天国は待ってくれる

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★☆

■聖なる三角形は正三角形にあらず

宏樹が築地北小学校に転校してきた日から、薫と武志の3人は大の仲良しになった。それは成人しても変わらず、今では宏樹(井ノ原快彦)は父親の夢だった新聞記者になって朝日新聞社に勤め、武志(清木場俊介)は親(蟹江敬三)と一緒に築地市場で働く。そして薫(岡本綾)は「聖なる三角形」になるようにと「銀座のお姉さん」として和文具の老舗鳩居堂の店員になっていた。

「聖なる三角形」というのは、自分たちのことをいつまでも変わらない関係を指して彼らが小学生の時から言っていた言葉だ。だけど、といきなり脱線してしまうのだが、朝日新聞社と築地市場と鳩居堂では三角形には違いない(3点を結べばたいていは三角形になるものね)が、これだと薫の位置は2人からは遠くなり、そして薫からだと武志より宏樹の方が近い位置になってしまうのである(築地市場は広いのでブレはあるが、それにしても本願寺あたりでないとまずいだろう)。

映画はこの三角形のゆがみそのままに展開する。至近距離で働く3人だが、といって子供時代のようにそうは会えるわけではない。特に武志は働く時間帯が2人とはあまりに違いすぎて、久しぶりに3人で出かけても居眠りしてしまう始末。それでかどうか、ある日宏樹と薫を呼び出しておいて、3人の時に言いたかったと前置きし、薫にプロポーズをする。この場面は「宏樹、俺、今から薫にプロポーズする、いいか」というようになっている。つまり、武志は宏樹に向かって薫にプロポーズするというわけだ。

武志より宏樹がより好きな(より近くにいるからね)薫はあわてて「ちょっと武志なに言ってんの」とごまかそうとするが、優しい宏樹は「いいじゃん、それがいいよ、おまえらお似合いだし、な薫」と答えてしまい、つられたように薫までが「そ、そうだね」と言ってしまうのだ。いや、ちょちょっと待ってくれと当事者でなくとも口を挟みたく場面なのだが、武志は1人で舞い上がって冬の海(まだ川か)に飛び込んでしまう。え、これでごまかそうってか。

結局このまま結婚へと進んでいくのだが、なんと式の当日に武志は車の事故で植物人間となってしまう。武志の入院先は聖路加なのだろう(多分)、つまり武志が築地市場から移動することで、三角形は以前に比べより正三角形に修正されるのである。武志に意識は戻らないながら、2人は毎日のように病室に顔を出し、3人の親密な時間が帰ってくる。これには宏樹が記者から内勤の仕事に代わって、武志との時間を作るようにした(しつこいが、眠ってるだけなんだよな)ということもあるのだが、私にはすっきりしない展開だ。しかも「武志は絶対目を覚ますから」と何度も言う。気持ちはわからなくはないが、このセリフは全てを台無しにしている。

昏睡状態は3年経っても変わらず、実は周囲も宏樹と薫が相思相愛だということに気付いていたことから、宏樹も薫と一緒になることを決意する。でもこれもヘンなセリフなのだな。「俺に薫を幸せにさせてくれないか。武志の目覚めるまででいいから」って、こんなのありかよ。で、そんな馬鹿なことを言うものだから、武志は本当に目覚めてしまうのだ。おいおい。

記憶は完全ではないものの元気そうに見えた武志だが、病気が再発し……。そしてまた宏樹と薫を呼び、今度はこんなことを言う。「宏樹、薫を不幸にしたら承知しねえぞ。薫、おまえはずっと宏樹に惚れてたんだ。好きな女のことはわかるんだ」と。だったら何故プロポーズなんかしたんでしょうかねー。自分がもう永くはないということを知ってだとしたら、それもちょっとね。

こうして2人の結婚式が見たいという武志の要望で、式がとりおこなわれ、武志は天国に帰って?いく。俺と薫のために天国から戻ってきてくれたというようなことを宏樹が言っていたからそうなのだろうけど、なんだかな。『天国は待ってくれる』ってそういうことなのかよ。でも、そう言われてもよくわからんぞ。

丁寧すぎるくらいのショットの積み重ねで、ゆっくりと時間がすぎていく感じが、最初のうちは好感がもてたのだが、話があまりにもいい加減だから、途中からは退屈してしまう(築地市場の映像がそれこそ何度も繰り返されるが、これは市場の移転が決まっているからなのだろう)。

3人を囲む家族たちが、薫の母親(いしだあゆみ)や武志の妹の美奈子(戸田恵梨香)など、みな温かくていい人というのも気持ちが悪い。そのくせ病室をサロンと化してしまうような勘違い精神は持ち合わせていて、酒宴まで開いて医師(石黒賢)に酒まですすめる始末。この医師も武志が「戻って来たのは自分の意志ではないか」などと、言うことは(自覚しているのだが)まるで呪術師並ときている。

やだね、悪口ばっか書いて。でもそもそも、三角形の位置関係についてこじつけてあれこれ書いたのも、この作品がひどいからなんでした(私が多少あの近辺には詳しいということもあるのだけれど)。

  

2007年 105分 サイズ■ 

監督:土岐善將 製作:宇野康秀、松本輝起、気賀純夫 プロデューサー:森谷晁育、杉浦敬、熊谷浩二、五郎丸弘二 エグゼクティブプロデューサー:高野力、鈴木尚、緒方基男 企画:小滝祥平、遠谷信幸 製作エグゼクティブ:依田巽 原作:岡田惠和『天国は待ってくれる』 脚本:岡田惠和 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:奥原好幸 音楽:野澤孝智 主題歌:井ノ原快彦『春を待とう』、清木場俊介『天国は待ってくれる』 照明:赤津淳一 録音:小野寺修 助監督:田村浩太朗

出演:井ノ原快彦(宏樹)、岡本綾(薫)、清木場俊介(武志)、石黒賢(医師)、戸田恵梨香(美奈子/武志の妹)、蟹江敬三(武志の父)、いしだあゆみ(薫の母)、中村育ニ、佐々木勝彦

筆子・その愛-天使のピアノ

テアトル新宿 ★☆

■石井筆子入門映画

男爵渡邉清(加藤剛)の長女として育った筆子(常盤貴子)は、ヨーロッパ留学の経験もあり、鹿鳴館の華といわれるような充足した青春を過ごす。教育者として女性の地位向上に力を注ぐが、男どもは今の国に必要なのは軍隊といって憚らない富国強兵の時代だった。

高級官吏小鹿島果(細見大輔)と結婚し子を授かるが、さち子は知的障害者だった(子供は3人だが、2人は虚弱でまもなく死んだという)。「たとえ白痴だとしても恥と思わない」と言ってくれるような夫の果だったが35歳で亡くなってしまう。

石井亮一(市川笑也)が主宰していた滝乃川学園にさち子を預けたことで、次第に彼の人格に惹かれるようになり、周囲の反対を押し切って再婚。ここから2人3脚の知的障害者事業がはじまることになる。

石井筆子を知る入門映画として観るのであれば、これでもいいのかもしれない(詳しくないのでどこまでが事実なのかはわからない)が、映画としてははなはだ面白くないデキである。筆子を生涯に渡って支えることになる渡邉家の使用人サト(渡辺梓)や、後に改心する人買いの男(小倉一郎)などを配したり、石井亮一との結婚騒動(古い考えの父親とサトとの対決も)などでアクセントをつけてはいるが、所詮網羅的で、年譜を追っているだけという印象だ。

