さんかく

テアトルダイヤスクリーン2 ★★★★


写真1、2:劇場に掲示してあったサイン入りポスター。

■男の馬鹿なところ

勘違いはしちゃいそうだが、けれど、あそこまでしつこく桃のケータイに留守電を入れ続ける百ちゃんは、本当に馬鹿なのだった 。映画を観ている私は少しは冷静だから、こんな行動はありえない気もしたのだけれど、桃とキスまでしちゃったのなら、やはりそうしちゃうんだろうか。

で、そんな馬鹿な百ちゃんをいつまでも好きな佳代が、こちらも相当馬鹿なのだけど、だんだんいじらしく思えてくるのは、映画を観ている限りでは冷静な私も、実は(というより当然)馬鹿だったりするわけで……。

最後の方に、百ちゃんがはるばる佳代の田舎を訪ねてきた真相を、佳代に知られてしまう何ともうまい場面がある。二人を前に選択を余儀なくされるようなラストもいい感じだ(ま、実はその直前に百瀬にも自分が大切にしなくてはいけないものは何かはわかるのではあるが)。

この理詰めの展開が効いているのだが、観ている時にそういう印象が少しもないのは、いかにも吉田恵輔監督らしい、と言っていいのだろうか。

百ちゃん、佳代、桃の三人が、三人共ストーカー(桃のは、百ちゃんや佳代に比べれば多少軽症ではあるが)に走ってしまうっていうのもおかしくって、そしてちょっぴり悲しくもある。

 

2010年 99分 ビスタサイズ 配給:日活 映倫:G

監督・脚本・照明:吉田恵輔 プロデューサー: 有重陽一、三浦剛、深津智男、曽我勉 企画:石田雄治 撮影:志田貴之 美術:藤田徹 編集:松竹利郎 音楽:佐々木友理 主題歌:羊毛とおはな『空が白くてさ』 スタイリスト:小里幸子

出演:高岡蒼甫(百瀬)、田畑智子(佳代)、小野恵令奈(桃)、矢沢心(佳代の友人)、大島優子、太賀、赤堀雅秋

重力ピエロ

新宿武蔵野館3 ★★★★

写真1:おっ、また出演者の不祥事か……と思ったが(『今度の日曜日に』の時と同じと思ってしまったのだな)、何のことはない、5.23という公開日を武蔵野館が紙を貼って消しているだけだった(この変則?公開のお陰で観ることができたのだが)。あと、別に「エロ」を強調しているわけではなくて、たまたま……。写真2:元のポスターはこれ。

■親殺しを肯定

泉水と春の兄弟が市内(舞台は仙台)で起きている連続放火事件に興味を持ち、その謎を追う。春が落書き(グラフィティアート)消しの仕事をしているうちに、必ずそのすぐ近くで放火が起きていることに気付き、泉水に相談したのだった。

そしてこの謎が、自分たち家族に刻印されてしまった、ある忌まわしい事件と結びついていることが次第にわかってくる……。

まず、この落書き消しの仕事っていうのが、そもそも怪しいんだが、それには触れていないのがどうもね。バラバラな場所で書かれた落書きなのに(ということは依頼主もバラバラだろうから)、その始末を何で春が全部やっているんだろう、とかね(そりゃ春が手を回せば仕事を取るのは可能にしても、泉水にはそのことも含めて不自然なのがわかってしまいそうなんだもの。ま、最終的には、気づけ!という意味もあるんで、これで正解なのかもしれないが)。

これに限らず、この落書きがあるメッセージを持っていて、それが遺伝子配列を使った暗号だということがわかったりするのだが(泉水は大学院で遺伝子を研究しているのな)、このミステリー部分は、実はいらなかったりもするのだな(え、そんな!)。

この凝ったつくりは、原作(未読)が伊坂幸太郎だからのような気もするが、そしてだからってそれほどうるさくはないのであるが(仕掛けが多い割にはわかりやすい映画だろうか)、泉水を巻き込む必要があったとはいえ、春の凝りようは凡人には理解しづらい面がある。

また、二十四年前のレイプ事件(犯人は高校生だった)で授かってしまったのが春で、その噂話が家族を苦しめ(転居もするのだが、父の正志が公務員ということもあって、噂話圏内からは逃れられなかったのか)小学生の時には泉水と春にもそのことが耳に入っていたという場面(春の疑問に、泉水はとっさにファンタ・グ・レイプと誤魔化す)は、映像になると突出してしまうので、もう少しぼかしておいてもよかった気がする。

けなしてばかりなのに、★四つ評価なのは、この作品には別の魅力があったからで、泉水の兄としての微妙な立場の描き方がその一つ目だ。

なにしろ彼の弟は、カッコがよくて女の子にはもてるし、これはおまけだが絵もうまい。ぼわっとしたイメージの泉水としては、どうしても弟と比較されてしまうから相当ストレスがあったらしいのだが、泉水は(むろん春も)両親の愛情の下、それがけっしてやっかみにはならないように育てられたのだった。とはいえ春の出生の秘密を知っていて、仲のいい兄弟でい続けるのは難しいことだったと思われる。

そしてこの作品は、泉水の目を通して語られる家族の物語であり、そこに春は何よりも不可欠な存在としてあるのである。

二つ目は春が実の父親を殺してしまうことで、これについては「ムチャクチャだな」と泉水に言わせてはいるが、警察に行くという春を泉水は「世の中的には悪いことじゃない」と断言し、そして「実は俺もあいつを殺そうとした」と春に告白するのだった(事実これは実行段階寸前だった)。

最後の場面は父の死後(結局胃癌で死んでしまったのだった)、二人が父の趣味をついで?養蜂作業(蜜の分離)をしているところで終わっている(注1)から、あの泉水の言葉は、春が自首することをおしとどめたようである。つまり作品として、春の行為を正当な殺人として肯定しているのである。そして、どう考えても「ムチャクチャ」なのに、それを受け入れてしまっている自分がいて、これも驚きなのだった。殺人はバットを何度も振り下ろすという、かなり残忍なものだったのに。

確かに春の実父葛城由紀夫の精神構造は不快としかいいようがないもので(好きになれない渡部篤郎だが、この役はうってつけだった)、こいつの言い分を聞かされていると、あまりの身勝手さに怒りが湧いてくる(三十人レイプは葛城の青春の一ページになってしまうし、他のセリフも書くのが躊躇われるようなものばかりなのだ)。正義など、それを振りかざす人間の数だけいるのだろうとは思うが、ここまで極端だと、こちらの正義をぶつける気にもならなくなってしまう。

むろん、だから殺人を犯していいのかといえばすぐには頷けないのであるが、春を責める気になるのも難しい。尊属殺人罪など、とうの昔になくなりはしたが、同じ殺人でも親殺しや子殺しになると、今だに道義的な解釈が余計にプラスされてついてまわることになる。親子関係というのはどうしてもそういう部分から抜けられないのだろう。

あんな奴が実の父親であることがわかったら、一体どんな気持ちがするだろうか。そして遺伝子は、いろいろな部分を葛城から春に正確にコピーしているのである(注2)。だから、春は女性に興味がないみたい、なのではなく、興味を持たないようにしていたのかもしれないではないか。学生時代にクラスのむかつく女をレイプしようとした相手に本気で向かっていったのは、そういうことだったのである。

市内の落書き消しという凝った設定がわかりづらいと最初の方で書いたが、もしかしたらそれは、春にとっては父親(が過去に三十件ものレイプをした場所)の痕跡を消す作業だったのかもしれない。そこに父親を度々呼び出し、春なりに過去に向き合わせようとしたのに、葛城は反省するそぶりすら見せなかったのだろう。

春がこのことを泉水に知らせようとしたのは、自分は臆病で大事な時には兄貴がいないと駄目、だからと言うのだが、これはあまり説得力がない。自分の中にある暴力性に自信が持てない春が、表面的には役に立ちそうもない泉水を側におくことで、抑止力としていたと考えればわかりやすくなるが、どうだろう。

あと映画を観ていて気になったのが、家族四人でサーカスに行った場面で、この時のことが題名になっているので外せなかったのだろうが(注3)、これと「俺たちは最強の家族」という言葉が繰り返される部分は、削除した方がいいと思うのだが。

注1:厳密にはこのあとストーカー女の夏子があらわれ、そして巻頭と同じ「春が二階から落ちてきた」というモノローグに合った場面となる。

注2:「どうして僕だけ絵がうまいの」というセリフはあったが、これが葛城の遺伝かどうかは定かではない。アルコールに弱いのは共通している。

注3:「家族の愛は重力を超える」はポスターの惹句だが、そう言ってたかどうかは忘れてしまった。楽しくしてれば地球の重力だって消せる、だったか。空中ブランコをしているピエロが落ちそうになるのを心配する子供たちに、大丈夫よ、と母親が言ってくれるのだ。

  

2009年 119分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:森淳一 プロデューサー:荒木美也子、守屋圭一郎 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎 企画:相沢友子 原作:伊坂幸太郎『重力ピエロ』 脚本:相沢友子 撮影:林淳一郎 美術:花谷秀文 編集:三條知生 音楽:渡辺善太郎 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:S.R.S『Sometimes』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:皆川悦子 照明:中村裕樹 装飾:山下順弘 録音:藤本賢一 助監督:安達耕平

出演:加瀬亮(奥野泉水/大学院生)、岡田将生(奥野春/泉水の弟)、小日向文世(奥野正志/泉水の父、元公務員)、吉高由里子(夏子/春の元?ストーカー)、岡田義徳(山内/泉水の友人、大学院生)、渡部篤郎(葛城由紀夫/春の実父、デリヘル業)、鈴木京香(奥野梨江子/泉水の母)

レスラー

シャンテシネ1 ★★★★

■ランディ・ロビンソンというミッキー・ローク

ミッキー・ローク渾身の一作。

プロレスなんて好きじゃないし(半世紀前のならよく見ていたが)、全盛期を過ぎたレスラーの話って、誰しもロッキーもどきを予想してしまうと思うのだが、見事に裏切られた。

極端に言ってしまうと、俳優というのは、映画の中では与えられた役割の一つくらいにしか思っていない私だが、この映画のミッキー・ロークは、そのままランディ・ロビンソンその人で、それは観終わった今も変わっていない。『フランチェスコ』(1989)のロークも熱演ではあったが、ロークはフランチェスコではなかった。けれど、ランディ・ロビンソンをロークと言われたら、うん、そうだね、と答えてしまいそうなのだ。

八十年代にはスタープロレス選手だったランディ「ザ・ラム」ロビンソンだが、今ではトレーラー暮らしの身で、その家賃の支払いもままならない。週末にある小規模インディー団体の興行ではとても足りず、スーパーでバイトまでしている有様だ。それでもステロイドを欠かさず、日焼けサロンにまでいく姿は哀れでしかないのだが、興行でのランディは仲間から一目置かれる存在で、このあたりの書き込みが素晴らしく、ランディが最も生き生きする場としてのリングをうまくイメージさせている。

このレスリング場面が、試合風景はもちろんだが、控え室を含めてひどく生々しい。ショーとはいえ試合だから、お互いの肉体を痛めつけ合うのは当然で、いくら口裏を合わせているにしても私のように暴力慣れしていない人間(映画は別物だけど、これはそう見えないのだ)には目を塞ぎたくなる場面が続く。

ただ一方で、老眼鏡に補聴器となると(これは職業病なのかもしれないが)、さすがにどうにかしなくちゃ駄目だろ、と言いたくなってくる。そして、ある日、試合後にロッカーで急に気分が悪くなってもどした彼は、そのまま意識を失い、医師からは試合は死を意味すると宣告されてしまう。

レスラーのように鍛え抜かれた肉体がなくては成り立たない職業にとっての老いは、一層悲しいものがある。そんな時、よりどころになるのは、過去の名声でもプロレス仲間でもなく、やはり家族なのだろうか。ランディが娘と連絡を取り、やっとのことで二人で出かけるようになるまでの場面はいじらしくなってしまうが(これには馴染みのストリッパー
キャシディの手助けもある)、それだけ今までのランディは、娘にとっては受け入れがたい存在だったのだ。

ランディが娘に電話をする時に手にしていたのは、娘が七歳くらいの時の小さな写真で、その裏にある電話番号は五つほど書き換えられていた。古い写真しか手元にないのは、ランディがどう娘と接してきたを示しているし、いくつもの電話番号は、住まいが一定することなく生きてきた娘の状況を物語っている。

せっかくたぐり寄せた娘の気持ちを、ランディはちょっとした誘惑に負けてフイにしてしまう。約束をしたレストランで待ちぼうけをさせてしまうことなど、むろん悪いことには違いないが、こんなことだけで娘に一切のことを拒絶させてしまうのは、今までのことがあるからに他ならない。

そのこともあって、真面目に勤めていたスーパーで、怒りが爆発してしまうのだが、この場面がすごい。行く先のことも考えていたのだろう、仕事の欲しいランディは時間延長を申し出て、接客係をやらされるようになっていた。自分の指をスライサーに突っ込んで血まみれにしてしまう描写のすごさもあるが、それまで客の言いなりになっているところをドキュメンタリー風(この映画は他の場面もそうだ)に追っていたことが、この場面を効果的に見せているのだ。

一度決めた引退を撤回し、ボロボロの身体で記念試合に臨むランディは、痛々しいとしか言いようがないのだが、もうここまでくると、こちらも死が目の前にあるのに引き留める術も知らず、そうそれでいいんだよ、ランディ、と言ってしまっていたのだった。ストリッパーのキャシディが観客の代わりになって試合会場に駆けつけてくれたのだから、それでもう十分じゃないかと、私はランディではないのに、自分に言い聞かせていたのである。

ところで(これは断じて付け足しではない)、マリサ・トメイの熱演ぶりにも頭が下がった。考えてみれば、ストリッパーも身体が資本だから、キャシディも年齢のことを考えずにはいられなかっただろう。そしてなにより、自分の子供が母親についていろいろ知ってしまう年頃になっていて、そう長くはこの仕事を続けているわけにはいかない状況なのだ。キャシディについて、多く語られることはなかったが、キャシディがランディを放っておけなくなるのは、二人が似た者同士だからなのである。

原題:The Wrestler

2008年 109分 アメリカ シネスコサイズ 配給:日活 R-15 日本語字幕:太田直子

監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 製作総指揮:ヴァンサン・マルヴァル、アニエス・メントレ、ジェニファー・ロス 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ プロダクションデザイン:ティム・グライムス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:クリント・マンセル 音楽監修:ジム・ブラック、ゲイブ・ヒルファー 主題歌:ブルース・スプリングスティーン

出演:ミッキー・ローク(ランディ・ロビンソン)、マリサ・トメイ(キャシディ)、エヴァン・レイチェル・ウッド(ステファニー)、マーク・マーゴリス、トッド・バリー、ワス・スティーヴンス、ジュダ・フリードランダー、アーネスト・ミラー、ディラン・サマーズ

チェイサー

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■すり抜けた結果なのか

韓国映画の荒っぽさ(と言ったら悪いか)がいい方に出た問題作だ。力まかせに撮っていったのではないかと思われるところもあるのだが、そういう部分も含めて、人の執念を塗り込めたような濃密さが全篇から溢れている、息の詰まりそうな映画だった。

二十一人を殺害し(のちに三十一人と供述したらしい)三年前に死刑判決の出た連続殺人犯ユ・ヨンチョル事件を下敷きにしているというが、どこまで事実を取り入れているのだろうか。

デリヘルの元締めをしているジュンホは、店の女の子が相次いで行方をくらましたことに疑問を持つ。調べているうちに、4885という電話番号に行き当たり、そこからヨンミンという男を割り出す。

何ともあっけないことにこのヨンミンが犯人で、捕り物劇の末、ジュンホはヨンミンを警察に突き出すのだが、ジュンホの立場が微妙だ。二年前までは刑事だったが、今は風俗業を生業としているからか、頼みのギル先輩以外は冷たい視線しか寄越さない。言動が粗暴ということもあって、犯人を逮捕したというのに、逆に見られてしまうくらいで、言ってることをなかなか信じてもらえない。

ジュンホがどこまでもヨンミンに執着するのは、そのことに加え、体調が悪いとしぶるデリヘル嬢の一人ミジンを、無理矢理ヨンミンのところに行かせたことに責任を感じているからで(注1)、ミジンが生存している可能性があることを知って、余計躍起になざるを得ない。

捕まったヨンミンは殺害をほのめかし、どころか認め、殺害の手口さえ供述するのだが(ミジンの生存を口にしたのもヨンミンなのだ)、証拠不十分で釈放されることは経験から知っていたのだった。だからなんだろう、ヨンミンにはどこか余裕があって、女性警官との会話など、たまたまその時は二人きりになったのかもしれないが(たまたまだってありえそうもないが)、警察署内でのことなのに、何かとんでもないことが起きるのではないかとドキドキしてしまう。

ヨンミンを不能と決めつけ、女性を殺したのはセックスができないからで、ノミの使用はそれを自分の性器に見立てたからだと取り調べで分析されて、ヨンミンは捜査官(彼は精神分析医なのか)に襲いかかる。ヨンミンが激昂したのはこの時くらいだから、分析は当たっていたのではないか。

が、そのことより、そこまで追求しておきながらのヨンミン釈放という流れは、少々理解に苦しむ(映画に都合よく作ってしまったのなら問題だが?)。それに、ジュンホでさえヨンミンの行動エリアを絞り込んでいくのに(注2)、警察のだらしなさといったらなく、釈放後の尾行もドジってしまうし、ミジンの生死よりも証拠(遺体)を探すことの方に必死だったりする。実際の事件だって、多分どこかでいろいろなものをすり抜けてきたから二十一人もの殺害になったのだろう。そう思うと、案外こんなことの連続だったのではないか。

そして、ヨンミンのところからやっとのことで逃げ出し、近くの商店に助けを求めほっとしていたミジンだが、何もそこまで、とこれは監督(脚本も担当)のナ・ホンジンに言いたくなってしまうのだが、再び商店の女性共々ヨンミンの餌食となってしまう(映画としては、これは正解なのだけどね)。

ミジンが意識を取り戻したのは偶然も味方してくれたようだが、彼女の執念の脱出劇は七歳の娘の存在が大きかったはずだ。ミジンの娘は途中からジュンホと行動を共にするようになって、だから当然その描写も出てきて、となるとどうしても子供に寄りかかってしまう部分がでてきてしまうのだが、しかしそれは許せる範囲になっていた。

あと、犯行現場のヨンミン宅の浴室が、ホラー映画顔負けの不気味さだったことは書いておきたい。シャワーを借りる口実で携帯からジュンホに連絡を取りに浴室へ行くのだが、送信はできず、その時の浴室の薄汚さには、それだけで背筋が凍り付いた。恐怖にかられたミジンは窓を破るのだが、窓の外はレンガで塞がれているし、排水口には髪の毛が貼り付いているのだ。

ミジンのことは、考えると気の毒としか言いようがない。浴室で意識を回復した彼女が最初に見たものは二つの死体だし(注3)、散々恐怖を味わった末に、最後は水槽の中に、まるでオブジェのように頭部を飾られてしまうのである。それを見てジュンホの怒りが爆発するのだが、しかし、ミジンだけをこんな形にしたのは、映画的効果というのなら、それはさすがに減点したい気持ちになる。

注1:最初は、店の女の子に逃げられてはかなわないという金銭的な理由だったが。

注2:ジュンホはヨンミンを暴行し、なんとかミジンの居場所を吐かせようとするのだが、やりたくてもできない警察(ギル先輩も)はそれを見て見ぬふりをしている場面がある。

注3:これは以前に殺害したものでなく、ミジンを殺そうとした時にたまたま訪ねてきた教会の中年男女のもの。この偶然によってミジンは致命傷を負わずにすんだのだったが。

原題:・緋イゥ・吹i追撃者) 英題:The Chaser

2008年 125分 韓国 製作:映画社ビダンギル シネスコサイズ 配給:クロックワークス、アスミック・エース R-15 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:ナ・ホンジン 撮影:イ・ソンジェ 編集:キム・ソンミン 照明:イ・チョロ 音楽:キム・ジュンソク、チェ・ヨンナク

