者の時田浩作が開発した、他人の夢に入り込んで精神治療を行う器具だ。頭部に装着したもの同士が夢を共有できるというもので、完成すれば覚醒したまま夢に入っていけるようになるらしいが、うかつにもこれが悪用されることまでは考えていなかったようだ。

時田の同僚でサイコ・セラピストの千葉敦子は、そのDCミニを使って「パプリカ」という仮の姿になり、刑事の粉川利美を治療していた。粉川は所長の島寅太郎とは学生時代からの友人で、まだDCミニが極秘段階ながら、その治験者となっていたのだ。

そして、まだアクセス権も設定していないDCミニ3機が盗まれるという事件が起きる。実はここの理事長乾精次郎は、DCミニは夢を支配する思い上がりと、開発には反対の立場。理事長に知られないうちになんとかしなければと、島、時田、千葉の3人が協議をはじめるが、それをあざ笑うかのように何者かが島に入り込み、島は思いもよらぬ行動を取り始める。

島はもちろん覚醒しているしDCミニは装着していない。いきなり前提を覆す展開だが、これについては少しあとに千葉が氷室の夢に侵入されたことで、DCミニにあるアナフィラキシー効果がそういうことも可能にするかもしれない、と時田に言わせて一件落着。ようするに何でもありにしてしまっているのだが、そう思う間もなく、夢と現実が入り交じった世界が次々と現れる。開発者すら予測がつかない、ということもサスペンス的要素としてあるのだろうが、これはちとズルイではないか。

島の夢の分析から、時田の助手の氷室を割り出したり、千葉がパプリカになって島を救うのは流れからして当然にしても、アナフィラキシー効果は何故パプリカには出ないのだろう。それも含め、ここからの展開は急だし、現実が夢に浸食されだすこともあって、話に振り回されるばかりだ。氷室の自殺未遂で警察が動きだし、粉川刑事が担当になって、彼の夢だか過去にまで話が及ぶからややこしいことこの上ない。

そのくせ話はえらくこぢんまりしていて、犯人探しは理事長に行き着く。しかし、理事長はDCミニを毛嫌いしていたのでは。いや、だから「生まれ変わった」と言ってたのか。自分が夢や死の世界も自在にできるようになり、新しい秩序が私の足下からはじまると思い込んでしまったって。でも、だったら、この部分はもっときっちり描いてくれないと。

もっともそうはいっても夢を具現化したイメージはすごい。わけのわからないパレードの映像だけでも一見の価値がある。これは、アニメでなくては表現できないものだ。ただ私の場合、夢の映像って対象以外はほとんど見えていないことが多い。すべてが鮮明な夢というのを見たことがないので、そういう意味では違和感があった。

それと、ここには恐怖感がないのだ。だから大きな穴を前に「繋がっちゃったんですよ、あっちの世界とね」と言われても、そうですか、と他人事な感じ。言葉として理解しただけで。確かに夢が去って、イメージの残骸は消えてしまうものの廃墟は残る場面では、なるほどとは思うのだが。

だから結局何が言いたかったのかな、と。映画への偏愛(犯人を検挙できないことと並んで粉川刑事のトラウマとなっていたもの)と、科学オタクへの応援歌だったり? だって最後に千葉が時田に恋していたっていうのがわかるのがねー。「機械に囲まれてマスターベーションに耽っていなさい」なんて言っていたっていうのにさ。それが急に「時田君を放っておけない」なんて。母性愛みたいなもの? まあ、どっちにしろ、時田もだけど現実の方の千葉も、私にはあまり魅力的ではなかったのだな。

ただ夢の中のパプリカが、冷たい印象(才色兼備と言わないといけないのかなぁ)のする現実の千葉とは違って、孫悟空やティンカーベルのイメージになって楽しげに振る舞っているのは面白かった。治療している当の千葉が、夢の中では自分自身が解放されていたのだろうか。

「抑圧されない意識が表出するという意味ではネットも夢も似てる」という指摘があったが、本当に夢に現れるのは抑圧されない意識なのだろうか。それに、だとしても夢にそれほどの重要性があるのか、とも。

  

2006年 90分 アニメ ビスタサイズ 

監督:今敏 アニメーション制作:マッドハウス 原作:筒井康隆『パプリカ』 脚本:水上清資、今敏 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 撮影監督:加藤道哉 美術監督:池信孝 編集:瀬山武司 音楽:平沢進 音響監督:三間雅文 色彩設計:橋本賢 制作プロデューサー:豊田智紀
 
声の出演:林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、古谷徹(時田浩作)、江守徹(乾精次郎)、 堀勝之祐(島寅太郎)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三(ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今敏(陣内)

武士の一分

新宿ジョイシネマ1 ★★★

■武士の一分とは何か

最初に毒味役についての説明が字幕で出る。「鬼役」という別名があることは知らなかったが、このあと丁寧なくらいに毒味場面が進行するから、説明はまったく不要だ。言葉としても推測可能と思うのだが。対して「一分」がわかる現代人はどれほどいるだろうか。新明解国語辞典には「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳」とある。広辞苑では「一人の分際。一身の面目、または職責」だ。ふーん。あ、よくわかっていないことがバレてしまったか。いや、何となくは知ってたのだけどさ。

東北の小藩で三十石の下級武士である三村新之丞(木村拓哉)は、毒味役に退屈しきっていたが、その毒味の場で毒にあたって失明してしまう。この時代に失明することがいかに大変なことか。新之丞は命を絶とうとするが、妻の加世(檀れい)に、死ねば自分もあとを追う、と言われては思いとどまるしかない。実入りは減っても「隠居して、道場を作って子供に剣を教えたい」などと、中間の徳平(笹野高史)に話していたのに。

親戚連中が集まっての善後策は、全員が面倒を見たくないだけだから、ろくな話にならない。叔母の以寧(桃井かおり)も、失明という事実が判明するまではただの口うるさいおっせかいと片付けられたのだが。

誰かの口添えで少しでも家禄をもらえるようにするしかないという無策な結論に、加世はつい先日声をかけてもらった島田藤弥(坂東三津五郎)を思い出し、屋敷を訪ねる。藩では上級職(番頭)の島田は、加世には嫁入りする前から想いを寄せていて、チャンスとばかりに加世を手篭めにしてしまう。

物語の進行は静かだ。時間軸が前後することもほとんどない(加世の回顧場面くらいか)。新之丞の暮らしぶり、加世との仲睦まじいやり取り、父の代から仕える徳平とにある信頼関係と、事件が起きる前、そこにあるのは平和ボケともいえる風景である。なのに5人も毒味役がいて大仰なことよ、と思ったがこれは食材によって割り当てが違うことによる。

もっとも新之丞が毒にあたったことで、城内は戒厳令が布かれたかと思うほどの大騒ぎとなる。赤粒貝という危険な食材を時期もわきまえずに使ったことがわかって一件落着と思いきや、上司の樋口作之助(小林稔侍)の切腹というおまけがつく。居眠りばかりしていて、年をとったと新之丞たちにささかれるような樋口ではあったが、一角の武士だったのだ。

毒にあたった場面での新之丞の行動が不可解だ。毒味役ならば異変に気付いた段階ですぐ申し出なければならないはずなのに、大丈夫などと言っているのである。新之丞は何恰好をつけているのか。他に説明もなくこれで終わってしまうのだが、どう考えてもおかしい。事実、藩主は食事を口にする寸前だったのだ。これだと、家名存続、三十石の家禄はそのままで生涯養生に精を出せという「思いもかけぬご沙汰」には繋がらないではないか。

ねぎらいの言葉があるということで新之丞は久々に登城し、廊下のある庭で藩主を待つ。この場面がいい。藪蚊の大群と闘いながら、同僚(上役か)と2人で座して延々と待つのだが、やっと現れた藩主は新之丞たちを目に止めるでもなく「御意」と言い残しただけですたすたと消えてしまうのである。この歯牙にもかけぬ振る舞いに、馬鹿殿様と観客にも思わせておいて、あとで、新之丞の事故は職務上のこと故、と見るべき所はちゃんと見ていたのだよ、という演出だ。

そう、「思いもかけぬご沙汰」は島田の口添えからではなく、藩主の意思だったのである。このこととは別に、以寧の告げ口から加世の行動(島田にあのあとも2度も呼び出されていた)に疑念を抱いた新之丞は、徳平に加世を尾行させる。詰問した加世からすべてが語られるが、俺の知っている加世は死んだと離縁(新之丞はまだこの時、口添えではなく、藩主直々の裁可であったことは知らない)、島田との果たし合いへと進んでいく。

いくら新之丞が剣の達人といっても今や盲目。しかも相手は藩の師範でもある。師匠の木部孫八郎(緒形拳)の道場で執念の稽古にも励むが、勝ち目があるとはとても思えない。新之丞のただならぬ気迫を感じ取った木部は、事情によっては加勢を、と申し出るが、新之丞は「勘弁してくんねぇ、武士の一分としか」と答えるのみ。

期待を高めておいて、しかし、決闘場面はつまらないものだった。がっかりである。腕を切られた島田は、事情を誰にもうち明けることなく切腹。「あの人にも武士の一分があったのか」となるのだが、そう言われてもねぇ。

