サンキュー・スモーキング

シャンテシネ1 ★★★☆

■洒落た映画だが、映画自体が詭弁じみている

ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、タバコ研究所の広報マン。すでに悪役の座が決定的なタバコを擁護する立場にあるから、嫌われ者を自覚している。TVの討論会では、15歳の癌患者を悲劇の主人公にしようとする論者を敵(味方などいるはずもない)に回して、タバコ業界は彼が少しでも長生きして喫煙してくれることを願っているが、保健厚生省は医療費が少なくてすむよう彼の死を願っているなどと言って論敵や視聴者を煙に巻く。

映画は、最後まですべてこんな調子。それを面白がれれば退屈することはない。といって喋りだけの平坦さとは無縁。テンポよく次々とメリハリのある場面が飛び出してくる。

ニックはタバコのイメージアップに、映画の中で大物スターにタバコを吸わせることを考えつく。上司のBR (J・K・シモンズ)はニックの案を自分の発案にしてしまうようなふざけた野郎だが、フィルター発案者でタバコ業界の最後の大物と言われるキャプテン(ロバート・デュヴァル)はちゃんとニックのことを買っていて、ロスに行って日本かぶれのスーパー・エージェントであるジェフ・マゴール(ロブ・ロウ)と交渉するように命じる。

キャプテンについての紹介は「1952年、朝鮮で中国人を撃っていた」というものだし、マゴールの仕事のめり込みぶりは度外れていて、ニックがいつ眠るのかと問うと日曜と答える。現代物は無理だがSF映画で吸わせるのならなんとかなると仕事の話も速い。

とにかく、登場人物は癖のあるヤツらばかりだし、それでいてほとんど実在の人物なのかと思わせる(だからこそ心配にもなってくる)あたり、大したデキという他ない。ニックが賄賂を持って出かけた初代マルボロマンだというローン・ラッチ(サム・エリオット)には「ベトコンを撃つのが好きだったが、職業にはしなかった」と言わせてしまうのだから。

ラッチとの駆け引きは見ものだ。相手はなにしろ銃を片時も手放さないし、クールが好きでマルボロは吸わなかったとぬけぬけと言うようなヤツ。癌と知って株主総会に出たという彼に、ニックはバッグ一杯の金を見せながら、告訴となければこの金は受け取れなくなり、寄付するしかなくなるとおどす。

タバコ悪者論者の急進派の一味に襲われ、ニコチンパッチを体中に貼られて解放される事件が起きて入院すれば、すかさず「ニコチンパッチは人を殺します。タバコが命を救ってくれた」(よくわからんが、タバコが免疫を作ってくれていたということなのか?)と切り返していたニックだが、親しくなっていた女性新聞記者のヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)に仲間のことから映画界への働きかけから、口封じ、子供のことまですべてを記事で暴露され、会社をクビになる。誘拐で彼への同情はチャラになり、頼みのキャプテンは「今朝」死んだときかされる。

落ち込むニックを救ったのは息子ジョーイ(キャメロン・ブライト)の「パパは情報操作の王」という言葉。でもこれはどうなんだろ。ジョーイは父親を尊敬しているという設定にはなっているが、とはいえ、子供に屁理屈王と言われてしまったのではねー。

ニックは離婚していて、ジョーイには週末にしか会えないのだが、でもまあ子供思いで、学校にも行って仕事の話をするし、仕事先にもジョーイを連れ回す(マルボロマンとの交渉ではジョーイが役に立つ)。詭弁家ではあるが、子供にはきちんと向き合おうとしている。題材と切り口は奇抜ながら、実は父子の信頼関係の物語なのである。

立ち直りの速さはさすが情報操作王で、暴露記事には反省の姿勢を見せつつ、記者と性交渉を持つと最悪だが、紳士として相手の名前は伏せると反撃も忘れない。その勢いでタバコ小委員会に出席し、タバコに髑髏マークを付けようとしている宿敵のフィニスター上院議員(ウィリアム・H・メイシー)を徹底的にやりこめる。

無職なのだからもはや「ローンの返済のため」というのではないわけで、これは情報操作王としての意地なのだろうか。タバコはパーキンソン病の発症を遅らせると軽くパンチを出し、タバコが無害だと思う人なんていないのに何故今さら髑髏マークなのかと言い放つ。死因の1位はコレステロールなんだから髑髏マークはチーズにだって必要だし、飛行機や自動車にも付いてないじゃないかと。

ただ、この屁理屈と論旨のすり替えはいただけないし、またかという気持ちにもなる。というわけで、このあとの子供にもタバコを吸わせるのかという質問には、18歳になって彼が吸いたければ買って吸わせると、子供の自主性を強調していた。最初の方でもニックはジョーイの宿題に、自分で考えろと言っていたし、これについては異論はないのだけどね。

この活躍でニックは復職を要請される。が、それは断わって、自分でネイラー戦略研究所を立ち上げる。父親の血を引いたジョーイはディペードチャンピオンになって目出度し目出度し、ってそうなのか。言い負かしさえすればいいってものでははずだし、そんなことは製作者もわかっているみたいなのだが、だからってディベート社会そのものまでは否定していないようだ。

この映画を製作するとなると、どうしてもタバコ擁護派のポーズを取らざるを得ないわけで、だからこそそのために周到に映画の中ではタバコを吸う場面を1度も登場させていない(劇中のフィルムにはあるが)のだろう。そうはいってもこの終わり方ではやきもきせざるを得ない。ニックは最後に、誰にでも才能があるのだからそれを活かせばいいのだとも言う。それはそうなんだが、この割り切りも私には疑問に思える。

書きそびれたが、ニックの広報マン仲間で、アルコール業界のポリー(マリア・ベロ)と銃業界のボビー(デヴィッド・コークナー)の3人が飲んでいる場面がちょくちょくと入る。これがまたいいアクセント代わりになっている。3人は「Marchant of Death(死の商人)」の頭文字をとって「モッズ(MOD)特捜隊」(昔のテレビ番組)と名乗り、日頃のうっぷん晴らしや互いを挑発し合ったりしているのだが、これがちょっとうらやましくなる関係なのだ。

【メモ】

タイトルはタバコのパッケージを模したもの。

「専門家みたいに言うヤツがいたら、誰が言ったのかと訊け」「自分で考えろ」

「君は息子の母親とやっている男だ」

ジョーイもかなり口が達者で、父親についてカリフォルニアに行くことを母親に反対されると「破れた結婚の不満を僕にぶつけるの?」と言い返していた。 

「あの子はあなたを神と思っているの」

「何故秘密を話したの? ママは、パパは女に弱いからって」

原題:Thank You for Smoking

2006年 93分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ジェイソン・ライトマン 原作:クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』 撮影:ジェームズ・ウィテカー 美術:スティーヴ・サクラド 衣装:ダニー・グリッカー 編集:デーナ・E・グローバーマン 音楽:ロルフ・ケント
 
出演:アーロン・エッカート(ニック・ネイラー)、マリア・ベロ(ポリー・ベイリー)、デヴィッド・コークナー(ボビー・ジェイ・ブリス)、キャメロン・ブライト(ジョーイ・ネイラー)、ロブ・ロウ(ジェフ・マゴール)、アダム・ブロディ(ジャック・バイン)、サム・エリオット(ローン・ラッチ)、ケイト・ホームズ(ヘザー・ホロウェイ)、ウィリアム・H・メイシー(フィニスター上院議員)、J・K・シモンズ(BR)、ロバート・デュヴァル(ザ・キャプテン)、キム・ディケンズ、コニー・レイ、トッド・ルイーソ

トリスタンとイゾルデ

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■丁寧なつくりの重厚なドラマが楽しめる(苦しめられる)

(↓ほとんど粗筋ばかりなので読まない方がいいかも)

ローマ軍が撤退したあと、強大なアイルランド王に対抗する連合を打ち立てられないイギリスは、暗黒時代が続いていた。トリスタン(ジェームズ・フランコ)は幼い時に両親をアイルランド軍に殺され、命の恩人であるコーンウォールの領主マーク(ルーファス・シーウェル)のもとで成長する。トリスタンは自分の立てた作戦で、アイルランド王の片腕であるモーホルトを仕留めるが、自身も傷つき、毒薬のため死んだと思われて船葬で海に流される。

アイルランドに流れ着いたトリスタンを見つけたのはアイルランド王の娘イゾルデ(ソフィア・マイルズ)で、解毒の方法に詳しい彼女によって彼は一命を救われる。彼女の献身的な看病のうち、ふたりは恋に落ち海岸の小屋で結ばれる。

トリスタンを最初に発見したのがイゾルデというあたりに多少無理はあるものの(イギリスと敵対しているのに海岸線の防備はどうなっているのだ)、よく練られた脚本で、導入部から無理なく物語に入っていくことができる。歴史的な背景もわかりやすく説明してある。

船葬が発見されてしまったため、イゾルデの正体を知ることもなく、一旦はイギリスに戻るトリスタン。死んだと思っていたマーク王は、我がことのように喜ぶ。一方アイルランド王はモーホルトを失った(実は王との間で、イゾルデを妻にする約束が出来ていたのだが)ことから体勢を立て直す意味もあって、イゾルデと領地を餌にイギリスの領主たちに最強戦士を決める試合を開催するという知らせを出す。

褒美に釣られて半数の領主が参加するなか、自分の愛した女性がイゾルデであることを知らないトリスタンは、マーク王に「自分が名代になって出場して勝ち、イギリスの盟主と目されているあなたがアイルランド王女を妻に迎えることになれば、血を流さずに平和がもたらされる」と説く。

筋ばかり追ってしまっているが、これが巧妙なのだ。イゾルデをモーホルトから守ったのがトリスタンならば、そのイゾルデを親代わりであるマーク王に嫁がせたのもトリスタンということになるからだ。

