ゾディアック

新宿ミラノ1 ★★★★

■こちらまで取り憑かれてしまいそうになる

まず、事件の描き方がどれも巧妙かつ思い入れたっぷりだ。ただ殺人事件を提示すればすむところを被害者の背景や事件の進行状況を的確に描き出していく。映画にある最初の殺人でも女が人妻らしいことをさらりと語って、観客の心を波立たせる。あとの事件でも犯人は夜の道路で女にタイヤが弛んでいると近付き、よかったら締めてあげようと言って逆に弛めてしまうのだが、この一連の流れがものすごく怖いのだ(映画では4つの事件が描かれている)。

この映画の面白さが、犯人ゾディアックの存在にあるのは間違いないが、こういう魅力的な描写に支えられている部分も大きい。例えば、映画は時間軸に沿って機械的に年月や時刻を画面に刻印していくのだが、その年代へのこだわりは偏執狂的ですらある。時代考証だけでなく、それを映し出すカメラもで、車を真上から執拗に追いかけたり、また時にはある高層ビルが建設されていく一部始終を捉えた映像(早送りでクレーンが動き建物が出来ていく)までが出てきたりするのである。

ここまで神経が行き届いていて物語がつまらないわけがない。しかもこのゾディアックと名乗る犯人は、事件を通報し、新聞社には犯行声明を送りつけ、その中の暗号文を掲載しないと無差別殺人に移ると脅す。劇場型犯罪は映画や小説には度々登場しているが、こちらは実話(映画のはじめには「実際の事実に基づく」と出る)。私が事件をほとんど知らないこともあって、風刺漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)同様、事件の進展にどうなるのかと、息を呑んで見守ることになった。

グレイスミスは声明文が送られてきたその場所にいたことと、元々大のパズル好きだったことからその謎解きに取り憑かれてしまう。辣腕記者のポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)は、当初はグレイスミスの推理に耳を貸さずにいたが、彼の本気度とその説得力に、彼を認めるようになる。

ゾディアックを尋問しながら見逃してしまうという重大な失態を犯した警察だが(これはゾディアックによって、明らかにされてしまう)、サンフランシスコ市警の刑事デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)と相棒のビル・アームストロング(アンソニー・エドワーズ)は、大量の偽情報にうんざりしながらも、何人かの男に狙いを付けていた。

カップルが襲われた2つの事件ではいずれも男性の方は命までは奪われずにいるし、指紋に足跡、犯人が送りつけてきた被害者のシャツの切れ端、筆跡、暗号に円から飛び出した十字のマークなど手がかりも沢山あって、それにも一々触れている。謎解きの興味はいやがおうにも高まるのだが、映画はそこに固執しているのではなかった。

はじめの方にいくつかあるゾディアックの犯行描写があまりに克明だったものだから、事件に方が付くのは当然と思ってしまったのだが(つまり犯行の映像は犯人の供述に沿ったものと思っていたのだ。でないとなると、あれは……)、容疑者と特定した人物と筆跡鑑定は一致せず、証拠不足のまま、また幸い?なことに新たな犯行が行われることもなく、虚しく年月のみが過ぎていくことになる。

エイブリーは酒に溺れ新聞社を首になっている。アームストロング刑事は定時に帰りたいのだと移動願いを出して殺人課を去っていく。そして、数年経っても殺害現場に度々足を運んでいたトースキー刑事には証拠捏造嫌疑が持ち上がる。グレイスミスは最後まで執念を持ち続け、最初から資料を調べ直す(トースキーとも接触し、記者には教えられないと言われながらも助言をもらう)のだが、結局はゾディアックに翻弄された人生を送ることになる。

事件発生の1年後、グレイスミスはメラニー(クロエ・セヴィニー)と付き合うようになり、4年後の日付ではすでに結婚している。メラニーはグレイスミスのことをよく理解しているようだったが、でも結局はうまくいかなくなっている。理由はグレイスミスが自分をメディアに露出させてまでゾディアックを調べようとしたからで(無言電話がかかってくるようになっていた)、メラニーが家族の安全は二の次になっていると言っても、ゾディアック事件の真相を明かすのは僕しかいないと取り合ってもらえず、彼女は子供たちを連れて家を出ていく。

このあともう1度だけ、容疑者らしき男の住居をグレイスミスが訪ねるというちょっと怖い演出が待っているのだが、これはおまけだろうか。グレイスミスは完全に取り憑かれた男になっていて、久しぶりに訪ねてきたメラニーも「この結婚は幻」と言うしかなかったようだ。

グレイスミスは本も書き、生き残った被害者のマイクの証言(顔写真を見て言い当てる)も得、どう考えても怪しいとしか思えないアーサー・リー・アレン(ジョン・キャロル・リンチ)に結局舞い戻るのだが(すでに事件から22年が経過しているのだ)、リーは心臓発作で死んでしまう。しかしDNAは一致しないなど物的証拠は1つも得られなかったようだ。エイブリーが肺気腫で死んだことや、リーの死後グレイスミスには無言電話がかかってこなくなったという説明もつく(原作はグレイスミスながら、この部分でそれも含めて映画を作ったと言っているようだ)が、この徒労感は癒されることがない。

もちろんのめり込んでいったことに本人たちは納得しているのだろうが、その人生を考えると複雑な思いにかられるのだ。映画は徒労感を漂わせながら、しかし強力に観客をゾディアック事件にいざなう。で、こんなにいつまでも引きずられてしまっては、ちょっと危ないかもだ。

犯人は映画でも言っていたが、もしかしたら2人なのかも。そうすればDNA鑑定の矛盾なども説明できそうだ。こういう猟奇事件は犯行がエスカレートするといわれているが、ある時からやめてしまったことも、犯人が複数であればお互いを牽制しあって可能だったのではないか。いや、もうやめよう、本当に。でも映画はまた観たい。

 

【メモ】

映画の中で『ダーティハリー』(犯人のサソリ)がこのゾディアックをモデルにしているという話が出てくる。この映画を観に行った時のグレイスミスは、メラニーとはまだデートをしている間柄である。

ゾディアックは ゾディアックブランドの時計からの命名ではないかと推理していた。この時計をリーは腕に付けていた。

ゾディアックについてはこの他にも(映画の中だけでも)、メモしておきたいことが沢山あるのだが、それをしだすと私も本当に取り憑かれてしまいそうなので、やめ。というか、それぼどマメでなくてよかった。よかった。

原題:Zodiac

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ PG-12 配給:刊ワーナー・ブラザース映画 日本語版字幕:杉山緑

監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブラッドリー・J・フィッシャー、ジェームズ・ヴァンダービルト、シーン・チャフィン 製作総指揮:ルイス・フィリップス 原作:ロバート・グレイスミス 脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト 撮影:ハリス・サヴィデス プロダクションデザイン:ドナルド・グレアム・バート 衣装デザイン:ケイシー・ストーム 編集:アンガス・ウォール 音楽:デヴィッド・シャイア

出演:ジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス)、マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー)、アンソニー・エドワーズ(ウィリアム・アームストロング刑事)、ブライアン・コックス(ベルビン・ベリー)、イライアス・コティーズ(ジャック・マラナックス巡査部長)、クロエ・セヴィニー(メラニー)、ドナル・ローグ(ケン・ナーロウ)、ジョン・キャロル・リンチ(アーサー・リー・アレン)、ダーモット・マローニー(マーティ・リー警部)

そのときは彼によろしく

テアトルダイヤ ★

■そのときは、ってそんなもんあるかい

遠山智史(山田孝之)が経営するアクアプランツ(水草)ショップ「トラッシュ」に、押しかけるようにやってきて居座ってしまった森川鈴音(長澤まさみ)は「世の中の8割の人が彼女のことを知っている」という人気モデル(智史は知らないのだな)だったが、何故か引退してしまったという。それにしてもどうして雑誌に紹介されても客が増えないようなこの店に、彼女はやってきたのか?