出演:キム・ユンソク(オム・ジュンホ)、ハ・ジョンウ(ヨンミン)、ソ・ヨンヒ(ミジン)、チョン・インギ(イ刑事)、パク・ヒョジュ(オ刑事)、キム・ユジョン(ミジンの娘)

ザ・バンク 堕ちた巨像

109シネマズ木場シアター7 ★★★★

■映画史に残る美術館での銃撃戦

重要参考人から情報を引き出そうとしていたニューヨーク検事局の調査員を目の前で殺されてしまうインターポール(国際刑事警察機構)捜査官のルイ・サリンジャー、という場面がのっけにあって、まだ状況の掴めていない観客をいきなり事件に引きずり込む。何が起きたのかと茫然とするルイと同じ(じゃないが)立場になれるこのベルリン駅での導入がいい。

重要参考人はIBBCという欧州を拠点にした国際銀行の行員だったが、その彼も後に調べると、最初の殺人の九時間後には殺されていたことがわかる。もっとも謎は深まるというよりは一直線にIBBCへと向かう。そして、最後に変などんでん返しが待っているというのでもない。悪の正体こそ単純だが、ちょっとした手がかりから捜査をすすめていくサリンジャーたちと、次から次へと証拠(証人)を抹殺していくIBBC側とのやりとりが、緊迫したタッチで描かれていく。

インターポールとニューヨーク検事局との連係プレーというのが、よくわかっていないのだが、ニューヨーク検事局の調査員が殺されてルイは、彼の同僚で一緒に捜査にあたっていた女性のエレノア・ホイットマンを応援に呼ぶ。だいたいインターポールは直接逮捕はしない(と言っていた)んだってね。証拠集めが仕事(?)ならこのコンビもアリなんだろうけど、殺人が続いているから、大丈夫なのかと思ってしまう。

エレノアの存在は映画的味付けなのだろうが、無骨で時に悪人顔に見えてしまうクライヴ・オーウェンに、凛としたナオミ・ワッツの組み合わせはいい感じで、エレノアは「ちゃんと寝たのは? 食事は? 女と寝たのは?(そこまで訊くのかよ)」とサリンジャーのことを心配していた。ま、でも恋の方へはいかないのだけどね。

あらゆる手を使って証拠の隠滅をはかるIBBC側は、軍事メーカーの社長で次期イタリア首相候補でもあるウンベルト・カルビーニまでも選挙演説中に暗殺してしまう。カルビーニにまでなんとかたどりついたサリンジャーとエレノアは、彼との内密の会見でIBBCの狙いを訊きだした矢先だった。重要参考人をまたしても失ってしまう彼らだったが、暗殺現場に残された弾道の角度の違い(弾がうまいこと貫通してたのな)から、警官によって殺された狙撃者とは別の狙撃者の存在がいたことを知る。

この義足の殺し屋コンサルタントを追って舞台はニューヨークへと移り、映画の最大の見せ場となっているグッゲンハイム美術館での銃撃戦となる。美術館がボロボロになる(だからセットなのだろう)この場面は、映画史に残るといっても過言でない凄まじさだ。

IBBC側はコンサルタントの正体がばれそうになったため、サリンジャーもろとも消してしまおうと暗殺部隊を送り込んでくるのだが、これに対抗するためサリンジャーとコンサルタントが手を組むという予想外の状況が生まれることになる。美術館をまるごと(螺旋の回廊も効果的に使われている)、好き勝手に壊していくのも迫力あるが、それ以上に、この二人が息の合ったところを見せるというのがなかなかの趣向で、コンサルタントがいかに優秀な殺し屋だったかもわかる、出色の場面に仕上がっている。

場所も選ばず暗殺部隊を送り込んでしまっては現実離れもいいとこなのだが、これだけの映像が撮れたのだから文句は言うまい。IBBCが一九九一年に破綻したBCCI(国際商業信用銀行)のスキャンダルを実モデルにしているのは明白で、BCCIは金融犯罪以上のあらゆることをやっていたらしいから、殺し屋くらいは雇っていたかもしれないが、美術館に暗殺部隊を投入しちゃったら、そりゃ台無しだもんね。

カルビーニが語ったIBBCの狙いは、例えば武器取引で儲けようとしているのではなく、借金を支配したいというもの。借金の支配とはわかりずらいが、要するに何もかもが思い通りに動くようになれば、儲けなどあとからいくらでもついてくるというわけだろう。

結局サリンジャーはBCCIのスカルセン頭取側近のウェクスラーに接触し、彼が昔持っていた大義に働きかけ(ウェクスラー自身が贖罪を求めていると、サリンジャーはエレノアに言っている。もっとも彼も殺されてしまうのだが)、最後にはスカルセンを追い詰める。

スカルセンは追い詰められてなお「おまえに逮捕権はない」と言うのだが、サリンジャーは「誰が逮捕すると言った」と答える。すでにエレノアには、法の枠を超えた決着をつける、とカッコいい別れの挨拶をすませていたのだった(注)。

ド派手な美術館の銃撃戦のあとでは、最後は見せ場としては、イスタンブール市街の屋根づたいという素晴らしい景観はあっても、おとなしく見えてしまう。決着の付け方も目新しいものではないが、でも話を妙にいじらなくても、筋道をきちんと追っていけば十分娯楽作になることを証明してくれていた。

注:「君は正しい道を歩め、俺一人でやる」なんて、書き出すとちょっと恥ずかしくなるセリフだ。そもそも司法の中にいたのではIBBCは破滅させられないと、サリンジャーに逆に迫ったのはウェクスラーだったが。

原題:The International

2009年 117分 シネスコサイズ アメリカ、ドイツ、イギリス 配給:ソニー・ピクチャーズ PG-12 日本語字幕:松浦奈美

監督:トム・ティクヴァ 製作:チャールズ・ローヴェン、リチャード・サックル、ロイド・フィリップス 製作総指揮:アラン・G・グレイザー、ライアン・カヴァノー 脚本:エリック・ウォーレン・シンガー 撮影:フランク・グリーベ プロダクションデザイン:ウリ・ハニッシュ 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン 編集:マティルド・ボンフォワ 音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル

出演:クライヴ・オーウェン(ルイ・サリンジャー/インターポール捜査官)、ナオミ・ワッツ(エレノア・ホイットマン/ニューヨーク検事局検事補)、アーミン・ミューラー=スタール(ウィルヘルム・ウェクスラー/スカルセン頭取の側近)、ブライアン・F・オバーン(コンサルタント/殺し屋)、ウルリッヒ・トムセン(ジョナス・スカルセン/IBBC銀行頭取)、ルカ・バルバレスキー(ウンベルト・カルビーニ/欧州最大の軍事メーカー社長、次期イタリア首相候補)

グラン・トリノ

上野東急2 ★★★★

■じじいの奥の手

『チェンジリング』はえらく重厚な作品だったが、こちらはクリント・イーストウッドの一発芸だろうか。むろんその一発芸(最後の見せ場)に至る描写は念の入ったもので、しかし冗長に過ぎることはなく、相変わらず映画作りの才能を遺憾なく発揮した作品となっている。

無法者には銃で決着をつけるのがイーストウッドの流儀、とこれまでの彼の映画から私が勝手に決めつけていたからなのだが、最後にウォルト・コワルスキーがとった行動はまったく予想できなかった。

むしろ、銃による裁きをしたあと、どうやってそのことを正当化するのだろうかと、先走ったことを考えていて、だからこの解決策には唸らされたし、イーストウッドには、こんな映画まで作ってしまって、と妬ましい気分さえ持ってしまったのだった。

で、だからというのではないが、難癖をつけてみると、やはりこれはウォルトが先行き短い老人だったから出来たことで、誰もがとれる方法ではないということがある。ま、これはホントに難癖なんだけどね。先行き短くったって、しかもウォルトの場合は深刻な病気も抱えていたにしても、いざやるとなったら、そう簡単には出来るこっちゃないんで。しかも彼のとった行動は、タオとスーの行く末を考えた上の周到なものであって(ウォルト自身も彼なりの区切りの付け方をしている)、決して突飛でもやけっぱちなものでもないのだ。

ついでに書くと、ウォルトは妻に先立たれたばかりで(映画は葬式の場面から始まっている)ウォルトは息子や孫たちには見放された(彼は見放したんだと言うだろうが)存在だった。だから自分の死は皮肉なことに、タオとスー以外にはそれほど大きな負担にはならない場所にいたことになる。もちろんタオとスーには負担(この言葉は適切じゃないが)以上の贈り物が与えられるのだが。

実際のところこれでは、結局息子や孫たちには、ウォルトは死後も理解されないままで終わってしまいそうである。孫娘は何故ヴィンテージカーのグラン・トリノが自分にでなくタオの物になってしまったのかを、ちゃんと考えるだろうか(注1)。映画としては、考えるだろうという立ち位置にいるのかもしれないが、私は難しいとみる。ウォルトも苦虫を噛みつぶしているばかりでは駄目で、聞く耳をもたないにしても、というかそうなる前にもう少し付き合い方を考えておくべきだったはずなのだ(注2)。

難癖のもうひとつは、ウォルトの行為があくまでも法の力が整備された下で成立することで、つまり戦争やテロとの戦いでは無力だろうということである。また、囮捜査的な性格があったことも否めないだろう。ま、そこまで言ったらウォルトに銃を持たせるしかなくなってしまうのだが(注3)。また、銃弾まみれになったのも(苦しむ間もない即死と十分な証拠が得られたのは)、運がずいぶん味方してくれたような気もしてしまう。それだけ、相手がどうしようもないヤツらだった、ということでもあるのだが。

以上、あくまで難癖なので、そのつもりで。

ところでウォルトの隣人たちはアジア系(タオの一家はモン族)になっているし、最初の方でタオをからかっていたのは「メキシコ野郎」で、スーは白人男とデートしていて黒人三人にからまれる。ウォルトは、白人男のだらしなさに憤慨し、隣人や街が異人種ばかりと嘆き(でもタオの祖母は、逆にウォルトが越していかないことを不思議に思っているのだ)、罵りの言葉をまき散らす。ため息だって怪獣並なのだ(まさか。でもすごいのだな、これ)。

ウォルトはトヨタランドクルーザーを「異人種のジャップの車」といまいましそうに言うが(注4)、けれど自分はというと「石頭のポーランドじじい」で、そう言うウォルト行きつけの床屋の主人は「イカレイタ公」なんだから、そもそも異人種の中にいたんじゃないのと笑ってしまうのだが、でもまあ、旧式頭のアメリカ人には白人なら同類なんだろうな。

汚い言葉ばかり吐いているウォルトはどう見ても人種差別主義者なのだが、NFLの招待券や家を狙ってる長男夫婦やヘソピアスの孫は拒否してしまうのに、タオやスーの真面目さには心を開く。そういう部分を見てこなかった彼の家族は、ウォルトの頑固さが大きな壁だったにせよ、ちょっと情けない。

もうひとつ忘れてならないのは若い神父の存在で、彼は亡き妻にウォルトを懺悔させることを約束させられたため、何度も足を運んでくるのだが、ウォルトは「あんたは27歳の童貞で、婆様の手を握り、永遠の命を誓う男だ」と相手にしようともしない。この神父、なかなかの人物なんだけどね。

が、スーの暴行に対してウォルトの考えに理解を示したことで(あくまでウォルトとタオだったらどうするかという話ではあったが)、ウォルトは最後に神父に懺悔をする。妻にキスをしたこと。ボートを売ったのに税金を払わなかったこと。二人の息子の間に出来てしまった溝について。

ところがウォルトはこのあと、一緒にスモーキーの家に乗り込んで行くつもりでいたタオを地下室に閉じ込め、その時タオには、朝鮮戦争で人を殺したことを告白するのだ(注5)。「お前みたいな子供も殺した」とも。神父にはもっと前に、朝鮮戦争でのおぞましい記憶についてはあっさりながら語っているのだが、懺悔の時にはそのことには触れていなかった。これこそ懺悔をすべきことだったはずなのに。

懺悔をしてしまったら、いくら自分が手をくだすのではないにしても、復讐はできなくなってしまうのだろうか。ここらへんは無神論者の私などには皆目わからないのだが、ウォルトは神父を無視しているようでいて、そういうとことも意識していたのかも、と思ってしまったのだった。

注1:孫娘がウォルトのグラン・トリノに目を付けたのは、ウォルトがまだタオのことなど知らない妻の葬式のあとの集まりでだった。彼女が「ヴィンテージカー」と言った言葉はウォルトを喜ばせたはずだが、いきなり「おじいちゃんが死んだらどうなるの?」はさすがにいただけなかった。「グラントリノは我が友タオに譲る」という遺言状を聞いて憮然としていたが、あんなこと言っちゃったんじゃ、まあ、しょうがないさ。

注2:と書いたが、実は私はといえばウォルトに近いだろうか。別に血が繋がっているからといって、他の人間関係以上に大切にすることなどないわけだし。ただ私の場合それが極端になることがあるので、一応自戒の意味も含めて上のように書いてみたのである。が、この映画で私が評価したいのは、血縁関係によらない人間関係なのだけどね。

注3:もっともタオのいとこのスパイダーやリーダー格のスモーキーたちは、ウォルトの相手をねじふせないではいられない態度に(ウォルトが挑発したようなものだから)暴走しだしたという側面も否定出来ない。そうはいっても、スーに対する行為は許し難いものがあるが。そして、ウォルトがその責任を痛感していたのは言うまでもないだろう。

注4:この車で葬式に来ていた長男のミッチはトヨタ車のセールスマンで、ウォルトは長年フォードの工場に勤めていたという、なんともすごい設定になっていた。

注5:これはタオに、朝鮮で何人殺し、どんな気持ちがしたかと問われたからではあるが。ウォルトの答えは十三人かそれ以上で、気持ちについては知らなくていいと答えて、タオを地下室に閉じ込めてしまうのだ。

原題:Gran Torino

2008年 117分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナー 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ、ビル・ガーバー 製作総指揮:ジェネット・カーン、ティム・ムーア、ブルース・バーマン 原案:デヴィッド・ジョハンソン、ニック・シェンク 脚本:ニック・シェンク 撮影:トム・スターン プロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス

出演:クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー/タオの姉)、クリストファー・カーリー(ヤノビッチ神父)、コリー・ハードリクト(デューク)、ブライアン・ヘイリー(ミッチ・コワルスキー/ウォルトの長男)、ブライアン・ホウ(スティーブ・コワルスキー/ウォルトの次男)、ジェラルディン・ヒューズ(カレン・コワルスキー/ミッチの妻)、ドリーマ・ウォーカー(アシュリー・コワルスキー)、ジョン・キャロル・リンチ(マーティン/床屋)、ドゥーア・ムーア(スパイダー/本名フォン、タオの従兄弟)、ソニー・ビュー(スモーキー/スパイダーの仲間)、ティム・ケネディ(ウィリアム・ヒル/建設現場監督)、スコット・リーヴス、ブルック・チア・タオ

ワルキューレ

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン7 ★★★★

■クーデターと割りきゅーれてたら?

よくできたサスペンス史実映画である。戦争映画らしい派手な場面は最初にあるくらいなのだが、最後まで緊迫感が途切れることがなかった。結果は誰もが知っていることなのに、と不思議な気もしたが、映画を観ていて、焦点を少しずらせば、いくらでもハラハラドキドキものになるのだということに気づく。

最初に見せられる飛行場での暗殺計画(これも事実に基づいたもの)など、まだのっけのことだし、余計成功するはずがない、というか絶対しっこないのだが(ってそれは後のも同じか)、暗殺そのものよりも、暗殺を企てていたことを知られてしまったかどうか、にすることで、そりゃあもう十分、手に汗握る、なんである。

そんなマクラがあって、トム・クルーズ演ずるシュタウフェンベルク大佐が実行犯となる暗殺計画が語られていく。

様々なヒトラー暗殺計画があったことは聞いていたが、これほど大がかりなものだったとは。なにしろワルキューレ作戦という戒厳令を利用した(と連動した)暗殺計画なのだ。考えてみれば暗殺はもちろんだが、そのあとには軍を掌握しなければならないし、戦争相手の連合国との交渉まで控えている。暗殺が個人的な恨みに立脚しただけのものであればことは簡単だが、ドイツの命運を賭けたものとなるとそうはいかなくなってくる。

計画が壮大なだけにそこにかかわってくる人間の数も多くなる。それぞれの野心と保身とが絡み合って、入り組んだものが不得手という映画の制約もあるが(人間関係の把握はそうなのだが、なにしろこの部分、たまらなく面白いところなのだ)、個性派俳優を配して、ギリギリながら何とか切り抜けている(俳優に馴染みがない人は厳しいかも)。

映画のうまさは、結果はわかっていながら、この暗殺計画がもう少し早いか遅ければ成功していたかもしれない、と思わせられてしまうことでもわかる。そう思ってしまった観客(私だが)も、一緒に暗殺計画に乗せられてしまっているわけだ。

早ければ、まだ陽気も暑くならず予定通り狼の巣での作戦計画は密室で行われて、少なくとも暗殺だけは成就しただろう。遅ければ、米英軍のノルマンディー上陸作戦(6月)やソ連軍の攻勢も続いていたからドイツ軍の規律も少しは乱れ、暗殺が未遂に終わってヒトラーの威信は低下し、もう少しは反乱軍として機能したかもしれない、などと……。とはいえ、こうした流れをみていくなら歴史を調べ直した方が面白いのは言うまでもないのだが、娯楽的要素が主眼の映画としては、十分なデキだろう。

映画からは少し脱線してしまうのだが、暗殺計画よりは、というより暗殺にはこだわらないクーデター計画であったら、そして、それがもっと綿密なものであれば、この作戦は成功していたのではないかと思える場面がいくつかあった(脱線と書いたが、こう思ったのは映画を観ての感想である。他の資料をあたったわけではないので)。暗殺は成功しなかったのに、つまり偽情報下だったにかかわらず、電話や通信によってある程度は新政府が機能し始めるのだ。

また、これと関連することだが、予備軍を動かす為の書類を改竄したシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーのサインをもらいに出向いていく場面がある。暗殺の前に、当人のサインが必要というのが、なんだか面白い(って観ていて面白がってる余裕などなかったが)。しかし、これとて偽サインでもよかったのではないか。

クーデターを支える人脈が完璧であったなら、って、でもそうなったらなったで機密の漏洩する確率は高くなるから暗殺の方が確実でてっとり早いのだろう。また、ヒトラー暗殺の報が流れると、電話の交換手たちは泣いていたから、やはりヒトラーの存在は別格だったわけで、となると暗殺は絶対条件だったのだろうか。そして、暗殺の成功すらも、ヒトラーのような強力な指導者の不在を意味するから、新政府が動き出しても相当困難な船出を強いられただろう(どのみちタラレバ話にすぎないが)。

成功を確信し、その場にいる全員が同志のカードを掲げる場面がある(これはどこまで本当なんだろう)。けれどそんな連帯間はわずかな時間の中であとかたもなく消えていってしまう。この崩壊速度の中にあって、爆発をこの目で見たと言い張るシュタウフェンベルク大佐は、滑稽ですらあった。滑稽ではあるのだが、この場面は入れて正解だった。成功しない計画なんてたいていこんなものだろうから。

それにしても映画を、ドイツ人配役で作るわけにはいかなかったのだろうか。昔ほど露骨ではないが、でも途中から完全に英語だからなー。片目に片手のトム・クルーズはよかったんだけどね(なのに相変わらず好きにはなれないのだな)。

 

原題:Valkyrie

2008年 120分 アメリカ、ドイツ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ブライアン・シンガー 製作:ブライアン・シンガー、クリストファー・マッカリー、ギルバート・アドラー 製作総指揮:クリス・リー、ケン・カミンズ、ダニエル・M・スナイダー、ドワイト・C・シャール、マーク・シャピロ 脚本:クリストファー・マッカリー、ネイサン・アレクサンダー 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル プロダクションデザイン:リリー・キルヴァート 衣装デザイン:ジョアンナ・ジョンストン 編集:ジョン・オットマン 音楽:ジョン・オットマン プロダクションエグゼクティブ:パトリック・ラム

