どろろ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■醍醐景光にとっての天下取りとは

戦乱の世に野望を滾らせた醍醐景光(中井貴一)は、生まれてくる子供の48ヶ所の体と引き換えに魔物から権力を得る。ただの肉塊として生まれた赤ん坊は川に流されるが、呪師の寿海(原田芳雄)に拾われる。左手に妖刀を備えた作り物の体を与えられた赤ん坊は、百鬼丸(妻夫木聡)として成人する。

寿海が死、百鬼丸は魔物を倒せば自分の体を取り戻すことを知って旅に出るのだが、全部を取り戻すとなると48もの魔物を倒さねばならない。この魔物対決が映画の見所の1つになっている。百鬼丸に仕込まれた妖刀に目をつけた泥棒のどろろ(柴咲コウ)が、百鬼丸につけまっとってという流れだから、題名も『どろろ』よりは『百鬼丸』の方がふさわしい気がするが、手塚治虫の原作も読んだことがないので、そこらへんの事情はよくわからない。

色数を絞ったり彩度を上げたりした画面の上で、これでもかと繰り広げられるバトルの数々は、CGや着ぐるみが安っぽいながら、なにしろ相手は魔物だから造型も自由自在だし、意外にも楽しい仕上がりとなっている。

ただ、このことで百鬼丸とどろろが絆を深めていったり、体を取り戻すごとに百鬼丸が人間らしくなっていく部分は、描き込み不足の感が否めない。体は偽物(戦で死んだ子供たちの体で作られている)ながら、寿海から愛情をそそがれ、しっかりとした考えを持つ青年に育った百鬼丸は、人間の体を取り戻すことの意味をわかっているはずだ。事実、不死身だった体は、少しずつ痛みを感じるようになる。魔力を失うだけでなく、死さえ身近になってくるのである。しかし残念ながら、百鬼丸に当然生じているだろう心の葛藤は伝わってこない。父とは違う道を選んでいるこの過程こそが、後半のドラマを結実させるはずなのに。

どころか、映画は父だけでなく母の百合(原田美枝子)や弟の多宝丸(瑛太)を登場させて、焦点をどんどん曖昧にしてしまう。彼らに微妙な立場の違いや心境を吐露させて厚みを持たせたつもりなのかもしれないが、逆に家族だけの話のようになってしまって、スケール感までが失われてしまうのだ。

魔物に我が子の体を売り渡した父までが最後には改心して、結局家族はみんないい人でしたになってしまっては、腰砕けもいいところだ。しかも彼はちょっと前に、百合まで迷うことなく斬り捨てているのだ。それで改心したといわれてもねー。魔物対決の過程では庶民の生活の悲惨さにだって触れていたのに、全然納得できないよ。だいたい天下取りのための魔力を手に入れたはずなのに、20年経ってもそれは果たされず(天下統一は目と鼻の先とは言っていたが)って、よくわからんぞ。

私が理解できないのに、百鬼丸が納得してしまうのもどうかと思うが、どろろにとっても醍醐景光は親の敵だったはずで、そのどろろまでが敵討ちをあきらめてしまう。多宝丸は父が死んだあとは百鬼丸に継いでもらいたいなどと言うし、揃いも揃って物わかりがよくなってしまうのでは臍を曲げたくなる。

最後に「残り二十四体」と百鬼丸の体を持っている魔物の数が表示されるのは(まだ、そんなにあったのね)、続篇を予告しているわけで、だったら醍醐景光と百鬼丸との話は、一気にカタを付けるのではなく、じっくり後篇まで持ち越してもよかったのではないか。

「オレはまだ女にはなんないぞ」「ああ、望むところだ」というどろろと百鬼丸のやりとりが終わり近くにあったが、このふたりの関係がうまく描ければ、後篇は意外と魅力ある映画に仕上がる予感がするのだが。

  

【メモ】

制作費は20億円だから邦画としてはけっこうお金を使っている。

舞台は戦国時代から江戸時代の風俗をベースに多国籍的な要素を織り込んだもので、醍醐景光の城などは空中楼閣の工場とでもいった趣。またニュージーランドロケによる風景を背景にしていたりもするが、これは違和感がありすぎた。

2007年 138分 ビスタサイズ

監督:塩田明彦 アクション監督:チン・シウトン アクション指導:下村勇二 プロデューサー:平野隆 原作:手塚治虫 脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦 撮影:柴主高秀 美術監督:丸尾知行 編集:深野俊英 音楽:安川午朗、福岡ユタカ 音楽プロデューサー:桑波田景信 VFXディレクター:鹿住朗生  VFXプロデューサー:浅野秀二 コンセプトデザイン:正子公也 スクリプター:杉山昌子 衣裳デザイン:黒澤和子 共同プロデューサー:下田淳行 照明:豊見山明長 特殊造型:百武朋 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國
 
出演:妻夫木聡(百鬼丸)、柴咲コウ(どろろ)、中井貴一(醍醐景光)、瑛太(多宝丸)、中村嘉葎雄(琵琶法師)、原田芳雄(寿海)、原田美枝子(百合)、杉本哲太(鯖目)、土屋アンナ(鯖目の奥方)、麻生久美子(お自夜)、菅田俊(火袋)、劇団ひとり(チンピラ)、きたろう(占い師)、寺門ジモン(飯屋の親父)、山谷初男(和尚)、でんでん、春木みさよ、インスタントジョンソン

幸福な食卓

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■崩壊家族とは対極にある家族の崩壊+恋物語

今日から中学3年生という始業式の朝、中原佐和子は、兄の直と一緒に「今日で父さんを辞めようと思う」という父(弘=羽場裕一)の言葉をきく。こんなことを言い出す父親が、いないとは言わないが、相当生真面目というか甘ったれというか……。

家族揃って朝食をとるのだから、きちんとしているのかと思いきや、これはかつての名残で、母親の由里子(石田ゆり子)は近所のアパートでひとり暮らしをしているし(なのに食事の支度はしにくるのだ。これは母さんを辞めていないからなんだと)、優秀だった兄は大学に行かず農業をはじめたというし、とりあえずは真っ当にみえる佐和子も、梅雨になると調子が悪くなるらしく、薬の世話になっていたようなセリフがある。

ただ崩壊家族にしては家族間の会話は濃密で、親子だけでなく兄妹の風通しだってすこぶるいい。そこだけを見れば理想の家族といっていいだろう。別居はしているものの、父が母のバイト先の和菓子屋に顔を見せる場面だってある。

それなのにどうしてそんな生活をしているのかは、3年前の父の自殺未遂にあるのだと、これはすぐ教えてもらえるのだが、その原因についての説明はほとんどない。直が父の自殺未遂を見てオレもこの人みたいになると感じ(父の遺書を持っているのは予防薬のつもりか)、子供の頃から何でも完璧にやってきたのが少しずつズレていったのだと佐和子に告白することが、間接的だが唯一の説明だろうか。いや、もうひとつ、母が父より頭がよかったらしく、そのことで気をつかっていたらしいのだが、何も気付かなかったことをやはり悔いていた。そうだ、まだあった(けっこう説明してるか)。やってみたかったという猫飯(みそ汁かけご飯)もね。でもこれは父さんを辞めてからだから、ということは父親はやってはいけないんだ(私はやるんだなー、これ。何でいけないんだろ)。

