トゥモロー・ワールド

新宿武蔵野館2 ★★★★

■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる

人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。

手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。

ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。

政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。

一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。

エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。

そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。

筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。

最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。

銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。

セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。

この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。

 

【メモ】

なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)

セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。

ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。

原題:Children of Men

2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
 
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン

父親たちの星条旗

新宿ミラノ1 ★★★☆

■英雄はやはり必要だったらしい

問題となる硫黄島の摺鉢山頂上にアメリカ兵たちが星条旗を掲げている写真だが、何故この写真が英雄を演出することになったのだろう。当時はまだ多くの人が写真=真実と思い込んでいたにしても、旗を掲揚したということだけで英雄とするには、誰しも問題と思うだろうから。いや、むろん彼らはただの象徴にすぎず、だから彼らにとってそのことがよけい悲劇になったのだが。

写真には6人が写っているが、生き残ったのは3人である。硫黄島の戦いが、アメリカにとってもいかに大変なものだったかがわかるというものだ。生き残りの3人がアメリカに帰り、英雄という名の戦時国債募集の宣伝要員となって国から利用されるというのが映画のあらましである。

アメリカにとっては第二次世界大戦など海の向こうの戦争でもあるし、厭戦気分でも広がっていたのだろうか。国債の目標が140億ドルで、「達成できなければ戦争は今月で終わり」などといった人ごとのようなセリフまで出てくる。またはじまりの方でもこの写真について「1枚の写真が勝敗を決定することも」と言っていたから、戦意高揚効果の絶大さは本当だったようだ。

英雄であることを受け入れるのには戸惑いを感じつつも優越感に浸れるのはレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)。臆面もなく駆けつけてきた彼の恋人はこの点では彼以上だから、このふたりはお似合いなのだろうが、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)や衛生兵だったジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)にとって、この戦時国債の売り出しキャンペーン巡礼は、重要性は認識していても戦争の悲惨な体験を呼び起こすものでしかない。この時点ではそれはまだほんの少し前のことなのだ。

派手なイベントや、戦場を知らない人間とのどうしようもない温度差も彼らを苦しめる。ヘイズにはインディアンという立場もついてまわるから一層複雑だ。「まさかりで戦った方が受けるぞ」と言われる一方で「戦争のおかげで白人も我々を見直すでしょう」と講演する悲しさ。ブラッドリーのようには割り切れないヘイズは、酒に溺れ次第に崩壊していく。

このお祭り騒ぎの行程に、これでもかというくらいに戦闘場面が挿入される。だから実を言うと映画の最初の方は、その関係が読みとれず少し苦痛でもあったのだが、これが彼らのその時の心象風景なのだと、次第に、納得できるようになる。

小さな硫黄島に、その面積以上になるのではないかと思うほどの大船団が押し寄せる。凄まじい艦砲射撃と空爆(それでも10日の予定が3日に短縮されたという)に、アメリカが硫黄島に賭けた意気込みのすごさを感じるのだが、映画でもこの場面には圧倒される。中でも船団の横を駆け抜けていく戦闘機の場面は臨場感たっぷりである。艦隊の動きを遠景でとらえた時、あまりにも規則正しすぎることがCGを思わせてしまうのだが、これは本当だったのだろうか。

上陸後しばらくなりを潜めていた日本の守備隊が反撃に転じると、そこは一瞬にして地獄と化す。死体を轢いて進む上陸用舟艇や、これはもっとあとの場面だが、味方を誤射していく戦闘機の描写もあった。次作では日本側の硫黄島を描くからか、山にある砲台とアメリカ兵が近づくのを待ち受ける塹壕からの視点以外はすべてアメリカ側からという徹底ぶりだが、ならばその2つもいらなかった気がする。

もっとも、戦いの進展具合には興味がないようで、そのあたりは曖昧なのだが、摺鉢山頂上での星条旗の掲揚が実は2度あり、写真も2度目のものだったことはきちんと描かれる。ある大尉が最初の旗を欲しがり別の物と替えるよう命令するのだが、これが後々やらせ疑惑となる。他にも新聞でその写真を見て、自分の息子と確信した母親の話などもあるが、しかし最初にも書いたように、これがそれほど意味のあることとは思えないので、どうにもしっくりこないところがある(そうはいっても、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』にもこれについての記述があるから、この写真の持つ意味は相当大きかったのだろう)。

彩度を落とした映像による冷静な視線は評価できるが、戦いの現場と帰国後の場面が激しく交差するところに、現在の時間軸まで入れたのは疑問だ。映画というメディアを考えると、そのことが、かえって現在の部分を弱めてしまった気がするからだ。原作者であるジェームズ・ブラッドリーは、戦争のことも旗のことも一切話さなかったというジョン・ブラッドリーの息子で、父親の死後取材していく過程で、父親との対話を重ねたに違いないが、しかしそれは本にまかせてしまっておいてもよかったのではないだろうか。

『硫黄島からの手紙』の予告篇が映画のあとにあるという知らせが最初にあるが、これはアメリカで上映された時にもついているのだろうか? アメリカ人は『硫黄島からの手紙』をちゃんと観てくれるのだろうか? そうなんだけど、この、映画の後の予告篇は、邪魔くさいだけだった。

 

【メモ】

この写真を撮ったのはAP通信のジョー・ローゼンソール(1945.2.23)でピューリツァー賞を授賞。

原題:Flags of Our Fathers

2006年 132分 シネスコ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ 脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズ・Jr 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド 衣装:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス 音楽:クリント・イーストウッド
 
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)、ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)、 バリー・ペッパー(マイク・ストランク)、ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)、ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)

氷の微笑2

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★☆

■きっと手玉に取られそう

『氷の微笑』の続編だが、すでにあれから14年もたつという。あのキャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)が、前作と似たようなことを繰り広げるのだが、彼女が「危険中毒」というなら、14年間もおとなしくしていられたとはとても思えない。

舞台をアメリカからイギリスに移したのは、そこらへんを考慮してのことか。もっとも人気犯罪小説家なのだからアメリカもイギリスも関係なさそうだが。ただシャロン・ストーンが14年も続編を我慢できたのだから、それは可能か。失礼とは思うが、キャサリンのイメージをシャロンに置き換えるのはそう難しくないのだな(失礼どころか褒め言葉だよね)。

シャロンの自信はたいしたものだが、それができるのだから脱帽だ。観客は実年齢を知っているのだし。もっとも最初の車の疾走場面から、あんなにフェロモンをばらまかれたのでは、かえって引いてしまう。快楽優先主義者という設定なのだからこの演出は仕方がないのかもしれないが、観客サービスになっていない気がして心配になる。

