ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

新宿ミラノ1 ★★☆


写真1~8:2009年6月28日(日)のミラノ座前。「第3新歌舞伎町宣言」のコスプレイベント。私はただの通りすがり。この日は『ターミネーター4』を観たので。あ、でもちゃっかり『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のクリアファイルをもらっちゃいました。

写真9~12:こちらは映画を観た日に新宿ミラノ1内で撮った写真。関連商品が沢山。ロビーに展示されていたフィギュア。イベント時にあったものと同じ物だが、零号機ははじめて? だったらちゃんと写真を撮ればいいのに、と言われちゃいそうだけど、ま、そんな熱心なファンじゃないんで。

■未だ不明なり

「エヴァンゲリオン」のことは「ヱヴァンゲリヲン」でしか知らないので、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の時も混乱しているうちに終わってしまったくらいで(最初だったので今回よりさっぱりだった)、こんなだから私が何かを書いてもロクなものになりそうにない。なので、感想はパスするつもりでいたが、そうすると次作の時にまた混乱してしまいそうなので(一応次のも観るつもり。ここでやめたら馬鹿らしいので)、メモ程度になってしまいそうだが、それを残しておくことにした。エヴァンゲリオンに詳しい人からみたら噴飯ものになっていそうだが、こういう観客もいるっていうことで……。

使徒の正体が不明なのはともかく、それがぽつんぽつんとやってくるのが相変わらずわからない。一気に攻撃したらひとたまりもなさそうなのに、それが出来ない、もしくはそのことに気づいていない理由でもあるのだろうか。相手が人間とは違う思考形態ということも考えられるが、この設定はまるでテレビ放映に合わせているかのようで、でもそれじゃあさすがにおかしいと気づいたのか、今回は多少だが、矢継ぎ早の使徒登場という感じになっていた。

そもそも使徒ばかりでなく、どういう状況に世界がなっているのかということすらなかなか明かにならない。今回で言えば、セカンドインパクトによって海は赤くなってしまい、水族館のような所(海を元に戻すための研究所)で、セカンドインパクト前の生き物を見たりしているのだが、それにしては第三新東京市の日常は、ごくごく普通のもので、防災都市として造られている部分を見ていなければ、とてもセカンドインパクト(というかこれだって?)後とは思えない風景なのだ。

だからシンジたちが学園生活を送っていること自体がまったく現実感のないものなのだが、あまりにも当然のようにそこには日常があるので、どう解釈すればいいのかとまどってしまうのである。

それに、よくぞ第三新東京市を造る暇(余裕と言うべきか。たんなる再建じゃないんだから)があったなと。第三新東京市と称してはいるが、他にもこういうところがあるのか。世界的にはどうなのか。ネルフというのは何でも国連の直属の非公開組織らしいんだが(これはネット出調べたのな)、そんなこと言ってたっけ。で、何で本部が第三新東京市で、シンジの父親ゲンドウが総司令なんだ(ここまで言っちゃったら身も蓋もなくなるが)。

にしては、バチカン条約とやらを急に持ち出してきて、各国のヱヴァンゲリヲンは三体までに制限されているという。各国のエゴがからんでいるらしいのはセリフからもわかったが、でも軍縮で牽制し合っているわけじゃあるまいし、使徒という人類共通の敵に対抗するのに制限……って、そうか、これはヱヴァンゲリヲンが貴重品なため割り当てを決めているだけとか? ってことはネルフの本部があってもそこまでは自由にならないんだ?

これだけ説明が不十分でよく客がついてきているものだと、別のところに感心してしまうが、この不親切さはテレビ時代からのものらしい、って。はぁ。この作品の魅力って、もしかしたら謎だらけだから、とかねぇ。

父親との確執というか、ただ父親に認めてもらいたいだけのシンジがまたまた出てくるのだが、これもなぁ。巻頭の母親の墓参りで「父さんと話せて嬉しかった」ってシンジが言うのだけれど、十四歳の子供が父親にこんなこと言うかしら(たとえ思っても口には出さないんじゃ)。

ヱヴァンゲリヲンの搭乗員が、シンジ以外は女の子って、これもすごい設定なんだけど(職員も女性が多いんだから!)、それぞれが少しずつ信頼関係を築いていって、協力して使徒を倒していって、ついにはシンジとレイとで「初号機の覚醒がなった」のな。はは。裏コードがあったり、エネルギーが切れて活動限界にあるのに動いちゃって、ヱヴァにこんな力があったとは、って驚かれちゃってもですね。ま、覚醒に至る伏線は、巧妙に貼られてはいましたがね。

「世界がどうなっても綾波だけは絶対助ける」って、シンジってこんなだったんだ。けど、異常なまでの綾波レイ人気が私にはよくわからないんで(レイが孤独にしているような部分と「私も碇君にぽかぽかしてほしい」というセリフに違和感を感じてしまうからかなぁ)、シンジの快挙にも「やったぜ」とはならず。

あと、戦闘場面で、三百六十五歩のマーチ、今日の日はさようなら、翼をください、って、ちょっとない発想だよね。曲をリアルタイムで体験してきた身にとっては恥ずかしいだけなんだもの。って、もうこのへんでやめとくわ。あ、でも人類補完計画は? ヱヴァの仮設5号機って? パイロットなしのダミーシステム? ?が沢山過ぎで、未だ不明なり。

  

2009年 108分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

総監督・企画・原案・脚本:庵野秀明 監督:摩砂雪、鶴巻和哉 キャラクターデザイン:貞本義行 メカニックデザイン:山下いくと 作画監督:鈴木俊二、本田雄、松原秀典、奥田淳 原画:橋本敬史、西尾鉄也、小西賢一、山下明彦、平松禎史、林明美、平田智浩、向田隆、田中達也、高倉武史、朝来昭子、奥村幸子、押山清高、室井康雄、板垣敦、合田浩章、柿田英樹、飯田史雄、桑名郁朗、羽田浩二、松田宗一郎、コヤマシゲト、川良太、上村雅春、すしお、錦織敦史、吉成曜、高村和宏、今石洋之、前田明寿、寺岡巌、高田晃、田村篤、鈴木麻紀子、横田匡史、長谷川ひとみ、鎌田晋平、北田勝彦、黄瀬和哉、前田真宏、庵野秀明、鶴巻和哉、摩砂雪、小松田大全、中山勝一、増尾昭一、鈴木俊二、松原秀典、奥田淳、本田雄 第二原画:松尾祐輔、竹内奈津子、矢吹佳陽子、吉田芙美子、西垣庄子、益山亮司、関谷真実子、茶山隆介、矢口弘子、ジョニー・K、柏崎健太、小磯沙矢香、城紀史、阿部ルミ、平松岳史、岡穣次、井下信重、立口徳孝、松本恵、久保茉莉子、大原真琴、杉浦涼子、竹上充知子、大薮恭平、何愛明、斎藤梢、小野和美、大洞彰子、諏訪真弘、鶴窪久子 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康イメージボード:樋口真嗣、前田真宏 デザインワークス:高倉武史、渡部隆、佐藤道明、鬼頭莫宏、あさりよしとお、本田雄、増尾昭一、小松田大全、小林浩康、松原秀典、鈴木俊二、奥田淳、鶴巻和哉、コヤマシゲト、庵野秀明、吉浦康裕、きお誠児、浅井真紀、okama、前田真宏 作画監督補佐:錦織敦史、奥村幸子、貞本義行 色彩設計:菊地和子 動画検査:寺田久美子、犬塚政彦 特技監督:増尾昭一 副監督:中山勝一、小松田大全 デジタル演出:鈴木清祟 画コンテ:鶴巻和哉、樋口真嗣、橘正紀、佐藤順一、山本沙代、増井壮一、錦織敦史、合田浩章、小松田大全、中山勝一、摩砂雪、庵野秀明

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、林原めぐみ(綾波レイ)、宮村優子(式波・アスカ・ラングレー)、坂本真綾(真希波・マリ・イラストリアス)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、山寺宏一(加持リョウジ)、石田彰(渚カヲル)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、優希比呂(日向マコト)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、麦人(キール・ローレンツ)

ウィッチマウンテン 地図から消された山

新宿武蔵野館3 ★★

■信じているのはオヤジだが、実は子供向き映画

『星の国から来た仲間』(1975)のリメイク(注1)だが、それは今調べてわかったことで、情報をほとんど仕入れずに映画を観ているため、ディズニーのマークが出てきて、あれ、もしかして子供が主役?となって、はじめて子供向け映画だったことを知る。けど、それにしちゃ、そんな売り方をしてたっけな? 観客だって大人ばかりだし……なのだった。

タクシー運転手のジャック・ブルーノ(彼が主役かなぁ)は、乗せたつもりのない(気がついたら乗っていた)兄妹に、お金は払うからと荒野のど真ん中(の廃屋)まで連れて行ってくれるよう頼まれる。実は、というかすぐ正体は明かされてしまうのだが、セスとサラは宇宙人なのだった。

セスは分子密度を変えて物体をすり抜けられるし、逆に車にぶつかってその車を粉々にしてしまう。サラは念力で、ジャックの代わりに車を操ったりもするし、一番近くの人間の心が読め、動物とも話ができるのだ。もっともこれらは禁じ手に近いから、最初からこんなのを見せられるとげんなりで、宇宙人であることの証明はもっと違うことでしてくれりゃいいのに、と思ってしまう。

話の方もいきなりカーチェイスになるなど、テンポを優先しているから展開は大雑把。三人を追うのが、政府の特殊機関に宇宙人の暗殺者、そしてマフィアまで出てきてだからややこしい。UFOや宇宙人の存在を知られたくない政府は、とにかくセスとサラを確保しようとするし、暗殺者はセスとサラを追って地球にやって来て二人の行動を邪魔しようとする。マフィアの妨害はおまけみたいなものだが(ジャックはその世界から足を洗って運ちゃんになってたのね)、じゃまくさいことにはかわりがない。

追跡者は入り乱れているが、話はわかりやすい(単純というべきか。言葉で説明しただけのものだし)。高度な文明をもつセスとサラの星(地球とは三千光年離れているがワームホールを利用してやってきたという)だが、ひどい大気汚染で死にかけていた。地球の気候に目をつけ科学的な再生をはかろうとしているのたが、軍がてっとりばやい侵略を主張していて(文明は高度でも似たような問題をかかえているわけだ)、セスとサラが実験結果を持ち帰らないととんでもないことになってしまう、のだと。

何の実験なのか(汚染撤去のヒントなんだろうが? 最初に行った廃屋の秘密の地下に巨大な植物が育っていたから、実験は成功したってことなのか?)、何故子供のセスとサラ(見た目じゃわからないが、両親が、と言っていた)を寄越したのかは聞き漏らしてしまったのだけど(言ってた?)。

話としてはそれだけなんだが、派手なアクション場面はいくつも散りばめてあるし、円盤や基地なども丁寧に作られているからSFファンなら楽しめる。

が、やはり展開は単純すぎだろう。UFOの存在を主張しても信じてもらえないフリードマン博士(注2)などを話に強引に巻き込んではいるが、原題通り一直線に宇宙船の隠し場所であるウィッチマウンテンをめざしちゃうんだもの。

それにしても、これはやはり子供向け映画として宣伝すべきではないか。アクション映画の要素は多いが暴力に繋がるイメージはなく、だから死体がゴロゴロということもない。そこらへんの配慮はディズニーなんで行き届いているから、夏休み映画にはぴったりなのにねぇ。でも今時の子供はこの程度の話じゃ納得しないのかもね(私が小学生なら大喜びしてたはずだ)。

子供映画としての配慮があると書いたが、ロボットのような敵の暗殺者がヘルメットを取った時には、おぞましい頭部が見えてぞっとした。一瞬だからよかったものの……ってことは、セスもサラも同じような形状なんだよね(ええっ!?)。それとか、セスとサラが捕まったら解剖される、なんていうけっこう気味の悪い発言もあった。もちろん子供映画だからって、綺麗事だけで作れるなどとは思っちゃいないが。

考えてみるとジャックなんて、基本的には最初から二人を信じて行動していたからねぇ。どちらかというとセスの方が、人間を信じていいのかどうか再三迷っていたけれど、これはセスの方が正しいだろう。人間の少年少女に化けたのも正解。お人好しのジャックでも化け物だったら信じなかったろうから。

注1:オフィシャル・サイトにいくと、オリジナル版で兄妹を演じたアイク・アイゼンマンとキム・リチャーズとに、保安官とウェイトレスの役をあてたらしい(英語なんで違ってたらごめん)。これが日本語のサイトにないのは(ざっと見ただけだが)、二人が日本では知名度がないからなんだろうけど、でも教えて欲しいよね(プログラムには書いてあるのかも)。昔の映画の方が兄妹が幼いのは、実年齢にあった層を狙ってのことで、当時はこういう作りの映画が今よりずっと多かったと記憶する。

注2:ラスベガスのSFオタクの集まりで自説を熱く語るのだけど、オタクたち、というよりUFOを見たとか乗ったとか言ってるだけの人たちは、博士の話などロクに聞いちゃいなくて、結局、UFO隠しにやっきになっている政府もいけないが、UFOがいると言っている人たちもほとんどがインチキなのだと、フォローしてたような。

原題:Race to Witch Mountain

2009年 98分 シネスコサイズ 配給:ディズニー 日本語字幕:林完治

監督:アンディ・フィックマン 製作:アンドリュー・ガン 製作総指揮:マリオ・イスコヴィッチ、アン・マリー・サンダーリン 原作:アレグサンダー・ケイ 原案:マット・ロペス 脚本:マット・ロペス、マーク・ボンバック 撮影:グレッグ・ガーディナー プロダクションデザイン:デヴィッド・J・ボンバ 衣装デザイン:ジュヌヴィエーヴ・ティレル 編集:デヴィッド・レニー 音楽:トレヴァー・ラビン 音楽監修:リサ・ブラウン

出演: ドウェイン・ジョンソン(ジャック・ブルーノ)、アンナソフィア・ロブ(サラ)、アレクサンダー・ルドウィグ(セス)、カーラ・グギーノ(アレックス・フリードマン博士)、キアラン・ハインズ(ヘンリー・パーク)、トム・エヴェレット・スコット(マシスン)、クリストファー・マークエット(ポープ)、ゲイリー・マーシャル(ドナルド・ハーラン博士)、ビリー・ブラウン、キム・リチャーズ、アイク・アイゼンマン、トム・ウッドラフ・Jr

愛を読むひと

109シネマズ木場シアター4 ★★★★☆

■娘に聞かせる自分の物語

原作を読んだのは五年くらい前だったと思うが、例によって細部はすっかり忘れていて(恨めしい記憶力! しかもその文庫本もどこへ行ったのやら)、でもそれだからマイケルがハンナに出会うところから全部を、まるで自分の回想のように、ああそうだった、と確かめるような感じで観ることができた(すべてが原作と一緒というのではないのだろうが、曖昧な記憶力がちょうどいい作用をしてくれたようだ)。

これはちょっとうれしい経験だった。なにしろ前半は甘美で、舞い上がりながらも年上のハンナに身を任せていればいいのだから……。そうして、その先に起きることも知っているのに、映画にひき込まれていたのだった。

それにしてもハンナは何故自殺してしまったのか。無期懲役の判決で希望はなくても生きていたというのに。坊やからのカセットで、罪と引き換えにしてまでも隠そうとした文盲であることの恥からも解放されていたというのに。坊やの態度があまりにも他人行儀だったからか。生まれた希望が消えそうになった時、人は死を選ぶのだろう。

映画はマイケルの回想でもあるから現代ともリンクしていて、だからそこにはマイケルの主観が強く反映されているはずなのに、心理的な説明には意外と無頓着でさえある。けれど、そのことによって、マイケルの、そしてハンナの気持ちも探らずにはいられなくなるのである。

十五歳の時に二十一歳年上の女を愛せたマイケルは、七十三歳のハンナには惹かれることのない五十二歳になっていたのか。皮肉なことにケイト・ウィンスレットは私の目には三十六歳の時よりも七十三歳のメイクの時の方が美しく見えたのだが……(まあ、これは本当の年齢を知ってるからかもしれないが)。

それはともかく、マイケルのハンナに対する感情はそんな簡単なものではなかったのだろう。マイケルは、ハンナが着せられた罪が真っ当でないことは知っていたが、しかし、彼の学友がハンナを糾弾したように(注1)、程度の差こそあれナチスに加担したハンナを、いくら時間が経過したとしても、喜んで受け入れられはしなかったのではないか(注2)。

話がそれたが、問題はハンナがマイケルの心象についてどこまで考えていたかだが、もしかしたら、そんなにも問題視していなかったような気もする。

罪は法的な意味合いしかないにしても償ったわけだし、少なくともハンナはハンナに罪をなすりつけた元同僚たちのような、相手を貶めるような嘘はついていない(文盲についての嘘はついたが)。また、例えばマイケルの前から姿を消してしまったのも、市電の勤務状態がよく、昇進してしまっては文盲などすぐバレてしまうからなのだが、経歴詐称をしていたことなどは考えられないだろうか。これは考えすぎにしても、ドイツが戦争に対する反省を繰り返して来たことからも、ハンナが普通の人間であれば、罪の意識は十分あったはずである(だからといって、過去の行為を深く反省していたかどうかはまた別の問題ではあるが)。

けれど、ハンナの自殺は、そんなことではなくて、マイケルの手に重ねた自分の老いた手を引っこめなければならなかったことにあったような気がする。女性看守が「昔はきちんとしていたのに、最近はすっかりかまわなくなってしまって」とマイケルに言っていたが、ハンナの部屋はすべてが整然としていた。ここでの映画の説明は、荷物を片付けなかったのはハンナがここを出て行くつもりがなかったこととしていたが、身辺にかまわなくなったハンナにしては、マイケルによってもたらされた文字という世界を知った喜びを表現したような部屋になっていた(注3)。

私としては、身の回りのことをかまわなくなったハンナが、マイケルの来訪を知って、出来る限りのことをしたのではないかと思いたいのだが……。でもだからこの部屋はハンナにとって、もう悲しみ以外の何物でもなくなっていたのではないか。

もうひとつ。これは本がそうだったかどうかの記憶がないのだが、つまりすっかり忘れてしまったのだが、この物語が、マイケルが娘に語る自分に関する話になっていることで、これだけの話を娘に語れるのであれば、マイケルと娘との関係はそうは心配しなくてもいいのではないだろうか。妻とは別れてしまっていて、その影すらほとんど出てこないのは気がかりではあるが(作品としてはこれでいいにしても)。

しかし作品の中でケイト・ウィンスレットがいかに好演したにしても(デヴィッド・クロスもよかったが、十五歳はきついか)、これはやはりドイツ語によって演じて欲しかった。その弊害がいろいろなところで出てしまっているのだ(注4)。語学に疎い私ではあるが、マイケル・バーグという名のドイツ人といわれてもしっくりこない。やはりミヒャエル・ベルグでなくては(ハンナ・シュミッツは同じなのかしら)。

注1:この裁判は目くらましで、たまたま生き残った囚人が本を書いたからスケープゴートにされたに過ぎないと言っていた。また、この学生は君が見ていたあの女(ハンナ)を撃ち殺したい。出来れば全員を撃ち殺したいとも発言している。

この作品ではナチス狩りの正義が、まるで魔女狩りの如くだったことも描かれていて、これも重要なテーマの一つとなっている。ロール教授の法的見解(問題は悪いことかどうかではなく法に合っているかどうか)もそれを踏まえたものになっている。

注2:だから最初の面会も手続きをすませながら、マイケルは姿を消してしまったのだろう。ただ、これについてはあまり自信がない。単純にかつて愛したハンナの老いに、やはり戸惑ったととるべきか。ただし、ハンナの秘密を守ったのはハンナの意志を尊重したマイケルの愛で、だからこそハンナにカセットテープを送り続けたのだろう。

注3:ハンナが文字を覚えていく過程は、涙が出るくらい素晴らしい感動に溢れていた。

注4:注3で触れた場面だが、ハンナが本の「the」の部分に印を付けていったり、もっと前ではマイケルに朗読をせがむ場面では、ハンナはラテン語やギリシャ語を美しいとまで言うのだ。こんな言葉にこだわったセリフがあるのに、ドイツ語を英語にしてしまう神経がわからない。

 

原題:The Reader

2008年 124分 アメリカ、ドイツ 配給:ショウゲート 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンスプロダクションデザイン:ブリジット・ブロシュ 衣装デザイン:アン・ロス 編集:クレア・シンプソン 音楽:ニコ・ムーリー

出演:ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ)、レイフ・ファインズ(マイケル・バーグ)、デヴィッド・クロス(青年時代のマイケル・バーグ)、レナ・オリン(ローズ・メイザー/イラナの母親、イラナ・メイザー)、アレクサンドラ・マリア・ララ(若き日のイラナ・メイザー)、ブルーノ・ガンツ(ロール教授)、ハンナー・ヘルツシュプルング(ユリア/マイケルの娘)、ズザンネ・ロータ(カーラ/マイケルの母)

インスタント沼

テアトル新宿 ★★★☆

写真1:麻生久美子着用の「沈丁花ハナメの衣装」+「まねきねこ」。写真2:監督、出演者のサイン。写真3:監督からのメッセージ(いずれもテアトル新宿にて)。

■見えない物が見える!