で、その父親は、教師の仕事を辞め、父親であることを辞め、もう一度大学(今度は医大のようだ)に行くと勉強を始め、夜は予備校でバイト。でも1年後には受験に失敗し浪人生に……。勉強の仕方をみて「父さんになっちゃってる」という佐和子だが、私には父を辞めるという意味がさっぱりわからない。直も「人間には役割があるのに、我が家ではみんなそれを放棄している」と言っていた。どうやら中原家の住人は、私と違って役割というものを全員が理解しているらしい。

どうにも七面倒臭い設定だが、それが鬱陶しくならないのは、もう1つの柱である佐和子の恋物語が、いかにも中高生らしい清々しいものだったからだ。

相手は始業式の日に転校してきた大浦勉学(勝地涼)で、空いていた佐和子の隣の席に。彼の家も崩壊しているというが、父は仕事、母は勉強、そして弟はクワガタのことばかり、とこちらはわかりやすい。もっともそれは大浦が明るく言っただけのことだが。とにかくこの大浦の快活さと決断力がなかなかだ(ハイテンションで強引という見方もできるが)。不器用でカッコ悪いのだけど、佐和子への愛情がいたるところににじみ出ているのだ(でも、勝地涼に中学生をやらすなよな)。

そんな大浦を佐和子も真っ直ぐに受け止める。一緒に希望の高校を目指し、合格。別のクラスながら学級委員になって活躍。合唱にのってこない級友たちを大浦の秘策で乗り切ったり、キスシーンも含めてふたりの挿話がどれも可愛いらしい。そしてクリスマスが近づいてくる。大浦の家は金持ちなのだが、彼は佐和子へのプレゼントは自分で稼いだ金でしたいと新聞配達をはじめ、佐和子も母と一緒にマフラーを編み始める……。

突然の勉学の事故死はよくある展開だが、映画はこのあともきっちり描く。

父と力を合わせて料理し、この家に帰ってこようかなと言う母のセリフを全部否定するかのように、佐和子は「死にたい人が死ななくて、死にたくない人が死んじゃうなんて。そんなの不公平、おかしいよ」と言うのだ。当の父を前にして。兄からの慰めの言葉もそうなのだが、私にはこういう会話が成り立つこと自体がちょっと驚きでもある。

このあと、大浦の母や兄の恋人である小林ヨシコとのやり取りを通して、佐和子もやっと父の自殺が未遂に終わってよかったと思えるようになる。大浦のクリスマスプレゼントの中に彼の書いていた手紙があって、というあたりはありきたりだが、内容が彼らしく好感が持てる。怪しいだけでいまいち存在理由のはっきりしなかった小林ヨシコ(さくら)も、最後になって本領発揮という慰め方をする(でもまたしても卵の殻入りシュークリームはやりすぎかな)。

佐和子がお返しのように大浦の家をたずね編んだマフラーを渡すと、大浦の母はもったいないから弟にあげちゃダメかしらと言う。コイツが全面クワガタセーターで現れるのがおかしい。弟には大きいのだが、その彼が息せき切って坂道を帰る佐和子を追いかけてくる。「大丈夫だから、僕、大きくなるから」と言う場面は、しかし私にはよくわからなかった。もっと短いカットなら納得できるのだが。

そして佐和子の歩いていく場面。最初のうち彼女は何度が後ろを振り返る(うーん)のだが、だんだんとしっかり前を見てずんずん歩いていく。最後はアップになっているので、正確にはどんな歩き方をしているのかはわからないのだが、4人の食卓が用意されつつある場所(のカットが入る)へ向かって。

ここにミスチルの歌がかぶる。「出会いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える 引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上へ」と。でも歌はいらなかったような。その方が「気付かないけど、人は誰かに守られている」(大浦は本当は鯖が嫌いなのに、佐和子のために無理して給食を食べてくれていて、これはその時のセリフ)という感じがでたのではないかと思うのだ。

 

【メモ】

瀬尾まいこの原作は第26回吉川英治新人文学賞受賞作。

食卓シーンは多い。葱を炒め、醤油と生クリームで食べるおそばも登場するが、どれも大仰でなく家庭料理という感じのもの。

大浦に携帯の番号を聞かれるが、佐和子は持っていない。言いたいことがあれば直接会って話せばいい、と。

2006年 108分 シネスコ

監督:小松隆志 原作:瀬尾まいこ『幸福な食卓』 脚本:長谷川康夫 音楽:小林武史 主題歌:Mr.Children『くるみ -for the Film- 幸福な食卓』
 
出演:北乃きい(中原佐和子)、勝地涼(大浦勉学)、平岡祐太(中原直)、さくら(小林ヨシコ)、羽場裕一(中原弘)、石田ゆり子(中原由里子)

ハミングライフ

テアトル新宿 ★☆

■習作メルヘン

洋服を作る仕事につくのだと上京したものの、面接に落ち続けてばかりの22歳の桜木藍(西山茉希)は、背にメロンパンはかえられぬ(蛙の置物にひかれて、か)と、通りすがりの雑貨屋でアルバイトをはじめることになった。そんなある日、雑貨屋の近くの公園で藍は、粗大ゴミと犬の餌の皿と、その持ち主?の野良犬(っぽくない)を、そして樹のうろには宝箱を見つける。中には可愛い犬の絵にHollow. What a beautiful would.と書かれたメッセージ。楽しくなった藍が返事を書くと……。

手紙は託児所グーチョキで働く小川智宏(井上芳雄)が書いたもので、いつもひとり託児所に残っているのは、仕事で帰りが遅いくせに子供に当たり散らす母親がいるせいなのか。だからって藍と智宏がまるっきりすれ違いってことはないはずなのに、ふたりは文通だけで名乗り合い、親交を深めていく。

樹のうろを通しての文通なんて大昔の少女漫画にもあったよなー。でも都会の公園の、そんな見つけやすい場所でさあ。オーナーの結婚話で雑貨屋が閉店になってしまうのに会わせたように、粗大ゴミの撤去があって、ドドンパ(ふたりが犬に付けた名前。ひでー)と宝箱も消えてしまう。ドドンパは保健所が捕獲してしまいそう(だから、犬だとまずくないか)だけど、宝箱が一緒になくなってしまうというのはどういうことなのだ。

ということで、お会いしませんかと書いた藍に、さっそくだけど明日の夕方6時に、という智宏の返事は、彼の一方的な約束となってしまう。すっかり綺麗になってしまった公園を前に、文通ができなくなって落ち込む藍だが、服が完成したらぜひ見たいという智宏の言葉を思い出して服作りに励む。雑貨屋では先輩だった後藤理絵子(佐伯日菜子)が訪ねてきて(恋も終わった、友達もいないと言ってた藍だったのにね)、服ができたらそれを持って就職先をあたれば、とうれしいアドバイスをしてくれる。