出演:トム・クルーズ(シュタウフェンベルク大佐)、ケネス・ブラナー(ヘニング・フォン・トレスコウ少将)、ビル・ナイ(オルブリヒト将軍)、トム・ウィルキンソン(フロム将軍)、カリス・ファン・ハウテン(ニーナ・フォン・シュタウフェンベルク)、トーマス・クレッチマン(オットー・エルンスト・レーマー少佐)、テレンス・スタンプ(ルートヴィヒ・ベック)、エディ・イザード(エーリッヒ・フェルギーベル将軍)、ジェイミー・パーカー(ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉)、クリスチャン・ベルケル(メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐)、ケヴィン・マクナリー、デヴィッド・バンバー、トム・ホランダー、デヴィッド・スコフィールド、ケネス・クラナム、ハリナ・ライン、ワルデマー・コブス、フローリアン・パンツァー、イアン・マクニース、ダニー・ウェッブ、クリス・ラーキン、ハーヴィー・フリードマン、マティアス・シュヴァイクホファー

ウォッチメン

新宿ミラノ ★★★★

■スーパーヒーローがいたら……って、いねーよ

ぶっ飛びすぎのトンデモ映画のくせして(だから?)ムズカシイっていうのもなぁ(わかりにくいだけ?)。なんだけど、これだけ仰天場面を続出されては、はい降参、なのだった。ま、トンデモ映画好き以外には勧められないが。

できるだけ予備知識は持たずに映画と対面するようにしている私だが、今回は概略だけでも頭に入れておけばよかったと後悔した。殺人事件の謎解き話で始まるのに、背景説明が多く、物語が進まなくてくたびれてしまったからだ。だからってゆったりというのではなく、二時間四十三分をテンポよくすっ飛ばして行くのだけれど、これでは息つく暇がない。

というわけで、詳しく書く自信はないので、気になったいくつかをメモ程度に残しておく(機会があればもう一度観るか、原作を読んでみたいと思っている)。

スーパーヒーローがいたら世界はどうなっていたか、じゃなくて、こうなっていたというアメリカ現代史が語られるのだが、そのスーパーヒーローがヒーローらしからぬ者共で、そう、彼(彼女)らは複数でチームまで組んで活躍していたらしい(アメコミヒーローの寄せ集め的設定なのか)。私にはこの設定からして受け入れがたいのだけど、まいいか。

彼らの行動原理は正義の御旗の元に、というより悪人をこらしめることに喜びを感じる三文自警団程度のもので、制裁好きがただ集まっただけのようにもみえるし、どころか、コメディアンが自分が手をつけたベトナム女性を撃ち殺してしまうという話まであるくらいなのだ。そんなだから市民の方も嫌気がさして、ヒーロー禁止条約なるものまで出来てしまう。

Dr.マンハッタンだけは放射能の影響で神の如き力を得(だから厳密にスーパーヒーローというと彼だけになってしまう)、ベトナム戦争を勝利へと導く(ニクソンが三期目の大統領って、憲法まで変えたのね)が、とはえい冷戦が終了するはずもなく、だもんだから(かどうか)話のぶっとび加減は加速、フルチンDr.マンハッタン(火星を住居にしちゃうのな)は、自らの存在をソ連(というか人類)に対する核抑止力とすべく……。

イメージは充満しているのに細部を忘れてるんで(観たばかりなのに!)うまく書けないのだが、神に近づいたDr.マンハッタンは人間的感覚が薄くなっていて、だから恋人だったシルク・スペクターも離れていくし(んで、ナイトオウルのところに行っちゃうんだな)、それは個に対する関心がないってことなんだろうか。これはオジマンディアスも似たようなもので、人間という種が生き残ればいいらしい(1500万人も見殺しだからなぁ)。そして、それを平和と思っているらしいのだ。

神に近づくってーのは(本人は否定してたけどね)、そんなものなのかと思ってしまうが、聖書のノアの方舟など、案外これに近いわけで、でもその辺りを考えていくには、最初の方で神経を磨り減らしてしまっていて、後半のあれよあれよ展開には茫然となってしまったのだった(このことはもう書いたか)。なんで唐突なんだけど、おしまい(あちゃ! これじゃロールシャッハが浮かばれないか)。

そうだ、驚愕のビジュアルっていうふれこみだけど、そうかぁ。確かにそいうところもふんだんにあるが、ベトナム戦争の場面など、半分マンガみたいだったよね?

まともな感想文になってないが、今はこれが限界。正義の振りかざし方に明快な答えでもあるんだったら書けそうな気がするんだけど、それは無理なんで。

8/7追記:やっと原作を読むことができた。思っていた以上に作り込まれた作品で、やはり映画の相当部分を見落としていたことがわかった。原作を知らないとよく理解できない映画というのもどうかと思うが(もっとも今や映画が一回限りのものとは誰も認識していないのかも)、特にジオマンディアスの陰謀という核になる部分が、今(もう四ヶ月も経ってしまったから余計なのだが)、かなり薄ぼんやりしていて、よくそんなで感想を書いてしまったものだと後悔しているくらいなのだ。やはりこの作品はもう一度観なくては。けどDVDとかを観る習慣がないんでねぇ。いつのことになるかは?

  

原題:Watchmen

2009年 163分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント R-15 日本語字幕:?

監督:ザック・スナイダー 製作:ローレンス・ゴードン、ロイド・レヴィン、デボラ・スナイダー 製作総指揮:ハーバート・W・ゲインズ、トーマス・タル 原作:アラン・ムーア、デイヴ・ギボンズ(画) 脚本:デヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー 撮影:ラリー・フォン 視覚効果スーパーバイザー:ジョン・“DJ”・デジャルダン プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:マリン・アッカーマン(ローリー・ジュスペクツィク/シルク・スペクター)、ビリー・クラダップ(ジョン・オスターマン/Dr.マンハッタン)、マシュー・グード(エイドリアン・ヴェイト/オジマンディアス)、カーラ・グギーノ(サリー・ジュピター/初代シルク・スペクター)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ウォルター・コバックス/ロールシャッハ)、ジェフリー・ディーン・モーガン(エドワード・ブレイク/コメディアン)、パトリック・ウィルソン(ダン・ドライバーグ/ナイトオウル)、スティーヴン・マクハティ(ホリス・メイソン/初代ナイトオウル)、マット・フルーワー(エドガー・ジャコビ/モーロック)、ローラ・メネル(ジェイニー・スレイター)、ロブ・ラベル、ゲイリー・ヒューストン、ジェームズ・マイケル・コナー、ロバート・ウィスデン(リチャード・ニクソン)、ダニー・ウッドバーン

ダウト -あるカトリック学校で-

シャンテシネ2 ★★★★

■疑わしきは疑え!?

張り詰めたセリフの応酬には唸らされ(セリフに乗った言葉の面白さにも舌を巻き)、かつ人間が犯す罪の在処までずぶずぶと探られて、背筋が寒くならずにはいられなかった。戯曲の映画化と知ってなるほどと納得。何度も繰り返し演じられ、鍛えられてきたセリフには隙がない。

フリン神父は、教会に新しい風を入れようとしている意欲的な人物である。生徒からの人望が篤く、彼の説教は人気を集めていた。片や、シスター・アロイシアス校長のガチガチに固まった価値観には、息が詰まるばかりだ。校長自らが監視カメラのようになっては生徒一人一人に目を光らせていた。管理教育以上の恐怖政治(とまでは言っていなかったが)を敷いていると、新任のシスター・ジェイムズは思ったに違いない。

二人の違いは食事風景に歴然とあらわれる。フリン神父たちの賑やかで楽しげな食卓。校長の方は大人数の時でさえ静まりかえっている。生徒たちの歌はつまらなさそうに聞くし、目の仇の果てはボールペンにまで及んで、いったいどこまで憎たらしい人物に仕立て上げれば気が済むのかと思ってしまうが、目の悪い老シスターには気遣いを忘れない。彼女の素晴らしいところはもしかするとこれくらいだろうか。が、この気遣いが、彼女をギリギリのところで、信頼するに値する人間にしている(というか、そう思わせている、のか)。

ところで題名になっているダウト(疑惑)の部分であるが、それ自体は単純なものだった。フリン神父が個人的に生徒のドナルド・ミラーと「不適切な関係」をもったのではないかという疑惑を、ガチガチ校長が追求するという映画なのである(注1)。

二人のやり取りがすこぶるスリリングで、目が放せなくなるが、でもフリン神父がどこまでも鉄壁かというとそんなこともなく、いまにも落ちそうだったり、泣きまで入れてくるのだが、しかし肝心なことは認めようとはしないから、すべては計算ずくのことなのか(もしくはシロってことなのだが)。

校長が追求を止めないのは、彼女の確信による。そう、証拠ではなく確信があるだけなのだ。確信を後押ししたのは、授業時間にドナルドを呼びつけたとシスター・ジェイムズが言ったことでだが、その報告がなくても校長自身は、フリン神父がウィリアムという生徒の手首をつかみ、ウィリアムが手を引っ込めたところを見ていて、もうそれで確信していたらしいから、早晩追求を始めていたはずである。

この映画を観ていると、すべてのことを疑ってかかるよう強要されている気分になってくる。だものだから逆に、フリン神父の弁解(注2)を信じてしまうシスター・ジェイムズの単純さを純粋さと理解したくなる。

が、そのシスター・ジェイムズからして、フリン神父がドナルドの下着をロッカーに戻したことは校長に話さず、あとになって一人でフリン神父に問い質している。シスター・ジェイムズもやはり疑惑を捨てきれなかったのか。それとも、校長の確信があまりに強すぎたので、話すことを躊躇したのだろうか。もっとも彼女は最初の時と同様に、この時もフリン神父の言葉を素直に受け入れていた。エンドロールには「元シスター・ジェイムズに捧ぐ」という言葉があったから、彼女目線の物語と判断するのが一番無難なはずなのだが。

校長はドナルドの母親のミラー夫人にも連絡を取り、あれこれ聞き出そうとする。この時のやり取りがまたまたすごく、見応えのあるものになっている。校長は、神父がドナルドを誘惑していた可能性を告げるが、ミラー夫人は涙目になりながら、それを望んでいる子もいるのだと答える。それを知って夫が息子を殴るが、神が与えた性質で息子を責められない、とも。ミラー夫人には、息子を気にかけてくれる人が必要なのであって、校長の追求などは余計なおせっかいでしかないのだ。許さない、と校長が執拗に食い下がると、それなら神父を追放してくれという発言まで飛び出す。

校長の追求を、フリン神父は相手を攻撃することで躱そうとし、校長のことを「不寛容」と言い放つ(キリスト教の教義に沿うものかどうか、これだけでもいくらでも書けそうだが、私が問うことではないのでやめておく)。フリン神父はまた「罪を犯したことは」と逆に校長に詰め寄りもする(注3)。「自分もどんな罪であれ告白し罪を受けてきた」のだから「我々は同じ」ではないかと。不寛容発言以上にこの質問はいやらしい。校長もたじろぐが、結局はきっぱりと、同じではないし噛みつく犬の習性は直らないと答える。

校長は、フリン神父とのやり取りでは勝利を勝ち取るが、結末は、フリン神父の栄転という形で終わる。彼の辞任は告解と同じだと校長はシスター・ジェイムズに語り、彼を追い出したことに満足しているようにもみえる(それでいいの!)のだが、ここからが少し難解だった(もう一度観て確認したいくらいだ)。

このあと映画は、校長が自分の確信を証明するためについた嘘についても言及している(注4)。フリン神父が前にいた教会に電話して、そこの司祭と彼がしたことについて話したというのは嘘だったというのだ。が、これまたキリスト教の教義にからめて語る資格などないので(別にからめなくてもいいのかもしれないが)、深入りはしないでおく。

説明がふらついていて申し分けないが、結局映画の中でのフリン神父の疑惑は疑惑のままにしておき、それについての答えは、観客がそれぞれ出すよう仕向けているのだろう。

私の答えは、フリン神父はクロ。人間のやることなど信じられっこないんだもの。前歴がなければともかく、それこそ校長と同じく、噛みつく犬の習性は直らないと、とりあえずは言い切ってしまおう。というのも、フリン神父は問題が起きなくても、誤解を招くような行為だけは絶対してはいけなかったと思うからである。悪ふざけされたドナルドを廊下で抱きしめてやるのはいいが(この場面があることでフリン神父を信じたくもなるが)、少なくとも部屋に呼ぶべきではなかった。神父なのだからそこまで考える必要があるし、疑惑を持たれることをしてしまった時点で、すべてが言い訳にしかならないことを知るべきなのだ。

ただ彼の行いがたとえ「不適切な関係」であっても、それが責められることかどうかは、ドナルドが決めることである。だから、私の考えはミラー夫人に近いかもしれない。

となると、最後に校長がシスター・ジェイムズの前で泣き崩れる場面はなんなのだろうか(難解なのはここ)。校長は、フリン神父を追いやった嘘についての償いをするというのだが? もしかしたら校長にも同性愛的嗜好があるということなのか。そしてその対象がシスター・ジェイムズだったとしたら? 最初のは多分当たっているはずである。これなら大げさな涙を説明できるからだ。が二つ目のはどうか。話としては俄然面白くなるが、これはやはり深読みしすぎだろうか(やはりもう一度観て確認したいところだ)。

シスター・ジェイムズは校長に手を差し伸べ、身を寄せ、カメラは鳥瞰になってエンドロールとなる。ここだけを観ていると、シスター・ジェイムズが校長の告解だか告白を受け入れたようには思えないが、でもどうなのだろう(深読みと言っておきながら、まだこだわってら)。それとももっと単純に、やはり嘘をついて神から遠ざかったことを悔いているだけなのだろうか。罪は意識した人にだけにあるのだ。校長の涙が大げさに見えて、そこからとんでもない憶測をしてしまった私は、罪を意識する気持が薄いのだろう。

エイミー・アダムスって『魔法にかけられて』のお姫様なの? 同一人物とはねぇ。彼女には癒されたけど、この映画は観客をへとへとにさせるよね。感想書くのも疲れました。

そうだ。強風が校長を襲う?のと、羽根が舞う映像効果に、電球が二度切れるオカルト?場面があったが、どれもなくてもよかったような。嫌悪するようなものではなかったけれど。
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注1:舞台は1964年のニューヨーク市ブロンクスのニコラス・スクールというカトリック学校。フリン神父の説教に「去年、ケネディが暗殺された時」という言葉が出て来る。ドナルドは校内で唯一の黒人男子生徒。公立では殺されるのでこの学校へ来たのだとミラー夫人があとで校長に語っている。

注2:ドナルドから酒の臭いがしたのは彼がミサのワインを飲んだからで、フリン神父はそのことを庇おうとしたというのだ。この弁解は自己美化めいて見えるし、またドナルドの行為を知らしめることになるから、弁解が本当ならフリン神父がなかなか言おうとしなかったのも頷ける。

注3:厳密に言うと、ここからは二度目の対決場面で、シスター・ジェイムズは兄の見舞いで故郷に帰っていて同席していない。校長とフリン神父は真っ向からぶつかり合う。

注4:校長は、最初にシスター・ジェイムズがフリン神父のことを言い淀んでいた時にも、悪いことをなくすなら神から遠ざかってもいいのではないかと言って、シスター・ジェイムズに発言を促していた。

原題:Doubt

2008年 105分 アメリカ ビスタサイズ 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本・原作戯曲(『ダウト 疑いをめぐる寓話』):ジョン・パトリック・シャンリー 製作:スコット・ルーディン、マーク・ロイバル 製作総指揮:セリア・コスタス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:アン・ロス 編集:ディラン・ティチェナー 音楽:ハワード・ショア

出演:メリル・ストリープ(シスター・アロイシアス)、フィリップ・シーモア・ホフマン(フリン神父)、エイミー・アダムス(シスター・ジェイムズ)、ヴィオラ・デイヴィス(ミラー夫人/ドナルドの母親)、アリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスター二世、ブリジット・ミーガン・クラーク

チェンジリング

109シネマズ木場シアター3 ★★★★

■母は強し

「真実の物語」ということわりがなければ、馬鹿らしいと憤慨しかねない内容の映画だ。

1928年3月にロサンゼルスで、クリスティン・コリンズの9歳の1人息子ウォルターが消えてしまうという事件が起きる。5ヵ月も経ったある日、遠く離れたイリノイ州でウォルターが見つかったという知らせが入り、クリスティンは駅に出迎えに行くが、警察の連れ帰った少年は別人だった。だが少年はウォルターだと言い張り(はあ?)、居合わせた(待ち構えていた)ジョーンズ警部に、とりあえずは息子と認めるよう言われ、新聞記者たちの注文とジョーンズ警部に促されたクリスティンは、ためらいながらも少年と2人で取材写真に収まってしまう。

別人なのにとりあえずって何なのだ、と激しく思ってしまうのだが、映画はこの不可解な状況を、まさにクリスティンの動揺をそのまま観客に押しつけるように物語を進めていく。こんなのは認めないよ、と心の中で叫んではみるのだが、何しろ「真実の物語」なのであるからして、認めるも認めないもないのだった。

クリスティンに話を戻せば、警察にはとにもかくにも息子を捜索してほしいわけで、苛立ちとは別にそういう遠慮も働いたのだろう。また1928年という時代状況もあったと思われる。米国のことはわからないが、日本だと戦前の警察には絶対的権威が存在していた認識があるし、映画の中でも遠慮のない発言があったように、女性蔑視という見えない力も介在していたことだろう。彼女がシングルマザーだったということもあったのではないか。

クリスティンの遭遇したこの不可解な、むろん彼女にとってはつらいだけの事件は、①当時の警察(市長、警察本部長からの構造的なもの)にあった恒常的な腐敗と、②嘘を突き通す身代わりの少年という存在(これがすごいよね)に、③さらには、というかもちろん一番の原因なのだが、親戚の子供を無理矢理手下にしたゴードン・ノースコットによる連続少年拉致殺人という、全く別の3つの要素(②は警察によって言いくるめられたという側面もあったのだろうが)が重なって起きたことが次第に判明してくる。

映画は事件解明という謎解きの面白さに加え、クリスティンが精神病院に送られてしまう理不尽さや、保身に走る警察、犯人ノースコットの素顔(これは裁判や死刑執行までもが描かれる)に、犯行を手伝わされたノースコットの従弟の少年、一方その少年の訴えに耳を傾けることになる刑事や、クリスティンに手を差しのべる長老教会のブリーグレブ牧師など、多岐にわたってその細部までを余すところなく伝えようとする(むろん収拾選択の結果の脚本だろうが)。

この誠実ともいえる姿勢が素晴らしい。あくまで正攻法で奇を衒うことなく、事件を丁寧に掘り下げていく。エピソードのどれもが驚きや示唆、あるいは教訓に満ちていて、その一々を書き連ねていきたい誘惑に駆られるが、それは映画に身を委ねて堪能すべきものだ。

息子の生存を信じて疑わないアンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、モガ帽子(名前は知らない)にケバいメイクは、当時の流行にしても引いてしまいそうになった。クリスティンの勤める電話局は繁忙を極めていて(これが息子の誘拐に繋がってしまうのだが)、移動時間を節約するため、彼女はローラースケートを履いて仕事をしていた。ローラースケートはファーストフードのように見せる要素のある店だけと思っていたのだが。彼女は電話交換手なのだが、同僚を束ねる主任のような立場にあって、子育てだけでなく仕事にも熱心だったのだろう、昇進の話も出ていた。

こういうしっかりした背景描写の積み重ねが、映画の物語部分に厚みを出し、クリスティンが最後に見つける希望に、それがわずかなものであっても思いを重ねてたくなるのだろう。もっとも実際は、彼女は1935年には亡くなってしまったらしいし、彼女の夫のことなども「真実の物語」である映画は、隠蔽しているようである(事件の概要についてだけなら、それは文字情報や写真などにはかなわないし、虚構である映画の「真実の物語」にも触れなければならず、収拾がつかなくなること請け合いなので、今はやめておく)。