彼女が実は幼なじみの花梨だったことを「鈍感な」智史が知るのは、かなり経ってから。開業医の父遠山悟郎(小日向文世)の心臓が悪くなり、閉院の為の片付けで昔の思い出の品が出てきて、思い出に浸ったばかりなのだから、この鈍感さは筋金入りだ。パン屋の柴田美咲(国仲涼子)が好意を抱いてくれているのにもまったく気付いていないのだから。

花梨がモデルを辞めたのは、眠るとだんだん起きられなくなるという奇病(何なのだこれは)が悪化して、死を予感したからで、13年前からずっと好きだった智史に会いにきたのだった。トラッシュが紹介された雑誌で智史のことを知ったのだ。なにしろ、智史は有名なモデルになっても気づいてくれないんではね。

そしてその雑誌は、絵の好きだったもう1人の友達五十嵐佑司(塚本高史)の目にも止まっていた。彼は智史を個展に呼ぶとはりきっていたが、母とその愛人による詐欺に会い、さらにバイト先の画材店からの帰り道でオートバイが転倒して入院先で昏睡状態でいるのだと、佑司の恋人葛城桃香(北川景子)から連絡が入る。

あらすじを書くのもかったるいので端折るが、タイトルの『そのときは彼によろしく』は、以下に書くことによる。花梨が眠りにつくのと入れ替わるように目を覚ました佑司は、夢の中で花梨に会い、早く帰れと言われたのだと言う。ただの夢なのだが花梨が救ってくれたのだと思いたい、とも。そして、花梨がスケッチブックに残していったメッセージを、見せたら花梨に怒られてしまうかもと言いながら智史に渡す。

目を覚ましたら読んでもらえることを、という書き出しで、そこには花梨の智史への想いと、好きだと伝えられなかったが、目を覚まして智史に会えたら、そのときは、彼によろしくと書いてあった。ただ、この「彼によろしく」は生きているうちに書くのではなく(好きだというのは構わないのだが)、夢の中で佑司が聞いてきたことにしないと効果が半減してしまわないだろうか。

さらに眠っている花梨には智史の父が死ぬことで、花梨に、智史が待っているからもどってやってくれ、そして智史を愛していた、花梨ちゃんはまた智史にあえるだろうから、そのときは智史によろしく伝えてほしいと言われたというのだ。

そう、花梨は5年間の眠りのあと、そのまま死んでしまうことなく、智史のところに戻ってくるのである。え、いや、そんな(ってオニバスの種でもうわかっちゃてたけどさ)。

まったく強引な話なのだが、それに目をつぶれば市川拓司らしい愛に満ちた世界に浸れるってことなのかも。ま、「そのときは、彼によろしく」を2度使うには(2度の登場でやっと一人前になるセリフっていうのもねー)ああするしかなかったのかもしれないけど、話を創ったのが見え見え。難病ものということだけでも文句を付けたくなるのに、その病気までが現実離れしていているんだもの。

3人は物理学でも解明できない強い力で引き合っていたと父に言わせて誤魔化そうったって、そうはいかないのだな。そういう意味では、「眠ったままでもかまわない」から「このまま待ってていいんだよね」に変わっていた時の智史や、佑司の「花梨はお前(智史)が待ち続けることを望んでいるかな」というセリフの方にこそ真実はあるのだと思うのだが。でもそれじゃ、映画にはならないか。

映画は9歳の時の3人(そうだ、9歳の花梨のファーストキスというのもあった)と13年後の現在が目まぐるしく入れ替わりながら少しずつ状況を説明していくという構成。これは、前半は智史が花梨のことを思い出す過程にもなっているのだろうが、ちょっとうるさくもある。もっともこれくらい何かしないと、いくら死(描写としてはないが、智史の母の死もある)がばらまかれていても、あまりに平板にすぎてしまうのかも。

ところで『フランダースの犬』(これは智史が花梨からもらってタイムカプセルにしまっていた)ならパトラッシュと思うのだが、何でトラッシュなんだろ。

  

2007年 114分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:平川雄一朗 製作:島谷能成、信国一朗、亀井修、安永義郎、久安学、原裕二郎、井上良次、沢井和則 プロデューサー:神戸明、山中和成、川村元気 プロデュース:春名慶 エグゼクティブプロデューサー:市川南、濱名一哉 アソシエイトプロデューサー:大岡大介 企画:春名慶 原作:市川拓司『そのときは彼によろしく』 脚本:いずみ吉紘、石井薫 撮影:斑目重友 美術:磯田典宏 編集:今井剛 音楽:松谷卓 音楽プロデューサー:北原京子 主題歌:柴咲コウ『プリズム』 VFXスーパーバイザー:小坂一順 スクリプター:鈴木一美 ラインプロデューサー:竹山昌利 照明:上妻敏厚 装飾:河合良昭 録音:横溝正俊 助監督:塩崎遵 プロダクション統括:金澤清美

出演:長澤まさみ(滝川花梨/森川鈴音)、山田孝之(遠山智史)、小日向文世(遠山悟郎)、塚本高史(五十嵐佑司)、国仲涼子(柴田美咲)、北川景子(葛城桃香)、黄川田将也(夏目貴幸)、本多力(松岡郁生)、黒田凛(子供時代の花梨)、深澤嵐(子供時代の智史)、桑代貴明(子供時代の佑司)、和久井映見(遠山律子)

レベル・サーティーン

シネセゾン渋谷 ★★★★

■もう引き返せない。「レベル最低」ゲームは、最後に融合する!

すごい映画を観てしまったものだ。グロで下品で、性的な場面こそないが、それ以外での傍若無人さは目に余るものがあって書くのもためらわれるのだが、観てしまったのだから、もう引き返せない。映画館を出なかった私もゲームをやめなかった主人公のプチット(クリサダ・スコソル・クラップ)と同じようなものだ。って、そんなわけはないのだが、人間が暴走していく要因など案外にたようなもので、単なる怖いもの見たさだったりするのではないかと、ふと、思ってしまったのだった。

プチットは輸入楽器のセールスマンだが、要領のいい同僚には出し抜かれるし、営業成績がちっとも上がらない。なのに、故郷の母親との電話では課長への昇進を匂わせて、いいところ見せてしまうような男で、だから逆に金を無心されて、それにもいい返事をしていた。車のローンすら滞納しているっていうのにね。車を取り上げられてバスで出社すれば、机には請求書の束が届いているし、おまけにクビを言い渡されてしまう。

にっちもさっちも行かなくなって非常階段で苦悩していると、突然ケータイが鳴る。ケータイの見知らぬ声は、幸運にもゲームの参加者に選ばれたことと、ゲームをクリアしていくと超高額の賞金を手にすることができることを語り、プチットはゲームに参加するかどうかを促される。

プチットがゲームに心を動かされる状況にあることはすでに述べた通り。その説明がちゃんとあるのはこのあとの展開を考えると意外な感じもする。そんなに追い詰められていない人間でもこのゲームを始めてしまいそうだからなのだが、プチットの性格付けという意味もそこに込めた上での流れと考えれば無難なとこか。

そして、最低のゲームが始まっていく、レベル1は手元にある新聞で壁の蠅を叩き落とすというもの。これで1万バーツ。レベル2は叩き落とした蠅を飲み込むことで5万バーツ。

ゲーム(というより課題である)がエスカレートしていくことは容易に想像が付くが、プチットはもう引き返せない(ゲームは、1.ゲームの終了を申し出たら、2.誰かにゲームのことを教えたら、3.ゲームの正体を探ろうとしても中止になると前置きされるが、できれば中途退場の場合のルールについてももう少し詳しく触れておいてもらいたいところだ)。

というのもレベル5で、大便を食材にした料理を食すというとんでもない課題が出てくるからだ(それも繁盛しているレストラン内でのことなのだ)。この難問(映画作品とする時の難問にはならなかったのだろうか)は、この後に出てくるいくつかのゲームよりかなりハードルが高い(これについては時間制限はなかったが)こともあって、この段階で登場するのは少々疑問なのだが、プチットはそれも決行するに至る。

