ディア・ドクター

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

写真1:西川美和、笑福亭鶴瓶、瑛太、八千草薫のサイン入りポスター。写真2、3:「実際の撮影で使われた神和田診療所の看板や、鶴瓶師匠が演じたDr.伊野愛用のドクターバッグや聴診器、その他の小道具を展示しております。」(写真3にある黒いプレートにあった説明文)

■人を判断するもの

『ゆれる』に続いてのこの『ディア・ドクター』(『蛇イチゴ』は未見だし『ユメ十夜』の[第九夜]は、短すぎてピンとこなかったが)、やはり西川美和は只者ではなかった。最後の方にちょっとした疑問はあるが、傑作なのは間違いない。溶け出したアイスという小道具にまで目が行き届いた演出に、『ゆれる』でのたくっていたホースを思い出した。

話は単純だ。伊野が無医村に来て三年、彼の評価は上々で、どころか上がるばかりだったのに、突然失踪してしまい、刑事が行方を調べはじめる。映画は、その聞き込み調査と、伊野のところに研修医の相馬がやってきて来てからの、つまり現在と少し前の過去を巧みに組み合わせた構造になっていて、この二つは、ところどころで、伊野(だけではない)の実像と虚像とを対比する。

虚像とはむろん伊野が偽医者だったことを指す(と書いてしまったが、これは周囲が勝手に作り上げたもののようでもあり、なかなかに難しい)。伊野の虚像部分に対する松重豊演じる刑事の歯に衣着せぬ物言いは的を射たものだが、反面、伊野に対する村人たちの見方や反応を限定してしまいそうで、心配になる。

伊野を連れてきて鼻高々だった村長の落胆は大きく、伊野様々だった村人たちでさえ、もう陰口をききはじめる始末だ。そういう光景を散々見ながらも、刑事は、いま伊野がここに戻ったら、案外袋だたきになるのは僕らの方かも、と漏らす。失踪調査で偽医者であることが判明して、すぐにこんな状況なのは、結局のところ、伊野への評価もすべて肩書きがあったからということになってしまう。それとも刑事の発言は、村人たちの反応が、刑事である自分へ向けた表向きの顔であることを見透かしてのものなのか(なら、自分の発言の及ぼす力のこともわかっているのだろう)。

もっとも映画の主眼は、そういうことの追求ではなさそうである(付随した効果という意味では大いに意識してやっているのだろうが)。また逆に、偽医者に対する関係者の反応を面白がっているというのでもなく、ただ、事例を並べていったという感じなのだ。まあ、それこそ巧妙に並べられているのではあるが。

他にも薬屋(問屋?)の営業マンとの怪しい関係など、なんとも興味深いものもあるが、結局、伊野が何を考えていたのかはわからない。推測するならば、高給(年二千万円もの大金を村は支払っていた)に見合ったことくらいは多少なりともしようと思ったのか(偽物としては本物以上の気配りが必要だったはずだ)。あるいは(またはその結果として)人に喜ばれることの楽しさを知ってしまったのだろう(これは大いにありうることだ)。

そして映画は、その喜ばれていることが一筋縄ではいかないことを描くのも忘れていない。

死にかけている老人を前に伊野は手を尽くそうとする。が、家族の方はもう大往生なのだからと、死んでくれることを願っている場面がある。臨終宣言のあと、伊野が老人を抱きかかえて「よう頑張った」と背中をさすってやると、つかえていた物がとれ息を吹き返す。集まっていた村人の万歳三唱の中、帰って行く伊野。万歳の中に家族の姿があったかどうか思いだせないのだが、たとえあったとしても、もうそれは伊野には知られてしまったことで、だからってそれすら家族は何とも思ってはいないのだろうが……。

伊野の命取りとなる鳥飼かづ子の場合にも、それぞれの事情が存在する。胃の調子の悪いかづ子は、娘たちの、とりわけ東京で女医になったりつ子には心配をかけまいと思っていて、伊野に一緒に嘘ついてくれと言う。りつ子の方は、父の死の時にも取り返しのつかないことをしてしまったという想いがあるらしく、知らないまま何かがあってはと、医者のはしくれとしての恐れもあるのだった。

伊野の必死の勉強(偽医者だからね)にもかかわらず、当然ながらかづ子の胃癌は進行し、盆休み?で帰ったりつ子と伊野の間で、偽(薬屋)の胃カメラの写真を前に、医学的見解が述べられ、りつ子も伊野の意見に納得する(勉強の成果なんだろう)。が、このあと、りつ子の次の帰省が早くて一年後ということを知ると、急に慌てたように、ここで待つようにりつ子言い残して伊野は姿を消してしまうのだった(この、ここで待ては、自分の代わりに村で診療し、母親を診ろと言っているようにもみえるが、これは考えすぎか)。

伊野は、経験豊かな看護婦の大竹主導で気胸の患者を救い(この場面は見物だった)、街の総合病院に運んで手術が行われている時にも姿を消そうとしているかのようだった。だから伊野は慌ててはいたが、逃げ出すタイミングを計っていたのかもしれず、でなければ相馬に僕は免許がない(これは車のだったが)とか、偽医者だ、とは冗談にでも言えなかったのではないか。

伊野の失踪で、診療所の看板は下ろさざるを得なくなる。なにしろ年収二千万でもなり手がいないのだ。ってことは、それ以上に医者は儲かるのか。または、やはり僻地生活などしたくないってことなのだろう。必要以上に多くを語らないのがこの映画だが、こういう誰もが抱く疑問や無医村の問題については、なるほどと思う。しかしそれにしても、大竹や相馬の失踪後の伊野評がはっきりしないのは何故か。一番の関係者たちなのに時間もそう長くとっていないから、これはわざとなのか。

大竹は地元での職を失うわけで、といって伊野を弁護しても何も得られないことくらいはわきまえていそうである。刑事も大竹には伊野との関係に話題を振っていた(大竹は否定)。相馬は伊野に入れ込んでいて、将来はここにこようと思っていたくらいだから、しどろもどろなのも無理はない。そしてやはり研修医という立場では自分を取り繕うしかなかったのだろう。こんなだから「伊野を本物に仕立てようとしたのはあんたらの方じゃないのか」と刑事に毒づかれてしまう。

意外なことに(かづ子の家族としてなら意外でも、医者としてなら必然なんだろう)最後になって伊野を信頼(そこまではいっていないのかも)しようとしたのはりつ子で、「あの先生なら、どんなふうに母を死なせたのかなぁ」と刑事に伊野を捕まえたら聞いてほしいと頼んでいた。

ここでどうにも気になるのがかづ子の応対で、刑事の事情徴収に、伊野を信用したことを怖いと言い、あなたに何かをしてくれたかという問いには、何も、と答えているのだ。何もしてくれないように頼んだのは他ならぬかづ子自身で、だからその答えは間違いではないにしても、伊野は彼の持てる力以上のことをしてくれたのではなかったか。だからかづ子の答えは、成り行きで言ってしまったにしても、そう簡単には受け入れられないものだ(これが最初に浮かんだ疑問である)。

このあと、伊野と刑事たちが駅のプラットホームで、気付くこともなくすれ違う場面がある。そして最後は、入院中のかづ子と伊野が鉢合わせして、二人が笑って、映画はお終いとなる。

この場面のためにホームでのすれ違い場面を用意したのだろう。これは気が利いた処理である。が、二人の笑顔で終わらせたいのであれば、かづ子の刑事に対する答えはもう少し違ったものでなければ、と思ってしまう。そうでないのなら、このラストは外してしまうべきではないか。

ただ、伊野が東京の、それもわざわざりつ子が勤務する病院の職員(それとも出入りの業者か何かなのか)になっているのが、大いに引っかかるところである。伊野はりつ子の勤務先までは知らなかったのだろうか。そうでなくても病院に出入りした場合の危険性は考慮するのが当然ではないか。それともこれはわかっていてのことなのか。職員でなく、単にかづ子に会いに行ったのだとしたら……。

考え出すと切りがなくなるのだが、笑顔の裏にある伊野という男のある部分がちらついて仕方がなくなってくる。そこまでを含めたラストということなら、これはこれで人間の業を考えさせる怖い結末だろう。

  

