ごくせん THE MOVIE

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★

■路上同窓会(顔見せ大会)

『ごくせん』が何なのか、映画を観るまで何も知らなかったので(今回は何故か予告篇にも出会わなかったのだな)、ヤンクミとか言われても何が何だか、なのだった。

成田空港での、ハイジャック犯を投降させてしまう場面には少々面食らったが(それにこれは大分たってから教えてもらえるのだが、犯人説得って、ありえねー)、ヤンクミのキャラクターと行動パターンはすぐ理解出来るわかりやすさだった。というか脚本が単純すぎるという側面もあるのだが。

数々の事件だか難敵教え子だかを攻略してきたらしいヤンクミだが(だから知らないんだってば)、今度の生徒たちとはまだ馴染めるまでにはなっていなかった。そこにかつての教え子の小田切が、教育実習生としてやってくる。自分と同じ道を選ぼうとしている小田切の姿に、勘違い感動に震えるヤンクミは「一緒に生徒の為に汗を流そうじゃないか」と言うのだが、小田切は「いっそう暑苦しくなったな」とそっけない。大学には行ったもののいまだに何をしていいのか迷っているのだった。

極道一家に育てられたヤンクミ(それで「ごくせん」なのか、って鈍くてスマン)は、義理人情に厚く筋の通らないことには目をつぶっていられない。これは任侠映画の嘘部分の受け売りだから可笑しいのだけど、まあ、生徒(仲間)のためなら命がけ、というのはともかく、やたら昔の青春ドラマのノリで熱くなって「夕陽に向かって走るぞ」って、これ、今だとかえって受けるのかしら。

とにかくヤンクミがあり得ないキャラなので、そのつもりで観るしかないのだが、やっぱり暑苦しいのだった。ギャグも寒いし。

でも一番の欠点はやはり脚本で、生徒と他校生のいざこざが暴走族との対決にエスカレートしてしまうのもありきたなら、割のいいバイトにひかれた卒業生の風間が覚醒剤取引に関わってしまい、それが今をときめく花形IT企業の経営者黒瀬健太郎に繋がっていたというメインの話に至っては、みちゃいられないレベルだ。

んで、これはヤンクミならではなのかもしれないが、その悪玉の黒瀬にまで「もう一度償ってやり直せ」と説教を垂れるのだ。ちょっと前まで「絶対許せない」って言っていたのに(もっともこれは黒瀬が、ヤンクミが昔好きだった人に似ているという伏線があって、黒瀬の衆議院議員立候補演説にメタメタになってしまった自分が許せなかったとかね)。

こんな勘違い単細胞ヤンクミを大真面目で演じている仲間由紀恵は、偉いというか何というか、とにかく七年もこの役を演じてきた底力みたいなものがあった、って褒めすぎ? とはいえ、テレビの連続ドラマならともかく、このノリで二時間一気はきついのも確かだ。

ヤンクミの信念を通す支えは、彼女の格闘術(握力も強いのね)なのだが、これはヘボかった。今の技術ならもっとまともなアクション場面にだって出来るだろうに。でも結局は腕っぷしが強いというのはどうもねぇ。

私としては、ヤンクミが信念を通そうとすると、必ず大江戸一家や、今までヤンクミの世話になってきた誰かが、その手助けをしてしまう、または知らないうちに手助けしてしまっていたというような話にしてほしかったのだが。でもそれだと、イメージが違っちゃうのかしら。

キャストも全部テレビからのをそのまま移行しているらしく、映画は最初からヤンクミの「おっ、○○、久しぶり」の連発で、道を歩けばかつての教え子当たる、状態なのだった。なるほどこれは今までのテレビの集大成で、顔見せ大会でもあったわけだ。

  

2009年 118分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:佐藤東弥 プロデュース:加藤正俊 原作:森本梢子 脚本:江頭美智留、松田裕子 音楽:大島ミチル 主題歌:Aqua Timez『プルメリア ~花唄~』

出演:仲間由紀恵(山口久美子/赤銅学院数学教師)、亀梨和也(小田切竜/黒銀学院卒業生)、生瀬勝久(猿渡五郎/赤銅学院教頭)、高木雄也(緒方大和/赤銅学院3年D組)、三浦春馬(風間廉/赤銅学院3年D組)、石黒英雄(本城健吾/赤銅学院3年D組)、中間淳太(市村力哉/赤銅学院3年D組)、桐山照史(倉木悟/赤銅学院3年D組)、三浦翔平(神谷俊輔/赤銅学院3年D組)、玉森裕太(高杉怜太/赤銅学院3年D組)、賀来賢人(望月純平/赤銅学院3年D組)、入江甚儀(松下直也/赤銅学院3年D組)、森崎ウィン(五十嵐真/赤銅学院3年D組)、落合扶樹(武藤一輝/赤銅学院3年D組)、平山あや(鷹野葵/赤銅学院英語教師)、星野亜希(鮎川さくら/赤銅学院養護教諭)、佐藤二朗(牛島豊作/赤銅学院古典教師)、魁三太郎(鳩山康彦/赤銅学院世界史教師)、石井康太(鶴岡圭介/赤銅学院物理教師)、内山信二(達川ミノル/大江戸一家)、脇知弘(熊井輝夫/白金学院卒業生、熊井ラーメン)、阿南健治(若松弘三/大江戸一家)、両國宏(菅原誠(大江戸一家)、小栗旬(内山春彦)、石垣佑磨(南陽一)、成宮寛貴(野田猛)、速水もこみち(土屋光)、小池徹平(武田啓太)、小出恵介(日向浩介)、沢村一樹(黒瀬健太郎)、袴田吉彦(寺田雅也)、竹内力(鮫島剛)、金子賢(朝倉てつ/大江戸一家)、東幹久(馬場正義/赤銅学院体育教師)、江波杏子(赤城遼子/赤銅学院理事長)、宇津井健(黒田龍一郎/大江戸一家/久美子の祖父)

蟹工船

テアトル新宿 ★

SABU監督のコメントと撮影で使われた歯車とシンボルマークが描かれた旗。

■なまぬるさは現代的?

年に何本か体質的に受け入れられない映画にぶつかるが、この作品もそうだった。映画が素晴らしければそれを堪能すればよく、駄作であっても作品をけなしまくる楽しみというのがあって、意外とそれが面白かったりする。が、そういう気が起きない映画というのもあって、もうメモをとるのすら憂鬱なんである。あー、何から書きゃいいんだ。

とりあえず原作を読んだときに感じた悲惨さがまるでなかったことでも書いておくか。けど、私が原作を読んだのは四十年近くも前の話で、ほとんどと言っていいくらい何も覚えてないのだが。それに原作に忠実であればいいってもんでもなし……。

「今は何時だ。今日は何曜日だ」というセリフは、重労働が続いて時間の感覚がなくなっていることを訴えているのだろうが、この映画の蟹工船内にそんな感じはない。どころか、歯車(これも俺たちは歯車だ、というセリフにリンクさせたのだろうけどねぇ)を回している者はまだしも、蟹缶の仕分け作業など、見た目通りの軽作業にしか見えない。軽作業だから楽とは限らないが、その描きこみがない(言葉ではあっても)んじゃ話にならない。ま、それ以前にこの蟹工船での操業が、カムチャッカという凍り付くような北の海(特にこの部分)での、つまり逃げ場のない労働なのだ、ということすらあまり伝わってこないのだが。

長時間労働にしては全員で議論したり愚痴り合ったりする時間が案外たっぷりあるようで、だから労働はきついのだろうが、搾取されているという図式までにはならない。なにしろ、みんなが語り出すこれまでの貧乏生活自慢の方が、蟹工船より悲惨に見えてしまうのだ。このイメージ映像は逆効果としか思えないものではあるが、貧乏比べになっているだけまだ見ていられるのだが、これと対になっているかのようなお金持ち(に生まれ変わったら)イメージ映像の陳腐さといったらなく、監督の感性を疑いたくなった。

その貧乏自慢を後ろ向きと決めつける新庄が、前向きだからと提案するのが集団自殺。どうやっても勝てないから来世に賭けるというのだが、そんな妄想でみんなを煽動するなんてどうかしている。お前が一番後ろ向きだとか、死にたくないという奴もいたのに、そろそろ楽になろうぜと、という新庄の言葉に、いつのまにか全員で首つりをしようとしているのだからたまらない。船が大きく揺れたものだから踏み台が外れて未遂に終わる、って、これも馬鹿らしい。

運良くロシア船に救助された新庄と塩田は、ロシア船で歌って踊って思想転換?し、またまた運良く帰ってきて、今度は死ぬ話ではなく生きる話、とみんなが夢を語る方向へと持って行く。けど、やっていることに真実味がないし、自殺に比べたら大分マシな話とはいえ、またしても煽動されてしまう労働者どもの主体性の無さも気になる。

こんなだから彼らは、監督の浅川の言動の矛盾にも気づきもしないのだろう。浅川は蟹工船の操業を国家的事業と位置づけ、人口増に対する食料政策は日本とロシアの戦争でもあるという。そのくせ同じ蟹工船の秩父丸が救助を求めてきた時も、沈んだら保険金が入ってかえって得するなどと言っていた(これは船長への脅し文句だが)。浅川にとっては日本とロシアの戦争ではなく、他の蟹工船との戦争(=自分の成績)にすぎないことは他の場面でも明らかなのに、これについては追求されることがない。

「俺は人間の体力の限界を知っている」などと言ってはキレまくっている浅川だが、彼のしごきが空回りに見えてしまうのは、労働者の方に最初に書いたような切実さがないからだろう。だから、浅川によって絶望感がもたらせられる、という図にはならず、「俺たちの未来は俺たちの手で勝ち取ろう」という蜂起にどう繋がっていったのかもよくわからない。新しい言葉が発せられて、それになびいただけ、という印象なのだ。

だから、どうしてそうなったかがわかりにくいのだが、労働者たちは団結して浅川たちを追い詰める。が、これは日本軍の駆逐艦がやってきて、あっけなく鎮圧されてしまう。

代表者となっていた新庄の死で「代表者なんか決めなければよかった。俺たちは全員が代表者なんだ」と再度みんなが目覚めたところで終わりになるのは、多分原作がそうなのだろうが、いかにも甘い。もう一度同じことが起きたらどうするつもりなのか、何の回答も示されてないというのに。原作は悲惨さは描けていたからまだしも(というかそれ以上の比較が私には出来ないだけなのだが)、映画にはそれがないから、団結場面はおよそ現実感のないものにしか見えなかったのである。

こう言ってしまっては悪いが、映画が小説の人気に便乗したのは間違いなく、そして小説がワーキングプアに受け入れられたにしても、入場料が千八百円の映画を彼らが観るかといえばそれはあまり考えられないし、となるとこの映画は誰に観てもらいたくて制作したのかという話になってしまう(とりあえず『蟹工船』ブームで、『蟹工船』が何かを知りたい人とかは観るのかしら。でもだとしたらもう遅いような?)。

むきだしの歯車を並べた現場や、太い管が積み上げられたような労働者に割り当てられたベッド、こういうセットも内容で躓いているので、ただ奇異なものとしか映らない。タコ部屋的状況を表したいのだとしたらいかにも中途半端だろう。歯車の中に人の手を三本組み合わせた旗や鉢巻きにさえ、労働者たちの妙な余裕に思えてしまう。やはり過酷な労働という部分をおろそかにしたことが全てを台無しにしてしまったようだ。

が、よくよく考えてみると現代の労働環境が、小林多喜二の『蟹工船』ほど過酷とは考えられず、このなまぬるさは案外現代的なのかもしれない。

 

2009年 109分 ビスタサイズ 配給:IMJエンタテインメント

監督・脚本:SABU プロデューサー:宇田川寧、豆岡良亮、田辺圭吾 エグゼクティブプロデューサー:樫野孝人 原作:小林多喜二 撮影:小松高志 美術:磯見俊裕、三ツ松けいこ 編集:坂東直哉 音楽:森敬 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:NICO Touches the Walls『風人』 VFXスーパーバイザー:大萩真司 スクリプター:森直子 スタイリスト:杉山まゆみ ヘアメイク:河野顕子 音響効果:柴崎憲治、中村佳央 照明:蒔苗友一郎 装飾:齊藤暁生 録音:石貝洋 助監督:原桂之介 スーパーバイジングプロデューサー:久保田修 共同エグゼクティブプロデューサー:永田勝治、麓一志、山岡武史、中村昌志

出演:松田龍平(新庄/漁夫)、西島秀俊(浅川/監督)、高良健吾(根本/雑夫)、新井浩文(塩田/漁夫)、柄本時生(清水/雑夫)、木下隆行(久米〈TKO〉/雑夫)、木本武宏(八木〈TKO〉/雑夫)、三浦誠己(小堀/雑夫)、竹財輝之助(畑中/雑夫)、利重剛(石場/漁夫)、清水優(木田/漁夫)、滝藤賢一(河津/雑夫)、山本浩司(山路/雑夫)、高谷基史(宮口/雑夫)、手塚とおる(ロン/支那人)、皆川猿時(雑夫長)、矢島健一(役員)、宮本大誠(船長)、中村靖日(無電係)、野間口徹(給仕係)、貴山侑哉(中佐)、東方力丸(大滝/釜焚き係)、谷村美月(ミヨ子)、奥貫薫(清水の母親)、滝沢涼子(石場の妻)、内田春菊(久米の妻)、でんでん(和尚)、菅田俊(畑の役人)、大杉漣(清水の父親)、森本レオ(久米家の通行人)

群青 愛が沈んだ海の色

新宿武蔵野館3 ★☆

長澤まさみ、佐々木蔵之介、良知真次、田中美里、中川陽介監督のサイン入りポスター。

■呪いのサンゴが沈んだ海の色

じじい係数が上がって、ゆったり映画の方が受け入れやすくなっているのだが、でもこの作品ように大した内容ではないのに長いのは困りものである。

第一章は、病気で南風原島に帰ってきたピアニストの由紀子と漁師(ウミンチュ)の恋。漁師の仲村龍二は由紀子のピアノの演奏を聞いて夢中になってしまう。「芸術というのはいいものだ」などとぬかしちゃったりしてさ。すさんだ由紀子の演奏に乱れがなかったかどうか気になるところではあるが、私と同じく龍二にそこまで聞き分ける耳があったとも思えない、じゃ話にならないから、そんなことはわざわざ言ってなかったが。

それはともかく、自棄になっていた由起子だが、龍二の想いが次第に彼女を癒していく。龍二は由起子のために、女のお守りであるサンゴを二日がかりで採ってくる。「身につけていれば病気が治る」はずであったが、そして二人は結ばれはするのだが、由紀子は赤ん坊の娘を残して死んでしまう。

その娘涼子が育って、同年代が他に上原一也と比嘉大介の男二人だけの、兄弟のように育った三人の複雑な恋物語になるのかと思っていると、仲良しと好きは違って、で、あっさり決着。失恋した大介は島を去って行く。が、涼子の心を掴んだ一也も、十九歳にもなっていないのは若すぎると、結婚の許しを龍二からもらえない。龍二のようにサンゴを探してくれば一人前の漁師として認めてもらえるのではないかと懸命になる一也だったが、十日目に命を落としてしまう。これが第二章。

第三章は、一也の死のショックで精神に異常をきたしてしまった涼子のもとに、一年ぶりで大介が戻ってくる(巻頭の場面にもなっていた)。島で昔作られていた焼き物を復元したいという理由はともかく(そういや大介は那覇の芸術大学へ行ったのだった)、龍二の家に居候っていうのがねぇ。龍二には大介の力を借りてでも涼子を何とかしたいという思いがあったのだろうが……。

どの話も中途半端で深味がないかわりに(事故という大袈裟な設定はあるが)、誰にでも思い当たる部分はありそうで、だから共感が出来ないというのではないのだが(って無理に褒めることもないのだけど)、各章の要となる部分が恐ろしく嘘っぽいため、せっかく積み上げてきた挿話が実を結ぶには至らない。

なにより酷いのが死を安易に使いすぎていることで、特に一也の無駄死には、経験は少なくても彼が一応漁師の端くれであることを考えるとあんまりだろう。素潜りが得意と言っていたから過信があったのかもしれないが。そして、他にも説明がうまくいっていない部分が沢山あるのだ。

龍二は涼子に、サンゴを採ったからって一人前の漁師になれるわけではないし、家族を守るためにはまず自分を守らなければいけないと言う(これは、事故が起きる直前の会話)のだが、考えてみれば龍二のサンゴ採りも嵐の中、二日も連絡なしでやっていたのだから褒められたものではないのだが、まあ、若さというのはそんなものか。

大介の事故に至っては、その行為が唐突で、何で龍二が大介を見つけられたのかもわからないし(島のみんなが総出で探してたのにね)、涼子には母の由紀子が、そして大介には一也が来て(現れて)助かった、って、何だこれってオカルト映画だったのか、とも。

大介の行為を唐突と書いてしまったが、大介は涼子の精神が破綻しているのをいいことに彼女を抱こうとした自分への嫌悪感があった(これはわかる)。このことの少し前に、大介の焼き物作りが涼子の心を少し開いたかと思わせる場面(涼子も花瓶を作り、大介と一緒に一也の家に届ける)があるのだが、「涼子のためだったら何でもする」と大介が言った時の涼子の答えは「一也を連れてきて」だった。

けれど、だからといって大介までもがサンゴ探しとなるのは飛躍しすぎで、これではやはり呪いのサンゴ説としかいいようがなくなってしまう。

映画が茫洋としていてつかみどころがないのは涼子の精神荒廃そのもののようでもあるが、もしかしたら誰に焦点を当てているのかがはっきりしないからではないか。語り手を大介にしたのなら第一章はなくてもすみそうだし、でもだったら主人公は涼子なのか、龍二なのか。そもそもこの映画の言いたいことは何なのか。もっとしゃんとして映画を作ってほしいものだ。

あとこれはどうでもいいことなのだが、私の観たフィルムでは、題名は原作と同じ『群青』のみで、副題はどこにも表示されていなかった。

 

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス

監督:中川陽介 プロデューサー:山田英久、山下暉人、橋本直樹 アソシエイトプロデューサー:三輪由美子 原作:宮木あや子『群青』 脚本:中川陽介、板倉真琴、渋谷悠 撮影:柳田裕男 美術:花谷秀文 衣裳:沢柳陽子 編集:森下博昭 音楽:沢田穣治 主題歌:畠山美由紀『星が咲いたよ』 スタイリスト:安野ともこ ヘアメイク:小林博美 ラインプロデューサー:森太郎 音響効果:勝俣まさとし 照明:宮尾康史 装飾:谷田祥紀 録音:岡本立洋 助監督:橋本光二郎

出演:長澤まさみ(仲村凉子)、佐々木蔵之介(仲村龍二/凉子の父)、福士誠治(比嘉大介)、良知真次(上原一也)、田中美里(仲村由起子/凉子の母)、洞口依子、玉城満、今井清隆、宮地雅子

消されたヘッドライン

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■テレビじゃないんだから、じゃなかったの

よくできたサスペンスドラマと感心していたら、英BBC製作のテレビミニシリーズ『ステート・オブ・プレイ 陰謀の構図』(NHK BS2で放映されたらしい)を、舞台をアメリカにリメイクしたものだという。なるほど、よく練り込まれた脚本だ。が、ミニとはいえテレビシリーズを映画にまとめた弊害も出てしまっている。