思わせぶりな映画といってしまえばそれまでだが、話は十分楽しめる。ただし、今回の相手はマイケル・ダグラスに比べるといささか頼りない。デヴィッド・モリッシー演じるマイケル・グラス(何なのだ、この役名は!)は、犯罪心理学者で精神科医。ロイ・ウォッシュバーン刑事(デヴィッド・シューリス)からキャサリンの精神鑑定を依頼され、はじめのうちこそ自信満々でいたが、途中からはキャサリンに翻弄されっぱなしで、ただただひたすら転落していく。

犯人がキャサリンかウォッシュバーン刑事か、などと迷いだしているうちはともかく、いつのまにか昇進(というのとはちょっと違うのだろうか)話は立ち消え、最後には思いもよらぬ場所にいるマイケル・グラス。

キャサリンみたいのに捕まったら、きっと私もこうだろうなと思ってしまったものね。おー、こわ。

原題:Basic Instinct 2

2006年 118分 シネマスコープ アメリカ R-18 日本語字幕:小寺陽子

監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ 脚本:レオラ・バリッシュ、ヘンリー・ビーン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:ノーマン・ガーウッド 衣装デザイン:ベアトリス・アルナ・パッツアー 音楽:ジョン・マーフィ テーマ曲:ジェリー・ゴールドスミス
 
出演:シャロン・ストーン(キャサリン・トラメル)、デヴィッド・モリッシー(マイケル・グラス)、シャーロット・ランプリング(ミレーナ・ガードッシュ)、デヴィッド・シューリス(ロイ・ウォッシュバーン刑事)、ヒュー・ダンシー(アダム)、インディラ・ヴァルマ(デニース)

待合室-Notebook of Life-

銀座テアトルシネマ ★☆

■生きていればいいことがある?

朝日新聞に載った記事を元にして作った映画らしいが、記事の記憶はまったくない。興味のあるものでもどんどん忘れていくから、この手の話はまず覚えていない。いわゆるいい話というやつである。新聞にも多分そういう趣旨で載ったと思われる。

東北の小繋(こつなぎ)という無人駅の待合室に置かれたノートに、旅人や近所の人が雑感や悩みなど書き残こしていて、こういうノートはよく見かけるが記事になったのは、駅前にある売店の女主人が、それに丁寧に返事を書いていたということにあるようだ。そのノートには「命のノート」という名前が付けられていて、もうそれだけで私には重苦しいのだが、これはそのノートを始めに置いていった人の命名らしい。

女主人の「おばちゃん」役が富司純子で、彼女が40年前に遠野から小繋に嫁いできた若い時を寺島しのぶが演じている。娘時代をもってきたのは映画としての骨格が足らなかったかったのと、母娘初共演という話題性狙いだろう。もっとも実の親子ながらふたりは、顔立ちも演技の質もあまり似ていないから、別に同じ人物でなくてもよかったような気がする。タイムマシンものではないのだから、母と娘は正確には共演しないのだし。

おばちゃんの現在(老いた母親の話も)と過去に混じるように、ノートに死をほのめかして去る妻と娘を失った男、おばちゃんを取材に来たフリーの女性ライター、同じ町の「鞍馬天狗」と名乗る女房を大切にしてやれなかったという男の挿話などが語られる。どれも心温まる話なのだろうが、全体として突き抜けるようなものはひとつもない。まあ、そういう映画ではないのだが。

唯一批判的なのが若い晶子(あきこ)で、彼女の「生きていればいいことがあるってホントなの」という問いかけはあまりに当然で、ひねくれ者としては少女のこの批判に肩入れしたくなる。もちろんこれはあとに用意されている、晶子と死をほのめかしていた旅人の会話で打ち消されるのだが、説明調ではあるし、こういう問題には答えなど無いから歯切れは悪い。

おばちゃんにしても昔幼い娘を失い、実直な旦那には先立たれるという悲しい過去の出来事に、現在は年老いた遠野にいる母が気がかりで、自身は不自由な足を庇いながら仕事をする毎日、と書き並べれば暗い部分ばかりが目につく。映画が浮ついていないからだろうが、観ていてもっと単純に暖かくなるような話にしてほしくなってしまったのである。

 

【メモ】

ホームページには、「フランスのトムソン社製のフィルムストリームカメラ『VIPER』によってHD非圧縮フルデジタルシネマとして完成。最先端のデジタルシネマ技術は驚くべき映像美を可能にしている」とある。言われてみないとわかならないのね。そんなに目の覚めるような美しさだったかしらん。

いわて銀河鉄道 

昭和39年春 夫は元教師、おばちゃんは看護婦だった

2005年 107分 サイズ■

監督・脚本:板倉真琴 撮影:丸池納 美術:鈴木昭男 音楽:荻野清子 主題歌:綾戸智絵『Notebook of Life』  照明:赤津淳一  録音:長島慎介
 
出演:富司純子(夏井和代)、寺島しのぶ(夏井和代)、ダンカン(夏井志郎)、あき竹城(山本澄江)、斉藤洋介(山本康夫)、市川実和子(堀江由香)、利重剛(塚本浩一)、楯真由子(木本晶子)、桜井センリ(小堀善一郎)、風見章子(浅沼ノブ)、仁科貴(梶野謙造)

ウィンター・ソング

新宿武蔵野館2 ★★

■錯覚関係ミュージカル

予告篇は観ていたが、まさかミュージカル(劇中劇がミュージカル映画)とはね……まあ、そんなことはどうでもいいのだが。香港製ミュージカルということがわかって危惧しなかったといえばウソになるが、その部分では堂々たる仕上がりになっている。ダンスシーンのカットが細切れなのが気になったが、ここは状況をかえた場面の繋ぎでなんとか逃げている。

物語は劇中劇に重ねるように、俳優であるリン・ジェントン(金城武)とスン・ナー(ジョウ・シュン)に、彼女の現在の恋人である映画監督ニエ・ウェン(ジャッキー・チュン)を交えた愛憎劇という趣向だ。

そこにリンとスンの10年前の過去の映像が入り込んでくるのだが、筋立てが単純なのでそうは混乱しない。劇中劇はサーカス団と設定こそ違うが、そこで踊り歌われる歌などはそっくりそのまま3人の心境に置き換えればいいという寸法だ。が、気になるところがいくつもあって、すんなり感情移入するには至らなかった。