背景のロス市街の描写も凝ったものだ。市電にフォード、そして人々の行き交う街角からは生活臭すら漂ってきそうだった。エンドロールの固定カメラからのビル街のCGも実によく出来ていた。ここまで作り込んだら、誰だってこうやってしばらくは流して、眺めていたくなるだろう。

欠点らしきところが見つからないのだが、大恐慌の影がないのは気になった。事件のはじまりは1928年だからクリスティンの職場が大忙しだったのは頷けるが、不況の只中にあってもそうだったのか。西海岸は多少は影響も軽微だったとか(でも世界恐慌だからなー)。あるいは、電話という当時の最先端技術の現場では不況もそれほどは関係なかったとか。その頃のことをもっと知っていれば、さらに面白く観ることができそうである。

イーストウッド老人の近年の活躍には質量共に目を見張るものがある。そこに、またこんな正攻法の映画まで付け加えられては、ただただ脱帽するしかない。能がありすぎる鷹は爪の隠しようがないんでしょう。それにしても、かっこよすぎるよなぁ。

  

原題:Changeling

2008年 142分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 PG-12 日本語字幕:松浦美奈

監督・音楽:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターンプロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・ローチ

出演:アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)、ジョン・マルコヴィッチ(グスタヴ・ブリーグレブ/牧師)、ジェフリー・ドノヴァン(J・J・ジョーンズ/警部)、コルム・フィオール(ジェームズ・E・デイヴィス/警察本部長)、ジェイソン・バトラー・ハーナー(ゴードン・ノースコット/牧場経営者)、エイミー・ライアン(キャロル・デクスター/精神病院入室者)、マイケル・ケリー(レスター・ヤバラ/刑事)、エディ・オルダーソン(犯人の従弟)

少年メリケンサック

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★★★

■『デトロイト・メタル・シティ 序章』(なわけないが)

メイプルレコード契約社員の栗田かんなは、ネットの動画で「少年メリケンサック」という生きのいいバンドを見つける。かんな自身はパンクなど嫌いだったが、彼らのまき散らす怪しい魅力に血が騒ぎ、何故だか成功を確信する。

83年生まれだから25歳、なんとかギリギリ新人セーフ、と勝手に判断して社長に掛け合い、契約交渉に乗り出すが、ネットにあった83年という文字は、誕生年などではなく、解散コンサートの年だった、つまりメンバーはもう50も過ぎたオヤジたちだったのだ。

筋はくだらなくかつ強引、メンバーがバラバラになっているだけでなく、腕は錆び付いているし(もともとうまくなさそうだ)、兄弟で反目し合っているアキオとハルオが何かにつけ意地の張り合いをするし(これには深ーいわけがあった)、とりあえず結束するだけでも大変な状況。が、ネットのアクセス数は鰻登り。パンクへの肩入れのある社長が全国ツアーまで組んでしまい、かんなは後に引けなくなってしまう、ってことでコメディのお膳立ては揃いまして……ちゅーか、結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから、あとはどうにでもなれ状態で、いいようにやってるだけのような気もしなくはないのだけど、まあ、それが楽しいというか……。

とはいえ、マトモに考えていくと無理なところはいっぱいあって、そもそも契約社員が新人発掘のような仕事を任せられるのかとも思うし、ボーカルのジミーのよれよれ度ぶりを見てしまったら、再結成など考えられっこないはずなのだ(いや、かんなもそう思ったんだったっけ)。ジミーのよれよれぶりは、どうやら昔の「少年メリケンサック」時代の大乱闘に起因しているらしく、でも、実は歩けなかったり呂律が回らないのは嘘だった(?)というような場面も入っていて、何が何だかわからなかったりする(障害者手当のちょろまかしか)。

作り手としては「農薬飲ませろ」が「ニューヨークマラソン」に聞こえてくれればしめたもので、この強引さが妙なテンションとなって映画を引っぱっていくのだが、その合間に昔のグループサウンズの映像(ちゃんとしたエピソードでもある)をぬけぬけと入れて、平気で水を差したりもする。かんな同様パンクなど特に好きじゃない私だが、こんなグループサウンズ映像を観せられると、グループサウンズのキモさが際立って(あーそうだった、って感じなんだもの)、パンクがマトモに、は見えないが、まだマシかも、とは思ってしまう。

さらに、かんなの恋人マー君(歌手志望なんである)の、グループサウンズに通じる綺麗なだけの虫酸の走る歌も、大いに水を差す。マー君の正体にかんなも気づいて(中年オヤジたちに気づかされて)、そいでマー君も浮気なんかしちゃうから、悪い人じゃないって書いてやろうと思っていたけど、やっぱりダメ人間だったのね。

で、最後にそのマー君は「少年メリケンサック」に引きずり込まれちゃう、って、えー何だぁ! もしかしてマー君って『デトロイト・メタル・シティ』の崇一(松山ケンイチ)だったとか。じゃあ何だ『少年メリケンサック』の実体は『デトロイト・メタル・シティ 序章』なのか、ってなわけはないのだけど。

馬鹿げた連想はともかく、マー君を引き込んでしまうのは、兄弟二人が腕を折っての代役ってこともあるのだけれど、だからアキオがのたまわっていた「嘘を上回る奇跡を起こ」したのかどうかはわからないのだが、でも無理矢理の二人羽織ギターまで飛び出して、「結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから」と安直な感動オチを予想をしてしまった私は、降参するしかないのだった。うん、降参(でも奇跡はないよ)。

それにしても宮崎あおいはすごかった。泣けるし、笑えるのは知ってたけど、啖呵も切れるのね。こんなハイテンションな芝居をして無理がないんだから。佐藤浩市もよかった。歳をとったらこうなるんだって卑猥なセリフをまき散らしては見事に居直ってた。前は苦手だったが、この人のことがだんだん好きになってきた気がする(ちょいやば)。

  

2008年 125分 ビスタサイズ 配給:東映

監督・脚本:宮藤官九郎 アニメーション監督:西見祥示郎 プロデューサー:岡田真、服部紹男 エグゼクティブプロデューサー:黒澤満 アソシエイトプロデューサー:長坂まき子 撮影:田中一成 美術:小泉博康 衣裳:伊賀大介 編集:掛須秀一 音楽:向井秀徳 音楽プロデューサー:津島玄一 スクリプター:長坂由起子 スタイリスト:伊賀大介 プロデューサー補:植竹良 メインテーマ:銀杏BOYZ『ニューヨーク・マラソン』 ラインプロデューサー:望月政雄 擬斗:二家本辰巳 照明:吉角荘介 装飾:肥沼和男 録音:林大輔 助監督:高橋正弥

出演:宮崎あおい(栗田かんな)、佐藤浩市(アキオ/少年メリケンサックBa.)、木村祐一(ハルオ/Gt.)、勝地涼(マサル/かんなの恋人)、ユースケ・サンタマリア
(時田/メイプルレコード社長)、田口トモロヲ(ジミー/Vo.)三宅弘城(ヤング/Dr.)、ピエール瀧(金子欣二)、峯田和伸[銀杏BOYZ](青春時代のジミー)、佐藤智仁(青春時代のアキオ)、波岡一喜(青春時代のハルオ)、石田法嗣(青春時代のヤング)、田辺誠一(TELYA)、哀川翔(かんなの父)、烏丸せつこ(美保)、犬塚弘(作並厳)、中村敦夫(TV局の司会者)、広岡由里子、池津祥子、児玉絹世、水崎綾女、細川徹、銀杏BOYZ[我孫子真哉、チン中村、村井守](少年アラモード)、SAKEROCK[星野源、田中馨、伊藤大地、浜野謙太]

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)

夕凪の街 桜の国

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■「原爆」は生きている

戦後62年、繰り返されてきた原爆忌の式典。6月30日のしょうがない久間発言で、今年は注目度が増したが、広島や長崎から遠いところにいる私にとって、新聞には1面に載っていても片隅にある記事程度になっていた。しょうがない発言のひどさには驚いてみせたけれど、意識の低さの点では私もそうは変わらなさそうだ。

これまでも広島の原爆を扱った作品にはいくつか出会い、その度に当時の悲惨な状況を刻み込まれてはきたが、この作品ほどそれを身近に感じたことはなかった。別に以前に観た作品を貶めるつもりはないのだが、総じて原爆の脅威を力ずくで描こうとするきらいがあったように思う。が、この映画は、銭湯の女風呂を覗いたら、そこにはケロイドの女性たちが何人もいた(実際に出てくる場面だ)というように、日常の少し先(もちろんこれは私という観客にとっての認識で、被爆者にとってはそれが日常なのだが)に、原爆がみえるという作りになっている。

2部構成の最初にある『夕凪の街』は、昭和33年、原爆投下後13年の広島を舞台にしている。26歳の平野皆実(麻生久美子)は、海岸沿いのバラックに母のフジミ(藤村志保)と2人暮らしだ。父と妹の翠を原爆で失い、弟の旭(伊崎充則)は戦争中に水戸の叔母夫婦の元に疎開し、そまま養子となっていた。

皆実は会社の打越豊(吉沢悠)から好意を持たれ、皆実も打越のことが気になっていたのだが、いまだに被爆体験が皆実を苦しめ、自分が生きていること自体に疑問を感じていた。被爆時に倉庫にいたため助かった皆実だったが、そのあと巡り会った妹の翠をおぶってあてどなく市内をさまよううちに、翠は皆実の背中で死んでしまう。13歳の皆実にとって決して忘れることのできない思い出だった。この話は本当に悲しい。大げさな演出でなく、皆実が翠をおぶって歩くのを追うだけなのだが、この時の皆実の気持ちを考えたら何も言えなくなってしまう。

生きていることが疑問の皆実にとって、打越の愛を受け入れることなど考えられないことだった。自分は幸せになってはいけない、と思いこんでいたのだ。そんな皆実だったが、打越の真剣な想いに次第に心を開いていく。が、突然原爆による病魔が彼女を襲う……。

私の説明がヘタなので暗い話と思われてしまいそうだが、磨り減るからと、家の近くの河原の土手にくると靴を脱いで帰る皆実が、なんだか可愛らしいし、なにより2人の昔風の恋がいい感じだ。農家出の打越に雑草のおひたしか何か(よくわからん)を出してしまったり、会社の同僚のために、やはり会社の2階からのぞける洋品店の服を真似て型紙(作ったのはフジミだが)をプレゼントしたり、と貧乏なんてへっちゃらの昭和30年代が微笑ましく描写されている。

昭和33年は『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じ設定だが、片や東京タワーが完成しつつあるというのに、広島ではまだ戦争の影がケロイドが消えないように残っているのだ。皆実の住むバラックの近くにも不法占拠地らしいことがわかる立看があったり、私が単純になつかしいさを感じてしまう光景であっても、住んでいる場所や立場で、当然のことだが実際はずいぶんと違うものなのだろう。

ここから第2部の『桜の国』は、平成19年の東京へと飛ぶ。石川七波(田中麗奈)が、定年退職した父の旭(堺正章)の最近の様子がおかしいことを弟の凪生(金井勇太)に相談していると、その旭が家を抜け出していくではないか。旭をあわてて追いかける七波。何も持たずに家を出てしまった七波だが、駅でちょうど幼なじみの利根東子(中越典子)と出会い、彼女に言われるままに、一緒に旭の後を付けることになる。

1部から内容ががらっと変わってサスペンスもどきの展開になるのは、現代風なイメージとなっていいのだが、旭が黙って家を出る理由くらいは説明しておくべきではないか(最後に七波の尾行には気付いていたというのだから余計だ。その時今度の旅が皆実の50回忌という意味合いがあったことがわかるのだが、であればやはり何も言わないで出かけることはないだろう)。堺正章もはじまってすぐは旭役にうってつけと思われたが、残念なことにあまり役に合っていなかった。

予想外のところでつまずきをみせるものの(ま、たいしたキズじゃないからね)、3人を乗せた夜行バスが広島に向かったことで、1部との繋がりから、若き日の旭の恋に、七波の母京花(粟田麗)の死、そして凪生と東子の恋までが明らかになっていく構成は見事だ。第2部の途中からは、旭が巡る皆実の思い出の地や旧友にだぶるように、七波が過去の映像に登場し(つまり過去に想いを馳せているわけだ)。第1部と第2部が自然融合した形にもなる。そしてそれは母の死の場面なども七波に呼び起こすことになる。

ただ、それらを繋ぐのがすべて「原爆」というのだから、途方もなく悲しい。けれど、その悲しさの中にある美しいきらめき(3つの恋)をちゃんとフィルムに定着させているのは素晴らしい。皆実と打越は、皆実の自責の念と死。旭と京花は、思わぬフジミの反対。凪生と東子には東子の両親が壁となる。3番目のはまだまだこれからだけど、死以外のことならなんとかなりそうだと思えてくる。

静かな作品だが、皆実には強烈なことを言わせている。水戸から戻った旭に久しぶりに対面したというのに(皆波の死期が近づいて駆けつけたのだろう)、原爆は広島に落ちたんじゃなく、落とされたのだと断固として訂正する。そして、自分の死を悟って、あれから13年も経ったけど原爆落とした人は私を見て「やったぁ、また1人殺せた」って思ってくれてるかしらとも。広島弁をうまく再現できなし、ちゃんと聞き取れたか不安なのだが、この言葉の前には「うれしい」とも言ってるのだ。

これは当然、原爆を落とした人間に聞いていることになるのだが、大量虐殺兵器使用者への使用したことへの怨念(には違いないのだけど)というよりは、殺そうと思った人間の1人1人が何をどう感じていたかなんて、今となってはもう何も考えてなどいないでしょう、と言っているようにみえた。

あと気になったのが、広島で東子の気分が悪くなって七波と一緒にラブホテルに行く場面。細かいことだがラブホの看板が遠くて、これなら茶店でもよかったのではないかと思ってしまう。この場面自体はいいアクセントになっているから余計残念だ。旭の家出場面同様いくらでも説明の仕方がありそうだからもったいなかった(困ったらすぐそこに入口があったくらいにしておけばね)。

ところで、題名の『夕凪の街』が広島で『桜の国』が東京なのはわかるのだが、映画だと桜の国は、七波がまだ元気だった京花(彼女は被爆時に胎児だった)もいる4人が暮らした団地を特別に指しているようにとれたのだが……。

  

【メモ】

原作のこうの史代の同名マンガは、平成16年度文化庁メディア芸術賞マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。

2007年 118分 ビスタサイズ 配給:アートポート

監督:佐々部清 製作:松下順一 プロデューサー:臼井正明、米山紳 企画プロデュース:加藤東司 原作:こうの史代『夕凪の街 桜の国』 脚本:国井桂、佐々部清 撮影:坂江正明 美術:若松孝市 音楽:村松崇継 照明:渡辺三雄

出演:田中麗奈(石川七波)、麻生久美子(平野皆実)、吉沢悠(青年時代の打越豊)、中越典子(利根東子)、伊崎充則(青年時代の石川旭)、金井勇太(石川凪生)、田山涼成(打越豊)、粟田麗(太田京花)、藤村志保(平野フジミ)、堺正章(石川旭)

キサラギ

新宿武蔵野館3 ★★★★

■5人が集まったのにはそれなりのわけがあった

自殺した2流アイドル如月ミキの1周忌に、ネットで知り合った家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、いちご娘(香川照之)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)という5人のオタクがオフ会で集まるというぞっとしない内容に、あまり気が乗らずにいたのだが(この映画の面白さは予告篇では伝えにくいかも)、観てびっくり。完全に作者の術中にはまっていた。

ビルの1室だけでの展開が見事。それを支えているのは5人の性格の書き分けと役割分担で、途中退席を繰り返す安男も、進行上邪魔になったからとりあえず消えてもらうというのではなく、大いに必然性があってのことだから唸らせられる。逆に言うと、無駄な人物がいないということが嘘くさいのだが、これは難癖。映画というよりは演劇を意識した作りだから当然の帰結だろう。

込み入った話ながら(だからか?)1度観ただけでは齟齬は発見できなかった。脚本がよく練られていることの証だ。肥満の激痩などというトリッキーな展開もあるのだが、これにも笑わせられた。

そして1番のいい点は、ミキの死の真相が自殺から犯罪、そして事故死と推理される過程で、5人それぞれにミキの死がある希望のようなものをもたらすだけでなく、現実としての連帯感まで生んでしまうことだ(ネット上には虚構ながらそれがあったから集まったのだろうから)。

もっともこのミキの死の推理は、意地悪な見方をすると、ミキ信者故の願望があったから導かれたのだということもできるのだが、それは当人たちも自覚していることだし、こちらも自然に、それもよし、という気持ちになっていたのだった。

これだけ楽しめたのだから大満足なのだけど、最後の宍戸錠の出てくる場面と、もう死んでしまって今は存在しない如月ミキの扱い(挿入される映像)がしょぼいのはやはり減点対象かな。

  

2007年 108分 ビスタサイズ 配給:東芝エンタテインメント

監督:佐藤祐市 原作・脚本:古沢良太 企画・プロデューサー:野間清恵 製作:三宅澄二、水野勝博、橋荘一郎、小池武久、出雲幸治、古玉國彦、石井徹、喜多埜裕明、山崎浩一 プロデューサー:望月泰江、井口喜一 エグゼクティブプロデューサー:三宅澄二 撮影:川村明弘 編集:田口拓也 音楽:佐藤直紀 主題歌:ライムライト『キサラギ』 VFXスーパーバイザー:野崎宏二 映像:高梨剣 共同プロデューサー:宮下史之 照明:阿部慶治 録音:島田隆雄 助監督:本間利幸

出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、香川照之(いちご娘)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅〈ドランクドラゴン〉(安男)、末永優衣、米本来輝、平野勝美、宍戸錠、酒井香奈子(如月ミキ)

大日本人

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■ある落ち目ヒーローの日常

長髪の中年男(松本人志)をカメラは追い、誰かが質問する。男はいやがっているのかいないのか、照れているのかいないのか、しぶしぶなのか、でもまあ律儀に1つ1つ答えていく。

インタビューされていた男は大佐藤大という元ヒーロー。いや、現役なのだが、人気は落ち目だから元かな、と。雇い主は防衛省だから国家公務員!? だが、変身時の体に広告を入れ、稼ぎにもしている(ということは公務員じゃないか)。月給は体を張った仕事にしては安く(20万)、副業の30万がないと厳しそうだと言っていたが、女マネージャーの小堀(UA)にいいように誤魔化されていた。

妻には逃げられ、娘にもなかなか会えず、でも恩ある祖父の4代目大佐藤(矢崎太一)の面倒は見たいと思っていてと、ヒーローというイメージからは遠いのだが、しかしヒーローの日常生活など案外こんなものかと思わせる。細部にこだわってるからね、そうかなーって。それにしても大佐藤は人気がない。インタビュー中にも家に投石されるような、つまり非難されている状態にあるのである。

インタビュー形式なので、とにかくいろんなことがわかる。折り畳み傘とわかめちゃんが好き(どちらも大きくなる)。猫と同居。自炊することが多いが、商店街の蕎麦屋へは月に2、3回出かけ力うどんを食べる。本当は男の子が欲しかったが、女の子でもこの仕事はできるだろう、と考えている。仕事以外の旅行は無理。反米感情というのではないが、アメリカはあまり好きではない。大佐藤家は戦時中は羽振りがよかった。4代目は今軽い認知症になっている。父は「粋な人」で、もっと大きくなろうとして急逝したらしい。名古屋に行きつけの店があり、そこの50歳くらいのママと懇意にしている。少年時代は肥満児。まだ体ができていないのに父に電気をかけられそうになり祖父に助けられる(でも電気にはかかってしまったらしい)。などなど(後半に答えていたこともまとめて書いてしまったが)。

公園でレポーターの質問に答えていると、大佐藤のケータイに出動要請がかかってくる。山の中にある防衛省の施設(変電所?)へとバイクで出かけていくのだが、ある場所からは取材班は入れてもらえない(遠くからは神主とかも見えたが? 一応は軍事機密なんだろうか)。

