ごくせん THE MOVIE

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★

■路上同窓会(顔見せ大会)

『ごくせん』が何なのか、映画を観るまで何も知らなかったので(今回は何故か予告篇にも出会わなかったのだな)、ヤンクミとか言われても何が何だか、なのだった。

成田空港での、ハイジャック犯を投降させてしまう場面には少々面食らったが(それにこれは大分たってから教えてもらえるのだが、犯人説得って、ありえねー)、ヤンクミのキャラクターと行動パターンはすぐ理解出来るわかりやすさだった。というか脚本が単純すぎるという側面もあるのだが。

数々の事件だか難敵教え子だかを攻略してきたらしいヤンクミだが(だから知らないんだってば)、今度の生徒たちとはまだ馴染めるまでにはなっていなかった。そこにかつての教え子の小田切が、教育実習生としてやってくる。自分と同じ道を選ぼうとしている小田切の姿に、勘違い感動に震えるヤンクミは「一緒に生徒の為に汗を流そうじゃないか」と言うのだが、小田切は「いっそう暑苦しくなったな」とそっけない。大学には行ったもののいまだに何をしていいのか迷っているのだった。

極道一家に育てられたヤンクミ(それで「ごくせん」なのか、って鈍くてスマン)は、義理人情に厚く筋の通らないことには目をつぶっていられない。これは任侠映画の嘘部分の受け売りだから可笑しいのだけど、まあ、生徒(仲間)のためなら命がけ、というのはともかく、やたら昔の青春ドラマのノリで熱くなって「夕陽に向かって走るぞ」って、これ、今だとかえって受けるのかしら。

とにかくヤンクミがあり得ないキャラなので、そのつもりで観るしかないのだが、やっぱり暑苦しいのだった。ギャグも寒いし。

でも一番の欠点はやはり脚本で、生徒と他校生のいざこざが暴走族との対決にエスカレートしてしまうのもありきたなら、割のいいバイトにひかれた卒業生の風間が覚醒剤取引に関わってしまい、それが今をときめく花形IT企業の経営者黒瀬健太郎に繋がっていたというメインの話に至っては、みちゃいられないレベルだ。

んで、これはヤンクミならではなのかもしれないが、その悪玉の黒瀬にまで「もう一度償ってやり直せ」と説教を垂れるのだ。ちょっと前まで「絶対許せない」って言っていたのに(もっともこれは黒瀬が、ヤンクミが昔好きだった人に似ているという伏線があって、黒瀬の衆議院議員立候補演説にメタメタになってしまった自分が許せなかったとかね)。

こんな勘違い単細胞ヤンクミを大真面目で演じている仲間由紀恵は、偉いというか何というか、とにかく七年もこの役を演じてきた底力みたいなものがあった、って褒めすぎ? とはいえ、テレビの連続ドラマならともかく、このノリで二時間一気はきついのも確かだ。

ヤンクミの信念を通す支えは、彼女の格闘術(握力も強いのね)なのだが、これはヘボかった。今の技術ならもっとまともなアクション場面にだって出来るだろうに。でも結局は腕っぷしが強いというのはどうもねぇ。

私としては、ヤンクミが信念を通そうとすると、必ず大江戸一家や、今までヤンクミの世話になってきた誰かが、その手助けをしてしまう、または知らないうちに手助けしてしまっていたというような話にしてほしかったのだが。でもそれだと、イメージが違っちゃうのかしら。

キャストも全部テレビからのをそのまま移行しているらしく、映画は最初からヤンクミの「おっ、○○、久しぶり」の連発で、道を歩けばかつての教え子当たる、状態なのだった。なるほどこれは今までのテレビの集大成で、顔見せ大会でもあったわけだ。

  

2009年 118分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:佐藤東弥 プロデュース:加藤正俊 原作:森本梢子 脚本:江頭美智留、松田裕子 音楽:大島ミチル 主題歌:Aqua Timez『プルメリア ~花唄~』

出演:仲間由紀恵(山口久美子/赤銅学院数学教師)、亀梨和也(小田切竜/黒銀学院卒業生)、生瀬勝久(猿渡五郎/赤銅学院教頭)、高木雄也(緒方大和/赤銅学院3年D組)、三浦春馬(風間廉/赤銅学院3年D組)、石黒英雄(本城健吾/赤銅学院3年D組)、中間淳太(市村力哉/赤銅学院3年D組)、桐山照史(倉木悟/赤銅学院3年D組)、三浦翔平(神谷俊輔/赤銅学院3年D組)、玉森裕太(高杉怜太/赤銅学院3年D組)、賀来賢人(望月純平/赤銅学院3年D組)、入江甚儀(松下直也/赤銅学院3年D組)、森崎ウィン(五十嵐真/赤銅学院3年D組)、落合扶樹(武藤一輝/赤銅学院3年D組)、平山あや(鷹野葵/赤銅学院英語教師)、星野亜希(鮎川さくら/赤銅学院養護教諭)、佐藤二朗(牛島豊作/赤銅学院古典教師)、魁三太郎(鳩山康彦/赤銅学院世界史教師)、石井康太(鶴岡圭介/赤銅学院物理教師)、内山信二(達川ミノル/大江戸一家)、脇知弘(熊井輝夫/白金学院卒業生、熊井ラーメン)、阿南健治(若松弘三/大江戸一家)、両國宏(菅原誠(大江戸一家)、小栗旬(内山春彦)、石垣佑磨(南陽一)、成宮寛貴(野田猛)、速水もこみち(土屋光)、小池徹平(武田啓太)、小出恵介(日向浩介)、沢村一樹(黒瀬健太郎)、袴田吉彦(寺田雅也)、竹内力(鮫島剛)、金子賢(朝倉てつ/大江戸一家)、東幹久(馬場正義/赤銅学院体育教師)、江波杏子(赤城遼子/赤銅学院理事長)、宇津井健(黒田龍一郎/大江戸一家/久美子の祖父)

ウィッチマウンテン 地図から消された山

新宿武蔵野館3 ★★

■信じているのはオヤジだが、実は子供向き映画

『星の国から来た仲間』(1975)のリメイク(注1)だが、それは今調べてわかったことで、情報をほとんど仕入れずに映画を観ているため、ディズニーのマークが出てきて、あれ、もしかして子供が主役?となって、はじめて子供向け映画だったことを知る。けど、それにしちゃ、そんな売り方をしてたっけな? 観客だって大人ばかりだし……なのだった。

タクシー運転手のジャック・ブルーノ(彼が主役かなぁ)は、乗せたつもりのない(気がついたら乗っていた)兄妹に、お金は払うからと荒野のど真ん中(の廃屋)まで連れて行ってくれるよう頼まれる。実は、というかすぐ正体は明かされてしまうのだが、セスとサラは宇宙人なのだった。

セスは分子密度を変えて物体をすり抜けられるし、逆に車にぶつかってその車を粉々にしてしまう。サラは念力で、ジャックの代わりに車を操ったりもするし、一番近くの人間の心が読め、動物とも話ができるのだ。もっともこれらは禁じ手に近いから、最初からこんなのを見せられるとげんなりで、宇宙人であることの証明はもっと違うことでしてくれりゃいいのに、と思ってしまう。

話の方もいきなりカーチェイスになるなど、テンポを優先しているから展開は大雑把。三人を追うのが、政府の特殊機関に宇宙人の暗殺者、そしてマフィアまで出てきてだからややこしい。UFOや宇宙人の存在を知られたくない政府は、とにかくセスとサラを確保しようとするし、暗殺者はセスとサラを追って地球にやって来て二人の行動を邪魔しようとする。マフィアの妨害はおまけみたいなものだが(ジャックはその世界から足を洗って運ちゃんになってたのね)、じゃまくさいことにはかわりがない。

追跡者は入り乱れているが、話はわかりやすい(単純というべきか。言葉で説明しただけのものだし)。高度な文明をもつセスとサラの星(地球とは三千光年離れているがワームホールを利用してやってきたという)だが、ひどい大気汚染で死にかけていた。地球の気候に目をつけ科学的な再生をはかろうとしているのたが、軍がてっとりばやい侵略を主張していて(文明は高度でも似たような問題をかかえているわけだ)、セスとサラが実験結果を持ち帰らないととんでもないことになってしまう、のだと。

何の実験なのか(汚染撤去のヒントなんだろうが? 最初に行った廃屋の秘密の地下に巨大な植物が育っていたから、実験は成功したってことなのか?)、何故子供のセスとサラ(見た目じゃわからないが、両親が、と言っていた)を寄越したのかは聞き漏らしてしまったのだけど(言ってた?)。

話としてはそれだけなんだが、派手なアクション場面はいくつも散りばめてあるし、円盤や基地なども丁寧に作られているからSFファンなら楽しめる。

が、やはり展開は単純すぎだろう。UFOの存在を主張しても信じてもらえないフリードマン博士(注2)などを話に強引に巻き込んではいるが、原題通り一直線に宇宙船の隠し場所であるウィッチマウンテンをめざしちゃうんだもの。

それにしても、これはやはり子供向け映画として宣伝すべきではないか。アクション映画の要素は多いが暴力に繋がるイメージはなく、だから死体がゴロゴロということもない。そこらへんの配慮はディズニーなんで行き届いているから、夏休み映画にはぴったりなのにねぇ。でも今時の子供はこの程度の話じゃ納得しないのかもね(私が小学生なら大喜びしてたはずだ)。

子供映画としての配慮があると書いたが、ロボットのような敵の暗殺者がヘルメットを取った時には、おぞましい頭部が見えてぞっとした。一瞬だからよかったものの……ってことは、セスもサラも同じような形状なんだよね(ええっ!?)。それとか、セスとサラが捕まったら解剖される、なんていうけっこう気味の悪い発言もあった。もちろん子供映画だからって、綺麗事だけで作れるなどとは思っちゃいないが。

考えてみるとジャックなんて、基本的には最初から二人を信じて行動していたからねぇ。どちらかというとセスの方が、人間を信じていいのかどうか再三迷っていたけれど、これはセスの方が正しいだろう。人間の少年少女に化けたのも正解。お人好しのジャックでも化け物だったら信じなかったろうから。

注1:オフィシャル・サイトにいくと、オリジナル版で兄妹を演じたアイク・アイゼンマンとキム・リチャーズとに、保安官とウェイトレスの役をあてたらしい(英語なんで違ってたらごめん)。これが日本語のサイトにないのは(ざっと見ただけだが)、二人が日本では知名度がないからなんだろうけど、でも教えて欲しいよね(プログラムには書いてあるのかも)。昔の映画の方が兄妹が幼いのは、実年齢にあった層を狙ってのことで、当時はこういう作りの映画が今よりずっと多かったと記憶する。

注2:ラスベガスのSFオタクの集まりで自説を熱く語るのだけど、オタクたち、というよりUFOを見たとか乗ったとか言ってるだけの人たちは、博士の話などロクに聞いちゃいなくて、結局、UFO隠しにやっきになっている政府もいけないが、UFOがいると言っている人たちもほとんどがインチキなのだと、フォローしてたような。

原題:Race to Witch Mountain

2009年 98分 シネスコサイズ 配給:ディズニー 日本語字幕:林完治

監督:アンディ・フィックマン 製作:アンドリュー・ガン 製作総指揮:マリオ・イスコヴィッチ、アン・マリー・サンダーリン 原作:アレグサンダー・ケイ 原案:マット・ロペス 脚本:マット・ロペス、マーク・ボンバック 撮影:グレッグ・ガーディナー プロダクションデザイン:デヴィッド・J・ボンバ 衣装デザイン:ジュヌヴィエーヴ・ティレル 編集:デヴィッド・レニー 音楽:トレヴァー・ラビン 音楽監修:リサ・ブラウン

出演: ドウェイン・ジョンソン(ジャック・ブルーノ)、アンナソフィア・ロブ(サラ)、アレクサンダー・ルドウィグ(セス)、カーラ・グギーノ(アレックス・フリードマン博士)、キアラン・ハインズ(ヘンリー・パーク)、トム・エヴェレット・スコット(マシスン)、クリストファー・マークエット(ポープ)、ゲイリー・マーシャル(ドナルド・ハーラン博士)、ビリー・ブラウン、キム・リチャーズ、アイク・アイゼンマン、トム・ウッドラフ・Jr

幸せのセラピー

新宿武蔵野館2 ★★

■メタボマスオをセラピーすると

『幸せのセラピー』という邦題に、甘い恋愛映画を思い浮かべていたからだけど、あからさまな内容には驚いてしまった(なのにチケット売り場では『幸せのレシピ』と言ってしまった私。それはもう観たじゃないのねぇ)。

銀行頭取の娘ジェスと結婚したビルは、一族で固められた銀行の主要ポストにはいるものの、すべてのことは義父や義弟に従う習慣にどっぷり漬かっていて、嫌いな鴨狩りにも行きたくないとは言えず、行けば行ったで犬の代わりに獲物を拾いに行くのが関の山。ストレスでチョコバーが手放せず、鏡を見ればそこには冴えない顔があるだけだ。メタボだし、老いを感じずにはいられない。

追い打ちをかけるように発覚したジェスの浮気だが、ビルはジェスが浮気するのも無理からぬと自分でも思ったのか(ある意味偉い?)、浮気現場を撮影したビデオを証拠にジェスに詰め寄るが、何故か怒りの対象は浮気相手のテレビレポーターに向かう(は?)。

まず、これがわからない。ジェスを怒れないのは長年のマスオさん生活よるものにしても、ジェスに「捨てられたらどうしよう」はないだろう。まあ、そういう自分を、メンター制度(OBのところで社会体験をする制度)で知り合ったマセガキ学生と、彼の年上の恋人未満のルーシーの協力で変えていくという話なので、どうしてもビルが情けない人物像になってしまうのは致し方ないのだが、そうではなく、ビルの思考回路が私にはよく理解出来ないのだった。

もしかしたらそれは、彼が負けず嫌いだからなのだろうか。銀行の業務に逆らうようにドーナツ屋のフランチャイズオーナーになろうと努力を重ねていたのも、分散投資の見本を示したかっただけなのか(ちょいスケールがねぇ)、最後の方ではジェスも反省して、このフランチャイズに乗り気になってくれたというのに、ビルはやりたいことではなかったと言ってしまう。単に脱メタボ指向になったのでそう言っただけのようにも見えるが、彼にとっては一人でやり遂げることに意味があったのかもしれない。

執拗に挟まれるプールでのトレーニング映像が、彼の負けず嫌いを語っているのだが、この彼の性格は、彼のことをねじ曲げているように思えてならないのだ。だからって、ビルの選んだ新しい人生を、別に邪魔しようというのではないのだけれど。この際、リセットすべきなのかもしれない。出来る人は大いにやった方がいいと思う。

ただしマセガキ学生との友情関係については、私のようなじじいにとっては、彼がとんでもないヤツにしか見えない。金もふんだんに使える恵まれたお坊ちゃんで、って、もういいか、どうでも。

宣伝ポスターからだと、ジェシカ・アルバはまるでアーロン・エッカートの相手役のような印象を受けるが、マセガキ学生にナンパされるただのランジェリーショップ店員にすぎない。マセガキ学生を諭すようなことも言っていたが、ジェスの嫉妬心を煽る役を買って出たり、なんだか面白くもない役所だった。

そういえば脱メタボに取り組み始めたビルが、カッコよく見せるためなのだろう、体毛を剃る場面があった。胸毛に、あとの方では腕や足の毛まで。アジア圏ならそんな気もするが、アメリカやヨーロッパでは男の体毛はセックスシンボル的役割を果たしていると思っていたが、昨今ではそうでもないのかしら。けどこの場面まで、こう丁寧に見せられちゃってはねぇ。

まとまりのないヘタクソな話なのだが、至る所に本音やら本性は出ていたか。まあ、薦めないけど。

原題: Meet Bill

2007年 97分 アメリカ ビスタサイズ 配給:アートポート 日本語字幕:高内朝子 PG-12

監督メリッサ・ウォーラック、バーニー・ゴールドマン 製作:ジョン・ペノッティ、フィッシャー・スティーヴンス、マシュー・ローランド 製作総指揮:ティム・ウィリアムズ、アーロン・エッカート 脚本:メリッサ・ウォーラック 撮影:ピーター・ライオンズ・コリスター  プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:マリ=アン・セオ 編集:グレッグ・ヘイデン、ニック・ムーア 音楽:エド・シェアマー 音楽監修:デイヴ・ジョーダン、ジョジョ・ヴィラヌエヴァ

出演:アーロン・エッカート(ビル)、ローガン・ラーマン(生徒)、エリザベス・バンクス(ジェス/ビルの妻)、ジェシカ・アルバ(ルーシー/ランジェリーショップ店員)、ティモシー・オリファント(チップ・ジョンソン/テレビレポーター、ジェスの浮気相手)、ホームズ・オズボーン(ジョン・ジャコビー/ジェスの父、銀行頭取)、リード・ダイアモンド、トッド・ルイーソ、クリステン・ウィグ、ジェイソン・サダイキス

チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ

2009/5/31 シネマスクエアとうきゅう ★★

この写真だと見にくいが、「字幕位置 下」の表記があって親切だ。もっとも今の字幕は見にくいことはめったにないし、前の人の頭が気になる映画館も少なくなったからね。って、ミラノだとまだそういう席がいくつかあるのかも(私の場合はかなり前の方で観るのでほとんど大丈夫なのだが)。『从印度到中国』というのは、中国での公開題名なのかしら。最初から、中国のマーケットも考えて作っているわけか。

■勘違いと本気モードで為せば成る、わきゃない

『スラムドッグ$ミリオネア』で一躍脚光を浴びた感のあるボリウッド映画だが、そしてこれもハリウッド資本がかんではいる(ワーナー・ブラザースのインド支社が製作)が、よりインド映画らしさが出た一篇となっている(って憶測です)。

世界最多製作本数を誇るインド映画は、日本でも十一年前に『ムトゥ 踊るマハラジャ』が話題になったが、あの集団で歌って踊ってが何かというと入ってくるパターンは同じ(『スラムドッグ$ミリオネア』にも、最後だけだったがこれがオマケになっていた)、きっとかなりの映画がこうなのかも。

その中でもこれは、主人公が中国まで行って故宮や万里の長城で撮影もしてきた大作なのではないか。感覚的には、昔の日本の『クレイジーメキシコ大作戦』や『ハワイの若大将』的なノリで作ったような気がするのだが(当時は日本もシリーズ物の映画を量産してたからね)。

前半はモロお馬鹿映画。主人公の料理人、シドゥの勘違いに加え、運も目一杯味方してくれて劉勝の生まれ代わりに祭り上げられるが、結局それは簡単にメッキが剥げて、で、それから本気モードになるのはいいのだが、必死でカンフー修行をしたら勝てちゃった、ってそれはないでしょ(長年修練してきた野菜切りの動きを取り入れたからというもっともらしい説明はあったが)。

携帯翻訳機(これで中国人との会話もOK)や防弾+パラシュート傘といった安直な新兵器(じゃなくて新製品でした)まで出てきて楽しませてくれるが、面白さが馬鹿らしさに勝つには至らず。

育ててくれた恩人の死や、北条に殺されかけて記憶を失っていた中国の警官や敵味方に分かれてしまった双子の娘(彼の妻はインド人なのだ)の話など、盛り沢山だが中身は薄い。

途中Intermissionの文字があった。日本では休みなしの通し上映だからギャグと思ってしまったが、ここは普通に休憩になるんだろう。

まだまだインド映画は新鮮なので、ショーとして観るだけでも退屈することはないのだが(でも長いよ)、だけど次回はもっと違った種類の映画を観たいものだ。

原題:Chandni Chowk to China

2009年 155分 インド、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:松岡環

監督:ニキル・アドヴァーニー アクション指導:ディーディー・クー 製作:ラメーシュ・シッピー、ムケーシュ・タルレージャー、ローハン・シッピー 脚本:シュリーダル・ラーガヴァン、ラジャット・アローラ 撮影:ヒンマーン・ダミージャー 振付:ポニー・ヴェルマ 作詞:ラジャト・アローラー 音楽:シャンカル・マハデヴァン、イフサーン・ノーラニー、ロイ・メンドンサー

出演:アクシャイ・クマール(シドゥ)、ディーピカー・パードゥコーン(サキ、ミャオミャオ)、ミトゥン・チャクラバルティー(親方)、ランヴィール・ショウリー(ハシ道士/チョップスティック)、ゴードン・リュウ[劉家輝](北条)、ロジャー・ユアン(チャン刑事)

ザ・スピリット

新宿ミラノ2 ★★

■見所は不死身同士のなまくら殴り合い!?