王女争奪戦でのトリスタンの活躍はなかなかだ。仕組まれたインチキ試合に勝ち上がっていくトリスタンをカメラは魅力的に追う。恋愛劇の側面が強調されているが、この試合だけでなく、森での戦いや、城攻めの場面などどれも正攻法ながら迫力がある。また、俯瞰で捉えた城の内部や夜の挙式など、静の部分の美しさにも魅せられる。

「ここが忠義のない世界だったら私と結婚してくれた?」「そんな世界などない」「初夜がつらいわ」人目を忍んで交わされるトリスタンとイゾルデの会話が切ない。というか、
マーク王と睦まじくしているイゾルデを、地獄にいるトリスタンは「妻を演じるのに少しは苦労するかと」となじってしまう。

そしてマーク王の立派さが、さらに悲劇を際だたせる。トリスタンにとってマーク王は忠義以上に尊敬の対象(王としての資質のみならず、トリスタンを救う時に右手まで失っている)だし、イゾルデもトリスタンと知り合っていなければマーク王の愛を受け入れていたはず(優しくて憎めない人)なのだ。なのに、初恋の情熱故か、イゾルデはトリスタンに「愛に生きる」ことを宣言させてしまう。

密会を重ねる当のトリスタンに、マーク王はイゾルデの素行調査を依頼する。いや、詳しく書くのはもうやめるが(書くだけでもつらい話だ)、とにかく、この隙をつくようにアイルランド王と裏切り者が動きだし、マーク王は事実に直面する。が、イゾルデからトリスタンが瀕死の時に知り合ったことを訊いて、何も言わずふたりを解放しようとする。

しかし、トリスタンは「愛が国を滅ぼしたと伝えられる」と言ってマーク王のために戦うことを選ぶ。マーク王の寛容さに応えずにはいられなかったのだろうが、結局は彼には死が待っていた。「生は死より尊い。だが愛はもっと尊い」「ふたりの愛は国を滅ぼさなかった」という、ここだけ聞いたらおちゃらかしたくなるような結末なのだが、素直にしんみりできる。

アイルランド王の、娘を将棋の駒の1つとしか考えていない酷薄さや、トリスタンと同い年で、彼の存在故に常に2番手に甘んずるしかなかったマーク王の甥の悲しさなども、きちんと描かれていた。これでイギリスの部族間の抗争がもう少し深く捉えられていたら言うことがないのだが。

私の書いた文章からだと重たくるしい映画というイメージしか残りそうもないが、例えばトリスタンを人肌で温めようとするイゾルデが乳母にも裸になるように言うと、乳母は嬉々として「男と抱き合うのは15年ぶりよ」と言う。このあとトリスタンの正体を知って乳母が「イギリス人ですよ」と窘めると、イゾルデは「捕虜にしたの」と答えるのだ。まだ恋のはじめのはじめ、楽しい予感に満ちたひととき……。

 

原題:Tristan + Isolde

2006年 125分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:ケヴィン・レイノルズ 脚本:ディーン・ジョーガリス 撮影:アルトゥール・ラインハルト 編集:ピーター・ボイル 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:ジェームズ・フランコ(トリスタン)、ソフィア・マイルズ(イゾルデ)、ルーファス・シーウェル(マーク)、 デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ストロング、ヘンリー・カヴィル、ブロナー・ギャラガー、ロナン・ヴィバート、ルーシー・ラッセル

アタゴオルは猫の森

新宿武蔵野館3 ★★

■「秩序」対「紅鮪」? 

ますむらひろしの原作を知らない者にはタイトルからしてよくわからない。猫の森といいながら人間もいて、でも猫だって擬人化されたもので、その関係や違いがわからないのだ。まあ単純に、アタゴオルという所は動物も人間も対等でいられる楽園とでも解釈しておけばいいのだろうか。

で、そこの年に1度の祭りの日に、ヒデヨシというおさがわせデブ猫が、好き勝手に暴れ回る幕開きとなる。ここはそれなりのインパクトがある。がヒデヨシが、欲望(食欲)に忠実であるという部分を強調するあまり、自分だけ楽しければいいただのわがまま猫にしか見えず、次第に乗れなくなってくる(少し長いこともある)。

祭りを荒らし回ったヒデヨシは棺桶のようなものを見つけ、開けるなと言われるのもかまわずその蓋を開けてしまう(なにしろ言うことを聞かないヤツなのだ)。封印を解かれて現れた植物の女王というピレアが言うには、何でもかつては知性ある植物が世界を支配していたのだと。そして、やおら「あなたがたへ贈り物があります」と言うのだが……。

ピレアは、アタゴオルを秩序ある安らぎの世界に変えるのだと説く。ピレアのもとにいると、世界は歌に満ちて、気持ちよくなって、歌わずにはいられなくなる。生き物たちは片っ端から花(植物)に変えられていくのだが、抗う理由が見つからない。ふうむ、アタゴオルは楽園ではなかったか(人間+猫は欲が深いからねー。それともヒデヨシのような迷惑なヤツがいるからとか)。

しかし、これには当然裏があって、植物に変えることでピレアは自分の言いなりにしたいわけだ。つまりは自分のすることを邪魔されたくないらしい(あれ、ヒデヨシじゃん)。若さを得るために生き玉?を食べる目的もあるらしいのだ。そして、「この星が私そのものになって、私の種子がこの星を被い、無数の私が芽吹く」ようにするというのだ。ただ描写としては手抜きで「根っこがからみついてジャングルが息苦しそう」と言われるくらいでは、何が悪いのかが判然としない。蝉男やギルバルス(何なんだ、こいつらは)がテキトーに解釈してるだけで。

とにかくピレアは悪いヤツなのだ。そして彼女を封印できるのは、植物の王であるヒデコだけなのだと。そのヒデコだが、ピレアが封印を解かれたとき同時に現れていて、何故かヒデコは父親にヒデヨシを選んでいたのだった。しかしこの説明はくだならい。植物女王ピレアは最初から魔力を使い放題なのに、植物王ヒデコは力強く成長するためには父親が必要って、もっとうまいでっち上げを考えてくれないと。紅鮪一筋で好き勝手し放題のヒデヨシだが、何故かヒデコには愛を感じて、ちゃーんと父親たらんとする。これも何だかなー。

ということで対決です(ムリヤリだ)。

「父親ってうまいのか」と馬鹿なことを言っていたヒデヨシなのに、急に人格が変わったように「俺たちはとことん生きるために生まれてきたのよ」とか「この父上にまかせなさい」と、ピレアに立ち向かっていく。大地と直結したヒデヨシの途方もない生命力は、負けはしないがやっつけることもかなわず、ピレアを封印すると自身も消えてしまうヒデコに頼るしかなかった(つまりどこまでもピレアとヒデコは一体なわけだ)。

最後はまた蝉男の解説があるし、「完全じゃないから面白い。完全じゃないから素敵」とかやたら説教じみているのが気になる。完全……の部分は、秩序ある安らぎの世界への当てつけなんだろうけど、でもだったら最後のダンスは全員同じではなく、バラバラにしないとまずいんじゃ。はずしてる爺さん猫はいたけどね。って、そうか、ちゃんと異質な(完全でない)部分にも焦点を当てているってか。

構図や色使いは素晴らしいのだが表情はいまひとつ。これは全員に言えることだが、ヒデヨシに至っては最初から最後まで細目で通してしまっている。猫の擬人化は、マンガならごまかせることがアニメだとむずかしいわけで(バイオリンの弦に指がかかっていなかったりする)、しかもこれは3DCG。ま、これについては何も知らないに等しいからうかつには語れないのだが、でもとにかく猫である必然性はないよね。

筋もひどいが、やっぱり基本からきちんと考えるべきだろう。キャラクターだけの魅力で作っちゃいかんのだな。

 

【メモ】

びしょびしょ君(ヒデヨシはピレアをこう呼ぶ)

音楽で最高の幸せ。満腹の幸せ。みんなの幸せを壊すヒデヨシ

「オッサン、あんたが父上か」「その父親ってのはうまいのか」

すべての生命力はこの星と繋がっている

カガヤキヒコノミヤ(ヒデコ)

「こんなに心がやすらぐのなら花になるのも」「花になったら腹一杯食べられない」

2006年 81分 スコープサイズ アニメ

監督:西久保瑞穂 原作:ますむらひろし『アタゴオル外伝 ギルドマ』 脚本:小林弘利 音楽:高橋哲也 音楽プロデューサー:安井輝 音楽監督:石井竜也 CGディレクター:毛利陽一 CGプロデューサー:豊嶋勇作 キャラクターデザイン原案:福島敦子 音響監督:鶴岡陽太 色彩設計:遊佐久美子 制作:デジタル・フロンティア 美術デザイン:黒田聡
 
声の出演:山寺宏一(ヒデヨシ)、夏木マリ(ピレア)、小桜エツ子(ヒデコ/輝彦宮)、平山あや(ツミキ姫)、内田朝陽(テンプラ)、田辺誠一(ギルバルス)、谷啓(蝉男)、石井竜也(MCタツヤ)、谷山浩子(テマリ)、佐野史郎(竜駒)、牟田悌三

地下鉄(メトロ)に乗って

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★☆

■和解話は甘いし、不倫の決着は相手任せ!? で、それ以前に話がいい加減

小さな下着会社で営業の仕事をしている長谷部真次(堤真一)は、実は財界の大物小沼佐吉(大沢たかお)の次男だ。強欲で家族を顧みない父とは長い間縁切り状態でいたが、父の会社を次いでいる弟(三男)から、父が倒れたという知らせがケータイの留守電に入っていた。

無視するように長谷部は帰路につくが、地下鉄のホームで恩師の野平先生(田中泯)に会う。先生は老いていたが、長谷部のことはよく覚えてくれていて、今日が若くして死んだ兄(長男)の命日という話にもなる。