弊害は大げさにしても、贅沢に配したキャストがもったいないくらいに、それぞれの挿話が詰め込みすぎな(というか観ている方にとってはあっさりすぎな)感じがしてしまうのだ。映画の出来が悪いというのではなく(一番悪い部分は最後だろうか)、もっともっと人物の相関図の中に入っていきたくなるのである。

女性スタッフのソニア・ベーカーが死んだという知らせに、スティーヴン・コリンズ議員が大事な公聴会で涙を見せるという出だしには、あんまりな気がしてしまったが、これと別の殺人事件が繋がっていることに気づいたワシントン・グローブ紙の記者であるカル・マカフリーが、ベテランらしい記者魂で調査を進めていく流れは、見応えがある。

カルが長髪のむさくるしいデブ男で、ちっとも颯爽としていないのもいい。『グラディエータ-』の戦士が九年でこうも変わってしまうものなのか。これがラッセル・クロウの役作りであるのならいいんだが。

新聞社の内部事情が面白い。紙媒体の新聞はもう売上増は見込めず、ウェブ版の女性新進記者デラ・フライが重用されているような雰囲気だったりするのだが、このデラが新米ながらなかなかで、カルと仕事を通して信頼関係を築いていくサブストーリーも上出来。また女編集局長のキャメロン・リンは立場上、カルの記事にいろいろな意味での圧力をかけざるを得なくなるのだが、ここらへんの匙加減もうまいものだ。

コリンズ議員に話を戻すと、彼はカルとは大学時代からの親友で、あの涙はやはりスティーヴンの不倫の証なのだった。マスコミに追われたスティーヴンは、行き場を失ってカルの家にやってくるのだが、カルにしてみればスティーヴンは情報源でもあり、しかし、それ以上にスティーヴンの妻アンにカルが惚れていたことがあり、それはお互い単純に昔のこととは割り切れずにいるようなのだ。

スティーヴンに、アンに対する愛情がもうなくなっているからいいようなものの(って書くとまずいかしら。愛情がないにしては「友達なのに俺の妻と寝た」などとも言っていた。これは相当昔の話ではないかと思うのだが?)、でもカルが、スティーヴンを助け君(アン)を守りたい、と言った時などのアンの反応にはあまり惹かれるものがなかったので、私としては少々ほっとしたのも事実。そんなだから、カルはアンにも「私はただの情報源」などと言われてしまう。

事件を追うことで、カルは自分の生き方も問われることになるのだが、そこに深入りしている暇がないのは惜しい。最初に書いたように、映画の出来がいいので、もっとこういった部分を覗きたくなってしまうのだ。現実の世界だと、人間関係は曖昧なままであることが多いのだが、小説や映画では、読者や観客はそういう部分こそを知りたいのだから。

と考えると、最後に明らかにされるコリンズ議員の企みは、やはりひねりすぎだろうか。ソニアにはいろいろ事情があって、最初こそスパイとして送り込まれたものの、スティーヴンを愛して、そして妊娠もしていては、もうそれで十分じゃないかという気になってしまったのだったが。

軍事産業の陰謀という構図が浮かんできたところで、テレビじゃないんだから、と映画の中でも言わせていたが、この結末はエンタメ指向の何物でもなく、テレビじゃないんだから、とさらに派手にしてしまったのだろうか。テレビ版にすでにあったにしても削除すべきだし(映画の方はただでさえ尺が短いのだから)、なくて加えたのなら問題だろう。

ところで、『消されたヘッドライン』という邦題はインチキで、せいぜい「消されかかった」だった。

原題:State of Play

2009年 127分 アメリカ、イギリス シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松浦美奈

監督:ケヴィン・マクドナルド 製作:アンドリュー・ハウプトマン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ポール・アボット、ライザ・チェイシン、デブラ・ヘイワード、E・ベネット・ウォルシュ 脚本:マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ オリジナル脚本:ポール・アボット 撮影:ロドリゴ・プリエト プロダクションデザイン:マーク・フリードバーグ 衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト 編集:ジャスティン・ライト 音楽:アレックス・ヘッフェス

出演:ラッセル・クロウ(カル・マカフリー/新聞記者)、ベン・アフレック(スティーヴン・コリンズ/国会議員)、レイチェル・マクアダムス(デラ・フライ/ウェブ版記者)、ヘレン・ミレン(キャメロン・リン/編集局長)、ジェイソン・ベイトマン(ドミニク・フォイ)、ロビン・ライト・ペン(アン・コリンズ/コリンズの妻)、ジェフ・ダニエルズ(ジョージ・ファーガス)、マリア・セイヤー(ソニア・ベーカー)、ヴィオラ・デイヴィス、ハリー・J・レニックス、ジョシュ・モステル、マイケル・ウェストン、バリー・シャバカ・ヘンリー、デヴィッド・ハーバー、ウェンディ・マッケナ、セイラ・ロード、ラデル・プレストン

交響詩篇 エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい

テアトルタイムズスクエア ★★

テアトルタイムズスクエアにあったサイン入りポスター(部分)

■じじいには理解不能の萌えキャラファンタジー!?

骨格はSFながらファンタジー色が妙に強くてなじめなかった。観た直後の印象はそんなに悪いものではなかったのに、何かを書き残そうとしている今、よからぬ部分ばかりが浮かんできてしまうのだ。

宇宙からやってきた謎の生命体イマージュとの戦いがもう四十五年も続いていて……というSF部分の設定も、高度な文明体同士の戦いが長続きするはずがない、と断言したい口なので、同じぶっ飛び設定でも、ハリウッド映画にありがちな、危機があっという間に拡大して、でも意外にもお間抜けな解決策で目出度し目出度し、の方がまだしもという気がする。そういえば、戦いが長期化しているのは『ヱヴァンゲリヲン』もで、これは主人公の成長ドラマを詰め込むには、その方が好都合なのかと、余計なことを考えてしまう。

また、ホランド・ノヴァク隊長率いる戦闘母艦・月光号のメンバーは「ドーハの悲劇」(付けも付けたりだよね)の生き残りで、ある実験によって通常の三倍の早さで年をとるようになってしまっている。そういう部分と幼生ニルヴァーシュ(この造型も苦手だし、戦闘機?もニルヴァーシュって何なのさ。それに、レントンだけが幼生の言葉を理解出来る選ばれし者って言われてもな)を同居させてしまう神経が私には理解できない。

エウレカが人間でなく、どころかイマージュのスパイロボットというのもどこかで聞いたような話で、でもエウレカとレントンの一途な想いにはぐっときてしまう。と言いたいところだが、これも二人の感情の流れが見えすぎてしまうのが難点だろうか。二人が最初から好き合っているのはいいにしても、そればっかりでは(見せ方に工夫がないと)、観ている方は既定路線を押しつけられた感じになる。

まあここらへんは好みの問題なのだが、エウレカの幼児時代が、ロリコン萌えキャラみたいなのもねぇ。よくわかっていないのでそういうのとは違うと言われてしまうかもしれないが、とにかく、じいさんにはついていけなかったのだ(『ポケットが虹でいっぱい』という副題を見た時に気づくべきだったか)。

テレビ版の元アニメをまったく知らない門外漢が、的外れなことを長々と書いても仕方ないのでもうやめるが(きちんと理解出来ていないことが多くて書けないってこともある)、月光号に乗り込むようになったレントンでもまだ14歳だから、これを単純に少年少女ものと思えば、そして私がそうだった頃のものに比べたら、とんでもなくよくできている(複雑すぎるともいえる)のだけどね。

  

2009年 115分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

総監督:京田知己 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 撮影監督:木村俊也 美術監督:永井一男 音楽:佐藤直紀 主題歌:iLL『Space Rock』 アニメーションディレクター:斎藤恒徳 キャラクターデザイン:吉田健一 音響監督:若林和弘 特技監督:村木靖 色彩設計:水田信子 製作:バンダイビジュアル、バンダイナムコゲームス、ボンズ、博報堂DYメディアパートナーズ、毎日放送

声の出演:三瓶由布子(レントン)、名塚佳織(エウレカ)、藤原啓治(ホランド)、根谷美智子(タルホ)、山崎樹範(ドミニク)、小清水亜美(アネモネ)

今度の日曜日に

新宿武蔵野館2 ★★★

大麻所持で逮捕されちゃったのでポスターからも消されちゃった中村俊太

■興味を持つと見えてくる

ソウルからの留学生ソラと、中年の、まあ冴えない男との交流を描くほのぼの系映画。

ソラが実習授業で与えられた課題「興味の行方」の興味は、ヒョンジュン先輩をおいて他にないはずだったが、事情はともあれ、彼とは悲しい失恋のようなことになって、変な人物に行き当たる。それが学校の用務員の松元で、他にピザ配達と新聞配達をしているのは、彼が借金まみれだからなのだった。

交差しそうもない二人が自然と繋がりができていく過程はうまく説明されているし(でも松元のドジ加減や卑屈さは強調しすぎ。もっと普通でいい)、この組み合わせだと危ない話になってしまいそうなのだが、ユンナと市川染五郎のキャラクターがそれを救っていた。あと、松元の小学生になる息子が訪ねて来るんでね。本当に(ソラが)ただの学生だとお母さんに誓って言える、と指切りまでしちゃったら、悪いことは出来ないよな。

ソラが何故日本で映像の勉強をしているかというと(注)、母親の再婚話への反発がちょっぴりと、でも一番は、ビデオレターの交換相手で、想いを寄せる先輩と同じことをしたかったからなのだが、はるばる日本へやってくると、先輩は実家の火事で父親が亡くなり、行き違いで韓国へ戻ってしまっていたのだった。

ヒョンジュンを巡る話は、彼がソラに会うのがつらくて逃げていたという事情はあるにせよ、行き違いの部分も含めて少々無理がある。だから、最初は削ってしまった方がすっきりすると思ったのだが、でもソラの心の微妙なゆれは、留学を決めたときから最後のヒョンジュンの事故死(彼の役回りは気の毒すぎて悲しい)を聞くところまでずっと続いているわけで、そう簡単には外せない。

ヒョンジュンが死んだことを聞いて、ソラは、松元が集め心のよりどころにしていたガラス瓶を積んでいる自転車を倒してしまう。落ち込むソラを松元がアパートのドアの外から執拗に語りかける場面は、ここだけ見ると、おせっかいで迷惑にも思えるが、もうこの時にはお互いに踏み込んでいい領域はわかっていたのだろう。

それに二人で松元の子供を駅に見送るあたりから、松元はソラさんは強いから大丈夫などと言っていたから、ソラがどこかに寂しさを抱えていることを見抜いていたのだろう。ソラが松元に自分の気持ちを打ち明けているような場面はなかったはずだが。興味の行方を自分のような中年男にしたことで、松元は何かを感じていたのだろうか。

やっとドアを開けたソラから瓶を割ってしまったことを聞いた松元は、ソラがなんとか修復しようとしていた瓶を「人が悲しむくらいならない方がいい」と言って全部外に持ち出して割ってしまう。「瓶なんか割れたっていいんだ。大切なのはソラさんなんだ」とも言って。

ただ、ここと、クリスマス会(瓶で音楽の演奏する練習もしていたのに)にも来ないで、ありがとうという紙切れを残していなくなってしまう松元、という結末は説明不足だし唐突だ。ソラの「興味の行方」の映像も、これでは未完成のままだろうに。

映画のテーマは何だろうか。普段見過ごしているようなこと(人)も興味を持つと見えてくる、そんなところか。あまりにも普通すぎることだけど、多分みんな見過ごしているとが沢山あるはずだと思うから……。

そういえば「興味の行方」の課題が出た授業で、せっかく韓国から来たのだからと言う級友に、ソラは「あたし、韓国代表じゃありません」と言っていた。そして映画もことさらそういうことにはこだわらず、だから別段留学生でなくてもいい話なのだが、でも隣国の韓国ともこんなふうにごく自然に付き合っていけるようになってきたのなら、それはとてもいいことだ(と書いてるくらいだからまだまだなんだろうけど)。

注:留学先は信州の信濃大学という設定である。ロケは信州大学でやったようだ(http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/2008/03/post-138.html)。

2009年 105分 ビスタサイズ 配給:ディーライツ

監督・脚本:けんもち聡 プロデューサー:小澤俊晴、恒吉竹成、植村真紀、齋藤寛朗 撮影:猪本雅三 美術:野口隆二 音楽:渡辺善太郎 主題歌:ユンナ『虹の向こう側』 企画協力:武藤起一 照明:赤津淳一 録音:浦田和治

出演:ユンナ(チェ・ソラ/留学生)、市川染五郎(松元茂/用務員)、ヤン・ジヌ(イ・ヒョンジュン/ソラの先輩)、チョン・ミソン(ハ・スジョン/ソラの母)、大和田美帆(伊坂美奈子/ソラの同級生)、中村俊太(大村敦史/ヒョンジュンのバイト仲間)、峯村リエ、樋口浩二、谷川昭一朗、上田耕一、竹中直人(神藤光司/教授)

グラン・トリノ

上野東急2 ★★★★

■じじいの奥の手

『チェンジリング』はえらく重厚な作品だったが、こちらはクリント・イーストウッドの一発芸だろうか。むろんその一発芸(最後の見せ場)に至る描写は念の入ったもので、しかし冗長に過ぎることはなく、相変わらず映画作りの才能を遺憾なく発揮した作品となっている。

無法者には銃で決着をつけるのがイーストウッドの流儀、とこれまでの彼の映画から私が勝手に決めつけていたからなのだが、最後にウォルト・コワルスキーがとった行動はまったく予想できなかった。

むしろ、銃による裁きをしたあと、どうやってそのことを正当化するのだろうかと、先走ったことを考えていて、だからこの解決策には唸らされたし、イーストウッドには、こんな映画まで作ってしまって、と妬ましい気分さえ持ってしまったのだった。

で、だからというのではないが、難癖をつけてみると、やはりこれはウォルトが先行き短い老人だったから出来たことで、誰もがとれる方法ではないということがある。ま、これはホントに難癖なんだけどね。先行き短くったって、しかもウォルトの場合は深刻な病気も抱えていたにしても、いざやるとなったら、そう簡単には出来るこっちゃないんで。しかも彼のとった行動は、タオとスーの行く末を考えた上の周到なものであって(ウォルト自身も彼なりの区切りの付け方をしている)、決して突飛でもやけっぱちなものでもないのだ。

ついでに書くと、ウォルトは妻に先立たれたばかりで(映画は葬式の場面から始まっている)ウォルトは息子や孫たちには見放された(彼は見放したんだと言うだろうが)存在だった。だから自分の死は皮肉なことに、タオとスー以外にはそれほど大きな負担にはならない場所にいたことになる。もちろんタオとスーには負担(この言葉は適切じゃないが)以上の贈り物が与えられるのだが。

実際のところこれでは、結局息子や孫たちには、ウォルトは死後も理解されないままで終わってしまいそうである。孫娘は何故ヴィンテージカーのグラン・トリノが自分にでなくタオの物になってしまったのかを、ちゃんと考えるだろうか(注1)。映画としては、考えるだろうという立ち位置にいるのかもしれないが、私は難しいとみる。ウォルトも苦虫を噛みつぶしているばかりでは駄目で、聞く耳をもたないにしても、というかそうなる前にもう少し付き合い方を考えておくべきだったはずなのだ(注2)。

難癖のもうひとつは、ウォルトの行為があくまでも法の力が整備された下で成立することで、つまり戦争やテロとの戦いでは無力だろうということである。また、囮捜査的な性格があったことも否めないだろう。ま、そこまで言ったらウォルトに銃を持たせるしかなくなってしまうのだが(注3)。また、銃弾まみれになったのも(苦しむ間もない即死と十分な証拠が得られたのは)、運がずいぶん味方してくれたような気もしてしまう。それだけ、相手がどうしようもないヤツらだった、ということでもあるのだが。

以上、あくまで難癖なので、そのつもりで。

ところでウォルトの隣人たちはアジア系(タオの一家はモン族)になっているし、最初の方でタオをからかっていたのは「メキシコ野郎」で、スーは白人男とデートしていて黒人三人にからまれる。ウォルトは、白人男のだらしなさに憤慨し、隣人や街が異人種ばかりと嘆き(でもタオの祖母は、逆にウォルトが越していかないことを不思議に思っているのだ)、罵りの言葉をまき散らす。ため息だって怪獣並なのだ(まさか。でもすごいのだな、これ)。

ウォルトはトヨタランドクルーザーを「異人種のジャップの車」といまいましそうに言うが(注4)、けれど自分はというと「石頭のポーランドじじい」で、そう言うウォルト行きつけの床屋の主人は「イカレイタ公」なんだから、そもそも異人種の中にいたんじゃないのと笑ってしまうのだが、でもまあ、旧式頭のアメリカ人には白人なら同類なんだろうな。

汚い言葉ばかり吐いているウォルトはどう見ても人種差別主義者なのだが、NFLの招待券や家を狙ってる長男夫婦やヘソピアスの孫は拒否してしまうのに、タオやスーの真面目さには心を開く。そういう部分を見てこなかった彼の家族は、ウォルトの頑固さが大きな壁だったにせよ、ちょっと情けない。

もうひとつ忘れてならないのは若い神父の存在で、彼は亡き妻にウォルトを懺悔させることを約束させられたため、何度も足を運んでくるのだが、ウォルトは「あんたは27歳の童貞で、婆様の手を握り、永遠の命を誓う男だ」と相手にしようともしない。この神父、なかなかの人物なんだけどね。

が、スーの暴行に対してウォルトの考えに理解を示したことで(あくまでウォルトとタオだったらどうするかという話ではあったが)、ウォルトは最後に神父に懺悔をする。妻にキスをしたこと。ボートを売ったのに税金を払わなかったこと。二人の息子の間に出来てしまった溝について。

ところがウォルトはこのあと、一緒にスモーキーの家に乗り込んで行くつもりでいたタオを地下室に閉じ込め、その時タオには、朝鮮戦争で人を殺したことを告白するのだ(注5)。「お前みたいな子供も殺した」とも。神父にはもっと前に、朝鮮戦争でのおぞましい記憶についてはあっさりながら語っているのだが、懺悔の時にはそのことには触れていなかった。これこそ懺悔をすべきことだったはずなのに。

懺悔をしてしまったら、いくら自分が手をくだすのではないにしても、復讐はできなくなってしまうのだろうか。ここらへんは無神論者の私などには皆目わからないのだが、ウォルトは神父を無視しているようでいて、そういうとことも意識していたのかも、と思ってしまったのだった。

注1:孫娘がウォルトのグラン・トリノに目を付けたのは、ウォルトがまだタオのことなど知らない妻の葬式のあとの集まりでだった。彼女が「ヴィンテージカー」と言った言葉はウォルトを喜ばせたはずだが、いきなり「おじいちゃんが死んだらどうなるの?」はさすがにいただけなかった。「グラントリノは我が友タオに譲る」という遺言状を聞いて憮然としていたが、あんなこと言っちゃったんじゃ、まあ、しょうがないさ。