新之丞の武士の一分も、理由はともかくようするに私憤にすぎず、だからといって助太刀を断ったことだけをいっているとも思えない。島田に至っては事情など証せるはずもなく、しかしあの傷のまま何も語らないではすまないだろうから、生き恥をさらすよりはまし程度であって、それが果たして武士の一分といえるようなものなのか。武士の一分が、潔い死に方というのなら(違うか)この場合は説明がつくが、それだと「必死すなわち生くるなり」で島田にむかっていった新之丞は?と何もわからなくなる。もはや武家社会そのものが面倒で、現代人には理解不能なものともいえるのだが。

このあとは徳平のはからいで身を隠していた加世が、芋がらの煮物を作ったことで、新之丞の知るところとなり……という結末を迎える。

いい映画なのに、タイトルにこだわったことでアラが目立ってしまった気がするのだ。加世にしても徳平に尾行されているのを知っていたのなら、何故その時点で白状してしまわなかったのか。それと新之丞の行動は、加世を大切に思ってというよりは、自分本位な気がしなくもない。これでも江戸時代の男にしては上出来なのだろうが。

  

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:山田洋次 原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』 脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎 撮影:長沼六男 美術:出川三男 衣裳:黒澤和子 編集:石井巌 音楽:冨田勲 音楽プロデューサー:小野寺重之 スチール:金田正 監督助手:花輪金一 照明:中須岳士 装飾:小池直実 録音:岸田和美
 
出演:木村拓哉(三村新之丞)、檀れい(三村加世)、笹野高史(徳平)、坂東三津五郎(島田藤弥)、岡本信人(波多野東吾)、左時枝(滝川つね)、綾田俊樹(滝川勘十郎)、桃井かおり(波多野以寧)、緒形拳(木部孫八郎)、赤塚真人(山崎兵太)、近藤公園(加賀山嘉右衛門)、歌澤寅右衛門(藩主)、大地康雄(玄斎)、小林稔侍(樋口作之助)

めぐみ-引き裂かれた家族の30年

銀座テアトルシネマ ★★★

■まだ、何も終わっていない……

北朝鮮による拉致問題のことを考えると陰鬱になるばかりだ。実は、拉致被害者や肉親を奪われた家族について、なんとか絞り出して書いてはみたのだが、どれも言葉が上滑りしているものばかり。というわけで、それは割愛し(というほど大それたことは書いてないか)、いきなり注文めいたことを書くことにする。

外国人監督(アメリカ在住のジャーナリスト夫妻)によるこの映画が、どの程度の反響を呼んでいるのかは知らないが、拉致を世界に知らしめるものとしての意味は、とてつもなく大きいものがあるはずだ。そのことは大いに評価したい。

ただ、映画をひとつの作品としてみると物足りなさが残る。普通の日本人なら、かなりの部分はすでに新聞やテレビ等で知っていることだからだ。私の今回の新知識としては、大きなものでは、当時産経新聞記者(拉致事件をいち早く取り上げた)だった阿部雅美の証言と、テレビの小川宏ショーでの映像(1979年。ワイドショーでの取り上げられ方自体が「家出人捜索」となっている)くらいだろうか。

これは多分この映画が、日本人以外の観客を対象にして撮られたからだろう。しかしたとえば、世論も政府の対応もはじめのうちは冷たかったというあたりや、運動(家族会などの)は一枚岩だったのか、などの掘り起こしがあれば、もっと興味深いものになったと思われる。が、それをやりだすと、拉致問題を知らない人用の入門映画としては混乱してしまうだろうか。

映画は、創作部分はイメージ映像程度にとどめ、ドキュメンタリーとしても抑えた作りになっている。「政治的な問題でなく、人間的な物語として描きたかった」と監督が言っているように、北朝鮮糾弾というふうでもない。もっとも拉致という事実さえ描けば、それだけで北朝鮮の犯罪は明らかなのだから、この姿勢は成功している。

印象的に使われていたのが、画面に流れる歌だ。めぐみさんの友人(だったか?)の、もの悲しい歌声が耳に残るし、テープに残る小学生だっためぐみさん自身の歌声にもはっとさせられた。「慣れし故郷を放たれて、胸に楽土求めたり」(「流浪の民」シューマン作曲、石倉小三郎訳詩)という歌詞が、偶然とはいえあまりに皮肉だからだ。

川辺でよりそうようにして仲睦まじくみえる横田夫妻のほか、場面は少ないながら「本に書いてあることを自分が見聞きしたように語ってはいけない」と妻に意見する夫や、信仰についての考え方の相違も垣間見られて、覗き趣味人間としてはそのあたりをより知りたくなるが、映画が節度を忘れていないのは当然だ。

それにしても駅頭で暴言を吐きながら署名活動の板を叩くようにして去る人を見るのは悲しい。闘うべき敵は多いのだなと実感させられる。そんな中での横田夫妻の努力と執念には、こちらが励まされた気分になってくる。そして、どうしたらあんなに毅然としていられるのかとも。

横田夫妻にとっては、まだ何も終わっていないのだ。

【メモ】

めぐみさんが失踪したのは1977年11月15日の朝。

産経新聞の記事は1980年1月7日。「アベック3組謎の蒸発」という見出しで、外国諜報機関関与の疑いを報道。

(2007.1.11追記) この映画は8日に国連本部で上映され、在米カナダ人クリス・シェリダン監督夫妻の質疑応答があった。

原題:Abduction: The Megumi Yokota Story

2006年 90分 ビスタサイズ アメリカ

監督・製作:クリス・シェリダン、パティ・キム 製作総指揮:ジェーン・カンピオン 脚本:クリス・シェリダン、パティ・キム 撮影:クリス・シェリダン 編集:クリス・シェリダン

出演:横田滋、横田早紀江、増元照明、阿部雅美(元産経新聞記者)、アン・ミョンジン/安明進(元北朝鮮工作員)

007 カジノ・ロワイヤル

新宿ミラノ1 ★★★☆

■生身だから、恋もすれば、死にかけたりもする

ダニエル・クレイグのイメージが、今までのボンドとあまりにかけ離れているので、どうしてもそこに目がいってしまうが、映画自体も、まさに一新という内容になっている。好都合なことに、フレミングの原作がパロディ映画にはなったものの1つだけ残っていて、どこまでが原作に忠実かは別として(意味ないものね)、宣伝も「ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」(正確にはそれは少しで、最初の任務が軸。00要員になる最後の昇格条件は2つの殺害)と、新シリーズ誕生を鮮やかに印象づけている。

手始めはマダガスカルの工事現場での爆弾犯追跡劇。この追いかけっこがなかなかで、しかも相手(セバスチャン・フォーカン)の逃げ方のほうが格好いいときてる。ボンドはなんとか頭を使ってカバーするのだが、物は壊すし、自分の体は思いっ切りぶつけるし、と何とも荒削りだ。今までのボンドだと、スーツを着たままそれこそ汗ひとつかかずにやり遂げてしまうイメージが定着しているが、こちらは生身が売り物(筋肉見せまくり)のようだ。でありながら、もちろん超人的なんだけど。

悪役は、ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)という投資家で、世界中のテロリストの活動資金を支えている張本人が彼という設定だ。マネーロンダリングはもちろん、テロで空売りを仕掛けた株価を暴落させようとする。ボンドのマイアミ空港での活躍で、その目論見(航空機の爆破)が阻止されると、損失を取り戻すべくモンテネグロのカジノ・ロワイヤルで大勝負に出ようとする。

ちょっと安直な筋立てだが、ル・シッフルもさすがに追いつめられたってことか。ここでアクションは休憩となって、情報を掴んだボンドもそこに乗り込み、カジノ対決となる。安直なのは英国諜報機関(MI6)もだよね。ギャンブルでテロ資金を巻き上げてしまおうって? しかもその席にはCIA(ジェフリー・ライト)もいて、こいつはポーカーが下手だってんだから笑ってしまう。でもまあ、この場面は時間をきっちりとっているだけの駆け引きが楽しめる。

ボンドは、つまり国家予算を賭金にしているわけで(おいおい)、英国財務省からはお目付役としてヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)が同行する。彼女がボンドの恋の相手で、ボンドは愛に生きる決心をし、なんとMI6に辞表まで提出する。彼女との絡みでは、初めて殺しの場面を目にし、ショックで着衣のままシャワー室に座り込んでしまっている彼女に、ボンドが寄り添うようにして慰める場面も用意されていて、007映画らしからぬ繊細な配慮も見せる。もっとも、私的には恋の部分でのときめきには至らず、逆に減点対象にしてしまったのだけど。

カジノでもル・シッフルに勝つボンドだが(取られちゃったらどうするつもりだったのだ)、ヴェスパーを誘拐され、自身もル・シッフルの手に落ちてしまい、ここで全裸拷問場面となる。が、そのル・シッフルもテロ組織に消されて、と話は急展開。さらにはヴェスパーへの疑惑に、彼女の死、組織内の裏切り、と続くのだが、涙腺異常で目から血を流すル・シッフルがいなくなってしまってからは、アクションも含めて意外と盛り上がらない。頑張ってヴェネチアで古い建物を倒壊させているが、これも外している。

ということで、恋とはおさらばし、めでたくボンド誕生となる。で、最後になっていつもの決めゼリフの「My name is Bond, James Bond.」がやっと飛び出すという趣向だ。

クレイグボンドは新鮮だが、感情むき出し路線だと『M:i:III』があった。そういえば、トム・クルーズが蘇生したように、毒を盛られたボンドがAED(自動体外式除細動器)を使って危機を脱するあたりも似ていなくもない。もっともアイディア兵器の使用はぐっと少なく、アストン・マーチンから出てきたのはこのAEDくらいで、だからQも登場しない。子供だましという感じはないが、これはこれでさみしかったりする。