目に見える物しか信じられない沈丁花ハナメだが、担当雑誌が危機になったことで、心霊スポット紹介など、意に染まぬ仕事をさせられることになり、どころか結局雑誌は廃刊(部長は休刊と言っていたが)が決まり、男にもフラれた彼女は出版社を辞めてしまう(編集長?だったのにね)。

そんなジリ貧人生、どころか底なし沼人生真っ只中のハナメが、昔の母の手紙で、聞いていなかった自分の父親の存在を知る。真相を確かめるべく母のところに行くが、彼女は河童を捕まえようとして池に落ち、意識不明のまま入院してしまっていた。現実主義者のハナメに対して母には河童や妖精が見えるのだった(そう言われてもなぁ。ここらへんではまだ全然映画にのれてなかったからね、いい加減にしろよ三木聡、などと言っていた)。

というわけで、父親は一体……という興味がハナメならずとも湧いてくるのだが、「沈丁花ノブロウ」は電球商会なる骨董品屋を営む、「電球」と呼ばれる怪しいオヤジで、そう簡単には正体がわかりそうもない、というかそれは買いかぶりにしても、ハナメに何かをもたらしたのは確かで、そこに出入りするパンクロッカー(姿だけ?)のガス(電気屋なのにね)たちとの奇妙な交流が始まる(電球には自分が娘であるということは隠したままになってしまい、あとで悔いていた)。

くだらない話なんだけど、これが楽しいのだ。「ツタンカーメンの占いマシーン」やテンションを上げるための「水道の蛇口」(をひねる。もったいないので私にはできないのだが、ここではとりあえず水を無駄にはしていなかった。ま、あとで、ホントかどうか大量の土砂に大量の水をまいてたから、やっぱりもったいないんだが)に、何でもない「曲がった釘」とか。

いつしかハナメは骨董品にはまって、骨董品屋の才能があるかも、とこれは電球におだてられて、なけなしの貯金百万円で骨董品屋を開いてしまう。が、そううまくいくはずもなく、でもここで電球の秘法?「水道の蛇口」に力づけられて、黒にこだわった骨董品屋に変えて久々の成功を手にすることが……。

ところが電球は急に店を辞めると言い出し、ハナメには沈丁花家に代々伝わる蔵の鍵を百万円で売りつけてとんずらしてしまう。蔵から出てきたのは大量の土砂で、けど、ハナメのどういう思考回路がそう結論づけたのか、あの土砂はインスタント沼で、水を注げば沼になるのだ、って。はぁ? いやもう、すっかり目に見えない物が見える思考回路になっちゃってるじゃないのよ。

まあこのあたりごり押しもいいところなんだけど、でもガスが最後までハナメに付き合ってくれて(ぶーたれてたが)、案外親切なヤツだってことがわかったり、で、びっくり仰天の龍まで出てきちゃってさぁ……。うん、見えない物が見えない私も見たよ、龍(当たり前か。映画館で寝なかった人は全員見られます!)。寝たっきりだった母親も「龍に助けてもらった」と、目を覚ます。なんだよ、やっぱり死んだフリだったのかよ(って、違うか)。

まあ、そんないい加減でそんなにうまくいくものか、とは思うのだが(龍の件は別にしても)、馬鹿馬鹿しい展開の先の、この幸福感は捨てがたいものがある。「しょうもない日常を洗い流すのだぁ」というハナメの宣言は、私のような変人向きへのエールにもなってくれているのだった。

フラれた男を違う角度(頭上)から見ると、彼の頭は禿げていて(「あっ、河童だ!」)、つまりハナメは、しっかり見えなかったものも見えるようになっていた(ってたまたま上から見下ろすところにいただけなんだが)というオチが愉快だ。

  

2009年 120分 ビスタサイズ 配給:アンプラグド、角川映画

監督・脚本:三木聡 撮影:木村信也 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 主題歌:YUKI『ミス・イエスタデイ』 コスチュームデザイン:勝俣淳子、山瀬公子(ハナメ・コスチュームデザイン) 照明:金子康博 録音:小宮元 助監督:中里洋一

出演:麻生久美子(沈丁花ハナメ)、風間杜夫(電球、沈丁花ノブロウ/ハナメの父)、加瀬亮(ガス)、松坂慶子(沈丁花翠/ハナメの母)、相田翔子(飯山和歌子)、笹野高史(西大立目/出版社部長)、ふせえり(市ノ瀬千)、白石美帆(立花まどか)、松岡俊介(雨夜風太)、温水洋一(サラリーマン)、宮藤官九郎(椹木/刑事)、渡辺哲(隈部/刑事)、村松利史(東/リサイクル業者)、松重豊(川端/リサイクル業者)、森下能幸(大谷/リサイクル業者)、岩松了(亀坂/泰安貿易社長)

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

新宿武蔵野館1 ★★☆

■シタオ=イエス?

私立探偵のクラインは、大企業を裸一貫で育てたという男から息子の捜索依頼を受ける。息子の名はシタオ(木村拓哉が演じていることもあり、日本人と思ってしまうが、シタオというのがねぇ? 妙な名前を考えたものである)。シタオはミンダナオにいると言われたクラインはロサンゼルスから現地へ向かうが、すでにシタオは殺されたという。

どうやらシタオは貧しい人たちを救済しようとしていて、寄付を頼んでまわっていたらしい。寄付を断ると何時間も説得し続け、うるさく感じた者によって殺されてしまったようだ。で、このあとは香港へ舞台が移るのだが、この説明はあやふやだ。「状況は死亡を示しているが、俺の勘は、生きている」って言われてもなぁ(香港の母の墓に花があったという情報はあった)。まあ、捜索費用をふんだんにもらっているんで、香港にまで足を伸ばすくらいは屁でもなかったのだろうが。

このクラインは元刑事で、実は二年前に連続猟奇殺人犯を殺してしまい、そのことが深い傷となっていた。この場面は繰り返されるだけでなく、香港で再会した刑事時代の仲間であるメン・ジーにも、クライン自身が退職理由として語っている(精神科に入院していたとも言っていた)。犯人は二十四人も殺した彫刻家(目がなく口が異様に大きく開いた彫刻のおぞましさを見よ!)で、被害者が生きているうちに切断したのだという。そして、二十七ヵ月犯人を追っていたクラインは「ヤツに同化」してしまう。そのことを「汚染」と形容していたが、しかしこれはあくまでクラインの告白であって、内容に比べるとあっさりしすぎている嫌いがある。

クラインが犯人にどう同化したのかがわかりにくいのだ。そこを明確にし、この話だけに絞った作品にしたら面白いものになったと思うのだが、映画は場面こそ執拗に繰り返すものの、これを挿話のひとつにしてしまっている。実は冒頭の衝撃的な場面がまさにクラインが犯人を追い詰めたところなのだが、ここでの眼目も「イエスの苦悶は終末まで続く」と言わせることにあるようなのだ(つまりそういう物語なのだ、と)。

映画は更にもう一人の人物を登場させる。香港マフィアのボス、ス・ドンポで、彼は姿を消した愛人のリリが、シタオと一緒にいるらしいことを知る。ドンポは卑劣で冷酷極まりない男だ。残忍さも連続猟奇殺人犯に負けていない。それでいてリリには異常な執着をみせるが、このことがリリを薬物中毒から救ったシタオへの憎悪となり、彼を殺してしまう。いや、それはリリがシタオを介抱したからか(むろん、これはリリが快復したあとのこと。シタオもリリによって癒されるのだ)。あるいは、シタオを「世界一美しい」と言ったことへの嫉妬か。または、シタオに「あなたのような人が僕を恐れる」と言われたからだろうか。

シタオについては、ミンダナオではそう明らかにされなかったが、香港に場面が移った直後に、血だらけの子供を、シタオは特殊な力で救っている。他人の痛み(傷)を、自分で引き受けるかのようにして。なるほど彼にはそんな力があったのだ。ドンポに手を打ち付けられるのはまるでイエス・キリストで、これはドンポの悪趣味がそうさせたのかも知れないが、さすがに「あなたを赦す。愚かさの故に」とシタオに言われてしまっては、「地獄を見てきた」ドンポも涙を流さずにはいられない。

この場面の直前には、またクラインと連続猟奇殺人犯の場面があって、「至高の肉体の完成には人類の苦痛が必要」だとか「キリストの受難の完成」「ついに苦悶が成就する」などという言葉がばらまかれているから、どうしてもイエスに関連付けたいのだろう。だが、シタオはイエスなのだろうか(イエスのようだがイエスではない男を語りたいがためにしていることともいえるが、本当のことは私にはわからない)。

シタオは確かに他人の痛みを取り除く奇蹟は見せるが、他の力は明らかにはされていない。いや、復活はしているか。しかも何度も。そしてもしかしたら、香港に来たのはミンダナオからの移動復活だった可能性もある。だが、シタオは、寄付を要求したが、説教はしていないようだ。積極的に神の国を説こうとはしていないのだ。すでにイエスによって行われたことを、神がまたするとは思えないので、この比較は意味がないのだが。

最期は、クラインがシタオのところにやってきて、連れ帰るよう父親に依頼されたことを告げ、シタオの手から釘を外し、お終いとなる。この時シタオは金粉で飾られているのだが、これはシタオの信者らしき青年がしたもので、彼に言わせると主(シタオのことか?)ならば、どこにでも行ける(つまり自由に動けるということなのか?)かららしい。

ここから先は、無神論者の妄想なので、読まない方がいいかもしれない。

シタオ(シタオは下男、つまり神に遣わされた下界の人間なのだ)が何度も復活するのは、愚かな人間が過ちを繰り返すからで、案外イエスが復活を繰り返した結果が、今のシタオなのかもしれない。だから彼はイエスと呼ばれなくても、イエスと同じなのだ。神の国を説かず、幾重にも小ぶりになってしまったイエスだが、神はもう人間には、そんな人物(というか神の子だが)を遣わすしかなく、そして、シタオの父=神は、結局はシタオを回収することにしたのだ。クラインという連続猟奇殺人犯に同化した人間を使者に仕立てて……。

クラインを使者にしたのがグロテスク過ぎるような気もするが、人間はもう神に見放されてしまったのだ。I Come with the Lain なら、いつでも彼はやって来そうだが、回収されてしまった今となっては、彼はもう来ないのである。まあ、私には神はいないので、この妄想は根本的に間違ったものなのだが……。

原題:I Come with the Lain

2009年 114分 フランス シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:トラン・アン・ユン 製作:フェルナンド・サリシン、ジャン・カゼ、ジョン・キリク 製作総指揮:サイモン・フォーセット、アルバロ・ロンゴリア、ジュリー・ルブロキー 撮影:ファン・ルイス・アンチア プロダクションデザイン:ブノワ・バルー 衣装デザイン:ジュディ・シュルーズベリー 編集:マリオ・バティステル 音楽:レディオヘッド、グスターボ・サンタオラヤ

出演:ジョシュ・ハートネット(クライン/私立探偵)、イライアス・コティーズ(ハスフォード/連続殺人犯)、イ・ビョンホン(ス・ドンポ/香港マフィアのボス)、木村拓哉(シタオ/失踪者)、トラン・ヌー・イェン・ケー(リリ/ドンポの愛人)、ショーン・ユー[余文樂](メン・ジー/クラインの刑事時代の仲間)、ユウセビオ・ポンセラ

ウォーロード 男たちの誓い

新宿ミラノ3 ★★☆

■投名状の誓いの重さ

『レッドクリフ』二部作の物量攻勢の前では影が薄くなってしまうが、こちらもジェット・リー、アンディ・ラウ、金城武の共演する歴史アクション大作である。アクション映画としての醍醐味はもちろんだが(物量ではさすがにかなわないが、リアルさではこちらが上だ)、戦いの本質や指導者の力量といったことにまで踏み込んだ力作になっている。

時は十九世紀末、外圧によって大国清の威信は大いにぐらつき、足元からも太平天国の乱などが相次いで起きていた。

友軍の助けを得られず、千六百人の部下を失った清軍のパン将軍は、ある女に介抱され一夜を共にしたことで、再び生きていることを実感する。そしてウーヤンという盗賊に見いだされ、アルフ率いる盗賊団の仲間となり、三人は投名状という誓いの儀式(これも『三国志』の桃園の誓いと似たようなものだものね)を交わし義兄弟となる。また、アルフに会ったことでパンは、あの時の女リィエンがアルフの妻だったことも知るのだった。

アルフは盗賊団となった村人たちからの信望が厚く、統率力もあるのだが、所詮やっていることは盗賊行為のため、クイの軍隊(清)がやってきてそのことを咎められ、逆に食料を持ち去られてしまう。軍に入れば俸禄がもらえるのだから、盗賊行為はやめようというパンの助言で清軍に加わることになり(三人が投名状の誓いをするのはこの時)、手土産に太平軍を襲うことを決める。

結束した三人は次々と戦果をもたらし、パンを将軍とした彼らの力は清の三大臣も認めるところとなる。そして、ハイライトともいうべき蘇州城攻めになるのだが、ここには終戦を望まない三大臣や、どこまでも状況を見てからでないと動かないクイ軍らの思惑がからんだものになっていて、いってみればアルフのような盗賊の首領としてなら通用するような世界ではないところに、三人は来てしまっていたのだった(でありながら、開城はアルフの力によるという皮肉な流れとなっている)。

この戦いはお互いが共倒れになりそうな壮絶なものとなり、結果は投降兵の殺害という、アルフが蘇州城主を騙したようなことになってしまう(パンにとっては四千人の捕虜を養う食料がないという、当然の理由になるのだが)。このことがあって、信義を重んじるアルフと、大義のためなら手段を選ばないパン、という亀裂となっていく。ウーヤンはパンの野望の中にも希望を見ていて、だからパンの正しさを何度も口にするのだったが、パンとリィエンの密会現場を目の当たりにしたことで、リィエンを殺してしまう。

実はここにもクイたちの陰謀があって、アルフは闇討ちにあってしまうのだが、それをパンの仕業と思ったウーヤンは、南京攻略の功績により西太后から江南と江北両江の総督に任命されたパン(これはウーヤンも望んでいたことだったのに)までを殺してしまうことになる。

投名状の誓いをした三人の、それぞれの考え方の違いを鮮明にした図式的構成は申し分ないのだが、ウーヤンの行動がそれをぶち壊している。リィエン殺害も、アルフがパンに殺されないようにと思ってのことなのだが、そしてそれには投名状という絶対守られねばならないものがあるにしても、ウーヤンの行動はそうすんなりとは理解出来ない。ナレーションをウーヤン当人にしているにしては、手際の悪いものだ。

理解しづらいのはリィエンもで、冒頭のパン介護はすでにアルフの妻なのだから(パンは知らなかったこととこの時点では弁解もできようが)ずいぶんな感じがして、観ている間中、ずっと気になっていた。が、リィエンについては、ウーヤンに殺害されると知って、「来年は二十九」で「私を殺すと夫を救えるの」か、と彼に子供っぽい抗いの言葉を口にしている場面があり、これで、それこそ何となくではあるが、彼女の心情がわかるような気になってしまったのだった。

両江総督の馬新貽の暗殺事件(千八百七十年四月十八日)が基になっているとサイトにある。手元の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(中央公論社)をあたってみたが、この程度の概略世界史では簡単な記述にもならないようだ。けれど、この時期の列強と清の関係、また太平天国の乱など、どれも驚くような興味深い話ばかりで、もちろん、この映画で敵になる太平天国側についてほとんど何も触れていないのは、時間的制約からも正しい選択なのだが、もっともっと映画にされていい題材(時代)だろう。

もう当たり前になってしまった日本語版エンディングテーマ曲だけど、いい加減やめてほしいよね。

原題:投名状 英題:The Warlords

2008年 113分 中国、香港 シネスコサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:税田呑介

監督:ピーター・チャン 共同監督:イップ・ワイマン アクション監督:チン・シウトン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 脚本:スー・ラン、チュン・ティンナム、オーブリー・ラム 撮影:アーサー・ウォン プロダクションデザイン:イー・チュンマン 衣装:イー・チュンマン 音楽:ピーター・カム、チャン・クォンウィン

出演:ジェット・リー(パン・チンユン)、アンディ・ラウ(ツァオ・アルフ)、金城武(チャン・ウーヤン)、シュー・ジンレイ(リィエン)、グオ・シャオドン(蘇州城主ホアン)

ある公爵夫人の生涯

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■世継ぎが出来りゃいいのか

いやはや、途中で何度もため息をついてしまったがな。だって、世継ぎを産む道具だった女の半生、でしょう。こういうのだって一種のトンデモ映画だよね。まあ、映画じゃなくて時代(十八世紀後半の英国)がそうだったのだろうけど。

多分スペンサー家に更なる名声が欲しかった母親の引導のもと、デヴォンジャー公爵に嫁がされたジョージアナだが、男の子(世継ぎ)さえ産んでくれればいいと思っている公爵の願いは叶えられず、産まれてきたのは二人とも女の子だった(男の子は二度流産してしまう)。

ジョージアナが嫁いだときにはすでに公爵には隠し子のシャーロット(家政婦の子のようだ)がいて、お腹の大きい時に「練習にもなるから」(うはは)と、その子の世話も押しつけられてしまう。けれど、シャーロットを我が子として可愛がっても、彼女や産まれてきた子供たち、そしてジョージアナに公爵が関心を寄せることはなかった。

「犬以外には無関心」とジョージアナは言っていたが、むろんそんなことはなく、あろうことか(じゃなくて家政婦に手当たり次第手をつけていたのと同じ感覚で)親友になったエリザベス・フォスターとも寝てしまう。映画だと公爵は政治にも興味がなさそうにしていたから、犬と女、だけらしい。

そして、ことが発覚しても三人の同居生活を崩そうとはしないのだ。ジョージアナとは性的に合わなかったのだろう。だから世継ぎが産まれても結局二人の関係は修復しない(注)。それならば(かどうか)と、自分もかつて心をときめかせたことのあるチャールズ・グレイ(ケンブリッジを出て議員になっていた)と密会し、こちらもエスカレートしていくのだから世話はない(物語としては、彼との間に娘ができたり、子供を取るか愛人を取るかのような話にもなる)。

よくわからないのは、私生児を世継ぎには出来ないと公爵が言っていることで、これは世間体とかではなく公爵自身がそう思っているようなのだ。妻の不倫も、もしや男の子でも宿ってしまったら、と思っての怒り爆発なのだろうか。好きとか嫌いではなく、血統がよければ、だから本当に女は子供を産む道具と考えていたのだろうが(ということはやはり当時の常識=世間体なのか)、映画がジョージアナ目線で描かれているため、公爵の真意は現代人には謎である(当時の人には、ジョージアナの考え方の方が謎だったかも)。

とにかく呆れるような話ばかりなのだが、私も人の子、スキャンダルには耳を欹ててしまうのだな(だからってジョージアナがダイアナ妃の直系の祖先みたいな売りは関心しないし、それには興味もないが。そして映画でもそんなことには触れていない)。で、まあ退屈することはなかったのだけど。

当時の公爵は、その夫人も含めて、庶民にとっては現在のスター並なのが興味深い。ジョージアナは社交的で、政治の場にも顔を出す(利用されたという面もありそうだ)し、ふるまいやファッションも取り沙汰される。たしかにあんな広大な邸宅に住んでいたら、情報や娯楽が少ない時代だから、それだけでスターになってしまうのだろう。母親がジョージアナより公爵の意見を優先するのもむべなるかな、なのだった。

ところでジョージアナの相手のグレイは彼女の幼なじみみたいなものなのだが、最後の説明で、後に首相になったそうな。うーむ。むろんスキャンダラスな部分と政治的手腕とは別物だし、とやかく言うようなことではないんだが……。

注:男の子は、公爵のレイプまがいの行為の末に授かる。産まれると小切手がジョージアナに渡されるのには驚くが、これを見ても本当に結婚は単に男子を産むという契約にすぎなかったんだ、と妙なところで感心してしまった。

原題:The Duchess

2008年 110分 イギリス、フランス、イタリア シネスコサイズ 配給:パラマウント・ ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:古田由紀子

監督:ソウル・ディブ 製作:ガブリエル・ターナ、マイケル・クーン 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、クリスティーン・ランガン、デヴィッド・M・トンプソン、キャロリン・マークス=ブラックウッド、アマンダ・フォアマン 原作:アマンダ・フォアマン『Gergiana:Duchess of Devonshire』 脚本:ソウル・ディブ、ジェフリー・ハッチャー、アナス・トーマス・イェンセン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:マイケル・カーリン 衣装デザイン:マイケル・オコナー 編集:マサヒロ・ヒラクボ 音楽:レイチェル・ポートマン

