王の男

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆

■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい

旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。

かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。

チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。

しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。

燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。

宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。

芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。

コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。

そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。

最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。

  

英題:The King and the Clown

2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
 
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)

敬愛なるベートーヴェン

シャンテシネ1 ★★★★☆

■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる

導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェン(エド・ハリス)のコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエに行くことになる。

1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンに至っては激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。

音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。

女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。

シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。

今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、そうして第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しむつもりでいたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。

この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。

第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。

晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された男(思い込みにしても)と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。

そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナが譜面をベートーヴェンに見せれば、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。

アンナに非礼を詫びることになるベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことには苦言を呈する。

が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはこのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。

いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないとも思わなくもないのだが、これはこの映画を貶めることになるのかも。でないと最期までアンナに音楽を伝えようとしていた病床のベートーヴェンとアンナの場面が台無しになってしまう(それはわかってるんだけどね、私が下品なだけか)。

お終いは、アンナが草原を歩む場面である。ここは彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、アンナという架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。

 

【メモ】

アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。

甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。

原題:Copying Beethoven

2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕

監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
 
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ

インビジブル2

シネパトス2 ★★

■透明だから見せ場も作れない、てか

ライズナー研究所の開いたパーティで起きた不思議な殺人事件を担当していたフランク・ターナー刑事(ピーター・ファシネリ)とリサ・マルチネス刑事(サラ・ディーキンス)だが、国防総省の介入で捜査をはずされ、代わりに女性科学者マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)の警護を命じられる。

マギーは犯人の次の標的らしいのだが、フランクたちには肝腎なことは何も知らされない。半年前に研究所を解雇されている当のマギーも、守秘義務を盾に口を開こうとしない。張り込み中に、姿の見えぬ犯人はリサを殺害。そこへ何故か突入してきた特殊部隊。犯人はマギーに襲いかかるが、混乱の中、なんとかフランクに助けられ車に乗り込む。

あらすじだと緊迫感がありそうだが、映画は平凡な仕上がり。姿の見えぬ犯人=透明人間の怖さがほとんど出ていないのだ。目に見えないのだから、描きようがないのかもしれないが、だったら映画なんか作るな、と言いたくなる。ビデオカメラにうっすらと影が映ることで恐怖を予感させたり、透明人間を映像として捕捉するカメラ(ナイトビジョン搭載ビデオ)も出てくるが、どれもあまり機能していない。透明人間対透明人間の雨の中の決闘という、考え抜いただろう今回最大の見せ場も、不発。さらに言えば、雑踏で透明人間がフランクたちを追いかけるのはまったく無理がある(考えればわかることなのに!)。

やっとのことで犯人を振りきって逃げ込んだ警察でも、マギーを軍に引き渡すように言われるし、特殊部隊の突入にも不信感を抱いていたフランクは、またマギーと共にそこから逃げ出す。そして、マギーの口からもついに真相が……。

5年前の惨事(2000年公開の第1作)によって中断していた研究は、「見えない戦士」に期待を寄せる国防総省の援助のもと、ライズナー博士(デヴィッド・マキルレース)によって引き継がれていた。しかし透明化には、次第に細胞が損傷しついには死に至るという副作用があった。その緩和剤を完成させたのがマギー。だが、被験者となった特殊部隊員のマイケル・グリフィン(クリスチャン・スレイター)には、何故か緩和剤は投与されなかったらしい。そしてマギーには、解雇は緩和剤で死亡したためと説明されていたのだった。

国防総省が自ら出動して警察の動きを封じながら、しかしそれにしては悪玉の陰謀はスケールの小さいものだし、ひねりもない(ひねりすぎが流行った反動?)ものだ。とはいえ、兵器としてではなく、政敵の抹殺が目的というのは案外単純で正しい使い方かもしれない。ただし、このあたりの説明もあっさりしたものだ。

この政敵暗殺計画を語ったのは、第2号被験者というティモシー・ローレンス。彼はすでに瀕死の状態にあり、しかも可視化のだいぶ進んでいるおぞましい姿で登場する。この他にもマギーの妹ヘザー(ジェシカ・ハーモン)に魔の手を伸ばさせたり、なんとか平坦さを避けようとしているが、全体に人間関係に無頓着で深みがないから、用意した状況が生きてこない。フランクといい関係に見えたリサは、簡単にマギーの身代わりになって早々に退場させてしまうし、そのあと、フランクがマギーと近しい雰囲気になっていくあたりもまったくの書き込み不足。

一番怖くて面白い場面は、フランクが追いつめられて透明人間の薬を自分に打つところか。で、このあとグリフィンと対決し彼を殺戮するのだが、これがシャベルで刺し殺すという残忍なもの。今回は製作総指揮ながらポール・ヴァーホーヴェンらしさもうかがえる。

それにしても、グリフィンはどこまでが暴走だったのだろうか。透明人間より制御不能人間部分に重みをおいた方が、数段面白い作品になったはずだ。続編を暗示して終わった(次作はフランクの暴走か!)が、もう観ないかも。

クリスチャン・スレイター(最近活躍してないよね)は、ほとんど顔を見せることがなかったが、透明人間場面のギャラはもらえるのだろうか。

原題:Hollow Man 2

2006年 91分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:加藤リツ子

監督:クラウディオ・ファエ 製作:デヴィッド・ランカスター、ヴィッキー・ソーサラン 製作総指揮:ルーシー・フィッシャー、ポール・ヴァーホーヴェン、ダグラス・ウィック、レイチェル・シェーン キャラクター創造:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ 原案:ゲイリー・スコット・トンプソン 脚本:ジョエル・ソワソン 撮影:ピーター・ウンストーフ 視覚効果スーパーバイザー:ベン・グロスマン プロダクションデザイン:ブレンタン・ハロン 編集:ネイサン・イースターリング 音楽:マーカス・トランプ
 
出演:ピーター・ファシネリ(フランク・ターナー刑事)、ローラ・レーガン(マギー・ダルトン博士)、クリスチャン・スレイター(マイケル・グリフィン)、デヴィッド・マキルレース(ライズナー博士)、ウィリアム・マクドナルド(ビショップ大佐)、サラ・ディーキンス(リサ・マルチネス刑事)、ジェシカ・ハーモン(ヘザー・ダルトン)、ソーニャ・サロマ