注2:と書いたが、実は私はといえばウォルトに近いだろうか。別に血が繋がっているからといって、他の人間関係以上に大切にすることなどないわけだし。ただ私の場合それが極端になることがあるので、一応自戒の意味も含めて上のように書いてみたのである。が、この映画で私が評価したいのは、血縁関係によらない人間関係なのだけどね。

注3:もっともタオのいとこのスパイダーやリーダー格のスモーキーたちは、ウォルトの相手をねじふせないではいられない態度に(ウォルトが挑発したようなものだから)暴走しだしたという側面も否定出来ない。そうはいっても、スーに対する行為は許し難いものがあるが。そして、ウォルトがその責任を痛感していたのは言うまでもないだろう。

注4:この車で葬式に来ていた長男のミッチはトヨタ車のセールスマンで、ウォルトは長年フォードの工場に勤めていたという、なんともすごい設定になっていた。

注5:これはタオに、朝鮮で何人殺し、どんな気持ちがしたかと問われたからではあるが。ウォルトの答えは十三人かそれ以上で、気持ちについては知らなくていいと答えて、タオを地下室に閉じ込めてしまうのだ。

原題:Gran Torino

2008年 117分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナー 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ、ビル・ガーバー 製作総指揮:ジェネット・カーン、ティム・ムーア、ブルース・バーマン 原案:デヴィッド・ジョハンソン、ニック・シェンク 脚本:ニック・シェンク 撮影:トム・スターン プロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス

出演:クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー/タオの姉)、クリストファー・カーリー(ヤノビッチ神父)、コリー・ハードリクト(デューク)、ブライアン・ヘイリー(ミッチ・コワルスキー/ウォルトの長男)、ブライアン・ホウ(スティーブ・コワルスキー/ウォルトの次男)、ジェラルディン・ヒューズ(カレン・コワルスキー/ミッチの妻)、ドリーマ・ウォーカー(アシュリー・コワルスキー)、ジョン・キャロル・リンチ(マーティン/床屋)、ドゥーア・ムーア(スパイダー/本名フォン、タオの従兄弟)、ソニー・ビュー(スモーキー/スパイダーの仲間)、ティム・ケネディ(ウィリアム・ヒル/建設現場監督)、スコット・リーヴス、ブルック・チア・タオ

恋極星

新宿武蔵野館2 ★

武蔵野館に掲示してあった戸田恵梨香と加藤和樹のサイン入りポスター(部分)

■思い出なんかいらないって言ってるのに

戸田恵梨香と加藤和樹のファン以外はパスでいいかも。

菜月を男で一つで育ててくれた父も今は亡く、残された弟の大輝は精神障害があり施設で暮らしているが、何かある度に施設を抜け出しては父の経営していたプラネタリウムへ行ってしまう。菜月は、大輝のことで気の抜けない毎日を繰り返していた。そんなある日、菜月は幼なじみの颯太と再会するが、彼も難病を抱えていて……。

こんな設定ではうんざりするしかないのだが、それは我慢するにしても颯太の行動はかなり一人よがりで(カナダから日本に4年前に帰っていて、このことは菜月もけっこうこだわっていたが、そりゃそうだよね)、病気ということを差し引いても文句が言いたくなってくる。

デートで菜月を待ちぼうけにさせてしまったのは病気が悪化してのことだからともかく、問題はそのあと態度だ。こうなることは早晩わかっていたはずではないか。いや、颯太の気持ちはわからなくはないんだけどね。私だってこんな状況にいたら自分の我が儘を通してしまいそうだから。でも映画の中ではもっとカッコよく決めてほしいじゃないのさ。

「私は思い出なんかいらない。もう置いてきぼりはいや」と菜月は言っていたのに。颯太はその時「もう1回この町に来たかった」と自分の都合を優先させていたけれど、菜月の言葉もそれっきり忘れてしまったのだろうか。

颯太の甘え体質(並びに思いやりのなさ)は母親譲りのようだ。颯太の死後、菜月に遺品を渡すのだが(「つらいだけかなぁ」と言いながら、でも「やっぱりもらってほしい」と)、それは菜月が望んだらでいいのではないか。菜月には思い出を押しつけるのではなく、嘘でも颯太のことは忘れて、新しい人生を生きてほしいと言うべきだった。

で、恋人の死んでしまった菜月だが、父親のプラネタリウムを再開して(取り壊すんじゃなかったの)健気に生きてます、だとぉ。生活していけるんかい。

菜月が流星群を見るために、町の人たちに必死で掛け合って実現した暗闇も、ちょっとだけど明かりを消してくれる人もいたんだ、というくらいにしておけば納得できたのにね(だって、ふんっていうような対応をされる場面を挟んでいるんだもの)。こういう映画にイチャモンをつけても仕方がないのかもしれないが、もう少しどうにかならんもんかいな。

2009年 103分 ビスタサイズ 配給:日活

監督:AMIY MORI プロデューサー:佐藤丈 企画・プロデュース:木村元子 原案:ミツヤオミ『君に光を』 脚本:横田理恵 音楽:小西香葉、近藤由紀夫 主題歌:青山テルマ『好きです。』

出演:戸田恵梨香(柏木菜月)、加藤和樹(舟曳颯太)、若葉竜也(柏木大輝/菜月の弟)、キムラ緑子、吹越満(柏木浩一/菜月の父)、熊谷真実(舟曳弥生/颯太の母)、鏡リュウジ

感染列島

109シネマズ木場シアター4 ★★☆

■欲張りウイルス感染映画

正体不明のウイルスが日本を襲うという、タイムリーかついくらでも面白くなりそうな題材(そういえば篠田節子に『夏の災厄』というすごい小説があった)を、あれもこれもと都合優先でいじくりまわしてはダメにしてしまった、欲張り困ったちゃん映画だろうか。

まず冒頭のフィリピンで発症した鳥インフルエンザが、何故そこでは拡散せず(ウイルスが飛散する映像まで映しておいてだよ)、3ヵ月後の日本で大流行となったのかがわかりにくい(これとは関係ないようなことも言っていたし?)。新型ではないのに正体不明という言い方も素人にはさっぱりだ(映画なのだからもう少し丁寧に説明してほしいものだ)。

正体不明だからこそ、謎めいた鈴木という研究者によって、ようやくそのウイルスが解明されるわけで(新型ではないのね? しつこいけどよくわからないんだもの)、でも治療法は、結局栄子の死を賭けた血清療法が効を奏すのだが彼女は死んでしまう、って正体と治療法は別物とはいえ、映画としての歯切れは悪いし、すでに何万人にも死者を出している状態なのだから、この方法はもっと早い時期に試していてもよさそうで、これでは、悲壮感+栄子の見せ場作り、と言われても仕方ないだろう。

救命救急医の松岡が誤診?で患者(真鍋麻美の夫)を死なせてしまうことからWHOから松岡の旧知の小林栄子がメディカルオフィサー(って何だ)としてやってくるあたりは、映画としての許容範囲でも、あっという間に蔓延したウイルスが、病院を混乱に陥れ、都市機能まで麻痺させてしまうのに、松岡は治療を放り出して、仁志という学者と一緒にウイルス探しで海外に、ってあんまりではないか。

戦場と化したはずの病院が、いつまでたっても整然としていたりもする。ノイローゼになる医師は出てきても憔悴しているようにはみえないし、後半になっても朝礼のようなことをしている余裕さえあるのだ。発症源の医師(真鍋麻美の父)の行動はあまりにも無自覚で(発症後またアボンという架空の国連未加入国へ帰っている。一般人ならともかく医師なのに!?)、それはともかく彼がウイルスを持ち込んだのなら、そもそも日本にだけで病気が広まったことだっておかしなことになってしまう。医師の松岡たちも本気で感染対策をしているようには見えないし、書き出すときりがなくなるほどだ。

思いつくまま疑問点を羅列したため、話があっちこっちになっているが、私の話がそうなってしまうのも、この映画がいかに欲張っているかということの証だろう。『感染列島』と題名で大風呂敷を広げてしまったからかしらね。確かに荒廃した銀座通りなどのCGがいくつか出てくるし、1000万人が感染し300万人が死亡などという字幕に、何故日本だけが、みたいなことまで叫ばれるのだが、結局はそれだけなのである。だったら視点は松岡に限定し、場所も医療現場だけにとどめておけばよかったのだ(ついでに言うならウイルスの正体だって不明のままだってよかった)。

そうであったなら、松岡と栄子の昔の恋ももう少し素直に観ることができたかもしれない。この場面は、そうけなしたものではないしね。とはいえ、付けたしとはいえ松岡が最後は無医村で働いている場面まであっては、結局ただの美男美女映画が作れればそれでよかったのかと納得するしかないのだが。

 

2008年 138分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:瀬々敬久 プロデューサー:平野隆 企画:下田淳行 脚本:瀬々敬久 撮影:斉藤幸一 美術:中川理仁 美術監督:金勝浩一 編集:川瀬功 音楽:安川午朗 主題歌:レミオロメン『夢の蕾』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:江口由紀子 ラインプロデューサー:及川義幸 共同プロデューサー:青木真樹、辻本珠子、武田吉孝 照明:豊見山明長 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國

出演:妻夫木聡(松岡剛)、檀れい(小林栄子)、国仲涼子(三田多佳子/看護師)、田中裕二(三田英輔)、池脇千鶴(真鍋麻美)、佐藤浩市(安藤一馬)、藤竜也(仁志稔)、カンニング竹山(鈴木浩介)、光石研(神倉章介)、キムラ緑子(池畑実和)、嶋田久作(立花修治/真鍋麻美の父)、金田明夫(高山良三)、正名僕蔵(田村道草)、ダンテ・カーヴァー(クラウス・デビッド)、小松彩夏(柏村杏子)、三浦アキフミ(小森幹夫)、夏緒(神倉茜)、太賀(本橋研一)、宮川一朗太、馬渕英俚可(鈴木蘭子)、田山涼成、三浦浩一、武野功雄、仁藤優子、久ヶ沢徹、佐藤恒治、松本春姫、山中敦史、山中聡、山本東、吉川美代子、山中秀樹、下元史朗、諏訪太朗、梅田宏、山梨ハナ

劇場版 カンナさん大成功です!

新宿ミラノ2 ★☆

■全身整形で美醜問題にケリ、とまではいかず

化粧嫌いで整形などもっての外と思っていたので、初対面の人に、プチ整形など当然という話をやけに明るい口調で直接聞かされたときは、開いた口をどう閉じたものか思案に窮したことがあった(一家でそうなのだと。もう5年以上も前の話だ)。化粧をすることで自分が楽になったとは、ある女性がテレビで話していたことだが、ことほど左様に美醜問題というのは、改めて言うまでもなく、理不尽で罪の重い難しいものなのである。

人は見かけではないのは正論でも、別の基準が存在するのは周知のことで、だからって私のように、化粧は嫌いといいつつ、可愛い人(基準にかなりの振幅があるのでまだ救われるのだが)がやっぱり好きなんて、たとえ悪意なく言ったにしても、いや、悪意がないのだとしたら余計奥の深い、許されがたい問題発言なんだろう。

容姿という、今のところは個性の一部と認識されているものから解放されるためには(お互いその方がいいに決まってるもの)、日々衣服をまとうのと同じように、それが自由に選択でき、TPOに合わせた顔で出かけるようになってもいいのではないか。

前置きが長くなったが、この映画の主人公の神無月カンナは、いきなり「全身整形美人」として画面に登場する。容姿による過去の長いいじめられっ子人生が、カンナにそんなには暗い影を落としていないのは、過去については回想形式で人形アニメ処理(デジタルハリウッドだから)になっていることもあるが、でも一番は、やはり整形美人化効果が、カンナをして明るい過去形で語らせてしまうからではないか。

むろんもともとカンナには行動力があって、一目惚れした男に好意をもたれたい程度ではとどまっていられないからこそ、整形に踏み切って(500万近い金を注ぎ込んで)までその男をゲットしようと考えたのだろう。男の勤めるアパレル会社の受付嬢としてちゃっかり入社してしまうあたりの、カンナのどこまでも前向きな、でもお馬鹿としかえいない性格は、原作のマンガ(未読)を踏襲しているにしても、結果として、整形をどう考えるかという問題を置き去りにしてしまう。

こんなだから物語の流れだって、いい加減なものだ。ただ、お気楽な中にもハウツー本のような教えや美人の条件とやらが挿入されていて、これもマンガからの拝借としたら、マンガがヒットした理由も多少は頷けるというものだ。

天然美人集団の隅田川菜々子がライバル出現を思わせるが、彼女はあっさりいい人で、これは肩すかしだし、カリスマ女社長橘れい子がカンナの全身整形(カンナの出世を妬んだ社員によってカンナの過去が明かされてしまう)まで商品にしようとするしたたかさも、どうってことのない幕切れで終わってしまう。大いにもの足らないのだが、全体の薄っぺら感が逆に、マンガのページをめくるのに似た軽快さとなっていて、文句を付ける気にならない。

ではあるのだけれど、自然体のまま(カンナと同じ境遇だったのに)カンナと一緒にデザインを認められ成功してしまう(これまた安直な筋立て)カバコの方が受け入れやすいのはどうしたことか。これではせっかくカンナを主人公にした意味が……ここは何が何でもカンナに優位性を!って、ま、どうでもいいのだけれど。

ところで、カンナの目を通した画面が、昔の8ミリ映像なのは何故か。整形したら、世界はあんなふうに薄暗い色褪せたものになってしまうとでもいいたいのか。それとも、お気楽なお馬鹿キャラに見えたカンナだが、まだ過去にいじめられていた時の抑圧されて屈折したものの見方が消えずにいたということなのだろうか。明快な説明がつけられないのであれば、下手な細工はやめた方がいいのだが。

蛇足になるが、全身整形による「完全美人」として選ばれた山田優に、私はまるで心が動かされなかったのである。美醜問題は、ことほど左様に難しい……。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:ゴーシネマ

監督:井上晃一 プロデューサー:木村元子 原作:鈴木由美子 脚本:松田裕子 撮影:百束尚浩 美術:木村文洋 編集:井上晃一 音楽監督:田中茂昭 主題歌:Honey L Days『君のフレーズ』 エンディングテーマ:山田優『My All』

出演:山田優(神無月カンナ)、山崎静代(伊集院ありさ=カバコ)、中別府葵(隅田川菜々子)、永田彬(蓮台寺浩介)、佐藤仁美(森泉彩花)、柏原崇(綾小路篤)、浅野ゆう子(橘れい子)

恋とスフレと娘とわたし

新宿武蔵野館2 ★☆

■子離れ出来ない過干渉母親と末娘の××話

いくら末娘のミリー(マンディ・ムーア)に男運がないからってネットで娘にかわって恋人を募集し自ら面接って、もうそれだけでげんなりしてしまう話なのだが、母親のダフネ(ダイアン・キートン)はそんなことをするくらいだから、一事が万事で、すべてに過干渉。ダイアン・キートンはよくこんな役を引き受けたものだ。

もっとも親娘4人はすこぶる仲良しで、揃って買い物やエステに出かけているから、ネットでの恋人募集まではダフネもそうはひどい母親ではなかったのか。コメディだから大げさにせざるを得ない弊害かもしれないが、「私の言葉は絶対」という神経にはついていけない。

ネット効果?でミリーの男運は急転。今までの相手といえばゲイか既婚者か異常者ばかりだったのに、数撃ちゃ当たる(とんでもない男達を次々に見せていくあたりは芸がない)でダフネのメガネにもかなう建築家のジェイソン(トム・エヴェレット・スコット)は現れるし、面接現場に居合わせたミュージシャンのジョニー(ガブリエル・マクト)までがダフネのやっていることに興味を持って、結果、2人共ミリーに好意を寄せてくることになる。

ジョニーは子持ちで右手の甲に刺青があって、だからかダフネには「浮気なギタリスト」と最初から嫌われてしまうのだが、「偏見あるコメントをありがとう」とジョニーの方は余裕の受け答え。この優しさと安心感がミリーを二股へと進ませるのだけど、二股はないでしょ。

当然それはバレて、でもミリーも本当の愛に気付いてという流れなのだけど、そしてミリーにもそれなりのお仕置きはあるのだけれど、バレてからの右往左往だから後味は悪い。

救いはジェイソンをイヤなヤツにしていなかったことだろうか。曾祖父のキャンドルをミリーが壊してしまって不機嫌になってしまうのだが、次には別の形見をミリーへのプレゼントとして持ってきて、ちゃんと謝っていた。なかなか見上げたものなのだ。ま、とはいえ相性が合わないのでは仕方ないんだが、でも「あなたといると自分じゃない」というミリーの断り方は、ひどいなんてもんじゃない。

ダフネは一時的に声が出なくなって大人しくなるのかと思ったら大間違いで、それでも最後にはミリーへのおせっかいは「あなたを私にしたくなかった」からで、もう二度とミリーの人生には干渉しないと言ってはいた。でもあなたを私にしたくないというセリフも、とどのつまりは娘を自分と同じと考えているようで、私には感心できないのだけど。

だから、改善されるかどうか疑わしいよね、ダフネのそれ。ただ彼女もこの騒動でジョニーの父といい仲になってしまったので、当分は自分のことに忙しいだろうから、観ている方はげんなりでも、この親娘にとってはこれでハッピーエンドなんでしょう。

スフレが何なのか知らなかった私。くだらない映画でも勉強になります。

原題:Because I Said So

2007年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:東北新社 日本語字幕:佐藤恵子 字幕演出:川又勝利

監督:マイケル・レーマン 製作:ポール・ブルックス、ジェシー・ネルソン 製作総指揮:マイケル・フリン、スコット・ニーマイヤー、ノーム・ウェイト 脚本:カレン・リー・ホプキンス、ジェシー・ネルソン 撮影:ジュリオ・マカット プロダクションデザイン:シャロン・シーモア 衣装デザイン:シェイ・カンリフ 編集:ポール・セイダー、トロイ・タカキ 音楽:デヴィッド・キティ

出演:ダイアン・キートン(ダフネ)、マンディ・ムーア(ミリー)、ガブリエル・マクト(ジョニー)、パイパー・ペラーボ(メイ/次女)、トム・エヴェレット・スコット(ジェイソン)、ローレン・グレアム(マギー/長女)、スティーヴン・コリンズ(ジョー/ジョニーの父)、タイ・パニッツ、マット・シャンパーニュ、コリン・ファーガソン、トニー・ヘイル

キサラギ

新宿武蔵野館3 ★★★★

■5人が集まったのにはそれなりのわけがあった

自殺した2流アイドル如月ミキの1周忌に、ネットで知り合った家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、いちご娘(香川照之)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)という5人のオタクがオフ会で集まるというぞっとしない内容に、あまり気が乗らずにいたのだが(この映画の面白さは予告篇では伝えにくいかも)、観てびっくり。完全に作者の術中にはまっていた。

ビルの1室だけでの展開が見事。それを支えているのは5人の性格の書き分けと役割分担で、途中退席を繰り返す安男も、進行上邪魔になったからとりあえず消えてもらうというのではなく、大いに必然性があってのことだから唸らせられる。逆に言うと、無駄な人物がいないということが嘘くさいのだが、これは難癖。映画というよりは演劇を意識した作りだから当然の帰結だろう。

込み入った話ながら(だからか?)1度観ただけでは齟齬は発見できなかった。脚本がよく練られていることの証だ。肥満の激痩などというトリッキーな展開もあるのだが、これにも笑わせられた。

そして1番のいい点は、ミキの死の真相が自殺から犯罪、そして事故死と推理される過程で、5人それぞれにミキの死がある希望のようなものをもたらすだけでなく、現実としての連帯感まで生んでしまうことだ(ネット上には虚構ながらそれがあったから集まったのだろうから)。

もっともこのミキの死の推理は、意地悪な見方をすると、ミキ信者故の願望があったから導かれたのだということもできるのだが、それは当人たちも自覚していることだし、こちらも自然に、それもよし、という気持ちになっていたのだった。

これだけ楽しめたのだから大満足なのだけど、最後の宍戸錠の出てくる場面と、もう死んでしまって今は存在しない如月ミキの扱い(挿入される映像)がしょぼいのはやはり減点対象かな。

  

2007年 108分 ビスタサイズ 配給:東芝エンタテインメント

監督:佐藤祐市 原作・脚本:古沢良太 企画・プロデューサー:野間清恵 製作:三宅澄二、水野勝博、橋荘一郎、小池武久、出雲幸治、古玉國彦、石井徹、喜多埜裕明、山崎浩一 プロデューサー:望月泰江、井口喜一 エグゼクティブプロデューサー:三宅澄二 撮影:川村明弘 編集:田口拓也 音楽:佐藤直紀 主題歌:ライムライト『キサラギ』 VFXスーパーバイザー:野崎宏二 映像:高梨剣 共同プロデューサー:宮下史之 照明:阿部慶治 録音:島田隆雄 助監督:本間利幸

出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、香川照之(いちご娘)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅〈ドランクドラゴン〉(安男)、末永優衣、米本来輝、平野勝美、宍戸錠、酒井香奈子(如月ミキ)

監督・ばんざい!