辛口になるが、常盤貴子の演技も冴えない。面白くないことがあると(この時は亮一と衝突して)鰹節を削ってストレスを発散させるのだが、この場面くらいしか見せ場がなかった。ついでながら、ヘタなズームの目立つ撮影も平凡だ。

副題の天使のピアノにしても、最初と最後には出てくるが、劇中では筆子の結婚祝いという説明があるだけで、特別な挿話が用意されているわけではないので意味不明になっている。

当時の知的障害者に対する一般認識は、隔離するか放置するかで、縛られたり座敷牢に入れられて一生を過ごすということも普通だったようだ。映画でもそのことに触れていて、さらに「一家のやっかいものだが、女は年が経てば……」と踏み込んでみせるが、それもそこまで。実際の知的障害者の出演もあるが、その扱いも中途半端な気がしてしまうのは、考え過ぎか。

亮一の死後(1937年没)、高齢ながら学園長になった筆子だが、1944年に82歳で没するまで、晩年は何かと不遇の時期を過ごしたようだ。戦時下では、戦地に行き英霊になって帰ってきた園児もいたし、そのくせ「知恵遅れには配給は回せない」と圧力がかかり何人もの餓死者が出たというのだが、1番描いてほしかったこの部分が駆け足だったのは残念でならない。

【メモ】

石井筆子(1865年5月10日~1944年1月24日)。

真杉章文『天使のピアノ 石井筆子の生涯』(2000年ISBN:4-944237-02-2)という書籍があるが、原作ではないらしい。

何故か同じ2006年に『無名(むみょう)の人 石井筆子の生涯』(監督:宮崎信恵)という映画も作られている。こちらはドキュメンタリーのようだ(プロデューサー:山崎定人、撮影:上村四四六、音楽:十河陽一、朗読:吉永小百合、ナレーション:神山繁、出演:酒井万里子、オフィシャル・サイトhttp://www.peace-create.bz-office.net/mumyo_index.htm)。

2006年 119分 ビスタサイズ

監督・製作総指揮:山田火砂子 プロデューサー:井上真紀子、国枝秀美 脚本:高田宏治 撮影:伊藤嘉宏 美術監督:木村威夫 編集:岩谷和行 音楽:渡辺俊幸 照明:渡辺雄二 題字:小倉一郎 録音:沼田和夫 特別協力:社会福祉法人 滝乃川学園

出演:常盤貴子(石井筆子)、市川笑也(石井亮一)、加藤剛(渡邉清)、渡辺梓(藤間サト)、細見大輔(小鹿島果)、星奈優里、凛華せら、アーサー・ホーランド、平泉成、小倉一郎、磯村みどり、堀内正美、有薗芳記、山田隆夫、石濱朗、絵沢萠子、頭師佳孝、鳩笛真希、相生千恵子、高村尚枝、谷田歩、大島明美、田島寧子、石井めぐみ、和泉ちぬ、南原健朗、本間健太郎、板倉光隆、真柄佳奈子、須貝真己子、小林美幸、星和利、草薙仁、山崎之也、市原悦子(ナレーション)

ユメ十夜

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■松尾スズキのひとり勝ち

漱石の『夢十夜』を10組11人の監督で映像化。映画にはプロローグとエピローグもあるが、これだけテンでバラバラなものを無理にくくる必要があったとは思えない(とやかくいうほどのことではないのだが)。

原作は400字詰で50枚程度のもので、映画も1話にして10分少々の計算になる。尺も短いし、なにしろ夢なのだからと割り切れるからか、料理方法は自在という感じで実に楽しめた。

ただ、しばらくするとその印象は驚くほどあせてしまう。1度に10話ということもあるし、いくら凝った画面を創り出しても所詮断片だからか。ま、そういう意味では記憶に残らない方が私には夢らしくみえる(そうでない人もいるかもしれないが)。

原作で面白かったものが映画でも面白かったのは、自在に料理しつつ、とはいえやはり原作に囚われてしまったからなんだろうか。

[第一夜] 妻のツグミは「100年可愛がってくれたんだから、もう100年、待っててくれますか?」と言って死んでしまう。何度も時間が逆行しているイメージが入る。なのに作家の百聞は、100年はもう来ていたんだな、と言う。実相寺昭雄(遺作となった)の歪んだり傾いた映像もこのくらいの時間だとうるさくなく、時間の歪みと相対しているようで効果的だ。外に見えるメンソレータムの広告のある観覧車が安っぽいのだけど、あんなものなのかも。松尾スズキが百閒……イメチェンだ。

[第二夜] モノクロ(短刀の鞘は赤になっている)、サイレント映画仕立て(音はある)。侍なら悟れるはずと和尚に挑発された男が受けて立つが、無とは何かがわからぬまま時間が来てしまう。切腹も出来ずにいると、それでいいのだと言われる。字幕説明ということもあり原作に近い感じがする。が、原作がひとり相撲的なのに、こちらは対決ムードが強い。「それでいいのだ」という救いはあるが、それでいいのかとも。

[第三夜] 子供を背負っていると、その子の目が潰れる。「お父さん、重くない。そのうち重くなるよ」と言われるが、逃げ場などない。そうして言われるがままに着いた先で、自分は人殺しで、子供だった自分を殺したのだと知る。殺した対象が100年前の1人の盲から28年前の自分になっていてよりホラー度が強くなっているが、映像は怖さでは文字にかなわない。6人目の子を身籠もっている鏡子に、子をあやして背負う漱石の部分は、付け足しながらうまい脚本なのだが。最後に「書いちゃおー」とおどけさせなくってもさ。

[第四夜] バスで講演にやってきた漱石だが、そこは何故か面影橋4丁目だった。「見てて、蛇になるから」と言う老人に子供たちが歌いながらついていく。漱石も後を追いながら、昔転地療養をしていた所と思い出す。飛行機が超低空でやってきて爆発する。イメージはバラバラながら、くっきりしたものだ。最近行ったばかりの佐原市の馬場酒造がロケ地として出てくるせいもある。私も子供の頃、蛇になるところ(むろん別のことだが)がどうしても見たくてしかたがなかった記憶がある。この感覚がひどく懐かしい。映画は神隠しをブーメランの笛吹に結びつけているようだ。「夢って忘れちゃうんですよね」(と言って正の字を書いていた)。ですね。

[第五夜] 原作もだが、映画はさらにわからない。「夜が明けて、鶏が鳴くまで待つ」という夫からの電話を受けた側の妻の話にしている(森の中で事故を起こした車に乗っていた夫婦が見た夢)。もうひとりの自分の醜い姿を認めろといっているのが、どうも。あ、でも夫もいいねと言ってました。勝手にしろ。馬に乗る市川実日子に包帯女のイメージははっきり残っているのだが。

[第六夜] ダントツの面白さ。原作でもこれが1番好きだ。仁王を彫る運慶を見た男が、自分にも出来るような気がして挑戦するが、出てきたのは木彫りの熊だった。TOZAWAが披露するアニメーションダンスがとにかく素晴らしいのだが、このオチがいい。何も出てこないどころか、木彫りの熊!とは。うへへ。でも「結局彫る人間にあったサイズのものしか埋まっていない」という解説は(石原良純も)必要かどうかは。

[第七夜] アニメ。特に絵柄が好きというのではないし、原作と同じくらい退屈。巨大な船で旅をしている青年が、自分の居場所を見つけられなくて海に飛び込むまでは同じだが、男が感じるものはまったく逆で、世界って広いんだなというもの。英語のセリフにした意味がわからない。