プラダを着た悪魔

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■ファッションセンスはあるのかもしれないが

ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、何故か一流ファッション誌「ランウエイ」のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のセカンドアシスタントに採用される。大学では学生ジャーナリズム大賞もとった優秀なアンディだが、ファッションには興味がないし(どころか見下してもいた)、「ランウエイ」など読んだことがなく、世間では憧れの人であるミランダのことも知らないという有様。話を面白くしているのだろうが、ここまでやるとアンディがお粗末な人になってしまっている。

腰掛け仕事のつもりでいたアンディだが、ミランダの容赦のない要求に振り回され、ジャーナリストとはほど遠い雑用の毎日を送ることになる。が、次第にプロとしての自覚が出て、という話はありがちながら、わかりやすくて面白い。

ミランダの悪魔ぶりとアンディの対応。冷ややかな目の周囲と思いきや、案外心遣いのある先輩たち。アンディの負けん気は、当然仕事か私生活かという問題にもなるし、仕事絡みで一夜のアバンチュールまで。ミランダの意外な素顔に、思いがけない内紛劇。1つ1つに目新しさはないものの、次から次にやってくる難題が、観ている者には心地よいテンポになっている。

だからアンディと同じような、ファッションに興味のない人間も十分楽しめる。が、サンプル品(でもブランド品)で着飾ったアンディより、おばあちゃんのお古を着ているアンディの方が可愛く見えてしまう私などには、車が横切ったり建物に隠れたりする度に、違う服で現れるアンディという演出は効果がない(それに着飾っただけで変わってしまうのだったら安直だ)。

そんな街角ファッションショーはどうでもいいが、ミランダが毛皮などをアンディの机に毎度のように乱暴に置いていくのは気になってしかたがない。ミランダがただの悪魔ではなく、部下の資質ややる気などを試し、そして育てようとしていることを伝えたいのだろう。それはわかるのだが、細かい部分で文句付けたいところがあっては、悪魔の本領を発揮する前に品格を問われてしまうことになる。

自分の(双子の)子供にハリーポッターの新作を誰よりも先に(出版前に)読ませたい、という難題をアンディに課すのは公私混同でしかないし、なによりミランダには食べ物に対するセンスが欠けている。職場にステーキやスタバのコーヒーを持ち込ませて、果たしておいしいだろうか。予定が変わって、あの冷めたステーキは食べずにすんだようだが、頭に来たアンディがそれをごみ箱行きにしてしまうのは、食べ物を粗末にするアメリカ人をいやというほど見せつけられているからもう驚きはしないが、やはりがっかりだ。

アンディの私生活部分がありきたりなのもどうか。ネイト(エイドリアン・グレニアー)との関係がもう少しばかり愛おしいものに描けていればと思うのだが、それをしてしまうとクリスチャン(サイモン・ベイカー)とパリで寝てしまうのが難しくなってしまうとかね。クリスチャンに誘われて、「あなたのことはよく知らないし……異国だし……言い訳が品切れよ」と言っていたが、こういうセリフはネイトと一緒の場面にこそ使ってほしい。それにしてもこういう女性のふるまいを、ごんな普通の映画でもさらっと描く時代になったのか、とこれはじいさんのつまらぬ感想。

また、アンディにミランダとの決別を選ばせたのは、サクセスストーリーとしてはどうなのだろう(仕事を投げ出すことは負けになってしまうという意味で)。ま、これがないとミランダがアンディのことをミラー紙にファクスで推薦していてくれていたという、悪魔らしからぬ「美談」が付けられないのだけどね。

文句が先行してしまったが、離婚話でアンディにミランダの弱気な部分を見せておいて(仕事に取り憑かれた猛女と書かれるのはいいが、娘のことは……と気にしていた)、最後に危機をしたたかに乗り切る展開は鮮やかだ。アンディの心配をよそにちゃんと手を打っていたとは、さすが悪魔。一枚上手だ。ただ、とまた文句になってしまうが、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の昇進話とこの最後のからくりの繋がりは少々わかりづらかった。

先輩アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)の挿話もよく考えられたもので納得がいく。ミランダがナイジェルにした仕打ちをアンディがなじると、あなたもエミリーにもうやったじゃない、と切り返される場面では、仕事の奥深さ、厳しさというものまで教えてくれるのである。

  

【メモ】

見間違いかもしれないが、久々にスクリーンプロセス処理を観たような。

原題:The Devil Wears Prada

2006年 110分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督:デヴィッド・フランケル 製作:ウェンディ・フィネルマン 製作総指揮:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、カーラ・ハッケン、カレン・ローゼンフェルト 原作: ローレン・ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』 脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール 衣装デザイン:パトリシア・フィールド 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ
 
出演:アン・ハサウェイ(アンドレア・サックス)、メリル・ストリープ(ミランダ・プリーストリー)、エミリー・ブラント(エミリー)、スタンリー・トゥッチ(ナイジェル)、エイドリアン・グレニアー(ネイト)、トレイシー・トムズ(リリー)、サイモン・ベイカー(クリスチャン・トンプソン)、リッチ・ソマー(ダグ)、ダニエル・サンジャタ(ジェームズ・ホルト)、レベッカ・メイダー、デヴィッド・マーシャル・グラント、ジェームズ・ノートン、ジゼル・ブンチェン、ハイジ・クラム

鉄コン筋クリート

新宿ミラノ3 ★★☆

■絵はユニークだが、話が古くさい

カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。

この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。

ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。

旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。

だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。

たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。

題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。

  

【メモ】

もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。

2006年 111分 サイズ■ アニメ

監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
 
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)

無花果の顔

シネマスクウェアとうきゅう ☆

■わかりたくもない桃井ワールド

部下のやった手抜き工事を直す工務店勤めの父親(石倉三郎)。近所のようだったのに、わざわざウイークリーマンションまで借りて、しかも配管は複雑でも大した工事とは思えないのだが、こっそりやる必要があるからなのか、夜間だけ。でも、バレるでしょ。マンションの窓越しに見える女(渡辺真起子)が気になって仕方がなかったが、工事が終わってしまえばそれっきりである。「おとうさんが帰ってくるとうるさくていいわ」と、それなりにウキウキの母(桃井かおり)。でもその父に突然の死がやってきて……。

