転々

テアトル新宿 ★★★☆

■疑似家族に涙する大学8年生

サラ金の取り立てを稼業としている福原愛一郎(三浦友和)は、はずみで殴った妻が死んでしまい、吉祥寺(調布?の飛行場も映っていたが)からわざわざ桜田門まで、しかも歩いて自首するのだという。それに付き合えば100万円がもらえるからと、話に乗ってしまったのが取り立てを食らって福原の靴下を口に詰め込まれてしまった竹村文哉(オダギリジョー)で、2人で東京を「転々」としながら何となく目的地へ向かうという奇妙な旅?がはじまる。

大学8年生で、借金苦のどん底生活とナレーションも担当している文哉が、淡々と自分を説明するのだが、そりゃ十分悲惨だと思う。

片や、年上だし口調も偉そうな福原だけど、妻(宮田早苗)との関係では、こちらも言い尽くしがたい闇を抱えていたようである。夜、2人でバス散歩と洒落てみるが、声もかけずに自分だけ下車してしまう妻に、残された福原は茫然とするばかりで、この回想映像に深い意味はなさそうだが、闇の深さは十分わかる。

もっともそんな福原ながら、ある事情で仮の夫婦となった麻紀子(小泉今日子)と、まんざらではない間柄にあるのだから、いい加減なものなのだ。

さらに麻紀子の姉の子のふふみ(吉高由里子)が加わって、そして文哉も成り行きとはいえ福原と麻紀子の息子役をけっこう嬉々として演じ、1組の家族らしきものが出来上がることになる。

親に捨てられた文哉にとっては、疑似家族といえども涙の出てきてしまう存在で、福原が自首することをおしとどめたくなっている自分に気付くのだが、そんな文哉を残して福原は桜田門に向かっていく。

しかしそれにしても疑似家族に涙するような結末で締めくくらなければならないのが現代のある形であるのなら、なんとも痛々しい地点に我々はいるのだろう(でもまあ、そうなのかもね)。

三木ワールドで味付けした東京散歩は、随所に隠し味があって楽しめるが、少々地理的な不都合を感じなくもなかった(転々なのだから、これでいいのかもしれないが)。

 

2007年 101分 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム

監督:三木聡 製作:辻畑秀生、宮崎恭一、大村正一郎 プロデューサー:代情明彦、下橋伸明 エグゼクティブプロデューサー:甲斐真樹、國實瑞惠 企画:林哲次、菊池美由貴 原作:藤田宜永『転々』 脚本:三木聡 撮影:谷川創平 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 エンディングテーマ:ムーンライダーズ『髭と口紅とバルコニー』 コスチュームデザイン:勝俣淳子 照明:金子康博 録音:瀬谷満 助監督:高野敏幸

出演:オダギリジョー(竹村文哉)、三浦友和(福原愛一郎)、小泉今日子(麻紀子)、吉高由里子(ふふみ)、岩松了(国松)、ふせえり(仙台)、松重豊(友部)、広田レオナ(鏑木)、津村鷹志(時計屋の主人)、宮田早苗(福原の妻)、石井苗子(多賀子)、横山あきお(石膏仮面)、平岩紙(尚美)、ブラボー小松(ギターマン)、末広ゆい(募金を呼びかける女子高生)、渡辺かな子(募金を呼びかける女子高生)、並木幹雄(助監督)、明日香まゆ美(植物園のおばさん)、福島一樹(少年文哉)、村崎真彩(少女尚美)、麻生久美子(三日月しずか)、笹野高史(畳屋のオヤジ)、鷲尾真知子(愛玉子店のおばさん)、石原良純(愛玉子店の息子)、才藤了介(駅員)、風見章子(お婆さん)、岸部一徳(岸部一徳)

めがね

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■「たそがれ教」にようこそ

主人公のタエコ(小林聡美)はとある南の島に降り立ちハマダという人気のない宿にたどり着くが、たそがれ教の一味であるユージ(光石研)とサクラ(もたいまさこ)に洗脳されそうになる。それに気付いたタエコは島にあるマリンハウスというもう1軒の宿へ逃げ出すが、そこは労働と学習というコンセプトのもとに取り仕切られた収容所で、しかも実体はたそがれ教に帰依させるための出先機関であった。

このカラクリにまんまとはまってしまったタエコは1日中島をさまよい歩いたあげく、夕方にはサクラの運転する三輪車に乗ってハマダへと回収されるしかなかった……。

というのは大嘘で、実は何も起こらない映画というのが1番正しいだろうか。とはいえ上記のような陰謀説が成立しないかというと、そう簡単でもない。

登場人物はそのほとんどが謎。春の閑散期に島へやって来たタエコは年下のヨモギ(加瀬亮)が彼女を追ってくるからワケありなのだろうか。けれど2人の仲はとてもベタついては見えない。ヨモギがタエコを「先生」と呼んでいるので、ふーんそうなのかと思うが、それ以上のことは何もわからない。というより明かしてくれないのだ。

宿の主人のユージや、常連客だというサクラ、地元の生物学教師で授業をさぼってばかりのハルナ(市川実日子)も似たようなもので、謎ではあっても余計な詮索はしないということか。といって他人に対して、まったく無関心かというとそんなことはないのだが、訊かれても曖昧に答えておいて、それでおしまいなのだから始末に悪い(俗人としては生計がどうやって成り立っているのかだって知りたいのだ)。ここらへんは『かもめ食堂』と同じスタンスなのだが、印象は微妙に違う。

んで、結論はというと、とてもここにはいられないと思っていたタエコが、次の年にはサクラよりも島に先に来ていて、すっかりたそがれ教の信者になってしまっているのであった。

しかし、こんな休暇を取る余裕があるということ自体が何とも腹立たしいのだな。「飽きるまで」いる、っていうんだから。もっとも教祖のサクラにしてもずっといるわけではないってことは、永住するには飽きてしまうのかもしれない。それともお金を取らないかき氷屋を開くためには、別な場所ではちゃーんと稼がなければならないことを仄めかしているのだろうか。

説明を極力排して、実時間にそったかのようなゆったり感は、確かに心地よいものがあるが、唐突なヨモギのドイツ語の詩の朗読や教祖様(或いは宇宙人か)サクラの言動は、映画でなく現実であったなら、薄気味悪いだけだろう。タエコが心変わりしてしまったのは、あのかき氷の小豆あたりに洗脳薬が仕込まれていたからではないか。

仕事とは無関係ののんびりとした自然の中で、その自然の恵みであるおいしいものを心ゆくまで食べるということだけでも都会人にはもてはやされるのか。休日のタイムズスクエアは見事に満席だったが、でもこれってただただ貧相なことの証みたいなものなんだけどねー。

ところでエンドロールを眺めていたら、マリンハウスのオーナー役の薬師丸ひろ子を「めがね」の友人とクレジットしていた。これはどういう意味なのだ。タエコ、ユージ、サクラ、ハルナ、ヨモギの5人全員がメガネをかけているから『めがね』というタイトルなのはあんまりだとは思っていたけれど、でもこう書かれたらもっとわからなくなる。こんなところまで気を引いておいて、答えを明かしてくれないんじゃ、私はたそがれ教には入信しないよ。

 

2007年 106分 ビスタサイズ 配給:日活監督・脚本:荻上直子 プロデューサー:小室秀一、前川えんま エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、木幡久美 アソシエイトプロデューサー:オオタメグミ 企画:霞澤花子 撮影:谷峰登 美術:富田麻友美 編集:普嶋信一 音楽:金子隆博 音楽プロデューサー:丹俊樹 エンディングテーマ:大貫妙子『めがね』 スクリプター:天池芳美 スタイリスト:堀越絹衣、澤いずみ フードスタイリスト:飯島奈美 ヘアメイク:宮崎智子 写真:高橋ヨーコ 照明:武藤要一 録音:林大輔 メルシー体操:伊藤千枝(珍しいキノコ舞踊団)

出演:小林聡美(タエコ)、光石研(ユージ)、もたいまさこ(サクラ)、市川実日子(ハルナ)、加瀬亮(ヨモギ)、薬師丸ひろ子(森下/「めがね」の友だち)

ストレンヂア -無皇刃譚-

テアトル新宿 ★★☆

■殺陣、殺陣、殺陣

アニメで殺陣を描くことを追求した作品といってしまっていいくらい斬り合いの場面が詰め込まれている。見せ方にも工夫があって、そうとう殺陣にこだわりがあるのだなと思わせるが、背景部分は大風呂敷を広げた割には雑。

不老不死の仙薬を抽出するために是が非でも必要だという少年(ここがやはり説得力に欠けるのだな)仔太郎とかかわりをもつことになる浪人の名無しが、戦国時代のとある国を滅ぼすことになる戦いに巻き込まれていく。

日本にまで仔太郎を追ってきたのは明国の王命を受けた者たちで、その中には青い目の羅狼という者までがいて、クライマックスではこの名うての剣の使い手と抜刀を封じていた(抜刀できないようにしている)名無しとの対決がある。

彼らが赤池ノ国の領主にどうやって取り入ったかは不明ながら、領主の庇護の元、大掛かりな装置(薬の抽出のためらしいが、大げさなだけでさ)をある時期に合わせて作りあげる(これまた薬に関係があるらしい)。もっとも、領主の方もただ明の人間たちにいいようにやられているような人間ではないから、最後には両者の熾烈な争いになる。

明からの武装集団は不老不死の仙薬を抽出しようとするだけあって、自分たちにも薬を使った強化をしている。ドーピングは拷問にも耐えられるすごいものなのだが、領主側もそんなことに少しもひるまない。

なにしろ戦いにからんだ人間(名無しと仔太郎の他)は、すべて死んでしまうことになるのだから凄まじい。姫を我が物にしたい若者を出してきて、普通なら美談めいた扱いにするところだが、若者は明の捕虜となった城主を自らすすんで殺してみせる。そしてこの若者も適当なところで画面から抹殺されてしまうのだ。

描写もPG-12ですんでいるのはアニメだからであって、このままそっくり実写にしたら目をそむけずにはいられないほどの残酷さなのである。

救いは名無しと仔太郎とが一緒に行動することになって、何とか生き延び、馬に乗りながら将来を語るところだ。この流れや名無しの過去の扱いなどは使い古されたものなのだが、全体が殺伐とした雰囲気にある中で、生きることの楽しさがうまく演出されていた。

  

2006年 102分 ビスタサイズ PG-12 配給:松竹

監督:安藤真裕 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 原作:BONES 脚本:高山文彦 撮影監督:宮原洋平 美術監督:森川篤 美術設計:竹内志保 音楽:佐藤直紀 音響監督:若林和弘 作画監督:伊藤嘉之 色彩設計:中山しほ子 人物設計:斎藤恒徳

声の出演:長瀬智也(名無し)、知念侑李(仔太郎)、竹中直人(祥庵)、山寺宏一(羅狼)、石塚運昇(領主)、宮野真守(戌重太郎)、坂本真綾(萩姫)、大塚明夫(虎杖将監)、筈見純(絶界)、野島裕史(風午)、伊井篤史(白鸞)

幸せのレシピ

新宿ミラノ1 ★★☆

■子供や恋はレシピ通りというわけには……

腕に自信アリの、マンハッタンの高級レストランの女料理長ケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、交通事故で姉を失い、生き延びた九歳の姪のゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)をひきとることになる。この状況とどう向き合うか、というのが一つ目の問題。

子供に一流料理を作ってどうすんだと言いたくなるような女だから、ゾーイとの関係もそんなには簡単にいかないし、そのためにちょいと職場を離れていたら経営者のポーラ(パトリシア・クラークソン)がイタリアかぶれの陽気なニック(アーロン・エッカート)という男を副料理長として雇ってしまって、二つ目の問題も。

ドイツ映画『マーサの幸せレシピ』(2001)のリメイクだということは観てから知ったが、もともと毒っ気とはまったく縁のない映画なのだろう。だから難題であっても安心してハッピーエンドを待てばいいだけで、それも悪くはないのだが、もの足りなさは否めない。

ポーラがちょっと欲を出す程度で、他はもう全部いい人で固めていて、そのことも幸福感を演出しているのだが、自信過剰のケイトが一番問題のような気がしてしまう。早起きして市場にまで出向く完璧主義者だから手強いのだな。ということは、原題の『No Reservations』は、ケイトに「素直に」とでも言っているのかしら。

客がまずいと言ったらまずいのに、それがわからないとなると怖い。味覚の趣向についてあれこれ言うことがそもそもおかしいと、私が思っているからなのだが、料理ではなく他のことに置き換えて考えることにした(これなら納得できる)。

ニックがどこまでもいい人というのがなかなか信じられないケイトなのだが、それ以前に調理場でオペラを流してパヴァロッティ気取りでいられたら、やっぱりいらついてしまうかも。ニック自身がケイトのファンを自認しているのだから恋もすぐその先なのだが、なによりゾーイが彼の料理ならちゃんと食べてくれるという、ケイトにとっては泣きたくなる展開。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズの抑えた演技は好感が持てるし、アーロン・エッカートも終始楽しそうで、しかもそれほど押しつけがましくないのがいい。ボブ・バラバンは『レディ・イン・ザ・ウォーター』では映画評論家だったが、ここでは精神科医。蘊蓄たれ男が適役と思われているのか。ポーラが欲を出したと書いてしまったけど、ケイトに精神科医行きをすすめたのは彼女でした。

そういえばケイトはその精神科医に「何故セラピーを受けろと言われたかわかるかね」と問われて「いいえ」と答えていたっけ。

 

原題:No Reservations

2007年 104分 シネスコサイズ 配給:ワーナー 日本語字幕:古田由紀子

監督:スコット・ヒックス 製作:ケリー・ヘイセン、セルヒオ・アゲーロ 製作総指揮:スーザン・カートソニス、ブルース・バーマン 脚本:キャロル・フックス オリジナル脚本:サンドラ・ネットルベック 撮影:スチュアート・ドライバーグ プロダクションデザイン:バーバラ・リング 衣装デザイン:メリッサ・トス 編集:ピップ・カーメル 音楽:フィリップ・グラス

出演:キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(ケイト・アームストロング)、アーロン・エッカート(ニック・パーマー)、アビゲイル・ブレスリン(ゾーイ)、パトリシア・クラークソン(ポーラ)、ボブ・バラバン(精神科医)、ブライアン・F・オバーン、ジェニー・ウェイド、セリア・ウェストン、ジョン・マクマーティン

映画の題名別について

映画の題名による分類についてはごく常識的な方法に従っている。だから特別書き加えることがあるわけではない。単純に50音別と、それでは区別しにくい欧文と数字ではじまる題名を足して分けているだけである。

ただ、欧文と数字ではじまる題名の作品で読みがはっきりしているものは、50音の方にもダブって入れているかもしれない。ここらへんはいい加減である。差し障りが出てきたら変更するかもしれないが、まあたいした問題ではないだろう。

ついでに題名の表記についてもふれておく(ここから先はさらにどうでもいい話になるので、読まない方がいいだろう)。題名はなるべくそのまま書いたつもりだが、副題の扱いとなると、資料によって「/」だったり「-」でくくられていたりするものがある。私の場合は、癖でたんに半角ほどあけて書いてしまっていることが多いはずだ。また、漢字などの読みが特殊なものなど、ルビが使えないためカッコで表記することが多いが、これも決まりがあるわけではない(もともとそうなっているものと区別がつかなくなるから困りものなんだけどね)。

記録魔だった若かりし時なら、こんなところにもとことんこだわって厳密に区分しようとし(て挫折し)たはずだが、年と共にずいぶんゆるくなってしまっている。厳密にしたからってたいした意味があるわけではないし、すべてを網羅して調べまくったり系統づけたりする能力などないことがわかったからでもあるのだけれど。

原題(や他の部分)についてもゆるさは同じ。欧文など原則は大文字と小文字の表記にしたが、逆に統一してしまうとおかしなことになってしまうものもあるし、なによりわからないんだもの。実際のところ、英文ならまだしも、他の言語になったらほとんどお手上げだしね。資料によっては原題(PCで表記できないものもあるからね)の他に英題を載せているもののもあって、便利なので私もあれば拝借してしまっているが、ちゃんと調べたわけではないので、そこらへんは自己責任で、よろしく。