[第八夜] 床屋の鏡越しに見えた幻影を、子供が巨大なミミズのような生物を捕まえて育てる話に変えている。原稿用紙を前に悩む41歳の漱石。塀の向こうで、女の子たちに「鴎外せんせー」と言われてしまう。よくわからん度はこれまた原作に同じ。

[第九夜] 赤紙が来て戦争に行った夫のためにお百度参りをする妻。死んでいたことを知らずに続けているのが原作なら、こちらは浮気を受け入れられないという意思表示か。子がその扉を開ける。夢らしくない。

[第十夜] 女にたぶらかされて豚に鼻を舐められる話を、ブスは死んで当然と思っている色男が美女に化けたブタの怪物に仕返しされる話に改変している。理屈は付いたが、わかったとはいいずらい。不思議なイメージが消えてしまったのは残念だが、私の見る夢も悪ノリしていることが多いからね(こんなに下品ではないよ)。女に案内された豚丼しかない食堂で、その豚丼のおいしさにはまるが、豚丼のだし汁は汗で、痰入りというおぞましいものだった(豚丼ではなくハルマゲ丼だそうな)。女が正体をあらわしリングで対決となる。ごめんなさい、もう人は殺しません、と言いながら豚をやっつけようとするのだからこの色男もくわせものだ。

 

【メモ】

以下、漱石の『夢十夜』テキトーダイジェスト。

[第一夜] 「100年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と女は死んでいく。言われたとおりにして、日が昇り落ちるのを勘定し、勘定しつくせないほどになっても100年はやって来ない。女に騙されたかと思っていると、石の下から茎が伸び、見る間に真っ白い百合の花が咲き、骨にこたえるような匂いを放つ。花びらに接吻し、遠い空を見ると暁の星がたった1つ瞬いていて、100年はもう来ていたことに気づく。

[第二夜] 侍のくせに悟れぬのは人間の屑と和尚に言われた男が、悟って和尚の首を取ってやろうと考えるが、どうあがいても一向に無の心境になれぬ。次の刻を打つまでに悟らねば自刃するつもりでいた、その時計の音が響く。

[第三夜] 6つになる自分の子を背負っているのだが、目は潰れているし、青坊主である。言葉付きは大人だし、何でも解るので怖くなり、どこかへ打遣ゃってしまおうと考えると、見透かされたように、「重くない」と問われる。否定するが「今に重くなる」と言われてしまう。……森の中の杉の根の処で、ちょうど100年前にお前に殺されたと言われ、1人の盲を殺したことを思い出す。

[第四夜] 年は「いくつか忘れ」、家は「臍の奧」だという爺さんが、柳の下にいる3、4人の子供たちに、手ぬぐいをよったのを見せ「蛇になるから見ておろう」と言う。飴屋の笛を吹き手ぬぐいの周りを回るが一向に変わらない。今度は手ぬぐいを箱に入れ、「こうしておくと箱の中で蛇になる。今に見せてやる」と言いながら河原へ向かい、川に入っていった。向岸に上がって見せるのだろうと思っていつまでも待っていたが、とうとう上がって来なかった。

[第五夜] 神代に近い昔、軍(いくさ)で負け生けどりになるが、女に会いたいと敵の大将にたのむと、夜が明けて鶏が鳴くまでなら待つという。女は白い裸馬に乗ってやってくるが、鶏の鳴く真似をした天探女(あまのじゃく)に邪魔され岩の下の深い淵に落ちてしまう。蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。

[第六夜] 護国寺で運慶が仁王を刻んでいるという評判をきき出かけると、鎌倉時代とおぼしき背景に、運慶が鑿と槌を動かしていた。見物人に運慶は彫るのではなく、掘り出しているのだときかされ、それならと帰って自分でも試すが、明治の木には仁王など埋まっていないと悟る。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

[第七夜] 大きな船に乗っている男が自殺する。海めがけて飛び降りた途端、乗っていた方がよかったと後悔する。

[第八夜] 床屋で髪を切ってもらいながら、鏡に映る女を連れた庄太郎や豆腐屋、芸者、人力車の梶棒を見るが、粟餅屋は餅を引く音だけだ。女が10円札を勘定しているが、いつまでも100枚と言っている。髪を洗いましょうと言われて立ち上がって振り返るが、女の姿はない。代を払って外に出ると金魚屋がいて、金魚を眺めたまま動かない。

[第九夜] 帰ってこない侍の夫を案じて若い妻は3つの子を欄干に縛り、幾夜もお百度を踏むが、夫はとうの昔もう殺されていた。夢の中で母から聞いた悲しい話。

[第十夜] 女にさらわれた庄太郎が7日目の晩に帰ってくるが、熱も出たと健さんが知らせに来た。庄太郎は女と電車に乗って遠くの原へ行き、絶壁(きりぎし)に出たところで、女に飛び込めと言われる。辞退すると嫌いな豚が襲ってくる。豚の鼻頭を洋杖で打てば絶壁の下に落ちていくが、豚は無尽蔵にやってきて7日6晩で力尽き、豚に鼻を舐められ倒れてしまったという。「庄太郎は助かるまい。パナマ帽は健さん(が狙っていた)のものだろう」。

2006年 110分 ビスタサイズ 

原作:夏目漱石
[プロローグ&エピローグ]監督・脚本:清水厚
[第一夜]監督:実相寺昭雄 脚本:久世光彦
[第二夜]監督:市川崑 脚本:柳谷治
[第三夜]監督・脚本:清水崇
[第四夜]監督:清水厚 脚本:猪爪慎一
[第五夜]監督・脚本:豊島圭介
[第六夜]監督・脚本:松尾スズキ
[第七夜]監督:天野喜孝、河原真明
[第八夜]監督:山下敦弘 脚本:長尾謙一郎、山下敦弘
[第九夜]監督・脚本:西川美和
[第十夜]監督:山口雄大 脚本:山口雄大、加藤淳也 脚色:漫☆画太郎

出演:
[プロローグ&エピローグ]戸田恵梨香(女学生)、藤田宗久
[第一夜]小泉今日子(ツグミ)、松尾スズキ(百閒)、浅山花衣、小川はるみ、堀内正美、寺田農
[第二夜]うじきつよし(侍)、中村梅之助(和尚)
[第三夜]堀部圭亮(夏目漱石)、香椎由宇(鏡子)、佐藤涼平、辻玲花、飯田美月、青山七未、櫻井詩月、野辺平歩
[第四夜]山本耕史(漱石)、菅野莉央(日向はるか)、品川徹、小関裕太、浅見千代子、市川夏江、児玉貴志、高木均、柳田幸重、五十嵐真人、渡辺悠、谷口亜連、原朔太郎、佐藤蘭、宇田川幸乃、鶴屋紅子、佐久間なつみ、日笠山亜美、樹又ひろこ
[第五夜]市川実日子(真砂子)、大倉孝二(庄太郎)、三浦誠己、牟禮朋樹、辻修、鴨下佳昌、新井友香
[第六夜]阿部サダヲ(わたし)、TOZAWA(運慶)、石原良純
[第七夜]声の出演:sascha(ソウセキ)、秀島史香(ウツロ)
[第八夜]藤岡弘(正造/漱石)、山本浩司、大家由祐子、柿澤司、土屋匠、櫻井勇人、梅澤悠斗、森康子、千歳美香子、森島緑、小川真凛、水嶋奈津希、広瀬茉李愛
[第九夜]緒川たまき(母)、ピエール瀧(父)、渡邉奏人、猫田直、菊池大智
[第十夜]松山ケンイチ(庄太郎)、本上まなみ(よし乃)、石坂浩二(平賀源内)、安田大サーカス、井上佳子