まず、チ・ジニ演じるところの案内役(天使と書いてあるよ)の位置づけがよくわからない。「私はカットされたシーンを集めている。それが必要になった時、戻してあげるために。今もあるシーンを戻すためにここに来た」というのだが、彼はリンにとっては天使なのだが、スンやニエにとっては混乱の元でしかない。だから天使、と言われてもねぇ。結末の悲劇も当然と考えているのだろうか。

こんな案内役もいるし、流れからしても主役は金城武のリンであるはずなのに、タイトルや劇中歌の歌詞(お前は俺を愛してる。たぶん愛してるはず)を聴いていると、本当の主役はジャッキー・チュンのニエではないかと思えてくるのだが、これはまずいだろう。

もっともそのニエは、途中までスンが女優としてあるのは自分あってこそと思っているような男だし、最後は「男は自分を裏切った女は許さないものだが、復讐はしない。愛とはそういうものだ」と勝手に自己完結してしまう。そんなだから、ラストでは自分の死までも演出してしまうのだろう。

スンは、過去のある時点はともかく、野心に生きる道を選んだ女だ。偽装結婚もしてきたし、ニエ監督専門というレッテルを貼られようとも、トップ女優でいたいのだ。引き返す気などないのである。「過去は思い出さないためにある」から、回顧録はいやと言っていたのだ。なのに、ラストではそれは出版しちゃってるし。まあこれはリンとのことがあって考えがかわったということなのだろうけどさ。そして、ここを評価できればいいのだが、どうにもしっくりこないのだな。

それに比べると愛に生きてきたリンは、確かに一途ではあるが(これを「たぶん愛」と呼ぶのは簡単だが、となると何でもかんでも「たぶん愛」ということになってしまう)、それ故にやることがどうにも怪しいのだ。俳優として成功してからは、昔の思い出の場所を買い取り、そこに行く度にカセットに心情を吹き込んでいたなんて、度がすぎているとしか言いようがないではないか。

こんなに3人がバラバラなのに、愛といわれてもねー。「たぶん愛」じゃないよ、これ。錯覚だもん。

度々挿入されるプールのイメージもよくわからないままだった(ついでながら青島の塩水湖の話も不明)。

 

【メモ】

リンは10年前に、香港から北京へ映画監督になるためにやって来るが果たせず、香港で大スターになる。

スンは歯ぎしり女。

プロデューサーが難色を示すにもかかわらず、ニエ監督は団長役を自分で演じることにする。
原題:如果・愛 
英題:Perhaps Love

2005年 109分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:水野衛子

監督:ピーター・チャン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 撮影:ピーター・パウ 編集:ヴェンダース・リー、コン・チールン 音楽:ピーター・カム、レオン・コー
 
出演:金城武(リン・ジェントン[林見東])、ジョウ・シュン[周迅](スン・ナー[孫納]、ジャッキー・チュン[張學友](ニエ・ウェン[聶文])、チ・ジニ[池珍熙](天使)

雨音にきみを想う

新宿武蔵野館3 ★☆

■チョッカンはそんなにいいヤツだろうか

ウィンイン(フィオナ・シッ)は、同居の兄フェン(チャン・コッキョン)が全身麻痺で、彼の介護だけでなく姪のシウヤウ(チャン・チンユー)の世話をしながら縫製の仕事をしている。その仕事もミスを咎められ(美人なんだから外で働けばと嫌味まで言われ)賃金を下げられてしまう。そして自身も兄と同じ遺伝性の病気(動脈炎。体温低下で血管が収縮してしまう)にいつならないとも限らないという、まさに悲劇のヒロイン。眉間の皺が痛々しい。

チョッカン(ディラン・クォ)は路地で迷子になったシウヤウと出会い、少女を家に送り届けたことで、そんなウィンインと知り合うことになる。フェンはチョッカンに何かを感じたのか、彼が帰ったあとウィンインに「明日お茶を買ってこい」と言う。そしてチョッカンは数日後、フェンに職場にあったからと電動車椅子を持ってやってくる。

実はチョッカンの家は金持ちなのだが、家族の愛情を知らずに育ち、今では絶縁状態らしい。ウィンインたちの家族愛、もっといえばシウヤウに対するウィンインに、母親の愛をみて惹かれたのかも知れない。

そんなチョッカンだが、一匹狼と言えば聞こえはいいが、ヤクザのフー兄貴(サミュエル・パン)から目を付けられるほど腕のいい泥棒でしかない。当然ウィンインに身を明かすことなどできるわけもなく(表向きはバイクショップを経営)、しかしあっけなくバレてしまうと、こうやって生きてきたのだから今さら無理と、平然としたものなのだ。

しかもそのバレ方からして、ウィンインがちょっと見ていたクマのぬいぐるみを盗んできてしまうような、罪悪感のかけらもない程度の低いものなのだ。このあと少しして、ふたりのキスシーンになるのだが、ウィンインの「頼っていいのか迷う」理由が、チョッカンが真っ当でないことではなくて、「もしあなたに何かあったら」と、すでにチョッカンを好きになってしまっているのでは、恋の当事者にとっては障害でも何でもないのかもしれないが、観ている方としてはついていけなくなる。

チョッカンは盗みが生業ながら優しい男という位置づけなのだろうが、それにしては夜中に物音を立てる(ウィンインの家の2階を借りて倉庫にする)し、電気はつけっぱなしで、ウィンインの評価だってそう高くはなかったはずなのだ……。いや、これは違うか。もうこの時点ではウィンインはチョッカンのことが気になって仕方がなかったのだろう。

物語は、逃げた妻にもどる気持ちがないことを知ったフェンの自殺(これはちょっとあんまりだ)という、さらに悲劇的な状況をはさんだあと、チョッカンとヤクザの対決へと進む。ウィンインもそれに巻き込まれ、冷たい雨にも打たれてしまう。が、彼女には最後になってある贈り物が……。でもこれだってね、最初のクマのぬいぐるみと本質的には何も変わっていないではないかと。ま、彼女の涙はそのことを含めてなのかもしれないのだけどさ。

【メモ】

動脈炎という言葉もあったが、体温低下で血管が収縮してしまうという設定だ。

舞台は香港だが、ウィンインたちは広州出で、チョッカンは台湾出身という設定。ウィンインはフェン(発病前はバイオリニストだった)に広州に帰ろうと言うが、逃げた女房から金を取り戻してからでないと帰れないとフェンは答えていた。