プチットにしても、この時点でこのゲームがどのくらい巧妙に仕組まれたものなのかは推理したはずだ。というか、そもそも最初のゲームからして並大抵の設備と準備がなければ、ゲームを成立させる状況にはならないし、進行中の不確定要素も入れると、このゲームがどれほどの規模で行われているのか、いくら「とろい」プチットといえども考えただろう。

この謎については、プチットに好意を持つ同僚のトン(アチタ・シカマナ)が、プチットの行動に疑問を抱き、テレビでプチットがバスで大喧嘩(レベル6)をして警察に追われているニュースも見て、ネットで事件を調べていくうちに、怪しげな会員制のサイト(http://www.13beloved.com/ このアドレスはこの映画のタイ語の公式サイトになっていた)に行き着き、少しずつ判明していく。が、これすらもある程度予想(もしくは途中から組み込んだのか。会員制のサイトなのに、「侵入者を信用」してしまうのだ)されていたフシがあるのだ(トンも最後の方でゲームの一部として登場する)。

プチットのゲームは、途中、数の推理(これこそゲームらしいが、これは13のうちには含まれないようだ)や井戸に落ちた老人の救出などをこなしながら(昔の恋人の現在の彼を叩きのめすというのもあった。レベル8)、痴呆の老婆を病院から連れ出した(レベル9)ことから起きる惨劇(レベル10)へ一気に突っ走る(老婆の行動はどこまでが演出なのだ!)。ここではワイヤで首を落とされた暴走族の1人がのたうち回るかなり気味の悪い場面も用意されている。ここまで、多少のモタモタ感がないわけではないが、課題も内容に富んだよく考えられたものだ。

トンの犬を殺すのがレベル11で、このあと牛を殺してその肉を食べることを経て(やはりこの順番は難ありだ。もっともそれもちゃんとわかっていて、この賞金は5000バーツである)、いよいよ最後のレベル13に到達する(実はトンも拉致されてその場、別室だが、に連れてこられている)。

プチットに課せられたのは父親殺しで、その当人が目の前に顔に袋を被せられて現れる。プチットにとって父親は飲んだくれで、オモチャを壊し、愛犬をころし、虐待されてきた憎むべき相手だったから、この決断は意外と簡単と思われたが、何故かプチットに父を肯定する思い出が過ぎって(愛犬殺しも狂犬病故のことだった)、父殺しなど出来ないと自覚する。が、プチットがそこに至ったとき、プチットは自分が殺すべき相手に、反対に殺されてしまうのである。

つまり父親の方も、多分プチットと同じようにゲームを経て、この最後のレベル13に到達していたのだろう。ゲームの主催者(サイト管理者)にとっては、ここまでは細心の注意を払いながら課題を設定し進めてきたが、ここに至ってはどちらかがレベル13をクリヤーすればそれで十分なのは改めて言うまでもないことだ。

このアイディアの非情さには舌を巻くしかないのだが、ゲームの主催者を中学生くらいに設定しているのも憎いばかりだ。その少年「キース様」はトンに「今まで何人が犠牲になったか知ってるか」と詰め寄られるのだが、「ゲームだ。僕は知らない、プレーヤーがやった。心配ない。法は僕側だ」と言って憚らない。人殺しという言葉にも「僕じゃない、みんなだよ」と同じことを繰り返すだけだ。

もっともトンは解放されたようだ。内情をあそこまで知っている(教えたという方が正しい)トンを解放したのは、キー様に絶対の自信があるということなのだろう。そう、最後の場面で彼女に近づいていったのは、未確認ながら多分「過去に同様の事件があった」と言ってこの事件を捜査していた警官のようだったから。

ところでここまできて、巻頭に、横断歩道で老婆の手助けをしてケータイを落としてしまう場面があったことを思い出したのだが、あれにはどういう意味があったのだろう。誰か教えて欲しいのだが。

 

【メモ】

本文で書き漏らしたゲームは次の通り。レベル3は、3人以上の子供を泣かす。レベル4は乞食の小銭を奪う。

このゲームが成立するには相当数の隠しカメラが市内(いや郊外にもだった)に張り巡らされている必要がある。また、ゲームのプレイヤーへの連絡はケータイだから充電を心配して、プチットにも途中でケータイを替えるような指示が出ていた。

トンの通報で警察もサイトを調べるが、ページすら見つからない。もっともその警察のファイルに13という数字と怪しげなマークがあるので、ここもゲームの主催者のもとにあることがわかる。

不思議だが、トンに対しては「手荒な真似をしてすまない」などと言っていた。「気付いたのは君がはじめて。ウィークポイントを教えてくれた」とも言っていたから、キー様はトンに敬意を払っていたのだろうか。

プチットは昔の彼女に会って「お袋が会いたがっているし、やり直そう」と言うのだが、彼女からは「その話、前にも聞いたけど嘘だったわ。それにその話が本当だとしても、私を有名歌手にはできないでしょ」と言い返されてしまう(すごいよね、これ)。そして、彼女の彼がろくでもない男なのに、彼女が男を好きなことを知ってショックを受けることになる。

原題:13 BELOVED

2006年 114分 ビスタサイズ タイ R-15 配給:ファインフィルムズ、熱帯美術館 宣伝協力:スローラーナー 日本語版字幕:風間綾平

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル 製作総指揮:ソムサック・デーチャラタナプラスート 原作:エカシット・タイラット 脚本:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル、エカシット・タイラット 音楽:キティ・クレマニー

出演:クリサダ・スコソル・クラップ(プチット)、アチタ・シカマナ(トン)、サルンヨー・ウォングックラチャン(スラチャイ警部)、ナターポン・アルンネトラ(ミク)、フィリップ・ウィルソン(ジョン・アダムス/プチットの父)、スクルヤ・コンカーウォン(プチットの母)

アコークロー

シアターN渋谷-2 ★★☆

■許すということ

鈴木美咲(田丸麻紀)は、東京から沖縄で一緒に生活するために村松浩市(忍成修吾)の元へやってくる。浩市ももとは東京人。4年前から沖縄で働いていたが、遊びにきていた美咲を海岸でナンパして、願ってもない状況になったらしい。浩市の友達の渡嘉敷仁成(尚玄)とその子の仁太に喜屋武秀人(結城貴史)と彼のおばば(吉田妙子)という仲間に囲まれて、美咲の沖縄での新しい生活がはじまる。

まず重要なのは、美咲には東京から逃げ出したい事情があったということである。実はベビーシッター中の姉(清水美砂)の子を、事故で亡くしてしまったのだ。この事故は発端が姉からのケータイへの連絡であり、偶然が重なったものと「姉もわかっているがでも許せないでいる」と美咲が認識しているもので、この問題が一筋縄ではいかないことは想像に難くない。

が、この先に起きるキジムナー(沖縄の伝説の妖怪)奇譚との関わりが(もちろんそれは精神的なものであっていいのだが)いまひとつはっきりしないため、見せる部分での怪奇映画としてはある程度成功していながら、やはりそこまでの映画にしかなっていない。つまり、この理屈付けさえ明確にできたならば、十分傑作たり得たのではないか。

仁成の前妻松田早苗(菜葉菜)が急に現れ、仁太に接触したことで仁成は怒りをあらわにする。早苗を殴ってしまうのだから、根は深そうだ。「話してもわかる相手ではない」らしい。そして、いったんは早苗を追い返すのだが、その言葉通りに同じことが繰り返される。

ただ早苗は、この直前に猫の死骸が木に吊されたところ(沖縄では昔よくあった風習と説明されていた)で、キジムナーに取り憑かれているのだ。早苗が鎌を持っていた(キジムナーのせいか)ことで予想外の惨劇となる。もみ合っていて、まず浩市が早苗を刺し、それを抜いた早苗が仁成に襲いかかるのを制しようとして美咲がとどめを刺す形になってしまう。

事件が発覚したらこの村では生きていけないと、浩市と仁成は警察に届けることを拒み(男が3人も傷を負っているのだから正当防衛を主張するのは簡単そうなのだが)、浩市と美咲とで早苗の死体を森の中にある沼に運び、沈めることになる。