葬式で様子のおかしい母であったが、物書きになった娘(山田花子)と東京タワーの見えるマンションで暮らしだす。時間経過がよくわからないのだが、勤めだした居酒屋の店長(高橋克実)にプロポーズされてあっさり再婚し、新居に越していく。何故かそこに、前の家にあった無花果の木を植え(家はまだ処分していなかったのか)、前夫の遺品を埋める。娘は不倫のようなことをしていたようだが、子供を生む。

家族のあり方、それも主として母(妻)の置かれている立場を描いたと思われる。しかし、何が言いたいのかはさっぱりわからない。

例えば最初の食事の場面から家族がだんだんと消えていき、無花果の木に残されたカメラに向き合う母という構図で、彼女の見えない孤独を提示していたのかもしれないのだが、しかしこの場面を削ったり入れ替えたりしても、全体としてそうは影響がなさそうだ。そして、他にもそう思える場面がいくつもあるのだ。映画というのは単純に時間から判断しても相当凝縮された空間のはずで、本来削除できない場面で構成されるべきものと考えると、これはまずいだろう。

題名、演技、撮影、照明、小道具と、何から何まで思わせぶりだから退屈することはないが、それでも最後にはうんざりしてくる。人工的な色彩だろうが、ヘンな撮り方をしようが、わざと不思議な寝方や死体の置き方をさせようが、それはかまわない。でも、納得させてほしいのだ。すべてがひとりよがりの域を出ていないのでは話にならない。

興味の対象が違うだけとは思うが、普通の映画のつくりをしていないことは逃げにもなるから致命傷になる。わかりやすい映画だけがいいとは言わないが、少なくともわからない部分を解き明かしたくなるようには創ってもらいたいと思うのだ。

 

2006年 94分 サイズ■

監督・原作・脚本:桃井かおり 製作:菊野善衛、川原洋一 エグゼクティブプロデューサー:桑田瑞松、植田奈保子 統括プロデューサー:日下部哲 協力プロデューサー:原和政 撮影:釘宮慎治 美術:安宅紀史 美術監督:木村威夫 衣装デザイン:伊藤佐智子 編集:大島ともよ 音楽プロデューサー:Kaz Utsunomiya VFXスーパーバイザー:鹿角剛司 スーパーバイザー:久保貴洋英 照明:中村裕樹 録音:高橋義照 助監督:蘆田完 アートディレクション:伊藤佐智子
 
出演:桃井かおり(母)、山田花子(娘)、石倉三郎(父)、高橋克実(新しい父親)、岩松了(男)、光石研(母の弟)、渡辺真起子(隣の女)、HIROYUKI(弟)

スキャナー・ダークリー

シネセゾン渋谷 ★★★

■ロトスコープアニメ=ドラッグの世界?

まず驚くのが実写映像を加工してアニメにしていることで、キアヌ・リーヴスがちゃんとキアヌ・リーヴスに見えることだ(すでに予告篇で圧倒させられていたが)。珍しくも買ったプログラムを読むと、この技術はロトスコープと呼ばれるもので、これには相当手間暇をかけているらしい。

よくわからないのだが、このアニメを作るには実写が必要で、ってことは実写版が存在する!? 確かに巻頭のチャールズ・フレック(ロリー・コクレイン)の体を虫が這い回る場面などはアニメ向きといえなくもないが、でも他の部分でかかる作業をここに振り向ければCGでもかなりのものができたのではないか。あとはスクランブル・スーツの表現だが、これも同じことが言えそうだ。

そして、このロトスコープによって出来た映像はアメリカン・コミックスの質感を思わせる。私にとってアメコミは、たまに見ると総体としては新鮮なものだが、個々のキャラクターとなるとすべてが似た質感で無個性にしか見えない。ロトスコープも同じで、最初のうちこそその効果は絶大だが、次第に疲れてしまっていた。単独に1枚1枚の絵として見ているぶんにはいいんだけどね。

はじめから焦点が合ったり合っていない部分のある普通の映像の方が(もちろん全体に合っているものもあるが)、目線の移動に合わせて焦点も自然に合わせてしまう人間の目よりは不自然なのに、感覚的には自然なのは面白い。焦点が映画の意思であるということを体験的に覚えてしまっているのだろうし、単純に慣れてしまっているからだろうか。これは普通のアニメとの比較でもいえることだが、ロトスコープだとそれがより顕著になるようなのだ。

映画の舞台は、麻薬の蔓延した「現在から7年後」のカリフォルニア州アナハイム。なかでも猛威をふるっているのが、依存性が強く、常用が進むと右脳が左脳を補おうとして認知障害を起こす「物質D」で、政府はこの撲滅に躍起となっていた。

ボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)は、覆面麻薬捜査官として自ら物質Dを服用、彼の自宅は今やジャンキーたちの巣と化すまでになっていた。覆面捜査官は署内や上司にも正体を知られてはならず、刻々と顔や声のパターンが変化するスクランブル・スーツなるものを身につけ、アークターはフレッドというコード名で呼ばれていた。つまり彼にとっても上司が誰なのかがわからないというのがミソとなっている。

アークターは、巻頭に登場したフレック(すでに物質Dにかなり犯されていて、しばしば虫の幻覚に襲われる)、ジム・バリス(ロバート・ダウニー・Jr.)、アーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)のジャンキー共同生活者を監視。さらに恋人関係になった売人のドナ(ウィノナ・ライダー)に大量に物質Dを注文し、密売ルートを探ろうとするが、アークターを疑ったバリスのたれ込みもあって、アークターは自分を監視するように上司から命令されてしまう。

究極の監視社会を象徴するような光景だが、アークターは結局物質Dにやられ、果てはニュー・パスと呼ばれる更生施設に送られることになる。その過程で、アークターの上司がなんとドナであり、ニュー・パスが更生施設どころか物質Dの栽培農場だということが判明する。

これは一体どういうことなのだろう。ホロスキャナーといわれる常時監視盗聴システムで24時間休むことなく監視された映像を分析しているにもかかわらず、覆面捜査官まで送り込む異常さに、この設定はちょっとあんまりだと思ったものだが、ドナの正体がわかってみると、5人の監視対象のうち2人までもが覆面捜査官ということになってしまうではないか。

アークターが物質Dによる症状がどこまで出ているかというテストを受けさせられることや、ニュー・パスの正体も含めて、登場人物は、結局政府の自作自演物語に踊らされているだけというオチなのだろうか。そして、数人で相互監視をする社会がすでに成立しているのかもしれない。が、その目的などが明示されることはない。情報を知っているのは食物連鎖の上の者だけ、などというセリフはあるが、それ以上のことは何もわからない。

