ラスト・ブラッド

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■オニを吸血鬼とする日本観

またしても新趣向の吸血鬼映画がやって来た!? って、オニ(=鬼?)が吸血鬼なのか。で、日本が舞台なのに主演はチョン・ジヒョン(って、誰の、どういう発想なのさ。エンドロールでは名前が、欧文表記でGiannaになっていた)。おー、久しぶり『デイジー』以来か。セリフは三カ国語を流暢?に喋っていたが、吹き替えでないのなら立派。

でもいくらなんでも十六歳は無理だろうと思ったが(セーラー服まで着せられちゃってさ)、映画の質感を変えていることもあって(実際のことは知らないが)そう違和感はなかった。ま、どーせ設定では何百歳なんだから、誤差の内みたいなものなんだろうが。

出てくる風景も、看板は日本語でも見たこともない家並みで(けど『魍魎の匣』のようにはモロ中国ではなく、どこか違う国というイメージなので救われている)、浅草なのに古い丸ノ内線の車両だったりするのだ(七十年代だから形としては合ってるが、銀座線じゃないのね)。まるで嘘臭いのだが、イヤな絵になっていないので、全部許しちゃってた。

舞台も話もいい加減で、簡単なこともほとんど説明する気がないようだ。父をオニゲンに殺されたサヤは、CIAをかたるオニゲン退治の組織(このくらいもう少しは説明しろってんだ!)に、日本にある米軍基地内のアメリカンスクールに送りこまれ、教師に化けたオニゲンの手下から基地の司令官の娘アリスを救い出す。

日本人だからセーラー服って、アメリカンスクールなのにぃ、というのは野暮な話で、そうしたいからそうしちゃったんでしょう。イメージやアクションシーン優先で、後は何でもござれ状態なのだ。

そのアクションだが、今更のワイヤー使いまくりで、これもきっとうるさ方には嫌われそうなのだが、私はこの映画には合っていたように思う。

サヤの武術の先生で、育ての親でもあるカトウと、オニゲンの手下たち(オニというより忍者だし、これだとアメリカンスクールにいたオニとは別物になってしまう気がするのだが)との死闘もよくできていた。でもカトウはサヤを突き放したりはせず、最初から一緒に戦ってもよかったと思うのだが。結局サヤは戻ってきてしまうし、自分は無駄死にではね。なんかこういう話の繋ぎがすこぶる悪いのだな。

サヤとオニゲンの対決も迫力という意味ではおとなし目ながら(ちょいあっけない)、ビジュアル的にはいい感じだ。

オニゲンはサヤが現れるのを心待ちにしていたようでもあり、それはサヤが自分の娘だからなのだが、そこらへんは曖昧なままで、よくわからないうちに話が終わってしまった。オニゲンが殺してしまったというサヤの父との関係だって、解き明かしていったら面白かろうと思うのだが、そういうことには興味がないらしい。

サヤは組織が欲しいもの(血)をくれるので、彼らの命令に従うと言っていたが、この説明もわかったようでわからない。第一これだと、彼女が子供の頃はどうしていたのか、って話になってしまう。

とにかく全部がいい加減なのだが、こういうムチャクチャ映画は結構好きなのだな。雰囲気的にもこの間観た『トワイライト』よりは私向きだった。甘いの承知で★★★。

 

原題:Blood:The Last Vampire

2008年 91分 香港、フランス シネスコサイズ 配給:アスミック・エース R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督:クリス・ナオン アクション監督:コリー・ユン 製作:ビル・コン、アベル・ナミアス 原作:Production I.G 脚本:クリス・チョウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ネイサン・アマンドソン 衣装デザイン:コンスタンサ・バルドゥッシ、シャンディ・ルイフンシャン 編集:マルコ・キャヴェ 音楽:クリント・マンセル

出演:チョン・ジヒョン(サヤ)、アリソン・ミラー(アリス)、小雪(オニゲン)、リーアム・カニンガム(マイケル)、JJ・フェイルド(ルーク)、倉田保昭(カトウ)、コリン・サーモン(ミスター・パウエル)、マイケル・バーン、マシエラ・ルーシャ、ラリー・ラム