出演:キーラ・ナイトレイ(ジョージアナ)、レイフ・ファインズ(デヴォンジャー公爵)、ドミニク・クーパー(チャールズ・グレイ/野党ホイッグ党政治家、ジョージアナの恋人)、ヘイリー・アトウェル(レディ・エリザベス・フォスター/ジョージアナの親友、公爵の愛人)、シャーロット・ランプリング(レディ・スペンサー/ジョージアナの母)、サイモン・マクバーニー(チャールズ・ジェームズ・フォックス/野党ホイッグ党党首)、エイダン・マクアードル(リチャード・シェリダン)、ジョン・シュラプネル、アリスター・ペトリ、パトリック・ゴッドフリー、マイケル・メドウィン、ジャスティン・エドワーズ、リチャード・マッケーブ

おっぱいバレー

109シネマズ木場シアター4 ★★☆
109シネマズ木場ではこんなもん売ってました

■実は実話

頑張ってみたら何とかなるかもよ映画のひとつ。味付けは新任美人教師のおっぱい。って、えー!なんだけど、男子バレー部員たち(たって5人+あとから1人)のあまりのやる気のなさに、つい「本気で頑張るなら何でもする」と美香子先生が言ったことから、次の大会で一勝したら先生のおっぱいを見せると約束させられてしまったのだった。

ぬぁんと映画は、ほぼこの話だけで最後まで引っぱっている。なのでこの顛末は、さすがにうまくまとめてある(注1)。美香子がなんとか約束を反故にさせようとしたり、でも部員たちは「おっぱいあっての俺たち」だと取り合わないし、「おっぱいを見ることが美香子への恩返し」なんていう結論まで導き出して俄然やる気をおこし、メキメキ上達していく。で最後には美香子までが「私のおっぱいを見るために頑張りなさい」って。うへー。これは亡くなった恩師の家を訪問して、恩師の妻の昔話で気づかされたことや、おっぱいの件が問題になって学校を辞めざるをえなくなっての発言なのだけど。

でも結局、当然美香子のおっぱいは見られない。不戦勝という願ってもない事態には「すっきりした形で見たい」からと辞退してしまうし、美香子の応援で盛り返した試合も、本気になった強豪校が一軍にメンバーチェンジしてしまっては歯が立つはずもなく、なのだった。そりゃそうだ。そして、おっぱいは見られないからというのではないのだが、映画もそんなには面白くなかった。生徒の方はおっぱいは見られなくても、先生の胸に飛び込むことができて、別の満足を得たのだったが(胸に飛び込む練習もしていたというのが可笑しい)。

ひとつには映画の視点が生徒ではなく先生の方にあったことがある。もちろんそれでもかまわないのだが、でも美香子を中心にするなら、何の経験も関係もないバレー部に、いくら顧問にさせられたからといって、何故そこまでのめり込んだのかという前提部分はしっかり描いてほしいのだ。普通に考えれば顧問より授業に対する比率が多くなって当然なのに、そこらへんは割り切ってしまったのだろうが、だったらそれなりの説明はすべきだろう。

前の学校での美香子の嘘発言が生徒の信頼を裏切ってしまい、そのことがおっぱいを見せるという言質を取られることになるわけだが、これももう少し何か別の要因がないと、美香子は学校の先生としては未熟すぎるだけになってしまう。だいたい最初の新任挨拶で、高村光太郎の『道程』が好きと言って騒然となる朝礼場面からして、国語教師にしては言葉のセンスがなさすぎで(挨拶でなくとっさに出てしまったのならともかく)、頼りないったらありゃしないのだけど(注2)。

あとはやはりバレーをやっている場面がもの足りない。練習風景も試合も、もっと沢山見せてくれなくっちゃ。それもヘタクソなやつでなくうまい方のもね。

中学生のおっぱい見たい発言というのも、どうなんだろ。頭の中はそうにしても、口に出せただろうか。これは世代や時代(舞台は一九七九年の北九州)の差かもしれないので何とも言えないのだが、私のようなじじいなりかけ世代にはとても考えられない状況だ。

綾瀬はるかは、サイボーグに座頭市と、人間離れした役はうまくこなしていたと思うのだが、『ハッピーフライト』とこれはちょっと評価が難しい。

ところで映画のチケットを買うのに「おっぱい」という言葉をいうのが恥ずかしい人にと、「OPV」という略称が用意されていたが、恥ずかしいと思っているのがわかっちゃう方が恥ずかしかったりはしないのかしら。私はちゃんと言いましたよ、もう昔の中学生じゃないんで。題名を言わなきゃいけないのはシネコンだからだよね。ピンク映画のシネコンがあったとして(ないか)、どうしても観たいのがあったら、そりゃ恥ずかしいでしょうね。

注1:アイデアがひらめいた後、無理矢理話を考えていったのだろうと思っていたが、原作の『おっぱいバレー』は、著者である水野宗徳が実話を基に書いた小説のようだ。

注2:この場面を嘘っぽく感じたものだから、デッチ上げ話と思ってしまったのだった(って、この場面が原作にあるかどうかは知らないのだが)。

  

2008年 102分 シネスコサイズ 配給:ワーナー=東映

監督:羽住英一郎 製作:堀越徹、千葉龍平、阿部秀司、上木則安、遠藤茂行、堀義貴、西垣慎一郎、平井文宏 プロデューサー:藤村直人、明石直弓 プロデュース:堀部徹 エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、堀健一郎 COエグゼクティブプロデューサー:菅沼直樹 原作:水野宗徳『おっぱいバレー』 脚本:岡田惠和 撮影:西村博光 美術:北谷岳之 音楽:佐藤直紀 主題歌:Caocao『個人授業』 照明:三善章誉 録音:柳屋文彦

出演:綾瀬はるか(寺嶋美香子)、青木崇高(堀内健次/教師)、仲村トオル(城和樹/良樹の父)、石田卓也(バレー部先輩)、大後寿々花(中学時代の美香子)、福士誠治(美香子の元カレ)、光石研(教頭)、田口浩正(竜王中男子バレー部コーチ)、市毛良枝(美香子の恩師の妻)、木村遼希(平田育夫)、高橋賢人(楠木靖男)、橘義尋(城良樹)、本庄正季(杉浦健吾)、恵隆一郎(江口拓)、吉原拓弥(岩崎耕平)

ウォッチメン

新宿ミラノ ★★★★

■スーパーヒーローがいたら……って、いねーよ

ぶっ飛びすぎのトンデモ映画のくせして(だから?)ムズカシイっていうのもなぁ(わかりにくいだけ?)。なんだけど、これだけ仰天場面を続出されては、はい降参、なのだった。ま、トンデモ映画好き以外には勧められないが。

できるだけ予備知識は持たずに映画と対面するようにしている私だが、今回は概略だけでも頭に入れておけばよかったと後悔した。殺人事件の謎解き話で始まるのに、背景説明が多く、物語が進まなくてくたびれてしまったからだ。だからってゆったりというのではなく、二時間四十三分をテンポよくすっ飛ばして行くのだけれど、これでは息つく暇がない。

というわけで、詳しく書く自信はないので、気になったいくつかをメモ程度に残しておく(機会があればもう一度観るか、原作を読んでみたいと思っている)。

スーパーヒーローがいたら世界はどうなっていたか、じゃなくて、こうなっていたというアメリカ現代史が語られるのだが、そのスーパーヒーローがヒーローらしからぬ者共で、そう、彼(彼女)らは複数でチームまで組んで活躍していたらしい(アメコミヒーローの寄せ集め的設定なのか)。私にはこの設定からして受け入れがたいのだけど、まいいか。

彼らの行動原理は正義の御旗の元に、というより悪人をこらしめることに喜びを感じる三文自警団程度のもので、制裁好きがただ集まっただけのようにもみえるし、どころか、コメディアンが自分が手をつけたベトナム女性を撃ち殺してしまうという話まであるくらいなのだ。そんなだから市民の方も嫌気がさして、ヒーロー禁止条約なるものまで出来てしまう。

Dr.マンハッタンだけは放射能の影響で神の如き力を得(だから厳密にスーパーヒーローというと彼だけになってしまう)、ベトナム戦争を勝利へと導く(ニクソンが三期目の大統領って、憲法まで変えたのね)が、とはえい冷戦が終了するはずもなく、だもんだから(かどうか)話のぶっとび加減は加速、フルチンDr.マンハッタン(火星を住居にしちゃうのな)は、自らの存在をソ連(というか人類)に対する核抑止力とすべく……。

イメージは充満しているのに細部を忘れてるんで(観たばかりなのに!)うまく書けないのだが、神に近づいたDr.マンハッタンは人間的感覚が薄くなっていて、だから恋人だったシルク・スペクターも離れていくし(んで、ナイトオウルのところに行っちゃうんだな)、それは個に対する関心がないってことなんだろうか。これはオジマンディアスも似たようなもので、人間という種が生き残ればいいらしい(1500万人も見殺しだからなぁ)。そして、それを平和と思っているらしいのだ。

神に近づくってーのは(本人は否定してたけどね)、そんなものなのかと思ってしまうが、聖書のノアの方舟など、案外これに近いわけで、でもその辺りを考えていくには、最初の方で神経を磨り減らしてしまっていて、後半のあれよあれよ展開には茫然となってしまったのだった(このことはもう書いたか)。なんで唐突なんだけど、おしまい(あちゃ! これじゃロールシャッハが浮かばれないか)。

そうだ、驚愕のビジュアルっていうふれこみだけど、そうかぁ。確かにそいうところもふんだんにあるが、ベトナム戦争の場面など、半分マンガみたいだったよね?

まともな感想文になってないが、今はこれが限界。正義の振りかざし方に明快な答えでもあるんだったら書けそうな気がするんだけど、それは無理なんで。

8/7追記:やっと原作を読むことができた。思っていた以上に作り込まれた作品で、やはり映画の相当部分を見落としていたことがわかった。原作を知らないとよく理解できない映画というのもどうかと思うが(もっとも今や映画が一回限りのものとは誰も認識していないのかも)、特にジオマンディアスの陰謀という核になる部分が、今(もう四ヶ月も経ってしまったから余計なのだが)、かなり薄ぼんやりしていて、よくそんなで感想を書いてしまったものだと後悔しているくらいなのだ。やはりこの作品はもう一度観なくては。けどDVDとかを観る習慣がないんでねぇ。いつのことになるかは?

  

原題:Watchmen

2009年 163分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント R-15 日本語字幕:?

監督:ザック・スナイダー 製作:ローレンス・ゴードン、ロイド・レヴィン、デボラ・スナイダー 製作総指揮:ハーバート・W・ゲインズ、トーマス・タル 原作:アラン・ムーア、デイヴ・ギボンズ(画) 脚本:デヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー 撮影:ラリー・フォン 視覚効果スーパーバイザー:ジョン・“DJ”・デジャルダン プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:マリン・アッカーマン(ローリー・ジュスペクツィク/シルク・スペクター)、ビリー・クラダップ(ジョン・オスターマン/Dr.マンハッタン)、マシュー・グード(エイドリアン・ヴェイト/オジマンディアス)、カーラ・グギーノ(サリー・ジュピター/初代シルク・スペクター)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ウォルター・コバックス/ロールシャッハ)、ジェフリー・ディーン・モーガン(エドワード・ブレイク/コメディアン)、パトリック・ウィルソン(ダン・ドライバーグ/ナイトオウル)、スティーヴン・マクハティ(ホリス・メイソン/初代ナイトオウル)、マット・フルーワー(エドガー・ジャコビ/モーロック)、ローラ・メネル(ジェイニー・スレイター)、ロブ・ラベル、ゲイリー・ヒューストン、ジェームズ・マイケル・コナー、ロバート・ウィスデン(リチャード・ニクソン)、ダニー・ウッドバーン

アンダーワールド ビギンズ

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■ぐちゃぐちゃ混血異人種戦争

今回監督がレン・ワイズマンからパトリック・タトポロスに変わっている。が、そもそもタトポロスは前二作の関係者であるし、ワイズマンも製作には名を連ねていて、だからかあの独特の雰囲気はちゃんと受け継がれているから、アンダーワールドファンなら十分楽しめるだろう。ただ、私のような中途半端なファンには、今更という感じがしなくもなかった。

時代が大幅に遡ったことで、当然使われる武器も、銃器から弓や剣などの世界に逆戻りすることになった。射抜く太い矢のすさまじさなど、映像の力は相変わらずなのだが、古めかしいヴァンパイアものがスタイリッシュにみえたのは、なんのことはないあの銃撃戦にあったような気がしてきた。

また、込み入ったヴァンパイアとライカンという部分の説明を外すと、単純な奴隷の反乱を扱った史劇のイメージとそう変わらなくなってしまうことにも気づく。まあ、こんなこと言い出したらほとんどのものが従来の物語と同じになってしまうのだろうが。

時間軸でいけばこれが最初の話になるわけで、三部作が順を追っての公開だったなら、もう少しは興味が持てただろうか。前二作を見直してちゃんと予習しておけばいいのだが(なにしろ忘れっぽいんで)、DVDを観る習慣も余裕もないので、巻頭のナレーションによる説明は、むろん理解を助けるために入れてくれているのだろうが、駆け足過ぎて私には少々きつかった。

ヴァンパイア(吸血鬼族)とライカン(狼男族)が同じ人間から生まれたというのはむろん覚えていたが、ルシアンがそれまでの狼男族の突然変異で、ライカンとしては彼が始祖。ありゃ、これはウィリアムじゃなかったのね。ウィリアムは狼男の始祖であって、狼男の進化形がライカン、か。やっぱり混乱しているなぁ。

ルシアンが人間族を咬むとライカンになる。それをビクターは奴隷としていた。奴隷製造器としてのルシアンは、ビクターにとって大いに利用価値があり優遇されていたが、他のヴァンパイアたちにとっては同胞ではなく、やっかみの対象にすぎない。そしてそんなルシアンは、ビクターの娘ソーニャと愛し合う仲になっていた。もちろんこのことはビクターたちにはあかせるはずもないことだ。だが、ビクター側近のタニスに勘付かれ(彼はこのことを議席を得る為の取引材料にする)、結局はビクターの知ることとなって、悲劇へと繋がっていく。

ルシアンはソーニャを守るためにライカンに変身する。力を得るためだが、それには首輪を外すという禁を犯す必要があり、ビクターに背いたルシアンは奴隷に戻らされてしまう。ソーニャを守るためには平気でライカンを殺してしまうが、抑圧されたものとしてのライカンには同情もする。ライカンたちもルシアンにつくられたからか、ライカンとなったルシアンの声は聞こうとする(ライカンを殺したことと矛盾するような気もするが)。

運命とはいえ、ルシアンという人間(じゃなくてライカンか)の置かれたこの微妙な立場には、思いを馳せずにはいられない。

しかし映画は、娯楽作であるためのスピード感を重視したせいか、複雑な立ち位置にいるルシアンというせっかくの題材を生かしきれずに、ライカンの反乱劇へと進んでしまう。ソーニャとの恋も、同じ理由で始まり部分を入れていないのだろうか。全部を描けばいいというものではないが、結局はライカンとして生きるしかないルシアンの苦悩が弱まってしまったような気がしてならない。

それにしてもこの物語は、吸血という血の混じりが新たな人種を生み、さらにそれが混じって複雑な関係となり、無間地獄のような状況を作り出している。それがヴァンパイアとライカンとのことなので(前作では人間マイケルがヴァンパイアとライカンの血を得て変身という展開もあったが)、鼻で笑って観ているわけだが、これはそのまま、我々のいる今の世界ではないか。

セリーンがビクターの娘に似ていることが反映されて、ソーニャはケイト・ベッキンセイル似(そうか?)のローナ・ミトラになったらしいが、魅力はもうひとつ。マイケル・シーンにもそんなには感心できなかった。セリーン似と禁断の恋とで「過去に、もう一人の私がいた」というのがコピーになっているが、「いま明かされる女処刑人の謎」にはなっていない。というか謎はすでに解けちゃってるんでは?

原題:Underworld:Rise of the Lycans

2009年 90分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:藤澤睦実

監督:パトリック・タトポロス 製作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、レン・ワイズマン、リチャード・ライト 製作総指揮:スキップ・ウィリアムソン、ヘンリー・ウィンタースターン、ジェームズ・マクウェイド、エリック・リード、ベス・デパティー キャラクター創造:ケヴィン・グレイヴォー、レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 原案:レン・ワイズマン、ロバート・オー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド、ダーク・ブラックマン、ハワード・マケイン 撮影:ロス・エメリー プロダクションデザイン:ダン・ヘナ 衣装デザイン:ジェーン・ホランド 編集:ピーター・アムンドソン 音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:マイケル・シーン(ルシアン/ライカンの始祖)、ビル・ナイ(ビクター/ヴァンパイア族領主)、ローナ・ミトラ(ソーニャ/ビクターの娘)、スティーヴン・マッキントッシュ(タニス/ビクターの副官)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ/奴隷、ルシアンの右腕)、シェーン・ブローリー(クレイヴン/ビクターの後継者)、デヴィッド・アシュトン(コロマン/議員)、エリザベス・ホーソン(オルソヴァ/議員)、ケイト・ベッキンセイル(セリーン)

映画は映画だ

新宿ミラノ1 ★★★

新宿ミラノのチケット売り場前。舞台挨拶のあった回は満席

■ヤクザはヤクザだ

ポン監督からリアルな演技を求められた映画俳優のスタは、アクションシーンの立ち回り(韓国語でも「タチマワリ」なのね)で熱くなり、共演者を二人も病院送りにしてしまう。危険人物と目され相手役が見つからなくなったスタは、窮余の策でヤクザのガンペを担ぎ出す。彼の本物のリアルさには、たまたま居合わせたクラブでポン監督も驚嘆していたし、何よりガンペは元俳優志望だった。状況を聞かされてもガンペがひるむはずもなく、スタに「マジでやるなら」という条件まで出してくる。こうして演技は素人ながら喧嘩は本物のガンペと、ちょっぴり高慢なスタとの真剣勝負のような撮影が始まることになる。

スタとガンペの描き方が面白い。服装を白と黒にして映像的にも対照的な二人と印象付けているが、似たもの同士に他ならない。二人も途中で気づいたようだ。でなきゃ映画のこととはいえ、延々と意地を張って殴り合いを続けたりはしないだろう。ガンペはさすがに圧倒的な強さを見せつけるが、スタも俳優歴を武器に一歩も引こうとしない(ポン監督も同じで、ガンペに容赦のない要求をしていた。映画では妥協しないという姿勢か)。

二人の撮影現場をみていると、何故か対抗心というよりは、二人にとってどうしても必要な同化の儀式をしているのではないかと思えてくるのである。それが象徴的なのが干潟でのクライマックスシーンで、殴り合いを続けるうち全身泥まみれになって、遠目では見分けがつかなくなってしまう(この場面も白と黒の服装にするべきだった)。

二人の違いは、もしかしたら世間体を気にしているかいないかという部分だけかもしれない。もっともこれは、二人の属している世界の違いだろうか。俳優のスタは恋人のウンスンと会うのも人目をはばかってばかりだし、会えば真っ先に肉体を求めてしまうから、ウンスンとの間は険悪になるばかりだ。ガンペといえば、なりふりかまわず共演者のミナとのキスシーンを撮影前にリハーサルしてしまうし、強姦シーンでさえ、リアルに徹したつもりでいるのか、平然とやってのけてしまう(注1)。

一方私生活では、スタはウンソンとの密会をネタに強請られるが、それは結局先輩として長年付き合ってきたマネージャーの自作自演の犯行とわかる。が、そんなことも影響してか、ウンソンとの関係を隠そうとはしなくなるし、ガンペは獄中にいるペク会長の指示に逆らってまでパク社長殺しをためらい、そのことで窮地に追い込まれる(注2)。部下への温情(これは以前からだったかもしれないが)や、ミナとの関係の進展も映画の撮影が関係してのことらしい。

そもそも嘘で固めた映画が本物でないかというと、そんなことはないし、本物ばかりを撮った偽物映画はごまんとある。それくらいのことは誰もがわかっていて、それなのにこんな形で取り上げるはどうかと思うのだが、そういう意味での迷いはなく、私にはどこまでも映画のリアルさにこだわろうとするヘンな映画にみえてくる。だからか、撮影現場では相変わらず、「これは映画なのか」というような言葉が飛び交いながら、映画撮影と映画は進展していく(ただしその撮影されている映画の内容はほとんどわからない)。これは映画に対する真摯な想いなのか。それとも単なるアイデアの一つと割り切っているだけなのか。

そうして、それぞれ問題を抱えながら、先にも触れたクライマックスの干潟でのラストシーンの撮影となる。二人の執念がぶつかり合うこの場面は、リアルさを口にしているだけのことはある。が、素手での殴り合いがそう続くわけなどないから、二人が熱演すればするだけ、嘘の部分が多くなっていってしまうことになる。これで、二人の友情で終わるのか、と陳腐な結末を予想したところで、それを見透かしていたかのように、映画にはさらなる場面が付け加えられていた。

