ワルキューレ

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン7 ★★★★

■クーデターと割りきゅーれてたら?

よくできたサスペンス史実映画である。戦争映画らしい派手な場面は最初にあるくらいなのだが、最後まで緊迫感が途切れることがなかった。結果は誰もが知っていることなのに、と不思議な気もしたが、映画を観ていて、焦点を少しずらせば、いくらでもハラハラドキドキものになるのだということに気づく。

最初に見せられる飛行場での暗殺計画(これも事実に基づいたもの)など、まだのっけのことだし、余計成功するはずがない、というか絶対しっこないのだが(ってそれは後のも同じか)、暗殺そのものよりも、暗殺を企てていたことを知られてしまったかどうか、にすることで、そりゃあもう十分、手に汗握る、なんである。

そんなマクラがあって、トム・クルーズ演ずるシュタウフェンベルク大佐が実行犯となる暗殺計画が語られていく。

様々なヒトラー暗殺計画があったことは聞いていたが、これほど大がかりなものだったとは。なにしろワルキューレ作戦という戒厳令を利用した(と連動した)暗殺計画なのだ。考えてみれば暗殺はもちろんだが、そのあとには軍を掌握しなければならないし、戦争相手の連合国との交渉まで控えている。暗殺が個人的な恨みに立脚しただけのものであればことは簡単だが、ドイツの命運を賭けたものとなるとそうはいかなくなってくる。

計画が壮大なだけにそこにかかわってくる人間の数も多くなる。それぞれの野心と保身とが絡み合って、入り組んだものが不得手という映画の制約もあるが(人間関係の把握はそうなのだが、なにしろこの部分、たまらなく面白いところなのだ)、個性派俳優を配して、ギリギリながら何とか切り抜けている(俳優に馴染みがない人は厳しいかも)。

映画のうまさは、結果はわかっていながら、この暗殺計画がもう少し早いか遅ければ成功していたかもしれない、と思わせられてしまうことでもわかる。そう思ってしまった観客(私だが)も、一緒に暗殺計画に乗せられてしまっているわけだ。

早ければ、まだ陽気も暑くならず予定通り狼の巣での作戦計画は密室で行われて、少なくとも暗殺だけは成就しただろう。遅ければ、米英軍のノルマンディー上陸作戦(6月)やソ連軍の攻勢も続いていたからドイツ軍の規律も少しは乱れ、暗殺が未遂に終わってヒトラーの威信は低下し、もう少しは反乱軍として機能したかもしれない、などと……。とはいえ、こうした流れをみていくなら歴史を調べ直した方が面白いのは言うまでもないのだが、娯楽的要素が主眼の映画としては、十分なデキだろう。

映画からは少し脱線してしまうのだが、暗殺計画よりは、というより暗殺にはこだわらないクーデター計画であったら、そして、それがもっと綿密なものであれば、この作戦は成功していたのではないかと思える場面がいくつかあった(脱線と書いたが、こう思ったのは映画を観ての感想である。他の資料をあたったわけではないので)。暗殺は成功しなかったのに、つまり偽情報下だったにかかわらず、電話や通信によってある程度は新政府が機能し始めるのだ。

また、これと関連することだが、予備軍を動かす為の書類を改竄したシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーのサインをもらいに出向いていく場面がある。暗殺の前に、当人のサインが必要というのが、なんだか面白い(って観ていて面白がってる余裕などなかったが)。しかし、これとて偽サインでもよかったのではないか。

クーデターを支える人脈が完璧であったなら、って、でもそうなったらなったで機密の漏洩する確率は高くなるから暗殺の方が確実でてっとり早いのだろう。また、ヒトラー暗殺の報が流れると、電話の交換手たちは泣いていたから、やはりヒトラーの存在は別格だったわけで、となると暗殺は絶対条件だったのだろうか。そして、暗殺の成功すらも、ヒトラーのような強力な指導者の不在を意味するから、新政府が動き出しても相当困難な船出を強いられただろう(どのみちタラレバ話にすぎないが)。

成功を確信し、その場にいる全員が同志のカードを掲げる場面がある(これはどこまで本当なんだろう)。けれどそんな連帯間はわずかな時間の中であとかたもなく消えていってしまう。この崩壊速度の中にあって、爆発をこの目で見たと言い張るシュタウフェンベルク大佐は、滑稽ですらあった。滑稽ではあるのだが、この場面は入れて正解だった。成功しない計画なんてたいていこんなものだろうから。

それにしても映画を、ドイツ人配役で作るわけにはいかなかったのだろうか。昔ほど露骨ではないが、でも途中から完全に英語だからなー。片目に片手のトム・クルーズはよかったんだけどね(なのに相変わらず好きにはなれないのだな)。

 