銀座テアトルシネマ ★☆

■壊れてます

ヤクザ映画を封印した「馬鹿監督」(とナレーターに言わせている)のタケシが、それならといろいろなジャンルの映画に挑戦する。小津映画、昭和30年代映画、恐怖映画、時代劇にSF映画(他にもあったか?)。それぞれにまあまあの時間をとり、配役もタケシの力かそれなりに凝ったものにしてあるが、ちっとも面白くない。

いろいろなパターンを見せてくれるから飽きはしないのだが、笑えないのだ。映画をジャンル分けで考えていること自体そもそもどうかと思うのだが、それを片っ端からやって(ある意味では偉い!)否定してみせる。でもこの発想はあまりに幼稚で、観ているのがいやになってしまう。その否定の理由も、「何故女が男に尽くす映画ばかりなんだろう」とか「またギャング(ギャグではない)が出てきてしまった」とかいったもので(これもナレーターに言わせているのだな)、まともな批評になっていないのだ。批評になっていないのは自分の作品まで引っ張り出してしまっているからだろうか。

わずかに『コールタールの力道山』(劇中映画の1つ)に、『三丁目の夕日』の懐古趣味の甘さは耐えられないと言わんばかりの切り口があるが、他はひどいものばかり。特に小津映画を真似たものなんて見ちゃいられなくって(だいいち、あんな昔の映画に今頃何を言いたいのか)、これって大学の映研レベルではないかと。

で、何をやってもうまくいかないでいたのだが(いや、現実にそうなっていた?)、詐欺師の母娘が東大泉という得体の知れない人物に近づくという話だけは、どんどん進行していって……なんだけど、これがどこにもない映画なの。東大泉の秘書との恋や、何でもありの井手博士展開って、奇想天外というより安直なんですが。そりゃ面白いでしょ、タケシは。大金使って遊んでるだけなんだもの。だから「監督・ばんざい!」なのか。

最後のオチも最低。流れ星が光に包まれて爆発。全員が吹っ飛ぶと「GLORY TO THE FILMMEKER」というタイトルが表れる。これはタケシの妄想だったらしいのだ。先生にどうですか、なんて訊いていて、壊れてますという答えが返ってくる。やれやれ。自分で言うなよな。

巻頭で、タケシは等身大の人形を持って登場するのだが、この人形は何なのか。タケシでなく、人形が病院で診察を受けCTスキャンに入るのだが、まったく意味不明。もちろん勝手な解釈でいいというなら適当にデッチ上げることは出来る(いつもしてることだけど)。例えば、タケシは観客が自分のことをちゃんと見ているはずがなく、人形に置き換えてもきっと誰も気付くまいと思っているのだ、とか。あるいは、人形という分身を持ち歩かないではいられないと訴えたいのだ、とか。

でも、それもそこまでで、よーするにこねくり回してでも何かを書いておきたいという気になれないのよね。

  

2007年 104分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル、オフィス北野

監督・脚本:北野武 プロデューサー:森昌行、吉田多喜男 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 衣裳:岩崎文男 編集:北野武、太田義則 音楽:池辺晋一郎 VFXスーパーバイザー:貞原能文 ラインプロデューサー:小宮慎二 音響効果:柴崎憲治 記録:吉田久美子 照明:高屋齋 装飾:尾関龍生 録音:堀内戦治 助監督:松川嵩史 ナレーション:伊武雅刀

出演:ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、宝田明、藤田弓子、内田有紀、木村佳乃、松坂慶子、大杉漣、寺島進、六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、蝶野正洋、天山広吉

GOAL! 2

新宿ミラノ3 ★

■おそろしくつまらない

ここまでつまらない映画というのも珍しい。最初から3部作ということが決まっていることが裏目に出たか。こんなことでワールドカップ篇が作れるのか心配になる(ちゅーか、今は観たくない気分)。

ガバン・ハリス(アレッサンドロ・ニヴォラ)の不振が続くレアル・マドリードは、補強策としてニューカッスルでゴールを量産しているサンティアゴ・ムネス(クノ・ベッカー)に白羽の矢を立てる(一足先にハリスはレアルに移籍してたのね)。日本での契約交渉を経てサンティは晴れてスター軍団レアルの一員となるのだが、婚約者のロズ・ハーミソン(アンナ・フリエル)に相談もなく決めてしまったものだから、彼女に不満がくすぶることになる。

契約に縛られたサンティの代わりにロズがイギリスからスペインに行ってばかりなのに、サンティの方は豪邸を買い、ランボルギーニを乗り回し、おまけに独身男ハリスの気ままな生活に影響されてと、ロザの疎外感には気付かなくはないのだが、まるで自分たちのことではないような気分でいるのだ。

第1作で成功への道を掴むまでの過程に比べると、すでにニューカッスルではスターで、さらにレアルの一員になって、スタメンとしては使ってもらえないものの「スーパーサブ」として活躍中とあっては、その華やかさに触れないわけにはいかなかったのだろうが、やはりこんなではサンティの心境同様に浮ついたものになるしかない。

それではあんまりと、ロザとの行き違いの他、エージェントのグレン・フォイ(スティーヴン・ディレイン)との決別などでサンティを苦しめるのだが、さらにサンティにとって父の違う弟エンリケ(ホルヘ・ガルシア・フラド)を登場させている。家を捨てた母のロサ(エリザベス・ペーニャ)がスペインで生んだ子という。

ただこのエンリケの描き方は雑で、話を壊している。父親がちゃんと酒場を経営しているのに、エンリケは貧困が不満で、兄なら何故助けてくれないとロサにあたる。それだけでなく、財布は盗むし、サンティのランボルギーニを乗り回して事故まで起こしてしまうのだ。まだ子供とはいえ、ここまでやらせてしまうと同情しにくくなる。ロサは、サンティは別世界の人とエンリケを諭すのだが、とはいえサンティが兄ということを教えたのはそのロサではないか。

母親との再会は、家族を捨てた女をどう説明するかにかかっていると思うのだが、これはロサを暴行した2人の1人が伯父で、父にも言えず家を飛び出し、3週間たって戻ってみたら誰もいなかった、と納得の理由を用意してみせる。が、ロサにただ弁解させているだけだから芸がない。物語は作れても、それをどう見せるかがわかっていないのである。

この他にも、初先発でのレッドカード、遅刻、監督との確執、エージェントに騙されたハリスがサンティの元に来ての共同生活、サンティの怪我、記者への暴行、美人キャスター、ジョルダナ(レオノア・バレラ)とのパパラッチ写真といろいろあるのだが、全部が何事もなかったかのようにおさまってしまうのだ。

なにしろ、1番難題なはずのロザとのことも、サンティの謝りの電話であっさり和解、ではね。で、そこには身重になっている彼女のカットが入っていた。女はどうしても男に振り回される立場になるものね。だから、そもそもロザの要求はサンティには酷。サンティがレアルに入ることを決めた時点で(これはロザでなくサッカーを選んだのだから)結婚を解消するか、ロザがスペインに行くしかなかったのだ。

あと話題(?)のベッカム、ラウール・ゴンサレス、ジダン、ロナウドたちとの夢の共演だが、ほとんどがロッカールーム要員という肩すかし。ベッカムはちょっと特別扱いになっていて(チラシもサンティ、ハリス、ベッカムの3人だものね)最後にはゴールを決め、レアルはアーセナルを破ってヨーロッパチャンピオンに。まあ、いいけどさ。それにそのベッカムももうレアルを離れる(た)んだよね。

それほど熱心なサッカーファンではないのでよくわからないのだが、サッカー場面は映像的にも一応様になっていたのではないか。ただ、試合の中でのそれを見せていたとはとても思えない。試合を映画で見せるのが難しいから、いろいろな要素を詰め込まざるを得なかったのだろうけど、それもことごとく失敗してたのはもうすでに述べたとおりだ。

原題:GOAL II: living the Dream

2007年 114分 スコープサイズ イギリス 配給:ショウゲート 日本語字幕:岡田壮平

監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:マット・バーレル、マーク・ハッファム、マイク・ジェフリーズ 製作総指揮:スチュアート・フォード 原案:マイク・ジェフリーズ 脚本:エイドリアン・ブッチャート、マイク・ジェフリーズ、テリー・ローン 撮影:フラヴィオ・マルチネス・ラビアーノ プロダクションデザイン:ジョエル・コリンズ 音楽:スティーヴン・ウォーベック
 
出演:クノ・ベッカー(サンティアゴ・ムネス/サンティ)、アレッサンドロ・ニヴォラ(ガバン・ハリス)、アンナ・フリエル(ロズ・ハーミソン)、スティーヴン・ディレイン(グレン・フォイ/エージェント)、レオノア・バレラ(ジョルダナ・ガルシア/キャスター)、ルトガー・ハウアー(ルティ・ファン・デル・メルベ/監督)、エリザベス・ペーニャ(ロサ・マリア/サンティの母)、ホルヘ・ガルシア・フラド(エンリケ/弟)、ニック・キャノン(TJ・ハーパー)、カルメロ・ゴメス(ブルチャガ/コーチ)、フランシス・バーバー(キャロル・ハーミソン/ロズの母)、ミリアム・コロン(メルセデス/祖母)、キーラン・オブライエン、ショーン・パートウィー、デヴィッド・ベッカム、ロナウド、ジネディーヌ・ジダン、ラウール・ゴンサレス、イケル・カシージャス、イバン・エルゲラ、ミチェル・サルガド

歌謡曲だよ、人生は

シネマスクエアとうきゅう ★★

■オムニバスとしては発想そのものが安直

[オープニング ダンシング・セブンティーン(歌:オックス)] 阿波踊りの映像で幕が開く。

[第一話 僕は泣いちっち(歌:守屋浩)] 東京が「とんでもなく遠く」しかも「青春は東京にしかな」かった昭和30年代の北の漁村から沙恵(伴杏里)を追うようにして真一(青木崇高)も東京に出るが、歌劇部養成所にいる沙恵は彼に冷たかった。ボクシングに賭ける真一。が、2人には挫折が待っていた。設定も小道具も昔の映画を観ているような内容で、作り手もそこにこだわったのだろうが、それだけの印象。

[第二話 これが青春だ(歌:布施明)] エアギターに目覚めた大工見習いの青年(松尾諭)が、一目惚れした施工主の娘(加藤理恵)を、出場することになったエアギター選手権に招待する。しかし、掃除のおばさんのモップが偶然にも扉を押さえたことで、青年は会場のトイレから出られなくなり、娘にいい格好を見せることが出来ずに終わる(公園でも閉じこめられてしまうという伏線がある)。選手権の終わった誰もいない舞台で1人演じ、掃除のおばさんに拍手してもらって、これが青春だ、となる。エアギター場面で『これが青春だ』の元歌がかかるわけではないから、題名オチの意味合いの方が強い。これも皮肉か。

[第三話 小指の想い出(歌:伊東ゆかり)] 中年男(大杉漣)が若い娘(高松いく)とアパートで暮らしているというどっきり話だが、実はその娘はロボットだった。うーん、それにこれはとんでもなく前に読んだ江口寿のマンガにあったアイディアと同じだし、イメージでも負けているんではないかと。

[第四話 ラブユー東京(歌:黒沢明とロス・プリモス)] 原始時代から現代の渋谷に飛ぶ、わけわからん映画。石を彫っている男に惚れた女。渋谷にいたのもその太古の昔に噴火で別れた2人なのか。つまらなくはないが、もう少し親切に説明してくれないと頭の悪い私にはゴマカシとしか受け取れない。

[第五話 女のみち(歌:宮史郎)] 銭湯のサウナ室に入ってきたヤクザ(宮史郎)が『女のみち』を歌っていて歌詞が出てこなくなり、学生(久野雅弘)を無理強いして一緒に歌詞を思い出させようとする。ヤクザには好きな女がいて、刑務所にいた6年間、週2回も来てくれたので彼女の誕生日に歌ってやりたいのだという。いやがっていた学生もその気になって……。最後は思い出した歌詞を銭湯にいる全員で歌う。さっぱりとした気分になって外に出ると、そこには和服姿の女がいて、「待たせたな」と声をかけたヤクザと一緒に去っていく。当の歌手に、歌詞が思い出せなくなるというギャグをやらせているのも面白いが、とにかく必死で歌詞を思い出そうと、いや、コメディを作ろうとしているのには好感が持てた。

[第六話 ざんげの値打ちもない(歌:北原ミレイ)] 不動産屋の女(余貴美子)がアパートに若い男を案内してくる。それをバイクに乗った若い女が遠くから見ている。女は2人に自分の過去を重ね合わせているのだろうか。そこへ昔の男が訪ねてきて、海岸の小屋で乱暴されたことで、男を刺してしまう。アパートに戻ると、若い女が自分と同じような行動をとろうとしていて、女はそれを押しとどめる。雰囲気は出ているんだけど、やはり省略された部分が知りたくなる。

[第七話 いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー(歌:荒木一郎)] デザイン会社に勤める沢口良子(久保麻衣子)は、今日も3人の同僚の女に地味だとか存在が無意味と因縁をつけられていた。いじめはエスカレートし、屋上で服を剥ぎ取られてしまう。それを見ていた一郎(武田真治)の思いが爆発する。真っ赤な服を持って下着姿の女の所に駆けつけ、好きなんだと言ったあと、公園(なんで公園なんだ)で制作中のポスター(だっせー)を検討をしている同僚たちに「君たち、沢口さんに失礼なんだよ」と言いながら殴り(ついでに上司の男も)、全員を血祭りに上げてしまう。蛭子能収監督のマンガ(も画面に入る)そのものといった作品。映画も自分のマンガと同じ作風にしているのはえらい(だからマンガのカットはいらないでしょ。ちょっとだが、この分だけ遠慮してたか)。

[第八話 乙女のワルツ(歌:伊藤咲子)] 喫茶店のマスター(マモル・マヌー)が1人で麻雀ゲームをしていると、常連が女性とやって来て彼女だと紹介する。女性に昔の彼女の面影をみ、バンドを組んでいた遠い昔の「つらいだけだった初恋」を思い出す。彼が心惹かれていたリカは若くして死んでしまったのだ。昔の想いにひたっていたマスターだったが、女房の声に現実に引き戻される。凡作。というかこのひねりのなさが現在のマスターそのものなんだろう。

[第九話 逢いたくて逢いたくて(歌:園まり)] これはちゃんとした映画になっていた。カラオケ用映像ではないのだから、他もこのくらいのレベルで勝負してほしいところだ。アパートに越してきたばかりの鈴木高志(妻夫木聡)は、ゴミ置き場から文机を拾ってくるが、これは前の住人五郎丸(ベンガル)が粗大ゴミとして出したものだった。妻の恵美(伊藤歩)に止められながらも、高志は引っ越しの手伝いにきた仲間と、机の中にあった大量の手紙を読んでしまう。手紙は梅田さち子という女性に五郎丸が出したもので、宛先不明で戻ってきてしまったものだった。みんなで、こいつはストーカーだと決めつけたところにその五郎丸が挨拶をしておきたいとやってきて、机をあわてて隠す高志たち……。前の住人と引っ越してきた人間は普通顔を会わせることはないだろうと思うのだが、でもこの場面はおっかしい。ウーロン茶をごちそーになったお礼を言って、思い出が多すぎてつらいという場所から、五郎丸はやってきたトラックで去って行くのだが、入れ違いで梅田さち子からの葉書が舞い込み、全員で五郎丸を追いかけるという感動のラストシーンになる。この追っかけが気持ち長いのだけど、尺がないながらうまくまとめている。

[第十話 みんな夢の中(歌:高田恭子)] 同窓会に集まった人たちが小学校の校庭で40年前のタイムカプセルを掘り出す。思い出の品に混じって8ミリフィルムも入っていた。遅れてやって来た美津江(高橋惠子)も一緒になって、さっそく上映会が開かれる。案内役のピエロから演出まで、すべてにうんざりしてしまう内容と構成だった。

[エンディング 東京ラプソディ(歌:渥美二郎)] 藤山一郎でないとしっくりこないと思うのは人間が古いのか。瀬戸朝香扮のバスガイドと一緒にはとバスで東京をまわる。歌詞付き画面だから完全にカラオケ映像だ。

 

2007年 130分 ビスタサイズ PG-12 配給:ザナドゥー

製作: 桝井省志 プロデューサー:佐々木芳野、堀川慎太郎、土本貴生 企画:沼田宏樹、迫田真司、山川雅彦 音楽プロデューサー:和田亨
[オープニング]撮影:小川真司、永森芳伸 編集:宮島竜治
[第一話]監督・脚本:磯村一路 撮影:斉藤幸一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:青木崇高、伴杏里、六平直政、下元史朗
[第二話]監督・脚本:七字幸久 撮影:池内義浩 編集:森下博昭 音楽:マーティ・フリードマン、荒木将器 出演:松尾諭、加藤理恵、池田貴美子、徳井優、田中要次
[第三話]監督・脚本:タナカ・T 撮影:栢野直樹 編集:森下博昭 出演:大杉漣、高松いく、中山卓也
[第四話]監督・脚本:片岡英子 撮影:長田勇市 編集:宮島竜治 出演:正名僕蔵、本田大輔、千崎若菜
[第五話]監督・脚本:三原光尋 撮影:芦澤明子 編集:宮島竜治 音楽:林祐介 出演:宮史郎、久野雅弘、板谷由夏
[第六話]監督・脚本:水谷俊之 撮影:志賀葉一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 出演:余貴美子、山路和弘、吉高由里子、山根和馬
[第七話]監督・脚本:蛭子能収 撮影:栢野直樹 編集:小林由加子 音楽:林祐介 出演:武田真治、 久保麻衣子、インリン・オブ・ジョイトイ、矢沢心、希和、長井秀和
[第八話]監督・脚本:宮島竜治 撮影:永森芳伸 美術:池谷仙克 編集:村上雅樹 音楽:林祐介 音楽:松田“ari”幸一 出演:マモル・マヌー、内田朝陽、高橋真唯、山下敦弘、エディ藩、鈴木ヒロミツ、梅沢昌代
[第九話]監督・脚本:矢口史靖 撮影:柴主高秀 編集:森下博昭 出演:妻夫木聡、伊藤歩、ベンガル、江口のりこ、堺沢隆史、寺部智英、小林トシ江
[第十話]監督・脚本:おさだたつや 撮影:柴主高秀 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:高橋惠子、烏丸せつこ、松金よね子、キムラ緑子、本田博太郎、田山涼成、北見敏之、村松利史、鈴木ヒロミツ
[エンディング]監督・脚本:山口晃二 原案:赤松陽構造 撮影:釘宮慎治 編集:菊池純一 出演:瀬戸朝香、田口浩正