予告篇はものすごく艶っぽく、そして謎めいても見えたのだが、それは表面的なもので、骨のない無残な作品だった。

で、私といえば、こういうヒーローものが五万とあるから『ウオッチメン』のような作品が出て来るのか、と途中からまったく違うことを考えながら、気もそぞろで観ていたのだった。

モノトーンに赤を効果的に配した映像は確かにアメコミ風な感覚に繋がるものがあるが、中身がなくてはそれまでだろう。それにこれは『シン・シティ』(2005)ですでに観ているものだし。って、別に新しい作風にしろと言っているんじゃないんだけどね。

セントラル・シティを恋人と言ってはばからないスピリットは、今日も宿敵オクトパスと戦いを続けていた。街を恋人と言うのは、モノローグでのことなのだけど、けど、しつこいくらいにスピリットはこれを繰り返すんだよね。「この街のおかげで生きられる。必要な物は何でも与えてくれる」ってなにさ。意味不明だってば。ただそう言われただけじゃ。

これはあとでわかることなのだが、この二人はある実験の結果、不死身になってしまったようなのだ。といっても一応傷は負って、スピリットの場合は外科医で恋人らしきエレンに手当をしてもらうのだけど、スピリットがオクトパスと戦うのは手当をして欲しいのかとも、ってまたヘンなこと考えちゃてたんだよね。

オクトパスもそのことを楽しんでいるかのように(その秘密を知っていたからか)、二人は文字通り最初の対決場面で、沈没した古い貨物船から引き上げた物をめぐって文字通りの泥仕合を繰り広げるのだが、これがなんとも白ける殴り合いなのだ。不死身同士の殴り合いを見せられてもなぁ。

まあ、これはまだ最初だからいいのだけど、最後など、スピリットは防弾チョッキを着込んでた、ってあんまりな。不死身同士のライバルだって(それに二人は双子のようなものなのだから)見せ方によってはいくらでも面白くなるのではないかと思うのだが、これがまったくつまらない。

ここにもうひとり絡んでくるのが、上昇志向が強くキラキラしたものが好きなサンド・サレフという宝石泥棒で、手に入れたいものがあって汚れたこの街に戻ったという彼女は、なんとスピリットの幼なじみで初恋の相手だった。

これは昔の映像で語られるから現在にもそれなりの影を落としているってことなんだろうけど、そこらへんがまったくといっていいほど見えてこないのだ。最後にスピリットとサンドのキスシーンもあるのだが、それ以上にはならない。スピリットの「昔の恋人だ」というこの割り切りがどうにもわからないのだ。

オクトパスの部下のクロ-ン君たちなど、なかなか面白いキャラも出てくるのだが、本筋でずっこけているからちっとも楽しめない。

オクトパスの助手のスカーレット・ヨハンソン(あら、彼女だけ本名で書いちゃった)もいいところなし。というか、コスプレショーができればいいや、くらいの気持ちだったのか(オクトパスもナチス親衛隊のコスプレに嬉々としていたから、この二人はコスプレ繋がりなのか?)。最後に、バラバラになったオクトパスの指(まだ生きてるのだ)を拾って消えてしまったから、見せ場は次回作のお楽しみなのかしら。え、次回作!? どうしよう。

原題:The Sprit

2008年 103分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:林完治

監督・脚本:フランク・ミラー 製作:デボラ・デル・プレト、ジジ・プリッツカー、マイケル・E・ウスラン 製作総指揮:ベンジャミン・メルニカー、スティーヴン・マイヤー、ウィリアム・リシャック、マイケル・パセオネック、マイケル・バーンズ 原作:ウィル・アイズナー 撮影:ビル・ポープ 視覚効果スーパーバイザー:スチュー・マシュウィッツアートディレクション:ロザリオ・プロベンサ 衣装デザイン:マイケル・デニソン 編集:グレゴリー・ナスバウム 音楽:デヴィッド・ニューマン

出演:ガブリエル・マクト(スピリット、コルト刑事)、サミュエル・L・ジャクソン(オクトパス)、エヴァ・メンデス(サンド・サレフ)、スカーレット・ヨハンソン(シルケン・フロス)、ジェイミー・キング(ローレライ)、サラ・ポールソン(エレン)、ダン・ローリア(ドーラン)、パス・ベガ(プラスター・オブ・ハリス)、ルイス・ロンバルディ(フォボス)、スタナ・カティック(モーゲンスターン)、フランク・ミラー、エリック・バルフォー、ダニエル・ハバート、ジョニー・シモンズ、セイチェル・ガブリエル、マイケル・ミルホーン

60歳のラブレター

楽天地シネマズ錦糸町シネマ3 ★★

■映画的飾り付けが逆効果

三十代後半ですら探すのが難しい、ほぼ全員五十歳以上という(何のことはない、自分もこの現象の一部を担ってるのな)、その割には客の入った客席で画面を見つめながら、あー、やだな、こういう映画に泣かされて(くだらない映画にも泣かされてしまう口なのでそれはいいんだが)、しかも高評価を与えなきゃならなくなったら(ってそれはいいことなのに)、恥ずかしいものなーと、しょうもないことを考えていたら、やってくれました。映画の方で勝手にこけちゃってくれました。

熟年の恋三つがそれぞれ多少交差する形で描かれるのだが、粗筋を書くほどのものではないので、いきなり問題場面について書くことにする。

自分のことは棚に上げてちひろ(旧妻)の恋を邪魔するのに、あの大きな布に書いたラベンダーの絵はないだろう。運良く花はみんな刈り取られていて、って、そういう問題じゃなくて、わざわざ北海道まで行って、しかも夜っぴいて描き上げた絵を丘に飾ったってねぇ(橘孝平本人も言っていたが、「(絵が)見えたかな」なんだもの)。

孝平は若い時には画家志望だったらしいので、絵を買くのはいいにしても、でもそんなことより一番は、ちひろが北海道に麻生圭一郎と出かける前にそれを阻止することではないか。で、最悪なことに、二人(というのは幸平となのだけど)でやり直してみるか、となった時に、刈り取られたはずのラベンダーが咲き乱れている中に二人がいる場面になるのだ。なるほど、これがやりたかったのね。けど外してるよなぁ。

それにしても、ちひろは何で元旦那を選んだのだろう。どう考えても、ちひろを無視し続けてきた孝平よりは、若くておしゃれな麻生(それに売れっ子作家だし、って関係ないか)にするのが自然ではないか。いや、すべきではないかとさえ思うのだ。「すべてを捨ててきた」という幸平に、「もう遅い」とちひろもいったんは言っていたのにね。映画的に見栄えのする場面を演出することより、こういうちひろの心境こそきちっと描いてもらいたいのだが。

二つ目は、娘からの英語の手紙を医師の佐伯静夫が読み上げて、翻訳家の長谷部麗子が訳していく場面。この演出もひどくて、恥ずかしくなった。「娘がどうしても訳してほしいからって」と手紙を渡すくらいが関の山で、読んでも黙読のはず。こんな場面がどうやったら成立するっていうのだろう、ってやっちゃってたけど。映画的だからという理由でやられてもなぁ。

結局、病室で、妻の光江に買ってもらったマーチンをかき鳴らし、ミッシェルを歌い続ける魚屋の松山正彦が一番カッコよかった、かな(でもこれもわずかだけど長めだ)。

あと、ちひろが大昔に新婚旅行先で書いた手紙を30年後に届ける話も、もう少しうまい説明が考えられなかったものか。ストーカーのような青年はずっと不気味だったもの。で、何だよそんなことか、じゃあね(一応この手紙が幸平の気持ちを切り替える一つのきっかけにはなっているのだが)。

2009年 129分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:深川栄洋 エグゼクティブプロデューサー:葉梨忠男、秋元一孝 プロデューサー:鈴木一巳、三木和史 共同プロデューサー:松本整、上田有史 脚本:古沢良太 原案:『60歳のラブレター』(NHK出版) 撮影:芦澤明子 美術:黒瀧きみえ 編集:坂東直哉 照明:長田達也 録音:南徳昭 監督補:武正晴 助監督:菅原丈雄 音楽:平井真美子 主題歌:森山良子『candy』 協力:住友信託銀行 制作プロダクション:ビデオプランニング 製作:テレビ東京、松竹、博報堂DYメディアパートナーズ、大広、ビデオプランニング、テレビ大阪

出演:中村雅俊(橘孝平)、原田美枝子(橘〈小山〉ちひろ)、井上順(佐伯静夫)、戸田恵子(長谷部麗子)、イッセー尾形(松山正彦)、綾戸智恵(松山光江)、星野真里(橘マキ/孝平の娘)、内田朝陽(八木沼等)、石田卓也(北島進)、金澤美穂(佐伯理花/静夫の娘)、佐藤慶(京亜建設・会長)、原沙知絵(根本夏美/孝平の愛人)、石黒賢(麻生圭一郎/作家)

鈍獣

新宿武蔵野館1 ★★

武蔵野館にあった監督、出演者のサイン入りポスター

■映画と演劇の差に鈍獣

期待した分、つまらなかった。だって、凸やんの死なない理由がちっともわからないんだもの。

原作は宮藤官九郎で、第49回岸田國士戯曲賞の同名戯曲だ。演劇のことをほとんど知らない私(だから原作も未読)が言ってしまうのは憚れるが、こういう作風のものは、演劇でなら面白くても、映画に持ってきたからといってすんなり楽しめるとは思えないのである。例えば安部公房の『友達』。これも演劇ならよくても、ってそもそも戯曲なんだけどさ、果たしてそのまま映画にして成功するとは到底思えないのだ。

映画というのは、改めて言うまでもなく虚構にすぎないのだが、しかし意外にもリアリティというものを補強剤としているもので、それが適度にないと居心地が悪いものになってしまうというやっかいな側面を持つ(と私は思っている)()。

演劇が映画以上に虚構なのは、最初から空間が舞台に限定されているからで、それは当然の前提であるから、演劇を鑑賞していてリアリティ補強剤のことを言い出す野暮はいないだろう。演劇空間では、物事の関係性や粗筋に神経を集中できるから、寓意も込めやすくなる。演劇において不条理劇は(って変な書き方だが)成立しやすいが、映画でそういう非論理的な展開に考察を巡らすのは不向きなのだ。

そこでそれを避けるため、演劇空間をそのまま映画に持ち込んだラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(03)のような作品もあって、これだとリアリティ補強剤が不足していても、観客は安心できるから不思議である(映画なので空間的には多少の広がりはあるが、抽象性は保たれている)。

くどくなるが、この『鈍獣』が何故面白くないかというと、映画に置き換えた時のリアリティが欠如しているからで、なるほど「鈍感な奴ほど恐ろしい者はいない」というこの作品の指摘は、ものすごい真実であるし、「その鈍感から逃げるべく、鈍感の象徴である凸やんを抹殺しようとするのだが、鈍感故に毒も効かず、車で轢いても生き返り」と、そこを突き詰めていった話が面白くないはずがない、と作り手は思ったのだろうが、そうはいかないのだった。

もっとも映画化に際しての脚本も宮藤官九郎自身が書いていて、だからそこらへんのことは相当意識したと思われるのだが、映画を観た限りでは、演劇からの移植がうまくいったかどうかは疑問だ。アニメを入れたり(これもちょっとねー)、エレベーターに乗ってやって来る凸やん登場場面などは緊張感をもって描かれてはいたのだが。

週刊大亜の連載小説『鈍獣』が文学賞候補になるが、作家の凸川は失踪。編集者の静は凸川の故郷に出向き、凸川の同級生たちから事情を聞き回る。そののらりくらりとした返事の中に、だんだんと真実が見えてくるというわけだ。

彼らは凸川(凸やん)が小説の中で、彼らの昔の私生活や秘密(触れられたくない最大のタブー)を次々に暴いていくことに恐怖を感じていたのだった。が、当の凸やんは、いじめられたことは覚えていないし、そもそも小説などは書いていないという……。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンは不死身で、すでに逃れられない恐怖と化しているわけだ。だから凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンはすでに意識レベルの存在になっていて、だから不死身なのは言うまでもなく、逃れられない恐怖と化しているわけだ。つまり凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

:それではミュージカルはどうなんだと言われてしまいそうだが、ミュージカルの場合はショー的要素が加わるので、また全然違う次元の話になるし、セリフを歌でカバーする旧来のミュージカルであるならそれだけで、演劇空間と同程度の虚構、という前提を持つことになる。

 

2009年 106分 ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:細野ひで晃 アニメーション制作:スタジオ4℃ 製作:宇野康秀、山崎浩一 プロデューサー:曽根祥子、菅原直太、高瀬巌 アソシエイトプロデューサー:山崎雅史 企画プロデューサー:松野恵美子 脚本:宮藤官九郎 撮影:阿藤正一 美術:富田麻友美 音楽プロデューサー:緑川徹 主題歌:ゆずグレン『two友』 VFXスーパーバイザー:川村大輔 スクリプター:長坂由起子 照明:高倉進 録音:山田幸治 助監督:甲斐聖太郎 劇中画:天明屋尚

出演:浅野忠信(凸やん、凸川/小説家)、北村一輝(江田っち)、ユースケ・サンタマリア(岡本/警官)、南野陽子(順子/江田の愛人、「スーパーヘビー」のママ)、真木よう子(静/編集者)、佐津川愛美(ノラ)、ジェロ(明)、本田博太郎(編集長)、芝田山康(理事長)

交響詩篇 エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい

テアトルタイムズスクエア ★★

テアトルタイムズスクエアにあったサイン入りポスター(部分)

■じじいには理解不能の萌えキャラファンタジー!?

骨格はSFながらファンタジー色が妙に強くてなじめなかった。観た直後の印象はそんなに悪いものではなかったのに、何かを書き残そうとしている今、よからぬ部分ばかりが浮かんできてしまうのだ。

宇宙からやってきた謎の生命体イマージュとの戦いがもう四十五年も続いていて……というSF部分の設定も、高度な文明体同士の戦いが長続きするはずがない、と断言したい口なので、同じぶっ飛び設定でも、ハリウッド映画にありがちな、危機があっという間に拡大して、でも意外にもお間抜けな解決策で目出度し目出度し、の方がまだしもという気がする。そういえば、戦いが長期化しているのは『ヱヴァンゲリヲン』もで、これは主人公の成長ドラマを詰め込むには、その方が好都合なのかと、余計なことを考えてしまう。

また、ホランド・ノヴァク隊長率いる戦闘母艦・月光号のメンバーは「ドーハの悲劇」(付けも付けたりだよね)の生き残りで、ある実験によって通常の三倍の早さで年をとるようになってしまっている。そういう部分と幼生ニルヴァーシュ(この造型も苦手だし、戦闘機?もニルヴァーシュって何なのさ。それに、レントンだけが幼生の言葉を理解出来る選ばれし者って言われてもな)を同居させてしまう神経が私には理解できない。

エウレカが人間でなく、どころかイマージュのスパイロボットというのもどこかで聞いたような話で、でもエウレカとレントンの一途な想いにはぐっときてしまう。と言いたいところだが、これも二人の感情の流れが見えすぎてしまうのが難点だろうか。二人が最初から好き合っているのはいいにしても、そればっかりでは(見せ方に工夫がないと)、観ている方は既定路線を押しつけられた感じになる。

まあここらへんは好みの問題なのだが、エウレカの幼児時代が、ロリコン萌えキャラみたいなのもねぇ。よくわかっていないのでそういうのとは違うと言われてしまうかもしれないが、とにかく、じいさんにはついていけなかったのだ(『ポケットが虹でいっぱい』という副題を見た時に気づくべきだったか)。

テレビ版の元アニメをまったく知らない門外漢が、的外れなことを長々と書いても仕方ないのでもうやめるが(きちんと理解出来ていないことが多くて書けないってこともある)、月光号に乗り込むようになったレントンでもまだ14歳だから、これを単純に少年少女ものと思えば、そして私がそうだった頃のものに比べたら、とんでもなくよくできている(複雑すぎるともいえる)のだけどね。

  

2009年 115分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

総監督:京田知己 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 撮影監督:木村俊也 美術監督:永井一男 音楽:佐藤直紀 主題歌:iLL『Space Rock』 アニメーションディレクター:斎藤恒徳 キャラクターデザイン:吉田健一 音響監督:若林和弘 特技監督:村木靖 色彩設計:水田信子 製作:バンダイビジュアル、バンダイナムコゲームス、ボンズ、博報堂DYメディアパートナーズ、毎日放送

声の出演:三瓶由布子(レントン)、名塚佳織(エウレカ)、藤原啓治(ホランド)、根谷美智子(タルホ)、山崎樹範(ドミニク)、小清水亜美(アネモネ)

ニセ札

テアトル新宿 ★★

■ニセ話

題名を聞いただけでワクワクしてしまうような面白い題材を、よくも屁理屈だけで固めた実体のない映画にしてしまったものだと、大がっかりなのだった。

そもそも兌換券でなくなった(金本位制度から管理通貨制度になった)時点で。お札という胡散臭いものの正体はもっと暴かれてもいいはずだったのではないかと思うのだが(って、よくわかってないのにテキトーに書いてます)、当時の人々は利便性という部分だけでそれを受け入れてしまったのだろうか。それとも国家の存在が下々にもゆき渡っていたからこそ、兌換券(これだって疑ってかかったら似たようなものだが)でなくとも大丈夫と権力者たちは踏んだのか。

偽札というのは向こうがその気ならこっちだってという、覚悟のいった犯罪と思うのだが、映画は、裁判で佐田かげ子教頭に「正直言ってあんまり悪いことをしたって気にならない」と、いとも簡単に言わせてしまっている。

いや、まあ、それでもいいのだ。感覚的には「悪いことをしたって気にならない」でも。しかし、それだけなら結局は自分たちだけがよければいいという抜け駆けでしかなくなってしまうので、「(お札は)やっぱり人間が作っているものだな」とか「国家がお金の価値を決めるんですか」などと、いくらはしゃがれてもエールは送れない。