原題:摯愛
英題:Embrace Your Shadow

2005年 102分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:鈴木真理子

監督・脚本:ジョー・マ
 
出演:ディラン・クォ(チョッカン)、フィオナ・シッ(ウィンイン)、チャン・コッキョン[張國強](フェン)、チャン・チンユー[張清宇](シウヤウ)、サミュエル・パン(フー)

虹の女神 Rainbow Song

テアトルダイヤ ★★★★☆

■成就しない恋を追体験させるなんて意地悪だ

あらかじめ運命が提示される映画はままあるが、はじまってすぐにある、ヒロイン佐藤あおい(上野樹里)の事故死のニュースは、職場にいる岸田智也(市原隼人)に感情を反芻させる間を与えず、彼をそのまま葬式の場面へと連れ込む。この念押しが、映画が進むにつれてじわじわと効いてきて、何とも切ない気持ちになる。

そういう構成上の効果もだが、切ないのは映画が自分の学生時代をやたら思い出させるからだ。あおいと同じような8ミリの自主制作に少しだが関わった経験があり、恋についてもあおいのようにうまく想いが伝えられずにいたからだろうか。そして、自分のしたいことや進路についてまったく何も決められずにいるあたりは岸田である。もっとも彼のように、ストーカーになるほどの実行力は持ち合わせていなかったから、さらにひどかったのかもしれない。

と考えていくと違うことの方が多いのだが、にもかかわらず自分に近づけて観ることができるのが、この映画の魅力だろう。

横道にそれたが、切なさはあおいが学生時代に作った『The End of the World』という8ミリ作品の内容に重なることで増幅される。8つ(これまで8ミリにかけているわけじゃないよね)の章立てのある映画(本編)は、あおいの葬式から学生時代にもどり、また葬式に戻ってくるという構成となっていて、葬式のあとで仲間が観るという形でこの8ミリの全編が映写されるのだ。

その『The End of the World』は、巨大隕石が地球を襲った20XX年の最後の7日間を描いた物語で、いかにも映研のサークルが撮りそうな作品(脚本もあおい)だ。あおいの父親(小日向文世)が、へたくそな演技の坊主役で登場するのが実にそれっぽい。地球最後の日が迫っているのに恋人のマコトと離ればなれのヒロインが、やっとマコトに会い抱き合って長いキスをかわすのだが、実はそれは幻想で、ヒロインはひとり病院で息をひきとっていく。「終わったのは私だけだった」というナレーションが、あおいの死という現実に重なり、うらめしくなる。

このマコトを岸田が演じているのだが、門外漢の彼が何故準主役に抜擢されたのかを考えると興味深い。岸田があおいと知り合ったのは、彼があおいの友達(鈴木亜美)にストーカー行為をしてで、あおいは恋の対象ではなかった。そのあとも岸田は8ミリ映画の最初のヒロイン役だった今日子(酒井若菜)に恋心を抱き、しかもあおいに背中を押してもらったりするのだが、あおいの方はどうやらかなり早い段階(ふたりで手を握りっぱなしにして虹に見とれていた時か)から岸田のことが好きだったようなのだ。

『The End of the World』での長いキスシーンを今日子が拒むことは、今日子の性格をあおいが読んでいてのことで、代わりにあおい自身がヒロインになり岸田のキスの相手になることは、賭ではあるが、最初からのあおいのもくろみ(希望)だったのではないか。

そんなあおいを前にして、岸田は本当に鈍感なヤツだったのだろうか。あおいに「女を感じない」と言ったのは言いすぎだが、あれには照れもあったと思われる。デートカフェの取材の帰りには、あおいからは猛烈な反発を食らってしまうが、岸田は冗談交じりながらも結婚という言葉まで口にしているのだ。

岸田はあおいに負い目を感じていたのだと思う。女の尻ばかり追っていたし、まともな就職もできず、唯一あおいに映画の道を進むように言ったことくらいしか貢献していないようで。だからあおいが日本を離れてアメリカで映画の勉強をすることを聞いても、行くなとは言えず「日本にいればいいじゃん」と曖昧な返事で誤魔化すしかない。あおいは「日本なんだ。そばじゃないんだ」と彼女にしてみれば精一杯の発言(これは仕事より恋を取るという決断以上に、岸田への告白なのだから)をするのだが、岸田はあおいの気持ちに気づきながらも「(あおいに紹介された仕事を)辞めようと思ったけど続けてみる。だからお前も頑張れ」と言うしかなかったのだ。

もっともこの解釈は、違うと言われてしまいそうだ。押しかけの年上女(34歳)千鶴(相田翔子)との長目のエピソードがあるし、8ミリの上映、さらにはあおいの妹かな(蒼井優)から手渡された遺品の中に、岸田が代筆を頼んだ今日子へのラブレター(これは下書き? それとも手紙は出さなかったのか)がでてくるからだ。ラブレターの中にあおいの本心が残されていて、これを読んであおいの気持ちにやっと岸田が気付くというのが、妥当なところだろうか。

千鶴との関係を通して、岸田が主体性のない自分に気付くというのはそうなのだが(でないとこのエピソードは冗長ととられてしまう)、8ミリに関してはすでに学生時代にあおいと一緒に観ている(これもすごいことだよね)のだし、だから少なくともあおいの渡米前には、十分あおいの気持ちには気付いていたはずなのだ。

好き同士であっても、次の段階に行けないことはあるだろう。ましてやあおいはアメリカに行ってしまってどんなことを考えていたのか。岸田からの虹の写真のメールを見てどう思ったのか。でもなにしろ、死んでしまうんだものねー。

次から次へといろいろなことを考えてしまうのは、映画がよくできている証拠だろう。ただ、ふたりのことは何もかもお見通しで見守っていたかのようなかなについては、役割を重くしすぎた感がある。

途中にある、あおいとかなと岸田の夜祭りのエピソードは楽しいものだが、最後のラブレターになると、かなが盲目では困ることになるからだ。事故のためアメリカに行く場面でも、岸田に姉のために同行して欲しいと言わせているから、彼女の存在は監督にとってはどうしても必要だったのだろうが(父親でもいいはずだ)、盲目は彼女の神秘性を際だたせても、説明としては苦しくなってしまった。

  

【メモ】

岸田はストーカーだが、彼に言わせると、最初はサユミの方がストーカーだったらしい。3回デートして、あっさりふられたのだと。しかしそのあとバイト先の斡旋と移籍金として1万円を用意するというあたりは、ある意味なかなかではないか。