いつの間にかホームには人影がなくなっていて、先生は地下鉄なら当分来ないので私はここで待つと怪しげなことを言う。急ぐのでと先生と別れる長谷部だが、今度はその死んだはずの兄を見かける。思わずあとを追い地上へ出てみると、そこは実家のそばの新中野で、東京オリンピックの開催に湧く昭和39年10月5日だった。

だけどさー、永田町(赤坂見附)だったのに新中野って? エスカレーターが止まっているところがあるかと思うと動いているところもあって、それに長谷部は改札をすり抜けて行ってしまうのだが、こういう細かな部分も含めて、この流れは掴みづらい。

とにかく長谷部は過去に戻り、まず兄の事故死を止めようとするがそれは叶わず、しかしそのあとは若き日の父親と何度が接触し、思ってもいなかった父の知られざる面を知ることになる。闇市で体を張って生き、夢を追いかけていた父。戦渦のただ中の満州で、最後まで民間人を見捨てず守ろうとした父。更に遡って、銀座線車内での初々しい出征姿の父。

父との精神的な和解の物語なのはわかるが、似たような状況にある私には納得できない話だ。人間いいところを見つけようとすれば、誰にも少しくらいはあるからだ。愛情を持って育てられても、ある部分でどうしても許せないことをされたら……という場合だってあるだろう。

そしてここで見る限り、小沼佐吉はせっかく持っていた資質をどんどんねじ曲げていった男にしか見えないのだ。現に最初の昭和39年の長男の通夜ではもう妻を殴っているではないか。闇市時代から愛人のお時(常盤貴子)はかかせない存在だったし、裏社会に足を踏み入れてもいたようだ。現代でも贈収賄事件の尋問の最中だというし、都合が悪いとすぐ入院してしまうようなヤツなのだ。そういう見方だってできるのだから「あなたの子供で幸せでした」という結論にはそう簡単には結びつけられないのである。

結局、これは父に似ていると言われてきた主人公の見たかった夢、と考えれば話は簡単になる。そう思えばタイムスリップが、最初こそ地下鉄が出入り口になっていたものの、途中からは自由自在のようだったことにも納得がいく(いかないか)。ただ、となると、今度は地下鉄が轟音と共に爆走するイメージをタイムスリップに結びつけられなくなってしまうから、少なくともこのイメージの挿入は最初の時だけにしておくべきだった(地下鉄の移動がタイムスリップなら、着いた先のホームからもう時代が変わっている必要がある。そうか、だから兄を見つけたのだろう。でもだったら他の描写も統一しなくては)。

もっともこの主人公の夢説は、不倫相手の軽部みち子(岡本綾)が、闇市にやはりタイムスリップしていたという仰天事実によって説得力を失ってしまう。つまりこのタイムスリップは主人公の心象風景では決してなく、本当のタイムスリップだと? いや、だからそれだとあまりにも都合がよすぎるというかさ。まあ、これは原作者浅田次郎の罪のような気がするが。彼の小説の設定の安易さには辟易してしまうことがあるからねー。

みち子が過去に出現したことで、物語は父との和解とは別の側面を持つに至る。彼女のタイムスリップは仰天事実への扉にすぎず、彼女が長谷部の異母妹だったことに運命の真意はあったようだ。みち子はこのことを知って驚き、禁断の愛に苦悩するが、長谷部には事情を明かさずに去る決意をする(指輪をはずし長谷部の服にもどす)。彼女は生い立ちからして薄幸で、不倫という辛い立場にいたのだが、過去にタイムスリップしたことで、自分も父母に望まれて生まれてきたのだと知る。しかしせっかくその大切な事実を得ながら彼女はそれで十分満足し、親殺しのパラドックスならぬ胎児殺しでもって自分を抹殺する道を選んでしまうのだ。

なんともすごい結末だ。みち子はお時に好きな人の幸せと、子供の幸せのどっちが幸せかとちゃんと問うてはいたが、でもだからといって、とても納得できるものではない。ある意味ではすべて長谷部に都合のいい(もちろんみち子は失うが)ように話が進んだだけではないか。こうなっては1度引っ込めた主人公の夢説をまたぞろ持ち出したくなるではないか。

意識してはいなくてもやはり長谷部には父親に似たどこか薄情なところがあるということだろうか。子供とキャッチボールをし、服に指輪を見つける場面が最後にあるが、ただそれだけなのか。

終盤間際に野平先生がまた現れて「また会えたね。ここにおれば君に会えそうな気がしておったが。この年になればあせる必要はない。思った場所に自在に連れてってくれる」と長谷部に言う。うーむ、やはり野平先生は、水先案内人だったか。彼がまた出現したことで、長谷部の時間旅行は終わったのだ。もっともこの演出はあまり効果的なものではなかったが。

なお、これは映画の中身には関係ないことだが、少なくとも物語の設定は小説の発表時期にまで戻すべきだった。長谷部やみち子の年齢が10歳ほどだが若いことで、気になって仕方のないところが沢山あった。たった10年ではあるが、営団地下鉄から東京メトロになってしまった今となっては、いくら東京メトロ全面協力のもとであっても、ロケには相当手を加える必要があったのだろうけどね。

 

【メモ】

3人でキャッチボール マーブルチョコの広告看板 新中野 鍋屋横町

オデヲン座の看板は、左から『肉体の門』『キューポラのある街』『上を向いて歩こう』。この3本立ては実際のもの? 新中野のオデヲン座を知らないので何とも言えないが、3番館にしてもこの組み合わせはひどくないか。

20歳の小沼佐吉「本当に帰ってこれたら、この千人針を作ってくれた人と結婚して……」。
当時の銀座線の車内はこんなに静かとは思えないが?

BAR AMOUR オムライス 小沼家の墓 会社を作ったきっかけ(スーツケースを持った男、絹の下着)

長谷部の上司はいわくありげに『罪と罰』(それもかなり古い本)を読んでいたが?

2006年 121分 サイズ■

監督:篠原哲雄 原作:浅田次郎『地下鉄に乗って』 脚本:石黒尚美 脚本協力:長谷川康夫 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:キム・サンミン 音楽:小林武史 主題歌:Salyu

出演:堤真一(長谷部真次)、岡本綾(軽部みち子)、大沢たかお(小沼佐吉)、常盤貴子(お時)、田中泯(野平啓吾)、笹野高史(岡村)、北条隆博(小沼昭一)、吉行和子(長谷部民枝)

出口のない海

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■不完全兵器「回天」のもたらした悲劇

4隻の人間魚雷回天と搭乗員の並木(市川海老蔵)たちを積んだ伊号潜水艦は敵駆逐艦に見つかり猛烈な爆雷攻撃を受けるが、潜水艦乗りの神様と呼ばれる艦長の鹿島(香川照之)によって窮地を脱する。

いきなりのこの場面は単調さを排除した演出で、それはわかるのだが、しかしここからはじめるのなら、後半の唐突な伊藤整備士(塩谷瞬)のモノローグは最初からでもよかったのではないか。伊藤整備士と会うのは山口の光基地だから、並木の明治大学時代の話や志願の経緯などはそのままでは語れないが、それは並木から聞いたことにすれば何とかなりそうだからだ。ラストでは現在の年老いた伊藤を登場させているのだが、これはさらに意味がないように思われる。ただただ無駄死にという最後の印象を散漫にしてしまっただけではないか。

最初にラストシーンに触れてしまったが、映画は回天の出撃場面の合間に何度か回想の入る構成になっている。甲子園の優勝投手ながら大学では肩を痛め、それでも野球への情熱は失わずに魔球の完成を目指していた並木。長距離の選手だった同級の北(伊勢谷友介)。北の志願に続くように自分も戦争に行くことを決意する並木。秘密兵器の搭乗者になるかどうかの選択。訓練の模様。家族や恋人・美奈子(上野樹里)との最後の別れ。

美奈子の扱いが平凡なのは不満だが、他の挿話がつまらないというのではない。ただ、何となくこれが戦時中の日本なんだろうか、という雰囲気が全体を支配しているのだ。出だしの爆雷攻撃を受ける場面では、上官が「大丈夫か」などと声をかけるところがある。軍神になるかもしれない人間を粗末にはできなかったのか。そういえば並木の海軍志願の理由は「何となく海軍の方が人間扱いしてくれそう」というものだったが、当時の学生に、海軍>陸軍というイメージはあったのか。それはともかく、いい人ばかりというのがねー。

他にも描かれる場面が、並木たちの行きつけの喫茶店の「ボレロ」であったり、野球の試合だったりで、戦争とはほど遠い感じのものが多いことがある。戦況も含めて何もかも理解しているような父(三浦友和)も、楽天的な母(古手川祐子)も、兄の恋の行方に心を痛める妹(尾高杏奈)も、そして当の並木まで栄養状態は良好のようだし、なにより海老蔵の明るいキャラクターがそういう印象を持たせてしまったかも(もっと若い人でなくては)。戦時イコールすべてが暗いというわけではないだろうが、空襲シーンも1度だけだし、何事もいたってのんびりしているようしか見えないのだ。

「敵を見たことがあるか」という父親との問答は、戦争や国家の捉え方として映画が言いたかったことかもしれないが、これまた少しカッコよすぎないだろうか。これはあとで出てくる並木の「俺は回天を伝えるために死のうと思う」というセリフにも繋がると思うのだが、これがどうしても今(現代)という視点からの後解釈のように聞こえてしまうのだ。こんなことを語らせなくても、回天の悲劇性はいくらでも伝えられるのと思うのだが。

回天が不完全兵器だったことは歴史的事実だから、この映画でもそれは避けていない。1度ならず2度までも故障で出撃できなかった北の苦しみは、死ねなかったというまったく馬鹿げたものなのだが、彼の家が小作であることや当時の状況を提示されて、特攻という異常な心境に軍神という付属物が乗るのに何の不思議もないと知るに至る。