ラ・ボエーム

テアトルタイムズスクエア ★☆

■なぜ映画化したのだろう

ジャコモ・プッチーニの作曲した同名四幕オペラの映画化だが、オペラファンというのは、こんな単調な物語であっても、歌や楽曲がよければ満足できてしまうのだろうか。歌詞で繋いでいくだけだから、こねくりまわした話というわけにはいかないのだろうが、それ以前の内容というか精神が、あまりに子供じみたものでびっくりしてしまったのだった(オペラ無知の私が勝手なことを書くのは憚れるので、一応オペラの方の筋書きを調べてみたが、どうやらこの映画、舞台をかなり忠実になぞって作っているようなのだ)。

時は十九世紀半ば、パリの屋根裏部屋に暮らす詩人のドロルフォと画家のマルチェロたちはあまりの寒さに、芝居の台本を燃やして暖をとる。この幕開きは、まあご愛敬で楽しめる。哲学者のコッリーネもうらぶれた体で帰って来るが、音楽家のショナールがたまたまお金を稼いで戻ってきたものだからみんなで大騒ぎとなる。

そこに、溜まった家賃を取り立てに家主がやって来るのだが、払う金が出来たというのに、おだて、酒で誤魔化し、酔った勢いで家主が漏らした浮気のことを聞くや、妻子持ちのくせしてけしからんと追い返し、クリスマス・イブの町へ繰り出す算段をはじめる。ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになって、蝋燭の火を借りにきたミミと知り合い、二人はたちまち恋に落ちる。これが第一幕(むろん、映画にはこういう仕切はないが)のハイライトで、鍵を落としたとか、見つけたのに二人でもう少しいたいからと隠してしまったりで、まあ、勝手にいちゃいちゃしてろ場面。ま、これは許せるんだけど。

カフェでは先のことも考えずに散財し、勘定書が高いなると、誰が払うのだとわめくし(歌ってるだけか)、結局はマルチェッロの元恋人だったムゼッタの連れ(パトロン)の老人に押しつけて得意顔。当時の富裕層と貧乏人(しかも夢も前途もある?若い芸術家たちなんで、大目に見ているとか)にあっただろう格差のことも勘案しなくてはいけないのかもしれないが、ユーモアと呼ぶような品はない。しかし、ともあれマルチェッロはムゼッタを取り戻す。浮かれ気分の第二幕。

舞台だと幕間の休憩でもありそうな。ならいいのだが、映画の第3幕は、幕間という感覚もないから話が急展開すぎで、少々戸惑う。ロドルフォは「愛らしい頬が月の光に包まれている」とおくめんもなくミミのことを歌い上げていたのに、もう根拠のない嫉妬でミミを罵ったりもしているらしい(ホントに急展開だったのな)。ロドルフォがミミを置いて家から出てしまったため、ミミは雪の中、ロドルフォがいるとは知らず、マルチェッロのところに助けを求めて訪ねて来たのだ。

ロドルフォはミミの病のことも知っているのに、だから貧乏人の自分といてはダメと思ったにしても、第三幕でのこの別れはあんまりではないか。助かる見込みがないとまでロドルフォは言っているのに(ミミはそれを物陰で聞いてしまいショックを受けていた)。二人が別々にマルチェッロを相手に心境を語る場面は、舞台なら凝った演出でも、それを奥行きがあって当然の映画で再現すると奇妙なものにしか見えない。「歌と笑いが愛の極意」だとか「俺たちを見習え」と言っていたマルチェッロだが、ムゼッタとはまたしても大喧嘩となって、愛憎半ばする第三幕が閉じていく(どうせなら、本当に幕を下ろす演出にすればよかったのに)。

第四幕はまた屋根裏である。ロドルフォとマルチェッロが別れた恋人のことを想っているところに、ショナールとコッリーネがパンと鰊を持って帰ってくる。みんなでふざけ合っていると、ムゼッタが、階段でミミが倒れたと駆け込んでくる。子爵の世話になっていたが、死ぬ前にロドルフォに一目会いたいとわざわざやって来たという。子爵の世話ってなんなのだ? そういう道があったからロドルフォは別れようとしたのか? 何がなんだかなのだけど、まあ、いいか。で、それぞれがミミのために手を尽くす(ここはみんながいいところを見せるのだな)が、ミミは息をひきとってしまう。