1万円札の指輪は、そのやりとりでうまれたもの。

あおいの上司である樋口(佐々木蔵之介)が、自分の煽りを真に受けてアメリカ行きを決心したあおいに驚く場面がいい。樋口の愛すべき上司ぶりはうれしくなる。

その樋口があおいの部屋にあるZC1000を見つけて服部(尾上寛之)と交わすオタク談義がたまらない。ZC1000にコダクローム40を入れる(シングル8のマガジンに詰め替える)とはねー。ただ時代が違うとはいえZC1000を学生の身分で使えるんだろうか。才能が漲っていて、小川伸介超えたかも、のあおいなのだから(死んだ人間への賛辞にしてもさ)、飯を切り詰めてでもそのくらいのことはしていたのかも。そういえば映画には「コダック娘」という名前の章もあった。

2006年 118分 サイズ■ 

監督:熊澤尚人 プロデューサー:橋田寿宏 プロデュース:岩井俊二 原案:桜井亜美脚本:桜井亜美、齊藤美如、網野酸 撮影:角田真一、藤井昌之 美術川村泰代 音楽:山下宏明 主題歌:種ともこ『The Rainbow Song ~虹の女神~』 CG:小林淳夫 VE:さとうまなぶ スタイリスト:浜井貴子 照明:佐々木英二 装飾:松田光畝 録音:高橋誠
 
出演:市原隼人(岸田智也)、上野樹里(佐藤あおい)、蒼井優(佐藤かな)、相田翔子(森川千鶴)、小日向文世(佐藤安二郎)、佐々木蔵之介(樋口慎祐)、酒井若菜(麻倉今日子)、鈴木亜美(久保サユミ)、尾上寛之(服部次郎)、田中圭(尾形学人)、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩

トンマッコルへようこそ

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?

朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。

南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。

敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。

が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。

イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。

このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。

架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。

軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。

ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。

  

【メモ】

ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。

原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ  英題:Welcome to Dongmakgol

2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
 
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)

手紙

新宿ミラノ1 ★★★★

■傾聴に値する

弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。

映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。

直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。

これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。

しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。

そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。

このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。

見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。

由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。

はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。

そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。

直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。

このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。

こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。

と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。

かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。

気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。

それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。

  

【メモ】

運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。

由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。

リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。

家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
 
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)

マッチポイント

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■面白くなるのはマッチポイントになってから

プロテニスプレイヤーとして限界を感じていたクリス・ウィルトン(ジョナサン・リス・マイヤーズ)は会員制のテニスクラブのコーチとして働きだす。そこでトム・ヒューイットという英国の上流階級の若者と親しくなる。オペラファンということを知られてボックス席に誘われたことから、今度はトムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)に好かれるという幸運を得る。

上流社会には縁のなかったアイルランド青年のクリスだが、クロエが積極的なことから結婚だけでなく、彼女の父親アレックス(ブライアン・コックス)の会社で働くことにもなってと、話はトントン拍子に進んでいく。が、クリスが本当に惹かれたのは、トムの婚約者であるアメリカ人のノラにだった。

この映画、見所は最後の方に集中している。退屈こそしないが、終盤まではごくありきたりの展開で、アレンらしくないのだ。物語が『罪と罰』にかぶることと、ノラの名前がイプセンの『人形の家』の主人公を連想させるから、そこらあたりに仕掛けがあるのかもしれないが、詳しいことは私にはわからない(あとはオペラだが、こちらの知識はさらにないので)。

『罪と罰』と並んでクリスは『ケンブリッジ版ドストエフスキー入門』も読んでいて、これがさっそくアレックスとの会話に役に立つことになる。クリスの付け焼き刃を解説本で揶揄しているのだから、オペラ好きまでが彼の演出の一部と言いたげだ。テニスをあきらめたのは「勝負の執念がない」はずだったのに、しかしノラとの最初の出会いとなった卓球では「僕は競争心が強い」と、違うことを言っているのだ。アレックスが勧める新部門の役員ポストをまずは断るあたり、すべてに周到な計算が働いていたともとれる。無理して家賃の高いアパートにしたのもそのためだったか。

ノラに対する情熱はクリスに思わぬチャンスをもたらす。ノラは女優志望なのだがなかなか芽が出ず、彼女がバツイチなこともあってトムの母親エレノア(ペネロープ・ウィルトン)からそのことを攻撃される。雨の中を泣きながら歩いているノラをクリスが目にとめ、ふたりは激情の赴くまま関係を持つ。この時点ではノラにはまだトムという存在が確固としてあったため、これだけで終わってしまうのだが……。

この場面の前にも実はノラがオーディションに行くのにクリスが付き合う場面があって、唐突さは避けている。手抜きのない描写は、感情の流れをそこなわず自然なのだが、いささか冗長だ。

冗長と感じるのは、最初に書いたように、浮気の最初の情熱がこじれていくのも、どうしようもなくなって殺害に至るのもありきたりだからだ。この冗長さは、クリスが感じるイライラさに被せているからで、ってそれはどうだろ。クリスの周到さは、ノラという魅力的な女性の前ではもろくも崩れてしまうわけだが、これもいまさらという感じである。

もっともさすがにこのままでは観客を納得させられないと心得ていて、ちょっとしたひねりが用意されている。

ヤク中の突発的犯行と見せかけるべく、クリスはノラのアパートの老女に続いて、指定時間に帰らせたノラを猟銃で殺害する。老女宅には押し入り、ノラは偶然エレベーターを降りたところを見つかって、という筋書きだ。クリスそのままクロエの待つ劇場にタクシーで駆けつけ、苦しいながらもアリバイを確保する。あとで老女宅から奪った薬の瓶やネックレスなどの証拠品は川に投げ捨てる。ここで最後に投げた指輪が、川岸の欄干に当たりこちら側に落ちるのだが、クリスは気付かずに去る。

このスローモーションは冒頭のテニス場面に重なるので、観客はこれが主人公の犯行の動かぬ証拠になるという予測をどうしても立ててしまう。ノラの日記からクリスを追求する刑事も、夢の中にまで事件を見、その筋書きを得意がって説明する。が同僚からは、昨日ヤク中が殺されそいつが老女の指輪を持っていたと告げられ、自説を撤回せざるをえなくなる(これはやられました)。

クリスも夢の中でノラと老女と対峙する。しかし、戦争の巻き添え死を引き合いに出しての弁明はどうか。逮捕されても罪をつぐなえるかどうかはわからないという言い逃れは、クリスの罪を認めないわけではなく、皮肉を言いたいだけなのだろうが、まったくの蛇足だ。運のいいクリスに、最後まで運の悪いノラ(老女についてまでは言及できないが)という簡単な対比ではないのだよ、ということだろうか。