この構図は確かに怖いのだが、ロトスコープアニメの映像が現実に似て現実でないのと同様に、現実離れしすぎていて実感をともなわない。アークターではないが、監視が幻想かもしれないと思い出すと、映画全体がドラッグの世界ということもなってくる。そうか、そのためのロトスコープアニメとか。いや、まさかね。

映画の最後には「これは行いを過度に罰せられた者たちの物語。以下のものに愛をささげる」という字幕のあとに何名もの名前が続く。そして「彼らは最高の仲間だった。ただ遊び方を間違えただけ。……フィリップ・K・ディック」。原作はディックの実体験が生んだ作品とのことだ。しかしそれにしては、ここに出てくるジャンキーたちは簡単に仲間を売ったりするし、自分勝手な御託を並べているだけで、愛すべき存在には見えないた。紅一点のドナにしても、恋人のアークターが肌に触れるのも拒否していた(コカイン中毒によるものらしいのだが)し、「あなたはいい人よ。貧乏くじをひいただけ」というセリフにしても、冷たい感じがしてならなかったのだが。

  

原題:A Scanner Darkly

2006年 100分 ビスタサイズ アメリカ R-15 日本語字幕:野口尊子

監督・脚本:リチャード・リンクレイター 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、トミー・パロッタ、パーマー・ウェスト、ジョナ・スミス、アーウィン・ストフ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、ジョン・スロス、スティーヴン・ソダーバーグ、ベン・コスグローヴ、ジェニファー・フォックス 原作:フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』 撮影:シェーン・F・ケリー プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:カリ・パーキンス 編集:サンドラ・エイデアー アニメーション:ボブ・サビストン 音楽:グレアム・レイノルズ
 
出演:キアヌ・リーヴス(ボブ・アークター/フレッド)、ロバート・ダウニー・Jr(ジム・バリス)、ウディ・ハレルソン(アーニー・ラックマン)、ウィノナ・ライダー(ドナ・ホーソーン)、ロリー・コクレイン(チャールズ・フレック)

イカとクジラ

新宿武蔵野館 ★★★★

■この家の子だったらたまらない

1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。

冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。

共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。

バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。

子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。

悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。

「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。

最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。

(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。

 

【メモ】

オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。

原題:The Squid and The Whale

2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
 
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー

硫黄島からの手紙

新宿ミラノ1 ★★★

■外国人スタッフによる日本映画

この作品が第二次世界大戦における硫黄島の戦いを描いた2部作で、アメリカ側の視点である『父親たちの星条旗』と対をなす日本側の視点を持つ作品であることは当然わかってはいたが、タイトルまでが日本語で出てきたのには驚いた(向こうの公開時ではどうなのだろう)。ついでながら『父親たちの星条旗』は特異な作品だから、この作品と合わせ鏡になることはない。つまり、こちらは表面的には普通の作品となっている。

スタッフはすべてアメリカ人(日系の脚本家などはいるが)ながら、俳優はともかくとしてセリフまでが日本語というのは、これまでのアメリカ映画から考えると画期的だ(『SAYURI』にはそういう面が少しあった)。どこの国の話でも英語のまま作ってしまう無頓着さにあきれていたからだが、しかし例えば日本の映画会社が日露戦争や日中戦争などを、相手国の視点で、しかも劇映画(興行としては少なくとも赤字であってはならない)で撮ろうとすれば、それが相当困難だという結論にすぐ達するはずである。

そして、内容的にも日本人の心情をかなり代弁してくれているという、心憎いものとなっている(日本のマーケットがあるからという発想もあったか)。多用された回想部分はクリント・イーストウッド監督らしからぬ情緒的なものが多いので、日本人が作ったといわれても違和感がないくらいなのだ。

気になる部分をしいて上げるなら、アメリカ留学経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)とロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリストの西竹一中佐(伊原剛志)が共に西洋かぶれだということぐらいか。もちろんそんなふうには描かれていない。少し意地悪く言ってみただけだ。敵を知る人間が日本にもいたというところか。逆に、ほとんどの兵は敵を知らずに戦っていたのだと、映画は繰り返していた。

そして、だからこそ最後に天皇陛下万歳と叫びながら玉砕する栗林中将の姿に、複雑な思いが交錯することになる。ただ、西中佐が馬を連れて硫黄島にやって来ているというのは、どうもね。馬が可哀想だし、他に運ぶべきものがあったのでは、と思ってしまうからだ。

そうはいっても栗林中将を中心とした守備隊の上層部の視点だけでなく、西郷(二宮和也)や清水(加瀬亮)といった一兵卒に目が向けられているのは、映画を2部作としてアメリカ側と日本側から描いたのと同じ配慮だろう。とくに西郷にはかなりの時間を割いていて、彼が着任早々の栗林の体罰禁止令によって救われ、2度、3度と接点を持って最後の場面に至るあたりは映画的なお約束となっている。映画は2005年に硫黄島で大量の手紙が発見される場面ではじまるが、映画の中では手紙を書くのは西郷と栗林の2人で、そういう意味でも2人が主役ということになるだろうか。

もちろん一兵卒の西郷に劇的なことなどできるはずもなく、穴掘りに不満をぶつけ、内地に残してきた身重の妻に思いを馳せる場面にしかならないが、絶望という地獄の中で生き続けようとする彼の姿(見方を変えると自決も出来ず、投降も辞さない愛国心のない頼りない男ということになる)をなにより描きたかったのだろう。

対して栗林は、着任早々旧来の精神論的体制を合理的なものに改め、戦法も水際に陣地を築くというやり方から島中に地下壕を張り巡らせるという方法をとるなど、指揮官故に見せ場も多い。もっとも無意味な突撃や自決も禁じたため、西中佐のような理解者も現れるが、古参将兵からは反発を買うことになる。

伊藤中尉(中村獅童)がその代表格で、アメリカの腰巾着で腰抜けと栗林を評し、奪われた摺鉢山を奪還するのだと、命令を無視して逸脱した行動に出る。が、無謀なだけの精神論でそれが果たせるはずもなく、最後はひとり死に場所を求めてさまようのだが、ここらあたりから自分が何をしているのかわからなくなっていく。