2009年 127分 ビスタサイズ 配給:エンジンフィルム、アスミック・エース

監督・原作・脚本:西川美和 プロデューサー:加藤悦弘 企画:安田匡裕 撮影:柳島克己 美術:三ツ松けいこ 編集:宮島竜治 音楽:モアリズム 音楽プロデューサー:佐々木次彦 衣裳デザイン:黒澤和子 照明:尾下栄治 録音:白取貢、加藤大和

出演:笑福亭鶴瓶(伊野治)、瑛太(相馬啓介/研修医)、余貴美子(大竹朱美/看護婦)、八千草薫(鳥飼かづ子)、井川遥(鳥飼りつ子/かづ子の娘、医師)、香川照之(斎門正芳/薬屋の営業)、松重豊(刑事)、岩松了(刑事)、笹野高史(村長)、中村勘三郎(総合病院の医師)

天使と悪魔

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■神を信じている悪魔

カトリック教会の法王の座を巡る陰謀に『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドン教授が巻き込まれる。ラングドンは、「あの事件(『ダ・ヴィンチ・コード』)でヴァチカンから嫌われた」はずだったが、宗教象徴学者の協力が必要と感じた警察の要請で、捜査に加わることになり、ローマへと出向いて行く。

完成したばかりの反物質が盗まれて、それを爆弾代わり(五トンの爆弾に相当する強力なもの)にヴァチカンを消滅させると脅されてしまうのだが、まずその反物質が完成するタイミングとそれを盗み出す労力を考えると、かなり馬鹿げた話になってしまう。いや、完成が確実になった時点で、って少し苦しいが、暗殺に取りかかればいいのか。でもこれだと教皇選挙(コンクラーベ)にはリンクしなくなってしまうものなぁ。

教会と対立するイルミナティの存在を暗示して目をそらすために四教皇(次期法王候補者)を殺害する設定(この最後にヴァチカン消滅の反物質というのが犯人の予告シナリオ)もどうかと思うし、ラングドンと反物質の研究にかかわっていたヴィットリアが捜査の中心になる展開も強引だ。とくに最後の真犯人がわかる録画を二人が見ることになる場面は御都合主義もいいとこで、首をひねりたくなる。

が、観ている時は次から次へと殺人が予告されているので、余計なことを考える余裕などはない(なにしろ一時間刻みの殺人予告だから、のんびりなどしていられないのだ)。しかも現場到着が、いつも五分前だったりする(わけはないが、そんな感じ。で、手遅れになっちゃったりもするのだ)。

とにかく見せ場はふんだんすぎるくらいあって、カメルレンゴ(これは役職名なのね)が反物質を持ってヘリコプターに乗り込むという、思ってもみなかった人物のスーパーマンぶりまで見ることができる(ヘリコプターの操縦までできちゃうのだ! そうか、だからユアン・マクレガーだったのね。って、違うか)。また、ラングドンが推理を間違えるので(殺人の予告場所をひとつとカメルレンゴが危ないという二つ)、こちらもそれに振り回されるっていうこともあるが、息つく暇がないくらいだ。

しかしそれ以上に興味深かったのが、ヴァチカンの記録保管所に入るための交換条件のようにカメルレンゴから突きつけられた、神を信じるかという問いと、それに対するラングドンの答えだった。正確な言葉は忘れたが、私は学者だから信じていないが、心の部分では神に感謝しているというもの(いや、贈り物と思っている、だったか)。

これはなかなか頷ける答えだ(私の答えは、「神は信じないが、神という視点で考えることを人間は忘れてはならない」だから、これだと、神を信じないで神の視点がわかるのかと反論されてしまいそうで、だから閲覧はさせてもらえそうにない)。

反物質なんて物をわざわざ持ち出した設定も、要するに科学によって人間が神の領域に踏み込んでいく象徴的な意味を込めたかったのだろう。けれど神を信じる人がこんな物語を作るだろうか。

カメルレンゴの思考は間違ったものだが、科学に宗教が抹殺されると思ってのことと、少しは肩入れしてやってもいいのだろうか。でないと、彼の英雄的行為は説明できなくなってしまうが、これくらいの博打が打てないようでは法王にはなれないと踏んだのかもしれない。もちろんだからといって、暗殺者と繋がっていいわけがないし、自分も殺人という過ちを犯してしまっている(そうは感じないのだろうが)のだから何ともやっかいだ。正義(彼にとってのだが)のためなら手段を選ばずというわけか。

作者はここに悪魔をみているのだろうか。追い詰められて自殺する時も、神の手に委ねると言っていた者に。それとも天使と悪魔というのは単なる符合にすぎないのか。

宗教に欠点があるのは人間に欠点があるのと同じ、という最後に出てくるセリフも、私には、いかにも宗教を作ったのは人間と言っているようにしか思えないのだが、そのすぐあとで、恵深い神はあなた(ラングドン)をつかわしたとも言わせていて、これはずるいよね。というか、この曖昧さ(科学と宗教の共存)を結論にしてしまったようだ。

面白かったのは、それまで馬鹿丁寧にピンセットで扱っていた古文書を、解読している暇がないとみたヴィットリアが、いきなり該当ページを引きちぎってしまう場面だ。これにはラングドンも唖然とするばかりで(観客もびっくり!)、やったのは自分ではなくヴィットリアだと、後に二度も否定していた。宗教象徴学者としては正しい見解だろうか。強く否定したお陰かどうか、ラングドンは最後にヴァチカンから、研究にお使い下さいと、彼にとっては垂涎のそれを貸し出してもらっていた。

  

原題:Angels & Demons

2009年 138分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳監修:越前敏弥

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ジョン・キャリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』 脚本:デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:アラン・キャメロン 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダン・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー

出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)、ステラン・スカルスガルド(リヒター隊長)、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ(オリヴェッティ刑事)、ニコライ・リー・コス(暗殺者)、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)、トゥーレ・リントハート、デヴィッド・パスクエジ、コジモ・ファスコ、マーク・フィオリーニ

ディファイアンス

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■生きるが勝ち

ナチスによる狂気のようなユダヤ人狩りから逃れた人々の実話。ユダヤ人レジスタンスとして有名なビエルスキ兄弟の活躍を描く。有名と書いたが、彼らのことがよく知られるようになったのは15年ほど前らしい。

予備知識なしで観たこともあるが、実は最初の10分は予告篇から寝ていて、その部分は次の回に、つまり最後になって観るという馬鹿げたことをやってしまったため、トゥヴィア、ズシュ、アザエルが兄弟(アーロンもか)だということが、しばらくわからずにいた。だってさ、似てないんだものトゥヴィアとズシュって(寝ちゃったのが悪いんだけどさ)。

映画は、娯楽作として割り切っても十分楽しめるが、歴史の知識があればさらに興味深く観ることが出来たと思われる。対ナチス(+その協力者)だけでなく、ズシュが入隊(?協力なのか)するソ連赤軍も何度か出てきて、ベラルーシの地理的背景が浮かび上がってくるのだが、自分の知識の無さがもどかしくなった。この地にはユダヤ人が多数住んでいたようだ。そのことはなんとなくわかる程度にしか描かれていないが、映画で説明するには複雑すぎるのだろう。

迫害される状況にあって協力して生きていかなければならないのに、とりあえずの平穏が得られると、情けないことにすぐさま別な形で不満を持つ者が現れるのは、どこでも同じだろうか。共同体における基本的な問題は、特に危機と隣り合わせというような状況にあっては指導者の力量にかかってくるが、トゥヴィアもズシュも、ただの農夫と商店主だったわけで、ごく普通の人間にすぎなかった。兄弟げんかは度々だし、トゥヴィアは激情にかられて両親の復讐に走る。相手は警察署長。彼の多分初めての人殺しは、相手の家族団欒の場に乗り込んでのことになる。

復讐を果たしたトゥヴィアだが、ズシュが結局はドイツ軍と闘う道を選ぶのとは対照的に、女や子供、老人たちを引き連れ、森の中で何とか生き抜く道をさぐることになる。はじめのうちこそ農家から食料を奪ったり、ドイツ軍への攻撃もズシュと共に繰り返していたが、犠牲者を出してしまったことで「生き残ることが復讐だ」「生きようとして死ぬのなら、それは人間らしい生き方だ」と思うようになっていく。

観たばかりのチェ2部作(『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』)が攻めのゲリラなら、こちらは守りのゲリラか。見かけも映画の質もかけ離れているが、直面する問題は変わらない。この作品の方が、親切でわかりやすいのは娯楽作を創ることを念頭に置いているからだろう。