M(ジュディ・デンチ)との信頼が次第に築かれていくところなどもあるが、今回観るかぎりでは、逆にボンドである必要があったのか、とも。まあ、そう言いつつこんなことをだらだらと書けるのも、007のブランド力があってこそなのだが。

 

【メモ】

ニューボンドは6代目。シリーズとしては21作目。

冒頭の追いかけっこで得たケータイ情報から、ボンドは大胆にもMの自宅に侵入し、Mのパソコンを使って単独捜査までやらかす。

原題:Casino Royale

2006年 144分 スコープサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:■

監督:マーティン・キャンベル 原作:イアン・フレミング『007 カジノ・ロワイヤル』  脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:フィル・メヒュー プロダクションデザイン:ピーター・ラモント 衣装デザイン:リンディ・ヘミング 編集:スチュアート・ベアード 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ)  主題歌:クリス・コーネル
 
出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスパー・リンド)、マッツ・ミケルセン(ル・シッフル)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト (フェリックス・レイター)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、サイモン・アブカリアン(アレックス・ディミトリオス)、カテリーナ・ムリーノ(ソランジュ)、イワナ・ミルセヴィッチ(ヴァレンカ)、セバスチャン・フォーカン(モロカ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト )、クラウディオ・サンタマリア、イザック・ド・バンコレ

旅の贈りもの-0:00発

シネセゾン渋谷 ★☆

■あの頃町に若者がいないのは

大阪駅を午前0:00に出発する行き先不明の列車。これに乗り込んだ何かしらの問題を抱えた人たちが、山陰の小さな漁村の風町駅に着き、そこの風景や住人と接するうちに、次第に元気をもらい生きる希望を見つけるという話。

乗客は、年下の恋人に浮気されたキャリアウーマンの由香(櫻井淳子)、自殺願望の女子高生華子(多岐川華子)、リストラを妻に言い出せず、居場所を失った会社員の若林(大平シロー)など。一応各種用意しましたという感じにはなっているが、ここから先の工夫がない。

架空の風町は「あの頃町」と言われているように、都会人が無くしてしまった温かさの残る町という設定。レトロな映画館などがある懐かしい町並みの中に、お節介でやさしい人たちが楽しそうに暮らしている。ファンタジーにふさわしい理想の町といいたいところだが、風町には若者の姿がひとりも見えないのは何故か。

風町は、若者が逃げ出してしまった町なのではないか。そんな意地悪な疑問が浮かんだ。自分たちの問題も解決できていないのに、旅人にあれこれお節介をやいていていいのだろうかと。青年医師ちょんちょ先生(徳永英明)の存在で、このことはしばらく気付かずに観ていたのだが、実は彼も都会から流れてきたよそ者で「ぼくだって君たちと同じ旅人だよ。まだ旅の途中」なのだと言っていた。

それに子供もいない。だから祖父に預けられている翔太少年は友達もいなくて、華子を追い回した(直接の理由は逆上がりを教えて欲しくてだが)のか。

この、逆上がりができるようになったら翔太のパパが帰ってくるという話は、何のひねりもないひどいものだ。若林の自殺場面はヘタクソでかったるいし、最後にまた車掌が登場してきて「皆様、大切なものは見つかりましたでしょうか」というくくりにもうんざりした。

鉄道ファン向け映画という側面も意識して作っているのだと思っていたが、「鉄ちゃん」は途中で姿を消してしまってと(帰っただけだが)、これも制作側が持て余してしまったのだろうか。

 

【メモ】

EF58-150(イゴマル)の牽引するミステリートレイン。「行き先は不明です。お帰りは1ヶ月以内にお好きな列車で」。列車は何故か1駅(玉造温泉)だけ止まる。料金は9800円。

「何か大切なものを見つける旅になりますように」と車掌の挨拶がある。

風町で降りたのは20人くらいか。

「乙女座」という映画館がある。風町は海辺などのインフラが整っていて、それも内容に合わないような。

華子は若林に、決心したら一緒に死のうというメールを送る。葉子はネットで自殺者の募集を知り、同行するはずだったが約束の時間に遅れてしまう。

タレントになりたくて、そのあげくがイメクラ嬢のセーラちゃん。

2006年 109分 ビスタサイズ

監督:原田昌樹 原案:竹山昌利 脚本:篠原高志 撮影:佐々木原保志 編集:石島一秀 音楽:浅倉大介 主題歌:中森明菜『いい日旅立ち』 照明:安河内央之 挿入歌:徳永英明『Happiness』
 
出演:櫻井淳子(由香)、多岐川華子(華子)、徳永英明(越智太一/ちょんちょ先生)、大平シロー(若林)、大滝秀治(真鍋善作・元郵便局長)、黒坂真美(ミチル)、樫山文枝(本城多恵)、梅津栄(本城喜助)、石丸謙二郎(車掌)、石坂ミキ、小倉智昭、細川俊之(網干)、正司歌江(浜川裕子・翔太の祖母)

トゥモロー・ワールド

新宿武蔵野館2 ★★★★

■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる

人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。

手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。

ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。

政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。

一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。

エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。

そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。

筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。

最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。

銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。

セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。

この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。

 

【メモ】

なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)

セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。

ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。

原題:Children of Men

2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
 
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン

父親たちの星条旗

新宿ミラノ1 ★★★☆

■英雄はやはり必要だったらしい

問題となる硫黄島の摺鉢山頂上にアメリカ兵たちが星条旗を掲げている写真だが、何故この写真が英雄を演出することになったのだろう。当時はまだ多くの人が写真=真実と思い込んでいたにしても、旗を掲揚したということだけで英雄とするには、誰しも問題と思うだろうから。いや、むろん彼らはただの象徴にすぎず、だから彼らにとってそのことがよけい悲劇になったのだが。

写真には6人が写っているが、生き残ったのは3人である。硫黄島の戦いが、アメリカにとってもいかに大変なものだったかがわかるというものだ。生き残りの3人がアメリカに帰り、英雄という名の戦時国債募集の宣伝要員となって国から利用されるというのが映画のあらましである。

アメリカにとっては第二次世界大戦など海の向こうの戦争でもあるし、厭戦気分でも広がっていたのだろうか。国債の目標が140億ドルで、「達成できなければ戦争は今月で終わり」などといった人ごとのようなセリフまで出てくる。またはじまりの方でもこの写真について「1枚の写真が勝敗を決定することも」と言っていたから、戦意高揚効果の絶大さは本当だったようだ。

英雄であることを受け入れるのには戸惑いを感じつつも優越感に浸れるのはレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)。臆面もなく駆けつけてきた彼の恋人はこの点では彼以上だから、このふたりはお似合いなのだろうが、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)や衛生兵だったジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)にとって、この戦時国債の売り出しキャンペーン巡礼は、重要性は認識していても戦争の悲惨な体験を呼び起こすものでしかない。この時点ではそれはまだほんの少し前のことなのだ。

派手なイベントや、戦場を知らない人間とのどうしようもない温度差も彼らを苦しめる。ヘイズにはインディアンという立場もついてまわるから一層複雑だ。「まさかりで戦った方が受けるぞ」と言われる一方で「戦争のおかげで白人も我々を見直すでしょう」と講演する悲しさ。ブラッドリーのようには割り切れないヘイズは、酒に溺れ次第に崩壊していく。

このお祭り騒ぎの行程に、これでもかというくらいに戦闘場面が挿入される。だから実を言うと映画の最初の方は、その関係が読みとれず少し苦痛でもあったのだが、これが彼らのその時の心象風景なのだと、次第に、納得できるようになる。

小さな硫黄島に、その面積以上になるのではないかと思うほどの大船団が押し寄せる。凄まじい艦砲射撃と空爆(それでも10日の予定が3日に短縮されたという)に、アメリカが硫黄島に賭けた意気込みのすごさを感じるのだが、映画でもこの場面には圧倒される。中でも船団の横を駆け抜けていく戦闘機の場面は臨場感たっぷりである。艦隊の動きを遠景でとらえた時、あまりにも規則正しすぎることがCGを思わせてしまうのだが、これは本当だったのだろうか。

上陸後しばらくなりを潜めていた日本の守備隊が反撃に転じると、そこは一瞬にして地獄と化す。死体を轢いて進む上陸用舟艇や、これはもっとあとの場面だが、味方を誤射していく戦闘機の描写もあった。次作では日本側の硫黄島を描くからか、山にある砲台とアメリカ兵が近づくのを待ち受ける塹壕からの視点以外はすべてアメリカ側からという徹底ぶりだが、ならばその2つもいらなかった気がする。

もっとも、戦いの進展具合には興味がないようで、そのあたりは曖昧なのだが、摺鉢山頂上での星条旗の掲揚が実は2度あり、写真も2度目のものだったことはきちんと描かれる。ある大尉が最初の旗を欲しがり別の物と替えるよう命令するのだが、これが後々やらせ疑惑となる。他にも新聞でその写真を見て、自分の息子と確信した母親の話などもあるが、しかし最初にも書いたように、これがそれほど意味のあることとは思えないので、どうにもしっくりこないところがある(そうはいっても、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』にもこれについての記述があるから、この写真の持つ意味は相当大きかったのだろう)。

