蟲師

新宿ミラノ2 ★★☆

■面白い映像のようには見えてこない蟲

大友克洋には2003年に『スチームボーイ』があったが、実写となると『ワールド・アパートメント・ホラー』以来で、実に15年ぶりになるという。自作ではなく、わざわざ漆原友紀の作品を借りてというあたりに、余計期待してしまったのだが、原作を知らない者にはついていくのがやっとの、ちょっとやっかいな作品だった。

物語はかなり変わったもので、説明が難しいのだが、公式サイトには次のように書かれている。

100年前、日本には「蟲」と呼ばれる妖しき生き物がいた。それは精霊でも幽霊でも物の怪でもない、生命そのものであり、時に人間にとりつき、不可解な自然現象を引き起こす。蟲の命の源をさぐりながら、謎を紐解き、人々を癒す能力を持つ者は「蟲師」と呼ばれた。

白髪で、左が義眼ギンコ(オダギリジョー)もその蟲師のひとり。何故旅をしているのかよくわからないのだが、旅先で耳を患っている3人を治してお代をもらっていたから、それで生計を立てているのだろうか。庄屋の夫人(りりい)にその腕をかわれ、彼女の孫で4本の角が生えてしまった真火(守山玲愛)を診るギンコ。

この一連の治療は導入部といったところで、蟲や蟲師の説明を兼ねているのだが、とはいえ説明はさっぱりだ。「阿」だか「吽」とかいう音を食う蟲は、普通は森に住んでいるが、雪は音を吸収するので村に降りてきたらしいと言われてもねー。巻き貝のような蟲が触手を伸ばす映像には不思議な感覚が詰まっていて、普通の人間には本来見えないものの具現化ではかなり成功しているのだが、架空の話であるし、だから映画の中の人間はその存在を認めているようなのだが、普通の人間としてはやはり納得のいく説明がほしいのだ。

庄屋をあとにしたギンコは、虹郎(大森南朋)と知り合う。彼は、幼い頃、父親と一緒に見た虹蛇という蟲を捕まえようとしていた。と言われてもはぁと言うしかないのだが、2人のところに、文字で蟲封じをしている淡幽(蒼井優)の身体に異変が起きているという知らせが入る。

ギンコが淡幽を助ける場面は、淡幽が巻物に封じた文字が滲みだす部分など、不可思議な雰囲気がよく出た素晴らしいものになっている。ただ何度も言うように、いくら説明されてもちっとも頭に入ってこないのだ。

淡幽の乳母のたま(李麗仙)によると、ぬいという蟲師(江角マキコ)の話を淡幽が記録していて急に体調を崩したという。その巻物を調べるギンコだが、ぬいの語ったヨキ(稲田英幸)という少年の部分を読んでいると、ギンコの体からもトコヤミという蟲があらわれる。理解出来ていないからうまく説明できないのだが、とにかくギンコはたまと虹郎の手を借りて淡幽をなんとか元に戻すのだが、自身が蟲に憑かれて倒れてしまう。そして今度は、救われた淡幽がギンコのために、彼に取り憑いた蟲(文字)を巻物に戻す作業をはじめる。

ギンコは意識を取り戻すが、まるで生気を失っていた。虹郎はギンコを連れ、身体に効くという命の源の光酒を求めて旅に出る。とはいうもののギンコは次第に快復していくし、「たまたま歩く方角が一緒なだけ」だからなのか、2人の関係が何かを明かすというようにはなっていない(多分)。虹郎は橋大工になる夢を語り、ギンコは淡幽に対する仄かな恋心を打ち明けるが、虹蛇らしきものを見たことで(捕まえて持って帰ると言ってたのに)、唐突な(観客にとっては)別れがやってくる。この時虹郎は、いつかギンコが淡幽を伴って自分の里を訪ねてくる、というようなことを叫ぶのだが。

ギンコはこのあとぬいに会い、自分の正体がヨキであることを知り(なんだよね?)、石のようになったぬいに薬をかけるのだが、これで彼女がどうなったのか。淡幽の病気もヨキの話からであるならトコヤミが原因で、それがギンコに取ってかわったようにみえた(代わるというよりはギンコの中のトコヤミが反応したのだろうか)のだが、この最後はさらにわからない。

魅力的な映像に比べ、話の方のこの不親切さあんまりだ。だから勝手に解釈しまうが、ぬいもギンコも片目が見えないのは銀蠱という池の底に棲む眼のない魚のような蠱のせいで、しかし淡幽が取り憑かれたのはトコヤミではなかったか(彼女もギンコのことを想っているからかも)と思うのだが、でもそうだとしても何だというのか。

ただ、蟲という存在を敵対するものとしてでなく、そこにもとからあるものとして位置づけているのは面白かった。だから蟲師の治療行為(というのかどうか)も、蟲を殺すのではなく、憑かれた者の体内から逃がすのである。

あと近代化によって我々が失ってしまったものという意味では、渡辺京二の『江戸という幻景』を読んだ時のことを、少しだが思い出したことを付け加えておく。

  

2006年 131分 ビスタサイズ

監督:大友克洋 プロデューサー:小椋悟 エグゼクティブプロデューサー:パーク・サンミン、二宮清隆、泉英次 原作:漆原友紀 脚本:大友克洋、村井さだゆき 撮影:柴主高秀 水中撮影:さのてつろう 特殊メイク:中田彰輝 美術:池谷仙克 造型:中田彰輝 衣裳:千代田圭介 編集:上野聡一 音楽:配島邦明 VFXスーパーバイザー:古賀信明 ヘアメイク:豊川京子 衣裳デザイン:おおさわ千春 音響効果:北田雅也 照明:長田達也 装飾:大坂和美 録音:小原善哉 助監督:佐藤英明
 
出演:オダギリジョー(ギンコ)、江角マキコ(ぬい)、大森南朋(虹郎)、蒼井優(淡幽)、
りりィ(庄屋夫人)、李麗仙(たま)、クノ真季子(真火の母)、守山玲愛(真火)、稲田英幸(ヨキ)、沼田爆

デジャヴ

109シネマズ木場シアター7 ★★★☆

■トンデモ装置で覗き見した女性に恋をする

冒頭のフェリー爆破テロ事件にまず度肝を抜かれる。海兵隊員たちにその家族が乗り込んでマルディグラ(ニューオーリンズのカーニバル)のお祭り気分の中、少女が人形を海に落としてしまう場面がある。ナンバープレートのはずされた車と繋がっては、事件を予感せずにはいられないが、このあと突然起きる爆破で、丸焦げになった人々が次々に海に落下していく描写が凄まじい。細切れの、しかし生々しい救助や事後処理の場面に続いて、男が1人、現場のあちこちで証拠集めをしている場面へと次第にかわっていく。

この流れは、カット割りは映画術を駆使しながら、イメージとしては手を加えていないドキュメンタリーに近いものを感じさせる。すでに爆音は遠いものになっているのに、気持ちの収まりがついてくれない感じがよく表現されていた。

男はATF(アルコールタバコ火器局)のダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)で、この捜査の手際のよさがFBIの目に止まり、彼らに力を貸すように頼まれる。

ここからの展開は、内容があまりに奇抜で、そのSF的仕掛けにはついていけない人も多そうだが、そこさえ割り切れれば実によくできた話になっている。SF大好き人間ではあるが、タイムマシンものには抵抗がある私としては微妙なのだが、でも楽しんじゃったのね。このアイディアと力業を簡単にけなしてしまうのは、あまりにもったいないんだもの。

543名の犠牲者を出したフェリー爆破事件はテロと断定され、カーリンは「タイム・ウィンドウ」と呼ばれる極秘装置を使って、その捜査に当たるように言われるのだが、この装置というのがトンデモものなのだ。

仕様を書くと、センサと4つの偵察衛星から送られたデータで、場所の制限はあるものの、好きな場所のかなり鮮明な映像を映し出すことができ、建物の中の映像もOKという(えー!)。ただ、復元のための情報処理に膨大な時間がかかるため、常に処理時間後の、つまり映像としては4日と6時間前のものしか見ることが出来ない。しかも1つの映像を見るチャンスは1度で巻き戻しもできない。

しかしこの説明は少しおかしくて、一旦モニタに映し出されたものを別の装置で録画するのはたやすいはずで、何度も見ることくらいわけないだろう。それに4日と6時間前なら瞬時に見えるのではなく、場所を特定してから4日と6時間後のはずだと思うのだが、まあこの際野暮なことは言うまい。