わかりやすいということは具体的ということでもある。なにしろ大人数だから、森の中に村が出来上がっていくことになるのだが、そのあたりも物語の進行の中で、人物紹介を兼ねるように手際よく見せていく。未開の地を開拓したのだろうが、よくそんなことが可能だったと驚く(最初の地は逃げ出すことになるのだが)。女や老人にも役割分担が与えられる。みんなが働く必要があるのだ。木を伐りだし小屋を作ることから始めなければならないのだから。

が、まだ1941年のことで(解放までにはまだ3年以上もあるのだが、でももしかしたら彼らの誰もが、そんなに早く自由の身を取り戻せるとは思っていなかったかもしれない)、最初に迎える凍りつく冬に食料は底をつき、食料調達班の造反やトゥヴィア自身が病気になるなど、最大の危機がやってくる……。愛馬を殺して食料にし、造反したリーダーは有無を言わせず射殺してしまう。あっけにとられるくらいの、このトゥヴィアの行動は、しかし、ではどうすればよかったのかと問われると、何も言えなくなる。

内容が盛り沢山すぎて書いているとキリがなくなるので、いくつかを覚え書き程度にメモしておく。ゲットーからの集団脱出の手助け。兄弟それぞれの恋。ドイツ軍の攻撃を知って、沼地のような大河(国土の20%を占めるという湿原か?)を全員で渡る場面。トゥヴィアもさすがに躊躇するが、アザエルが成長した姿をみせる(あの泣いていたアザエルがだよ。ま、奥さんもらっちゃったしね)。なんとか渡りきったところに戦車が登場するなど、派手さこそないが、次々と見せ場がやってくる。ドンピシャのタイミングでズシュが助けに現れては(帰って来たのだ)、真実の物語にしては脚色しすぎなんだけど、許しちゃおう。

教師ハレッツとイザックの知的?コンビの会話もいいアクセントになっていた。このハレッツは「信仰を失いかけた」というようなことを度々口にしていた。「もう選民という光栄はお返しします」とも。そういうことにはならないのだけど、とりあえずそれだけは返してしまった方がよかったと私は思うんだが。

 

原題:Defiance

2008年 136分 アメリカ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック、ピーター・ジャン・ブルージ 製作総指揮:マーシャル・ハースコヴィッツ 原作:ネハマ・テク 脚本:クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:ダニエル・クレイグ(トゥヴィア・ビエルスキ)、リーヴ・シュレイバー(ズシュ・ビエルスキ)、ジェイミー・ベル(アザエル・ビエルスキ)、アレクサ・ダヴァロス(リルカ)、アラン・コーデュナー(ハレッツ/老教師)、マーク・フォイアスタイン(イザック)、トマス・アラナ(ベン・ジオン)、ジョディ・メイ(タマラ)、ケイト・フェイ(ロヴァ)、イド・ゴールドバーグ(イザック・シュルマン)、イーベン・ヤイレ(ベラ)、マーティン・ハンコック(ペレツ)、ラヴィル・イシアノフ(ヴィクトル・パンチェンコ/ソ連赤軍指揮官)、ジャセック・コーマン(コスチュク)、ジョージ・マッケイ(アーロン・ビエルスキ)、ジョンジョ・オニール(ラザール)、サム・スプルエル(アルカディ)、ミア・ワシコウスカ(ハイア)

ティンカー・ベル 日本語吹替版

TOHOシネマズ錦糸町シアター8 ★★★☆

■わがまま娘が物作りという才能を開花させるとき

妖精ティンカー・ベルとして誕生した彼女に教えることで、同時に観客にもネバーランドにあるピクシー・ホロウという妖精の谷が紹介されていく。細部まで神経の行き届いた色鮮やかな景色や物に妖精たち……。いかにもディズニーといった世界なのだが、ファンタジーにはなじめない私も、このアニメの出来にはうっとりさせられた。

妖精たちの仲間入りを果たし、才能審査の末、物作り担当となったティンカー・ベルだが、物作りはメインランド(人間界)に行けないと知ると、自分の仕事がつまらなく思えてしまい、メインランドへの憧ればかりが膨らんでいく。

こんな場所で暮らせるだけでも素敵なのに、それにメインランドが何たるかも知らないっていうのに、と思わなくもないが、これは子供のあれが欲しいこれも欲しい的発想に近いかもしれない。

だから屁理屈は並べず、ティンカー・ベルのわがままが思わぬ騒動を起こして、春(を作り出すの)が間に合いそうになくなる、という流れは、大人にはもの足りなくても、子供たちには受け入れやすいのではないか。

実際、私の観た映画館は日本語吹替版ということもあって、かなりの人数を子供(5歳くらいの子も多かった)が占めていたのだが、驚くほど静かな鑑賞態度だった(上映時間が短いっていうのもある)。

そうやって不平不満分子のティンカー・ベルが色々なことに気づいていく教訓話であり、自分という個性の発見物語(無い物ねだりはやめようという話でもある)には違いないのだが、ティンカー・ベルに物作りという役割をふったことで(Tinker Bellは鋳掛け屋ベルとでも訳せばいいのだろうか。だから物作りなのね)、結果として子供向けの映画でありながら、物作りが基本の実体経済を顧みずに、マネーゲームに走って金融危機を招いたアメリカ合衆国の姿を反映することになったのは面白い。

もっともティンカー・ベルのやったことは、大量生産的手法で生産効率を上げることでしかないし(人類はそのことで生じた負の部分をどうするかについてはまだ明確な答えが出せずにいるものなぁ)、手間暇かける手作りのよさをないがしろにしているようにもみえてしまうから心配になる。それに、妖精のくせしてメインランドからの漂着物利用で難を逃れるというのも、解せない話ではある。

まあ、大量生産で間に合わせたからといって、予定通り春が用意出来れば次の夏をすぐさま作り始める必要などまるでないわけで、そもそもネバーランドでの生産活動は地球温暖化に繋がるものではないし、時間が余ったからといってその分余計に働かされるという心配もなさそうなんだけどね。

  

原題:Tinker Bell

2008年 79分 ■サイズ アメリカ 配給:ディズニー

監督:ブラッドリー・レイモンド 製作:ジャニーン・ルーセル キャラクター創造:J・M・バリー 原案:ジェフリー・M・ハワード、ブラッドリー・レイモンド 脚本:ジェフリー・M・ハワード 音楽:ジョエル・マクニーリイ 日本語吹替版エンディングテーマ:湯川潮音「妖精のうた」

声の出演:深町彩里(ティンカー・ベル)、豊口めぐみ(ロゼッタ)、高橋理恵子(シルバーミスト)、坂本真綾(フォーン)、山像かおり(フェアリーメアリー)、石田彰(ボブル)、朴路美(ヴィディア)、高島雅羅(クラリオン女王)

転々

テアトル新宿 ★★★☆

■疑似家族に涙する大学8年生

サラ金の取り立てを稼業としている福原愛一郎(三浦友和)は、はずみで殴った妻が死んでしまい、吉祥寺(調布?の飛行場も映っていたが)からわざわざ桜田門まで、しかも歩いて自首するのだという。それに付き合えば100万円がもらえるからと、話に乗ってしまったのが取り立てを食らって福原の靴下を口に詰め込まれてしまった竹村文哉(オダギリジョー)で、2人で東京を「転々」としながら何となく目的地へ向かうという奇妙な旅?がはじまる。

大学8年生で、借金苦のどん底生活とナレーションも担当している文哉が、淡々と自分を説明するのだが、そりゃ十分悲惨だと思う。

片や、年上だし口調も偉そうな福原だけど、妻(宮田早苗)との関係では、こちらも言い尽くしがたい闇を抱えていたようである。夜、2人でバス散歩と洒落てみるが、声もかけずに自分だけ下車してしまう妻に、残された福原は茫然とするばかりで、この回想映像に深い意味はなさそうだが、闇の深さは十分わかる。

もっともそんな福原ながら、ある事情で仮の夫婦となった麻紀子(小泉今日子)と、まんざらではない間柄にあるのだから、いい加減なものなのだ。

さらに麻紀子の姉の子のふふみ(吉高由里子)が加わって、そして文哉も成り行きとはいえ福原と麻紀子の息子役をけっこう嬉々として演じ、1組の家族らしきものが出来上がることになる。

親に捨てられた文哉にとっては、疑似家族といえども涙の出てきてしまう存在で、福原が自首することをおしとどめたくなっている自分に気付くのだが、そんな文哉を残して福原は桜田門に向かっていく。