彩度を落とした映像による冷静な視線は評価できるが、戦いの現場と帰国後の場面が激しく交差するところに、現在の時間軸まで入れたのは疑問だ。映画というメディアを考えると、そのことが、かえって現在の部分を弱めてしまった気がするからだ。原作者であるジェームズ・ブラッドリーは、戦争のことも旗のことも一切話さなかったというジョン・ブラッドリーの息子で、父親の死後取材していく過程で、父親との対話を重ねたに違いないが、しかしそれは本にまかせてしまっておいてもよかったのではないだろうか。

『硫黄島からの手紙』の予告篇が映画のあとにあるという知らせが最初にあるが、これはアメリカで上映された時にもついているのだろうか? アメリカ人は『硫黄島からの手紙』をちゃんと観てくれるのだろうか? そうなんだけど、この、映画の後の予告篇は、邪魔くさいだけだった。

 

【メモ】

この写真を撮ったのはAP通信のジョー・ローゼンソール(1945.2.23)でピューリツァー賞を授賞。

原題:Flags of Our Fathers

2006年 132分 シネスコ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ 脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズ・Jr 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド 衣装:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス 音楽:クリント・イーストウッド
 
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)、ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)、 バリー・ペッパー(マイク・ストランク)、ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)、ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)

氷の微笑2

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★☆

■きっと手玉に取られそう

『氷の微笑』の続編だが、すでにあれから14年もたつという。あのキャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)が、前作と似たようなことを繰り広げるのだが、彼女が「危険中毒」というなら、14年間もおとなしくしていられたとはとても思えない。

舞台をアメリカからイギリスに移したのは、そこらへんを考慮してのことか。もっとも人気犯罪小説家なのだからアメリカもイギリスも関係なさそうだが。ただシャロン・ストーンが14年も続編を我慢できたのだから、それは可能か。失礼とは思うが、キャサリンのイメージをシャロンに置き換えるのはそう難しくないのだな(失礼どころか褒め言葉だよね)。

シャロンの自信はたいしたものだが、それができるのだから脱帽だ。観客は実年齢を知っているのだし。もっとも最初の車の疾走場面から、あんなにフェロモンをばらまかれたのでは、かえって引いてしまう。快楽優先主義者という設定なのだからこの演出は仕方がないのかもしれないが、観客サービスになっていない気がして心配になる。

思わせぶりな映画といってしまえばそれまでだが、話は十分楽しめる。ただし、今回の相手はマイケル・ダグラスに比べるといささか頼りない。デヴィッド・モリッシー演じるマイケル・グラス(何なのだ、この役名は!)は、犯罪心理学者で精神科医。ロイ・ウォッシュバーン刑事(デヴィッド・シューリス)からキャサリンの精神鑑定を依頼され、はじめのうちこそ自信満々でいたが、途中からはキャサリンに翻弄されっぱなしで、ただただひたすら転落していく。

犯人がキャサリンかウォッシュバーン刑事か、などと迷いだしているうちはともかく、いつのまにか昇進(というのとはちょっと違うのだろうか)話は立ち消え、最後には思いもよらぬ場所にいるマイケル・グラス。

キャサリンみたいのに捕まったら、きっと私もこうだろうなと思ってしまったものね。おー、こわ。

原題:Basic Instinct 2

2006年 118分 シネマスコープ アメリカ R-18 日本語字幕:小寺陽子

監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ 脚本:レオラ・バリッシュ、ヘンリー・ビーン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:ノーマン・ガーウッド 衣装デザイン:ベアトリス・アルナ・パッツアー 音楽:ジョン・マーフィ テーマ曲:ジェリー・ゴールドスミス
 
出演:シャロン・ストーン(キャサリン・トラメル)、デヴィッド・モリッシー(マイケル・グラス)、シャーロット・ランプリング(ミレーナ・ガードッシュ)、デヴィッド・シューリス(ロイ・ウォッシュバーン刑事)、ヒュー・ダンシー(アダム)、インディラ・ヴァルマ(デニース)

待合室-Notebook of Life-

銀座テアトルシネマ ★☆

■生きていればいいことがある?

朝日新聞に載った記事を元にして作った映画らしいが、記事の記憶はまったくない。興味のあるものでもどんどん忘れていくから、この手の話はまず覚えていない。いわゆるいい話というやつである。新聞にも多分そういう趣旨で載ったと思われる。

東北の小繋(こつなぎ)という無人駅の待合室に置かれたノートに、旅人や近所の人が雑感や悩みなど書き残こしていて、こういうノートはよく見かけるが記事になったのは、駅前にある売店の女主人が、それに丁寧に返事を書いていたということにあるようだ。そのノートには「命のノート」という名前が付けられていて、もうそれだけで私には重苦しいのだが、これはそのノートを始めに置いていった人の命名らしい。

女主人の「おばちゃん」役が富司純子で、彼女が40年前に遠野から小繋に嫁いできた若い時を寺島しのぶが演じている。娘時代をもってきたのは映画としての骨格が足らなかったかったのと、母娘初共演という話題性狙いだろう。もっとも実の親子ながらふたりは、顔立ちも演技の質もあまり似ていないから、別に同じ人物でなくてもよかったような気がする。タイムマシンものではないのだから、母と娘は正確には共演しないのだし。

おばちゃんの現在(老いた母親の話も)と過去に混じるように、ノートに死をほのめかして去る妻と娘を失った男、おばちゃんを取材に来たフリーの女性ライター、同じ町の「鞍馬天狗」と名乗る女房を大切にしてやれなかったという男の挿話などが語られる。どれも心温まる話なのだろうが、全体として突き抜けるようなものはひとつもない。まあ、そういう映画ではないのだが。

唯一批判的なのが若い晶子(あきこ)で、彼女の「生きていればいいことがあるってホントなの」という問いかけはあまりに当然で、ひねくれ者としては少女のこの批判に肩入れしたくなる。もちろんこれはあとに用意されている、晶子と死をほのめかしていた旅人の会話で打ち消されるのだが、説明調ではあるし、こういう問題には答えなど無いから歯切れは悪い。

おばちゃんにしても昔幼い娘を失い、実直な旦那には先立たれるという悲しい過去の出来事に、現在は年老いた遠野にいる母が気がかりで、自身は不自由な足を庇いながら仕事をする毎日、と書き並べれば暗い部分ばかりが目につく。映画が浮ついていないからだろうが、観ていてもっと単純に暖かくなるような話にしてほしくなってしまったのである。

 

【メモ】

ホームページには、「フランスのトムソン社製のフィルムストリームカメラ『VIPER』によってHD非圧縮フルデジタルシネマとして完成。最先端のデジタルシネマ技術は驚くべき映像美を可能にしている」とある。言われてみないとわかならないのね。そんなに目の覚めるような美しさだったかしらん。

いわて銀河鉄道 

昭和39年春 夫は元教師、おばちゃんは看護婦だった

2005年 107分 サイズ■

監督・脚本:板倉真琴 撮影:丸池納 美術:鈴木昭男 音楽:荻野清子 主題歌:綾戸智絵『Notebook of Life』  照明:赤津淳一  録音:長島慎介
 
出演:富司純子(夏井和代)、寺島しのぶ(夏井和代)、ダンカン(夏井志郎)、あき竹城(山本澄江)、斉藤洋介(山本康夫)、市川実和子(堀江由香)、利重剛(塚本浩一)、楯真由子(木本晶子)、桜井センリ(小堀善一郎)、風見章子(浅沼ノブ)、仁科貴(梶野謙造)

ウィンター・ソング

新宿武蔵野館2 ★★

■錯覚関係ミュージカル

予告篇は観ていたが、まさかミュージカル(劇中劇がミュージカル映画)とはね……まあ、そんなことはどうでもいいのだが。香港製ミュージカルということがわかって危惧しなかったといえばウソになるが、その部分では堂々たる仕上がりになっている。ダンスシーンのカットが細切れなのが気になったが、ここは状況をかえた場面の繋ぎでなんとか逃げている。

物語は劇中劇に重ねるように、俳優であるリン・ジェントン(金城武)とスン・ナー(ジョウ・シュン)に、彼女の現在の恋人である映画監督ニエ・ウェン(ジャッキー・チュン)を交えた愛憎劇という趣向だ。

そこにリンとスンの10年前の過去の映像が入り込んでくるのだが、筋立てが単純なのでそうは混乱しない。劇中劇はサーカス団と設定こそ違うが、そこで踊り歌われる歌などはそっくりそのまま3人の心境に置き換えればいいという寸法だ。が、気になるところがいくつもあって、すんなり感情移入するには至らなかった。

まず、チ・ジニ演じるところの案内役(天使と書いてあるよ)の位置づけがよくわからない。「私はカットされたシーンを集めている。それが必要になった時、戻してあげるために。今もあるシーンを戻すためにここに来た」というのだが、彼はリンにとっては天使なのだが、スンやニエにとっては混乱の元でしかない。だから天使、と言われてもねぇ。結末の悲劇も当然と考えているのだろうか。

こんな案内役もいるし、流れからしても主役は金城武のリンであるはずなのに、タイトルや劇中歌の歌詞(お前は俺を愛してる。たぶん愛してるはず)を聴いていると、本当の主役はジャッキー・チュンのニエではないかと思えてくるのだが、これはまずいだろう。

もっともそのニエは、途中までスンが女優としてあるのは自分あってこそと思っているような男だし、最後は「男は自分を裏切った女は許さないものだが、復讐はしない。愛とはそういうものだ」と勝手に自己完結してしまう。そんなだから、ラストでは自分の死までも演出してしまうのだろう。