おもしろいことに映画の描き方としてもここは少しわかりにくくなっている(これは嫌味)のだが、西郷と同じところに配属されてきた元憲兵の清水の運命と考えあわせると、ここにも戦争(に限らないが)というものの理不尽さをみることができるだろう。捕虜を殺してしまう米兵、自決が強要される場面や西中佐が米兵の手紙を読む挿話など、すべてがその理不尽さに行き着く。

しかし実をいうと、2部作としての意義は認めるものの、私には凡庸で退屈な部分も多い映画だった。そして『父親たちの星条旗』と同じく、この作品でも(つまり両方の作品を観ても)硫黄島の戦いの全貌がわからないという不満が残った。もちろんこれはイーストウッドと私の興味の差ではあるが、できれば情緒的な挿話は少し減らしてでも、客観的事実を配すべきではなかったか。そのことによって日本兵のおかれていた立場の馬鹿馬鹿しさが際だったはずだし、画面にも緊迫感が生まれたと思うからだ。

 

【メモ】

「家族のためにここで戦うことを誓ったのに、家族がいるからためらう」(西郷のセリフ)

原題:Letters from Iwo Jima

2006年 141分 シネスコ アメリカ

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ポール・ハギス 原作:栗林忠道(著)、吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
 
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(バロン西/西竹一中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)、裕木奈江(花子)

パプリカ

テアトル新宿 ★★★☆

■現実を浸食する夢、と言われてもねぇ

DCミニは、精神医療研究所の巨漢天才科学者の時田浩作が開発した、他人の夢に入り込んで精神治療を行う器具だ。頭部に装着したもの同士が夢を共有できるというもので、完成すれば覚醒したまま夢に入っていけるようになるらしいが、うかつにもこれが悪用されることまでは考えていなかったようだ。

時田の同僚でサイコ・セラピストの千葉敦子は、そのDCミニを使って「パプリカ」という仮の姿になり、刑事の粉川利美を治療していた。粉川は所長の島寅太郎とは学生時代からの友人で、まだDCミニが極秘段階ながら、その治験者となっていたのだ。

そして、まだアクセス権も設定していないDCミニ3機が盗まれるという事件が起きる。実はここの理事長乾精次郎は、DCミニは夢を支配する思い上がりと、開発には反対の立場。理事長に知られないうちになんとかしなければと、島、時田、千葉の3人が協議をはじめるが、それをあざ笑うかのように何者かが島に入り込み、島は思いもよらぬ行動を取り始める。

島はもちろん覚醒しているしDCミニは装着していない。いきなり前提を覆す展開だが、これについては少しあとに千葉が氷室の夢に侵入されたことで、DCミニにあるアナフィラキシー効果がそういうことも可能にするかもしれない、と時田に言わせて一件落着。ようするに何でもありにしてしまっているのだが、そう思う間もなく、夢と現実が入り交じった世界が次々と現れる。開発者すら予測がつかない、ということもサスペンス的要素としてあるのだろうが、これはちとズルイではないか。

島の夢の分析から、時田の助手の氷室を割り出したり、千葉がパプリカになって島を救うのは流れからして当然にしても、アナフィラキシー効果は何故パプリカには出ないのだろう。それも含め、ここからの展開は急だし、現実が夢に浸食されだすこともあって、話に振り回されるばかりだ。氷室の自殺未遂で警察が動きだし、粉川刑事が担当になって、彼の夢だか過去にまで話が及ぶからややこしいことこの上ない。

そのくせ話はえらくこぢんまりしていて、犯人探しは理事長に行き着く。しかし、理事長はDCミニを毛嫌いしていたのでは。いや、だから「生まれ変わった」と言ってたのか。自分が夢や死の世界も自在にできるようになり、新しい秩序が私の足下からはじまると思い込んでしまったって。でも、だったら、この部分はもっときっちり描いてくれないと。

もっともそうはいっても夢を具現化したイメージはすごい。わけのわからないパレードの映像だけでも一見の価値がある。これは、アニメでなくては表現できないものだ。ただ私の場合、夢の映像って対象以外はほとんど見えていないことが多い。すべてが鮮明な夢というのを見たことがないので、そういう意味では違和感があった。

それと、ここには恐怖感がないのだ。だから大きな穴を前に「繋がっちゃったんですよ、あっちの世界とね」と言われても、そうですか、と他人事な感じ。言葉として理解しただけで。確かに夢が去って、イメージの残骸は消えてしまうものの廃墟は残る場面では、なるほどとは思うのだが。

だから結局何が言いたかったのかな、と。映画への偏愛(犯人を検挙できないことと並んで粉川刑事のトラウマとなっていたもの)と、科学オタクへの応援歌だったり? だって最後に千葉が時田に恋していたっていうのがわかるのがねー。「機械に囲まれてマスターベーションに耽っていなさい」なんて言っていたっていうのにさ。それが急に「時田君を放っておけない」なんて。母性愛みたいなもの? まあ、どっちにしろ、時田もだけど現実の方の千葉も、私にはあまり魅力的ではなかったのだな。

ただ夢の中のパプリカが、冷たい印象(才色兼備と言わないといけないのかなぁ)のする現実の千葉とは違って、孫悟空やティンカーベルのイメージになって楽しげに振る舞っているのは面白かった。治療している当の千葉が、夢の中では自分自身が解放されていたのだろうか。

「抑圧されない意識が表出するという意味ではネットも夢も似てる」という指摘があったが、本当に夢に現れるのは抑圧されない意識なのだろうか。それに、だとしても夢にそれほどの重要性があるのか、とも。

  

2006年 90分 アニメ ビスタサイズ 

監督:今敏 アニメーション制作:マッドハウス 原作:筒井康隆『パプリカ』 脚本:水上清資、今敏 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 撮影監督:加藤道哉 美術監督:池信孝 編集:瀬山武司 音楽:平沢進 音響監督:三間雅文 色彩設計:橋本賢 制作プロデューサー:豊田智紀
 
声の出演:林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、古谷徹(時田浩作)、江守徹(乾精次郎)、 堀勝之祐(島寅太郎)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三(ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今敏(陣内)

武士の一分

新宿ジョイシネマ1 ★★★

■武士の一分とは何か

最初に毒味役についての説明が字幕で出る。「鬼役」という別名があることは知らなかったが、このあと丁寧なくらいに毒味場面が進行するから、説明はまったく不要だ。言葉としても推測可能と思うのだが。対して「一分」がわかる現代人はどれほどいるだろうか。新明解国語辞典には「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳」とある。広辞苑では「一人の分際。一身の面目、または職責」だ。ふーん。あ、よくわかっていないことがバレてしまったか。いや、何となくは知ってたのだけどさ。