完成した服を着て藍が街に出ると、ドドンパという共通記号によって智宏と出会う、というのが最後の場面だ。

どこまでもほんわかメルヘン仕立て。別にそれが悪いというのではないが、どれも奥行きがない。そしてそれ以前に、細かいことを書いても仕方ないと思ってしまうくらい、すべてがまだ習作という範囲を出ていない。演技の点でも、西山茉希だけでなく、もうベテランのはずの佐伯日菜子までがヘタクソなのには閉口した。

ただ、文通の中で語られる智宏が作ったお話しは素敵だ。必要がなくなったからとギターを売りにやってきた青年に、質屋が曲を所望し、青年がそれで歌を歌うと、このギターを買えるほどのお金はない、という話はまあ普通(演出は最悪)だが、大きな木の下に残された青年の話はいい。

この青年は、実は前に木の下にずっといた少年に代わってあげたのだった。この子の存在はみんな知っていたのだけど、声をかける人はいなくて、青年はそのこと(無視していたこと)を気にしていた。少年は「ボクに話しかける人を待っていたんです」と言って、青年を残して行ってしまう。でも青年は代わってあげられたことがうれしくて仕方がない。大きな木だから雨が降っても大丈夫だし、おいしい実もなるし……というだけの話なのだけどね。

智宏は自分でお話しを作ったことに勇気づけられるように、子供を叱ってばかりの母親に「少しでいいんです。やさしくあげてほしいんです」と言うのだが、現実部分になるとしっくりこない。「この世界には様々な営みがあって……自分だけが気付く小さな小さな営み」に藍は惹かれているのだけど、だったら映画もそこにこだわって欲しかった。

2006年 65分 シネスコ

監督・編集:窪田崇 原作:中村航『ハミングライフ』 脚本:窪田崇、村田亮 撮影:黒石信淵 音楽:河野丈洋 照明:丸山和志
 
出演:西山茉希(桜木藍)、井上芳雄(小川智宏)、佐伯日菜子(後藤理絵子)、辛島美登里
(雑貨屋のオーナー)、石原聡(大きな木に残された青年)、坂井竜二(ギター弾きの男)、 里見瑶子、長曽我部蓉子、マメ山田、諏訪太朗(質屋)、秀島史香(声のみ)

エレクション

2007/01/28 テアトル新宿 ★★☆

■静かな男が豹変する時……

5万人もの構成員を擁する和連勝会という香港最大の裏組織では、2年に1度行われる幹部会議での次期会長選挙が近づいていた。候補者は、年長者からの人望が厚いロク(サイモン・ヤム)に、強引に勢力を広げてきたディー(レオン・カーファイ)。選挙とはいえ裏工作はすさまじく、単なる穏健派と武闘派という枠を超えた闘いになっていた。

過半数を抑えていたはずのディーだったが、なりふり構わぬ賄賂などを長老幹部のタン(ウォン・ティンラム)に指摘され、ロクに破れてしまう。納得できないディーは、自分の意に添わない者を報復し、前会長のチョイガイには会長職の象徴である竜頭棍をロクに渡さないよう脅す。

ここからはこの竜頭棍をめぐっての争奪戦が始まるのだが、冷静に考えれば、じゃあ一体選挙はなんだったのだ、と思ってしまう。一連の不穏な動きに警察が口をくわえているはずもなく、ディーやロクを含めた和連勝会の幹部たちは次々に逮捕されてしまうが、すでに竜頭棍の争奪戦は部下たちによる争いになっていた。映画のかなりの時間を占める広州(チョイガイの命で竜頭棍は本土に渡っていた)から香港に至るこの争いは、登場人物が入り乱れて少しわかりにくいのだが、下部組織ではお互いに敵か味方かの区別さえ定かでないという馬鹿らしい状況は演出できていた。

これだけの争いを繰り広げながら、結局は手打ちのようなことになって、何とも重々しい儀式が執り行われるのだが、竜頭棍といい、この儀式といい、まったく理解不能。常に組織のまとめ役を意識しているロクや、最終的に竜頭棍を手に入れた頭脳的なジミー(ルイス・クー)が幹部への道を約束されたことで儀式を利用するのはまだしも、「新和連勝会」を立ち上げて宣戦布告までしたディーが神妙な顔つきをしてその場にいるのである。

ロクから次の会長選での支持を約束されたディーは、ロクと肩を並べるようにしてしばらくは我が世を謳歌していたが、調子に乗って「俺たちも会長を2人にしねえか」とロクにもちかけたことで、ロクの本性が剥きだしとなる恐ろしい結末を迎えることになる。

ロクの豹変ぶりは、いままでの彼の性格からは想像しにくいだけに恐怖度が高い。しかも殺しの手口は銃などではなく、一緒に釣りに行った先にころがっていた何ということもない大きな石で、しかしその行為の執拗さは狂気を思わせるものだ。ディーに必要以上にハイテンションな演技をさせていたのはこのラストシーンのためだったか。あれだけ暴れまくっていた(しかしそうはいってもやはり幼稚でしかない)男のあまりにあっけない最期。ロクはディーの妻も同じように殺して埋めてしまうのだが、その一部始終を彼の子供が見ているという、なんとも居心地の悪い場面まで用意されている。

ラストに限らずヒリヒリするような痛みを伴う映画ではあるが、意味のない竜頭棍の争奪戦や儀式が、それをぶち壊していないか。意味のないことを繰り返していることに批判の矛先があるのかもしれないが、私には興味のない世界でしかなかった。

【メモ】

中国黒社会の源流が少林寺にあるというようなことがいわれていたが、その真偽はわからない。ただ「漢民族の名の下に……」という部分は本当らしい。HPには「組織の歴史は17世紀にさかのぼる。満州族の清王朝支配を打倒し、漢民族王朝を復活するために、血の誓いを交わして結ばれた秘密結社として発足」とある。

原題:黒社會 英題:Election

2005年 101分 シネスコサイズ 香港 R-15 日本語版字幕:■

監督:ジョニー・トー[杜(王其)峰] 製作:デニス・ロー[羅守耀]、チャールズ・ヒョン[向華強]、ジョニー・トー 脚本:ヤウ・ナイホイ[游乃海]、イップ・ティンシン[葉天成] 撮影監督:チェン・チュウキョン[鄭兆強] 音楽:ルオ・ダーヨウ[羅大佑] 編集:パトリック・タム[譚家明] 衣装:スタンレー・チョン[張世傑] 美術監督:トニー・ユー[余興華] スチール:岡崎裕武

出演:サイモン・ヤム[任達華](ロク)、レオン・カーフェイ[梁家輝](ディー)、ルイス・クー[古天樂](ジミー)、ニック・チョン[張家輝](フェイ)、チョン・シウファイ[張兆輝](ソー)、ラム・シュー[林雪](ダイタウ)、ラム・カートン[林家棟](トンクン)、ウォン・ティンラム[王天林](タン)、タム・ビンマン[譚(火丙)文](チュン)、マギー・シュー[邵美(王其)](ディー夫人)、デヴィッド・チャン[姜大衛](ホイ警視)

