雷神 RAIJIN

新宿ミラノ3 ★☆

■雷神パパって素敵!?

体に爆弾を埋め込まれた女性を助ける冒頭のアクション場面で、早くもこの映画の駄作ぶりが確信できた。

メンフィス市警の刑事ジェイコブ・キングは女性が苦しんでいるのを犯人が楽しんでいるはず、と現場前にあるアパートに乗り込んで行くのだが、タイムリミットはたった4分。沢山ある部屋からどう割り出したのかってこともだけど、そこに行くまでだって2、3分はかかってしまうだろうに。

犯人のビリー・ジョーと対峙しても、起爆装置の外し方は、彼をいたぶることで聞き出そうとするばかり。ビリーが白状したからいいようなものの(もう爆発してる時間じゃないの?)、けれどジェイコブは、ビリーの答えとは違う線を切らせる(おい、おい)。ビリーを女性のところに連れて行けば(そんな時間はなかったか)ビリーは起爆装置を止める他なくなるのに、頭が悪すぎでしょ。

そうしなかったのは、単にジェイコブの格闘場面を挿入したかっただけみたいなのだが、けれどこれが、殴る動作ごとにカメラの位置を切り替えるという極端なカット割りになっていて、まるでこうでもしないと、もはやなまってしまったスティーヴン・セガールの動きをカバーできないと白状してしまっているかのようなのだ。だってこのカット割り、最後まで全部これなんだもの。苦肉の策にしてもなぁ。

ジェイコブの次なる使命は、これまた女性を狙った狂信的な犯人で、被害者の女の体には必ず占星術の記号が残されていた。ジェイコブは図書館に行ったりして、その謎解きにも精を出す。ちゃんと頭を使っていることをひけらかしたいのだろうが、そして女っ気も断って努力しているみたいなのだが、それ以上にヒントが向こうからやってくるような展開だから、余裕なんである。図書館の女性司書が歌詞の出どこを教えてくれるし、犯人のラザラスは逃げるときに手がかりの財布を落としちゃう!し。

そのラザルスだが、神の領域にまで達している(勘違いにしても)っていうんだが、まるで怖くないのだ。ジェイコブのような相手を「待ってい」て、だから居場所を隠そうとしないのは納得なのだが、なのに結局は逃げまくっていてだから、だらしない。

だからか、最後に冒頭のビリー・ジョーが釈放となって、役者不足の敵役補強とばかりに復帰してくるのだが、最初と同じケリの付け方で終わってはあきれるばかりだ。芸のないことは作り手も自覚しているようで、ジェイコブはビリー・ジョーに「この前と同じだ、懲りないな」と言うのである(だから懲りろよ)。

プロファイリングが専門で現場に不慣れな女FBIのフランキー・ミラー捜査官や、ジェイコブの豪邸に同居しているセリーヌ巡査や図書館司書など、女性を装飾品のように配置しながら、でも添え物の女FBI以外は、犯人たちの餌食になってしまう。

女FBIによって連続猟奇殺人事件の嫌疑がジェイコブにかけられるが、その時はすでにジェイコブによって犯人が挙げられていて、それはピンチのピの字にもならず、でもジェイコブは姿を消してしまう。

姿を消す意味がまったくもって不明なのだが、このあとにあるオマケ映像で、はぁはぁーん、と納得。なんだけど、これがまたまた噴飯ものなのだ。なんとジェイコブには2人の子供と若い妻がいて、その家にプレゼントを抱えて帰ってきたらしいのだ。若妻も若妻で、子供をナニーにまかせると、自分は全裸になって体にリボンをかけジェイコブを手招きする……。

うわあ、どおりでセリーヌ巡査のキスを避けていたわけだ。というかあの豪邸は何だったのよ。セリーヌ巡査とは同棲してたんじゃ? 刑事の仕事は仮の姿? だから姿を消したのか? え、なに、脚本はスティーヴン・セガール本人? それで、全裸リボン若妻なんだ!

3人組の男が私の横の席で爆笑鑑賞していたが、なーるほど、こんなふうに友達と一緒になって馬鹿笑いしながら観たら楽しいのかも。1人で観た私(いつものことだけど)は大馬鹿野郎なんでした。

原題:Kill Switch

2008年 96分 ビスタサイズ アメリカ/カナダ 配給:ムービーアイ エンタテインメント 日本語字幕:岡田壮平 R-15

監督:ジェフ・F・キング 製作:カーク・ショウ 製作総指揮:スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン、キム・アーノット、リンジー・マカダム 脚本:スティーヴン・セガール 撮影:トーマス・M・ハーティング プロダクションデザイン:エリック・フレイザー 衣装デザイン:カトリーナ・マッカーシー 編集:ジェイミー・アラン 音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、ホリー・エリッサ・ディグナード(フランキー・ミラー/FBI捜査官)、クリス・トーマス・キング(ストーム/ジェイコブの相棒)、マイケル・フィリポウィッチ(ラザルス/犯人)、アイザック・ヘイズ(コロナー/検死官)、フィリップ・グレンジャー(ジェンセン警部)、マーク・コリー(ビリー・ジョー/犯人)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ/巡査)

フェイク シティ ある男のルール

新宿武蔵野館3 ★★☆

■真実より、それぞれの正義

キアヌ・リーヴス演じるラドローは、飲んだくれの少々危険な刑事(またかよって感じ)。飲んだくれに関しては、過去を引きずってのことが多少あるにしても(注1)、冒頭の単独捜査はやり過ぎもいいとこで、刑事というよりはまるで射殺魔だ。双子の姉妹の救助で、かろうじて釈明が成立する程度。それは本人もわかっているから、正当防衛の偽装にも躊躇することがない。

そんな彼に何かと目をかけてくれるのが上司のワンダーで、今回のこともラドローを警察苦情相談所に移動させ、お前の尻ぬぐいをしてやったと恩を着せてくるのだが、何のことはない、自分が上り詰めるためにラドローを道具として使っていただけのことだった。

こうしたワンダーのふるまいは内務調査官のビッグスがすでに目を付けていて、ラドローの元同僚ワシントンがビッグスに協力したことから、コンビニ強盗を装った2人組の警官に、ワシントンはあろうことか、ラドローの目前で殺されてしまう(注2)(ラドローはワシントンの真意をこの時点では知らず、彼の行動を疑ってさえいいて、で、後を付けていたのだが、そんなだから事件の直前のコンビニでは2人の間には険悪な空気が漂って、つかみ合いになっていた)。

要するに、警察内部にはすでにワンダーによるネットワークができていて、すべてのことがデッチ上げで進行し、ワンダーの思いのままとなっていたのだった。

真相を書いてしまったが(隠しておくようなものでもないってこともある)、何も知らないラドローは、疑念や後悔の残る犯人捜しをしないではいられない。というわけで、映画はワシントン殺しの謎解きを軸に進んでいくが、この過程は時間はかかるものの、謎解きというほどのものではないから、場面場面は派手に作ってあっても、盛り上がらない。入り組んでいるだけで行き着く先の見えている、つまり遠回りしているだけの迷路だろうか。ラドローの飲んだくれ頭でも解けてしまうのだ。だからかもしれない、ラドローの捜査に付き合ってくれたディスカントは、話の飾り付けで、あえなく殉職となる。

悪玉のワンダーに魅力がないのも痛い。最後にラドローに問い詰められて、話をそらすように金を埋め込んだ壁を壊せと言うのだが、秘密を明かして状況が変わるとは思えない。もっともこれ以前に、あのワシントン襲撃の一部始終が映っているディスクをラドローに手渡してしまったことの方が問題かも。後で必死になって取り戻そうとしてたからね。ラドローを信用させるために渡したのなら危険すぎるし、ラドローが疑問を抱いて入手しようとした二人組の逮捕歴のデータなどはシュレッダーにかけさせてしまうなど、一貫性もない。