んで、電気をかけられて巨大化した大佐藤は、秋葉原に出現した締ルノ獣(海原はるか)と戦うのである(何なのだ、この映画は)。締ルノ獣についてはすでにカルテのようなものができていて、しかしそれは戦前に作られたものらしく、古めかしい能書きが読み上げられるのがおかしい。

いや、もう何から何までおかしいのだ。インタビューがそうだし、まず大佐藤という名前がおかしい。変身すれば髪はツンツンになってるし、パンツ1丁の全体は5頭身(?のイメージ)。どうみても強そうではないが、といって頑強な首回りなど弱そうでもない。対する怪獣も、カッコ悪く(不細工といった方がいいかも)どれもがいやらしくてえげつないとしかいいようのないものなのだが、素行調査済みらしく(もしかしたらすでに対戦済みということもあるのかも)、何とか勝ってしまうようなのだ。

名古屋に出張し、頭の広告を隠さないようにしながらも跳ルノ獣(竹内力)をやっつけ、また戻ってからは、睨ムノ獣を撃退するのだが(けっこう活躍しているのにね)、日本のものではないらしい赤い怪獣の出現には、勝手が違ったのか隠れて逃げてしまう。意外にもこれが好評で、数字(視聴率)がすごくよかったと小堀もうれしそうだ。ちょっと前に4代目が勝手に電気を流して大きくなり、いたずらをしまくった非難が大佐藤に向けられてスポンサーもカンカンだったのだ。

赤い怪獣は、週刊誌の吊り広告によると、どうやら「将軍様の怒りに触れた」ことで登場したらしく、つまり北朝鮮産のようだ。

このあとも匂ウノ獣の雌(板尾創路)と雄(原西孝幸)が現れたり、理屈っぽいくせにその体形と要求することだけは赤ん坊なので童ノ獣(神木隆之介)と名付けられた怪獣(映画ではただ「獣」と言っていた)が登場。大日本人は童ノ獣に乳首を噛まれたことで、抱いていた手を離して殺してしまうという事件まで起きる。

この事件が契機となったのかどうか、防衛症は大佐藤の家に突入し電気をかけ変身させてしまう。あの赤い怪獣がまたやってきたのだが、それにしても強引だ。4代目が助っ人にくるがやられて、万事休すというところで、何でか「ここからは実写でご覧ください」となる。

実写版と言われてもちょっとぴんとこなかったのだが、要するにCGではないということで、だから全員が着ぐるみでセット(ミニチュアのビルなど)の中に立って演じるので、実写という言葉とは裏腹に、セットは全部偽物だからいかにも安っぽいものとなる。

ここにスーパージャスティスというアメリカ産?のヒーロー一家がやってきて、大日本人の代わりに赤い怪獣をやっつけてくれるのだ。光線も出せず、飛べない大日本人は添え物になってしまうのだが、しかしスーパージャスティスたちは大日本人が欠けることを許してはくれない。防衛省の裏切り?と重なってこれは意味深だ。

ではあるのだが、この実写版への切替は松本人志の行き詰まりではないか。せっかくの話を何故ここでぶち壊してしまったのか、と(だから行き詰まりなんでは)。だけどエンドロールでは大阪弁のスーパージャスティス一家に反省会(段取りが悪いとか、パンツを1発で破ってほしかったとか)をやらせて笑いを取っていて、そこはさすがなんだけど。でもこれも誤魔化しの延長線に思えなくもない。それにしても反省会(にまで付き合わされて、「ぜひ」と言われて酒を飲ませられちゃってる大日本人ってさ。

普段テレビを見る時間がほとんどないので、松本人志の笑いがどんな質のものなのかまるでわからないのだが、これは楽しめた。続篇でも別のものでもぜひ観てみたい。ぜひ。

  

【メモ】

第60回カンヌ国際映画祭“監督週間”部門正式招待

変身した大日本人は、2、3日経つと元の戻るという。ただしばらくは鬱と言っていた。

大佐藤家は代々の変身家系らしいが、とはいえ電気が必要らしく、ちゃんと祖父が4代目と辻褄は合っているようだ。ということは戦争ではどんな活躍をしたのだろう。やっぱり
スーパージャスティス一家にやられちゃったんだろか。

変身に神主を付けるのは防衛省の方針なのか(突入時にもいたからね)。

2007年 113分 ビスタサイズ 配給:松竹

企画・監督:松本人志 プロデューサー:岡本昭彦 製作代表:吉野伊佐男、大崎洋 製作総指揮:白岩久弥 アソシエイトプロデューサー:長澤佳也 脚本:松本人志、高須光聖 撮影:山本英夫 美術:林田裕至、愛甲悦子 デザイン:天明屋尚(大日本人刺青デザイン) 編集:上野聡一 音楽:テイ・トウワ、川井憲次(スーパージャスティス音楽) VFX監督:瀬下寛之 音響効果:柴崎憲治 企画協力:高須光聖、長谷川朝二、倉本美津留 照明:小野晃 装飾:茂木豊 造型デザイン:百武朋 録音:白取貢 助監督:谷口正行

出演:松本人志(大佐藤大/大日本人)、インタビュアー(長谷川朝二:声のみ)、矢崎太一(4代目大日本人)竹内力(跳ルノ獣)、UA(小堀/マネージャー)、神木隆之介(童ノ獣)、海原はるか(締ルノ獣)、板尾創路(匂ウノ獣♀)、原西孝幸(匂ウノ獣♂)、ステイウイズミー(宮迫博之/スーパージャスティスの母)、スーパージャスティス(宮川大輔)、街田しおん

ゾディアック

新宿ミラノ1 ★★★★

■こちらまで取り憑かれてしまいそうになる

まず、事件の描き方がどれも巧妙かつ思い入れたっぷりだ。ただ殺人事件を提示すればすむところを被害者の背景や事件の進行状況を的確に描き出していく。映画にある最初の殺人でも女が人妻らしいことをさらりと語って、観客の心を波立たせる。あとの事件でも犯人は夜の道路で女にタイヤが弛んでいると近付き、よかったら締めてあげようと言って逆に弛めてしまうのだが、この一連の流れがものすごく怖いのだ(映画では4つの事件が描かれている)。

この映画の面白さが、犯人ゾディアックの存在にあるのは間違いないが、こういう魅力的な描写に支えられている部分も大きい。例えば、映画は時間軸に沿って機械的に年月や時刻を画面に刻印していくのだが、その年代へのこだわりは偏執狂的ですらある。時代考証だけでなく、それを映し出すカメラもで、車を真上から執拗に追いかけたり、また時にはある高層ビルが建設されていく一部始終を捉えた映像(早送りでクレーンが動き建物が出来ていく)までが出てきたりするのである。

ここまで神経が行き届いていて物語がつまらないわけがない。しかもこのゾディアックと名乗る犯人は、事件を通報し、新聞社には犯行声明を送りつけ、その中の暗号文を掲載しないと無差別殺人に移ると脅す。劇場型犯罪は映画や小説には度々登場しているが、こちらは実話(映画のはじめには「実際の事実に基づく」と出る)。私が事件をほとんど知らないこともあって、風刺漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)同様、事件の進展にどうなるのかと、息を呑んで見守ることになった。

グレイスミスは声明文が送られてきたその場所にいたことと、元々大のパズル好きだったことからその謎解きに取り憑かれてしまう。辣腕記者のポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)は、当初はグレイスミスの推理に耳を貸さずにいたが、彼の本気度とその説得力に、彼を認めるようになる。

ゾディアックを尋問しながら見逃してしまうという重大な失態を犯した警察だが(これはゾディアックによって、明らかにされてしまう)、サンフランシスコ市警の刑事デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)と相棒のビル・アームストロング(アンソニー・エドワーズ)は、大量の偽情報にうんざりしながらも、何人かの男に狙いを付けていた。

カップルが襲われた2つの事件ではいずれも男性の方は命までは奪われずにいるし、指紋に足跡、犯人が送りつけてきた被害者のシャツの切れ端、筆跡、暗号に円から飛び出した十字のマークなど手がかりも沢山あって、それにも一々触れている。謎解きの興味はいやがおうにも高まるのだが、映画はそこに固執しているのではなかった。

はじめの方にいくつかあるゾディアックの犯行描写があまりに克明だったものだから、事件に方が付くのは当然と思ってしまったのだが(つまり犯行の映像は犯人の供述に沿ったものと思っていたのだ。でないとなると、あれは……)、容疑者と特定した人物と筆跡鑑定は一致せず、証拠不足のまま、また幸い?なことに新たな犯行が行われることもなく、虚しく年月のみが過ぎていくことになる。

エイブリーは酒に溺れ新聞社を首になっている。アームストロング刑事は定時に帰りたいのだと移動願いを出して殺人課を去っていく。そして、数年経っても殺害現場に度々足を運んでいたトースキー刑事には証拠捏造嫌疑が持ち上がる。グレイスミスは最後まで執念を持ち続け、最初から資料を調べ直す(トースキーとも接触し、記者には教えられないと言われながらも助言をもらう)のだが、結局はゾディアックに翻弄された人生を送ることになる。

事件発生の1年後、グレイスミスはメラニー(クロエ・セヴィニー)と付き合うようになり、4年後の日付ではすでに結婚している。メラニーはグレイスミスのことをよく理解しているようだったが、でも結局はうまくいかなくなっている。理由はグレイスミスが自分をメディアに露出させてまでゾディアックを調べようとしたからで(無言電話がかかってくるようになっていた)、メラニーが家族の安全は二の次になっていると言っても、ゾディアック事件の真相を明かすのは僕しかいないと取り合ってもらえず、彼女は子供たちを連れて家を出ていく。

このあともう1度だけ、容疑者らしき男の住居をグレイスミスが訪ねるというちょっと怖い演出が待っているのだが、これはおまけだろうか。グレイスミスは完全に取り憑かれた男になっていて、久しぶりに訪ねてきたメラニーも「この結婚は幻」と言うしかなかったようだ。

グレイスミスは本も書き、生き残った被害者のマイクの証言(顔写真を見て言い当てる)も得、どう考えても怪しいとしか思えないアーサー・リー・アレン(ジョン・キャロル・リンチ)に結局舞い戻るのだが(すでに事件から22年が経過しているのだ)、リーは心臓発作で死んでしまう。しかしDNAは一致しないなど物的証拠は1つも得られなかったようだ。エイブリーが肺気腫で死んだことや、リーの死後グレイスミスには無言電話がかかってこなくなったという説明もつく(原作はグレイスミスながら、この部分でそれも含めて映画を作ったと言っているようだ)が、この徒労感は癒されることがない。

もちろんのめり込んでいったことに本人たちは納得しているのだろうが、その人生を考えると複雑な思いにかられるのだ。映画は徒労感を漂わせながら、しかし強力に観客をゾディアック事件にいざなう。で、こんなにいつまでも引きずられてしまっては、ちょっと危ないかもだ。

犯人は映画でも言っていたが、もしかしたら2人なのかも。そうすればDNA鑑定の矛盾なども説明できそうだ。こういう猟奇事件は犯行がエスカレートするといわれているが、ある時からやめてしまったことも、犯人が複数であればお互いを牽制しあって可能だったのではないか。いや、もうやめよう、本当に。でも映画はまた観たい。

 

【メモ】

映画の中で『ダーティハリー』(犯人のサソリ)がこのゾディアックをモデルにしているという話が出てくる。この映画を観に行った時のグレイスミスは、メラニーとはまだデートをしている間柄である。

ゾディアックは ゾディアックブランドの時計からの命名ではないかと推理していた。この時計をリーは腕に付けていた。

ゾディアックについてはこの他にも(映画の中だけでも)、メモしておきたいことが沢山あるのだが、それをしだすと私も本当に取り憑かれてしまいそうなので、やめ。というか、それぼどマメでなくてよかった。よかった。

原題:Zodiac

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ PG-12 配給:刊ワーナー・ブラザース映画 日本語版字幕:杉山緑

監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブラッドリー・J・フィッシャー、ジェームズ・ヴァンダービルト、シーン・チャフィン 製作総指揮:ルイス・フィリップス 原作:ロバート・グレイスミス 脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト 撮影:ハリス・サヴィデス プロダクションデザイン:ドナルド・グレアム・バート 衣装デザイン:ケイシー・ストーム 編集:アンガス・ウォール 音楽:デヴィッド・シャイア

出演:ジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス)、マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー)、アンソニー・エドワーズ(ウィリアム・アームストロング刑事)、ブライアン・コックス(ベルビン・ベリー)、イライアス・コティーズ(ジャック・マラナックス巡査部長)、クロエ・セヴィニー(メラニー)、ドナル・ローグ(ケン・ナーロウ)、ジョン・キャロル・リンチ(アーサー・リー・アレン)、ダーモット・マローニー(マーティ・リー警部)

レベル・サーティーン

シネセゾン渋谷 ★★★★

■もう引き返せない。「レベル最低」ゲームは、最後に融合する!

すごい映画を観てしまったものだ。グロで下品で、性的な場面こそないが、それ以外での傍若無人さは目に余るものがあって書くのもためらわれるのだが、観てしまったのだから、もう引き返せない。映画館を出なかった私もゲームをやめなかった主人公のプチット(クリサダ・スコソル・クラップ)と同じようなものだ。って、そんなわけはないのだが、人間が暴走していく要因など案外にたようなもので、単なる怖いもの見たさだったりするのではないかと、ふと、思ってしまったのだった。

プチットは輸入楽器のセールスマンだが、要領のいい同僚には出し抜かれるし、営業成績がちっとも上がらない。なのに、故郷の母親との電話では課長への昇進を匂わせて、いいところ見せてしまうような男で、だから逆に金を無心されて、それにもいい返事をしていた。車のローンすら滞納しているっていうのにね。車を取り上げられてバスで出社すれば、机には請求書の束が届いているし、おまけにクビを言い渡されてしまう。

にっちもさっちも行かなくなって非常階段で苦悩していると、突然ケータイが鳴る。ケータイの見知らぬ声は、幸運にもゲームの参加者に選ばれたことと、ゲームをクリアしていくと超高額の賞金を手にすることができることを語り、プチットはゲームに参加するかどうかを促される。

プチットがゲームに心を動かされる状況にあることはすでに述べた通り。その説明がちゃんとあるのはこのあとの展開を考えると意外な感じもする。そんなに追い詰められていない人間でもこのゲームを始めてしまいそうだからなのだが、プチットの性格付けという意味もそこに込めた上での流れと考えれば無難なとこか。

そして、最低のゲームが始まっていく、レベル1は手元にある新聞で壁の蠅を叩き落とすというもの。これで1万バーツ。レベル2は叩き落とした蠅を飲み込むことで5万バーツ。

ゲーム(というより課題である)がエスカレートしていくことは容易に想像が付くが、プチットはもう引き返せない(ゲームは、1.ゲームの終了を申し出たら、2.誰かにゲームのことを教えたら、3.ゲームの正体を探ろうとしても中止になると前置きされるが、できれば中途退場の場合のルールについてももう少し詳しく触れておいてもらいたいところだ)。

というのもレベル5で、大便を食材にした料理を食すというとんでもない課題が出てくるからだ(それも繁盛しているレストラン内でのことなのだ)。この難問(映画作品とする時の難問にはならなかったのだろうか)は、この後に出てくるいくつかのゲームよりかなりハードルが高い(これについては時間制限はなかったが)こともあって、この段階で登場するのは少々疑問なのだが、プチットはそれも決行するに至る。

プチットにしても、この時点でこのゲームがどのくらい巧妙に仕組まれたものなのかは推理したはずだ。というか、そもそも最初のゲームからして並大抵の設備と準備がなければ、ゲームを成立させる状況にはならないし、進行中の不確定要素も入れると、このゲームがどれほどの規模で行われているのか、いくら「とろい」プチットといえども考えただろう。

この謎については、プチットに好意を持つ同僚のトン(アチタ・シカマナ)が、プチットの行動に疑問を抱き、テレビでプチットがバスで大喧嘩(レベル6)をして警察に追われているニュースも見て、ネットで事件を調べていくうちに、怪しげな会員制のサイト(http://www.13beloved.com/ このアドレスはこの映画のタイ語の公式サイトになっていた)に行き着き、少しずつ判明していく。が、これすらもある程度予想(もしくは途中から組み込んだのか。会員制のサイトなのに、「侵入者を信用」してしまうのだ)されていたフシがあるのだ(トンも最後の方でゲームの一部として登場する)。

プチットのゲームは、途中、数の推理(これこそゲームらしいが、これは13のうちには含まれないようだ)や井戸に落ちた老人の救出などをこなしながら(昔の恋人の現在の彼を叩きのめすというのもあった。レベル8)、痴呆の老婆を病院から連れ出した(レベル9)ことから起きる惨劇(レベル10)へ一気に突っ走る(老婆の行動はどこまでが演出なのだ!)。ここではワイヤで首を落とされた暴走族の1人がのたうち回るかなり気味の悪い場面も用意されている。ここまで、多少のモタモタ感がないわけではないが、課題も内容に富んだよく考えられたものだ。

トンの犬を殺すのがレベル11で、このあと牛を殺してその肉を食べることを経て(やはりこの順番は難ありだ。もっともそれもちゃんとわかっていて、この賞金は5000バーツである)、いよいよ最後のレベル13に到達する(実はトンも拉致されてその場、別室だが、に連れてこられている)。

プチットに課せられたのは父親殺しで、その当人が目の前に顔に袋を被せられて現れる。プチットにとって父親は飲んだくれで、オモチャを壊し、愛犬をころし、虐待されてきた憎むべき相手だったから、この決断は意外と簡単と思われたが、何故かプチットに父を肯定する思い出が過ぎって(愛犬殺しも狂犬病故のことだった)、父殺しなど出来ないと自覚する。が、プチットがそこに至ったとき、プチットは自分が殺すべき相手に、反対に殺されてしまうのである。

つまり父親の方も、多分プチットと同じようにゲームを経て、この最後のレベル13に到達していたのだろう。ゲームの主催者(サイト管理者)にとっては、ここまでは細心の注意を払いながら課題を設定し進めてきたが、ここに至ってはどちらかがレベル13をクリヤーすればそれで十分なのは改めて言うまでもないことだ。

このアイディアの非情さには舌を巻くしかないのだが、ゲームの主催者を中学生くらいに設定しているのも憎いばかりだ。その少年「キース様」はトンに「今まで何人が犠牲になったか知ってるか」と詰め寄られるのだが、「ゲームだ。僕は知らない、プレーヤーがやった。心配ない。法は僕側だ」と言って憚らない。人殺しという言葉にも「僕じゃない、みんなだよ」と同じことを繰り返すだけだ。

もっともトンは解放されたようだ。内情をあそこまで知っている(教えたという方が正しい)トンを解放したのは、キー様に絶対の自信があるということなのだろう。そう、最後の場面で彼女に近づいていったのは、未確認ながら多分「過去に同様の事件があった」と言ってこの事件を捜査していた警官のようだったから。

ところでここまできて、巻頭に、横断歩道で老婆の手助けをしてケータイを落としてしまう場面があったことを思い出したのだが、あれにはどういう意味があったのだろう。誰か教えて欲しいのだが。

 

【メモ】

本文で書き漏らしたゲームは次の通り。レベル3は、3人以上の子供を泣かす。レベル4は乞食の小銭を奪う。

このゲームが成立するには相当数の隠しカメラが市内(いや郊外にもだった)に張り巡らされている必要がある。また、ゲームのプレイヤーへの連絡はケータイだから充電を心配して、プチットにも途中でケータイを替えるような指示が出ていた。

トンの通報で警察もサイトを調べるが、ページすら見つからない。もっともその警察のファイルに13という数字と怪しげなマークがあるので、ここもゲームの主催者のもとにあることがわかる。

不思議だが、トンに対しては「手荒な真似をしてすまない」などと言っていた。「気付いたのは君がはじめて。ウィークポイントを教えてくれた」とも言っていたから、キー様はトンに敬意を払っていたのだろうか。