かげ子にこの言葉をどうしても使わせたいのであれば、偽札テストの買い物(この役も自分から買ってでているのだ)で、本物のお札で支払いをすませてしまってはまずいだろう。実行前に「立派に通用した暁には、村の人たちに配らせてもらいます」と言わせているのだから。あくまでその場になったらびびってしまったという描写であるなら、他の場面を考えるべきではなかったか。あるいはテストは、他の人間にやらせればよかったのだ。

今書いてきたことをまとめると、自分が使えない偽札を配って、で、結局捕まって、裁判で一人気炎を上げられても困ってしまう、ってことになる。捕まって裁判で一席ぶつのがかげ子の目的だったというのなら話は違ってくるが、でもたとえそうだったにしてもねぇ。もっと逡巡した上での彼女の述懐であったなら、まだ耳を傾けることができたかもしれないのだが……。

裁判には知的障害のある哲也もきていて、傍聴席から偽札の紙ヒコーキを飛ばしてしまう。そのあと偽札を大量にばら撒いて目の色を変えた傍聴人たちの大騒ぎになるのだが、この場面も途中の論理がよれよれだから、勝手に騒いでいるだけという印象で終わってしまう。哲也の悪戯書きのお札も含めて、金と名がつくものにはすぐ踊らされてしまう人間模様を描きたかったのだろうが。伏線もなく紙ヒコーキを飛ばされてもなぁ。

主犯格の戸浦の「偽札で誰が死にます。お国が偽札作って僕らが作ってあかんということはないやろ」とか「偽札を作るつもりはない。これから作るのはあくまで本物。みなさんもそういう心構えで」というセリフも、威勢はいいがこれまた言葉だけという感じで、それに、人も死んじゃうわけだし。こんなことなら実際にあった偽札事件を、妙な解釈は付けずに忠実になぞっていっただけの方が、マシなものが出来たのではないか。

もう一つ。かげ子本物の札を試作品と偽ったことで資金調達(高価な印刷機が必要なのだが、購入して村に運び込んだりしたらすぐ足がつきそうだ)がうまくいき始めるのだが、本物を加工したもの(偽札に近づけるわけだ)と比べさせたとかいうような説明を加えないと、説得力もないし面白くなっていかないと思う。

主張は上滑り(ちっともなるほどと思えないのだな)でも偽札団内の人物造型は悪くない。が、村人と偽札団との関係はもう少し何かないと大いにもの足りない。これこそ描くべきものだったはずなのだ。

2009年 94分 ビスタサイズ 配給:ビターズ・エンド

監督:木村祐一 製作:山上徹二郎、水上晴司 企画:山上徹二郎 脚本:向井康介、井土紀州 共同脚本:木村祐一 撮影:池内義浩 美術:原田哲男 編集:今井剛 音楽:藤原いくろう 主題歌:ASKA『あなたが泣くことはない』 照明:舟橋正生 美術プロデューサー:磯見俊裕 録音:小川武

出演:倍賞美津子(佐田かげ子/小学校教頭)、段田安則(戸浦文夫/庄屋、元陸軍大佐)、青木崇高(中川哲也/かげ子に育てられた知的障害のある青年)、板倉俊之(大津シンゴ/かげ子の教え子)、木村祐一(花村典兵衛/写真館館主)、村上淳(橋本喜代多/紙漉き職人)、西方凌(島本みさ子/大津の愛人、飲み屋の雇われママ)、三浦誠己(小笠原憲三/戸浦の陸軍時代の部下)、宇梶剛士(倉田政実/刑事)、泉谷しげる(池本豊次/住職)、中田ボタン(商店の店主)、ハイヒールリンゴ、板尾創路(検察官)、新食感ハシモト(青沼恭介/小学校教員)、キムラ緑子、安藤玉恵、橋本拓弥、加藤虎ノ介(森本俊哉/刑事)、遠藤憲一(裁判官)

昴 スバル

新宿ミラノ3 ★★

■主役(だけじゃないが)ありき、でないと

群れを離れた狼とか野良猫と呼ばれてきたという宮本すばるが「私が私でいられる」バレエの世界で生きていく決心をする……。それはいいんだが、話の展開がやたら強引。だから物語だけという印象だし、多分マンガだと効果的なセリフも上滑りだ。

双子の弟とバレエ教室をのぞいてはその世界に憧れていた幼い日も入れているのは、弟の死(脳腫瘍から記憶障害になる)を引きずってきたすばるを位置づけるためなのだろうが、弟しか見ていない父(とすばるは感じていた。母はもっと早くに亡くなっている)も含めてこのあたりはもう少しあっさりでもよかった。特に弟絡みの部分は。映画で思い出を映像化すると重たくなるんだもの。

ストリップ小屋(この設定はイメージしにくいが)のおばちゃんとそこのダンサーたちとの出会いから(おばちゃんが最初のすばるの先生となる)、バレエ教室の先生の娘呉羽真奈との「白鳥の湖」のオーディションでの競争、コーヘイという恋人のような存在もでき、彼に誘われたストリートダンスで、オーディションでみんなと呼吸を合わせることが出来ずにいたのを解消? さらにはアメリカン・バレエ・シアターのリズ・パークがすばるをライバルと認め、だからか度々すばるの前に現れる(でもなぁ)。そして真奈とリズも出る上海でのバレエ・コンクールに挑戦することに。そのための新たな指導者天野は、実はバレエ教室の先生の元夫(真奈の父親)という因縁めいた展開。それ以前に、準ライバルにしかなれない真奈は、母子共々複雑な立場だ。コンクールの直前には、おばちゃんの死の知らせがすばるを苦しめる……。

すっ飛ばして書いてもこんな感じ。運命の黒猫が要所に配置されてるから、それがうまい具合に交通整理してくれればいいのだけど、あれは絵としての効果しかないみたいで、だからやっぱり強引な展開にしかみえない。

なかでも不可解なのがリズ・パークで、場末にあるおばちゃんの小屋でボレロを踊るすばるに一目惚れしてしまうのだが、何でこんなところにいるのさ。世界的ダンサーが、いくらすばるに才能を感じたからといって、こんなふうにいろいろちょっかいを出してくるっていうのがねぇ。ま、それだけリズにすごさが伝わってしまったということなのだろう。ライバルに対する正しい接し方、というか、同じ価値観を持つ者同士がこんなふうに挑発したり一緒に買い物したくなる気持ち、ってわかるような気がするもの。

リズは韓国系のアメリカ人という設定らしいので、日本語がたどたどしいのは今回はいいにしても、Araは日本だとこれが限界と思われても仕方ないかな。私はちょいファンなんで(ってよくは知らない)残念なのだが。

黒木メイサは決して悪くないと思う。全身をなめ回すようにカメラが追っても、私のようにダンスのわかってない人間には十分鑑賞に耐える踊りだったから。

とはいえ、だからって天才的バレリーナとなるとどうなんだろう。正式な修行は積んでいなくてもその才能は横溢して、なのだからうまいとかうまくないというのとは違うレベルの話のような気もするのだが。

だいたいこの手の映画で、こういう疑問が少しでも出てしまうようならその企画は諦めた方が無難と思うのだが。そしてそれは、黒木メイサ一人の問題ではないだろう。彼女の場合は、まだ挑みかかるような目つきがあったから……。

2008年 105分 日本、中国、シンガポール、韓国 ビスタサイズ 配給:ワーナー

監督・脚本:リー・チーガイ 製作:三木裕明 製作総指揮:ビル・コン、松浦勝人、千葉龍平、リー・スーマン 原作:曽田正人 撮影:石坂拓郎 美術監督:種田陽平 衣装デザイン:黒澤和子 編集:深沢佳文 振付:上島雪夫 音楽プロデューサー:志田博英 テーマ曲:冨田ラボ『Corps de ballet』 主題歌:倖田來未『faraway』 メインテーマ:東方神起『Bolero』 照明:舘野秀樹 装飾:伊藤ゆう子 録音:前田一穂

出演:黒木メイサ(宮本すばる)、桃井かおり(日比野五十鈴)、Ara(リズ・パーク)、平岡祐太(コーヘイ)、佐野光来(呉羽真奈)、前田健(サダ)、筧利夫(天野)

マンマ・ミーア!

新宿ミラノ3 ★★

■結婚式(映画もか)を横取り!

70年代半ばから80年代初頭にかけて活躍したABBAのヒット曲に乗せておくるミュージカル。

ノリのいいABBAの曲は、私のように音楽には詳しくない人種(注1)にも耳に残っているものがいくつかあって、だからそれだけで十分楽しめそうな予感はしていた。一方で、ヒット曲を集めてミュージカルになるのだろうか、とも。しかしながら、欧米(ABBAは北欧だが)のポップスの歌詞には単純なものが多いので、今回のようなミュージカルも出来てしまうのだろう(一部は劇中のショーにして誤魔化していたが)。

物語は、ギリシャのとある島に住むソフィという結婚式を控えた女の子が、ママ(のドナはこの島で小さなホテルを経営している)の若き日の日記を盗み見したことで、会ったことのないパパに結婚式のエスコートをしてもらおうと(なんて可愛らしい望みなんでしょう! ま、それは派生的なものにすぎないにしてもさ。だってどんな男かわかったもんじゃないだろうに)、ママには秘密で呼び寄せるのだが、パパ候補は3人もいて、という仰天話。

そんな馬鹿らしい話にみんなで大騒ぎして、という内容だから目くじらを立てることもないのだが(そう思っても、すぐ次の曲が始まってしまうんだよなぁ)、ソフィと婚約者のスカイが結婚式の前にちょっとした諍いになって、でもそのまま式に、という部分は、まだ気になっている。だから最後に結婚式がとりやめになってしまっても、そんなには気にしていないのだろうか。中止が2人での旅立ちに形をかえたみたいなものだから何の問題もないのかもしれないが、どうにも釈然としない。

だいたいスカイは、影も薄いのだな。ソフィもドナもそれぞれ友達2人を助っ人にしている(特にドナの2人は強力)し、パパ候補もサム、ハリー、ビルの3人組(注2)だからってこともあるのだけれど。

ドナはいきなり現れた3人の登場にあわて、そしてお気楽パパ候補(という認識がなかったんだものねー)たちは、もしかしたら自分がソフィの父親かも知れないということにやっと気づく(ソフィは招待状をママの名前で出している)。

サムが、何故ソフィを島に縛ろうとするのか、とドナに言う場面があって(むろんこのことは、ドナが望んだというのではないのだが)、このことからソフィとスカイの結婚式がサムとドナの結婚式に取って代わってしまうという大団円になっていく。いやはや。まあ、ミュージカルなんで。

ソフィが主導していた話なものだから思い違いをしてしまったが、主役は途中からはドナになってるし、結局、中年向けの映画だったようだ(だからABBAなんだ。そっか)。けど、結婚式まで横取りって、まあ残りの人生が少ないだけあって中年(初老?)が一旦恥も外聞もなくやり出したら止められないのだな。

しかし、だったらもう少しは、ドナやサムが何故今に至ったのかをちゃんと描いてもよかったのではないか。でないとドナのは若気の過ちにしては節操がないし、当時すでに婚約していたサムの行動もドナ以上に節操がなくて、ピアース・ブロスナンはラジー賞の最低助演男優賞に耀いたそうだけれど、この役の設定だと、演技以前にそうなんだもの(彼の歌声もちょっとね)。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』でも聞き惚れたが、メリル・ストリープの歌いっぷりはなかなかだ。とはいえ私的には演歌のようには歌い込まないでほしいのだが。ジュリー・ウォルターズとクリスティーン・バランスキーもそれなりに分をわきまえての大活躍。それに比べると男優陣は見劣りがする。コリン・ファースとステラン・スカルスガルドは何しに島へやって来たんだろ。

注1:曲よりもABBAの2番目のBの字が反対向きだったことの方を思い出してしまう口なので。

注2:この3人は本来なら恋敵ということになるが、なにしろあまりに昔のことだし、それに実際に反目し合っていたわけではなく、互いに相手のことは知らないのだな。

 

原題:Mamma Mia!

2008年 108分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:石田泰子

監督:フィリダ・ロイド 製作:ジュディ・クレイマー、ゲイリー・ゴーツマン 製作総指揮:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース、リタ・ウィルソン、トム・ハンクス、マーク・ハッファム 脚本:キャサリン・ジョンソン 撮影:ハリス・ザンバーラウコス プロダクションデザイン:マリア・ジャーコヴィク 衣装デザイン:アン・ロス 編集:レスリー・ウォーカー 振付:アンソニー・ヴァン・ラースト 音楽:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース 音楽監督:マーティン・ロウ 音楽監修:ベッキー・ベンサム

出演:メリル・ストリープ(ドナ)、アマンダ・セイフライド(ソフィ)、ピアース・ブロスナン(サム)、ジュリー・ウォルターズ(ロージー)、クリスティーン・バランスキー(ターニャ)、コリン・ファース(ハリー)、ステラン・スカルスガルド(ビル)、ドミニク・クーパー(スカイ)

ララピポ

新宿ミラノ2 ★★

■目指せ!下半身目線人間図鑑

一生地べたに這いつくばって生きる人間とそこから逃げだし高く高く登りつめる人間、セックスするヤツとそれを見るヤツ、平和をけがすゴミどもと平和を守る正義の使者、100万人に愛される人間と誰にも愛されない人間、と冒頭からくどいくらいに「この世界には2種類の人間しかいない」と繰り返すのだが、映画は、比較にこだわるのではなく、這い上がられずにいる方の人間たちに、下半身目線で焦点を当てた作品のようである。

スカウトマンの栗野健治は、デパート店員のトモコを言葉巧みにキャバクラの仕事に誘いヒモ生活に入る。

栗野の部屋の真下に住むフリーライターの杉山博は、長い間女性に縁がなく、自分の分身(ぬいぐるみ劇をされてもですねー)と不毛な対話を重ねる毎日だったが、ロリータファッションに身を包んだアニメ声優志望の玉木小百合と、「似たもの同士」のセックスをする。もっとも、「似たもの同士」は杉山の感想で、このセックスは隠し撮りを副業にしている小百合によって、デブ専の裏DVD屋に並ぶことになる。

カラオケボックス店員の青柳光一は、正義の味方となって悪(=エロ)と戦う妄想を膨らませるが、実体は近所の若妻の覗き見に励む、つまり悪とは到底戦えない情けないヤツで、カラオケボックスすらやくざに凄まれて、彼らのセックス拠点になってしまう。

普通に主婦業をこなしていたはずの佐藤良枝だが、気づいたらゴミ屋敷の主となっていた。キャバクラからソープ嬢と栗野の言うままに、でもそれほどの抵抗もなく転落?の道をたどってきたトモコがAV出演のため現場に出向くと、実の母の良枝が母親役で、2人は他人のふりを通したまま撮影にのぞむことにする。

青柳の放火現場を目撃した良枝は、ゴミ屋敷へも放火をしてくれと青柳を脅迫するが、夫が中で寝ていることを思い出し、火の中に飛び込んでいく。

映画の最後の方で、a lot of peopleが、ネイティブの発音だとララピポになるという種明かしがあってのこの内容で(栗野をはじめとした主な登場人物のそれぞれの年齢、名前、職業、年収が字幕で出てくる)、確かに出てくる人間が雑多なだけでなく、作りもポップでごちゃ混ぜ的だからa lot of peopleという感じはするのだが、でもどれもが中途半端で、誰にも感情移入できないとなると少々つらいものがある。

栗野とトモコの関係が恋になりそうな部分や、最後にはトモコがAV女優として大ブレークしたり、良枝が夫と共に病院のベッドにいる場面(助かったのね)などがあって、小さな幸せオチをつけてはいるのだが、それだけでは伝わってくるものがない。

『ララピポ』と題名で見得を切ったのだから、この調子で10本でも20本でも続編を作って、映画人間図鑑を目指してみたらどうだろう。そこまで撮り続けたら、もしかしたらとんでもない傑作が出来上がってしまいそうな気もするが、今のままだと『ララピポin歌舞伎町』(実際は渋谷のようだ)にすぎないでしょ。

それとも、この類型の中にあなたは絶対いるはず、とでも作者は言いたいのだろうか。そういえばトモコに入れあげていた区役所勤めの男とかもいたよな、ってあいつが私と認めたわけではないが、そこまで言われてしまうと、映画のどこかに自分がいたような気分にもならなくもないのだが……。

  

2008年 94分 ビスタサイズ 配給:日活 R-15

監督:宮野雅之 製作:佐藤直樹、水上晴司 プロデューサー:石田雄治、鈴木ゆたか、松本肇 原作:奥田英朗『ララピポ』 脚本:中島哲也 撮影:尾澤篤史 音楽:笹本安詞 音楽監修:近田春夫 主題歌:AI『people in the World』

出演:成宮寛貴(栗野健治)、村上知子(玉木小百合)、中村ゆり(佐藤トモコ)、吉村崇(青柳光一)、皆川猿時(杉山博)、濱田マリ(佐藤良枝)、松本さゆき、中村有志、大西ライオン、杉作J太郎、坂本あきら、インリン・オブ・ジョイトイ、林家ペー、林家パー子、佐田正樹、蛭子能収、山口香緒里、渡辺哲、森下能幸、勝谷誠彦、チャド・マレーン

ミーアキャット 日本語版

新宿武蔵野館1 ★★

■貧血か居眠りか?

ミーアキャットのことはほとんど知らなかったし、動物ものなら見ていてあきないのだけれど、そしてコンパクトにまとまった予告篇はよくできていたのだけれど、そうはいっても物語映画にするようなフィルムだったか、という疑問は残る。テレビのドキュメンタリー番組として、解説もふんだんに入れてくれた方がタメになったように思うからだ(この内容なら時間も半分以下ですむだろう)。

家族愛(大家族)があって、ワシやコブラという天敵もいれば、同じミーアキャット同士の縄張り争いもあり、これを物語にしない手はないと踏んだのだろうが(後述の見せ場が撮れてしまったからかも)、でも生まれたばかりの1匹をコロと名付けて擬人化したことで、結局はありきたりの成長物語にするしかなくなってしまったともいえる。

教育係の兄(親ではないのね)からサソリの捕獲を教わったり、その兄の死(見分けがつかないのだな)や、コロが群れから離れてしまい、なんとか帰還する話も挿入してはいるが、ちょっと苦しい。

もちろん見せ場がないわけではない。巣にまでもぐり込んできて画面に大写しになるコブラは迫力で、しかも巣の道が二股に分かれた前で、コブラがどちらに行ったらよいか迷う(!?)というコブラの視点に切り替わる場面もある。コブラが尻尾を攻撃され、体を折り返すようにして狭い巣穴を戻っていくまでの編集は、アクション映画顔負けである。しかもこの場面は、後で起こるゴマバラワシの襲撃の伏線になっていて、結局悪役コブラは、ミーアキャットの代わりに、もう一方の悪役ゴマバラワシの餌食になってしまうというオチまでつく。

この話を可能にしたのは、巣穴でも写る赤外線カメラや至近距離での映像なのは言うまでもないだろう。体長30センチというミーアキャットの視線から見ると、世界も一変する。カラハリの、過酷な地だという説明がつく割には、意外と狭い範囲に多くの生き物がいる事実にも驚かされる。

その撮影だが、オフィシャル・サイトに行ったら、本当に手の届くような至近距離で撮影している写真があってびっくりした。ミーアキャットに、人間は安全な生き物と認識させてしまったのだろうか。30センチの視線は、単純に穴を掘ってカメラの位置を下げたようだ。

ミーアキャットが日光浴のために後ろ足と尾で直立する姿が可愛らしいため、これが盛んに宣伝に使われている。利用しない手はないと私も思うが、予告篇は「日光浴を時々やりすぎて貧血をおこす」なのに、オフィシャル・サイトの説明文だと「陽だまりの心地よさに立ったまま居眠りを始める」なの?