こわれゆく世界の中で

シャンテシネ2 ★★☆

■インテリの愛は複雑だ。で、これで解決なの

ウィル(ジュード・ロウ)は、ロンドンのキングス・クロス再開発地区のプロジェクトを請け負う建築家で、仕事は順調ながらやや中毒気味。リヴ(ロビン・ライト・ペン)とはもう同棲生活が10年も続いていたが、リヴとその連れ子ビーの絆の強さにいまひとつ踏み込めないでいた。そのことが彼を仕事に没頭させていたのかも。

リヴはスエーデン人の映像作家。ドキュメンタリー賞を受賞していて腕はいいらしいが、ビーが注意欠陥・多動性障害(ADHD)で、そのこともあってかリヴ自身もセラピーを受けている。ウィルにとってはセラピーのことさえ初耳だが、リヴからは「仕事に埋もれ身勝手」と言われてしまう。ウィルは、僕もビーを愛していると言うのだが、言葉は虚しく2人の間を流れていくばかりだ。

そんな時、ウィルが新しくキングス・クロスに開設した事務所が、初日に窃盗に入られてしまう。実は警報機の暗証番号を替えるところを外から盗み見されていて、また被害にあいそうになるのだが、共同経営者のサンディ(マーティン・フリーマン)が事務所に戻ってきたため、泥棒たちは逃げ出す。

いくら治安の悪い地区とはいえ、ということで暗証番号をセットしたエリカに疑惑の目が向けられたり、でもあとでそのエリカとサンディが恋に落ちたり、また事務所を見張っているウィルが、この世で信じられるのはコンドームだけという娼婦と知り合いになって哲学的会話をするなど、物語は枝葉の部分まで丁寧に作られているのだが、とはいえどれもあまり機能しているとはいえない。

夜警でウィルは1人の少年(ラフィ・ガヴロン)のあとをつけることに成功する。彼の身辺を調べるうちに彼の母親のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い、ウィルは彼女に惹かれていく。ウィルの中にあった家庭での疎外感がアミラに向かわせたのだし、アミラもウィルをいい人と認識していたのだが、息子のミルサドが部屋にあったウィルの名刺を見て、ミルサドは自分のやっていたことが暴かれるとアミラにすべてを打ち明ける。

アミラとミルサドはボスニア内戦でサラエボから逃れてきて、今は服の仕立屋として生計を立てているという設定。ミルサドにロンドンに来なかった父のことを訊かれてサラエボの話は複雑とアミラも答えていた。当人がそうなら日本人にはさらにわかりにくい話なのは当然で、といってすんなりそう書いてしまっては最初から逃げてしまっているだけなのだが、彼らの話に入りにくいのは事実だ。

アミラのとった行動がすごい。ウィルと関係をもってそれを写真に収めミルサドを救う手段としようとする。「弱みにつけ込むなんて、私を利用したのね」と言っておいての行動なのだから決然としている。女友達の部屋を借り証拠写真でも手助けしてもらっていた。ボスニア内戦を生き延びてきただけのしたたかさが垣間見られるのだが、しかしそれだけで関係をもったのでもあるまい。

ここはもう少し踏み込んでもらいたかったところだが、結局ミルサドは別の形で捕まってしまい、物語は表面的には案外平穏なものに収束していくことになる。ウィルがアミラとの関係をリヴに打ち明け、つまりリヴの元に帰って行き、ミルサドを救う形となる。

あくまで誘われたからにしても、ミルサドから窃盗の罪が消えたとは思えない。15歳という十分責任能力のある人間に、これではずいぶん甘い話ではないか。が、ウィルによって「人生を取り戻せた」のも真実だろう(ラストシーンにもそれは表れている)。ミルサドが盗んだウィルのノートパソコンにあった、ビーの映像を見ている場面が入れておいたのは甘いという批判を避ける意味もあったろう。そして、被害者に想いを寄せられる人間であるなら、甘い決断もよしとしなければならないとは思うのだが、ま、これは私が人には厳しい人間ということに尽きるかもしれない。

ウィルとアミラのことがよく整理できないうちに、ビーがウィルの仕事現場で骨折するという事故が起き、このあとリヴがウィルに「あなたを責めないことにし」「悪かった」と言って、前述のウィルの告白に繋がるのだが、この流れもよくわからなかった。

ようするにこれは、いつのまにかお互いを見なくなっている(巻頭にあったウィルのモノローグ)夫婦が、愛を取り戻す話だったのだな。だけど、これを誰にも感情移入出来ないまま観るのは、かなりしんどいのである。最後にリヴが何もなかったように家に帰るのかとウィルを問いつめるくだりは新趣向なんだけど、基本的なところで共感できていないから、装飾が過ぎたように感じてしまうのだ。だって、ウィルとリヴの問題が本当に解決したとは思えないんだもの。

【メモ】

Breaking and Enteringは、壊して侵入する。不法侵入、住居侵入罪を意味する法律用語。

アミラは仕立屋をしているが、時間があると紙に書いたピアノの鍵盤を弾くような教養ある人間として描かれている。

キングスクロスについても何度も語られていたが、これも土地勘がまったくないのでよくわからない。「荒れ果てた地を僕たちが仕上げて、最後に緑をちらす」などというウィルの設計思想も映画で理解するには少々無理がある。

原題:Breaking and Entering

2006年 119分 シネスコサイズ イギリス、アメリカ PG-12 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ 製作:シドニー・ポラック、アンソニー・ミンゲラ、ティモシー・ブリックネル 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、コリン・ヴェインズ 撮影:ブノワ・ドゥローム プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:ナタリー・ウォード 編集:リサ・ガニング 音楽:ガブリエル・ヤレド 、UNDERWORLD

出演:ジュード・ロウ(ウィル)、ジュリエット・ビノシュ(アミラ)、ロビン・ライト・ペン(リヴ)、マーティン・フリーマン(サンディ)、レイ・ウィンストン(ブルーノ刑事)、ヴェラ・ファーミガ(オアーナ)、ラフィ・ガヴロン(ミロ/ミルサド)、ポピー・ロジャース(ビー)、マーク・ベントン、ジュリエット・スティーヴンソン、キャロライン・チケジー、ラド・ラザール

ゲゲゲの鬼太郎

新宿ミラノ1 ★★☆

■『ゲゲゲの鬼太郎』というより『水木しげるの妖怪図鑑』か

妖怪ポスト経由で鬼太郎(ウエンツ瑛士)に届いた手紙は小学生の三浦健太(内田流果)からのものだった。健太の住む団地に妖怪たちが出るようになって住民が困っているという。鬼太郎が調べると、近くで建設中のテーマパーク「あの世ランド」の反対派をおどかすために、ねずみ男がバイトで雇った妖怪たちをけしかけていたのだった。

しかしこれは反対派へのいやがらせにはなっていても、稲荷神社の取り壊しによるお稲荷さんの祟りと喧伝されてしまいそうだから、「あの世ランド」側としては逆効果だと思うのだが。ま、どっちみちこのテーマパークの話はどこかへすっ飛んでしまうから関係ないんだけどね。

鬼太郎に儲け話を潰されたねずみ男は、その稲荷神社でふて寝しようとして奥深い穴に吸い込まれてしまう。そして、そこに封印されていた不思議な光る石を見つける。実はこれは人間と妖怪の邪心が詰まっている妖怪石と呼ばれるもので、修行を積んだ妖怪が持てばとてつもない力を得られるが、心の弱い者には邪悪な心が宿ってしまうのだ。

そんなことを知らないねずみ男は、少しでも金になればと妖怪石を質入れしてしまうのだが、そこに偶然来ていた健太の父(利重剛)は、工場をリストラされて困っていたのと妖怪石の魔力とで、それを盗んでしまう。

父が健太に妖怪石を預けたことで健太に魔の手が伸び、彼の勇気が試される。また、妖怪界では、妖怪石の力を手に入れようとする妖怪空(橋本さとし)の暗躍と、妖怪石の盗難の嫌疑が鬼太郎にかかって大騒動になっていくのだが、話の展開はかなりいい加減なものだ。

ねずみ男に簡単に持ち出されてしまう妖怪石の設定からして安直なのだが、それが健太の父の手に渡ってと、妖怪界を揺るがす大事件にしては狭い狭い世界での話で、でも一応、少年を準ヒーローにしているあたりは(だから世界が小さいのだけど)子供向け映画の基本を押さえている。

ただ死んだ父まで助け出してしまうのはねー(そもそもこの死は唐突でよくわからない。病気で死んだ、って言われてもね)。「健太君の願いが乗り移った」という説明は意味がないし、子供映画にしてもずいぶん馬鹿にしたものではないか。他にも沢山いた死者の行列の中から健太の父だけというのはどうなんだろ。父の釈明も釈明になっていなくて、ここはどうにも釈然としないのだな。

鬼太郎は健太の姉の三浦実花(井上真央)にちょっと惚れてしまい、猫娘(田中麗奈)の気をもませることになるが、これは妖怪界の定め(人間は死んでしまうから惚れてはいけないと言っていた)で、事件が片づいたあと、実花からは鬼太郎の記憶が消えてしまう。

この話もだが、妖怪たちが善と悪とに分かれて戦いながらも、結末はどこまでもユルイ感じで、いかにも水木しげる的世界なのだ。まあ、水木しげるの妖怪たちを配置したのなら、そうならざるを得ないのだろうけど。

それに、1番の見所はその妖怪たちなのだ。大泉洋のねずみ男を筆頭に、そのキャスティングと造型は絶妙で、子供映画ながらこの部分では大人の方が楽しめるだろう。猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、大天狗裁判長などのどれにも納得するはずだ。それはまったくのCGでも同じで、石原良純の見上げ入道ならまあ想像はつくが、石井一久のべとべとさんには感心してしまうばかりなのだ。水木しげるの妖怪画というのは、1ページに妖怪の絵と解説があって、図鑑のような趣があったけど、この映画もそれを踏襲した感じで観ることができるというのが面白い。

唯一まるで違うイメージなのがウエンツ瑛士の鬼太郎だが、演技はうまいとは言い難いものの、意外にも違和感はなかった。惜しげもなく髪の毛針を打ち尽くしてしまい、堂々の禿頭を披露しているのだが、あれ、でも片目ではないのね。さすがにそこまではダメか。だからほとんど目玉おやじとは別行動だったのかもね。

 

【メモ】

妖怪石には、滅ぼされた悪しき妖怪の幾千年もの怨念だけでなく、平将門、信長、天草四郎などの人間の邪心までも宿っているという。

父の釈明は「泥棒したっていう気はないんだ。これだけは信じてくれ、間が刺したんだ。
弱い心につけ込まれたんだ」というもの。もちろんこれではあんまりだから「でもやってしまったことはしょうがない」とは言わせているのだが。

映画の中で鬼太郎が何度か言っていたのは、「そんなにしっかりしなくてもいいんじゃない、泣きたい時は泣いちゃえば」とか「悪い人だけじゃないんだから思いっ切り甘えろ」というもの。

2007年 103分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:本木克英 製作:松本輝起・亀山千広 企画:北川淳一・清水賢治 エグゼクティブプロデューサー:榎望 プロデューサー:石塚慶生・上原寿一アソシエイトプロデューサー:伊藤仁吾 原作:水木しげる 脚本:羽原大介 撮影:佐々木原保志 特殊メイク:江川悦子 美術:稲垣尚夫 衣装デザイナー:ひびのこづえ 編集:川瀬功 音楽:中野雄太、TUCKER 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ウエンツ瑛士『Awaking Emotion 8/5』VFXスーパーバイザー:長谷川靖 アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太 照明:牛場賢二 録音:弦巻裕

出演:ウエンツ瑛士(ゲゲゲの鬼太郎)、内田流果(三浦健太)、井上真央(三浦実花/健太の姉)、田中麗奈(猫娘)、大泉洋(ねずみ男)、間寛平(子泣き爺)、利重剛(三浦晴彦/健太の父)、橋本さとし(空狐)、YOU(ろくろ首)、小雪(天狐)、神戸浩(百々爺)、中村獅童(大天狗裁判長)、谷啓(モノワスレ)、室井滋(砂かけ婆)、西田敏行(輪入道)
 
声の出演:田の中勇(目玉おやじ)、柳沢慎吾(一反木綿)、伊集院光(ぬり壁)、石原良純 (見上げ入道)、立川志の輔(化け草履)、デーブ・スペクター(傘化け)、きたろう(ぬっぺふほふ)、石井一久(べとべとさん)、安田顕(天狗ポリス)

恋しくて

テアトル新宿 ★★

■どこが「恋しくて」なんだろう

幼なじみだった比嘉栄順(東里翔斗)と宮良加那子(山入端佳美)は高校に入って再会、加那子の兄清良(石田法嗣)の発言で、島袋マコト(宣保秀明)も一緒になってみんなでバンドを組むことになる。思いつきのように始まったバンドだが、同級生の浩も加わって自分たちの企画したバンド大会で優勝し、プロデビューの話が持ち上がる。

よくある話ながら、東京に行ってからのことはほとんど付け足しで、あくまでも主役は沖縄(石垣島)と言いたげな構成だ。「これが沖縄」という風景の中で、高校生たちがバンドに熱中していく様子がなんとも楽しい。沖縄だったら山羊も牛も喋りそうな気にもなるし(喋る演出が入るのだ)、恋も底抜けに明るくて、だから困ったことに恋という感じがしないのである。普通に生活しているうちに、自然に相手といることが多くなって、みたいな流れなのだ。

そのことは当人たちも感じたらしく、栄順は加那子に2人が付き合っているかどうかを確認する場面があるのだが、これがとてもいい。高校生にもなって清良と屁こき合戦までやってのけてしまう加那子のキャラが伸びやかで、でも堂々としているとまではいかなくて、仰天場面を見ても栄順にとっては恋の対象であり続けたのだと思わせるものを持っているのである。

ただバンドが東京に出ていくことになってやってくる2人の別れになると、それが加那子からの一方的な手紙ということもあって、まったくの説明口調になってしまっている。普通の恋物語にある出会いのときめき度が薄かったからという理由がここにもあてはまるのかもしれないが、でもそれだと何のためにずーっと2人(とバンド活動)を描いてきたのかがわからなくなってしまう。別れても「恋しくて」しかたがないのは、はっきりそう言っているのだからそうなのだろうが、やはり言葉ではなく映画的なものでみせてほしいのだ。

結局、BEGINのデビュー曲の「恋しくて」をタイトルに使ってしまったのがよくなかったのではないか。どうしてもそういう目でみてしまうもの。最後に主人公たちのライブ場面は、BEGINの新曲「ミーファイユー」の演奏場面にとってかわる。ようするに、そういう映画なのだろう。しかし私としては、イベントに登場してきた80年代のヒット曲や山本リンダにピンキラを歌う個性溢れる高校生バンドの熱演(しかしなんで古い曲ばかりなんだ)の方が楽しかったのだ。

加那子の家族についての挿話がどれもバラバラなのも気になった。清良が父探しの旅で、父の残した楽譜を見つけて帰るのだが、加那子が4歳の時に父が家出して(清良によって旅先の山で崖から落ちたことがわかる)以来、歌が歌えなくなっていたということにはあまり繋がってこない。

また、母のやってきたバーの仕事(経営者で歌手でもある)や、祖母の美容院の実体のなさは何なのだろう。清良がピアニスト代わりったって、それは最近だろうし、その清良がいなくなったからってバーを閉じるというのもとってつけた話のようで、このバーは与世山澄子に歌を歌わせたかっただけの装置にしかなっていないのだ。石垣島の大らかさといってしまえばそれまでなのだろうが、客を無視した美容院というのもねー。母と祖母の接点がないことも印象をバラバラなものにしてしまったのではないか。

 

2007年 99分 ビスタサイズ

監督・脚本:中江裕司 製作:松本洋一、松崎澄夫、渡辺純一、廣瀬敏雄、松下晴彦 プロデューサー:姫田伸也、新井真理子、町田純 エグゼクティブプロデューサー:大村正一郎、相馬信之 原案:BEGIN 撮影:具志堅剛 美術:金田克美 衣装デザイン:小川久美子 編集:宮島竜治 音楽監督:磯田健一郎 主題歌:BEGIN『ミーファイユー』 ラインプロデューサー:増田悟司 照明:松村志郎 整音:白取貢 録音:白取貢 助監督:瀬戸慎吾
 
出演:東里翔斗(比嘉栄順)、山入端佳美(宮良加那子)、石田法嗣(宮良清良)、宜保秀明(島袋マコト)、大嶺健一(上地浩)、与世山澄子(宮良澄子)、吉田妙子、國吉源次、武下和平、平良とみ(おばぁ)、三宅裕司、BEGIN

クィーン

シャンテシネ1 ★★★

■興味などないが、しかし驚きの英王室映画

1997年8月31日に起きたダイアナ元皇太子妃の事故死がもたらした英王室の騒動を、女王エリザベス2世(ヘレン・ミレン)を主人公にして描いた作品。

まず何よりエリザベス女王を映画に登場させてしまったことにびっくりする。なにしろ事件からはまだ10年しか経っていないわけで、第三者にとってさえこれほど記憶の新しい事件となると、対象が王室であろうがなかろうが至るところに差し障りが出るのは当然で、しかしうがった見方をするなら、すでにその時点で第1級の話題作になっているのだから、興行成績の約束された企画が日の目を見ただけということになる。

それにしても日本ではとても考えられないことで、大衆紙では王室スキャンダルや批判が常態化しているイギリスならではか(むろんよくは知らない)。しかも王室ばかりでなく、最近では求心力が低下したとはいえ現役の首相を(070511追記:ブレア首相は6月27日に退陣することを表明)を俎上に乗せているのだから、驚くしかない。

そして映画は、時間軸としては1997年の5月に英国首相にトニー・ブレア(マイケル・シーン)が勝利する時期から始めているし、最後もエリザベス女王とブレアが事件の2ヶ月後に散歩する場面となっている。題名は『クィーン』ながら、主役はこの2人だろうか。