それでもボクはやってない

テアトルダイヤ ★★★★☆

■ここは私の法廷です(うゎ)

導入に別の痴漢犯(こちらは証拠に言及されて否認をすぐ撤回する、つまり本物)を平行して置いたり、担当弁護士を女性にしたりといった細かな工夫は随所に見られるものの、まったくの直球である。描きたいことを優先して撮っていたら、余計なことをしている暇が無くなってしまったという感じがするほど密度が濃いのだ。裁判という難物を扱っての濃さなのに、143分という長さを感じさせないし、痴漢冤罪事件という身近に起こりうるもので裁判の実態を解きほぐしているのだから見事というほかはない。

会社の面接に向かうために通勤ラッシュの電車に乗った金子徹平(加瀬亮)は、乗り換えの駅のホームに降りたとたん、女子中学生に袖をつかまれ痴漢呼ばわりされる。必死になって否定するが、駅事務室に連れていかれると、警察が来て拘置され、そのまま裁判に巻き込まれることに、いや裁判を闘うことになる。

警察、検察の有無を言わせぬ取り調べ、留置場の同房者、当番弁護士、上京した母の狼狽、アパートの管理人、友人の協力、民事専門の弁護士、冤罪事件に積極的なベテラン弁護士に新任女性弁護士、対照的な裁判官、公判立会検事、同じ痴漢冤罪事件の当事者、元恋人、裁判傍聴オタク、事件の目撃者など、恐るべき数の登場人物がゆるぎなく配置され、時には役割を借りた説明役になるといった案配で、無駄と思われる場面がほとんどない。

いちいち感想を書いていくときりがないのでしないが、何といっても印象深いのは裁判官によって状況が変わってしまうことだ。刑事裁判の最大の使命は無実の人を罰してはならないことだと司法修習生に説く裁判官から、「ここは私の法廷です」(審理を静粛に行うことの妨げになると、今まで認めてくれていた定員以上の傍聴人を排除)と言って憚らない裁判官に途中で交代となる。立場の違いもだが途中交代というのも、ことがことだけに恐ろしいではないか。柔和なイメージの小日向文世にこの尊大な裁判官をやらせたのは配役の妙で、こんなヤツには裁かれたくないよな、と誰しもが思うだろう。

裁判官が無罪を出すのは、警察と検察の否認ということで、それは国家にたてつくことになる、とは傍聴人の高橋長英のセリフだが、政治色の薄い裁判でも同じ構図の上にあるということか。「裁判官は被告にだけは騙されまいと思っている」という指摘にも、そんなものかと考えさせられる。さすがにすぐ「裁判官に悪意があるとは思わない」と、同じ役所広司に言わせているが、私など過激で短絡的だから、手加減することなどないのに、と思ってしまう。裁判官という職業自体が傲慢と知るべきではないか、と。

2009年にはじまる予定の裁判員制度にはずっと懐疑的でいた私だが、考えを改めないといけないのかもしれない。刑法39条や刑事法上の時効などわからないことだらけだし、少なくとも私には裁判員になる資格などないっていうのにね。

話がそれたが、あえて難点をあげるなら、再現ビデオを作ることで被害者の証言に疑問が出てくるところだろうか。ビデオはお金もかかることであるし、これはやはり実験し確証を得た上でのビデオ製作となるのが普通だろう。あとはもうすでに触れたことだが、裁判制度ではなく裁判官によって判決が、つまり裁判官に責任が転嫁されかねないということだが、しかしまあ、これも含めて裁判制度の不備を突いていることになるだろうか。

とにかく、「すべての男には動機があるの」だから、観た方がいいと思うよ。被告になる可能性が大ありなんだから。で、それ以前に、痴漢行為はやめましょう(動機のある私が言っても説得力ないんでした)。

  

2007年 143分 サイズ■ 

監督・脚本:周防正行 製作:亀山千広 プロデューサー:関口大輔、佐々木芳野、堀川慎太郎 エグゼクティブプロデューサー:桝井省志 企画:清水賢治、島谷能成、小形雄二 撮影:栢野直樹 美術:部谷京子 編集:菊池純一 音楽:周防義和 照明:長田達也 整音:米山靖、郡弘道 装飾:鈴村高正 録音:阿部茂 助監督:片島章三
 
出演:加瀬亮(金子徹平)、役所広司(荒川正義)、瀬戸朝香(須藤莉子)、山本耕史(斉藤達雄)、小日向文世(室山省吾)、正名僕蔵(大森光明)、もたいまさこ(金子豊子)、田中哲司(浜田明)、光石研(佐田満)、尾美としのり(新崎孝三)、大森南朋(山田好二)、本田博太郎(三井秀男)、高橋長英(板谷得治)、 鈴木蘭々(土井陽子)、唯野未歩子(市村美津子)、柳生みゆ(古川俊子)、野間口徹(小倉繁)、山本浩司(北尾哲)、益岡徹(田村精一郎)、北見敏之(宮本孝)、田山涼成(和田精二)、石井洋祐(平山敬三)、大和田伸也(広安敏夫)、田口浩正(月田一郎)、徳井優(西村青児)、清水美砂(佐田清子)、竹中直人(青木富夫)、矢島健一、大谷亮介、菅原大吉

不都合な真実

TOHOシネマズ六本木ヒルズ ★★★☆

■これだけの事例を取り上げながら、意外と楽観的!?

民主党クリントン政権下の副大統領で、2000年の大統領選挙では共和党のジョージ・W・ブッシュと激戦を展開し、「一瞬だけ大統領になったアル・ゴア」(これは彼の自己紹介)。彼は、自ら「打撃だった」と語る大統領選敗北のあと、「人々の意識が変わると信じて」地球温暖化問題のスライド講座を始め、米国のみならずヨーロッパやアジアなどにも足をのばし、すでに1000回以上の講演を行ったという。

それを記録したのが本作品だが、ゴアが出版物や放送などのメディアではなく、直接聴衆に語りかけるスタイルをとっているのが興味深い。選挙運動で培ったものなのかどうかはわからないが、人々の意識を変える方法としてこれが1番と思ったようだ。ゴアはもう大領党選には出馬しないようだが、このまま選挙用としても使えそうなデキである。

講座は、この14年間に暑さが集中していること、ほとんど消えてしまったキリマンジャロの雪、海水面の上昇、ハリケーンの大型化、多発する竜巻、モンバイで起きた24時間に940ミリという記録的大雨、溺死したホッキョクグマ、南極の棚氷の縮小……などの事例や予測が、ユーモアを交えた力強い、いかにも政治家らしい口調で語られている。格別目新しい情報というのではないが、スライドを効果的に使ったわかりやすいものになっている(ただし、字幕でゴアの解説とスライドの画面を追うのは大変で、日本人がより内容を知りたいと思うのなら、同時に発売された本を見た方がずっといいだろう)。

温暖化かどうかは、地球規模で考えると誤差の範囲内でしかないという見方もあるが、とはいえ近年の異常現象は人為的なものが大いに影響しているとみるべきで、だからやはり手は打たなければなるまい。