しかしそれにしても疑似家族に涙するような結末で締めくくらなければならないのが現代のある形であるのなら、なんとも痛々しい地点に我々はいるのだろう(でもまあ、そうなのかもね)。

三木ワールドで味付けした東京散歩は、随所に隠し味があって楽しめるが、少々地理的な不都合を感じなくもなかった(転々なのだから、これでいいのかもしれないが)。

 

2007年 101分 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム

監督:三木聡 製作:辻畑秀生、宮崎恭一、大村正一郎 プロデューサー:代情明彦、下橋伸明 エグゼクティブプロデューサー:甲斐真樹、國實瑞惠 企画:林哲次、菊池美由貴 原作:藤田宜永『転々』 脚本:三木聡 撮影:谷川創平 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 エンディングテーマ:ムーンライダーズ『髭と口紅とバルコニー』 コスチュームデザイン:勝俣淳子 照明:金子康博 録音:瀬谷満 助監督:高野敏幸

出演:オダギリジョー(竹村文哉)、三浦友和(福原愛一郎)、小泉今日子(麻紀子)、吉高由里子(ふふみ)、岩松了(国松)、ふせえり(仙台)、松重豊(友部)、広田レオナ(鏑木)、津村鷹志(時計屋の主人)、宮田早苗(福原の妻)、石井苗子(多賀子)、横山あきお(石膏仮面)、平岩紙(尚美)、ブラボー小松(ギターマン)、末広ゆい(募金を呼びかける女子高生)、渡辺かな子(募金を呼びかける女子高生)、並木幹雄(助監督)、明日香まゆ美(植物園のおばさん)、福島一樹(少年文哉)、村崎真彩(少女尚美)、麻生久美子(三日月しずか)、笹野高史(畳屋のオヤジ)、鷲尾真知子(愛玉子店のおばさん)、石原良純(愛玉子店の息子)、才藤了介(駅員)、風見章子(お婆さん)、岸部一徳(岸部一徳)

デジャヴ

109シネマズ木場シアター7 ★★★☆

■トンデモ装置で覗き見した女性に恋をする

冒頭のフェリー爆破テロ事件にまず度肝を抜かれる。海兵隊員たちにその家族が乗り込んでマルディグラ(ニューオーリンズのカーニバル)のお祭り気分の中、少女が人形を海に落としてしまう場面がある。ナンバープレートのはずされた車と繋がっては、事件を予感せずにはいられないが、このあと突然起きる爆破で、丸焦げになった人々が次々に海に落下していく描写が凄まじい。細切れの、しかし生々しい救助や事後処理の場面に続いて、男が1人、現場のあちこちで証拠集めをしている場面へと次第にかわっていく。

この流れは、カット割りは映画術を駆使しながら、イメージとしては手を加えていないドキュメンタリーに近いものを感じさせる。すでに爆音は遠いものになっているのに、気持ちの収まりがついてくれない感じがよく表現されていた。

男はATF(アルコールタバコ火器局)のダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)で、この捜査の手際のよさがFBIの目に止まり、彼らに力を貸すように頼まれる。

ここからの展開は、内容があまりに奇抜で、そのSF的仕掛けにはついていけない人も多そうだが、そこさえ割り切れれば実によくできた話になっている。SF大好き人間ではあるが、タイムマシンものには抵抗がある私としては微妙なのだが、でも楽しんじゃったのね。このアイディアと力業を簡単にけなしてしまうのは、あまりにもったいないんだもの。

543名の犠牲者を出したフェリー爆破事件はテロと断定され、カーリンは「タイム・ウィンドウ」と呼ばれる極秘装置を使って、その捜査に当たるように言われるのだが、この装置というのがトンデモものなのだ。

仕様を書くと、センサと4つの偵察衛星から送られたデータで、場所の制限はあるものの、好きな場所のかなり鮮明な映像を映し出すことができ、建物の中の映像もOKという(えー!)。ただ、復元のための情報処理に膨大な時間がかかるため、常に処理時間後の、つまり映像としては4日と6時間前のものしか見ることが出来ない。しかも1つの映像を見るチャンスは1度で巻き戻しもできない。

しかしこの説明は少しおかしくて、一旦モニタに映し出されたものを別の装置で録画するのはたやすいはずで、何度も見ることくらいわけないだろう。それに4日と6時間前なら瞬時に見えるのではなく、場所を特定してから4日と6時間後のはずだと思うのだが、まあこの際野暮なことは言うまい。

トンデモ装置はあっても、4日前の何を探ればよいのかがわからなければ意味がないわけで、そのために土地勘もあり的確な判断のできるカーリンが選ばれたのだった(ハイテク装置も使う人次第ってことね)。彼は捜査の段階で発見した若い女性の遺体が事件の鍵を握っていると考え、彼女の家を監視装置で追うよう指示を出す。そして、モニタにはクレア・クチヴァー(ポーラ・パットン)の、「まだ生きている」映像が映し出される。

覗き見という悪趣味に晒された上、クレアには死が待っている。何ともたまらなく厭な場面なのだが、モニタに映る彼女は美しいだけでなく、食事に祈りを欠かさないたたずまいの美しい人でもあった。映画だからといってはそれまでなのだが、そういうクレアを覗き見して、カーリンは彼女を好きなってしまったのだろう。とはいえやっぱり悪趣味なのだが。

監視をつづけるうち、クレアがこちらの装置が出す光に反応するのをカーリンは見る(その前にクレア自身も誰かに見られているようで気持ちが悪いと言っていた)。ここからもう1つトンデモ話が加わることになる。

要するにこの現象は時空を折り曲げているのであって、まだ実験段階ながら映像の向こうに物質を送ることも可能なのだという。これを知ったカーリンが、まだこのあとに現在と4日前の映像を左右の目で見分けながらのカーチェイスというびっくり仰天場面なども入ってくるのだが、クレアをみすみす死なせることなどできないと、4日前に自分自身を送り込むのだ。

よくやるよ、とチャチを入れたくなるが、この2つのトンデモ前提さえ目をつぶれば、話の巧妙さには喝采を送りたくなること請け合いだ。全部を書いている余裕などないが、ここから試行錯誤しながらも、カーリンの相棒の死や、自分の残した「U CAN SAVE her」というメッセージなどが、パズルのように解明されていくのである。

カーリンは犯人を倒し、つまりフェリーの爆破を防ぎ、残虐な死からクレアを救うのだが、彼は死んでしまう。しかし彼の死は、タイムマシンものについてまわる大きな矛盾を回避してしまうことになる。なにしろカーリンが消えてくれないと、もともと4日前にいたカーリンとで2人のカーリンが存在することになってしまうから。

ラストではクレアのことを知らないカーリンが彼女と会って、タイトルのデジャヴを口にする。なるほどね。馬鹿馬鹿しいのに感心してしまった私。

【メモ】

カーリンが4日前に自分自身を送り込んだ先は病院。胸に蘇生処置をしてくれと書いたメモを貼って、タイムトラベルをする。

原題:Deja Vu

2006年 127分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トニー・スコット 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:テッド・エリオット、チャド・オマン、テリー・ロッシオ、マイク・ステンソン、バリー・ウォルドマン 脚本:テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ 撮影:ポール・キャメロン プロダクションデザイン:クリス・シーガーズ 衣装デザイン:エレン・マイロニック 編集:クリス・レベンゾン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
 
出演:デンゼル・ワシントン(ダグ・カーリン)、ポーラ・パットン(クレア・クチヴァー)、 ヴァル・キルマー(プライズワーラ)、ジム・カヴィーゼル(オースタッド)、アダム・ゴールドバーグ、エルデン・ヘンソン、エリカ・アレクサンダー、ブルース・グリーンウッド、エル・ファニング、マット・クレイヴン、ションドレラ・エイヴリー

天国は待ってくれる

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★☆

■聖なる三角形は正三角形にあらず

宏樹が築地北小学校に転校してきた日から、薫と武志の3人は大の仲良しになった。それは成人しても変わらず、今では宏樹(井ノ原快彦)は父親の夢だった新聞記者になって朝日新聞社に勤め、武志(清木場俊介)は親(蟹江敬三)と一緒に築地市場で働く。そして薫(岡本綾)は「聖なる三角形」になるようにと「銀座のお姉さん」として和文具の老舗鳩居堂の店員になっていた。