ところでこの部分、最後だけ歌でなく普通のセリフになっていた。特別意味のあるセリフとも思えないが、全体の構成を崩してまでやった意味がわからない。

死を前にしては力強いロドルフォとミミの抱擁、って別にそんなどうでもいいことにまで文句をつけるつもりはないが、せっかく映画にしたのだから、もう少しは舞台とは違った感覚で場面を切り取れなかったものか。四幕という構成にこだわるのはいいにしても、ほとんど舞台をそのまま持って来たようなセットと演出(推測です。そうとしか思えないのだな)というんじゃねぇ。

ミミが死んで、カメラが宙に引いていくとすごく広い部屋(というより床が広がっているだけだが)になって寂寥感を際立たせるが、映画の醍醐味であるカメラワークがこの場面くらいというのではもったいなさすぎる。ま、それは言い過ぎで、カメラが不動なわけではない。ロドルフォとミミの二重唱など、シネスコ画面を分割して二人のアップを並べたりしているが、映画的な面白にはなっていない。

それでも退屈はしないのは、歌の力か。アンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンは現代最高のドリーム・カップルなんだそうである。

そういえばエンドロールは無音だった。館内も全部ではないがかなり明るくなって、もしかしたらこんなところまで舞台を意識して同じようにしたのだろうか(舞台にはエンドロールなどないからね)。

原題:La Boheme

2008年 114分 オーストリア、ドイツ シネスコサイズ 配給:東京テアトル、スターサンズ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ロバート・ドーンヘルム 原作:アンリ・ミュルジェール 撮影:ウォルター・キンドラー 音楽:ジャコモ・プッチーニ 指揮:ベルトラン・ド・ビリー 合唱:バイエルン放送合唱団、ゲルトナープラッツ州立劇場児童合唱団 演奏:バイエルン放送交響楽団

出演:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ:ミミ/お針子)、ローランド・ビリャソン(テノール:ロドルフォ/詩人)、ジョージ・フォン・ベルゲン(バリトン:マルチェッロ/画家)、ニコル・キャベル(ソプラノ:ムゼッタ/マルチェッロの恋人)、アドリアン・エレード(バリトン:ショナール/音楽家)、ヴィタリ・コワリョフ(バス:コッリーネ/哲学者)、イオアン・ホーランダー(アルチンドーロ/枢密顧問官、ムゼッタのパトロン)

雷神 RAIJIN

新宿ミラノ3 ★☆

■雷神パパって素敵!?

体に爆弾を埋め込まれた女性を助ける冒頭のアクション場面で、早くもこの映画の駄作ぶりが確信できた。

メンフィス市警の刑事ジェイコブ・キングは女性が苦しんでいるのを犯人が楽しんでいるはず、と現場前にあるアパートに乗り込んで行くのだが、タイムリミットはたった4分。沢山ある部屋からどう割り出したのかってこともだけど、そこに行くまでだって2、3分はかかってしまうだろうに。

犯人のビリー・ジョーと対峙しても、起爆装置の外し方は、彼をいたぶることで聞き出そうとするばかり。ビリーが白状したからいいようなものの(もう爆発してる時間じゃないの?)、けれどジェイコブは、ビリーの答えとは違う線を切らせる(おい、おい)。ビリーを女性のところに連れて行けば(そんな時間はなかったか)ビリーは起爆装置を止める他なくなるのに、頭が悪すぎでしょ。

そうしなかったのは、単にジェイコブの格闘場面を挿入したかっただけみたいなのだが、けれどこれが、殴る動作ごとにカメラの位置を切り替えるという極端なカット割りになっていて、まるでこうでもしないと、もはやなまってしまったスティーヴン・セガールの動きをカバーできないと白状してしまっているかのようなのだ。だってこのカット割り、最後まで全部これなんだもの。苦肉の策にしてもなぁ。

ジェイコブの次なる使命は、これまた女性を狙った狂信的な犯人で、被害者の女の体には必ず占星術の記号が残されていた。ジェイコブは図書館に行ったりして、その謎解きにも精を出す。ちゃんと頭を使っていることをひけらかしたいのだろうが、そして女っ気も断って努力しているみたいなのだが、それ以上にヒントが向こうからやってくるような展開だから、余裕なんである。図書館の女性司書が歌詞の出どこを教えてくれるし、犯人のラザラスは逃げるときに手がかりの財布を落としちゃう!し。