その場面とは、ガンペによる、唐突で残忍極まりないペク社長の殺害場面である。ここに至る過程のセリフがすごい。「すっかり俳優らしくなった」ガンペは、スタに行き先を聞かれて、「映画を撮りに」と答える。冗談としか思っていないスタは「カメラもないのに?」と聞き返すのだが、ガンペは「お前がカメラだ」と言うのだ。まるでこれから俺がやることをカメラになって全部記憶しておけとでもいうように。

所詮スタとは住む世界が違うのだ、映画は映画でしかない、であるのなら、ガンペの自首は不要になるが、そこまで彼を悪人にしなかったのは観客への配慮だろうか。何にしても、ガンペが少しは変わってきているような描き方をしていたので、これは思わぬ展開だった。

このラストがなければ、この映画の価値は半減していたことだろう。そうは思うのだが、このラストがもたらす不快感も相当なものがある。ガンペの行動は理解出来ないし、それにこれだと「短い人生、無駄にするな」(注3)ではなくなってしまうと思うのだが。

監督のチャン・フンはキム・ギドクの元で助監督をしていたという。そして製作・原案がそのキム・ギドクときき、なるほどそれで『悲夢』と通じる入れ子設定になっていたわけか、と。で、ついでに、同じようなわかりにくさがあることにも納得してしまったのだった。
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注1:さすがにこれはどうかと思う。というかリアルとは関係ないか。好意を持っていたミナも泣いてしまっていた(もっともその前にミナは「あれって本当にやりませんよね」と訊いていたんだよな)。反対にミナの入水を目撃して、映画の撮影と気づかずに助け出してしまう場面がある。このあと二人が関係を持つことになるきっかけにもなっているのだが、これはガンペが脚本を読んでいないことになってしまうから感心できない。ガンペはミナに惚れていたのだろう、強姦の件もミナに謝ってはいた。しかし、そうはいっても撮影にかこつけてやったことを、そんなに簡単に許してしまっていいものだろうか。ついでながら、ウンソンの扱いもひどいものだった。が、彼女の場合は、スタの心境の変化で最後に救われる。

注2:殺さなかったパク社長の裏切りで、窮地に立ったガンペだが、しかし、ガンペもそのあとパク社長に手心を加えられていた(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注2:完全に立場が逆転してしまうが、しかし、ガンペもパク社長からまったく同じ扱いを受けるのだ(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注3:このセリフは二人が出会ったクラブで、「俳優を目指していた」と言うガンペにスタが返したもの。スタに共演を持ちかけられた時、ガンペにはこのセリフが頭をよぎっていたはずである。
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原題:・・剩・髏€ ・・剩・、 英題:Rough Cut

2008年 113分 韓国 ビスタサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チャン・フン[・・弡・n 製作・原案:キム・ギドク[・€・ー・普n 撮影:キム・ギテ

出演:ソ・ジソプ[・護ァ€・ュ](イ・ガンペ/ヤクザの幹部)、カン・ジファン[・菩ァ€嶹・n(チャン・スタ/映画俳優)、ホン・スヒョン[嶹作・嶸пn(カン・ミナ/女優)、コ・チャンソク[・黴€・ス・掾n(ポン/映画監督)、チャン・ヒジン[・・彧ャ・пn(ウンソン/スタの恋人)、ソン・ヨンテ[・。・ゥ夋怐n(ペク/ヤクザの会長)、ハン・ギジュン[﨑懋クー・早n(パク社長)、パク・スヨン[・菩・・=n(イ室長/スタのマネジャー)

いのちの戦場 ―アルジェリア1959―

新宿武蔵野館3 ★★★

武蔵野館に展示してあったブノワ・マジメルによる映画の写真展写真7枚とオリジナルポスターの一部(写真がヘタでごめんなさい)

■人殺しの戦場

ブノワ・マジメルが立案、主演したアルジェリア戦争映画。映画の最後に「フランスはアルジェリア戦争を1999年まで公式に認めなかった」という字幕が出る。だからこそ「アメリカがベトナムを描いたようにフランスもアルジェリアを描かねばならない」(これは予告篇にも出てきたブノワ・マジメルの言葉)という。アルジェリア戦争を知らない1974年生まれの彼の想いが伝わってくる、真面目な映画である(注1)。

作戦ミスだか無線連絡の食い違いだかで、同士討ちの末死んでしまった前任者(この夜間戦闘場面で映画の幕があく)の後釜として赴任してきたテニアン中尉は、日常的な戦争という不条理を前にして(そのために失敗も繰り返し)次第に理性を失っていく。

妻子持ちの設計技師が何故志願などしたのだろう。後半に、フランスに一時帰郷したテニアン中尉が、ニュース映画を見ている場面が出てくる。スクリーンには、アルジェリアを語って「平和を保証するのは心の交流」という文言が踊っていた。彼はそのスクリーンの文言に、戦場から離れた本国にいて、戦争の何たるかを知らずに、それこそ踊らされて、ゲリラ戦と化しているアルジェリアの山岳地帯(カビリア地方)まで行ってしまった自分を重ねていたはずである。

軍歴の長い下士官をさしおいて、こうやって赴任してくるのは、どこの国にもあることらしい。テニアンがどこまで中尉としての訓練を受けて来たのかはわからないが、着任早々、フランスとフェラガ=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の二重支配下にあるタイダで、多分見せしめなのだろう、井戸に隠れていたアマール少年以外の村人全員が虐殺されるという惨事が起きる。あまりの惨状を前に、部下への言葉が出てこないでいるテニアン中尉に代わって、ドニャック軍曹は「タイダでみたことを忘れるな」と言う(注2)。

タイダのような「立入禁止区域」での戦闘は、毎日がこうした疑心暗鬼の連続で、テニアン中尉は民間人にカモフラージュしたフェラガを見抜けず醜態をさらしてしまうし、常態化している拷問にも耐えられない。そしてまったくいやらしい脚本というしかなのだが、この2つの出来事をあとになってテニアン中尉に同じようにやらせている。女性と少年が怪しいと、彼はもう最初の時のようには深く疑いもせず、間違った射殺命令を出すし(「立入禁止区域」には入った方が悪いので、咎められることはないのだが)止めさせていた拷問にも自ら手を染めてしまう。

ドニャック軍曹が落ち着いて見えるのは、場数を踏んできたことはもちろんだが、部下にもアルジェリア人がいるという複雑な状況下では、割り切るしかないと腹をくくっているからなのだろう。ドニャック軍曹がフェラガから寝返らせたという者もいれば、第二次世界大戦やインドシナで同じフランス兵として戦った者もいる。裏切りが発覚し、しかしその者を「戦友」として許しても、他の者が家族を殺されたから、と撃ち殺してしまう場面がある。植民地支配による長年のねじれた関係が、すべてを一層ややこしくしているのである。

もっともそのドニャック軍曹にしてからが、最後には、軍隊から脱走してしまうのだ。休暇から戻ったテニアン中尉に「何故戻って来たんです。あんたの居場所はない」と言っていたドニャック軍曹だが、すでにその時点でこれは、テニアン中尉にというよりは、自分に言い聞かせていた言葉だったのではないか。

テニアン中尉が軍隊に戻ったのは、自分の家に居場所がないことを知ったからだろう。民間人まで殺してしまった自分の姿を、彼が家族に見せられるはずがない(声をかければ届くところにいたというのに)。狂人の一歩手前にいて、しかし皮肉なことに家族との関係では、自分とのことを正確に把握していたことになる(注3)。拷問場面では、テニアン中尉は狂ってしまったかに見えたが、そうではなかったのだ。ニュース映画の「心の交流」が戦地のどこにあるのかと、正気の心が別のところから問いかけていたのである。

死んだ仲間が撮影したフィルムをクリスマスイブにみんなで観て、最初ははしゃいでいたもののだんだんみんなの声が小さくなって、しまいには泣き出してしまう、というしょうもない(他に何て言えばいいんだ)場面がある。悪趣味な演出に違いないのだが、戦争映画なんて真面目に撮ったら、すべてが悪趣味になってしまいそうだ。

次の日の朝、テニアン中尉はドニャック軍曹の居場所を尋ねていた(すぐ後の彼のモノローグで、彼はこの日脱走したのだという)。彼を探していてのことかどうか、テニアン中尉は山肌に猪の姿を目にする。そして、双眼鏡で何かを見て笑ったその時、撃たれて絶命してしまう。静かで清々しいくらいの景色と笑顔は、せめてもの餞か。けれど、やがて現れた敵兵の中には、あのアマール少年の姿があった。

拷問を止めさせたり、息子の絵を飾っていたテニアン中尉に親近感を持ったアマール少年だが、テニアン中尉が自分を見失ってからは失望し、軍から抜け出してしまったのだった。もっともこれには、アマール少年の兄がフェラガだったという事情もあるようなのだが。

何とも重苦しい映画である。戦っている当人たちが「インドシナとここはまともじゃない」「チュニジアとモロッコは独立を認めたのに。この戦争はFLNが正しい」などと言っているのだ。テニアン中尉は純粋で真面目な人間だったにしても(ドニャック軍曹に言わせると理想主義者で、だから「中尉が死んだのは幸運」ということになる)、どこまで自分の置かれている立場を理解していたのだろうか。

注1:アルジェリア戦争を扱った映画といえば『アルジェの戦い』(1966、日本公開1967)が有名だが、観ていない。あれはイタリア映画だったはずだが、キネ旬データベース(http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=13792)では制作国がフランス、アルジェリアとなっている。これは完全な誤記だろう。

注2:しかしこれはどっちもどっちで、フランス空軍が禁止爆弾のナパーム弾(特殊爆弾と称していた)を使用し、一面黒こげの死体だらけにしてしまう場面がある。近代兵器に分があるのは当然で、アルジェリア戦争の死傷者数は、最後に出てくる数字でも15倍以上の差があった。

注3:沢山の手紙を未開封のままにしていたのは、家族を目の前にして声をかけられなかったのと同じ理由だろう。

原題:L’ennemi Intime

2007年 112分 シネスコサイズ フランス 配給:ツイン 日本語字幕:齋藤敦子

監督:フローラン・シリ 脚本:パトリック・ロットマン 撮影:ジョヴァンニ・フィオーレ・コルテラッチ 美術:ウィリアム・アベロ 音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:ブノワ・マジメル(テリアン中尉)、アルベール・デュポンテル(ドニャック軍曹)、オーレリアン・ルコワン(ヴェルス少佐)、モハメッド・フラッグ(捕虜)、マルク・バルベ(ベルトー大尉/フランス軍情報将校)、エリック・サヴァン(拷問官)、ヴァンサン・ロティエ(ルフラン)、ルネ・タザイール(サイード/フランス軍兵士、アルジェリア人)、アブデルハフィド・メタルシ(ラシード/ドニャックの部下、アルジェリア人)

旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■形にすると見えてくる

今だったら日本一有名かもしれない旭山動物園も、存続の危機が論議されたことがあったらしい。ありふれた地方動物園のひとつだったことは想像が付くが(といったら関係者は怒るだろうが)、毎年赤字を垂れ流す旭川市のお荷物で、エキノコックス症による閉園騒ぎや、ジェットコースターに頼ろうとした時期まであったという(最後の方で、動物園衰退の象徴だったジェットコースターは解体されてしまったと短く紹介されていた。賑わっている場面が入っていたから「衰退の象徴」というのはあんまりな気がするが)。

限られた予算でできることはあまりなく、冬期開園や夜間開園に、飼育係が解説者になるなどの地道な努力を続けるしかなかったようだ。新市長の誕生をチャンスと捉えた園長が新市長の説得に成功し、億という予算を回してもらったことで旭山動物園は変貌を遂げるのだが、予算獲得に比べたら見過ごしてしまいそうな、園長と飼育係たちが夜を徹して夢を語り合った日エピソードは、それに優るものがある。

たまたま飼育係の中に絵を描くのがうまい男(のちに絵本作家となる)がいたこともあって、みんなの語る夢をそれぞれ絵にし、それが職場に貼られるのだが、こんなふうに夢を、むろん絵に限らないが、具体的な形にしていくのは、とても大切なことだと気づかされるのである。形にしてみると、見えてくることって沢山あるものね。夢を夢のままにしておいても、なかなか実を結んでくれないんじゃないか。

動物の生態を間近に見せる動物園や体験型の動物園の試みは、旭山動物園の前にもいくつかあって、園長は日本各地を回ってそれをビデオに収め新市長に提言するのだが、これも形にして見せるということにつながる。最初は低い金額で釣っておいて、新市長がその気になったのをみて本当のことを言ったり(「でないと話を聞いてくれないでしょ」と)、園長はちゃっかりしたところをみせるのだが、立派なプレゼン術と言い換えるべきか。ま、結局は予算を獲得できるかどうかだったという、いじましい話にもなりかねないのだけど、対象が動物園ともなればいたしかたのない話で……。

映画は、現在の旭山動物園の紹介は最小限にとどめ(これは来園してもらった方がいいしね)、成功物語に焦点を当てている。ただし、数々あるエピソードは、実話がもとでも時間軸などは大幅にいじって適当に都合よくまとめてしまっているようだ。まあ、そのくらいしないと映画にはならなかったのかもしれないのだが。

とはいえ、人以外みんな好きという新入りの、過去のいじめの場面まで入れておいて、でも途中ではほぼ忘れたかのようで、最後になって園長が母親の手紙に触れるという演出だけは、あまり好きになれなかった。

もっとも彼の話から始めてはいても、主人公は彼だけではなく、飼育係の面々に園長だから、一人の人間に関わってもいられなかったのだろうが。飼育係同士の意地の張り合いもあれば、ゴリラの衰弱死(これもある飼育係が担当をはずれたことが原因だったようだ)やチンパンジーの妊娠中毒など、動物園をとりまく外的な問題以外にも、目の前の問題は当然いくつもあって、その配置はいい案配になっていたように思う。

マキノ雅彦は『次郎長三国志』は×だったが、『寝ずの番』とこれはまずまず。監督業も板に付いてきたのでこんな作品にも手をだしたのかもしれないが、わざわざ監督になったのだから、もっと自分の嗜好や主張のはっきりした作品に挑んでもらいたい。それと何にでも長門裕之を引っ張り出すのはやめてほしい。今回の飼育係は年寄りすぎだよね。

  

2009年 112分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督:マキノ雅彦 製作:井上泰一 プロデューサー:坂本忠久 プロデュース:鍋島壽夫 エグゼクティブプロデューサー:土川勉 製作総指揮:角川歴彦 原案:小菅正夫 脚本:輿水泰弘 撮影監督:加藤雄大 撮影:今津秀邦(動物撮影) 美術:小澤秀高 編集:田中愼二 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音楽プロデューサー:長崎行男 主題歌:谷村新司『夢になりたい』 照明:山川英明 製作統括:小畑良治、阿佐美弘恭 録音:阿部茂 監督補:石川久

出演:西田敏行(滝沢寛治/園長)、中村靖日(吉田強/獣医、飼育係)、前田愛(小川真琴/獣医、飼育係)、岸部一徳(柳原清之輔/飼育係)、柄本明(臼井逸郎/飼育係のち絵本作家)、長門裕之(韮崎啓介/飼育係)、六平直政(三谷照男/飼育係)、塩見三省(砥部源太/飼育係)、堀内敬子(池内早苗/動物園管理係)、平泉成(上杉甚兵衛/市長)、笹野高史(磯貝三郎/商工部長)、梶原善(三田村篤哉/市議会議員)、吹越満(動物愛護団体のリーダー)、萬田久子(平賀鳩子/新市長)、麿赤兒、春田純一、木下ほうか、でんでん、石田太郎、とよた真帆、天海祐希

エレジー

シャンテシネ2 ★★★

■都合がよすぎてつけ加えた負荷

60を超えたじじいが30も歳下の美女に好かれてしまうという、男には夢としかいいようのない内容の映画である。原作はフィリップ・ロス。知性も名声もあるロスの実体験か。そんな話を聞かされても面白くはないが、でも、覗き見+なりたい願望には勝てない私なんであった。

自分は50人以上もの女性と付き合ってきたというのに、女の、50人以上からしたらたった5人の、それも「過去の」男であっても気になってしかたない。これは笑える(って、ただ私自身のことではないのと、そして自分でも同じようなことをやりかねない気分だからなのだが)。

男の失われた若さがそうさせている面もあるだろう。女のちょっとした言動にもやきもきしてしまうのだが、女は自分の家族に男を紹介しようとする。つまり本気。けれど、この恵まれた状況を、過去の人間関係にうんざりしている男は、見え透いた嘘で壊してしまうことになる。

話が少しそれるが、別れた妻との息子が、男の元に不倫の相談に来たりする。男は面倒そうにしている。この息子はファザコンなんだろうか。父親に不倫の相談というのも笑止千万なのだけれど、要するに、こういうやっかいな関係を昔作って今に至っていることを、男は後悔しているというわけだ。

また、別の女性(これまた自分の生徒だった時にものにしている。ただ相手も歳をそれなりに重ねているので老いを負い目に感じるようなことはない)と、長年にわたるある種の性的信頼関係が出来ていて(もっともこの女性も、女の存在に感づいて男を責めていた)、この理想的と思ってきた関係と、もしかしたら単なる若い女への欲望とを、比較しての選択だったか。

仲間の教授から注意されても、女との関係は断ち切れずにいたくらいで、だから男のこの感情は私にはわからなかった。もしかしたらこんな都合のよすぎる話では厚かましすぎると思ったのかもしれない(まさか)。

で、2年という時を経て女が再び男の前に現れる際に、男の老いに相当するような、乳癌という負荷を、女にもかけたのだろうか。

どちらも負い目を持った末に、純粋な愛という形を手にするというのがラストの海岸のシーンに要約されているのだけど(多分)、こじつけのような気がしてならなかった。

どうでもいいことだけど、ペネロペ・クルスは、ゴヤの「着衣のマハ」には似てないよねぇ。

原題:Elegy

2008年 112分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ムービーアイ 日本語字幕:松浦美奈

監督:イザベル・コイシェ 製作:、トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、アンドレ・ラマル 製作総指揮:エリック・リード 原作:フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』 脚本:ニコラス・メイヤー 撮影:ジャン=クロード・ラリュー プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:エイミー・ダドルストン

出演:ペネロペ・クルス(コンスエラ・カスティーリョ)、ベン・キングズレー(デヴィッド・ケペシュ)、パトリシア・クラークソン(キャロライン)、デニス・ホッパー(ジョージ・オハーン)、ピーター・サースガード(ドクター・ケニー・ケペシュ)、デボラ・ハリー(エイミー・オハーン)

英国王給仕人に乾杯!

シャンテシネ1 ★★★☆

■人生はどんでん返し=元給仕人の語る昔話

かつてドイツ人の村があったというズデーデン地方の廃墟に、15年の刑期を終えたヤン・ジーチェがやってくる。この男の語る昔話が滅法面白く、加えて演出も、無声映画風であったり、画面を札束や切手で飾ったり、裸の美女を適度?に配したりの、あの手この手を使ったサービス精神旺盛なもので、ウイットに富んだ作品となった。

駅のソーセージ売りだったヤンは、ホテル王を夢見て給仕人になり、プラハの高級ホテルの給仕長に上り詰めていく。ヤンは言うなれば世渡り上手。スクシーヴァネク給仕長のように、客の欲しがるものを見抜く才能こそないが、要領はいいし、運も味方してくれる。とはいえヤンが言うように「人生はどんでん返し」の連続なのだが。

もっとも、裸女を札束や料理で飾り付ける変な性癖はあるし、小銭をばらまいてはそれを拾おうとする金持ちたちを見て人間観察の目を養う(たんに優越感に浸りたかっただけとか)っていうのだから、ヤンに感情移入とまではいかない。

欲望にとらわれた人間の生態を面白可笑しく語る流れのまま、話はいつのまにかヒトラーの魔の手が伸びたチェコという複雑な歴史の側面に及ぶ。が、深刻な話であっても語り口はあくまで軽妙で、息苦しさとは無縁だ。

ドイツ人娘リーザとの困難な結婚から、優生学研究所に勤めたことで仕入れた話など、どこまでが本当なのだろうと思うくらい興趣にあふれたもので、あきさせることがない。この優生学研究所は、富豪用のお忍び別荘だったチホタ荘が接収されて出来たのだが、戦争末期は傷病兵の療養所に変身している。裸女たちがプールで優雅に侍っていたのに、それが手足のない傷病兵に置き換わってしまう描写がやたらリアルなものに見える。

リーザが集めていた切手で手に入れた戦争後のホテル王の地位は、チェコスロバキアの共産化で、束の間の夢どころか牢獄行きとなってしまい(顔なじみの金持ちたちと一緒になれて、それもヤンには楽しかったようだが)、その刑期あけが、廃村で暮らすヤンというわけだ。

ただ、その割には昔を語る現在のヤンの立ち位置が曖昧というか、まあそこらへんは本人も自覚していないから、鏡を部屋にいくつも並べた自問自答場面となるのだろうか。

その現在の部分に割り込んできた、大学教授と一緒にやってきたという若い女の存在も、何かが起きそうな予感をいだかせただけで去って行ってしまうのは、昔のことならいくらでも面白可笑しく語れるが、さすがに進行形のものとなるとそうもいかないということか。あるいはこれも、全篇に共通するこだわりのなさのようなものか。

英国王給仕人だったのはスクシーヴァネク給仕長で、本人はそうではないから題名の『英国王給仕人に乾杯!』は違和感があるが、昔話なんて所詮脚色されたもの(英国王給仕人だったとは言っていないが)、という意味にとれば合点がいく。

 

原題:Obsluhoval Jsem Angkickeho Krale 英題:I served the King of England.