話が前後するが、仁成は早苗をビニール袋に包んでいるところを、家に帰ってきた仁太に見られてしまう。目があった仁太は驚いて逃げるが、早苗に鎌で足に傷を付けられている仁成が追いつけないでいるうちに、仁太はサトウキビ畑でハブに噛まれる。仁成は車で病院に向かうが、右側から合流してきた車と激しく接触する(単純ながらこの場面のデキはいい)。

秀人は早苗の死そのものを疑い、茫然としたまま家に帰っていくが、姿を消してしまう。浩市と美咲が秀人を捜してまたあの沼に行くと、「これをあげるから、でもとても痛くて取れないんだ」と言いながら自分の目玉をえぐり取ろうとしている秀人を見つける。

魚の目玉がキジムナーの好物だというのは、おばあが読み聞かせてくれた絵本に、また、仁成の同級生で元ユタだったことから紹介された作家の比屋定影美(エリカ)に、浩市と美咲がキジムナーの話を聞きに行き、比屋定からキジムナーは裏切った人間の目玉をくり抜くのだ、と言われていたことをなぞっているから非常に不気味だ。

仁成は仁太が入院したことすらわからなくなっていて(自分足の傷さえわかっていないようだ)首を吊って死んでしまう。早苗の幻影を見るようになった浩市は、仕事も手に付かない状態になっている。そして、美咲にも早苗の姿が見える時がやってきて、2人は比屋定の助けを求める。

美咲にも早苗が見えるようになる前にある、美咲カが外から浩市の所に帰ってくる3度同じ内容を別のパターンで繰り返す場面は、意味はわからないが怖い。

最後の早苗と比屋定の対決場面は、比屋定のお祓いによって早苗の口から出てきた異物(これがキジムナーなんだろう)を、比屋定がまた食べてしまうというグロな展開となる。ここは映画として面白いところである。ただ逆にここにこだわったことで、作品としてはよくわからないものになってしまった。というのも、キジムナーが何故早苗に取り憑いたのかが、まったく説明されていないからだ(説明不可という立場をとったのかもしれないが)。

かつて(仁太が2歳の時)お腹の子を自分の不注意で死なせてしまったという早苗に、気持ちのやり場のないことはわかるが、だからといって彼女の行動を肯定できるかといえばもちろんそんなことはなく、浩市が自分たちの正当性と早苗を非難したことの方が正論に決まっているのである。もちろんそこまでは、だが。これは比屋定も言っていることだ。

とにかく細かいことを気にしだすと何が何だかわからなくなってくる。ここはやはりキジムナーから離れて、美咲の問題に限定した方がよかったのではないか。そうすれば美咲がどうしてキジムナーに興味を持ったのかということだって曖昧にせずにすみ、早苗に自分の犯した罪(姉の子を殺してしまった)を重ね合わせる美咲の心境を中心にした映画が出来たのではないか。

もっともそうしたからといって、それですべてが解決するかというと全然そんなことはない。美咲のもう前しか見ないという決意(これは病院で仁太の経過を仁成に聞いたあとのこと)にしても、美咲に途中から早苗の亡霊が見えるようになる理由も、やはりすっきりしないままだろうから。

ただ付け加えるなら、早苗と美咲の心の交流がまったくないわけではない。浩市はやはり自分の目玉を刺すことになるが、美咲が自分を刺そうとしたときには、早苗はその包丁を自分に向け、自分を刺すのだ。これは美咲が自分のことをわかってくれたと思ったからだろう。

早苗の遺体が発見されたのは美咲たちの犯行から1ヶ月も経ってで、その日が死亡推定時刻になっているので、警察も困っているという比屋定の報告を、美咲は拘置所の面会室できく。ここでもその理由をキジムナーと結びつけているのだが……。

この刑務所に美咲を姉が訪ねて来ていることには、やはり胸をなで下ろす。姉との関係が戻ることはないにしても(もう至近距離では生活しない方がいいだろうから)、2人は了解だけは取り合っておくべきと思うから。

許されることのないものは存在する。というか、許すか許さないかという認識は他者との関係性で発生するが、その関係性は閉じてしまっても存在する。この場合許す(許さない)側と許される(許されない)側は同一となって、この部分で納得出来なければ、いくら他者から許されても救われないはずだ(もっとも自分の正当性のみしか主張しないまったく無反省な人間もいるようだが、この映画ではそういう人間は登場しない)。

少し映画とは離れた感想になってしまった。

実はこの映画については「決定稿」と印刷された台本が売られていて、それを読んだのだが、とても決定稿とは思えないほど完成した映画とは違っていた。もちろん、それは悪いことではないだろう。特に前半は、台本よりずっと整理されたいいものになっている。

が、後半になると手を入れたところが必ずしもよくなっているとは思えないのだ。映画は1度観ただけだし、この違う部分が多すぎる台本を読んでしまったことで、私が多少混乱していることもあるが、ここまで手をいれたのは監督も作りながらまだ迷っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

たとえば、いままでに書きそびれたことでキジムナーについてもう1度だけ述べると、美咲は「森へ逃げて2度と現れないって、なんかすごく消極的。キジムナーがかわいそう」と絵本のキジムナーに同情しているのだが、映画に出てくるキジムナーは、とても人間の思慮の及ぶ存在ではなかった。また比屋定はキジムナーの存在より、キジムナーに対する人間の想いに興味があると発言していたのに、対決場面ではその存在が当然かのように振る舞っていて、ちょっと面食らってしまったのである。

さらに決定稿だと、最後のクライマックスでは美咲も早苗(キジムナー)に目玉を差し出している(これは比屋定が早苗が吐き出したものを飲み込んだあとなのだ)。そして早苗のはやく楽にしてという言葉に、美咲が早苗を刺すのだ。

ね。ちょっと混乱するでしょ。私も書いててますますわからなくなってきた。

最後は美咲の姉が美咲に面会に行く場面ではなく、片腕を失った仁太が友達にからかわれているところに比屋定が居合わせて、仁太に片腕を亡くしたのならもう片方の腕で生きろと言う。現実を見据えた阿ることのない決意のある場面だが、うーん、やっぱりキジムナーにこだわりすぎて、途中の説明を誤ったよね。飛行機雲がくっきりの、どこまでも明るい沖縄の空の下にある程度恐怖を提示できていたのに、ちょっともったいなかったような。

 

【メモ】

「アコークロー」は、昼と夜の間の黄昏時を意味する沖縄の方言だという。沖縄の言葉の多くは古い時代に本土方言から変化してできたものだと金田一春彦の『日本語』で教えられたが、とするとこれは「明るくて、暗い」なのか。キジムナーもキは木で、ジムナーの方は人を化かす狢がムジナーになって、ムジナーがジムナーと入れ替わることはよくあるから木の狢という意味ではないかと。ま、これはまったくの推論。「木のもの」が語源という説が多いようだ。

偶然の重なった事故は、姉からケータイに連絡が入ったことで、美咲はちょうどその時飛び出してきた自転車にハンドルをぶつけられてベビーカーの手を離してしまい、そこにトラックが突っ込んできて……と映像で説明されていた。

警察に届けない理由を浩市は美咲に次のように説明する。手遅れだし、母親が死んで父親はブタ箱行きでは仁太が救われない、というものだが、お前の姉さんはこの事件を聞いてどう思うというセリフは、そうすんなりとは入ってこなかった。

美咲はイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という方言をあまり好きになれずにいたが、拘置所で比屋定からこの言葉を聞くことになる。

2007年 97分 ビスタサイズ PG-12 配給:彩プロ

監督・脚本:岸本司 製作:高澤吉紀、小黒司 プロデューサー:津島研郎、有吉司 撮影:大城学 特殊メイク:藤平純 美術:濱田智行 編集:森田祥悟 主題歌:ji ma ma『アカリ』 イラスト:三留まゆみ 照明:金城基史 録音:岸本充 助監督:石田玲奈

出演:田丸麻紀(鈴木美咲)、忍成修吾(村松浩市)、エリカ(比屋定影美)、尚玄(渡嘉敷仁成)、菜葉菜(松田早苗)、手島優(亜子)、結城貴史(喜屋武秀人)、村田雄浩(藤木)、清水美砂(美咲の姉)、山城智二(山城)、吉田妙子(喜屋武シズ)