映画の評価別について

映画の評価は、10点満点とした。

★★★★★ 10点 
★★★★☆ 9点 
★★★★ 8点
★★★☆ 7点
★★★ 6点
★★☆ 5点
★★ 4点
★☆ 3点
★ 2点
☆ 1点

この星(★と☆)の点の付け方でいくと0点はなくなってしまうが、少なくとも何も得られない映画というのは存在しないはずなので(許せない映画となるとまた別の基準になるのかも)、それはいいかなと。満点の10点作品も現時点では該当作がないし。ま、そんなものだよね(ようするにそれほどきちんと考えたわけじゃないんだな)。

そもそも映画を点数で評価するなんて、とんでもないことなのだけど(作り手にも失礼だし)、何といってもわかりやすいからね。点を付けることで、その映画に対するとりあえずの意思表示ができてしまう簡単さは捨てがたいものがある。

なので、点数を言葉に置き換えてみた。

★★★★★ 熱狂
★★★★☆ やられた
★★★★ 夢見心地
★★★☆ 幸せ気分
★★★ 合格!
★★☆ まずまず
★★ 惜しい
★☆ はずしてる
★ 理解不能
☆ さすがに苦痛

という感じではいかがでしょう。今、適当に考えたいい加減なものだけど。

10点満点で半分の5点だとひどいイメージだけど、私の場合の5点映画は「まずまず」で、十分楽しめた作品ということになりそうだ(でなきゃこんなに沢山映画を観やしないよね)。

けちょんけちょんにけなした作品でも好きなものは好きだったりするでしょ。けなし甲斐のある作品というのは、それはそれでいろいろなものを教えてくれたりするからね。

一応付けた点数ではあるが、もしかしたら整合性をつけるためにあとで変えてしまうことがあるかもしれない。例えば年のくくりでベスト10を選んだりすると、その時の気分で低い点数の作品が上に来てしまうことも大いにありそうなのだ(実際そうしてしまったこともある)。

あと、今書いたこととは別に、10点満点を5点満点方式に変えたい誘惑もあるのだが、しないかもしれないのだし、まあそれは本当にそうしてしまったときに書けばいいか。

そもそも断り書きをするようなことではないのだけど、点数なんてその程度のもの(にしてはつけるとなると結構悩んじゃうんだよなー)、ということを、カテゴリーを作った都合で何か文があった方がよさそうなので、一応書いてみたわけなんである。

HERO

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■ちんちくりんのゆで卵との掛け合いは楽しいんだが

テレビドラマの映画化ということで、ある程度ドラマを観ていた観客を想定して作られているようだ。だから門外漢が口を出すとおかしなことになりそうだが、しかしそのテレビも放送されていたのは6年前らしく、この6年の空白が映画にも引き継がれている内容になっているのは面白い。

でもということは、久利生公平(木村拓哉)は、テレビではチョンボを犯して飛ばされていたってことになってしまいそうなのだけど。あれ、違うのかな。どうもこういうちょっとしたことがわからず、困るところがいくつもあった(だからってつまらなくはないんだけどね)。

例えば滝田明彦(中井貴一)の扱いなど違和感が残るばかりで(久利生の性格を語る重要な場面でもあるのだが、やっぱり必要ないよね)、さらに雨宮舞子(松たか子)とも連絡すらしていなかったって、そんな。

「6年も」とやたら言葉にはこだわっていたが、言葉以外では空白を埋めようとしていないけど、これで納得なんだろうか。6年も離れていて、違いが雨宮の香水くらいというのは、それほど信頼関係があるということなのかもしれないのだけど、手抜きではないよね。東京地検の城西支部には久利生の席が当然のようにあり、同じように?雨宮が久利生の事務官となるというのもねー。

こういうたぐいの演出は他にもずいぶんあって、裁判所から傍聴人がほとんど退席していなくなったり、そこに久利生の同僚たちが新たな証拠を持って現れたりするのだが、この羽目の外し方はドラマを踏襲しているのかもしれないが、作品としては軽いものになってしまう。久利生に検事としてはラフな恰好をさせた時点で、そんな細かいことには文句を言うなってことなのかもね。

被告も犯行を認めていた単純な傷害致死事件が、花岡代議士(森田一義)の贈収賄事件に利用されたことで予想外の展開となっていく。花岡側がうかつにもアリバイ工作に久利生が担当していた事件の被告を使ってしまったことから、その場所にいてはいけない被告が犯行を否認。そしてやっかいなことに蒲生一臣(松本幸四郎)というやり手の弁護士がつくことになる。

窮地に立たされる久利生だったが、雨宮が「どんな小さな事件にも真剣に取り組み」「決して諦めない」彼を、そして一見バラバラな城西支部の連中が、意外なチームワークを発揮して地道な協力を厭わず、というのはもうドラマでも繰り返されてきた筋書きなんだろうが、この一体感は現実にはそう味わえそうもない心地よいものだ。サラリーマンの夢の代弁である。

ただ、犯行の車を追って韓国でも聞き込み調査を繰り広げるあたりは、さすがにだれる。最後に証拠のためケータイの写真を探す場面でも足で稼ぐ聞き込みがあるから、本当にこれはこのドラマの持ち味にしても、こんなに効率が悪いことをしていたんじゃ、見つかっても見つからなくて話が嘘っぽくなってしまう。第一、韓国語もわからない2人を送り込んだりするのだろうか。「彼女を絶対離すな」と言うイ・ビョンホンの使い方はいいのに残念だ。

でもそんなことより1番残念なのは蒲生を話のわかる弁護士にしてしまったことだ。久利生の姿に昔の自分をみて方針を変えたと思わせるような場面もあるのだが、そこまでの深みはない。裁判が真実を明らかにする場所から裁判というゲームになりかけている風潮を考えるなら、ここは蒲生を悪徳弁護士にしておいてもよかったのではないか。蒲生に負けて廃人になってしまった検事もいると言わせているんだから、そのくらいの凄味はほしい。

裁判という敷居の高いものを、ドラマの気安さでわかりやすくみせてくれるのはいいのだが、「人の命の重さを知るための裁判」などと言い出すと少し荷が重くなってしまうようだ。雨宮を「ちんちくりんのゆで卵みたいなヤツ」と久利生に評させている時は快調なんだけどね。うん、2人は名コンビかな。

  

2007年 130分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:鈴木雅之 製作:亀山千広 プロデューサー:現王園佳正、牧野正、宮澤徹、和田倉和利 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 統括プロデュース:石原隆 企画:大多亮 脚本:福田靖 撮影:蔦井孝洋 美術:荒川淳彦 編集:田口拓也 音楽:服部隆之 VFXスーパーバイザー:西村了 スクリプター:戸国歩 ラインプロデューサー:森賢正 照明:疋田ヨシタケ 録音:柿澤潔 助監督:片島章三、足立公良 監督補:長瀬国博
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出演:木村拓哉(久利生公平)、松たか子(雨宮舞子)、松本幸四郎(蒲生一臣)、香川照之(黛雄作)、大塚寧々(中村美鈴)、阿部寛(芝山貢)、勝村政信(江上達夫)、小日向文世(末次隆之)、八嶋智人(遠藤賢司)、角野卓造(牛丸豊)、児玉清(鍋島利光)、森田一義(花岡練三郎/代議士)、中井貴一(滝田明彦)、綾瀬はるか(泉谷りり子)、国仲涼子(松本めぐみ)、岸部一徳(桂山薫/裁判長)、山中聡(里山裕一郎)、石橋蓮司(大藪正博)、ペク・ドビン(キム・ヒョンウ)、眞島秀和(東山克彦)、波岡一喜(梅林圭介)、長野里美(柏木節子)、イ・ビョンホン(カン・ミンウ)、伊藤正之(川島雄三)、正名僕蔵(井戸秀二)、田中要次(マスター)、古田新太(郷田秀次/放火犯)、MEGUMI(河野桜子)、奥貫薫(芝山良子)、鈴木砂羽(黒川ミサ)

恋とスフレと娘とわたし

新宿武蔵野館2 ★☆

■子離れ出来ない過干渉母親と末娘の××話

いくら末娘のミリー(マンディ・ムーア)に男運がないからってネットで娘にかわって恋人を募集し自ら面接って、もうそれだけでげんなりしてしまう話なのだが、母親のダフネ(ダイアン・キートン)はそんなことをするくらいだから、一事が万事で、すべてに過干渉。ダイアン・キートンはよくこんな役を引き受けたものだ。

もっとも親娘4人はすこぶる仲良しで、揃って買い物やエステに出かけているから、ネットでの恋人募集まではダフネもそうはひどい母親ではなかったのか。コメディだから大げさにせざるを得ない弊害かもしれないが、「私の言葉は絶対」という神経にはついていけない。

ネット効果?でミリーの男運は急転。今までの相手といえばゲイか既婚者か異常者ばかりだったのに、数撃ちゃ当たる(とんでもない男達を次々に見せていくあたりは芸がない)でダフネのメガネにもかなう建築家のジェイソン(トム・エヴェレット・スコット)は現れるし、面接現場に居合わせたミュージシャンのジョニー(ガブリエル・マクト)までがダフネのやっていることに興味を持って、結果、2人共ミリーに好意を寄せてくることになる。

ジョニーは子持ちで右手の甲に刺青があって、だからかダフネには「浮気なギタリスト」と最初から嫌われてしまうのだが、「偏見あるコメントをありがとう」とジョニーの方は余裕の受け答え。この優しさと安心感がミリーを二股へと進ませるのだけど、二股はないでしょ。

当然それはバレて、でもミリーも本当の愛に気付いてという流れなのだけど、そしてミリーにもそれなりのお仕置きはあるのだけれど、バレてからの右往左往だから後味は悪い。

救いはジェイソンをイヤなヤツにしていなかったことだろうか。曾祖父のキャンドルをミリーが壊してしまって不機嫌になってしまうのだが、次には別の形見をミリーへのプレゼントとして持ってきて、ちゃんと謝っていた。なかなか見上げたものなのだ。ま、とはいえ相性が合わないのでは仕方ないんだが、でも「あなたといると自分じゃない」というミリーの断り方は、ひどいなんてもんじゃない。

ダフネは一時的に声が出なくなって大人しくなるのかと思ったら大間違いで、それでも最後にはミリーへのおせっかいは「あなたを私にしたくなかった」からで、もう二度とミリーの人生には干渉しないと言ってはいた。でもあなたを私にしたくないというセリフも、とどのつまりは娘を自分と同じと考えているようで、私には感心できないのだけど。

だから、改善されるかどうか疑わしいよね、ダフネのそれ。ただ彼女もこの騒動でジョニーの父といい仲になってしまったので、当分は自分のことに忙しいだろうから、観ている方はげんなりでも、この親娘にとってはこれでハッピーエンドなんでしょう。

スフレが何なのか知らなかった私。くだらない映画でも勉強になります。

原題:Because I Said So

2007年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:東北新社 日本語字幕:佐藤恵子 字幕演出:川又勝利

監督:マイケル・レーマン 製作:ポール・ブルックス、ジェシー・ネルソン 製作総指揮:マイケル・フリン、スコット・ニーマイヤー、ノーム・ウェイト 脚本:カレン・リー・ホプキンス、ジェシー・ネルソン 撮影:ジュリオ・マカット プロダクションデザイン:シャロン・シーモア 衣装デザイン:シェイ・カンリフ 編集:ポール・セイダー、トロイ・タカキ 音楽:デヴィッド・キティ

出演:ダイアン・キートン(ダフネ)、マンディ・ムーア(ミリー)、ガブリエル・マクト(ジョニー)、パイパー・ペラーボ(メイ/次女)、トム・エヴェレット・スコット(ジェイソン)、ローレン・グレアム(マギー/長女)、スティーヴン・コリンズ(ジョー/ジョニーの父)、タイ・パニッツ、マット・シャンパーニュ、コリン・ファーガソン、トニー・ヘイル

ベクシル 2077日本鎖国

新宿ジョイシネマ2 ★★★

■鎖国という壮大な話が最後は同窓会レベルに

ロボット産業で市場を独占していた日本はアンドロイドを開発。脅威を感じた国連は規制をかけようとするが、日本はなんと鎖国をしてしまった、というぶったまげたSFアニメ。荒唐無稽部分以外もアラの目立つ設定なんだけど、例えば『ルネッサンス』のような発想のつまらない作品に比べたらずっと評価したくなる。

舞台はハイテク技術が可能にした完全鎖国(妨害電波で衛星写真にも何も映らないようになっている)から10年後の2077年で、鎖国の間1人の外国人も入国したことのない日本が、いったいどう変貌しているのかという興味で引っ張っていく。

もっとも部分的には貿易は行われているらしく、大和重鋼のDAIWAブランドがアメリカにも入っているような描写がある。日本が市場を独占というのは、もうすでに現時点でも危うそうなのに、そして鎖国などしていたら余計取り残されてしまいそうなのに、引き合いがあるというのは大甘な設定としか思えないが、ま、これは日本人にとっての夢的発想として見逃しとこう。

しかしその10年の間に、日本人はすべてアンドロイド化されてしまったというのだ。そればかりか、日本は陸地としての形は残っているものの山も川も街もなくなっていて、わずかに東京の23区ほどの場所に押し込められた人間(じゃないか)たちが、戦後の闇市のようなスラムで生活していた。そして日本を牛耳っているのは、国家ではなく東京湾の沖合の人口島にある大和重鋼という企業体だった。

鎖国に至った経緯(国際関係)も、一研究者のように見えたキサラギが大和重鋼の社長(途中でなったのか?)で、それも昔は彼だっていったんは逮捕されるような状況(この時は日本もまだ国家として機能していた)だったのに、大和重鋼がいつ日本のすべてを支配してしまったのかもよくわからない。国土の荒廃は金属を食い尽くすジャグによるものと推測されるが、しかしそれだったら何でジャグが入れないように外壁で囲まれている東京までが平坦なのか。

どんな状況を持って来ても私は大歓迎。想像を絶するくらいの設定の方が楽しいのだけど、それに類推可能な部分だってあるのだが、でもやっぱり詳しい説明はしてくれないと。2時間近くでまとめなくてはならない制約があるにしても、ここまで情報不足ではまずいだろう。日本人がアンドロイド化された(が人間としてのかけらが残っている)ことについては説明があったが、なにしろ状況が奇異すぎるから、説明しだすときりがなくなってしまうのかもしれない。

それと関係があるのかないのか、判明したベクシル、レオン(ベクシルの恋人で日本潜入部隊の生き残り)、マリア(レオンは昔の恋人)、キサラギ(マリアとは学生時代からの知り合い)の関係は、お友達繋がりの同窓会のようで、わかりやすいけれどあまりにこぢんまりしすぎだ。その他大勢はアンドロイドなのかもしれないが、悪役はキサラギとサイトウだけで、日本にしても東京の一角と人口島しか語るべき部分が残っていないのでは、どうにもこうにも薄っぺらでなものにしかみえない。

最初に『ルネッサンス』を引き合いに出してしまったが、キサラギも「私たちは進化の最終形態」「人間を母体にした体は選ばれたものだけが進化を遂げ、今や神とは私のことだ」などと『ルネッサンス』のイローナと似たようなことを口走る。ただそう言いながらキサラギ自身は、まだ出来損ないの技術を自分に使うことはためらっていたらしい。実験材料が日本にはいなくなってアメリカにアンドロイドを送り込んだりしていたのだが、逆に感づかれ特殊部隊のSWORDに日本潜入されてしまったというわけだ(これが物語の発端)。

キサラギの正体については、妨害電波を一時的に破って確認した生体反応が3つで、ベクシルとレオンを引くと……というあたりや、キサラギがペットのジャグの頭を撫でてやっている場面があって、こういうわかりやすい観客サービスはいいのだけど、最後にジャグの力を借りて人口島を壊滅させるあたりでは、また説明不足が徒となって乗れなくなってしまう。

ジャグはこの距離は飛べないという説明がぴんとこなかったし、そもそも通路には金属がまったく使われていないのか(ジャグ対策がされているのかもね)、キサラギに通じていたスラムの議長の行動(スラムの外壁を開ける)とか、疑問だらけなのだ。

そういえば、日本に侵入したベクシルはスラムの光景を見て「みんな生き生きしている」と驚いていたが、なに、鎖国をしていない日本以外の世界も決してユートピアにはなっていないってことなのね(ま、そうだろうけど)。ベクシルは「あなたたちが守ろうとしているのは、失って初めて大切だと気づいたもの」とも言っていたけど、そっちは失う前にすでになくしてるんじゃ……。それに、ここを強調してしまうとキサラギのしてきたことを断罪できなくなってしまいそうだ。

マリアがキサラギと運命を共にして、日本は滅亡。そこに特殊部隊のヘリがやってきてベクシルとレオンは助かるのだけど、これがなんだかハリウッド的で。だいたい何でアメリカ女性(に見えないんだけど)のベクシルを主人公にしたのかしらね。