ラッキーナンバー7

シネパトス3 ★★☆

■見事に騙されるが、後味は悪い

豪華キャストながらヒットした感じがないままシネパトスで上映されていては、ハズシ映画と誰もが思うだろう。が、映画は意外にも練り込まれた脚本で、娯楽作として十分楽しめるデキだ(R-15はちょっともったいなかったのではないか)。とはいえ全貌がわかってしまうと、手放しで喝采を送るわけにはいかなくなってしまう。

失業、家にシロアリ、彼女の浮気、と不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、友達のニックを訪ねてニューヨークにやってくる。隣に住むリンジー(ルーシー・リュー)と知り合って互いに惹かれあうものの、失踪中のニックと間違われてギャングの親玉ボス(モーガン・フリーマン)に拉致されてしまう。

話の展開は不穏(そういえば巻頭に殺人もあったっけ)なのに、リンジーとのやりとりなどはコメディタッチだから気楽なものだ。ボスの前に連れて来られるまでずっとタオル1枚のままのスレヴンだから間抜けもいいところで、これは観客を油断させる企みか。巻き込まれ型は『北北西に進路を取れ』(中に出てくる)そのものだし、会話に『007』を絡めたりと、映画ファンへの配慮も忘れない。けど、こうやって洒落たつくりを装っているのは、ほいほいと人が殺されていくからなのかしらん。

ボスからは借金が返せないなら敵対するギャングの親玉ラビ(ベン・キングズレー)の息子を殺せ(息子が殺されたことの復讐)と脅かされ、スレヴンは承諾せざるを得ない。ところがニックはラビにも借金があったらしく、スレヴンは、今度はラビに拉致されてしまうのである。

不幸が不幸を呼ぶような展開は、実はスレヴンと、狂言回しのようにここに至るまでちらちら登場していた殺し屋グッドキャット(ブルース・ウィリス)とで仕組んだものだった。20年前にスレヴンの両親を殺したボスとラビに対する復讐だったのである(しかしここまで手の込んだことをするかしらね)。

この流れはもしかしたら大筋では読めてしまう人もいるだろう。が、それがわかっても楽しめるだけの工夫が随所にある。語り口もスマートだし、いったんは謎解きを兼ねてもう1度観たい気分になる。が、席を立つ頃には、この結末の後味の悪さにげんなりしてしまうのだからややこしい。

グッドキャットは何故殺すはずだったヘンリーを助け、育てたのだろうか。それも復讐をするための殺し屋として。これもかなりの疑問ではあるが、それはおいておくとしても、復讐のために20年を生きてきたヘンリーのことを考えずにこの映画を観ろといわれてもそれは無理だろう。何故20年待つ必要があったかということもあるし、どんでん返しの説明より、映画はこのことの方を説明すべきだったのだ。

それにこれはもう蛇足のようなものだが、ヘンリーの父親が八百長競馬の情報に踊らされたのだって、ただ欲をかいただけだったわけで……。

いつもつかみどころのないジョシュ・ハートネットが、今回はいい感じだったし、ルーシー・リューもイメチェンで可愛い女になっていて、だから2人のことは偶然とはいえ必然のようでもあって、最後は恋愛映画のような終わり方になる。なにしろこれは想定外なわけだから。グッドキャットもヘンリーに父親の時計を渡していたから、これで父親役はお終いにするつもりなのだろう。このラストで少しは救われるといいたいところだが、なにしろ無神経に人を殺しすぎてしまってるのよね(リンジーのような死なないからくりがあるわけでなし)。

原題:Lucky Number slevin

2006年 111分 シネスコサイズ R-15 日本語版字幕:岡田壮平

監督:ポール・マクギガン 製作:クリストファー・エバーツ、アンディ・グロッシュ、キア・ジャム、ロバート・S・クラヴィス、タイラー・ミッチェル、アンソニー・ルーレン、クリス・ロバーツ 製作総指揮:ジェーンバークレイ、ドン・カーモディ、A・J・ディックス、シャロン・ハレル、エリ・クライン、アンドレアス・シュミット、ビル・シヴリー 脚本:ジェイソン・スマイロヴィック 撮影:ピーター・ソーヴァ 編集:アンドリュー・ヒューム 音楽:J・ラルフ

出演:ジョシュ・ハートネット(スレヴン、ヘンリー)、ブルース・ウィリス(グッドキャット)、ルーシー・リュー(リンジー)、モーガン・フリーマン(ボス)、ベン・キングズレー(ラビ)、スタンリー・トゥッチ(ブリコウスキー)、ピーター・アウターブリッジ、マイケル・ルーベンフェルド、ケヴィン・チャンバーリン、ドリアン・ミシック、ミケルティ・ウィリアムソン、サム・ジェーガー、ダニー・アイエロ、ロバート・フォスター

輝く夜明けに向かって

シャンテシネ3 ★★

■平凡な男をテロリストにしたアパルトヘイト

どこにでもいそうな主人公がテロリストの疑いをかけられ、釈放されるが、このことで逆に反政府組織のANC(アフリカ民族会議)に身を投じることになったという実話をもとに作られた映画。

パトリック(デレク・ルーク)は南アフリカ北部のセクンダ精油所で監督という立場にある勤勉な労働者だった。妻プレシャス(ボニー・ヘナ)と2人の娘たちにかこまれ、黒人にしては比較的裕福な暮らしを送っていたが、精油所がテロの標的となり、犯人の一味に仕立て上げられてしまう。

1980年の南アフリカはまだアパルトヘイトが公然と行われていた時代で、テロは日常的に起きるべくして起きていたらしいが、パトリックはよそ者なのだから目立たないように、家族のために、という父の教えを守り、政治には無関心で、母親が聞いているANCのラジオのボリュームさえ下げてしまうような男だった。

テロのあった晩、彼は偽の診断書で休暇を取り、自分がコーチをしている少年たちのサッカーの決勝戦の場にいたのだが、滞在日を1日延ばし真夜中に秘かに出かけていた。実は彼の愛人ミリアム(テリー・フェト)とその息子に会いに行っていたのだった。

この愛人宅で面白いやりとりがあった。パトリックはミリアムに「あなたが父親だと(息子に)うち明けて」と迫られるだが、彼の答えは「僕の父は蒸発。それ以来会っていない、無理言うな」というもの。なにより返答になっていないが、後年「自由の闘士」として民衆の英雄となった人間にしては自分勝手で底が浅いものだ。そういうところも含めて、彼はごく普通の人間だったということだろう。

治安部でテロ対策に当たるニック・フォス大佐(ティム・ロビンス)の尋問は執拗を極め、無期限拘束されたパトリックは言いたくなかった真実を語るが、信じてもらえない。フォスは自分では直接拷問はせず、日曜日には自分の家の食事に連れて行ったり、アパルトヘイトは長くは続かないなどとパトリックに漏らすなど、どこまでが本音なのかと思うような油断のならない人物として描かれる。

拷問はプレシャスにまで及び、そのことでパトリックは自白を選ぶのだが、供述が合わないことで、無罪放免となる。フォスは、正しい仕事をしている人間でもあったのだ(最近、続けざまに自分の点数稼ぎのために自白を強要するような映画を観たので、私には新鮮に映ったのね)。

無実の罪に問われ、友人の死、妻への拷問を目の当たりにしたことが、パトリックをモザンビークの首都マプトにあるANC本部に走らせることになる。家族にも内緒で(もっとも今度は母親のラジオの音を大きくしていた)。