そのラザルスだが、神の領域にまで達している(勘違いにしても)っていうんだが、まるで怖くないのだ。ジェイコブのような相手を「待ってい」て、だから居場所を隠そうとしないのは納得なのだが、なのに結局は逃げまくっていてだから、だらしない。

だからか、最後に冒頭のビリー・ジョーが釈放となって、役者不足の敵役補強とばかりに復帰してくるのだが、最初と同じケリの付け方で終わってはあきれるばかりだ。芸のないことは作り手も自覚しているようで、ジェイコブはビリー・ジョーに「この前と同じだ、懲りないな」と言うのである(だから懲りろよ)。

プロファイリングが専門で現場に不慣れな女FBIのフランキー・ミラー捜査官や、ジェイコブの豪邸に同居しているセリーヌ巡査や図書館司書など、女性を装飾品のように配置しながら、でも添え物の女FBI以外は、犯人たちの餌食になってしまう。

女FBIによって連続猟奇殺人事件の嫌疑がジェイコブにかけられるが、その時はすでにジェイコブによって犯人が挙げられていて、それはピンチのピの字にもならず、でもジェイコブは姿を消してしまう。

姿を消す意味がまったくもって不明なのだが、このあとにあるオマケ映像で、はぁはぁーん、と納得。なんだけど、これがまたまた噴飯ものなのだ。なんとジェイコブには2人の子供と若い妻がいて、その家にプレゼントを抱えて帰ってきたらしいのだ。若妻も若妻で、子供をナニーにまかせると、自分は全裸になって体にリボンをかけジェイコブを手招きする……。

うわあ、どおりでセリーヌ巡査のキスを避けていたわけだ。というかあの豪邸は何だったのよ。セリーヌ巡査とは同棲してたんじゃ? 刑事の仕事は仮の姿? だから姿を消したのか? え、なに、脚本はスティーヴン・セガール本人? それで、全裸リボン若妻なんだ!

3人組の男が私の横の席で爆笑鑑賞していたが、なーるほど、こんなふうに友達と一緒になって馬鹿笑いしながら観たら楽しいのかも。1人で観た私(いつものことだけど)は大馬鹿野郎なんでした。

原題:Kill Switch

2008年 96分 ビスタサイズ アメリカ/カナダ 配給:ムービーアイ エンタテインメント 日本語字幕:岡田壮平 R-15

監督:ジェフ・F・キング 製作:カーク・ショウ 製作総指揮:スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン、キム・アーノット、リンジー・マカダム 脚本:スティーヴン・セガール 撮影:トーマス・M・ハーティング プロダクションデザイン:エリック・フレイザー 衣装デザイン:カトリーナ・マッカーシー 編集:ジェイミー・アラン 音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、ホリー・エリッサ・ディグナード(フランキー・ミラー/FBI捜査官)、クリス・トーマス・キング(ストーム/ジェイコブの相棒)、マイケル・フィリポウィッチ(ラザルス/犯人)、アイザック・ヘイズ(コロナー/検死官)、フィリップ・グレンジャー(ジェンセン警部)、マーク・コリー(ビリー・ジョー/犯人)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ/巡査)

ララピポ

新宿ミラノ2 ★★

■目指せ!下半身目線人間図鑑

一生地べたに這いつくばって生きる人間とそこから逃げだし高く高く登りつめる人間、セックスするヤツとそれを見るヤツ、平和をけがすゴミどもと平和を守る正義の使者、100万人に愛される人間と誰にも愛されない人間、と冒頭からくどいくらいに「この世界には2種類の人間しかいない」と繰り返すのだが、映画は、比較にこだわるのではなく、這い上がられずにいる方の人間たちに、下半身目線で焦点を当てた作品のようである。

スカウトマンの栗野健治は、デパート店員のトモコを言葉巧みにキャバクラの仕事に誘いヒモ生活に入る。

栗野の部屋の真下に住むフリーライターの杉山博は、長い間女性に縁がなく、自分の分身(ぬいぐるみ劇をされてもですねー)と不毛な対話を重ねる毎日だったが、ロリータファッションに身を包んだアニメ声優志望の玉木小百合と、「似たもの同士」のセックスをする。もっとも、「似たもの同士」は杉山の感想で、このセックスは隠し撮りを副業にしている小百合によって、デブ専の裏DVD屋に並ぶことになる。