東北の小藩で三十石の下級武士である三村新之丞(木村拓哉)は、毒味役に退屈しきっていたが、その毒味の場で毒にあたって失明してしまう。この時代に失明することがいかに大変なことか。新之丞は命を絶とうとするが、妻の加世(檀れい)に、死ねば自分もあとを追う、と言われては思いとどまるしかない。実入りは減っても「隠居して、道場を作って子供に剣を教えたい」などと、中間の徳平(笹野高史)に話していたのに。

親戚連中が集まっての善後策は、全員が面倒を見たくないだけだから、ろくな話にならない。叔母の以寧(桃井かおり)も、失明という事実が判明するまではただの口うるさいおっせかいと片付けられたのだが。

誰かの口添えで少しでも家禄をもらえるようにするしかないという無策な結論に、加世はつい先日声をかけてもらった島田藤弥(坂東三津五郎)を思い出し、屋敷を訪ねる。藩では上級職(番頭)の島田は、加世には嫁入りする前から想いを寄せていて、チャンスとばかりに加世を手篭めにしてしまう。

物語の進行は静かだ。時間軸が前後することもほとんどない(加世の回顧場面くらいか)。新之丞の暮らしぶり、加世との仲睦まじいやり取り、父の代から仕える徳平とにある信頼関係と、事件が起きる前、そこにあるのは平和ボケともいえる風景である。なのに5人も毒味役がいて大仰なことよ、と思ったがこれは食材によって割り当てが違うことによる。

もっとも新之丞が毒にあたったことで、城内は戒厳令が布かれたかと思うほどの大騒ぎとなる。赤粒貝という危険な食材を時期もわきまえずに使ったことがわかって一件落着と思いきや、上司の樋口作之助(小林稔侍)の切腹というおまけがつく。居眠りばかりしていて、年をとったと新之丞たちにささかれるような樋口ではあったが、一角の武士だったのだ。

毒にあたった場面での新之丞の行動が不可解だ。毒味役ならば異変に気付いた段階ですぐ申し出なければならないはずなのに、大丈夫などと言っているのである。新之丞は何恰好をつけているのか。他に説明もなくこれで終わってしまうのだが、どう考えてもおかしい。事実、藩主は食事を口にする寸前だったのだ。これだと、家名存続、三十石の家禄はそのままで生涯養生に精を出せという「思いもかけぬご沙汰」には繋がらないではないか。

ねぎらいの言葉があるということで新之丞は久々に登城し、廊下のある庭で藩主を待つ。この場面がいい。藪蚊の大群と闘いながら、同僚(上役か)と2人で座して延々と待つのだが、やっと現れた藩主は新之丞たちを目に止めるでもなく「御意」と言い残しただけですたすたと消えてしまうのである。この歯牙にもかけぬ振る舞いに、馬鹿殿様と観客にも思わせておいて、あとで、新之丞の事故は職務上のこと故、と見るべき所はちゃんと見ていたのだよ、という演出だ。

そう、「思いもかけぬご沙汰」は島田の口添えからではなく、藩主の意思だったのである。このこととは別に、以寧の告げ口から加世の行動(島田にあのあとも2度も呼び出されていた)に疑念を抱いた新之丞は、徳平に加世を尾行させる。詰問した加世からすべてが語られるが、俺の知っている加世は死んだと離縁(新之丞はまだこの時、口添えではなく、藩主直々の裁可であったことは知らない)、島田との果たし合いへと進んでいく。

いくら新之丞が剣の達人といっても今や盲目。しかも相手は藩の師範でもある。師匠の木部孫八郎(緒形拳)の道場で執念の稽古にも励むが、勝ち目があるとはとても思えない。新之丞のただならぬ気迫を感じ取った木部は、事情によっては加勢を、と申し出るが、新之丞は「勘弁してくんねぇ、武士の一分としか」と答えるのみ。

期待を高めておいて、しかし、決闘場面はつまらないものだった。がっかりである。腕を切られた島田は、事情を誰にもうち明けることなく切腹。「あの人にも武士の一分があったのか」となるのだが、そう言われてもねぇ。

新之丞の武士の一分も、理由はともかくようするに私憤にすぎず、だからといって助太刀を断ったことだけをいっているとも思えない。島田に至っては事情など証せるはずもなく、しかしあの傷のまま何も語らないではすまないだろうから、生き恥をさらすよりはまし程度であって、それが果たして武士の一分といえるようなものなのか。武士の一分が、潔い死に方というのなら(違うか)この場合は説明がつくが、それだと「必死すなわち生くるなり」で島田にむかっていった新之丞は?と何もわからなくなる。もはや武家社会そのものが面倒で、現代人には理解不能なものともいえるのだが。

このあとは徳平のはからいで身を隠していた加世が、芋がらの煮物を作ったことで、新之丞の知るところとなり……という結末を迎える。

いい映画なのに、タイトルにこだわったことでアラが目立ってしまった気がするのだ。加世にしても徳平に尾行されているのを知っていたのなら、何故その時点で白状してしまわなかったのか。それと新之丞の行動は、加世を大切に思ってというよりは、自分本位な気がしなくもない。これでも江戸時代の男にしては上出来なのだろうが。

  

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:山田洋次 原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』 脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎 撮影:長沼六男 美術:出川三男 衣裳:黒澤和子 編集:石井巌 音楽:冨田勲 音楽プロデューサー:小野寺重之 スチール:金田正 監督助手:花輪金一 照明:中須岳士 装飾:小池直実 録音:岸田和美
 
出演:木村拓哉(三村新之丞)、檀れい(三村加世)、笹野高史(徳平)、坂東三津五郎(島田藤弥)、岡本信人(波多野東吾)、左時枝(滝川つね)、綾田俊樹(滝川勘十郎)、桃井かおり(波多野以寧)、緒形拳(木部孫八郎)、赤塚真人(山崎兵太)、近藤公園(加賀山嘉右衛門)、歌澤寅右衛門(藩主)、大地康雄(玄斎)、小林稔侍(樋口作之助)