そして、並木も何のことはない、敵艦を前に「ここまで無事に連れてきてくださってありがとう。皆さんの無事を祈ります」という別れの挨拶まですませながら回天の故障で発進できずに、基地へと戻ることになる。伊藤整備士は「私の整備不良のせい」と言っていたが、事実は、そもそも部品の精度すらまともでなかったらしい。並木も、死を決意しながらの帰還という北の気持ちを味わうことになるわけだ。このあと戦艦大和の出撃(特攻)に遭遇し艦内が湧く場面があるのだが、並木は何を考えていたのだろうか。

並木は8月15日の訓練中に、回天が海底に突き刺さり、脱出不可能な構造のためあえなく死亡。9月の枕崎台風は、その回天を浮かび上がらせる。進駐軍のもとでハッチが開けられ、並木の死体と死ぬまでに書きつづった手帳が見つかる。

最初に書いた最後の場面へ行く前に、この家族や恋人に宛てた手帳が読み上げられていくのだが、そんな情緒的なことをするのなら(しかも長い)、回天の実際の戦果がいかに低くかったことを知らしむべきではなかったか。

そういう意味では回天の訓練場面を丁寧に描いていたのは評価できる。模型を使って操縦方法を叩き込まれるところや、海に出ての実地訓練の困難さをみていると、これで本当に戦えるのだろうかという疑問がわくのだが、そのことをもっと追求しなかったのは何故なのだろう。

また回天への乗り込みは、資料を読むと一旦浮上しなければならないなど、機動性に富んだものではなかったようだ。映画はこのことにも触れていない(伊藤が野球のボールを並木に渡す時は下からだったが、ということは潜水艦から直接乗り込んだとか?)。こんな中途半端なドラマにしてしまうくらいなら、こぼれ落ちた多くの事実を付け加えることを最優先してほしかった。

なお、敵輸送船を撃沈する場面で、いくら制空権と制海権を握っていたとはいえ、アメリカ軍が1隻だけで行動するようなことがあったのだろうか。次の発見では敵船団は5隻で、これならわかるのだが。

 

【メモ】

人間魚雷「回天」とは、重量 8.3 t、全長 14.75 m、直径 1 m、推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット、乗員1名、弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており、騒音を発し、操縦性も悪い日本の大型潜水艦が、米軍艦船を襲撃するのは、自殺行為だった。「回天」の技術的故障、三次元操縦の困難さも相まって、戦果は艦船2隻撃沈と少ない。(http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html)

「BOLEROボレロ」のマスターは、名前のことで文句を付けられたらラヴェルはドイツ人と答えればいいと言っていたが?

北「俺が走るのをやめたのは走る道がないからだ」

上野樹里は出番も少ないが、まあまあといったところ。並木の母のワンピースを着る場面はサービスでも、これまた戦時という雰囲気を遠ざける。

美奈子「日本は負けているの」 並木「決して勝利に次ぐ勝利ではないってことさ」 

明大の仲間だった小畑は特攻作戦には不参加の道を選ぶが、輸送船が沈没し形見のグローブが並木の家に届けられていた。

手帳には、回天を発進できず、伊藤を殴ったことを「気持ちを見透かされたようだった」と謝っている。

他には、父さんの髭は痛かったとか、美奈子にぼくの見なかった夕日の美しさなどを見てくれというようなもの。

2006年 121分 サイズ■

監督:佐々部清  原作:横山秀夫『出口のない海』 脚本:山田洋次、冨川元文 撮影: 柳島克己 美術:福澤勝広 編集:川瀬功 音楽:加羽沢美濃 主題歌:竹内まりや『返信』

出演:市川海老蔵(並木浩二)、伊勢谷友介(北勝也)、上野樹里(鳴海美奈子)、塩谷瞬(伊藤伸夫)、柏原収史(佐久間安吉)、伊崎充則(沖田寛之)、黒田勇樹(小畑聡)、香川照之(イ号潜水艦艦長・鹿島)、三浦友和(父・並木俊信)、古手川祐子(母・並木光江)、尾高杏奈(妹・並木幸代)、平山広行(剛原力)、永島敏行(馬場大尉)、田中実(戸田航海長)、高橋和也(剣崎大尉)、平泉成(佐藤校長)、嶋尾康史(「ボレロ」のマスター柴田)

Sad Movie サッド・ムービー

中野サンプラザホール(試写会) ★★☆

■ビデオの遺書という泣き狙いで、すべてが台無し

4組の男女の別れ(1組は母親と小学生の息子)を描いた作品。

消防士のジヌ(チョン・ウソン)は今日こそスジョン(イム・スジョン)にプロポーズをしようと思いながらも、その機会を逸している。テレビ局でニュースの手話通訳として活躍するスジョンだが、ジヌの職業が危険なことに心を痛めていて、ある日の火災ニュースから、ついにジヌにあたってしまう。

スジョンの妹のスウン(シン・ミナ)は昔の火事で顔に大きな火傷の跡が残り、耳が聞こえない(彼女を助けたのがジヌなのだ)。白雪姫の着ぐるみを着て遊園地でバイトをしている彼女が興味を持ったのが、園内で似顔絵を描いているハンサムな青年サンギュ(イ・ギウ)。着ぐるみを脱いで彼と対面する勇気がでないでいる彼女に、仲間(7人の小人)たちはデートをセッティングする。

ボクシングのスパーリング役のバイトでその日暮らしのようなハソク(チャ・テヒョン)は、付き合って3年になるスッキョン(ソン・テヨン)がいるが、彼女もスーパーのレジ打ちで、こんなことをしていても先が見えないと別れ話を切り出されてしまう。チャンスをくれと食い下がるハソクだが、見通しなど何もない。が、ひょんなことからネットで「別れの代行」業という珍商売をやることを思い立つと、これが意外にも繁盛しだす。

ジュヨン(ヨム・ジョンア)は仕事に追われ、小学2年生の一人息子フィチャン(ヨ・ジング)の相手がなかなか出来ずにいた。車の運転中に具合の悪くなった彼女は、事故を起こして入院するが、そこで癌に冒されていることを知る。息子は入院したママが小言を言わなくなるし、会いたいときにいつでも会えるからと病気を歓迎していたが……。

洒落た画面構成だし、話の組み立ても手慣れたものだ。4組の話が交錯して進むものの、混乱することはまったくない。が、4組の別れを用意した意図が見えることはなく、かえってひとつひとつの「別れ」を散漫にしてしまっている。

4つの話に関連性がないわけではない。姉妹つながりの他に、フィチャンがママの癌を知って、ハソクの別れの代行業に別れたくないという依頼をするというつながりもあるが(小学生だからちょっと無理はあるけどね)、全体をまとめるものが何か欲しい。

でもそんなことより、ジヌの残したビデオテープが、映画全体を台無しにしてしまっているのだ。ジヌは、結局火災に巻き込まれて死んでしまうのだが、現場にスジョン宛の遺書を入れたビデオテープを残していた。これは内容もだが、それ以前に、こんなことをしている時間があるなら逃げる手段を考えろと言いたくなる。脱出不可能で火災は免れても有毒ガスで死ぬしかないというのなら、その説明を入れるくらいわけないと思うのだが。火災がひどけりゃビデオだって焼けちゃうでしょう。わかってたから撮影したって。あ、そう。でもわざわざマスクを外すことはないよね。それにカメラが途中で引いていたような(ありえねー)。

泣き狙いのこの場面で一気に駄作の仲間入り。せっかく洒落た感じでまとめていたのにねー。もちろん他にも気になることがないわけではなく、例えば、フィチャンの描いたママの絵はいかにもというもので、ここはセリフまでがつまらない(「今までママの顔をうまく描けなかったのはママが綺麗すぎたから」)。別れの代行の依頼がスッキョンからきてしまうというのも読めてしまっていたが、でもビデオ場面ほどの失点ではない。

それに、スウンの恋物語は、唯一出会いからはじまるせいもあってとっても可愛らしいものだ。「お姉さんは愛してるって言えるじゃないの」と声を絞り出して泣いたこともあった彼女だが、ついに着ぐるみを脱ぐ時がやってくる。はじめこそメイクと照明でごまかしていた彼女だが、素顔でもう1度描いてとサンギュに言う場面には、結構グッときてしまった。でもこの恋は、サンギュの留学でおしまいらしい。

ジュヨンとフィチャンの話だけは恋物語ではないし、病死という安直な設定なのだが、フィチャンがママの日記を見つけて、その内容に喜んだりがっかりしたりする場面は楽しめる。望まない子というパパが悪者になるのは当然(この前にも「押し倒した」「悪い人」という記述がある)で、「私より賢い子に」と願うママの株は上がるが、すぐあとに「女の子でありますように」と書いてあるのでガックシとなる。

ママに「僕が代わりに病気になってあげたい」と言って叱られてしまうフィチャンだが、「赤ちゃんに同じことを言っていたのに」と不服そうになるのが(なにしろ日記を読んじゃってるからね)、可愛くて悲しい。

こんな感じの挿話をもっと用意できれば、印象もずいぶん変わったはずだ。別れや悲しさにこだわってそればかり強調したら、かえってダメになってしまうことくらいわかりそうなものだが。

    

原題:Sad Movie

2005年 109分 シネマスコープ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:クォン・ジョングァン 原案:オム・ジュヨン 脚本:ファン・ソング 製作:パク・ソンフン 編集:キム・サンボム 音楽:ジョ・ドンイク 

出演:チョン・ウソン(ジヌ)、イム・スジョン(スジョン)、シン・ミナ(スウン)、チャ・テヒョン(ハソク)、ヨム・ジョンア(ジュヨン)、ソン・テヨン(スッキョン)、イ・ギウ(サンギュ)、ヨ・ジング(フィチャン)