カラオケボックス店員の青柳光一は、正義の味方となって悪(=エロ)と戦う妄想を膨らませるが、実体は近所の若妻の覗き見に励む、つまり悪とは到底戦えない情けないヤツで、カラオケボックスすらやくざに凄まれて、彼らのセックス拠点になってしまう。

普通に主婦業をこなしていたはずの佐藤良枝だが、気づいたらゴミ屋敷の主となっていた。キャバクラからソープ嬢と栗野の言うままに、でもそれほどの抵抗もなく転落?の道をたどってきたトモコがAV出演のため現場に出向くと、実の母の良枝が母親役で、2人は他人のふりを通したまま撮影にのぞむことにする。

青柳の放火現場を目撃した良枝は、ゴミ屋敷へも放火をしてくれと青柳を脅迫するが、夫が中で寝ていることを思い出し、火の中に飛び込んでいく。

映画の最後の方で、a lot of peopleが、ネイティブの発音だとララピポになるという種明かしがあってのこの内容で(栗野をはじめとした主な登場人物のそれぞれの年齢、名前、職業、年収が字幕で出てくる)、確かに出てくる人間が雑多なだけでなく、作りもポップでごちゃ混ぜ的だからa lot of peopleという感じはするのだが、でもどれもが中途半端で、誰にも感情移入できないとなると少々つらいものがある。

栗野とトモコの関係が恋になりそうな部分や、最後にはトモコがAV女優として大ブレークしたり、良枝が夫と共に病院のベッドにいる場面(助かったのね)などがあって、小さな幸せオチをつけてはいるのだが、それだけでは伝わってくるものがない。

『ララピポ』と題名で見得を切ったのだから、この調子で10本でも20本でも続編を作って、映画人間図鑑を目指してみたらどうだろう。そこまで撮り続けたら、もしかしたらとんでもない傑作が出来上がってしまいそうな気もするが、今のままだと『ララピポin歌舞伎町』(実際は渋谷のようだ)にすぎないでしょ。

それとも、この類型の中にあなたは絶対いるはず、とでも作者は言いたいのだろうか。そういえばトモコに入れあげていた区役所勤めの男とかもいたよな、ってあいつが私と認めたわけではないが、そこまで言われてしまうと、映画のどこかに自分がいたような気分にもならなくもないのだが……。

  

2008年 94分 ビスタサイズ 配給:日活 R-15

監督:宮野雅之 製作:佐藤直樹、水上晴司 プロデューサー:石田雄治、鈴木ゆたか、松本肇 原作:奥田英朗『ララピポ』 脚本:中島哲也 撮影:尾澤篤史 音楽:笹本安詞 音楽監修:近田春夫 主題歌:AI『people in the World』

出演:成宮寛貴(栗野健治)、村上知子(玉木小百合)、中村ゆり(佐藤トモコ)、吉村崇(青柳光一)、皆川猿時(杉山博)、濱田マリ(佐藤良枝)、松本さゆき、中村有志、大西ライオン、杉作J太郎、坂本あきら、インリン・オブ・ジョイトイ、林家ペー、林家パー子、佐田正樹、蛭子能収、山口香緒里、渡辺哲、森下能幸、勝谷誠彦、チャド・マレーン

ラーメンガール

テアトル新宿 ★☆

■ラーメンの具はトマトなり!?

彼氏を追いかけてアメリカから東京にやって来たものの、何となくそっけなくされて、というところで何故か『ロスト・イン・トランスレーション』(こっちは若妻だったし夫婦で来日した設定だった)を思い出してしまったのだが、似ても似つかぬがさつな映画だった。

ふられ気分でいた時に食べた近所のラーメン屋の味に感動してアビーのラーメン修行が始まるのだが、アビーにこんな大胆な行動をさせておきながら、言葉の行き違いや異文化の問題に踏み込むこともなく、どころか、ラーメン屋の店主とアビーが、相手を無視して(言葉が通じないというのに)互いに一方的に自分のことを喋る場面まで何度かあって、さすがにそれはないでしょう、と言いたくなった。

驚くべきことに、このふたりの意思疎通の悪さは、1年経ってもあまり改善されていないようなのだ。ラーメン修行の極意を、魂だかの精神論にしてしまったので、言葉が通じるかどうかは大した問題ではないにしても、そしてそれなりの信頼関係は生まれたのだろうけど、アビーにはラーメンだけでなく、日本語ももう少しは習得してほしかった。