トンデモ装置はあっても、4日前の何を探ればよいのかがわからなければ意味がないわけで、そのために土地勘もあり的確な判断のできるカーリンが選ばれたのだった(ハイテク装置も使う人次第ってことね)。彼は捜査の段階で発見した若い女性の遺体が事件の鍵を握っていると考え、彼女の家を監視装置で追うよう指示を出す。そして、モニタにはクレア・クチヴァー(ポーラ・パットン)の、「まだ生きている」映像が映し出される。

覗き見という悪趣味に晒された上、クレアには死が待っている。何ともたまらなく厭な場面なのだが、モニタに映る彼女は美しいだけでなく、食事に祈りを欠かさないたたずまいの美しい人でもあった。映画だからといってはそれまでなのだが、そういうクレアを覗き見して、カーリンは彼女を好きなってしまったのだろう。とはいえやっぱり悪趣味なのだが。

監視をつづけるうち、クレアがこちらの装置が出す光に反応するのをカーリンは見る(その前にクレア自身も誰かに見られているようで気持ちが悪いと言っていた)。ここからもう1つトンデモ話が加わることになる。

要するにこの現象は時空を折り曲げているのであって、まだ実験段階ながら映像の向こうに物質を送ることも可能なのだという。これを知ったカーリンが、まだこのあとに現在と4日前の映像を左右の目で見分けながらのカーチェイスというびっくり仰天場面なども入ってくるのだが、クレアをみすみす死なせることなどできないと、4日前に自分自身を送り込むのだ。

よくやるよ、とチャチを入れたくなるが、この2つのトンデモ前提さえ目をつぶれば、話の巧妙さには喝采を送りたくなること請け合いだ。全部を書いている余裕などないが、ここから試行錯誤しながらも、カーリンの相棒の死や、自分の残した「U CAN SAVE her」というメッセージなどが、パズルのように解明されていくのである。

カーリンは犯人を倒し、つまりフェリーの爆破を防ぎ、残虐な死からクレアを救うのだが、彼は死んでしまう。しかし彼の死は、タイムマシンものについてまわる大きな矛盾を回避してしまうことになる。なにしろカーリンが消えてくれないと、もともと4日前にいたカーリンとで2人のカーリンが存在することになってしまうから。

ラストではクレアのことを知らないカーリンが彼女と会って、タイトルのデジャヴを口にする。なるほどね。馬鹿馬鹿しいのに感心してしまった私。

【メモ】

カーリンが4日前に自分自身を送り込んだ先は病院。胸に蘇生処置をしてくれと書いたメモを貼って、タイムトラベルをする。

原題:Deja Vu

2006年 127分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トニー・スコット 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:テッド・エリオット、チャド・オマン、テリー・ロッシオ、マイク・ステンソン、バリー・ウォルドマン 脚本:テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ 撮影:ポール・キャメロン プロダクションデザイン:クリス・シーガーズ 衣装デザイン:エレン・マイロニック 編集:クリス・レベンゾン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
 
出演:デンゼル・ワシントン(ダグ・カーリン)、ポーラ・パットン(クレア・クチヴァー)、 ヴァル・キルマー(プライズワーラ)、ジム・カヴィーゼル(オースタッド)、アダム・ゴールドバーグ、エルデン・ヘンソン、エリカ・アレクサンダー、ブルース・グリーンウッド、エル・ファニング、マット・クレイヴン、ションドレラ・エイヴリー

ハッピー フィート(日本語吹替版)

109シネマズ木場シアター6 ★☆

■タップで環境問題が解決するなら世話はない

皇帝ペンギンに1番必要な「心の歌」が歌えない音痴のマンブルだが、タップダンスなら生まれた時から天才的(卵も嘴でなく足で割って出てくる)。でも、この個性が災いして、学校も卒業させてもらえない。皇帝ペンギン界には、心の歌を歌えなければ大人になった時に最愛の人を見つけられないという常識があるのだ。

ママは理解してくれるし、幼なじみのグローリアも気にかけてはくれるのだが、なにしろ成長したのに外見も産毛のかたまり(ペンギンは見分けがつかないのと、小さい時の可愛さとのギャップでこのキャラクターなんだろか)で、あまりに皇帝ペンギンらしからぬマンブルには居場所がない。

ところが失意の中で知り合ったアデリー・ペンギンの5匹、アミーゴスの面々からは、「お前のすげーダンスを見たら女どもは寄ってくるぜ」とベタ褒めされる。イワトビペンギンのライブレイスという怪しげな愛の伝道師にも会って、マンブルはいろいろな世界を知り、自分にも次第に自信が持てるようになる。

しかし何故ヨチヨチ歩きのペンギンにタップダンスなんだろう。雰囲気は出ているが、ペンギンは足の動きがわかりずらいからね。タップはやはり不向きと思うのだが。

とはいえアニメの出来は素晴らしいもので、ここまでくると逆に細部までの描き込みすぎが心配になってくるほどだ。それに、普通は手を抜けるところなのにね。特にすごいのが、画面を埋め尽くしたペンギンの群れが歌って踊る場面だ。アニメのことはよくわからないが、この集団アニメは画期的なのではないか(一体何羽のペンギンがあの画面にはいたんだろう!)。

マンブルは皇帝ペンギンたちにも自分の特技を披露して、新しい楽しさをわかってもらいかける。が、頑固な長老たちはタップダンスを若者どもの反乱と受け入れようとしない。それどころか、秩序を乱すマンブルこそが最近の魚不足の原因と決めつけられて、誰も逆らえなくなってしまう。

ダンスと歌が満載の動物アニメには、個性の排除に立ち向かっての自分探しの旅は、無難なとこではあるのだが、それでは物足りないと考えたのだろうか、映画は思わぬ方向に突き進む。

魚が減った原因を調べると言って仲間の元を去ったマンブルは、エイリアン(人間)が魚を捕っていることを突きとめるが、結局人間に捕まって動物園に入れられてしまう。3日後に言葉を失ない3ヶ月後には心を失ったマンブルだったが、ある日タップを踊ったことが話題になって(「ショーに出したら金になる」という発言もあった)、生態調査のため発信器を付けられて南極へ戻ってくる。そして最後は何やら会議での議論の末「それでは禁漁区にする」宣言が飛び出す。

この流れはいい加減で、しかもあれよあれよという間だから、後になったら理屈がわからなくなっていた。人間だけでなく、皇帝ペンギンたちの反応もひどいんだもの。マンブルに魚を捕った犯人がわかったと報告されているのに、ヘリコプターでやってくる人間と一緒になって踊ってしまうのだから。しかも長老たちまで。誰か私にわかりやすく説明してくれないものか。

保守的だったパパが「(マンブルの個性は)もとは俺が卵を落としたせいだし、マンブルには1日だってパパらしいことをしてあげられなかった」と反省するくだりはいいのにね。「もう音楽がなってない」という表現には、さみしさがにじみ出ていた。

こういう部分をみると、ありきたりであってもはじめの路線でまとめておくべきだったと思わずにはいられない。人間と共存なんてことを言い出すから、食べられる魚の立場や、見せ場だったシャチやアザラシに襲われるシーンを、どう解釈すればいいのかわからなくなってしまうのである。

ところで人間たちは実写なのだろうか。それとも……。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 長編アニメ映画賞受賞

仕方ないのかもしれないが、出だしはドキュメンタリーの『皇帝ペンギン』そっくり。

ブラザー・トムの2役は、ロビン・ウイリアムスがそうしてることに合わせている(だから?)。

挿入歌は吹き替えされずそのまま流れていて(だからここは字幕)、最後にNEWSの『星をめざして』がイメージソングとしてついていた(これは字幕版も?)。

原題:Happy Feet

2006年 109分 シネスコサイズ アメリカ 

監督:ジョージ・ミラー 共同監督:ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 製作: ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、ビル・ミラー 製作総指揮:ザレー・ナルバンディアン、グレアム・バーク、デイナ・ゴールドバーグ、ブルース・バーマン 脚本:ジョージ・ミラー、ジョン・コリー、ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 振付:セイヴィオン・グローヴァー(マンブル)、ケリー・アビー 音楽:ジョン・パウエル アニメーションディレクター:ダニエル・ジャネット
 