「聖なる三角形」というのは、自分たちのことをいつまでも変わらない関係を指して彼らが小学生の時から言っていた言葉だ。だけど、といきなり脱線してしまうのだが、朝日新聞社と築地市場と鳩居堂では三角形には違いない(3点を結べばたいていは三角形になるものね)が、これだと薫の位置は2人からは遠くなり、そして薫からだと武志より宏樹の方が近い位置になってしまうのである(築地市場は広いのでブレはあるが、それにしても本願寺あたりでないとまずいだろう)。

映画はこの三角形のゆがみそのままに展開する。至近距離で働く3人だが、といって子供時代のようにそうは会えるわけではない。特に武志は働く時間帯が2人とはあまりに違いすぎて、久しぶりに3人で出かけても居眠りしてしまう始末。それでかどうか、ある日宏樹と薫を呼び出しておいて、3人の時に言いたかったと前置きし、薫にプロポーズをする。この場面は「宏樹、俺、今から薫にプロポーズする、いいか」というようになっている。つまり、武志は宏樹に向かって薫にプロポーズするというわけだ。

武志より宏樹がより好きな(より近くにいるからね)薫はあわてて「ちょっと武志なに言ってんの」とごまかそうとするが、優しい宏樹は「いいじゃん、それがいいよ、おまえらお似合いだし、な薫」と答えてしまい、つられたように薫までが「そ、そうだね」と言ってしまうのだ。いや、ちょちょっと待ってくれと当事者でなくとも口を挟みたく場面なのだが、武志は1人で舞い上がって冬の海(まだ川か)に飛び込んでしまう。え、これでごまかそうってか。

結局このまま結婚へと進んでいくのだが、なんと式の当日に武志は車の事故で植物人間となってしまう。武志の入院先は聖路加なのだろう(多分)、つまり武志が築地市場から移動することで、三角形は以前に比べより正三角形に修正されるのである。武志に意識は戻らないながら、2人は毎日のように病室に顔を出し、3人の親密な時間が帰ってくる。これには宏樹が記者から内勤の仕事に代わって、武志との時間を作るようにした(しつこいが、眠ってるだけなんだよな)ということもあるのだが、私にはすっきりしない展開だ。しかも「武志は絶対目を覚ますから」と何度も言う。気持ちはわからなくはないが、このセリフは全てを台無しにしている。

昏睡状態は3年経っても変わらず、実は周囲も宏樹と薫が相思相愛だということに気付いていたことから、宏樹も薫と一緒になることを決意する。でもこれもヘンなセリフなのだな。「俺に薫を幸せにさせてくれないか。武志の目覚めるまででいいから」って、こんなのありかよ。で、そんな馬鹿なことを言うものだから、武志は本当に目覚めてしまうのだ。おいおい。

記憶は完全ではないものの元気そうに見えた武志だが、病気が再発し……。そしてまた宏樹と薫を呼び、今度はこんなことを言う。「宏樹、薫を不幸にしたら承知しねえぞ。薫、おまえはずっと宏樹に惚れてたんだ。好きな女のことはわかるんだ」と。だったら何故プロポーズなんかしたんでしょうかねー。自分がもう永くはないということを知ってだとしたら、それもちょっとね。

こうして2人の結婚式が見たいという武志の要望で、式がとりおこなわれ、武志は天国に帰って?いく。俺と薫のために天国から戻ってきてくれたというようなことを宏樹が言っていたからそうなのだろうけど、なんだかな。『天国は待ってくれる』ってそういうことなのかよ。でも、そう言われてもよくわからんぞ。

丁寧すぎるくらいのショットの積み重ねで、ゆっくりと時間がすぎていく感じが、最初のうちは好感がもてたのだが、話があまりにもいい加減だから、途中からは退屈してしまう(築地市場の映像がそれこそ何度も繰り返されるが、これは市場の移転が決まっているからなのだろう)。

3人を囲む家族たちが、薫の母親(いしだあゆみ)や武志の妹の美奈子(戸田恵梨香)など、みな温かくていい人というのも気持ちが悪い。そのくせ病室をサロンと化してしまうような勘違い精神は持ち合わせていて、酒宴まで開いて医師(石黒賢)に酒まですすめる始末。この医師も武志が「戻って来たのは自分の意志ではないか」などと、言うことは(自覚しているのだが)まるで呪術師並ときている。

やだね、悪口ばっか書いて。でもそもそも、三角形の位置関係についてこじつけてあれこれ書いたのも、この作品がひどいからなんでした(私が多少あの近辺には詳しいということもあるのだけれど)。

  

2007年 105分 サイズ■ 

監督:土岐善將 製作:宇野康秀、松本輝起、気賀純夫 プロデューサー:森谷晁育、杉浦敬、熊谷浩二、五郎丸弘二 エグゼクティブプロデューサー:高野力、鈴木尚、緒方基男 企画:小滝祥平、遠谷信幸 製作エグゼクティブ:依田巽 原作:岡田惠和『天国は待ってくれる』 脚本:岡田惠和 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:奥原好幸 音楽:野澤孝智 主題歌:井ノ原快彦『春を待とう』、清木場俊介『天国は待ってくれる』 照明:赤津淳一 録音:小野寺修 助監督:田村浩太朗

出演:井ノ原快彦(宏樹)、岡本綾(薫)、清木場俊介(武志)、石黒賢(医師)、戸田恵梨香(美奈子/武志の妹)、蟹江敬三(武志の父)、いしだあゆみ(薫の母)、中村育ニ、佐々木勝彦

筆子・その愛-天使のピアノ

テアトル新宿 ★☆

■石井筆子入門映画

男爵渡邉清(加藤剛)の長女として育った筆子(常盤貴子)は、ヨーロッパ留学の経験もあり、鹿鳴館の華といわれるような充足した青春を過ごす。教育者として女性の地位向上に力を注ぐが、男どもは今の国に必要なのは軍隊といって憚らない富国強兵の時代だった。

高級官吏小鹿島果(細見大輔)と結婚し子を授かるが、さち子は知的障害者だった(子供は3人だが、2人は虚弱でまもなく死んだという)。「たとえ白痴だとしても恥と思わない」と言ってくれるような夫の果だったが35歳で亡くなってしまう。

石井亮一(市川笑也)が主宰していた滝乃川学園にさち子を預けたことで、次第に彼の人格に惹かれるようになり、周囲の反対を押し切って再婚。ここから2人3脚の知的障害者事業がはじまることになる。

石井筆子を知る入門映画として観るのであれば、これでもいいのかもしれない(詳しくないのでどこまでが事実なのかはわからない)が、映画としてははなはだ面白くないデキである。筆子を生涯に渡って支えることになる渡邉家の使用人サト(渡辺梓)や、後に改心する人買いの男(小倉一郎)などを配したり、石井亮一との結婚騒動(古い考えの父親とサトとの対決も)などでアクセントをつけてはいるが、所詮網羅的で、年譜を追っているだけという印象だ。

辛口になるが、常盤貴子の演技も冴えない。面白くないことがあると(この時は亮一と衝突して)鰹節を削ってストレスを発散させるのだが、この場面くらいしか見せ場がなかった。ついでながら、ヘタなズームの目立つ撮影も平凡だ。

副題の天使のピアノにしても、最初と最後には出てくるが、劇中では筆子の結婚祝いという説明があるだけで、特別な挿話が用意されているわけではないので意味不明になっている。

当時の知的障害者に対する一般認識は、隔離するか放置するかで、縛られたり座敷牢に入れられて一生を過ごすということも普通だったようだ。映画でもそのことに触れていて、さらに「一家のやっかいものだが、女は年が経てば……」と踏み込んでみせるが、それもそこまで。実際の知的障害者の出演もあるが、その扱いも中途半端な気がしてしまうのは、考え過ぎか。

亮一の死後(1937年没)、高齢ながら学園長になった筆子だが、1944年に82歳で没するまで、晩年は何かと不遇の時期を過ごしたようだ。戦時下では、戦地に行き英霊になって帰ってきた園児もいたし、そのくせ「知恵遅れには配給は回せない」と圧力がかかり何人もの餓死者が出たというのだが、1番描いてほしかったこの部分が駆け足だったのは残念でならない。