16ブロック

新宿ミラノ1 ★★☆

■ヨレヨレ男の大奮戦記

ニューヨーク市警のジャック・モーズリー刑事(ブルース・ウィリス)は、夜勤明けというのにエディ・バンカー(モス・デフ)という黒人青年の証人を護送する任務を押し付けられる。裁判所までは16ブロックで、車なら15分もあれば終わるという仕事ではあったのだが。

まずブルース・ウィリスの老けっぷりに驚かされる。夜勤明けで体調がすぐれない設定もあるのだろうが、なんでも捜査中の事故で足を悪くし、捜査の一線を退いてからは酒浸りの日々らしい。「人生長すぎると思う」というセリフが当然と思えるメイクで、腹までたるんで見えるではないか。

この日も渋滞にまきこまれると、もう我慢できずに酒を買いに行く始末(向こうでは飲酒運転の規制はどうなってんだ?)。で、その隙をついたかのようにエディが襲われる。ジャックは間一髪でエディを救い、仲間に援護を要請するが、駆けつけてきたフランク刑事(デヴィッド・モース)からは、刑事たち(6人が関与しているらしい)にとって不利な証言をしようとしているエディを引き渡すように言われる。「お前もこれで主役組に復活できる」という餌までちらつかされて。

はじまったばかりで、警察内部に巣くった悪(しかもフランクは20年もジャックの相棒だったという)を相手にしなければならないことがわかってしまうのだが(ただし最後まで事件の真相は明かされない)、この警察を敵にまわして10時までに裁判所へたどり着けるのか、という話の絞り方は正解だろう。時間設定がほぼリアルタイムという工夫もあるが、こちらは意外と活かしきれていない。

16ブロックというのは東京なら、港区の愛宕警察署から霞ヶ関の裁判所という距離感だろうか。ただし、映し出される街並みはもっとごちゃごちゃしていて、実際の場所を知っていればさらに楽しめたと思われる。途中で裁判所に連絡して「あと7ブロックだ」と言うし、人出も多く迷路のような古いビルに逃げ込んだりする場面もあるが、裁判所にどのくらい近づいたのかということまでは残念ながら伝わってこない。ケータイを探知していた時ならモニターに地図を表示することもできるが、それ以外は所轄区域のことだからわざとらしくなってしまうのだろう。

エディは武器の不法所持でムショにいたような軽薄なヤツで、しかもうるさいくらいに喋りっぱなし(これを底抜けの明るさと取れるならいいのだが)。これに寡黙なジャックの組み合わせは表面的にも定番だが、今度こそ改心してケーキ屋になるという、ジャックならずとも信じられないような夢を本当に大事にしていることがわかって、というあたりも定番だ。命を賭けてお互いに相手を守ろうとするし、ジャックも最後にはこのことが契機となって自分自身を清算しようとする。

定番ながらそこにいくまでのアイディアはよく、なかでも車を捨てジャックが妹のダイアン(ジェナ・スターン)のアパートに忍び込んで武器を調達する場面ではニヤリとさせられた。エディと同じように、誰しも妹ではなくジャックの妻と勘違いしてしまうからだ。便座の位置で男がいるとわかる場面では、まんまと余計な同情までさせられてしまうというわけだ。

このあともバスに立てこもったり、人質解放に紛らわせてエディを逃がしたり(これは彼が戻ってきてしまう)、テープレコーダーを手に入れたり、と伏線をばらまきながら単調になることを巧みに避けている。

ただし、バスからの脱出と救急車はもう1台あったというすり替えは、基本的に同じ種類の騙しだから感心できない。それに比べたら罪は軽いが、バスから解放された人質から情報収集しようとしない警察(結果としては情報は入るが)というのもおかしい。

人は変われるというのがテーマとしてあって、このことが最後にジャックはエディを解放し(エディの犯罪記録も抹消させる)、今度は自分が証人になる道(2年の刑期が待っていた)を選ぶのだけど、個人的な趣味からいうと、ここら辺の演出はやり過ぎという感じがしなくもない。

【メモ】

乗っ取ったバスは、タイヤを撃たれて止まってしまう。ジャックは乗員に窓を新聞紙でふさがせ、人質の数は31人を約40人と水増しして報告する。

「毎日が誕生日が俺のモットー」(エディ)。今日が誕生日と言ったのは、バスの中の子供を怖がらせないようにしてのことで、あとで里親を転々としていて誕生日は知らないとジャックに言う。

ケーキのレシピを貼ったノートをもっているエディ。

「バリーホワイト(エンドロールに彼の音楽が使われている)もチャックベリーも強盗をしたけど改心した」(エディ)。

タイヤを壊されたままバスを発車させる。狭い路地に突っ込んで立ち往生となる。

最後にジャックを殺さないフランクというのはどう考えれば。悪党もさすがに元同僚は自分の手で始末したくなかったのか?

「オレも一味だったが、6年前は勇気がなかった」(ジャック)。

原題:16 Blocks

2006年 101分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:小寺陽子

監督:リチャード・ドナー 脚本:リチャード・ウェンク 撮影:グレン・マクファーソン 編集:スティーヴ・ミルコヴィッチ 音楽:クラウス・バデルト
 
出演:ブルース・ウィリス(ジャック・モーズリー)、モス・デフ(エディ・バンカー)、デヴィッド・モース(フランク・ニュージェント)、ジェナ・スターン(ダイアン・モーズリー)、ケイシー・サンダー、シルク・コザート、デヴィッド・ザヤス

フラガール

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■「常磐ハワイアンセンター」誕生秘話

常磐ハワイアンセンターは今でもスパリゾートハワイアンズとして健在なのだと。私の世代だと常磐ハワイアンセンターは超有名だ。行ったことはないが、東北にハワイを作るという奇抜さに加え、その垢抜けなさを話題にしていた記憶がある。

その日本のテーマパーク(もちろんこんな言葉などなかったし、規模としてはどうなんだろう)の草分け的存在(初となると明治村だろうか)であるリゾート施設がオープンしたのが、昭和41(1966)年1月で、そこでの呼び物がフラダンスだったというのだから、なんとも驚きだ。そして、これが石炭産業の斜陽化からの脱却という苦肉の策で、温泉としてはもともとあったものの、坑内から湧出しているものを利用してのものだということもはじめて知った。

炭鉱の娘の紀美子(蒼井優)は、「ここから抜け出すチャンス」という早苗(徳永えり)に誘われてフラダンサーに応募する。父を落盤事故で失い、母(富司純子)と兄(豊川悦司)も炭坑で働いている紀美子の将来は決まっていたようなものだったが……。

ど素人の踊り子候補者たちに、訳ありのダンス教師の平山まどか(松雪泰子)。不況産業なのはわかっていても炭坑にしがみ付くしかない者と、ハワイアンセンターに就職した元炭鉱夫たちを配して、しかし映画は、すべてが予定調和に向かって進む。早苗が志半ばにして夕張に越して行かなければならなくなるのは例外で、幸せなことにハワイアンセンターをきっかけにした全員の再生物語になっているというわけだ。

もちろんリストラや落盤事故の悲哀も背景に描かれているし、紀美子の兄のことなどは、こと仕事に関していえば、まあテキトーに忘れ去られているのではあるが、なにしろ炭坑そのものがとっくの昔になくなってしまっていて、だからうやむやになっていてもいたしかたない面はある。それに痛みは当然だったにせよ、ハワイアンセンターは成功し、リストラの受け皿としてもそれなりに機能したのだから。

紀美子だったりまどかだったりと、多少視点が定まらないうらみはあるが、ひとつひとつの話はうまくまとまっていて、オープン日のフラダンスシーンに結実している。「オレの人生オレのもんだ」と家族に啖呵を切った紀美子が、正座の痺れで立ち去れなくなったりするような笑いは心得たものだし、早苗に暴力をふるう父親に怒ってまどかが男湯に乗り込んでいくというびっくり場面も上出来だ。

ただし、別れの場面や泣きの演出になるとこれが毎回のように冗長で、昔のこの地方の国鉄なら電車の発車を待っていてくれたのかもしれないが、こちらとしては、そうは付き合っていれない気分になる。

ほとんど知らなかった松雪泰子が根性のあるところを見せてくれた。センターの吉本部長役の岸部一徳もいい。「(ヤマの男たちは)野獣です。山の獣(けだもの)です。実は私も半年前までは獣でした」というセリフからしておいしいのだが、最後の方でもはや「よそものの先生」ではなくなったまどかに「先生、いい女になったな」というあたり、ちゃんと見る目があることをうかがわせる。富司純子はセリフに力がありすぎだ。

画面に再現された炭坑町(炭坑長屋?)やボタ山の遠景にも見とれたし、昨今あまり聞くことがなかった福島弁が新鮮だった。

   

【メモ】

フラにはダンスという意味も含まれているので、フラダンスという言い方をやめて「フラ」に統一しようとしているらしいが、フラダンスと日本語で発音しているもの(つまりは日本語なのだ)を無理矢理変える意味があるのだろうか。

画面上のタイトルは『HURA GIRL』。

この時点(映画の説明)で、全体の4割、2000人の人員削減が目標。社運を賭けたハワイアンセンターは、18億円を投じても雇用は500人。

ダンサー募集に人は集まったものの、フラダンスの映像を見て「オラ、ケツ振れねぇ」「ヘソ丸見えでねえか」とストリップと混同して逃げ出してしまい、最初に残ったのは3人(早苗と紀美子に子持ちの初子)のみ。それと会社の役に立って欲しいと男親が連れてきた小百合が「厳しい予選を勝ち残った者」(吉本部長がまどかにした説明)となる。

東京からきた平山まどかは、フラダンスはハワイ仕込みでSKD(松竹歌劇団)で踊っていたというふれこみだが、それは本当らしく、「SKDではエイトピーセス(何これ?)だったの」というセリフも。「自分は特別だと思っていたのに、笑っちゃうよね」というのがそのあとに続く。