絵の方は「3Dライブアニメ」とかいう方式で作られているらしいが、そちらの興味はあまりなく、よくわからない。でもなかなか迫力のある映像になっていた。ただ表情はもの足りない。出来ればCGにして欲しかったが、それだと予算的に無理なんだろうか。

 

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:曽利文彦 プロデューサー:中沢敏明、葭原弓子、高瀬一郎 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉 脚本:半田はるか、曽利文彦 音楽:ポール・オークンフォールド 主題歌:mink『Together again』
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声の出演:黒木メイサ(ベクシル)、谷原章介(レオン・フェイデン)、松雪泰子(マリア)、朴路美(タカシ)、大塚明夫(サイトウ)、櫻井孝宏(リョウ)、森川智之(キサラギ)、柿原徹也(タロウ)

22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語

テアトル新宿 ★★

■「なんだか疲れちゃった」、演出に

久しぶりに大林作品を観たが、私とはセンスの合わないことを再確認(好きな映画もあるんだけどね)。どうにも疲れてしまう映画だった。

伊勢正三の歌をイメージしていたからか、冒頭の川野俊郎(筧利夫)が閉鎖性無精子症と診断を受ける場面から、びしょ濡れになってコンビニで買い物をしそこで田口花鈴(鈴木聖奈)と出会うあたりまでの、これが大林映画といえばそれまでなのかもしれないが、まるで怪奇映画のような演出にすでに違和感が。

そのあともいろいろなところでひっかかっていた。川野や藤田有美(清水美砂)に1人で延々と喋らせてみたり(むろん違う場面でだ。だから人物の性格というのではなく都合よく語らせているだけのようだ)、斜めに撮した映像など、別にこういう遊びだって嫌いではないのだが、意味がわからない(ようするに趣味が合わないのだな)。せわしない映像にうるさい音では、物語に身をまかせている気分ではなくなってしまう。

話もいじりすぎていて、川野と葉子(中村美玲)の22年前の1番大切なはずの別れがうまく説明できていないから全体に焦点ボケという感じだ。現代の視点からなら葉子が何故川野のもとを去ったのかは判然としなくても一向にかまわないのだが、ちゃんと映像をもってきているのだから、ここがしっかりしていないとつまらない。「なんだか疲れちゃった」とか「大きすぎるね東京」というセリフがナシとは言わないけれど(川野にとっても「あの頃の葉子はぼくには重たすぎた」んだって)、これはせいぜい1960年代まででしょ。

川野に葉子の娘である花鈴が援交を申し出て、37歳の有美があわてるという現代の話だけにした方がよほどすっきりしたのではないか。もちろん葉子とも花鈴ともプラトニックで、というところにこだわったのだろうけど、でも無精子症だから有美の願いはかなえてあげられないからとなると、そこまで考えるか、とも(どうせ私は自分勝手なんだけどさ)。

川野は上海への転勤話が持ち上がってはいたものの上司に目をかけられていたのに、著中で仕事も辞めてしまうし、ま、ある意味では中年(43歳)の理想となってもらいたかったのかもしれないが、ちょっとかっこつけすぎか。

「やらしいおやじにはなりたくない」とは言ってしまいそうだけど、早々に結婚という言葉まで出てきているのだから、ルームシェアしているだけという浅野浩之(窪塚俊介)と張り合ってもよかったんじゃないかと。現代っ子の花鈴と浩之にまでプラトニックを通させたのは、かえって不自然な気がしたが、とにかくそういう話なのだ。

葉子を追わなかったから花鈴が生まれた(君はぼくの娘なんだ)、というのが川野の結論で、浩之は川野の行きつけの焼鳥屋に就職口を見つけて、という収め方にも反発したくなった。いや、なかなか面白い話なんだけどね。なんか文句付けたくなっちゃうんだな。

サブタイトルのLycorisは彼岸花(曼珠沙華)で、映画の中でもそれについては、説明していたし、種なし(球根で増える)だから川野に結びつけているのだけど、そういうことすべてがうるさいく思えてきてしまっていた。

物語をはじめるにあたって川野に「戯れですが」と念を押されてはいたけれど、最後になったら「さていかがでしたこんな物語。ではご油断なく」だとぉ。まあいいやどうでも。

2006年 119分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督・編集:大林宣彦 製作:鈴木政徳 エグゼクティブプロデューサー:大林恭子、頼住宏 原案:伊勢正三『22才の別れ』より 脚本:南柱根、大林宣彦 撮影:加藤雄大 美術:竹内公一 音楽:山下康介、學草太郎、伊勢正三 音楽プロデューサー:加藤明代 VFXプロデューサー:大屋哲男 監督補佐:南柱根 記録:増田実子 照明:西表灯光 録音:内田誠 助監督:山内健嗣

出演:筧利夫(川野俊郎)、鈴木聖奈(田口花鈴)、中村美玲(北島葉子)、窪塚俊介(浅野浩之)、寺尾由布樹(若き日の川野俊郎)、細山田隆人(相生)、岸部一徳、山田辰夫、立川志らく、斉藤健一、小形雄二、河原さぶ、中原丈雄、蛭子能収、左時枝、根岸季衣、南田洋子(団地の主婦)、峰岸徹(松島専務)、村田雄浩(花鈴の父)、三浦友和(杉田部長)、長門裕之(やきとり屋甚平主人)、清水美砂(藤田有美)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

2007/09/02 新宿ミラノ1 ★★☆

■ヱヴァンゲリヲンて何なのさ

ヱヴァンゲリヲンが何なのかをまったく知らずに観たものだから、狐につままれたような状態のまま幕となった。何しろ「しと」が「使徒」だということがうまく頭に入らずにいたくらいなのだ(わかっても理解できていないのだが)。

セカンドインパクトとか第3新東京市って言われてもねー。昔のテレビ版の観客を対象にしていると言われてしまえばそれまでだけど、「新劇場版」と銘打って4部作として作り直したそうだから(これも見終わってから知ったのだ)、新しい観客のためにもう少しは説明してくれてもいいのではないか。それとも4部作を通せばすべてがわかるのだろうか。

ただ、内容的には嫌いではないので、わからないながらも楽しんで観てしまったのだけど。物語の流れは単純だから理解しやすいのだが、こういう作品は細部がどうしても知りたくなるのだな。

だから地下から超高層ビルのあらわれる第3新東京市というのがあまりに非現実的で、ちょっと引いてしまう。怪獣?(使徒)対怪物?(ヱヴァンゲリヲン)が東宝怪獣映画やウルトラマン路線の、巨大でかつ同スケール対決なのにも笑ってしまって、どういうわけか対戦場面では『大日本人』を思い出してしまったものだから困ってしまったのだ。シンジが何者かということを同級生までが知っているという部分も同じなんだもん。あと個人的には第3新東京市の上に陣取って地下攻撃を仕掛けるキューブのような物体に、手も足も出ないという設定もどうもね。

ヱヴァンゲリヲンを操縦できるのは特殊な能力が必要らしく(これもちゃんと説明してくれー)、でもそれが碇シンジというまだ14歳の少年で、実はヱヴァンゲリヲンの開発者が彼の父ゲンドウで、なんでもパイロットとして引っ張り出された時、その父とは3年ぶりの対面だったという、ずいぶんな話。

ヱヴァンゲリヲン初号機のパイロットがシンジと同級生の綾波レイという少女で、シンジのまわりには他にも女性ばかりが目に付くのは目をつぶるけど、こういうのもテレビ版と同じなのか。なのにシンジは「なんでぼくなんだ」「乗ればいいんでしょ」「怖い」ってずーっと言いまくっていた。彼が綾波の言動や同級生の励ましなどで変わっていくという成長物語なのはわかるが、この作品だけでは、ちょっとはしっかりしてくれよ、という気分になってしまう。

敵が不意に襲ってくる状況下なのに、普通に学校生活を送っているというのも妙だし(第3新東京市はそのために防災都市になっているようだが)、綾波に渡しそこねたIDカードをシンジが届けるというのもヘタクソすぎる挿話だ。

何にしても、人類補完計画、ヤシマ作戦、すべてはゼーレのシナリオ通りに、あと8体(そんなことがわかるのか)の使徒を倒さねば、などの言葉全部がわからないのだから、これ以上書いても笑われるだけのような気がしてきたので、ヤメ(でも次も観るぞ)。

  

2007年 98分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

監督:摩砂雪、鶴巻和哉 総監督・原作・脚本:庵野秀明 演出:原口浩 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康 キャラクターデザイン:貞本義行 テーマソング:宇多田ヒカル『Beautiful World』 メカニックデザイン:山下いくと メカニック作画監督:本田雄 効果:野口透 作画監督:松原秀典、黄瀬和哉、奥田淳、もりやまゆうじ 色彩設定:菊地和子 制作:スタジオカラー 総作画監督:鈴木俊二 特技監督:増尾昭一 新作画コンテ:樋口真嗣、京田知己

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、林原めぐみ(綾波レイ)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、結城比呂(日向マコト)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、麦人(キール・ローレンツ)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、石田彰(渚カヲル)

酔いどれ詩人になるまえに

銀座テアトルシネマ ★★★

■書くことにおいて選ばれし者

説明のしにくい映画は、好きな作品が多いのだけど、これはどうかな。かなり微妙。だって、やる気のない男のだらしない生活、それだけなんだもの。それにその生活は私の理解を超えたものだし。

けれど、こういうだらしない生活は、できないからではあるが、どこか憧れてしまうところがある。だからなんだろう、気分でみせるような映画なのに(そこがいいのかもね)意外と客の入りがいいのには驚いた。2005年作品を今頃公開するのは、配給会社も悩んでいたんだろうけど、ちゃんと需要はあるみたいだ。

飲んだくれては失業を繰り返すチナスキー(マット・ディロン)だが、バーで知り合ったジャン(リリ・テイラー)をはじめ、女には不自由しないようだし、ある時期などよほど運がついていたのか競馬の天才ギャンブラー「ミスタービッグホースプレイヤー」(これはジャンの言葉)となって、高級な靴と服できめまくる。

もっとも「小金を稼いだらすっかり別人」とジャンには不評で、そのせいかどうか2人は別れてしまう(形としてはチナスキーがジャンをふっていたみたいだが)。

ジャンの生き方もチナスキーに負けないものだ。先のことなど考えずにセックスにあけくれる方がいいのだろうか。理解不能なのにこんな2人がなんだかうらやましくもなってきて、やっとよりを戻したのにまた別れるときけば、それはそれで悲しくなるし、ジャンが結局は生活のために好きでもない男(競馬場でチナスキーと一悶着あったヤツじゃないか)と暮らしている場面では目をそむけたくなった。

チナスキーはローラ(マリサ・トメイ)という女との縁で金持ち連中の道楽仲間になったりもするのだが、基本的には惨めすぎる毎日の繰り返しだ。2日でいいから泊めてもらえればと家に帰れば、母は黙って食事を出してくれるが、父親にはすぐ追い出されてしまう。

こんなどん底生活でも、チナスキーには言葉があふれ出てくるらしい。ノートに、メモ帳に、紙切れに、それこそ気が付くと何かを書き綴っている姿が描かれる。凡人には書く行為はなにより苦痛を伴うし客観的な視点だって生まれてしまうから、チナスキーのような生活を送っていて、なおかつ書くというのは、信じがたいものがあるのだが、なにしろ彼には「言葉が湧き上が」ってくるのだ。

きっとチナスキーは選ばれし者なのだろう。それを自覚しているからこそ、週に2、3本も短篇や詩をニューヨークタイムズに投稿し続け、職業を尋ねられれば作家と名乗っていたのだ。なにしろ「言葉を扱う能力に自信がなくなった時は、他の作家の作品を読んで心配ないと思い直した」というんだから。なにが自信がなくなっただか。

それとも「言葉が湧き上が」ってくると言っていたのは照れなのか。自分の才能を信じ、努力を怠らなかったからの、最後の場面の採用通知なのかもしれないのだが。でも凡人の私には「愛なんていらない」と、毛虱をうつされた仲のジャンに言ってしまう部分がやっぱり気になってしまうから、選ばれし者にしておいた方が安心なんである。

これが作家の修業時代さ、と言われてしまうと、いやそうは言ってないんだけど、どうもねー。

  

原題:Factotum

2005年 94分 ビスタサイズ アメリカ、ノルウェー 配給:バップ、ロングライド 日本語字幕:石田泰子

監督:ベント・ハーメル 製作:ベント・ハーメル、ジム・スターク 製作総指揮:クリスティン・クネワ・ウォーカー 原作:チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』 脚本:ベント・ハーメル、ジム・スターク 撮影:ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド プロダクションデザイン:イヴ・コーリー 衣装:テラ・ダンカン 編集:パル・ジェンゲンバッハ 音楽:クリスティン・アスビョルンセン、トルド・グスタフセン

出演:マット・ディロン(ヘンリー・チナスキー)、リリ・テイラー(ジャン)、マリサ・トメイ(ローラ)、フィッシャー・スティーヴンス、ディディエ・フラマン、エイドリアン・シェリー、カレン・ヤング

リトル・チルドレン

シャンテシネ2 ★★★

■情熱が消えてしまったのは何故か

ナレーターがいて、ご丁寧に登場人物それぞれの心理描写までしてくれる。ベストセラーの映画化ではあるが、まるで小説をそのまま映像化しようとしたようにもみえる。

ただこの心理描写は映画に適したものかどうか。本と違って言葉での説明は、映画の場合立ち止まっている余裕がないので、ちょっとでも状況が飲み込めずにいると大変なことになる。今回もどこでどうまごついたか、話がよく理解出来ずに終わってしまった感じがするのだ。

サラ・ピアース(ケイト・ウィンスレット)は夫のリチャード・ピアース(グレッグ・エデルマン)との間にルーシー(セイディー・ゴールドスタイン)という娘がいる専業主婦だ。ビジネスに成功したリチャードと裕福で満ち足りた生活を送っていたはずだったが、ある日、リチャードのちょっと変わった性癖を目の当たりにしてしまう。

ブラッド・アダムソン(パトリック・ウィルソン)は司法試験に2年連続で失敗中。有名なドキュメンタリー映像作家の妻キャシー(ジェニファー・コネリー)と息子のアーロン(タイ・シンプキンス)がいて、だから逆に肩身が狭い。サラが妻に代わってアーロンの世話をするブラッドと出会ったのは、不思議なことでも何でもなかったが、より親密になったのは、リチャードの知られざる側面を知って通販で衝動買いをした赤い水着のせいだったかもしれない。

このあたりまでの語り口は、的確で迷いがない。夏のプールで親しくなっていく2組の親子をワンカットで追いながら、状況が少し変わった様子(違う日なのだ)を何度か繰り返すという印象深いショットもある。

サラを語るのにリチャードからはじめていたくらいだから、語り手の対象となるのは2人だけに限らない。映画はこの静かなボストン郊外の町ウッドワード・コートに48歳の性犯罪者が釈放されて、母親のもとに帰るという報道に及び、そのロニー・マゴーヴィー(ジャッキー・アール・ヘイリー)という男についてまで述べはじめるのだ。

またロニーを異常に敵視する元警官のラリー・ヘッジス(ノア・エメリッヒ)にも言及する。もっともブラッドはラリーのことは少しだけだが知っていて、ロニーの見張りをしていたラリーに、アメフトのチームに入るよう誘われるという繋がりにはなっているのだが……。

ロニーを常に庇う母親は、ロニーの相手にシーラ(ジェーン・アダムス)という女性をさがし息子のためにデートを演出するのだが、そのせっかくのデートで理解しがたいロニーの性癖が、シーラを傷つける場面がある。直前でシーラはロニーに彼女の最後のデートで置き去りにされた辛い思い出を語っていただけに、ロニーの行為は罪が重い。

話をサラとブラッドに戻すと、2人が不倫に走ったのはいわば必然と言いたいのだろう。そして、それは回を重ね、ついにはブラッドの司法試験当日にそれを放棄させ、1泊の不倫旅行に出かけるいう大胆な行動を2人にまでなる。

このあとアーロンの口から新しい友達の名前が出て、キャシーもサラの存在を知ることになり、ピアース一家を夕食に招くのだが、その席でキャシーはサラと夫との関係に気付いてしまう。ただ、ここから先は、話がなんだかちっともわからなくなる。