国が総選挙に湧く中、エリザベス女王に投票権のないことに触れ「1度でいいから自分の意見を表明してみたい」と彼女につぶやかさせ、女王の特殊な地位と不自由さを強調する。ダイアナはすでに民間人、と声明を出さずにいると王室に非難が集中する。このあと、エリザベス女王がひとりで運転していた車が川で立ち往生してしまい、涙を流す場面がある。その時、彼女は立派で美しい鹿を見る。他愛のない演出だが、これが意外にぴったり決まっていた。

人気絶頂で首相になったブレアは、ダイアナの事故に対してはエリザベス女王とは対照的な行動を取り(「国民のプリンセス」とダイアナを称す)、ブレア人気をうかがわせるのだが、エリザベス女王には敬意を払い続け、助言を惜しまない。すでに「国民を理解することが出来なくなったら、政権交代の時期かも」と自問していたエリザベス女王はブレアの意見を入れて、世論も好転するのだが、新聞の見出しは「女王、ブレアに跪く」と容赦がない。しかし当のブレアは「彼女は神によって女王になったと信じている」とそれ以前からエリザベス女王を弁護しているように描かれている。

当人たちは否定しそうだが、2人にはかなり好意的な内容ではないか。立場がないのは、「ダイアナは生きていても死んでもやっかいだ」と悪態をつき鹿狩りばかりしているフィリップ殿下(ジェームズ・クロムウェル)や、意見はあってもエリザベス女王には頭の上がらないチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)であり、エリザベス女王に夫がそこまで気をつかわなくてもいいと思っていそうなブレア夫人(ヘレン・マックロリー)で、この3人はあのままだと少し可哀想だ。

とはいえ、実際どこまでが本当でどこまでが創作なのだろう。ニュース場面をまぶしてダイアナの事故死から1週間を切り取った脚本は、正攻法の素晴らしいものである。が、そう言ってしまっていいものかどうか。イギリスのことなどさっぱりの私には何もわからないし、映画には感心したものの興味はほとんどないし。

ところで、エリザベス女王の見た鹿はロンドンの投資銀行家に撃たれてしまうのだが、彼女はあの鹿に蹂躙されている自分の姿を見たのだろうか。でも事実は、多分ブレアが去っても、まだ彼女は死ぬまで女王として君臨するのだろう(ブレアは「私が迎える10人目の首相」なのだそうな)。それとダイアナ人気だって、ある意味では王室人気が根強いということになると思うのだが。

原題:The Queen

2006年 104分 ビスタサイズ イギリス、フランス、イタリア 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・フリアーズ 製作:アンディ・ハリース、クリスティーン・ランガン、トレイシー・シーウォード 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、スコット・ルーディン 脚本:ピーター・モーガン 撮影:アフォンソ・ビアト プロダクションデザイン:アラン・マクドナルド 衣装デザイン:コンソラータ・ボイル 編集:ルチア・ズケッティ 音楽:アレクサンドル・デプラ
 
出演:ヘレン・ミレン(エリザベス女王)、マイケル・シーン(トニー・ブレア)、ジェームズ・クロムウェル(フィリップ殿下)、シルヴィア・シムズ(皇太后)、アレックス・ジェニングス(チャールズ皇太子)、ヘレン・マックロリー(シェリー・ブレア)、ロジャー・アラム(サー・ロビン・ジャンヴリン)、ティム・マクマラン(スティーヴン・ランポート)

今宵、フィッツジェラルド劇場で

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■名人芸を楽しめばそれでよい?

実在の人気ラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」(原題はこちらから)の名司会者ギャリソン・キーラー本人(出演も)が、洒落っ気たっぷりに番組の最終回という架空話をデッチ上げて脚本を書いたという。

そのあたりの事情は当然知らないのだが、映画の方の「プレイリー・ホーム・コンパニオン」は、ミネソタ州のセントポールにあるフィッツジェラルド劇場で、長年にわたって公開生中継が行われてきたのだという設定だ。が、テキサスの大企業によるラジオ局の買収で、今夜がその最終日になるという。

その舞台を、楽屋裏を含めほぼ実時間で追ったつくりにしているところなどいかにもアルトマンの遺作に相応しい(群像劇でもあるしね)。『ザ・プレイヤー』ではこれ見よがしの長まわしを見せられて気分を害したものだが(実験精神は買うが)、ここにはそういうわざとらしさはない。

リリー・トムリンやウディ・ハレルソンたちが次々と繰り出す歌や喋りを、それこそラジオの観客にでもなったつもりで楽しめばそれでいいのだと思う。なにしろみんな芸達者でびっくりだからだ(そういう人が集められただけのことにしてもさ)。メリル・ストリープが相変わらず何でもやってしまうのにも感心する(ファンでもないし他の人でもいいのだが、このメンバーでは彼女が1番わかりやすいかなというだけの話)。今回も歌手になりきっていた。

舞台の構成も興味深い。度々入る架空のCMが面白く、ギャリソン・キーラーの仕切ぶりや歌はさすが長年司会をやってきたと思わせるものがある。公開生番組といってもラジオだからいたって安手で、そもそも劇場も小ぶりだし、同じ芸人が何度も登場する。手作り感の残る親しみやすさが、最終日という特殊事情で増幅されて、登場人物の気持ちを推しはかざるを得なくなるという効果を生んでいるというわけだ。

むろんそんな感傷はこちらが勝手に作り上げたもので、ことさらそれは強調されてないし、実際湿っぽくなってもいない。陽気すぎるウディ・ハレルソンとジョン・C・ライリーのめちゃくちゃ下品な掛け合いは別にしても、それぞれ最後の舞台を、プロとしてそれなりにつとめていくるからだ。

例外は、チャック・エイカーズ(L・Q・ジョーンズ)の死だろうか。もっともこれとて白いトレンチコートの女(ヴァージニア・マドセン)を登場させるための布石という側面が強い。謎の女は、劇場の探偵気取りの警備係、ガイ・ノワール(ケヴィン・クライン)に、自分は天使のアスフォデルだと語る。

自分から正体を明かす天使もどうかと思うが、ノワールは、劇場に乗り込んできた首切り人のアックスマン(トミー・リー・ジョーンズ)を天使に追い払ってもらえないかと考える。で、よくわからないのだが、天使もその気になったらしく、すでにアックスマンの車に乗り込んでいて(神出鬼没なのだ)、一緒に帰って行く。

女はやはり天使だったらしい。アックスマンの車は事故を起こして炎上してしまうのだ。しかし、そのあとは「さらば首切り人、でも事態は好転しなかった」(ノワールのナレーション)だと。なるほどね。

先にわざとらしさはないと書いたが、こんな仕掛けの1つくらいは用意せずにはいられないのがアルトマンなのだろう。で、その結論も、すでに何事も諦念の域にあるかのようだ。そうはいっても、この天使の扱いはこれでいいのだろうか。ちょっと心配になる。エイカーズの死の際に「老人が死ぬのは悲劇でない」と言わせて、すでに点は稼いでいるのだけどね。

生放送の最後の余った時間に、ヨランダ(メリル・ストリープ)の娘ローラ(リンジー・ローハン)のデビュー場所を提供しているのも粋だ。老人の諦念だけでなく、ちゃんと次の世代の登場も印象付けている。

おしまいは、解体の進む劇場で(あれ、劇場もなくなってしまうんだ)ノワールがフィッツジェラルドの胸像(貴賓席に置いてあったもの)が置かれたピアノにむかっている。追い払われてしまうんだけどね。そして隣の食堂には、いつもの顔ぶれが集まっていた……。え、天使もかよ。

【メモ】

ロバート・アルトマンは2006年11月20日、がんによる合併症のためロサンゼルスの病院で死去(81歳)。

原題:A Prairie Home Companion

2006年 105分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平

監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・レヴィ、トニー・ジャッジ、ジョシュア・アストラカン、レン・アーサー 原案:ギャリソン・キーラー、ケン・ラズブニク 脚本:ギャリソン・キーラー 撮影:エド・ラックマン プロダクションデザイン:ディナ・ゴールドマン 衣装デザイン:キャサリン・マリー・トーマス 編集:ジェイコブ・クレイクロフト 音楽監督:リチャード・ドウォースキー
 
出演:ケヴィン・クライン(ガイ・ノワール)、ギャリソン・キーラー(ギャリソン・キーラー)、メリル・ストリープ(ヨランダ・ジョンソン)、リリー・トムリン(ロンダ・ジョンソン)、ウディ・ハレルソン(ダスティ)、リンジー・ローハン(ローラ・ジョンソン)、ヴァージニア・マドセン(デンジャラス・ウーマン)、ジョン・C・ライリー(レフティ)、マーヤ・ルドルフ(モリー)、メアリールイーズ・バーク(ランチレディ)、L・Q・ジョーンズ(チャック・エイカーズ)、トミー・リー・ジョーンズ(アックスマン)、ロビン・ウィリアムズ

輝く夜明けに向かって

シャンテシネ3 ★★

■平凡な男をテロリストにしたアパルトヘイト

どこにでもいそうな主人公がテロリストの疑いをかけられ、釈放されるが、このことで逆に反政府組織のANC(アフリカ民族会議)に身を投じることになったという実話をもとに作られた映画。

パトリック(デレク・ルーク)は南アフリカ北部のセクンダ精油所で監督という立場にある勤勉な労働者だった。妻プレシャス(ボニー・ヘナ)と2人の娘たちにかこまれ、黒人にしては比較的裕福な暮らしを送っていたが、精油所がテロの標的となり、犯人の一味に仕立て上げられてしまう。

1980年の南アフリカはまだアパルトヘイトが公然と行われていた時代で、テロは日常的に起きるべくして起きていたらしいが、パトリックはよそ者なのだから目立たないように、家族のために、という父の教えを守り、政治には無関心で、母親が聞いているANCのラジオのボリュームさえ下げてしまうような男だった。

テロのあった晩、彼は偽の診断書で休暇を取り、自分がコーチをしている少年たちのサッカーの決勝戦の場にいたのだが、滞在日を1日延ばし真夜中に秘かに出かけていた。実は彼の愛人ミリアム(テリー・フェト)とその息子に会いに行っていたのだった。

この愛人宅で面白いやりとりがあった。パトリックはミリアムに「あなたが父親だと(息子に)うち明けて」と迫られるだが、彼の答えは「僕の父は蒸発。それ以来会っていない、無理言うな」というもの。なにより返答になっていないが、後年「自由の闘士」として民衆の英雄となった人間にしては自分勝手で底が浅いものだ。そういうところも含めて、彼はごく普通の人間だったということだろう。

治安部でテロ対策に当たるニック・フォス大佐(ティム・ロビンス)の尋問は執拗を極め、無期限拘束されたパトリックは言いたくなかった真実を語るが、信じてもらえない。フォスは自分では直接拷問はせず、日曜日には自分の家の食事に連れて行ったり、アパルトヘイトは長くは続かないなどとパトリックに漏らすなど、どこまでが本音なのかと思うような油断のならない人物として描かれる。

拷問はプレシャスにまで及び、そのことでパトリックは自白を選ぶのだが、供述が合わないことで、無罪放免となる。フォスは、正しい仕事をしている人間でもあったのだ(最近、続けざまに自分の点数稼ぎのために自白を強要するような映画を観たので、私には新鮮に映ったのね)。

無実の罪に問われ、友人の死、妻への拷問を目の当たりにしたことが、パトリックをモザンビークの首都マプトにあるANC本部に走らせることになる。家族にも内緒で(もっとも今度は母親のラジオの音を大きくしていた)。

ただ、厳しい訓練の中、解放軍を装った部隊に急襲されたり、内部に精通しているパトリックが自ら先導するように精油所の爆破計画にかかわったり、という展開は、見せ場がちゃんとあるのに演出が手ぬるくて散漫な印象だ。プレシャスの嫉妬心はおさまることなく、これは当然ともえいるが、とはいえフォスに通報とはね、となってパトリックはロッベン島に島流しとなる。

ここからはさらに駆け足となって、5年後にプレシャスから再婚したという手紙をもらってやっと許す気持ちになり、1991年にはアフリカに戻ることができたというナレーションになっていて、画面には出迎えにきたプレシャスと許しを請い合う姿が映し出される。

このあと、まったく予想していなかったのだが、パトリックがフォスを見かけるとある日の場面になる。今度こそ復讐してやるとフォスに近づくパトリックだが、何故か彼を生かしておこうか、という気持ちになり、その瞬間解放されたというのだ。実は緩慢な流れにすでにうんざりしかけていたのだが、この付け足しのような何でもない場面が、この映画の1番の収穫のように思えてきたのである。自分がそんな気持ちになれるかどうかはまったくの別問題ではあるのだが。

もうひとつ。フォスは自分の2人の娘に、不測の事態に備えて射撃を教えていて、それが役立つ日がくるのだが、皮肉にも拳銃嫌いの長女の手によって犯人に銃は発砲されることになる。正当防衛とはいえこの行為は認められるのだろうか、と考えた時点でこの挿話が白人側に配慮されたものにもみえてしまうのだが、詰まるところアパルトヘイトが過去のものとなった余裕といったら、叱られてしまうだろうか。

原題:Catch a Fire

2006年 101分 シネスコサイズ フランス、イギリス、南アフリカ、アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:フィリップ・ノイス 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、アンソニー・ミンゲラ、ロビン・スロヴォ 製作総指揮:ライザ・チェイシン デブラ・ヘイワード、シドニー・ポラック 脚本:ショーン・スロヴォ 撮影:ロン・フォーチュナト、ゲイリー・フィリップス プロダクションデザイン:ジョニー・ブリート 衣装デザイン:リーザ・レヴィ 編集:ジル・ビルコック 音楽:フィリップ・ミラー
 
出演:ティム・ロビンス(ニック・フォス)、デレク・ルーク(パトリック・チャムーソ)、ボニー・ヘナ(プレシャス・チャムーソ )、ムンセディシ・シャバング(ズーコ・セプテンバー)、テリー・フェト(ミリアム)、ミシェル・バージャース(アンナ・ヴォス)

グアンタナモ、僕達が見た真実

シャンテシネ2 ★★★

■パキスタンで結婚式のはずが、キューバで収容所暮らし

2001年9月28日、パキスタン系イギリス人のアシフ(アルファーン・ウスマーン)は、両親の勧める縁談のため、ティプトンから故郷パキスタンへ向かう。村で結婚を決めた彼は、ティプトンの友人ローヘル(ファルハド・ハールーン)を結婚式に招待する。ローヘルはシャフィク(リズワーン・アフマド)とムニール(ワカール・スィッディーキー)と共に休暇旅行と結婚式出席を兼ねてパキスタンにやってくる。

シャフィクの従兄弟ザヒド(シャーヒド・イクバル)も一緒になって結婚前の数日をカラチで送ることになる。ホテル代を浮かすためモスクに泊まり、ここで米国攻撃前のアフガニスタンの混乱を耳にする。好奇心と人を救うことにもなると5人はボランティア募集に応じ、トラブル続きの中、難民の波に逆らうようにカブールに着く。

空爆やアシフの体調が体調を崩したことで不安になった彼らは案内人にパキスタンに帰りたいと伝えるが、何故かタリバーンと合流していて、アメリカ軍の空爆や北部同盟の攻撃を受けてさまよううちに、ムニールとははぐれてしまう。

すでに言葉も通じない場所で、しかも夜の闇の中で砲弾が炸裂しトラックが炎上する。わけもわからず1晩中逃げまどうのだが、同じ場所に戻ってしまうような描写も出てくる。このあたりは観ている方も何がなんだかわからない状態だが、多分彼らも同じだったと思われる。トラック、コンテナと乗り継ぎ、気が付いたらアメリカ軍の捕虜になっていたというわけである。

コンテナの中は湿っぽくて息苦しく、座ると息がしやすかったのにいつのまにか気絶しているような状態。銃声がり、コンテナは穴だらけになり、死体の横で飲み水もないから布で壁の水を拭き飲んだという。この過酷な状態は収容所に行っても続く。あまりの狭さに交代で寝るしかなく、ロクに食料も与えられない。

英語を話す者は、と聞かれアシフは名乗りでるのだが(この直前に英国籍は隠せと誰かにアドバイスされるのだが、状況がよく確認出来なかった)、この判断は甘く、一方的にお前はアルカイダだと決めつけられ、アシフ、ローヘル、シャフィクは、キューバにあるグアンタナモ基地(デルタ収容所)へ移送されてしまう。

本人たちのインタビュー映像を混じえてのドキュメンタリーもどきの進行だが、袋を頭から被せられ足も結わえられての移動場面もあるから、つまりそういう状況に本人たちがいたわけだから、どこまで正確に再現されているのかはわからないが、ここに挿入されていたラムズフェルド国防長官のグアンタナモ収容所は人道的(+蔑視)発言がまったくの嘘っぱちだということは否定できなくなる。

常軌を逸した拷問や証拠の捏造については一々書かないが、冤罪事件でいつも不思議に思うのは自白を強制させて、それを上に報告すればそれでいいのかということだ。そこにあるのは真実の追求ではなく、担当者のいい加減な仕事ぶり(もしくは簡単に自分の評価を上げたいだけのつまらない欲望か)が存在するだけなのに。本気でテロを撲滅させたければ、こういうことだけはしてはいけないと上部だって思うはずで、であればそのための対策がもっとはかられていなければならないだろう。

過酷な拘束と偽英国大使員まであらわれる馬鹿げた取り調べは、英国警察の監督下に置かれていたということが判明して(警察がアリバイを証明したというわけだ)、終わりを告げることになる。

英国で起こしていた暴力と詐欺行為は彼らを救ったものの、そもそもアフガニスタンにはボランティアとはいえ物見遊山的な気持ちがあって出かけたのだし、そういう軽はずみな言動が2年半に渡る望まない旅をもたらしたことは否めない。しかし、とにかく彼らは耐えたのだ。理不尽な拷問や拘束に。これは賞賛されていい。そして救いもある。それは彼らの若さと、アシム本人がこれも経験で今は前向きに生きている、というようなことを最後に語っていたことである。

【メモ】

2006年ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞作品

グアンタナモにある収容所の特殊性については以下の吉岡攻のブログにも詳しい。
http://blog.goo.ne.jp/ysok923/m/200512 (ここの2005.12.16の記事)

原題:The Road to Guantanamo

2006年 96分 サイズ■ イギリス

監督:マイケル・ウィンターボトム、マット・ホワイトクロス 製作:アンドリュー・イートン、マイケル・ウィンターボトム、メリッサ・パーメンター 製作総指揮:リー・トーマス 撮影:マルセル・ザイスキンド 編集:マイケル・ウィンターボトム、マット・ホワイトクロス 音楽:ハリー・エスコット、モリー・ナイマン
 
出演:アルファーン・ウスマーン(アシフ・イクバル)、ファルハド・ハールーン(ローヘル・アフマド)、リズワーン・アフマド(シャフィク・レスル)、ワカール・スィッディーキー(ムニール・アリ)、シャーヒド・イクバル(ザヒド)、(以下3人は本人)アシフ・イクバル、ローヘル・アフマド、シャフィク・レスル

幸福な食卓

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■崩壊家族とは対極にある家族の崩壊+恋物語

今日から中学3年生という始業式の朝、中原佐和子は、兄の直と一緒に「今日で父さんを辞めようと思う」という父(弘=羽場裕一)の言葉をきく。こんなことを言い出す父親が、いないとは言わないが、相当生真面目というか甘ったれというか……。