逮捕するよりは殺し(邦題の「ある男のルール」だよね)のラドローによって、結局ワンダーは殺されてしまうのだが、そこへビッグスが駆けつけてくる。しかし、ラドローの罪を問いもせず、ワンダーの共犯者が金目当てで殺した、とビッグスまでがデッチ上げで締めくくろうとする。君だけが頼りだったと言うのだ(注3)。なんだかなー。さらにはワンダーに弱みをにぎられていた署長にも感謝されるかもしれない、というようなことも言っていた(これは皮肉だろう。でなきゃ、こわい)。

正義が貫かれるのなら真実などどうでもいい、とでもいいたいのだろうか。まあその前に本当に正義なのか、って問題もあるが。だって「それぞれの正義」にすぎないんだもの。ふうむ。こんな微妙な結末で締めくくるとはね。この部分は掘り下げがいがあるはずなんだけどな。

注1:不倫をしていた妻が脳血栓を起こしたのに放っておいて死んでしまった、というようなことをラドローは、ワシントンの妻に話したと思うのだが、この話が出てくるのはここだけなので、ちょっと不確か。

注2:まったくいい加減にしか観ていないことがわかってしまうが、何故目前で殺されるというような状況になってしまったのか。また、ラドローが襲われなかったのは偶然なのかどうか、思い返してみるのだが、これまたよくわからない。

注3:確かにラドローも途中で、「法を越えた仕事は誰がやる、俺が必要だろ?」とビッグスに言ってはいたが。

原題:Street King

2008年 109分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス映画 PG-12 日本語字幕:戸田奈津子

監督:デヴィッド・エアー 製作:ルーカス・フォスター、アレクサンドラ・ミルチャン、アーウィン・ストフ 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ミシェル・ワイズラー 原案:ジェームズ・エルロイ 脚本:ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス 撮影:ガブリエル・ベリスタイン プロダクションデザイン:アレック・ハモンド 編集:ジェフリー・フォード 音楽:グレーム・レヴェル

出演:キアヌ・リーヴス(トム・ラドロー)、フォレスト・ウィッテカー(ジャック・ワンダー)、ヒュー・ローリー(ジェームズ・ビッグス)、クリス・エヴァンス(ポール・ディスカント)、コモン(コーツ)、ザ・ゲーム(グリル)、マルタ・イガレータ(グレイス・ガルシア)、ナオミ・ハリス(リンダ・ワシントン)、ジェイ・モーア(マイク・クレイディ)、ジョン・コーベット(ダンテ・デミル)、アマウリー・ノラスコ(コズモ・サントス)、テリー・クルーズ(テレンス・ワシントン)、セドリック・ジ・エンターテイナー(スクリブル)、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン

チェンジリング

109シネマズ木場シアター3 ★★★★

■母は強し

「真実の物語」ということわりがなければ、馬鹿らしいと憤慨しかねない内容の映画だ。

1928年3月にロサンゼルスで、クリスティン・コリンズの9歳の1人息子ウォルターが消えてしまうという事件が起きる。5ヵ月も経ったある日、遠く離れたイリノイ州でウォルターが見つかったという知らせが入り、クリスティンは駅に出迎えに行くが、警察の連れ帰った少年は別人だった。だが少年はウォルターだと言い張り(はあ?)、居合わせた(待ち構えていた)ジョーンズ警部に、とりあえずは息子と認めるよう言われ、新聞記者たちの注文とジョーンズ警部に促されたクリスティンは、ためらいながらも少年と2人で取材写真に収まってしまう。

別人なのにとりあえずって何なのだ、と激しく思ってしまうのだが、映画はこの不可解な状況を、まさにクリスティンの動揺をそのまま観客に押しつけるように物語を進めていく。こんなのは認めないよ、と心の中で叫んではみるのだが、何しろ「真実の物語」なのであるからして、認めるも認めないもないのだった。

クリスティンに話を戻せば、警察にはとにもかくにも息子を捜索してほしいわけで、苛立ちとは別にそういう遠慮も働いたのだろう。また1928年という時代状況もあったと思われる。米国のことはわからないが、日本だと戦前の警察には絶対的権威が存在していた認識があるし、映画の中でも遠慮のない発言があったように、女性蔑視という見えない力も介在していたことだろう。彼女がシングルマザーだったということもあったのではないか。

クリスティンの遭遇したこの不可解な、むろん彼女にとってはつらいだけの事件は、①当時の警察(市長、警察本部長からの構造的なもの)にあった恒常的な腐敗と、②嘘を突き通す身代わりの少年という存在(これがすごいよね)に、③さらには、というかもちろん一番の原因なのだが、親戚の子供を無理矢理手下にしたゴードン・ノースコットによる連続少年拉致殺人という、全く別の3つの要素(②は警察によって言いくるめられたという側面もあったのだろうが)が重なって起きたことが次第に判明してくる。

映画は事件解明という謎解きの面白さに加え、クリスティンが精神病院に送られてしまう理不尽さや、保身に走る警察、犯人ノースコットの素顔(これは裁判や死刑執行までもが描かれる)に、犯行を手伝わされたノースコットの従弟の少年、一方その少年の訴えに耳を傾けることになる刑事や、クリスティンに手を差しのべる長老教会のブリーグレブ牧師など、多岐にわたってその細部までを余すところなく伝えようとする(むろん収拾選択の結果の脚本だろうが)。

この誠実ともいえる姿勢が素晴らしい。あくまで正攻法で奇を衒うことなく、事件を丁寧に掘り下げていく。エピソードのどれもが驚きや示唆、あるいは教訓に満ちていて、その一々を書き連ねていきたい誘惑に駆られるが、それは映画に身を委ねて堪能すべきものだ。

息子の生存を信じて疑わないアンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、モガ帽子(名前は知らない)にケバいメイクは、当時の流行にしても引いてしまいそうになった。クリスティンの勤める電話局は繁忙を極めていて(これが息子の誘拐に繋がってしまうのだが)、移動時間を節約するため、彼女はローラースケートを履いて仕事をしていた。ローラースケートはファーストフードのように見せる要素のある店だけと思っていたのだが。彼女は電話交換手なのだが、同僚を束ねる主任のような立場にあって、子育てだけでなく仕事にも熱心だったのだろう、昇進の話も出ていた。

こういうしっかりした背景描写の積み重ねが、映画の物語部分に厚みを出し、クリスティンが最後に見つける希望に、それがわずかなものであっても思いを重ねてたくなるのだろう。もっとも実際は、彼女は1935年には亡くなってしまったらしいし、彼女の夫のことなども「真実の物語」である映画は、隠蔽しているようである(事件の概要についてだけなら、それは文字情報や写真などにはかなわないし、虚構である映画の「真実の物語」にも触れなければならず、収拾がつかなくなること請け合いなので、今はやめておく)。

背景のロス市街の描写も凝ったものだ。市電にフォード、そして人々の行き交う街角からは生活臭すら漂ってきそうだった。エンドロールの固定カメラからのビル街のCGも実によく出来ていた。ここまで作り込んだら、誰だってこうやってしばらくは流して、眺めていたくなるだろう。

欠点らしきところが見つからないのだが、大恐慌の影がないのは気になった。事件のはじまりは1928年だからクリスティンの職場が大忙しだったのは頷けるが、不況の只中にあってもそうだったのか。西海岸は多少は影響も軽微だったとか(でも世界恐慌だからなー)。あるいは、電話という当時の最先端技術の現場では不況もそれほどは関係なかったとか。その頃のことをもっと知っていれば、さらに面白く観ることができそうである。

イーストウッド老人の近年の活躍には質量共に目を見張るものがある。そこに、またこんな正攻法の映画まで付け加えられては、ただただ脱帽するしかない。能がありすぎる鷹は爪の隠しようがないんでしょう。それにしても、かっこよすぎるよなぁ。

  

原題:Changeling

2008年 142分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 PG-12 日本語字幕:松浦美奈

監督・音楽:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターンプロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・ローチ

出演:アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)、ジョン・マルコヴィッチ(グスタヴ・ブリーグレブ/牧師)、ジェフリー・ドノヴァン(J・J・ジョーンズ/警部)、コルム・フィオール(ジェームズ・E・デイヴィス/警察本部長)、ジェイソン・バトラー・ハーナー(ゴードン・ノースコット/牧場経営者)、エイミー・ライアン(キャロル・デクスター/精神病院入室者)、マイケル・ケリー(レスター・ヤバラ/刑事)、エディ・オルダーソン(犯人の従弟)