確証を得たのにキャシーのしたことといえば、自分の母親にブラッドの監視を頼むという馬鹿げたもので、その母親も流石に夜のアメフトの練習までは付き合いきれない。そしてその日、警官チームはブラッドの活躍で初勝利を収めるのだが、ブラッドがトライを決めた時、誰よりも喜んだのは試合を観に来ていたサラで、抱き合った2人は駆け落ちを決意する。

が、この決意は予期せぬ出来事で簡単に、しかも2人共覆ってしまうのである。サラは待ち合わせ場所の公園にロニーが現れたことで。ブラッドは公園に急ぐ途中で、いつもは声をかけられもしなかった若者たちにスケボーを勧められ、怪我をしてしまうからなのだが……。

ちょっと待ってくれ。この結末は一体何なのだ。ナレーターの関心も最後は2人から離れて、ロニーもラリーも悪い人ではなかったが……というあきれるような陳腐さで終わってしまうのである。

『リトル・チルドレン』は、ついぐだぐだ書いてしまったくらい人物造型のスケッチ集として観ているぶんには面白いのだが、2人の情熱がどうして消えてしまったのかはさっぱりわからない。いや現実なんてそんなものかもしれず、こんな展開もありそうな気がしてしまうのだが、映画としてはどうか。ま、2人同時というところが十分映画的ともいえるのだけど。

【メモ】

サラが公園で「主夫」として仲間の注目を集めていたブラッドにキスをしたのは、いたずら心からだったが……。

サラが感想を述べる読書会では『ボヴァリー夫人』が取り上げられていた。

原題:Little Children

2006年 137分 スコープサイズ R-15 提供・配給:ムービーアイ

監督:トッド・フィールド 製作:アルバート・バーガー、トッド・フィールド、ロン・イェルザ 製作総指揮:ケント・オルターマン、トビー・エメリッヒ、パトリック・パーマー 原作:トム・ペロッタ 脚本:トッド・フィールド、トム・ペロッタ 撮影:アントニオ・カルヴァッシュ プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:メリッサ・エコノミー 編集:レオ・トロンベッタ 音楽:トーマス・ニューマン

出演:ケイト・ウィンスレット(サラ・ピアース)、パトリック・ウィルソン(ブラッド・アダムソン)、ジェニファー・コネリー(キャシー・アダムソン)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ロニー・マゴーヴィー)、ノア・エメリッヒ(ラリー・ヘッジス)、グレッグ・エデルマン(リチャード・ピアース)、フィリス・サマーヴィル(メイ・マゴーヴィー)、ジェーン・アダムス(シーラ)、セイディー・ゴールドスタイン(ルーシー・ピアース)、タイ・シンプキンス(アーロン・アダムソン)、レイモンド・J・バリー、メアリー・B・マッキャン、トリニ・アルヴァラード、サラ・バクストン、トム・ペロッタ

オーシャンズ13

新宿ミラノ1 ★★☆

■友情のため、悪者はとことんとっちめるのだ

シリーズものだから余計な説明はいらないとはいえ、今回は映画のほとんどを、だましの仕掛けの手口の解説とそれがいかに実行されたかの検証にあてるという徹底ぶりで、ここまでやられてしまっては、もう立派としかいいようがないではないか(と書いてしまったが、11や12はどうだったかは? 相変わらず心許ない記憶力だ)。

今まさに金庫を破ろうという時にケータイが鳴ると(映画館で鳴らせるヤツと同じかよ)、ラスティー・ライアン(ブラッド・ピット)はその仕事を放り出して(病院へ俺は行くとは言ってたけどね)、ダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)が待つ飛行機に乗り込む。オーシャンズの大切な仲間ルーベン・ティシュコフ(エリオット・グールド)が心筋梗塞で倒れ24時間が勝負とあっては、ラスティーの行動は当然ではあるが、ふざけた導入だ。

ルーベンの病気は、そもそも強欲なホテル王ウィリー・バンク(アル・パチーノ)によって新しくオープンするホテルの共同経営者から、まったくの他人に格下げさせられてしまったことによる。もっともこれはバンクのただの脅しにルーベンが屈して出資金を巻き上げられてしまうという面白くもなんともない話だ。

ルーベンは巻頭では危篤だったのに、すぐよく持ちこたえたになり、病気の克服は見込みがないわけではなく、第1に家族(これは無理のようだ)、次に友人の協力が欠かせないになっていて、オーシャンズたちもみんなで励ましの手紙を書くなどという殊勝なところをみせる。廃人のようにみえたルーベンだが、映画の途中ではもう平気のへーちゃらの助になって、ホテルのオープン日にはカジノの客としてバンクの前に顔を出すという調子のよさ。最後の方でルーベンがバシャー・ター(ドン・チードル)に手紙で生き返ったとお礼を言う場面がある。

アル・パチーノはとにかく悪役ぶりが潔い。どこからみてもいい役ではないのだが、それを演じきってしまうのだから、アル・パチーノだ、と言っておこう。バンク側はあと、女性の右腕アビゲイル・スポンダー(エレン・バーキン)がいるのだが、2人じゃあね。多勢に無勢だ。

ホテルでは5つのダイヤモンド評価という最高格付けを狙い(保有ホテルすべてがすでにそうなのだという)、さらにカジノ収入でもとびきりの目標を立てているバンクの用意したセキュリティというのがすごくて、カジノにいるすべての客の瞳孔(脈拍もだったか?)のデータを入手し、行動パターンを読みとって不穏な動きがないかどうかまでも管理するという。

で、その対応策は、英仏海峡を掘削したドリルを近くに持ち込んで(どうやってさ)、人口地震を起こして瞬間的な隙間(リセットに3分)に、一気にトリックを駆使したインチキで大金をせしめてしてしまおうというものだ。ホテルは悪評判にし、カジノではバンクを破産に追い込み、おまけに最上階のプライベートルームにある本物のダイヤモンドまでっせしめてしまおうという、これでもか作戦。ま、このくらいしないと掘削ドリルの持ち込みでは華にならないということもあるのだけどね。

事実そのドリルの出番たるやほんのわずか(本物の地震が起きてしまうんだものね)。でも平坦な物語にとってはこのドリルが、面白い展開を生むことになる。オーシャンズが力を合わせてもドリルを借り受ける財力がなく、いままで散々やり合ってきた宿敵(『オーシャンズ12』)テリー・ベネディクト(アンディ・ガルシア)に頭を下げて協力を申し出るのである。

他には、メキシコにある工場へ潜入してダイスの原材料にマグネトロンを入れてダイスの目を操るというもの(説明されても仕組みがよくわからん)や、嘘発見器からいかにして逃れるかとか、偽格付け員を仕立てあげたり、本当の格付け審査男の泊まる部屋に匂いや害虫の細工をしたり、高速でエレベーターが行き交う中をアクロバチックに潜入していったり、従業員の弱みにつけ込んで懐柔するといった程度のものなのだが(人数分見せ場を用意するだけでも大変そうだ)、それをスマートにさらりと見せていく手腕はなかなかではある。

1晩で5億ドルが消えたバンクだが、ゴルフならまだハンデ2だと負けを認めようとしないところはさすが。でもうろたえてたけどね。ちょっと気の毒なのはエレン・バーキンで、「スポンダーはホスト好き」ということになっていて、ライナス・コールドウェル(マット・デイモン)の付け鼻男に媚薬でめろめろにさせられてしまう。ま、これもアル・パチーノ共々余裕でやられ役を楽しんでいたということにしておくか。

とことん痛めつけてしまった格付け審査男にはちゃんとそれなりのご褒美を用意するし(途中でも1100万ドルという数字を出していたから、最初から報いるつもりだったようだ。でもあのスロットマシンは、どこの、誰の?)、ただでは引っ込むはずのないベネディクトのダイヤの横取り(ヴァンサン・カッセルまで出て来ちゃったよ)も防いで、かつそんな企みまでしていたのだからと、分け前分はお灸の意味も込めてベネディクト名義で寄付。

今回は正義も貫いて、最後のオチまでよくできてます。でもそれだけなんだけどね。

 

【メモ】

ウエイトレスが2キロ太っただけでクビになる話が出てくる。ウエイトレスを容姿だけではクビに出来ないのだが、採用時に「給仕兼モデル」にしてあるので、可能らしいとも。

人工知能セキュリティの説明でエクサバイト(テラバイトの100万倍)という言葉がでてきた。これを破るのには天災でもないと、ということで掘削ドリルが登場するというわけだ。

ダニーとラスティーが「オプラの番組」(?だったか)というテレビを見て涙を流していたが? 

ホテル(カジノの方か?)のオープニングイベントに相撲が登場する。

原題:Odean’s Thirteen

2007年 122分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊地浩司 アドバイザー:アズビー・ブラウン 配給:ワーナーブラザース映画 

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ジェリー・ワイントローブ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、スティーヴン・ソダーバーグ、スーザン・イーキンス、グレゴリー・ジェイコブズ、ブルース・バーマン、フレデリック・W・ブロスト 脚本:ブライアン・コッペルマン、デヴィッド・レヴィーン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:フィリップ・メッシーナ 衣装デザイン:ルイーズ・フログリー 編集:スティーヴン・ミリオン 音楽:デヴィッド・ホームズ

出演:ジョージ・クルーニー(ダニー・オーシャン)、ブラッド・ピット(ラスティー・ライアン)、マット・デイモン(ライナス・コールドウェル)、アンディ・ガルシア(テリー・ベネディクト)、ドン・チードル(バシャー・ター)、バーニー・マック(フランク・カットン)、エレン・バーキン(アビゲイル・スポンダー)、アル・パチーノ(ウィリー・バンク)、ケイシー・アフレック(バージル・マロイ)、スコット・カーン(ターク・マロイ)、エディ・ジェイミソン(リビングストン・デル)、シャオボー・クィン(イエン)、カール・ライナー(ソール・ブルーム)、エリオット・グールド(ルーベン・ティシュコフ)、ヴァンサン・カッセル(フランソワ・トゥルアー)、エディ・イザード(ローマン)、ジュリアン・サンズ(グレコ)、デヴィッド・ペイマー、ドン・マクマナス、ボブ・エインスタイン、オプラ・ウィンフリー(本人) 

夕凪の街 桜の国

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■「原爆」は生きている

戦後62年、繰り返されてきた原爆忌の式典。6月30日のしょうがない久間発言で、今年は注目度が増したが、広島や長崎から遠いところにいる私にとって、新聞には1面に載っていても片隅にある記事程度になっていた。しょうがない発言のひどさには驚いてみせたけれど、意識の低さの点では私もそうは変わらなさそうだ。

これまでも広島の原爆を扱った作品にはいくつか出会い、その度に当時の悲惨な状況を刻み込まれてはきたが、この作品ほどそれを身近に感じたことはなかった。別に以前に観た作品を貶めるつもりはないのだが、総じて原爆の脅威を力ずくで描こうとするきらいがあったように思う。が、この映画は、銭湯の女風呂を覗いたら、そこにはケロイドの女性たちが何人もいた(実際に出てくる場面だ)というように、日常の少し先(もちろんこれは私という観客にとっての認識で、被爆者にとってはそれが日常なのだが)に、原爆がみえるという作りになっている。

2部構成の最初にある『夕凪の街』は、昭和33年、原爆投下後13年の広島を舞台にしている。26歳の平野皆実(麻生久美子)は、海岸沿いのバラックに母のフジミ(藤村志保)と2人暮らしだ。父と妹の翠を原爆で失い、弟の旭(伊崎充則)は戦争中に水戸の叔母夫婦の元に疎開し、そまま養子となっていた。

皆実は会社の打越豊(吉沢悠)から好意を持たれ、皆実も打越のことが気になっていたのだが、いまだに被爆体験が皆実を苦しめ、自分が生きていること自体に疑問を感じていた。被爆時に倉庫にいたため助かった皆実だったが、そのあと巡り会った妹の翠をおぶってあてどなく市内をさまよううちに、翠は皆実の背中で死んでしまう。13歳の皆実にとって決して忘れることのできない思い出だった。この話は本当に悲しい。大げさな演出でなく、皆実が翠をおぶって歩くのを追うだけなのだが、この時の皆実の気持ちを考えたら何も言えなくなってしまう。

生きていることが疑問の皆実にとって、打越の愛を受け入れることなど考えられないことだった。自分は幸せになってはいけない、と思いこんでいたのだ。そんな皆実だったが、打越の真剣な想いに次第に心を開いていく。が、突然原爆による病魔が彼女を襲う……。

私の説明がヘタなので暗い話と思われてしまいそうだが、磨り減るからと、家の近くの河原の土手にくると靴を脱いで帰る皆実が、なんだか可愛らしいし、なにより2人の昔風の恋がいい感じだ。農家出の打越に雑草のおひたしか何か(よくわからん)を出してしまったり、会社の同僚のために、やはり会社の2階からのぞける洋品店の服を真似て型紙(作ったのはフジミだが)をプレゼントしたり、と貧乏なんてへっちゃらの昭和30年代が微笑ましく描写されている。

昭和33年は『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じ設定だが、片や東京タワーが完成しつつあるというのに、広島ではまだ戦争の影がケロイドが消えないように残っているのだ。皆実の住むバラックの近くにも不法占拠地らしいことがわかる立看があったり、私が単純になつかしいさを感じてしまう光景であっても、住んでいる場所や立場で、当然のことだが実際はずいぶんと違うものなのだろう。

ここから第2部の『桜の国』は、平成19年の東京へと飛ぶ。石川七波(田中麗奈)が、定年退職した父の旭(堺正章)の最近の様子がおかしいことを弟の凪生(金井勇太)に相談していると、その旭が家を抜け出していくではないか。旭をあわてて追いかける七波。何も持たずに家を出てしまった七波だが、駅でちょうど幼なじみの利根東子(中越典子)と出会い、彼女に言われるままに、一緒に旭の後を付けることになる。

1部から内容ががらっと変わってサスペンスもどきの展開になるのは、現代風なイメージとなっていいのだが、旭が黙って家を出る理由くらいは説明しておくべきではないか(最後に七波の尾行には気付いていたというのだから余計だ。その時今度の旅が皆実の50回忌という意味合いがあったことがわかるのだが、であればやはり何も言わないで出かけることはないだろう)。堺正章もはじまってすぐは旭役にうってつけと思われたが、残念なことにあまり役に合っていなかった。

予想外のところでつまずきをみせるものの(ま、たいしたキズじゃないからね)、3人を乗せた夜行バスが広島に向かったことで、1部との繋がりから、若き日の旭の恋に、七波の母京花(粟田麗)の死、そして凪生と東子の恋までが明らかになっていく構成は見事だ。第2部の途中からは、旭が巡る皆実の思い出の地や旧友にだぶるように、七波が過去の映像に登場し(つまり過去に想いを馳せているわけだ)。第1部と第2部が自然融合した形にもなる。そしてそれは母の死の場面なども七波に呼び起こすことになる。

ただ、それらを繋ぐのがすべて「原爆」というのだから、途方もなく悲しい。けれど、その悲しさの中にある美しいきらめき(3つの恋)をちゃんとフィルムに定着させているのは素晴らしい。皆実と打越は、皆実の自責の念と死。旭と京花は、思わぬフジミの反対。凪生と東子には東子の両親が壁となる。3番目のはまだまだこれからだけど、死以外のことならなんとかなりそうだと思えてくる。

静かな作品だが、皆実には強烈なことを言わせている。水戸から戻った旭に久しぶりに対面したというのに(皆波の死期が近づいて駆けつけたのだろう)、原爆は広島に落ちたんじゃなく、落とされたのだと断固として訂正する。そして、自分の死を悟って、あれから13年も経ったけど原爆落とした人は私を見て「やったぁ、また1人殺せた」って思ってくれてるかしらとも。広島弁をうまく再現できなし、ちゃんと聞き取れたか不安なのだが、この言葉の前には「うれしい」とも言ってるのだ。

これは当然、原爆を落とした人間に聞いていることになるのだが、大量虐殺兵器使用者への使用したことへの怨念(には違いないのだけど)というよりは、殺そうと思った人間の1人1人が何をどう感じていたかなんて、今となってはもう何も考えてなどいないでしょう、と言っているようにみえた。

あと気になったのが、広島で東子の気分が悪くなって七波と一緒にラブホテルに行く場面。細かいことだがラブホの看板が遠くて、これなら茶店でもよかったのではないかと思ってしまう。この場面自体はいいアクセントになっているから余計残念だ。旭の家出場面同様いくらでも説明の仕方がありそうだからもったいなかった(困ったらすぐそこに入口があったくらいにしておけばね)。