めぐみ-引き裂かれた家族の30年

銀座テアトルシネマ ★★★

■まだ、何も終わっていない……

北朝鮮による拉致問題のことを考えると陰鬱になるばかりだ。実は、拉致被害者や肉親を奪われた家族について、なんとか絞り出して書いてはみたのだが、どれも言葉が上滑りしているものばかり。というわけで、それは割愛し(というほど大それたことは書いてないか)、いきなり注文めいたことを書くことにする。

外国人監督(アメリカ在住のジャーナリスト夫妻)によるこの映画が、どの程度の反響を呼んでいるのかは知らないが、拉致を世界に知らしめるものとしての意味は、とてつもなく大きいものがあるはずだ。そのことは大いに評価したい。

ただ、映画をひとつの作品としてみると物足りなさが残る。普通の日本人なら、かなりの部分はすでに新聞やテレビ等で知っていることだからだ。私の今回の新知識としては、大きなものでは、当時産経新聞記者(拉致事件をいち早く取り上げた)だった阿部雅美の証言と、テレビの小川宏ショーでの映像(1979年。ワイドショーでの取り上げられ方自体が「家出人捜索」となっている)くらいだろうか。

これは多分この映画が、日本人以外の観客を対象にして撮られたからだろう。しかしたとえば、世論も政府の対応もはじめのうちは冷たかったというあたりや、運動(家族会などの)は一枚岩だったのか、などの掘り起こしがあれば、もっと興味深いものになったと思われる。が、それをやりだすと、拉致問題を知らない人用の入門映画としては混乱してしまうだろうか。

映画は、創作部分はイメージ映像程度にとどめ、ドキュメンタリーとしても抑えた作りになっている。「政治的な問題でなく、人間的な物語として描きたかった」と監督が言っているように、北朝鮮糾弾というふうでもない。もっとも拉致という事実さえ描けば、それだけで北朝鮮の犯罪は明らかなのだから、この姿勢は成功している。

印象的に使われていたのが、画面に流れる歌だ。めぐみさんの友人(だったか?)の、もの悲しい歌声が耳に残るし、テープに残る小学生だっためぐみさん自身の歌声にもはっとさせられた。「慣れし故郷を放たれて、胸に楽土求めたり」(「流浪の民」シューマン作曲、石倉小三郎訳詩)という歌詞が、偶然とはいえあまりに皮肉だからだ。

川辺でよりそうようにして仲睦まじくみえる横田夫妻のほか、場面は少ないながら「本に書いてあることを自分が見聞きしたように語ってはいけない」と妻に意見する夫や、信仰についての考え方の相違も垣間見られて、覗き趣味人間としてはそのあたりをより知りたくなるが、映画が節度を忘れていないのは当然だ。

それにしても駅頭で暴言を吐きながら署名活動の板を叩くようにして去る人を見るのは悲しい。闘うべき敵は多いのだなと実感させられる。そんな中での横田夫妻の努力と執念には、こちらが励まされた気分になってくる。そして、どうしたらあんなに毅然としていられるのかとも。

横田夫妻にとっては、まだ何も終わっていないのだ。

【メモ】

めぐみさんが失踪したのは1977年11月15日の朝。

産経新聞の記事は1980年1月7日。「アベック3組謎の蒸発」という見出しで、外国諜報機関関与の疑いを報道。

(2007.1.11追記) この映画は8日に国連本部で上映され、在米カナダ人クリス・シェリダン監督夫妻の質疑応答があった。

原題:Abduction: The Megumi Yokota Story

2006年 90分 ビスタサイズ アメリカ

監督・製作:クリス・シェリダン、パティ・キム 製作総指揮:ジェーン・カンピオン 脚本:クリス・シェリダン、パティ・キム 撮影:クリス・シェリダン 編集:クリス・シェリダン

出演:横田滋、横田早紀江、増元照明、阿部雅美(元産経新聞記者)、アン・ミョンジン/安明進(元北朝鮮工作員)

007 カジノ・ロワイヤル

新宿ミラノ1 ★★★☆

■生身だから、恋もすれば、死にかけたりもする

ダニエル・クレイグのイメージが、今までのボンドとあまりにかけ離れているので、どうしてもそこに目がいってしまうが、映画自体も、まさに一新という内容になっている。好都合なことに、フレミングの原作がパロディ映画にはなったものの1つだけ残っていて、どこまでが原作に忠実かは別として(意味ないものね)、宣伝も「ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」(正確にはそれは少しで、最初の任務が軸。00要員になる最後の昇格条件は2つの殺害)と、新シリーズ誕生を鮮やかに印象づけている。

手始めはマダガスカルの工事現場での爆弾犯追跡劇。この追いかけっこがなかなかで、しかも相手(セバスチャン・フォーカン)の逃げ方のほうが格好いいときてる。ボンドはなんとか頭を使ってカバーするのだが、物は壊すし、自分の体は思いっ切りぶつけるし、と何とも荒削りだ。今までのボンドだと、スーツを着たままそれこそ汗ひとつかかずにやり遂げてしまうイメージが定着しているが、こちらは生身が売り物(筋肉見せまくり)のようだ。でありながら、もちろん超人的なんだけど。

悪役は、ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)という投資家で、世界中のテロリストの活動資金を支えている張本人が彼という設定だ。マネーロンダリングはもちろん、テロで空売りを仕掛けた株価を暴落させようとする。ボンドのマイアミ空港での活躍で、その目論見(航空機の爆破)が阻止されると、損失を取り戻すべくモンテネグロのカジノ・ロワイヤルで大勝負に出ようとする。

ちょっと安直な筋立てだが、ル・シッフルもさすがに追いつめられたってことか。ここでアクションは休憩となって、情報を掴んだボンドもそこに乗り込み、カジノ対決となる。安直なのは英国諜報機関(MI6)もだよね。ギャンブルでテロ資金を巻き上げてしまおうって? しかもその席にはCIA(ジェフリー・ライト)もいて、こいつはポーカーが下手だってんだから笑ってしまう。でもまあ、この場面は時間をきっちりとっているだけの駆け引きが楽しめる。

ボンドは、つまり国家予算を賭金にしているわけで(おいおい)、英国財務省からはお目付役としてヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)が同行する。彼女がボンドの恋の相手で、ボンドは愛に生きる決心をし、なんとMI6に辞表まで提出する。彼女との絡みでは、初めて殺しの場面を目にし、ショックで着衣のままシャワー室に座り込んでしまっている彼女に、ボンドが寄り添うようにして慰める場面も用意されていて、007映画らしからぬ繊細な配慮も見せる。もっとも、私的には恋の部分でのときめきには至らず、逆に減点対象にしてしまったのだけど。