2006年 120分 ビスタサイズ チェコ/スロバキア 配給:フランス映画社 日本語字幕:松岡葉子 字幕協力:阿部賢一

監督・脚本:イジー・メンツェル 製作:ルドルフ・ビエルマン 原作:ボフミル・フラバル 撮影:ヤロミール・ショフル 音楽:アレシュ・ブジェジナ

出演:イヴァン・バルネフ(青年期のヤン・ジーチェ)、オルドジフ・カイゼル(老年期のヤン・ジーチェ)、ユリア・イェンチ(リーザ)、マルチン・フバ(スクシーヴァネク給仕長)、マリアン・ラブダ(ユダヤ人行商人ヴァルデン)、ヨゼフ・アブルハム(ブランデイス)、ルドルフ・フルシンスキー(チホタ荘所有者チホタ)、イシュトヴァン・サボー、トニア・グレーブス(エチオピア皇帝)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

2007/09/02 新宿ミラノ1 ★★☆

■ヱヴァンゲリヲンて何なのさ

ヱヴァンゲリヲンが何なのかをまったく知らずに観たものだから、狐につままれたような状態のまま幕となった。何しろ「しと」が「使徒」だということがうまく頭に入らずにいたくらいなのだ(わかっても理解できていないのだが)。

セカンドインパクトとか第3新東京市って言われてもねー。昔のテレビ版の観客を対象にしていると言われてしまえばそれまでだけど、「新劇場版」と銘打って4部作として作り直したそうだから(これも見終わってから知ったのだ)、新しい観客のためにもう少しは説明してくれてもいいのではないか。それとも4部作を通せばすべてがわかるのだろうか。

ただ、内容的には嫌いではないので、わからないながらも楽しんで観てしまったのだけど。物語の流れは単純だから理解しやすいのだが、こういう作品は細部がどうしても知りたくなるのだな。

だから地下から超高層ビルのあらわれる第3新東京市というのがあまりに非現実的で、ちょっと引いてしまう。怪獣?(使徒)対怪物?(ヱヴァンゲリヲン)が東宝怪獣映画やウルトラマン路線の、巨大でかつ同スケール対決なのにも笑ってしまって、どういうわけか対戦場面では『大日本人』を思い出してしまったものだから困ってしまったのだ。シンジが何者かということを同級生までが知っているという部分も同じなんだもん。あと個人的には第3新東京市の上に陣取って地下攻撃を仕掛けるキューブのような物体に、手も足も出ないという設定もどうもね。

ヱヴァンゲリヲンを操縦できるのは特殊な能力が必要らしく(これもちゃんと説明してくれー)、でもそれが碇シンジというまだ14歳の少年で、実はヱヴァンゲリヲンの開発者が彼の父ゲンドウで、なんでもパイロットとして引っ張り出された時、その父とは3年ぶりの対面だったという、ずいぶんな話。

ヱヴァンゲリヲン初号機のパイロットがシンジと同級生の綾波レイという少女で、シンジのまわりには他にも女性ばかりが目に付くのは目をつぶるけど、こういうのもテレビ版と同じなのか。なのにシンジは「なんでぼくなんだ」「乗ればいいんでしょ」「怖い」ってずーっと言いまくっていた。彼が綾波の言動や同級生の励ましなどで変わっていくという成長物語なのはわかるが、この作品だけでは、ちょっとはしっかりしてくれよ、という気分になってしまう。

敵が不意に襲ってくる状況下なのに、普通に学校生活を送っているというのも妙だし(第3新東京市はそのために防災都市になっているようだが)、綾波に渡しそこねたIDカードをシンジが届けるというのもヘタクソすぎる挿話だ。

何にしても、人類補完計画、ヤシマ作戦、すべてはゼーレのシナリオ通りに、あと8体(そんなことがわかるのか)の使徒を倒さねば、などの言葉全部がわからないのだから、これ以上書いても笑われるだけのような気がしてきたので、ヤメ(でも次も観るぞ)。

  

2007年 98分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

監督:摩砂雪、鶴巻和哉 総監督・原作・脚本:庵野秀明 演出:原口浩 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康 キャラクターデザイン:貞本義行 テーマソング:宇多田ヒカル『Beautiful World』 メカニックデザイン:山下いくと メカニック作画監督:本田雄 効果:野口透 作画監督:松原秀典、黄瀬和哉、奥田淳、もりやまゆうじ 色彩設定:菊地和子 制作:スタジオカラー 総作画監督:鈴木俊二 特技監督:増尾昭一 新作画コンテ:樋口真嗣、京田知己

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、林原めぐみ(綾波レイ)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、結城比呂(日向マコト)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、麦人(キール・ローレンツ)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、石田彰(渚カヲル)

オーシャンズ13

新宿ミラノ1 ★★☆

■友情のため、悪者はとことんとっちめるのだ

シリーズものだから余計な説明はいらないとはいえ、今回は映画のほとんどを、だましの仕掛けの手口の解説とそれがいかに実行されたかの検証にあてるという徹底ぶりで、ここまでやられてしまっては、もう立派としかいいようがないではないか(と書いてしまったが、11や12はどうだったかは? 相変わらず心許ない記憶力だ)。

今まさに金庫を破ろうという時にケータイが鳴ると(映画館で鳴らせるヤツと同じかよ)、ラスティー・ライアン(ブラッド・ピット)はその仕事を放り出して(病院へ俺は行くとは言ってたけどね)、ダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)が待つ飛行機に乗り込む。オーシャンズの大切な仲間ルーベン・ティシュコフ(エリオット・グールド)が心筋梗塞で倒れ24時間が勝負とあっては、ラスティーの行動は当然ではあるが、ふざけた導入だ。

ルーベンの病気は、そもそも強欲なホテル王ウィリー・バンク(アル・パチーノ)によって新しくオープンするホテルの共同経営者から、まったくの他人に格下げさせられてしまったことによる。もっともこれはバンクのただの脅しにルーベンが屈して出資金を巻き上げられてしまうという面白くもなんともない話だ。

ルーベンは巻頭では危篤だったのに、すぐよく持ちこたえたになり、病気の克服は見込みがないわけではなく、第1に家族(これは無理のようだ)、次に友人の協力が欠かせないになっていて、オーシャンズたちもみんなで励ましの手紙を書くなどという殊勝なところをみせる。廃人のようにみえたルーベンだが、映画の途中ではもう平気のへーちゃらの助になって、ホテルのオープン日にはカジノの客としてバンクの前に顔を出すという調子のよさ。最後の方でルーベンがバシャー・ター(ドン・チードル)に手紙で生き返ったとお礼を言う場面がある。

アル・パチーノはとにかく悪役ぶりが潔い。どこからみてもいい役ではないのだが、それを演じきってしまうのだから、アル・パチーノだ、と言っておこう。バンク側はあと、女性の右腕アビゲイル・スポンダー(エレン・バーキン)がいるのだが、2人じゃあね。多勢に無勢だ。

ホテルでは5つのダイヤモンド評価という最高格付けを狙い(保有ホテルすべてがすでにそうなのだという)、さらにカジノ収入でもとびきりの目標を立てているバンクの用意したセキュリティというのがすごくて、カジノにいるすべての客の瞳孔(脈拍もだったか?)のデータを入手し、行動パターンを読みとって不穏な動きがないかどうかまでも管理するという。

で、その対応策は、英仏海峡を掘削したドリルを近くに持ち込んで(どうやってさ)、人口地震を起こして瞬間的な隙間(リセットに3分)に、一気にトリックを駆使したインチキで大金をせしめてしてしまおうというものだ。ホテルは悪評判にし、カジノではバンクを破産に追い込み、おまけに最上階のプライベートルームにある本物のダイヤモンドまでっせしめてしまおうという、これでもか作戦。ま、このくらいしないと掘削ドリルの持ち込みでは華にならないということもあるのだけどね。

事実そのドリルの出番たるやほんのわずか(本物の地震が起きてしまうんだものね)。でも平坦な物語にとってはこのドリルが、面白い展開を生むことになる。オーシャンズが力を合わせてもドリルを借り受ける財力がなく、いままで散々やり合ってきた宿敵(『オーシャンズ12』)テリー・ベネディクト(アンディ・ガルシア)に頭を下げて協力を申し出るのである。

他には、メキシコにある工場へ潜入してダイスの原材料にマグネトロンを入れてダイスの目を操るというもの(説明されても仕組みがよくわからん)や、嘘発見器からいかにして逃れるかとか、偽格付け員を仕立てあげたり、本当の格付け審査男の泊まる部屋に匂いや害虫の細工をしたり、高速でエレベーターが行き交う中をアクロバチックに潜入していったり、従業員の弱みにつけ込んで懐柔するといった程度のものなのだが(人数分見せ場を用意するだけでも大変そうだ)、それをスマートにさらりと見せていく手腕はなかなかではある。

1晩で5億ドルが消えたバンクだが、ゴルフならまだハンデ2だと負けを認めようとしないところはさすが。でもうろたえてたけどね。ちょっと気の毒なのはエレン・バーキンで、「スポンダーはホスト好き」ということになっていて、ライナス・コールドウェル(マット・デイモン)の付け鼻男に媚薬でめろめろにさせられてしまう。ま、これもアル・パチーノ共々余裕でやられ役を楽しんでいたということにしておくか。

とことん痛めつけてしまった格付け審査男にはちゃんとそれなりのご褒美を用意するし(途中でも1100万ドルという数字を出していたから、最初から報いるつもりだったようだ。でもあのスロットマシンは、どこの、誰の?)、ただでは引っ込むはずのないベネディクトのダイヤの横取り(ヴァンサン・カッセルまで出て来ちゃったよ)も防いで、かつそんな企みまでしていたのだからと、分け前分はお灸の意味も込めてベネディクト名義で寄付。

今回は正義も貫いて、最後のオチまでよくできてます。でもそれだけなんだけどね。

 

【メモ】

ウエイトレスが2キロ太っただけでクビになる話が出てくる。ウエイトレスを容姿だけではクビに出来ないのだが、採用時に「給仕兼モデル」にしてあるので、可能らしいとも。

人工知能セキュリティの説明でエクサバイト(テラバイトの100万倍)という言葉がでてきた。これを破るのには天災でもないと、ということで掘削ドリルが登場するというわけだ。

ダニーとラスティーが「オプラの番組」(?だったか)というテレビを見て涙を流していたが? 

ホテル(カジノの方か?)のオープニングイベントに相撲が登場する。

原題:Odean’s Thirteen

2007年 122分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊地浩司 アドバイザー:アズビー・ブラウン 配給:ワーナーブラザース映画 

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ジェリー・ワイントローブ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、スティーヴン・ソダーバーグ、スーザン・イーキンス、グレゴリー・ジェイコブズ、ブルース・バーマン、フレデリック・W・ブロスト 脚本:ブライアン・コッペルマン、デヴィッド・レヴィーン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:フィリップ・メッシーナ 衣装デザイン:ルイーズ・フログリー 編集:スティーヴン・ミリオン 音楽:デヴィッド・ホームズ

出演:ジョージ・クルーニー(ダニー・オーシャン)、ブラッド・ピット(ラスティー・ライアン)、マット・デイモン(ライナス・コールドウェル)、アンディ・ガルシア(テリー・ベネディクト)、ドン・チードル(バシャー・ター)、バーニー・マック(フランク・カットン)、エレン・バーキン(アビゲイル・スポンダー)、アル・パチーノ(ウィリー・バンク)、ケイシー・アフレック(バージル・マロイ)、スコット・カーン(ターク・マロイ)、エディ・ジェイミソン(リビングストン・デル)、シャオボー・クィン(イエン)、カール・ライナー(ソール・ブルーム)、エリオット・グールド(ルーベン・ティシュコフ)、ヴァンサン・カッセル(フランソワ・トゥルアー)、エディ・イザード(ローマン)、ジュリアン・サンズ(グレコ)、デヴィッド・ペイマー、ドン・マクマナス、ボブ・エインスタイン、オプラ・ウィンフリー(本人) 

アコークロー

シアターN渋谷-2 ★★☆

■許すということ

鈴木美咲(田丸麻紀)は、東京から沖縄で一緒に生活するために村松浩市(忍成修吾)の元へやってくる。浩市ももとは東京人。4年前から沖縄で働いていたが、遊びにきていた美咲を海岸でナンパして、願ってもない状況になったらしい。浩市の友達の渡嘉敷仁成(尚玄)とその子の仁太に喜屋武秀人(結城貴史)と彼のおばば(吉田妙子)という仲間に囲まれて、美咲の沖縄での新しい生活がはじまる。

まず重要なのは、美咲には東京から逃げ出したい事情があったということである。実はベビーシッター中の姉(清水美砂)の子を、事故で亡くしてしまったのだ。この事故は発端が姉からのケータイへの連絡であり、偶然が重なったものと「姉もわかっているがでも許せないでいる」と美咲が認識しているもので、この問題が一筋縄ではいかないことは想像に難くない。

が、この先に起きるキジムナー(沖縄の伝説の妖怪)奇譚との関わりが(もちろんそれは精神的なものであっていいのだが)いまひとつはっきりしないため、見せる部分での怪奇映画としてはある程度成功していながら、やはりそこまでの映画にしかなっていない。つまり、この理屈付けさえ明確にできたならば、十分傑作たり得たのではないか。

仁成の前妻松田早苗(菜葉菜)が急に現れ、仁太に接触したことで仁成は怒りをあらわにする。早苗を殴ってしまうのだから、根は深そうだ。「話してもわかる相手ではない」らしい。そして、いったんは早苗を追い返すのだが、その言葉通りに同じことが繰り返される。

ただ早苗は、この直前に猫の死骸が木に吊されたところ(沖縄では昔よくあった風習と説明されていた)で、キジムナーに取り憑かれているのだ。早苗が鎌を持っていた(キジムナーのせいか)ことで予想外の惨劇となる。もみ合っていて、まず浩市が早苗を刺し、それを抜いた早苗が仁成に襲いかかるのを制しようとして美咲がとどめを刺す形になってしまう。

事件が発覚したらこの村では生きていけないと、浩市と仁成は警察に届けることを拒み(男が3人も傷を負っているのだから正当防衛を主張するのは簡単そうなのだが)、浩市と美咲とで早苗の死体を森の中にある沼に運び、沈めることになる。

話が前後するが、仁成は早苗をビニール袋に包んでいるところを、家に帰ってきた仁太に見られてしまう。目があった仁太は驚いて逃げるが、早苗に鎌で足に傷を付けられている仁成が追いつけないでいるうちに、仁太はサトウキビ畑でハブに噛まれる。仁成は車で病院に向かうが、右側から合流してきた車と激しく接触する(単純ながらこの場面のデキはいい)。

秀人は早苗の死そのものを疑い、茫然としたまま家に帰っていくが、姿を消してしまう。浩市と美咲が秀人を捜してまたあの沼に行くと、「これをあげるから、でもとても痛くて取れないんだ」と言いながら自分の目玉をえぐり取ろうとしている秀人を見つける。

魚の目玉がキジムナーの好物だというのは、おばあが読み聞かせてくれた絵本に、また、仁成の同級生で元ユタだったことから紹介された作家の比屋定影美(エリカ)に、浩市と美咲がキジムナーの話を聞きに行き、比屋定からキジムナーは裏切った人間の目玉をくり抜くのだ、と言われていたことをなぞっているから非常に不気味だ。

仁成は仁太が入院したことすらわからなくなっていて(自分足の傷さえわかっていないようだ)首を吊って死んでしまう。早苗の幻影を見るようになった浩市は、仕事も手に付かない状態になっている。そして、美咲にも早苗の姿が見える時がやってきて、2人は比屋定の助けを求める。

美咲にも早苗が見えるようになる前にある、美咲カが外から浩市の所に帰ってくる3度同じ内容を別のパターンで繰り返す場面は、意味はわからないが怖い。

最後の早苗と比屋定の対決場面は、比屋定のお祓いによって早苗の口から出てきた異物(これがキジムナーなんだろう)を、比屋定がまた食べてしまうというグロな展開となる。ここは映画として面白いところである。ただ逆にここにこだわったことで、作品としてはよくわからないものになってしまった。というのも、キジムナーが何故早苗に取り憑いたのかが、まったく説明されていないからだ(説明不可という立場をとったのかもしれないが)。

かつて(仁太が2歳の時)お腹の子を自分の不注意で死なせてしまったという早苗に、気持ちのやり場のないことはわかるが、だからといって彼女の行動を肯定できるかといえばもちろんそんなことはなく、浩市が自分たちの正当性と早苗を非難したことの方が正論に決まっているのである。もちろんそこまでは、だが。これは比屋定も言っていることだ。

とにかく細かいことを気にしだすと何が何だかわからなくなってくる。ここはやはりキジムナーから離れて、美咲の問題に限定した方がよかったのではないか。そうすれば美咲がどうしてキジムナーに興味を持ったのかということだって曖昧にせずにすみ、早苗に自分の犯した罪(姉の子を殺してしまった)を重ね合わせる美咲の心境を中心にした映画が出来たのではないか。

もっともそうしたからといって、それですべてが解決するかというと全然そんなことはない。美咲のもう前しか見ないという決意(これは病院で仁太の経過を仁成に聞いたあとのこと)にしても、美咲に途中から早苗の亡霊が見えるようになる理由も、やはりすっきりしないままだろうから。

ただ付け加えるなら、早苗と美咲の心の交流がまったくないわけではない。浩市はやはり自分の目玉を刺すことになるが、美咲が自分を刺そうとしたときには、早苗はその包丁を自分に向け、自分を刺すのだ。これは美咲が自分のことをわかってくれたと思ったからだろう。

早苗の遺体が発見されたのは美咲たちの犯行から1ヶ月も経ってで、その日が死亡推定時刻になっているので、警察も困っているという比屋定の報告を、美咲は拘置所の面会室できく。ここでもその理由をキジムナーと結びつけているのだが……。

この刑務所に美咲を姉が訪ねて来ていることには、やはり胸をなで下ろす。姉との関係が戻ることはないにしても(もう至近距離では生活しない方がいいだろうから)、2人は了解だけは取り合っておくべきと思うから。

許されることのないものは存在する。というか、許すか許さないかという認識は他者との関係性で発生するが、その関係性は閉じてしまっても存在する。この場合許す(許さない)側と許される(許されない)側は同一となって、この部分で納得出来なければ、いくら他者から許されても救われないはずだ(もっとも自分の正当性のみしか主張しないまったく無反省な人間もいるようだが、この映画ではそういう人間は登場しない)。

少し映画とは離れた感想になってしまった。

実はこの映画については「決定稿」と印刷された台本が売られていて、それを読んだのだが、とても決定稿とは思えないほど完成した映画とは違っていた。もちろん、それは悪いことではないだろう。特に前半は、台本よりずっと整理されたいいものになっている。

が、後半になると手を入れたところが必ずしもよくなっているとは思えないのだ。映画は1度観ただけだし、この違う部分が多すぎる台本を読んでしまったことで、私が多少混乱していることもあるが、ここまで手をいれたのは監督も作りながらまだ迷っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

たとえば、いままでに書きそびれたことでキジムナーについてもう1度だけ述べると、美咲は「森へ逃げて2度と現れないって、なんかすごく消極的。キジムナーがかわいそう」と絵本のキジムナーに同情しているのだが、映画に出てくるキジムナーは、とても人間の思慮の及ぶ存在ではなかった。また比屋定はキジムナーの存在より、キジムナーに対する人間の想いに興味があると発言していたのに、対決場面ではその存在が当然かのように振る舞っていて、ちょっと面食らってしまったのである。

さらに決定稿だと、最後のクライマックスでは美咲も早苗(キジムナー)に目玉を差し出している(これは比屋定が早苗が吐き出したものを飲み込んだあとなのだ)。そして早苗のはやく楽にしてという言葉に、美咲が早苗を刺すのだ。

ね。ちょっと混乱するでしょ。私も書いててますますわからなくなってきた。

最後は美咲の姉が美咲に面会に行く場面ではなく、片腕を失った仁太が友達にからかわれているところに比屋定が居合わせて、仁太に片腕を亡くしたのならもう片方の腕で生きろと言う。現実を見据えた阿ることのない決意のある場面だが、うーん、やっぱりキジムナーにこだわりすぎて、途中の説明を誤ったよね。飛行機雲がくっきりの、どこまでも明るい沖縄の空の下にある程度恐怖を提示できていたのに、ちょっともったいなかったような。

 