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

新宿ミラノ1 ★★☆

■もう勝手にしてくれぃ

なんでこのシリーズがヒットするんだろ。私にはけっこうな謎だ。海賊映画の伝統があるアメリカならいざ知らず、日本人に食指が動くのかなーと。近年は『ONE PIECE』のようなマンガもあるし(内容は知らん)、ディズニーランドのアトラクションでもお馴染みだから(いや映画はこれが元でしたっけ)、それほど違和感はないのかも。内容重視というのではなく、アトラクションムービーとして楽しめればそれで十分なのだろうか。

そうはいっても170分間全部をその調子でやられてはたまらない。たしかに流れに身をまかせているだけで、退屈することもなく最後まで観せてはくれるが、でも何も残らないんだよな。

デイヴィ・ジョーンズの心臓を手に入れた東インド会社のベケット卿によって窮地に立たされた海賊たちは、死の世界にいるジャック・スパロウを救い出すことにし、ってそうだった、2作目の最後でジャック・スパロウを当然どうにかしなければならないことはわかってはいたんだけど、あらためてこれはないよなー、と思う。早々にもうどうでも良い気分になってしまったもの。

何でもありのいい加減な映画の筋など書く気分じゃないのでもうお終いにしちゃえ。それにしても3作まで作り、ヒットし(金もつぎ込んでるか)、キャラクターも育ったというのに、結局は話に振り回されているだけの印象って、あーもったいない。

 

原題:Pirates of the Caribbean: At Worlds End

2007年 170分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オマン、ブルース・ヘンドリックス、エリック・マクレオド 脚本: テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー キャラクター原案:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、スチュアート・ビーティー、ジェイ・ウォルパート 視覚効果:IKM プロダクションデザイン:リック・ハインリクス 衣装デザイン:ペニー・ローズ 編集:クレイグ・ウッド、スティーヴン・リフキン 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(キャプテン・ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ジェフリー・ラッシュ(キャプテン・バルボッサ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、チョウ・ユンファ(キャプテン・サオ・フェン)、ステラン・スカルスガルド(ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ジェームズ・ノリントン)、トム・ホランダー(ベケット卿)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、デヴィッド・スコフィールド(マーサー)、ケヴィン・R・マクナリー(ギブス航海士)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、マッケンジー・クルック(ラゲッティ)、デヴィッド・ベイリー(コットン)、キース・リチャーズ

300

新宿ミラノ2 ★★☆

■スパルタ教育って優性思想なのか!?

戦闘シーンの迫力に目を奪われていたら、117分はあっけなく過ぎていて、つまりこの映画の映像にはそれだけの迫力があったということなのだが、しかし物語の方は心もとないものだった。

まずスパルタではどのように子供を育てるかという話が出てくる(スパルタ教育を復習)。発育不全や障害は排除され、7歳で母親から離され暴力の世界で生きることを学ばされる。そして、今のスパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、そういう意味でも完璧だったというのだ。

そのレオニダスのもとにペルシャ王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)からの使者が訪れる。西アジアやエジプトなどを手中にしたペルシャは100万という大軍をもってギリシャに迫り、属国になることを要求するのだが、レオニダスはためらうことなく使者を殺してしまう。彼にとって戦うことは当然だったが、好色な司祭たちはクセルクセスの餌(スパルタが滅んだ時は生娘を毎日届けるというすごいもの)に、託宣者(オラクル)のお告げと称してレオニダスにスパルタ軍の出兵を禁じてしまう。

スパルタの滅亡が目に見えているレオニダスは苦悩するが、「戦争はしない。散歩だ」と言って、でも王妃には別れを告げ、親衛隊と北に向かう。それをきいたアルカディア軍も駆けつけてくるが、レオニダスが動かせる兵はわずか300。が、敵の進路にあたる海岸線が狭くなる地点で敵と対峙すれば単純な数の比較は成立しない……たってねー。

で、このあとあらかた戦闘場面についやされるのだが、腑に落ちないのが王妃ゴルゴ(レナ・ヘディ)の行動だ。自分が議会で派兵の要請をしても説得できる可能性が少ないとみてセロン(ドミニク・ウェスト)に接近し、我が身と引き換えに協力を得ようとするのだが、セロンからは逆に王妃に誘惑されたと発言されてしまう。首飾りを渡し「骸となっても戻ってきて」とレオニダスに言っていたのにあまりではないか。

ま、これは男性観客へのサービスみたいなものか。密会場面で王妃は「いい夜ですね」と切り出すがセロンは「話相手に呼んだのではない」とばっさり。王妃は「わかってます」と強気に答えるが、「法を破り議会を無視して進軍したのだから」とすぐ主導権を奪われて、「現実主義者の見返りはおわかりのはず」「すぐにはすまない。苦痛だぞ」だもんね。東映のチャンバラ時代劇にもあるいたぶって喜ぶ悪代官みたいな感じ。

セロンの発言のひどさに、怒りに燃えた王妃が、剣で彼を刺し殺してしまうのだが、セロンの懐からペルシア金貨がこぼれ落ちたことから、セロンが裏切り者だったことがわかる。いや、もう、なんともわかりやすい説明(こんな時に持ってるなよ、ペルシャ金貨)。

物語は他の部分ではもっと単純。とにかく戦闘場面に集中しろということか。確かにその映像は一見に値する。茶を基調に色数を抑えたざらついた質感の画面に、スパルタ兵のまとうケープや血しぶきの赤を強調するところなど『シン・シティ』(この原作もフランク・ミラーだ)にもあった手法だが、戦闘場面にこだわった映画だけに、これがものすごく効いている。スローモーションと速送りを自在に組み合わせることで、獲物を仕留める正確さと速度の尋常ならざることの両方をきっちりと描く。

無茶なアップや雑なカメラ移動もないから安心して観ていられるのだ。すべてが計算された動きの中にある感じで、いかに敵を仕留めたかを観客にわからせようとしているようでもある。そしてこれを徹底させることが、画面から現実味をなくし、よりゲームに近い世界を作り上げることになった。首が、腕が、飛び、血しぶきが舞いながら、残虐性より美しさが演出されていたと言ったら褒めすぎか。実写をデジタル処理したマンガと思えば(そこまではいってないが)いいのかも。

このことに関係しているはずだが、ペルシャ軍の秘密兵器の飾り立てられたサイや象なども、もはや常識の大きさではなく、まるでゲイのようなクセルクセスの高い背、戦場とは思えない御輿なども、すべてがゲームやマンガに近い。1人が100人を殺しても(疲れちゃうものね)3万人の犠牲ですみそうなのに、ペルシャ軍はありえない巨大動物だけでなく、怪力男、忍者?部隊なども繰り出してくる。それを次々と撃破してしまうんだからねー。

とはいえ、敵に山羊の道を知られたことで退却者も出、スパルタの勇士たちにも力の尽きる時がくる。レオニダスは無数の矢に射られて命を落とし、王妃の元には使者によって首飾りが届けられる。

ただ、このあとの「神秘主義と専政政治から世界を救う」というメッセージには同調しかねる。最初の方でも「世界の手本である民主主義」などという言葉が出てきたが、そこまで言っては思い上がりというものだ。

一般のペルシア兵が仮面軍隊というのは、面白さとわかりやすさから採用されたのだとは思うが、見方を変えると個性剥奪というずいぶんな扱いであるし、それに巻頭にあった、スパルタでは弱者は生かしてもらえないという部分は、ナチスなどの優性思想に通じるものだもね。2500年前にはそうでもなきゃ生きていけなかったのかもしれないけど、こうあからさまに言われてしまうと聞き捨てならなくなる。

  