原題:The Meerkats

2008年 83分 シネスコサイズ イギリス 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:ジェームズ・ハニーボーン 製作:トレヴァー・イングマン、ジョー・オッペンハイマー 構成:ジェームズ・ハニーボーン ナレーション脚本:アレキサンダー・マッコール・スミス 撮影:バリー・ブリットン 編集:ジャスティン・クリシュ 音楽:サラ・クラス ナレーション:ポール・ニューマン 日本語版ナレーション:三谷幸喜

22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語

テアトル新宿 ★★

■「なんだか疲れちゃった」、演出に

久しぶりに大林作品を観たが、私とはセンスの合わないことを再確認(好きな映画もあるんだけどね)。どうにも疲れてしまう映画だった。

伊勢正三の歌をイメージしていたからか、冒頭の川野俊郎(筧利夫)が閉鎖性無精子症と診断を受ける場面から、びしょ濡れになってコンビニで買い物をしそこで田口花鈴(鈴木聖奈)と出会うあたりまでの、これが大林映画といえばそれまでなのかもしれないが、まるで怪奇映画のような演出にすでに違和感が。

そのあともいろいろなところでひっかかっていた。川野や藤田有美(清水美砂)に1人で延々と喋らせてみたり(むろん違う場面でだ。だから人物の性格というのではなく都合よく語らせているだけのようだ)、斜めに撮した映像など、別にこういう遊びだって嫌いではないのだが、意味がわからない(ようするに趣味が合わないのだな)。せわしない映像にうるさい音では、物語に身をまかせている気分ではなくなってしまう。

話もいじりすぎていて、川野と葉子(中村美玲)の22年前の1番大切なはずの別れがうまく説明できていないから全体に焦点ボケという感じだ。現代の視点からなら葉子が何故川野のもとを去ったのかは判然としなくても一向にかまわないのだが、ちゃんと映像をもってきているのだから、ここがしっかりしていないとつまらない。「なんだか疲れちゃった」とか「大きすぎるね東京」というセリフがナシとは言わないけれど(川野にとっても「あの頃の葉子はぼくには重たすぎた」んだって)、これはせいぜい1960年代まででしょ。

川野に葉子の娘である花鈴が援交を申し出て、37歳の有美があわてるという現代の話だけにした方がよほどすっきりしたのではないか。もちろん葉子とも花鈴ともプラトニックで、というところにこだわったのだろうけど、でも無精子症だから有美の願いはかなえてあげられないからとなると、そこまで考えるか、とも(どうせ私は自分勝手なんだけどさ)。

川野は上海への転勤話が持ち上がってはいたものの上司に目をかけられていたのに、著中で仕事も辞めてしまうし、ま、ある意味では中年(43歳)の理想となってもらいたかったのかもしれないが、ちょっとかっこつけすぎか。

「やらしいおやじにはなりたくない」とは言ってしまいそうだけど、早々に結婚という言葉まで出てきているのだから、ルームシェアしているだけという浅野浩之(窪塚俊介)と張り合ってもよかったんじゃないかと。現代っ子の花鈴と浩之にまでプラトニックを通させたのは、かえって不自然な気がしたが、とにかくそういう話なのだ。

葉子を追わなかったから花鈴が生まれた(君はぼくの娘なんだ)、というのが川野の結論で、浩之は川野の行きつけの焼鳥屋に就職口を見つけて、という収め方にも反発したくなった。いや、なかなか面白い話なんだけどね。なんか文句付けたくなっちゃうんだな。

サブタイトルのLycorisは彼岸花(曼珠沙華)で、映画の中でもそれについては、説明していたし、種なし(球根で増える)だから川野に結びつけているのだけど、そういうことすべてがうるさいく思えてきてしまっていた。

物語をはじめるにあたって川野に「戯れですが」と念を押されてはいたけれど、最後になったら「さていかがでしたこんな物語。ではご油断なく」だとぉ。まあいいやどうでも。

2006年 119分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督・編集:大林宣彦 製作:鈴木政徳 エグゼクティブプロデューサー:大林恭子、頼住宏 原案:伊勢正三『22才の別れ』より 脚本:南柱根、大林宣彦 撮影:加藤雄大 美術:竹内公一 音楽:山下康介、學草太郎、伊勢正三 音楽プロデューサー:加藤明代 VFXプロデューサー:大屋哲男 監督補佐:南柱根 記録:増田実子 照明:西表灯光 録音:内田誠 助監督:山内健嗣

出演:筧利夫(川野俊郎)、鈴木聖奈(田口花鈴)、中村美玲(北島葉子)、窪塚俊介(浅野浩之)、寺尾由布樹(若き日の川野俊郎)、細山田隆人(相生)、岸部一徳、山田辰夫、立川志らく、斉藤健一、小形雄二、河原さぶ、中原丈雄、蛭子能収、左時枝、根岸季衣、南田洋子(団地の主婦)、峰岸徹(松島専務)、村田雄浩(花鈴の父)、三浦友和(杉田部長)、長門裕之(やきとり屋甚平主人)、清水美砂(藤田有美)

西遊記

109シネマズ木場シアター7 ★★

■私たちの旅はただ天竺に着けばいいというのではない

昔々テレビでやっていた『西遊記』を1回も観ていないのでわからないのだが、三蔵法師を夏目雅子がやったように、深津絵里という女性にしたのはあのテレビ作品を継承しているのだろうか。ともかく、また新たな西遊記を作ったのは、この話にそれだけ魅力があるということなのだろう。というか、この映画は2006年のテレビ版の映画化で、出演者もほとんど全員映画に移って作ったもののようだ(何も知らなくてすんません。それに三蔵法師は夏目雅子だけじゃなく、そのあとも宮沢りえ、牧瀬里穂がやっていたのね。ということは日本では女性が演じるのが常識なのか)。

仏典を天竺に求めて旅する三蔵法師、沙悟浄(内村光良)、猪八戒(伊藤淳史)、孫悟空(香取慎吾)の一行は、砂漠の中にある虎誠(フーチェン)へとやってくる。この都の玲美(多部未華子)という姫のたっての頼みで、一行は険しい山の頂に住むという金角大王(鹿賀丈史)銀角大王(岸谷五朗)退治に出かけることになるのだが、そこには玲美の祖父劉星(小林稔侍)がいるだけで、すでに虎誠は金角銀角の手中となっていたのだった。

玲美は両親を助けたいが為に悟空たちを利用し、金角銀角の言われるままに「無玉」を持ち帰ろうとする。「無玉」には、この世から太陽を封じ込める力があり、金角銀角はそれで全世界を我が物にしようとしていた。玲美が金角銀角の手先にならざるを得なかったこと、その玲美が悟空との信頼を築くことは、前半の要になっているのだが、これがあまりに杜撰な話で、観ていてつらくなってくる。

玲美が山に行くのに悟空たちの助けがいるのはわかるが、でも金角銀角にとっては何も玲美に無玉を取りに行かせることもないことで、どうしても玲美がそのことに必要というのであれば、自分たちが玲美を連れて行った方がてっとり速いはずだ。虎誠の城内に「三蔵法師求む」などというビラを貼って、わざわざやっかいな悟空たちを引き留めておく理由など何もないではないか。

金角銀角が虎誠の宮殿にいるという情報も、わざわざ凛凛(水川あさみ)に持ってこさせ(テレビ版の常連を引っ張ってきただけ)、玲美と「約束」をした悟空には、三蔵法師を破門(!)させる。悟空を残して下山した三蔵法師だが、「天竺に行こうと思うあまり」悟空を叱ってしまったことを悔い、沙悟浄と猪八戒は再び山に出向いていく。だが、そのため1人になった三蔵法師は、銀角によって吸引瓢箪(これは何ていうのだ)の中に閉じこめられてしまう。

巨大ナマズの棲む河や、入山を拒むかのように険しい階段や崖、さらにはインディ・ジョーンズばりの仕掛けが襲ってくる(難を逃れるのは横に隠れるだけというのがねー)、容易には到達できないはずの場所なのに、コンビニに行く感覚で入山下山が出来てしまうのでは(ではなく省いているだけなのでしょうけど)難所であることを強調してきた意味がなってしまう。

そうして、銀角はもっとあっさり山にやってきて(ほらね)無玉を奪っていくのである。銀角の乗るエアーバイクの出す黒雲(これ、いいよね)と、悟空の隗箔l雲(エアーボードか)はイメージが逆のような気もするが、ここはなかなかの見せ場になっている。

が、他のCGは総じてチャチ。というか、CGが必要でない普通の部分の絵に奥行きがないものだから(最後に三蔵法師の鈴の音と共に悟空たちが出てくるキメの絵などがいい例だ)、映画全体に安っぽいイメージが漂ってしまうのだ。

金角銀角の強さなどはよく出ていたと思うが、やられてしまった悟空がいくつも刺さっていた小刀を抜いてやり返す、ってあんまりだ。悟空に底知れぬパワーがあるのはいいとしても、こんなヘタクソな見せ方はないだろう。瞬間移動する銀角を、繰り出す如意棒で仕留められずにいたのなら、次は如意棒に円形運動をさせるなり、何か工夫させろってんだ。

とにかく三蔵法師には「生きるということは戦うこと」、悟空には弱い人間にもすごい力があってそれは「なまか(仲間)を作れるってこと」だと偉そうなことを言わせて、金角銀閣を退治。封印を解かれて巨大化していた龍のようなものは吸引瓢箪に収めて、虎誠は以前の緑と水源に囲まれた国に、人々は虎の民と呼ばれていた尊厳を取り戻し、玲美の父と母は亀から人間に。はい、目出度し目出度し。で、三蔵法師の一行は天竺めざして砂漠の旅を続けるのでありました。

で、また最初と同じような場面に戻って、悟空が「もう歩けないよー」とか馬鹿なことを言ってるところでお終いなんだけど、この悟空のだだっ子ぶりにも感心できなかったのだ。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』もだけど、香取慎吾はへんてこりんで難しい役ばっかりなのな。

「生きるということは戦うこと」については、田畑を耕す父のように赤子を育てる母のようにという補足があって、この補足部分はいいのだが、とはいえそんな簡単なことではないはずだ。「なまかを作れるってこと」も別の見方ができる(「約束は守らなければならない」というのもね)のだが、その前に虎誠の人々を「誰にも従わない勇気ある民」とし、最後に「この世で一番勇気があるのは仲間がいるやつ」と隷属することが仲間ではないとも言っているようなので、これはまあ見逃すか。

でもセリフだけ1人歩きされると困るのだな、やはり。「私たちの旅はただ天竺に着けばいいというものではない」と三蔵法師に言わせ、結果でなく過程こそ肝腎と説いていたのだから、もっといろいろなところに慎重になってほしいのである(特に脚本)。

  

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:澤田鎌作 製作:亀山千広 プロデューサー:小川泰、和田倉和利 プロデュース:鈴木吉弘 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 企画:大多亮 脚本:坂元裕二 撮影:松島孝助 特撮監督:尾上克郎 美術:清水剛 音楽:武部聡志 主題歌:MONKEY MAJIK『Around The World+GO!空』 照明:吉角荘介 録音:滝澤修

出演:香取慎吾(孫悟空)、深津絵里(三蔵法師)、内村光良(沙悟浄)、伊藤淳史(猪八戒)、多部未華子(玲美)、水川あさみ(凛凛)、大倉孝二(老子)、谷原章介(文徳)、三谷幸喜(国王)、小林稔侍(劉星)、鹿賀丈史(金角大王)、岸谷五朗(銀角大王)

魔笛

テアトルタイムズスクエア ★★

■オペラはわからん

私がオペラに出かけることなど今まで同様これからもまずないと思われるが、映画でとなると、そういう状況も可能になってしまうのだから面白い。

しかもこの映画は、舞台俳優出ながら映画のことも知り尽くしたケネス・ブラナーによるモーツァルトのオペラ『魔笛』の映画化だから、私のようなオペラ知らずが観るのにもちょうどよさそうである。

ブラナーもオペラの映画化については相当意識しているのだろう、巻頭の序曲をバックに出現する映画絵巻ともいうべき光景は一見に値する。鳥をとらえていたカメラはパンダウンし、花を摘む男に移ったかと思うとそのまま塹壕の上に出、伝令を追う。上にパンし、次には左へと自在に跳び回る。幾重にも広がる塹壕を俯瞰するが、ちょっと別なところでは蝶が舞うのどかな戦場で、でも軍楽隊が現れ銃砲が上を向くと、雲の中からは複葉機が現れカメラも空に飛ぶ。演奏の下で戦争が繰り広げられ、そこを拳銃1挺のタミーノ(ジョセフ・カイザー)がうろつく様は滑稽でもある。

これをワンカットで見せられては期待が高まざるを得ないのだが、残念なことにこの凝ったカメラが機能しているのもここまでだった。もちろんこの後も、何度か似たような試みはなされている(やはり戦場や、城に侵入した人物の位置関係や状況をカメラの移動で説明している)し、上部からのカメラを多用するなどの工夫もあるが、オペラ部分になるとアップが主体となって、空間も結局は舞台のような狭いところに押し込められたような印象になってしまうのである。

それと、これはもともとの『魔笛』というオペラの問題らしいのだが、話がずいぶんとヘンテコリンだ(これもあくまで映画を観た限りでの感想なのだが)。

前線で毒ガスに倒れていたところを夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)の侍女3人に助けられたタミーノは、さらわれた娘パミーナの救出を女王に依頼される。これは当然タミーノがもともと女王側の兵士ということなのだろうが、これが意外と曖昧なのだ(第一次世界大戦への移植はブラナーの責任だけどね)。それはともかく、やはり女王のために鳥を捕っていたパパゲーノ(ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス)と一緒にパミーナの救出に向かう。

ところが悪役のはずのザラストロ(ルネ・パーペ)は、実は善政を行い国民からは慕われており、夜の女王こそが悪なのだという。ザラストロの部下に邪悪な心を持ったモノスタトス(トム・ランドル)がいて、そいつがパミーナに悪さを働こうとしてはいたが、これでは何が何だかわからない。しかもそのザラストロは最初、タミーノの前で自分の身を偽ってみせるのだ。胡散臭いだけでなくこんな大人げのないところを見せられてしまったし、善政が布かれているにしては国民の行動もどこか画一的に見えたから、私などしばらくはザラストロを独裁者と決めつけてしまっていた。

そもそも題名の魔笛をタミーノは夜の女王から贈り物として受け取っている(パパゲーノのチャイムも同じ)。そして、この魔笛(チャイムも)は、音楽によってこの地に平和と協調をもたらすのだ。だったら、夜の女王がそれをわざわざタミーノやパパゲーノに授けたりするだろうか。また2人を導く3人の少年も、この流れだと女王に遣わされたように見えるのだが(実はよくわからない)。

音楽がすべてを解決してくれるのであるから(そんな単純なことを言われてもねー)、些細なことなどどうでもいいと考えたのだろうか。

パパゲーノとパパゲーナ(シルヴィア・モイ)の恋の話もまったく意味不明。もともとパパゲーノの役割は道化とは思うのだが、話もずいぶんとおちゃらけている。パパゲーナが最初は老婆として登場し、でも18なのだと言って私と一緒にならないと地獄に堕ちると迫り、パパゲーノがしかたなく同意すると若い娘に変身する。

こんな馬鹿馬鹿しい話を延々と見せられては、肝腎の音楽がちっとも楽しめないのだが、オペラ通の人たちには、そういうことはすでに了解事項なのだろうか。沈黙の誓いにしても、タミーノとパミーナの恋にしても、どれも稚気溢れたもので、途中でうんざりしてしまったのだ。

第一次世界大戦という背景をもってきて、戦場を前に広がる墓標(戦死者の名前は若者ばかりなのだが、そこに日本人の名前も刻まれている)を見せることで、反戦というテーマを前面に押し出したかったようだが、『魔笛』の持つ本来の内容とは落差がありすぎたのではないか。

最後は、夜の女王がモノスタトスや3人の侍女とで奇襲をかけてくるが、魔笛がそれを守ってくれ(やっぱりこれはないだろ)、女王たちは城壁から真っ逆様に落ちていく。英知が世を治めたことで、緑が地をおおっていくのだった。でも実際には第二次大戦が起きてしまうわけだから、この設定はほとんど意味がなかったとしか思えないのだ。

 

原題:The Magic Flute

2006年 139分 シネスコサイズ イギリス、フランス 日本語字幕:松浦奈美 オペラ監修:増田恵子 配給:ショウゲート

監督:ケネス・ブラナー 製作:ピエール=オリヴィエ・バルデ 製作総指揮:スティーヴン・ライト 脚本:ケネス・ブラナー、スティーヴン・フライ 撮影:ロジャー・ランサー プロダクションデザイン:ティム・ハーヴェイ 衣装デザイン:クリストファー・オラム 編集:マイケル・パーカー 音楽:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 音楽監督・指揮:ジェームズ・コンロン 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 英語脚色:スティーヴン・フライ 音楽プロデューサー:ダニエル・ザレイ

出演:ジョセフ・カイザー(タミーノ)、エイミー・カーソン(パミーナ)、ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス(パパゲーノ)、ルネ・パーペ(ザラストロ)、リューボフ・ペトロヴァ(夜の女王)、シルヴィア・モイ(パパゲーナ)、トム・ランドル(モノスタトス)、テゥタ・コッコ(侍女1)、ルイーズ・カリナン(侍女2)、キム=マリー・ウッドハウス(侍女3)

不完全なふたり

新宿武蔵野館2 ★★

■黒いカットはNGか

ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)とマリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)という結婚して15年になる金持ちの夫婦が、友達の結婚式に出席するためにリスボンからパリにやってくる。映画はホテルに向かうタクシーの映像で始まる。

交わされる会話はありきたりで他愛のないものだが、この映像は撮り方が印象的(進行方向は右。車全体ではなく顔がわかるところまで近づいたもの。一応会話を追っているのにわざわざ外側から撮っている)なだけでなく、このあとに展開される2人の気持ちのゆらぎや夾雑物を、タクシーのガラス窓に映し込んでいた。

次はホテルの1室。簡易ベッドを運び込ませている。これについては合意事項らしいのに、どちらがそれを使うかで、くだらない意地を張り合う。

夜のレストランに2人の友人夫婦ときている。2人は彼らにとって理想の夫婦だったようだ。新しい仕事の話が出たところだったが、ニコラの切り出した離婚という言葉でその場の雰囲気が変わってしまう。

ホテルでもレストランでもカメラは動こうとしない。長回しはいい意味で俳優に緊張感を強いる場面で使われることが多いが、ここでは言葉が途切れた、その時を際立たせるために使用しているように思えた。あるいは、大まかな流れの中で、セリフを俳優たちにまかせて撮っていったことの結果かもしれない。具体的な撮影方法について知っているわけではないので、憶測でしかないが、もしかしたらこの黒い画面はNG部分だったのかとも思えてしまう。全体で10カットもなかったと思われるが、でもこれだけあるとやはり気になる。監督の意図が知りたくなる。