家族揃って朝食をとるのだから、きちんとしているのかと思いきや、これはかつての名残で、母親の由里子(石田ゆり子)は近所のアパートでひとり暮らしをしているし(なのに食事の支度はしにくるのだ。これは母さんを辞めていないからなんだと)、優秀だった兄は大学に行かず農業をはじめたというし、とりあえずは真っ当にみえる佐和子も、梅雨になると調子が悪くなるらしく、薬の世話になっていたようなセリフがある。

ただ崩壊家族にしては家族間の会話は濃密で、親子だけでなく兄妹の風通しだってすこぶるいい。そこだけを見れば理想の家族といっていいだろう。別居はしているものの、父が母のバイト先の和菓子屋に顔を見せる場面だってある。

それなのにどうしてそんな生活をしているのかは、3年前の父の自殺未遂にあるのだと、これはすぐ教えてもらえるのだが、その原因についての説明はほとんどない。直が父の自殺未遂を見てオレもこの人みたいになると感じ(父の遺書を持っているのは予防薬のつもりか)、子供の頃から何でも完璧にやってきたのが少しずつズレていったのだと佐和子に告白することが、間接的だが唯一の説明だろうか。いや、もうひとつ、母が父より頭がよかったらしく、そのことで気をつかっていたらしいのだが、何も気付かなかったことをやはり悔いていた。そうだ、まだあった(けっこう説明してるか)。やってみたかったという猫飯(みそ汁かけご飯)もね。でもこれは父さんを辞めてからだから、ということは父親はやってはいけないんだ(私はやるんだなー、これ。何でいけないんだろ)。

で、その父親は、教師の仕事を辞め、父親であることを辞め、もう一度大学(今度は医大のようだ)に行くと勉強を始め、夜は予備校でバイト。でも1年後には受験に失敗し浪人生に……。勉強の仕方をみて「父さんになっちゃってる」という佐和子だが、私には父を辞めるという意味がさっぱりわからない。直も「人間には役割があるのに、我が家ではみんなそれを放棄している」と言っていた。どうやら中原家の住人は、私と違って役割というものを全員が理解しているらしい。

どうにも七面倒臭い設定だが、それが鬱陶しくならないのは、もう1つの柱である佐和子の恋物語が、いかにも中高生らしい清々しいものだったからだ。

相手は始業式の日に転校してきた大浦勉学(勝地涼)で、空いていた佐和子の隣の席に。彼の家も崩壊しているというが、父は仕事、母は勉強、そして弟はクワガタのことばかり、とこちらはわかりやすい。もっともそれは大浦が明るく言っただけのことだが。とにかくこの大浦の快活さと決断力がなかなかだ(ハイテンションで強引という見方もできるが)。不器用でカッコ悪いのだけど、佐和子への愛情がいたるところににじみ出ているのだ(でも、勝地涼に中学生をやらすなよな)。

そんな大浦を佐和子も真っ直ぐに受け止める。一緒に希望の高校を目指し、合格。別のクラスながら学級委員になって活躍。合唱にのってこない級友たちを大浦の秘策で乗り切ったり、キスシーンも含めてふたりの挿話がどれも可愛いらしい。そしてクリスマスが近づいてくる。大浦の家は金持ちなのだが、彼は佐和子へのプレゼントは自分で稼いだ金でしたいと新聞配達をはじめ、佐和子も母と一緒にマフラーを編み始める……。

突然の勉学の事故死はよくある展開だが、映画はこのあともきっちり描く。

父と力を合わせて料理し、この家に帰ってこようかなと言う母のセリフを全部否定するかのように、佐和子は「死にたい人が死ななくて、死にたくない人が死んじゃうなんて。そんなの不公平、おかしいよ」と言うのだ。当の父を前にして。兄からの慰めの言葉もそうなのだが、私にはこういう会話が成り立つこと自体がちょっと驚きでもある。

このあと、大浦の母や兄の恋人である小林ヨシコとのやり取りを通して、佐和子もやっと父の自殺が未遂に終わってよかったと思えるようになる。大浦のクリスマスプレゼントの中に彼の書いていた手紙があって、というあたりはありきたりだが、内容が彼らしく好感が持てる。怪しいだけでいまいち存在理由のはっきりしなかった小林ヨシコ(さくら)も、最後になって本領発揮という慰め方をする(でもまたしても卵の殻入りシュークリームはやりすぎかな)。

佐和子がお返しのように大浦の家をたずね編んだマフラーを渡すと、大浦の母はもったいないから弟にあげちゃダメかしらと言う。コイツが全面クワガタセーターで現れるのがおかしい。弟には大きいのだが、その彼が息せき切って坂道を帰る佐和子を追いかけてくる。「大丈夫だから、僕、大きくなるから」と言う場面は、しかし私にはよくわからなかった。もっと短いカットなら納得できるのだが。

そして佐和子の歩いていく場面。最初のうち彼女は何度が後ろを振り返る(うーん)のだが、だんだんとしっかり前を見てずんずん歩いていく。最後はアップになっているので、正確にはどんな歩き方をしているのかはわからないのだが、4人の食卓が用意されつつある場所(のカットが入る)へ向かって。

ここにミスチルの歌がかぶる。「出会いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える 引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上へ」と。でも歌はいらなかったような。その方が「気付かないけど、人は誰かに守られている」(大浦は本当は鯖が嫌いなのに、佐和子のために無理して給食を食べてくれていて、これはその時のセリフ)という感じがでたのではないかと思うのだ。

 

【メモ】

瀬尾まいこの原作は第26回吉川英治新人文学賞受賞作。

食卓シーンは多い。葱を炒め、醤油と生クリームで食べるおそばも登場するが、どれも大仰でなく家庭料理という感じのもの。

大浦に携帯の番号を聞かれるが、佐和子は持っていない。言いたいことがあれば直接会って話せばいい、と。

2006年 108分 シネスコ

監督:小松隆志 原作:瀬尾まいこ『幸福な食卓』 脚本:長谷川康夫 音楽:小林武史 主題歌:Mr.Children『くるみ -for the Film- 幸福な食卓』
 
出演:北乃きい(中原佐和子)、勝地涼(大浦勉学)、平岡祐太(中原直)、さくら(小林ヨシコ)、羽場裕一(中原弘)、石田ゆり子(中原由里子)

敬愛なるベートーヴェン

シャンテシネ1 ★★★★☆

■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる

導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェン(エド・ハリス)のコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエに行くことになる。

1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンに至っては激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。

音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。

女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。

シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。

今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、そうして第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しむつもりでいたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。

この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。

第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。

晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された男(思い込みにしても)と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。

そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナが譜面をベートーヴェンに見せれば、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。

アンナに非礼を詫びることになるベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことには苦言を呈する。

が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはこのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。

いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないとも思わなくもないのだが、これはこの映画を貶めることになるのかも。でないと最期までアンナに音楽を伝えようとしていた病床のベートーヴェンとアンナの場面が台無しになってしまう(それはわかってるんだけどね、私が下品なだけか)。

お終いは、アンナが草原を歩む場面である。ここは彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、アンナという架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。

 

【メモ】

アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。

甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。

原題:Copying Beethoven

2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕

監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
 
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ

氷の微笑2

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★☆

■きっと手玉に取られそう

『氷の微笑』の続編だが、すでにあれから14年もたつという。あのキャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)が、前作と似たようなことを繰り広げるのだが、彼女が「危険中毒」というなら、14年間もおとなしくしていられたとはとても思えない。

舞台をアメリカからイギリスに移したのは、そこらへんを考慮してのことか。もっとも人気犯罪小説家なのだからアメリカもイギリスも関係なさそうだが。ただシャロン・ストーンが14年も続編を我慢できたのだから、それは可能か。失礼とは思うが、キャサリンのイメージをシャロンに置き換えるのはそう難しくないのだな(失礼どころか褒め言葉だよね)。

シャロンの自信はたいしたものだが、それができるのだから脱帽だ。観客は実年齢を知っているのだし。もっとも最初の車の疾走場面から、あんなにフェロモンをばらまかれたのでは、かえって引いてしまう。快楽優先主義者という設定なのだからこの演出は仕方がないのかもしれないが、観客サービスになっていない気がして心配になる。

思わせぶりな映画といってしまえばそれまでだが、話は十分楽しめる。ただし、今回の相手はマイケル・ダグラスに比べるといささか頼りない。デヴィッド・モリッシー演じるマイケル・グラス(何なのだ、この役名は!)は、犯罪心理学者で精神科医。ロイ・ウォッシュバーン刑事(デヴィッド・シューリス)からキャサリンの精神鑑定を依頼され、はじめのうちこそ自信満々でいたが、途中からはキャサリンに翻弄されっぱなしで、ただただひたすら転落していく。

犯人がキャサリンかウォッシュバーン刑事か、などと迷いだしているうちはともかく、いつのまにか昇進(というのとはちょっと違うのだろうか)話は立ち消え、最後には思いもよらぬ場所にいるマイケル・グラス。

キャサリンみたいのに捕まったら、きっと私もこうだろうなと思ってしまったものね。おー、こわ。

原題:Basic Instinct 2

2006年 118分 シネマスコープ アメリカ R-18 日本語字幕:小寺陽子

監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ 脚本:レオラ・バリッシュ、ヘンリー・ビーン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:ノーマン・ガーウッド 衣装デザイン:ベアトリス・アルナ・パッツアー 音楽:ジョン・マーフィ テーマ曲:ジェリー・ゴールドスミス
 
出演:シャロン・ストーン(キャサリン・トラメル)、デヴィッド・モリッシー(マイケル・グラス)、シャーロット・ランプリング(ミレーナ・ガードッシュ)、デヴィッド・シューリス(ロイ・ウォッシュバーン刑事)、ヒュー・ダンシー(アダム)、インディラ・ヴァルマ(デニース)

カポーティ

シャンテシネ2 ★★★☆

■死刑囚の死は、作家の死でもあった

トルーマン・カポーティが『冷血』(原題:In Cold Blood)を執筆した過程を描く。

1959年にカンザス州で「裕福な農場主と家族3人が殺される」という事件が起きる。新聞の記事に興味を持ったカポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、さっそくザ・ニューヨーカー紙の編集者ウィリアム・ショーン(ボブ・バラバン)に許可をとり、幼馴染みの作家ネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)を「調査助手」(とボディガードができるのは君だけ)に、カンザスへと向かう。

ハーパー・リーは『アラバマ物語』(原題:To Kill a Mockingbird)の原作者として有名だが、このカポーティの取材に協力していたようだ。カポーティは乗り込んだ列車で、客席係から有名人としての賛辞をもらうが、それがお金を払って仕組まれたセリフだということが彼女にはすぐばれてしまう。これは映画の最後でも彼女に電話で手厳しいことを言われることに繋がっている。

かように全篇、手練れの職人芸といった趣があるが、初監督作品の由。構成は鮮やかだが、抑制はききすぎるくらいにきいているから展開は淡々としたものだ。人物のアップを重ねながら、時折引いた画面を提示して観る者を熱くさせない。凝った作りながらドキュメンタリーを観ているような気分なのだ。カポーティ本人の喋り方や歩き方に特徴がありすぎるのか、ホフマンの演技が過剰なのかはわからないが、それすらもうるさく感じさせない。

ニューヨークの社交界では、有名人であるだけでなくそのお喋りに人気があるカポーティだが、カンザスではただのうさんくさい同性愛者。そんな状況も織り込みながら、彼は捕まった容疑者のふたりのうちのペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jr)に興味を持ち、接触に成功する。

生い立ちなどからスミスに自分自身の姿を見たというカポーティだが、それが詭弁のように聞こえてしまう。取材のためなら賄賂は使うし、発見者のローラにも巧妙に近づき、スミスからは「いつまでも世間が君を怪物と呼ぶのを望まない」と言って彼の日記をせしめる。カポーティにとっては、作品は社交界の人気者でいるためにどうしても必要なもので、スミスは「金脈」なのだ。だから、犯行の話を訊いていないうちに死刑になるのは困るが、訊きだしたあとに何度も延期されると死刑という結末が書けず本が完成しない、という理屈になる。

『アラバマ物語』の完成試写でハーパー・リーに会っても「彼らが僕を苦しめる。控訴が認められたらノイローゼだ。そうならないように祈るだけ」と言うばかりで、彼女に映画の感想を訊かれても答えず去る。「正直言って騒ぐほどのデキじゃない」って、ひどいよなー。

その前の、捜査官のアルヴィン・デューイ(クリス・クーパー)に、カポーティが本の題名を『冷血』に決めたと伝えるくだりでは、デューイに冷血とは犯行のことか、それとも君のことかと切り替えされるが、この映画はカポーティに意地悪だ。

いや、そうでもないか。スミスに、姉が彼を毛嫌いしていたことは隠して写真を渡すなど、作品のためという部分はあるにせよ、心遣いをみせてもいるし、最後の面会から死刑執行に至っては、カポーティにも良心があることで、彼が壊れていくことを印象づけているから。

それにしても出版のために死刑を願った相手に、死刑の直前にからかわれ慰められたら、やはり正気ではいられなくなるだろう。ここから死刑執行場面までは本当に長くて、観客までが苦痛を強いられる。絞首刑に立ち会ったあとカポーティは、ハーパー・リーに「恐ろしい体験だった」と電話で報告する。「救うために何も出来なかった」と続けるが、彼女から返ってきたのは「救いたくなかったのよ」という言葉だった。

晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、『冷血』以後は長篇をものにすることができなかったカポーティという作家の死を、映画はここに結びつけていた。

 

【メモ】

フィリップ・シーモア・ホフマンは、この演技でアカデミー主演俳優賞を受賞。

カポーティは、恋人である作家のジャック・ダンフィーにも、スミスとヒコックに弁護士をつけることでは「自分のためだろ」と冷たく言われてしまう。

『冷血』は前半しか書かれていないうちに、朗読会で抜粋部分が発表される。晴れ晴れとした顔のカポーティ。

そのことを知ったスミスに本の題名のことで詰め寄られる。あれは朗読の主催者が勝手に決めたことだし、事件の夜のことを訊けずに題名など決められないと嘘をつくカポーティ。

結末が書きたいのに書けないといいながら離乳食にウイスキーを入れて食べるカポーティ。この離乳食は、スミスがひと月ほど食事をとろうとしなかった時に、カポーティが差し入れていたのと同じものだ。

原題:Capote

2005年 114分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:松崎広幸

監督:ベネット・ミラー 原作:ジェラルド・クラーク 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 編集:クリストファー・テレフセン 音楽:マイケル・ダナ

出演:フィリップ・シーモア・ホフマン(トルーマン・カポーティ)、キャサリン・キーナー(ネル・ハーパー・リー 女流作家)、クリフトン・コリンズ・Jr(ペリー・スミス 犯人)、クリス・クーパー(アルヴィン・デューイ 捜査官)、ブルース・グリーンウッド(ジャック・ダンフィー 作家・カポーティの恋人)、ボブ・バラバン(ウィリアム・ショーン ザ・ニューヨーカー紙編集者)、エイミー・ライアン(マリー デューイの妻)、 マーク・ペルグリノ (リチャード・ヒコック もうひとりの犯人)、アリー・ミケルソン(ローラ 事件発見者)、マーシャル・ベル

記憶の棘

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

■転生なんてどうでもいい。アナと少年が愛し合っていたのなら

アナ(ニコール・キッドマン)が最愛の夫ショーンをジョギング中の心臓発作で亡くしたのは10年前。夫への想いを断ち切れずにいたアナだが、自分の心が開くのを待ち続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)の愛を受け入れ、その婚約発表パーティがアナの豪華なアパートで開かれようとしていた。ショーンの友人だったクリフォード(ピーター・ストーメア)とその妻クララ(アン・ヘッシュ)もやって来るが、クララはプレゼントのリボンを忘れたといって外に飛び出していく。公園の林にプレゼントを埋めるクララ。それを見ている少年(キャメロン・ブライト)。クララは別のプレゼントを買う……。

次は、アナの母エレノア(ローレン・バコール)の誕生日パーティが開かれているアパート(パーティ続きだが、なにしろ金持ちだからね)。そこに突然見知らぬ少年が現れ、アナとふたりだけで話したいと申し出、「僕はショーン、君の夫だ」と告げる。あきれて最初こそ相手にしないアナだったが、何度か接していくうちに本当に夫の生まれ変わりかもしれないと思い始め、次第にそれは確信へと変わっていった。

カメラが巻頭から素晴らしいが、アナの動揺を捕らえた劇場の場面は特筆ものだ。少年への説得がうまくいかず、劇場の開演に遅れてしまうジョセフとアナだが、少年の倒れた所を目にしてしまったアナの気持ちの揺れは大きくなるばかりだ。引いたカメラが整然とオペラを鑑賞している客席を映しているところにふたりが現れる。指定席にたどり着くには、まるで波紋が広がるように何人もの客を立たせることになる。狭い客席の前を進む時にはカメラはかなりふたりに近づき、着席した時にはアナのアップになっている。そして、ここからが長いのだ。ジョセフが2度ほどアナに耳打ちするが、アナには多分何も聞こえていない。アナにも見えていなかったようにオペラの舞台は最後まで映ることなく、場面は観客がその長さに耐えられなくなったのを見計らったように突然切り替わる。

こんな調子で書いていくとキリがないのではしょるが、少年がふたりしか知らないことまで答えるに及んでアナの心は乱れに乱れ、夫への愛が再燃し、少年をアパートに泊めたりもする。無視されたジョセフが大人げない怒りを爆発させる(きっかけは少年が椅子を蹴るという子供っぽいいたずら)が、すでにこの時にはアナには少年しか見えなくなっていた。

ところが、死んだショーンが実は浮気をしていて、少年の知っていた秘密の謎が、クララが埋めたプレゼントの手紙を掘り出して仕入れたものによることがわかる。クララによると、この手紙はアナがショーンに送ったもので、それをショーンは封も切らずにクララに渡していたのだという。「ショーンが本当に愛していたのは私。だからもしあなたが生まれ変わりなら、真っ先に私の元に来るはず。だからあなたはショーンではない」というクララに、少年の心は簡単に崩れてしまう。

そしてアナは、何と、今回のことは私のせいではないとジョセフに復縁を懇願する。少年からは2度と迷惑はかけないし、たまに精神科の医師に診てもらっているのだという手紙が届く(この場面は学校の個人写真の撮影風景。このカットがまた素晴らしい)。ラストはアナとジョセフの結婚式だが、海岸にはウエディングドレスを着たままのアナが取り乱している姿がある。ジョセフがアナに近づき、なだめるようにアナを連れて行く……。

1番はじめにショーンの講義のセリフで転生は否定されるのだが、すぐその当人の死を見せ、そのまま出産の場面に繋いでいるのは、転生をイメージさせていることになるのではないか。原題もBirthだし。こうやって周到に主題を提示しての逆転劇はあんまりという気もするが、しかしだからといってあっさり転生でした、というのはさすがにためらわれたということか。

表面的にせよ転生を否定する結論を取っているので、その可能性を考えてみたが、これだと少年が何故そんなことを言い出したのかがまるでわからなくなる。いくらアナに好意を感じたといっても、家族との決別も含めて10歳の少年がそこまで手の込んだことをやるだろうか。