少年メリケンサック

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★★★

■『デトロイト・メタル・シティ 序章』(なわけないが)

メイプルレコード契約社員の栗田かんなは、ネットの動画で「少年メリケンサック」という生きのいいバンドを見つける。かんな自身はパンクなど嫌いだったが、彼らのまき散らす怪しい魅力に血が騒ぎ、何故だか成功を確信する。

83年生まれだから25歳、なんとかギリギリ新人セーフ、と勝手に判断して社長に掛け合い、契約交渉に乗り出すが、ネットにあった83年という文字は、誕生年などではなく、解散コンサートの年だった、つまりメンバーはもう50も過ぎたオヤジたちだったのだ。

筋はくだらなくかつ強引、メンバーがバラバラになっているだけでなく、腕は錆び付いているし(もともとうまくなさそうだ)、兄弟で反目し合っているアキオとハルオが何かにつけ意地の張り合いをするし(これには深ーいわけがあった)、とりあえず結束するだけでも大変な状況。が、ネットのアクセス数は鰻登り。パンクへの肩入れのある社長が全国ツアーまで組んでしまい、かんなは後に引けなくなってしまう、ってことでコメディのお膳立ては揃いまして……ちゅーか、結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから、あとはどうにでもなれ状態で、いいようにやってるだけのような気もしなくはないのだけど、まあ、それが楽しいというか……。

とはいえ、マトモに考えていくと無理なところはいっぱいあって、そもそも契約社員が新人発掘のような仕事を任せられるのかとも思うし、ボーカルのジミーのよれよれ度ぶりを見てしまったら、再結成など考えられっこないはずなのだ(いや、かんなもそう思ったんだったっけ)。ジミーのよれよれぶりは、どうやら昔の「少年メリケンサック」時代の大乱闘に起因しているらしく、でも、実は歩けなかったり呂律が回らないのは嘘だった(?)というような場面も入っていて、何が何だかわからなかったりする(障害者手当のちょろまかしか)。

作り手としては「農薬飲ませろ」が「ニューヨークマラソン」に聞こえてくれればしめたもので、この強引さが妙なテンションとなって映画を引っぱっていくのだが、その合間に昔のグループサウンズの映像(ちゃんとしたエピソードでもある)をぬけぬけと入れて、平気で水を差したりもする。かんな同様パンクなど特に好きじゃない私だが、こんなグループサウンズ映像を観せられると、グループサウンズのキモさが際立って(あーそうだった、って感じなんだもの)、パンクがマトモに、は見えないが、まだマシかも、とは思ってしまう。

さらに、かんなの恋人マー君(歌手志望なんである)の、グループサウンズに通じる綺麗なだけの虫酸の走る歌も、大いに水を差す。マー君の正体にかんなも気づいて(中年オヤジたちに気づかされて)、そいでマー君も浮気なんかしちゃうから、悪い人じゃないって書いてやろうと思っていたけど、やっぱりダメ人間だったのね。

で、最後にそのマー君は「少年メリケンサック」に引きずり込まれちゃう、って、えー何だぁ! もしかしてマー君って『デトロイト・メタル・シティ』の崇一(松山ケンイチ)だったとか。じゃあ何だ『少年メリケンサック』の実体は『デトロイト・メタル・シティ 序章』なのか、ってなわけはないのだけど。

馬鹿げた連想はともかく、マー君を引き込んでしまうのは、兄弟二人が腕を折っての代役ってこともあるのだけれど、だからアキオがのたまわっていた「嘘を上回る奇跡を起こ」したのかどうかはわからないのだが、でも無理矢理の二人羽織ギターまで飛び出して、「結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから」と安直な感動オチを予想をしてしまった私は、降参するしかないのだった。うん、降参(でも奇跡はないよ)。

それにしても宮崎あおいはすごかった。泣けるし、笑えるのは知ってたけど、啖呵も切れるのね。こんなハイテンションな芝居をして無理がないんだから。佐藤浩市もよかった。歳をとったらこうなるんだって卑猥なセリフをまき散らしては見事に居直ってた。前は苦手だったが、この人のことがだんだん好きになってきた気がする(ちょいやば)。

  

2008年 125分 ビスタサイズ 配給:東映

監督・脚本:宮藤官九郎 アニメーション監督:西見祥示郎 プロデューサー:岡田真、服部紹男 エグゼクティブプロデューサー:黒澤満 アソシエイトプロデューサー:長坂まき子 撮影:田中一成 美術:小泉博康 衣裳:伊賀大介 編集:掛須秀一 音楽:向井秀徳 音楽プロデューサー:津島玄一 スクリプター:長坂由起子 スタイリスト:伊賀大介 プロデューサー補:植竹良 メインテーマ:銀杏BOYZ『ニューヨーク・マラソン』 ラインプロデューサー:望月政雄 擬斗:二家本辰巳 照明:吉角荘介 装飾:肥沼和男 録音:林大輔 助監督:高橋正弥

出演:宮崎あおい(栗田かんな)、佐藤浩市(アキオ/少年メリケンサックBa.)、木村祐一(ハルオ/Gt.)、勝地涼(マサル/かんなの恋人)、ユースケ・サンタマリア
(時田/メイプルレコード社長)、田口トモロヲ(ジミー/Vo.)三宅弘城(ヤング/Dr.)、ピエール瀧(金子欣二)、峯田和伸[銀杏BOYZ](青春時代のジミー)、佐藤智仁(青春時代のアキオ)、波岡一喜(青春時代のハルオ)、石田法嗣(青春時代のヤング)、田辺誠一(TELYA)、哀川翔(かんなの父)、烏丸せつこ(美保)、犬塚弘(作並厳)、中村敦夫(TV局の司会者)、広岡由里子、池津祥子、児玉絹世、水崎綾女、細川徹、銀杏BOYZ[我孫子真哉、チン中村、村井守](少年アラモード)、SAKEROCK[星野源、田中馨、伊藤大地、浜野謙太]

旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■形にすると見えてくる

今だったら日本一有名かもしれない旭山動物園も、存続の危機が論議されたことがあったらしい。ありふれた地方動物園のひとつだったことは想像が付くが(といったら関係者は怒るだろうが)、毎年赤字を垂れ流す旭川市のお荷物で、エキノコックス症による閉園騒ぎや、ジェットコースターに頼ろうとした時期まであったという(最後の方で、動物園衰退の象徴だったジェットコースターは解体されてしまったと短く紹介されていた。賑わっている場面が入っていたから「衰退の象徴」というのはあんまりな気がするが)。

限られた予算でできることはあまりなく、冬期開園や夜間開園に、飼育係が解説者になるなどの地道な努力を続けるしかなかったようだ。新市長の誕生をチャンスと捉えた園長が新市長の説得に成功し、億という予算を回してもらったことで旭山動物園は変貌を遂げるのだが、予算獲得に比べたら見過ごしてしまいそうな、園長と飼育係たちが夜を徹して夢を語り合った日エピソードは、それに優るものがある。

たまたま飼育係の中に絵を描くのがうまい男(のちに絵本作家となる)がいたこともあって、みんなの語る夢をそれぞれ絵にし、それが職場に貼られるのだが、こんなふうに夢を、むろん絵に限らないが、具体的な形にしていくのは、とても大切なことだと気づかされるのである。形にしてみると、見えてくることって沢山あるものね。夢を夢のままにしておいても、なかなか実を結んでくれないんじゃないか。

動物の生態を間近に見せる動物園や体験型の動物園の試みは、旭山動物園の前にもいくつかあって、園長は日本各地を回ってそれをビデオに収め新市長に提言するのだが、これも形にして見せるということにつながる。最初は低い金額で釣っておいて、新市長がその気になったのをみて本当のことを言ったり(「でないと話を聞いてくれないでしょ」と)、園長はちゃっかりしたところをみせるのだが、立派なプレゼン術と言い換えるべきか。ま、結局は予算を獲得できるかどうかだったという、いじましい話にもなりかねないのだけど、対象が動物園ともなればいたしかたのない話で……。

