日本沈没

2006/7/30 TOHOシネマズ錦糸町-3 ★★☆

■日本半分沈没

なにしろ日本沈没である。日本が沈没するとなると1億2千万の全日本人(外人もいるけど、おおまかね)に、否が応でも劇的なドラマが訪れるわけである。つまりこの映画の登場人物は、選ばれし人物ということになる。

であるのに映画はいきなり、ハイパーレスキュー隊員である阿部玲子(柴咲コウ)によるアクロバチックな、少女(倉木美咲=福田麻由子)救出劇を用意する。女性隊員という設定もだが、あとの場面で彼女は長髪をなびかせたりするのだ。

のっけから細かいことに難癖を付けて申し訳ないが、なにしろ日本が沈没してしまうのだから、やはりここは相当マジで行きたいと思うのだ。

彼女と潜水艇のパイロットである小野寺俊夫(草彅剛)の恋愛話を、日本政府の対応に対極させる形にしたのは決して間違いではないし、「自分だけが幸せにはなれない」という彼女に突き動かされるように、最後は彼にも「俺にも守りたい人がいます」「奇跡を起こせます。起こしてみせます」とまで言わせるというのは悪くはない。

が、骨組みはよくても肉付け部分に難がある。神出鬼没の小野寺というご都合主義にはまだ目をつぶれるが、最初に書いた玲子の造型などが話を台無しにしている。ふたりのラブシーンでの妙な引き延ばしは『LIMIT OF LOVE 海猿』に比べれば、ずっと抑えてはあるのだが……。

次は、これはどうしてもはずせない田所博士(豊川悦司)だが、日本沈没の兆候発見者であるにもかかわらず、アメリカのすっぱ抜き?があってか、最初から迷走気味。これでは型破りな科学者というよりは、冷静さを欠いた行動ばかりが目立つただのマッドサイエンティストではないか。

政府の対応は、これまたあまりに心もとない。いい加減な連中を適当に配したのはわかるが、しかし山本首相(石坂浩二)は、髪型からしても小泉首相を意識しているのだろう。だからだね、中国訪問を前に、「どれだけ(日本人を)受け入れてもらえるか」と鷹森文部科学大臣(大地真央)に悩みをうち明けるのは。交渉難航は必然だものなー。

山本首相は続けて、未曾有の国難を前に「何もせず、愛する者と一緒に滅んだ方がいい」という特殊な意見が違う分野から出ていることについて、「こういう考え方が日本人なのかも」しれず、自分の考えもこれに近いと語る。しかし、この考え方のどこが日本人的なのだろう。本気でこのセリフを喋らせているなら問題ではないか。日本人は果たして特殊な民族だろうか。そう思い込みたいだけじゃないのか。

山本首相の死後(訪問に出かけた首相専用機が阿蘇山の噴火に巻き込まれるというお粗末な設定)、危機管理担当大臣にも任命されていた鷹森大臣が、元夫でもある田所博士の助言(これも訊くのが遅いんだよね)により、世界中の掘削船を導入して、プレート内部に爆薬を仕掛けるという最後の賭けに出るのだが、他の奴らは何をしているんだ! まあ、映画だから仕方ないのだけどね。

このあとの話の盛り上げ方も低レベル。各国の掘削船で何カ所にも爆薬を仕掛けながら、最終的には強力な爆薬を深海潜水艇から直接操らなければならないなんて。しかも最新の潜水艇は結城(及川光博)もろとも失われ、小野寺は博物館に展示されているすでにお払い箱となった旧式の潜水艇に乗り込むことになるのだ。掘削船だけじゃなく、潜水艇も借りろよ。

爆薬(N2爆弾の起爆装置?)すら予備がなくて、結城が落としてしまったものを拾うって! 日本が沈没しつつあるっていうのに、プレートのそばに落としたものが見つけられるわけがないでしょ! 小野寺の「特攻」を演出したかったのかもしれないが、あまりにひどい。そもそもアイディアは『アルマゲドン』だしね。

というわけで、日本はなんとか沈没をまぬがれるのでした。ずたずたに分断された島だらけの国となって残るのね。ありゃりゃ、ということは日本人がユダヤ人のような放浪の民族になったらどうなるか、という原作の壮大な意図はどこへ行ってしまったのだろう。

特撮はなかなかだし、なにしろ日本(半分)沈没なわけだから、どんな話をもってきても考えさせられることが多いわけで、それだけでも意味があると思うのだが、逆に自分に引きつけた物語を見つけようとすると、どうしても点は辛くなってしまうだろう。

こうなったら、毎年『日本沈没』の別バージョンを創り続けるか、もしくはマクロ的な、それこそ特撮に特化し個人の感情など徹底的に排除した、つまり蟻のような人間しか出てこない『日本沈没』というのは、いかがでしょう。観たいな、これ。いや、ホント。

 

【メモ】

旧作の『日本沈没』は東宝の製作と配給で、1973年12月29日に正月映画として公開された。小松左京の原作も1973年、光文社のカッパノベルスから上下2巻の同時刊行。

玲子が倉木美咲を救出する方法もどうかと思うが、美咲を引き取るのもおかしい。玲子は骨折で仕事を休むが?

「沈没することが明らかになった以上、唯一の救いは数10年後に起きることが今予測できたことだ」と、最初のうちはまだ余裕もあったのだが……。

「こうなってしまった以上何が大切ですか」「私は心だと思う」

デラミネーション。

鷹森大臣と田所博士は20年前に離婚。

仏像の運び出し場面。賄賂代わりに、国宝を手みやげ。

「命よりも大事な場合もあるの。人を好きだって気持ちは」小野寺俊夫に彼の母が言う。

「日本はアメリカに見捨てられた」というセリフは、アメリカを信用していない者にとっても唐突だ。これだけの大異変となると近隣諸国に及ぼす影響も大きいわけで、すべてのことが日本政府の決断と平行して国連がらみで進行していくのではないだろうか。

避難民が山の方へ向かうのはわかるが、富士山に向かって行く?

最新の潜水艇は「わだつみ6500」。展示品になっていたのは「わだつみ2000」。

最後の爆発時に、海上にはまだ船(掘削船だよね)が多数いたようだが?

2006年 135分 配給:東宝 

監督:樋口真嗣 脚本:加藤正人 原作:小松左京 撮影監督:河津太郎 編集:奥田浩史 音楽:岩代太郎 特技統括/監督補:尾上克郎 特技監督:神谷誠 撮影協力:防衛庁、東京消防庁、JAMSTEC(独立行政法人 海洋開発研究機構)

出演:草彅剛 (小野寺俊夫 潜水艇パイロット)、柴咲コウ(阿部玲子 ハイパーレスキュー隊員)、及川光博(結城慎司 潜水艇パイロット)、石坂浩二(山本尚之 内閣総理大臣)、豊川悦司(田所雄介 地球生命学博士)、大地真央(鷹森沙織 文部科学兼危機管理担当大臣)、福田麻由子(倉木美咲)、吉田日出子(田野倉珠江 玲子の叔母)、國村隼(野崎亨介 内閣官房長官)、長山藍子(小野寺俊夫の母)、和久井映見(小野寺俊夫の姉)、六平直政、ピエール瀧、柄本明、福井晴敏、庵野秀明

M:i:III

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆

■感情剥き出し男対冷眼冷徹冷酷男

娯楽アクション超大作の名に恥じぬデキで、目一杯楽しめる。トム・クルーズが爆風で車に叩きつけられる場面など、予告篇でいやというほど観ているのに、流れの中で観てまた感心してしまったくらいだ。

スパイは卒業して教官となり、ジュリア(ミシェル・モナハン)との結婚も控えているイーサン・ハント(トム・クルーズ)だが、教え子リンジー(ケリー・ラッセル)の救出に乗り出したことで、とんでもない事件に巻き込まれていく。教え子の死。黒幕デイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の捕獲に、彼の逃亡。その瞬間、魔の手はジュリアに伸びる。彼女が捕らえられたことで、ハントには「ラビットフット」という謎の兵器を取り戻すという新たなミッション(脅迫)が与えられることになってしまう。

ハラハラドキドキのまま突っ走るが、さすがに最後の方では息切れしたのか、あれっという感じの終わり方に。で、冷静になって考えるとやはりアラが見えてくる。十分楽しんでおいてアラ探しちゅーのもなんだけど。

まずどうしても気になってしまうのが、一番の大仕掛けである橋の上の場面。デイヴィアンの救出に、小型ジェットやヘリがロケット弾で攻撃してくるのはさすが国際的な武器商人と思わせるが、しかし米国内でこんなことが可能なのか。

ここまで派手に暴れて米軍がこれを見落としたのなら、それは裏(それも相当上層部とのつながりでないと)があるってことになるし、それを考えないハントも能なしになってしまう。でもこれでIMFの組織内の裏切りがわかってしまうのでは、それもへんてこだ。そのために組織内裏切り(これも最近では鼻に付いてきたものな)にはもうひとひねりが用意されているのだろうけどね。でもやっぱりこれとは関係ないよね。

次はお得意のマスクのトリックで、今回はマスク製造器まで登場させているのは楽しくていいのだが、このトリックをデイヴィアンがハントを痛めつけるのに使う(冒頭の場面)っていうのはどうなんだろう。IMFだけでなく悪役までがこれを自在に使えるのでは、もうどんな話でも作れそうだ。それに付け加えるならば、デイヴィアンがハントの結婚相手のジュリアに身代わりを立てる必要はなにもないはずだ。

そのジュリアだが、はじめて銃を持たされてあの活躍はねぇ。ハントが頭に埋め込まれた爆弾の回路を電気ショックで切り、ショック死した彼を蘇生させるという荒技までやってのける(彼女は看護士なんでした)。まあ、大甘でこれも見逃して、でも最後にIMFの本部で組織の連中と彼女が打ちとけているというのは? 「スパイ大作戦」はあくまで謎の組織が、その指令テープまで一々消去していたと記憶していましたが。こんなにオープンな組織だったとは。だったらいっそジュリアも仲間だったというオチにすれば……ってそれじゃああんまりか。

最初に最後があれれと書いたのは、この他にハントが仲間と別れ、武器も携帯1つになっていくのに合わせるかのように(でも最後までチームプレーは強調されていた)、デイヴィアン側も人数が手薄になっていくことで、自分の救出劇にあれだけの物量をぶつけてきたデイヴィアンとはとても思えないのだな。