そうか。ということは、刑事が日記を読んでいながらノラの妊娠に触れてこなかったのは、妊娠がノラのでっち上げだった可能性もある。となるとノラもただの悲劇のヒロインではなく、したたかに生きた上での運命のいたずら、といいたいのか。「私は特別な女なの。絶対後悔させない」って言ってたものなー。

 

【メモ】

クロエは美術に関心があり、クリスとの初デートはサーチ・ギャラリーだった。

エレノアはノラだけでなく、はじめのうちはクリスにも懐疑的。

ノラに会いたくて、乗り気でないクロエを説得して無理矢理映画になだれ込むクリス。映画の題名を訊きだして、それなら観たいと言っていた。映画は『モーター・サイクル・ダイアリーズ』。ノラは頭痛で来なかった。

トムはノラとの婚約を解消する。母に屈したし、出会い(ヴィクトリア)もあったからと。

ヴィクトリアはすぐ妊娠し、トムとの結婚式となる。一方クロエはなかなか妊娠しない。

仕事漬けだからか、クリスは秘書に自分が高所恐怖症のようなことを匂わす(アスピリンを2錠くれ)。職場も家(でもここは迷路になりそうだと、絶賛していたのにね)もでは、慣れない上流社会同様、足が地に着かない気分なのかも。

クロエと待ち合わせた美術館でノラを見つけ、強引に電話番号を訊き出すクリス。

株で損をしたクリスに、アレックスは娘にも君にも苦労させたくないので援助すると言う。

クリスはノラから妊娠したと伝えられる。今度(若い時とトムとの間にも。つまり3度目)は産むと言う。

猟銃はアレックスのもの。テニスラケットのケースに隠して持ち出す。

クロエと観る約束をしたミュージカルの舞台は『白衣の女』。

原題:Match point

2005年 124分 ビスタサイズ イギリス、アメリカ、ルクセンブルグ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン 衣装デザイン:ジル・テイラー 編集:アリサ・レプセルター
 
出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ(クリス・ウィルトン)、スカーレット・ヨハンソン (ノラ・ライス)、エミリー・モーティマー(クロエ・ヒューイット)、マシュー・グード(トム・ヒューイット)、ブライアン・コックス(アレックス・ヒューイット)、ペネロープ・ウィルトン(エレノア・ヒューイット)、ユエン・ブレムナー、ジェームズ・ネスビット、マーガレット・タイザック

ナチョ・リブレ 覆面の神様

銀座テアトルシネマ ★

■脚本がダメ。コメディにもなってない

修道院で孤児として育てられたデブダメ男のナチョ(ジャック・ブラック)は、今は料理番になっている。お金のない修道院では子供たちに満足なものが食べさせられない。ま、それはそうなんだが、ナチョには料理の才覚はなさそうだし、しかも配膳からしてだらしなくて、とても食料を大切にしているようには見えない。食べ物を粗末にする笑いは嫌いなのだが、このナチョは他の点でも愛すべきダメ男などではなく、ただのいい加減な迷惑男にしかみえないのである。

いや、もちろんそんなふうには作ってはいないのだけどね。でもまあ生きている人を死人に見立ててしまうし、教会のチップスは奪われてしまうしで、まともにできることが何もないときてる。コメディに目くじらたてるなと言われそうだが、それ以前の問題ではないか。ナチョもさすがにそれは自覚(!?)して、運命は自分で切り開くと言って修道院をあとにする。

ナチョはまずチップスを撒き餌にして、チップス泥棒のヤセ(エクトル・ヒメネス)を捕まえる。すばしっこい彼を相棒にして、あこがれのメキシカンプロレス(ルチャ・リブレ。メキシコではプロレスが盛んらしい)の選手になろうというのだ。町でルチャドール(レスラー)募集の張り紙を見ていたナチョには、賞金200ペソという目算があったのだ。で、特訓がはじまるのだが、これが蜂の巣を投げたり牛を相手にしたりの、しかも予告篇で全部公開済みのくだらないもの。もう他に見せるべきものがないというのがねー。

プロレスラーになったとはいえ、即席の2人組が通用するはずもなく、でも負けたのにギャラだけはもらえて大満足。で、なんでかわからないのだが、ナチョは修道院に戻っていてサラダを出したりしているのだ。子供思いというのを強調したのだろうが、出て行った意味がないではないか。プロレスは修道院からは目の敵にされているので、こんな2重生活は許されっこないというのに。3人がかりの脚本で、このユルさはなんなのだ。

新任のシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レゲラ)との恋物語をはさむ必要があったのだろうけどね。ナチョの最初のシスターの口説き文句は「今夜一緒にトーストをかじりませんか」というもので、この少し後にふたりがそうしてる場面があって、ま、この映画ではこれが1番笑える場面だった。

人気はでるが負けているばかりでは仕方がないと、ナチョとヤセはそれなりにいろいろ考える。ヤセの紹介でナチョはヘンな男の言うままに、崖の上にある鷲の卵を飲むのだが、しかしヤセは科学しか信じない男のはずだったのに。この脚本のいい加減さにはあきれるばかりで、もうこうなると、これはからかわれているとしか思えない。

勝つにはプロに学ぶしかないと、人気レスラーのラムセスのいるパーティ開場へもぐりこむ。ところが憧れていたラムセスは、子供たちのためのサインすらしないようなひどいヤツで、このことでナチョは、勝者がラムセスと対戦できるバトルロイヤルに挑戦することを決意する。

バトルロイヤルだから運もあるのだが、ナチョは所詮2位どまり。が、これも2位のミレンシオの悪さにヤセが車で彼の足を轢いて出場できなくさせてしまうという幸運?があって、ついにラムセスとの対戦することになる。

筋肉もりもりのラムセスに、ぶよぶよのナチョだから、勝ち目はないのだが、感動?のプランチャ(ロープから場外の相手に向かって体を預けていく飛び技)まで飛び出して何故か勝利。賞金の1万ペソを手にしたナチョはその金でバスを買い、子供たちを遠足に連れていく。シスターともいい感じで、はいおしまい。

実話をヒントにしたというのは、それはおそらく暴風神父と呼ばれたフライ・トルメンタのことのようで、彼の話はそのまま映画にした方がずっと面白そうだが、しかしそれはすでに映画になっているらしいのだ。だからこれはコメディなのか。それにしてもなー。

ジャック・ブラックは『スクール・オブ・ロック』と『キング・コング』で感心していたから、余計がっかりだった。歌の場面では彼らしさが出ていたし、プロレス場面でも最後までぶよぶよではあったが、体当たりの演技を見せてくれたんだけどさ。

【メモ】

ヤセは科学だけを信じていて、洗礼も受けていない。これはナチョが洗面器に水を入れて洗礼?させてしまうのだが。

「ぜひ彼女にこの逞しい体を見せたい」「これが俺の勝負服」

シスターも、虚栄心のための戦いだからプロレスはいけないと言っていたのに、いつ「俺たちが独身主義でないなら結婚しよう」というナチョの手紙をそっと枕の下に置くような心境になったのだ。荒野の修行?で?