映画は、現在の旭山動物園の紹介は最小限にとどめ(これは来園してもらった方がいいしね)、成功物語に焦点を当てている。ただし、数々あるエピソードは、実話がもとでも時間軸などは大幅にいじって適当に都合よくまとめてしまっているようだ。まあ、そのくらいしないと映画にはならなかったのかもしれないのだが。

とはいえ、人以外みんな好きという新入りの、過去のいじめの場面まで入れておいて、でも途中ではほぼ忘れたかのようで、最後になって園長が母親の手紙に触れるという演出だけは、あまり好きになれなかった。

もっとも彼の話から始めてはいても、主人公は彼だけではなく、飼育係の面々に園長だから、一人の人間に関わってもいられなかったのだろうが。飼育係同士の意地の張り合いもあれば、ゴリラの衰弱死(これもある飼育係が担当をはずれたことが原因だったようだ)やチンパンジーの妊娠中毒など、動物園をとりまく外的な問題以外にも、目の前の問題は当然いくつもあって、その配置はいい案配になっていたように思う。

マキノ雅彦は『次郎長三国志』は×だったが、『寝ずの番』とこれはまずまず。監督業も板に付いてきたのでこんな作品にも手をだしたのかもしれないが、わざわざ監督になったのだから、もっと自分の嗜好や主張のはっきりした作品に挑んでもらいたい。それと何にでも長門裕之を引っ張り出すのはやめてほしい。今回の飼育係は年寄りすぎだよね。

  

2009年 112分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督:マキノ雅彦 製作:井上泰一 プロデューサー:坂本忠久 プロデュース:鍋島壽夫 エグゼクティブプロデューサー:土川勉 製作総指揮:角川歴彦 原案:小菅正夫 脚本:輿水泰弘 撮影監督:加藤雄大 撮影:今津秀邦(動物撮影) 美術:小澤秀高 編集:田中愼二 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音楽プロデューサー:長崎行男 主題歌:谷村新司『夢になりたい』 照明:山川英明 製作統括:小畑良治、阿佐美弘恭 録音:阿部茂 監督補:石川久

出演:西田敏行(滝沢寛治/園長)、中村靖日(吉田強/獣医、飼育係)、前田愛(小川真琴/獣医、飼育係)、岸部一徳(柳原清之輔/飼育係)、柄本明(臼井逸郎/飼育係のち絵本作家)、長門裕之(韮崎啓介/飼育係)、六平直政(三谷照男/飼育係)、塩見三省(砥部源太/飼育係)、堀内敬子(池内早苗/動物園管理係)、平泉成(上杉甚兵衛/市長)、笹野高史(磯貝三郎/商工部長)、梶原善(三田村篤哉/市議会議員)、吹越満(動物愛護団体のリーダー)、萬田久子(平賀鳩子/新市長)、麿赤兒、春田純一、木下ほうか、でんでん、石田太郎、とよた真帆、天海祐希

ディファイアンス

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■生きるが勝ち

ナチスによる狂気のようなユダヤ人狩りから逃れた人々の実話。ユダヤ人レジスタンスとして有名なビエルスキ兄弟の活躍を描く。有名と書いたが、彼らのことがよく知られるようになったのは15年ほど前らしい。

予備知識なしで観たこともあるが、実は最初の10分は予告篇から寝ていて、その部分は次の回に、つまり最後になって観るという馬鹿げたことをやってしまったため、トゥヴィア、ズシュ、アザエルが兄弟(アーロンもか)だということが、しばらくわからずにいた。だってさ、似てないんだものトゥヴィアとズシュって(寝ちゃったのが悪いんだけどさ)。

映画は、娯楽作として割り切っても十分楽しめるが、歴史の知識があればさらに興味深く観ることが出来たと思われる。対ナチス(+その協力者)だけでなく、ズシュが入隊(?協力なのか)するソ連赤軍も何度か出てきて、ベラルーシの地理的背景が浮かび上がってくるのだが、自分の知識の無さがもどかしくなった。この地にはユダヤ人が多数住んでいたようだ。そのことはなんとなくわかる程度にしか描かれていないが、映画で説明するには複雑すぎるのだろう。

迫害される状況にあって協力して生きていかなければならないのに、とりあえずの平穏が得られると、情けないことにすぐさま別な形で不満を持つ者が現れるのは、どこでも同じだろうか。共同体における基本的な問題は、特に危機と隣り合わせというような状況にあっては指導者の力量にかかってくるが、トゥヴィアもズシュも、ただの農夫と商店主だったわけで、ごく普通の人間にすぎなかった。兄弟げんかは度々だし、トゥヴィアは激情にかられて両親の復讐に走る。相手は警察署長。彼の多分初めての人殺しは、相手の家族団欒の場に乗り込んでのことになる。

復讐を果たしたトゥヴィアだが、ズシュが結局はドイツ軍と闘う道を選ぶのとは対照的に、女や子供、老人たちを引き連れ、森の中で何とか生き抜く道をさぐることになる。はじめのうちこそ農家から食料を奪ったり、ドイツ軍への攻撃もズシュと共に繰り返していたが、犠牲者を出してしまったことで「生き残ることが復讐だ」「生きようとして死ぬのなら、それは人間らしい生き方だ」と思うようになっていく。

観たばかりのチェ2部作(『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』)が攻めのゲリラなら、こちらは守りのゲリラか。見かけも映画の質もかけ離れているが、直面する問題は変わらない。この作品の方が、親切でわかりやすいのは娯楽作を創ることを念頭に置いているからだろう。

わかりやすいということは具体的ということでもある。なにしろ大人数だから、森の中に村が出来上がっていくことになるのだが、そのあたりも物語の進行の中で、人物紹介を兼ねるように手際よく見せていく。未開の地を開拓したのだろうが、よくそんなことが可能だったと驚く(最初の地は逃げ出すことになるのだが)。女や老人にも役割分担が与えられる。みんなが働く必要があるのだ。木を伐りだし小屋を作ることから始めなければならないのだから。

が、まだ1941年のことで(解放までにはまだ3年以上もあるのだが、でももしかしたら彼らの誰もが、そんなに早く自由の身を取り戻せるとは思っていなかったかもしれない)、最初に迎える凍りつく冬に食料は底をつき、食料調達班の造反やトゥヴィア自身が病気になるなど、最大の危機がやってくる……。愛馬を殺して食料にし、造反したリーダーは有無を言わせず射殺してしまう。あっけにとられるくらいの、このトゥヴィアの行動は、しかし、ではどうすればよかったのかと問われると、何も言えなくなる。

内容が盛り沢山すぎて書いているとキリがなくなるので、いくつかを覚え書き程度にメモしておく。ゲットーからの集団脱出の手助け。兄弟それぞれの恋。ドイツ軍の攻撃を知って、沼地のような大河(国土の20%を占めるという湿原か?)を全員で渡る場面。トゥヴィアもさすがに躊躇するが、アザエルが成長した姿をみせる(あの泣いていたアザエルがだよ。ま、奥さんもらっちゃったしね)。なんとか渡りきったところに戦車が登場するなど、派手さこそないが、次々と見せ場がやってくる。ドンピシャのタイミングでズシュが助けに現れては(帰って来たのだ)、真実の物語にしては脚色しすぎなんだけど、許しちゃおう。

教師ハレッツとイザックの知的?コンビの会話もいいアクセントになっていた。このハレッツは「信仰を失いかけた」というようなことを度々口にしていた。「もう選民という光栄はお返しします」とも。そういうことにはならないのだけど、とりあえずそれだけは返してしまった方がよかったと私は思うんだが。

 