この長回しは、最後のホームの場面まで続くから、カット数は相当少なそうである。だからといって、全篇それで押し通そうとしているというのではなく、顔のアップなどでは手持ちカメラも含めて、わりと自在にカメラをふっている。

ニコラとマリーの離婚話に戻るが、ニコラの言い出したそれは、マリーには唐突だったらしい(まさかとは思うが、友達に話したのが最初だったとか?)。部屋に鍵を置いたまま出かけてしまったニコラを責めるのは当然としても、結婚パーティーに出かけるのにドレスや靴のことであんなに情緒的になられては(私と行きたい?とマリーはニコラに何度か訊いていた。しかしこのセリフはものすごく理論的でもある)、ニコラとしてもやりきれなくなるだろう。

ふくれっ面で結婚式を通したらしいマリーに、今度はニコラがあたって、夜の街に飛び出していく。着信履歴があったからとカフェに女性を呼びだし、結局何もなかったのだが、ホテルに戻ったら夜明けになっていた。

眠れなかったというマリーと帰ったニコラの会話は、自由を感じたかったというニコラと何年も孤独だったというマリーの、もう刺々しくはない穏やかな、でも接点のないものだ。

マリーはその日、2日続けで来たロダン美術館で、古い友達のパトリック(アレックス・デスカス)に声をかけられる。娘を連れてきている彼に妻を亡くした話を聞き涙するマリー。流れがうまく読めないのだが、それにしてもこの涙には危うさを感じないではいられない。

なにしろ、場面の空気はわかっても映画は説明することをしないから、観客は自分に引きつけて考えるしかなくなるのだが、とはいえニコラは建築家でマリーは写真家だったらしいし、なにより裕福そうだから、私などそう簡単には映画に入っていけない。少なくともニコラが離婚を言い出した理由くらいは明らかにしてくれないと、もやもやするばかり(でもこれで十分という見方もできるのが人間関係のやっかいさかも)。また、説明は排除しても俳優の個性は残るから、普遍性を持たせた(かどうかは知らないが)ことにもならないと思うのだが。

マリーが別に部屋をとったからか、自分の知らない旧友に会ったからかどうか、ニコラがマリーにキスの雨を降らせる場面があるのだが、ベッドに移りながら何故かそれはそこで中断となって、ニコラはマリーに、明日はボルドーに行くから1人で帰ってと言われてしまう。

次の日駅にやって来た2人はホームで見つめ合う。荷物は乗せたのに、いつまでも見つめ合っているものだから、列車は行ってしまうのだ。で、ふふとか言って笑いだすのだけど、いやもう勝手にしてくれという感じ。

『不完全なふたり』は原題だと『完全なふたり』のようだけど、これはどっちでも大差ないということか。だったら「完全な」の方がよくないか。「私たち何をしたの? 何をしなかったの?」という問いかけを、あんな笑いにかえられるんだもの。これ以上の完全はないでしょ。

ところでびっくりしたことに、監督はフランス語がほとんどわからないのだそうだ。公式ページのインタビューでそう答えている(http://www.bitters.co.jp/fukanzen/interview.html
)。「もし全能の立場を望むのであればこの映画をフランスで撮りはしなかった」とも。なるほどね、やはりそういう映画なんか。しかし私としては、監督はあくまで全能であってほしいと思うのだけどね。

原題:Un Couple Parfait

2005年 108分 ビスタサイズ フランス 日本語字幕:寺尾次郎 製作:コム・デ・シネマ、ビターズ・エンド 配給:ビターズ・エンド

監督:諏訪敦彦 プロデューサー:澤田正道、吉武美知子 構成:諏訪敦彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 衣裳:エリザベス・メウ 編集:ドミニク・オーヴレ、諏訪久子 音楽:鈴木治行

出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(マリー)、ブリュノ・トデスキーニ(ニコラ)、アレックス・デスカス(パトリック)、ナタリー・ブトゥフー(エステール)、ジョアンナ・プレイス(ナターシャ)ジャック・ドワイヨン(ジャック)、レア・ヴィアゼムスキー(エヴァ)、マルク・シッティ(ローマン)、デルフィーヌ・シュイロット(アリス)

ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

眉山

2007/05/29 109 ★★

■かっこいい母であってくれたなら(願望)

母の死に至る数ヶ月を娘の目で綴った作品。

32歳の河野咲子(松嶋菜々子)は母の龍子(宮本信子)が入院したという知らせを受けて東京から徳島へ帰る。慌ただしく着いた病室からは、龍子の看護師の仕事ぶりに対する叱責が聞こえてきて、咲子はいきなりイヤな気分になる。

神田生まれの江戸っ子の龍子は、徳島に来てからは小料理屋を切り盛りしながら、女手ひとつで咲子を育ててきた。気っぷがよくて分け隔てのない性格でファンの多い龍子だが、その遠慮のない物言いで衝突することも少なくなかった。娘にとってはそれが耐えられないのだ。

この母を見る娘の視点は大いにうなずけるもので、この場面に親近感を持った人は多いのではないか。ただずるいのは、龍子がちょっとかっこよすぎることだろうか。私の母も龍子と少しながら似た要素を持っているのだが、遙かに年上で、だから加齢による偏狭さも加わっていて(じゃないのかなー。もともとの性格かしらね)、そしてその息子である私も映画の咲子ほどには母のことを本心から考えていないから、それは納得なんだけど。

話がだいぶそれてしまったが、そもそもそういう想いを抜きにしては観られない映画で、作り手もそれを意識していると思われるところがある。映画という完成度は低くなるが、それでもいいかなという、割り切りが感じられるのだ。

咲子は東京でひとりながらちゃんと生活しているキャリアウーマンである。旅行代理店の企画という仕事の厳しさを導入できっちり描いているのに、一旦徳島に帰ってしまうと、会社に連絡をとっている場面こそあるものの、もうそのあとは仕事のことなどすっかり忘れてしまったかのようなのだ。余分と思われるものは思いきって削ぎ落として、母と娘に直接関係するものだけに絞り込んでいるのである。

この母娘は「仕事は女の舞台」(これは龍子のセリフ)と考えていて手を抜かないし(だから仕事の場面が最初だけというのがねー)、互いに相手を頑固と思っていそうだし、やはり似ているのだろう。だから余計父のこととなると素直にはなれず対立してしまうのかもしれない。咲子はかすかに記憶のある父に会いたくて仕方のない時期があったのだが、母には死んだと言われていたのだ。お父さんとは結婚していないけれど、大好きな人の子だからお前を産んだ、と。

そう言われてそのまま長い年月が経ってしまっていたが、龍子の店の元板前で今も信頼関係にある松山(山田辰夫)から、死後渡すように言われていた「遺品」を受け取り、そこにあった篠崎孝次郎(夏八木勲)という男からの手紙の束を読んで、その男が父で、多分まだ生きていることを確信する。

思い切って問いただすと、龍子はお互い様だと言う。咲子が末期ガンを告知しないでいることを知っていたのだ。

映画とはいえ、2人の関係は羨ましい。龍子は、人様の世話にはなりたくないと車椅子に乗ることを拒否したり、人形浄瑠璃では客席で舞台に合わせて小さいとはいえ声を出したり、我が儘な部分も見せるのだが、私の母もこれくらいなんだったら許しちゃうんだけどな(あれ、また自分のことを書いてるぞ)。

咲子が東京に戻って父を訪ねたり、病院の医師寺澤大介(大沢たかお)と恋人になっていく過程を織り込みながら、しかし情報量としては最小限にとどめているため、観客は自分の中にある母への想いという個人的な感情を思い出しながら映画を観ることができるのだ(弁解してやんの)。

そうして映画は、2つの見せ場を用意する。1つは阿波踊りの中での母と父との再会だ。迫力ある阿波踊りが繰り広げられているところを横断する咲子という暴挙もあれば、そもそもこんな混乱の中で出会うという設定自体がボロいのだが、ここでも阿波踊りを隔てた遠景で篠崎と再会を果たした龍子が寺澤に「そろそろ帰りましょうか。十分楽しませてもらったから」というセリフが爽快で、まあいいかという気持ちになる。

2つ目は、龍子が死んで2年後に、献体依頼時に龍子が書いていたメッセージを咲子が読む場面。「娘河野咲子は私の命でした」と書かれたその紙は、本来医学生宛のもので、咲子が読むべきものではないという説明がすでにされていて、この抜け目のなさは感涙度を高めている。

献体はこの作品のもう1つのテーマで、咲子の父が医師であることが龍子に献体をさせたのだし、彼女が咲子の相手の寺澤医師に信頼を寄せた(むろん軽はずみな失言に対してすぐ詫びを入れてきたという部分が大きかったのだろうが)理由があるというわけだ(医学や医師への理解は、篠崎への愛の揺るぎなさからきているはずだから)。

流れであまりけなしていないが、全体として説明不足なのは否めない。30年ぶりに徳島に帰ってきたのだから篠崎にだってもっと語ってもらいたいところだが、語らせたら結局はどこにでもある不倫話にしかならないと逃げてしまっていては、映画にいい点はあげられない。

なのに、こんなダメ映画に泣いてしまった私って……。

   

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:犬童一心 原作:さだまさし『眉山 -BIZAN-』 脚本:山室有紀子 撮影:蔦井孝洋 美術:瀬下幸治 編集:上野聡一 音楽:大島ミチル 主題歌:レミオロメン『蛍』 照明:疋田ヨシタケ 録音:志満順一
 
出演:松嶋菜々子(河野咲子)、宮本信子(河野龍子)、大沢たかお(寺澤大介)、夏八木勲 (篠崎孝次郎)、円城寺あや(大谷啓子)、山田辰夫(松山賢一)、黒瀬真奈美(14歳の咲子)、永島敏行(島田修平)、中原丈雄(小畠剛)、金子賢(吉野三郎)、本田博太郎(綿貫秀雄)

俺は、君のためにこそ死ににいく

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★

■靖国で会おう

戦争について語るのは気が重い。ましてや特攻となるとなおさらで、まったく気が進まないのだが……(実は映画もそんなには観たくなかった)。

この映画の最大の話題は、やはり製作総指揮と脚本に名前の出る石原慎太郎だろう。タカ派として知られる石原が戦争映画を作れば、戦争肯定映画になると考える人がまだいるようだが、それはあまりに短絡すぎる。新聞の読者欄にもそういう投書を見かけたが、的外れで自分の結論を押しつけたものでしかなく、かえって見苦しさを感じた。

私は石原嫌いだが、しかし石原であっても特攻を正面から描いたら、真反対の立場の人間が作ったものとそう違ったものは出来まいと思っていたが、この想像は外れてはいなかった。ちゃんとした反戦映画になっているのである。

といって映画として褒めらるものかどうかはまったく別の話で、まあ凡作だろう。

太平洋戦争末期に陸軍の特攻基地となった鹿児島県の知覧。基地のそばの富屋食堂の女将鳥濱トメは、若い特攻隊員たちから母と慕われていた。生前の彼女から話を聞く機会を得た石原が長年あたためてきた作品ということもあって、彼女を中心にした話が大部分を占める。が、何人もの挿話を配したそれは、やはりとりとめのないものになってしまっていた。

何度も出撃しながら整備不良や悪天候で帰還せざるを得ず、最後は本当に飛び立った直後に墜落してしまう田端(筒井道隆)、長男故に父親に特攻を志願したことを言えず、トメ(岸惠子)に父(寺田農)への伝言を頼みにくる板東(窪塚洋介)、朝鮮人という負い目を持ちながらトメの前ではアリランを歌って志願し出撃して行った金山(前川泰之)など、どれもおろそかに出来ない挿話ながら、逆に焦点が絞りきれていない。

そこに、この特攻作戦を立案した大西中将(伊武雅刀)などの特攻を作戦にしなければならなかった事情などもとりあえずは入れて、となっているからよけいそうなってしまう。また、先の挿話も、映画にすることで私などどうしても鬱陶しさを感じざるをえないし、だれてしまうのである。

そうはいっても私の観た映画館では館内の至るところで啜り泣きの声がもれていたから、多くの観客の心に訴えていたのだろうと思われる。

ただ、最後にある、先に特攻で死んでいった人たちが生き残って軍神から特攻くずれになった中西(徳重聡)を出迎える演出や、蛍になって帰ってくるといっていた河合(中村友也)の挿話などは、やはり古臭いとしか思えない。それがトメから聞いた話そのままだとしても、映画にするにはもう一工夫が必要ではないか。

この映画に石原らしさがあるとすれば「靖国で会おう」だろうか(「靖国で待ってる」というセリフもあった)。ある時期まで戦争映画では「天皇陛下万歳」と言いながら兵士は死んでいったらしい(そう言われるとそうだったような)。しかしそれは嘘で「お母さん」と言っていたのだと誰かが批判し(誰なんだろ)、そうだそうだとなったようだが、本当にそうなのか。というより、どちらにも真実があって、それをとやかくいってもはじまらない気がする。それに、死ぬ時に本心を言うかといえば、人間はそんなに単純なものでもないだろうから。

ではあるが、「靖国で会おう」となると話は少し違ってくる。もちろんこれだって否定はしないが、中国や韓国からいろいろ言われるのが石原としては癪なんだろう。ま、私などはそもそも無神論者であるし、靖国神社自体にどうこういう思い入れもないので、靖国参拝問題以前からあっさりしたものなのだが、とはいえ、これについては書き出すと長くなるのでやめておく。

やはりここはせっかく鳥濱トメに焦点を当てたのだから、彼女の目線だけで特攻を語ってほしかった。いままでにも何度か映画にも登場している大西中将などをもってきて概要を述べさせるよりは、庶民にとって特攻がどういうふうに認知されていたかだけを描くだけでも(そうすれば何を知らされなかったかもわかる)、十分映画になったと思うのだ。

でなければ、逆に戦後明らかになった統計データで、特攻の犬死度の高さ(成功率の低さ)をはっきりさせるか、富永恭次陸軍中将のような敵前逃亡将校による特攻作戦があったことなどを描くというのはどうだろうか。

ところで『俺は、君のためにこそ死ににいく』という題名もなんだかあやふやだ。ここにある「君」は何で、映画の中にあったのかどうか。

 

【メモ】

VFX場面は上出来。本物の設計図から作ったという隼も大活躍していた。

2007年 140分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:新城卓 製作総指揮:石原慎太郎 企画:遠藤茂行、高橋勝 脚本:石原慎太郎 撮影:上田正治、北澤弘之 特撮監督:佛田洋 美術:小澤秀高 音楽:佐藤直紀 主題歌:B’z『永遠の翼』 監督補:中田信一郎
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出演:岸惠子(鳥濱トメ)、徳重聡(中西正也少尉)、窪塚洋介(板東勝次少尉)、筒井道隆(田端絋一少尉)、多部未華子(鳥濱礼子/トメの娘)、前川泰之(金山少尉)、中村友也(河合惣一軍曹)、渡辺大(加藤伍長)、木村昇(安部少尉)、蓮ハルク(松本軍曹)、宮下裕治(石倉伍長)、田中伸一(荒木少尉)、古畑勝隆(大島茂夫)、中越典子(鶴田一枝)、桜井幸子(板東寿子)、戸田菜穂(田端良子)、宮崎美子(河合の母)、寺田農(板東真太次)、勝野雅奈恵(鳥濱美阿子)、中原丈雄(憲兵大尉)、遠藤憲一(川口少佐)、江守徹(田端由蔵)、長門裕之(大島の祖父)、石橋蓮司(鶴田正造)、勝野洋(東大佐)、的場浩司(関行男海軍大尉)、伊武雅刀(大西瀧治郎中将)

プレステージ

新宿厚生年金会館(試写会) ★★

■手品はタネがあってこそ

100年前ならいざ知らず(ってこの映画の舞台は19世紀末なのだが)、手品というのはタネも仕掛けもあって、それはわかっていながら騙されることに快感があると思うのだが、この映画はそれを放棄してしまっている。

巻頭に「この映画の結末は決して誰にも言わないで下さい」と監督からのことわりがあるが、そりゃ言いふらしはしないけど(もちろんここはネタバレ解禁にしているので書くが)、そんな大した代物かいな、という感じなのだ。

売れっ子奇術師のアルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベイル)が、同じ奇術師で長年のライバルだったロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)を殺した容疑で逮捕される。

ボーデンとアンジャーは、かつてミルトンという奇術師の元で助手をしていた間柄だったが、舞台でアンジャーの妻であるジュリア(パイパー・ペラーポ)が事故死したことで、2人は反目するようになる。水中から脱出する役回りになっていたのがジュリアで、彼女の両手を縛ったのがボーデンだったのだ。

このハプニングにあわてて水槽を斧で割ろうとするのがカッター(マイケル・ケイン)。彼は奇術の考案者で、この物語の語り部的存在だが、映画は場面が必要以上に交錯していて、まるで作品自体を奇術にしたかったのかしら、と思うような作りなのだ(ここまでこね回すのがいいかどうかは別として、そう混乱したものにはなっていないのは立派と褒めておく)。

アンジャーの復讐心は、ボーデンが奇術をしている時に、客になりすましてボーデンを銃撃したりと、かなり陰湿なものだ。アンジャーの気持ちもわからなくはないが、ボーデンにしてみれば奇術師としては命取りとなりかねない左手の指を2本も失うことになって、こちらにも憎しみが蓄積されていくこととなる。しかも2人には奇術師として負けられないという事情もあった(このあたりは奇術が今よりずっと人気があったことも考慮する必要がある)。

ボーデンはサラ(レベッカ・ホール)と出会い家庭を築いて子供をもうけるのだが、アンジャーにとってはそれも嫉妬の対象になる。ボーデンの幸せは、「僕が失ったもの」だったのだ。アンジャーは、敵のトリックを調べるのもマジシャンの仕事だからと、オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)という新しい弟子を、ボーデンのもとに送り込み、彼の「瞬間移動」の秘密を探ろうともする。

オリヴィアにボーデンの日記を持ち出させ、それをアンジャーが読むのだが、映画は、物語のはじめで捕まったボーデンも刑務所で死んだアンジャーの日記を読むという、恐ろしく凝った構成にもなっている。しかしこれはすでに書いたことだが、そういう部分での脚本は本当によくできている(ただ、ジュリアの死についてのボーデンの弁明はわからない。こんなんでいいの、って感じがする。ジュリアとボーデンで目配せしてたしねー、ありゃ何だったんだろ)。

ボーデンの「瞬間移動」は、実は一卵性双生児(ファロン)を使ったもので、ここだけ聞くとがっかりなんだが、ボーデンは奇術のために実人生をも偽って生きていて、このことは妻のサラにも明かさずにきたという。しかしサラは彼の2重人格は嗅ぎ取っていて(すべて知っていたのかも)、結局ボーデンが真実を語ろうとしないことで自殺してしまう。

ボーデンとファロンの2人は、愛する対象もサラとオリヴィアというように使い分けていたというのだが、いやー、これはそういうことが可能かどうかということも含めて、この部分を取り出して別の映画にしたくなる。それとか、オリヴィアの気持ちにもっと焦点を当てても面白いものが出来そうではないか。