声の出演(日本語吹替版):手越祐也(マンブル)、ブラザー・トム(ラモン、ラブレイスの2役)、 園崎未恵(グローリア)、てらそままさき(メンフィス/パパ)、冬馬由美(ノーマ・ジーン/ママ)、水野龍司(長老ノア)、石井隆夫(アルファ・スクーア/トウゾクカモメ)、真山亜子(ミセス・アストラカン)、 さとうあい(ミス・バイオラ)、稲葉実(ネスター)、多田野曜平(ロンバルド)、小森創介 (リナルド)、高木渉(ラウル)、加藤清史郎(ベイビー・マンブル)

パフューム ある人殺しの物語

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■神の鼻を持った男はいかにして殺人鬼となったか-臭気漂う奇譚(ホラ話)

孤児のジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、13歳の時7フランで皮鞣職人に売られるが、落ち目の調香師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)に荷物を届けたことで、彼に自分の才能を印象付けることに成功し、50フランで買い取ってもらい晴れて弟子となるが……。

巻頭の拘置所にいるグルヌイユの鼻を浮かび上がらせた印象的なスポットライトに、死刑宣告の場面をはさんで1転、彼の誕生場面に移る。パリで1番悪臭に満ちた魚市場で、彼はまさに「産み落とされる」のだ。この場面に限らず、匂いにこだわって対象をアップでとらえた描写は秀逸で、匂いなどするはずのない画面に思わず鼻腔をうごめかしてしまうことになる。そして、なんと次は産まれたばかりの血にまみれた赤ん坊が演技をする(これはCGなのだろうけど)という、映画史上初かどうかはともかく、とにかくもう最初から仰天続きの画面が続く。

こんな筆致で、どんな物も嗅ぎ分ける神の鼻を持った男が殺人鬼となるに至った一部始終を描いていくのだが、おぞましいとしか言いようのない内容を扱いながらギリギリのところで観るに耐えうるものにしているのは、この映画が全篇ホラ話の体裁をまとっているからだろう。

例えば、次のような描写がある。孤児院に連れて行かれた赤ん坊のグルヌイユは、そこの子が差し出した指を握り、匂いを嗅ぐ。だいぶ大きくなったグルヌイユが、他の子がいたずらで彼にぶつけようとしたりんごを、後ろ向きなのにもかかわらず、匂いを感知してよける。

グルヌイユの桁違いの嗅覚については、この後も枚挙にいとまがないほどだ。バルディーニが秘密で研究していた巷で人気の香水が、彼の服についていることを言い当てることなどグルヌイユにとっては何でもないことで、瓶に密封された香料までわかるし(多少は瓶に付着しているということもあるのかもしれないが)、調合すら自在。そんなだから、人の気配までもが匂いでわかってしまうし、これはもっとあとになるが、何キロも先に姿を消した人間まで、匂いで追跡してしまうのである。

次のような例もある。グルヌイユに関わった人間は次々と死んでしまう。まず母。グルヌイユの最初に発した(泣き)声で、母親は子捨てが発覚し絞首刑。彼を売った孤児院の女は、その金を狙われて殺されるし、鞣職人は思わぬ金を手にして酔って溺死。職人証明書を書く代わりにグルヌイユから100種類の香水の処方箋をせしめたバルディーニは、幸せのうちに眠りにつくが、橋が崩れてしまう(この橋の造型を含めた川の風景は見事。セーヌにかかる橋の上が4、5階ほどのアパートになっていて、そういえば時たま天井から土が落ちてきていた)。

バルディーニから、グラース(これはどのあたりの町を想定しているのだろう)で冷浸法を学べば生き物の体臭を保存できるかもしれないと聞いていたグルヌイユは、究極の匂いを保存しようとその地を目指す。途中の荒野で彼は自分自身が無臭だということに気付く。彼にとって無臭は、誰にも存在を認められないということを意味するようである。なるほどね。ただ、この場面はやや哲学的で私にはわかりずらかった。

グラースで職に就いたグルヌイユは、女性の匂いを集めるために次々と殺人を犯すようになる(パリでの1番はじめの殺人こそ成り行きだったが)のだが、そのすべてが完全犯罪といっていい巧みさでとりおこなわれていく。匂いで察知し、追いかけ、家に忍び込んでからは、もう嗅覚がすぐれているからという理由では説明がつかないようなことを、最後の犠牲者になるローラ(レイチェル・ハード=ウッド)には用心深い父親のリシ(アラン・リックマン)が付いているにもかかわらず、すべてを手際よくやりのけてしまうというわけである。

リシの厳しい追及でグルヌイユは捕まり死刑台に登るのだが、彼はあわてることなく完成した香水(拷問までされていたのに隠し持っていたこと自体もホラ話というしかない)で、まず死刑執行人に「この男は無実だ」と叫ばせる。匂いを含ませたハンカチを投げると、ハンカチは広場を舞い、司祭は「人間でなく天使」と言い、500人を越すと思われる死刑見物人たち(全員がグルヌイユの死を望んでいた)はふりまかれた匂いに酔ったのか服を脱ぎ捨て、司祭も含め広場では乱交状態となる(グルヌイユ自身は、生涯にわたって性行為とは無縁だったようだ)。そして、私は騙されんぞと言っていたリシまで、最後には「許してくれ、我が息子よ」となってしまう。

ホラ話は最後まで続く。この香水で世界を手にすることもできたグルヌイユだが、パリに戻って行く。香水で手に入れた世界など虚構とでも思ったのだろうか。彼は産まれた場所に出向き、香水を全部自分にふりかけてしまうのである。

そうか、無臭でいままで存在していなかった彼(犬にも気付かれないのだ)は、このことによって、今やっと誕生したのかもしれない(もっともそう感じるのは彼だけのような気もするのだが。しかし人はその人の価値観でしか生きられないわけで、彼には必要な行為だったのだろう)。と、そこにいた50人くらいの人が「天使だわ、愛している」と言いながら彼に殺到する。

グルヌイユが彼らに食われてしまったのか、ただ単に姿を消してしまったのかはわからないのだが(翌日残っていた上着も持ち去られてしまう)、もはやそんなことはどうでもいいことなのだろう。なにしろホラ話なのだから。

グルヌイユの倫理観を問うことが正しいことかどうかはさておき、ローラから採った香りを、殺害場所からそうは離れていないところで抽出している彼の姿は美しく崇高ですらあった。彼は捕まって殺害理由を問われても、必要だったからとしか答えないのである。

(071018追記)
17日にやっと原作を読み終えることができた(読むのに時間がかかったわけではない)。グルヌイユが無臭であることは、原作だと生まれたときからの大問題であって、飛び抜けた嗅覚の持ち主であること以上にこのこと自体が、彼の生涯を決めたことがわかる。

なにしろ彼が忌み嫌われる原因は「無臭」だからというのだ。これについてはちゃんとした説明があって、その時はふむふむと読み進んでしまったのだが、でも説得力があるかというとどうか。グルヌイユの嗅覚が天才的ということとは別に、当時の人々にも相当な嗅覚がないと「無臭」に反応したり、グルヌイユ(の香水にか)を愛したりは出来ないことになると思うのだが。

グルヌイユが7年間を1人山で過ごすことになるのも、このこと故なのだが、これもわかったようでやっぱりわからなかった。

というようなことを考えると、映画は多少の誤魔化しがあるにしても、うまく伝えられない部分は最小限にして、挿話も目立たないところは書き換え(彼を売った孤児院の女などそのあと52年も生きるのだ)、壮大なホラ話に仕立て上げていたと、改めて感心したのだった。

  

【メモ】

果物売りの女の匂いを知った(服を剥ぎ取り、体をまさぐり、すくい取るように匂いを嗅ぐ場面がある)ことで、惨めなグルヌイユの人生に崇高な目的が生まれる。それが、香りの保存だった。

グルヌイユの作った香水だが、そもそもバルディーニから聞いた伝説による。その香料は、何千年も経っているのに、まわりの人間は楽園にいるようだと言ったとか。12種類の香料はわかっているが13番目が謎らしい。

グルヌイユの殺人対象は処女のようだが、娼婦も餌食になっている。

グルヌイユのとった香りの保存法は、動物の脂を体中に塗りたくり、それを集めて抽出するというもの。

犠牲者が坊主姿なのは、体毛を全部取り除いたということなのだろうか。犠牲者の飼っていた犬が、埋めてあった頭髪(死体)を掘り起こして、彼の犯罪が明るみとなる。

原題:Perfume:The Story of a Murderer

2006年 147分 シネスコサイズ ドイツ、フランス、スペイン 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トム・ティクヴァ 製作:ベルント・アイヒンガー 製作総指揮:フリオ・フェルナンデス、アンディ・グロッシュ、サミュエル・ハディダ、マヌエル・マーレ、マーティン・モスコウィック、アンドレアス・シュミット 原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』 脚本:トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー 撮影:フランク・グリーベ 美術監督:ウリ・ハニッシュ 衣装デザイン:ピエール=イヴ・ゲロー 編集:アレクサンダー・ベルナー 音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:サイモン・ラトル ナレーション:ジョン・ハート

出演:ベン・ウィショー(ジャン=バティスト・グルヌイユ)、ダスティン・ホフマン(ジュゼッペ・バルディーニ)、アラン・リックマン(リシ)、レイチェル・ハード=ウッド(ローラ)、アンドレス・エレーラ、サイモン・チャンドラー、デヴィッド・コールダー、カロリーネ・ヘルフルト

今宵、フィッツジェラルド劇場で

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■名人芸を楽しめばそれでよい?