シスターもサンチョと一緒に、ラムセス戦を観に来る。

原題:Nacho Libre

2006年 92分 アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジャレッド・ヘス 製作:ジャック・ブラック、デヴィッド・クローワンズ、ジュリア・ピスター、マイク・ホワイト 脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト 撮影:ハビエル・ペレス・グロベット 衣装デザイン:グラシエラ・マゾン 編集:ビリー・ウェバー
 
出演:ジャック・ブラック(イグナシオ/ナチョ)、エクトル・ヒメネス(スティーブン/ヤセ)、アナ・デ・ラ・レゲラ(シスター・エンカルナシオン)、リチャード・モントーヤ(ギレルモ)、ピーター・ストーメア(ジプシー・エンペラー)、セサール・ゴンサレス(ラムセス)、ダリウス・ロセ(チャンチョ)、モイセス・アリアス(フラン・パブロ)

DEATH NOTE デスノート the Last name

上野東急 ★★★☆

■せっかくのデスノートのアイデアが……

前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。

と、褒めておいて文句を書く……。

前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。

デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。

リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。

しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。

あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。

最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。

とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。

 

2006年 140分 ビスタサイズ

監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)

華魁

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■思いつくままといった筋。喜劇として観るにも無理がある

明治中期の長崎の遊廓が舞台だからか、客には外人の顔も見える。華魁の揚羽太夫(親王塚貴子)は、絵草紙売りの喜助(真柴さとし)といい仲で、八兵衛(殿山泰司)のような客にはつれない。まー殿山泰司だからねー、って失礼だ。でも久しぶりに観たけれど、この人は何をやっても三文役者。芝居しているように見えないのだな。他の出演者も揃ってひどいんだけどねー。

この遊郭に彫物師の清吉(伊藤高)という男が、究極の肌を求めて流れて来る。美代野(夕崎碧)の背中に惚れ込んだ清吉は、美代野にクロロホルムをかがせると店には居続けだと言って3日間も籠もりっきりになり、全身に蜘蛛の刺青をしてしまう。

知らぬ間に刺青を彫られた美代野だが「これがあたしの背中かい、なんて綺麗な」と、怒るでもない。「色あげ」と称して湯殿に連れて行かれ湯をかけられ、痛みにのたうちまわるが、苦しみを忘れたいから抱いてくれなどと言う。

一方の清吉は、湯殿で菖蒲太夫の肌を見るや、俺がほんとに求めていたのはこの肌なんだと、もう心変わり。理想の肌が見つからなくて長崎まで来たはずなのに、これでは手当たり次第ではないか。もちろん脚本がいい加減なのだが、思いつきで話をつくっていったとしか思えない展開なのだ。

美代野は刺青が評判となり地獄太夫として売り出すが、北斎の絵草紙で捕まりそうになった喜助は、菖蒲太夫とアメリカに逃亡する計画を立てる。が、密航の段階で現れた清吉に喜助は殺され、菖蒲太夫も膝に怪我をする。そのまま貨物船に乗せられる菖蒲太夫だが、行き先はアメリカではなく横浜で、アメリカ人の船員にチャブ屋に売り飛ばされそうになる。が、膝の傷に喜助の顔が現れると、船員は悪魔だと叫んで逃げ出してしまう。

どこに行っても体を売るしかないと最初からあきらめているのか、膝の喜助に「いつもお前と一緒だとみんな逃げてしまうだろ。どうやって生きていけるだろ。姿を消して」「私の体は切り売りしても人の女房にはなりません」とたのんで消えてもらう。

客のひとり、ニューヨークの富豪の息子ジョージ・モーガン(アレン・ケラー)は菖蒲太夫に一目惚れし、結婚を迫る。逡巡していた菖蒲太夫だが、結局は結婚を承諾する。が、「この瞬間から私はあなたの妻」と菖蒲太夫が言った(誓いを破った)ことで、今度は彼女のカントに喜助が現れる。それがジョージのペニスに噛みついたことから、神父を呼んでの悪魔払いの儀式となる。

役に立たないと神父には、呼んでおきながら異教徒だからダメと言い、喜助には「私はあなたを愛しています。あなたが魔性になって、私が死んでそっちへ行くまであの世で待っていてください」と言いきかせる菖蒲太夫。

これで、また消えてしまう喜助もどうかと思うのだが、とにかく筋はあってなきがごとし。性描写が適当に散りばめられれば、何でもよかったとしか思えない。その性描写もハードコア大作とはいうものの、えらく退屈だ。郭の場面で5組の部屋を順番に覗いてみせたり、巻末にも浮世絵にそった場面を用意したりしているが、なにしろ主演の親王塚貴子の大根ぶりが度を超していて、よくこれで商売になったものだと呆れるばかりだから、とてもそんな気分になれない。

武智鉄二は武智歌舞伎(知らん)でも名を売っていたから、背景としてはぴったりだったのだろうが、だからといってそれが活かされていたとは到底思えない。武智らしさがあったとすれば、ジョージをはじめて遊郭に連れてきた友人のエドに「心配するな、治外法権だから何をしても罪にならない」というセリフを言わせていることくらいだろうか。

公開20年後だから笑っていられるが、新作でこれを観せられたら腹が立ったと思う。

 

【メモ】

彫物師の清吉役の伊藤高は伊藤雄之助の息子とか。しかし彼もヘタだ。

揚羽太夫に「客は傷ついた心の傷を菩薩の私に求めてくる」と言い聞かせられて、「今から菖蒲は生まれ変わります。増長していました」と反省する場面がある。

遺手のお辰(桜むつ子)が「えーお披露目でござい。あんたーじごくだえはー。えーお披露目でござい」と口上?を述べながら先導していく。「じごくだえはー」と聞こえるが地獄太夫と言っているのだろう。