原題:Defiance

2008年 136分 アメリカ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック、ピーター・ジャン・ブルージ 製作総指揮:マーシャル・ハースコヴィッツ 原作:ネハマ・テク 脚本:クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:ダニエル・クレイグ(トゥヴィア・ビエルスキ)、リーヴ・シュレイバー(ズシュ・ビエルスキ)、ジェイミー・ベル(アザエル・ビエルスキ)、アレクサ・ダヴァロス(リルカ)、アラン・コーデュナー(ハレッツ/老教師)、マーク・フォイアスタイン(イザック)、トマス・アラナ(ベン・ジオン)、ジョディ・メイ(タマラ)、ケイト・フェイ(ロヴァ)、イド・ゴールドバーグ(イザック・シュルマン)、イーベン・ヤイレ(ベラ)、マーティン・ハンコック(ペレツ)、ラヴィル・イシアノフ(ヴィクトル・パンチェンコ/ソ連赤軍指揮官)、ジャセック・コーマン(コスチュク)、ジョージ・マッケイ(アーロン・ビエルスキ)、ジョンジョ・オニール(ラザール)、サム・スプルエル(アルカディ)、ミア・ワシコウスカ(ハイア)

チェ 39歳 別れの手紙

新宿ミラノ2 ★★★☆

■革命から遠く離れて

画面サイズがシネスコからビスタに替わったからというのではないはずだが(しかし、何で替えたんだろ)、続編にしては先の『チェ 28歳の革命』とは印象がずいぶん異なる映画だった。

「今世界の他の国々が私のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、私にはできる。別れの時が来たのだ。もし私が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向かうだろう、とりわけ君に。勝利に向かって常に前進せよ。祖国か死か。革命的情熱をもって君を抱擁する」というゲバラの手紙を、冒頭でカストロが紹介する。

それを流すテレビを左側から映した画面からは、Part Oneとそう違ったものには見えず、いやむしろそれに続くゲバラのボリビア潜入の変装があんまりで、安物スパイ映画を連想してしまった私など、逆に弛緩してしまったくらいだった。むろんゲバラにはそんな気持はさらさらなく、彼は相変わらずPart Oneの時と変わらぬ信念と革命的情熱を持って、ボリビアに潜入する。理想主義者のゲバラにとって、キューバでの成功に甘んじていることなど許されないのだろうが、実際に行動するのはたやすいことではないはずだ。成功者としての地位も安定した生活も捨て、家族とも別れて、なのだから。

それほどの決意で臨んだボリビアの地だが、どうしたことか、キューバではうまくいったことがここでは実を結んでくれない。親身になって少年の目を治療し、誠実に農民たちと向き合う姿勢は、あの輝かしいキューバ革命を成し遂げた過程と何ら変わっていないというのに。

最初は豊富にあったらしい資金もすぐに枯渇し、食料も満足に確保できず、体調を崩して自分までがお荷物になってしまう状況にもなる。組織が育っていかないから、ゲリラとして戦うというよりは、ただ逃げているだけのように見えてしまう。

実際、鉱夫がストに入ったというくらいしか、いいニュースは入ってこない。政府軍の方は捜索も念が入っていて、シャツからキューバ製のタグを見つけ出すし、アメリカの軍人らしき人物が「ボリビア兵を特殊部隊に変えてやろう」などと言う場面もある。キューバ革命に対する危機感が相当あったのだろう。「バティスタの最大の過ちはカストロを殺せる時に殺さなかったこと」というセリフもあった。ゲバラの捕獲に先立っては、ゲバラの別働隊を浅瀬で待ち伏せ、至近距離で狙い撃ち全滅させてしまう。この情報は、ラジオでゲバラも得るのだが「全滅などありえない」と信じようとしない。

居場所を知られるのを恐れ、ゲバラは己の存在を隠そうとし、バリエントス側はゲバラの影響力を恐れて、やはりその存在を隠そうとする。思惑は違うのに同じことを願っていて妙な気分になる。とはいえ観客という気楽な身分であっても、すでにそんなことを面白がってなどいられなくなっている。

結末はわかっていることなのに、ゲバラが追い詰められていく後半は胸が苦しくなった。農夫の密告というのがつらい。山一面の兵士に包囲されて、逃げなきゃ!と叫び声を上げそうになる。Part Oneでゲバラの姿がしっかり焼き付けられていたからだろう。Part Oneの最後にあった、陽気で明るい雰囲気まで思い返されるものだから、よけい切なさがつのってくる。雰囲気が違うというより、2部作が呼応しているからこそのやるせなさだろうか。

それにしても何故、キューバでできたことがボリビアではできなかったのか。そのことに映画はきちんと答えているわけではない。親ソ的なボリビア共産党と組めなかったことも大きな要因らしいが、ボリビアでは1952年にすでに革命があり1959年には農地解放も行われていた。革命は1964年に軍によるクーデターで終焉してしまうのだが、共産党とは対立が進みながらも、大統領になったレネ・バリエントスは民衆や農民にも一定の支持を得ていたようだ。が、そんな説明は一切ない。

足を撃たれたゲバラは捕虜になるが、射殺されてしまう。カメラはその時、ゲバラの目線に切り替わる。ゲバラに入り込まずにはいられなかったのかどうかはわかりようがないが、そう思いたくなった。ボリビア潜入後1年にも満たないうちに死体となったゲバラ。カメラはヘリが死体を運び出すまでを追う。村人が顔をそむけたのはヘリの巻き上げた砂埃であって、それ以外の理由などなかったろう。

無音のエンドロールには重苦しさが増幅される。といってこれ以外の終わり方も思い浮かばないのだが。

  


原題:Che Part Two Guerrila

2008年 133分 フランス/スペイン/アメリカ ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ 脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:アンチョン・ゴメス 衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、カルロス・バルデム(モイセス・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、ヨアキム・デ・アルメイダ(バリエントス大統領)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、フランカ・ポテンテ(タニア)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ルー・ダイアモンド・フィリップス(マリオ・モンヘ)、マット・デイモン、カリル・メンデス、ホルヘ・ペルゴリア、ルーベン・オチャンディアーノ、エドゥアルド・フェルナンデス、アントニオ・デ・ラ・トレ

2008年度カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞

ララピポ

新宿ミラノ2 ★★

■目指せ!下半身目線人間図鑑

一生地べたに這いつくばって生きる人間とそこから逃げだし高く高く登りつめる人間、セックスするヤツとそれを見るヤツ、平和をけがすゴミどもと平和を守る正義の使者、100万人に愛される人間と誰にも愛されない人間、と冒頭からくどいくらいに「この世界には2種類の人間しかいない」と繰り返すのだが、映画は、比較にこだわるのではなく、這い上がられずにいる方の人間たちに、下半身目線で焦点を当てた作品のようである。

スカウトマンの栗野健治は、デパート店員のトモコを言葉巧みにキャバクラの仕事に誘いヒモ生活に入る。

栗野の部屋の真下に住むフリーライターの杉山博は、長い間女性に縁がなく、自分の分身(ぬいぐるみ劇をされてもですねー)と不毛な対話を重ねる毎日だったが、ロリータファッションに身を包んだアニメ声優志望の玉木小百合と、「似たもの同士」のセックスをする。もっとも、「似たもの同士」は杉山の感想で、このセックスは隠し撮りを副業にしている小百合によって、デブ専の裏DVD屋に並ぶことになる。

カラオケボックス店員の青柳光一は、正義の味方となって悪(=エロ)と戦う妄想を膨らませるが、実体は近所の若妻の覗き見に励む、つまり悪とは到底戦えない情けないヤツで、カラオケボックスすらやくざに凄まれて、彼らのセックス拠点になってしまう。

普通に主婦業をこなしていたはずの佐藤良枝だが、気づいたらゴミ屋敷の主となっていた。キャバクラからソープ嬢と栗野の言うままに、でもそれほどの抵抗もなく転落?の道をたどってきたトモコがAV出演のため現場に出向くと、実の母の良枝が母親役で、2人は他人のふりを通したまま撮影にのぞむことにする。

青柳の放火現場を目撃した良枝は、ゴミ屋敷へも放火をしてくれと青柳を脅迫するが、夫が中で寝ていることを思い出し、火の中に飛び込んでいく。

映画の最後の方で、a lot of peopleが、ネイティブの発音だとララピポになるという種明かしがあってのこの内容で(栗野をはじめとした主な登場人物のそれぞれの年齢、名前、職業、年収が字幕で出てくる)、確かに出てくる人間が雑多なだけでなく、作りもポップでごちゃ混ぜ的だからa lot of peopleという感じはするのだが、でもどれもが中途半端で、誰にも感情移入できないとなると少々つらいものがある。