実在の人気ラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」(原題はこちらから)の名司会者ギャリソン・キーラー本人(出演も)が、洒落っ気たっぷりに番組の最終回という架空話をデッチ上げて脚本を書いたという。

そのあたりの事情は当然知らないのだが、映画の方の「プレイリー・ホーム・コンパニオン」は、ミネソタ州のセントポールにあるフィッツジェラルド劇場で、長年にわたって公開生中継が行われてきたのだという設定だ。が、テキサスの大企業によるラジオ局の買収で、今夜がその最終日になるという。

その舞台を、楽屋裏を含めほぼ実時間で追ったつくりにしているところなどいかにもアルトマンの遺作に相応しい(群像劇でもあるしね)。『ザ・プレイヤー』ではこれ見よがしの長まわしを見せられて気分を害したものだが(実験精神は買うが)、ここにはそういうわざとらしさはない。

リリー・トムリンやウディ・ハレルソンたちが次々と繰り出す歌や喋りを、それこそラジオの観客にでもなったつもりで楽しめばそれでいいのだと思う。なにしろみんな芸達者でびっくりだからだ(そういう人が集められただけのことにしてもさ)。メリル・ストリープが相変わらず何でもやってしまうのにも感心する(ファンでもないし他の人でもいいのだが、このメンバーでは彼女が1番わかりやすいかなというだけの話)。今回も歌手になりきっていた。

舞台の構成も興味深い。度々入る架空のCMが面白く、ギャリソン・キーラーの仕切ぶりや歌はさすが長年司会をやってきたと思わせるものがある。公開生番組といってもラジオだからいたって安手で、そもそも劇場も小ぶりだし、同じ芸人が何度も登場する。手作り感の残る親しみやすさが、最終日という特殊事情で増幅されて、登場人物の気持ちを推しはかざるを得なくなるという効果を生んでいるというわけだ。

むろんそんな感傷はこちらが勝手に作り上げたもので、ことさらそれは強調されてないし、実際湿っぽくなってもいない。陽気すぎるウディ・ハレルソンとジョン・C・ライリーのめちゃくちゃ下品な掛け合いは別にしても、それぞれ最後の舞台を、プロとしてそれなりにつとめていくるからだ。

例外は、チャック・エイカーズ(L・Q・ジョーンズ)の死だろうか。もっともこれとて白いトレンチコートの女(ヴァージニア・マドセン)を登場させるための布石という側面が強い。謎の女は、劇場の探偵気取りの警備係、ガイ・ノワール(ケヴィン・クライン)に、自分は天使のアスフォデルだと語る。

自分から正体を明かす天使もどうかと思うが、ノワールは、劇場に乗り込んできた首切り人のアックスマン(トミー・リー・ジョーンズ)を天使に追い払ってもらえないかと考える。で、よくわからないのだが、天使もその気になったらしく、すでにアックスマンの車に乗り込んでいて(神出鬼没なのだ)、一緒に帰って行く。

女はやはり天使だったらしい。アックスマンの車は事故を起こして炎上してしまうのだ。しかし、そのあとは「さらば首切り人、でも事態は好転しなかった」(ノワールのナレーション)だと。なるほどね。

先にわざとらしさはないと書いたが、こんな仕掛けの1つくらいは用意せずにはいられないのがアルトマンなのだろう。で、その結論も、すでに何事も諦念の域にあるかのようだ。そうはいっても、この天使の扱いはこれでいいのだろうか。ちょっと心配になる。エイカーズの死の際に「老人が死ぬのは悲劇でない」と言わせて、すでに点は稼いでいるのだけどね。

生放送の最後の余った時間に、ヨランダ(メリル・ストリープ)の娘ローラ(リンジー・ローハン)のデビュー場所を提供しているのも粋だ。老人の諦念だけでなく、ちゃんと次の世代の登場も印象付けている。

おしまいは、解体の進む劇場で(あれ、劇場もなくなってしまうんだ)ノワールがフィッツジェラルドの胸像(貴賓席に置いてあったもの)が置かれたピアノにむかっている。追い払われてしまうんだけどね。そして隣の食堂には、いつもの顔ぶれが集まっていた……。え、天使もかよ。

【メモ】

ロバート・アルトマンは2006年11月20日、がんによる合併症のためロサンゼルスの病院で死去(81歳)。

原題:A Prairie Home Companion

2006年 105分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平

監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・レヴィ、トニー・ジャッジ、ジョシュア・アストラカン、レン・アーサー 原案:ギャリソン・キーラー、ケン・ラズブニク 脚本:ギャリソン・キーラー 撮影:エド・ラックマン プロダクションデザイン:ディナ・ゴールドマン 衣装デザイン:キャサリン・マリー・トーマス 編集:ジェイコブ・クレイクロフト 音楽監督:リチャード・ドウォースキー
 
出演:ケヴィン・クライン(ガイ・ノワール)、ギャリソン・キーラー(ギャリソン・キーラー)、メリル・ストリープ(ヨランダ・ジョンソン)、リリー・トムリン(ロンダ・ジョンソン)、ウディ・ハレルソン(ダスティ)、リンジー・ローハン(ローラ・ジョンソン)、ヴァージニア・マドセン(デンジャラス・ウーマン)、ジョン・C・ライリー(レフティ)、マーヤ・ルドルフ(モリー)、メアリールイーズ・バーク(ランチレディ)、L・Q・ジョーンズ(チャック・エイカーズ)、トミー・リー・ジョーンズ(アックスマン)、ロビン・ウィリアムズ

愛の流刑地

銀座シネパトス2 ★★

■裁判の結果をありがたがるとは

作家の村尾菊治(豊川悦司)は、人妻の入江冬香(寺島しのぶ)を情事の果てに扼殺したと警察に電話する。逮捕から裁判へと進むが、村尾は扼殺は冬香にたのまれた上でのことで、愛しているからこその行為だったという。

冬香には3人の子供がいるのだから無責任には違いないが、たとえそうだとしても非難するには当たらないだろう(それに、嘘の生活を続けても責任のあることとはいえないし)。2人のことは2人で決着をつけるしかないのだから。それでも子供の存在は、冬香を死にたくさせたかもしれないとは思う。幸せなままでいたいための死なのだから。

しかし問題なのは、村尾が冬香の真意を理解しないうちに、懇願されるまま首に手をかけ殺してしまったことだ。

村尾に会って生きている感じがすると言っていた冬香が死にたいと口に出すようになったのは、先に書いたことでほぼ言い尽くしているだろう。が、村尾は、冬香に会うまでが死んでいたのであって、冬香に会ってからは創作意欲も出てきて(昔は売れっ子だったが、最近は何も書けずにいる作家という設定)小説を書き上げたいし、君と一緒に生きたいと言っていたのにだ。

そういう意味では冬香は、子供(小説)が出来るまでは待っていたともいえるが、とにかく殺人を犯した当の村尾がやってしまった後で困惑しているのでは、観ている方はさっぱりである。

映画は裁判を通しながら、村尾と冬香の出会い、密会場面をはさんで進行していく。裁判の争点を、2人の愛の軌跡と重なり合わせるように明かしていこうというのだろう。構成はわかりやすくとも、そもそも裁判には馴染まない内面の問題を扱っているのだから、おかしなことになる。