この映画が立派なのは(というか米国があまりにもだらしなさすぎるからなのだが)、米国の責任に言及していることだ。米国人の意識の低さは度を超しているからね(だからってこれを観て、日本は米国よりマシなんて思う人がでませんように)。そしてその矛先は当然ブッシュにも向けられる。ブッシュの側近が気象報告を改竄したのは、彼らがそこに「不都合な真実」を発見したからだ、とはっきり言っていた。巻頭では「政治の問題ではなくモラルの問題」のはずだったのだけど、ここだけは譲れなかったのだろう。

そしてゴアらしいというか、やはり元政治家であり米国人だなと思うのは、正しい温暖化対策を講じさえすれば、それは防げるし経済も発展すると思っているようなのだ(私自身は悲観的。努力はしているつもりだが)。オゾンホール対策の時のようなことができる(フロン削減は実現できたが、だからって間に合ったかどうかはまだわかっていないのだ)はずだとも言っていた。そして、それを米国の民主的プロセスを使って変えよう。危機回避を提案している議員に投票を。ダメなら自ら立候補しよう、と繰り返す。

ゴア自身について語られていた部分も多い。そもそもゴアがどうして環境問題に本気で取り組むようになったかというと(政治家としての関わりは相当古いらしいが)、それは1989年に起きた6歳の息子の交通事故がきっかけという。その時、当たり前の存在(地球)を子供たちに残せなくなることの危機感を強く感じたらしい。

また、豊かな少年時代を送ったゴアであったが、10歳年上の姉がタバコによる肺ガンで亡くなったこと。そのことで父親は家業のタバコ栽培をやめたという話もあった。

この映画を観た誰しもが「あの選挙でゴア氏が当選して大統領になっていたら」と思いそうだが、あ、でもゴアも昔はブッシュのイラク戦争を認めていなかったっけ(記憶が曖昧)。ま、それでもブッシュよりはずっとマシだったろうけどね。

(070228追記) アカデミー賞の「最優秀長編ドキュメンタリー賞」に輝いたのは何はともあれ喜ばしい。新聞によると、授賞式でゴアは「政治の問題ではなくモラルの問題」と映画にあったメッセージを繰り返していたようだが、これは政治を信じている映画としか思えないのだけど。大統領選の立候補もきっぱり否定とあるが、自ら立候補しろって言っていてこれではな。

(070401追記) 2001年11月12日付の朝日新聞夕刊に「ゴア氏、今ごろ大統領だった 激戦のフロリダ 報道機関が州票再点検」という記事があった(今頃こんな古い新聞を見ているというのがねー)。そこには「調査結果について、ゴア氏は、『昨年の大統領選は終わっている。現在、わが国はテロとの戦いに直面しており、私はブッシュ大統領を全力で支える』と語った。」と書かれている。

 

【メモ】

「エコサンデーキャンペーン」:日本テトラパック株式会社のサポートで500円で鑑賞できた。「地球温暖化」へのメッセージを一人でも多くの方にご覧頂きたく実現した画期的な企画です!-とのことだ。TOHOシネマズ六本木ヒルズ、TOHOシネマズ川崎、TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、ナビオTOHOプレックス、TOHOシネマズ二条の5館だけだが、1月21日から2月11日までの4回の日曜日に実施された。

第79回アカデミー賞2部門受賞。「最優秀長編ドキュメンタリー賞」「最優秀歌曲賞
“I Need to Wake Up” byメリッサ・エスリッジ(Melissa Etheridge)」

原題:An Inconvenient Truth

2006年 96分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平+(世良田のり子)

監督:デイヴィス・グッゲンハイム 製作:ローレンス・ベンダー、スコット・Z・バーンズ、ローリー・デヴィッド 製作総指揮:デイヴィス・グッゲンハイム、ジェフ・スコール 編集:ジェイ・キャシディ、ダン・スウィエトリク 音楽:マイケル・ブルック
 
出演:アル・ゴア

悪夢探偵

2007/01/20 シネセゾン渋谷 ★★☆

■現代は死にたい病なのか。悪夢探偵、がどーもねー

密室のベッドで自分自身を切り刻んで死んだと思われる事件が続いて起き、そしてどちらも死の直前に、ケータイから「0」(ゼロ)と表示される相手に発信していたことがわかる。キャリア組から現場志願で担当になったばかりの霧島慶子(hitomi)は、関谷刑事(大杉漣)に嫌味を言われながらも、パートナーとなった若宮刑事(安藤政信)と捜査を開始する。ゼロによる暗示が自殺を招いた可能性があるため、ゼロとのコンタクトは危険かもしれず、また被害者が悪夢を見ていたようだという証言から、「悪夢探偵」である影沼京一(松田龍平)にも協力を求めることになる(非科学的とか弁解してたけど、こりゃないよね)。

それ以前に、この悪夢探偵という言葉には苦笑(いや、いい意味でだったのだけど)。勝手に、達観した人物が超能力で夢に入り込んで、この間観たばかりの『パプリカ』と同じようなことでもするのかと思っていた(アニメと実写という違いはあるが、それにしてもまったく正反対の色調だ)。

が影沼は、他人の夢を共有する特殊能力こそ持っているが、そのことには怯えている。他人の夢に入るということは、人間の隠された本性や嫌な部分と対峙しなければならず、依頼者と自分に傷が残るかららしいのだが、だから悪夢探偵という言葉がまったく似つかわしくない人物。どころか自殺願望まで。だけど「人の夢の中で死ぬのだけはごめんだ」と(これはなんだ?)。だから霧島の依頼にも「いやだ、いやだ」とだだっ子のように耳を貸そうとしない。

捜査が進展しないことで若宮刑事はゼロに発信してしまう。このときケータイの向こうから「今、タッチしました」という声が入ってすぐ切れてしまうのだが、これは怖い。若宮刑事が危険にさらされることを知った悪夢探偵はしかたなく、若宮刑事の夢の中に入りゼロとの接触を試みる。

あとになって、霧島の問いに心(夢)の中に入っていけるのは共感ではないかとゼロが答える場面があり、なるほどと思う(とはいえこの説明だけではな)のだが、これで前向きで明るいキャラの若宮(破壊願望故の自殺願望?)もエリートの霧島も自殺願望があることになってはうんざりする。それだけ現代人の心の闇が深いということなのだろう。そして、自分でもそのことを簡単には否定できないにせよ、だ。

もう1つこの共感には、被害者の「一緒に死んでほしい」という気持ちがあることも見逃せない。被害者が本当に(繋がりを確認できる)死を望んでいたのだとしたら、これは犯罪なのだろうか、ということもあるのだが、映画はそこにとどまって考える余裕などは与えてくれない。

ゼロが具現化されてからは、もうとんでもないことになって、映像の洪水状態の中で、悪夢探偵の過去のトラウマが語られ、ゼロからは「平和ボケしたヤツらに真実を教えられるのはオレとお前だけ」とかなんとか。真実って? 「一緒に遊ぼうぜ」とも言っていたが、これは自殺騒動を一緒になってやろうということなのか。このあたりで完全に付いていけなくなっていた私にはわけがわからない。