【メモ】

石井筆子(1865年5月10日~1944年1月24日)。

真杉章文『天使のピアノ 石井筆子の生涯』(2000年ISBN:4-944237-02-2)という書籍があるが、原作ではないらしい。

何故か同じ2006年に『無名(むみょう)の人 石井筆子の生涯』(監督:宮崎信恵)という映画も作られている。こちらはドキュメンタリーのようだ(プロデューサー:山崎定人、撮影:上村四四六、音楽:十河陽一、朗読:吉永小百合、ナレーション:神山繁、出演:酒井万里子、オフィシャル・サイトhttp://www.peace-create.bz-office.net/mumyo_index.htm)。

2006年 119分 ビスタサイズ

監督・製作総指揮:山田火砂子 プロデューサー:井上真紀子、国枝秀美 脚本:高田宏治 撮影:伊藤嘉宏 美術監督:木村威夫 編集:岩谷和行 音楽:渡辺俊幸 照明:渡辺雄二 題字:小倉一郎 録音:沼田和夫 特別協力:社会福祉法人 滝乃川学園

出演:常盤貴子(石井筆子)、市川笑也(石井亮一)、加藤剛(渡邉清)、渡辺梓(藤間サト)、細見大輔(小鹿島果)、星奈優里、凛華せら、アーサー・ホーランド、平泉成、小倉一郎、磯村みどり、堀内正美、有薗芳記、山田隆夫、石濱朗、絵沢萠子、頭師佳孝、鳩笛真希、相生千恵子、高村尚枝、谷田歩、大島明美、田島寧子、石井めぐみ、和泉ちぬ、南原健朗、本間健太郎、板倉光隆、真柄佳奈子、須貝真己子、小林美幸、星和利、草薙仁、山崎之也、市原悦子(ナレーション)

ディパーテッド

新宿ミラノ2 ★★★

■描くべき部分を間違えたことで生まれたわかりやすさ

元になった『インファナル・アフェア』はこんなにわかりやすい映画だったか、というのが1番の感想。向こうは3部作で、観た時期も飛び飛びだったということもあるが、マフィアに潜入する警察と警察に潜入するマフィアという入り組んだ物語も順を追って説明されると、そうはわかりにくいものでないことがわかる。

しかしそれにしても失敗したなと思ったのは、『インファナル・アフェア』を観直しておくべきだったということだ。『ディパーテッド』を独立した作品と思えばなんでもないことだが、でも『インファナル・アフェア』を観てしまっているのだから、それは無理なことなのだ。しかもその観た時期がなんとも中途半端なのである。記憶力の悪い私でもまだうっすらながらイメージできる部分がいくつかあって、どうしても比較しながら観てしまうことになった。といってきちんと対比できるほどではないから、どうにもやっかいな状況が生まれてしまったのだった。

というわけで、曖昧なまま書いてしまうが、違っているかもしれないので、そのつもりで(そんなのありかよ)。

まず、刑事のビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)がフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)にいかにして信用されるようになるか、という部分。ここは意外な丁寧さで描かれていた。だからわかりやすくもある(それになにしろ話を知ってるんだもんね)のだが、逆に『インファナル・アフェア』の時はまだ全体像が見えていないこともあり、それも作用したのだろう、緊迫感は比較にならないくらい強かった。

ビリーを描くことでコステロの描写も手厚いものとなる。この下品でいかがわしい人物は、なるほどジャック・ニコルソンならではと思わせるが、しかしこれまた彼だと毒をばらまきすぎているような気がしなくもない。それにコステロが全面に出過ぎるせいで、家内工業的規模のマフィア組織にしか見えないといううらみもある(マイクロチップを中国のマフィアに流すのだからすごい取引はしているのだけどね)。

この2人に比べると、コステロに可愛がられ警察学校に入り込むコリン・サリバン(マット・デイモン)は、今回は損な役回りのではないか。ビリーには悪人揃いの家系を断ち切るために警官になろうとしたいきさつもあるから、悪に手を染めなければならない苦悩は計り知れないものがあったと思われる。が、コリンの場合はどうか。日蔭の存在から警察という日向の部分で活躍することで、案外そのことの方に生きやすさを感じていただろうに、彼の葛藤というよりは割り切り(そう、悪なのだ)が、そうは伝わってこないのだ。そういえばコステロのコリンに対する疑惑も薄かったような(本当はビリーよりこちらの方がずっと面白い部分なのだが)。

女性精神科医のマドリン(ヴェラ・ファーミガ)もビリーとコリンの2人に絡むことで重要度は増したものの、かえってわざとらしいものになってしまったし、ビリーの存在を知っている人物がクイーナン警部(マーティン・シーン)とディグナム(マーク・ウォールバーグ)で、辞表を出して姿を消していたディグナムが最後に現れてコリンに立ちはだかるのは、配役からして当然の流れとはいえ、どうなんだろ。おいしい役なのかもしれないが、なんだかな、なんである。ということは、脚本改変部分は成功していない(ような気がする)ことになるが。

 

原題:The Departed

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ R-15 日本語版字幕:栗原とみ子

監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、ブラッド・ピット、ブラッド・グレイ、グレアム・キング 製作総指揮:G・マック・ブラウン、ダグ・デイヴィソン、クリスティン・ホーン、ロイ・リー、ジャンニ・ヌナリ 脚本:ウィリアム・モナハン オリジナル脚本:アラン・マック、フェリックス・チョン 撮影:ミヒャエル・バルハウス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:サンディ・パウエル 編集:セルマ・スクーンメイカー 音楽:ハワード・ショア
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ビリー・コスティガン)、マット・デイモン(コリン・サリバン)、ジャック・ニコルソン(フランク・コステロ)、マーク・ウォールバーグ(ディグナム)、マーティン・シーン(クイーナン)、レイ・ウィンストン(ミスター・フレンチ)、ヴェラ・ファーミガ(マドリン)、アレック・ボールドウィン(エラービー)、アンソニー・アンダーソン(ブラウン)、ケヴィン・コリガン、ジェームズ・バッジ・デール、デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ロルストン、ロバート・ウォールバーグ、クリステン・ダルトン、J・C・マッケンジー

鉄コン筋クリート

新宿ミラノ3 ★★☆

■絵はユニークだが、話が古くさい

カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。

この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。

ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。

旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。

だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。

たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。

題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。

  

【メモ】

もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。

2006年 111分 サイズ■ アニメ

監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
 
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)

手紙

新宿ミラノ1 ★★★★

■傾聴に値する

弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。

映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。

直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。

これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。

しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。

そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。

このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。

見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。

由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。

はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。

そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。

直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。

このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。

こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。

と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。

かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。

気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。

それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。

  

【メモ】

運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。

由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。

リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。

家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
 
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)

DEATH NOTE デスノート the Last name

上野東急 ★★★☆

■せっかくのデスノートのアイデアが……

前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。

と、褒めておいて文句を書く……。

前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。

デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。

リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。

しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。

あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。

最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。

とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。

 

2006年 140分 ビスタサイズ

監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)

出口のない海

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■不完全兵器「回天」のもたらした悲劇

4隻の人間魚雷回天と搭乗員の並木(市川海老蔵)たちを積んだ伊号潜水艦は敵駆逐艦に見つかり猛烈な爆雷攻撃を受けるが、潜水艦乗りの神様と呼ばれる艦長の鹿島(香川照之)によって窮地を脱する。

いきなりのこの場面は単調さを排除した演出で、それはわかるのだが、しかしここからはじめるのなら、後半の唐突な伊藤整備士(塩谷瞬)のモノローグは最初からでもよかったのではないか。伊藤整備士と会うのは山口の光基地だから、並木の明治大学時代の話や志願の経緯などはそのままでは語れないが、それは並木から聞いたことにすれば何とかなりそうだからだ。ラストでは現在の年老いた伊藤を登場させているのだが、これはさらに意味がないように思われる。ただただ無駄死にという最後の印象を散漫にしてしまっただけではないか。

最初にラストシーンに触れてしまったが、映画は回天の出撃場面の合間に何度か回想の入る構成になっている。甲子園の優勝投手ながら大学では肩を痛め、それでも野球への情熱は失わずに魔球の完成を目指していた並木。長距離の選手だった同級の北(伊勢谷友介)。北の志願に続くように自分も戦争に行くことを決意する並木。秘密兵器の搭乗者になるかどうかの選択。訓練の模様。家族や恋人・美奈子(上野樹里)との最後の別れ。