村尾もそのことは自覚していて、「刑はどんなに重くなってもいいから彼女をもうこれ以上人前に晒したくない」「愛は法律なんかでは裁けない」「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか。この裁判は何もかも違っている」というようなことを何度も発言しているのだが、だったら何故そんな裁判に彼は付き合うのか。裁判という手続きからは逃れられないというのがテーマならともかく、村尾は、最後には裁判結果の懲役8年を、冬香から与えられた刑としてありがたがっているのだから、わけがわからない。

私の理解を超えているのでうまく説明できないのだが、村尾は自分が、冬香から「選ばれた殺人者」だったことに気づく。そして、だから冬香のためにどんな処罰も受けたいのだとも言う。また、冬香からも、自分が死んだ後に村尾が読むことを想定した手紙(村尾を悪い人と言いながら、舞い上がった自分には罪があるのであなたに殺してもらうというような内容)が届いて、村尾は自分の認識が間違っていないことを確証して終わるのだが、この結論に至るまでのぐだぐださにはうんざりするばかりだ。

村尾と冬香の愛の形を補足するために、女検事の織部美雪(長谷川京子)も重要な役を与えられている。彼女は自分の検事副部長(佐々木蔵之介)との恋愛関係が、愛より野心が優先されたものであることから(これについては自分でも納得していたようだ)、冬香の生き方に次第に共感するようになるのだが、長谷川京子の演技がひどく、対比する以前にぶち壊してしまっていた。

もっともこれは演技だけの責任ではなく、ことさら女を強調したような服装で登場させた監督の責任も大きいだろう。村尾が愛の行為を録音していたボイスレコーダーを証拠に、嘱託殺人として争うことを持ちかける弁護人役の陣内孝則や、冬香の夫の仲村トオルも浮いていては、裁判場面は嘘臭くなるばかりで、映画が成立するはずもない。

村尾の無実を疑わない高校生の娘高子(貫地谷しほり)や、村尾を怨みながら「後悔していないから」と言い残して出ていった冬香の本当の気持ちが知りたい母(富司純子)も登場するが、これは村尾に配慮しすぎで、しかしこれは原作者である渡辺淳一の都合のいい妄想に思えなくもない。

なにしろ村尾の昔のベストセラーは、18歳の女性が年上の男たちを手玉に取る話で、これを高子だけでなく、冬香も18の時に読んで心酔したというのだから。そういえば村尾の新作は、文体が重くて若者に受けないとどこの出版社からも断られてしまうのだが、これについても冬香に「この子(小説)はいつか日の目を見る」と言わせていた。ま、とやかく言うことでもないのだけどね。

【メモ】

原作の『愛の流刑地』は、2004年11月から2006年1月まで日本経済新聞で連載され、内容の過激さからか「愛ルケ」という言葉が生まれるほどの話題となった。

映画の村尾は45、冬香は32歳という設定。

冬香という熱心なファンを紹介することで、村尾に少しでも書く気が起きてくれたらと思ったと言う魚住祥子に、織部は「生け贄を差し出した」と皮肉っぽく評していたのだが。

寺島しのぶに敬意を払ったと思えるきれいな映像もあるが、街並みにオーバーラップさせたり、太陽を持ってきたりする場面は大げさでダサイだけだ。

2006年 125分 ビスタサイズ R-15

監督・脚本:鶴橋康夫 製作: 富山省吾 プロデューサー:市川南、大浦俊将、秦祐子 協力プロデューサー:倉田貴也 企画:見城徹 原作:渡辺淳一『愛の流刑地』 撮影:村瀬清、鈴木富夫 美術:部谷京子 編集:山田宏司 音楽:仲西匡、長谷部徹、福島祐子 主題歌:平井堅『哀歌(エレジー)』 照明:藤原武夫 製作統括:島谷能成、三浦姫、西垣慎一郎、石原正康、島本雄二、二宮清隆 録音:甲斐匡 助監督:酒井直人 プロダクション統括:金澤清美

出演:豊川悦司(村尾菊治)、寺島しのぶ(入江冬香)、長谷川京子(織部美雪/検事)、仲村トオル(入江徹/冬香の夫)、佐藤浩市(脇田俊正/刑事)、陣内孝則(北岡文弥/弁護士)、浅田美代子(魚住祥子/元編集者、冬香の友人)、佐々木蔵之介(稲葉喜重/検事副部長)、貫地谷しほり(村尾高子/娘)、松重豊(関口重和/刑事)、本田博太郎(久世泰西/裁判長)、余貴美子(菊池麻子/バーのママ)、富司純子(木村文江/冬香の母)、津川雅彦(中瀬宏/出版社重役)、高島礼子(別れた妻)

松ヶ根乱射事件

テアトル新宿 ★★★★

■事件が起きても起きなくても

90年代にさしかかろうという頃。鈴木光太郎(新井浩文)は、「いのししと伝説のまち」松ヶ根の警察官だ。轢き逃げにあった赤い服の女(川越美和)の検死に立ち会っていると、女は息を吹き返してしまう。池内みゆきというその女は、刑事(光石研)の質問をはぐらかしたまま、翌日には西岡佑二(木村祐一)のいる宿に帰っていった。

光太郎には双子の兄の光(山中崇)がいて、母みさ子(キムラ緑子)と姉夫婦(西尾まり、中村義洋)の鈴木畜産の仕事を手伝っている。家族は他に痴呆の祖父豊男(榎木兵衛)に父の親豊道(三浦友和)。が、豊道は愛人国吉泉(烏丸せつこ)の理容室に家出中で、泉の娘の春子(安藤玉恵)を妊娠させてしまったらしい。

らしいと書いたのは、知的障害の春子は町の人間の共有物となっていて、泉も自分の管轄下に春子がいる時は、客から堂々と金をせしめている。だから本当は誰が父親なのかわからないというわけだ。なのに、これはもう最後の方なのだが、春子がいざ出産となり泉が呼びにくると、(祖父の死からまた家に戻っている)豊道はいそいそと出かけていくのである。

ところで、例の轢き逃げ犯だが、なんと光だったのだ。それが池内みゆきにわかってしまったものだから、西岡に脅迫され、氷を割った湖に潜らされるはめになる。湖底からボストンバッグを引き上げると、中からは沢山の金の延べ棒と生首が入っていた。

西岡とみゆきは金の延べ棒を銀行で換金しようとするが、それはかなわず、が、光の世話で祖父が以前住んでいた家に堂々と居着き、さらに光に金まで要求する。で、光は鈴木畜産の金に手を付けてしまうし、幼なじみにモテるようになるからと延べ棒を20万で売りつけたりする。

光太郎は光を問いつめ、生首の存在まで確認するのだが、警官のくせに光に止められるとなんのことはない、そのことに関わるのをやめてしまうのである。この時、自分の恋人が親を連れて鈴木家にやってきて(もちろんそういう話になっていた)結婚の話をまとめるはずだったらしいのが、豊道のでしゃばり(饒舌になったのは彼のサービス精神らしい)でなんとなくヘンな空気が流れ、そのことで春子の妊娠を咎めると、逆に豊道から「なんで俺の子だって決めつけられるんだ。お前もだろ」と言われてしまうというショックなことがあったからではあるのだが。

三浦友和演じる豊道というだらしない父親は、ただ明るくて憎めないだけの男かと思っていたので、この逆襲には凄味すらあった。光太郎の追求に前回はただただとぼけていただけだからよけいそう感じてしまう。豊道のように生き生きと振る舞われては、ヤクザ者の西岡だって負けてしまいそうではないか(この対立は実現しないが)。

それにしても光太郎の中身のなさはなんなのだ。いくらなんでも豊道に指摘されるまで、春子の子のことを考えもしないとは(映像としてのヒントはあった)。光太郎が惚けたようになったからというのではないだろうが、光は単身西岡とみゆきの所へ殴り込みに行く。が、これは予想通り成功しない……。

西岡佑二と池内みゆきの出現で、平和な町がどこかおかしくなっていく、というのがこの映画の骨組みと見当をつけていたのだが、どうやらそんな簡単なものではなさそうだ。

西岡とみゆきは、どう話を付けたのか、駅の売店で本物の金を使っていますというキーホルダーを1ヶ5000円で売り出すし、あのまま祖父の家にふたり名前の表札まで飾って、見事におさまってしまうからだ。春子には子供が生まれ、恥ずかしくて外を歩けないといっていたみさ子も、多分もう平気で近所の人たちとお喋りをしているのではないか。