密航場面では荷物の中での放尿シーン(これは観客サービスのつもり?)があり、またそれをあたまからかぶってしまうところも。

このあと喜助の人面疽が現れる。この合成画像も20年前とはいえ、えらく雑なもので、喜助は額を真っ二つに割られた顔になっている。この時は菖蒲太夫も「あたしを見捨てないでアメリカまでついてきてくれたのかい。もうずーっと一緒だものね」と喜んでいたのだが。

1983年 103分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 原作:谷崎潤一郎  撮影:高田昭 美術:長倉稠 編集:内田純子 音楽:宮下伸 助監督:荒井俊昭 主題歌:徳原みつる
 
出演:親王塚貴子(菖蒲太夫)、夕崎碧(美代野/地獄太夫)、明日香浄子(山吹)、宮原昭子(千代春)、真柴さとし(喜助)、川口小枝(揚羽太夫)、伊藤高(清吉)、梓こずえ(鳴門)、アレン・ケラー(ジョージ)、桜むつ子(お辰)、殿山泰司(八兵衛)

浮世絵残酷物語

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている

浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。

一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。

帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。

この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。

最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。

例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。

どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。

もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。

長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。

そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。

「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。

肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。

【メモ】

兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。

お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。

一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。

賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。

最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。

1968年 84分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
 
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)

上海の伯爵夫人

新宿武蔵野館2 ★★☆

■夢のバーが絵に描いた餅ではね

1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。

ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。

ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。

競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。

雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。

もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。

そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。

せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。

視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。

原題:The White Countess

2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美

監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
 
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン

幸福(しあわせ)のスイッチ

テアトル新宿 ★★★

■過剰なふてくされと怒鳴りがそれほど気にならなくなって……

東京に出て新米イラストレーターとして働きだした怜(上野樹里)だが、思い通りの仕事をやらせてもらえず、勢いで辞めてしまう。「やっちゃったと思いながらも振り向けない」性格なのだ。そこへ故郷から、姉の瞳(本上まなみ)が倒れたという切符入りの速達が届く。

田辺(和歌山県)の田舎に戻るとそれは、怜とソリの合わない頑固親父(沢田研二)の骨折では帰らないだろうしパンチが弱いとふんだ妹の香(中村静香)の嘘で、でもまあ身重の瞳とまだ学生の香では実際家業の電器屋「イナデン」の切り盛りは難しく、とりあえず失業中の怜が手伝うということになってしまう。

このあとはたいした事件が起きるわけでもなく、もうすべてが予告篇どおりの展開といっていい。雷で修理の依頼が多くなると病院を抜け出してきた父と夜仕事に出かけても、それ以上の問題になることはない。あの予告篇では観るのをためらっても仕方ないと思うが、といってどうすりゃいいんだというくらいの内容。平凡な材料ほど料理するのは大変なはずだが、それは端的な説明と間の取り方の確かさで、あっさりクリアしてのける。

巻頭の職場でのトラブルで、怜は同僚で彼氏の耕太(笠原秀幸)ともギクシャクしてしまうのだが、ここでは「彼氏には頼りたくない、ってか元カレ?」というセリフがあって耕太との距離感がすとんとわかる。助っ人として現れた裕也(林剛史)には、中学時代の文化祭キス事件という、これまたわかりやすい説明が用意されている。

大っ嫌いな家業(でもイナデンマークを考えたのは怜なのだ)をいやいや手伝ううちに、修理マニアで外面の天才(怜評)の父親の、家族思いの面にも気付かされていくという寸法なのだが、うわーっ、予告篇もだけど、こうやって書いていても私にはちょっと勘弁という気分になる。怜ならずともこれではふてくされたくもなるというものだ。って怜のふてくされとは意味が違うか。

怜が父親に反発するのは、仕事優先で母の病気の発見が遅れて死んでしまったことと浮気疑惑による。画面に母が登場することはないが、多分怜は母親を慕っていたのだろう。病気発見の遅れについては、洗脳されている瞳と香(母もと言っていた)は思いすごしというが、浮気疑惑はふたりにも予想外で、酒場のママ(深浦加奈子)のところへ怜と香とで押しかけることになる。

が、店を始めた頃に母親とお客さんを回ったのが一番楽しくてしんどかったと父が話していた、とママにははぐらかされてしまう。香の結論は「あの人お父さんのこと好きやな、それにきっとお父さんも」だ。報告を受けた瞳は「だから浮気しても、もうええってこと」で、香は「もてん父親よりは」だが、怜は「ええのー、それで」と外面の天才に丸め込まれたとまだふてくされている。

この意地っ張りな性格は、実は父親譲りらしく、父親のお客様第一主義は、怜のイラストへのこだわりにも通じるところがありそうだ。再就職もままならず、売り物のビデオカメラを壊したことで怒鳴られるとすねて1日さぼり、父にそれは「わいの血か」と見透かされてしまう。

冷静にみても怜は可愛くないし、子供っぽすぎるのだが、いやまー、こういう気持ちはわからなくもない。瞳が大人なのはともかく、香にまで明るくふるまわれてはねー。そう思うと、やはり怒鳴り散らしてばかりの父親に近いのかも。ふてくされと怒鳴りがこんなに過剰なのに、意外に画面に溶け込んでいては、やられましたと言うしかない。

ああそうだ。怜は東京に戻り、彼氏の取りなしもあってか、ちゃんと頭を下げて復職させてもらったのでした。

ついでながら、野村のおばあちゃん(怜が最初に受けた依頼は修理ではなく、家具の移動だった)が嫁と折り合いが悪かったのは、耳が遠くて、とくに嫁の声が聞き取りにくかったらしい。これに気付いた怜は補聴器の販売に成功。あとで父からもいい仕事をしたな、と褒められる。

補聴器をはじめて付けた時の描写もなかなか。鳥の囀りを10年ぶりで聞いたというおばあちゃん。猫の鳴き声、農作業中にくしゃみする人がぽんぽんと挿入される。

 

2006年 105分 ビスタサイズ

監督・原案・脚本:安田真奈 撮影:中村夏葉 美術:古谷美樹 編集:藤沢和貴 音楽:原夕輝 主題歌:ベベチオ『幸福のスイッチ』 照明:平良昌才 録音:甲斐匡
 
出演:上野樹里(次女・稲田怜)、沢田研二(父・稲田誠一郎)、本上まなみ(長女・稲田瞳)、中村静香(三女・稲田香)、林剛史(怜の中学時代の同級生・鈴木裕也)、笠原秀幸(怜の彼氏・牧村耕太)、石坂ちなみ(涼子)、新屋英子(野村おばあちゃん)、深浦加奈子(橘優子)、田中要次(澄川)、芦屋小雁(木山)