ところで、題名の『夕凪の街』が広島で『桜の国』が東京なのはわかるのだが、映画だと桜の国は、七波がまだ元気だった京花(彼女は被爆時に胎児だった)もいる4人が暮らした団地を特別に指しているようにとれたのだが……。

  

【メモ】

原作のこうの史代の同名マンガは、平成16年度文化庁メディア芸術賞マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。

2007年 118分 ビスタサイズ 配給:アートポート

監督:佐々部清 製作:松下順一 プロデューサー:臼井正明、米山紳 企画プロデュース:加藤東司 原作:こうの史代『夕凪の街 桜の国』 脚本:国井桂、佐々部清 撮影:坂江正明 美術:若松孝市 音楽:村松崇継 照明:渡辺三雄

出演:田中麗奈(石川七波)、麻生久美子(平野皆実)、吉沢悠(青年時代の打越豊)、中越典子(利根東子)、伊崎充則(青年時代の石川旭)、金井勇太(石川凪生)、田山涼成(打越豊)、粟田麗(太田京花)、藤村志保(平野フジミ)、堺正章(石川旭)

西遊記

109シネマズ木場シアター7 ★★

■私たちの旅はただ天竺に着けばいいというのではない

昔々テレビでやっていた『西遊記』を1回も観ていないのでわからないのだが、三蔵法師を夏目雅子がやったように、深津絵里という女性にしたのはあのテレビ作品を継承しているのだろうか。ともかく、また新たな西遊記を作ったのは、この話にそれだけ魅力があるということなのだろう。というか、この映画は2006年のテレビ版の映画化で、出演者もほとんど全員映画に移って作ったもののようだ(何も知らなくてすんません。それに三蔵法師は夏目雅子だけじゃなく、そのあとも宮沢りえ、牧瀬里穂がやっていたのね。ということは日本では女性が演じるのが常識なのか)。

仏典を天竺に求めて旅する三蔵法師、沙悟浄(内村光良)、猪八戒(伊藤淳史)、孫悟空(香取慎吾)の一行は、砂漠の中にある虎誠(フーチェン)へとやってくる。この都の玲美(多部未華子)という姫のたっての頼みで、一行は険しい山の頂に住むという金角大王(鹿賀丈史)銀角大王(岸谷五朗)退治に出かけることになるのだが、そこには玲美の祖父劉星(小林稔侍)がいるだけで、すでに虎誠は金角銀角の手中となっていたのだった。

玲美は両親を助けたいが為に悟空たちを利用し、金角銀角の言われるままに「無玉」を持ち帰ろうとする。「無玉」には、この世から太陽を封じ込める力があり、金角銀角はそれで全世界を我が物にしようとしていた。玲美が金角銀角の手先にならざるを得なかったこと、その玲美が悟空との信頼を築くことは、前半の要になっているのだが、これがあまりに杜撰な話で、観ていてつらくなってくる。

玲美が山に行くのに悟空たちの助けがいるのはわかるが、でも金角銀角にとっては何も玲美に無玉を取りに行かせることもないことで、どうしても玲美がそのことに必要というのであれば、自分たちが玲美を連れて行った方がてっとり速いはずだ。虎誠の城内に「三蔵法師求む」などというビラを貼って、わざわざやっかいな悟空たちを引き留めておく理由など何もないではないか。

金角銀角が虎誠の宮殿にいるという情報も、わざわざ凛凛(水川あさみ)に持ってこさせ(テレビ版の常連を引っ張ってきただけ)、玲美と「約束」をした悟空には、三蔵法師を破門(!)させる。悟空を残して下山した三蔵法師だが、「天竺に行こうと思うあまり」悟空を叱ってしまったことを悔い、沙悟浄と猪八戒は再び山に出向いていく。だが、そのため1人になった三蔵法師は、銀角によって吸引瓢箪(これは何ていうのだ)の中に閉じこめられてしまう。

巨大ナマズの棲む河や、入山を拒むかのように険しい階段や崖、さらにはインディ・ジョーンズばりの仕掛けが襲ってくる(難を逃れるのは横に隠れるだけというのがねー)、容易には到達できないはずの場所なのに、コンビニに行く感覚で入山下山が出来てしまうのでは(ではなく省いているだけなのでしょうけど)難所であることを強調してきた意味がなってしまう。

そうして、銀角はもっとあっさり山にやってきて(ほらね)無玉を奪っていくのである。銀角の乗るエアーバイクの出す黒雲(これ、いいよね)と、悟空の隗箔l雲(エアーボードか)はイメージが逆のような気もするが、ここはなかなかの見せ場になっている。

が、他のCGは総じてチャチ。というか、CGが必要でない普通の部分の絵に奥行きがないものだから(最後に三蔵法師の鈴の音と共に悟空たちが出てくるキメの絵などがいい例だ)、映画全体に安っぽいイメージが漂ってしまうのだ。

金角銀角の強さなどはよく出ていたと思うが、やられてしまった悟空がいくつも刺さっていた小刀を抜いてやり返す、ってあんまりだ。悟空に底知れぬパワーがあるのはいいとしても、こんなヘタクソな見せ方はないだろう。瞬間移動する銀角を、繰り出す如意棒で仕留められずにいたのなら、次は如意棒に円形運動をさせるなり、何か工夫させろってんだ。

とにかく三蔵法師には「生きるということは戦うこと」、悟空には弱い人間にもすごい力があってそれは「なまか(仲間)を作れるってこと」だと偉そうなことを言わせて、金角銀閣を退治。封印を解かれて巨大化していた龍のようなものは吸引瓢箪に収めて、虎誠は以前の緑と水源に囲まれた国に、人々は虎の民と呼ばれていた尊厳を取り戻し、玲美の父と母は亀から人間に。はい、目出度し目出度し。で、三蔵法師の一行は天竺めざして砂漠の旅を続けるのでありました。

で、また最初と同じような場面に戻って、悟空が「もう歩けないよー」とか馬鹿なことを言ってるところでお終いなんだけど、この悟空のだだっ子ぶりにも感心できなかったのだ。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』もだけど、香取慎吾はへんてこりんで難しい役ばっかりなのな。

「生きるということは戦うこと」については、田畑を耕す父のように赤子を育てる母のようにという補足があって、この補足部分はいいのだが、とはいえそんな簡単なことではないはずだ。「なまかを作れるってこと」も別の見方ができる(「約束は守らなければならない」というのもね)のだが、その前に虎誠の人々を「誰にも従わない勇気ある民」とし、最後に「この世で一番勇気があるのは仲間がいるやつ」と隷属することが仲間ではないとも言っているようなので、これはまあ見逃すか。

でもセリフだけ1人歩きされると困るのだな、やはり。「私たちの旅はただ天竺に着けばいいというものではない」と三蔵法師に言わせ、結果でなく過程こそ肝腎と説いていたのだから、もっといろいろなところに慎重になってほしいのである(特に脚本)。

  

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:澤田鎌作 製作:亀山千広 プロデューサー:小川泰、和田倉和利 プロデュース:鈴木吉弘 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 企画:大多亮 脚本:坂元裕二 撮影:松島孝助 特撮監督:尾上克郎 美術:清水剛 音楽:武部聡志 主題歌:MONKEY MAJIK『Around The World+GO!空』 照明:吉角荘介 録音:滝澤修

出演:香取慎吾(孫悟空)、深津絵里(三蔵法師)、内村光良(沙悟浄)、伊藤淳史(猪八戒)、多部未華子(玲美)、水川あさみ(凛凛)、大倉孝二(老子)、谷原章介(文徳)、三谷幸喜(国王)、小林稔侍(劉星)、鹿賀丈史(金角大王)、岸谷五朗(銀角大王)

憑神

2007/07/30 109シネマズ木場シアター7 ★☆

■のらりくらりと生き延びてきたカスが人類(映画とは関係のない結論)

よく知りもしないでこんなことを書くのもどうかと思うのだが、私は浅田次郎にあまりいいイメージを持っていない。たしかに『ラブ・レター』には泣かされたが、あの作品が入っている短篇集の『鉄道員(ぽっぽや)』には同じような設定の話が同居していて、読者である私の方が、居心地が悪くなってしまったのである(こういうのは書き手にこそ感じてほしい、つまりやってほしくないことなのだが)。

で、そのあとは小説も読むことなく、でも映画の『地下鉄(メトロ)に乗って』で、やっぱりなという印象を持ってしまったので(映画で原作を判断してはいけないよね)、この作品も多分に色眼鏡で見てしまっている可能性がある。だって、今度は神様が取り憑く話っていうんではねー。

下級武士(御徒士)の別所彦四郎(妻夫木聡)は、配下の者が城中で喧嘩をしたことから婿養子先の井上家を追い出され、無役となって兄の左兵衛(佐々木蔵之介)のところに居候をしている。妻の八重(笛木優子)や息子の市太郎にも会えないばかりか、左兵衛はいい加減な性格だからまだしも兄嫁の千代(鈴木砂羽)には気をつかいと、人のよい彦四郎は身の置き場のない生活をしていた。

母のイト(夏木マリ)が見かねて、わずかな金を持たせてくれたので町に出ると、昌平坂学問所で一緒だった榎本武揚と再会する。屋台の蕎麦屋の甚平(香川照之)に、榎本が出世したのは向島の三囲(みめぐり)稲荷にお参りしたからだと言われるが、彦四郎はとりあわない。帰り道、酒に酔った彦四郎が川岸の葦原の中に迷い込むと、そこに三囲(みめぐり)稲荷ならぬ三巡(みめぐり)稲荷があるではないか。つい「なにとぞよろしゅう」とお願いしてしまう彦四郎だったが、こともあろうにこれが災いの神だったという話(やっぱり腰が引けるよな)。

で、最初にやってきたのが、伊勢屋という呉服屋とは名ばかりの貧乏神(西田敏行)。これ以上貧乏にはなりようがないと安心していた彦四郎だが、左兵衛が家名を金で売ると言い出すのをきいて、貧乏神の実力を知ることになる(眉唾話に左兵衛が騙されていたのだ)。この災難は宿替えという秘法で、貧乏神が彦四郎から彼を陥れた井上家の当主軍兵衛に乗り移って一件落着となる(井上家の没落で、彦四郎は妻子を心配しなければならなくなってしまうのだが)。

次に現れたのは、九頭龍為五郎という相撲取りの疫病神(赤井英和)。長年の手抜き癖が問題となって左兵衛がお役変えとなり、彦四郎に出番が回ってくるのだが、疫病神に祟られて全身から力が抜け、榎本と勝に新しい世のために力を貸してほしいと言われてもうなずくのが精一杯という有様。だが、これも結局は疫病神が左兵衛に宿替えしてくれることになる。

神様たちが彦四郎に惚れて考えを少しだけだが変えてしまうのも見所にしているらしい。でもそうかなー、なんかこういうのにわざとらしさを感じてしまうのだが。井上家の使用人で彦四郎の味方である小文吾(佐藤隆太)が、幼い頃から修験者の修行を積んでいて、呪文で貧乏神を苦しめるあたりの都合のよさ。宿替えは10年だか100年に1度の秘法だったはずなのに2神ともそれを使ってしまうんだから、何とも安っぽい展開ではないか。

死神(森迫永依)をおつやという可愛い女の子にしたのにも作為を感じてしまう。おつやは子供の姿でありながら、彦四郎の命を市太郎に狙わせるという冷酷な演出に出る。自分で手をくだしちゃいけないからと言い訳をさせていたが、それにしても、こんなことをされたというのに、このおつやにも彦四郎はあくまで優しく接する。彦四郎が本当にいいヤツだということをいいたいのだろうし、だからこそ3神もらしからぬ行動を取ることになるのだが。

結局、彦四郎は死を受け入れる心境になるのだが、これがあまり説得力がないのだ。というより宿替え(おつやは1度しか使えないと言ってた気がするが、使っていないよね?)のことも含めて、誤魔化されてしまったような。終わった時点でもうよくわからなくなっていたから。彦四郎は最低の上様である徳川慶喜(妻夫木聡)に会い、彼と瓜二つであることを確認し(これもねー。影武者が別所家の仕事ではあったことはいってたが)、当人から「しばらく代わりをやってくれ」と言われて、その気になるような場面はあるのだが、どうにもさっぱりなのだ。

彦四郎は、犬死にだけはしたくないと言っていたのに、上野の山に立て籠もった人たちの心の拠り所になれればと考えたのか。やはり上野の山に馳せ参じようとした市太郎と左兵衛の息子の世之介に、そこに行っても何の意味もなく、新しい世の中を作るために残らなくてはならないと諭す。この矛盾は対子供においては納得できるが、彦四郎自身への説明にはなっていただろうか。

また彦四郎に、死神に会って生きる意味を知り、神にはできぬが人は志のために死ぬことができる、とおつやに語らせていることも話をややこしくしている。そーか、彦四郎にとってはやはり影武者としての家業をまっとうすることが、武士の本懐なのか、と。なんだかね。死ぬことによって輝きを増すとかさ、もう語りすぎなんだよね。

おつやも神様稼業がいやになり、相対死をするつもりで彦四郎の心の中に入り込む。とはいえ、彦四郎は官軍の砲弾で命を散らすが、神様は死なないのだった。で、急に画面は現代に。何故かここに原作者の浅田次郎がいて、おつやの「おじちゃん(彦四郎)はすごく輝いていたんだよ」というセリフが被さって終わりとなる。これはもちろん憶測だが、降旗康男もあまりの臆面のなさにまとめきれず、全部を浅田次郎に振ってしまったのではないか(ま、ここにのこのこ出てくる浅田次郎も浅田次郎なんだけど)。でないとこの最後はちょっと説明がつかない。

こんな結論では、疫病神に取り憑かれてものらりくらりと生き延びてしまう左兵衛に、決して輝いてなどいないけれど、そうして肩入れだって別にしたくもないけれど、人間というのはもしかしたら、こういういい加減な人種だけが生き延びてきてしまったのかもしれないと、と思ってしまったのだった(うん、そうに違いない)。

  

2007年 107分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:降旗康男 プロデューサー:妹尾啓太、鈴木俊明、長坂勉、平野隆 協力プロデューサー:古川一博 企画:坂上順、堀義貴、信国一朗 原作:浅田次郎『憑神』 脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文 撮影監督:木村大作 美術:松宮敏之 編集:園井弘一 音楽:めいなCo. 主題歌:米米CLUB『御利益』 照明:杉本崇 録音:松陰信彦 助監督:宮村敏正

出演:妻夫木聡(別所彦四郎/徳川慶喜)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、赤井英和(九頭龍/疫病神)森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、上田耕一、鈴木ヒロミツ、本田大輔、徳井優、大石吾朗、石橋蓮司、江口洋介(勝海舟)

シュレック3 日本語吹替版

新宿ミラノ3 ★★☆

■昔々、誰かが僕たちをこんなにした

1、2作目を観ていないので、比較も出来なければ話の流れもわかっていないのだが、シュレックはどうやら2作目の活躍(?)で王様代行の地位を、このおとぎの国で得ていたらしい。もっともシュレックが王様代行としてふさわしいかどうかは本人が1番よく知っていることで、何しろシュレックは怪物らしいんだが、そしてこれは多分3作目だからなのだろうが、せいぜい見た目が緑でごっつくて息が臭いくらいでしかなくって、そう、すでに人気者なのだった。

とにかくシュレックが何者なのかも、ドンキーと長靴をはいた猫が何で彼の部下となっているのかもわかってなく、怪物なのにヒーローで、結婚したフィオナ姫(シュレックと同じ怪物なのに蛙国王が父!?)までいるんだ?と、一々ひっかかっていてはどうしようもない。

だから楽しめなかったかというとそんなことはないのだが、残念なことにシュレックにそれほど親近感が持てぬまま終わってしまったのは事実。

蛙国王ハロルドの死(死の場面で笑いをとってしまうんだからねー)で、いよいよ王位に就くしかなくなったシュレックは、フィオナ姫の従弟のアーサーという王位継承者の存在をハロルド王から聞いたことで、アーサー探しの船旅に出、ある町の高校でアーサーを見つけだす。

このアーサー、円卓の騎士(アーサー王伝説)からの命名らしく、ライバル(恋敵でなくいじめっ子)はランスロットで、かつて魔法を教えてくれていたのがマーリンというヘンな元教師(魔術師という設定は正しいが、彼には別の場所で会う)。ただ、円卓の騎士の話は名前だけの借用で、話が関連してくるでもなく、アーサーはまぬけな臆病ものでしかない。