ベルリン、ヴァチカン、ヴァージニアと快調に飛ばしてきて、上海篇は少しふざけすぎなのよ。ビルに野球のピッチングマシーンでボールを投げるのも、ハントの走りも。この走りは正当派故にその挙動がかえっておかしいのだ(ジャンプもオリンピック選手のようだった)。あと、これははじめの方のパーティ場面に戻るが、ハントが唇を読んじゃって。ありゃ、怖いよ。会話への割り込みも含めて、あんなことしてるようじゃ結婚解消と思うが。で(また最後に)、最後に愛は勝つじゃあ、って笑っちゃ悪いか。

この『M:i:III』では、ハントが特に感情剥き出しでスパイらしくないのが見物(そこが欠点でもあり面白さでもあるのだが)。何しろミッションはリンジーやジュリアがらみで、つまりなにより彼自身のミッションに他ならない。だからその延長線上で、デイヴィアンに対する怒りが爆発し、飛行機の中での度を超した脅かしとなる。が、デイヴィアンはまったく動ぜず、逆にハントの運命を予言する。

このデイヴィアンの造形もなかなかだが、裏切り上司マスグレーブ(ビリー・クラダップ)の言い分がふるっていた。彼も国益と民主主義のために働いているらしいのだ。武器商人を泳がせることでテロ国家を攻撃する口実を作ると言うのだけど、屁理屈もここまでくると……って案外現実に近いか。米国が今やっていることだものね。

ところでこの映画で私が一番心を惹かれたのは、ハントとリンジーの関係だ。リンジーがハントにお礼をいう映像には胸が熱くなった。けれど、ああいう場面を見ると同僚のヴィング・レイムス(ルーサー)ではないが、「寝たのか?」と聞きたくなってしまう。ハントの答えは「彼女は妹のようだった」というもの。いや、そうでしょうとも。だってジュリアと結婚しようとしているんだから。でもね。教え子は女性でなくてもよかったような?  でないと私のような下品な人間は、あらぬことを考えてしまいますがな。

 

【メモ】

「ラビットフット」とは一体何? 正体を明かさなくても十分物語は成り立つし、そういう演出もありなんだが。でも例えば生物兵器よ、と言われたら……あ、そう、で終わりか。

これも演出方法の問題だが、上海のビルに潜入したと思ったらハントは「ラビットフット」をもう手にしていた。侵入が今までは見せ場だったのにね。

ローレンス・フィッシュバーンは、最初の疑惑の上司ブラッセル役。堂々としていてさすがだ。

原題: Mission: Impossible III

2006年 126分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:J・J・エイブラムス、脚本:J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、原作:ブルース・ゲラー、撮影:ダニエル・ミンデル、音楽:マイケル・ジアッキノ、テーマ音楽:ラロ・シフリン

出演:トム・クルーズ(イーサン・ハント)、フィリップ・シーモア・ホフマン(オーウェン・デイヴィアン)、ミシェル・モナハン(ジュリア)、ケリー・ラッセル(リンジー)、ヴィング・レイムス(ルーサー)、ローレンス・フィッシュバーン(ブラッセル)、サイモン・ペッグ(ベンジー)、ビリー・クラダップ(マスグレーブ)、マギー・Q(ゼーン)、ジョナサン・リス=マイヤーズ(デクラン)

息子のまなざし

早稲田松竹 ★★★★

■息苦しい距離感が、許しを突き抜ける

オリヴィエ(オリビエ・グルメ)が木工を教えている職業訓練所に、フランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。前半(といってもわずか4日ほどの話なのだが)は彼が何者で、オリヴィエが何故異常なほど彼に興味を示すのかという点に絞られる。

カメラは最初から最後まで手持ちで、ほとんどオリヴィエの頭に近い位置にあり、彼だけしか映さないわけではないが、彼と行動を共にする。つまり映し出される映像はオリヴィエのバストショットか、背後から彼を追いかけるものとなる。部屋から部屋に移動し、階段を一緒に駆け下りたりする。カメラが車の中にいてオリヴィエを追えなくなって途切れるようなこともあるが(彼がカメラから遠ざかることで視界が開けたりする)、また次のシーンでは定位置に戻っているのだ。

情報はかなり限定されているといっていいだろう。なのに物語の進行に差し支えがないのは驚きだ。会話と狭い範囲の視覚で事足りてしまうのだから。

普段、人に近づくことはあってもここまで執拗に見続けることはしないだろう。そんな失礼なことはしやしないからだし、この映画のカメラだって別にオリヴィエ以外の誰かの目線というわけではなく、単純に対象を追ったものと考えればいいのだが、やはりこの距離感は息苦しい。この息苦しさは何なのだろう。対象に近づくことで底知れぬ感情が渦を巻いていることを意識せざるをえないからだろうか。が、近づいたからといって何を考えているのかは当然わからない。

フランシスは木工課を望んでいたらしいが、手一杯とオリヴィエは断ってしまう。が翌日になると、何故かフランシスのことが気になってしかたがない彼は、溶接課にまで出向きフランシスを引き取ることにする。

この謎は、オリヴィエの別れた妻マガリとの会話であっさり明かされる。彼らの子供はフランシスに殺されたというのだ。マガリはオリヴィエに犯人がいる訓練校を辞めるように言うが、彼は取り合わない。実は前日にマガリはオリヴィエに再婚と子供が産まれることを知らせに来たのだが、この日のやりとりを見ていると、彼らがうまく行かなくなったのは、子供が殺された事件が影を落としているのだと思えてくる。

オリヴィエはこのあともフランシスの後をつけたり、鍵を一時的に盗み出してフランシスの借りている部屋に入りこんだりする。ベッドに横たわって、こんな異常なことまでして、彼は一体何を考えているのか。何をしようとしているのか。

訓練校からの帰えりにフランシスを車に乗せ、それをマガリに見られて「何をする気、狂気の沙汰よ」と詰め寄られるが、彼女に対する答えからでは、オリヴィエにも自分の行動は説明できないようなのだ。

次の日の土曜、彼は車でフランシスを連れて木材の仕入に向かう。製材所は休みで誰もいないが、そこはオリヴィエの弟が経営者で、彼は鍵を持っているのだ。製材所で木材の種類や用途をフランシスに教え、フランシスもノートを見ながら熱心に耳を傾ける。

ここまでの過程で、彼はフランシスに、起こした過去の事件の経緯をしつこくたずねていたのだが、ついに「お前が絞め殺したのは俺の息子だ」と言ってしまう。逃げるフランシス。怖がらなくていいと言いながら追いかけ、捕まえるとフランシスの首に手をかける。

結局何事もなかったように手を離し、森から車に戻り木材を車に積み込みはじめるオリヴィエ。そこにフランシスが現れ、一緒にロープがけの手伝いをはじめる。

最後の共同作業は、和解であり、未来の共同作業さえ示しているかに見える。オリヴィエはいつからこんな聖人君子になったのか。マガリとの会話ではフランシスの受け入れを匂わせていたから不思議ではないし、復讐(首に手をまわしたとはいえ、そこまで考えていたわけではないだろう)がまったく反対の形に転化してしまうことだってないとはいえないが、それ以前に、ここまで興味を持ってフランシスに接触するということが私にはやはり不可解だ。

私にはこの共同作業は、まずあるべき「許し」という地点を突き抜けてしまっているように思うのだ。許すということ自体が大変だと思われるのに。が、おかしなことに突き抜けてしまったことで、逆にそういうこともあるかもしれないという感想も持てたのだが。

ただそれでも、4日間という設定は少し早急ではなかったか。だからってこのカメラにこれ以上振り回されるのは無理なのだが。つまりこの表現方法故の4日間だったのかもしれない。

特異なカメラではあるが、もちろんフランシス側の気持ちもオリヴィエを通して描かれてはいた。睡眠薬を飲まないと眠れない毎日。11歳で事件を起こし、5年間少年院に。母親には嫌われ、父の居場所も知らないという。目測で正確な距離を言い当てるオリヴィエを尊敬し、何かと面倒を見てくれる彼に後見人になってほしいとたのむ。振り返りたくないだろう事件のことも、後見人になるなら知る権利があると言われて、告白するに至る。サッカーゲームに興じ、オリヴィエに勝って少年院でも無敵だったとはしゃぐ……。

原題はたんに「息子」だが、邦題だと自分たちの息子のまなざしがすべてを見ているというような感じもする。オリヴィエは、息子を殺したフランシスに、自分の息子を重ねているのだろうか。まさか。

無音のエンドロールで息苦しさからは突然解き放たれるが、言葉にならないものはいつまでも消えることがない。

【メモ】

オリヴィエは自宅に帰ると、椅子を使った腹筋をしている。

マガリ「再婚するの」。オリヴィエ「よかった」。マ「あなたは誰かいないの」。オ「ああ」。マ「それと子供が産まれるの」。

マガリを下まで追いかけて。オ「何故今日来たんだ」。マ「休みだから」。オ「何故今日なんだ」。マ「診断が出たから」。最後は怒ったように訊いていた。

オリヴィエが無断欠勤の少年を訪ねるシーンも。面倒見がいいのだろう。教えることが好きだとも言っていた。

フランシスとの握手は拒否してたし、製材所行きの途中で立ち寄った食堂での勘定はワリカンだった。

原題:Le Fils

2002年 103分 ベルギー/フランス 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン キャメラ:ブノワ・デルヴォー 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル

出演:オリビエ・グルメ(オリヴィエ)、モルガン・マリンヌ(フランシス)、イザベラ・スパール(マガリ)、レミー・ルノー(フィリポ)、ナッシム・ハッサイーニ(オマール)、クヴァン・ルロワ(ラウル)、フェリシャン・ピッツェール(スティーヴ)、アネット・クロッセ(職業訓練所所長)

ある子供

早稲田松竹 ★★★☆

■子供が親になりまして……

20歳のブリュノはいい加減なヤツだ。まだ小学生か中学生くらいのスティーヴたちを使って盗みを働いてのその日暮らし。18歳のソニアが妊娠して入院すれば、同居していた彼女のアパートは貸してしまうし(映画は出産してアパートにソニアが帰ってくる場面から始まる。この導入部はよく考えられている)、生まれてきた子供にも関心がなさそうだ(わかるけどね)。彼女にも「(入院中に)見舞いにも来てくれないし」となじられていた。

一体ソニアはブリュノのどこを好きになったのだろう。ふたりが子犬のようにじゃれあう姿はあまりに無邪気すぎて、うらやましく思う反面、やはり子供の親としては心もとなくて心配になるばかりだ。