逆に生まれ変わりだという根拠ならいくつか見つけることが出来る。婚約パーティに現れたクララの後を追った(つまりクララを知っていた。これは偶然ということもあるかも)。クリフォードのことも知っていた。ショーンの死亡場所を知っていた。そしてなにより手紙からの知識では(アナのことは同じアパートだから知っていたにしても)ショーンが死んだということまではわからないはずなのだ。

確かにクララの言い分は気になるが、ショーンがジョセフに妻を取られることに嫉妬した(あるいは許せない)というのはどうだろう。これはエレノアが彼を嫌っていたということからの、ショーンの性格が悪かったという私の勝手な推論だが。また、転生はしたものの全部の記憶が残ったというわけではないという説明もちょっとずるいが成り立たなくはない。これなら純粋にアナを愛している少年がクララの暴露発言にショックを受けて(自分が将来するべき裏切りを予想するというのは無理だとしても、単純に混乱はするだろう)、結末にあるような学校生活をするしかないという説明にはなる。

あとはクララの発言が全部嘘だということも考えられる。もっともこれだと手紙の入手方法や、暴露する意味がまったくわからなくなる(嘘でない場合でもショーンが死んで10年もしてこの発言は?)し、もしそうだというのなら映画としてもなんらかのヒントを用意しておく必要があるだろう。

こんなふうにどこまでも疑問が残ってしまうようでは、映画としては上出来とはいえないのだが、といって簡単に却下する気にはなれない映画なのだ。

手紙の封も切らずそれを愛人に渡すショーンも不遜でいやなヤツだが、封を切らなくてもわかるような手紙しか書けなかったアナという部分はなかったか。ショーンの不倫を見抜けなかったというのもね。少年の出現であれだけ心が動かされたというのに、復縁の許しを請うだろうか。それも私が悪いのではない、って最低でしょ。その時、なかなか返事をしないジョセフもものすごくいやなのだけど、それよりラストシーンをみると、もうアナは狂気の1歩手前なのかもと思ってしまう。

つい沢山書いてしまったが、実は転生かどうかということよりも、アナと少年は本当に惹かれあったのか、ということが問題にされるべきなのだ。そしてアナと少年はやはりちゃんと愛し合った、のだと思う。夫だと言われても、秘密を知っていても、それだけでは愛せるはずなどないということぐらい、誰だって知っていることではないか。

  

【メモ】

「もし妻のアナが亡くなり、その翌日窓辺に小鳥が飛んできて僕を見つめ、こう言ったら?『ショーン、アナよ。戻って来たの』僕はどうするか? きっとその鳥を信じ一緒に暮らすだろう」(巻頭のショーンの講演でのセリフ)

少年はアナに結婚は間違っているという手紙を渡す。

アナがそのことをジョセフに言わなかったのはたまたま、それとも……。

アナと同じアパートの202号室(コンテ家)が少年の家。ジョゼフは事情を話し、少年にアナに近づかないと約束させようとするが、少年は言うことをきかない。このあとオペラに出かけ、少年が倒れる。

電話でアナに「公園のあの場所で君を待っている」と告げる少年。あの場所とはショーンが息を引き取った場所だった。

少年はアナの義兄のボブに会うことを希望し、彼のテストを受ける。

原題:Birth

2004年 100分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジョナサン・グレイザー 脚本:ジョナサン・グレイザー、ジャン=クロード・カリエール、マイロ・アディカ 撮影:ハリス・サヴィデス 編集:サム・スニード、クラウス・ウェーリッシュ 音楽:アレクサンドル・デプラ

出演:ニコール・キッドマン(アナ)、キャメロン・ブライト(ショーン少年)、ダニー・ヒューストン(ジョゼフ/婚約者)、ローレン・バコール(エレノア/母)、アリソン・エリオット(ローラ/姉)、アーリス・ハワード(ボブ/姉の夫)、アン・ヘッシュ(クララ クリフォードの妻)、ピーター・ストーメア(クリフォード/ショーンの親友)、テッド・レヴィン(コンテ/少年の父)、カーラ・セイモア(少年の母)、マイロ・アディカ(ジミー/ドアマン)

黒い雪

松竹試写室(東劇ビル3階) ★★☆

■今となってはこの過激な抵抗は苦笑もの

「美の変革者 武智鉄二全集」と称して10月末からイメージフォーラムで全10作品を一挙上映する企画の試写にI氏の好意で出かけてきた。武智作品は「黒い雪裁判」等で、学生の頃大いに騒がれたものだが、観る機会はないままだった。

いきなりタイトルなのは昔の映画だから当然だが、ここの背景は黒人に組み敷かれている娼婦で、何故かふたりともほとんど動かないままだ。重苦しいほどの長さはそのまま当時の日本の状況を演出したものだろう。

娼婦は見られていることがわかっているらしく、手を伸ばし影絵を作る。ふたりの行為を隣の部屋から覗き見しているのが次郎(花ノ本寿)で、彼の母はこの売春宿を経営している。叔母が新しい若い娘民子を母のところに連れてきていて、あけすけな話をさんざんする(この猥談は飛行機の騒音に消されて肝心なことが聞けなくなっているのが効果的だ)。駐留軍のボスの情婦である叔母は、近々PXからの横流しがあるので、またうまい商売ができると楽しげだ。

次郎は、この叔母から横領で得た金を巻き上げる計画を共産党員らしき男と立てる。党員からはドスを渡される。このドスで黒人兵を殺し、彼からピストルを奪うが、これは次郎の自発的な行為のようだ。

家(売春宿)に戻ると、MINAになった民子の初仕事なのか、彼女の泣いている声が漏れてくる。母は変態爺のミスターグレン様だからと、それでもまんざらでない様子だ。

次郎は前から気になっていた個人タクシー運転手の娘静江(紅千登世)に声をかけ、映画館にさそう。どうでもいい話だが、西部劇が上映されているこの映画館の傾斜のきつさは昨今のシネコン並である。ここで静江の悶える場面になるのだが、これが大げさでわざとらしいもの。場内が明るくなって次郎の肩に頭をのせている場面があるし、その前にも次郎がピストルを出し、「これピストルだよ」と言う隠喩もあるから、次郎にペッティングされてのことと解釈するのが普通だろう。がやはり、演技力の問題は別にしても不自然だ。

母と女の子たちの歌舞伎見物の日、次郎は静江を家に呼び出しベッドに横たえて明かりを消す。次郎はすぐ帰ってくると言い残し部屋を出るのだが、外には党員の男が裸になって待っている。男に処女の女の子を世話すると話していたのは、静江のことだったのだ。男が消え、次郎がドア越しにいると、梅毒で商売も出来ず歌舞伎にも行けなかった女が出て来て、次郎を抱くようにする。しかし、それにしても静江を男に引き渡した次郎の気持ちがわからない。

明かりがついて相手が次郎でないことを知った静江はショックで、裸のまま部屋を飛び出し、基地の金網の横を全裸で走る有名な場面となる。車が対抗して何台も通りすぎていくところを、100メートル以上も走ったのではないかと思われるが、さすがにここの撮影は難しかったのか、暗いし望遠で撮っているということもあってピンボケ気味である。基地の中からは警告の車も追走してくる。緊張感が高まる中、静江は倒れ体は泥まみれになってしまう。

プレスシートには「ジェット機の衝撃波によって地上に打ち倒されてしまう。まるで弱小民族の運命を象徴するかのように」と書かれているのだが、何が衝撃波なのだろう。映画の中で、それこそ耳を塞ぎたくなるほどうるさい爆音だが、基地周辺の住民である静江にとってこんなものが衝撃波とは思えない。「弱小民族の運命」は監督の解釈なのかもしれないし、そういう読み解きはいくらでも可能だろうが、それ以前に演出としてもあまりに稚拙ではないか。それに、この静江の行動を反米の抗議行動と見立てるのは筋違いだろう。

次郎は党員の男ともうひとりの3人で、叔母から2万ドルを奪う。男達は叔母を犯す。叔母は、畜生と同じだからと次郎を拒否するが、結局は悶えたことで次郎に射殺される。次郎はMINAに山のようなプレゼントを抱えて帰るが、両替からあっさり足がつき駐留軍に捕えられてしまう。

堀田が静江を連れて次郎の面会に来る。「娘がどうしても会いたいと言ってきかないものだから」なのに、この場面で喋り続けるのは堀田ひとりである。これがまたどうにもおかしいのだ。笑ってしまってはいけないのかもしれないが、満州から引き上げて妻と息子が死んだことにはじまって自分の人生の悔恨を語ったあと、「この娘には人間の魂を教え込んだ」からって「そうなるべき当然の帰結。さあ、今日はふたりの結婚式」となっては、ちょっと待ってくれと言いたくなる。

口をきかない次郎と静江の気持ちは一応映像で説明してあるが、でも静江は次郎を何故許せるのか。それに堀田は、次郎の黒人兵殺害現場まで目撃しているのだ。反米というお題目が成り立つのなら殺人は支持するし、静江を提供することも厭わないというのだろうか。いくら何でももう少し具体的な説明があってもよさそうなものだ。

ふたりが帰ったあと、次郎は決心したかのように供述をはじめるが、叔母がマロー(駐留軍のボス)の愛人であり横流しがあったことに触れると、担当官は猛烈に怒りだし次郎の供述を認めようとしない。

このあと雪の日、他の囚人たちと一緒にどこかへ行くような場面(プレスシートだと、殺人罪で起訴された次郎は日本の警察に引渡されるという説明だが、映画ではよくわからなかった)で、画面にはソラリゼーション処理された黒い雪が表現される。

最後の「きっと他に悪いヤツが……基地なんかなければいいんだ」という次郎の母のセリフが、また白々しい。原潜寄港反対運動の学生たちに塩をまいて、「反対なんてとんでもない」と言っていたというのに。

米軍基地周辺を描くことで、当時の日本の状況(ある部分ではほとんど変わっていないようにも思えるが)はいやがおうにも浮かび上がってくるし、タイトルや騒音の使い方には工夫がある。

しかし、次郎の考えていることや行動はどうしても理解できなかった。黒人兵の殺害、静江の扱い、叔母殺し……。「不浄の金は我々同士のために使うのが一番だ」という党員の男を信じたのなら、無駄な買い物などできないはずだし、叔母が憎いのなら母親だってその対象になるべきだろう。それなのにあの最後のセリフで収まりをつけようなんて、いい加減にもほどがあるではないか。

1964年 89分 白黒 ワイド 製作:第三プロダクション

監督・脚本:武智鉄二 撮影:倉田武雄 美術:大森実 録音:田中安治 照明:大住慶次郎 音楽:湯浅譲二、八木正生

出演:花ノ本寿(次郎)、紅千登世(堀田静江)、美川陽一郎、村田知栄子(母)、松井康子、内田高子、滝まり子

靴に恋する人魚

2006/9/23 新宿武蔵野館2 ★★

■可愛らしくまとめただけではね

「昔々、ドドという女の子がいました。みんなに愛される女の子でした」というナレーションではじまるおとぎ話、なのかな。カラフルな色づかいの小物や街並みにはじまって、登場人物や設定までもが絵本のような作りになっている。

生まれつき足が不自由だったドドは、『人魚姫』の絵本を読んでもらうと、自分も足が治ったら声を取られてしまうのではないかと心配でしかたがありませんでした。ところがある日、ドドは足の手術を受け、自由に歩けるようになります。大人になったドド(ビビアン・スー)は出版社に勤め、気難しいイラストレーターから作品をもらってくるのが仕事(電話番とかもね)。そしてなにより靴を買うことが好きな女性に成長したのでした。そんなドドは歯科医王子様のスマイリーと出会い結婚。新居でふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。

じゃなくって「このお話はここからが本当の始まりです」だと。といったっておとぎ話仕立ての作風が変わるわけではないが。ドドの靴を買う病気がエスカレートして、置き場所はなくなるし、靴が蛙に見えてきたスマイリーからは、とうとう靴を買わない努力をしてみたらと言われてしまう。ふたりで野鳥観察に出かけたりして気を紛らわしせていたドドだが、やっぱり我慢できなくなって……。

巻頭に出てきた「幸せとは、黒い羊と白い羊を手にいれること」という言葉は、単純にこのことだったのだろうか。靴を得ることでまた足を失い(マンホールに転落)、王子様を得たのに、その王子様は目のピントが合わなくなる病気になってしまう。

教訓めいた苦い話が、靴屋の前にいる女の子(マッチ売りの少女)に靴をあげることでほぼ解決してしまうのは、おとぎ話だからに他ならない。さすがに今度ばかりはドドの足は戻らないけどね。でもそのかわり、ドドには赤ちゃんが授かって、やっぱりめでたしめでたし。

馬鹿らしい話だが、最後まで可愛らしくまとめたのはお手柄。プレゼントの箱を受け取った人が中身を確かめるようと箱を振るギャグ(ケーキや子猫だったりする。これは何度も出てくる)や、画面処理もポップで楽しい。変人イラストレーターとの交流や靴屋(魔女なの?)の扱いなども考えてある。

でもやっぱり私にはちょっとつらかったなー。ビビアン・スー(もう31歳なのだと。それでこの役というのはある意味立派)やダンカン・チョウのファンならこれで十分なんだろうけどね。

【メモ】

プレゼントした人間がガクッとくるケーキ振りギャグには、4ヶ月の赤ちゃんの写真が入った箱を振る場面もあった。

英題:The Shoe Fairy

2005年 95分 台湾 サイズ■ 日本語字幕:牧野琴子

監督・脚本:ロビン・リー 撮影:チン・ディンチャン 音楽:ダニー・リャン

ナレーション:アンディ・ラウ 出演:ビビアン・スー[徐若迹пn(ドド)、ダンカン・チョウ[周群達](スマイリー)、タン・ナ(魔女)、チュウ・ユェシン (ジャック社長)、ラン・ウェンピン(ビッグ・キャット)

キンキーブーツ

シャンテシネ1 ★★★

■食傷気味の再生話ながらデキはいい

チャーリー・プライス(ジョエル・エドガートン)はノーサンプトンにある伝統ある靴工場の跡取り息子。靴を愛する父親に幼少時から靴に関する教えを叩き込まれたというのに、心そこにあらずで、婚約者ニコラ(ジャミマ・ルーパー)の転勤が決まったロンドンで、一緒に新居を物色するつもりでいた。が、ロンドンに着いたばかりの彼に届いたのは父親の訃報だった。従業員たちは当然のように彼をプライス社の4代目とみなし、めでたくというよりは仕方なく社長に就任する。そんな彼が発見したのは大量の在庫。父親が従業員を解雇するに忍びず、倒産寸前にもかかわらず靴を作り続けていたらしいのだ。

優柔不断で頼りない(はずの)チャーリーが出来ることは、とりあえず15人を解雇することだった(すげー優柔不断)。解雇対象のローレン(サラ=ジェーン・ポッツ)の捨てぜりふ(他の会社は乗馬靴や登山靴などでニッチ市場を開発している)で、彼はロンドンの問屋を回った時に出会ったクラブのカリスマスターでドラッグクイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)のことを思い出す。

食傷気味の再生話だが、組み立てがうまいので楽しめる。よく練られた脚本なのは、あらすじにしないでそのまま書いていきたくなるほど。まあ、お約束ということもあるからだが、冒頭からの一連の流れもスムーズでわかりやすい。そこに、田舎と都会、保守的な住民(従業員)と過激なローラ、ついでにニコラとローレン(割り切り型とこだわり型というよりは、チャーリーにとっては自分をどう評価してくれているかということもある)という対比までが、巧みに織り込まれているというわけだ。

チャーリーが思いついた打開策は、女性用のブーツを履くしかないドラッグクイーンたちのためのセクシーブーツを新商品として開発し、ミラノの国際見本市へ打って出るというもの。が、技術力はあってもブーツとなると……。待ちきれずノーサンプトンに乗り込んできたローラだが、試作品では物足りず、「チャーリー坊や、あんたが作るのはブーツではなく、2本の長い筒状のSEXなの!」と叫ぶ(このセリフはよくわからん)。これでヒールの高いキンキーブーツ(kinkyは変態の意)が誕生する道が開けるのだが、ここからは従業員とのやり取りが見ものとなる。

専属デザイナーになったローラのトイレ立てこもり事件に、従業員ドン(ニック・フロスト)との腕相撲試合(ローラは元ボクサー)などを挟んで、ローラの父親との確執や、世間とのギャップが語ってしまう手際の良さ。ドラッグクイーンの実態に踏み込むと別な映画になってしまうからあくまで表面的なものだが、チャーリーが父と対比されてきたことにもからめて自然にみせる。

やりすぎなのは見本市を直前に控えてのチャーリーとローラの喧嘩で、成り行きとはいえ、派手なドラッグクイーン姿のローラを差別するのはどうか。レストランという人目がある場所だからというのは、ここまで来てだから、言い訳にならないよ。最後にもう一山という演出なのだろうが、チャーリーだけでなく、従業員たちとの信頼も勝ち得たローラという積み重ねをパーにしてしまうことになるから、これは減点だ。チャーリーがキンキーブーツを履いて舞台に上がるというおちゃらけた演出は許せるんだけどね。

キンキーブーツでの一発逆転劇は、嘘臭いが実話に基づく。だからというわけではないと思うが、巻頭の靴の生産ラインを追う場面だけでなく、随所に靴の製造工程が出てきてリアルだ。これが話の突飛さとのバランスを保っているといってもいい。靴工場を眺めているだけでも楽しめるのだ。2階の社長室からは工場が見渡せるようになっていて、指示を出すためのマイクがあるのだが、これが2回も活躍してました。もちろん実話でなくデッチ上げでしょうが。

 

【メモ】

靴工場のモデルは、靴メーカーのブルックス [W.J. Brookes]。

経営の悪化は、近年の安い輸入品(ポーランドの名前が出ていた)攻勢による。

腕相撲試合で、ドンはローラの心遣いを知り偏見を捨てる。

父親も実は工場の売却を考えていたという話をニコラ(不動産業)から聞かされショックを受けるチャーリー。が、これで吹っ切れたのか、今までの生産ラインをストップしてキンキーブーツ1本でいく腹を決める。

従業員のメル(リンダ・バセット)はチャーリーの方針が理解できず、やっつけ仕事を指摘されたこともあって定時に帰ってしまう。が、チャーリーが工場や財産を抵当に入れて見本市に賭けていることがわかって、チャーリーはみんなが黙々と働いている姿を目にすることになる。

原題:Kinky Boots

2005年 107分 アメリカ/イギリス サイズ:■ 日本語字幕:森本務

監督:ジュリアン・ジャロルド 脚本:ジェフ・ディーン、ティム・ファース 撮影:エイジル・ブリルド 編集:エマ・E・ヒコックス 音楽:エイドリアン・ジョンストン
 
出演:ジョエル・エドガートン(チャーリー・プライス)、キウェテル・イジョフォー(ローラ)、サラ=ジェーン・ポッツ(ローレン)、ジャミマ・ルーパー(ニコラ)、リンダ・バセット(メル)、ニック・フロスト(ドン)、ユアン・フーパー(ジョージ)、ロバート・パフ(ハロルド・プライス)