栗野とトモコの関係が恋になりそうな部分や、最後にはトモコがAV女優として大ブレークしたり、良枝が夫と共に病院のベッドにいる場面(助かったのね)などがあって、小さな幸せオチをつけてはいるのだが、それだけでは伝わってくるものがない。

『ララピポ』と題名で見得を切ったのだから、この調子で10本でも20本でも続編を作って、映画人間図鑑を目指してみたらどうだろう。そこまで撮り続けたら、もしかしたらとんでもない傑作が出来上がってしまいそうな気もするが、今のままだと『ララピポin歌舞伎町』(実際は渋谷のようだ)にすぎないでしょ。

それとも、この類型の中にあなたは絶対いるはず、とでも作者は言いたいのだろうか。そういえばトモコに入れあげていた区役所勤めの男とかもいたよな、ってあいつが私と認めたわけではないが、そこまで言われてしまうと、映画のどこかに自分がいたような気分にもならなくもないのだが……。

  

2008年 94分 ビスタサイズ 配給:日活 R-15

監督:宮野雅之 製作:佐藤直樹、水上晴司 プロデューサー:石田雄治、鈴木ゆたか、松本肇 原作:奥田英朗『ララピポ』 脚本:中島哲也 撮影:尾澤篤史 音楽:笹本安詞 音楽監修:近田春夫 主題歌:AI『people in the World』

出演:成宮寛貴(栗野健治)、村上知子(玉木小百合)、中村ゆり(佐藤トモコ)、吉村崇(青柳光一)、皆川猿時(杉山博)、濱田マリ(佐藤良枝)、松本さゆき、中村有志、大西ライオン、杉作J太郎、坂本あきら、インリン・オブ・ジョイトイ、林家ペー、林家パー子、佐田正樹、蛭子能収、山口香緒里、渡辺哲、森下能幸、勝谷誠彦、チャド・マレーン

悲夢

2009/2/14 新宿武蔵野館3 ★★☆

キム・ギドク、オダギリージョー、イ・ヨナンのサイン(監督のサインはこれだと切れちゃってますが)『悲夢』ポスター

■パズルとしては面白そうだが

ジンという男の見る夢が、ランという見ず知らずの女を夢遊病という行動に走らせるという、まあくだらない話。

くだらないのは設定だけじゃない。自分が眠ってしまうことでランに犯罪を起こさせてしまうことを知ったジンが、何とか眠らないように努力をするのだけれど、努力したってもねー。ランが殺人事件を起こしたあとには「もう絶対眠りません」とまで言っていたジンだけど、そしてそれはランを好きになったからにしても、幼稚すぎて失笑するしかないではないか。目を見開いたり、テープを貼り付けたりはコメディレベルだけど、頭に針や彫刻刀を刺したり、足をカナヅチで叩いたりは異常者でしょうが。

ジンは印鑑屋(芸術家?)で、ランは洋裁(デザイナー?)で食っているらしいから、もともと無関係な2人が時間帯をずらすのは(どちらかが昼夜を逆にすれば)そう難しいことではないはずなのに、眠るのを我慢しようとしたり(交替で寝ようとはしていたが、同じ時間帯でやろうってたってさ)、手錠を嵌めてランの行動を制限しようとするのだけれど、手錠の鍵を隠そうともしないから(何これ)、取り返しのつかないことになってしまう。

そんな細かいことに一々目くじら立てなさんな、とキム・ギドクは言いたいのだろう。なにしろオダギリジョーは最初から最後まで日本語のセリフで通してしまうし、もちろん劇中でそんなことに驚くヤツなど誰もいない、韓国が舞台でも日本語の通じてしてしまう映画なのだ。

あんまりな話(くだらなさには目をつむってもこの評価はかえようがない)ということを別にすれば、ジンの夢とランの現実という構造はなかなか興味深いものがある。ジンは別れた恋人が忘れられない。それが夢となって結実すると、眠りに中にいるランを夢遊病者に仕立て、別れた恋人に引き合わせることになる。ランは別れた恋人をものすごく嫌っているというのに。

ジンの元恋人は男が出来てジンをふったらしいのだが、その男というのはランがふった男で、つまりジンとランの元恋人同士が恋人という(ああややこしい)、入れ子のような関係になっているわけだ。最初に無関係な2人と書いてしまったが、ジンの夢で繋がっているだけでなく、現実でも間に1人置くようにして2人は繋がっているのである。

この4人が葦原にいる場面では、奇妙さよりも胸苦しさを覚えてしまう。思いは伝わらずねじれたように4人を行き来する。はじめこそ第三者のようにしていたジンとランだが、それぞれ影のように存在する同性に自分の姿を見てしまうのか、互いにその同性を慰めたりする。が、考え出すとこの場面はわからなくなる(これも夢なのか)。

なるほど映画の早い段階で女精神科医が言っていたように、ジンの幸せはランの不幸で、「2人は1人」なのだから「2人が愛し合えば」解決することなのかもしれない(白黒同色という言葉が出てくる。ジンがこの言葉を刻印している場面もあったし、タイトルの「悲夢」も印影が使われていた。そういえば、ジンは印面に鏡文字を直接描いていたが?)。

結局、ジンはランに対する責任感もあって彼女のためにいろいろ手を尽くし、それが好意に変わっていったのだろう。ランの方も、最初こそ自分の置かれている状況が理解出来ないでいたが、自分に代わって罪まで負おうとするジンの姿勢に、最後は「どんな夢でも恨まない」と彼に言う。

結ばれる運命にあった2人という話の流れがあっての結末なのかも知れないが、ジンの夢は恋人が忘れられないくらい思い詰めているから見たものだし、これでは辻褄が合わなくないか。それに何故、恨まないと言われたのにジンは自殺しなければならなかったのか。それとも、これもやはりジンのランに対する愛(夢で人を操作することの嫌悪も含まれた)と解すればいいのか。

パズルとしての面白さはそこここにあって、蝶のペンダントの役割なども考えていけば、もう少しは何かが見えてきそうな気もするのだが(ただ胡蝶の夢を表しているだけなのかも)、これもそこここにあるくだらなさが邪魔をして、何が何でもパズルを解いてやろうという気分には至らない。ジンの仕事場、町の佇まいやお寺など、撮影場所は魅力的だったのだが……。

原題:悲夢 ・・ェス 英題:Dream

2008年 93分 韓国/日本 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム PG-12 日本語字幕:●

監督・脚本:キム・ギドク 撮影:キム・ギテ 照明:カン・ヨンチャン 音楽:ジ・バーク

出演:オダギリジョー(ジン)、イ・ナヨン(イ・ラン)、パク・チア(ジンの元恋人)、キム・テヒョン(ランの元恋人)、チャン・ミヒ(医師)、イ・ジュソク(交通係調書警官)、ハン・ギジュン(強力係調書警官)、イ・ホヨン(現場警官1)、キム・ミンス(現場警官2)、ファン・ドヨン(警官1)、ヨム・チョロ(警官2)、ソ・ジウォン(タクシー運転手)

誰も守ってくれない

109シネマズ木場シアター4 ★★★☆

■「守ってくれない」と嘆くのではなく「守れ」というのだが

被害者やその家族でもなく、容疑者本人でもなく、無関係なはず(厳密にはそうは言えないが)の容疑者の家族が、容疑者の家族になってしまったことでどういう状況に追い込まれるのかという、あまり目が付けられていない分野に踏み込んだ意欲作である。同じ題材で『手紙』(2006)という作品があったが、『手紙』が長い期間を扱っているのに対し、こちらは事件直後という緊迫した時間に焦点を当てている。

18歳の長男が殺人事件の容疑者(小学生姉妹の殺害犯)として捕まったことで、船村家の生活は一変する。状況を把握する間もなく、両親と15歳の娘の沙織は、3人別々に保護すると警察に言いわたされる。