ただ、厳しい訓練の中、解放軍を装った部隊に急襲されたり、内部に精通しているパトリックが自ら先導するように精油所の爆破計画にかかわったり、という展開は、見せ場がちゃんとあるのに演出が手ぬるくて散漫な印象だ。プレシャスの嫉妬心はおさまることなく、これは当然ともえいるが、とはいえフォスに通報とはね、となってパトリックはロッベン島に島流しとなる。

ここからはさらに駆け足となって、5年後にプレシャスから再婚したという手紙をもらってやっと許す気持ちになり、1991年にはアフリカに戻ることができたというナレーションになっていて、画面には出迎えにきたプレシャスと許しを請い合う姿が映し出される。

このあと、まったく予想していなかったのだが、パトリックがフォスを見かけるとある日の場面になる。今度こそ復讐してやるとフォスに近づくパトリックだが、何故か彼を生かしておこうか、という気持ちになり、その瞬間解放されたというのだ。実は緩慢な流れにすでにうんざりしかけていたのだが、この付け足しのような何でもない場面が、この映画の1番の収穫のように思えてきたのである。自分がそんな気持ちになれるかどうかはまったくの別問題ではあるのだが。

もうひとつ。フォスは自分の2人の娘に、不測の事態に備えて射撃を教えていて、それが役立つ日がくるのだが、皮肉にも拳銃嫌いの長女の手によって犯人に銃は発砲されることになる。正当防衛とはいえこの行為は認められるのだろうか、と考えた時点でこの挿話が白人側に配慮されたものにもみえてしまうのだが、詰まるところアパルトヘイトが過去のものとなった余裕といったら、叱られてしまうだろうか。

原題:Catch a Fire

2006年 101分 シネスコサイズ フランス、イギリス、南アフリカ、アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:フィリップ・ノイス 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、アンソニー・ミンゲラ、ロビン・スロヴォ 製作総指揮:ライザ・チェイシン デブラ・ヘイワード、シドニー・ポラック 脚本:ショーン・スロヴォ 撮影:ロン・フォーチュナト、ゲイリー・フィリップス プロダクションデザイン:ジョニー・ブリート 衣装デザイン:リーザ・レヴィ 編集:ジル・ビルコック 音楽:フィリップ・ミラー
 
出演:ティム・ロビンス(ニック・フォス)、デレク・ルーク(パトリック・チャムーソ)、ボニー・ヘナ(プレシャス・チャムーソ )、ムンセディシ・シャバング(ズーコ・セプテンバー)、テリー・フェト(ミリアム)、ミシェル・バージャース(アンナ・ヴォス)

墨攻

新宿ミラノ1 ★★

■1人の男が買って出た無駄な戦の顛末。「墨守」ならぬ「墨攻」とは

「墨守」という言葉にその名をとどめる墨家のある人物を主人公にした歴史スペクタクル大作。

墨家は中国の戦国時代(BC403~BC221)の思想家墨子を祖とし、鬼神を信じ「兼愛」(博愛)と「非攻」(専守防衛)などを説いた実在の思想集団。最盛期には儒教と並ぶほどの影響力を持っていたらしいが、歴史の舞台から姿を消してしまったこともあり(謎の部分が多い)、儒家を批判したことで知られるものの、孔子などに比べると一般的には馴染みが薄いようである。

墨家の思想は今の時代でもかなり興味深いものだ。この作品では、それをさらにすすめて「非攻」を「墨守」でなく「墨攻」としたのだから、当然そこに言及すべきなのに、映画を見た限りではあまりよくわからない(大元の酒見賢一の小説も、森秀樹のマンガも知らないのでその比較も出来ないのだが)。

趙が燕に侵攻を開始。両国に挟まれた小国の梁(架空の国)がその餌食になるのは間違いなく、梁王(ワン・チーウェン)と息子の梁適(チェ・シウォン)は墨家に救援を求めていた。巷淹中(アン・ソンギ)率いる10万の大軍の前に、住民を含めても4千にしかならない梁王は降伏を決意するが、その時墨家の革離(アンディ・ラウ)が1人で梁城に現れ、趙の先遣隊の志気を殺ぐ1本の矢を放つ。

革離の見事な腕前と、趙の狙いはあくまで燕であり、1ヶ月守りきれば必ず趙軍は撤退するという彼の言葉に、梁王は革離に軍の指揮権を与え、革離の元、趙との攻防戦が繰り広げられることとなる。

説明を最小限にした、いきなりのこの展開は娯楽作にふさわしい。ただ、そのあとの籠城戦は意外にも見せ場が少ない。時代的な制限や、すでにこの手の戦は描き尽くされているため目新しさがないということもあるだろうが、それにしてもなんとかならなかったのだろうか。

例えば、革離は梁城の模型を前に戦略を練る場面がある。こんなものがあるのなら、観客の説明にも利用すべきなのに、それが中途半端なのだ。現在の城と同じ寸法のものをもう1つ造るのも、ワクワクするような説得力がないため盛り上がらず、工事の過程が住民の結束力を高めたという程度にしかみえない。敵は必ず水源に毒を入れるだろうという予測には、城内に井戸を掘るという対策(それも言葉の説明だけ)で終わってしまうといった案配だ。集めた家畜の糞をまいておき火矢を防いだのにはなるほどと思ったが、アイデアとしてはあまりに小粒。中国お得意の人海戦術で、軍隊にあれだけの頭数を揃えてきたのだからそれに見合うものを用意してもらいたいところだ。

被害が甚大な趙軍は1度退却せざるをえなくなるのだが、逆にここから革離の苦悩がはじまることとなる。作戦が成功したことにより革離の人望が高まると、梁王や重臣たちの嫉(そね)みをかこち、指揮権を奪われて追放されるだけでなく、革離と親しくなった人々にまで粛正の手が及んでしまう。

戦術に秀でながら、政治にも愛にも疎いという革離なのだが、しかしここは墨家の徒として、戦術以外でも毅然たる態度を示してほしいのだ。いい年をして若造のように苦悩していたのでは、「墨攻」にまで論が進まないではないか。

親しくなっていた騎馬隊の女兵士逸悦には、一生お側にいたいと迫られるが、革離がはっきりしないでいると、兼愛を説くが愛を知るべき、と痛いところを突かれてしまう。彼女は革離を擁護する発言をしたことで、梁王に馬による八つ裂きの刑を言いわたされる。趙軍の熱気球(お、やるじゃん)による奇襲でそれはまぬがれるが牢が地下水路の爆発で水浸しになり、声帯を奪われていたため声が出ず、革離の救いの手が届くことなく悲惨な最期をとげる(ここの演出は少し間が抜けている)。

この話ばかりでなく、それ以前にも梁適の死、黒人奴隷、子団のラストシーンでの扱い(刀を捨て去っていく)など、盛り沢山の挿話のどれもが戦の虚しさを通して「墨攻」を語る要素であるのに、そうなっていないのは先に述べた通りである。

革離がただ1人でやってきたのは、案外彼の理想論が未熟だということを他の墨家が見抜いていたからとかねー(これについては墨家が要請に応じなかったという簡単な説明しかなかった。つまり、この説はまったくのでっち上げです)。

暴政で梁は5年後に滅びることや、革離が孤児と共に諸国を渡り歩き平和を説いたという説明はつくものの、映画は逸悦の死ばかりか、いやらしい梁王の勝利、と苦い結末で終わる。

 

【メモ】

「墨子」については、松岡正剛千夜千冊が参考になった。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0817.html 

革離の放った矢は格段に飛距離の出るもので、矢には工夫がしてあるのだが、この細工だと余計飛ばなくなってしまうのではないかと心配になってしまうようなもの。

妻子を連れて逃亡をはかる農民たちもいた。趙軍に捕まった彼らから、革離の存在が巷淹中の知るところとなり、革離との盤上の戦い(将棋のようなもの)が行われる。ただし、これは意味不明。単なる当時の儀式みたいなものか。