原題:Valkyrie

2008年 120分 アメリカ、ドイツ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ブライアン・シンガー 製作:ブライアン・シンガー、クリストファー・マッカリー、ギルバート・アドラー 製作総指揮:クリス・リー、ケン・カミンズ、ダニエル・M・スナイダー、ドワイト・C・シャール、マーク・シャピロ 脚本:クリストファー・マッカリー、ネイサン・アレクサンダー 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル プロダクションデザイン:リリー・キルヴァート 衣装デザイン:ジョアンナ・ジョンストン 編集:ジョン・オットマン 音楽:ジョン・オットマン プロダクションエグゼクティブ:パトリック・ラム

出演:トム・クルーズ(シュタウフェンベルク大佐)、ケネス・ブラナー(ヘニング・フォン・トレスコウ少将)、ビル・ナイ(オルブリヒト将軍)、トム・ウィルキンソン(フロム将軍)、カリス・ファン・ハウテン(ニーナ・フォン・シュタウフェンベルク)、トーマス・クレッチマン(オットー・エルンスト・レーマー少佐)、テレンス・スタンプ(ルートヴィヒ・ベック)、エディ・イザード(エーリッヒ・フェルギーベル将軍)、ジェイミー・パーカー(ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉)、クリスチャン・ベルケル(メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐)、ケヴィン・マクナリー、デヴィッド・バンバー、トム・ホランダー、デヴィッド・スコフィールド、ケネス・クラナム、ハリナ・ライン、ワルデマー・コブス、フローリアン・パンツァー、イアン・マクニース、ダニー・ウェッブ、クリス・ラーキン、ハーヴィー・フリードマン、マティアス・シュヴァイクホファー

我が至上の愛 アストレとセラドン

銀座テアトルシネマ ★☆
銀座テアトルシネマにあった主役2人のサイン入りポスター

■古臭くて退屈で陳腐

エリック・ロメールが巨匠であることを知らない私には、えらく退屈で陳腐な作品だった。

まずわざわざ17世紀の大河ロマン小説を原作に持ってきた意味がわからない。古典に題材を求めたのは、ロメールがそこに「愚かなほど絶対的なフィデリテ(貞節や忠誠を意味する)」を見い出したからと、朝日新聞の記事(2009年1月15日夕刊)にあったが、映画から私が感じたのは、古典によくある、言葉を弄ぶ大仰さであって(こういうのが面白い場合ももちろんあるが)、現実感に乏しいものでしかなかった。

浮気と誤解され「姿を見せるな」と言われたのでアストレには会えない、とセラドンに言わせておきながら、もちろんそのことでセラドンは川に身を投げるし、助け出されても村には戻らずに隠遁生活のような暮らしを送ったりはするのだが、結局は、僧侶の差し金があったとはいえ、女装までしてアストレに近づくという笑ってしまうような行動に出る。

アストレもセラドンが死んだと思い込んでいたのに、僧侶の娘(セラドンが化けた)にはセラドンに似ているからにしてもぞっこんで、ふたりでキスをしまくってのじゃれようを見ていると、セラドンよ、喜んでいていい場合なのかと言いたくなってしまうのだが、当人は自分に気づかぬアストレの振る舞いを見て楽しんでいるふしさえあって、これではさすがにげんなりしてくる。

髭を薄くする薬があったというのはご愛敬としても、5世紀という時代設定なのにペンダントの中は写真だし、この時代の物とは思えない金管楽器に、印刷物としか思えない石版の文字……。

細かいことに文句を付けたくはないが、原作に忠実にガリア地方で撮影したかったが、手つかずの自然がなかったのでそれは断念した、などと言わずもがなのことをわざわざ映画の巻頭で述べていての、この時代考証の無視には頭をひねるしかない。

映画の虚構性についての、これがロメールの言及というのなら、少々幼稚と言わねばなるまい。テーマが古臭くとも今の時代に十分価値があると思っての「引退作」は、しかしそれなりの現代的な解釈や味付けが必要だったはずである。

原題:Les Amours D’astree et de Celadon

2007年 109分 35ミリスタンダード フランス/イタリア/スペイン 配給:アルシネテラン 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:エリック・ロメール 製作:エリック・ロメール、ジャン=ミシェル・レイ、フィリップ・リエジュワ、フランソワーズ・エチュガレー 原作:オノレ・デュルフェ 撮影:ディアーヌ・バラティエ 衣装:ピエール=ジャン・ラローク 編集:マリー・ステファン 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ

出演:アンディ・ジレ(セラドン)、ステファニー・クレイヤンクール(アストレ)、セシル・カッセル(レオニード)、ジョスラン・キヴラン、ヴェロニク・レモン、ロセット、ロドルフ・ポリー、マティルド・モスニエ、セルジュ・レンコ