「犯罪者の家族の保護については、警察は公には認めていない」と映画の中でも言っていたし、この仕事を与えられた勝浦刑事も「それって一体何ですか」と上司に聞き返していたくらいで、でもちゃんと保護マニュアルのようなものは出来ていて、それに従って3人は名前を変えられ(両親を離婚させ、籍を母親の方に入れ直す)、沙織には就学義務免除の手続きが取られる。

学校に行けなくなる理由さえ理解出来ずにいる沙織を、報道陣に取り囲まれ騒然とした家から連れ出す勝浦だが、用意してあったホテルも彼らにすぐ嗅ぎつかれてしまう。保護マニュアルの強引さには頭をひねりたくなるし、何故当日から3人を別々にしなければならないのかがよくわからないのだが(容疑者の兄を庇われたら困るという警察の都合もありそうだ。当然とはいえ沙織からも供述は取ろうとしていたから、保護だけが目的ではないのかも)、たたみかけるような展開は、観客をもただならぬ臨場感の中に引き込んでいく。

このあと女精神科医の登場といういささか謎めいた設定が息抜きとなっているが(ただでさえ不安がっている沙織になかなか正体を告げない精神科医ってーのもなぁ)、これは勝浦の相棒を松田龍平にし「背筋が凍る」関係にしたあたりでもわかるように、君塚良一の趣味またはサービス精神なのだろう。

このサービス精神が、精神科医のもとからさらに勝浦とはワケありのペンションへと舞台を移させたのだろうか(もちろん逃げ出さずにいられなかったというようにはなっている)。ペンションの経営者本庄夫妻は、3年前に勝浦の捜査ミスで、子供を失っている。別の事件ながら、被害者の家族という沙織とは対極にある人物を登場させることによって、沙織の置かれた立場を、簡単に同情するだけでいいのかと、もう一度観客に最初から考えることを促そうとする。

「ウチの子は守ってくれなかったのに、犯人の子は守るんですか」(注1)「あんたには被害者の家族も加害者の家族も同じ。本当はあんたの顔も見たくないんだ!」という本庄圭介の勝浦への怒りはわからなくもないが、だったら最初から受け入れるなと言いたくなるし(言い過ぎたと次の日頭をさげていたが)、勝浦が、この事件が起こらなくても妻と娘とでこのペンションに来ようとしていたという件には首をかしげたくなった。贖罪のつもりなのだろうか。それとも「まだギリギリ繋がっている」家族に、本城夫妻を対面させて自分の立場をわかってもらおうとでも思ったのか(だったらちょっとなぁ)。

勝浦はその事件で、上司の命令に従っただけなのに停職処分になったというし、もちろん彼が悔やんでも悔やみきれずにいるのはわかるのだが、そのことで梅本記者に問い詰められたり、個人的な新聞ネタにまでなっていたとしては、大げさになる。

今回の事件については、発覚当初からネットでの格好の餌食になっていたが、それはますますエスカレートし、言葉だけにしても容赦のない憎悪をつのらせていた。そして何故か書き込みは、容疑者の身元から沙織や勝浦のことにまで及び、誰も知らないはずの居場所(ペンション)まで公開されてしまう。情報が沙織のケータイから漏れていたというのは、盲点だし伏線(注2)のしっかりしたいいアイデアなのだが、彼女の情報をばらまくことでネットのカリスマになろうとした達郎が、のこのことペンションまでやって来ては台無しではないか。

情報が漏れてしまったのは偶然の連鎖とでもし、生映像実況中継も別なグループ脅かされて、くらいの救い(これは沙織にとっての救いにもなるし、って甘いか)はあってもいいような気がする(ないようにしたいのだろうが)。表だった行動のできない匿名性を隠れ蓑にしたネットの住人にしてはやりすぎな気がするが、役割分担であればこういう状況もないとはいえまい。ペンションのまわりに亡霊のように何人も立っている場面も同様で、この野次馬は、まるで亡霊のようにケータイやビデオカメラを向けたネット族的なイメージにするのではなく、どこにでもいる一般人にした方がかえって説得力が出たのではないか。

ついどうでもいいことを書きすぎたが、海岸で勝浦が沙織に、「お兄さんを守ろうとした」ように「これからも君が家族を守るんだ」と言い聞かせる重要な場面も、実はあまり頷くことが出来なかった。「お兄さんを守ろうとした」というのは、兄(容疑者)が父に勉強ばかりやらされて苦しんでいたと沙織が語ったことを、つまり兄の心境を察していることを踏まえて勝浦が言うのだが、「家族を守る」という言葉に対しては、沙織は「お父さんに会いたくない」と反応していて(父は成績の落ちた兄をぶったのだという)、それはそれで仕方のないことではないかと思ってしまう。

「罪を犯しても家族」と言われても、家族意識の希薄な私には受け入れがたいところがある。「誰かを守るということは、その人の痛みを感じること」で、「人の痛みを感じることはつらいが、生きていくということはそういうこと」なのだから目をそらしてはいけないと言っているのだろうか(勝浦は「生きるんだ」と言って母親が自殺した時に手にしていた家族の集合写真を渡し、沙織を引き寄せて頭を抱く)。

そうするのがきっと正しいのだろう。そういう確信(解決方法とは思っていないにしても)が持てる勝浦だからこそ、本庄夫妻のペンションに家族で行く予約を入れていたのだろう。本庄夫妻とも自分の妻と娘とも、きちんと向き合おうとして。理屈はそうなのだけれど、そして勝浦が自分の家族のことは、結果はどうあれそうしなければならないにしても、本庄夫妻のことからは離れてしまった方が(忘れることはできなくても)いいように思うのだが……。

なじめないところは多々あるのだが、力作、なのは間違いない。

注1:母親の自殺を、勝浦からではなく同級生の達郎からきいた沙織にしてみれば、勝浦が自分を守ってくれているという認識などこの時はなかったと思われる(もちろん本庄圭介にはそんなことは関係のないことである)。

注2:女精神科医のところにいた時「見られたら恥ずかしくて死ぬ」という沙織の言葉で、勝浦はわざわざ家宅捜索中の家に戻り、彼女の(充電中にしてあった)ケータイを取ってきてやっていた。

 

2008年 118分 ビスタサイズ 配給:東宝

第32回モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞

監督:君塚良一 製作:亀山千広 プロデューサー:臼井裕詞、種田義彦 アソシエイトプロデューサー:宮川朋之 脚本:君塚良一、鈴木智 撮影:栢野直樹 美術:山口修 編集:穂垣順之助 音楽:村松崇継 主題歌:リベラ『あなたがいるから』 VFXディレクター:山本雅之 ラインプロデューサー:古郡真也 音響効果:柴崎憲治 照明:磯野雅宏 製作統括:杉田成道、島谷能成 装飾:平井浩一 録音:柿澤潔 監督補:杉山泰一

出演:佐藤浩市(勝浦卓美)、志田未来(船村沙織)、松田龍平(三島省吾/勝浦の同僚)、木村佳乃(尾上令子)、柳葉敏郎(本庄圭介/ペンション経営者)、石田ゆり子(本庄久美子)、佐々木蔵之介(梅本孝治/記者)、佐野史郎(坂本一郎)、津田寛治(稲垣浩一)、東貴博(佐山惇)、冨浦智嗣(園部達郎/沙織の同級生)、須永慶、掛田誠、水谷あつし、伊藤高史、浅見小四郎、井筒太一、渡辺航、佐藤裕、大河内浩、佐藤恒治、長野里美、野元学二、菅原大吉、西牟田恵、平野早香、平手舞、須永祐介、山根和馬、浮田久重、柄本時生、ムロツヨシ、青木忠宏、渡仲裕蔵、阿部六郎、積圭祐

感染列島

109シネマズ木場シアター4 ★★☆

■欲張りウイルス感染映画

正体不明のウイルスが日本を襲うという、タイムリーかついくらでも面白くなりそうな題材(そういえば篠田節子に『夏の災厄』というすごい小説があった)を、あれもこれもと都合優先でいじくりまわしてはダメにしてしまった、欲張り困ったちゃん映画だろうか。