それでもソニアには子供を産んだ母親としての自覚がはっきりと芽生えているから救われる。ブリュノにはちゃんとした職に就いて欲しいのだが、ブリュノは「クズ共とは働けない」とどこまでもお気楽で、職安の列にも並びたがらない。

ソニアが代わりに列に並び、子供の乳母車をブリュノがひくことになるのだが、ひとりになった途端、盗品の売りさばき先(闇ルート)で子供が高く売れる話を思い出し、それこそ思いつきのように話をまとめ、売ってしまう。ここはあれよあれよという間に話が進み、すぐにお膳立てされた場所で子供とお金が交換されていく。

映画は、前編ドキュメンタリーのような作りで、だからこの場面は怖い。『息子のまなざし』と手法は似ているがカメラの位置は多少引き気味で、多少は余裕をもって画面を追えるからあそこまでの息苦しさはないのだが、淡々と取引が進行することが緊迫感を生み出すのは同じだ。

悪びれた様子もなくお金を見せるブリュノにソニアは卒倒し、病院に運び込まれる騒ぎとなる。

ブリュノにソニアの反応が予想できなかったのにはあきれるが、なるほど「ある子供」とはやはり彼のことだったのだ。靴の泥で壁を汚し、その印がどのくらい高くまでつけられるかというひとり遊びに興じていたが、あれはまぎれもなく彼の、そのままの姿だったわけだ。20歳にしてはあまりに幼くて、後になって警官に「俺の子じゃない」とか「浮気したいからムショに送る気だ」とソニアを非難する嘘の言い逃れをしたり、一転ソニアに泣きつき金をせびるあたりでは、観ているのがつらくなるほどだ。

話が前後するが、ソニアに訴えられるかもしれないと思ったブリュノは売ったばかりの子供を引き取ることにする。売った時と同じような手順がここでまた繰り返されるのだが、普通の劇映画のような省略や緩急をつけた演出ではないから、ある部分ではいらつくような流れになるのだが、それがまた心理的な効果を増幅し静かな怖さを呼び戻す。

子供の買い戻しはあっさりできたものの、ブリュノは儲け損なった闇ルートの一味に身ぐるみはがれ、多額の借金を負うことになる。そして、スティーヴを使ってのひったくり。そして、金は奪ったもののこれが失敗してブリュノはムショ送りとなる。

ブリュノはやることは子供で何の考えもないのだが、ある部分では憎めないところがあるのも確かだ。言われれば子供の認知もするし、仲間うちでのルール(盗みの配分)もきっちり守っている。自分のせいで冷たい川に入ったスティーヴを必死で介抱するし、スティーヴが捕まれば自分が首謀者であると名乗り出る(もっともこれには闇ルートからの追求には逃れられそうもないということもあるだろう)。

ソニアはブリュノのそういった部分を好きになったのだろう。だから最後は彼女が服務中のブリュノに面会するという感動的な場面になる。ここではじめてブリュノは息子のジミーの名を自分から口にする。

だけどねー、意地悪な見方をすればここでもブリュノはまだまだ子供なのではないか。若年層の失業率が20%というベルギーの状況をふまえての映画ということでは意味があるのかもしれないが、ブリュノがまだ善悪を知らない子供として描かれている、つまりは最初から救いはあったという観点からいうと、すごく甘い映画にしかみえないのだ。

【メモ】

育児センターの職員が、子供の様子を見にくる。

先のことなど何も考えず、余ったお金でソニアに自分とお揃いの皮ジャンを買う。

じゃれ合うのはソニアからも。飲みかけの飲料をブリュノにふりかけて、追い駆けっこを始めるふたり。

「子供は売った。またできるさ」。このセリフのあとにソニアが卒倒するのだが、卒倒場面は『息子のまなざし』でも出てきた。卒倒好きなのね。でもこちらの方が自然だ。

ブリュノが子供を取り戻して病院に戻るとソニアは警察を呼んでいた。ここで浮気発言になるのだが、子供は(自分の)母親に預けていた、という嘘もつく。このあと母親に口裏を合わせてもらいに母のアパートを訪ねるのだが、母は見知らぬ男と一緒にいる。

往来の激しい車道を主人公たちは何度か横断する。単純だがこれが不安感を煽る。子供を抱いて渡る場面では実際はらはらしてしまった。

最後はまた無音のエンドロール。

原題:L’Enfant2005年 95分 ビスタサイズ ベルギー、フランス PG-12 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン、カメラマン:ブノワ・デルヴォー カメラ・アシスタント:イシャム・アラウィエ 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル

出演:ジェレミー・レニエ(ブリュノ)、デボラ・フランソワ(ソニア)、ジェレミー・スガール(スティーヴ)、ファブリツィオ・ロンジョーネ(若いチンピラ)、オリヴィエ・グルメ(私服の刑事)、ステファーヌ・ビソ(盗品を買う女)、ミレーユ・バイ(ブリュノの母)

DEATH NOTE デスノート 前編

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■デスノートというアイディアの勝利

原作の力なのだろうが、とてつもない面白さだ。マンガ10巻で1400万部というのもうなずける。

「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という「DEATH NOTE」を手に入れた夜神月(やがみらいと=藤原竜也)。法律を学び警察官僚を目指す正義感の強い彼が、神の力(この場合は死神だが)を手に入れたことで、どんどん傲慢になっていく。

デスノートを手に入れる前の彼がどんな人物なのかはいまひとつわからないのだが、司法試験一発合格という頭脳を持っているのであれば、ラスコリーニコフになっても不思議はない。しかもはじめのうちは服役中の凶悪犯や法の網からくぐり抜けたと思われる人物を始末していくわけだから、法による正義の限界を感じていた彼にとっては大義名分とカタルシスの両方が得られていたというわけだ。

もっともいくら処刑されるのが凶悪犯とはいえ、警察としてはキラ(いつしか巷ではそう呼ばれるようになっていて、信者までが現れる人気者となっていた)の行動を見逃すわけにはいかない。犯罪の大量死が世界中をターゲットにしていることから各国の警察やFBIも動きだし、インターポールは天才的頭脳を持つ探偵L(松山ケンイチ)を警視庁に送り込んでくる。

犯人が日本にいることが特定される理由も、もちろんLによって示されるのだが、Lが日本人(だよな。松山ケンイチは適役)ということもあって、急に世界が狭くなってしまう。些細なことなのだが、あまりに話が面白いので、日本に限定してしまうことが惜しく感じられたのだ。

Lの登場によって、キラ(月)との駆け引きは、天才対天才という側面を持ち、壮絶な頭脳戦となっていく。この設定は面白いに決まっているが、内容がともなわないといけないわけで、だからそういう意味でもすごいのだ(アラはあるけどね。でも着想とたたみかけるようなテンポで、観ているときはゾクゾクものなのだ)。

しかしこのことで、キラは自分を守るためにデスノートを使うようになってしまう。FBI捜査官レイ(細川茂樹)に、彼の婚約者でやはり元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)と次々と手を下していくことになる。

ここまでくると本当にキラ(月)が犯罪のない理想社会を作り出そうとしているのかどうかはわからなくなっている。すでに彼にとってはLに勝つことが(自分の身を守ること以上かもしれない)最大の目的になっているように見えるからだ。

前編でのハイライトは、キラ(月)が幼なじみ秋野詩織(香椎由宇)までも手にかけてしまうことだ。流れとしては必然ながら、ここでも彼は冷酷なままなのだ。果たしていいことなのかどうか。彼の心理描写に時間を割いてもいいと思う反面、極力説明を排除した方がこの場合には合っていそうに思えるのだ。

ついでに言うと、芝居はCGの死神も含めて全員が大げさで、映画自体の雰囲気をテレビドラマ並のチャチなものにしている。でもそれがかえっていい。なにしろデスノートの存在が架空なのだから、リアリティはこの際不要。でないと警察があそこまでハッキングされっぱなしということなどもおかしいわけで、そういう部分の枝葉の説明に終始しだしたら、とたんにつまらなくなってしまうだろうから。

ということは、デスノートの存在につきるのかもね。そこには詳細なルールのようなことまで書かれていて、死因だけでなく死に至る行動までを決めることができるのだ。これをどのように操るかというのも見所で、Lとの攻防はまさにゲームのような面白さをみせる。キラ(月)はページの一部だけをちぎって使ったりもするのだ。

デスノートに触れた者だけにしか見えないという死神は、フルCGでいかにもという姿形なのだが、この存在感もなかなかだった。死神が何故デスノートを自分で使わないのか(使えないのか?)は不思議なのだが、彼の行動をみていると納得がいく。彼はあくまで傍観者を装い、デスノートを手にした者の意志に任せているのだ。が、夜神月に拾わせるようにし向けたのも間違いなさそうだ。死神の勘で、月が自分の意に叶った人物であることを見抜いていたのだろう。

となると次は弥海砂(あまねみさ=戸田恵梨香)をどう扱うかだが、前編ではほとんど明らかにならず(前編だけだと彼女は話をわかりにくくしているだけだ)、キラ(月)の運命と共に後編を待つしかない。それにしても10月までお預けとはねー。

  

【メモ】

南空ナオミが月を追いつめる。月の手が動きペンに伸びるが、南空ナオミは偽名を名乗っていた。

ポテトチップスの袋のトリック。隠しカメラの段階ではLが敗北するが、あとのシーンでは月の前に、Lは袋を持って登場する。

詩織の死。「キス、人前でしちゃった」

2006年 126分 ビスタサイズ

監督:金子修介、脚本:大石哲也、原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画)、撮影:高瀬比呂志、及川一、編集:矢船陽介、音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、瀬戸朝香(南空ナオミ)、香椎由宇(秋野詩織)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、細川茂樹(FBI捜査官レイ)、藤村俊二(ワタリ)、戸田恵梨香(弥海砂)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、中原丈雄(松原)、顔田顔彦(渋井丸拓男)、皆川猿時(忍田奇一郎)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、中村獅堂(死神リューク:声のみ)

幸せのポートレート

シャンテシネ3 ★★☆

■あー大変、疲れちゃうよ

ニューヨークのキャリア・ウーマン、メレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)が、恋人のエヴェレット(ダーモット・マローニー)に連れられて、クリスマス休暇を過ごすためにストーン家にやってくる。

結婚相手の家族とうまくやっていけるかどうかは、現代のアメリカ女性にとっても大問題のようだ。仕事のようにはいかないとわかってか、家に入る前からメレディスは緊張気味。で、これがえらく難問だったとさ。