スンは、過去のある時点はともかく、野心に生きる道を選んだ女だ。偽装結婚もしてきたし、ニエ監督専門というレッテルを貼られようとも、トップ女優でいたいのだ。引き返す気などないのである。「過去は思い出さないためにある」から、回顧録はいやと言っていたのだ。なのに、ラストではそれは出版しちゃってるし。まあこれはリンとのことがあって考えがかわったということなのだろうけどさ。そして、ここを評価できればいいのだが、どうにもしっくりこないのだな。

それに比べると愛に生きてきたリンは、確かに一途ではあるが(これを「たぶん愛」と呼ぶのは簡単だが、となると何でもかんでも「たぶん愛」ということになってしまう)、それ故にやることがどうにも怪しいのだ。俳優として成功してからは、昔の思い出の場所を買い取り、そこに行く度にカセットに心情を吹き込んでいたなんて、度がすぎているとしか言いようがないではないか。

こんなに3人がバラバラなのに、愛といわれてもねー。「たぶん愛」じゃないよ、これ。錯覚だもん。

度々挿入されるプールのイメージもよくわからないままだった(ついでながら青島の塩水湖の話も不明)。

 

【メモ】

リンは10年前に、香港から北京へ映画監督になるためにやって来るが果たせず、香港で大スターになる。

スンは歯ぎしり女。

プロデューサーが難色を示すにもかかわらず、ニエ監督は団長役を自分で演じることにする。
原題:如果・愛 
英題:Perhaps Love

2005年 109分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:水野衛子

監督:ピーター・チャン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 撮影:ピーター・パウ 編集:ヴェンダース・リー、コン・チールン 音楽:ピーター・カム、レオン・コー
 
出演:金城武(リン・ジェントン[林見東])、ジョウ・シュン[周迅](スン・ナー[孫納]、ジャッキー・チュン[張學友](ニエ・ウェン[聶文])、チ・ジニ[池珍熙](天使)

雨音にきみを想う

新宿武蔵野館3 ★☆

■チョッカンはそんなにいいヤツだろうか

ウィンイン(フィオナ・シッ)は、同居の兄フェン(チャン・コッキョン)が全身麻痺で、彼の介護だけでなく姪のシウヤウ(チャン・チンユー)の世話をしながら縫製の仕事をしている。その仕事もミスを咎められ(美人なんだから外で働けばと嫌味まで言われ)賃金を下げられてしまう。そして自身も兄と同じ遺伝性の病気(動脈炎。体温低下で血管が収縮してしまう)にいつならないとも限らないという、まさに悲劇のヒロイン。眉間の皺が痛々しい。

チョッカン(ディラン・クォ)は路地で迷子になったシウヤウと出会い、少女を家に送り届けたことで、そんなウィンインと知り合うことになる。フェンはチョッカンに何かを感じたのか、彼が帰ったあとウィンインに「明日お茶を買ってこい」と言う。そしてチョッカンは数日後、フェンに職場にあったからと電動車椅子を持ってやってくる。

実はチョッカンの家は金持ちなのだが、家族の愛情を知らずに育ち、今では絶縁状態らしい。ウィンインたちの家族愛、もっといえばシウヤウに対するウィンインに、母親の愛をみて惹かれたのかも知れない。

そんなチョッカンだが、一匹狼と言えば聞こえはいいが、ヤクザのフー兄貴(サミュエル・パン)から目を付けられるほど腕のいい泥棒でしかない。当然ウィンインに身を明かすことなどできるわけもなく(表向きはバイクショップを経営)、しかしあっけなくバレてしまうと、こうやって生きてきたのだから今さら無理と、平然としたものなのだ。

しかもそのバレ方からして、ウィンインがちょっと見ていたクマのぬいぐるみを盗んできてしまうような、罪悪感のかけらもない程度の低いものなのだ。このあと少しして、ふたりのキスシーンになるのだが、ウィンインの「頼っていいのか迷う」理由が、チョッカンが真っ当でないことではなくて、「もしあなたに何かあったら」と、すでにチョッカンを好きになってしまっているのでは、恋の当事者にとっては障害でも何でもないのかもしれないが、観ている方としてはついていけなくなる。

チョッカンは盗みが生業ながら優しい男という位置づけなのだろうが、それにしては夜中に物音を立てる(ウィンインの家の2階を借りて倉庫にする)し、電気はつけっぱなしで、ウィンインの評価だってそう高くはなかったはずなのだ……。いや、これは違うか。もうこの時点ではウィンインはチョッカンのことが気になって仕方がなかったのだろう。

物語は、逃げた妻にもどる気持ちがないことを知ったフェンの自殺(これはちょっとあんまりだ)という、さらに悲劇的な状況をはさんだあと、チョッカンとヤクザの対決へと進む。ウィンインもそれに巻き込まれ、冷たい雨にも打たれてしまう。が、彼女には最後になってある贈り物が……。でもこれだってね、最初のクマのぬいぐるみと本質的には何も変わっていないではないかと。ま、彼女の涙はそのことを含めてなのかもしれないのだけどさ。

【メモ】

動脈炎という言葉もあったが、体温低下で血管が収縮してしまうという設定だ。

舞台は香港だが、ウィンインたちは広州出で、チョッカンは台湾出身という設定。ウィンインはフェン(発病前はバイオリニストだった)に広州に帰ろうと言うが、逃げた女房から金を取り戻してからでないと帰れないとフェンは答えていた。

原題:摯愛
英題:Embrace Your Shadow

2005年 102分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:鈴木真理子

監督・脚本:ジョー・マ
 
出演:ディラン・クォ(チョッカン)、フィオナ・シッ(ウィンイン)、チャン・コッキョン[張國強](フェン)、チャン・チンユー[張清宇](シウヤウ)、サミュエル・パン(フー)

虹の女神 Rainbow Song

テアトルダイヤ ★★★★☆

■成就しない恋を追体験させるなんて意地悪だ

あらかじめ運命が提示される映画はままあるが、はじまってすぐにある、ヒロイン佐藤あおい(上野樹里)の事故死のニュースは、職場にいる岸田智也(市原隼人)に感情を反芻させる間を与えず、彼をそのまま葬式の場面へと連れ込む。この念押しが、映画が進むにつれてじわじわと効いてきて、何とも切ない気持ちになる。

そういう構成上の効果もだが、切ないのは映画が自分の学生時代をやたら思い出させるからだ。あおいと同じような8ミリの自主制作に少しだが関わった経験があり、恋についてもあおいのようにうまく想いが伝えられずにいたからだろうか。そして、自分のしたいことや進路についてまったく何も決められずにいるあたりは岸田である。もっとも彼のように、ストーカーになるほどの実行力は持ち合わせていなかったから、さらにひどかったのかもしれない。

と考えていくと違うことの方が多いのだが、にもかかわらず自分に近づけて観ることができるのが、この映画の魅力だろう。

横道にそれたが、切なさはあおいが学生時代に作った『The End of the World』という8ミリ作品の内容に重なることで増幅される。8つ(これまで8ミリにかけているわけじゃないよね)の章立てのある映画(本編)は、あおいの葬式から学生時代にもどり、また葬式に戻ってくるという構成となっていて、葬式のあとで仲間が観るという形でこの8ミリの全編が映写されるのだ。

その『The End of the World』は、巨大隕石が地球を襲った20XX年の最後の7日間を描いた物語で、いかにも映研のサークルが撮りそうな作品(脚本もあおい)だ。あおいの父親(小日向文世)が、へたくそな演技の坊主役で登場するのが実にそれっぽい。地球最後の日が迫っているのに恋人のマコトと離ればなれのヒロインが、やっとマコトに会い抱き合って長いキスをかわすのだが、実はそれは幻想で、ヒロインはひとり病院で息をひきとっていく。「終わったのは私だけだった」というナレーションが、あおいの死という現実に重なり、うらめしくなる。

このマコトを岸田が演じているのだが、門外漢の彼が何故準主役に抜擢されたのかを考えると興味深い。岸田があおいと知り合ったのは、彼があおいの友達(鈴木亜美)にストーカー行為をしてで、あおいは恋の対象ではなかった。そのあとも岸田は8ミリ映画の最初のヒロイン役だった今日子(酒井若菜)に恋心を抱き、しかもあおいに背中を押してもらったりするのだが、あおいの方はどうやらかなり早い段階(ふたりで手を握りっぱなしにして虹に見とれていた時か)から岸田のことが好きだったようなのだ。

『The End of the World』での長いキスシーンを今日子が拒むことは、今日子の性格をあおいが読んでいてのことで、代わりにあおい自身がヒロインになり岸田のキスの相手になることは、賭ではあるが、最初からのあおいのもくろみ(希望)だったのではないか。

そんなあおいを前にして、岸田は本当に鈍感なヤツだったのだろうか。あおいに「女を感じない」と言ったのは言いすぎだが、あれには照れもあったと思われる。デートカフェの取材の帰りには、あおいからは猛烈な反発を食らってしまうが、岸田は冗談交じりながらも結婚という言葉まで口にしているのだ。

岸田はあおいに負い目を感じていたのだと思う。女の尻ばかり追っていたし、まともな就職もできず、唯一あおいに映画の道を進むように言ったことくらいしか貢献していないようで。だからあおいが日本を離れてアメリカで映画の勉強をすることを聞いても、行くなとは言えず「日本にいればいいじゃん」と曖昧な返事で誤魔化すしかない。あおいは「日本なんだ。そばじゃないんだ」と彼女にしてみれば精一杯の発言(これは仕事より恋を取るという決断以上に、岸田への告白なのだから)をするのだが、岸田はあおいの気持ちに気づきながらも「(あおいに紹介された仕事を)辞めようと思ったけど続けてみる。だからお前も頑張れ」と言うしかなかったのだ。