まず冒頭のフィリピンで発症した鳥インフルエンザが、何故そこでは拡散せず(ウイルスが飛散する映像まで映しておいてだよ)、3ヵ月後の日本で大流行となったのかがわかりにくい(これとは関係ないようなことも言っていたし?)。新型ではないのに正体不明という言い方も素人にはさっぱりだ(映画なのだからもう少し丁寧に説明してほしいものだ)。

正体不明だからこそ、謎めいた鈴木という研究者によって、ようやくそのウイルスが解明されるわけで(新型ではないのね? しつこいけどよくわからないんだもの)、でも治療法は、結局栄子の死を賭けた血清療法が効を奏すのだが彼女は死んでしまう、って正体と治療法は別物とはいえ、映画としての歯切れは悪いし、すでに何万人にも死者を出している状態なのだから、この方法はもっと早い時期に試していてもよさそうで、これでは、悲壮感+栄子の見せ場作り、と言われても仕方ないだろう。

救命救急医の松岡が誤診?で患者(真鍋麻美の夫)を死なせてしまうことからWHOから松岡の旧知の小林栄子がメディカルオフィサー(って何だ)としてやってくるあたりは、映画としての許容範囲でも、あっという間に蔓延したウイルスが、病院を混乱に陥れ、都市機能まで麻痺させてしまうのに、松岡は治療を放り出して、仁志という学者と一緒にウイルス探しで海外に、ってあんまりではないか。

戦場と化したはずの病院が、いつまでたっても整然としていたりもする。ノイローゼになる医師は出てきても憔悴しているようにはみえないし、後半になっても朝礼のようなことをしている余裕さえあるのだ。発症源の医師(真鍋麻美の父)の行動はあまりにも無自覚で(発症後またアボンという架空の国連未加入国へ帰っている。一般人ならともかく医師なのに!?)、それはともかく彼がウイルスを持ち込んだのなら、そもそも日本にだけで病気が広まったことだっておかしなことになってしまう。医師の松岡たちも本気で感染対策をしているようには見えないし、書き出すときりがなくなるほどだ。

思いつくまま疑問点を羅列したため、話があっちこっちになっているが、私の話がそうなってしまうのも、この映画がいかに欲張っているかということの証だろう。『感染列島』と題名で大風呂敷を広げてしまったからかしらね。確かに荒廃した銀座通りなどのCGがいくつか出てくるし、1000万人が感染し300万人が死亡などという字幕に、何故日本だけが、みたいなことまで叫ばれるのだが、結局はそれだけなのである。だったら視点は松岡に限定し、場所も医療現場だけにとどめておけばよかったのだ(ついでに言うならウイルスの正体だって不明のままだってよかった)。

そうであったなら、松岡と栄子の昔の恋ももう少し素直に観ることができたかもしれない。この場面は、そうけなしたものではないしね。とはいえ、付けたしとはいえ松岡が最後は無医村で働いている場面まであっては、結局ただの美男美女映画が作れればそれでよかったのかと納得するしかないのだが。

 

2008年 138分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:瀬々敬久 プロデューサー:平野隆 企画:下田淳行 脚本:瀬々敬久 撮影:斉藤幸一 美術:中川理仁 美術監督:金勝浩一 編集:川瀬功 音楽:安川午朗 主題歌:レミオロメン『夢の蕾』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:江口由紀子 ラインプロデューサー:及川義幸 共同プロデューサー:青木真樹、辻本珠子、武田吉孝 照明:豊見山明長 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國

出演:妻夫木聡(松岡剛)、檀れい(小林栄子)、国仲涼子(三田多佳子/看護師)、田中裕二(三田英輔)、池脇千鶴(真鍋麻美)、佐藤浩市(安藤一馬)、藤竜也(仁志稔)、カンニング竹山(鈴木浩介)、光石研(神倉章介)、キムラ緑子(池畑実和)、嶋田久作(立花修治/真鍋麻美の父)、金田明夫(高山良三)、正名僕蔵(田村道草)、ダンテ・カーヴァー(クラウス・デビッド)、小松彩夏(柏村杏子)、三浦アキフミ(小森幹夫)、夏緒(神倉茜)、太賀(本橋研一)、宮川一朗太、馬渕英俚可(鈴木蘭子)、田山涼成、三浦浩一、武野功雄、仁藤優子、久ヶ沢徹、佐藤恒治、松本春姫、山中敦史、山中聡、山本東、吉川美代子、山中秀樹、下元史朗、諏訪太朗、梅田宏、山梨ハナ

チェ 28歳の革命

テアトルダイヤ ★★★☆

■革命が身近だった時代

貧しい人たちのために革命に目覚めたゲバラが、メキシコで出会ったカストロに共感し、共にキューバへ渡り(1956)、親米政権でもあったバティスタ独裁政権と戦うことになる。大筋だけ書くと1958年のサンタ・クララ攻略(解放か)までを描いた「戦争映画」になってしまうが、エンターテイメント的要素は、最後の方にある列車転覆場面くらいしかない。全体の印象がおそろしく地味なのは、舞台のほとんどが山間部や農村でのゲリラ戦で、余計な説明を排したドキュメンタリータッチということもある。

これではあまりに単調と思ったのか、革命成就後にゲバラが国連でおこなった演説(1964)や彼へのインタビュー風景が、進行形の画面に何度も挟まれる。この映像は結果として、ゲバラの演説内容と、彼がしているゲリラ戦の間には何の齟齬もないし、ゲリラ戦の結果故の演説なのだ、とでも言っているかのようである。もっとも、この演説部分の言葉を取り出そうとすると、映画という特性もあって意外と頭に残っていないことに気づく(私の頭が悪いだけか)。

けれど、農民に直接語りかけていたゲバラの姿は、しっかり焼き付けられていく。英雄としてのゲバラではなく、彼の誠実さや弱者への視点を、つぎはぎ編集ながら、着実に積み上げているからだろう。これがゲバラの姿に重なる。こんなだからゲバラの腕の負傷も、映画は事件にはしない。まるで、事実が確認出来ていないことは映像にしない、というような制作姿勢であるかのようだ(実際のことは知らない)。

戦いは都市部に展開し(当時の状況や地理的な説明もないから、この流れ自体はやはりわかりずらい)、いろいろな勢力と共闘することも増えていく。当初から裏切り(処刑で対処する非情さもみせる)や脱落もあるのだが、常にそれ以上に人が集まってきていたのだろう。ゲバラが主導者であり続けたのは先に書いたことで十分頷けるのだが、キューバにはそれを受け入れる大きな流れがあったのだ。

革命は、それを望んでいる人々がいて、初めて成就するのだ、ということがこの映画でも実感できる(金融危機によって格差社会がさらに推し進められ、『蟹工船』がもてはやされている日本だが、今革命が起きる状況など、やはり考えられない。比較するような話ではないが)。

映画としての華やかなお楽しみは(ささやかだけど)、ゲバラの後の妻となるアレイダとのやりとり(ゲバラがはしゃいでいるように見える)と、ハバナ進軍中に「たとえ敵兵のものでも返してこい」と、オープンカーに乗った同士をゲバラが諫める場面か。ゲバラのどこまでも正しい発言には逆らえず、しぶしぶ車をUターンさせることになる。この最後の場面、勝利を手中にして、画面の雰囲気や色調までがやけに明るいのである。

PS 今日は何故か『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』に続いて革命映画?2本立てとなった。向こうは1955年のアメリカで、「レボリューショナリー・ロード」という名前の通りがあったという設定(実際にも?)だ。この年はゲバラがメキシコでカストロと出会った年でもある。Revolutionという言葉は、米国ではどんなイメージなのか、ちょっと気になる。

原題:Che Part One The Argentine

2008年 132分 アメリカ/フランス/スペイン シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス プロダクションエグゼクティブ:アンチョン・ゴメス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、サンティアゴ・カブレラ(カミロ・シエンフエゴス)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、ジュリア・オーモンド(リサ・ハワード)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)