悪夢探偵を救ったのは霧島の「私と生きて」という声。ここからはあっさり解決にむかい、ケータイを離さず何人かと話をしていた危篤状態にいた患者がゼロだった、と。で、最後は霧島と悪夢探偵の、恥ずかしくない程度に抑えた交流というか、霧島が掴み取った希望のようなものが語られる。

ふうむ。設定はマンガにしても、心の闇の部分はありふれた自殺願望というわかりやすさで提示していたし、「タッチした」と忍び込まれてしまう場面や、街にいる人間が激しく首を振ったり、ケータイがぐちゃりと曲がる映像など、恐怖感もちりばめられているというのに、この感想を書いているほどには、観ている時には感心できなかったのだ。

巻頭に悪魔探偵が、彼の父の恩師だという大石(原田芳雄)の夢から帰ってきた場面が悪夢探偵の紹介フィルムのようにあって、腕が布団の中に引っ込む映像など、ここまではゾクゾクしていたんだが。とはいえ、大石の「恩にきるぞ、悪夢探偵」というセリフには苦笑するしかなかったのだけどね。

 

2006年 106分 ビスタサイズ PG-12

監督・脚本・美術・編集:塚本晋也 プロデューサー:塚本晋也、川原伸一、武部由実子 エグゼクティブプロデューサー:牛山拓二 撮影:塚本晋也、志田貴之 音楽:石川忠 VFX:GONZO REVOLUTION エンディングテーマ:フジファブリック『蒼い鳥』 音響効果:北田雅也 特殊造形:織田尚 助監督:川原伸一、黒木久勝
 
出演:松田龍平(影沼京一/悪夢探偵)、hitomi(霧島慶子)、安藤政信(若宮刑事)、大杉漣(関谷刑事)、原田芳雄(大石恵三)、塚本晋也(ゼロ)

2006年 映画ベスト10

やっとのことで、2006年の映画のベストテンを選んだ。去年は181本と、前年よりさらに沢山の映画を観ることができた(日本映画66本、外国映画175本)。これは学生時代の記録に迫る。昔は名画座まわりが主だから、ほとんど新作ばかりの去年は、我ながら驚嘆ものといっていい。

これだけ観ているとベストテン選びにはそう苦労しない。どころかはみ出してしまった作品とテンとの整合性をどうつけようかと別のところで苦労した。とはいえ(じゃなくて、だからか)順位はけっこういい加減。気分でいくらでも変わってしまいそうだ。

日本映画

1 虹の女神(熊澤尚人) 
2 花よりもなほ(是枝裕和)
3 ゆれる(西川美和)
4 DEATH NOTE デスノート 前編(金子修介)
5 初恋(塙幸成)
6 嫌われ松子の一生(中島哲也)
7 かもめ食堂(荻上直子)
8 間宮兄弟(森田芳光)
9 時をかける少女(細田守)
10 蟻の兵隊(池谷薫)

次点(観た順)。『狼少女』(深川栄洋)『博士の愛した数式』(小泉堯史)『あおげば尊し』(市川準)『ヨコハマメリー』(中村高寛)『ハチミツとクローバー』(高田雅博)『DEATH NOTE デスノート the Last name』(金子修介)『手紙』(生野慈朗)『パプリカ』(今敏)

外国映画

1 キング・コング(ピーター・ジャクソン)
2 グエムル -漢江(ハンガン)の怪物-(ポン・ジュノ)
3 ココシリ(ルー・チューアン)
4 トリスタンとイゾルデ(ケヴィン・レイノルズ)
5 記憶の棘(ジョナサン・グレイザー)
6 敬愛なるベートーヴェン(アニエスカ・ホランド )
7 プライドと偏見(ジョー・ライト)
8 イカとクジラ(ノア・バームバック)
9 ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ)
10 トゥモロー・ワールド(アルフォンソ・キュアロン)

次点(観た順)。『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』(ジョン・マッデン)『クラッシュ』(ポール・ハギス)『マンダレイ』(ラース・フォン・トリアー)『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(デヴィッド・クローネンバーグ)『美しき運命の傷痕』(ダニス・タノヴィッチ)『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー)『アンダーワールド エボリューション』(レン・ワイズマン)『グッドナイト&グッドラック』(ジョージ・クルーニー)『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ)『スーパーマン リターンズ』(ブライアン・シンガー)『サンキュー・スモーキング』(ジェイソン・ライトマン)『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド)『トンマッコルへようこそ』(パク・クァンヒョン)『プラダを着た悪魔』(デヴィッド・フランケル)

『キング・コング』は2005年12月17日の公開(『狼少女』も12月3日公開か)だから正確には2005年のベストテンになるのかもしれないが、私は2006年の1月7日に観ているので入れておいた。あくまで2006年の鑑賞作品から、ということで。もっとも『空中庭園』『リトル・ダンサー』『息子のまなざし』のような明かな旧作(計10本)は除外した。

あるいは裏切りという名の犬

銀座テアトルシネマ ★★☆

■実話が元にしては話が強引

パリ警視庁(原題はここの住所:オルフェーヴル河岸36番地)で次期長官と目されるレオ・ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)の2人の警視。昇進の決まったロベール・マンシーニ長官(アンドレ・デュソリエ)の気持ちは、上昇志向の強いクランではなく、仲間からの信頼が厚いヴリンクスにより傾いていた。

折しも多発していた現金輸送車強奪事件の指揮官に長官はヴリンクスを任命するが、ヴリンクスとは別にこの事件を追っていたクランは、ヴリンクスの下で動くしかないことを承知で、長官に捜査に加えてもらうよう直訴する。

シリアン(ロシュディ・ゼム)からヴリンクスが得た情報により犯人のアジトを取り囲んだ警官隊だったが、手柄を立てようとしたのかクランが突然単独行動に出(これは?だし彼自身が標的になりかねない危険なもの)、そのため激しい銃撃戦となる。定年間近だったヴリンクスの相棒エディ・ヴァランス(ダニエル・デュヴァル)が殉職し、犯人は部下のエヴ(カトリーヌ・マルシャル)を盾にして逃亡してしまう。

クランの行動は糾弾され、調査委員会にかけられる。一方ヴリンクスは犯人逮捕にこぎつけるが、シリアンの情報提供の際に彼の殺人を見逃した(これがシリアンの交換条件だった)ことをクランから調査部に密告され、共犯容疑で逮捕されてしまう。特別外泊中のシリアン(獄中の身)の、刑務所に送った相手への報復殺人があざやかすぎるのはともかく、そのそばにいたヴリンクスを目撃していた娼婦が出てきて(かなり?)、クランに情報提供(これも?かな)となると、都合がよすぎないだろうか。

クランは調査委員会で無罪になり2人の立場は逆転する。ヴリンクスとの面会も許されない妻のカミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)はシリアンに呼び出されるが、家を盗聴していたクランらに追跡される。カミーユの密告を疑ったシリアンは無謀な逃走をし、車は横転してしまう。クランはかつて彼も愛していたはずのカミーユに銃弾を撃ち込む。