原題:300

2006年 117分 シネスコサイズ アメリカ R-15 配給:ワーナー・ブラザーズ映画 日本語字幕:林完治

監督:ザック・スナイダー 製作:ジャンニ・ヌナリ、マーク・キャントン、バーニー・ゴールドマン、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:フランク・ミラー、デボラ・スナイダー、クレイグ・J・フローレス、トーマス・タル、ウィリアム・フェイ、スコット・メドニック、ベンジャミン・ウェイスブレン 原作:フランク・ミラー、リン・ヴァーリー 脚本:ザック・スナイダー、マイケル・B・ゴードン、カート・ジョンスタッド 撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイン:ジェームズ・ビゼル 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:ジェラルド・バトラー(レオニダス)、レナ・ヘディ(ゴルゴ/王妃)、デヴィッド・ウェンハム(ディリオス)、ドミニク・ウェスト(セロン)、ミヒャエル・ファスベンダー(ステリオス)、ヴィンセント・リーガン(隊長)、トム・ウィズダム(アスティノス)、アンドリュー・プレヴィン(ダクソス)、アンドリュー・ティアナン(エフィアルテス)、ロドリゴ・サントロ(クセルクセス)、マリー=ジュリー・リヴェス、スティーヴン・マクハティ、タイロン・ベンスキン、ピーター・メンサー

しゃべれども しゃべれども

新宿武蔵野館1 ★★★★

■落語の味わい、ながら本気度満点

この映画を文章で説明してもあまり面白くなりそうもないのだが、しかし目的はまず自分のための忘備録なのであるからして、やはり粗筋くらいは書いておくか(書き出せばなんとかなるだろう)。

二つ目で今昔亭三つ葉という名をもらっている外山達也(国分太一)が、師匠の小三文(伊東四朗)に弟子入りしたのは18の時だから、もうすでに10年以上が経っている。達也は古典落語にこだわり、常に着物を着る、根っからの落語好き。なのに、どう喋ったらいいかがなかなか掴めずにいた。そんな彼が、よりによっておかしな3人を相手に話し方教室を開くことになるという、まるで落語の題材のような映画だ。

まずは、村林優(森永悠希)という大阪からの転校小学生。言葉の問題でいじめにあっているらしい。心配になって達也に相談してきたのが彼の叔母の実川郁子(占部房子)。彼女は達也の祖母春子(八千草薫)のお茶の生徒で、優が落語を覚えれば人気者になって問題解決と思ったらしい(これが彼女らしさなのかも)。達也は郁子に秘かに想いを寄せていたのだが、展開の糸口も見せてくれないうちに「来年結婚することにした」という郁子の宣言を達也は聞かされることになる(はい、残念でした)。

2人目は十河五月(香里奈)という若い女性。小三文が講師となったカルチャースクールの話し方教室を中途退席した失礼なヤツ。達也は「師匠はいつもあんなもん」と弁護するのだが、五月は「本気でしゃべってない」から「つまらない」と手厳しい。2人の掛け合いが、実際に自分がその内の1人だったらとてもこうはいかないと思うのだが、ギリギリのところで繋がっていて面白い。

五月のように、こうぶっきらぼうに話されてはたまったものではないし、だから話し方教室はぜひとも必要と思わせるのだが、しかし彼女の口から出る言葉は常に本音だから、達也も正面からぶつかっていったのだろう。事実、何故か一緒に行くことになったほおずき市でも、楽しかったと正直な感想を述べていた(達也は郁子の気持ちをこの時はまだ知らない。五月の方は、男にフラれた話を達也にしたところだった)。

3人目は元野球選手の湯河原太一(松重豊)。現役時代は「代打の湯河原」として湧かせたらしいが、話し下手であがり症だから解説者としての前途は暗澹たるもので、教室の噂を聞きつけて飛び込みでやってきたのだった。

3人が教室で一緒になる設定は、強引といえば強引。だけど、この取り合わせの妙は捨てがたいものがある。優は小学生ながら、口は達者でお調子乗り。湯河原太一とは相性が悪く険悪ムードが漂うが、でも優のいじめっ子宮田との野球対決に湯河原が一役買ってという流れにはちゃんと2人の本気度が感じられる。結局、アドバイスはもらったものの宮田には三振で負けてしまうのだが、このあと優の失踪騒動(達也の部屋にいただけだった)では、達也が優に手を出してしまうことになる。

こんなだから、教室の発表会の開催はあやしくなる。達也にも、師匠から一門会があるという話があって、集中しなければならない事情があった。なにしろ達也はあろうことか師匠の十八番である『火焔太鼓』をやると決めてしまったのだ。これを決める少し前に達也が「俺、師匠の噺が好きです」と師匠に言う素晴らしい場面がある。この達也の真っ直ぐな気持ちには泣けてしまう。

クライマックスというほどのものなどないのだが、結局達也(ここは三つ葉と書くべきか)は体調を崩していたことも幸いしたのか、一門会で自分なりの『火焔太鼓』をものにする。そして、教室の発表会も無事行われることとなった。

優は『饅頭こわい』で宮田から笑いを取り、姿をなかなか見せずに心配させた五月も、演目を変え達也と同じ『火焔太鼓』を披露する。教室には何しにきていたのかわからないような湯河原だったが、彼も来年からはコーチをやることになったという。不器用な彼ら(優は最初から器用だったけどね)だったが、五月の言ったとおり「みんな、本気でなんとかしたいって思って」いて、本当になんとかしたのだった。

最後は達也を追いかけるようにして五月が水上バスに乗り込んできて、言わないと一生後悔する気がすると、ほおずきがうれしかったことを告げる。いらないと言い張っていたほおずきを、達也が買って五月の家に届けてやっていたのだ。2人が結ばれる結末は予想どおりにしても、ここまではっきりとした意思表示を五月が見せるとは思いもしなかった。ということは『饅頭こわい』を『火焔太鼓』にしたのにも、同様の意味があったということか。ずっと練習していた『饅頭こわい』ではなく、達也が悩み苦しんでいた『火焔太鼓』を五月も一緒になって演じたかったのだ。

一方的に五月に攻勢をかけられてしまっては、達也が心配になるが、『火焔太鼓』を30点評価にして「『饅頭こわい』はどこに行った」と切り返すあたり、さすがにそれはわかっていたらしい。で、「ウチにくるか、祖母さんがいるけどな」となる。

もっとも、そこまでわかっているなら、達也がもう少し気をきかせてやってもよかったような。じゃないか、五月が自分で意思表示することが1番大切なことだと、達也にはわかっていたのだよね(そういうことにしておこう)。

しかしくだらないことだが、達也が豊島区の家を出ると、次には江東区の水上バスに乗っているというのがどうもね。深川図書館や水上バスが出てくる風景は、私にとっては日常の延長線のものだからそれだけでうれしいのだが、だからよけい気になってしまうのである。

  

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:平山秀幸 プロデューサー:渡辺敦、小川真司 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎、藤島ジュリーK.、奥田誠治、田島一昌、渡辺純一、大月昇 原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』 脚本:奥寺佐渡子 撮影:藤澤順一 美術:中山慎 編集:洲崎千恵子 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ゆず『明日天気になぁれ』 照明:上田なりゆき 装飾:松本良二 録音:小松将人 助監督:城本俊治 落語監修・指導:柳家三三、古今亭菊志ん

出演:国分太一(外山達也/今昔亭三つ葉)、香里奈(十河五月)、森永悠希(村林優)、松重豊(湯河原太一)、八千草薫(外山春子)、伊東四朗(今昔亭小三文)、占部房子(実川郁子)、外波山文明(末広亭の師匠)、建蔵(今昔亭六文)、日向とめ吉(今昔亭三角)、青木和代(八重子)、下元史朗(十河巌)、水木薫(十河みどり)三田村周三

ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

監督・ばんざい!

