バベル

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

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