アンジャーの「瞬間移動」も、オリヴィアから紹介された売れない役者のルートを替え玉にしたものだから、タネは似たようなものなのだが、当然ボーデンの一卵性双生児にはかなわず、アンジャーはトリックが見破れずに焦るというわけだ。ルートの酒癖は悪くなるし、アンジャーを脅迫しだしてと、次第に手に負えなくなりもする。

で、最初の方でアンジャーがのこのことコロラドのスプリングスまで発明家のニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)を訪ねて行った理由がやっとわかる。このきっかけもボーデンの日記なんだけど、でもこのことで嘘から誠ではないが、アンジャーは本物の「瞬間移動」を手に入れることになる。

テスラの発明品は、別の場所に複製を作るというもの(物質複製電送機?)で、瞬間移動とは意味が違うのだが、奇術の応用にはうってつけのものだった。って実在の人物にこんなものを発明させちゃっていいんでしょうか。それにこれは禁じ手でしかないものねー。いくらその機械を使ってボーデンを陥れようが(彼に罪を着せるのは難しそう)、またその機械を使用することで、複製された方のアンジャーが自分の元の遺体を何人も始末する、理解を超えた痛ましい作業を経験することになる、という驚愕の物語が生み出せるにしてもだ。

この結末(機械)を受け入れられるかどうか、は大きいが、でもそれ以上に問題なのが、復讐に燃えるアンジャーにも、嘘を重ねて生きていくしかなかったボーデンにも感情移入できにくいことではないか。

〈070710 追記〉「MovieWalkerレポート」に脚本家の中村樹基による詳しい解説があった。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4897.html
サラに見せたマジックの謎はわからなかったけど、そうだったのか。ただ、映画としては説明しきれていないよね、これ。他にも(これと関連するが)ボーデンがいかに実生活で、いろいろ苦労していたかがわかるが、やはり映画だとそこまで観ていくのは相当大変だ。

そして、私がすっきりしないと感じていたジュリアの死についてのボーデンの弁明。なるほどね。でもこれこそきちんと映画の中で説明してくれないと。

あと、ルートの脅迫はボーデンのそそのかしにある、というんだけど、観たばかりなのにすでに記憶が曖昧なんでした。そうだったっけ。

【メモ】

原作は世界幻想文学大賞を受賞を受賞したクリストファー・プリーストの『奇術師』。

冒頭でカッターによるタイトルに絡んだ説明がある。1流のマジックには3つのパートがあって、1.プレージ 確認。2.ターン 展開、3.プレステージ 偉業となるというもの。

原題:The Prestige

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:菊池浩司

監督:クリストファー・ノーラン 製作:クリストファー・ノーラン、アーロン・ライダー、エマ・トーマス 製作総指揮:クリス・J・ボール、ヴァレリー・ディーン、チャールズ・J・D・シュリッセル、ウィリアム・タイラー 原作:クリストファー・プリースト『奇術師』 脚本:クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター プロダクションデザイン:ネイサン・クロウリー 衣装デザイン:ジョーン・バーギン 編集:リー・スミス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:ヒュー・ジャックマン(ロバート・アンジャー/グレート・ダントン)、クリスチャン・ベイル(アルフレッド・ボーデン/ザ・プロフェッサー)、マイケル・ケイン(カッター)、スカーレット・ヨハンソン(オリヴィア)、パイパー・ペラーボ(ジュリア・マッカロー)、レベッカ・ホール(サラ)、デヴィッド・ボウイ(ニコラ・テスラ)、アンディ・サーキス(アリー/テスラの助手)、エドワード・ヒバート、サマンサ・マハリン、ダニエル・デイヴィス、ジム・ピドック、クリストファー・ニーム、マーク・ライアン、ロジャー・リース、ジェイミー・ハリス、ロン・パーキンス、リッキー・ジェイ、モンティ・スチュアート

歌謡曲だよ、人生は

シネマスクエアとうきゅう ★★

■オムニバスとしては発想そのものが安直

[オープニング ダンシング・セブンティーン(歌:オックス)] 阿波踊りの映像で幕が開く。

[第一話 僕は泣いちっち(歌:守屋浩)] 東京が「とんでもなく遠く」しかも「青春は東京にしかな」かった昭和30年代の北の漁村から沙恵(伴杏里)を追うようにして真一(青木崇高)も東京に出るが、歌劇部養成所にいる沙恵は彼に冷たかった。ボクシングに賭ける真一。が、2人には挫折が待っていた。設定も小道具も昔の映画を観ているような内容で、作り手もそこにこだわったのだろうが、それだけの印象。

[第二話 これが青春だ(歌:布施明)] エアギターに目覚めた大工見習いの青年(松尾諭)が、一目惚れした施工主の娘(加藤理恵)を、出場することになったエアギター選手権に招待する。しかし、掃除のおばさんのモップが偶然にも扉を押さえたことで、青年は会場のトイレから出られなくなり、娘にいい格好を見せることが出来ずに終わる(公園でも閉じこめられてしまうという伏線がある)。選手権の終わった誰もいない舞台で1人演じ、掃除のおばさんに拍手してもらって、これが青春だ、となる。エアギター場面で『これが青春だ』の元歌がかかるわけではないから、題名オチの意味合いの方が強い。これも皮肉か。

[第三話 小指の想い出(歌:伊東ゆかり)] 中年男(大杉漣)が若い娘(高松いく)とアパートで暮らしているというどっきり話だが、実はその娘はロボットだった。うーん、それにこれはとんでもなく前に読んだ江口寿のマンガにあったアイディアと同じだし、イメージでも負けているんではないかと。

[第四話 ラブユー東京(歌:黒沢明とロス・プリモス)] 原始時代から現代の渋谷に飛ぶ、わけわからん映画。石を彫っている男に惚れた女。渋谷にいたのもその太古の昔に噴火で別れた2人なのか。つまらなくはないが、もう少し親切に説明してくれないと頭の悪い私にはゴマカシとしか受け取れない。

[第五話 女のみち(歌:宮史郎)] 銭湯のサウナ室に入ってきたヤクザ(宮史郎)が『女のみち』を歌っていて歌詞が出てこなくなり、学生(久野雅弘)を無理強いして一緒に歌詞を思い出させようとする。ヤクザには好きな女がいて、刑務所にいた6年間、週2回も来てくれたので彼女の誕生日に歌ってやりたいのだという。いやがっていた学生もその気になって……。最後は思い出した歌詞を銭湯にいる全員で歌う。さっぱりとした気分になって外に出ると、そこには和服姿の女がいて、「待たせたな」と声をかけたヤクザと一緒に去っていく。当の歌手に、歌詞が思い出せなくなるというギャグをやらせているのも面白いが、とにかく必死で歌詞を思い出そうと、いや、コメディを作ろうとしているのには好感が持てた。

[第六話 ざんげの値打ちもない(歌:北原ミレイ)] 不動産屋の女(余貴美子)がアパートに若い男を案内してくる。それをバイクに乗った若い女が遠くから見ている。女は2人に自分の過去を重ね合わせているのだろうか。そこへ昔の男が訪ねてきて、海岸の小屋で乱暴されたことで、男を刺してしまう。アパートに戻ると、若い女が自分と同じような行動をとろうとしていて、女はそれを押しとどめる。雰囲気は出ているんだけど、やはり省略された部分が知りたくなる。

[第七話 いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー(歌:荒木一郎)] デザイン会社に勤める沢口良子(久保麻衣子)は、今日も3人の同僚の女に地味だとか存在が無意味と因縁をつけられていた。いじめはエスカレートし、屋上で服を剥ぎ取られてしまう。それを見ていた一郎(武田真治)の思いが爆発する。真っ赤な服を持って下着姿の女の所に駆けつけ、好きなんだと言ったあと、公園(なんで公園なんだ)で制作中のポスター(だっせー)を検討をしている同僚たちに「君たち、沢口さんに失礼なんだよ」と言いながら殴り(ついでに上司の男も)、全員を血祭りに上げてしまう。蛭子能収監督のマンガ(も画面に入る)そのものといった作品。映画も自分のマンガと同じ作風にしているのはえらい(だからマンガのカットはいらないでしょ。ちょっとだが、この分だけ遠慮してたか)。

[第八話 乙女のワルツ(歌:伊藤咲子)] 喫茶店のマスター(マモル・マヌー)が1人で麻雀ゲームをしていると、常連が女性とやって来て彼女だと紹介する。女性に昔の彼女の面影をみ、バンドを組んでいた遠い昔の「つらいだけだった初恋」を思い出す。彼が心惹かれていたリカは若くして死んでしまったのだ。昔の想いにひたっていたマスターだったが、女房の声に現実に引き戻される。凡作。というかこのひねりのなさが現在のマスターそのものなんだろう。

[第九話 逢いたくて逢いたくて(歌:園まり)] これはちゃんとした映画になっていた。カラオケ用映像ではないのだから、他もこのくらいのレベルで勝負してほしいところだ。アパートに越してきたばかりの鈴木高志(妻夫木聡)は、ゴミ置き場から文机を拾ってくるが、これは前の住人五郎丸(ベンガル)が粗大ゴミとして出したものだった。妻の恵美(伊藤歩)に止められながらも、高志は引っ越しの手伝いにきた仲間と、机の中にあった大量の手紙を読んでしまう。手紙は梅田さち子という女性に五郎丸が出したもので、宛先不明で戻ってきてしまったものだった。みんなで、こいつはストーカーだと決めつけたところにその五郎丸が挨拶をしておきたいとやってきて、机をあわてて隠す高志たち……。前の住人と引っ越してきた人間は普通顔を会わせることはないだろうと思うのだが、でもこの場面はおっかしい。ウーロン茶をごちそーになったお礼を言って、思い出が多すぎてつらいという場所から、五郎丸はやってきたトラックで去って行くのだが、入れ違いで梅田さち子からの葉書が舞い込み、全員で五郎丸を追いかけるという感動のラストシーンになる。この追っかけが気持ち長いのだけど、尺がないながらうまくまとめている。

[第十話 みんな夢の中(歌:高田恭子)] 同窓会に集まった人たちが小学校の校庭で40年前のタイムカプセルを掘り出す。思い出の品に混じって8ミリフィルムも入っていた。遅れてやって来た美津江(高橋惠子)も一緒になって、さっそく上映会が開かれる。案内役のピエロから演出まで、すべてにうんざりしてしまう内容と構成だった。

[エンディング 東京ラプソディ(歌:渥美二郎)] 藤山一郎でないとしっくりこないと思うのは人間が古いのか。瀬戸朝香扮のバスガイドと一緒にはとバスで東京をまわる。歌詞付き画面だから完全にカラオケ映像だ。

 

2007年 130分 ビスタサイズ PG-12 配給:ザナドゥー

製作: 桝井省志 プロデューサー:佐々木芳野、堀川慎太郎、土本貴生 企画:沼田宏樹、迫田真司、山川雅彦 音楽プロデューサー:和田亨
[オープニング]撮影:小川真司、永森芳伸 編集:宮島竜治
[第一話]監督・脚本:磯村一路 撮影:斉藤幸一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:青木崇高、伴杏里、六平直政、下元史朗
[第二話]監督・脚本:七字幸久 撮影:池内義浩 編集:森下博昭 音楽:マーティ・フリードマン、荒木将器 出演:松尾諭、加藤理恵、池田貴美子、徳井優、田中要次
[第三話]監督・脚本:タナカ・T 撮影:栢野直樹 編集:森下博昭 出演:大杉漣、高松いく、中山卓也
[第四話]監督・脚本:片岡英子 撮影:長田勇市 編集:宮島竜治 出演:正名僕蔵、本田大輔、千崎若菜
[第五話]監督・脚本:三原光尋 撮影:芦澤明子 編集:宮島竜治 音楽:林祐介 出演:宮史郎、久野雅弘、板谷由夏
[第六話]監督・脚本:水谷俊之 撮影:志賀葉一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 出演:余貴美子、山路和弘、吉高由里子、山根和馬
[第七話]監督・脚本:蛭子能収 撮影:栢野直樹 編集:小林由加子 音楽:林祐介 出演:武田真治、 久保麻衣子、インリン・オブ・ジョイトイ、矢沢心、希和、長井秀和
[第八話]監督・脚本:宮島竜治 撮影:永森芳伸 美術:池谷仙克 編集:村上雅樹 音楽:林祐介 音楽:松田“ari”幸一 出演:マモル・マヌー、内田朝陽、高橋真唯、山下敦弘、エディ藩、鈴木ヒロミツ、梅沢昌代
[第九話]監督・脚本:矢口史靖 撮影:柴主高秀 編集:森下博昭 出演:妻夫木聡、伊藤歩、ベンガル、江口のりこ、堺沢隆史、寺部智英、小林トシ江
[第十話]監督・脚本:おさだたつや 撮影:柴主高秀 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:高橋惠子、烏丸せつこ、松金よね子、キムラ緑子、本田博太郎、田山涼成、北見敏之、村松利史、鈴木ヒロミツ
[エンディング]監督・脚本:山口晃二 原案:赤松陽構造 撮影:釘宮慎治 編集:菊池純一 出演:瀬戸朝香、田口浩正

恋しくて

テアトル新宿 ★★

■どこが「恋しくて」なんだろう

幼なじみだった比嘉栄順(東里翔斗)と宮良加那子(山入端佳美)は高校に入って再会、加那子の兄清良(石田法嗣)の発言で、島袋マコト(宣保秀明)も一緒になってみんなでバンドを組むことになる。思いつきのように始まったバンドだが、同級生の浩も加わって自分たちの企画したバンド大会で優勝し、プロデビューの話が持ち上がる。

よくある話ながら、東京に行ってからのことはほとんど付け足しで、あくまでも主役は沖縄(石垣島)と言いたげな構成だ。「これが沖縄」という風景の中で、高校生たちがバンドに熱中していく様子がなんとも楽しい。沖縄だったら山羊も牛も喋りそうな気にもなるし(喋る演出が入るのだ)、恋も底抜けに明るくて、だから困ったことに恋という感じがしないのである。普通に生活しているうちに、自然に相手といることが多くなって、みたいな流れなのだ。

そのことは当人たちも感じたらしく、栄順は加那子に2人が付き合っているかどうかを確認する場面があるのだが、これがとてもいい。高校生にもなって清良と屁こき合戦までやってのけてしまう加那子のキャラが伸びやかで、でも堂々としているとまではいかなくて、仰天場面を見ても栄順にとっては恋の対象であり続けたのだと思わせるものを持っているのである。

ただバンドが東京に出ていくことになってやってくる2人の別れになると、それが加那子からの一方的な手紙ということもあって、まったくの説明口調になってしまっている。普通の恋物語にある出会いのときめき度が薄かったからという理由がここにもあてはまるのかもしれないが、でもそれだと何のためにずーっと2人(とバンド活動)を描いてきたのかがわからなくなってしまう。別れても「恋しくて」しかたがないのは、はっきりそう言っているのだからそうなのだろうが、やはり言葉ではなく映画的なものでみせてほしいのだ。

結局、BEGINのデビュー曲の「恋しくて」をタイトルに使ってしまったのがよくなかったのではないか。どうしてもそういう目でみてしまうもの。最後に主人公たちのライブ場面は、BEGINの新曲「ミーファイユー」の演奏場面にとってかわる。ようするに、そういう映画なのだろう。しかし私としては、イベントに登場してきた80年代のヒット曲や山本リンダにピンキラを歌う個性溢れる高校生バンドの熱演(しかしなんで古い曲ばかりなんだ)の方が楽しかったのだ。

加那子の家族についての挿話がどれもバラバラなのも気になった。清良が父探しの旅で、父の残した楽譜を見つけて帰るのだが、加那子が4歳の時に父が家出して(清良によって旅先の山で崖から落ちたことがわかる)以来、歌が歌えなくなっていたということにはあまり繋がってこない。

また、母のやってきたバーの仕事(経営者で歌手でもある)や、祖母の美容院の実体のなさは何なのだろう。清良がピアニスト代わりったって、それは最近だろうし、その清良がいなくなったからってバーを閉じるというのもとってつけた話のようで、このバーは与世山澄子に歌を歌わせたかっただけの装置にしかなっていないのだ。石垣島の大らかさといってしまえばそれまでなのだろうが、客を無視した美容院というのもねー。母と祖母の接点がないことも印象をバラバラなものにしてしまったのではないか。

 

2007年 99分 ビスタサイズ

監督・脚本:中江裕司 製作:松本洋一、松崎澄夫、渡辺純一、廣瀬敏雄、松下晴彦 プロデューサー:姫田伸也、新井真理子、町田純 エグゼクティブプロデューサー:大村正一郎、相馬信之 原案:BEGIN 撮影:具志堅剛 美術:金田克美 衣装デザイン:小川久美子 編集:宮島竜治 音楽監督:磯田健一郎 主題歌:BEGIN『ミーファイユー』 ラインプロデューサー:増田悟司 照明:松村志郎 整音:白取貢 録音:白取貢 助監督:瀬戸慎吾
 
出演:東里翔斗(比嘉栄順)、山入端佳美(宮良加那子)、石田法嗣(宮良清良)、宜保秀明(島袋マコト)、大嶺健一(上地浩)、与世山澄子(宮良澄子)、吉田妙子、國吉源次、武下和平、平良とみ(おばぁ)、三宅裕司、BEGIN

さくらん

銀座テアトルシネマ ★★

■鮒に戻ってしまいそうだ

8歳で吉原の玉菊屋に売られ、きよ葉(小池彩夢→土屋アンナ)と名付けられた遊女の物語。

脱走を繰り返すきよ葉は、店番の清次(安藤政信)になだめられ、花魁の粧ひ(菅野美穂)には花魁としての生き方を教えられる。初めての客は高尾花魁(木村佳乃)の馴染みのご隠居(市川左團次)で、きよ葉はすぐ玉菊屋の人気者になるが、惣次郎(成宮寛貴)と恋に落ちる。

客の浮世絵師、光信(永瀬正敏)の気持ちまできよ葉に向いていることことを知った高尾は、きよ葉と惣次郎の仲を裂く策略に出る。騒動となって、きよ葉はまた清次になだめられるが、高尾は悲惨な運命を選ぶ。

日暮という玉菊屋を背負って立つ花魁になったきよ葉は、大名の倉之助(椎名桔平)に見初められる。日暮のためどこまでも尽くす倉之助だったが、日暮が選んだのは、気が付くといつも自分を励ましてくれていた清次だった……。

椎名林檎の曲が舞う極彩色の映像の中にヤンキーを放り込んだ吉原を再現してみせた演出に、そう違和感がないのは褒めていいが、でもそのことで、例えば何で大門の上に金魚がいるんだとか、え、なにこの言葉、でも目くじら立てるほどではないかとか、そっちの方ばかりに気が向いてしまって(悪くはないんだけどさ)、緊張感のない話がよけい間延びしてしまったようだ。

きよ葉は最初、花魁になることを恐れていた。そんなきよ葉に粧ひは「金魚は3代で鮒にかえってしまう。美しくいられるのはビードロの中だけ」で遊女も同じと諭す。そして自らは金持ちに身請けされ、真っ当な方法で吉原から出ていく。が、粧ひは自分が羨望の目で見られる別の意味も当然知っていた。だからきよ葉に「人より多くもらう者は、より多く憎まれる」と言って簪を与えたのだ(後にきよ葉も同じことをするのだが、これはあまり意味のある場面になっていない)。