梁適は、革離が子団を弓隊の長に選んだことに反発し、2人の弓の争いとなる。

趙軍の奇襲で梁王は降伏。革離は民を救おうと城に戻り巷将軍との対決を演出するが、その巷将軍を梁王は非情にも矢攻めにしてしまう。

原題:A Battle of Wits

2006年 133分 シネスコサイズ 韓国、中国、日本、香港 日本語字幕:■

監督・脚本:ジェィコブ・チャン アクション監督:スティーヴン・トン 製作:ホアン・チェンシン[黄建新]、ワン・チョンレイ[王中磊]、ツイ・シウミン[徐小明]、リー・ジョーイック[李柱益]、井関惺、ジェィコブ・チャン 製作総指揮:ワン・チョンジュン、スティーヴン・ン、ホン・ボンチュル 原作:森秀樹漫画『墨攻』、酒見賢一(原作小説)、久保田千太郎(漫画脚本協力) 撮影監督:阪本善尚 美術:イー・チェンチョウ 衣装:トン・ホアミヤオ 編集:エリック・コン 音楽:川井憲次 照明:大久保武志
 
出演:アンディ・ラウ[劉徳華](革離)、アン・ソンギ[安聖基](巷淹中)、ワン・チーウェン[王志文](梁王)、ファン・ビンビン[范冰冰](逸悦)、ウー・チーロン[呉奇隆](子団)、チェ・シウォン[・懍亨・吹n(梁適)

ディパーテッド

新宿ミラノ2 ★★★

■描くべき部分を間違えたことで生まれたわかりやすさ

元になった『インファナル・アフェア』はこんなにわかりやすい映画だったか、というのが1番の感想。向こうは3部作で、観た時期も飛び飛びだったということもあるが、マフィアに潜入する警察と警察に潜入するマフィアという入り組んだ物語も順を追って説明されると、そうはわかりにくいものでないことがわかる。

しかしそれにしても失敗したなと思ったのは、『インファナル・アフェア』を観直しておくべきだったということだ。『ディパーテッド』を独立した作品と思えばなんでもないことだが、でも『インファナル・アフェア』を観てしまっているのだから、それは無理なことなのだ。しかもその観た時期がなんとも中途半端なのである。記憶力の悪い私でもまだうっすらながらイメージできる部分がいくつかあって、どうしても比較しながら観てしまうことになった。といってきちんと対比できるほどではないから、どうにもやっかいな状況が生まれてしまったのだった。

というわけで、曖昧なまま書いてしまうが、違っているかもしれないので、そのつもりで(そんなのありかよ)。

まず、刑事のビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)がフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)にいかにして信用されるようになるか、という部分。ここは意外な丁寧さで描かれていた。だからわかりやすくもある(それになにしろ話を知ってるんだもんね)のだが、逆に『インファナル・アフェア』の時はまだ全体像が見えていないこともあり、それも作用したのだろう、緊迫感は比較にならないくらい強かった。

ビリーを描くことでコステロの描写も手厚いものとなる。この下品でいかがわしい人物は、なるほどジャック・ニコルソンならではと思わせるが、しかしこれまた彼だと毒をばらまきすぎているような気がしなくもない。それにコステロが全面に出過ぎるせいで、家内工業的規模のマフィア組織にしか見えないといううらみもある(マイクロチップを中国のマフィアに流すのだからすごい取引はしているのだけどね)。

この2人に比べると、コステロに可愛がられ警察学校に入り込むコリン・サリバン(マット・デイモン)は、今回は損な役回りのではないか。ビリーには悪人揃いの家系を断ち切るために警官になろうとしたいきさつもあるから、悪に手を染めなければならない苦悩は計り知れないものがあったと思われる。が、コリンの場合はどうか。日蔭の存在から警察という日向の部分で活躍することで、案外そのことの方に生きやすさを感じていただろうに、彼の葛藤というよりは割り切り(そう、悪なのだ)が、そうは伝わってこないのだ。そういえばコステロのコリンに対する疑惑も薄かったような(本当はビリーよりこちらの方がずっと面白い部分なのだが)。

女性精神科医のマドリン(ヴェラ・ファーミガ)もビリーとコリンの2人に絡むことで重要度は増したものの、かえってわざとらしいものになってしまったし、ビリーの存在を知っている人物がクイーナン警部(マーティン・シーン)とディグナム(マーク・ウォールバーグ)で、辞表を出して姿を消していたディグナムが最後に現れてコリンに立ちはだかるのは、配役からして当然の流れとはいえ、どうなんだろ。おいしい役なのかもしれないが、なんだかな、なんである。ということは、脚本改変部分は成功していない(ような気がする)ことになるが。

 

原題:The Departed

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ R-15 日本語版字幕:栗原とみ子

監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、ブラッド・ピット、ブラッド・グレイ、グレアム・キング 製作総指揮:G・マック・ブラウン、ダグ・デイヴィソン、クリスティン・ホーン、ロイ・リー、ジャンニ・ヌナリ 脚本:ウィリアム・モナハン オリジナル脚本:アラン・マック、フェリックス・チョン 撮影:ミヒャエル・バルハウス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:サンディ・パウエル 編集:セルマ・スクーンメイカー 音楽:ハワード・ショア
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ビリー・コスティガン)、マット・デイモン(コリン・サリバン)、ジャック・ニコルソン(フランク・コステロ)、マーク・ウォールバーグ(ディグナム)、マーティン・シーン(クイーナン)、レイ・ウィンストン(ミスター・フレンチ)、ヴェラ・ファーミガ(マドリン)、アレック・ボールドウィン(エラービー)、アンソニー・アンダーソン(ブラウン)、ケヴィン・コリガン、ジェームズ・バッジ・デール、デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ロルストン、ロバート・ウォールバーグ、クリステン・ダルトン、J・C・マッケンジー

グアンタナモ、僕達が見た真実

シャンテシネ2 ★★★

■パキスタンで結婚式のはずが、キューバで収容所暮らし

2001年9月28日、パキスタン系イギリス人のアシフ(アルファーン・ウスマーン)は、両親の勧める縁談のため、ティプトンから故郷パキスタンへ向かう。村で結婚を決めた彼は、ティプトンの友人ローヘル(ファルハド・ハールーン)を結婚式に招待する。ローヘルはシャフィク(リズワーン・アフマド)とムニール(ワカール・スィッディーキー)と共に休暇旅行と結婚式出席を兼ねてパキスタンにやってくる。

シャフィクの従兄弟ザヒド(シャーヒド・イクバル)も一緒になって結婚前の数日をカラチで送ることになる。ホテル代を浮かすためモスクに泊まり、ここで米国攻撃前のアフガニスタンの混乱を耳にする。好奇心と人を救うことにもなると5人はボランティア募集に応じ、トラブル続きの中、難民の波に逆らうようにカブールに着く。

空爆やアシフの体調が体調を崩したことで不安になった彼らは案内人にパキスタンに帰りたいと伝えるが、何故かタリバーンと合流していて、アメリカ軍の空爆や北部同盟の攻撃を受けてさまよううちに、ムニールとははぐれてしまう。

すでに言葉も通じない場所で、しかも夜の闇の中で砲弾が炸裂しトラックが炎上する。わけもわからず1晩中逃げまどうのだが、同じ場所に戻ってしまうような描写も出てくる。このあたりは観ている方も何がなんだかわからない状態だが、多分彼らも同じだったと思われる。トラック、コンテナと乗り継ぎ、気が付いたらアメリカ軍の捕虜になっていたというわけである。