このクランの行動は謎ではないが、承認できない。少し前にカミーユから拒絶される場面はあるが、といってここまでするだろうか。状況からいっても必然性がないし自分が危なくなるだけだから、単純にクランの愛情が怨みに転化したと解釈していいのだろうが、話をつまらなくしてしまった(それにカミューユはすでに息絶えていたようにも見えた)。それともクランの人間性をより貶めるためのものだろうか。手錠のままカミーユの葬儀の場にいるヴリンクスに、クランはシリアンが彼女を撃ったとわざわざ告げているから、そうなのかもしれない。このセリフはヴリンクスにかえって疑念を抱かせるだろうから。

ヴリンクスは7年後に出所し、カミーユの死の真相を探り始め、パリ警視庁長官となっているクランに行き着く。

物語としてはこんなところだが、あらすじを書きながら?マークを付けていったように展開が少々強引(付け加えるなら、クランは調査委員会で無罪にはなったが、しかし長官にはなれないのでは)なのと、やはりクランのカミーユ殺害が納得できなかったことで、最後まで映画に入り込めなかった。肩入れしやすいヴリンクスにそって観ればいいのかもしれないが、ラストの決着の付け方もよくわからなかったから、それもできず。ま、私の趣味ではない作品ということになるのかも。

細かいことだが、最初にある警官による警視庁の看板強奪も何故挿入したのかが不明。まさかお茶目な警官像ということはないだろう。とすると、警官といったってやっているのはこんなものさ、とでも? あと、音楽が少しうるさすぎたのだけど。

 

【メモ】

ヴリンクス警視はBRI(探索出動班)所属、クラン警視はBRB(強盗鎮圧班)所属。

原題:36 Quai des Orfevres

2006年 110分 シネスコサイズ フランス 日本語字幕:■

監督:オリヴィエ・マルシャル 製作:フランク・ショロ、シリル・コルボー=ジュスタン、ジャン=バティスト・デュポン 製作総指揮:ユグー・ダルモワ 脚本:オリヴィエ・マルシャル、フランク・マンクーゾ、ジュリアン・ラプノー 共同脚本:ドミニク・ロワゾー 撮影:ドゥニ・ルーダン 編集:ユグー・ダルモワ 音楽:アクセル・ルノワール、エルワン・クルモルヴァン
 
出演:ダニエル・オートゥイユ(レオ・ヴリンクス)、ジェラール・ドパルデュー(ドニ・クラン)、アンドレ・デュソリエ(ロベール・マンシーニ)、ヴァレリア・ゴリノ(カミーユ・ヴリンクス)、ロシュディ・ゼム(ユゴー・シリアン)、ダニエル・デュヴァル(エディ・ヴァランス)、ミレーヌ・ドモンジョ(マヌー・ベルリネール)、フランシス・ルノー(ティティ)、カトリーヌ・マルシャル(エヴ)、ソレーヌ・ビアシュ(11歳のローラ)、オーロル・オートゥイユ(17歳のローラ)、オリヴィエ・マルシャル(クリスト)、アラン・フィグラルツ(フランシス・オルン)

長い散歩

新宿武蔵野館2 ★★

■ひとりよがりで勘違いの、何も終わっていない長い散歩

安田松太郎(緒形拳)は、名古屋から田舎町の古い2階建てのアパートに、妻の位牌と段ボール箱8つで越してくる。思うところがあって質素で静かな生活を送るつもりでいたが、隣の部屋には母親の横山真由美(高岡早紀)から虐待を受けている5歳くらいの女の子(杉浦花菜)がいた。見るに忍びなくなった松太郎は、真由美のヒモである水口(大橋智和)を襲い、女の子を連れてアパートを飛び出すが、真由美の捜索願(2日遅れの)により誘拐犯として指名手配されてしまう。

松太郎は、元校長という職にありながら、娘の亜希子が万引きで捕まったことや、妻の節子(木内みどり)が酒に溺れて許しを請う場面(娘はこんな男に謝らないでと言う)がフラッシュバックで入っていたように、満足な家庭を築けなかった男だ。

しかしだとしても教育者であった彼が、覆面に竹刀で水口を襲ったりするだろうか。しかもそのために、彼はなまった体を鍛え直すという入念な準備までしているのだ。元校長ならまず警察か児童相談所に行くはずだし(トレーニングに時間をかけるということは、虐待が続くことを意味する)、女の子と親しくなって心の交流をはかるべきなのに。

むろん女の子が虐待で心を閉ざしてしまっているということもある。彼女はまだ幼稚園に行っていた時の劇で使った手作りの天使の羽根を常に付けていて、しかしスーパーなどではいたずらや絵本の万引きを繰り返している。誰とも遊ばないし、松太郎が声をかけても悲鳴を上げながら走って逃げてしまう(松太郎のトレーニングは女の子に追いつけなかったということもあったかも)。ようやく女の子の秘密の場所を探し出して、ふたりで鳥の雛の葬式をしたことで、多少ながら関係が出来つつあったのに、女の子の目の前で水口を叩きのめしていいのだろうか。もっとも、そういうことすべてが苦手な松太郎だったから、彼の家庭は破綻したのだが。

長い散歩の発端が説得力を欠くため、これが最後まであとを引く。襲撃が計画的なのに、旅に出るのは成り行きなのか。ここは虐待の現場を見たことでやむにやまれず水口を傷つけてしまい、女の子がしがみついてきたためについ逃げ出すことになった、としたいところである。

旅に出てはじめて「おじいちゃんと一緒に行くか、青い空を見に行こう」となるのだが、この「青い空」は、松太郎の家族が、家族として存在していた時に3人で行った山の景色だった。女の子が虐待される姿に家族を不幸にした自分の罪を見、彼女に愛情を注ぎ救うことが贖罪に繋がると思ったのかもしれないが、これだって勘違いではないか。

たしかに女の子は次第に松太郎に心を開き、自分がサチという名であることを告げるようになる(最初はガキと答えていた)。旅の途中で知り合ったバックパッカーの青年ワタル(松田翔太)との間では笑顔を見せるようになるし、最後には「おじいちゃんサチのこと好き」と聞くようにまでなるのだが、旅に連れ出してしばらくは、松太郎にそんなことができるとは彼自身考えもしなかったはずだ(サチはまだ松太郎に悪態をついていた。それに、考えてもまた勘違いになるのだが)。

最後の方で松太郎は警察に、自首をするからせめてあと2日見逃してくれという電話をかける。ここでも「私は償わなくてはいけないんです」と的外れなことを言っていた。刑事(奥田瑛二)が「巡礼ならひとりでやればいい」と切り返すのはもっともで、奥田は(俳優としての)自分のセリフに真実があるのに、どうして(監督として)このまま突っ走ってしまったのだろう。松太郎はさらに、あの子は地獄のような中にいたとか、警察ならちゃんと調べろなどと八つ当たり気味なことまで言うのだ。