きよ葉にとっては、大切なのはてめえの足で吉原を出ることだから、身請けにはそんなに大きな意味はない。もっとも初恋の惣次郎にはそう言ってほしかったのだろうが。自分の初恋と高尾の純愛の末路を見て吹っ切れたのか、自力での足抜けが宙に浮いたようになってしまう。

「やなもんはやなだけ」と言い切れる実力をもって、楼主(石橋蓮司)や女将(夏木マリ)とやりあえるのを見せつけられては、切実さも生まれない。倉之助のあれだけの思いをかわしていくのだって、あんまりいい気分じゃない。とはいえ、誰の子かわからぬ子を妊娠してしまうのがこの商売なのだろうし、楼主や女将に楯突けるのも口先だけなのだろう。

妊娠の身でもかまわぬと言う倉之助には同情しかけるが、しかし、まず前提として遊郭などに出入りして散財しているようなやつなのだ。ご隠居のことを通人として持ち上げるのもねぇ。ま、それは別の問題にしても、ともかく肩入れ出来る人間がいないのでは仕方がない。消去法というのもつまらないが、清次が日暮の相手になるのが妥当なところか。

となると最初に清次がきよ葉に、「この桜の木に花が咲いたらここから出してやる。あの桜は咲かないんだよ」と言っていたことをちゃんと説明してほしくなる。単純に考えれば、清次は足抜けなどできっこないと言っていただけではないか。だから最後に2輪咲かせてしまったのは、2人の気持ちの表明したのかもしれないが、私にはこれがいい加減に思えてしまったのだ。

いや、ご隠居にも「咲かない花はない」と言わせているし、倉之助も金の力で玉菊屋の庭を桜で一杯にして、そのことは説明しているか。しかし、それでも納得出来ないのは2人の気持ちが伝わってこないからだろう。

吉原を後にしたきよ葉と清次が楽しそうに菜の花畑を走り、桜の下を歩いていく。なのに鮒に戻ってしまいそうだと思ってしまった私は意地が悪いのかも。

「さくらん」というのは単純に「おいらん」+「さくら」と考えればいいのか。錯乱という要素はあまりなかったと思うが。

  

【メモ】

清次は玉菊屋の跡取りとなる手筈になっていて、楼主の姪との祝言が決まっていた。

きよ葉の妊娠に最初に気付いたのも清次。きよ葉は流産してしまう。

2007年 111分 ビスタサイズ PG-12

監督:蜷川実花 チーフプロデューサー:豊島雅郎 製作:寺嶋博礼、堤静夫、亀山慶二、工富保、山本良生、庄司明弘、那須野哲弥、中村邦彦、渡辺正純 プロデューサー:宇田充 、藤田義則 エグゼクティブプロデューサー:椎名保、山崎浩一、早河洋、五十嵐隆夫、水野文英、伏谷博之、廣瀬敏雄、石川治、石井晃 原作:安野モヨコ『さくらん』 脚本: タナダユキ 撮影:石坂拓郎 視覚効果:橋本満明 美術:岩城南海子 編集:森下博昭 音楽:椎名林檎 音楽スーパーバイザー:安井輝 スクリプター:小泉篤美 スタイリスト: 伊賀大介、杉山優子 音響効果: 小島彩 照明:熊谷秀夫 装飾: 相田敏春 録音: 松本昇和 助監督:山本透
 
出演:土屋アンナ(きよ葉/日暮)、安藤政信(清次)、椎名桔平(倉之助)、成宮寛貴(惣次郎)、木村佳乃(高尾)、菅野美穂(粧ひ)、永瀬正敏(光信)、石橋蓮司(楼主)、夏木マリ(女将)、市川左團次(ご隠居)、美波(若菊)、山本浩司(大工)、遠藤憲一(坂口)、小池彩夢(少女時代のきよ葉)、山口愛(しげじ)、小泉今日子(お蘭)、蜷川みほ(桃花)、近野成美(雪路)、星野晶子(遣手)、翁華栄(番頭)、津田寛治(粧ひの客)、長塚圭史(きよ葉の客)、SABU(床紅葉の客)、丸山智己(日暮の客)、小栗旬(花屋)、会田誠、庵野秀明、忌野清志郎、大森南朋、ゴリ〈ガレッジセール〉、 古厩智之、村松利史、渋川清彦

蒼き狼 地果て海尽きるまで

新宿ミラノ3 ★★

■内容以前で、どうにも恥ずかしい

どこの国の話でも英語で処理してしまうアメリカ映画の臆面のなさには辟易していたが、まさか同じことを日本の映画界がしでかすとは(大映が制作した『釈迦』という映画が大昔にあったが観ていない)。しかもいくら同じモンゴロイドとはいえ、日本人が主要キャストを独占していては、比較するのは無理ながら『SAYURI』の方がずっとマシではないか。韓国人のAraはいるが、モンゴル人ではないしね。といって何人かをモンゴル人にしていたら、かえっておかしなものが出来てしまっていただろう。

チンギス・ハーンには高木彬光の『成吉思汗の秘密』以前から成吉思汗=義経説というのがあって、日本人には馴染みが深いということも選ばれた理由の1つと思われるが、そうはいっても21世紀にもなって日本人による日本人のチンギス・ハーンというのは恥ずかしすぎる。

角川春樹は1990年にも『天と地と』で、似たようなことをしているが、あれはロケ地はカナダながら、あくまで日本の話だからその点では問題はなかった。ただ人海戦術映画という点では同じだ。『天と地と』は大味な映画だったが、人間の趣向というのはあまり変わらないようで、昔も今も大作好みなのだろう。好みの差は差し引いても、30億の制作費をかけるべき映画になっていたとは思えない。

確かにスケール感はアップしそれなりの臨場感は出てはいるが、戦闘場面全部が似たような印象では同じものを引用しているようで、ありがたみが少なくなってしまう。それにこういうのは、敵との位置関係、戦力、戦術などがわからないと盛り上がらないと思うのだが。

多数のエキストラを背景にしたチンギス・ハーンとなるテムジンの即位式に至っては、退屈なこともあるが、エキストラがモンゴル人だということを意識してしまうと、これはただただ恥ずかしいとしか言いようがない。

それには目をつぶっても、物語が全体に説明口調なのはいただけない。テムジン(反町隆史)が部族を統一し、金に勝ち、大帝国を築きあげていく流れはヘタな説明でもわかる。が、そこに至る戦いにどんな意味があったのかという部分が、ナレーションに頼りすぎていることもあって、いかにもお座なりな感じがしてしまうのだ。

少年時代にテムジンとかわした、生涯にわたり裏切らないという按達(あんだ)の誓いを、信頼の証ではなく裏切りを恐れる不信の証で、子供の遊びにすぎないと言い放つジャムカ(平山祐介)との宿命の戦いや、2人を巻き込んだ、モンゴルの大部族の長でテムジンの父イェスゲイ(保阪尚希)とは按達のトオリル・カン(松方弘樹)との関係もしかり。

ただ、母のホエルン(若村麻由美)だけでなく妻のボルテ(菊川怜)までもが略奪され、共に父親のわからない子を出産し、それが母の場合はテムジンであり、妻の場合はテムジンがよそ者という意味の名を付けたジュチ(松山ケンイチ)という話は巧妙だ。悲劇の主人公となるジュチの悲しみがかつてのテムジンの悩みに重なるし、そこには女性の視点も入っているからだ。

もっともこれはクラン(Ara)という、やはりはじめは敵ながらテムジンに寵愛される女兵士が登場することで、ボルテは消えたようになってしまうから、女性の視点など忘れてしまったかのようだ。私もクランにはクラクラしてしまったから、テムジンと一緒で、女性の気持ちなどいい加減にしか考えていないのかも(クランにとってはそうではないにしても)。余談はともかく、そういう部分をこういう大作で描くのはやっぱり難しいんでしょうね。

  

2006年 136分 シネスコサイズ 

監督:澤井信一郎 製作:千葉龍平 プロデューサー:岡田裕、徳留義明、大杉明彦、海老原実 製作総指揮:角川春樹 原作:森村誠一『地果て海尽きるまで 小説チンギス汗』 脚本:中島丈博、丸山昇一 撮影:前田米造 特撮監督:佛田洋 美術監督:中澤克己 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 主題歌:mink『Innicent Blue~地果て海尽きるまで~』  照明:矢部一男 第2班監督:原田徹 録音:紅谷愃一

出演:反町隆史(テムジン/チンギス・ハーン)、菊川怜(ボルテ)、若村麻由美(ホエルン)、Ara(クラン)、袴田吉彦(ハサル)、松山ケンイチ(ジュチ)、野村祐人(ボオルチュ)、 平山祐介(ジャムカ)、池松壮亮(少年時代のテムジン)、保阪尚希(イェスゲイ・バートル)、苅谷俊介(チャラカ)、今井和子(コアクチン)、唐渡亮(イェケ・チレド)、神保悟志(タルグタイ)、永澤俊矢(ダヤン)、榎木孝明(デイ・セチェン)、津川雅彦(ケクチュ)、 松方弘樹(トオリル・カン)

愛の流刑地

銀座シネパトス2 ★★

■裁判の結果をありがたがるとは

作家の村尾菊治(豊川悦司)は、人妻の入江冬香(寺島しのぶ)を情事の果てに扼殺したと警察に電話する。逮捕から裁判へと進むが、村尾は扼殺は冬香にたのまれた上でのことで、愛しているからこその行為だったという。

冬香には3人の子供がいるのだから無責任には違いないが、たとえそうだとしても非難するには当たらないだろう(それに、嘘の生活を続けても責任のあることとはいえないし)。2人のことは2人で決着をつけるしかないのだから。それでも子供の存在は、冬香を死にたくさせたかもしれないとは思う。幸せなままでいたいための死なのだから。

しかし問題なのは、村尾が冬香の真意を理解しないうちに、懇願されるまま首に手をかけ殺してしまったことだ。

村尾に会って生きている感じがすると言っていた冬香が死にたいと口に出すようになったのは、先に書いたことでほぼ言い尽くしているだろう。が、村尾は、冬香に会うまでが死んでいたのであって、冬香に会ってからは創作意欲も出てきて(昔は売れっ子だったが、最近は何も書けずにいる作家という設定)小説を書き上げたいし、君と一緒に生きたいと言っていたのにだ。

そういう意味では冬香は、子供(小説)が出来るまでは待っていたともいえるが、とにかく殺人を犯した当の村尾がやってしまった後で困惑しているのでは、観ている方はさっぱりである。

映画は裁判を通しながら、村尾と冬香の出会い、密会場面をはさんで進行していく。裁判の争点を、2人の愛の軌跡と重なり合わせるように明かしていこうというのだろう。構成はわかりやすくとも、そもそも裁判には馴染まない内面の問題を扱っているのだから、おかしなことになる。

村尾もそのことは自覚していて、「刑はどんなに重くなってもいいから彼女をもうこれ以上人前に晒したくない」「愛は法律なんかでは裁けない」「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか。この裁判は何もかも違っている」というようなことを何度も発言しているのだが、だったら何故そんな裁判に彼は付き合うのか。裁判という手続きからは逃れられないというのがテーマならともかく、村尾は、最後には裁判結果の懲役8年を、冬香から与えられた刑としてありがたがっているのだから、わけがわからない。

私の理解を超えているのでうまく説明できないのだが、村尾は自分が、冬香から「選ばれた殺人者」だったことに気づく。そして、だから冬香のためにどんな処罰も受けたいのだとも言う。また、冬香からも、自分が死んだ後に村尾が読むことを想定した手紙(村尾を悪い人と言いながら、舞い上がった自分には罪があるのであなたに殺してもらうというような内容)が届いて、村尾は自分の認識が間違っていないことを確証して終わるのだが、この結論に至るまでのぐだぐださにはうんざりするばかりだ。

村尾と冬香の愛の形を補足するために、女検事の織部美雪(長谷川京子)も重要な役を与えられている。彼女は自分の検事副部長(佐々木蔵之介)との恋愛関係が、愛より野心が優先されたものであることから(これについては自分でも納得していたようだ)、冬香の生き方に次第に共感するようになるのだが、長谷川京子の演技がひどく、対比する以前にぶち壊してしまっていた。

もっともこれは演技だけの責任ではなく、ことさら女を強調したような服装で登場させた監督の責任も大きいだろう。村尾が愛の行為を録音していたボイスレコーダーを証拠に、嘱託殺人として争うことを持ちかける弁護人役の陣内孝則や、冬香の夫の仲村トオルも浮いていては、裁判場面は嘘臭くなるばかりで、映画が成立するはずもない。

村尾の無実を疑わない高校生の娘高子(貫地谷しほり)や、村尾を怨みながら「後悔していないから」と言い残して出ていった冬香の本当の気持ちが知りたい母(富司純子)も登場するが、これは村尾に配慮しすぎで、しかしこれは原作者である渡辺淳一の都合のいい妄想に思えなくもない。

なにしろ村尾の昔のベストセラーは、18歳の女性が年上の男たちを手玉に取る話で、これを高子だけでなく、冬香も18の時に読んで心酔したというのだから。そういえば村尾の新作は、文体が重くて若者に受けないとどこの出版社からも断られてしまうのだが、これについても冬香に「この子(小説)はいつか日の目を見る」と言わせていた。ま、とやかく言うことでもないのだけどね。

【メモ】

原作の『愛の流刑地』は、2004年11月から2006年1月まで日本経済新聞で連載され、内容の過激さからか「愛ルケ」という言葉が生まれるほどの話題となった。

映画の村尾は45、冬香は32歳という設定。

冬香という熱心なファンを紹介することで、村尾に少しでも書く気が起きてくれたらと思ったと言う魚住祥子に、織部は「生け贄を差し出した」と皮肉っぽく評していたのだが。

寺島しのぶに敬意を払ったと思えるきれいな映像もあるが、街並みにオーバーラップさせたり、太陽を持ってきたりする場面は大げさでダサイだけだ。

2006年 125分 ビスタサイズ R-15

監督・脚本:鶴橋康夫 製作: 富山省吾 プロデューサー:市川南、大浦俊将、秦祐子 協力プロデューサー:倉田貴也 企画:見城徹 原作:渡辺淳一『愛の流刑地』 撮影:村瀬清、鈴木富夫 美術:部谷京子 編集:山田宏司 音楽:仲西匡、長谷部徹、福島祐子 主題歌:平井堅『哀歌(エレジー)』 照明:藤原武夫 製作統括:島谷能成、三浦姫、西垣慎一郎、石原正康、島本雄二、二宮清隆 録音:甲斐匡 助監督:酒井直人 プロダクション統括:金澤清美

出演:豊川悦司(村尾菊治)、寺島しのぶ(入江冬香)、長谷川京子(織部美雪/検事)、仲村トオル(入江徹/冬香の夫)、佐藤浩市(脇田俊正/刑事)、陣内孝則(北岡文弥/弁護士)、浅田美代子(魚住祥子/元編集者、冬香の友人)、佐々木蔵之介(稲葉喜重/検事副部長)、貫地谷しほり(村尾高子/娘)、松重豊(関口重和/刑事)、本田博太郎(久世泰西/裁判長)、余貴美子(菊池麻子/バーのママ)、富司純子(木村文江/冬香の母)、津川雅彦(中瀬宏/出版社重役)、高島礼子(別れた妻)

輝く夜明けに向かって

シャンテシネ3 ★★

■平凡な男をテロリストにしたアパルトヘイト

どこにでもいそうな主人公がテロリストの疑いをかけられ、釈放されるが、このことで逆に反政府組織のANC(アフリカ民族会議)に身を投じることになったという実話をもとに作られた映画。

パトリック(デレク・ルーク)は南アフリカ北部のセクンダ精油所で監督という立場にある勤勉な労働者だった。妻プレシャス(ボニー・ヘナ)と2人の娘たちにかこまれ、黒人にしては比較的裕福な暮らしを送っていたが、精油所がテロの標的となり、犯人の一味に仕立て上げられてしまう。

1980年の南アフリカはまだアパルトヘイトが公然と行われていた時代で、テロは日常的に起きるべくして起きていたらしいが、パトリックはよそ者なのだから目立たないように、家族のために、という父の教えを守り、政治には無関心で、母親が聞いているANCのラジオのボリュームさえ下げてしまうような男だった。

テロのあった晩、彼は偽の診断書で休暇を取り、自分がコーチをしている少年たちのサッカーの決勝戦の場にいたのだが、滞在日を1日延ばし真夜中に秘かに出かけていた。実は彼の愛人ミリアム(テリー・フェト)とその息子に会いに行っていたのだった。

この愛人宅で面白いやりとりがあった。パトリックはミリアムに「あなたが父親だと(息子に)うち明けて」と迫られるだが、彼の答えは「僕の父は蒸発。それ以来会っていない、無理言うな」というもの。なにより返答になっていないが、後年「自由の闘士」として民衆の英雄となった人間にしては自分勝手で底が浅いものだ。そういうところも含めて、彼はごく普通の人間だったということだろう。

治安部でテロ対策に当たるニック・フォス大佐(ティム・ロビンス)の尋問は執拗を極め、無期限拘束されたパトリックは言いたくなかった真実を語るが、信じてもらえない。フォスは自分では直接拷問はせず、日曜日には自分の家の食事に連れて行ったり、アパルトヘイトは長くは続かないなどとパトリックに漏らすなど、どこまでが本音なのかと思うような油断のならない人物として描かれる。

拷問はプレシャスにまで及び、そのことでパトリックは自白を選ぶのだが、供述が合わないことで、無罪放免となる。フォスは、正しい仕事をしている人間でもあったのだ(最近、続けざまに自分の点数稼ぎのために自白を強要するような映画を観たので、私には新鮮に映ったのね)。

無実の罪に問われ、友人の死、妻への拷問を目の当たりにしたことが、パトリックをモザンビークの首都マプトにあるANC本部に走らせることになる。家族にも内緒で(もっとも今度は母親のラジオの音を大きくしていた)。

ただ、厳しい訓練の中、解放軍を装った部隊に急襲されたり、内部に精通しているパトリックが自ら先導するように精油所の爆破計画にかかわったり、という展開は、見せ場がちゃんとあるのに演出が手ぬるくて散漫な印象だ。プレシャスの嫉妬心はおさまることなく、これは当然ともえいるが、とはいえフォスに通報とはね、となってパトリックはロッベン島に島流しとなる。

ここからはさらに駆け足となって、5年後にプレシャスから再婚したという手紙をもらってやっと許す気持ちになり、1991年にはアフリカに戻ることができたというナレーションになっていて、画面には出迎えにきたプレシャスと許しを請い合う姿が映し出される。

このあと、まったく予想していなかったのだが、パトリックがフォスを見かけるとある日の場面になる。今度こそ復讐してやるとフォスに近づくパトリックだが、何故か彼を生かしておこうか、という気持ちになり、その瞬間解放されたというのだ。実は緩慢な流れにすでにうんざりしかけていたのだが、この付け足しのような何でもない場面が、この映画の1番の収穫のように思えてきたのである。自分がそんな気持ちになれるかどうかはまったくの別問題ではあるのだが。