カジノでもル・シッフルに勝つボンドだが(取られちゃったらどうするつもりだったのだ)、ヴェスパーを誘拐され、自身もル・シッフルの手に落ちてしまい、ここで全裸拷問場面となる。が、そのル・シッフルもテロ組織に消されて、と話は急展開。さらにはヴェスパーへの疑惑に、彼女の死、組織内の裏切り、と続くのだが、涙腺異常で目から血を流すル・シッフルがいなくなってしまってからは、アクションも含めて意外と盛り上がらない。頑張ってヴェネチアで古い建物を倒壊させているが、これも外している。

ということで、恋とはおさらばし、めでたくボンド誕生となる。で、最後になっていつもの決めゼリフの「My name is Bond, James Bond.」がやっと飛び出すという趣向だ。

クレイグボンドは新鮮だが、感情むき出し路線だと『M:i:III』があった。そういえば、トム・クルーズが蘇生したように、毒を盛られたボンドがAED(自動体外式除細動器)を使って危機を脱するあたりも似ていなくもない。もっともアイディア兵器の使用はぐっと少なく、アストン・マーチンから出てきたのはこのAEDくらいで、だからQも登場しない。子供だましという感じはないが、これはこれでさみしかったりする。

M(ジュディ・デンチ)との信頼が次第に築かれていくところなどもあるが、今回観るかぎりでは、逆にボンドである必要があったのか、とも。まあ、そう言いつつこんなことをだらだらと書けるのも、007のブランド力があってこそなのだが。

 

【メモ】

ニューボンドは6代目。シリーズとしては21作目。

冒頭の追いかけっこで得たケータイ情報から、ボンドは大胆にもMの自宅に侵入し、Mのパソコンを使って単独捜査までやらかす。

原題:Casino Royale

2006年 144分 スコープサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:■

監督:マーティン・キャンベル 原作:イアン・フレミング『007 カジノ・ロワイヤル』  脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:フィル・メヒュー プロダクションデザイン:ピーター・ラモント 衣装デザイン:リンディ・ヘミング 編集:スチュアート・ベアード 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ)  主題歌:クリス・コーネル
 
出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスパー・リンド)、マッツ・ミケルセン(ル・シッフル)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト (フェリックス・レイター)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、サイモン・アブカリアン(アレックス・ディミトリオス)、カテリーナ・ムリーノ(ソランジュ)、イワナ・ミルセヴィッチ(ヴァレンカ)、セバスチャン・フォーカン(モロカ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト )、クラウディオ・サンタマリア、イザック・ド・バンコレ

旅の贈りもの-0:00発

シネセゾン渋谷 ★☆

■あの頃町に若者がいないのは

大阪駅を午前0:00に出発する行き先不明の列車。これに乗り込んだ何かしらの問題を抱えた人たちが、山陰の小さな漁村の風町駅に着き、そこの風景や住人と接するうちに、次第に元気をもらい生きる希望を見つけるという話。

乗客は、年下の恋人に浮気されたキャリアウーマンの由香(櫻井淳子)、自殺願望の女子高生華子(多岐川華子)、リストラを妻に言い出せず、居場所を失った会社員の若林(大平シロー)など。一応各種用意しましたという感じにはなっているが、ここから先の工夫がない。

架空の風町は「あの頃町」と言われているように、都会人が無くしてしまった温かさの残る町という設定。レトロな映画館などがある懐かしい町並みの中に、お節介でやさしい人たちが楽しそうに暮らしている。ファンタジーにふさわしい理想の町といいたいところだが、風町には若者の姿がひとりも見えないのは何故か。

風町は、若者が逃げ出してしまった町なのではないか。そんな意地悪な疑問が浮かんだ。自分たちの問題も解決できていないのに、旅人にあれこれお節介をやいていていいのだろうかと。青年医師ちょんちょ先生(徳永英明)の存在で、このことはしばらく気付かずに観ていたのだが、実は彼も都会から流れてきたよそ者で「ぼくだって君たちと同じ旅人だよ。まだ旅の途中」なのだと言っていた。

それに子供もいない。だから祖父に預けられている翔太少年は友達もいなくて、華子を追い回した(直接の理由は逆上がりを教えて欲しくてだが)のか。

この、逆上がりができるようになったら翔太のパパが帰ってくるという話は、何のひねりもないひどいものだ。若林の自殺場面はヘタクソでかったるいし、最後にまた車掌が登場してきて「皆様、大切なものは見つかりましたでしょうか」というくくりにもうんざりした。

鉄道ファン向け映画という側面も意識して作っているのだと思っていたが、「鉄ちゃん」は途中で姿を消してしまってと(帰っただけだが)、これも制作側が持て余してしまったのだろうか。

 

【メモ】

EF58-150(イゴマル)の牽引するミステリートレイン。「行き先は不明です。お帰りは1ヶ月以内にお好きな列車で」。列車は何故か1駅(玉造温泉)だけ止まる。料金は9800円。

「何か大切なものを見つける旅になりますように」と車掌の挨拶がある。

風町で降りたのは20人くらいか。

「乙女座」という映画館がある。風町は海辺などのインフラが整っていて、それも内容に合わないような。

華子は若林に、決心したら一緒に死のうというメールを送る。葉子はネットで自殺者の募集を知り、同行するはずだったが約束の時間に遅れてしまう。

タレントになりたくて、そのあげくがイメクラ嬢のセーラちゃん。

2006年 109分 ビスタサイズ

監督:原田昌樹 原案:竹山昌利 脚本:篠原高志 撮影:佐々木原保志 編集:石島一秀 音楽:浅倉大介 主題歌:中森明菜『いい日旅立ち』 照明:安河内央之 挿入歌:徳永英明『Happiness』
 
出演:櫻井淳子(由香)、多岐川華子(華子)、徳永英明(越智太一/ちょんちょ先生)、大平シロー(若林)、大滝秀治(真鍋善作・元郵便局長)、黒坂真美(ミチル)、樫山文枝(本城多恵)、梅津栄(本城喜助)、石丸謙二郎(車掌)、石坂ミキ、小倉智昭、細川俊之(網干)、正司歌江(浜川裕子・翔太の祖母)