もっともこの解釈は、違うと言われてしまいそうだ。押しかけの年上女(34歳)千鶴(相田翔子)との長目のエピソードがあるし、8ミリの上映、さらにはあおいの妹かな(蒼井優)から手渡された遺品の中に、岸田が代筆を頼んだ今日子へのラブレター(これは下書き? それとも手紙は出さなかったのか)がでてくるからだ。ラブレターの中にあおいの本心が残されていて、これを読んであおいの気持ちにやっと岸田が気付くというのが、妥当なところだろうか。

千鶴との関係を通して、岸田が主体性のない自分に気付くというのはそうなのだが(でないとこのエピソードは冗長ととられてしまう)、8ミリに関してはすでに学生時代にあおいと一緒に観ている(これもすごいことだよね)のだし、だから少なくともあおいの渡米前には、十分あおいの気持ちには気付いていたはずなのだ。

好き同士であっても、次の段階に行けないことはあるだろう。ましてやあおいはアメリカに行ってしまってどんなことを考えていたのか。岸田からの虹の写真のメールを見てどう思ったのか。でもなにしろ、死んでしまうんだものねー。

次から次へといろいろなことを考えてしまうのは、映画がよくできている証拠だろう。ただ、ふたりのことは何もかもお見通しで見守っていたかのようなかなについては、役割を重くしすぎた感がある。

途中にある、あおいとかなと岸田の夜祭りのエピソードは楽しいものだが、最後のラブレターになると、かなが盲目では困ることになるからだ。事故のためアメリカに行く場面でも、岸田に姉のために同行して欲しいと言わせているから、彼女の存在は監督にとってはどうしても必要だったのだろうが(父親でもいいはずだ)、盲目は彼女の神秘性を際だたせても、説明としては苦しくなってしまった。

  

【メモ】

岸田はストーカーだが、彼に言わせると、最初はサユミの方がストーカーだったらしい。3回デートして、あっさりふられたのだと。しかしそのあとバイト先の斡旋と移籍金として1万円を用意するというあたりは、ある意味なかなかではないか。

1万円札の指輪は、そのやりとりでうまれたもの。

あおいの上司である樋口(佐々木蔵之介)が、自分の煽りを真に受けてアメリカ行きを決心したあおいに驚く場面がいい。樋口の愛すべき上司ぶりはうれしくなる。

その樋口があおいの部屋にあるZC1000を見つけて服部(尾上寛之)と交わすオタク談義がたまらない。ZC1000にコダクローム40を入れる(シングル8のマガジンに詰め替える)とはねー。ただ時代が違うとはいえZC1000を学生の身分で使えるんだろうか。才能が漲っていて、小川伸介超えたかも、のあおいなのだから(死んだ人間への賛辞にしてもさ)、飯を切り詰めてでもそのくらいのことはしていたのかも。そういえば映画には「コダック娘」という名前の章もあった。

2006年 118分 サイズ■ 

監督:熊澤尚人 プロデューサー:橋田寿宏 プロデュース:岩井俊二 原案:桜井亜美脚本:桜井亜美、齊藤美如、網野酸 撮影:角田真一、藤井昌之 美術川村泰代 音楽:山下宏明 主題歌:種ともこ『The Rainbow Song ~虹の女神~』 CG:小林淳夫 VE:さとうまなぶ スタイリスト:浜井貴子 照明:佐々木英二 装飾:松田光畝 録音:高橋誠
 
出演:市原隼人(岸田智也)、上野樹里(佐藤あおい)、蒼井優(佐藤かな)、相田翔子(森川千鶴)、小日向文世(佐藤安二郎)、佐々木蔵之介(樋口慎祐)、酒井若菜(麻倉今日子)、鈴木亜美(久保サユミ)、尾上寛之(服部次郎)、田中圭(尾形学人)、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩

トンマッコルへようこそ

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?

朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。

南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。

敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。

が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。

イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。

このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。

架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。

軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。

ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。

  

【メモ】

ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。

原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ  英題:Welcome to Dongmakgol

2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
 
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)

手紙

新宿ミラノ1 ★★★★

■傾聴に値する

弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。

映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。

直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。

これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。

しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。

そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。

このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。

見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。

由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。

はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。

そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。

直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。

このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。

こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。

と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。

かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。

気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。

それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。

  

【メモ】

運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。

由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。

リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。

家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
 
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)

マッチポイント

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■面白くなるのはマッチポイントになってから

プロテニスプレイヤーとして限界を感じていたクリス・ウィルトン(ジョナサン・リス・マイヤーズ)は会員制のテニスクラブのコーチとして働きだす。そこでトム・ヒューイットという英国の上流階級の若者と親しくなる。オペラファンということを知られてボックス席に誘われたことから、今度はトムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)に好かれるという幸運を得る。

上流社会には縁のなかったアイルランド青年のクリスだが、クロエが積極的なことから結婚だけでなく、彼女の父親アレックス(ブライアン・コックス)の会社で働くことにもなってと、話はトントン拍子に進んでいく。が、クリスが本当に惹かれたのは、トムの婚約者であるアメリカ人のノラにだった。

この映画、見所は最後の方に集中している。退屈こそしないが、終盤まではごくありきたりの展開で、アレンらしくないのだ。物語が『罪と罰』にかぶることと、ノラの名前がイプセンの『人形の家』の主人公を連想させるから、そこらあたりに仕掛けがあるのかもしれないが、詳しいことは私にはわからない(あとはオペラだが、こちらの知識はさらにないので)。

『罪と罰』と並んでクリスは『ケンブリッジ版ドストエフスキー入門』も読んでいて、これがさっそくアレックスとの会話に役に立つことになる。クリスの付け焼き刃を解説本で揶揄しているのだから、オペラ好きまでが彼の演出の一部と言いたげだ。テニスをあきらめたのは「勝負の執念がない」はずだったのに、しかしノラとの最初の出会いとなった卓球では「僕は競争心が強い」と、違うことを言っているのだ。アレックスが勧める新部門の役員ポストをまずは断るあたり、すべてに周到な計算が働いていたともとれる。無理して家賃の高いアパートにしたのもそのためだったか。

ノラに対する情熱はクリスに思わぬチャンスをもたらす。ノラは女優志望なのだがなかなか芽が出ず、彼女がバツイチなこともあってトムの母親エレノア(ペネロープ・ウィルトン)からそのことを攻撃される。雨の中を泣きながら歩いているノラをクリスが目にとめ、ふたりは激情の赴くまま関係を持つ。この時点ではノラにはまだトムという存在が確固としてあったため、これだけで終わってしまうのだが……。

この場面の前にも実はノラがオーディションに行くのにクリスが付き合う場面があって、唐突さは避けている。手抜きのない描写は、感情の流れをそこなわず自然なのだが、いささか冗長だ。

冗長と感じるのは、最初に書いたように、浮気の最初の情熱がこじれていくのも、どうしようもなくなって殺害に至るのもありきたりだからだ。この冗長さは、クリスが感じるイライラさに被せているからで、ってそれはどうだろ。クリスの周到さは、ノラという魅力的な女性の前ではもろくも崩れてしまうわけだが、これもいまさらという感じである。

もっともさすがにこのままでは観客を納得させられないと心得ていて、ちょっとしたひねりが用意されている。

ヤク中の突発的犯行と見せかけるべく、クリスはノラのアパートの老女に続いて、指定時間に帰らせたノラを猟銃で殺害する。老女宅には押し入り、ノラは偶然エレベーターを降りたところを見つかって、という筋書きだ。クリスそのままクロエの待つ劇場にタクシーで駆けつけ、苦しいながらもアリバイを確保する。あとで老女宅から奪った薬の瓶やネックレスなどの証拠品は川に投げ捨てる。ここで最後に投げた指輪が、川岸の欄干に当たりこちら側に落ちるのだが、クリスは気付かずに去る。

このスローモーションは冒頭のテニス場面に重なるので、観客はこれが主人公の犯行の動かぬ証拠になるという予測をどうしても立ててしまう。ノラの日記からクリスを追求する刑事も、夢の中にまで事件を見、その筋書きを得意がって説明する。が同僚からは、昨日ヤク中が殺されそいつが老女の指輪を持っていたと告げられ、自説を撤回せざるをえなくなる(これはやられました)。

クリスも夢の中でノラと老女と対峙する。しかし、戦争の巻き添え死を引き合いに出しての弁明はどうか。逮捕されても罪をつぐなえるかどうかはわからないという言い逃れは、クリスの罪を認めないわけではなく、皮肉を言いたいだけなのだろうが、まったくの蛇足だ。運のいいクリスに、最後まで運の悪いノラ(老女についてまでは言及できないが)という簡単な対比ではないのだよ、ということだろうか。

そうか。ということは、刑事が日記を読んでいながらノラの妊娠に触れてこなかったのは、妊娠がノラのでっち上げだった可能性もある。となるとノラもただの悲劇のヒロインではなく、したたかに生きた上での運命のいたずら、といいたいのか。「私は特別な女なの。絶対後悔させない」って言ってたものなー。

 