プチットは昔の彼女に会って「お袋が会いたがっているし、やり直そう」と言うのだが、彼女からは「その話、前にも聞いたけど嘘だったわ。それにその話が本当だとしても、私を有名歌手にはできないでしょ」と言い返されてしまう(すごいよね、これ)。そして、彼女の彼がろくでもない男なのに、彼女が男を好きなことを知ってショックを受けることになる。

原題:13 BELOVED

2006年 114分 ビスタサイズ タイ R-15 配給:ファインフィルムズ、熱帯美術館 宣伝協力:スローラーナー 日本語版字幕:風間綾平

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル 製作総指揮:ソムサック・デーチャラタナプラスート 原作:エカシット・タイラット 脚本:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル、エカシット・タイラット 音楽:キティ・クレマニー

出演:クリサダ・スコソル・クラップ(プチット)、アチタ・シカマナ(トン)、サルンヨー・ウォングックラチャン(スラチャイ警部)、ナターポン・アルンネトラ(ミク)、フィリップ・ウィルソン(ジョン・アダムス/プチットの父)、スクルヤ・コンカーウォン(プチットの母)

しゃべれども しゃべれども

新宿武蔵野館1 ★★★★

■落語の味わい、ながら本気度満点

この映画を文章で説明してもあまり面白くなりそうもないのだが、しかし目的はまず自分のための忘備録なのであるからして、やはり粗筋くらいは書いておくか(書き出せばなんとかなるだろう)。

二つ目で今昔亭三つ葉という名をもらっている外山達也(国分太一)が、師匠の小三文(伊東四朗)に弟子入りしたのは18の時だから、もうすでに10年以上が経っている。達也は古典落語にこだわり、常に着物を着る、根っからの落語好き。なのに、どう喋ったらいいかがなかなか掴めずにいた。そんな彼が、よりによっておかしな3人を相手に話し方教室を開くことになるという、まるで落語の題材のような映画だ。

まずは、村林優(森永悠希)という大阪からの転校小学生。言葉の問題でいじめにあっているらしい。心配になって達也に相談してきたのが彼の叔母の実川郁子(占部房子)。彼女は達也の祖母春子(八千草薫)のお茶の生徒で、優が落語を覚えれば人気者になって問題解決と思ったらしい(これが彼女らしさなのかも)。達也は郁子に秘かに想いを寄せていたのだが、展開の糸口も見せてくれないうちに「来年結婚することにした」という郁子の宣言を達也は聞かされることになる(はい、残念でした)。

2人目は十河五月(香里奈)という若い女性。小三文が講師となったカルチャースクールの話し方教室を中途退席した失礼なヤツ。達也は「師匠はいつもあんなもん」と弁護するのだが、五月は「本気でしゃべってない」から「つまらない」と手厳しい。2人の掛け合いが、実際に自分がその内の1人だったらとてもこうはいかないと思うのだが、ギリギリのところで繋がっていて面白い。

五月のように、こうぶっきらぼうに話されてはたまったものではないし、だから話し方教室はぜひとも必要と思わせるのだが、しかし彼女の口から出る言葉は常に本音だから、達也も正面からぶつかっていったのだろう。事実、何故か一緒に行くことになったほおずき市でも、楽しかったと正直な感想を述べていた(達也は郁子の気持ちをこの時はまだ知らない。五月の方は、男にフラれた話を達也にしたところだった)。

3人目は元野球選手の湯河原太一(松重豊)。現役時代は「代打の湯河原」として湧かせたらしいが、話し下手であがり症だから解説者としての前途は暗澹たるもので、教室の噂を聞きつけて飛び込みでやってきたのだった。

3人が教室で一緒になる設定は、強引といえば強引。だけど、この取り合わせの妙は捨てがたいものがある。優は小学生ながら、口は達者でお調子乗り。湯河原太一とは相性が悪く険悪ムードが漂うが、でも優のいじめっ子宮田との野球対決に湯河原が一役買ってという流れにはちゃんと2人の本気度が感じられる。結局、アドバイスはもらったものの宮田には三振で負けてしまうのだが、このあと優の失踪騒動(達也の部屋にいただけだった)では、達也が優に手を出してしまうことになる。

こんなだから、教室の発表会の開催はあやしくなる。達也にも、師匠から一門会があるという話があって、集中しなければならない事情があった。なにしろ達也はあろうことか師匠の十八番である『火焔太鼓』をやると決めてしまったのだ。これを決める少し前に達也が「俺、師匠の噺が好きです」と師匠に言う素晴らしい場面がある。この達也の真っ直ぐな気持ちには泣けてしまう。

クライマックスというほどのものなどないのだが、結局達也(ここは三つ葉と書くべきか)は体調を崩していたことも幸いしたのか、一門会で自分なりの『火焔太鼓』をものにする。そして、教室の発表会も無事行われることとなった。

優は『饅頭こわい』で宮田から笑いを取り、姿をなかなか見せずに心配させた五月も、演目を変え達也と同じ『火焔太鼓』を披露する。教室には何しにきていたのかわからないような湯河原だったが、彼も来年からはコーチをやることになったという。不器用な彼ら(優は最初から器用だったけどね)だったが、五月の言ったとおり「みんな、本気でなんとかしたいって思って」いて、本当になんとかしたのだった。

最後は達也を追いかけるようにして五月が水上バスに乗り込んできて、言わないと一生後悔する気がすると、ほおずきがうれしかったことを告げる。いらないと言い張っていたほおずきを、達也が買って五月の家に届けてやっていたのだ。2人が結ばれる結末は予想どおりにしても、ここまではっきりとした意思表示を五月が見せるとは思いもしなかった。ということは『饅頭こわい』を『火焔太鼓』にしたのにも、同様の意味があったということか。ずっと練習していた『饅頭こわい』ではなく、達也が悩み苦しんでいた『火焔太鼓』を五月も一緒になって演じたかったのだ。

一方的に五月に攻勢をかけられてしまっては、達也が心配になるが、『火焔太鼓』を30点評価にして「『饅頭こわい』はどこに行った」と切り返すあたり、さすがにそれはわかっていたらしい。で、「ウチにくるか、祖母さんがいるけどな」となる。

もっとも、そこまでわかっているなら、達也がもう少し気をきかせてやってもよかったような。じゃないか、五月が自分で意思表示することが1番大切なことだと、達也にはわかっていたのだよね(そういうことにしておこう)。

しかしくだらないことだが、達也が豊島区の家を出ると、次には江東区の水上バスに乗っているというのがどうもね。深川図書館や水上バスが出てくる風景は、私にとっては日常の延長線のものだからそれだけでうれしいのだが、だからよけい気になってしまうのである。

  

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:平山秀幸 プロデューサー:渡辺敦、小川真司 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎、藤島ジュリーK.、奥田誠治、田島一昌、渡辺純一、大月昇 原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』 脚本:奥寺佐渡子 撮影:藤澤順一 美術:中山慎 編集:洲崎千恵子 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ゆず『明日天気になぁれ』 照明:上田なりゆき 装飾:松本良二 録音:小松将人 助監督:城本俊治 落語監修・指導:柳家三三、古今亭菊志ん

出演:国分太一(外山達也/今昔亭三つ葉)、香里奈(十河五月)、森永悠希(村林優)、松重豊(湯河原太一)、八千草薫(外山春子)、伊東四朗(今昔亭小三文)、占部房子(実川郁子)、外波山文明(末広亭の師匠)、建蔵(今昔亭六文)、日向とめ吉(今昔亭三角)、青木和代(八重子)、下元史朗(十河巌)、水木薫(十河みどり)三田村周三

バベル

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

オール・ザ・キングスメン

武蔵野館3 ★★★★

■叩けば出る埃

考えさせられることの多い深遠な映画だが、その前にまずどうにも居心地の悪くなる映画でもあった。

映画の語り手であるジャック・バーデン(ジュード・ロウ)という人間は一体何を考えているのだろう。いつまでも初恋にしがみついているだけの男?「どこで何が起ころうと関知しない主義」だから「知らなければ傷つくことがない」などと言うのだろうけど、どうもうじうじしているだけのようで、それは自分のそういう部分を見せつけられている気分になるからでもあるのだが、どうにか出来ないのかと言いたくなってくるのだ。こんなヤツが語り手だからだろう、実際ジャックの性格によるところは大きく、彼の回想部分が交錯する構成は少しまわりくどいものとなっている。

ウィリー・スターク(ショーン・ペン)はもう1人の主人公というべき人物で、郡の出納官にすぎなかったが「たった1人で汚職に立ち向かった男」(これはジャックの記事)として注目され、州の役人タイニー・ダフィ(ジェームズ・ガンドルフィーニ)にそそのかされるように知事選に打って出る。が、その出馬は別候補の引き立て役にすぎなかったこと知る。スタークという男に魅せられた新聞記者のジャックは、彼の下で働きたいとその前から言っていたのだが、彼に演説の仕方を助言したことで彼に輝きが戻り、彼の熱狂的ともいえる原稿なしの演説が始まることになる。

いつもながらやり過ぎとも思えるショーン・ペンの演技が、このスタークに関してはぴったりで、選挙戦での昂揚ぶりは見事という他ない。ジャックは新聞社の方針に反した彼の提灯記事(本心だったろうが)を書いて辞職となり、スタークは地滑り的大勝利を収め知事に就任する。

権力を手にした人間の辿る道は結局同じなのか、富裕層や企業への対決姿勢を崩さないスタークだが、自身は酒に溺れ(ジャックが最初に会った時は妻に遠慮して酒は飲まないといって「オレンジソーダにストロー2本」だったのだが。選挙戦の時もこの禁は犯している)、女遊びもはじまり、不正への疑惑までが新聞を賑わせるようになる。

引退後も影響力があるアーウィン元判事(アンソニー・ホプキンス)の、疑惑の調査が望ましいという発言から弾劾になることを察したスタークは、アーウィン判事のことを調べるようジャックに命令する。

そもそもアーウィンはジャックのおじで「父が去った後、父以上に父らしい人間」であった。ジャックから見てもアーウィンは、まずなにより高潔な判事であり、いくら探り回っても何も出てこないのだが、スタークは執拗にアーウィンを調べろと言い続ける。叩けば埃の出ない人間などいないと言わんばかりに。

これはスタークの人間観そのもので、自分のことも埃の出る人間として見ているからだろう「私の部下の不正は、潤滑油で今までの知事とは比較にならないくらい小さい」と言って憚らない。それに、それなりに評価すべきこともやっていたようだ。

ジャックのことを考えるとイライラするのは、あまりに我関せずでいるからなのだが、しかしスタークに対しては、何故職を辞してまで彼について行こうとしたのか。シニカルなジャックがスタークに魅せられたのは、一般大衆のように熱狂的な演説によってだとは思えない。単にスタークという男の一部始終を見届けたかった、というのにも同意しかねる。彼の人間観に惹かれたというのが、意外に当たっていそうな気がするのだが。

そうして、完璧と見えたアーウィンから、ついに埃が出る日がやってくる。

アーウィンはジャックに突きつけられたその疑惑(現在の地位は不正に手に入れたものと記した手紙)を、こんなものは証拠にもならないと否定した上で関係者もみんな故人と付け加えるが、しかし、自ら命を絶つことで疑惑が事実であることを認めてしまう。母から自殺を知らせる電話が入って、ジャックは母に責められ、意外な事実を知る。「あなたは実の父を殺した」と。

ジャックの父がどういう状況で「去った」のかは語られていないのではっきりとはいえないのだが、アーウィンは母の浮気相手ということになる(「私も君を苦しめることが出来る」とアーウィンが言っていたのはこのことだったか)。アーウィンが父としてジャックに接していたことは、ジャックの回想からも、またアーウィンが残していたジャックについてのスクラップブックからもわかるのだが、それはジャックにとって慰めになったのだろうか。

アーウィンがいなくなったからなのかはわからないが、スタークへの弾劾投票は否決される。新しい病院の院長にアーウィンが要請していた前知事の息子であるアダム・スタントン(マーク・ラファロ)が就くことも決まって、もう怖いものが何もなくなったかに見えたスタークだったが、そのアダムに暗殺されてしまい、ダフィ新知事が誕生する。

ジャックにとってはアダムは昔からの親友で、その妹のアン(ケイト・ウィンスレット)はジャックの初恋の相手だった。アーウィンの過去を暴くためにアンに再会したジャックだったが、映画では最初の方からジャックとアダムとアンの3人が夜の海にいる場面が何度か繰り返されている。

この回想場面は、ジャックの記憶が曖昧でなかなか思い出せないでいることなのかと思ってしまったのだが、そうではなく(こんな大切なことをそう簡単には忘れないよね。そんな年でもないし)、思い出したくなかっただけだったのか(もしそうならこの場面の挿入の仕方はずるくないだろうか)。

ジャックはアンと海の中で気持ちを伝え会い、部屋にまで行くが、「あまりに大切で壊したくなくて」何もしないままで終わる。このことをジャックはいつまでも気にしていて、アンの気持を今になってもはかりかねているようなのだ。

しかし、アンの気持ちはどうであれ、彼女は何故かスタークの女になっていた。いや、それはアダムを院長にするためにだったらしいのだが、スタークにとってもスタントンの名声が利用できる、願ってもないことだったというのに。事実ジャックは、アダムの説得にあたっていた。「知事は悪でも病院は善だ。善は悪からも生まれる」と言って。

アダムは世間知らずなのかもしれないが純粋で、ジャックとアンとのことも優しく見守ってくれるような男だった。アダムにとってもアンとスタークのことは寝耳に水で、アンに「妹の情夫のヒモにはならない」と言ったらしい(ここでジャックが「僕もそう思う」と言っていたのには笑いたくなったが)。

アダムによるスターク殺害の理由はこれ以上には語られていない。こんなことで、と思わなくもないが、とにかくあっけない幕切れだ。2人から流れた血が溝にそって広がり混じっていく画面が、ひどく陰惨なものに見えた。それはスタークとアダムという、水と油のような2人の人間を無理矢理引き合わせた結果であり、死によってしか混じりあえないとでもいっているようだった。

結局、ジャックのやってきたことはなんだったのか。機会があったらもう1度観て考えてみたい。

  

【メモ】

この映画は1949年版のリメイクで、原作はロバート・ペン・ウォーレンによる1946年のピューリッツァー賞受賞作(鈴木重吉訳の「白水社版では『すべて王の臣』という邦題がついている)。1928年から32年にルイジアナ州知事となったヒューイ・P・ロング(後に上院議員)について書かれた実話だそうだ。

原題のAll the King’s Menは『マザーグース』のハンプティ・ダンプティからの引用で、取り返しのつかない状況を表す。ついでながら、1974年の『大統領の陰謀』(原題:All the President’s Men)は、All the King’s Menのもじりがタイトルになっている。

Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses and all the king’s men
Couldn’t put Humpty together again.

原題: All the King’s Men

2006年 128分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦奈美

監督・脚本:スティーヴン・ザイリアン 製作:ケン・レンバーガー、マイク・メダヴォイ、アーノルド・メッサー、スティーヴン・ザイリアン 製作総指揮:アンドレアス・グロッシュ、マイケル・ハウスマン、ライアン・カヴァノー、トッド・フィリップス、アンドレアス・シュミット、ジェームズ・カーヴィル、デヴィッド・スウェイツ 原作:ロバート・ペン・ウォーレン 撮影:パヴェル・エデルマン プロダクションデザイン:パトリツィア・フォン・ブランデンスタイン 衣装デザイン:マリット・アレン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:ジェームズ・ホーナー
 
出演:ジュード・ロウ(ジャック・バーデン)、ショーン・ペン(ウィリー・スターク)、アンソニー・ホプキンス(アーウィン判事)、ケイト・ウィンスレット(アン・スタントン)、 マーク・ラファロ(アダム・スタントン)、パトリシア・クラークソン(セイディ・バーク)、ジェームズ・ガンドルフィーニ(タイニー・ダフィ)、ジャッキー・アール・ヘイリー、キャシー・ベイカー、タリア・バルサム、トラヴィス・M・シャンパーニュ、フレデリック・フォレスト、ケヴィン・ダン、トム・マッカーシー、グレン・モーシャワー、マイケル・キャヴァノー

善き人のためのソナタ

シネマライズ(地下) ★★★★

■監視しているだけではすまなくなった男の物語

東独崩壊の5年前(1984年)から始まる国家保安省(シュタージ)という秘密警察・諜報機関にまつわる映画だが、監視という低俗かつスリリングな部分の興味だけでなく(これだけでも十分面白いのに)、物語としての工夫もちゃんとあって、堪能させられた。

国家保安省のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は上司のグルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)に劇作家で演出家のゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の盗聴による監視を命じられる。そもそもドライマンの監視に対しては、彼はシロだから墓穴を掘ることになると乗り気でなかったグルビッツだが、ヘムプフ大臣の人気女優でドライマンの同棲相手でもあるクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)狙いという思惑で、急遽実行に移されることになる。

この屋根裏での盗聴を通して、体制派だったヴィースラーが、何故か次第にドライマンとクリスタの2人を擁護する行動に出る、というのが映画の見所になっている。盗聴者のできることなど、限られているはずなのだが……。

ここで効果を上げているのがヴィースラーの無表情だ。彼がどうして、あるいはいつ、そういう気持ちになったのかはもうひとつよくわからないのだが、彼の内面が見えにくいことが薄っぺらな理解を排除しているし、ついでに心変わりを推理する楽しさまで提供してくれているのである。

車に誘い込み強引に関係を結んだクリスタを目撃させるために、ベルを誤作動させてドライマンをアパートの下に向かわせるとは、まったくいけすかない大臣の考えそうなことだが、ヴィースラーもこの時点では、単純にこれから起きる事件を面白がっていたようにみえる。

イェルスカという今では目を付けられて干されている演出家がドライマンに贈ったブレヒトの本をヴィースラーが持ち出して読んでいるのはそれから間もなくのことで、さらにこれもイェルスカが贈った楽譜「善き人のためのソナタ」を弾くシーンでは「この曲を本気で聴いた者は悪人になれない」という説明がつく。しかしその直前に、ヴィースラーは本の贈呈者イェルスカの死(自殺)を聴いている。音楽が変節の契機になるというのは話としては出来すぎで、だから私は本とイェルスカに影響を受けたのだと判断した(もちろん、それだけでなくドライマンを取り巻くいろいろな事柄からなのだろうが)。

事情を知ったドライマンと、大臣の所に行こうとするクリスタとで口論になるのだが、ヴィースラーの盗聴は部下のライエ軍曹との交代時間になってしまう。ヴィースラーはいても立ってもいられなくなり(観客も同じ気持ちにさせる)、近くのバーで飲み始めるのが、そこにクリスタがあらわれる。クリスタを翻意させるのに使った「あなたのファン」という言葉は、観ている時には方便なのだろうと思ったのだが、今となってみるとファンというのは本当だった可能性もある。

次の日、「いい報告書だ」と交代するライエを褒めるヴィースラー。そこには「クリスタが戻り、ドライマンは喜びに包まれ激しいセックスが続いた……新しい作品を生む創作意欲が……」と書かれていた。

イェルスカの自殺も大いに影響したのだろう、ドライマンは東ドイツで多発している自殺についての文章を書き、西側の雑誌に匿名で発表する。この時盗聴の有無を調べようとして、ドライマンたちがガセネタを流して当局の動きを知ろうとする場面があるのだが、ここでもヴィースラーは、今日だけは見逃してやるなどと言っているのだ。しかし、その一方でドライマンたちの行動に不審を感じたライエに、彼らは台本を書いているだけだと言いくるめ、余計な詮索をしないよう釘を刺す。

薬物を常用しているクリスタは、その入手にかかわって捕まり、脅かされ、雑誌の記事はドライマンが書いたことを認めたため、家宅捜査となるが、何も見つけられずに終わる。盗聴しながら見破れなかったヴィースラーの立場は悪くなるが、優秀な尋問者だった彼にはチャンスが与えられる。

尋問で対面したヴィースラーのことをクリスタが覚えているかどうかという興味もあるが、それには触れることなく、ヴィースラーは証拠のタイプライターの隠し場所をききだすことに成功する。が、なんとそれを持ち出してしまう。彼に先回りする時間があったのはおかしい気もするが、とにかくドライマンは罪を問われずにすむ。が、自責の念にかられたクリスタは、ふらふらとアパートから外に出たところで車に轢かれてしまう。