メレディスに対するストーン家の反応は過剰で、あまりにも意地悪すぎ。1度会ったことのある次女のエイミー(レイチェル・マクアダムス)が吹き込んだメレディス評のせいかもしれないし、母親のシビル(ダイアン・キートン)などは癌が再発したという事情があるのだけど、それを差し引いたにしてもいただけない。すべてがオープンで、エイミーの初体験相手の名前が飛び出すような気取らないストーン家と、スーツで身を固め、妹のジュリー(クレア・デインズ)との電話にもプライバシーだからと人払いをせずにはいられないメレディスは、火と油にしてもだ。

異色なのはエヴェレットもで、だからメレディスを相手に選んだのだろうか(もっともこの点については違う展開になるのだが)。シビルによれば、彼は理想家で完璧を目指しすぎるらしい。で、本当に求めているものに気付いていないと最後までメレディスとの結婚に反対するのだが、この理屈はよくわからない。

メレディスは応援のつもりで呼び寄せたジュリーが人気をさらって裏目になるし、さらに3男のサッド(タイロン・ジョルダーノ)に話題が及んで、とんだ侮辱発言を開陳してしまう。サッドは聾者でゲイ。彼の相手で黒人のパトリック(ブライアン・ホワイト)も家族の一員になりきっている。「親なら誰も子が障害を持つことを望まない」と言うメレディスに「自分の子がみんなゲイであればと願ったわ。女の子に取られないから」とサッドたちに気遣いをみせるシビルだが、そのことには気付かないメレディスは、自分の発言を取り繕うとして失言を重ね、父親のケリー(クレイグ・T・ネルソン)に「もう沢山だ」とまで言われてしまうのだ。

これでメレディスの評価が下がるというのなら仕方ないのだけどねー。もっとも次男のベン(ルーク・ウィルソン)はメレディスにはじめから好意的だったから一方的に怒ることなく、慰め役にまわることになる。

で、結局メレディスとベン、エヴェレットとジュリー、さらにはメレディスのおかげエイミーに初体験の相手という組み合わせが誕生するのだが、さすがに少しやりすぎだし理屈(じゃないけどね)からいっても飲み込みにくい。脚本は、人物の交通整理はよくできているのに肉付けがまずいのではないか。

メレディスは意外にもストーン家に近い面があり、で、それはなるほどと思えるのだが、ジュリーについてはもう少し何かがほしいところだ。最初からストーン家に受け入れられるのは、メレディスの逆バージョンと受け取ればいいのかもしれないのだけどね。

それに比べるとメレディスはエヴェレットに「プロポーズはしていない」とみんなの前で言われてしまうし、本当に散々な役。さすがに可哀想になってくるが、でもだからって共感するまでには至らない。出演者は多いんだけど、つまるところ彼らと違って、寄り添うべき人物が見つからなかったのだ。

末期癌の話も途中ですっ飛んでしまったけど、でもまあそれは最後に次の年のクリスマスシーンがあって、シビルの姿がそこにはなく、という終わり方になっていた。

邦題はメレディスがクリスマスプレゼントにストーン家の人たちに贈った額入りの写真からつけている。エヴェレットの机にあったものだと言っていた。シビルのお腹にエイミー(メレディスはエヴェレットと思っていた)がいた時のもので、この写真は最後にまた出てくる。

 

【メモ】

タイトルデザインは、書体もデザインもそれぞれ違うクリスマスカードで綴られる(雪や船の部分は動きがついている)。

メレディスが「結婚前なのにエヴェレットの部屋には泊まれない」と、エイミーの部屋を借りることになるのだが、エイミーはこれも気に入らない。ここでシビルは、メレディスに「あなたと寝たくないのね」とまで。

辛辣な言葉の数々。「礼儀がどうだろうとあんな女は願い下げ」「エヴェレットは自分のことがわかっていない」さすがにエヴェレットも反論する。「僕へのいやがらせか」「父さんにも失望した」これはだいぶ経ってからのセリフだが「母さんはみんなの人生をやっかいにした」とも(このあと指輪を渡されて「指輪はあなた次第」と)。

エヴェレットは、昔シビルから結婚相手をみつけて来たら祖母の指輪をあげると言われていた。このクリスマス休暇はその目的もあった。

ベンはメレディスに会ってその晩すぐ夢に見る。「君は小さな女の子で雪かきをしている。俺は雪なんだ。君がすくう」というもの。

この指輪をエヴェレットがジュリーにはめて取れなくなる騒動も。

原題:The Family Stone

2005年 103分 アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:トーマス・ベズーチャ 撮影:ジョナサン・ブラウン 編集:ジェフリー・フォード 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:サラ・ジェシカ・パーカー(メレディス・モートン)、ダーモット・マローニー(エヴェレット・ストーン)、ルーク・ウィルソン(ベン・ストーン)、ダイアン・キートン(シビル・ストーン)、クレア・デインズ(ジュリー・モートン)、レイチェル・マクアダムス(エイミー・ストーン)、クレイグ・T・ネルソン(ケリー・ストーン)、タイロン・ジョルダーノ(サッド・ストーン)、ブライアン・ホワイト(パトリック・トーマス)、エリザベス・リーサー(スザンナ・ストーン・トゥルースデイル)、ポール・シュナイダー(ブラッド・スティーヴンソン)、ジェイミー・ケイラー(ジョン・トゥルースデイル)、サヴァンナ・ステーリン(エリザベス・トゥルースデイル)

機械じかけの小児病棟

シネマスクエアとうきゅう ★★☆

■意外と凝ったホラーだが

老朽化のため閉鎖間近のイギリス、ワイト島にあるマーシー・フォールズ小児病院に、看護婦の欠員があってエイミー(キャリスタ・フロックハート)が派遣されてくる。そこは忌まわしい過去が封印された病院だった……。

同僚の看護婦ヘレン(エレナ・アナヤ)や看護婦長フォルダー(ジェマ・ジョーンズ)を微妙なところ(敵か味方か)に置いて、エイミーの活躍にロバート医師(リチャード・ロクスバーグ)の協力で、昔の惨劇が明かされていく。なんでもフォルダーがこの病院に来たばかりの頃、看護婦が女の子を骨折させていた事件があったというのだ(もっともこれがわかるのは最後の方)。入院患者の子供たちが2階(ある事件で閉鎖されていた)の物音に怯え、その中で霊感の強いマギーという子が、全身に金属の矯正器具を付けたシャーロットという女の霊が出ていると言っていたのは本当だったのだ。

最初に病院から搬送されようとしたサイモンという男の子の骨折シーンは、その霊の仕業だったというわけか。でも何故。それにあれはいかにもレントゲンを撮ることで骨折が引き起こされたような映像だったが? 医師自身が骨折箇所が増えていることに疑問を呈しているのだが、説明がヘタでなんともまぎらわしい。

前任の看護婦スーザンの死については、彼女が相談していたという霊媒者姉妹をエイミーに訪問させて、「死期が近づいている者にのみ霊が見え」「彼ら(霊)は愛するもののそばにいようとする」と解説させる。そして、これがちゃんとした伏線になっていたのだけど、なんとなく霊媒者まで出してきたことで、うさんくさくなって、ちょっと馬鹿にしてしまっていたのね。

エイミーとロバートが必死になって事件のカルテを見つけようとするあたりからは急展開。シャーロットが実は看護婦で、マンディ・フィリップスというのが患者である少女の名前だったことが判明する。シャーロットはマンディを虐待し、退院させたくないために彼女の骨を折っては退院を延期させていたというのだ。うわわわ、サイモンの骨折もこれだったのだ。事件が明るみにでて有罪となった彼女はマンディを殺害し(可能?)、自分に矯正器具を付け(これがわからん)自殺し、幽霊となって出ていたのだと。

よくできた話とは思うが、全体の見せ方があまりうまいとはいえない。矯正器具を付けた幽霊が、それこそ矯正器具で固定されているようで全然怖くないし、途中で映画を幽霊ものと思ってしまって興味を半減してしまったということもある。ま、これは私が悪いのだけれど。ここまで脚本に凝っているとは思わなかったのね。最後になって急に盛り上がられてもなーという感じ。ロバート医師も中途半端だったかなぁ。

【メモ】

閉鎖が決まった病院は、入院患者や医療機器の移送がはじまっていたのだが移送の最終日に大規模な鉄道事故が発生する。患者たちを移す予定だった近隣の病院は負傷者があふれ、病院の閉鎖はしばらく延期されることになる。

エイミーも2階の物音や異変に気付き、エレベーターに閉じ込められたりもする。

エイミーはスーザンの自宅を訪ねるが、彼女はその前日に運転する車がスリップ事故を起こして死亡していた。

続いて、病院の従業員ロイの不審死(窓に飛び込む)。

エイミーにも自分のミスで患者を死なせているという過去がある。

死期が迫っていたスーザン、マギーには霊の姿が見える。そして、エイミーにも……。

原題:Fragile

2005年 102分 シネマスコープ スペイン 日本語字幕:関美冬

監督:ジャウマ・バラゲロ 脚本:ジャウマ・バラゲロ、ホルディ・ガルセラン 撮影:シャビ・ヒメネス 音楽:ロケ・バニョス

出演:キャリスタ・フロックハート(エイミー)、リチャード・ロクスバーグ(ロバート)、エレナ・アナヤ(ヘレン)、ジェマ・ジョーンズ(フォルダー)、ヤスミン・マーフィ(マギー)、コリン・マクファーレン 、マイケル・ペニングトン

ゆれる

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■みんな吊り橋を渡りたいらしい

「なんで兄ちゃんあの吊り橋渡ったの」という早川猛(たける=オダギリジョー〉のセリフは予告篇にも登場するのであるが、観終わったあとも暫くはこの意味がはっきりしないままだった。

でも何のことはない、吊り橋を渡って(田舎を捨て)東京でカメラマンという華やかな仕事をしている(まあ成功しているようだ)弟の猛と、吊り橋を渡れずに(田舎にとどまって)いる兄の稔(香川照之)と単純に考えればよかったのだ。

実家で頑固な父親(伊武雅刀)とガソリンスタンドを経営している稔は、温厚で優しい性格で、だからいろいろなしがらみの中にいる。田舎町という閉塞的な環境で折り合いをつけながら生活していることは、母の一周忌の場面であきらかだ。服装のことも気にせず(少しはしてたか)久しぶりに帰った法事の場でさっそく父と衝突してしまう猛とは好対照で、稔はふたりの取りなしにやっきとなる。