コンテナの中は湿っぽくて息苦しく、座ると息がしやすかったのにいつのまにか気絶しているような状態。銃声がり、コンテナは穴だらけになり、死体の横で飲み水もないから布で壁の水を拭き飲んだという。この過酷な状態は収容所に行っても続く。あまりの狭さに交代で寝るしかなく、ロクに食料も与えられない。

英語を話す者は、と聞かれアシフは名乗りでるのだが(この直前に英国籍は隠せと誰かにアドバイスされるのだが、状況がよく確認出来なかった)、この判断は甘く、一方的にお前はアルカイダだと決めつけられ、アシフ、ローヘル、シャフィクは、キューバにあるグアンタナモ基地(デルタ収容所)へ移送されてしまう。

本人たちのインタビュー映像を混じえてのドキュメンタリーもどきの進行だが、袋を頭から被せられ足も結わえられての移動場面もあるから、つまりそういう状況に本人たちがいたわけだから、どこまで正確に再現されているのかはわからないが、ここに挿入されていたラムズフェルド国防長官のグアンタナモ収容所は人道的(+蔑視)発言がまったくの嘘っぱちだということは否定できなくなる。

常軌を逸した拷問や証拠の捏造については一々書かないが、冤罪事件でいつも不思議に思うのは自白を強制させて、それを上に報告すればそれでいいのかということだ。そこにあるのは真実の追求ではなく、担当者のいい加減な仕事ぶり(もしくは簡単に自分の評価を上げたいだけのつまらない欲望か)が存在するだけなのに。本気でテロを撲滅させたければ、こういうことだけはしてはいけないと上部だって思うはずで、であればそのための対策がもっとはかられていなければならないだろう。

過酷な拘束と偽英国大使員まであらわれる馬鹿げた取り調べは、英国警察の監督下に置かれていたということが判明して(警察がアリバイを証明したというわけだ)、終わりを告げることになる。

英国で起こしていた暴力と詐欺行為は彼らを救ったものの、そもそもアフガニスタンにはボランティアとはいえ物見遊山的な気持ちがあって出かけたのだし、そういう軽はずみな言動が2年半に渡る望まない旅をもたらしたことは否めない。しかし、とにかく彼らは耐えたのだ。理不尽な拷問や拘束に。これは賞賛されていい。そして救いもある。それは彼らの若さと、アシム本人がこれも経験で今は前向きに生きている、というようなことを最後に語っていたことである。

【メモ】

2006年ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞作品

グアンタナモにある収容所の特殊性については以下の吉岡攻のブログにも詳しい。
http://blog.goo.ne.jp/ysok923/m/200512 (ここの2005.12.16の記事)

原題:The Road to Guantanamo

2006年 96分 サイズ■ イギリス

監督:マイケル・ウィンターボトム、マット・ホワイトクロス 製作:アンドリュー・イートン、マイケル・ウィンターボトム、メリッサ・パーメンター 製作総指揮:リー・トーマス 撮影:マルセル・ザイスキンド 編集:マイケル・ウィンターボトム、マット・ホワイトクロス 音楽:ハリー・エスコット、モリー・ナイマン
 
出演:アルファーン・ウスマーン(アシフ・イクバル)、ファルハド・ハールーン(ローヘル・アフマド)、リズワーン・アフマド(シャフィク・レスル)、ワカール・スィッディーキー(ムニール・アリ)、シャーヒド・イクバル(ザヒド)、(以下3人は本人)アシフ・イクバル、ローヘル・アフマド、シャフィク・レスル

僕は妹に恋をする

新宿武蔵野館1 ★★

■2人は禁断の恋に生きることを選ぶ

同じ高校に通う双子の兄妹の頼(松本潤)と郁(榮倉奈々)。小さい時から結婚を約束するほどの仲良しだったが、最近の2人は「頼に冷たくされるのに慣れた」という郁の独白があるように、どこかギクシャクしていた。同級生の矢野(平岡祐太)に告白されたものの、頼のことが好きでたまらない郁は、返事を先延ばしする(ひどい話だ)。

実は頼も郁がどうしようもなく好きで、そのことはとっくに矢野に見透かされていた。矢野に郁のことはあきらめないと言われたからかどうか、頼は郁に自分に嘘はつけないと迫り、関係を持ってしまう。

禁断の愛だけにそこに至るまでが難関と思っていたら、それはあっさりクリア。話は想いを確かめ合ってからのことに移る。もっとも内容は結ばれる前に予習済みであるはずの罪悪感といったものだ。母親(浅野ゆう子)も何かを察知するが、なんのことはない、彼女はもう1度だけ顔を出すがそれで終わりだ。

兄妹が恋愛感情になることが理解できないからかもしれないが(でも、双子となると? 生まれる前からずっと一緒、というセリフがあったけど、なるほどそこまでは考えなかったな。何か違うものでもあるのだろうか)、主役の2人よりは、郁に恋する矢野と頼に恋するこれまた同級生の楠友華(小松彩夏)の立場の方が私には興味深かった。

郁に好かれたいと想いながら、それは叶わないと諦念しているのか、お前がゆれたらお終いだと頼に説教する矢野って一体なんなのだ。あとの方でも妹だろうが誰だろうが、好きなんだったら自分の気持ちをごまかしてはダメだというようなことを言う。そんなカッコつけてる場合じゃないのに。

楠も頼と郁のことをわかってての恋(キスシーンまで覗いている)だから、矢野と似ている。どころか、郁に「兄妹でなんておかしい」と説教するだけでなく、頼には「郁の代わりでいいから」と、まるで近親相姦阻止が楠の使命かのような行動に出る。頼にしつこくつきまとい、彼から「好きでなくてもいいなら付き合う」という言葉を引き出し、関係を持つ(ラブホテルに誘ったのは頼だけどね)と、郁の前で頼と付き合っていることをバラしてしまう。去った郁を追いかけようとする頼に言うセリフがすごい。「殴っていいよ。嫌われているうちは、頼は私のものなんだから」

もっとも矢野と楠がいくら頑張っても、頼と郁の2人の世界には入っていけない。2人は仲直りをし、幼い時に「郁は僕のお嫁さんだよ」と頼が結婚宣言をした草原へと向かう。が、トンネルの先にあるはずのその場所は、造成地に変わっていた。

結末の付け方は誤解を招きそうだ。造成地を見て、2人はもう昔には戻れないことを知る。おんぶが罰のジャンケンゲームを繰り返したあと、「俺嘘ついちゃったな、郁をお嫁さんなんか出来ないのに」という頼。キスして、好きだと言い合って、手をつないで歩いて行くのだが……。

登場人物も少なければ、話も入り組んでいない。それが全体に長まわしを多用し、じっくりと人物を追うといった演出を可能にしている。でも、ここは他と違って性急だ。そう思ってしまったのは、2人は関係を清算するのだと解釈してしまったからなのだが、しかしよくよく思い返してみると、昔に戻れないことと、お嫁さんにはできないということは言っているが、2人の関係までをまるごと否定しているのではない。これはやっぱり自分たちの気持ちに嘘はつかないという決意表明としか思えない。

わからないといえば、もっとはじめの方で「私たちはどうして離ればなれになったのか」という郁に、頼が「俺は離ればなれになれてよかった、そのおかげで郁が生まれてきてくれたんだから」と答えている場面がある。2人は離ればなれになったことがあったのか。それとも2人にとっては、生まれてくることが離ればなれになることとでも。