一方、シュレックが王になっては面白くないチャーミング王子は、おとぎ話で悪役や嫌われ者になっている白雪姫の魔女やシンデレラの継母にフック船長などにくすぶっている不当な扱いや不満をすくい取り、シュレックがいないのを狙いすましたように反旗をひるがえす。

チャーミング王子が自分勝手で狡賢いヤツでなければ、彼らの想い(昔々、誰かが僕たちをこんなにした)に応えるこの発想は捨てたものではないのだが、自分が注目されたいがために、所詮はおだてて利用しようとしているだけというのがねー。てっきり子供向けだから単純な設定にしておいたのだろうと思ったのだが、白雪姫やシンデレラたちをちょっと鼻持ちならないキャラクターにしたりと、手のこんだところもみせる。で、髪長姫にはチャーミング王子に協力するという裏切りまでさせているのだ。

ただそのチャーミング王子は、巨大劇場での自己満足演目に浸りきってしまう幼稚さだから、シュレックが旅から戻ると一気にその企ても崩れ去るのみ。おとぎの国の悪役たちも、アーサーが王らしい訓示を垂れれば(シュレックの受け売りなんだけどね)、武器を捨ててしまうのだから、あっけないったらありゃしないのである。

映画全体にあるこの生温さは、怪物として機能する必要がなくなってしまったシュレックにありそうなのだが、なにしろ1、2作を観ていないのでいい加減な感想しか書けないのは最初に断った通り。CGは見事だし、ほとんどお馴染み顔ぶれが繰り出すギャグも1作目から観ていたらもっと楽しめたと思うのだが、とにかくシュレックのヒーローとしての際立った魅力がこの3には感じられないのだ。王様になることを恐れたり、生まれてくる赤ん坊の悪夢を見ていたというような印象ばかりではね。

 

【メモ】

最近の日本語吹替版ではあたりまえのようだが、タイトルやエンドロールも日本語表記のもの。アニメなんだから私なぞ日本語吹替版で十分(むしろこの方が楽しめるかも)。

原題:Shrek the Third

2007年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:アスミック・エースエンタテインメント、角川エンタテインメント

監督:クリス・ミラー 共同監督:ロマン・ヒュイ 製作:アーロン・ワーナー 製作総指揮:アンドリュー・アダムソン、ジョン・H・ウィリアムズ 原作:ウィリアム・スタイグ 原案:アンドリュー・アダムソン 脚本:ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

声の出演(日本語吹替版):濱田雅功(シュレック)、藤原紀香(フィオナ姫)、山寺宏一(ドンキー)、竹中直人(長ぐつをはいた猫)、橘慶太(アーサー)、大沢あかね(白雪姫)、星野亜希(シンデレラ)、光浦靖子(髪長姫〈オアシズ〉)、大久保佳代子(眠れる森の美女〈オアシズ〉)

魔笛

テアトルタイムズスクエア ★★

■オペラはわからん

私がオペラに出かけることなど今まで同様これからもまずないと思われるが、映画でとなると、そういう状況も可能になってしまうのだから面白い。

しかもこの映画は、舞台俳優出ながら映画のことも知り尽くしたケネス・ブラナーによるモーツァルトのオペラ『魔笛』の映画化だから、私のようなオペラ知らずが観るのにもちょうどよさそうである。

ブラナーもオペラの映画化については相当意識しているのだろう、巻頭の序曲をバックに出現する映画絵巻ともいうべき光景は一見に値する。鳥をとらえていたカメラはパンダウンし、花を摘む男に移ったかと思うとそのまま塹壕の上に出、伝令を追う。上にパンし、次には左へと自在に跳び回る。幾重にも広がる塹壕を俯瞰するが、ちょっと別なところでは蝶が舞うのどかな戦場で、でも軍楽隊が現れ銃砲が上を向くと、雲の中からは複葉機が現れカメラも空に飛ぶ。演奏の下で戦争が繰り広げられ、そこを拳銃1挺のタミーノ(ジョセフ・カイザー)がうろつく様は滑稽でもある。

これをワンカットで見せられては期待が高まざるを得ないのだが、残念なことにこの凝ったカメラが機能しているのもここまでだった。もちろんこの後も、何度か似たような試みはなされている(やはり戦場や、城に侵入した人物の位置関係や状況をカメラの移動で説明している)し、上部からのカメラを多用するなどの工夫もあるが、オペラ部分になるとアップが主体となって、空間も結局は舞台のような狭いところに押し込められたような印象になってしまうのである。

それと、これはもともとの『魔笛』というオペラの問題らしいのだが、話がずいぶんとヘンテコリンだ(これもあくまで映画を観た限りでの感想なのだが)。

前線で毒ガスに倒れていたところを夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)の侍女3人に助けられたタミーノは、さらわれた娘パミーナの救出を女王に依頼される。これは当然タミーノがもともと女王側の兵士ということなのだろうが、これが意外と曖昧なのだ(第一次世界大戦への移植はブラナーの責任だけどね)。それはともかく、やはり女王のために鳥を捕っていたパパゲーノ(ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス)と一緒にパミーナの救出に向かう。

ところが悪役のはずのザラストロ(ルネ・パーペ)は、実は善政を行い国民からは慕われており、夜の女王こそが悪なのだという。ザラストロの部下に邪悪な心を持ったモノスタトス(トム・ランドル)がいて、そいつがパミーナに悪さを働こうとしてはいたが、これでは何が何だかわからない。しかもそのザラストロは最初、タミーノの前で自分の身を偽ってみせるのだ。胡散臭いだけでなくこんな大人げのないところを見せられてしまったし、善政が布かれているにしては国民の行動もどこか画一的に見えたから、私などしばらくはザラストロを独裁者と決めつけてしまっていた。

そもそも題名の魔笛をタミーノは夜の女王から贈り物として受け取っている(パパゲーノのチャイムも同じ)。そして、この魔笛(チャイムも)は、音楽によってこの地に平和と協調をもたらすのだ。だったら、夜の女王がそれをわざわざタミーノやパパゲーノに授けたりするだろうか。また2人を導く3人の少年も、この流れだと女王に遣わされたように見えるのだが(実はよくわからない)。

音楽がすべてを解決してくれるのであるから(そんな単純なことを言われてもねー)、些細なことなどどうでもいいと考えたのだろうか。

パパゲーノとパパゲーナ(シルヴィア・モイ)の恋の話もまったく意味不明。もともとパパゲーノの役割は道化とは思うのだが、話もずいぶんとおちゃらけている。パパゲーナが最初は老婆として登場し、でも18なのだと言って私と一緒にならないと地獄に堕ちると迫り、パパゲーノがしかたなく同意すると若い娘に変身する。

こんな馬鹿馬鹿しい話を延々と見せられては、肝腎の音楽がちっとも楽しめないのだが、オペラ通の人たちには、そういうことはすでに了解事項なのだろうか。沈黙の誓いにしても、タミーノとパミーナの恋にしても、どれも稚気溢れたもので、途中でうんざりしてしまったのだ。

第一次世界大戦という背景をもってきて、戦場を前に広がる墓標(戦死者の名前は若者ばかりなのだが、そこに日本人の名前も刻まれている)を見せることで、反戦というテーマを前面に押し出したかったようだが、『魔笛』の持つ本来の内容とは落差がありすぎたのではないか。

最後は、夜の女王がモノスタトスや3人の侍女とで奇襲をかけてくるが、魔笛がそれを守ってくれ(やっぱりこれはないだろ)、女王たちは城壁から真っ逆様に落ちていく。英知が世を治めたことで、緑が地をおおっていくのだった。でも実際には第二次大戦が起きてしまうわけだから、この設定はほとんど意味がなかったとしか思えないのだ。

 

原題:The Magic Flute

2006年 139分 シネスコサイズ イギリス、フランス 日本語字幕:松浦奈美 オペラ監修:増田恵子 配給:ショウゲート

監督:ケネス・ブラナー 製作:ピエール=オリヴィエ・バルデ 製作総指揮:スティーヴン・ライト 脚本:ケネス・ブラナー、スティーヴン・フライ 撮影:ロジャー・ランサー プロダクションデザイン:ティム・ハーヴェイ 衣装デザイン:クリストファー・オラム 編集:マイケル・パーカー 音楽:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 音楽監督・指揮:ジェームズ・コンロン 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 英語脚色:スティーヴン・フライ 音楽プロデューサー:ダニエル・ザレイ

出演:ジョセフ・カイザー(タミーノ)、エイミー・カーソン(パミーナ)、ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス(パパゲーノ)、ルネ・パーペ(ザラストロ)、リューボフ・ペトロヴァ(夜の女王)、シルヴィア・モイ(パパゲーナ)、トム・ランドル(モノスタトス)、テゥタ・コッコ(侍女1)、ルイーズ・カリナン(侍女2)、キム=マリー・ウッドハウス(侍女3)

ファウンテン 永遠に続く愛

銀座テアトルシネマ ★☆

■永遠の勘違い男

そうわかりにくい話ではないのに、現実と物語を交錯させ、さらにもう1つ主人公の精神世界のような映像も散りばめ、そしてそれらの境目までも曖昧にしてしまう。しかもそこにある概念といえば仏教の輪廻もどきのもの。これではダーレン・アロノフスキーとの相性が多少はいい人でも観るのは相当キツイのではないか。とにかく初見(かどうかは関係ないか)の私にはとてもついていけなかったのである。だから粗筋すら書く気が失せているのだが……。

医師のトム・クレオ(ヒュー・ジャックマン)は、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)が脳腫瘍の末期にあることを知って、死は病気の1つという信念で研究に冒頭していく。が、イジーの方は、残された短い時間を夫と一緒に過ごせれば、もう死を受け入れる覚悟ができていた。

イジーが書き進めていた物語は、そのことをトミーにわからせたいが故のものだろう。そして未完成部分の第12章をトミーに完成して欲しいと願うのだ。映画の中で何度もイジーの「完成して」という言葉が繰り返されるが、それはきっとそういう単純なことだったのではないか。観ている時は何かあるのかもれないと思っていたのだが、そもそもこの映画は、構成こそ入り組んでいるが、伏線らしきものは見あたらないのである。

トミーといえば、行き過ぎた猿への実験で上司のリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)に休日を言いわたされる始末。が、そのことで手がかりを掴めそうになると、さらに狂気のごとくその研究にのめり込んでいく。しかしこんな実験で、余命幾ばくもない人間の命を救えることになるなどと実際に医療にたずさわっている者が本気で考えるだろうか。新薬が日の目をみるには、動物実験を経た後も、治験を繰り返す必要があることくらい常識だろうに。

かくの如く、まったく奇妙なことにこの現実部分は、イジーの書いた物語より現実離れしているのだ(これには何か意味でもあるのだろうか)。それもと体裁としては現実ながら、イジーの物語と同列扱いにしたかったのかもしれない。

イジーの書いた『ファウンテン』と題された物語は、16世紀のスペインのイザベル女王が、騎士トマスに永遠に生きられる秘薬を探せと命じるというもの。11章まで書いたというのに、映画では最初の命令部分と任務途中でのアクション場面があ少しあるだけのものでしかない。これをイジーとトミーがそれぞれ演じていて(ここはヒュー・ジャックマンとレイチェル・ワイズがと書かなくてはいけないのかもしれないが)、イジーの顔のアップとイザベル女王のアップを交互に見せたりしている。

そしてトミーはマヤに古くから言い伝えのある生命の木にたどり着き、花を蘇生させるその樹液でもって、永遠の命を得ようとする。現実部分のトミーが新しい治療法の手がかりを見つける(やはりある樹皮を猿に投与する)のもこのことと重なっている。またこれとは別にトミーの精神世界のような場所でも、同じような行為が繰り返される。

球体に囲まれた小さな世界の中に、イジーが横たわっていて(すでに死んでいるのか?)、そこには剃髪したトミーがいて、その球体の中に聳えている生命の木の樹液を飲むのだ。樹液を飲んだトミー(いや、これは騎士のトマスだったか)は歓喜の表情となるのだが、直後、トミーの全身からは花が芽吹き、トミーは花に包まれてしまう。この場面は単純なものだが、この映画唯一の見所となっている。

繰り返しになるが、イジーが「完成して」と言った意図は11章まで物語を丹念に読むこと、つまりイジーが何を考え、生き、トミーと生活してきたかを自分がしたように辿ってほしかっただけなのだ。そうすれば12章は自動的に完成したはずなのだ。まあ、勘違い男のトミーが、不死の秘薬探しを即自分の職業に結びつけてしまったのは無理からぬところではある。しかしイジーからペンとインクまでプレゼントされて「完成して」と言われたら、さすがにわかりそうなものなんだけどね。

実は私の中ですでに混乱してしまっていているので断言できないのだが、トミーが花にとって変わってしまう場面が騎士トマスにもあったとしたら、物語を書いたイジーもそのことを予言していたことになる。永遠の命はその樹にとってのもので、トマスはただ養分になったにすぎないことを。

映画はトミーの暴走によって不死というテーマへと脱線していくのだが、そこで語られる不死観に具体的なものは何もない。生命が渦巻いているような光の洪水の中に漂う球体は美しいけれど、ただそれだけなのである。輪廻の映像化というよりは、小さな閉じた世界にとどまっているようにしかみえないのだ。

剃髪したトミーが座禅し黙想する姿は仏教そのもののようだが、生命の木についてはマヤの言い伝えとしているし、スペインによる南米搾取はキリスト教の布教絡みでもあったわけだから、何がなんだかわからなくなる。

とにもかくにも、最後になって一応はトミーも死を受け入れても精神は死なないという世界観を会得したらしいのだが、イメージだけでみせているからそれだって大いに疑問。それにすでにそこに至る前に、イジーのメッセージを読みとれずにいるトミーには、永遠に勘違いしていろ、と何度も言ってしまっていた私なのだった。

(070801 追記)公式サイトに次のような文章があった。

    「舞台を現代だけにして、不死の探求についての物語を伝えるのは難しかった。そこで、トミーの物語を16世紀、21世紀、そして26世紀と、3つの時代を舞台にすることにした」とアロノフスキー監督は語る。「しかしこの映画は、伝統的な意味での時空を超えた物語ではない。むしろ、1人の人間の3つの側面を体現する各キャラクターを異なる時代に描いて、3つの物語を結合させている」

私が精神世界と思っていたのは26世紀なのか! それはまったくわかりませんでした。もう少しヒントをくれてもいいと思うのだが。

原題:The Fountain

2006年 97分 ビスタサイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー 製作:エリック・ワトソン、アーノン・ミルチャン、イアイン・スミス 製作総指揮:ニック・ウェクスラー 原案:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル 撮影:マシュー・リバティーク プロダクションデザイン:ジェームズ・チンランド 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ジェイ・ラビノウィッツ 音楽:クリント・マンセル

出演:ヒュー・ジャックマン(トマス/トミー/トム・クレオ)、レイチェル・ワイズ(イザベル/イジー・クレオ)、エレン・バースティン(リリアン・グゼッティ博士)、マーク・マーゴリス、スティーヴン・マクハティ、フェルナンド・エルナンデス、クリフ・カーティス、ショーン・パトリック・トーマス、ドナ・マーフィ、イーサン・サプリー、リチャード・マクミラン、ローン・ブラス

ルネッサンス

シネセゾン渋谷 ★★☆

■絵は見事ながら結論が陳腐

『ルネッサンス』におけるモノクロ映像の鮮烈さは脅威だ。モノクロ2値(グレー画像の入る場面もけっこうあって、これもなかなかいい)で描かれたコントラストのはっきりしたアニメは、極度の緊張感を強いられるが、しかし『スキャナー・ダークリー』にあった色の洪水に比べれば、意識の拡散は少ない。

そして2054年のパリの変貌度。これもすごい。色は抑えられていても、未来のパリが、古い部分を残しながら、しかし重層的な街(しかも水路がかなり上の方にあったりして、こんなところにもわくわくさせられてしまう)として提出されると、やはり意識はどうしようもなく拡散し、物語を追うのは後回しにしたくなる。

未来都市は一面ガラス張りの道路があって、これは物語の展開に少しはからんでくるし、カーアクションや企業の建物、街中のホログラムの娼婦にステルススーツを着た暗殺者などもそれなりには見せるのだが、とはいえ単なる背景程度だから別にこの映画でなきゃというものではない。せっかくの重層的な街がたいして機能していないのにはがっかりする。

モーション・キャプチャー技術による映像というが、技術的なことはよくわからない。絵的には面白くても、人物造型となると陰翳だけではのっぺりしてしまって深みがなくなるから、ここはやはり都市の造型の意味に言及(そのことでアヴァロン社の存在を説明するとかね)しなければ、何故こういう形のアニメにしたのかがわからなくなる。鑑賞中そんなことばかり考えていた。