今はガソリンスタンドで働く川端智恵子(真木よう子)は、猛と昔付き合いがあり、その日も法事のあとスタンドに寄った猛の送っていくという口実のままに、結局は彼をアパートに上げ関係を持ってしまう。他人行儀でいようとしていたのに、猛の「(兄貴と)ふたり息が合ってるね、嫉妬しちゃったよ俺」という悪魔のような囁きに応えてしまうのだ。実は彼女も、昔猛と一緒に東京に出ようとしたことがあったのに、「吊り橋を渡ることができなかった」のだ。

翌日は3人で近くの渓谷に遊びに行くことになっていて、ここの吊り橋で問題の事故が起きる。

先に吊り橋を渡った猛を探しに行くかのように智恵子が渡り始めると、背後から追ってきた稔がしがみつく。稔はゆれる吊り橋が怖いのだが、智恵子にはそれがわからない。いや、知っていたのかもしれないが、猛が見ている可能性のあるところで抱きつかれたくないという気持ちも働いたのではないか。

この吊り橋を渡る、渡ろうとする関係性はあまりに図式的ではあるが(なのに最初に書いたように暫くの間わからなかったのだが)、そこで起きる智恵子の転落が過失なのか故意なのかという興味へ映画は突き進んでゆく。猛は現場を見ているのに、観客にはその場面はあかされない。だから裁判を通して、場面が二転三転すると観客もそれに引きずられ、真実がどこにあるのかと考えさせられるというわけだ。

話をまとめると、事実は次のようになるだろうか。

稔は智恵子と結婚を考えていた。彼はそれを言い出せないでいたが、彼女も周囲もそう思っていてくれたはずだ。が、猛の帰省で状況は一変する。あの晩、猛が智恵子と酒を飲んだと嘘をついたことで稔にはすべてがわかってしまったのだ(稔が背中をまるめるように洗濯物をたたんでいた場面は印象深い)。

智恵子の心も川原では、すでに東京に行って猛と新しい人生を始めていた。なのに猛ははぐらかすようにその場から去り、吊り橋を渡って行ってしまう。ふたりのことはおかまいなしに、花の写真を撮ることに夢中になっているのは東京での生活を暗示しているかのようだ。

稔にとって智恵子が猛を追うことはたまらないことだったろう。智恵子は希望の光だったのだから。稔だって吊り橋を渡って、猛のように生きていきたかったのだから。拘置所で猛に向かって、仕事は単調で女にもてず家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈を聞き、とぶちまけるのも当然だ。それでもやはり智恵子が死んでしまったことでは、自責の念に駆られたはずである。

そして稔は、自分が吊り橋を渡れないばかりか(猛には何故渡ったと言われるが)、引き返す場所さえもないことを悟って判決を受け入れるのだ。もしかしたら猛が裁判に熱心で、弁護士の伯父(蟹江敬三)を担ぎ出したことにもいらついたのではないか。

次第に、猛にとっては知らない兄が姿を現してくる。人を信じないのがお前だとか自分が人殺しの弟になるのがいやなだけとまで言われて、彼も兄が智恵子を突き落としたと証言してしまう。自分の兄貴を取り戻すために。しかしその兄貴とは、自分にとって都合のいい兄ではなかったか。「兄のことだけは信じられたし、繋がっていた」と言うけれど、彼には何も見えていなかったのだ。

法事で見つけた母の8ミリフィルムを、何故か7年後に見ている猛。そこには、幼い猛が怖がる稔の手を引いて吊り橋を渡ろうとしている映像が残こされていた。

刑期を終えた稔をやっと見つけた猛が、道の向こう側から大声で呼びかける。猛に気付いて、とりあえず稔は笑ってしまうのだ。たぶん昔からの癖で。笑顔はやって来たバスに隠れてしまう。稔はバスに乗ったのだろうか、残ったのだろうか。

猛としては兄を今度こそ本当の意味で取り戻そうとしているのだろうけどね。この時点では「最後まで僕が奪い、兄が奪われた」と認識しているわけだから。でも、どうなんだろ。私が稔ならもうそんなことには関わりたくない気がする。兄弟というものがよくわかっていないし、必要性も感じていない私としては、少々食いつきにくい最後だ。

結末は観る人によっていくらでもつけられるだろう。強いて言うならその部分と、映像的な面白味に乏しいこと(これは全体にいえる)が惜しまれる。あとは智恵子が忘れ去られてしまったことが、悲しくて可哀想だ。彼女の母親も言っていた。「智恵子は殺されるような子だったのかな」と。

  

【メモ】

巻頭の東京の事務所での猛。冷蔵庫は開けっ放しで平気だし、女性の存在も。

渓谷は蓮美渓谷(架空の場所?)。

智恵子の母親は再婚(アパート暮らしだが、智恵子も居場所がない?)。

「怖いよ、あの人もう気付いているんじゃないかな」(智恵子のセリフ)。

猛に小遣いを渡す稔。

水を流しながら動くホース。

8ミリ撮影が趣味だった母が残したフィルムの日付はS55.9.8。

2006年 119分 1:1.85(ビスタサイズ)

原案・監督・脚本:西川美和、撮影:高瀬比呂志 、編集:宮島竜治 、美術:三ツ松けいこ 、音楽:カリフラワーズ

出演:オダギリジョー(早川猛)、香川照之(早川稔)、伊武雅刀(早川勇)、新井浩文(岡島洋平)、真木よう子(川端智恵子)、蟹江敬三(早川修/弁護士)、木村祐一(検察官)、ピエール瀧(船木警部補)、田口トモロヲ(裁判官)

ブレイブ ストーリー

新宿ミラノ2 ★☆

■何をやってもいいわけがない

宣伝も派手だったし、たまたま宮部みゆきの小説を続けて読んだこともあって期待してしまったが、恐ろしくつまらない作品だった。なにしろ展開が速すぎるのだ。長篇の映画化だから仕方がない面はあるにしても、緩急はつけないと。最初から最後までせっつかれていては物語に乗れない。

両親の離婚と母がそのショックで倒れてしまうという危機に直面した小学5年生のワタル。
謎の転校生ミツルの言葉に誘われるように、幽霊ビルの階段の上にある運命を変えるという扉を開く。そこはヴィジョン(幻界)と呼ばれる異世界で、ワタルは5つの宝玉を見つけ、女神のいる運命の塔を目指して旅に出る。という少年の成長物語。

宝玉の話もありきたり(どこぞのスタンプカードみたいに最初の1個はすでにあったりするのね)なら、途中、仲間ができていくくだりも定番ともいえるものだ。それはかまわないのだが、多分そこに至る過程をごっそり省略してしまっているから、キ・キーマやカッツ、それにミーナたちは、キャラクターとしての存在感も薄いし、なによりワタルとの連帯感が感じられないときてる。ミツルに至っては関係も一方的で、2人はとても友達とは思えない。

これでは「オレのためだけに生き」て、どこかで間違ったというミツルと、「願い事のためだったら何をやってもいいのかな?」と迷い、最後にはもう1人の自分と決着をつけ、運命を受け入れることになるワタルという対比が台無しだ。

せっかくのこのテーマを台無しにしているのは、ラストの描き方にもある。ワタルの運命は変わらないのに(離婚の成立、母は元気に)、ミツルの運命は変わっている(妹は生きている)のはどう解釈すればいいのだろう。一応子供向け映画でもあるのだから、ここはもっと単純でよかったのではないか。

そういえばイルダ帝国ってなんだったんだろ? 魔の力が解き放たれて戦争とかしてたよな。私には最後まで関係ない世界の話で、ワタルのようにヴィジョンを救わなきゃとは思えなかったのね。

【メモ】

雨粒がでかすぎ(雨を上からとらえたシーン)。

お試しの洞窟での「蛙は帰る」とんちはいただけない。

体力平均、勇気最低、総合評価35点で「見習い勇者」。

ドラゴンの子供の扱い。ネジオオカミ。ハイランダーになるワタル。

2005年 111分 アニメ

監督:千明孝一 、アニメーション制作:GONZO 、脚本:大河内一楼 、原作:宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』 、撮影:吉岡宏夫 、編集:瀬山武司 、音楽:Juno Reactor

声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、堤下敦[インパルス](犬ハイランダー)、板倉俊之[インパルス](若い司教)、虻川美穂子[北陽](小村克美/カッちゃん)、伊藤さおり[北陽](小川)、柴田理恵(ユナ婆)、伊東四朗(ラウ導師)、石田太郎(ダイモン司教)、樹木希林(オンバ)

ローズ・イン・タイドランド

新宿武蔵野館2 ★★☆

■R-15指定の子供映画

10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が見て感じた世界をそのまま映像化したような作品。

もっともそのままかどうかはすこぶる怪しい。彼女が生きている世界がそもそも現実味に乏しいのだ。それに彼女が画面に映し出されるということは、厳密には位置関係なども違うことになる。だから、その時は現実と解釈した方がわかりやすいのだが、そこらへんは曖昧だ。

両親共ヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)がクスリの過剰摂取で死んでしまうと、父(ジェフ・ブリッジス)はテキサスにあるすでに亡くなった祖母の家へローズを連れて行く。そこは草原の中の廃屋寸前の一軒家で、父もクスリの力で「バケーション」に行くと言ってそれっきりになってしまう。なんとこのあとのジェフ・ブリッジスは、死体役を続けることになる。

ローズは父の死を認識するでもなく、家の中や黄金色に輝く草原で独り遊びを続ける。焼け焦げてひっくり返ったスクールバスを見つけ、たまに通る列車に狂喜する。学校にも行っていないローズの友達はバービー人形の頭4つだけで、別段それを苦とも思っていないようなのだが(リスとも話が出来ちゃうから?)、やがて近所に住むデル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟に出会う。

デルは黒ずくめで蜂に片目さされたという薄気味悪い女性で、ローズは最初幽霊女と思い込む。弟のディケンズは知的障害者で、この隣人たちとの交流もかなりきわどいものだ(子供が主役なのにR15指定だものね)。デルは性的行為と引き換えに食料品を男から手に入れているし、ローズはディケンズとキス遊びに興じ「結婚」する。

悪意としか思えない設定、そしてそこは死と腐臭に満ちているというのに、ローズには本当にそれらが見えていないのだろうか。だとしたらあまりに幼い。いくら社会性の乏しい環境で育ったにしても、これでは精神年齢からしたら5歳程度ではないか。いくら彼女の想像力が、大好きな『不思議の国のアリス』の影響を受けているにしてもだ。

最後は、死の集大成のような列車の脱線事故が起きる。列車はディケンズのモンスターシャーク退治(あのスクールバスはモンスターシャークにやられたらしい)にあえなく脱線してしまったのだ。この炎に包まれた光景は大がかりなもので、これがまた不思議な雰囲気を醸し出している。ローズはその事故現場を歩いていて1人の女性に乗客と間違えられ、拾われるような形となる。