宣伝キャラバンツアーではまだまだ半人前。ドサ回り(ドサからドサへ、だが)までやっていたのね。

紀美子の母は婦人会の会長で、最初は紀美子のフラダンスに猛反対していたが、娘の練習風景を見て「あんなふうに踊って人様に喜んでもらってもええんじゃないかって」と思うようになり、寒さで椰子の木が枯れそうだと聞くと「ストーブ貸してくんちゃい」とリヤカーを引いて家々をまわって歩く。

まどかはしつこくヤクザに付きまとわれるが、紀美子の兄が借用書を破ってしまう。

2006年 120分 (ビスタ)

監督:李相日(リ・サンイル) 脚本:李相日、羽原大介 撮影:山本英夫 美術:種田陽平 編集:今井剛 音楽:ジェイク・シマブクロ

出演:松雪泰子(平山まどか)、蒼井優(谷川紀美子)、豊川悦司(谷川洋二朗)、富司純子(谷川千代)、岸部一徳(吉本紀夫)、徳永えり(早苗)、山崎静代(熊野小百合)、池津祥子(初子)、三宅弘城、寺島進、志賀勝、高橋克実

ワールド・トレード・センター

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■救助する側からされる側になってしまったふたり

9.11米国同時多発テロで崩れ去った世界貿易センタービル(WTC)。その瓦礫の中から生還した2人の港湾警察官の実話の映画化。

2001年9月11日3:29。ジョン・マクローリン巡査部長(ニコラス・ケイジ)は多分いつものように起きてシャワーをし、家族を確認して職場へと出かける。ありふれた業務の中で「ドン」という異様な音が響く。旅客機の大きな影がビルを横切る映像が直前にあって、それだけで息苦しくなる。WTCの北棟に旅客機が激突するという大惨事の報告を受けて、マクローリンを班長とした救助チームが結成され、現場へ急行する。

救助とはいえ、現場にいる人間にすらも状況がわからない有様で、全員がビルを見上げるばかり。あまりの惨状に、ビル内に入ることを志願したのは新米警官のウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)を含む3人だけで、マクローリンは彼らを引き連れ酸素ボンベを取りに行くが、搬送中にビルは崩壊をはじめる。当人たちはビルが崩壊しているとは思ってもいないわけで、救助されたあとに「ここのビルは」と瓦礫の山を見て尋ねる場面がある。

3秒ほど真っ黒になったあと、画面は少しずつ明るくなり、アップになったマクローリンの目が動く。マクローリンとヒメノのふたりは、ビルに乗り込んでほとんど何もしないうちに動けなくなってしまったのだ。他にペズーロが奇跡的に埋まらず元気にいたのだが、次の崩落が彼を襲い、悲嘆にくれた彼は自殺してしまう。

ふたりは、なにしろ体を少しも動かすことが出来ないときているから、お間抜けなことに痛みに耐えながら眠らないように互いを励まし合うことしかできない。しかし、これが逆に実話ということを実感させてくれる。救助する側からされる側になってしまったふたりは、およそヒーローらしからぬヒーローとして記憶されることになるだろう。

ドラマ部分が希薄だから、ふたりの家族(とくに妻)の話をもってきたのは当然としても、これまた劇映画としてみてしまうのはいささか具合が悪いような。まあ、そんなことをとやかく言うのは気が引けるのだけど。そして私などは、映画としてこんなにもプライベートなことを公開してしまっていいのだろうか(向こうではふたりはどんな扱いなのかしらね)などと、関係ないことばかり考えてしまったというわけだ。

この挿話で気になったのはマクローリンの息子が、母親(マリア・ベロ)が現場に向かおうともしないことに苛立って「ママは平気なの」と彼女をなじる場面。これはつらいだろうな、と。

ともかくオリバー・ストーンで9.11だからもっと激しい主張があるのかと思っていたが、政治的な意図は極力排除されていて、でも逆に、せっかく9.11をテーマにしたことの意味が薄くなってしまったという不満が残る。

むろん、それらしきところはあって、ブッシュがこの国は戦争に突入したという映像を入れた意味や、何かに突き動かされるように救助をし続けた元海兵隊員(マイケル・シャノン)……。彼は最後に「志願してイラクで戦った」と字幕があって、それは事実を述べたにすぎないのだろうが。

では、瓦礫の中で見たイエスはどうだろう。人は見たいものを見るというのが、私のそっけない意見だが、言葉でなくイエスを映像化したとなると、9.11の宗教戦争という側面を都合よく解釈しているような気がしてしまうのだが、それは杞憂だろうか。

 

【メモ】

瓦礫の中での会話に『G.I.ジェーン』(1997)が出てくる。デミ・ムーアが「痛みは友達。生きてる証拠」だと言うのだと。

救助されて、口から土砂を吸い取る場面がリアルだ。

映画は2年後の「マクローリンとヒメノ感謝の集い」の場面も描かれる。身重だったヒメノの妻から生まれた子供が駆け寄ってきてヒメノが抱き上げる。

ビルの崩落で亡くなった人は3000名近く(2749名?)で、国籍は87におよんだ。救助されたのは20人でマクローリンとヒメノは18、19番目だった(というような字幕が出る)。

原題:World Trade Center

2006年 129分 ビスタ アメリカ 日本語字幕:■

監督:オリバー・ストーン 脚本:アンドレア・バーロフ 原案:ジョン&ドナ・マクローリン、ウィル&アリソン・ヒメノ 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 編集:デヴィッド・ブレナー、ジュリー・モンロー 音楽:クレイグ・アームストロング
 
出演:ニコラス・ケイジ(ジョン・マクローリン)、マイケル・ペーニャ(ウィル・ヒメノ)、マリア・ベロ(ドナ・マクローリン)、マギー・ギレンホール(アリソン・ヒメノ)、ジェイ・ヘルナンデス(ドミニク・ペズーロ)、スティーヴン・ドーフ(スコット・ストラウス)、マイケル・シャノン(デイブ・カーンズ)、アルマンド・リスコ(アントニオ・ロドリゲス)、ニック・ダミチ、ダニー・ヌッチ、フランク・ホエーリー

カポーティ

シャンテシネ2 ★★★☆

■死刑囚の死は、作家の死でもあった

トルーマン・カポーティが『冷血』(原題:In Cold Blood)を執筆した過程を描く。

1959年にカンザス州で「裕福な農場主と家族3人が殺される」という事件が起きる。新聞の記事に興味を持ったカポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、さっそくザ・ニューヨーカー紙の編集者ウィリアム・ショーン(ボブ・バラバン)に許可をとり、幼馴染みの作家ネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)を「調査助手」(とボディガードができるのは君だけ)に、カンザスへと向かう。

ハーパー・リーは『アラバマ物語』(原題:To Kill a Mockingbird)の原作者として有名だが、このカポーティの取材に協力していたようだ。カポーティは乗り込んだ列車で、客席係から有名人としての賛辞をもらうが、それがお金を払って仕組まれたセリフだということが彼女にはすぐばれてしまう。これは映画の最後でも彼女に電話で手厳しいことを言われることに繋がっている。

かように全篇、手練れの職人芸といった趣があるが、初監督作品の由。構成は鮮やかだが、抑制はききすぎるくらいにきいているから展開は淡々としたものだ。人物のアップを重ねながら、時折引いた画面を提示して観る者を熱くさせない。凝った作りながらドキュメンタリーを観ているような気分なのだ。カポーティ本人の喋り方や歩き方に特徴がありすぎるのか、ホフマンの演技が過剰なのかはわからないが、それすらもうるさく感じさせない。

ニューヨークの社交界では、有名人であるだけでなくそのお喋りに人気があるカポーティだが、カンザスではただのうさんくさい同性愛者。そんな状況も織り込みながら、彼は捕まった容疑者のふたりのうちのペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jr)に興味を持ち、接触に成功する。

生い立ちなどからスミスに自分自身の姿を見たというカポーティだが、それが詭弁のように聞こえてしまう。取材のためなら賄賂は使うし、発見者のローラにも巧妙に近づき、スミスからは「いつまでも世間が君を怪物と呼ぶのを望まない」と言って彼の日記をせしめる。カポーティにとっては、作品は社交界の人気者でいるためにどうしても必要なもので、スミスは「金脈」なのだ。だから、犯行の話を訊いていないうちに死刑になるのは困るが、訊きだしたあとに何度も延期されると死刑という結末が書けず本が完成しない、という理屈になる。

『アラバマ物語』の完成試写でハーパー・リーに会っても「彼らが僕を苦しめる。控訴が認められたらノイローゼだ。そうならないように祈るだけ」と言うばかりで、彼女に映画の感想を訊かれても答えず去る。「正直言って騒ぐほどのデキじゃない」って、ひどいよなー。

その前の、捜査官のアルヴィン・デューイ(クリス・クーパー)に、カポーティが本の題名を『冷血』に決めたと伝えるくだりでは、デューイに冷血とは犯行のことか、それとも君のことかと切り替えされるが、この映画はカポーティに意地悪だ。

いや、そうでもないか。スミスに、姉が彼を毛嫌いしていたことは隠して写真を渡すなど、作品のためという部分はあるにせよ、心遣いをみせてもいるし、最後の面会から死刑執行に至っては、カポーティにも良心があることで、彼が壊れていくことを印象づけているから。

それにしても出版のために死刑を願った相手に、死刑の直前にからかわれ慰められたら、やはり正気ではいられなくなるだろう。ここから死刑執行場面までは本当に長くて、観客までが苦痛を強いられる。絞首刑に立ち会ったあとカポーティは、ハーパー・リーに「恐ろしい体験だった」と電話で報告する。「救うために何も出来なかった」と続けるが、彼女から返ってきたのは「救いたくなかったのよ」という言葉だった。

晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、『冷血』以後は長篇をものにすることができなかったカポーティという作家の死を、映画はここに結びつけていた。

 

【メモ】

フィリップ・シーモア・ホフマンは、この演技でアカデミー主演俳優賞を受賞。

カポーティは、恋人である作家のジャック・ダンフィーにも、スミスとヒコックに弁護士をつけることでは「自分のためだろ」と冷たく言われてしまう。

『冷血』は前半しか書かれていないうちに、朗読会で抜粋部分が発表される。晴れ晴れとした顔のカポーティ。

そのことを知ったスミスに本の題名のことで詰め寄られる。あれは朗読の主催者が勝手に決めたことだし、事件の夜のことを訊けずに題名など決められないと嘘をつくカポーティ。

結末が書きたいのに書けないといいながら離乳食にウイスキーを入れて食べるカポーティ。この離乳食は、スミスがひと月ほど食事をとろうとしなかった時に、カポーティが差し入れていたのと同じものだ。

原題:Capote

2005年 114分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:松崎広幸

監督:ベネット・ミラー 原作:ジェラルド・クラーク 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 編集:クリストファー・テレフセン 音楽:マイケル・ダナ

出演:フィリップ・シーモア・ホフマン(トルーマン・カポーティ)、キャサリン・キーナー(ネル・ハーパー・リー 女流作家)、クリフトン・コリンズ・Jr(ペリー・スミス 犯人)、クリス・クーパー(アルヴィン・デューイ 捜査官)、ブルース・グリーンウッド(ジャック・ダンフィー 作家・カポーティの恋人)、ボブ・バラバン(ウィリアム・ショーン ザ・ニューヨーカー紙編集者)、エイミー・ライアン(マリー デューイの妻)、 マーク・ペルグリノ (リチャード・ヒコック もうひとりの犯人)、アリー・ミケルソン(ローラ 事件発見者)、マーシャル・ベル

レディ・イン・ザ・ウォーター

新宿ミラノ1 ★★★

■アパートは世界なんだ。シャマランでなく、あの映画評論家に作ってもらいたかった

物語だけをたどってみると、そのくだらなさにうんざりしてしまうのだが、真剣に見てしまったのは何故か。でっちあげおとぎ話なのにね。

アパートの管理人をしているクリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)の前にストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗る女性が現れる。彼女は水の精で、素晴らしき未来をもたらす能力を秘めた若者に、その直感を与える使命を持って人間の世界にやってきたのだが、いまだ目的を果たせず、恐ろしい緑の狼に追われて、自分の世界にも戻れずにアパートの中庭のプールに身を潜めていたのだという。

いきなり、何だこりゃというような話になる。突飛だからか、巻頭に子供の絵みたいなもので、水の精の解説をしてくれてはいたが。そればかりか、韓国人系住人に伝わるおとぎ話までもってきて、しかもその通りに物語が展開していくんだから開いた口がふさがらない。

ヒープは、ストーリーの話が韓国人老婆の語るおとぎ話に符合することや、彼女と一緒だと吃音にならないこと、そして緑の狼を見るに及んで、ストーリーの話を信じ、アパートの住人と協力して彼女が無事元の世界に戻れるようにしようとする。

当然、ファンタジーらしい鍵がいくつもちりばめられていて、記号論者、守護者、職人、治癒者という、いわば世界を救う勇者探しがまずは急務となる。勇者たちが勇者であることを自覚していないのはお約束で、ヒープもストーリーを救ったことから自分を守護者と勘違いするくだりがある。もっとも記号論者がクロスワードパズル好きの親子だったように、この役割分担に特別の意味があるわけではなく、それは実際パズルのようなもので、その謎解き(よくわからんのだ)よりは、アパートの住人たちの中に勇者がいるということが大切なようだ。

ヒープは管理人という特技?を活かして協力者を捜し出す。選ばれし者たちの中には、彼にとっては厄介者だった若者のグループがいたりする。アパートには様々な人種がいるし、このアパートは小さいながら世界そのものを表しているのだろう。と考えると、これだけ壮大なテーマに、怪物まで引っ張り出しながら、アパートから1歩も出ないで映画が成立しているわけがわかろうというものだ。

それぞれはバラバラで孤独なようだけど、みんな繋がっているし、困っている人を差しのべることが、世界を救うことになる。きっと、こういうことが言いたいのではないだろうか。それに、これって当たってるよね。

ただ、その仕上げに重なるようにヒープの過去の重石まで解放されるあたりは、もうこれは好みの問題なのだが、まるで集団治癒の1場面みたいで感心できないし、緑の狼が猿のようなものに退治されるのも(もう少しマシなのを用意しろよな)、巨大な鷲につかまってストーリーが去る場面(あれっ、水の世界に戻るんじゃ)も、つまらなくて拍子抜けするばかりである。

要するに、立ち上がる、そのことが重要な訳だから、あとは韓国人老婆の語るおとぎ話通りでも問題ないのだろう(というかストーリーが物語をたずさえてやってきたと解釈すればいいわけだ)。でも、このおとぎ話にすでに結末があったということは、世界はすでに救われていることにならないだろうか。そうでないのなら、若者の著作によってみんなが目覚め、世界が救済されるのだという結末は避けるべきだった。

それにしても、あの映画評論家(ボブ・バラバン)は気の毒でした。読みが外れて、緑の狼の餌食とは(唯一の犠牲者じゃん)。シャマランにとっては、高慢な自説で好き勝手に映画を切り捨てるようなヤツは許し難いのかもしれないが、私は憧れちゃうな。あの映画評論家のような確固たる自説が持てるのであれば、世間に裏切られようとも、怪物の餌食になろうとも、さ。

  

【メモ】

体の右側だけを鍛えている若者(何だーコイツは)が守護者だった。

原題:Lady in the Water

2006年 110分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:クリストファー・ドイル 編集:バーバラ・タリヴァー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:ポール・ジアマッティ(クリーブランド・ヒープ)、ブライス・ダラス・ハワード(ストーリー)、フレディ・ロドリゲス(ジェフリー・ライト)、ボブ・バラバン(映画評論家)、サリタ・チョウドリー、ビル・アーウィン、ジャレッド・ハリス、M・ナイト・シャマラン、シンディ・チャン、メアリー・ベス・ハート、ノア・グレイ=ケイビー、ジョセフ・D・ライトマン

記憶の棘

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

■転生なんてどうでもいい。アナと少年が愛し合っていたのなら

アナ(ニコール・キッドマン)が最愛の夫ショーンをジョギング中の心臓発作で亡くしたのは10年前。夫への想いを断ち切れずにいたアナだが、自分の心が開くのを待ち続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)の愛を受け入れ、その婚約発表パーティがアナの豪華なアパートで開かれようとしていた。ショーンの友人だったクリフォード(ピーター・ストーメア)とその妻クララ(アン・ヘッシュ)もやって来るが、クララはプレゼントのリボンを忘れたといって外に飛び出していく。公園の林にプレゼントを埋めるクララ。それを見ている少年(キャメロン・ブライト)。クララは別のプレゼントを買う……。

次は、アナの母エレノア(ローレン・バコール)の誕生日パーティが開かれているアパート(パーティ続きだが、なにしろ金持ちだからね)。そこに突然見知らぬ少年が現れ、アナとふたりだけで話したいと申し出、「僕はショーン、君の夫だ」と告げる。あきれて最初こそ相手にしないアナだったが、何度か接していくうちに本当に夫の生まれ変わりかもしれないと思い始め、次第にそれは確信へと変わっていった。

カメラが巻頭から素晴らしいが、アナの動揺を捕らえた劇場の場面は特筆ものだ。少年への説得がうまくいかず、劇場の開演に遅れてしまうジョセフとアナだが、少年の倒れた所を目にしてしまったアナの気持ちの揺れは大きくなるばかりだ。引いたカメラが整然とオペラを鑑賞している客席を映しているところにふたりが現れる。指定席にたどり着くには、まるで波紋が広がるように何人もの客を立たせることになる。狭い客席の前を進む時にはカメラはかなりふたりに近づき、着席した時にはアナのアップになっている。そして、ここからが長いのだ。ジョセフが2度ほどアナに耳打ちするが、アナには多分何も聞こえていない。アナにも見えていなかったようにオペラの舞台は最後まで映ることなく、場面は観客がその長さに耐えられなくなったのを見計らったように突然切り替わる。

こんな調子で書いていくとキリがないのではしょるが、少年がふたりしか知らないことまで答えるに及んでアナの心は乱れに乱れ、夫への愛が再燃し、少年をアパートに泊めたりもする。無視されたジョセフが大人げない怒りを爆発させる(きっかけは少年が椅子を蹴るという子供っぽいいたずら)が、すでにこの時にはアナには少年しか見えなくなっていた。

ところが、死んだショーンが実は浮気をしていて、少年の知っていた秘密の謎が、クララが埋めたプレゼントの手紙を掘り出して仕入れたものによることがわかる。クララによると、この手紙はアナがショーンに送ったもので、それをショーンは封も切らずにクララに渡していたのだという。「ショーンが本当に愛していたのは私。だからもしあなたが生まれ変わりなら、真っ先に私の元に来るはず。だからあなたはショーンではない」というクララに、少年の心は簡単に崩れてしまう。

そしてアナは、何と、今回のことは私のせいではないとジョセフに復縁を懇願する。少年からは2度と迷惑はかけないし、たまに精神科の医師に診てもらっているのだという手紙が届く(この場面は学校の個人写真の撮影風景。このカットがまた素晴らしい)。ラストはアナとジョセフの結婚式だが、海岸にはウエディングドレスを着たままのアナが取り乱している姿がある。ジョセフがアナに近づき、なだめるようにアナを連れて行く……。