もうひとつ。フォスは自分の2人の娘に、不測の事態に備えて射撃を教えていて、それが役立つ日がくるのだが、皮肉にも拳銃嫌いの長女の手によって犯人に銃は発砲されることになる。正当防衛とはいえこの行為は認められるのだろうか、と考えた時点でこの挿話が白人側に配慮されたものにもみえてしまうのだが、詰まるところアパルトヘイトが過去のものとなった余裕といったら、叱られてしまうだろうか。

原題:Catch a Fire

2006年 101分 シネスコサイズ フランス、イギリス、南アフリカ、アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:フィリップ・ノイス 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、アンソニー・ミンゲラ、ロビン・スロヴォ 製作総指揮:ライザ・チェイシン デブラ・ヘイワード、シドニー・ポラック 脚本:ショーン・スロヴォ 撮影:ロン・フォーチュナト、ゲイリー・フィリップス プロダクションデザイン:ジョニー・ブリート 衣装デザイン:リーザ・レヴィ 編集:ジル・ビルコック 音楽:フィリップ・ミラー
 
出演:ティム・ロビンス(ニック・フォス)、デレク・ルーク(パトリック・チャムーソ)、ボニー・ヘナ(プレシャス・チャムーソ )、ムンセディシ・シャバング(ズーコ・セプテンバー)、テリー・フェト(ミリアム)、ミシェル・バージャース(アンナ・ヴォス)

墨攻

新宿ミラノ1 ★★

■1人の男が買って出た無駄な戦の顛末。「墨守」ならぬ「墨攻」とは

「墨守」という言葉にその名をとどめる墨家のある人物を主人公にした歴史スペクタクル大作。

墨家は中国の戦国時代(BC403~BC221)の思想家墨子を祖とし、鬼神を信じ「兼愛」(博愛)と「非攻」(専守防衛)などを説いた実在の思想集団。最盛期には儒教と並ぶほどの影響力を持っていたらしいが、歴史の舞台から姿を消してしまったこともあり(謎の部分が多い)、儒家を批判したことで知られるものの、孔子などに比べると一般的には馴染みが薄いようである。

墨家の思想は今の時代でもかなり興味深いものだ。この作品では、それをさらにすすめて「非攻」を「墨守」でなく「墨攻」としたのだから、当然そこに言及すべきなのに、映画を見た限りではあまりよくわからない(大元の酒見賢一の小説も、森秀樹のマンガも知らないのでその比較も出来ないのだが)。

趙が燕に侵攻を開始。両国に挟まれた小国の梁(架空の国)がその餌食になるのは間違いなく、梁王(ワン・チーウェン)と息子の梁適(チェ・シウォン)は墨家に救援を求めていた。巷淹中(アン・ソンギ)率いる10万の大軍の前に、住民を含めても4千にしかならない梁王は降伏を決意するが、その時墨家の革離(アンディ・ラウ)が1人で梁城に現れ、趙の先遣隊の志気を殺ぐ1本の矢を放つ。

革離の見事な腕前と、趙の狙いはあくまで燕であり、1ヶ月守りきれば必ず趙軍は撤退するという彼の言葉に、梁王は革離に軍の指揮権を与え、革離の元、趙との攻防戦が繰り広げられることとなる。

説明を最小限にした、いきなりのこの展開は娯楽作にふさわしい。ただ、そのあとの籠城戦は意外にも見せ場が少ない。時代的な制限や、すでにこの手の戦は描き尽くされているため目新しさがないということもあるだろうが、それにしてもなんとかならなかったのだろうか。

例えば、革離は梁城の模型を前に戦略を練る場面がある。こんなものがあるのなら、観客の説明にも利用すべきなのに、それが中途半端なのだ。現在の城と同じ寸法のものをもう1つ造るのも、ワクワクするような説得力がないため盛り上がらず、工事の過程が住民の結束力を高めたという程度にしかみえない。敵は必ず水源に毒を入れるだろうという予測には、城内に井戸を掘るという対策(それも言葉の説明だけ)で終わってしまうといった案配だ。集めた家畜の糞をまいておき火矢を防いだのにはなるほどと思ったが、アイデアとしてはあまりに小粒。中国お得意の人海戦術で、軍隊にあれだけの頭数を揃えてきたのだからそれに見合うものを用意してもらいたいところだ。

被害が甚大な趙軍は1度退却せざるをえなくなるのだが、逆にここから革離の苦悩がはじまることとなる。作戦が成功したことにより革離の人望が高まると、梁王や重臣たちの嫉(そね)みをかこち、指揮権を奪われて追放されるだけでなく、革離と親しくなった人々にまで粛正の手が及んでしまう。

戦術に秀でながら、政治にも愛にも疎いという革離なのだが、しかしここは墨家の徒として、戦術以外でも毅然たる態度を示してほしいのだ。いい年をして若造のように苦悩していたのでは、「墨攻」にまで論が進まないではないか。

親しくなっていた騎馬隊の女兵士逸悦には、一生お側にいたいと迫られるが、革離がはっきりしないでいると、兼愛を説くが愛を知るべき、と痛いところを突かれてしまう。彼女は革離を擁護する発言をしたことで、梁王に馬による八つ裂きの刑を言いわたされる。趙軍の熱気球(お、やるじゃん)による奇襲でそれはまぬがれるが牢が地下水路の爆発で水浸しになり、声帯を奪われていたため声が出ず、革離の救いの手が届くことなく悲惨な最期をとげる(ここの演出は少し間が抜けている)。

この話ばかりでなく、それ以前にも梁適の死、黒人奴隷、子団のラストシーンでの扱い(刀を捨て去っていく)など、盛り沢山の挿話のどれもが戦の虚しさを通して「墨攻」を語る要素であるのに、そうなっていないのは先に述べた通りである。

革離がただ1人でやってきたのは、案外彼の理想論が未熟だということを他の墨家が見抜いていたからとかねー(これについては墨家が要請に応じなかったという簡単な説明しかなかった。つまり、この説はまったくのでっち上げです)。

暴政で梁は5年後に滅びることや、革離が孤児と共に諸国を渡り歩き平和を説いたという説明はつくものの、映画は逸悦の死ばかりか、いやらしい梁王の勝利、と苦い結末で終わる。

 

【メモ】

「墨子」については、松岡正剛千夜千冊が参考になった。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0817.html 

革離の放った矢は格段に飛距離の出るもので、矢には工夫がしてあるのだが、この細工だと余計飛ばなくなってしまうのではないかと心配になってしまうようなもの。

妻子を連れて逃亡をはかる農民たちもいた。趙軍に捕まった彼らから、革離の存在が巷淹中の知るところとなり、革離との盤上の戦い(将棋のようなもの)が行われる。ただし、これは意味不明。単なる当時の儀式みたいなものか。

梁適は、革離が子団を弓隊の長に選んだことに反発し、2人の弓の争いとなる。

趙軍の奇襲で梁王は降伏。革離は民を救おうと城に戻り巷将軍との対決を演出するが、その巷将軍を梁王は非情にも矢攻めにしてしまう。

原題:A Battle of Wits

2006年 133分 シネスコサイズ 韓国、中国、日本、香港 日本語字幕:■

監督・脚本:ジェィコブ・チャン アクション監督:スティーヴン・トン 製作:ホアン・チェンシン[黄建新]、ワン・チョンレイ[王中磊]、ツイ・シウミン[徐小明]、リー・ジョーイック[李柱益]、井関惺、ジェィコブ・チャン 製作総指揮:ワン・チョンジュン、スティーヴン・ン、ホン・ボンチュル 原作:森秀樹漫画『墨攻』、酒見賢一(原作小説)、久保田千太郎(漫画脚本協力) 撮影監督:阪本善尚 美術:イー・チェンチョウ 衣装:トン・ホアミヤオ 編集:エリック・コン 音楽:川井憲次 照明:大久保武志
 
出演:アンディ・ラウ[劉徳華](革離)、アン・ソンギ[安聖基](巷淹中)、ワン・チーウェン[王志文](梁王)、ファン・ビンビン[范冰冰](逸悦)、ウー・チーロン[呉奇隆](子団)、チェ・シウォン[・懍亨・吹n(梁適)

僕は妹に恋をする

新宿武蔵野館1 ★★

■2人は禁断の恋に生きることを選ぶ

同じ高校に通う双子の兄妹の頼(松本潤)と郁(榮倉奈々)。小さい時から結婚を約束するほどの仲良しだったが、最近の2人は「頼に冷たくされるのに慣れた」という郁の独白があるように、どこかギクシャクしていた。同級生の矢野(平岡祐太)に告白されたものの、頼のことが好きでたまらない郁は、返事を先延ばしする(ひどい話だ)。

実は頼も郁がどうしようもなく好きで、そのことはとっくに矢野に見透かされていた。矢野に郁のことはあきらめないと言われたからかどうか、頼は郁に自分に嘘はつけないと迫り、関係を持ってしまう。

禁断の愛だけにそこに至るまでが難関と思っていたら、それはあっさりクリア。話は想いを確かめ合ってからのことに移る。もっとも内容は結ばれる前に予習済みであるはずの罪悪感といったものだ。母親(浅野ゆう子)も何かを察知するが、なんのことはない、彼女はもう1度だけ顔を出すがそれで終わりだ。

兄妹が恋愛感情になることが理解できないからかもしれないが(でも、双子となると? 生まれる前からずっと一緒、というセリフがあったけど、なるほどそこまでは考えなかったな。何か違うものでもあるのだろうか)、主役の2人よりは、郁に恋する矢野と頼に恋するこれまた同級生の楠友華(小松彩夏)の立場の方が私には興味深かった。

郁に好かれたいと想いながら、それは叶わないと諦念しているのか、お前がゆれたらお終いだと頼に説教する矢野って一体なんなのだ。あとの方でも妹だろうが誰だろうが、好きなんだったら自分の気持ちをごまかしてはダメだというようなことを言う。そんなカッコつけてる場合じゃないのに。

楠も頼と郁のことをわかってての恋(キスシーンまで覗いている)だから、矢野と似ている。どころか、郁に「兄妹でなんておかしい」と説教するだけでなく、頼には「郁の代わりでいいから」と、まるで近親相姦阻止が楠の使命かのような行動に出る。頼にしつこくつきまとい、彼から「好きでなくてもいいなら付き合う」という言葉を引き出し、関係を持つ(ラブホテルに誘ったのは頼だけどね)と、郁の前で頼と付き合っていることをバラしてしまう。去った郁を追いかけようとする頼に言うセリフがすごい。「殴っていいよ。嫌われているうちは、頼は私のものなんだから」

もっとも矢野と楠がいくら頑張っても、頼と郁の2人の世界には入っていけない。2人は仲直りをし、幼い時に「郁は僕のお嫁さんだよ」と頼が結婚宣言をした草原へと向かう。が、トンネルの先にあるはずのその場所は、造成地に変わっていた。

結末の付け方は誤解を招きそうだ。造成地を見て、2人はもう昔には戻れないことを知る。おんぶが罰のジャンケンゲームを繰り返したあと、「俺嘘ついちゃったな、郁をお嫁さんなんか出来ないのに」という頼。キスして、好きだと言い合って、手をつないで歩いて行くのだが……。

登場人物も少なければ、話も入り組んでいない。それが全体に長まわしを多用し、じっくりと人物を追うといった演出を可能にしている。でも、ここは他と違って性急だ。そう思ってしまったのは、2人は関係を清算するのだと解釈してしまったからなのだが、しかしよくよく思い返してみると、昔に戻れないことと、お嫁さんにはできないということは言っているが、2人の関係までをまるごと否定しているのではない。これはやっぱり自分たちの気持ちに嘘はつかないという決意表明としか思えない。

わからないといえば、もっとはじめの方で「私たちはどうして離ればなれになったのか」という郁に、頼が「俺は離ればなれになれてよかった、そのおかげで郁が生まれてきてくれたんだから」と答えている場面がある。2人は離ればなれになったことがあったのか。それとも2人にとっては、生まれてくることが離ればなれになることとでも。

双子の気持ちはわからんぞ。というのが1番の感想だから、矢野と楠が消えてしまうと、私にはとたんに冗長なものでしかなくなってしまう。仕方ないのだけど。

  

【メモ】

頼と郁は同じ部屋の2段ベッド(上が頼)で寝起きしている。母親の疑惑は頼と郁が学校に出かけたあとのベッドメイクから。同室なのは、母親が仕事を始めたのが遅いらしく(父親の不在についての言及はない)、本採用でないから(収入が少ないから)と本人が言っていた。

2006年 122分 ビスタサイズ PG-12 

監督:安藤尋 製作:亀井修、奥田誠治、藤島ジュリーK. プロデューサー:尾西要一郎 エグゼクティブプロデューサー:鈴木良宜 企画:泉英次 原作:青木琴美『僕は妹に恋をする』 脚本:袮寝彩木、安藤尋 撮影:鈴木一博 美術:松本知恵 編集:冨田伸子 音楽:大友良英 エンディングテーマ:Crystal Kay『きっと永遠に』 照明:上妻敏厚 録音:横溝正俊 助監督:久保朝洋
 
出演:松本潤(結城頼)、榮倉奈々(結城郁)、平岡祐太(矢野立芳)、小松彩夏(楠友華)、岡本奈月、工藤あさぎ、渡辺真起子、諏訪太朗、浅野ゆう子(結城咲)

あなたを忘れない

新宿ミラノ3 ★★

■本気で日韓友好を描きたいのなら……

2001年1月26日、JR新大久保駅で酒に酔った男性がホームに転落。助けようとして線路に飛び降りた韓国人留学生イ・スヒョン(26歳)さんと日本人のカメラマン関根史郎(47歳)さんが、ちょうど進入してきた電車にひかれ3人とも死亡するという事件があった。その亡くなった韓国人留学生を主人公にして製作されたのが、この日韓合作映画だ。

兵役を終え留学生として日本にやって来たイ・スヒョン(イ・テソン)は日課のようにマウンテンバイクで東京めぐりをしていた。ある日、路上ライブをしていた星野ユリ(マーキー)の歌声に惹かれていると、トラブルに巻き込まれてマウンテンバイクを壊されてしまい、ユリのバンド仲間でリーダーの風間(金子貴俊)たちにユリの父親の平田(竹中直人)が経営するライブハウスに連れて行かれる……。

スヒョンとユリとに芽生える恋物語を中心とした挿話の数々は決して悪くはないが、といって日韓友好というテーマをはずしてしまうと、そうほめられた内容でもない。

スヒョンは家族思いで、日本に対する偏見もない、とにかく立派な好青年。スヒョンは5歳まで祖父と父と一緒に大阪に住んでいたという設定だから(なのに)、親たちからも嫌な話は聞かされることなく育てられたのだろう(スヒョンに彼の父が「色眼鏡で見ないことだ」と諭す場面もある)。

それに比べると初対面時の平田は偏見の塊。ユリとは喧嘩ばかりというのも、家族が大切なのは韓国では当たり前というスヒョンには理解できないようだ。平田はすでにユリの母親の星野史恵(原日出子)とは離婚していて、商売もうまくいかなくなっている。ユリをなんとか売り込もうとする(形としては風間のバンドとしてだが)が、その点ではユリを利用することでしか自分たちを売り出せない風間も似たようなものだ。果てはスヒョンのマウンテンバイクに車をぶつけながら逃げてしまうタクシー運転手などもでてきて、日本人はどうにもだらしのないヤツらばかりである。

日本のマンガに熱中して日本にやってきたということもあって、スヒョンの親友のヤン・ミンス(ソ・ジェギョン)も悪気のない人物に描かれている。日韓友好を全面に押し出そうとすると、かえってこの日韓の落差が槍玉に上がりそうである。

そんなことは気にしすぎなのかもしれないが、検証はしておくべきだろう。「初対面のベトナム人にベトナム戦争で敵だったと言われた」ことや韓国の兵役が自由のない場所(「日本は何も考えなくていいほど平和で自由」というセリフも。これは皮肉なのだろうけど)であることも語られていたし、すくなくとも映画は公平であることに気を配っていたといってよい。平田にも最後になって見せ場が用意されているし。

なのにいつまでもこだわってしまうのは、「事実に基づいて作られたフィクション」という映画のはじめにある言葉の解釈に惑わされてしまうせいだ。新大久保駅で起きた事件との事実の差についてはいろいろ言われているが、ここまでフィクションに重きを置くのならば、やはりあの事件とは関係なく描いた方がよかったのではないだろうか。

フィクションが取り入れられるのはこの手の映画では当然のことながら、事件から6年しか経っていない生々しさの中で、主人公が実名で出てきては、映画の内容よりそちらの方に興味が向くのはいたしかたないところだ。

例えばスヒョンには韓国に恋人がいたという。それでこんな物語では、恋人は悲しむだろう。韓国に配慮したつもりでいても、こんな大事な部分を改変して韓国で公開出来るはずがないと思うのだが(公開も出来ずに、日韓合作というのもねー)。

ラストシーンもやはり疑問だ。たとえスヒョンが手を広げて電車に立ち向かっていったのが事実(違うと言っている人もいる)だとしても、これについてはどんな形でもいいから捕捉しておかないと、とんでもなくウソ臭いものにしかみえない。

最後の字幕は「この映画を李秀賢さんと関根史郎さんに捧ぐ」で、こうやって締めくくられると、やはり事実の部分が重くのしかかってくる。であれば、なぜ関根史郎さんをあんな扱いにしたのかとか、ホームに人が大勢いたように描いたのかという疑問に行き着くと思うのだが、製作者は何も考えなかったのか。日韓友好を描こうとして、日韓非友好に油を注いでしまっては何にもならないではないか。残念だ。

  

【メモ】

映画のタイトルは、スピッツのチェリーの歌詞から。

2006年 130分 ビスタサイズ 日本、韓国 

監督:花堂純次 プロデューサー:三村順一、山川敦子、杉原晃史 エグゼクティブプロデューサー:吉田尚剛、藤井健、山中三津絵、成澤章 原作:康煕奉『あなたを忘れない』、辛潤賛『息子よ!韓日に架ける命のかけ橋』、佐桑徹『李秀賢さんあなたの勇気を忘れない』(日新報道刊) 脚本:花堂純次、J・J・三村 撮影:瀬川龍 美術:山崎輝 編集:坂東直哉、阿部亙英 主題歌:槇原敬之『光~あなたを忘れない~』、HIGH and MIGHTY COLOR 『辿り着いた場所』 記録:田中小鈴 照明:岩崎豊 録音:西岡正己
 
出演:イ・テソン[李太成](イ・スヒョン[李秀賢])、マーキー(星野ユリ)、竹中直人(平田一真/ユリの父)、金子貴俊(風間龍次)、浜口順子(岡本留美子)、原日出子(星野史恵/ユリの母)、大谷直子(高木五月)、ルー大柴(佐藤)、吉岡美穂(小島朝子)、高田宏太郎(ケンジ)、二月末(テツ)、矢吹蓮(タカシ)、岩戸秀年(ゴロー)、ジョン・ドンファン[鄭棟煥](イ・ソンデ/スヒョンの父)、イ・ギョンジン[李鏡珍](シン・ユンチャン)、ソ・ジェギョン[徐宰京](ヤン・ミンス)、 イ・ソルア[李雪雅](イ・スジン/スヒョンの妹)、ジョン・ヨンジョ[鄭玲朝](ヨンソク)、ホン・ギョンミン(ユ・チジン)