この列車事故が本当であれば、ローズにとっては不幸中の幸いか。この大惨事すらも幻想というのなら、彼女の願望でもあるだろうから、いくら幻想の世界に遊んでいてもローズはやはりちっとも救われてなどいなかったということになる。

少女の想像世界の映像化は、草原に海を出現させるなど、たしかに良く出来てはいるが、それにしても長い。半分程度で十分と思ったのは私の趣味に合わなかったこともある。きっちり解読したなら何か見えてくるのかもしれないが、くたびれてしまったというのが正直なところだ。

【メモ】

tideland 【名】 干潟、低い海岸地帯  この干潟という言葉に、陸地と海(現実と夢)の境界線というような意味をもたせているのだろうか。

父親は元ロックスター。彼は昔を懐かしんで、母親のことを「グンヒルド王妃」と呼んでいるが、美貌は過去のもので下腹もたるんでいる。ローズは足をもんであげている。母親はメタドンによるショック死。

当然のように父親にクスリを持ってきて注射の手伝いをするローズ。死んだ父親の膝の上でローズが目覚めるシーンも。父親にお祖母ちゃんのかつらをつける。次の日?には死体は悪臭を放ち、ローズはおならをしたと言う。

うさぎの穴に落ちるローズは、ほぼアリスのイメージ)。草原の海の中を行くローズ。ウェットスーツ姿のディケンズ。

水平線の傾いた絵(映像)。これは何度も出てくる。

原題:Tideland

2005年 117分 スコープサイズ イギリス/カナダ R15 日本語字幕:■

監督:テリー・ギリアム、脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、原作:ミッチ・カリン、撮影:ニコラ・ペッコリーニ、音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ

出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(父親ノア)、ジェニファー・ティリー(母親グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)

リトル・ランナー

早稲田松竹 ★★☆

■悪ガキが奇跡を信じるとき

父が戦死していない14歳のラルフ(アダム・プッシャー)は、母親のエマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)と2人暮らしだ。母の入院で施設送りの危機となるが、祖母の手紙を親友のチェスターに偽造してもらってしのぐ。そんなこともへいちゃらな彼はいたって脳天気。性への興味は人一倍だし、校則破りの常習犯として校長のフィッツバトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている有様だ。

はじめのうちは、少年の性の目覚めが主題かと思われるような内容が続く。が、母が昏睡状態に陥ってからはラルフも、性的好奇心はなくならないようだが、少しは心変わりしたかのようだ。だからって状況は変わらない。看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)からは「医師によれば、奇跡でも起きない限り目覚めることはない」のだと言われてしまう。

ところが、罰で校長に入部させられたクロスカントリー部で、コーチのヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と語るのを聞き、ラルフは自分が奇跡を起こせば母を助けられると思い込み、猛練習をはじめる。

奇跡の連鎖反応とは辻褄の合わない話だか、こういう考え方をしてしまう気持ちはわからなくはない。ただ映画は、この奇跡問題をあくまで宗教の奇跡と対比する。そして50年代のカトリック学校という設定だから、フィッツバトリック神父のように厳格で融通のきかない校長がいてもおかしくなさそうなのだ。

校長にとっては「神の僕が奇跡を追い求めるのは神への冒涜」でしかないのだが、宗教のわからない人間にとっては、この映画こそが(校長が考えるような)神への冒涜と揶揄に満ちているようにみえる。でも、だったら映画の章分けに聖人歴を使っているのにはどういう意味があるのだろう(この時点で私などお手上げと思ったものね)。

はじめはチェスターとクレア(タマラ・ホープ)だけがたよりのめちゃくちゃな訓練だったが、アリスはウェイト・トレーニングを取り入れるよう助言してくれるし、ヒバート神父もコーチを買って出てくれることになった。ペース配分ができず散々だった地元(カナダ)のレースにも優勝し、ついにボストンマラソンを走る日がやってくる(途中でラルフが過失から出火し家を失ってしまうエピソードもあった)。

チェスターは実況放送のために放送室を占拠。友達は応援し、クレアは祈る。アリスは母にラジオを聞かせる。偽造手紙を見破ったこともありボストンで走ったら退学と脅かしていた校長までが、ラルフの走りに夢中になる。

ラルフは沿道の人の中に神の姿を見、声援をはっきり聞き、必死に走る(しかし何で神がサンタの姿なんだ。その人にとって一番わかりやすい形で現れてくれたのかしらね。そういえば、彼が走ることを決めたのもサンタによる啓示だった)。まわりのみんなを巻き込み、奇跡を起こそうとするそのことが奇跡に値するということなのだろう。原題がSaint Ralphなのはそれでなのか(だからって納得はしていないが)。優勝できなくても、優勝が奇跡というのなら奇跡は起こらなくても、母は目覚めるのだし。

話はそれるが、次のは最近の私の説。奇跡は、猫が眠るようにありふれて起きる。ただそれに気付くことは少ない。そして、気付くことこそに意味がある。以上。

ところで、この映画ではヒバート神父がカナダ代表の元オリンピック選手だったり、ラルフが準優勝するのは53回ボストンマラソンということだが、どこまでが本当なんだろうか?

 

【メモ】

1953年、カナダ・ハミルトンのカトリック学校。

プールの更衣室事件。ロープ登り事件。

最初の10マイルレースは完走がやっと。

チェスター「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができる。それに、君なら優勝できるよ」

校長は、ラルフだけでなくヒバートにも修道会からの追放を匂わせる。

ヒバート神父(ニーチェが愛読書?)「どんな選手も、32キロを過ぎると祈り出す」

原題:Saint Ralph

2004年 98分 ビスタサイズ カナダ 日本語字幕:■

監督、脚本:マイケル・マッゴーワン、撮影:ルネ・オーハシ、美術:マシュー・デイヴィス、音楽:アンドリュー・ロッキングトン

出演:アダム・プッシャー(ラルフ・ウォーカー)、キャンベル・スコット(ヒバート神父)、ジェニファー・ティリー(アリス看護婦)、ゴードン・ピンセント(フィッツパトリック神父)、タマラ・ホープ(クレア・コリンズ)、ショーナ・マクドナルド(エマ・ウォーカー)

リトル・ダンサー

早稲田松竹 ★★★★

■ビリーはとにかく踊ることが好き

女の子のものと思われがちなバレエに夢中になってしまう11歳の男の子に、それとは不似合いな炭坑不況下(1984年)のイングランドのダーハムという町を背景にした、でも話は、定番ともいえる夢の成功物語。

ボクシング教室には気乗りしないが、同じフロアに引っ越してきたバレエ教室なら見ているうちに踊りだしてしまうビリー(ジェイミー・ベル)。ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)も彼の素質に、バレエへの情熱を取り戻したかのようだ。

話は単純だが、場面や会話の積み重ね方には唸らされる。初レッスン後にウィルキンソン先生に「楽しかった?」と声をかけられるのだが、ビリーが答えないでいると「どうぞお好きに」と言ってさっさと車で帰ってしまう。先生のビリーに対する距離感はなかなかで、この2人の関係が最後までいい感じなのだ。

ビリーのバレエ教室通いが始まるが、男はボクシングかサッカーと思っている父親(ゲイリー・ルイス)には内緒だ。それがばれてしまった時の問答。「何故いけない」「わかっているはずだ」「ききたい」父親は答えずビリーを殴る。当然すぎて説明できない父親を、さもありなんという感じで簡潔にみせる。

ビリーの父と兄トニー(ジェイミー・ドレイヴン)は炭坑夫で、肉体労働という環境もあるのかもしれない。兄は労組の中心的人物で、炭坑はストの真っ最中。労働者と警官隊が睨み合う風景が日常となっている。収入が途絶えた状況で、わずかとはいえボクシング教室のお金がバレエ教室に使われていたのではねー(クリスマスには父が母のピアノを薪にしてしまうシーンも出てくる)。

父にばれたあとのビリーの怒りのダンスシーンは圧巻だ。感情のおもむくままにステップを踏み、町中に飛び出していく。背後の左手に白い船がゆく坂道で踊るビリーや、ストと対比した画面がきいている。

ビリーは女の子趣味でバレエが好きなのではなく、純粋に踊りが好きなのだ。彼の親友にゲイのマイケル(スチュアート・ウェルズ=なんとも可愛らしい)を配することで、この説明もあっさりやってのける。18歳のビリー宛に手紙を残していた、死んだ母親の説明もこうだ。「素晴らしい人だったのね」「普通の母親だよ」

クリスマスの夜に再び父と対峙したビリーのダンス(このダンスシーンも見ものだ)に、父はスト破りを決意する。ロイヤル・バレエ学校のオーディション費用を工面する方法が他にみつけられないのだ。仲間がピケを張る中、のろのろ進むバスの中にいる父親。まるで晒し者を連行するかのようだ。

これは仲間の募金と祖母(ジーン・ヘイウッド)の力でなんとか切り抜け、オーディションへ。緊張。歓喜。続いて家族や先生、マイケルとの別れ、そしてラストの大人になって成功したビリー(アダム・クーパー)の公演シーンまでと続くのだが、実はこのまとめて書いた部分にはあまり感心できなかった。

オーディションで踊っている時の気分を尋ねられたビリーの答えが、なんだか長ったらしくて弁解じみて聞こえてしまったのだ。ありったけの感情を込めて踊りまくっていたビリーが、あがって力を出し切れなかったにしても、バレエに無関心で何もわからない父にスト破りを決心させた力を「踊り出すと何もかも忘れて、自分が消えます。まるで自分が鳥になったみたいに……」というようなありきたりの言葉で置き換えてしまうなんて。バレエ学校の先生たちはどこを見ているんだろう。

祖母との別れのシーンはよいけれど、兄とのそれはやはりやや長い。家のそばにいつもいた小さな女の子とのあっさりした別れ程度で十分なのに。オーディションシーンにがっかりしたものだから、そのあとからは点が辛くなってしまったようだ。

  

【メモ】

祖母はボケだして物忘れはひどいし、迷子になってしまったり。でも最初からビリーの味方。自身もダンサーになれたのに、というのが口癖。母がアステアのファンで、映画を観た晩は一緒に踊ったというような話もしていた。

最初のオーディションは兄の逮捕で、ウィルキンソン先生との待ち合わせ場所に行けなくなる。

原題:Billy Elliot

2000年 111分 ヴィスタ イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー、脚本:リー・ホール、撮影:ブライアン・テュファーノ、音楽:スティーヴン・ウォーベック