だから物語を掌握できたかどうかの自信はないのだが、これだけ凝った映像を用意しておきながら、それはまったく薄っぺらなものであった。

パリすべてを支配しているようなアヴァロンという企業(パリ中にここの広告があふれかえっているのだ)で働く、22歳の女性研究員イローナ・タジエフが誘拐されるという事件が起きる。アヴァロンの診療所(こういうのもすべてアヴァロンが運営しているのだろうか)のムラー博士の通報で、高名(とアヴァロンの副社長?のダレンバックが言っていた)なカラス警部が捜査に乗り出す。

イローナの5歳年上の姉ビスレーン(とカラス警部の恋もある)や、カラス警部とは因縁のあるらしい裏社会の実力者ファーフェラーをかいして、サスペンスじみた進行でイローナの行方に迫っていくのだが、しかしその過程にはほとんど意味がなく、だからただでさえ単調な結末がよけい惨めなものにみえてしまう。

手を抜いてしまうが、結局イローナは早老病の研究にかかわっていて不老不死の方法を手に入れたらしいのだが、これには当然アヴァロン(ダレンバック)の影があって、でも最後にはイローナが暴走。人類は私の発見を待っているのよ、私が世界を変えるのよ、みたいな調子になるのだが、こういうのってあまり恐ろしくないのだな。

ムラー博士の弟クラウスは早老病になったが、ムラー博士が不死を発見したことで子供のまま40年生きていたという部分など、別物ながら『アキラ』を連想してしまったし、不老不死を死がなければ生は無意味と位置づけている凡庸さにも同情したくなった。「アヴァロン、よりよい世界のため」という広告が出て終わるのは、巻頭のタイトル(カラス警部の夢のあとの)後と同じ構成にして「よりよい世界」の陳腐さを強調したのだろうが、それ以前に映画の方がこけてしまった感じがする。

そういえばクラウスの描いた絵だけがカラーで表現されていた。あれにはどういう意味があるのか。真実はそこにしかない、だとしたらそれもちょっとなんである。

 

原題:Renaissance

2006年 106分 シネスコサイズ フランス、イギリス、ルクセンブルク 配給:ハピネット・ピクチャーズ、トルネード・フィルム 日本語字幕:松岡葉子

監督:クリスチャン・ヴォルクマン 脚本:アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール、マチュー・デラポルト 音楽:ニコラス・ドッド キャラクターデザイン:ジュリアン・ルノー デザイン原案:クリスチャン・ヴォルクマン

声の出演:ダニエル・クレイグ(バーテレミー・カラス)、ロモーラ・ガライ(イローナ・タジエフ)、キャサリン・マコーマック(ビスレーン・タジエフ)、イアン・ホルム(ジョナス・ムラー)、ジョナサン・プライス(ポール・ダレンバック)、ケヴォルク・マリキャン(ヌスラット・ファーフェラ)

ボルベール〈帰郷〉

シネフロント ★★★

■男なんていらない

映画のはじまりにある墓地の場面で、大勢の女たちがそれぞれの墓を洗い、花を飾っていた。墓石の形も花も違うのだが、スペインの風習も日本のそれとそうは変わらないようだ。強い日差しと風のせいもあるのかもしれないが、女たちの表情が、死者を想って悲しみいたむというより、自分たちの中から湧き出る生を抑えきれずにいるという印象。男たちの姿がほとんど見えないのは本篇と同じで、生と死をめぐる女たちの話にふさわしい幕開けとなっている。

15歳の娘パウラ(ヨアンナ・コボ)からの連絡で家に戻ったライムンダ(ペネロペ・クルス)は、パウラが夫のパコを殺害した事実に驚くが、パコに本当の父親ではないのだからと関係を迫られ、包丁で刺してしまったと聞くと、パウラにはパパを殺したのはママだと記憶に刻めと言って、警察には届けず遺体を始末する決意をする。

それはないだろうと思ってしまうから、居心地の悪いまま映画を観ることになるのだが、これにはちゃんとした理由があるのだった。もちろん、理由がわかるのは映画も後半になってからである。ライムンダもやはり酔った父親に強姦されて、身籠もった子がパウラだったというのだ。つまりパコの自分は父親でないという発言は本当だったわけだ。

パコは失業したというのに飲んだくれて(これは失業したから、なのかも)、自慰だけでは性欲を発散できずに娘に手を出してしまうのだから、とんでも男でしかないのだが、ライムンダはパコの死体を彼が好きだった場所に運んで埋め、そこにある木を墓に見立てて生年などを刻んでいたから、パコを全否定しているわけでもなさそうだ。

もっともいくら娘のためとはいえ、死体を隠してしまうのだからあまり褒められたものではない。たまたま休業になって鍵を預かっていた隣のレストランの冷蔵庫に、死体をとりあえず入れてしまうのはわからなくもないが、それを冷蔵庫のまま運び出すのはどうか(調べられたらすぐばれてしまうだろう)。女たちの連係プレーを演出したかったのかもしれないが、埋める時点では協力者は娼婦だけだから、穴を掘るのだって無理そうなのだ(あまりくだらないところにケチを付けたくないんだが、これはちょっとね)。

パウラが事件を起こした時に入ってきたのが、故郷のラ・マンチャに住む伯母の死の知らせ。巻頭の墓掃除は、姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)とパウラの3人でボケだした伯母を見舞った折りのことだったが、事件を抱えたライムンダは、今度は帰るに帰れず、ソーレと伯母の家のそばに住むアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)に葬儀のことを任せるしかない。

ライムンダは葬式から戻ったソーレの自宅兼美容室を訪ねるが、何故かそこに4年前に死んだはずの母イレーネ(カルメン・マウラ)の匂いと影を感じる……。

イレーネについてはソーレも死んだと思っていたのだが、本人が噂通りに現れてびっくりという展開(どうせ姿を現すのだから車のトランクに隠れることはないと思うが)。仲の悪かったライムンダには会わせられないと、映画はちょっとコメディタッチとなる。イレーネをロシア人だと客まで騙したり、というようなのもあるのだけど、そういうのではなく、たとえば、まだ死体のあるレストランにライムンダがいる時、ちょうど近所に来ていた映画の撮影隊が食事のできる場所を探していて、ライムンダはオーナーの不在をいいことに、近所の女たちの手や食料品を借りて、勝手にレストランを開いてしまったりするというような。

ペドロ・アルモドバルの作品を観るといつも感じることなのだが、この人にはやはり独特の感覚があるということだ。肯定できる時もできない時にもそれはあって、うまく表現できないのだが、自分とは違う人種だと感じざるを得ない。この作品の場合だと、死体を作っておいてのこの悠長さ、だろうか。それを恐れているのでも楽しんでいるのでもない、というのがどうもわからないのだ。

それはともかく、レストランは評判で、次の予約までもらってしまい、打ち上げパーティの席では、ライムンダはイレーネに教わったという『Volver』を歌う。歌も聴かせるが(ペネロペ・クルスが歌っているかどうかはエンドロールで確認できなかった)これを隠れていたイレーネが聞いていて、2人の和解へと繋がっていく。

ただ、ここからの展開はどうしてもイレーネによる説明となるので少々飲み込みにくい。イレーネの夫は彼女を死ぬまで裏切り続けていて、アグスティナの母親と浮気をしていたというのだ。4年前の火事で死んだのは夫と浮気相手で、イレーネはそのこと(火を付けたのも彼女)で身を隠していた。

ライムンダがイレーネと確執を持つに至ったのは、父の強姦をイレーネがどう対処したかによるだろう。ライムンダにしてみれば、自分がパウラにしたように自分を守って欲しかったはずだが、そこらへんははっきりしたことがわからない。イレーネは「許して欲しくて戻った」と言っているのだから、そしてライムンダがそのことを納得したのならそれで十分だろうか。

しかし、ライムンダの事件は彼女が10代の頃で、父とアグスティナの母親の死は4年前だから、それまでに10年という月日が経っていることになる。これはずいぶん長いから、4年前の真相をライムンダが知ったとしても気が晴れはしないだろう。イレーネもそのことはわかっているのだろう。それに2人を始末したのは、娘のためというよりはやはり自分のためだったはずだ。ライムンダと暮らすのではなく、アグスティナの最期に付き合おうとするのはそのこともあるのではないか。

複雑になるので触れなかったが、アグスティナは不治の病になってしまい、彼女にとってもヒッピーの母の失踪は気になるのだろう、ライムンダにイレーネが本当に現れたら(最初は幽霊の噂が立っていた)母のことを訊いてくれと何度も言われていたのだ。

ライムンダはイレーネにパコのことを話そうとする。イレーネの答えは「あとでゆっくり聞きましょう」というもの。この感覚はいい。

それにしても男達をここまで愚かに描く意図がわからない。アドモバルの女性讃歌。物語を作った結果。ま、どうでもいいか。それにパコなんて姿を消しても誰も気にもしないし、彼の捜索で警察が動いたという形跡もないのだ。まるで男なんていらない、といってるような映画なのである。でもさー、だったら胸を強調するような服をペネロペ・クルスに着せて、胸元を真上から撮る必要はないよね。

原題:Volver

2006年 120分 シネスコサイズ スペイン 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル 製作:エステル・ガルシア 製作総指揮:アグスティン・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 編集:ホセ・サルセド 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ペネロペ・クルス(ライムンダ)、カルメン・マウラ(イレーネ/母)、ロラ・ドゥエニャス(ソーレ/姉)、ブランカ・ポルティージョ(アグスティナ)、ヨアンナ・コボ(パウラ/娘)、チュス・ランプレアベ(パウラ伯母さん)、アントニオ・デ・ラ・トレ(パコ/夫)

ダイ・ハード4.0

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■ぼやきから悟りへ

悪党は最初から悪党。小賢しいドンデン返しなどないから、いたって明快。よけいなことは考えずに、次々と展開するアクション場面に身をまかせていればいいという方針は大いに評価できる。

ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)は音信不通気味の娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)のことが気になってニュージャージー州の大学までやってくるのだが、女子大生のルーシーは、ボーイフレンドと一緒のところだった。ルーシーがそんなに心を許した相手ではなかったのだが、間の悪い訪問ということもあって、マクレーンは冷たくあしらわれてしまう。今回は奥さん(離婚したのね)は登場しないが、相変わらず家の方は問題が山積みのようだ。

そこへ本来は管轄外なのだが、マクレーン警部補がそこにいるならと、近くに住むハッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をFBIまで連れていく護送任務を言いわたされてしまう。ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー保安局のボウマン(クリフ・カーティス)が異変を感じたことで、ブラックリストに載っていたハッカーたちが一斉に捜査対象となったのだ。

マクレーンがファレルのところに乗り込むと、そこでいきなり銃撃戦となる。ファレルはシステムへの侵入をセキュリティチェックと言いくるめられて、テロリストたちに利用されていたが、用済みになったところで足が着くからと、抹殺される寸前だったというわけだ。

全米のインフラを監視するシステムを掌握した(単純ながら妙に現実味を帯びたアイディアだ)トーマス・ガブリエル(ティモシー・オリファント)とただの刑事の戦いなど、本来なら成立するはずもないのだが、そこはぬかりなく、ここから一気にアクション場面が連続する。ガブリエルがマットにこだわるのがちょっと不思議だったが、途中からはマクレーンもファレルの手を借りてガブリエルに対抗していくわけだから、これだって納得だ(邪魔をされたら手強いと思って先手を打ったという説明もアリだろう)。

トンネル内での車の正面衝突、宙に舞う車。ヘリコプターには消火栓(を破壊して水を吹き上げる)だけでなく、料金所を利用して車を空に飛ばして、ヘリにぶつけてしまうなんて荒技まで。トレーラーと最新鋭戦闘機のF-35の対決(『トゥルーライズ』にもジェット戦闘機が出てきてびっくりしたが、これはそれを凌駕している。94年作と比較しても仕方ないが)だって無茶なのに、さらには崩れていく高架道路から戦闘機の尾翼に飛び移ってしまう……。

この他にもエレベーター・シャフト内部という狭くて危ない(エレベーターが通り過ぎて行くからね)場所で、ガブリエルの恋人で右腕のマイ・リン(マギー・Q)とファイト・シーンを見せるなど見所満載。あり得ないと言い出したら何も残らなくなってしまうような場面ばかりが続く。

もっともこのサービスぶりは、さすがにいままでにあったマクレーンの人間味を薄めることになった。『ダイ・ハート』シリーズはこれが魅力だったのだが。

偶然の力も大いに借り、さらに満身創痍にはなっても、とにかく不死身。だけじゃなくて、今回は非情ですらある。敵を容赦なく殺してしまうのだから。例によって運が悪いとかぼやかせてみても、だいぶニュアンスが違ってくる。ファレルに語る英雄の定義も「撃たれるだけ」で家族にはかえりみられないとぼやいていたはずが、誰もやらないから俺がやるだけと、いつしか悟りの境地に近いものになっているのである。

マクレーンの悟りなど聞きたくはないが、ファレルとの凸凹(デジアナ)コンビの会話はアクション場面の繋ぎとしてはいい感じだ。傍観していただけのファレルが成長して(未来のルーシーの旦那か?)いくというのも観客にはわかりやすい。

ガブリエルはFBIにいたのだが、セキュリティに関する提言が受け入られないことで逆恨みの犯行に走ったという設定(もっとも最終的には金狙いなんだが)。歴代の大統領の繋ぎ合わせ画像でテロ宣言を出したり、偽映像でホワイトハウスを爆破させるのも朝飯前(部下にやらせてたけどね)だから、マクレーンなど「デジタル時代のハト時計野郎」で、実際その分部ではマクレーンは手も足も出ない。それをファレルがうまくカバーしてくれるというわけだ。

ただファレルがPCや携帯を魔法のように扱ってしまうのは、これも見所ではあるが、誤魔化されているような気にもなる(いや実際誤魔化されてるんだけどさ)。PCオタクの手にかかったら何でも可というんじゃね。それに私の母のようなデジタル時代という言葉すら理解できない人間には、すべてがちんぷんかんぷんだろうか(観客という対象に入ってないか)。

すべての情報を手にしたガブリエルが、ルーシーに手を伸ばすのはこれまた簡単なことだから、『ダイ・ハート』にある家族愛のテーマは継承されている。マクレーンの姓を嫌い「話がある時は私から電話する」といっていたルーシーが、ちゃんとマクレーンに期待しているだけでなく、敵は5人(だったかな?)と言ってマクレーンに情報を伝える、ニヤリとしてしまう場面もある。

ま、所詮アクション娯楽作ですからね。あ、でも「ハリケーンの防災対策にもたついた」とか言ってたっけ。『アンダーワールド』好きな私としては、レン・ワイズマンということで、点が甘くなったかも。

【メモ】

おなじみの20世紀フォックスのマークがぶれて黒い画面になる。

  

原題:Live Free or Die Hard

2007年 129分 シネスコサイズ アメリカ 日本字幕:戸田奈津子 配給:20世紀フォックス映画

監督:レン・ワイズマン 製作総指揮:マイケル・フォトレル、ウィリアム・ウィッシャー 原案:マーク・ボンバック、デヴィッド・マルコーニ 脚本:マーク・ボンバック 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:デニス・ウィンゲイト 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ
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出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック/ファレルのハッカー仲間)、ジョナサン・サドウスキー

キサラギ

新宿武蔵野館3 ★★★★

■5人が集まったのにはそれなりのわけがあった

自殺した2流アイドル如月ミキの1周忌に、ネットで知り合った家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、いちご娘(香川照之)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)という5人のオタクがオフ会で集まるというぞっとしない内容に、あまり気が乗らずにいたのだが(この映画の面白さは予告篇では伝えにくいかも)、観てびっくり。完全に作者の術中にはまっていた。

ビルの1室だけでの展開が見事。それを支えているのは5人の性格の書き分けと役割分担で、途中退席を繰り返す安男も、進行上邪魔になったからとりあえず消えてもらうというのではなく、大いに必然性があってのことだから唸らせられる。逆に言うと、無駄な人物がいないということが嘘くさいのだが、これは難癖。映画というよりは演劇を意識した作りだから当然の帰結だろう。

込み入った話ながら(だからか?)1度観ただけでは齟齬は発見できなかった。脚本がよく練られていることの証だ。肥満の激痩などというトリッキーな展開もあるのだが、これにも笑わせられた。