【メモ】

クロエは美術に関心があり、クリスとの初デートはサーチ・ギャラリーだった。

エレノアはノラだけでなく、はじめのうちはクリスにも懐疑的。

ノラに会いたくて、乗り気でないクロエを説得して無理矢理映画になだれ込むクリス。映画の題名を訊きだして、それなら観たいと言っていた。映画は『モーター・サイクル・ダイアリーズ』。ノラは頭痛で来なかった。

トムはノラとの婚約を解消する。母に屈したし、出会い(ヴィクトリア)もあったからと。

ヴィクトリアはすぐ妊娠し、トムとの結婚式となる。一方クロエはなかなか妊娠しない。

仕事漬けだからか、クリスは秘書に自分が高所恐怖症のようなことを匂わす(アスピリンを2錠くれ)。職場も家(でもここは迷路になりそうだと、絶賛していたのにね)もでは、慣れない上流社会同様、足が地に着かない気分なのかも。

クロエと待ち合わせた美術館でノラを見つけ、強引に電話番号を訊き出すクリス。

株で損をしたクリスに、アレックスは娘にも君にも苦労させたくないので援助すると言う。

クリスはノラから妊娠したと伝えられる。今度(若い時とトムとの間にも。つまり3度目)は産むと言う。

猟銃はアレックスのもの。テニスラケットのケースに隠して持ち出す。

クロエと観る約束をしたミュージカルの舞台は『白衣の女』。

原題:Match point

2005年 124分 ビスタサイズ イギリス、アメリカ、ルクセンブルグ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン 衣装デザイン:ジル・テイラー 編集:アリサ・レプセルター
 
出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ(クリス・ウィルトン)、スカーレット・ヨハンソン (ノラ・ライス)、エミリー・モーティマー(クロエ・ヒューイット)、マシュー・グード(トム・ヒューイット)、ブライアン・コックス(アレックス・ヒューイット)、ペネロープ・ウィルトン(エレノア・ヒューイット)、ユエン・ブレムナー、ジェームズ・ネスビット、マーガレット・タイザック

ナチョ・リブレ 覆面の神様

銀座テアトルシネマ ★

■脚本がダメ。コメディにもなってない

修道院で孤児として育てられたデブダメ男のナチョ(ジャック・ブラック)は、今は料理番になっている。お金のない修道院では子供たちに満足なものが食べさせられない。ま、それはそうなんだが、ナチョには料理の才覚はなさそうだし、しかも配膳からしてだらしなくて、とても食料を大切にしているようには見えない。食べ物を粗末にする笑いは嫌いなのだが、このナチョは他の点でも愛すべきダメ男などではなく、ただのいい加減な迷惑男にしかみえないのである。

いや、もちろんそんなふうには作ってはいないのだけどね。でもまあ生きている人を死人に見立ててしまうし、教会のチップスは奪われてしまうしで、まともにできることが何もないときてる。コメディに目くじらたてるなと言われそうだが、それ以前の問題ではないか。ナチョもさすがにそれは自覚(!?)して、運命は自分で切り開くと言って修道院をあとにする。

ナチョはまずチップスを撒き餌にして、チップス泥棒のヤセ(エクトル・ヒメネス)を捕まえる。すばしっこい彼を相棒にして、あこがれのメキシカンプロレス(ルチャ・リブレ。メキシコではプロレスが盛んらしい)の選手になろうというのだ。町でルチャドール(レスラー)募集の張り紙を見ていたナチョには、賞金200ペソという目算があったのだ。で、特訓がはじまるのだが、これが蜂の巣を投げたり牛を相手にしたりの、しかも予告篇で全部公開済みのくだらないもの。もう他に見せるべきものがないというのがねー。

プロレスラーになったとはいえ、即席の2人組が通用するはずもなく、でも負けたのにギャラだけはもらえて大満足。で、なんでかわからないのだが、ナチョは修道院に戻っていてサラダを出したりしているのだ。子供思いというのを強調したのだろうが、出て行った意味がないではないか。プロレスは修道院からは目の敵にされているので、こんな2重生活は許されっこないというのに。3人がかりの脚本で、このユルさはなんなのだ。

新任のシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レゲラ)との恋物語をはさむ必要があったのだろうけどね。ナチョの最初のシスターの口説き文句は「今夜一緒にトーストをかじりませんか」というもので、この少し後にふたりがそうしてる場面があって、ま、この映画ではこれが1番笑える場面だった。

人気はでるが負けているばかりでは仕方がないと、ナチョとヤセはそれなりにいろいろ考える。ヤセの紹介でナチョはヘンな男の言うままに、崖の上にある鷲の卵を飲むのだが、しかしヤセは科学しか信じない男のはずだったのに。この脚本のいい加減さにはあきれるばかりで、もうこうなると、これはからかわれているとしか思えない。

勝つにはプロに学ぶしかないと、人気レスラーのラムセスのいるパーティ開場へもぐりこむ。ところが憧れていたラムセスは、子供たちのためのサインすらしないようなひどいヤツで、このことでナチョは、勝者がラムセスと対戦できるバトルロイヤルに挑戦することを決意する。

バトルロイヤルだから運もあるのだが、ナチョは所詮2位どまり。が、これも2位のミレンシオの悪さにヤセが車で彼の足を轢いて出場できなくさせてしまうという幸運?があって、ついにラムセスとの対戦することになる。

筋肉もりもりのラムセスに、ぶよぶよのナチョだから、勝ち目はないのだが、感動?のプランチャ(ロープから場外の相手に向かって体を預けていく飛び技)まで飛び出して何故か勝利。賞金の1万ペソを手にしたナチョはその金でバスを買い、子供たちを遠足に連れていく。シスターともいい感じで、はいおしまい。

実話をヒントにしたというのは、それはおそらく暴風神父と呼ばれたフライ・トルメンタのことのようで、彼の話はそのまま映画にした方がずっと面白そうだが、しかしそれはすでに映画になっているらしいのだ。だからこれはコメディなのか。それにしてもなー。

ジャック・ブラックは『スクール・オブ・ロック』と『キング・コング』で感心していたから、余計がっかりだった。歌の場面では彼らしさが出ていたし、プロレス場面でも最後までぶよぶよではあったが、体当たりの演技を見せてくれたんだけどさ。

【メモ】

ヤセは科学だけを信じていて、洗礼も受けていない。これはナチョが洗面器に水を入れて洗礼?させてしまうのだが。

「ぜひ彼女にこの逞しい体を見せたい」「これが俺の勝負服」

シスターも、虚栄心のための戦いだからプロレスはいけないと言っていたのに、いつ「俺たちが独身主義でないなら結婚しよう」というナチョの手紙をそっと枕の下に置くような心境になったのだ。荒野の修行?で?

シスターもサンチョと一緒に、ラムセス戦を観に来る。

原題:Nacho Libre

2006年 92分 アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジャレッド・ヘス 製作:ジャック・ブラック、デヴィッド・クローワンズ、ジュリア・ピスター、マイク・ホワイト 脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト 撮影:ハビエル・ペレス・グロベット 衣装デザイン:グラシエラ・マゾン 編集:ビリー・ウェバー
 
出演:ジャック・ブラック(イグナシオ/ナチョ)、エクトル・ヒメネス(スティーブン/ヤセ)、アナ・デ・ラ・レゲラ(シスター・エンカルナシオン)、リチャード・モントーヤ(ギレルモ)、ピーター・ストーメア(ジプシー・エンペラー)、セサール・ゴンサレス(ラムセス)、ダリウス・ロセ(チャンチョ)、モイセス・アリアス(フラン・パブロ)

DEATH NOTE デスノート the Last name

上野東急 ★★★☆

■せっかくのデスノートのアイデアが……

前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。

と、褒めておいて文句を書く……。

前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。

デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。

リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。

しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。

あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。

最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。

とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。

 

2006年 140分 ビスタサイズ

監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)

華魁

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■思いつくままといった筋。喜劇として観るにも無理がある

明治中期の長崎の遊廓が舞台だからか、客には外人の顔も見える。華魁の揚羽太夫(親王塚貴子)は、絵草紙売りの喜助(真柴さとし)といい仲で、八兵衛(殿山泰司)のような客にはつれない。まー殿山泰司だからねー、って失礼だ。でも久しぶりに観たけれど、この人は何をやっても三文役者。芝居しているように見えないのだな。他の出演者も揃ってひどいんだけどねー。

この遊郭に彫物師の清吉(伊藤高)という男が、究極の肌を求めて流れて来る。美代野(夕崎碧)の背中に惚れ込んだ清吉は、美代野にクロロホルムをかがせると店には居続けだと言って3日間も籠もりっきりになり、全身に蜘蛛の刺青をしてしまう。

知らぬ間に刺青を彫られた美代野だが「これがあたしの背中かい、なんて綺麗な」と、怒るでもない。「色あげ」と称して湯殿に連れて行かれ湯をかけられ、痛みにのたうちまわるが、苦しみを忘れたいから抱いてくれなどと言う。

一方の清吉は、湯殿で菖蒲太夫の肌を見るや、俺がほんとに求めていたのはこの肌なんだと、もう心変わり。理想の肌が見つからなくて長崎まで来たはずなのに、これでは手当たり次第ではないか。もちろん脚本がいい加減なのだが、思いつきで話をつくっていったとしか思えない展開なのだ。

美代野は刺青が評判となり地獄太夫として売り出すが、北斎の絵草紙で捕まりそうになった喜助は、菖蒲太夫とアメリカに逃亡する計画を立てる。が、密航の段階で現れた清吉に喜助は殺され、菖蒲太夫も膝に怪我をする。そのまま貨物船に乗せられる菖蒲太夫だが、行き先はアメリカではなく横浜で、アメリカ人の船員にチャブ屋に売り飛ばされそうになる。が、膝の傷に喜助の顔が現れると、船員は悪魔だと叫んで逃げ出してしまう。