出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴン、ジーン・ヘイウッド、スチュアート・ウェルズ、アダム・クーパー

バルトの楽園

109シネマズ木場シアター4 ★★

■ヘタクソな演出に美談もかすむ

1914年、第一次大戦に参戦した日本は、青島攻略で捕虜にしたドイツ兵4700人を日本に強制連行。1917年には全国で12ヵ所あった収容所が6ヵ所に統合されることになり、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所には久留米からの捕虜が移送されてくる。

ここの所長だった松江豊寿(松平健)の、温情ある捕虜の扱いを描いたのがこの映画。戦時下の美談(もっとも日本としてはそれほどの危機感はなかったのではないか)で、だから感動話。楽器の演奏、新聞の発行、パンを焼きお菓子を作る、およそ俘虜収容所というイメージからは遠いことが行われていて、捕虜たちが地元の学生たちに器械体操や演奏を教えるといった交流もあったという。

この話の概略は知っている人も多いだろう。私もユーハイムの創業については耳にしたことがあり、同様の話は映画にもあった。が、簡単に調べてみると細部ではかなり違っている(http://www.juchheim.co.jp/group/baumkuchen/index.html)。もちろんそんなことは大した問題ではないのだが、脚色してのこのデキに少々がっかりだったのである。

一々あげつらっても仕方ないが、例えばハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)の自殺シーンなど決定的な演出ミスだろう。あれでは自殺でなく狂言になってしまう。影に気付いて飛び込んだ兵隊に取り押さえられて腕を撃ってしまうというのならわかるのだが。

だいたいこの将校の書き込みはひどく、尊大にしかみえない。皇帝への忠信と人一倍のプライドはあったようだが、他の捕虜とは違う部屋を与えられて、あとは一体何をしていたのだろう。

それに比べると松江豊寿については手厚く、会津藩出身故の明治政府の冷遇などを父(三船史郎だ!)のエピソードに絡めて語っていた。軍部による俘虜収容所の評価は度々出てきたが、この時代の日本の国際社会における位置などの説明はもっとあってもよかったのではないか。

俘虜収容所の群像劇という面もあるので、故郷の母に手紙を書く若い水兵ヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)に新聞の取材をさせカメラ撮影させる線でまとめていこうとしたのだろうが、中途半端だから収まりが悪い。ただ彼とマツ(中山忍)のほのかな恋は、折り鶴が染料に落ちる出色のシーンがあって忘れがたい。折り鶴に綴られた文字はマツには読むことが出来ない文字なのだ。しかしそれすらも染料によって消えていってしまうのである。

1918年の第一次世界犬戦終結で解放が決まった捕虜たちは、感謝の気持ちを込めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。日本における「第九」の初演ということらしいが、このクライマックスがまた唐突。話の1つ1つはくっきりしているのに、流れがないのは最後まで変わらない。

さらに演奏の最中に、松江にもハインリッヒにも席を立たせるという失礼なことまでさせる。演奏にかぶせてフィナーレを演出したいのはわかるけどねぇ。最後の最後はカラヤンの演奏まで持ってきて、ぶち壊しもいいとこだ。貧弱な楽器に、たぶん一部には演奏者も。それでも心を打たれたのではなかったのかな。

 

【メモ】

楽園は「らくえん」ではなく「がくえん」と読ませる。バルトはドイツ語で髭の意。

板東俘虜収容所は3億円を投じて徳島県鳴門市に忠実に再現されたもの。

ハインリッヒ少将「我々は捕虜であって野蛮人ではない」。でもその前に松江に「君にこの音楽がわかるかね」というくだりがあって、君たちは野蛮人だと言っているみたいなのだが。

ユーハイムの創始者がいたのは広島県似島で、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれたドイツ作品展示即売会に、バウムクーヘンを出品した(1920年)とある。

予算の削減を強いられた松江は、捕虜達に伐採仕事をさせ、経費を補充。

この映画のパン屋職人(オリバー・ブーツ)は、最後は戦友の娘(大後寿々花)を引き取って日本に永住することを決める。彼は脱走名人?なのだが、市原悦子に助けられ収容所に帰ってくるエピソードも。

大後寿々花は青いコンタクトであいの子役に。彼女の父親は神戸で働いていたドイツ人で、志願して戦争に出たが戦場で日本人と戦うことを拒み、戦死してしまう。

國村隼と泉谷しげるがなかなか。板東英二は声がうわずっていたがこういう人はいる。平田満の演技の方が気になった。

2006年 134分 東映

監督:出目昌伸 製作:鶴田尚正、冨木田道臣、早河洋、塚本勲、滝鼻卓雄、渡部世一 プロデューサー:野口正敏、妹尾啓太、冨永理生子、ミヒャエル・シュヴァルツ 製作総指揮:岡田裕介、宮川日斤也 企画:土屋武雄、中村仁、遠藤茂行、亀山慶二 脚本:古田求 撮影:原一民 特撮監督:佛田洋 美術:重田重盛 美術監督:西岡善信 編集:只野信也 音楽:池辺晋一郎 音響効果:柴崎憲治 照明:安藤清人 助監督:宮村敏正
 
出演: 松平健(松江豊寿)、ブルーノ・ガンツ(クルト・ハインリッヒ)、高島礼子(松江歌子)、阿部寛(伊東光康)、國村隼(高木繁)、大後寿々花(志を)、中山忍(マツ)、中島ひろ子(たみ)、タモト清嵐(林豊少年)、佐藤勇輝(幼い頃の松江)、三船史郎(松江の父)、 オリヴァー・ブーツ(カルル・バウム)、コスティア・ウルマン(ヘルマン・ラーケ)、 イゾルデ・バルト(マレーネ・ラーケ)、徳井優(広瀬町長)、板東英二(南郷巌)、大杉漣(黒田校長)、泉谷しげる(多田少将)、勝野洋(島田中佐)、平田満(宇松/馬丁)、市原悦子(すゑ)

不撓不屈

上野東急 ★★☆

■もやもやの残る飯塚事件

高杉良の同名の原作の映画化。この手の作品は、時間があるのなら原作を読んだ方がずっと面白そうだ。森川時久の名前は私には懐かしいものだったが、演出も古色蒼然としたもの。もっともこの映画の場合には、あながち間違った選択とは言い切れないだろう。それが、内容的にも昭和30年代という時代にも合致したものに見えたからだ。

ここで描かれる「飯塚事件」というのは、って何も知らなかったのだが映画によれば、税理士の飯塚毅(滝田栄)が経営基盤の脆弱な顧客の中小企業に勧めていた「別段賞与」や日当について、国税局との見解の相違があり、行き過ぎた国税局の嫌がらせの末、7年にもわたる裁判(税理士法違反で事務所の職員が4人も逮捕起訴される)闘争となった事件を指す。

国税局のふるまいにはあきれるばかりだが、中小企業が大企業に伍していくためには合法的節税に精励すべきという飯塚の主張にも、手放しで賛同できなかった。身近に脱税して当然と言って憚らない人間を何人も見てきた(あくどい税理士もいた)からだが、飯塚のすべきことはそういう言いがかりを付けられそうなことを推奨するよりは(合法ならどんな節税でもいいのだろうか)、税理士としてまぎらわしい税制を正すことではなかったかと思うのだ(専門外なので難しいつっこみはご勘弁。訊いてみたいことはいくつもあるが)。

映画にも飯塚の顧客が内緒で不正していたことが明るみ出てしまう話があり、飯塚は取引を中止するという「正しい」選択をするのだが、私にはどこまでももやもやが残った。が、映画からはそれることなので、これ以上は深く触れないでおく。

衆議院大蔵委員会税制小委員会であれだけ追求されながら、国税局に対してはどのようなお咎めがあった(なかった?)のかがはっきりしないので、映画としての爽快感には欠ける。自分の正しさが裁判で証明されただけで十分という飯塚の姿勢もこの展開も、事実を踏まえる必要があったにしても歯痒いばかりだ。

社会党の岡本代議士(田山涼成)はあれだけ怒ってたのに、矛先をおさめちゃったんでしょうか。いかにも政治家(おさめてしまったことも含めて)という感じの熱演だったのにね。永田議員の偽メール事件の轍を踏まないよう(って逆だけど)飯塚の妻(松坂慶子)が持ってきた情報の信憑性は確かめると、ちゃんと言ってましたがな。

滝田栄がさえないのは、愚直な人間を演じることの難しさか。助言されたこととはいえホテルに身を隠してしまうというのもねー。堂々としてないじゃん。この映画でよかったのは、顧客の1人であるエド山口や「良識ある」国税庁職員の中村梅雀でしょうか。

気になったのは、国会を映した映像に高層ビルがあったことで、セットやバスにいくらこだわっても、こういうことをするとせっかくの雰囲気が台無しになってしまう。CGには抵抗があるのかもしれないが、どちらがいいかは明白だ。

監督が森川時久で、国税庁告発というこの内容。けれどエンドロールには協賛企業の名前も連なっているのは、やはり時代かしらね。

 

【メモ】

一円の取りすぎた税金もなく、一円の取り足らざる税金もなからしむべし」(飯塚の事務所に掛かっていた言葉)

2006年 119分 角川ヘラルド映画

監督:森川時久 製作・企画:綾部昌徳 原作:高杉良『不撓不屈』 脚本:竹山洋 撮影:長沼六男 美術:金田克美 音楽:服部克久

出演:滝田栄(飯塚毅)、松坂慶子(飯塚るな子)、夏八木勲(法学博士・各務)、三田村邦彦(関東信越国税局直税部長・竹内)、中村梅雀(国税庁職員・重田)、田山涼成(岡本代議士)、北村和夫(植木住職)

グッドナイト&グッドラック 

シャンテシネ2 ★★★☆

■テレビに矜恃のあった時代

ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りはいくつか映画にもなっているし、最低限のことは知っているつもりでいたが、マッカーシー批判の口火を切ったのが、この映画に描かれるエド・マローがホストを勤めていたドキュメンタリー番組の「See it Now」だったということは初耳。じゃないかも。なにしろ私の記憶力はぼろぼろだから。が、番組の内容にまで言及したものに接したのは、間違いなく初めてだ。

最近では珍しいモノクロ画面に、舞台となるのがほとんどCBS(3大テレビ・ネットワークの1つ)の局内という、一見、まったく地味な映画。せいぜい出来てジャズの歌を度々流すことくらいだから。