修行がいじめみたいなのも気になった。アビーは飲んだくれの店主(ラーメンを作りながらタバコっていうのもね)に掃除ばかりさせられ、それが徹底していないことを指摘されるのだが、鍋はいざ知らず、それ以外のところにこの店が気を使ってきたとはとても見えないのだ。

それと、映像で表現するのは難しいとは思うのだが、悲しいことにラーメンがうまそうに見えないのである。それでいて、気分が楽しくなるラーメン、なんて言われてもですねぇ(ちなみにアビーが悲しい気持ちで作ったラーメンは、食べた者を悲しくさせてしまうのだ。はは。コメディ、コメディ)。

もちろん店主は頑固オヤジだが、腕はいいし、ちゃんとアビーのことも評価しているという流れ。だから自分と同じことをしているのに味に何かが足りないことに疑問を抱いて、わざわざ自分の母親のところまで連れて行き、助言を求めたりもするのだが……。

同業者との因縁ラーメンバトルに、ラーメンの達人を登場させたり、パリに逃げた店主の息子の話や、アビーの在日朝鮮人との恋愛まで押し込んだのは、単調になるのを避けようとしたのだろう。が、はじめっからミスマッチが楽しめればいい程度の発想しかないから、そのどれもが、どうでもいい具どまり。スープの作り方から修行しなおさないと及第点はあげられない。

ところで、アビーが辛い修行の末作りあげたラーメンは、具にコーンやトマトを使ったものだった。このこだわりは、自分らしさを失わないためと強調していたが、どうでもいい具どころか……いや、まあそもそも味なんて人それぞれだものね。

原題:The Ramen Girl

2008年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ワーナー

監督:ロバート・アラン・アッカーマン 製作:ロバート・アラン・アッカーマン、ブリタニー・マーフィ、スチュワート・ホール、奈良橋陽子 製作総指揮:小田原雅文、マイケル・イライアスバーグ、クリーヴ・ランズバーグ 脚本:ベッカ・トポル 撮影:阪本善尚 美術:今村力 衣装:ドナ・グラナータ 編集:リック・シェイン 音楽:カルロ・シリオット 照明:大久保武志 録音:安藤邦男

出演:ブリタニー・マーフィ(アビー)、西田敏行(マエズミ)、余貴美子(レイコ)、パク・ソヒ(トシ・イワモト)、タミー・ブランチャード(グレッチェン)、ガブリエル・マン(イーサン)、ダニエル・エヴァンス(チャーリー)、岡本麗(ミドリ)、前田健(ハルミ)、石井トミコ(メグミ)、石橋蓮司(ウダガワ)、山崎努(ラーメンの達人)

ラッキーナンバー7

シネパトス3 ★★☆

■見事に騙されるが、後味は悪い

豪華キャストながらヒットした感じがないままシネパトスで上映されていては、ハズシ映画と誰もが思うだろう。が、映画は意外にも練り込まれた脚本で、娯楽作として十分楽しめるデキだ(R-15はちょっともったいなかったのではないか)。とはいえ全貌がわかってしまうと、手放しで喝采を送るわけにはいかなくなってしまう。

失業、家にシロアリ、彼女の浮気、と不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、友達のニックを訪ねてニューヨークにやってくる。隣に住むリンジー(ルーシー・リュー)と知り合って互いに惹かれあうものの、失踪中のニックと間違われてギャングの親玉ボス(モーガン・フリーマン)に拉致されてしまう。

話の展開は不穏(そういえば巻頭に殺人もあったっけ)なのに、リンジーとのやりとりなどはコメディタッチだから気楽なものだ。ボスの前に連れて来られるまでずっとタオル1枚のままのスレヴンだから間抜けもいいところで、これは観客を油断させる企みか。巻き込まれ型は『北北西に進路を取れ』(中に出てくる)そのものだし、会話に『007』を絡めたりと、映画ファンへの配慮も忘れない。けど、こうやって洒落たつくりを装っているのは、ほいほいと人が殺されていくからなのかしらん。