どこに行っても体を売るしかないと最初からあきらめているのか、膝の喜助に「いつもお前と一緒だとみんな逃げてしまうだろ。どうやって生きていけるだろ。姿を消して」「私の体は切り売りしても人の女房にはなりません」とたのんで消えてもらう。

客のひとり、ニューヨークの富豪の息子ジョージ・モーガン(アレン・ケラー)は菖蒲太夫に一目惚れし、結婚を迫る。逡巡していた菖蒲太夫だが、結局は結婚を承諾する。が、「この瞬間から私はあなたの妻」と菖蒲太夫が言った(誓いを破った)ことで、今度は彼女のカントに喜助が現れる。それがジョージのペニスに噛みついたことから、神父を呼んでの悪魔払いの儀式となる。

役に立たないと神父には、呼んでおきながら異教徒だからダメと言い、喜助には「私はあなたを愛しています。あなたが魔性になって、私が死んでそっちへ行くまであの世で待っていてください」と言いきかせる菖蒲太夫。

これで、また消えてしまう喜助もどうかと思うのだが、とにかく筋はあってなきがごとし。性描写が適当に散りばめられれば、何でもよかったとしか思えない。その性描写もハードコア大作とはいうものの、えらく退屈だ。郭の場面で5組の部屋を順番に覗いてみせたり、巻末にも浮世絵にそった場面を用意したりしているが、なにしろ主演の親王塚貴子の大根ぶりが度を超していて、よくこれで商売になったものだと呆れるばかりだから、とてもそんな気分になれない。

武智鉄二は武智歌舞伎(知らん)でも名を売っていたから、背景としてはぴったりだったのだろうが、だからといってそれが活かされていたとは到底思えない。武智らしさがあったとすれば、ジョージをはじめて遊郭に連れてきた友人のエドに「心配するな、治外法権だから何をしても罪にならない」というセリフを言わせていることくらいだろうか。

公開20年後だから笑っていられるが、新作でこれを観せられたら腹が立ったと思う。

 

【メモ】

彫物師の清吉役の伊藤高は伊藤雄之助の息子とか。しかし彼もヘタだ。

揚羽太夫に「客は傷ついた心の傷を菩薩の私に求めてくる」と言い聞かせられて、「今から菖蒲は生まれ変わります。増長していました」と反省する場面がある。

遺手のお辰(桜むつ子)が「えーお披露目でござい。あんたーじごくだえはー。えーお披露目でござい」と口上?を述べながら先導していく。「じごくだえはー」と聞こえるが地獄太夫と言っているのだろう。

密航場面では荷物の中での放尿シーン(これは観客サービスのつもり?)があり、またそれをあたまからかぶってしまうところも。

このあと喜助の人面疽が現れる。この合成画像も20年前とはいえ、えらく雑なもので、喜助は額を真っ二つに割られた顔になっている。この時は菖蒲太夫も「あたしを見捨てないでアメリカまでついてきてくれたのかい。もうずーっと一緒だものね」と喜んでいたのだが。

1983年 103分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 原作:谷崎潤一郎  撮影:高田昭 美術:長倉稠 編集:内田純子 音楽:宮下伸 助監督:荒井俊昭 主題歌:徳原みつる
 
出演:親王塚貴子(菖蒲太夫)、夕崎碧(美代野/地獄太夫)、明日香浄子(山吹)、宮原昭子(千代春)、真柴さとし(喜助)、川口小枝(揚羽太夫)、伊藤高(清吉)、梓こずえ(鳴門)、アレン・ケラー(ジョージ)、桜むつ子(お辰)、殿山泰司(八兵衛)

浮世絵残酷物語

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている

浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。

一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。

帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。

この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。

最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。

例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。

どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。

もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。

長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。

そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。

「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。

肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。

【メモ】

兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。

お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。

一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。

賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。

最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。

1968年 84分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
 
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)

上海の伯爵夫人

新宿武蔵野館2 ★★☆

■夢のバーが絵に描いた餅ではね

1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。

ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。

ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。

競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。

雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。

もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。

そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。

せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。

視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。

原題:The White Countess

2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美

監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
 
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン

幸福(しあわせ)のスイッチ

テアトル新宿 ★★★

■過剰なふてくされと怒鳴りがそれほど気にならなくなって……

東京に出て新米イラストレーターとして働きだした怜(上野樹里)だが、思い通りの仕事をやらせてもらえず、勢いで辞めてしまう。「やっちゃったと思いながらも振り向けない」性格なのだ。そこへ故郷から、姉の瞳(本上まなみ)が倒れたという切符入りの速達が届く。

田辺(和歌山県)の田舎に戻るとそれは、怜とソリの合わない頑固親父(沢田研二)の骨折では帰らないだろうしパンチが弱いとふんだ妹の香(中村静香)の嘘で、でもまあ身重の瞳とまだ学生の香では実際家業の電器屋「イナデン」の切り盛りは難しく、とりあえず失業中の怜が手伝うということになってしまう。

このあとはたいした事件が起きるわけでもなく、もうすべてが予告篇どおりの展開といっていい。雷で修理の依頼が多くなると病院を抜け出してきた父と夜仕事に出かけても、それ以上の問題になることはない。あの予告篇では観るのをためらっても仕方ないと思うが、といってどうすりゃいいんだというくらいの内容。平凡な材料ほど料理するのは大変なはずだが、それは端的な説明と間の取り方の確かさで、あっさりクリアしてのける。

巻頭の職場でのトラブルで、怜は同僚で彼氏の耕太(笠原秀幸)ともギクシャクしてしまうのだが、ここでは「彼氏には頼りたくない、ってか元カレ?」というセリフがあって耕太との距離感がすとんとわかる。助っ人として現れた裕也(林剛史)には、中学時代の文化祭キス事件という、これまたわかりやすい説明が用意されている。

大っ嫌いな家業(でもイナデンマークを考えたのは怜なのだ)をいやいや手伝ううちに、修理マニアで外面の天才(怜評)の父親の、家族思いの面にも気付かされていくという寸法なのだが、うわーっ、予告篇もだけど、こうやって書いていても私にはちょっと勘弁という気分になる。怜ならずともこれではふてくされたくもなるというものだ。って怜のふてくされとは意味が違うか。

怜が父親に反発するのは、仕事優先で母の病気の発見が遅れて死んでしまったことと浮気疑惑による。画面に母が登場することはないが、多分怜は母親を慕っていたのだろう。病気発見の遅れについては、洗脳されている瞳と香(母もと言っていた)は思いすごしというが、浮気疑惑はふたりにも予想外で、酒場のママ(深浦加奈子)のところへ怜と香とで押しかけることになる。

が、店を始めた頃に母親とお客さんを回ったのが一番楽しくてしんどかったと父が話していた、とママにははぐらかされてしまう。香の結論は「あの人お父さんのこと好きやな、それにきっとお父さんも」だ。報告を受けた瞳は「だから浮気しても、もうええってこと」で、香は「もてん父親よりは」だが、怜は「ええのー、それで」と外面の天才に丸め込まれたとまだふてくされている。

この意地っ張りな性格は、実は父親譲りらしく、父親のお客様第一主義は、怜のイラストへのこだわりにも通じるところがありそうだ。再就職もままならず、売り物のビデオカメラを壊したことで怒鳴られるとすねて1日さぼり、父にそれは「わいの血か」と見透かされてしまう。

冷静にみても怜は可愛くないし、子供っぽすぎるのだが、いやまー、こういう気持ちはわからなくもない。瞳が大人なのはともかく、香にまで明るくふるまわれてはねー。そう思うと、やはり怒鳴り散らしてばかりの父親に近いのかも。ふてくされと怒鳴りがこんなに過剰なのに、意外に画面に溶け込んでいては、やられましたと言うしかない。

ああそうだ。怜は東京に戻り、彼氏の取りなしもあってか、ちゃんと頭を下げて復職させてもらったのでした。

ついでながら、野村のおばあちゃん(怜が最初に受けた依頼は修理ではなく、家具の移動だった)が嫁と折り合いが悪かったのは、耳が遠くて、とくに嫁の声が聞き取りにくかったらしい。これに気付いた怜は補聴器の販売に成功。あとで父からもいい仕事をしたな、と褒められる。

補聴器をはじめて付けた時の描写もなかなか。鳥の囀りを10年ぶりで聞いたというおばあちゃん。猫の鳴き声、農作業中にくしゃみする人がぽんぽんと挿入される。

 

2006年 105分 ビスタサイズ

監督・原案・脚本:安田真奈 撮影:中村夏葉 美術:古谷美樹 編集:藤沢和貴 音楽:原夕輝 主題歌:ベベチオ『幸福のスイッチ』 照明:平良昌才 録音:甲斐匡
 
出演:上野樹里(次女・稲田怜)、沢田研二(父・稲田誠一郎)、本上まなみ(長女・稲田瞳)、中村静香(三女・稲田香)、林剛史(怜の中学時代の同級生・鈴木裕也)、笠原秀幸(怜の彼氏・牧村耕太)、石坂ちなみ(涼子)、新屋英子(野村おばあちゃん)、深浦加奈子(橘優子)、田中要次(澄川)、芦屋小雁(木山)