美奈子の扱いが平凡なのは不満だが、他の挿話がつまらないというのではない。ただ、何となくこれが戦時中の日本なんだろうか、という雰囲気が全体を支配しているのだ。出だしの爆雷攻撃を受ける場面では、上官が「大丈夫か」などと声をかけるところがある。軍神になるかもしれない人間を粗末にはできなかったのか。そういえば並木の海軍志願の理由は「何となく海軍の方が人間扱いしてくれそう」というものだったが、当時の学生に、海軍>陸軍というイメージはあったのか。それはともかく、いい人ばかりというのがねー。

他にも描かれる場面が、並木たちの行きつけの喫茶店の「ボレロ」であったり、野球の試合だったりで、戦争とはほど遠い感じのものが多いことがある。戦況も含めて何もかも理解しているような父(三浦友和)も、楽天的な母(古手川祐子)も、兄の恋の行方に心を痛める妹(尾高杏奈)も、そして当の並木まで栄養状態は良好のようだし、なにより海老蔵の明るいキャラクターがそういう印象を持たせてしまったかも(もっと若い人でなくては)。戦時イコールすべてが暗いというわけではないだろうが、空襲シーンも1度だけだし、何事もいたってのんびりしているようしか見えないのだ。

「敵を見たことがあるか」という父親との問答は、戦争や国家の捉え方として映画が言いたかったことかもしれないが、これまた少しカッコよすぎないだろうか。これはあとで出てくる並木の「俺は回天を伝えるために死のうと思う」というセリフにも繋がると思うのだが、これがどうしても今(現代)という視点からの後解釈のように聞こえてしまうのだ。こんなことを語らせなくても、回天の悲劇性はいくらでも伝えられるのと思うのだが。

回天が不完全兵器だったことは歴史的事実だから、この映画でもそれは避けていない。1度ならず2度までも故障で出撃できなかった北の苦しみは、死ねなかったというまったく馬鹿げたものなのだが、彼の家が小作であることや当時の状況を提示されて、特攻という異常な心境に軍神という付属物が乗るのに何の不思議もないと知るに至る。

そして、並木も何のことはない、敵艦を前に「ここまで無事に連れてきてくださってありがとう。皆さんの無事を祈ります」という別れの挨拶まですませながら回天の故障で発進できずに、基地へと戻ることになる。伊藤整備士は「私の整備不良のせい」と言っていたが、事実は、そもそも部品の精度すらまともでなかったらしい。並木も、死を決意しながらの帰還という北の気持ちを味わうことになるわけだ。このあと戦艦大和の出撃(特攻)に遭遇し艦内が湧く場面があるのだが、並木は何を考えていたのだろうか。

並木は8月15日の訓練中に、回天が海底に突き刺さり、脱出不可能な構造のためあえなく死亡。9月の枕崎台風は、その回天を浮かび上がらせる。進駐軍のもとでハッチが開けられ、並木の死体と死ぬまでに書きつづった手帳が見つかる。

最初に書いた最後の場面へ行く前に、この家族や恋人に宛てた手帳が読み上げられていくのだが、そんな情緒的なことをするのなら(しかも長い)、回天の実際の戦果がいかに低くかったことを知らしむべきではなかったか。

そういう意味では回天の訓練場面を丁寧に描いていたのは評価できる。模型を使って操縦方法を叩き込まれるところや、海に出ての実地訓練の困難さをみていると、これで本当に戦えるのだろうかという疑問がわくのだが、そのことをもっと追求しなかったのは何故なのだろう。

また回天への乗り込みは、資料を読むと一旦浮上しなければならないなど、機動性に富んだものではなかったようだ。映画はこのことにも触れていない(伊藤が野球のボールを並木に渡す時は下からだったが、ということは潜水艦から直接乗り込んだとか?)。こんな中途半端なドラマにしてしまうくらいなら、こぼれ落ちた多くの事実を付け加えることを最優先してほしかった。

なお、敵輸送船を撃沈する場面で、いくら制空権と制海権を握っていたとはいえ、アメリカ軍が1隻だけで行動するようなことがあったのだろうか。次の発見では敵船団は5隻で、これならわかるのだが。

 

【メモ】

人間魚雷「回天」とは、重量 8.3 t、全長 14.75 m、直径 1 m、推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット、乗員1名、弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており、騒音を発し、操縦性も悪い日本の大型潜水艦が、米軍艦船を襲撃するのは、自殺行為だった。「回天」の技術的故障、三次元操縦の困難さも相まって、戦果は艦船2隻撃沈と少ない。(http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html)

「BOLEROボレロ」のマスターは、名前のことで文句を付けられたらラヴェルはドイツ人と答えればいいと言っていたが?

北「俺が走るのをやめたのは走る道がないからだ」

上野樹里は出番も少ないが、まあまあといったところ。並木の母のワンピースを着る場面はサービスでも、これまた戦時という雰囲気を遠ざける。

美奈子「日本は負けているの」 並木「決して勝利に次ぐ勝利ではないってことさ」 

明大の仲間だった小畑は特攻作戦には不参加の道を選ぶが、輸送船が沈没し形見のグローブが並木の家に届けられていた。

手帳には、回天を発進できず、伊藤を殴ったことを「気持ちを見透かされたようだった」と謝っている。

他には、父さんの髭は痛かったとか、美奈子にぼくの見なかった夕日の美しさなどを見てくれというようなもの。

2006年 121分 サイズ■

監督:佐々部清  原作:横山秀夫『出口のない海』 脚本:山田洋次、冨川元文 撮影: 柳島克己 美術:福澤勝広 編集:川瀬功 音楽:加羽沢美濃 主題歌:竹内まりや『返信』

出演:市川海老蔵(並木浩二)、伊勢谷友介(北勝也)、上野樹里(鳴海美奈子)、塩谷瞬(伊藤伸夫)、柏原収史(佐久間安吉)、伊崎充則(沖田寛之)、黒田勇樹(小畑聡)、香川照之(イ号潜水艦艦長・鹿島)、三浦友和(父・並木俊信)、古手川祐子(母・並木光江)、尾高杏奈(妹・並木幸代)、平山広行(剛原力)、永島敏行(馬場大尉)、田中実(戸田航海長)、高橋和也(剣崎大尉)、平泉成(佐藤校長)、嶋尾康史(「ボレロ」のマスター柴田)

ディセント

シネセゾン渋谷 ★★★

■出てこなくても怖かったのに

渓流下りを仲間の女性たちと楽しんだサラ(シャウナ・マクドナルド)だが、帰路の交通事故で、夫と娘を1度になくしてしまう(これがかなりショッキングな映像なのだ)。

1年後、立ち直ったことを証明する意味も込めて(仲間からは励ましの気持ちで)、サラはジュノ(ナタリー・メンドーサ)が計画した洞窟探検に参加する。メンバーは、冒険仲間のレベッカ(サスキア・マルダー)とサム(マイアンナ・バリング)の姉妹にベス(アレックス・リード)、そしてジュノが連れてきたホリー(ノラ=ジェーン・ヌーン)。アパラチア山脈の奥深くに大きく口を開けて、その洞窟は6人の女たちを待っていた。

まず、素人には単純にケイビング映画として楽しめる。彼女たちの手慣れた動作が安心感を与えてくれるのだろう、いっときホラー映画であることを忘れ、洞窟の持つ神秘的な美しさに感嘆の声を上げていた。広告のコピーのようにとても地下3000メートルまでもぐったとは思えないのだが、それでも洞窟場面はどれもが、恐怖仕立てになってからも、臨場感のある素晴らしいものだ。

人ひとりがやっとくぐり抜けられる場所が長く続き、精神状態の安定していないサラが身動きできなくなり錯乱状態に。ベスの助けで窮地を脱するが、その時落盤が起き、帰り道を完全にふさがれてしまう。このことで、ここは未踏の洞窟であり、このケイビングが功名心と冒険心の固まりのジュノによって仕組まれたものだったことが判明する。役所への申請もしていないから、救助隊も望めないというわけだ。

奈落の底を真下に、装備が不十分(崩落で一部を失ってしまう)なままで天井を伝わって向こう側へ渡ったり、1番元気なホリーの骨折など、ますます出口からは遠ざかるような状況の中、映画はとんでもない展開をみせる。

本当に息が詰まりそうな閉塞感の中で女同士の確執が爆発、とはせず(むろんそういう要素もふんだんにある)、凶暴な肉食地底人を登場させたのことには文句は言うまい。いや、私的にはそういうのが好きだから、結構歓迎なのだ。が、地底人が出てこなくても今まで十分恐ろしかったことが、よけい不満をそれに持っていきたくなってしまうのだ。