松太郎がいくらサチと心を通わせても自分が服役してしまったら何にもなるまい。事実、彼は自首をするしかなく、獄中の人となる。

出所した彼はサチの姿を見、サッちゃんただいまと声をかけるのだが、それは幻であった。妻と娘の幻でないのは何故なんだろう。歩き出す松太郎を延々と映して映画は終わりとなるが、この長い散歩は何も終わっていないことに、彼自身は気付いているだろうか。

彼がサチに接触することはもう許されないはずであるし、もし本当に贖罪というのなら、亜希子(原田貴和子)との関係を修復すべきだろう。もっとも彼女との関係は巻頭のかなり陰湿なやり取り(住んでいた家をやると言う松太郎に、亜希子は、相変わらず押しつけがましいと答え、この家に住むのが怖いんでしょう、人殺し、と激しい言葉を投げつけていた)を見ても明らかではあったが。旅先から松太郎が出した手紙にも無反応で、刑事にもあの人は他人とはっきり言っていたのだから、もう関わるべきではないだろう。どうやっても贖えない罪というのはあるし、もう関わりを持たないことこそが、贖いにはならないが相手の心を静める唯一の方法ということはいくらでもあることだから。

刑事に「山ってのは、登ったら降りてくるもんだ」と悠然と言わせておいて、しかし彼が待っているところには現れない、というニンマリ場面もあるのだが、ここでも「安田のようなヤツが必要」とか、「誘拐って何なんですかねー」(これは同僚の発言)などと言わせては鼻白むばかりである。

よかったのは、唐突な存在だったワタルだろうか。饒舌で人なつっこい彼はザンビアからの帰国子女で、引きこもりだったことや飼っていた猿をワシントン条約か何かで連れて来くることができなくて大泣きしたと明るく語っていた。「世の中、貧困と戦争で、オレこんな山の中で芋食ってる。ねじれてるよね」だから、持っていた拳銃で自殺してしまったのだった。為す術のない松太郎。松太郎は笑って死ぬなんて信じないと言っていたが、ワタルの唐突さだけは、この映画で光っていたように思うのだ。

【メモ】

2006年のモントリオール映画祭グランプリ受賞作。

2006年 136分 ビスタサイズ 

監督・企画・原案:奥田瑛二 プロデューサー:橋口一成、マーク宇尾野 製作総指揮:西田嘉幸 協力プロデューサー:深沢義啓 脚本:桃山さくら(安藤和津+安藤桃子+安藤サクラ)、山室有紀子 撮影:石井浩一 美術:竹内公一 編集:青山昌文 音楽:稲本響 主題歌:UA『傘がない』 スーパーバイザー:安藤和津 照明:櫻井雅章 録音:柴山申広
 
出演:緒形拳(安田松太郎)、杉浦花菜(横山幸)、高岡早紀(横山真由美)、松田翔太(ワタル)、大橋智和(水口浩司)、原田貴和子(安田亜希子)、木内みどり(安田節子)、山田昌(アパートの管理人)、津川雅彦(医師)、奥田瑛二(刑事)

百万長者の初恋

テアトルタイムズスクエア ★

■ヒョンビンとヨンヒを見るだけのめちゃくちゃ映画

18歳になって、祖父の作り上げた財団という莫大な遺産が転がり込むはず(住民登録証というのが必要らしい)でいたカン・ジェギョン(ヒョンビン)だが、相続には田舎にあるポラム高校を卒業しなければならないという条件(祖父の遺言)がついていた。18歳の男にこれから高校を卒業しろとは、ジェギョンというのは昔から相当の放蕩息子だったのか、祖父に先見の明があるのか、それとも脚本がいい加減なだけなのか(余計なことだが韓国の学制は6・3・3・4制である)。

しかたなく生徒になったジェギョンだが、退学処分になれば遺産が相続できるのではないかと考え、登校早々同級生のミョンシク(イ・ハンソル)に喧嘩を売って彼に殴りかかる。が、彼の父親からは男は喧嘩をして育つものだと言われ、家で夕食をご馳走になってしまう。ウォンチョル校長(チョン・ウク)には支援金を寄付するから退学させてくれとかけ合うが、信念の人である校長が動じるはずもなく、遠回りでも正しい道をと諭される。

ポラム高校と指定されていた理由を考えないジェギョンがそもそも間抜けで、だいたい卒業が条件というのに強制退学では通りっこないのだが、というより映画がすべてにアバウトなのだ。それは遺産に難病のヒロインと、臆面のない設定をしていることでもわかる。

ジェギョンのキャラクターも最初こそ金持ちを鼻にかけた嫌味なものだが、田舎に呼び寄せた悪友たちが、自分がぶつかってばかりいたイ・ウナン(イ・ヨンヒ)を悪く言うと、もうその時点ではウナンの味方になっているのである。

クラス委員でもあるウナンは、自分が育った恩恵園という施設の子供たちのためにアルバイトでミュージカルの費用を稼いでると。健気なのだ。そんで、というかなのに、彼女は肥大性心臓疾患という不治の病にかかっていた、ってねー。

深刻なのにふざけたくなるのは、映画がそうだからで、この心臓病の危険さを語った医者に、愛が恐ろしい(動悸で心臓に負担がかかるから)と言わせて、ジェギョンもウナンにきつい言葉を浴びせて別れようとするのだが、失恋は感情がたかぶらないとでもいうのだろうか。

病気のウナンはこのあとも普通に働いていたし、どころか心臓が故障したみたいと言ったかと思えばミュージカルで激しい踊りを披露したり(『サウンド・オブ・ミュージック』なのだが、映画とはイメージの違う別物)と、このいい加減さは筋金入りなのである。

なにしろ病室にいつまでも2人っきりでいたり、途中からは同棲生活のようなことまではじめてしまうし……ようするに2人の甘ったるい会話が成立さえすれば、あとは何でもありという映画なんだろう。

だから、実はジェギョンとウナンは幼なじみで、それで巻頭にあった場面の謎が解けるのだが、しかしそれが明かされたころには、もう物語などどうでもよくなってしまっているのである。

なのに飽きずに映画を観ていられたのは、ウナン役のイ・ヨンヒが可愛らしかったからだ。写真だと特に好みというわけではないのだが、画面で動いている彼女の表情や仕草にはデレッとしてしまう。なにより今の日本の女の子のような人工的な感じがしないのがいい。映画館はヒョンビン目当ての女性が多そうだった(女性率95%)が、配給会社はこのイ・ヨンヒをもっと売り込むべきではなかったか。

しかし、それにしても何故「日本版エンディング曲」をつけたがるのか。しらけるだけなのに。

 

【メモ】

http://blog.naver.com/hyunbin2005 ←映画未公開映像「ドレミの歌」。こちらは元の映画と似た作りになっている。

原題:・ア・護棗・川攪 ・ォ・ャ・曾r
英題:A Millionaires First Love

2006年 113分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:キム・テギュン 脚本:キム・ウンスク 音楽:イ・フンソク
 
出演:ヒョンビン(カン・ジェギョン)、イ・ヨンヒ(イ・ウナン)、イ・ハンソル(ミョンシク)、チョン・ウク(ウォンチョル校長)、キム・ビョンセ(ユ弁護士)