この町(といっても物語自体はもう少し狭い範囲で進行しているようだが)の豊道的空気の中に、あんなに異質だった流れ者の2人も取り込まれてしまったということなのだろうか。

収束した町にあって光太郎だけには、まだ派出所に出没する鼠の動き回る音が聞こえるらしい(罠にはかからないので存在は確認できていない)。彼は春子のこともそうだったように、自分に都合のいいようにしか頭を働かせられないのか、役所を訪ね、元から断たないとだめなんです、などと言いながらコロリンX(農薬か?)を撒こうとするのである。しかしこんな大それたことをしても問題にはならなかったらしい。というのもそこから場面はフェードアウトし、町の遠景となり、そのあと(私の文だと前後してしまったが)キーホルダーと表札のカットになってしまうからだ。

ああ、これで終わってしまうのか(あくまで観ている側の感覚はユルくなっている)と思っていると、突如光太郎が派出所から道に出て、拳銃を乱射する。で、すみません、もうしませんからとまた派出所に戻っていくのだ。ああ、そうだった(乱射があってもまだユルいままなのね)と、これでタイトルの乱射事件が起きていなかったことにやっと気が付くというわけである(冒頭に轢き逃げ事件があったからうっかりしてたのだな)。

それにしてもコロリンXを手にしての行動すら相手にされないのだから、こんな乱射など事件にもなるまいて。光太郎はもうそれで納得なのだろうか。

こういう映画は解釈する余地が大きいから、いくらでもいろいろなことが言えるし、勝手に遊んでしまっても楽しめる。作り手もずるいから「多少の脚色は職業上の悪癖……」といきなり断っていたしね。でもそれは置いておくにしても、やはりこの町の収束ぶりが、松ヶ根特有というのではなく、私のいる世界にもあてはまるような気がして、ちょっぴり恐ろしくなったのである。

2006年 112分 サイズ■ PG-12

監督:山下敦弘 製作:山上徹二郎、大和田廣樹、定井勇二、大島満 プロデューサー:渡辺栄二 企画:山上徹二郎 脚本:山下敦弘、向井康介、佐藤久美子 撮影:蔦井孝洋 美術:愛甲悦子 衣装:小林身和子 編集:宮島竜治 共同編集:菊井貴繁 音楽:パスカルズ エンディング曲:BOREDOMS『モレシコ』 照明:疋田ヨシタケ 装飾:龍田哲児 録音:小川武 助監督:石川久

出演:新井浩文(鈴木光太郎)、山中崇(鈴木光/双子の兄)、川越美和(池内みゆき)、木村祐一(西岡佑二)、三浦友和(鈴木豊道/父)、キムラ緑子(鈴木みさ子/母)、烏丸せつこ(国吉泉/父の愛人)、安藤玉恵(国吉春子/泉の娘)、西尾まり(富樫陽子/姉)、康すおん(立原勇三/光太郎の同僚)、光石研(刑事)、でんでん(青山周平/弁当屋)、榎木兵衛(鈴木豊男/祖父)、中村義洋(富樫圭一/姉の夫)、鈴木智香子(荻野セツ子/恋人)、宇田鉄平(坂部進/べーやん)、桜井小桃(富樫真由)

リトル・ミス・サンシャイン

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■たまたま家族というバスに乗り合わせた人たち(って家族なんだけど)

父のリチャード・フーヴァー(グレッグ・キニア)は大学か何かの講師なのだろうか。小さな教室で、人数もまばらながら、怪しげな成功理論(負け犬にならないためのプログラム)を説いていた。もっともそれを出版しようという奇特?な話も進んでいるようだ。

母のシェリル(トニ・コレット)は手抜き料理主婦ながら、一応は家族のまとめ役になっている。夫とは意見の合わないことが多いようだが、でも出版話にはその気になっている。病院からフランクを自分の家に連れてくる兄思い。

祖父(アラン・アーキン)はヘロイン常用者で、老人ホームを追放されてしまうような不良老人だ。15歳の童貞の孫ドウェーンに「1人じゃなく大勢と寝ろ」と大真面目に助言する。言いたい放題に生きているが、オリーヴとは仲良しだし、後には父を励ます場面もある。

叔父(母の兄)のフランク(スティーヴ・カレル)はゲイで、これは本人の弁だが、アメリカ有数のプルースト学者らしい。もっとも失恋、自殺未遂、入院、失職と不幸続き。あまりにまとまりのないフーヴァー一家を目の当たりにしたのは怪我の功名で、抗鬱剤よりそれが効いたのではないか。自殺どころではなくなったようだ。

兄のドウェーン(ポール・ダノ)は、日課のトレーニングを欠かさない。空軍士官学校に入学するまではと無言の誓いを立てていて、もう9ヶ月もだんまりを続けているが、真相は家族を嫌っていることにあるようだ。ニーチェに心酔している。

妹のオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は7歳。なによりミスコンで優勝するのが夢。ビデオでの研究に余念がない。アイスクリームには脂肪がたっぷりと言われて食べるのを悩むのは、ちょっと肉付きがいいことを本人も気にしているのだろう。

この6人がレンタルしたフォルクス・ワーゲンのミニバスで、アリゾナからカリフォルニアを目指すことになる。地方予選優勝者の失格があってオリーヴが繰り上げ優勝し、レドンド・ビーチで行われる美少女コンテスト(リトル・ミス・サンシャイン)の決勝出場資格を得たのだ。

何故全員で、といういきさつの説明が少しばかりうまくないが、まあ日常というのは何事もすべてが理路整然としているわけではないので、よしとしよう。つまり全員がオリーヴの応援という熱い思いがあるわけではなく、あくまで成り行きという流れである。

で、旅の過程で各人は、それぞれ人生の岐路に直面することになる。出版話が消えたリチャードは、それに期待していたシェリルとモーテルで大喧嘩。フランクは元恋人に普通の趣味のエロ雑誌(祖父のリクエストだった)を見とがめられるし、ライバルの本がベストセラーになるという屈辱を味わう。祖父はヤク中があっけない死をもたらし、ドウェーンは2.0の視力ながら色弱だということが判明し、パイロットになる夢を断念せざるをえない。

成り行きが少しずつ変わってはくるものの、ここにあるのは家族の絆というような確固たるものではなく、てんでバラバラの個がかろうじて家族という名のバスに乗り合わせている姿である。自分を主張して叫んではいるが、なんのことはない、個としても全員が落ちこぼれの烙印を押されてしまうというわけである。

最後に待ち受けるオリーヴが出場する美少女コンテストは、普通なら奇跡の優勝とでもしそうなところだが、はじまってすぐリチャードに他の出場者とレベルが違いすぎると言わせてるくらいで(ドウェーンは大会そのものが恥ずかしいとやはり反対するが、シェリルは本人が頑張っているのだからやらせたいと言う)、実際その通りの展開となる。何しろオリーヴの踊りは祖父の教えたストリップダンスときているから、コンテストの主催者からは顰蹙を買い中断を迫られる。が、やけくそになった家族が舞台にあがって、収拾のつかないものになる。

余談だが、この美少女コンテストでの他の挑戦者たちの気色の悪さには驚く。厚化粧で媚びを売る姿は大人の縮図なだけで、子供らしさなどまるでない。少ないながらオリーヴの下手くそなダンスに拍手が湧いたのもうなずける(けど、ストリップダンスだとこれも媚びを売っていることになるのだが、この場合はオリーヴにそんな気などないのだと、好意的に解釈しておこう)。

誰に共感できるというのでもなく、どころかその落ちこぼれ加減さにはため息をつくしかないのだが、そんな人間の寄せ集めであっても、そうたとえクラッチが故障したバスであっても(クラクションが断続的に鳴るのはうるさくてかなわないが)、工夫してみんなで押せば発進できるということを映画は教えてくれるのである。「さあ、帰るとするか」と帰っていく姿もそのままだから、みじめなんだけどね。

バスのアイディアは少々図式的ながら素晴らしいもので、そこにまぶされた挿話には無駄がない。ただ最後のコンテストがやや長いのと、オリーヴのダンスが下手くそすぎて、これでどうして繰り上げとはいえ決勝の出場権がえられたのかと思ってしまうのが難点だ。ビデオで研究しているにしては情報収集不足だし(ごめん、7歳でしたね)。