双子の気持ちはわからんぞ。というのが1番の感想だから、矢野と楠が消えてしまうと、私にはとたんに冗長なものでしかなくなってしまう。仕方ないのだけど。

  

【メモ】

頼と郁は同じ部屋の2段ベッド(上が頼)で寝起きしている。母親の疑惑は頼と郁が学校に出かけたあとのベッドメイクから。同室なのは、母親が仕事を始めたのが遅いらしく(父親の不在についての言及はない)、本採用でないから(収入が少ないから)と本人が言っていた。

2006年 122分 ビスタサイズ PG-12 

監督:安藤尋 製作:亀井修、奥田誠治、藤島ジュリーK. プロデューサー:尾西要一郎 エグゼクティブプロデューサー:鈴木良宜 企画:泉英次 原作:青木琴美『僕は妹に恋をする』 脚本:袮寝彩木、安藤尋 撮影:鈴木一博 美術:松本知恵 編集:冨田伸子 音楽:大友良英 エンディングテーマ:Crystal Kay『きっと永遠に』 照明:上妻敏厚 録音:横溝正俊 助監督:久保朝洋
 
出演:松本潤(結城頼)、榮倉奈々(結城郁)、平岡祐太(矢野立芳)、小松彩夏(楠友華)、岡本奈月、工藤あさぎ、渡辺真起子、諏訪太朗、浅野ゆう子(結城咲)

あなたを忘れない

新宿ミラノ3 ★★

■本気で日韓友好を描きたいのなら……

2001年1月26日、JR新大久保駅で酒に酔った男性がホームに転落。助けようとして線路に飛び降りた韓国人留学生イ・スヒョン(26歳)さんと日本人のカメラマン関根史郎(47歳)さんが、ちょうど進入してきた電車にひかれ3人とも死亡するという事件があった。その亡くなった韓国人留学生を主人公にして製作されたのが、この日韓合作映画だ。

兵役を終え留学生として日本にやって来たイ・スヒョン(イ・テソン)は日課のようにマウンテンバイクで東京めぐりをしていた。ある日、路上ライブをしていた星野ユリ(マーキー)の歌声に惹かれていると、トラブルに巻き込まれてマウンテンバイクを壊されてしまい、ユリのバンド仲間でリーダーの風間(金子貴俊)たちにユリの父親の平田(竹中直人)が経営するライブハウスに連れて行かれる……。

スヒョンとユリとに芽生える恋物語を中心とした挿話の数々は決して悪くはないが、といって日韓友好というテーマをはずしてしまうと、そうほめられた内容でもない。

スヒョンは家族思いで、日本に対する偏見もない、とにかく立派な好青年。スヒョンは5歳まで祖父と父と一緒に大阪に住んでいたという設定だから(なのに)、親たちからも嫌な話は聞かされることなく育てられたのだろう(スヒョンに彼の父が「色眼鏡で見ないことだ」と諭す場面もある)。

それに比べると初対面時の平田は偏見の塊。ユリとは喧嘩ばかりというのも、家族が大切なのは韓国では当たり前というスヒョンには理解できないようだ。平田はすでにユリの母親の星野史恵(原日出子)とは離婚していて、商売もうまくいかなくなっている。ユリをなんとか売り込もうとする(形としては風間のバンドとしてだが)が、その点ではユリを利用することでしか自分たちを売り出せない風間も似たようなものだ。果てはスヒョンのマウンテンバイクに車をぶつけながら逃げてしまうタクシー運転手などもでてきて、日本人はどうにもだらしのないヤツらばかりである。

日本のマンガに熱中して日本にやってきたということもあって、スヒョンの親友のヤン・ミンス(ソ・ジェギョン)も悪気のない人物に描かれている。日韓友好を全面に押し出そうとすると、かえってこの日韓の落差が槍玉に上がりそうである。

そんなことは気にしすぎなのかもしれないが、検証はしておくべきだろう。「初対面のベトナム人にベトナム戦争で敵だったと言われた」ことや韓国の兵役が自由のない場所(「日本は何も考えなくていいほど平和で自由」というセリフも。これは皮肉なのだろうけど)であることも語られていたし、すくなくとも映画は公平であることに気を配っていたといってよい。平田にも最後になって見せ場が用意されているし。

なのにいつまでもこだわってしまうのは、「事実に基づいて作られたフィクション」という映画のはじめにある言葉の解釈に惑わされてしまうせいだ。新大久保駅で起きた事件との事実の差についてはいろいろ言われているが、ここまでフィクションに重きを置くのならば、やはりあの事件とは関係なく描いた方がよかったのではないだろうか。

フィクションが取り入れられるのはこの手の映画では当然のことながら、事件から6年しか経っていない生々しさの中で、主人公が実名で出てきては、映画の内容よりそちらの方に興味が向くのはいたしかたないところだ。

例えばスヒョンには韓国に恋人がいたという。それでこんな物語では、恋人は悲しむだろう。韓国に配慮したつもりでいても、こんな大事な部分を改変して韓国で公開出来るはずがないと思うのだが(公開も出来ずに、日韓合作というのもねー)。

ラストシーンもやはり疑問だ。たとえスヒョンが手を広げて電車に立ち向かっていったのが事実(違うと言っている人もいる)だとしても、これについてはどんな形でもいいから捕捉しておかないと、とんでもなくウソ臭いものにしかみえない。

最後の字幕は「この映画を李秀賢さんと関根史郎さんに捧ぐ」で、こうやって締めくくられると、やはり事実の部分が重くのしかかってくる。であれば、なぜ関根史郎さんをあんな扱いにしたのかとか、ホームに人が大勢いたように描いたのかという疑問に行き着くと思うのだが、製作者は何も考えなかったのか。日韓友好を描こうとして、日韓非友好に油を注いでしまっては何にもならないではないか。残念だ。

  

【メモ】

映画のタイトルは、スピッツのチェリーの歌詞から。

2006年 130分 ビスタサイズ 日本、韓国 

監督:花堂純次 プロデューサー:三村順一、山川敦子、杉原晃史 エグゼクティブプロデューサー:吉田尚剛、藤井健、山中三津絵、成澤章 原作:康煕奉『あなたを忘れない』、辛潤賛『息子よ!韓日に架ける命のかけ橋』、佐桑徹『李秀賢さんあなたの勇気を忘れない』(日新報道刊) 脚本:花堂純次、J・J・三村 撮影:瀬川龍 美術:山崎輝 編集:坂東直哉、阿部亙英 主題歌:槇原敬之『光~あなたを忘れない~』、HIGH and MIGHTY COLOR 『辿り着いた場所』 記録:田中小鈴 照明:岩崎豊 録音:西岡正己
 
出演:イ・テソン[李太成](イ・スヒョン[李秀賢])、マーキー(星野ユリ)、竹中直人(平田一真/ユリの父)、金子貴俊(風間龍次)、浜口順子(岡本留美子)、原日出子(星野史恵/ユリの母)、大谷直子(高木五月)、ルー大柴(佐藤)、吉岡美穂(小島朝子)、高田宏太郎(ケンジ)、二月末(テツ)、矢吹蓮(タカシ)、岩戸秀年(ゴロー)、ジョン・ドンファン[鄭棟煥](イ・ソンデ/スヒョンの父)、イ・ギョンジン[李鏡珍](シン・ユンチャン)、ソ・ジェギョン[徐宰京](ヤン・ミンス)、 イ・ソルア[李雪雅](イ・スジン/スヒョンの妹)、ジョン・ヨンジョ[鄭玲朝](ヨンソク)、ホン・ギョンミン(ユ・チジン)