ボスからは借金が返せないなら敵対するギャングの親玉ラビ(ベン・キングズレー)の息子を殺せ(息子が殺されたことの復讐)と脅かされ、スレヴンは承諾せざるを得ない。ところがニックはラビにも借金があったらしく、スレヴンは、今度はラビに拉致されてしまうのである。

不幸が不幸を呼ぶような展開は、実はスレヴンと、狂言回しのようにここに至るまでちらちら登場していた殺し屋グッドキャット(ブルース・ウィリス)とで仕組んだものだった。20年前にスレヴンの両親を殺したボスとラビに対する復讐だったのである(しかしここまで手の込んだことをするかしらね)。

この流れはもしかしたら大筋では読めてしまう人もいるだろう。が、それがわかっても楽しめるだけの工夫が随所にある。語り口もスマートだし、いったんは謎解きを兼ねてもう1度観たい気分になる。が、席を立つ頃には、この結末の後味の悪さにげんなりしてしまうのだからややこしい。

グッドキャットは何故殺すはずだったヘンリーを助け、育てたのだろうか。それも復讐をするための殺し屋として。これもかなりの疑問ではあるが、それはおいておくとしても、復讐のために20年を生きてきたヘンリーのことを考えずにこの映画を観ろといわれてもそれは無理だろう。何故20年待つ必要があったかということもあるし、どんでん返しの説明より、映画はこのことの方を説明すべきだったのだ。

それにこれはもう蛇足のようなものだが、ヘンリーの父親が八百長競馬の情報に踊らされたのだって、ただ欲をかいただけだったわけで……。

いつもつかみどころのないジョシュ・ハートネットが、今回はいい感じだったし、ルーシー・リューもイメチェンで可愛い女になっていて、だから2人のことは偶然とはいえ必然のようでもあって、最後は恋愛映画のような終わり方になる。なにしろこれは想定外なわけだから。グッドキャットもヘンリーに父親の時計を渡していたから、これで父親役はお終いにするつもりなのだろう。このラストで少しは救われるといいたいところだが、なにしろ無神経に人を殺しすぎてしまってるのよね(リンジーのような死なないからくりがあるわけでなし)。

原題:Lucky Number slevin

2006年 111分 シネスコサイズ R-15 日本語版字幕:岡田壮平

監督:ポール・マクギガン 製作:クリストファー・エバーツ、アンディ・グロッシュ、キア・ジャム、ロバート・S・クラヴィス、タイラー・ミッチェル、アンソニー・ルーレン、クリス・ロバーツ 製作総指揮:ジェーンバークレイ、ドン・カーモディ、A・J・ディックス、シャロン・ハレル、エリ・クライン、アンドレアス・シュミット、ビル・シヴリー 脚本:ジェイソン・スマイロヴィック 撮影:ピーター・ソーヴァ 編集:アンドリュー・ヒューム 音楽:J・ラルフ

出演:ジョシュ・ハートネット(スレヴン、ヘンリー)、ブルース・ウィリス(グッドキャット)、ルーシー・リュー(リンジー)、モーガン・フリーマン(ボス)、ベン・キングズレー(ラビ)、スタンリー・トゥッチ(ブリコウスキー)、ピーター・アウターブリッジ、マイケル・ルーベンフェルド、ケヴィン・チャンバーリン、ドリアン・ミシック、ミケルティ・ウィリアムソン、サム・ジェーガー、ダニー・アイエロ、ロバート・フォスター

ラフ ROUGH

テアトルダイヤ ★☆

■原作と比べたくはないが、ラフすぎる

家の和菓子屋が祖父の代からの商売敵という、大和圭介(速水もこみち)と二ノ宮亜美(長澤まさみ)の因縁の2人が、スポーツ特待生として栄泉高校の上鷺寮で出会うことになる。圭介は競泳、亜美は高飛び込みの選手。同じ寮とプールで毎日のように顔を合わせる中、反目から気になる存在へ。が、圭介には家の問題よりもずっと手強い仲西弘樹(阿部力)という相手が立ちふさがっていた。日本記録保持者で、昔から圭介のあこがれだった仲西は、亜美がおにいちゃんと慕う婚約者でもあったのだ。

『タッチ』に続くあだち充原作の映画化。話は単純だが、単行本で12巻となると、エピソードも多く、まとめるのはやはり大変だったのだろう。2人が実は幼なじみだった、という鍵を握るじいさんを脚本は抹殺している。それはともかく、2人の過去をペンダントにまつわる話だけで説明しているのは唐突で、映画だけという人にはわかりにくそうだ。