【メモ】

人間には2種類いて、勝ち馬と負け犬というのがリチャードの持論。こんなのを毎日きかされていたらドウェーンでなくてもたまらない。

ドウェーンの愛読書?は『ツァラトゥストラはかく語りき』で壁には大きなニーチェの絵が描かれていた。

祖父のリチャードへの励ましは「お前はよくやった。本当の負け犬は、負けることを恐れて何も挑戦しないヤツ」というもの。

荒れるドウェーンをなだめたのはオリーヴ。そばに行き、だまって抱きしめるだけなのだが。ドウェーンはそれまでの筆談をあっさり放棄。普通に喋るようになる。

オリーヴのダンスに好意的だったのは、ミスのお姉さん、ミキシングの人。あと、美少女コンテストは常連らしい無愛想な男の観客が大声でいいぞーと言っていた。

バスは早々にクラッチが故障。部品も休日で取り寄せることができず、下りの坂道か押せば走らせられるとアドバイスされて……。さらにドアは取れるし、クラクションは鳴りやまず、警官にも目をつけられてしまう。この時バスには移動許可の下りていない祖父の死体があったのだが、これは祖父のエロ雑誌で難をまぬがれる。

原題:Little Miss Sunshine

2006年 100分 サイズ■ アメリカ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス 製作:アルバート・バーガー、デヴィッド・T・フレンドリー、ピーター・サラフ、マーク・タートルトーブ、ロン・イェルザ 脚本:マイケル・アーント 撮影:ティム・サーステッド 衣装デザイン:ナンシー・スタイナー 編集:パメラ・マーティン 音楽:マイケル・ダナ
 
出演:グレッグ・キニア(リチャード・フーヴァー)、トニ・コレット(シェリル・フーヴァー)、スティーヴ・カレル(フランク)、アラン・アーキン(祖父)、ポール・ダノ(ドウェーン・フーヴァー)、アビゲイル・ブレスリン(オリーヴ・フーヴァー)、ブライアン・クランストン、マーク・タートルトーブ、ベス・グラント、ゴードン・トムソン、メアリー・リン・ライスカブ、マット・ウィンストン、ジェフ・ミード、ジュリオ・オスカー・メチョソ

ドリームガールズ

TOHOシネマズ錦糸町-2 ★★★☆

■60~70年代の音楽ビジネス(モータウンレコード)の世界をミュージカルに凝縮

エフィー・ホワイト(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)の仲良し3人組はドリーメッツを結成しデトロイトでタレントコンテストに出場するが、中古車販売会社のカーティス・テイラーJr.(ジェイミー・フォックス)の裏取引で優勝を逃してしまう。カーティスは彼女たちに人気歌手ジミー・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスにならないかと持ちかける。

ツアーにあけくれ、女癖の悪いジミーに夢中になってしまうローレルや、マンネリ気味のジミーの様子、エフィーの兄でドリーメッツをある部分でリードしていた作曲家のC.C.ホワイト(キース・ロビンソン)がジミーに曲を売り込んだり、白人に曲(「キャディラック」)をパクられる事件があったり、だからDJには金を掴まさなくては……と、映画は快調に飛ばしていく。ツアー中のバスの窓からの風景や、ラジオの曲が聞こえないからと雪の橋をUターンする場面なども効果的に収められていて印象深い。

路線変更でジミーのマネージャーだったマーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)が降りてしまったり、3人がついにドリームスとして売り出したり、駆け足ながらまとめ方がうまく、私のように当時の背景やスターについて詳しく知らない人間にも十分楽しめる。スタイルもいつのまにか歌い出しているという正真正銘のミュージカルなのだが、違和感がほとんどない。曲と歌詞が物語にぴったりだし、リハーサル場面がいつのまにか本番に変わっているちょっとした演出(2度ほどある)もいい感じだ。

結局、パワーではなく、軽いサウンドで大衆に受けるようにしたい(白人に媚びるということもあったようだ)というカーティスによって(C.C.ホワイトも同調する)、もともとリードボーカルだったエフィーに代わって、容姿端麗なディーナを前面に売り出すことになる。声が大きすぎると注意されたエフィーは、恋人でもあったカーティスがディーナにも手を出していることに嫉妬。ふてくされて遅刻をしたら代役が立てられていて、自分の場所がないことを知る。

一方、ディーナの人気は鰻登りで、ヒット曲を連発する。エフィーは、自分には歌しか歌えないから職を探しても無駄と言ってそう間をおかないで登場するのだが、この時はもう7歳くらいの娘(後ではもうじき9歳と言っていた)がいて、おいおい、あ、これはミュージカルだったのだ、と。つまりそれだけよく出来ているということなのだが。

ジミーの凋落。ヘロインによる死。マーティーとC.C.ホワイトの協力でエフィーは新曲を歌うが、今度はカーティスが汚いやり方でそれをディーナの曲として売り込み、大ヒットとなる。ディーナには主演映画の話までやってくるが、カーティスとはそのことでもめ、君の声には深みがないとまで言われてしまう。

ディーナのモデルはダイアナ・ロスらしいが、それよりも(疎いからでもあるのだが)この皮肉はビヨンセ・ノウルズにはね返るものでもあるから、そのことの方が気になってしまう。ま、そんなことは百も承知で演じているわけなのだが、ジェニファー・ハドソンの歌いっぷりがすさまじく、歌唱力だけではスターになれないという彼女の立場(実際2004年にアメリカの人気オーディション番組で決勝まで残りながら優勝出来なかったらしい)が、物語を飛び越えてきそうな迫力となって面白い状況を作り出している(もっとも、私などこの映画を観ている時はともかく、単純に音楽だけを聴くとなると、ここまで歌いこまれてはちょっと、の口だ)。

ラストは、ドリームスの(ディーナが真相を知った末の)解散コンサートで、最後の曲はドリームスの3人にエフィーが加わっての舞台となる。その歌の最中にカーティスは、座席にエフィーの娘を見つけ近づいて行く。

これはカーティスが自分の子供ということに気づいたということを描写したつもりなのだろうが、ひどい手抜きだ(これだったらない方がすっきりする)。最後の最後でこれは惜しい。途中エフィのごね方が少しくどく感じたのと合わせて、数少ないミスではないか。

 

【メモ】

第64回米ゴールデン・グローブ賞作品賞(ミュージカル/コメディ部門)、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞
第79回米アカデミー賞 助演女優賞受賞(ジェニファー・ハドソン)、録音賞受賞

原題:Dreamgirls

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ビル・コンドン 製作:ローレンス・マーク 製作総指揮:パトリシア・ウィッチャー 原作:トム・アイン 撮影:トビアス・シュリッスラー プロダクションデザイン:ジョン・マイヤー 衣装デザイン:シャレン・デイヴィス 編集:ヴァージニア・カッツ 振付:ファティマ・ロビンソン 作詞:トム・アイン 音楽:ヘンリー・クリーガー 音楽スーパーバイザー:ランディ・スペンドラヴ、マット・サリヴァン
 
出演:ジェイミー・フォックス(カーティス・テイラーJr.)、ビヨンセ・ノウルズ(ディーナ・ジョーンズ)、エディ・マーフィ(ジェームス・“サンダー”・アーリー)、ジェニファー・ハドソン(エフィー・ホワイト)、アニカ・ノニ・ローズ(ローレル・ロビンソン)、ダニー・グローヴァー(マーティー・マディソン)、キース・ロビンソン(C.C.ホワイト)、シャロン・リール(ミシェル・モリス)、ヒントン・バトル(ウェイン)、ジョン・リスゴー(ジェリー・ハリス)、ロバート・チッチーニ(ニッキー・カッサーロ)

世界最速のインディアン

テアトルタイムズスクエア ★★★☆

テアトルタイムズスクエアに展示されていた、実際の撮影に使用された「インディアン」この展示は大人気で、写真を撮っている人が大勢いた

■世界最速を目指す男が誰からも愛されるのは何故だろう

ニュージーランドの片田舎インバカーギルに住むバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)はオートバイで速く走ることに憑かれた男だ。朝早くから騒音をふりまき、庭は放ったらかしだから近所の評判もよろしくない。しかし隣の家の少年トム(アーロン・マーフィ)には好かれていて、2人でバイクの改造に余念がない。