1番はじめにショーンの講義のセリフで転生は否定されるのだが、すぐその当人の死を見せ、そのまま出産の場面に繋いでいるのは、転生をイメージさせていることになるのではないか。原題もBirthだし。こうやって周到に主題を提示しての逆転劇はあんまりという気もするが、しかしだからといってあっさり転生でした、というのはさすがにためらわれたということか。

表面的にせよ転生を否定する結論を取っているので、その可能性を考えてみたが、これだと少年が何故そんなことを言い出したのかがまるでわからなくなる。いくらアナに好意を感じたといっても、家族との決別も含めて10歳の少年がそこまで手の込んだことをやるだろうか。

逆に生まれ変わりだという根拠ならいくつか見つけることが出来る。婚約パーティに現れたクララの後を追った(つまりクララを知っていた。これは偶然ということもあるかも)。クリフォードのことも知っていた。ショーンの死亡場所を知っていた。そしてなにより手紙からの知識では(アナのことは同じアパートだから知っていたにしても)ショーンが死んだということまではわからないはずなのだ。

確かにクララの言い分は気になるが、ショーンがジョセフに妻を取られることに嫉妬した(あるいは許せない)というのはどうだろう。これはエレノアが彼を嫌っていたということからの、ショーンの性格が悪かったという私の勝手な推論だが。また、転生はしたものの全部の記憶が残ったというわけではないという説明もちょっとずるいが成り立たなくはない。これなら純粋にアナを愛している少年がクララの暴露発言にショックを受けて(自分が将来するべき裏切りを予想するというのは無理だとしても、単純に混乱はするだろう)、結末にあるような学校生活をするしかないという説明にはなる。

あとはクララの発言が全部嘘だということも考えられる。もっともこれだと手紙の入手方法や、暴露する意味がまったくわからなくなる(嘘でない場合でもショーンが死んで10年もしてこの発言は?)し、もしそうだというのなら映画としてもなんらかのヒントを用意しておく必要があるだろう。

こんなふうにどこまでも疑問が残ってしまうようでは、映画としては上出来とはいえないのだが、といって簡単に却下する気にはなれない映画なのだ。

手紙の封も切らずそれを愛人に渡すショーンも不遜でいやなヤツだが、封を切らなくてもわかるような手紙しか書けなかったアナという部分はなかったか。ショーンの不倫を見抜けなかったというのもね。少年の出現であれだけ心が動かされたというのに、復縁の許しを請うだろうか。それも私が悪いのではない、って最低でしょ。その時、なかなか返事をしないジョセフもものすごくいやなのだけど、それよりラストシーンをみると、もうアナは狂気の1歩手前なのかもと思ってしまう。

つい沢山書いてしまったが、実は転生かどうかということよりも、アナと少年は本当に惹かれあったのか、ということが問題にされるべきなのだ。そしてアナと少年はやはりちゃんと愛し合った、のだと思う。夫だと言われても、秘密を知っていても、それだけでは愛せるはずなどないということぐらい、誰だって知っていることではないか。

  

【メモ】

「もし妻のアナが亡くなり、その翌日窓辺に小鳥が飛んできて僕を見つめ、こう言ったら?『ショーン、アナよ。戻って来たの』僕はどうするか? きっとその鳥を信じ一緒に暮らすだろう」(巻頭のショーンの講演でのセリフ)

少年はアナに結婚は間違っているという手紙を渡す。

アナがそのことをジョセフに言わなかったのはたまたま、それとも……。

アナと同じアパートの202号室(コンテ家)が少年の家。ジョゼフは事情を話し、少年にアナに近づかないと約束させようとするが、少年は言うことをきかない。このあとオペラに出かけ、少年が倒れる。

電話でアナに「公園のあの場所で君を待っている」と告げる少年。あの場所とはショーンが息を引き取った場所だった。

少年はアナの義兄のボブに会うことを希望し、彼のテストを受ける。

原題:Birth

2004年 100分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジョナサン・グレイザー 脚本:ジョナサン・グレイザー、ジャン=クロード・カリエール、マイロ・アディカ 撮影:ハリス・サヴィデス 編集:サム・スニード、クラウス・ウェーリッシュ 音楽:アレクサンドル・デプラ

出演:ニコール・キッドマン(アナ)、キャメロン・ブライト(ショーン少年)、ダニー・ヒューストン(ジョゼフ/婚約者)、ローレン・バコール(エレノア/母)、アリソン・エリオット(ローラ/姉)、アーリス・ハワード(ボブ/姉の夫)、アン・ヘッシュ(クララ クリフォードの妻)、ピーター・ストーメア(クリフォード/ショーンの親友)、テッド・レヴィン(コンテ/少年の父)、カーラ・セイモア(少年の母)、マイロ・アディカ(ジミー/ドアマン)

もしも昨日が選べたら

新宿武蔵野館2 ★★

■「万能リモコン」の性能をとっくりとご覧くだされたく

建築士のマイケル・ニューマン(アダム・サンドラー)は、妻ドナ(ケイト・ベッキンセイル)に7歳の息子ベン(ジョゼフ・キャスタノン)と5歳の娘サマンサ(テイタム・マッキャン)の4人家族。仕事優先主義が高じて家にあるリモコンの見分けもつかなくなっていた彼は、寝具&入浴用品専門店(の売場の奧にある部屋)にいたモーティ(クリストファー・ウォーケン)という男から新製品だという「万能リモコン」をもらう。

まるで『ドラえもん』の実写版のような映画。テーマは4人家族という設定時点でわかる通り家族愛で、「万能リモコン」のアイディアがすべてだから、話の内容はいたって単純。なのに下ネタ満載というのは? ファミリー映画というわけでもないのね。

その「万能リモコン」の性能だが、「人生の」一時停止や早送り、巻き戻しまで出来てしまうというもの。ただギャグとしては、吠える犬を「音量調整」するような、簡単な機能が笑える。色調整や音声切り替えなどももちろんあって、マイケルは自分の顔を緑色にして「超人ハルク!」などとふざけたりも。

巻き戻しは過去の場面を客観的に見られるというもので、決して過去に戻ってやり直しが出来るわけではないのがミソ。だから邦題の『もしも昨日が選べたら』というのはあくまでも願望と後悔であって、原題のリモコンのスイッチを入れるという意味の『Click』の方が、誤解は少なかったと思われる。両親のマイケル生産現場にも行っていたから、つまり自分が存在していない時空にも飛べるのだが、仕事人間のマイケルは歴史家になる気などないので、これはあまり使い道がなかったようだ。

問題は早送り。早送りにすると、その間はマイケルのダミーが煩わしいことを代行してくれるのだという。ドナとの口論にはじまって、夫婦生活や交通渋滞、食事やシャワーと早送りを使い放題のマイケル。チャプター機能で、行きたい場所と場面が選べるときては、もうこのリモコンが手放せない。

ところがリモコンには学習機能があって、マイケルがその弊害に気付いて少し使用を控えようとしても、勝手に早送りにしてしまうのだった。しかもこのリモコンは返品不可で、それどころか体にくっついて離れてもくれないのだ! モーティは自らを「死の天使」(なんじゃ?)と呼んでいたが(途中でも何度が登場する)、マイケルには学習機能のことは黙っていたし、まあ悪魔なのかも。

というわけで、あっという間にマイケルは年をとっていく。子供たちは大きくなり、社長の椅子は手に入れたものの、不摂生が祟ってひどい肥満に。さらに時間が進んだ時には、彼には理由はわからないのだがドナとは別れているし、癌でもう死期が迫っているのだった。

望み通りになったとはいえ、あまりにも空虚な結末に、本当に大切だったのは家族だったと気付く。マイケルのダミーが父親のテッド(ヘンリー・ウィンクラー)を冷たくあしらうが、それでもテッドは「愛している」と言う。この場面を何度も巻き戻しては食い入るように見るマイケル、という場面など泣かせどころなのだろうが、そのつもりでやられてもねー。

最悪なのは、ここまでやっておいての夢オチ。そういえば「寝具」&入浴用品専門店だったっけ。しかしなー。「善人は報いられるべきだ」というモーティの言葉が〆だけど、ということはやっぱり彼は天使なのか? クリストファー・ウォーケンが天使なんて、私ゃ認めんぞ。それにどう「善人」って判断したのさ。あの結末で悔やめば救われるのか。甘い甘い。ってだから天使だったって? へーい。

くだらない映画なんだけど、細部はよくできていて、年寄りマイケルやドナのメイクは見ものだし、マイケルのデブぶりにはギョッとさせられた。肥満が治ったあとの皮膚あまり状態もよくできていた。未来の病院や車などにも神経が行き届いていて、だから下ネタ夢オチコメディにしてしまってはもったいないではないか。

【メモ】

ダスティン・ホフマンの息子とジャック・ニコルソンの娘がマイケルの息子と娘、ってホントか?(あとで聞いたんだが、もう顔が思い出せないのだな)

原題:Click

2006年 107分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:藤沢睦美 翻訳協力:パックン

監督:フランク・コラチ 脚本:スティーヴ・コーレン、マーク・オキーフ 撮影:ディーン・セムラー 特殊メイク:リック・ベイカー 編集:ジェフ・ガーソン 音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
 
出演:アダム・サンドラー(マイケル・ニューマン)、ケイト・ベッキンセイル(ドナ・ニューマン/妻)、クリストファー・ウォーケン(モーティ/死の天使)、デヴィッド・ハッセルホフ(エイマー/建築事務所社長)、ヘンリー・ウィンクラー(テッド・ニューマン/マイケルの父)、ジュリー・カヴナー(トゥルーディ・ニューマン/マイケルの母)、ショーン・アスティン(ビル)、ジョセフ・キャスタノン(ベン・ニューマン)、テイタム・マッキャン(サマンサ・ニューマン)、キャメロン・モナハン(ジェニファー・クーリッジ)、ロブ・シュナイダー(クレジットなし)