という感じでかたっぱしから原作と比較してしまうが、まあ仕方ない。でも『タッチ』もそうだったが、切り詰めながら寮長(渡辺えり子)の話などは増やしているし、伝統ある上鷺寮のデートも、原作にはあっても、ふくらませたもの。「歌謡喫茶チロルでまったり」(今時ないだろ)や次の映画館も閉館で、これはエンドロールの映像だから本編には関係ないにしてもその映画館には『海の若大将』のポスターが貼ってあったりするのだ。

一体この映画の時代設定は? ケータイも出てこないし、圭介はカセット(これは祖父の思い出とか言っていた)の愛用者。原作はもう20年以上も前になるのだから、これで正解なのだが、水泳大会は水着も含めて現代だし、伝統デート行事場面はおふざけにしてもねー。

それにここは亜美が圭介のよさを知る場面でもあるのに、それがないのでは惹かれ合っていくという過程がうやむやになってしまうではないか。

でも時代設定よりまずいのは、年月の移り変わりで、中3から高3までがまったく印象付けられずに進んでいってしまうことだ。映画でこの時期の移り変わりを描写するのは、俳優のことを考えただけでも大変なのはわかる。が、3度の日本選手権だけで年を意識させるしかないのは、あまりに芸がないだろうと用意した雪の場面などが、かえって浮いてしまっているのだ。青いプールが舞台だから、どうしても夏のイメージになってしまうのは仕方がないのだけどね。が、そのプールの描写は悪くない。清涼感を出すことにも一役かっている。

とはいえ、やはり圭介の成長物語なのだから、そこはどうにかしないと。海での人工呼吸事件のショックに続いて、仲西の交通事故。亜美は事故を自分のせいにしてその介護にかかりっきり。ライバルが不在の日本選手権では優勝するものの、目標を失った圭介は同級の緒方(石田卓也)から弱点を指摘されてしまう。この流れがうまく表現できていない気がするのだ。まあ、筋を知っている私に緊張感が欠けているということもあるかも。

そして、残念なのが仲西で、彼は亜美が尊敬してきたお兄ちゃんのようには描かれていない。選手生命が危ういほどの事故から快復したのはすごいことででも、リハビリ中の亜美への八つ当たりはフォローしておかないと。「事故はお前のせいじゃないと言うために、だから負けられない」だけじゃ弱くないかしらん。あだち充のマンガは、なによりフォローのマンガだからね。

速水もこみちの背が高すぎて、仲西が見劣りするのもマイナスだ。亜美の救助に向かう海の場面で、圭介が完全に飛び込んでから仲西がスタートするというのもダメ。ここは少し遅れくらいにしておきたかった。でないと仲西だけでなく、負けてしまった圭介にも気の毒というものだ。

最後の日本選手権のラストもマンガでは含みを持たせた終わり方だったのに、ここでははっきり圭介の勝利にしている。結果のでる前に亜美は思いを伝えたのだから、やはり蛇足かなー。出番の少なかった小柳かおり(市川由衣)にきっかけをつくらせていた(「ふたりはもう迷ってなんかいないのに」)のはよかったけどね。

あー、やっぱり原作との比較感想になっちゃったぃ!

【メモ】

幕開きは「君といつまでも」。

「あなたたちはラフ。これから何本も下書きを繰り返していくの。未完成こそあなたたちの武器」というセリフは教師から寮長のものになった。

「人殺し」のセリフは生身の人間が言うと、どっきりだ。

閉館の映画館名は「かもめ座」か。「うちわもめ座」だったりして。

「覚えているのは私だけ」「昔よく泣かされた。でもその子に急に会いたくなって、やっぱりまた泣いた」2人が昔を回想する場面でのセリフ。

エンドロール後の映像は第6回東宝シンデレラ用のもので、寮長の娘が入学する場面。「お母さん、見てこの制服」「あんたが1番似合うね。若い頃の私にそっくり!」。

2006年 106分 サイズ:■

監督:大谷健太郎 原作:あだち充 脚本:金子ありさ 撮影:北信康 美術:都築雄二 編集:今井剛 音楽:服部隆之
 
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒方剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人、田丸麻紀、徳井優、松重豊、渡辺えり子