バートはすでに63歳、愛車の1920年型インディアン・スカウトは40年以上も前の代物だが、彼独自の改造(無造作にタイヤを削ったり、昔のエンジンを溶かしてピストンを作ったり、パーツに日用品を使ったりだから心配になってしまうのだが、すべて緻密に考えてのことなのだ)で ニュージーランドでは敵なし。バートは、自分が一体どのくらいのスピードが出せているのか知りたくてしかたがない。そんな彼が友人たちの援助(家を抵当に入れ金も借りて)で、夢だった米国ユタ州ボンヌヴィルの塩平原で開かれるスピード記録会に出場することになる。

破天荒な物語だが実話という。しかも、彼がこの時作った記録は今も破られていないというから驚くばかりだ。

映画は、夢の実現に踏み出すまでと、貨物船に乗り込み(船賃を浮かすためコックとしてなのだ)アメリカに上陸してからはボンヌヴィルまでの長い行程、そして記録会での活躍と順を追って、さながらバートの歩調に合わせたかのようなゆったりとしたペースで進んでいく。

インディアンの船荷が崩れていたり、入管事務所で尋問されたり、牽引トレーラーのタイヤがはずれる事故、あげくは記録会の登録はとっくに締め切られているし、自身は心臓と前立腺の調子が悪いときていて、つまり問題はいろいろ起きるのだが、その都度自力で、それがダメな時は助けがあらわれて、となんとかなってしまう。困難を前にバートは悲嘆にくれるでもなく、まあ出来るところまでやってみようと鷹揚に構えていて、でも決して諦めてはいない。そしてそれを観ている側は、失礼なことながら、何だか愉快な気分になっているというわけだ。

最初に「評判がよくない」と書いたが、しかしトムの両親などあんなに文句を言っていたのに、バートが記録会に出ることを知るとコレクトコールでいいから電話しろとトムに言わせている。誕生会を開きカンパを募ってくれる仲間もいれば、本気で彼のことを考えてくれる女友達もいるし、旅の行程で次々と助け船があらわれるのもバートの人柄だろうか。

変人だし、自説は曲げないし、どころかタバコは体に悪いと見ず知らずの人間に説教までする。そんなバートなのに、何故愛されるのだろう。

バートの持っている自分がやりたいことへの強烈な情熱。多分これが周囲の人間の心を動かすのだ。誰しも夢はあっても、羞恥心や自尊心や世間体や経済力や、とにかくいくらでも転がっている理屈をつけては、そんなものはとうに何処かにしまいこんでしまっているから、バートのような情熱を見せつけられると、応援せざるを得なくなるのだろう。

バートがアメリカに渡って記録を出したのは事実にしても、他の挿話の大部分は映画用に用意されたものに違いない。ロジャー・ドナルドソン描くバート像は愛らしさに満ちているが、それが出来るということは本当に素敵なことだ。

もっともバートがバートらしくしていられるのは、これが60年代だからだろうか。今だと、私のように速度記録など環境破壊でしかない、とイチャモンをつける人間もいそうだ。気分のいい映画を観ることが逆に、世知辛くて住みにくい世の中になっていることを実感することになるのだから、なんともめんどーではある。

書きそびれてしまったが、記録会でバートがインディアンにのって爆走する場面は見物だ(こういう場面がよくできているかどうかはかなり肝腎なのだ)。ただひたすら真っ直ぐ突っ走るだけなのに、知らないうちに身体に力が入っていた。これも多分ここまでの挿話の積み重ねが効いていると思われる。

 

原題:The World’s Fastest Indian

2005年 127分 シネスコサイズ 製作国:アメリカ、ニュージーランド 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳協力:モリワキエンジニアリング

監督・脚本:ロジャー・ドナルドソン 製作:ロジャー・ドナルドソン、ゲイリー・ハナム 撮影:デヴィッド・グリブル プロダクションデザイン:J・デニス・ワシントン (アメリカ)、ロブ・ギリーズ(ニュージーランド) 編集:ジョン・ギルバート 音楽:J・ピーター・ロビンソン
 
出演:アンソニー・ホプキンス(バート・マンロー)、クリス・ローフォード(ジム・モファット/記録会出場カーレーサー)、アーロン・マーフィ(トム)、クリス・ウィリアムズ(ティナ・ワシントン/モーテルの受付嬢?)、ダイアン・ラッド(エイダ/未亡人)、パトリック・フリューガー(ラスティ/ベトナム休暇兵)、ポール・ロドリゲス(フェルナンド/中古車販売店店主)、アニー・ホイットル(フラン/郵便局員の女友達)、グレッグ・ジョンソン、アントニー・スター、ブルース・グリーンウッド、ウィリアム・ラッキング、ウォルト・ゴギンズ、エリック・ピアポイント、ジェシカ・コーフィール、クリス・ブルーノ

ダーウィンの悪夢

新宿武蔵野館3 ★★★

■「悪夢」として片付けられればいいのだが……

『ダーウィンの悪夢』というタイトルは、映画の舞台となったヴィクトリア湖が「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていることからとられたようだ(これについては、ティス・ゴールドシュミット著、丸武志訳『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』という恰好の本があるので詳しくはそれを参照されたい。読んだのは紹介文だけだが、なかなか興味深かそうな本である)。ここのナイルパーチは、日本のブラックバスと同じく、外来種の導入が既存の生態系を破壊した例として有名だが、そのナイルパーチを肴にタンザニアの現状を切り取って見せたドキュメンタリーである。

肉食のナイルパーチの放流(漁獲高をあげる目的で導入されたらしいが、正確なことはもはや不明という)で、在来種のシクリッド・フィッシュ(熱帯魚)は絶滅の危機に直面する一方、ナイルパーチによってその捕獲から加工、輸出までの一大産業が成立するに至る。

映画はムワンザ市のその周辺をくまなく描写していく。加工業者と工場、輸出に不向きな部分の行き先、EUに魚を空輸する旧ソ連地域のパイロットたち、その相手をする娼婦たち、蔓延するエイズ、ストリートチルドレンなど。目眩のするような内容なので、詳しく書く気分ではないのだが、そのうち印象的なものをいくつかあげておく。

一番の衝撃はナイルパーチのアラがトラックで運び込まれる集積場だ。アラを天日干しにしているのだが、蛆だらけだし、煙があちこちで充満している。残骸からはアンモニアガスも出るという。加工場の清潔さに比べるとなんともはなはだしい差である。

子供たちが食べ物を奪い合う場面がある。ただでさえ少ない量なのに、一部では取っ組み合いになって、それは地べたにまかれ、口にはほとんど入らない。

前任者が殺されたため職にありつけたという漁業研究所の夜警の男は、戦争を待ち望んでいる。夜警よりずっと稼げるからだと言う。

パイロットたちと酒場で興じる娼婦たち。その中のひとりは客に殺されてしまい、後では画面に姿を見せることがない。

飛行場のそばにいくつも散らばる飛行機の残骸。まるで飛行機の墓場のようだ。なるほどと思うほど頻繁に飛行機が飛び立っていく。事故は荷の積み過ぎが原因らしい(管制塔の描写もあって、それを見ているとそればかりとは思えないのだが)。

飛行機は空でやってきてナイルパーチを目一杯積み込んでいく。往路では武器が満載されていて途中のアンゴラなどで降ろされているのではないか。製作者はそれを証明したかったようで、ジャーナリストやパイロットの証言も出てくるが、限りなく怪しいというだけで決定打にまではなっていない。

映画ではこれらがまるでナイルパーチによってもたらされたかのような印象を与えるが(宣伝方法のせいもあるかも)、これだけで判断してしまうのはやはり一面的で手落ちだろう。タンザニアのことをあまりに知らなさすぎる私に言えることは何もない。ただたとえ一面的ではあっても、切り取られていた風景はどれも寒々しいものばかりで、当分脳裏から離れてくれそうにない。短絡的と言われてしまうかもしれないが、人類は滅亡するしかないという気持ちになってしまう映画だった。

【メモ】

2004年 ヴェネツィア国際映画祭 ヨーロッパ・シネマ・レーベル賞
2005年 山形国際映画祭 審査員特別賞 コミュニティシネマ賞
2006年 セザール賞 最優秀初監督作品賞、アカデミー賞 長編ドキュメンタリー賞ノミネート

原題:Darwin’s Nightmare

2004年 112分 ビスタサイズ オーストリア、ベルギー、フランス

監督・脚本:フーベルト・ザウバー