銀座テアトルシネマ ★☆

■壊れてます

ヤクザ映画を封印した「馬鹿監督」(とナレーターに言わせている)のタケシが、それならといろいろなジャンルの映画に挑戦する。小津映画、昭和30年代映画、恐怖映画、時代劇にSF映画(他にもあったか?)。それぞれにまあまあの時間をとり、配役もタケシの力かそれなりに凝ったものにしてあるが、ちっとも面白くない。

いろいろなパターンを見せてくれるから飽きはしないのだが、笑えないのだ。映画をジャンル分けで考えていること自体そもそもどうかと思うのだが、それを片っ端からやって(ある意味では偉い!)否定してみせる。でもこの発想はあまりに幼稚で、観ているのがいやになってしまう。その否定の理由も、「何故女が男に尽くす映画ばかりなんだろう」とか「またギャング(ギャグではない)が出てきてしまった」とかいったもので(これもナレーターに言わせているのだな)、まともな批評になっていないのだ。批評になっていないのは自分の作品まで引っ張り出してしまっているからだろうか。

わずかに『コールタールの力道山』(劇中映画の1つ)に、『三丁目の夕日』の懐古趣味の甘さは耐えられないと言わんばかりの切り口があるが、他はひどいものばかり。特に小津映画を真似たものなんて見ちゃいられなくって(だいいち、あんな昔の映画に今頃何を言いたいのか)、これって大学の映研レベルではないかと。

で、何をやってもうまくいかないでいたのだが(いや、現実にそうなっていた?)、詐欺師の母娘が東大泉という得体の知れない人物に近づくという話だけは、どんどん進行していって……なんだけど、これがどこにもない映画なの。東大泉の秘書との恋や、何でもありの井手博士展開って、奇想天外というより安直なんですが。そりゃ面白いでしょ、タケシは。大金使って遊んでるだけなんだもの。だから「監督・ばんざい!」なのか。

最後のオチも最低。流れ星が光に包まれて爆発。全員が吹っ飛ぶと「GLORY TO THE FILMMEKER」というタイトルが表れる。これはタケシの妄想だったらしいのだ。先生にどうですか、なんて訊いていて、壊れてますという答えが返ってくる。やれやれ。自分で言うなよな。

巻頭で、タケシは等身大の人形を持って登場するのだが、この人形は何なのか。タケシでなく、人形が病院で診察を受けCTスキャンに入るのだが、まったく意味不明。もちろん勝手な解釈でいいというなら適当にデッチ上げることは出来る(いつもしてることだけど)。例えば、タケシは観客が自分のことをちゃんと見ているはずがなく、人形に置き換えてもきっと誰も気付くまいと思っているのだ、とか。あるいは、人形という分身を持ち歩かないではいられないと訴えたいのだ、とか。

でも、それもそこまでで、よーするにこねくり回してでも何かを書いておきたいという気になれないのよね。

  

2007年 104分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル、オフィス北野

監督・脚本:北野武 プロデューサー:森昌行、吉田多喜男 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 衣裳:岩崎文男 編集:北野武、太田義則 音楽:池辺晋一郎 VFXスーパーバイザー:貞原能文 ラインプロデューサー:小宮慎二 音響効果:柴崎憲治 記録:吉田久美子 照明:高屋齋 装飾:尾関龍生 録音:堀内戦治 助監督:松川嵩史 ナレーション:伊武雅刀

出演:ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、宝田明、藤田弓子、内田有紀、木村佳乃、松坂慶子、大杉漣、寺島進、六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、蝶野正洋、天山広吉

素晴らしき休日

銀座テアトルシネマ ★★☆

■畑の中の映画館

『監督・ばんざい!』の上映前にかかった短篇。カンヌ映画祭60周年を記念して、35人の映画監督に映画館をテーマに持ち時間3分で短篇の依頼があって作られたものらしい。

田舎の畑の三叉路にあるヒカリ座という映画館に1人の男(モロ師岡)がやってくる。ちょっとうっかりしていて定かではないのだが、男は「農業1枚」(こんなこと言うかな)と言って切符を買う。ちなみに映画は『Kids Return キッズ・リターン』で料金は大人500円、学生400円、子供200円。農業はいくらなんだ。

上映となるが、すぐにトラブルがあって、映写技師(北野武)がちょっと待ってくださいと言う。が、タバコ数本分は待たされてしまう。しかしどうでもいいのだが、この映画館のボロさはただ者ではないのだな。朽ちかけた椅子もあるし。で、再開されるのだが、今度はフィルムが焼けてしまう(いまだに可燃フィルム?)。男も怒るでもなく、犬にパンなどをやっているのだ。

「はい、いきまーす」のかけ声で映画がまた始まる。

私は観ていないからわからないのだが、多分『Kids Return キッズ・リターン』がそのままかかっていて、「俺たち終わっちゃったのかな」「まだ始まっちゃいねえよ」という場面が映る。

外はもう夕方になっていて、男が1本道を画面の奥に向かって帰って行く。

これだけの映画(3分だからね)だが、タイトルが『素晴らしき休日』ということは、男は十分満足して帰ったということなのか。映画がよっぽど素晴らしかったのか。ってそれだと自画自賛だけど、客1人のために映画を上映するというのがなんだかいい。客の方も映画を観にとぼとぼとやってきたわけで。

むふふ映画館もこんな畑の中に作ればよかったかなー、と思ってしまったのだな(まったく気が多い)。んで、私も短篇を作って客に強制的に観せてしまうというのはどうかな、と。こういう短篇は妄想がふくらむから、幸せな気分になれる。

2007年 3分 ビスタサイズ

監督:北野武

出演:モロ師岡、北野武

ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

女帝[エンペラー]

有楽座 ★★☆

■様式美が恨めしい

『ハムレット』を基に、唐王朝崩壊後の五代十国時代の中国に移し替えた作品ということだが、話自体にかなり手を入れていることもあって、印象はまったく違うものとなった。

皇太子ウールアン(ダニエル・ウー)の妻だったのに、どうしてか彼の父の王妃となっていたワン(チャン・ツィイー)は、王の謎の死で、今度は新帝となった王の弟リー(グォ・ヨウ)のものとなる。ウールアンからすると、父と叔父に妻を取られるという図である。

「そちを手に入れたから国も霞んで見える」とリーに言わせるほどのワンではあるが(傾国の美女ってやつね)、この設定はいただけない。チャン・ツィイーを主役にするための『ハムレット』の改変だが、恋人だったウールアンを救うためにワンがリーの妻になるというのがはじまりでは、観客はもう最初からどうにでもなれという心境になる。話をいたずらに込み入らせるばかりで、気持ちの整理がつかなくなると思うのだが。

ワンが妻から義理の母になったことで、ウールアンは呉越で隠棲し、ただ歌と舞踏の修行に打ち込んでいたらしいのだが、兄を殺害(死の真相)したリーは、魔の手をウールアンにも差し向ける。

ウールアンの修行の地で繰り広げられる、舞踏集団とリーの送り込んだ暗殺団とのアクション場面は、舞踏集団の白面に白装束の舞が戦闘場面とは思えぬ優美さを演出するのだが、しかしやはりそれは舞踏にすぎないのか、暗殺団の手によって次々と命を落としていく様は、その美しさが恨めしくなるほどだ。彼らが積んできた修行の結果のその舞は、ほとんど何の役にも立たないのである。そして、それは皮肉なことにこの映画を象徴しているかのようである。

衣装や宮殿の豪華さを背景に、ワイヤーを多用した様式化された映像は、最近では多少鼻についてはきたものの息を呑むような仕上がりになっている。が、肝腎のドラマが最後まで機能していないのだ。

都に戻ったウールアンはワンに再会したのに「父上のお悔やみを言うべきか、母上にはお祝いを言うべきか」などと皮肉をいう始末。ウールアンにしてみればワンの行動が自分の安全と引き換えになっているなどとはとても思えない(現に暗殺されそうになった)から当然なのだが、でもここまで言ってしまうとちょっとという気になる(ここで演じられるワンとウールアンの舞踏?も物語と切り離して見る分には素晴らしいのだけどね)。

王妃の即位式でのウールアンの当てつけがましい先帝暗殺劇に、拍手を贈る裏でまたもウールアンの暗殺をもくろむリー(しかしここはそのまま人質交換要員として送り出してしまった方がよかったのではないか)。ワンはウールアンの許嫁チンニー(ジョウ・シュン。これがオフィーリアになるんだろうか)の兄イン・シュン将軍(ホァン・シャオミン)に、暗殺の阻止とリーへの偽りの報告をさせ、自らは毒薬を手に入れ、夜宴の席でリーの盃に注ぐ。