ヴィースラーにも疑惑は向けられ、地下室での郵便物の開封作業が彼の仕事となる。これから20年という脅しはあったが、彼への疑惑が曖昧なままですんでしまったのは、クリスタの死で大臣の興味が他に移ってしまったからだろうか。

このあとは5年後にベルリンの壁が崩れ、ドライマンがある舞台で大臣に会い、盗聴の事実を知るくだりへと進む。盗聴が本当なら彼が無事なはずはなく、そのことは当人が1番よくわかっていることなのだ。しかし、大臣は監視を認め、アパートの電灯スイッチを調べればわかることだと言う。そして、さらに情報公開されたファイルをめくるうちに、ドライマンは「彼の単独行動は信用するな……昇進はやめ、M室の勤務に……」という男の存在を知ることになる。

ドライマンは男を捜し出すが結局声をかけることなく、今度はさらに2年後に、郵便配達中のヴィースラーが、劇作家ドライマンの新作の広告を目にすることになる。彼が書店で『善き人のためのソナタ』という本を手にし、表紙をめくるとそこには……。

店員に贈答ですかときかれ、いや私のための本だ、と答えるヴィースラーがちょっと誇らしげになるのだけれども、それをうれしく感じてしまった私は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督(脚本も)にしてやられたことになる。

先にヴィースラーの変節はイェルスカの影響が大きいのではないかと書いたが、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』の中では、それはきっと曲の演奏になっているのではないか。まあ、どうでもいいことなんだけど。

繰り返しになるが、やはりこの映画ではヴィースラーの描き込みが素晴らしい。彼は巻頭では、尋問の教官として生徒に自分の尋問風景を撮影したものを見せている。生徒のひとりがそれをあまりに非人道的と発言すると、その生徒の名前にチェックをするような男なのだ。

また自宅に娼婦を呼んでいる場面もある。娼婦にもう少しいてくれとヴィースラーは言うのだが、彼女は時間厳守だと帰ってしまう。これだけの場面なのだが、表情を変えない彼の孤独感がよく出ていた。表情を変えないからかどうか、子供にはシュタージの人で、友達を刑務所に送る悪い人だとも言われていたが、彼は傷ついていたのだろうか。そういえば、これはソナタを聴いたあとのことだったが……。

【メモ】

第79回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞受賞

原題:Das Leben der Anderen(他人の人生)

2006年 138分 シネスコサイズ ドイツ 日本語字幕:古田由紀子 監修:高橋秀寿

監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 製作:クイリン・ベルク、マックス・ヴィーデマン 撮影:ハーゲン・ボグダンスキー 衣装:ガブリエル・ビンダー 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
 
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)、ウルリッヒ・トゥクール(グルビッツ部長)、トマス・ティーマ、ハンス=ウーヴェ・バウアー、フォルカー・クライネル、マティアス・ブレンナー

松ヶ根乱射事件

テアトル新宿 ★★★★

■事件が起きても起きなくても

90年代にさしかかろうという頃。鈴木光太郎(新井浩文)は、「いのししと伝説のまち」松ヶ根の警察官だ。轢き逃げにあった赤い服の女(川越美和)の検死に立ち会っていると、女は息を吹き返してしまう。池内みゆきというその女は、刑事(光石研)の質問をはぐらかしたまま、翌日には西岡佑二(木村祐一)のいる宿に帰っていった。

光太郎には双子の兄の光(山中崇)がいて、母みさ子(キムラ緑子)と姉夫婦(西尾まり、中村義洋)の鈴木畜産の仕事を手伝っている。家族は他に痴呆の祖父豊男(榎木兵衛)に父の親豊道(三浦友和)。が、豊道は愛人国吉泉(烏丸せつこ)の理容室に家出中で、泉の娘の春子(安藤玉恵)を妊娠させてしまったらしい。

らしいと書いたのは、知的障害の春子は町の人間の共有物となっていて、泉も自分の管轄下に春子がいる時は、客から堂々と金をせしめている。だから本当は誰が父親なのかわからないというわけだ。なのに、これはもう最後の方なのだが、春子がいざ出産となり泉が呼びにくると、(祖父の死からまた家に戻っている)豊道はいそいそと出かけていくのである。

ところで、例の轢き逃げ犯だが、なんと光だったのだ。それが池内みゆきにわかってしまったものだから、西岡に脅迫され、氷を割った湖に潜らされるはめになる。湖底からボストンバッグを引き上げると、中からは沢山の金の延べ棒と生首が入っていた。

西岡とみゆきは金の延べ棒を銀行で換金しようとするが、それはかなわず、が、光の世話で祖父が以前住んでいた家に堂々と居着き、さらに光に金まで要求する。で、光は鈴木畜産の金に手を付けてしまうし、幼なじみにモテるようになるからと延べ棒を20万で売りつけたりする。

光太郎は光を問いつめ、生首の存在まで確認するのだが、警官のくせに光に止められるとなんのことはない、そのことに関わるのをやめてしまうのである。この時、自分の恋人が親を連れて鈴木家にやってきて(もちろんそういう話になっていた)結婚の話をまとめるはずだったらしいのが、豊道のでしゃばり(饒舌になったのは彼のサービス精神らしい)でなんとなくヘンな空気が流れ、そのことで春子の妊娠を咎めると、逆に豊道から「なんで俺の子だって決めつけられるんだ。お前もだろ」と言われてしまうというショックなことがあったからではあるのだが。

三浦友和演じる豊道というだらしない父親は、ただ明るくて憎めないだけの男かと思っていたので、この逆襲には凄味すらあった。光太郎の追求に前回はただただとぼけていただけだからよけいそう感じてしまう。豊道のように生き生きと振る舞われては、ヤクザ者の西岡だって負けてしまいそうではないか(この対立は実現しないが)。

それにしても光太郎の中身のなさはなんなのだ。いくらなんでも豊道に指摘されるまで、春子の子のことを考えもしないとは(映像としてのヒントはあった)。光太郎が惚けたようになったからというのではないだろうが、光は単身西岡とみゆきの所へ殴り込みに行く。が、これは予想通り成功しない……。

西岡佑二と池内みゆきの出現で、平和な町がどこかおかしくなっていく、というのがこの映画の骨組みと見当をつけていたのだが、どうやらそんな簡単なものではなさそうだ。

西岡とみゆきは、どう話を付けたのか、駅の売店で本物の金を使っていますというキーホルダーを1ヶ5000円で売り出すし、あのまま祖父の家にふたり名前の表札まで飾って、見事におさまってしまうからだ。春子には子供が生まれ、恥ずかしくて外を歩けないといっていたみさ子も、多分もう平気で近所の人たちとお喋りをしているのではないか。

この町(といっても物語自体はもう少し狭い範囲で進行しているようだが)の豊道的空気の中に、あんなに異質だった流れ者の2人も取り込まれてしまったということなのだろうか。

収束した町にあって光太郎だけには、まだ派出所に出没する鼠の動き回る音が聞こえるらしい(罠にはかからないので存在は確認できていない)。彼は春子のこともそうだったように、自分に都合のいいようにしか頭を働かせられないのか、役所を訪ね、元から断たないとだめなんです、などと言いながらコロリンX(農薬か?)を撒こうとするのである。しかしこんな大それたことをしても問題にはならなかったらしい。というのもそこから場面はフェードアウトし、町の遠景となり、そのあと(私の文だと前後してしまったが)キーホルダーと表札のカットになってしまうからだ。

ああ、これで終わってしまうのか(あくまで観ている側の感覚はユルくなっている)と思っていると、突如光太郎が派出所から道に出て、拳銃を乱射する。で、すみません、もうしませんからとまた派出所に戻っていくのだ。ああ、そうだった(乱射があってもまだユルいままなのね)と、これでタイトルの乱射事件が起きていなかったことにやっと気が付くというわけである(冒頭に轢き逃げ事件があったからうっかりしてたのだな)。

それにしてもコロリンXを手にしての行動すら相手にされないのだから、こんな乱射など事件にもなるまいて。光太郎はもうそれで納得なのだろうか。

こういう映画は解釈する余地が大きいから、いくらでもいろいろなことが言えるし、勝手に遊んでしまっても楽しめる。作り手もずるいから「多少の脚色は職業上の悪癖……」といきなり断っていたしね。でもそれは置いておくにしても、やはりこの町の収束ぶりが、松ヶ根特有というのではなく、私のいる世界にもあてはまるような気がして、ちょっぴり恐ろしくなったのである。

2006年 112分 サイズ■ PG-12

監督:山下敦弘 製作:山上徹二郎、大和田廣樹、定井勇二、大島満 プロデューサー:渡辺栄二 企画:山上徹二郎 脚本:山下敦弘、向井康介、佐藤久美子 撮影:蔦井孝洋 美術:愛甲悦子 衣装:小林身和子 編集:宮島竜治 共同編集:菊井貴繁 音楽:パスカルズ エンディング曲:BOREDOMS『モレシコ』 照明:疋田ヨシタケ 装飾:龍田哲児 録音:小川武 助監督:石川久

出演:新井浩文(鈴木光太郎)、山中崇(鈴木光/双子の兄)、川越美和(池内みゆき)、木村祐一(西岡佑二)、三浦友和(鈴木豊道/父)、キムラ緑子(鈴木みさ子/母)、烏丸せつこ(国吉泉/父の愛人)、安藤玉恵(国吉春子/泉の娘)、西尾まり(富樫陽子/姉)、康すおん(立原勇三/光太郎の同僚)、光石研(刑事)、でんでん(青山周平/弁当屋)、榎木兵衛(鈴木豊男/祖父)、中村義洋(富樫圭一/姉の夫)、鈴木智香子(荻野セツ子/恋人)、宇田鉄平(坂部進/べーやん)、桜井小桃(富樫真由)

イカとクジラ

新宿武蔵野館 ★★★★

■この家の子だったらたまらない

1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。

冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。

共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。

バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。

子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。

悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。

「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。

最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。

(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。

 

【メモ】

オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。

原題:The Squid and The Whale

2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
 
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー

トゥモロー・ワールド

新宿武蔵野館2 ★★★★

■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる

人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。

手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。

ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。

政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。

一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。

エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。

そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。

筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。

最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。

銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。

セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。

この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。

 

【メモ】

なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)

セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。

ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。

原題:Children of Men

2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
 
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン

手紙

新宿ミラノ1 ★★★★

■傾聴に値する

弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。

映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。

直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。

これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。

しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。

そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。

このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。

見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。

由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。

はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。

そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。

直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。

このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。

こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。

と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。

かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。

気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。

それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。

  

【メモ】

運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。

由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。

リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。

家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
 
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)

蟻の兵隊

イメージフォーラム シアター1 ★★★★

■「殺人現場」への旅

敗戦後も中国に残り軍閥に合流して国共内戦を戦い、捕虜になっていた奥村和一が帰国できたのは1954(昭和29)年の30歳の時。軍命によって戦ったのに、軍籍を抹消された彼に軍人恩給が支給されることはなかった。残留兵の生き残り仲間と裁判を起こすが、敗訴を重ねる。自分たちは勝手に中国に残ったのではなく、そこには保身に走った澄田軍司令官と軍閥との間に密約があったというのが奥村たちの主張だ。

奥村は宮崎元中佐を訪ねる。宮崎は将兵の残留という不穏な動きを察知して澄田軍司令官にその中止を迫ったことがあるのだが(平成4年にテレビ放送されたらしく、それが少しだけ映る)、10年以上も前に脳梗塞で倒れ、現在は寝たきり状態が続いている。宮崎を前に「悔しくて眠れない」ので中国に行き「密約の文書を探しだします」と奥村が言うと、宮崎は絞り出すような声を上げ何度も激しく反応する。何もわからないはずと言っていた宮崎の家族もびっくりした様子だ。

中国に渡る奥村。「天皇に忠誠を誓ったのであって、(軍閥の)閻錫山の雇い兵として戦ったんじゃない」という彼は、太原山西省公文書館に出向き、職員が持ち出してきた資料を開いて、これが何よりの証拠だと指差す。そして「この資料を出したのに、(裁判で)一切無視された」と言う。宮崎に「密約の文書を探しだ」すと言った場面のあとなので、これはまずいだろう。私など早くも、何だ、新資料の発見ではなく映画用の再確認の旅なのか、とがっかりしてしまったくらいだから。がこのあとすぐに、この中国への旅が奥村に別の問題を突きつけていたことを知ることになる。

軍司令官の保身の犠牲になった奥村だが、自身も上官の命令とはいえ、初年兵の教育のため民間人を殺害(肝試しと称していた)した過去があったのだ。奥さんにも話すことがなかったその事実に向き合うことを、自分に科していたようだ。旅の目的地の1つとして指定した「殺人現場」の寧武の街を見下ろす斜面に立ち、当時の模様を詳しく(彼の決意のほどがわかる)語る彼の姿。観客という別世界から眺めていたからいいようなものの、そうでなければ視線を落としていただろう。

ついで処刑の前日に留置場から脱走したという中国人の家族を訪ねる場面。故人の息子が、処刑されたのは日本軍が守る炭坑の警備員で、共産党軍の攻撃に抵抗せずに逃げ出して捕まったのだと話すと、急に奥村の顔色が変わり、彼らの行動は理解できないし処刑されて当然ではないかと「日本兵となって追求」(本人の言葉)してしまう。「自分の中に軍隊教育として受けていたものが残っている」と恥じる奥村。

輪姦された当時16歳という中国人老女の話にもいたたまれなくなるが、日本兵の鬼畜の限りを綴った、自分たちが書いた文章がそこ(中国)には残っているのだからたまらない。この文章のコピーは持ち帰られ、奥村の仲間たちにも突きつけられる。「もう平気でやったんですよ。人を殺したのに記憶がない。日常茶飯事だったんだね」とは仲間の金子の言葉だが、奥村は恨まれたのではないか。

自分たちの犯した罪を暴いてまでも、悔しい気持ちをどうにかしたい。それが奥村たちの気持ちなのだろう。だが、高齢な彼らの仲間は裁判中にも死んで数が少なくなり、この映画に登場する村山も映画の公開を待たずに死んだという。彼らには時間がないのだ。最後の時間との競争だという言葉はあまりに重い。

巻頭では靖国神社がどういうところなのかも知らない女の子と奥村の、さもありなんという対話が収録されていたが、最後の方では、やはり靖国神社で熱弁をふるう小野田元少尉に「小野田さんは戦争美化ですか」と詰め寄る場面も。奥村が電話をしても、また訪ねて行っても、昔のことだからと口を閉ざして何も語ろうとしない老人。簡単に対比されてはこれらの人の立場がないかもしれないが、彼らと大差のない自分を考えないではいられなくなる。

途中、判決文に署名捺印しない裁判官の話があり、これにもびっくりした。理由が「差し支えのため」という訳のわからないものだからだ。奥村が電話で確かめると、転勤で物理的に書けないという返事。だったらそう書けばいいのに。書けないんだろうね。署名捺印のない判決文がそもそも有効なのかどうなのか、そんなことは私にはわからないが、こんなんでちゃんとした裁判ができているのかと心配だ。

  

【メモ】

日本軍山西省残留問題:

終戦時に中国の山西省にいた陸軍第1軍の将兵59,000人のうちの約2,600人は、武装解除を受けることなく(ポツダム宣言に違反)国民党系の閻錫山の軍閥に合流し、3年半の間、共産党軍相手に戦いを続け、約550人が戦死、700人以上が捕虜となったという。

元残留兵たちから、軍命で戦ったのだから当然復員までの軍籍は認められるべきで、軍人恩給や戦死者遺族への扶助料も支払われるべきだという声があがるが、この運動が具体的な形になったのは90年代になってからのことだった。さらに実際の裁判にまで進んだのは2001年5月。原告は元日本兵13名。この時点で最小年の奥村和一は77歳、ほとんどが80歳以上だった。

双方の見解ははっきり別れていて、元残留兵たちは、当時国民政府から戦犯指名を受けていた北支派遣軍第1軍司令官・澄田●四郎(すみたらいしろう[●は貝へん+來])が責任追及を恐れて閻錫山と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張する。

一方、政府の見解は勝手に志願し傭兵になったのだから、その間の軍籍は認められず、政府に責任はないというもの。

裁判で原告は負け続けるが、2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告。が、9月に棄却される。

(2006.10.6追記)澄田軍司令官は、第25代日本銀行総裁(1984-1989)澄田智の父親にあたる。

2005年 101分 ヴィスタサイズ

監督:池谷薫 撮影:福居正治、外山泰三 録音:高津祐介 編集:田山晃一 音楽:内池秀和

出演:奥村和一(わいち)、金子傳、村山隼人、劉面煥、宮崎舜市

グエムル -漢江(ハンガン)の怪物-

ヒューマックスシネマ4 ★★★★

■こいつは人間をぱくぱく食いやがる

謎の巨大生物に娘をさらわれた一家が、あてにならない政府に見切りをつけ怪物に立ち向かうという話。細部はボロボロながら映画的魅力に溢れた傑作。

ソウルを流れる漢江の河川敷で売店を営む父パク・ヒボン(ピョン・ヒボン)と長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)は、長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合をカンドゥの中学生の娘ヒョンソ(コ・アソン)と一緒にテレビで見ながら店番をしていた。川原では人々がのんびりくつろいでいたが、すぐそばのジャムシル大橋の下に、見たこともない奇妙で大きな生き物がぶら下がっていて、人だかりが出来はじめていた。

と、突然、それがくるりと回転して水に入ったかと思うと、すぐ岸に上がってきて猛然と見物客に襲いかかり、ぱくぱく(まさにこんな感じ)と食べ出したのだ。混乱する人々と一緒になって逃げまどう中、カンドゥは握っていたヒョンソの手を放してしまう。必死でヒョンソを探すカンドゥだが、怪物はヒョンソを尻尾で捉え、対岸(中州?)に連れて行き飲み込み、川の中へと姿を消す。

2000年に米軍基地がホルマリンを漢江に流したことや、それからだいぶたって釣り人が川の中でヘンな生き物を見たという予告映像はあったのだが、カンドゥが客のスルメの足を1本くすねてしまうというような、岸辺ののんびりした場面が続いていたので、こちらも弛緩していたようだ。だから、この、まだ形も大きさもその獰猛さもわからぬ(もちろんそういう情報は人間が次々に餌食になることで、どんどんわかってくる。出し惜しみなどせず、真っ昼間に少なくとも外観だけは一気に見せてしまうという新趣向だ)怪物の大暴れシーンには、すっかり度肝を抜かれてしまったのだった。

怪物の造型(ナマズに強力な前足が付いたような外形。もしかしてあれは後ろ足か)も見事なら、それを捉えたカメラの距離感が絶妙だ。怪獣の驚異的なスピードばかりを強調するのでなく、足をすべらせるところを挿入するのも忘れない。このリアルさがすごい迫力になっているのだ。巨大怪獣を遠くに置いて、逃げる人々を十把一絡げに映すという旧来の日本型怪獣映画ではなく、怪物に今にも食われてしまいそうな位置にいることの臨場感。細かく書くとキリがないので少しでとどめておくが、あっけにとられて逃げることを一瞬忘れている人を配したりと、逃げる人間の描写も手がこんでいる。

ただ展開はいささか強引だ。韓国政府は、怪物には感染者を死に至らしめるウィルスがいる(宿主)として、パク一家や川岸にいた人たちに隔離政策をとる。治療をうけるカンドゥの携帯に、死んだはずのヒョンソから助けを求める電話が入る。怪物はいっぺんに食べていたのではなく、人間がコンクリで造った巨大な溝のような場所を巣にしていて、そこに戻っては口から捕獲した獲物を吐き出して保管していたのだ(あとで大量の骨だけを吐き出す場面もある)。一命をとりとめたヒョンソは、死体となった人の携帯を使って連絡してきたのだが、携帯の状態が悪く状況がはっきりしないまま切れてしまう。

ヒョンソが生きているという話に誰も耳を貸そうとしないため、ナムジュと次男のナミル(パク・ヘイル)が戻ったパク一家のヒョンソ奪還作戦が開始されるのだが、政府や医師たちのたよりなさったらない。米軍の言いなりなのは似たような事情がある日本人としては複雑な心境だが、そのことより政府に怪獣をまったくやっつける気がないのだからどうかしている。

途中でウィルスはなかったというふざけたオチがつくのに、米軍とWHOがヘンな機械を投入してワクチンガスをばらまくというのもわけがわからない。それにこれも怪物でなく、ウィルスを壊滅させるのが目的って、おかしくないか!