【メモ】

「アコークロー」は、昼と夜の間の黄昏時を意味する沖縄の方言だという。沖縄の言葉の多くは古い時代に本土方言から変化してできたものだと金田一春彦の『日本語』で教えられたが、とするとこれは「明るくて、暗い」なのか。キジムナーもキは木で、ジムナーの方は人を化かす狢がムジナーになって、ムジナーがジムナーと入れ替わることはよくあるから木の狢という意味ではないかと。ま、これはまったくの推論。「木のもの」が語源という説が多いようだ。

偶然の重なった事故は、姉からケータイに連絡が入ったことで、美咲はちょうどその時飛び出してきた自転車にハンドルをぶつけられてベビーカーの手を離してしまい、そこにトラックが突っ込んできて……と映像で説明されていた。

警察に届けない理由を浩市は美咲に次のように説明する。手遅れだし、母親が死んで父親はブタ箱行きでは仁太が救われない、というものだが、お前の姉さんはこの事件を聞いてどう思うというセリフは、そうすんなりとは入ってこなかった。

美咲はイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という方言をあまり好きになれずにいたが、拘置所で比屋定からこの言葉を聞くことになる。

2007年 97分 ビスタサイズ PG-12 配給:彩プロ

監督・脚本:岸本司 製作:高澤吉紀、小黒司 プロデューサー:津島研郎、有吉司 撮影:大城学 特殊メイク:藤平純 美術:濱田智行 編集:森田祥悟 主題歌:ji ma ma『アカリ』 イラスト:三留まゆみ 照明:金城基史 録音:岸本充 助監督:石田玲奈

出演:田丸麻紀(鈴木美咲)、忍成修吾(村松浩市)、エリカ(比屋定影美)、尚玄(渡嘉敷仁成)、菜葉菜(松田早苗)、手島優(亜子)、結城貴史(喜屋武秀人)、村田雄浩(藤木)、清水美砂(美咲の姉)、山城智二(山城)、吉田妙子(喜屋武シズ)

俺は、君のためにこそ死ににいく

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★

■靖国で会おう

戦争について語るのは気が重い。ましてや特攻となるとなおさらで、まったく気が進まないのだが……(実は映画もそんなには観たくなかった)。

この映画の最大の話題は、やはり製作総指揮と脚本に名前の出る石原慎太郎だろう。タカ派として知られる石原が戦争映画を作れば、戦争肯定映画になると考える人がまだいるようだが、それはあまりに短絡すぎる。新聞の読者欄にもそういう投書を見かけたが、的外れで自分の結論を押しつけたものでしかなく、かえって見苦しさを感じた。

私は石原嫌いだが、しかし石原であっても特攻を正面から描いたら、真反対の立場の人間が作ったものとそう違ったものは出来まいと思っていたが、この想像は外れてはいなかった。ちゃんとした反戦映画になっているのである。

といって映画として褒めらるものかどうかはまったく別の話で、まあ凡作だろう。

太平洋戦争末期に陸軍の特攻基地となった鹿児島県の知覧。基地のそばの富屋食堂の女将鳥濱トメは、若い特攻隊員たちから母と慕われていた。生前の彼女から話を聞く機会を得た石原が長年あたためてきた作品ということもあって、彼女を中心にした話が大部分を占める。が、何人もの挿話を配したそれは、やはりとりとめのないものになってしまっていた。

何度も出撃しながら整備不良や悪天候で帰還せざるを得ず、最後は本当に飛び立った直後に墜落してしまう田端(筒井道隆)、長男故に父親に特攻を志願したことを言えず、トメ(岸惠子)に父(寺田農)への伝言を頼みにくる板東(窪塚洋介)、朝鮮人という負い目を持ちながらトメの前ではアリランを歌って志願し出撃して行った金山(前川泰之)など、どれもおろそかに出来ない挿話ながら、逆に焦点が絞りきれていない。

そこに、この特攻作戦を立案した大西中将(伊武雅刀)などの特攻を作戦にしなければならなかった事情などもとりあえずは入れて、となっているからよけいそうなってしまう。また、先の挿話も、映画にすることで私などどうしても鬱陶しさを感じざるをえないし、だれてしまうのである。

そうはいっても私の観た映画館では館内の至るところで啜り泣きの声がもれていたから、多くの観客の心に訴えていたのだろうと思われる。

ただ、最後にある、先に特攻で死んでいった人たちが生き残って軍神から特攻くずれになった中西(徳重聡)を出迎える演出や、蛍になって帰ってくるといっていた河合(中村友也)の挿話などは、やはり古臭いとしか思えない。それがトメから聞いた話そのままだとしても、映画にするにはもう一工夫が必要ではないか。

この映画に石原らしさがあるとすれば「靖国で会おう」だろうか(「靖国で待ってる」というセリフもあった)。ある時期まで戦争映画では「天皇陛下万歳」と言いながら兵士は死んでいったらしい(そう言われるとそうだったような)。しかしそれは嘘で「お母さん」と言っていたのだと誰かが批判し(誰なんだろ)、そうだそうだとなったようだが、本当にそうなのか。というより、どちらにも真実があって、それをとやかくいってもはじまらない気がする。それに、死ぬ時に本心を言うかといえば、人間はそんなに単純なものでもないだろうから。

ではあるが、「靖国で会おう」となると話は少し違ってくる。もちろんこれだって否定はしないが、中国や韓国からいろいろ言われるのが石原としては癪なんだろう。ま、私などはそもそも無神論者であるし、靖国神社自体にどうこういう思い入れもないので、靖国参拝問題以前からあっさりしたものなのだが、とはいえ、これについては書き出すと長くなるのでやめておく。

やはりここはせっかく鳥濱トメに焦点を当てたのだから、彼女の目線だけで特攻を語ってほしかった。いままでにも何度か映画にも登場している大西中将などをもってきて概要を述べさせるよりは、庶民にとって特攻がどういうふうに認知されていたかだけを描くだけでも(そうすれば何を知らされなかったかもわかる)、十分映画になったと思うのだ。

でなければ、逆に戦後明らかになった統計データで、特攻の犬死度の高さ(成功率の低さ)をはっきりさせるか、富永恭次陸軍中将のような敵前逃亡将校による特攻作戦があったことなどを描くというのはどうだろうか。

ところで『俺は、君のためにこそ死ににいく』という題名もなんだかあやふやだ。ここにある「君」は何で、映画の中にあったのかどうか。

 

【メモ】

VFX場面は上出来。本物の設計図から作ったという隼も大活躍していた。

2007年 140分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:新城卓 製作総指揮:石原慎太郎 企画:遠藤茂行、高橋勝 脚本:石原慎太郎 撮影:上田正治、北澤弘之 特撮監督:佛田洋 美術:小澤秀高 音楽:佐藤直紀 主題歌:B’z『永遠の翼』 監督補:中田信一郎
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出演:岸惠子(鳥濱トメ)、徳重聡(中西正也少尉)、窪塚洋介(板東勝次少尉)、筒井道隆(田端絋一少尉)、多部未華子(鳥濱礼子/トメの娘)、前川泰之(金山少尉)、中村友也(河合惣一軍曹)、渡辺大(加藤伍長)、木村昇(安部少尉)、蓮ハルク(松本軍曹)、宮下裕治(石倉伍長)、田中伸一(荒木少尉)、古畑勝隆(大島茂夫)、中越典子(鶴田一枝)、桜井幸子(板東寿子)、戸田菜穂(田端良子)、宮崎美子(河合の母)、寺田農(板東真太次)、勝野雅奈恵(鳥濱美阿子)、中原丈雄(憲兵大尉)、遠藤憲一(川口少佐)、江守徹(田端由蔵)、長門裕之(大島の祖父)、石橋蓮司(鶴田正造)、勝野洋(東大佐)、的場浩司(関行男海軍大尉)、伊武雅刀(大西瀧治郎中将)

あかね空

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■本当に永吉と正吉は瓜二つだったのね

京都で修行を積んだ豆腐職人の永吉(内野聖陽)は江戸の深川で「京や」という店を開くが、京風の柔らかな豆腐が売れたのは開店の日だけだった。永吉がやって来たその日から彼のことが気になる同じ長屋のおふみ(中谷美紀)は、落ち込む永吉を励ます。そしてもう1人、永吉の豆腐を毎日買い続けてくれる女がいた。

女は永吉とは同業者である相州屋清兵衛(石橋蓮司)の女房おしの(岩下志麻)だった。相州屋夫婦は子供の正吉が20年前に永代橋で迷子になったきりで、おしのは永吉に成長した正吉の姿を重ねていたのだ。ちょっと苦しい説明ではあるが、ま、それだけおしのの正吉に対する思いが強かったということか。

毎日作った豆腐を無駄にしてしまうのはもったいないと永代寺に喜捨することを考え(もちろん宣伝の意味もそこにはあった)、永代寺に豆腐を納めている相州屋に永吉とおふみは許しを請いに出かける。勝手にしろと突き放す清兵衛だったが、後にこれはおしのの願いと弁解しながらも、永代寺に京やの豆腐を買ってくれるようたのみにいく。清兵衛は彼なりに正吉のことに責任を感じていて、死ぬ間際にはおしのにそのことを詫びていた。

こうして京やの基礎が出来、永吉とおふみの祝言となる(泉谷しげるがいい感じだ)。京やのことをと面白く思わない平田屋(中村梅雀)という同業者が「今のうちに始末しておきたい」と、担ぎ売りの嘉次郎(勝村政信)にもちかけるが、気持ちのいい彼は京やの豆腐の味を評価するし、悪意のある行動にはならない。また京やの実力もさっぱりだったので大事には至らずにすんだようだ。他に出てくる人も、みな人情に厚い人たちばかりといった感じで、前半は締めくくられる。

後半はそこから一気に18年後の、浅間山の噴火に江戸中が大騒ぎしている不穏な空気の漂う中に飛ぶ。永吉とおふみには長男栄太郎(武田航平)、次男悟郎(細田よしひこ)、長女おきみ(柳生みゆ)という3人の子がいるし、店は相州屋があった家作を引き継いで(永代寺から借りて)繁盛していたが、外回りを任されていた栄太郎が、寄合の集まりで顔見知りとなった平田屋の罠にはまって、一家の絆は崩れていく。

小説がどうなっているのかは知らないし、平田屋の動向については語り損ねた感じもするが、この時間のくくり方は場面転換としてはうまいものだ。

おふみが賭場に出入りするようになった栄太郎を庇うのは、彼に火傷をおわせてしまった過去も一因になっているようだが、このことで夫婦仲に亀裂が入るし(中谷美紀の怒りっぷりはすごかった)、運悪く永吉は侍の乗る馬に撥ねられて命を落としてしまう。

栄太郎の賭場の借金を肩代わりした平田屋は、栄太郎が清算したはずの証文を手に、賭場を仕切っている数珠持ちの傳蔵親分(内野聖陽)を伴って、ちょうど焼香に帰った栄太郎が弟妹とで揉めている京やに乗り込んでくる。

傳蔵の仕組んだ最後のオチで京やは救われるのだが、これが少々もの足らないのはともかく、傳蔵に平田屋を裏切らせるに至った部分が、描かれていないことはないがあまりに弱い。が、内野聖陽による2役は、おしのが永吉を正吉と思い込んだことを印象付けるなかなかのアイディアだ(傳蔵は正吉だったことを再三匂わせているわけだから)。

平野屋が悪者なのは間違いないが、浅間山の噴火の影響で江戸の豆腐屋が困っているのに京やだけが値上げしないというところでは、永吉の「値上げをしないのが信用」という言葉が単調なものにしか聞こえない。寄合の席で栄太郎が居心地が悪くなるわけだ。もっともその後の栄太郎の行動は、甘ったれた弁解の余地のないものでしかないのだが。

栄太郎が賭場で金を使い込み、その取り立てに傳蔵がきて、おふみが33両を返し(臍繰りか)、さらに金を持ち出そうとした栄太郎にそれを与えている(これで栄太郎は勘当となる)し、永代寺から借りていた家作を買わないかという話にも応じようとしていた。そんなに金を貯め込めるのだったら、値上げをしないことより、それ以前にもっと安く売るのが本筋ではないかと思ってしまう。

豆腐を作る過程をきちんと映像にしているのはいいが、CGは意識してなのかもしれないが全体に明るすぎだし、「明けない夜がないように、つらいことや悲しいことも、あかね色の朝が包んでくれる」という広告のコピーに結びつけた最後のあかね空も取って付けたみたいだった。

そしてそれ以上に落ち着かなかったのが人物描写におけるズーミングで、どれも少し急ぎすぎなのだ。カメラワークはそうは気にしていないが、時たま(今回のように)相性の悪いものに出くわすと、それだけで集中できなくなることがあって、重要さを認識させられる。

 

【メモ】

気丈なおふみの口癖は「平気、平気やで」。

「上方から来たのは下りもんといってありがたがられる」のだと、平田屋は京やの店開きを警戒する。

傳蔵の手首のあざ。

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:角川ヘラルド映画
 
監督:浜本正機 エグゼクティブプロデューサー:稲葉正治 プロデューサー:永井正夫、石黒美和 企画:篠田正浩、長岡彰夫、堀田尚平 原作:山本一力『あかね空』 脚本:浜本正機、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:川口直次 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 照明:水野研一 整音:瀬川徹夫 録音:藤丸和徳
 
出演:内野聖陽(永吉、傳蔵)、中谷美紀(おふみ)、石橋蓮司(清兵衛)、岩下志麻(おしの)、中村梅雀(平田屋)、勝村政信(嘉次郎)、泉谷しげる(源治/おふみの父)、角替和枝(おみつ/おふみの母)、武田航平(栄太郎)、細田よしひこ(悟郎)、 柳生みゆ(おきみ)、小池榮(西周/永代寺住職)、六平直政(卯之吉)、村杉蝉之介(役者)、吉満涼太(着流し)、伊藤高史(スリ)、鴻上尚史(常陸屋)、津村鷹志(上州屋)、石井愃一(武蔵屋)、東貴博〈Take2〉(瓦版屋)

オール・ザ・キングスメン

武蔵野館3 ★★★★

■叩けば出る埃

考えさせられることの多い深遠な映画だが、その前にまずどうにも居心地の悪くなる映画でもあった。

映画の語り手であるジャック・バーデン(ジュード・ロウ)という人間は一体何を考えているのだろう。いつまでも初恋にしがみついているだけの男?「どこで何が起ころうと関知しない主義」だから「知らなければ傷つくことがない」などと言うのだろうけど、どうもうじうじしているだけのようで、それは自分のそういう部分を見せつけられている気分になるからでもあるのだが、どうにか出来ないのかと言いたくなってくるのだ。こんなヤツが語り手だからだろう、実際ジャックの性格によるところは大きく、彼の回想部分が交錯する構成は少しまわりくどいものとなっている。

ウィリー・スターク(ショーン・ペン)はもう1人の主人公というべき人物で、郡の出納官にすぎなかったが「たった1人で汚職に立ち向かった男」(これはジャックの記事)として注目され、州の役人タイニー・ダフィ(ジェームズ・ガンドルフィーニ)にそそのかされるように知事選に打って出る。が、その出馬は別候補の引き立て役にすぎなかったこと知る。スタークという男に魅せられた新聞記者のジャックは、彼の下で働きたいとその前から言っていたのだが、彼に演説の仕方を助言したことで彼に輝きが戻り、彼の熱狂的ともいえる原稿なしの演説が始まることになる。

いつもながらやり過ぎとも思えるショーン・ペンの演技が、このスタークに関してはぴったりで、選挙戦での昂揚ぶりは見事という他ない。ジャックは新聞社の方針に反した彼の提灯記事(本心だったろうが)を書いて辞職となり、スタークは地滑り的大勝利を収め知事に就任する。

権力を手にした人間の辿る道は結局同じなのか、富裕層や企業への対決姿勢を崩さないスタークだが、自身は酒に溺れ(ジャックが最初に会った時は妻に遠慮して酒は飲まないといって「オレンジソーダにストロー2本」だったのだが。選挙戦の時もこの禁は犯している)、女遊びもはじまり、不正への疑惑までが新聞を賑わせるようになる。

引退後も影響力があるアーウィン元判事(アンソニー・ホプキンス)の、疑惑の調査が望ましいという発言から弾劾になることを察したスタークは、アーウィン判事のことを調べるようジャックに命令する。

そもそもアーウィンはジャックのおじで「父が去った後、父以上に父らしい人間」であった。ジャックから見てもアーウィンは、まずなにより高潔な判事であり、いくら探り回っても何も出てこないのだが、スタークは執拗にアーウィンを調べろと言い続ける。叩けば埃の出ない人間などいないと言わんばかりに。

これはスタークの人間観そのもので、自分のことも埃の出る人間として見ているからだろう「私の部下の不正は、潤滑油で今までの知事とは比較にならないくらい小さい」と言って憚らない。それに、それなりに評価すべきこともやっていたようだ。

ジャックのことを考えるとイライラするのは、あまりに我関せずでいるからなのだが、しかしスタークに対しては、何故職を辞してまで彼について行こうとしたのか。シニカルなジャックがスタークに魅せられたのは、一般大衆のように熱狂的な演説によってだとは思えない。単にスタークという男の一部始終を見届けたかった、というのにも同意しかねる。彼の人間観に惹かれたというのが、意外に当たっていそうな気がするのだが。

そうして、完璧と見えたアーウィンから、ついに埃が出る日がやってくる。

アーウィンはジャックに突きつけられたその疑惑(現在の地位は不正に手に入れたものと記した手紙)を、こんなものは証拠にもならないと否定した上で関係者もみんな故人と付け加えるが、しかし、自ら命を絶つことで疑惑が事実であることを認めてしまう。母から自殺を知らせる電話が入って、ジャックは母に責められ、意外な事実を知る。「あなたは実の父を殺した」と。

ジャックの父がどういう状況で「去った」のかは語られていないのではっきりとはいえないのだが、アーウィンは母の浮気相手ということになる(「私も君を苦しめることが出来る」とアーウィンが言っていたのはこのことだったか)。アーウィンが父としてジャックに接していたことは、ジャックの回想からも、またアーウィンが残していたジャックについてのスクラップブックからもわかるのだが、それはジャックにとって慰めになったのだろうか。

アーウィンがいなくなったからなのかはわからないが、スタークへの弾劾投票は否決される。新しい病院の院長にアーウィンが要請していた前知事の息子であるアダム・スタントン(マーク・ラファロ)が就くことも決まって、もう怖いものが何もなくなったかに見えたスタークだったが、そのアダムに暗殺されてしまい、ダフィ新知事が誕生する。

ジャックにとってはアダムは昔からの親友で、その妹のアン(ケイト・ウィンスレット)はジャックの初恋の相手だった。アーウィンの過去を暴くためにアンに再会したジャックだったが、映画では最初の方からジャックとアダムとアンの3人が夜の海にいる場面が何度か繰り返されている。

この回想場面は、ジャックの記憶が曖昧でなかなか思い出せないでいることなのかと思ってしまったのだが、そうではなく(こんな大切なことをそう簡単には忘れないよね。そんな年でもないし)、思い出したくなかっただけだったのか(もしそうならこの場面の挿入の仕方はずるくないだろうか)。

ジャックはアンと海の中で気持ちを伝え会い、部屋にまで行くが、「あまりに大切で壊したくなくて」何もしないままで終わる。このことをジャックはいつまでも気にしていて、アンの気持を今になってもはかりかねているようなのだ。

しかし、アンの気持ちはどうであれ、彼女は何故かスタークの女になっていた。いや、それはアダムを院長にするためにだったらしいのだが、スタークにとってもスタントンの名声が利用できる、願ってもないことだったというのに。事実ジャックは、アダムの説得にあたっていた。「知事は悪でも病院は善だ。善は悪からも生まれる」と言って。

アダムは世間知らずなのかもしれないが純粋で、ジャックとアンとのことも優しく見守ってくれるような男だった。アダムにとってもアンとスタークのことは寝耳に水で、アンに「妹の情夫のヒモにはならない」と言ったらしい(ここでジャックが「僕もそう思う」と言っていたのには笑いたくなったが)。

アダムによるスターク殺害の理由はこれ以上には語られていない。こんなことで、と思わなくもないが、とにかくあっけない幕切れだ。2人から流れた血が溝にそって広がり混じっていく画面が、ひどく陰惨なものに見えた。それはスタークとアダムという、水と油のような2人の人間を無理矢理引き合わせた結果であり、死によってしか混じりあえないとでもいっているようだった。

結局、ジャックのやってきたことはなんだったのか。機会があったらもう1度観て考えてみたい。

  

【メモ】

この映画は1949年版のリメイクで、原作はロバート・ペン・ウォーレンによる1946年のピューリッツァー賞受賞作(鈴木重吉訳の「白水社版では『すべて王の臣』という邦題がついている)。1928年から32年にルイジアナ州知事となったヒューイ・P・ロング(後に上院議員)について書かれた実話だそうだ。

原題のAll the King’s Menは『マザーグース』のハンプティ・ダンプティからの引用で、取り返しのつかない状況を表す。ついでながら、1974年の『大統領の陰謀』(原題:All the President’s Men)は、All the King’s Menのもじりがタイトルになっている。

Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses and all the king’s men
Couldn’t put Humpty together again.