ワールド・トレード・センター

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■救助する側からされる側になってしまったふたり

9.11米国同時多発テロで崩れ去った世界貿易センタービル(WTC)。その瓦礫の中から生還した2人の港湾警察官の実話の映画化。

2001年9月11日3:29。ジョン・マクローリン巡査部長(ニコラス・ケイジ)は多分いつものように起きてシャワーをし、家族を確認して職場へと出かける。ありふれた業務の中で「ドン」という異様な音が響く。旅客機の大きな影がビルを横切る映像が直前にあって、それだけで息苦しくなる。WTCの北棟に旅客機が激突するという大惨事の報告を受けて、マクローリンを班長とした救助チームが結成され、現場へ急行する。

救助とはいえ、現場にいる人間にすらも状況がわからない有様で、全員がビルを見上げるばかり。あまりの惨状に、ビル内に入ることを志願したのは新米警官のウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)を含む3人だけで、マクローリンは彼らを引き連れ酸素ボンベを取りに行くが、搬送中にビルは崩壊をはじめる。当人たちはビルが崩壊しているとは思ってもいないわけで、救助されたあとに「ここのビルは」と瓦礫の山を見て尋ねる場面がある。

3秒ほど真っ黒になったあと、画面は少しずつ明るくなり、アップになったマクローリンの目が動く。マクローリンとヒメノのふたりは、ビルに乗り込んでほとんど何もしないうちに動けなくなってしまったのだ。他にペズーロが奇跡的に埋まらず元気にいたのだが、次の崩落が彼を襲い、悲嘆にくれた彼は自殺してしまう。

ふたりは、なにしろ体を少しも動かすことが出来ないときているから、お間抜けなことに痛みに耐えながら眠らないように互いを励まし合うことしかできない。しかし、これが逆に実話ということを実感させてくれる。救助する側からされる側になってしまったふたりは、およそヒーローらしからぬヒーローとして記憶されることになるだろう。

ドラマ部分が希薄だから、ふたりの家族(とくに妻)の話をもってきたのは当然としても、これまた劇映画としてみてしまうのはいささか具合が悪いような。まあ、そんなことをとやかく言うのは気が引けるのだけど。そして私などは、映画としてこんなにもプライベートなことを公開してしまっていいのだろうか(向こうではふたりはどんな扱いなのかしらね)などと、関係ないことばかり考えてしまったというわけだ。

この挿話で気になったのはマクローリンの息子が、母親(マリア・ベロ)が現場に向かおうともしないことに苛立って「ママは平気なの」と彼女をなじる場面。これはつらいだろうな、と。

ともかくオリバー・ストーンで9.11だからもっと激しい主張があるのかと思っていたが、政治的な意図は極力排除されていて、でも逆に、せっかく9.11をテーマにしたことの意味が薄くなってしまったという不満が残る。

むろん、それらしきところはあって、ブッシュがこの国は戦争に突入したという映像を入れた意味や、何かに突き動かされるように救助をし続けた元海兵隊員(マイケル・シャノン)……。彼は最後に「志願してイラクで戦った」と字幕があって、それは事実を述べたにすぎないのだろうが。

では、瓦礫の中で見たイエスはどうだろう。人は見たいものを見るというのが、私のそっけない意見だが、言葉でなくイエスを映像化したとなると、9.11の宗教戦争という側面を都合よく解釈しているような気がしてしまうのだが、それは杞憂だろうか。

 

【メモ】

瓦礫の中での会話に『G.I.ジェーン』(1997)が出てくる。デミ・ムーアが「痛みは友達。生きてる証拠」だと言うのだと。

救助されて、口から土砂を吸い取る場面がリアルだ。

映画は2年後の「マクローリンとヒメノ感謝の集い」の場面も描かれる。身重だったヒメノの妻から生まれた子供が駆け寄ってきてヒメノが抱き上げる。

ビルの崩落で亡くなった人は3000名近く(2749名?)で、国籍は87におよんだ。救助されたのは20人でマクローリンとヒメノは18、19番目だった(というような字幕が出る)。

原題:World Trade Center

2006年 129分 ビスタ アメリカ 日本語字幕:■

監督:オリバー・ストーン 脚本:アンドレア・バーロフ 原案:ジョン&ドナ・マクローリン、ウィル&アリソン・ヒメノ 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 編集:デヴィッド・ブレナー、ジュリー・モンロー 音楽:クレイグ・アームストロング
 
出演:ニコラス・ケイジ(ジョン・マクローリン)、マイケル・ペーニャ(ウィル・ヒメノ)、マリア・ベロ(ドナ・マクローリン)、マギー・ギレンホール(アリソン・ヒメノ)、ジェイ・ヘルナンデス(ドミニク・ペズーロ)、スティーヴン・ドーフ(スコット・ストラウス)、マイケル・シャノン(デイブ・カーンズ)、アルマンド・リスコ(アントニオ・ロドリゲス)、ニック・ダミチ、ダニー・ヌッチ、フランク・ホエーリー