カメラが制作室を飛び交い緊迫した画面を演出することもあるが、観客が緊張するのは、静かに正面切ってエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)を捉えるシーンだ。今からだと考えにくいが、この静かに語りかけるスタイルが、テレビで放映される内容そのものなのである。当時のテレビが録画ではなくリアルタイムの進行であることが緊張感を高める一因にもなっているのだが、こういう番組製作の興味も含めて実にスリリングな画面に仕上がっている。

監督でもあるジョージ・クルーニーは、フレッド・フレンドリーというプロデューサー役。マローと共に3000ドルの宣伝費を自分たちで負担してまで番組を放映しようとする。が、彼も地味な役柄だ。声高になるでなく、信念に基づいて粛々と事を進めていく。『シリアナ』への出演といい、クルーニーは、ブッシュ政権下のアメリカに相当危機感を持っているとみた。テレビで、アメリカは自国の自由をないがしろにしていては世界の自由の旗手にはなれない、というようなことをマローは言う。

もっともマッカーシー議員側の報復は、彼を当時の映像ですべてをまかなったこともあって、冷静なマローたちの敵としては見劣りがしてしまう。というか、映画を観ていて実はその程度のものだったのかもしれない、という気にすっかりなってしまったのだ。50年以上という時の流れがあるにしろ、マッカーシーが熱弁をふるう実写はどう見ても異様にしか思えない。それなのに、あれだけ猛威をふるっていたのだ……。

CBS会長のペイリーとの対決(いたって紳士的なものだが、こちらの方が裏がありそうで怖かった)やキャスター仲間の自殺(事情を知らないこともありわかりにくい)などを織り込みながら、しかし事態は、ニューヨーク・タイムズ紙の援護などもあって、急速に終息へと向かう。

このあたりが物足りないのは、先に触れたように、マッカーシズムが実体としては大したものではなかったということがあるだろう。問題なのは、そういう風潮に押し流されたり片棒を担いでしまうことで、だからこそマローたちのようであらねばならぬとクルーニーは警鐘を鳴らしているのだ。

勝利(とは位置づけていなかったかもしれないが)は手中にしたものの、娯楽番組には勝てず、テレビの中でのマローの地位は下がっていく。締めくくりは彼のテレビ論で、使うものの自覚が必要なテレビはただの箱だと、もうおなじみになった淡々とした口調で言う。ただの箱論はPCについても散々言われてきたことで、マローのは製作者側への警告もしくは自戒と思われるが、出典はもしかしてこれだったとか。

話はそれるが、この映画でのタバコの消費量たるや、ものすごいものがあった。番組内でさえマローが吸っていたのは、スポンサーがタバコ会社だからというわけでもなさそうだ。「この部屋すら恐怖に支配されている」というセリフがあったが、タバコの煙にも支配されてたもの。タバコのCMをまるごと映していたのはもちろん批判だろうけど、あー煙ったい。

ということで、「グッドナイト、グッドラック」。私が言うと様になりませんが。

  

原題:Good Night, and Good Luck

2005年 93分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ

出演:デヴィッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ、フランク・ランジェラ、ジェフ・ダニエルズ

カサノバ

銀座テアトルシネマ ★★☆

■カサノバ最後で本気の恋。にしてはどこか軽い作り

稀代のプレイボーイ、あるいは女たらしのカサノバ(肩書きは他に多数というが、この作品もこれ)を題材に、彼の最後の本気の恋を描く。

ジャコモ・カサノバ(ヒース・レジャー)は修道女に手を出したことで捕まってしまうが、総督のお情けで無罪放免となる。ただし教皇庁のマークもあって、両家の子女との結婚が条件だ。

さっそく従者のルポ・サルヴァト(オミッド・ジャリリ)を従えてヴィクトリア・ドナート(ナタリー・ドーマー)に結婚を申し込むが、彼女に片思いの青年ジョバンニ・ブルーニ(チャーリー・コックス)と決闘騒ぎになる。が、決闘相手は実は腕の立つジョバンニの姉フランチェスカ・ブルーニ(シエナ・ミラー)が身代わりで、カサノバは当人と知らずカサノバ批判をする彼女に恋してしまう(よくあることさ)。

そのフランチェスカにも母親アンドレア・ブルーニ(レナ・オリン)が財産目当てで決めた結婚相手ピエトロ・パプリッツィオ(オリヴァー・プラット)がいて、そいつがちょうどヴェネチアへやってくるから大変だ。

加えて、フランチェスカが女性心理を説いて当代人気の覆面作家ベルナルド・グアルディその人だったり(「女性は気球のように、男と家事と言う重い砂袋さえなくなれば、自由に空を飛べるのだ」)、ローマから送り込まれた審問官のプッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)とフランチェスカの目をごまかすためにカサノバがパプリッツィオになりすましたりと、話はややこしくなるばかり。

この難問を、最後にはカサノバとフランチェスカ、ジョバンニとヴィクトリア、パプリッツィオにはアンドレアという組み合わせの誕生で解決してしまう。これだけの大騒ぎをまとめてしまう脚本はよく練られているとは思うが、フランチェスカの2度の男装シーンだけでなくパプリッツィオのエステまで、すべてがおちゃらけてしまっているから気球のように軽い。

カサノバは好き勝手にやっているだけでヴェネチアの自由の象徴という感じはしないし、プッチ司教も馬鹿にされて当然のような描き方。いくらコメディとはいってもねー。パプリッツィオなど怒ってしかるべきなのに、フランチェスカの母親をあてがわれて(失礼)喜色満面(いや、もちろん相性はあるでしょうが)でいいのかって……。

女たらしはこれで打ち止めにし(なにしろ「生涯ただ一人の男性だけを愛する」フランチェスカが相手なのだ)、女遊びに目覚めたジョバンニにカサノバ役は譲ったという珍説での締めくくり。だからヴィクトリアも尻軽女のように描かれていたのか。可哀想な登場人物が多いのよね。

 

【メモ】

ジャコモ・カサノバ(1725-1798)。自伝『我が生涯の物語』。

プッチ司教「ヴェネチアの自由もバチカンの風向き次第だぞ」

原題:Casanova

2005年 112分 アメリカ サイズ■ 日本語版字幕:古田由紀子

監督:ラッセ・ハルストレム 製作:ベッツィ・ビアーズ、マーク・ゴードン、レスリー・ホールラン 製作総指揮:スー・アームストロング、ゲイリー・レヴィンソン、アダム・メリムズ 原案:キンバリー・シミ、マイケル・クリストファー 脚本:ジェフリー・ハッチャー、キンバリー・シミ 撮影:オリヴァー・ステイプルトン プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:アンドリュー・モンドシェイン 音楽:アレクサンドル・デプラ
 
出演:ヒース・レジャー(ジャコモ・カサノバ)、シエナ・ミラー(フランチェスカ・ブルーニ)、ジェレミー・アイアンズ(プッチ司教)、オリヴァー・プラット(ピエトロ・パプリッツィオ)、レナ・オリン(アンドレア・ブルーニ)、オミッド・ジャリリ(ルポ・サルヴァト)、チャーリー・コックス(ジョバンニ・ブルーニ)、ナタリー・ドーマー(ヴィクトリア・ドナート)、スティーヴン・グリーフ、ケン・ストット、ヘレン・マックロリー、リー・ローソン、ティム・マキナニー、フィル・デイヴィス

RENT レント

銀座テアトルシネマ ★★

■歌詞レベルの深みのないミュージカル

場面を限った力強い予告篇(「Seasons of Love」が歌われるシーン)に訴えるものを感じたのだが、楽曲を単純に楽しむという点に絞ればともかく、本篇の中身はさっぱりだった。

「Seasons of Love」で52万5,600分-1年を何で数えるか?(Five hundred twenty-five thousand Six hundred minutes. How do you measure, measure a year?)という問いかけに、歌詞と同じように曖昧にしか答えていないのだ。昼、夕焼け、深夜、飲んだコーヒー、インチ、マイル、笑い、喧嘩(In daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles, in laughter, in strife.)……なんじゃそりゃ。だいたい欧米の曲の歌詞は単純なものが多い(?)し、そんなことを言ってもはじまらないのだけど、映画にするのであれば、そこはもう少し掘り下げてくれなきゃ。

家賃(Rent)が払えないのに芸術家きどりでいるロジャー(アダム・パスカル)とマーク(アンソニー・ラップ)をはじめてとして、その恋人や仲間が何とも子供っぽい。マークはドキュメンタリー映像作家を目指しているから8ミリ撮影なのだろうが、家賃に優先させている神経がね。もっともこれは後に、フィルムがテレビ局に売れることになるのだが……。

店の迷惑などおかまいなしに騒ぎまくるなんていうのは、はじめにミュージカルシーンありきと考えれば些細なことと見逃せるが、ロジャーとミミ(ロザリオ・ドーソン)の恋の行く末などはなんとも危なっかしい。エイズであることが屈折した心境になっているにしてもね。昔の男ベニー(テイ・ディグス)とよりを戻したり、ドラッグに走ったり……。マークの元を去ってレズ同士で結婚したモーリーン(イディナ・メンゼル)とジョアンヌ(トレイシー・トムス)のカップルもしかり。結婚式でもう喧嘩ではね。

いろいろなことが起こるのだけど、すべてが歌詞レベル。好きになって、別れて、でも忘れられなくて……。場面と楽曲が替わるように上っ面な言葉だけで切り替えられても困るのだ。

少ししゃんとしているのはドラッグクイーンエンジェル(ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア)とコリンズ(ジェシー・L.マーティン)くらいのものか。が、これもエンジェルに金銭的余裕があるからという、うがった見方もできるのだけどね。

物語の設定が89.12.24から90.12.24だから、今から観ると若者の悩みというにはなんとなく古めかしいものがある。またキャストの多くがトニー賞受賞(96年)のオリジナルメンバーということもあるだろうか。舞台ならともかく映画では年齢詐称はちょっときついから、ついやっていることが子供っぽいという感想になってしまうのだ。

でもそういうことではなく、そもそもミュージカルに深刻な話はやはり似合わない気がするのだ。空腹なのに声を張り上げるのはまだしも、生死の場面ではその歌唱力が邪魔くさいものに思えてしまうから。モーリーンのベニーが進める立ち退き計画に対する抗議ライブなどは、よかったものね。

原題:Rent

2005年 135分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:クリス・コロンバス/脚本:スティーヴン・チョボスキー/台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン/振付:キース・ヤング

出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ジェシー・L・マーティン、イディナ・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、トレイシー・トムズ、サラ・シルヴァーマン