地底人は人間が退化して目が見えなくなっているという設定のようだから、おのずと造型も決まってこよう。で、それはまあまあだ。が、その分嗅覚や聴覚が発達していなければ地底の中で素早く動き回ることもできないし、地上から獲物を捕ってくることもできないわけで(生息数からいって相当量の食物が必要になる)、となると息をひそめて横たわっている上を地底人が気付かずに通って行く場面などでは、怖さの演出が裏目になってしまっている。ここは確信的に獲物に気付き、確実に仕留める場面を用意してほしかった。その方が恐怖感は倍増したはずである。

そして、彼らは意外にも弱かった! 女性たちが冒険マニアで少しは鍛えているにしても、地の利もある地底人と互角以上に戦えてしまっては興醒めだ。ジュノが誤って仲間に重症を負わせてしまい、見捨ててしまうという場面も入れなくてはならないから、そう簡単に殺されてしまっては人数が足らなくなってしまうのかもしれないが、もう少し地底人についての考察を製作者は深めるべきではなかったか。

そうすることで、伏線として置いた壁画(これは地底人の目が退化する前に描いたものなのだろうか)や人間の残した矢印(残っていたハーケンは100年前のものという説明もあった)をもっと活かすことができたはずなのだ。

ともあれサラは、地底人だけでなくジュノとの確執にもケリを付け、ひとりだけになりながらも何とか地上にたどり着く。彼女のその凄惨な形相。無我夢中で車に乗り、がむしゃらに飛ばし、舗装道路に出る。木を積んだトラックが横切っていったあと、サラは嘔吐し、このあと何故か娘の5歳の誕生日の光景を見る。そして……。

絶望感だけが残るラストシーンだが、しかしここは、結局はジュノとふたりで出てくることになったという話にした方が、凄味があったのではないか。

【メモ】

行くはずだったのはボアム洞窟。前日には「手すりが付いているかもしれない」と笑って話していた。しかし計画はジュノに任せっきりだとしても、好きでこういうことをしているのだから他にひとりくらいは場所の確認や地図にあたっている人間がいそうなものなのだが。

洞窟は未踏にしては、入口がかなり大きなもので、現代のアメリカでは無理な設定なのでは。

ジュノに功名心があったにせよ、そして仲間は騙したにしても役所への申請はしておいてもおかしくないだろうし、未踏であるなら最初のあの狭い通路を行く決断をしたのは、リーダーとしてはやはり疑問。

医学生のサムは、ホリーの飛び出した骨を戻して治療。

ジュノはサラに「昔の友情を取り戻したくて……この洞窟にはあなたの名前を付けようと思って……」と言い訳をする。

原題:The Descent

2005年 99分 イギリス シネマスコープ R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 編集:ジョン・ハリス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:シャウナ・マクドナルド(サラ)、ナタリー・メンドーサ(ジュノ)、アレックス・リード(ベス)、サスキア・マルダー(レベッカ)、マイアンナ・バリング(サム)、ノラ=ジェーン・ヌーン(ホリー)、オリヴァー・ミルバーン(サラの夫ポール)、モリー・カイル(サラの娘ジェシー)、レスリー・シンプソン、クレイグ・コンウェイ

DEATH NOTE デスノート 前編

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■デスノートというアイディアの勝利

原作の力なのだろうが、とてつもない面白さだ。マンガ10巻で1400万部というのもうなずける。

「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という「DEATH NOTE」を手に入れた夜神月(やがみらいと=藤原竜也)。法律を学び警察官僚を目指す正義感の強い彼が、神の力(この場合は死神だが)を手に入れたことで、どんどん傲慢になっていく。

デスノートを手に入れる前の彼がどんな人物なのかはいまひとつわからないのだが、司法試験一発合格という頭脳を持っているのであれば、ラスコリーニコフになっても不思議はない。しかもはじめのうちは服役中の凶悪犯や法の網からくぐり抜けたと思われる人物を始末していくわけだから、法による正義の限界を感じていた彼にとっては大義名分とカタルシスの両方が得られていたというわけだ。

もっともいくら処刑されるのが凶悪犯とはいえ、警察としてはキラ(いつしか巷ではそう呼ばれるようになっていて、信者までが現れる人気者となっていた)の行動を見逃すわけにはいかない。犯罪の大量死が世界中をターゲットにしていることから各国の警察やFBIも動きだし、インターポールは天才的頭脳を持つ探偵L(松山ケンイチ)を警視庁に送り込んでくる。

犯人が日本にいることが特定される理由も、もちろんLによって示されるのだが、Lが日本人(だよな。松山ケンイチは適役)ということもあって、急に世界が狭くなってしまう。些細なことなのだが、あまりに話が面白いので、日本に限定してしまうことが惜しく感じられたのだ。

Lの登場によって、キラ(月)との駆け引きは、天才対天才という側面を持ち、壮絶な頭脳戦となっていく。この設定は面白いに決まっているが、内容がともなわないといけないわけで、だからそういう意味でもすごいのだ(アラはあるけどね。でも着想とたたみかけるようなテンポで、観ているときはゾクゾクものなのだ)。

しかしこのことで、キラは自分を守るためにデスノートを使うようになってしまう。FBI捜査官レイ(細川茂樹)に、彼の婚約者でやはり元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)と次々と手を下していくことになる。

ここまでくると本当にキラ(月)が犯罪のない理想社会を作り出そうとしているのかどうかはわからなくなっている。すでに彼にとってはLに勝つことが(自分の身を守ること以上かもしれない)最大の目的になっているように見えるからだ。

前編でのハイライトは、キラ(月)が幼なじみ秋野詩織(香椎由宇)までも手にかけてしまうことだ。流れとしては必然ながら、ここでも彼は冷酷なままなのだ。果たしていいことなのかどうか。彼の心理描写に時間を割いてもいいと思う反面、極力説明を排除した方がこの場合には合っていそうに思えるのだ。

ついでに言うと、芝居はCGの死神も含めて全員が大げさで、映画自体の雰囲気をテレビドラマ並のチャチなものにしている。でもそれがかえっていい。なにしろデスノートの存在が架空なのだから、リアリティはこの際不要。でないと警察があそこまでハッキングされっぱなしということなどもおかしいわけで、そういう部分の枝葉の説明に終始しだしたら、とたんにつまらなくなってしまうだろうから。

ということは、デスノートの存在につきるのかもね。そこには詳細なルールのようなことまで書かれていて、死因だけでなく死に至る行動までを決めることができるのだ。これをどのように操るかというのも見所で、Lとの攻防はまさにゲームのような面白さをみせる。キラ(月)はページの一部だけをちぎって使ったりもするのだ。

デスノートに触れた者だけにしか見えないという死神は、フルCGでいかにもという姿形なのだが、この存在感もなかなかだった。死神が何故デスノートを自分で使わないのか(使えないのか?)は不思議なのだが、彼の行動をみていると納得がいく。彼はあくまで傍観者を装い、デスノートを手にした者の意志に任せているのだ。が、夜神月に拾わせるようにし向けたのも間違いなさそうだ。死神の勘で、月が自分の意に叶った人物であることを見抜いていたのだろう。

となると次は弥海砂(あまねみさ=戸田恵梨香)をどう扱うかだが、前編ではほとんど明らかにならず(前編だけだと彼女は話をわかりにくくしているだけだ)、キラ(月)の運命と共に後編を待つしかない。それにしても10月までお預けとはねー。

  

【メモ】

南空ナオミが月を追いつめる。月の手が動きペンに伸びるが、南空ナオミは偽名を名乗っていた。

ポテトチップスの袋のトリック。隠しカメラの段階ではLが敗北するが、あとのシーンでは月の前に、Lは袋を持って登場する。

詩織の死。「キス、人前でしちゃった」

2006年 126分 ビスタサイズ

監督:金子修介、脚本:大石哲也、原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画)、撮影:高瀬比呂志、及川一、編集:矢船陽介、音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、瀬戸朝香(南空ナオミ)、香椎由宇(秋野詩織)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、細川茂樹(FBI捜査官レイ)、藤村俊二(ワタリ)、戸田恵梨香(弥海砂)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、中原丈雄(松原)、顔田顔彦(渋井丸拓男)、皆川猿時(忍田奇一郎)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、中村獅堂(死神リューク:声のみ)