怪物がいるというのに付近ではワクチンガスに反対する反米デモは起こるし、すべてがハチャメチャといった感じである。VFXは自前にこだわらずにハリウッドに委託したというが、それでいてこの反米ぶり(米軍人ドナルド下士官がカンドゥと一緒に怪物に立ち向かうという活躍はあったが)は、設定はいい加減でも態度ははっきりしている。

パク一家は全財産をはたいてヤクザか地下組織のようなところから武器を調達。カンドゥは捕まって一旦は連れ戻されてしまうのだが、細切れに寝る体質のため麻酔は効かないし、手術(脳からウィルスを検出しようとしただけ?)をされても一向に平気というこれまた馬鹿げた設定で、またしてもそこから逃げ出すことに成功する。

ヒョンソは溝にある狭い排水口に身を隠していたが、怪物の吐き出した新しい獲物の中に生きた少年を発見し、彼を助ける決意をする。この時のヒョンソの決意の眼差しがよく、画面を引き締めるが、怪物にはすべてがお見通しだったという憎らしい場面があって、それは成就できずに終わる。弾薬が尽きていたことで迎えるヒボンの死もそうだが、ポン・ジュノはきっとへそ曲がりで、予定調和路線にはことごとく反旗を翻したいのだろう。

クライマックスではナムジュの弓にナミルの火炎瓶も加わっての死闘になる。怪物が何故かワクチンガスにひるむ場面もあるが、最後まで軍隊は姿を見せないし、一貫して反政府に反米。ホームレスやデモ隊は協力者で、そもそもパク一家は下層民という位置付けだから、怪物映画という部分を捨てたら(そりゃないか)昔なら革命高揚映画といった趣さえある。

ともかく怪物は葬り去った。ヒボンの死だけでなく、目的だったヒョンソも救えなかったにしても。これも普通の物語の常識を破っている。けど、カンドゥは少年を得るではないか。映画は、ダメ家族の愛と結束を描きながら、血縁を超えた新しい愛の形を当たり前のように受け入れているのである。カタルシスからは遠いものになったが、ポン・ジュノはこの素晴らしいメッセージを選んだのだ。

最後に、カンドゥと少年が食事をしている売店が、夜の雪の中に映し出される。2人の打ち解けた会話のあとのそれは、街灯と売店の明かりで、暖かみのある絵になった。雪が静かに降ったまま終わりになるかにみえたが、最後の最後に聞こえたのは、まさか怪物の咆哮ではあるまいね。

形に囚われず、勢いのままに描いたようなこの映画にはびっくりさせられたが、こうやって書き出してみると、あきれるような筋立てばかりで笑ってしまうほかない。いや、でもホントに面白くて興奮した。そして最後が気になる……。

【メモ】

2000年2月9日。ヨンサン米軍基地の遺体安置質。ホルマリンを漢江に流すように命ずる軍医?(「漢江はとても広い。心を広く持とう」)。2002年6月。釣り人がヘンな生き物をカップですくう(「突然変異かな」)が、逃げられてしまう。2002年10月。「お前ら見たか。大きくて、黒いものが水の中に……」。(映画ではこんな説明だ)

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2000/07/14/20000714000012.html
事件については日にちまでしっかり同じ。はっきりとした抗議映画だということがわかる。それにしても不法投棄した本人が、韓国で有罪判決を受けながら米国に帰国してしまったとはねー。

ヒョンソだけが何故食われずにいたのかという疑問もあるが、ヒョンソが逃げようとしていることを察知した怪物が、ヒョンソを優しく捕まえてそっと下ろすという場面が、それを説明しているようにも思える。この怪物にキングコングのような心があるとは到底思えないのだが……。

最後の食事の場面で、壁にはパク一家が指名手配された時の写真が額に入って飾られている。カンドゥは金髪はやめたようだ。

原題:・エ・シ(怪物) 英題:The Host

2006年 120分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:ポン・ジュノ 原案:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン、パク・チョルヒョン 撮影:キム・ヒョング 視覚効果:オーファネージ 美術:リュ・ソンヒ 編集: キム・サンミン 音楽: イ・ビョンウ VFXスーパーバイザー:ケヴィン・ラファティ

出演:ソン・ガンホ(パク・カンドゥ)、ピョン・ヒボン(パク・ヒボン)、パク・ヘイル(パク・ナミル)、ペ・ドゥナ(パク・ナムジュ)、コ・アソン(パク・ヒョンソ)、イ・ジェウン(セジン)、イ・ドンホ(セジュ)、ヨン・ジェムン(ホームレスの男)、キム・レハ(黄色い服の男)、パク・ノシク(影/私立探偵)、イム・ピルソン(ナミルの同級生)

息子のまなざし

早稲田松竹 ★★★★

■息苦しい距離感が、許しを突き抜ける

オリヴィエ(オリビエ・グルメ)が木工を教えている職業訓練所に、フランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。前半(といってもわずか4日ほどの話なのだが)は彼が何者で、オリヴィエが何故異常なほど彼に興味を示すのかという点に絞られる。

カメラは最初から最後まで手持ちで、ほとんどオリヴィエの頭に近い位置にあり、彼だけしか映さないわけではないが、彼と行動を共にする。つまり映し出される映像はオリヴィエのバストショットか、背後から彼を追いかけるものとなる。部屋から部屋に移動し、階段を一緒に駆け下りたりする。カメラが車の中にいてオリヴィエを追えなくなって途切れるようなこともあるが(彼がカメラから遠ざかることで視界が開けたりする)、また次のシーンでは定位置に戻っているのだ。

情報はかなり限定されているといっていいだろう。なのに物語の進行に差し支えがないのは驚きだ。会話と狭い範囲の視覚で事足りてしまうのだから。

普段、人に近づくことはあってもここまで執拗に見続けることはしないだろう。そんな失礼なことはしやしないからだし、この映画のカメラだって別にオリヴィエ以外の誰かの目線というわけではなく、単純に対象を追ったものと考えればいいのだが、やはりこの距離感は息苦しい。この息苦しさは何なのだろう。対象に近づくことで底知れぬ感情が渦を巻いていることを意識せざるをえないからだろうか。が、近づいたからといって何を考えているのかは当然わからない。

フランシスは木工課を望んでいたらしいが、手一杯とオリヴィエは断ってしまう。が翌日になると、何故かフランシスのことが気になってしかたがない彼は、溶接課にまで出向きフランシスを引き取ることにする。

この謎は、オリヴィエの別れた妻マガリとの会話であっさり明かされる。彼らの子供はフランシスに殺されたというのだ。マガリはオリヴィエに犯人がいる訓練校を辞めるように言うが、彼は取り合わない。実は前日にマガリはオリヴィエに再婚と子供が産まれることを知らせに来たのだが、この日のやりとりを見ていると、彼らがうまく行かなくなったのは、子供が殺された事件が影を落としているのだと思えてくる。

オリヴィエはこのあともフランシスの後をつけたり、鍵を一時的に盗み出してフランシスの借りている部屋に入りこんだりする。ベッドに横たわって、こんな異常なことまでして、彼は一体何を考えているのか。何をしようとしているのか。

訓練校からの帰えりにフランシスを車に乗せ、それをマガリに見られて「何をする気、狂気の沙汰よ」と詰め寄られるが、彼女に対する答えからでは、オリヴィエにも自分の行動は説明できないようなのだ。

次の日の土曜、彼は車でフランシスを連れて木材の仕入に向かう。製材所は休みで誰もいないが、そこはオリヴィエの弟が経営者で、彼は鍵を持っているのだ。製材所で木材の種類や用途をフランシスに教え、フランシスもノートを見ながら熱心に耳を傾ける。

ここまでの過程で、彼はフランシスに、起こした過去の事件の経緯をしつこくたずねていたのだが、ついに「お前が絞め殺したのは俺の息子だ」と言ってしまう。逃げるフランシス。怖がらなくていいと言いながら追いかけ、捕まえるとフランシスの首に手をかける。

結局何事もなかったように手を離し、森から車に戻り木材を車に積み込みはじめるオリヴィエ。そこにフランシスが現れ、一緒にロープがけの手伝いをはじめる。

最後の共同作業は、和解であり、未来の共同作業さえ示しているかに見える。オリヴィエはいつからこんな聖人君子になったのか。マガリとの会話ではフランシスの受け入れを匂わせていたから不思議ではないし、復讐(首に手をまわしたとはいえ、そこまで考えていたわけではないだろう)がまったく反対の形に転化してしまうことだってないとはいえないが、それ以前に、ここまで興味を持ってフランシスに接触するということが私にはやはり不可解だ。

私にはこの共同作業は、まずあるべき「許し」という地点を突き抜けてしまっているように思うのだ。許すということ自体が大変だと思われるのに。が、おかしなことに突き抜けてしまったことで、逆にそういうこともあるかもしれないという感想も持てたのだが。

ただそれでも、4日間という設定は少し早急ではなかったか。だからってこのカメラにこれ以上振り回されるのは無理なのだが。つまりこの表現方法故の4日間だったのかもしれない。

特異なカメラではあるが、もちろんフランシス側の気持ちもオリヴィエを通して描かれてはいた。睡眠薬を飲まないと眠れない毎日。11歳で事件を起こし、5年間少年院に。母親には嫌われ、父の居場所も知らないという。目測で正確な距離を言い当てるオリヴィエを尊敬し、何かと面倒を見てくれる彼に後見人になってほしいとたのむ。振り返りたくないだろう事件のことも、後見人になるなら知る権利があると言われて、告白するに至る。サッカーゲームに興じ、オリヴィエに勝って少年院でも無敵だったとはしゃぐ……。

原題はたんに「息子」だが、邦題だと自分たちの息子のまなざしがすべてを見ているというような感じもする。オリヴィエは、息子を殺したフランシスに、自分の息子を重ねているのだろうか。まさか。

無音のエンドロールで息苦しさからは突然解き放たれるが、言葉にならないものはいつまでも消えることがない。

【メモ】

オリヴィエは自宅に帰ると、椅子を使った腹筋をしている。

マガリ「再婚するの」。オリヴィエ「よかった」。マ「あなたは誰かいないの」。オ「ああ」。マ「それと子供が産まれるの」。

マガリを下まで追いかけて。オ「何故今日来たんだ」。マ「休みだから」。オ「何故今日なんだ」。マ「診断が出たから」。最後は怒ったように訊いていた。

オリヴィエが無断欠勤の少年を訪ねるシーンも。面倒見がいいのだろう。教えることが好きだとも言っていた。

フランシスとの握手は拒否してたし、製材所行きの途中で立ち寄った食堂での勘定はワリカンだった。

原題:Le Fils

2002年 103分 ベルギー/フランス 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン キャメラ:ブノワ・デルヴォー 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル

出演:オリビエ・グルメ(オリヴィエ)、モルガン・マリンヌ(フランシス)、イザベラ・スパール(マガリ)、レミー・ルノー(フィリポ)、ナッシム・ハッサイーニ(オマール)、クヴァン・ルロワ(ラウル)、フェリシャン・ピッツェール(スティーヴ)、アネット・クロッセ(職業訓練所所長)

リトル・ダンサー

早稲田松竹 ★★★★

■ビリーはとにかく踊ることが好き

女の子のものと思われがちなバレエに夢中になってしまう11歳の男の子に、それとは不似合いな炭坑不況下(1984年)のイングランドのダーハムという町を背景にした、でも話は、定番ともいえる夢の成功物語。

ボクシング教室には気乗りしないが、同じフロアに引っ越してきたバレエ教室なら見ているうちに踊りだしてしまうビリー(ジェイミー・ベル)。ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)も彼の素質に、バレエへの情熱を取り戻したかのようだ。

話は単純だが、場面や会話の積み重ね方には唸らされる。初レッスン後にウィルキンソン先生に「楽しかった?」と声をかけられるのだが、ビリーが答えないでいると「どうぞお好きに」と言ってさっさと車で帰ってしまう。先生のビリーに対する距離感はなかなかで、この2人の関係が最後までいい感じなのだ。

ビリーのバレエ教室通いが始まるが、男はボクシングかサッカーと思っている父親(ゲイリー・ルイス)には内緒だ。それがばれてしまった時の問答。「何故いけない」「わかっているはずだ」「ききたい」父親は答えずビリーを殴る。当然すぎて説明できない父親を、さもありなんという感じで簡潔にみせる。

ビリーの父と兄トニー(ジェイミー・ドレイヴン)は炭坑夫で、肉体労働という環境もあるのかもしれない。兄は労組の中心的人物で、炭坑はストの真っ最中。労働者と警官隊が睨み合う風景が日常となっている。収入が途絶えた状況で、わずかとはいえボクシング教室のお金がバレエ教室に使われていたのではねー(クリスマスには父が母のピアノを薪にしてしまうシーンも出てくる)。

父にばれたあとのビリーの怒りのダンスシーンは圧巻だ。感情のおもむくままにステップを踏み、町中に飛び出していく。背後の左手に白い船がゆく坂道で踊るビリーや、ストと対比した画面がきいている。

ビリーは女の子趣味でバレエが好きなのではなく、純粋に踊りが好きなのだ。彼の親友にゲイのマイケル(スチュアート・ウェルズ=なんとも可愛らしい)を配することで、この説明もあっさりやってのける。18歳のビリー宛に手紙を残していた、死んだ母親の説明もこうだ。「素晴らしい人だったのね」「普通の母親だよ」

クリスマスの夜に再び父と対峙したビリーのダンス(このダンスシーンも見ものだ)に、父はスト破りを決意する。ロイヤル・バレエ学校のオーディション費用を工面する方法が他にみつけられないのだ。仲間がピケを張る中、のろのろ進むバスの中にいる父親。まるで晒し者を連行するかのようだ。

これは仲間の募金と祖母(ジーン・ヘイウッド)の力でなんとか切り抜け、オーディションへ。緊張。歓喜。続いて家族や先生、マイケルとの別れ、そしてラストの大人になって成功したビリー(アダム・クーパー)の公演シーンまでと続くのだが、実はこのまとめて書いた部分にはあまり感心できなかった。

オーディションで踊っている時の気分を尋ねられたビリーの答えが、なんだか長ったらしくて弁解じみて聞こえてしまったのだ。ありったけの感情を込めて踊りまくっていたビリーが、あがって力を出し切れなかったにしても、バレエに無関心で何もわからない父にスト破りを決心させた力を「踊り出すと何もかも忘れて、自分が消えます。まるで自分が鳥になったみたいに……」というようなありきたりの言葉で置き換えてしまうなんて。バレエ学校の先生たちはどこを見ているんだろう。

祖母との別れのシーンはよいけれど、兄とのそれはやはりやや長い。家のそばにいつもいた小さな女の子とのあっさりした別れ程度で十分なのに。オーディションシーンにがっかりしたものだから、そのあとからは点が辛くなってしまったようだ。

  

【メモ】

祖母はボケだして物忘れはひどいし、迷子になってしまったり。でも最初からビリーの味方。自身もダンサーになれたのに、というのが口癖。母がアステアのファンで、映画を観た晩は一緒に踊ったというような話もしていた。

最初のオーディションは兄の逮捕で、ウィルキンソン先生との待ち合わせ場所に行けなくなる。

原題:Billy Elliot

2000年 111分 ヴィスタ イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー、脚本:リー・ホール、撮影:ブライアン・テュファーノ、音楽:スティーヴン・ウォーベック

出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴン、ジーン・ヘイウッド、スチュアート・ウェルズ、アダム・クーパー

美しき運命の傷痕

銀座テアトルシネマ ★★★★

■愛に見放された三姉妹とその母

長女のソフィ(エマニュエル・ベアール)は夫(ジャック・ガンブラン)の浮気に見境のない行動にでてしまうが、離婚を決意する。恋をすることもなく療養所に通って母(キャロル・ブーケ)の世話をしている次女のセリーヌ(カリン・ヴィアール)だが、謎の男につきまとわれる。三女のアンヌ(マリー・ジラン)は不倫相手の大学教授(ジャック・ペラン)に別れを告げられ激しく動揺するが、相手は死んでしまう。

愛に見放されたこの三姉妹の苦悩を、映画は幼い時に父親を失ったトラウマに結びつける。ソフィの行動は夫=父親を失うことへの恐れ、セリーヌは事件の目撃者であるが故の男性不信、アンヌは父親への思慕だろうか。

謎の男の告白で、父親が自殺に至った事件の真相が判明する。疎遠になっていた三姉妹が集まり、母親に誤解だったことを告げるのだが、彼女は「自分は後悔していない」と言う。

ここでやっと巻頭のタイトルバックが、カッコウの託卵の様子を克明に写した映像だった理由がわかる。つまり三姉妹は母の不倫の子だったのだ。

そういえば、先に孵化したカッコウは、残りの卵を巣の外に落とすのだが、自分も転落してしまう。そこにちょうど刑務所から出てきた父親が通りかかり、転落した雛を巣に戻すのが映画のはじまりだった。彼は託卵が成就する手助けをする運命にあったということになる。この場合、自殺こそが手助けだったとしたらずいぶんな話だ。

少なくとも三姉妹にとっては霧が晴れ、再生の道が開けたと思うのだが、母親の後悔していないという一言をどう受け止めるかという問題は残る。観客には不倫の子だということはわかっても、彼女たちは知らないのだし。そう考えていくと、だんだん怖くなってくる。

クシシュトフ・キエシロフスキの遺稿をダニス・タノヴィッチ監督が映画化したというこの作品は、映像も意味深で仕掛けが多い。思わせぶりな展開もどうかと思う。そのぶん間の悪い車掌などを登場させてバランスをとってはいるが、話の基調がこんなだからとても好きにはなれない。

それはたとえば、アンヌが、教授の娘(親友なのだ)に恋の相手を悟らせようとするのだが、そして彼女の父親を独占したいという気持ちがそうさせたのだと理解できても、彼女の行為を弁護する気になれないのと同じだ。

アンヌが受ける口頭試問のテーマが、たまたま夫の愛した子を殺す「王女メディア」だったのにはドキリとするが、教授は試験場に姿を現さずアンヌの妊娠も確定ではないようだから、これはソフィを連想させようとしているのか。いずれにしても、少しばかりうっとうしい。

でも、それはそうなんだが、十分面白い映画であることは間違いない。しっかり筋を頭にたたき込んだら、もう一度今度はあら探しをするつもりで観てみたい作品だ。

原題:L’ Enffr

2005年 102分 サイズ■ フランス、イタリア、ベルギー、日本 日本語字幕:■

監督:ダニス・タノヴィッチ 製作:マルク・バシェ、マリオン・ヘンセル、セドミール・コラール、定井勇二、ロザンナ・セレーニ 原案:クシシュトフ・キエシロフスキー、クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚色:ダニス・タノヴィッチ 撮影:ローラン・ダイヤン プロダクションデザイン:アリーヌ・ボネット 編集:フランチェスカ・カルヴェリ 音楽:ダスコ・セグヴィッチ
 
出演:エマニュエル・ベアール(ソフィ)、カリン・ヴィアール(セリーヌ)、マリー・ジラン(アンヌ)、キャロル・ブーケ(母)、ジャック・ペラン(フレデリック)、ジャック・ガンブラン(ピエール)、ジャン・ロシュフォール(ルイ)、ミキ・マノイロヴィッチ(父)、ギョーム・カネ(セバスチャン)、マリアム・ダボ(ジュリー)、ガエル・ボナ(ジョセフィーヌ)、ドミニク・レイモン(ミシェル)