原題: All the King’s Men

2006年 128分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦奈美

監督・脚本:スティーヴン・ザイリアン 製作:ケン・レンバーガー、マイク・メダヴォイ、アーノルド・メッサー、スティーヴン・ザイリアン 製作総指揮:アンドレアス・グロッシュ、マイケル・ハウスマン、ライアン・カヴァノー、トッド・フィリップス、アンドレアス・シュミット、ジェームズ・カーヴィル、デヴィッド・スウェイツ 原作:ロバート・ペン・ウォーレン 撮影:パヴェル・エデルマン プロダクションデザイン:パトリツィア・フォン・ブランデンスタイン 衣装デザイン:マリット・アレン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:ジェームズ・ホーナー
 
出演:ジュード・ロウ(ジャック・バーデン)、ショーン・ペン(ウィリー・スターク)、アンソニー・ホプキンス(アーウィン判事)、ケイト・ウィンスレット(アン・スタントン)、 マーク・ラファロ(アダム・スタントン)、パトリシア・クラークソン(セイディ・バーク)、ジェームズ・ガンドルフィーニ(タイニー・ダフィ)、ジャッキー・アール・ヘイリー、キャシー・ベイカー、タリア・バルサム、トラヴィス・M・シャンパーニュ、フレデリック・フォレスト、ケヴィン・ダン、トム・マッカーシー、グレン・モーシャワー、マイケル・キャヴァノー

蒼き狼 地果て海尽きるまで

新宿ミラノ3 ★★

■内容以前で、どうにも恥ずかしい

どこの国の話でも英語で処理してしまうアメリカ映画の臆面のなさには辟易していたが、まさか同じことを日本の映画界がしでかすとは(大映が制作した『釈迦』という映画が大昔にあったが観ていない)。しかもいくら同じモンゴロイドとはいえ、日本人が主要キャストを独占していては、比較するのは無理ながら『SAYURI』の方がずっとマシではないか。韓国人のAraはいるが、モンゴル人ではないしね。といって何人かをモンゴル人にしていたら、かえっておかしなものが出来てしまっていただろう。

チンギス・ハーンには高木彬光の『成吉思汗の秘密』以前から成吉思汗=義経説というのがあって、日本人には馴染みが深いということも選ばれた理由の1つと思われるが、そうはいっても21世紀にもなって日本人による日本人のチンギス・ハーンというのは恥ずかしすぎる。

角川春樹は1990年にも『天と地と』で、似たようなことをしているが、あれはロケ地はカナダながら、あくまで日本の話だからその点では問題はなかった。ただ人海戦術映画という点では同じだ。『天と地と』は大味な映画だったが、人間の趣向というのはあまり変わらないようで、昔も今も大作好みなのだろう。好みの差は差し引いても、30億の制作費をかけるべき映画になっていたとは思えない。

確かにスケール感はアップしそれなりの臨場感は出てはいるが、戦闘場面全部が似たような印象では同じものを引用しているようで、ありがたみが少なくなってしまう。それにこういうのは、敵との位置関係、戦力、戦術などがわからないと盛り上がらないと思うのだが。

多数のエキストラを背景にしたチンギス・ハーンとなるテムジンの即位式に至っては、退屈なこともあるが、エキストラがモンゴル人だということを意識してしまうと、これはただただ恥ずかしいとしか言いようがない。

それには目をつぶっても、物語が全体に説明口調なのはいただけない。テムジン(反町隆史)が部族を統一し、金に勝ち、大帝国を築きあげていく流れはヘタな説明でもわかる。が、そこに至る戦いにどんな意味があったのかという部分が、ナレーションに頼りすぎていることもあって、いかにもお座なりな感じがしてしまうのだ。

少年時代にテムジンとかわした、生涯にわたり裏切らないという按達(あんだ)の誓いを、信頼の証ではなく裏切りを恐れる不信の証で、子供の遊びにすぎないと言い放つジャムカ(平山祐介)との宿命の戦いや、2人を巻き込んだ、モンゴルの大部族の長でテムジンの父イェスゲイ(保阪尚希)とは按達のトオリル・カン(松方弘樹)との関係もしかり。

ただ、母のホエルン(若村麻由美)だけでなく妻のボルテ(菊川怜)までもが略奪され、共に父親のわからない子を出産し、それが母の場合はテムジンであり、妻の場合はテムジンがよそ者という意味の名を付けたジュチ(松山ケンイチ)という話は巧妙だ。悲劇の主人公となるジュチの悲しみがかつてのテムジンの悩みに重なるし、そこには女性の視点も入っているからだ。

もっともこれはクラン(Ara)という、やはりはじめは敵ながらテムジンに寵愛される女兵士が登場することで、ボルテは消えたようになってしまうから、女性の視点など忘れてしまったかのようだ。私もクランにはクラクラしてしまったから、テムジンと一緒で、女性の気持ちなどいい加減にしか考えていないのかも(クランにとってはそうではないにしても)。余談はともかく、そういう部分をこういう大作で描くのはやっぱり難しいんでしょうね。

  

2006年 136分 シネスコサイズ 

監督:澤井信一郎 製作:千葉龍平 プロデューサー:岡田裕、徳留義明、大杉明彦、海老原実 製作総指揮:角川春樹 原作:森村誠一『地果て海尽きるまで 小説チンギス汗』 脚本:中島丈博、丸山昇一 撮影:前田米造 特撮監督:佛田洋 美術監督:中澤克己 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 主題歌:mink『Innicent Blue~地果て海尽きるまで~』  照明:矢部一男 第2班監督:原田徹 録音:紅谷愃一

出演:反町隆史(テムジン/チンギス・ハーン)、菊川怜(ボルテ)、若村麻由美(ホエルン)、Ara(クラン)、袴田吉彦(ハサル)、松山ケンイチ(ジュチ)、野村祐人(ボオルチュ)、 平山祐介(ジャムカ)、池松壮亮(少年時代のテムジン)、保阪尚希(イェスゲイ・バートル)、苅谷俊介(チャラカ)、今井和子(コアクチン)、唐渡亮(イェケ・チレド)、神保悟志(タルグタイ)、永澤俊矢(ダヤン)、榎木孝明(デイ・セチェン)、津川雅彦(ケクチュ)、 松方弘樹(トオリル・カン)

愛の流刑地

銀座シネパトス2 ★★

■裁判の結果をありがたがるとは

作家の村尾菊治(豊川悦司)は、人妻の入江冬香(寺島しのぶ)を情事の果てに扼殺したと警察に電話する。逮捕から裁判へと進むが、村尾は扼殺は冬香にたのまれた上でのことで、愛しているからこその行為だったという。

冬香には3人の子供がいるのだから無責任には違いないが、たとえそうだとしても非難するには当たらないだろう(それに、嘘の生活を続けても責任のあることとはいえないし)。2人のことは2人で決着をつけるしかないのだから。それでも子供の存在は、冬香を死にたくさせたかもしれないとは思う。幸せなままでいたいための死なのだから。

しかし問題なのは、村尾が冬香の真意を理解しないうちに、懇願されるまま首に手をかけ殺してしまったことだ。

村尾に会って生きている感じがすると言っていた冬香が死にたいと口に出すようになったのは、先に書いたことでほぼ言い尽くしているだろう。が、村尾は、冬香に会うまでが死んでいたのであって、冬香に会ってからは創作意欲も出てきて(昔は売れっ子だったが、最近は何も書けずにいる作家という設定)小説を書き上げたいし、君と一緒に生きたいと言っていたのにだ。

そういう意味では冬香は、子供(小説)が出来るまでは待っていたともいえるが、とにかく殺人を犯した当の村尾がやってしまった後で困惑しているのでは、観ている方はさっぱりである。

映画は裁判を通しながら、村尾と冬香の出会い、密会場面をはさんで進行していく。裁判の争点を、2人の愛の軌跡と重なり合わせるように明かしていこうというのだろう。構成はわかりやすくとも、そもそも裁判には馴染まない内面の問題を扱っているのだから、おかしなことになる。

村尾もそのことは自覚していて、「刑はどんなに重くなってもいいから彼女をもうこれ以上人前に晒したくない」「愛は法律なんかでは裁けない」「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか。この裁判は何もかも違っている」というようなことを何度も発言しているのだが、だったら何故そんな裁判に彼は付き合うのか。裁判という手続きからは逃れられないというのがテーマならともかく、村尾は、最後には裁判結果の懲役8年を、冬香から与えられた刑としてありがたがっているのだから、わけがわからない。

私の理解を超えているのでうまく説明できないのだが、村尾は自分が、冬香から「選ばれた殺人者」だったことに気づく。そして、だから冬香のためにどんな処罰も受けたいのだとも言う。また、冬香からも、自分が死んだ後に村尾が読むことを想定した手紙(村尾を悪い人と言いながら、舞い上がった自分には罪があるのであなたに殺してもらうというような内容)が届いて、村尾は自分の認識が間違っていないことを確証して終わるのだが、この結論に至るまでのぐだぐださにはうんざりするばかりだ。

村尾と冬香の愛の形を補足するために、女検事の織部美雪(長谷川京子)も重要な役を与えられている。彼女は自分の検事副部長(佐々木蔵之介)との恋愛関係が、愛より野心が優先されたものであることから(これについては自分でも納得していたようだ)、冬香の生き方に次第に共感するようになるのだが、長谷川京子の演技がひどく、対比する以前にぶち壊してしまっていた。

もっともこれは演技だけの責任ではなく、ことさら女を強調したような服装で登場させた監督の責任も大きいだろう。村尾が愛の行為を録音していたボイスレコーダーを証拠に、嘱託殺人として争うことを持ちかける弁護人役の陣内孝則や、冬香の夫の仲村トオルも浮いていては、裁判場面は嘘臭くなるばかりで、映画が成立するはずもない。

村尾の無実を疑わない高校生の娘高子(貫地谷しほり)や、村尾を怨みながら「後悔していないから」と言い残して出ていった冬香の本当の気持ちが知りたい母(富司純子)も登場するが、これは村尾に配慮しすぎで、しかしこれは原作者である渡辺淳一の都合のいい妄想に思えなくもない。

なにしろ村尾の昔のベストセラーは、18歳の女性が年上の男たちを手玉に取る話で、これを高子だけでなく、冬香も18の時に読んで心酔したというのだから。そういえば村尾の新作は、文体が重くて若者に受けないとどこの出版社からも断られてしまうのだが、これについても冬香に「この子(小説)はいつか日の目を見る」と言わせていた。ま、とやかく言うことでもないのだけどね。

【メモ】

原作の『愛の流刑地』は、2004年11月から2006年1月まで日本経済新聞で連載され、内容の過激さからか「愛ルケ」という言葉が生まれるほどの話題となった。

映画の村尾は45、冬香は32歳という設定。

冬香という熱心なファンを紹介することで、村尾に少しでも書く気が起きてくれたらと思ったと言う魚住祥子に、織部は「生け贄を差し出した」と皮肉っぽく評していたのだが。

寺島しのぶに敬意を払ったと思えるきれいな映像もあるが、街並みにオーバーラップさせたり、太陽を持ってきたりする場面は大げさでダサイだけだ。

2006年 125分 ビスタサイズ R-15

監督・脚本:鶴橋康夫 製作: 富山省吾 プロデューサー:市川南、大浦俊将、秦祐子 協力プロデューサー:倉田貴也 企画:見城徹 原作:渡辺淳一『愛の流刑地』 撮影:村瀬清、鈴木富夫 美術:部谷京子 編集:山田宏司 音楽:仲西匡、長谷部徹、福島祐子 主題歌:平井堅『哀歌(エレジー)』 照明:藤原武夫 製作統括:島谷能成、三浦姫、西垣慎一郎、石原正康、島本雄二、二宮清隆 録音:甲斐匡 助監督:酒井直人 プロダクション統括:金澤清美

出演:豊川悦司(村尾菊治)、寺島しのぶ(入江冬香)、長谷川京子(織部美雪/検事)、仲村トオル(入江徹/冬香の夫)、佐藤浩市(脇田俊正/刑事)、陣内孝則(北岡文弥/弁護士)、浅田美代子(魚住祥子/元編集者、冬香の友人)、佐々木蔵之介(稲葉喜重/検事副部長)、貫地谷しほり(村尾高子/娘)、松重豊(関口重和/刑事)、本田博太郎(久世泰西/裁判長)、余貴美子(菊池麻子/バーのママ)、富司純子(木村文江/冬香の母)、津川雅彦(中瀬宏/出版社重役)、高島礼子(別れた妻)

あなたを忘れない

新宿ミラノ3 ★★

■本気で日韓友好を描きたいのなら……

2001年1月26日、JR新大久保駅で酒に酔った男性がホームに転落。助けようとして線路に飛び降りた韓国人留学生イ・スヒョン(26歳)さんと日本人のカメラマン関根史郎(47歳)さんが、ちょうど進入してきた電車にひかれ3人とも死亡するという事件があった。その亡くなった韓国人留学生を主人公にして製作されたのが、この日韓合作映画だ。

兵役を終え留学生として日本にやって来たイ・スヒョン(イ・テソン)は日課のようにマウンテンバイクで東京めぐりをしていた。ある日、路上ライブをしていた星野ユリ(マーキー)の歌声に惹かれていると、トラブルに巻き込まれてマウンテンバイクを壊されてしまい、ユリのバンド仲間でリーダーの風間(金子貴俊)たちにユリの父親の平田(竹中直人)が経営するライブハウスに連れて行かれる……。

スヒョンとユリとに芽生える恋物語を中心とした挿話の数々は決して悪くはないが、といって日韓友好というテーマをはずしてしまうと、そうほめられた内容でもない。

スヒョンは家族思いで、日本に対する偏見もない、とにかく立派な好青年。スヒョンは5歳まで祖父と父と一緒に大阪に住んでいたという設定だから(なのに)、親たちからも嫌な話は聞かされることなく育てられたのだろう(スヒョンに彼の父が「色眼鏡で見ないことだ」と諭す場面もある)。

それに比べると初対面時の平田は偏見の塊。ユリとは喧嘩ばかりというのも、家族が大切なのは韓国では当たり前というスヒョンには理解できないようだ。平田はすでにユリの母親の星野史恵(原日出子)とは離婚していて、商売もうまくいかなくなっている。ユリをなんとか売り込もうとする(形としては風間のバンドとしてだが)が、その点ではユリを利用することでしか自分たちを売り出せない風間も似たようなものだ。果てはスヒョンのマウンテンバイクに車をぶつけながら逃げてしまうタクシー運転手などもでてきて、日本人はどうにもだらしのないヤツらばかりである。

日本のマンガに熱中して日本にやってきたということもあって、スヒョンの親友のヤン・ミンス(ソ・ジェギョン)も悪気のない人物に描かれている。日韓友好を全面に押し出そうとすると、かえってこの日韓の落差が槍玉に上がりそうである。

そんなことは気にしすぎなのかもしれないが、検証はしておくべきだろう。「初対面のベトナム人にベトナム戦争で敵だったと言われた」ことや韓国の兵役が自由のない場所(「日本は何も考えなくていいほど平和で自由」というセリフも。これは皮肉なのだろうけど)であることも語られていたし、すくなくとも映画は公平であることに気を配っていたといってよい。平田にも最後になって見せ場が用意されているし。

なのにいつまでもこだわってしまうのは、「事実に基づいて作られたフィクション」という映画のはじめにある言葉の解釈に惑わされてしまうせいだ。新大久保駅で起きた事件との事実の差についてはいろいろ言われているが、ここまでフィクションに重きを置くのならば、やはりあの事件とは関係なく描いた方がよかったのではないだろうか。

フィクションが取り入れられるのはこの手の映画では当然のことながら、事件から6年しか経っていない生々しさの中で、主人公が実名で出てきては、映画の内容よりそちらの方に興味が向くのはいたしかたないところだ。

例えばスヒョンには韓国に恋人がいたという。それでこんな物語では、恋人は悲しむだろう。韓国に配慮したつもりでいても、こんな大事な部分を改変して韓国で公開出来るはずがないと思うのだが(公開も出来ずに、日韓合作というのもねー)。

ラストシーンもやはり疑問だ。たとえスヒョンが手を広げて電車に立ち向かっていったのが事実(違うと言っている人もいる)だとしても、これについてはどんな形でもいいから捕捉しておかないと、とんでもなくウソ臭いものにしかみえない。

最後の字幕は「この映画を李秀賢さんと関根史郎さんに捧ぐ」で、こうやって締めくくられると、やはり事実の部分が重くのしかかってくる。であれば、なぜ関根史郎さんをあんな扱いにしたのかとか、ホームに人が大勢いたように描いたのかという疑問に行き着くと思うのだが、製作者は何も考えなかったのか。日韓友好を描こうとして、日韓非友好に油を注いでしまっては何にもならないではないか。残念だ。

  

【メモ】

映画のタイトルは、スピッツのチェリーの歌詞から。

2006年 130分 ビスタサイズ 日本、韓国 

監督:花堂純次 プロデューサー:三村順一、山川敦子、杉原晃史 エグゼクティブプロデューサー:吉田尚剛、藤井健、山中三津絵、成澤章 原作:康煕奉『あなたを忘れない』、辛潤賛『息子よ!韓日に架ける命のかけ橋』、佐桑徹『李秀賢さんあなたの勇気を忘れない』(日新報道刊) 脚本:花堂純次、J・J・三村 撮影:瀬川龍 美術:山崎輝 編集:坂東直哉、阿部亙英 主題歌:槇原敬之『光~あなたを忘れない~』、HIGH and MIGHTY COLOR 『辿り着いた場所』 記録:田中小鈴 照明:岩崎豊 録音:西岡正己
 
出演:イ・テソン[李太成](イ・スヒョン[李秀賢])、マーキー(星野ユリ)、竹中直人(平田一真/ユリの父)、金子貴俊(風間龍次)、浜口順子(岡本留美子)、原日出子(星野史恵/ユリの母)、大谷直子(高木五月)、ルー大柴(佐藤)、吉岡美穂(小島朝子)、高田宏太郎(ケンジ)、二月末(テツ)、矢吹蓮(タカシ)、岩戸秀年(ゴロー)、ジョン・ドンファン[鄭棟煥](イ・ソンデ/スヒョンの父)、イ・ギョンジン[李鏡珍](シン・ユンチャン)、ソ・ジェギョン[徐宰京](ヤン・ミンス)、 イ・ソルア[李雪雅](イ・スジン/スヒョンの妹)、ジョン・ヨンジョ[鄭玲朝](ヨンソク)、ホン・ギョンミン(ユ・チジン)

エレクション

2007/01/28 テアトル新宿 ★★☆

■静かな男が豹変する時……

5万人もの構成員を擁する和連勝会という香港最大の裏組織では、2年に1度行われる幹部会議での次期会長選挙が近づいていた。候補者は、年長者からの人望が厚いロク(サイモン・ヤム)に、強引に勢力を広げてきたディー(レオン・カーファイ)。選挙とはいえ裏工作はすさまじく、単なる穏健派と武闘派という枠を超えた闘いになっていた。

過半数を抑えていたはずのディーだったが、なりふり構わぬ賄賂などを長老幹部のタン(ウォン・ティンラム)に指摘され、ロクに破れてしまう。納得できないディーは、自分の意に添わない者を報復し、前会長のチョイガイには会長職の象徴である竜頭棍をロクに渡さないよう脅す。

ここからはこの竜頭棍をめぐっての争奪戦が始まるのだが、冷静に考えれば、じゃあ一体選挙はなんだったのだ、と思ってしまう。一連の不穏な動きに警察が口をくわえているはずもなく、ディーやロクを含めた和連勝会の幹部たちは次々に逮捕されてしまうが、すでに竜頭棍の争奪戦は部下たちによる争いになっていた。映画のかなりの時間を占める広州(チョイガイの命で竜頭棍は本土に渡っていた)から香港に至るこの争いは、登場人物が入り乱れて少しわかりにくいのだが、下部組織ではお互いに敵か味方かの区別さえ定かでないという馬鹿らしい状況は演出できていた。

これだけの争いを繰り広げながら、結局は手打ちのようなことになって、何とも重々しい儀式が執り行われるのだが、竜頭棍といい、この儀式といい、まったく理解不能。常に組織のまとめ役を意識しているロクや、最終的に竜頭棍を手に入れた頭脳的なジミー(ルイス・クー)が幹部への道を約束されたことで儀式を利用するのはまだしも、「新和連勝会」を立ち上げて宣戦布告までしたディーが神妙な顔つきをしてその場にいるのである。

ロクから次の会長選での支持を約束されたディーは、ロクと肩を並べるようにしてしばらくは我が世を謳歌していたが、調子に乗って「俺たちも会長を2人にしねえか」とロクにもちかけたことで、ロクの本性が剥きだしとなる恐ろしい結末を迎えることになる。