これがチンニーの死を招くことになってしまうのだが、真相を知ったリーは「そちが注いでくれた酒だ。飲まぬわけにはいくまい」と自ら毒杯を仰ぐ。ここもワンへのリーの想いがここまでになっていたことを表す場面なのだが、そういう気持ちに入り込むことより、ここに至るお膳立ての方ばかりに目が行ってしまうのだ。リーがワンの復讐心に気付かなかったのは不思議でもあるが、しかしそう思いなおしてみるとワンの復讐心がきちっと描かれていなかった気もしてくる。

といってワンに復讐心ではなく権力欲があったとも思えないのだが、チンニー、リー、ウールアン、イン将軍と、あれよあれよという間に登場人物がどんどん死んでいって、女帝陛下ワンが誕生することになる。これはワンが望んでいたものではなかったはずだが、欲望の色である茜色が好きで「私だけがこの色に燃えて輝く」などと言わしているところをみると、案外そうでもなかったのか。

しかしそのワンも、その言葉を口にしたとたん、やはり誰かに殺されてしまうのである。映画は額に血管の浮き出たワンの表情を捉えるが、殺した者を明かすことなく終映となる。しかし、ここのカットだけ長くして彼女の気持ちを汲み取れと言われてもなー。それに、チャン・ツィイーは今回ちょっと見慣れぬ化粧(時代考証の結果?)ということもあって、この最後の場面はともかく、表情とかよくわからなかったのね。

 

原題:夜宴 英題:The Banquet

2006年 131分 シネスコサイズ 中国、香港 PG-12 日本語字幕:水野衛子 字幕監修:中島丈博 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:フォン・シャオガン[馮小剛] アクション監督:ユエン・ウーピン[袁和平] 撮影:レイモンド・ラム 美術・衣装デザイン:ティミー・イップ[葉錦添] 音楽:タン・ドゥン[譚盾]

出演:チャン・ツィイー[章子怡](ワン)、ダニエル・ウー[呉彦祖](ウールアン)、グォ・ヨウ[葛優](リー)、ジョウ・シュン[周迅](チンニー)、ホァン・シャオミン(イン・シュン将軍)、リー・ビンビン、マー・チンウー、チン・ハイルー

GOAL! 2

新宿ミラノ3 ★

■おそろしくつまらない

ここまでつまらない映画というのも珍しい。最初から3部作ということが決まっていることが裏目に出たか。こんなことでワールドカップ篇が作れるのか心配になる(ちゅーか、今は観たくない気分)。

ガバン・ハリス(アレッサンドロ・ニヴォラ)の不振が続くレアル・マドリードは、補強策としてニューカッスルでゴールを量産しているサンティアゴ・ムネス(クノ・ベッカー)に白羽の矢を立てる(一足先にハリスはレアルに移籍してたのね)。日本での契約交渉を経てサンティは晴れてスター軍団レアルの一員となるのだが、婚約者のロズ・ハーミソン(アンナ・フリエル)に相談もなく決めてしまったものだから、彼女に不満がくすぶることになる。

契約に縛られたサンティの代わりにロズがイギリスからスペインに行ってばかりなのに、サンティの方は豪邸を買い、ランボルギーニを乗り回し、おまけに独身男ハリスの気ままな生活に影響されてと、ロザの疎外感には気付かなくはないのだが、まるで自分たちのことではないような気分でいるのだ。

第1作で成功への道を掴むまでの過程に比べると、すでにニューカッスルではスターで、さらにレアルの一員になって、スタメンとしては使ってもらえないものの「スーパーサブ」として活躍中とあっては、その華やかさに触れないわけにはいかなかったのだろうが、やはりこんなではサンティの心境同様に浮ついたものになるしかない。

それではあんまりと、ロザとの行き違いの他、エージェントのグレン・フォイ(スティーヴン・ディレイン)との決別などでサンティを苦しめるのだが、さらにサンティにとって父の違う弟エンリケ(ホルヘ・ガルシア・フラド)を登場させている。家を捨てた母のロサ(エリザベス・ペーニャ)がスペインで生んだ子という。

ただこのエンリケの描き方は雑で、話を壊している。父親がちゃんと酒場を経営しているのに、エンリケは貧困が不満で、兄なら何故助けてくれないとロサにあたる。それだけでなく、財布は盗むし、サンティのランボルギーニを乗り回して事故まで起こしてしまうのだ。まだ子供とはいえ、ここまでやらせてしまうと同情しにくくなる。ロサは、サンティは別世界の人とエンリケを諭すのだが、とはいえサンティが兄ということを教えたのはそのロサではないか。

母親との再会は、家族を捨てた女をどう説明するかにかかっていると思うのだが、これはロサを暴行した2人の1人が伯父で、父にも言えず家を飛び出し、3週間たって戻ってみたら誰もいなかった、と納得の理由を用意してみせる。が、ロサにただ弁解させているだけだから芸がない。物語は作れても、それをどう見せるかがわかっていないのである。

この他にも、初先発でのレッドカード、遅刻、監督との確執、エージェントに騙されたハリスがサンティの元に来ての共同生活、サンティの怪我、記者への暴行、美人キャスター、ジョルダナ(レオノア・バレラ)とのパパラッチ写真といろいろあるのだが、全部が何事もなかったかのようにおさまってしまうのだ。

なにしろ、1番難題なはずのロザとのことも、サンティの謝りの電話であっさり和解、ではね。で、そこには身重になっている彼女のカットが入っていた。女はどうしても男に振り回される立場になるものね。だから、そもそもロザの要求はサンティには酷。サンティがレアルに入ることを決めた時点で(これはロザでなくサッカーを選んだのだから)結婚を解消するか、ロザがスペインに行くしかなかったのだ。

あと話題(?)のベッカム、ラウール・ゴンサレス、ジダン、ロナウドたちとの夢の共演だが、ほとんどがロッカールーム要員という肩すかし。ベッカムはちょっと特別扱いになっていて(チラシもサンティ、ハリス、ベッカムの3人だものね)最後にはゴールを決め、レアルはアーセナルを破ってヨーロッパチャンピオンに。まあ、いいけどさ。それにそのベッカムももうレアルを離れる(た)んだよね。

それほど熱心なサッカーファンではないのでよくわからないのだが、サッカー場面は映像的にも一応様になっていたのではないか。ただ、試合の中でのそれを見せていたとはとても思えない。試合を映画で見せるのが難しいから、いろいろな要素を詰め込まざるを得なかったのだろうけど、それもことごとく失敗してたのはもうすでに述べたとおりだ。

原題:GOAL II: living the Dream

2007年 114分 スコープサイズ イギリス 配給:ショウゲート 日本語字幕:岡田壮平

監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:マット・バーレル、マーク・ハッファム、マイク・ジェフリーズ 製作総指揮:スチュアート・フォード 原案:マイク・ジェフリーズ 脚本:エイドリアン・ブッチャート、マイク・ジェフリーズ、テリー・ローン 撮影:フラヴィオ・マルチネス・ラビアーノ プロダクションデザイン:ジョエル・コリンズ 音楽:スティーヴン・ウォーベック
 
出演:クノ・ベッカー(サンティアゴ・ムネス/サンティ)、アレッサンドロ・ニヴォラ(ガバン・ハリス)、アンナ・フリエル(ロズ・ハーミソン)、スティーヴン・ディレイン(グレン・フォイ/エージェント)、レオノア・バレラ(ジョルダナ・ガルシア/キャスター)、ルトガー・ハウアー(ルティ・ファン・デル・メルベ/監督)、エリザベス・ペーニャ(ロサ・マリア/サンティの母)、ホルヘ・ガルシア・フラド(エンリケ/弟)、ニック・キャノン(TJ・ハーパー)、カルメロ・ゴメス(ブルチャガ/コーチ)、フランシス・バーバー(キャロル・ハーミソン/ロズの母)、ミリアム・コロン(メルセデス/祖母)、キーラン・オブライエン、ショーン・パートウィー、デヴィッド・ベッカム、ロナウド、ジネディーヌ・ジダン、ラウール・ゴンサレス、イケル・カシージャス、イバン・エルゲラ、ミチェル・サルガド