ロクの豹変ぶりは、いままでの彼の性格からは想像しにくいだけに恐怖度が高い。しかも殺しの手口は銃などではなく、一緒に釣りに行った先にころがっていた何ということもない大きな石で、しかしその行為の執拗さは狂気を思わせるものだ。ディーに必要以上にハイテンションな演技をさせていたのはこのラストシーンのためだったか。あれだけ暴れまくっていた(しかしそうはいってもやはり幼稚でしかない)男のあまりにあっけない最期。ロクはディーの妻も同じように殺して埋めてしまうのだが、その一部始終を彼の子供が見ているという、なんとも居心地の悪い場面まで用意されている。

ラストに限らずヒリヒリするような痛みを伴う映画ではあるが、意味のない竜頭棍の争奪戦や儀式が、それをぶち壊していないか。意味のないことを繰り返していることに批判の矛先があるのかもしれないが、私には興味のない世界でしかなかった。

【メモ】

中国黒社会の源流が少林寺にあるというようなことがいわれていたが、その真偽はわからない。ただ「漢民族の名の下に……」という部分は本当らしい。HPには「組織の歴史は17世紀にさかのぼる。満州族の清王朝支配を打倒し、漢民族王朝を復活するために、血の誓いを交わして結ばれた秘密結社として発足」とある。

原題:黒社會 英題:Election

2005年 101分 シネスコサイズ 香港 R-15 日本語版字幕:■

監督:ジョニー・トー[杜(王其)峰] 製作:デニス・ロー[羅守耀]、チャールズ・ヒョン[向華強]、ジョニー・トー 脚本:ヤウ・ナイホイ[游乃海]、イップ・ティンシン[葉天成] 撮影監督:チェン・チュウキョン[鄭兆強] 音楽:ルオ・ダーヨウ[羅大佑] 編集:パトリック・タム[譚家明] 衣装:スタンレー・チョン[張世傑] 美術監督:トニー・ユー[余興華] スチール:岡崎裕武

出演:サイモン・ヤム[任達華](ロク)、レオン・カーフェイ[梁家輝](ディー)、ルイス・クー[古天樂](ジミー)、ニック・チョン[張家輝](フェイ)、チョン・シウファイ[張兆輝](ソー)、ラム・シュー[林雪](ダイタウ)、ラム・カートン[林家棟](トンクン)、ウォン・ティンラム[王天林](タン)、タム・ビンマン[譚(火丙)文](チュン)、マギー・シュー[邵美(王其)](ディー夫人)、デヴィッド・チャン[姜大衛](ホイ警視)

悪夢探偵

2007/01/20 シネセゾン渋谷 ★★☆

■現代は死にたい病なのか。悪夢探偵、がどーもねー

密室のベッドで自分自身を切り刻んで死んだと思われる事件が続いて起き、そしてどちらも死の直前に、ケータイから「0」(ゼロ)と表示される相手に発信していたことがわかる。キャリア組から現場志願で担当になったばかりの霧島慶子(hitomi)は、関谷刑事(大杉漣)に嫌味を言われながらも、パートナーとなった若宮刑事(安藤政信)と捜査を開始する。ゼロによる暗示が自殺を招いた可能性があるため、ゼロとのコンタクトは危険かもしれず、また被害者が悪夢を見ていたようだという証言から、「悪夢探偵」である影沼京一(松田龍平)にも協力を求めることになる(非科学的とか弁解してたけど、こりゃないよね)。

それ以前に、この悪夢探偵という言葉には苦笑(いや、いい意味でだったのだけど)。勝手に、達観した人物が超能力で夢に入り込んで、この間観たばかりの『パプリカ』と同じようなことでもするのかと思っていた(アニメと実写という違いはあるが、それにしてもまったく正反対の色調だ)。

が影沼は、他人の夢を共有する特殊能力こそ持っているが、そのことには怯えている。他人の夢に入るということは、人間の隠された本性や嫌な部分と対峙しなければならず、依頼者と自分に傷が残るかららしいのだが、だから悪夢探偵という言葉がまったく似つかわしくない人物。どころか自殺願望まで。だけど「人の夢の中で死ぬのだけはごめんだ」と(これはなんだ?)。だから霧島の依頼にも「いやだ、いやだ」とだだっ子のように耳を貸そうとしない。

捜査が進展しないことで若宮刑事はゼロに発信してしまう。このときケータイの向こうから「今、タッチしました」という声が入ってすぐ切れてしまうのだが、これは怖い。若宮刑事が危険にさらされることを知った悪夢探偵はしかたなく、若宮刑事の夢の中に入りゼロとの接触を試みる。

あとになって、霧島の問いに心(夢)の中に入っていけるのは共感ではないかとゼロが答える場面があり、なるほどと思う(とはいえこの説明だけではな)のだが、これで前向きで明るいキャラの若宮(破壊願望故の自殺願望?)もエリートの霧島も自殺願望があることになってはうんざりする。それだけ現代人の心の闇が深いということなのだろう。そして、自分でもそのことを簡単には否定できないにせよ、だ。

もう1つこの共感には、被害者の「一緒に死んでほしい」という気持ちがあることも見逃せない。被害者が本当に(繋がりを確認できる)死を望んでいたのだとしたら、これは犯罪なのだろうか、ということもあるのだが、映画はそこにとどまって考える余裕などは与えてくれない。

ゼロが具現化されてからは、もうとんでもないことになって、映像の洪水状態の中で、悪夢探偵の過去のトラウマが語られ、ゼロからは「平和ボケしたヤツらに真実を教えられるのはオレとお前だけ」とかなんとか。真実って? 「一緒に遊ぼうぜ」とも言っていたが、これは自殺騒動を一緒になってやろうということなのか。このあたりで完全に付いていけなくなっていた私にはわけがわからない。

悪夢探偵を救ったのは霧島の「私と生きて」という声。ここからはあっさり解決にむかい、ケータイを離さず何人かと話をしていた危篤状態にいた患者がゼロだった、と。で、最後は霧島と悪夢探偵の、恥ずかしくない程度に抑えた交流というか、霧島が掴み取った希望のようなものが語られる。

ふうむ。設定はマンガにしても、心の闇の部分はありふれた自殺願望というわかりやすさで提示していたし、「タッチした」と忍び込まれてしまう場面や、街にいる人間が激しく首を振ったり、ケータイがぐちゃりと曲がる映像など、恐怖感もちりばめられているというのに、この感想を書いているほどには、観ている時には感心できなかったのだ。

巻頭に悪魔探偵が、彼の父の恩師だという大石(原田芳雄)の夢から帰ってきた場面が悪夢探偵の紹介フィルムのようにあって、腕が布団の中に引っ込む映像など、ここまではゾクゾクしていたんだが。とはいえ、大石の「恩にきるぞ、悪夢探偵」というセリフには苦笑するしかなかったのだけどね。

 

2006年 106分 ビスタサイズ PG-12

監督・脚本・美術・編集:塚本晋也 プロデューサー:塚本晋也、川原伸一、武部由実子 エグゼクティブプロデューサー:牛山拓二 撮影:塚本晋也、志田貴之 音楽:石川忠 VFX:GONZO REVOLUTION エンディングテーマ:フジファブリック『蒼い鳥』 音響効果:北田雅也 特殊造形:織田尚 助監督:川原伸一、黒木久勝
 
出演:松田龍平(影沼京一/悪夢探偵)、hitomi(霧島慶子)、安藤政信(若宮刑事)、大杉漣(関谷刑事)、原田芳雄(大石恵三)、塚本晋也(ゼロ)

あるいは裏切りという名の犬

銀座テアトルシネマ ★★☆

■実話が元にしては話が強引

パリ警視庁(原題はここの住所:オルフェーヴル河岸36番地)で次期長官と目されるレオ・ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)の2人の警視。昇進の決まったロベール・マンシーニ長官(アンドレ・デュソリエ)の気持ちは、上昇志向の強いクランではなく、仲間からの信頼が厚いヴリンクスにより傾いていた。

折しも多発していた現金輸送車強奪事件の指揮官に長官はヴリンクスを任命するが、ヴリンクスとは別にこの事件を追っていたクランは、ヴリンクスの下で動くしかないことを承知で、長官に捜査に加えてもらうよう直訴する。

シリアン(ロシュディ・ゼム)からヴリンクスが得た情報により犯人のアジトを取り囲んだ警官隊だったが、手柄を立てようとしたのかクランが突然単独行動に出(これは?だし彼自身が標的になりかねない危険なもの)、そのため激しい銃撃戦となる。定年間近だったヴリンクスの相棒エディ・ヴァランス(ダニエル・デュヴァル)が殉職し、犯人は部下のエヴ(カトリーヌ・マルシャル)を盾にして逃亡してしまう。

クランの行動は糾弾され、調査委員会にかけられる。一方ヴリンクスは犯人逮捕にこぎつけるが、シリアンの情報提供の際に彼の殺人を見逃した(これがシリアンの交換条件だった)ことをクランから調査部に密告され、共犯容疑で逮捕されてしまう。特別外泊中のシリアン(獄中の身)の、刑務所に送った相手への報復殺人があざやかすぎるのはともかく、そのそばにいたヴリンクスを目撃していた娼婦が出てきて(かなり?)、クランに情報提供(これも?かな)となると、都合がよすぎないだろうか。

クランは調査委員会で無罪になり2人の立場は逆転する。ヴリンクスとの面会も許されない妻のカミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)はシリアンに呼び出されるが、家を盗聴していたクランらに追跡される。カミーユの密告を疑ったシリアンは無謀な逃走をし、車は横転してしまう。クランはかつて彼も愛していたはずのカミーユに銃弾を撃ち込む。

このクランの行動は謎ではないが、承認できない。少し前にカミーユから拒絶される場面はあるが、といってここまでするだろうか。状況からいっても必然性がないし自分が危なくなるだけだから、単純にクランの愛情が怨みに転化したと解釈していいのだろうが、話をつまらなくしてしまった(それにカミューユはすでに息絶えていたようにも見えた)。それともクランの人間性をより貶めるためのものだろうか。手錠のままカミーユの葬儀の場にいるヴリンクスに、クランはシリアンが彼女を撃ったとわざわざ告げているから、そうなのかもしれない。このセリフはヴリンクスにかえって疑念を抱かせるだろうから。

ヴリンクスは7年後に出所し、カミーユの死の真相を探り始め、パリ警視庁長官となっているクランに行き着く。

物語としてはこんなところだが、あらすじを書きながら?マークを付けていったように展開が少々強引(付け加えるなら、クランは調査委員会で無罪にはなったが、しかし長官にはなれないのでは)なのと、やはりクランのカミーユ殺害が納得できなかったことで、最後まで映画に入り込めなかった。肩入れしやすいヴリンクスにそって観ればいいのかもしれないが、ラストの決着の付け方もよくわからなかったから、それもできず。ま、私の趣味ではない作品ということになるのかも。

細かいことだが、最初にある警官による警視庁の看板強奪も何故挿入したのかが不明。まさかお茶目な警官像ということはないだろう。とすると、警官といったってやっているのはこんなものさ、とでも? あと、音楽が少しうるさすぎたのだけど。

 

【メモ】

ヴリンクス警視はBRI(探索出動班)所属、クラン警視はBRB(強盗鎮圧班)所属。

原題:36 Quai des Orfevres

2006年 110分 シネスコサイズ フランス 日本語字幕:■

監督:オリヴィエ・マルシャル 製作:フランク・ショロ、シリル・コルボー=ジュスタン、ジャン=バティスト・デュポン 製作総指揮:ユグー・ダルモワ 脚本:オリヴィエ・マルシャル、フランク・マンクーゾ、ジュリアン・ラプノー 共同脚本:ドミニク・ロワゾー 撮影:ドゥニ・ルーダン 編集:ユグー・ダルモワ 音楽:アクセル・ルノワール、エルワン・クルモルヴァン
 
出演:ダニエル・オートゥイユ(レオ・ヴリンクス)、ジェラール・ドパルデュー(ドニ・クラン)、アンドレ・デュソリエ(ロベール・マンシーニ)、ヴァレリア・ゴリノ(カミーユ・ヴリンクス)、ロシュディ・ゼム(ユゴー・シリアン)、ダニエル・デュヴァル(エディ・ヴァランス)、ミレーヌ・ドモンジョ(マヌー・ベルリネール)、フランシス・ルノー(ティティ)、カトリーヌ・マルシャル(エヴ)、ソレーヌ・ビアシュ(11歳のローラ)、オーロル・オートゥイユ(17歳のローラ)、オリヴィエ・マルシャル(クリスト)、アラン・フィグラルツ(フランシス・オルン)

王の男

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆

■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい

旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。

かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。

チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。

しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。

燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。

宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。

芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。

コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。

そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。

最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。

  

英題:The King and the Clown

2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
 
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)

インビジブル2

シネパトス2 ★★

■透明だから見せ場も作れない、てか

ライズナー研究所の開いたパーティで起きた不思議な殺人事件を担当していたフランク・ターナー刑事(ピーター・ファシネリ)とリサ・マルチネス刑事(サラ・ディーキンス)だが、国防総省の介入で捜査をはずされ、代わりに女性科学者マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)の警護を命じられる。

マギーは犯人の次の標的らしいのだが、フランクたちには肝腎なことは何も知らされない。半年前に研究所を解雇されている当のマギーも、守秘義務を盾に口を開こうとしない。張り込み中に、姿の見えぬ犯人はリサを殺害。そこへ何故か突入してきた特殊部隊。犯人はマギーに襲いかかるが、混乱の中、なんとかフランクに助けられ車に乗り込む。

あらすじだと緊迫感がありそうだが、映画は平凡な仕上がり。姿の見えぬ犯人=透明人間の怖さがほとんど出ていないのだ。目に見えないのだから、描きようがないのかもしれないが、だったら映画なんか作るな、と言いたくなる。ビデオカメラにうっすらと影が映ることで恐怖を予感させたり、透明人間を映像として捕捉するカメラ(ナイトビジョン搭載ビデオ)も出てくるが、どれもあまり機能していない。透明人間対透明人間の雨の中の決闘という、考え抜いただろう今回最大の見せ場も、不発。さらに言えば、雑踏で透明人間がフランクたちを追いかけるのはまったく無理がある(考えればわかることなのに!)。

やっとのことで犯人を振りきって逃げ込んだ警察でも、マギーを軍に引き渡すように言われるし、特殊部隊の突入にも不信感を抱いていたフランクは、またマギーと共にそこから逃げ出す。そして、マギーの口からもついに真相が……。

5年前の惨事(2000年公開の第1作)によって中断していた研究は、「見えない戦士」に期待を寄せる国防総省の援助のもと、ライズナー博士(デヴィッド・マキルレース)によって引き継がれていた。しかし透明化には、次第に細胞が損傷しついには死に至るという副作用があった。その緩和剤を完成させたのがマギー。だが、被験者となった特殊部隊員のマイケル・グリフィン(クリスチャン・スレイター)には、何故か緩和剤は投与されなかったらしい。そしてマギーには、解雇は緩和剤で死亡したためと説明されていたのだった。

国防総省が自ら出動して警察の動きを封じながら、しかしそれにしては悪玉の陰謀はスケールの小さいものだし、ひねりもない(ひねりすぎが流行った反動?)ものだ。とはいえ、兵器としてではなく、政敵の抹殺が目的というのは案外単純で正しい使い方かもしれない。ただし、このあたりの説明もあっさりしたものだ。

この政敵暗殺計画を語ったのは、第2号被験者というティモシー・ローレンス。彼はすでに瀕死の状態にあり、しかも可視化のだいぶ進んでいるおぞましい姿で登場する。この他にもマギーの妹ヘザー(ジェシカ・ハーモン)に魔の手を伸ばさせたり、なんとか平坦さを避けようとしているが、全体に人間関係に無頓着で深みがないから、用意した状況が生きてこない。フランクといい関係に見えたリサは、簡単にマギーの身代わりになって早々に退場させてしまうし、そのあと、フランクがマギーと近しい雰囲気になっていくあたりもまったくの書き込み不足。

一番怖くて面白い場面は、フランクが追いつめられて透明人間の薬を自分に打つところか。で、このあとグリフィンと対決し彼を殺戮するのだが、これがシャベルで刺し殺すという残忍なもの。今回は製作総指揮ながらポール・ヴァーホーヴェンらしさもうかがえる。

それにしても、グリフィンはどこまでが暴走だったのだろうか。透明人間より制御不能人間部分に重みをおいた方が、数段面白い作品になったはずだ。続編を暗示して終わった(次作はフランクの暴走か!)が、もう観ないかも。

クリスチャン・スレイター(最近活躍してないよね)は、ほとんど顔を見せることがなかったが、透明人間場面のギャラはもらえるのだろうか。

原題:Hollow Man 2

2006年 91分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:加藤リツ子

監督:クラウディオ・ファエ 製作:デヴィッド・ランカスター、ヴィッキー・ソーサラン 製作総指揮:ルーシー・フィッシャー、ポール・ヴァーホーヴェン、ダグラス・ウィック、レイチェル・シェーン キャラクター創造:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ 原案:ゲイリー・スコット・トンプソン 脚本:ジョエル・ソワソン 撮影:ピーター・ウンストーフ 視覚効果スーパーバイザー:ベン・グロスマン プロダクションデザイン:ブレンタン・ハロン 編集:ネイサン・イースターリング 音楽:マーカス・トランプ
 
出演:ピーター・ファシネリ(フランク・ターナー刑事)、ローラ・レーガン(マギー・ダルトン博士)、クリスチャン・スレイター(マイケル・グリフィン)、デヴィッド・マキルレース(ライズナー博士)、ウィリアム・マクドナルド(ビショップ大佐)、サラ・ディーキンス(リサ・マルチネス刑事)、ジェシカ・ハーモン(ヘザー・ダルトン)、ソーニャ・サロマ

無花果の顔

シネマスクウェアとうきゅう ☆

■わかりたくもない桃井ワールド

部下のやった手抜き工事を直す工務店勤めの父親(石倉三郎)。近所のようだったのに、わざわざウイークリーマンションまで借りて、しかも配管は複雑でも大した工事とは思えないのだが、こっそりやる必要があるからなのか、夜間だけ。でも、バレるでしょ。マンションの窓越しに見える女(渡辺真起子)が気になって仕方がなかったが、工事が終わってしまえばそれっきりである。「おとうさんが帰ってくるとうるさくていいわ」と、それなりにウキウキの母(桃井かおり)。でもその父に突然の死がやってきて……。

葬式で様子のおかしい母であったが、物書きになった娘(山田花子)と東京タワーの見えるマンションで暮らしだす。時間経過がよくわからないのだが、勤めだした居酒屋の店長(高橋克実)にプロポーズされてあっさり再婚し、新居に越していく。何故かそこに、前の家にあった無花果の木を植え(家はまだ処分していなかったのか)、前夫の遺品を埋める。娘は不倫のようなことをしていたようだが、子供を生む。

家族のあり方、それも主として母(妻)の置かれている立場を描いたと思われる。しかし、何が言いたいのかはさっぱりわからない。

例えば最初の食事の場面から家族がだんだんと消えていき、無花果の木に残されたカメラに向き合う母という構図で、彼女の見えない孤独を提示していたのかもしれないのだが、しかしこの場面を削ったり入れ替えたりしても、全体としてそうは影響がなさそうだ。そして、他にもそう思える場面がいくつもあるのだ。映画というのは単純に時間から判断しても相当凝縮された空間のはずで、本来削除できない場面で構成されるべきものと考えると、これはまずいだろう。

題名、演技、撮影、照明、小道具と、何から何まで思わせぶりだから退屈することはないが、それでも最後にはうんざりしてくる。人工的な色彩だろうが、ヘンな撮り方をしようが、わざと不思議な寝方や死体の置き方をさせようが、それはかまわない。でも、納得させてほしいのだ。すべてがひとりよがりの域を出ていないのでは話にならない。

興味の対象が違うだけとは思うが、普通の映画のつくりをしていないことは逃げにもなるから致命傷になる。わかりやすい映画だけがいいとは言わないが、少なくともわからない部分を解き明かしたくなるようには創ってもらいたいと思うのだ。

 

2006年 94分 サイズ■

監督・原作・脚本:桃井かおり 製作:菊野善衛、川原洋一 エグゼクティブプロデューサー:桑田瑞松、植田奈保子 統括プロデューサー:日下部哲 協力プロデューサー:原和政 撮影:釘宮慎治 美術:安宅紀史 美術監督:木村威夫 衣装デザイン:伊藤佐智子 編集:大島ともよ 音楽プロデューサー:Kaz Utsunomiya VFXスーパーバイザー:鹿角剛司 スーパーバイザー:久保貴洋英 照明:中村裕樹 録音:高橋義照 助監督:蘆田完 アートディレクション:伊藤佐智子
 
出演:桃井かおり(母)、山田花子(娘)、石倉三郎(父)、高橋克実(新しい父親)、岩松了(男)、光石研(母の弟)、渡辺真起子(隣の女)、HIROYUKI(弟)