そして1番のいい点は、ミキの死の真相が自殺から犯罪、そして事故死と推理される過程で、5人それぞれにミキの死がある希望のようなものをもたらすだけでなく、現実としての連帯感まで生んでしまうことだ(ネット上には虚構ながらそれがあったから集まったのだろうから)。

もっともこのミキの死の推理は、意地悪な見方をすると、ミキ信者故の願望があったから導かれたのだということもできるのだが、それは当人たちも自覚していることだし、こちらも自然に、それもよし、という気持ちになっていたのだった。

これだけ楽しめたのだから大満足なのだけど、最後の宍戸錠の出てくる場面と、もう死んでしまって今は存在しない如月ミキの扱い(挿入される映像)がしょぼいのはやはり減点対象かな。

  

2007年 108分 ビスタサイズ 配給:東芝エンタテインメント

監督:佐藤祐市 原作・脚本:古沢良太 企画・プロデューサー:野間清恵 製作:三宅澄二、水野勝博、橋荘一郎、小池武久、出雲幸治、古玉國彦、石井徹、喜多埜裕明、山崎浩一 プロデューサー:望月泰江、井口喜一 エグゼクティブプロデューサー:三宅澄二 撮影:川村明弘 編集:田口拓也 音楽:佐藤直紀 主題歌:ライムライト『キサラギ』 VFXスーパーバイザー:野崎宏二 映像:高梨剣 共同プロデューサー:宮下史之 照明:阿部慶治 録音:島田隆雄 助監督:本間利幸

出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、香川照之(いちご娘)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅〈ドランクドラゴン〉(安男)、末永優衣、米本来輝、平野勝美、宍戸錠、酒井香奈子(如月ミキ)

大日本人

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■ある落ち目ヒーローの日常

長髪の中年男(松本人志)をカメラは追い、誰かが質問する。男はいやがっているのかいないのか、照れているのかいないのか、しぶしぶなのか、でもまあ律儀に1つ1つ答えていく。

インタビューされていた男は大佐藤大という元ヒーロー。いや、現役なのだが、人気は落ち目だから元かな、と。雇い主は防衛省だから国家公務員!? だが、変身時の体に広告を入れ、稼ぎにもしている(ということは公務員じゃないか)。月給は体を張った仕事にしては安く(20万)、副業の30万がないと厳しそうだと言っていたが、女マネージャーの小堀(UA)にいいように誤魔化されていた。

妻には逃げられ、娘にもなかなか会えず、でも恩ある祖父の4代目大佐藤(矢崎太一)の面倒は見たいと思っていてと、ヒーローというイメージからは遠いのだが、しかしヒーローの日常生活など案外こんなものかと思わせる。細部にこだわってるからね、そうかなーって。それにしても大佐藤は人気がない。インタビュー中にも家に投石されるような、つまり非難されている状態にあるのである。

インタビュー形式なので、とにかくいろんなことがわかる。折り畳み傘とわかめちゃんが好き(どちらも大きくなる)。猫と同居。自炊することが多いが、商店街の蕎麦屋へは月に2、3回出かけ力うどんを食べる。本当は男の子が欲しかったが、女の子でもこの仕事はできるだろう、と考えている。仕事以外の旅行は無理。反米感情というのではないが、アメリカはあまり好きではない。大佐藤家は戦時中は羽振りがよかった。4代目は今軽い認知症になっている。父は「粋な人」で、もっと大きくなろうとして急逝したらしい。名古屋に行きつけの店があり、そこの50歳くらいのママと懇意にしている。少年時代は肥満児。まだ体ができていないのに父に電気をかけられそうになり祖父に助けられる(でも電気にはかかってしまったらしい)。などなど(後半に答えていたこともまとめて書いてしまったが)。

公園でレポーターの質問に答えていると、大佐藤のケータイに出動要請がかかってくる。山の中にある防衛省の施設(変電所?)へとバイクで出かけていくのだが、ある場所からは取材班は入れてもらえない(遠くからは神主とかも見えたが? 一応は軍事機密なんだろうか)。

んで、電気をかけられて巨大化した大佐藤は、秋葉原に出現した締ルノ獣(海原はるか)と戦うのである(何なのだ、この映画は)。締ルノ獣についてはすでにカルテのようなものができていて、しかしそれは戦前に作られたものらしく、古めかしい能書きが読み上げられるのがおかしい。

いや、もう何から何までおかしいのだ。インタビューがそうだし、まず大佐藤という名前がおかしい。変身すれば髪はツンツンになってるし、パンツ1丁の全体は5頭身(?のイメージ)。どうみても強そうではないが、といって頑強な首回りなど弱そうでもない。対する怪獣も、カッコ悪く(不細工といった方がいいかも)どれもがいやらしくてえげつないとしかいいようのないものなのだが、素行調査済みらしく(もしかしたらすでに対戦済みということもあるのかも)、何とか勝ってしまうようなのだ。

名古屋に出張し、頭の広告を隠さないようにしながらも跳ルノ獣(竹内力)をやっつけ、また戻ってからは、睨ムノ獣を撃退するのだが(けっこう活躍しているのにね)、日本のものではないらしい赤い怪獣の出現には、勝手が違ったのか隠れて逃げてしまう。意外にもこれが好評で、数字(視聴率)がすごくよかったと小堀もうれしそうだ。ちょっと前に4代目が勝手に電気を流して大きくなり、いたずらをしまくった非難が大佐藤に向けられてスポンサーもカンカンだったのだ。

赤い怪獣は、週刊誌の吊り広告によると、どうやら「将軍様の怒りに触れた」ことで登場したらしく、つまり北朝鮮産のようだ。

このあとも匂ウノ獣の雌(板尾創路)と雄(原西孝幸)が現れたり、理屈っぽいくせにその体形と要求することだけは赤ん坊なので童ノ獣(神木隆之介)と名付けられた怪獣(映画ではただ「獣」と言っていた)が登場。大日本人は童ノ獣に乳首を噛まれたことで、抱いていた手を離して殺してしまうという事件まで起きる。

この事件が契機となったのかどうか、防衛症は大佐藤の家に突入し電気をかけ変身させてしまう。あの赤い怪獣がまたやってきたのだが、それにしても強引だ。4代目が助っ人にくるがやられて、万事休すというところで、何でか「ここからは実写でご覧ください」となる。

実写版と言われてもちょっとぴんとこなかったのだが、要するにCGではないということで、だから全員が着ぐるみでセット(ミニチュアのビルなど)の中に立って演じるので、実写という言葉とは裏腹に、セットは全部偽物だからいかにも安っぽいものとなる。

ここにスーパージャスティスというアメリカ産?のヒーロー一家がやってきて、大日本人の代わりに赤い怪獣をやっつけてくれるのだ。光線も出せず、飛べない大日本人は添え物になってしまうのだが、しかしスーパージャスティスたちは大日本人が欠けることを許してはくれない。防衛省の裏切り?と重なってこれは意味深だ。

ではあるのだが、この実写版への切替は松本人志の行き詰まりではないか。せっかくの話を何故ここでぶち壊してしまったのか、と(だから行き詰まりなんでは)。だけどエンドロールでは大阪弁のスーパージャスティス一家に反省会(段取りが悪いとか、パンツを1発で破ってほしかったとか)をやらせて笑いを取っていて、そこはさすがなんだけど。でもこれも誤魔化しの延長線に思えなくもない。それにしても反省会(にまで付き合わされて、「ぜひ」と言われて酒を飲ませられちゃってる大日本人ってさ。

普段テレビを見る時間がほとんどないので、松本人志の笑いがどんな質のものなのかまるでわからないのだが、これは楽しめた。続篇でも別のものでもぜひ観てみたい。ぜひ。

  

【メモ】

第60回カンヌ国際映画祭“監督週間”部門正式招待

変身した大日本人は、2、3日経つと元の戻るという。ただしばらくは鬱と言っていた。

大佐藤家は代々の変身家系らしいが、とはいえ電気が必要らしく、ちゃんと祖父が4代目と辻褄は合っているようだ。ということは戦争ではどんな活躍をしたのだろう。やっぱり
スーパージャスティス一家にやられちゃったんだろか。

変身に神主を付けるのは防衛省の方針なのか(突入時にもいたからね)。

2007年 113分 ビスタサイズ 配給:松竹

企画・監督:松本人志 プロデューサー:岡本昭彦 製作代表:吉野伊佐男、大崎洋 製作総指揮:白岩久弥 アソシエイトプロデューサー:長澤佳也 脚本:松本人志、高須光聖 撮影:山本英夫 美術:林田裕至、愛甲悦子 デザイン:天明屋尚(大日本人刺青デザイン) 編集:上野聡一 音楽:テイ・トウワ、川井憲次(スーパージャスティス音楽) VFX監督:瀬下寛之 音響効果:柴崎憲治 企画協力:高須光聖、長谷川朝二、倉本美津留 照明:小野晃 装飾:茂木豊 造型デザイン:百武朋 録音:白取貢 助監督:谷口正行

出演:松本人志(大佐藤大/大日本人)、インタビュアー(長谷川朝二:声のみ)、矢崎太一(4代目大日本人)竹内力(跳ルノ獣)、UA(小堀/マネージャー)、神木隆之介(童ノ獣)、海原はるか(締ルノ獣)、板尾創路(匂ウノ獣♀)、原西孝幸(匂ウノ獣♂)、ステイウイズミー(宮迫博之/スーパージャスティスの母)、スーパージャスティス(宮川大輔)、街田しおん

12

GyaO ★★★

■ゲームの世界で生きていたティ!?

『レベル・サーティーン』の公開に合わせて、その前作にあたるというこの『12』も、パソコンテレビGyaOで配信されていたらしい。が、私が知ったのは昨日のことで、でも34分の短篇だというので、そのまますぐ観てしまったのだった(ずっと行っていなかったせいか、GyaOではまた登録するようにいわれた)。

34分の短篇ながら、キー様(ちゃんと同一人物が演じているみたい。ま、こっちでも回想場面とDVDに残っている映像だけで、ほとんど顔は見せないのだが)誕生秘話という側面も少しだけあって、なかなか興味深いものに仕上がっている。

半年前に学校から消えたキーと、今朝チャットをしてきたというチャイタワット(彼は直接はキーのことを知らない)の話を聞いたティは、バエとミクの4人でキーの家を訪ねるが、母親はキーは半年前に死んだと言う。

その晩、単なる懐かしさからか、それとも気になることでもあったのか、家でPCをしていて、課外授業の映像が入っているDVDを見始める。するとその時、キーがティのPCにアクセスしてくる。

ティが課外授業の映像を見ていることをPCの向こうにいるキーが知っているのは、すでに『レベル・サーティーン』と同等の世界を作ってしまったということなのか(ティはまわりを見渡すが、もちろん自宅に監視カメラらしいものは見あたらない)。ただ、このあと父親にPCの電源を切られてしまうことまで予言してしまうあたりの不気味さは、『レベル・サーティーン』以上だろうか(予言でないとすると父親もからんでいてのことで、それだとさらに恐ろしい話になる)。

キーはゲームにはまって、理想の空想世界の話ばかりをしていたという。そこでの彼は時間すら自由にできる全能の支配者で、そこを13と名付けていたようだ。彼が選んだ人間しか住めないその世界は、非常に遠くにあって常人は来れない(これはキーによる説明)のだが、彼は一緒に行こうと友達を誘っていたのだ。

このあとティにケータイがかかってきたところで、上から窓枠が落ちてくる事故があるのだが、これがキーの仕業なのかどうかははっきりしない(ケータイの声も違うようにも聞こえるし、そのことについてはごまかしていた)。

生物の授業中にバエが、今夜ハッキングしてキーに連絡をとろうと言い出す。するとティのケータイにキーから「僕を追跡したらバエにつきまとう」と、脅かしともとれる連絡が入る(授業中のケータイは当然教師の怒りを買うことになるが、これはミクがティの身代わりになってくれる)。

この晩、ティはまたキーとチャットをするのだが、ティのPCにバエが割り込んできて、キーのIPアドレスから場所を特定したと報告が入る。そして、それは学校だという。が、そこに昨日と同じようにいつまでもPCをやめないことを怒った父親がやってきて、ティはPCをやめざるをえなくなる。

翌日学校へ行くとバエが来ていない。そのうち学校へ警察とバエの両親がやってくる(ティの父親は警官だったのだな)。バエの行方がわからないらしい。

そしてその夜、ミクから誘われたティは彼と一緒に学校へ乗り込んで行く……。

『レベル・サーティーン』の最後にある際立ったアイディアこそないが、ゲームとして進行して行く構成にはなっていないので、もちろん単純に比較などできないのだが、こちらの方が怖い。少なくともティは自分からゲームに参加したわけではないのだ。ティの父親が絡んでいるのなら別だが、そうでないとするとオカルト色も強い。でありながら、こちらの方がまだ入りやすいのは、『レベル・サーティーン』のように引いてしまいたくなる要素がうまく隠されているからだ。

生物学教師によるキーに対する性的いたずらという事件(学校で見たPCには課外授業映像の続編があった)もうまく織り込んで、しかしここではミクがキーによってゲームに参加させられていて、ティは焼却炉でバエの二の舞になる(焼却炉の中でティが見つけるバエの持ち物がよくわからなかった)という結末となる。

『レベル・サーティーン』を観てしまっているので、結末自体の衝撃度はそう高くないのだが、ミクがこれでレベル12を終えたとなると、その先の13には何が待っているのかはやはり知りたくなる。ミクに13の課題をすぐに与えるというキーのセリフがあって、TO BE CONTINUEDという文字があらわれる。で、それが『レベル・サーティーン』ということになるのだろうが、この映画の続きも観たいではないか。

ミクがゲームをしていたとなると、それはいつからで、どんなことをしてきたのか。考え出すときりがなくなってくる。

ティの父の関与もだけど、もしかしたら教師だってゲームをやっていた可能性がありだからだ。とはいえこれは「先生はバエとティが脅迫メールを送ったので彼らを殺しに来たが、自分の行動に反省し自殺した」と、完璧な筋書きができたとことをキーが喜んでいたから違いそうだ。でもこれだって、全部キーの演出とこじつけることはできるだろう。

原題:12

2006年 33分48秒 ビスタサイズ タイ

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル

出演:(資料がないので、役名のみ書いておく)ティ、ミク、バエ、チャイタワット、キー、ティーの父/警察官、サク先生

図鑑に載ってない虫

新宿武蔵野館2 ★★★☆

■岡っていう字がアザラシに似ている

この映画について書くのは難しい。この面白さを伝えられる人は、すでに作家を生業としているか他人と尺度が違いすぎて(映画を楽しむのとは別)生活破綻者になっている気がするのだ。真っ当とはいわないが、作家からも生活破綻者からも遠い所にいる私が書くことなどないではないか。

で、このままペンを置けばいいのだけど、私はそういう部分では気が小さいというか律儀なのな。ということで、何の展望もないのだが、とりあえず粗筋から書くことにする。

フリーライターの俺(伊勢谷友介)は『月刊黒い本』の女編集長(水野美紀)から臨死体験ルポを書くよう指示されるのだが、そのためには「死にモドキ」という虫がうってつけなのだという(というより死にモドキによる臨死体験ルポなのか)。が、誰もそんな虫の存在など知らないから、俺はアル中のオルゴール職人で金欠のエンドー(松尾スズキ)と、まず死にモドキを探すことからはじめる。手がかりはカメラマンの真島(松重豊)がすでに死にモドキを追っていたというこどだけ……。

死にモドキを追う過程で、自殺願望(リストカットマニア)のあるSM嬢のサエコ(菊地凛子)が加わって乞食の巣になっている島に上陸したり、目玉のおっちゃんにその弟分のチョロリ(ふせえり)などがからんで、話は脱線するばかり。これじゃあ話にならないよと思った頃に、「死にモドキのいるところが見つかったよ」とサヨコからメール。えー。

締め切りまであと2日というところで、死にモドキを手に入れて臨死体験にも成功するのだが、俺は「結局死んでるのか生きてるかわからない」という結論になる。こんなだからか原稿もボツ。編集長には取材の経費も返せと言われてしまう。でもよくわからん。だって、一緒に臨死体験をしたエンドーが死んで1週間と言っていたのに、これはまだ2日後なんだもの。

よーするに、この映画にとって話はほとんど関係なくて、ただ三木聡が面白いと感じたことを話の間に散りばめていったにすぎないようだ。つまり、そこに出てくる面白さは、話とは無関係の面白さであって、話は面白さを適当にばらまくための装置でしかないのである。

面白さの定義はいろいろあるだろう。それこそ知的な笑いから低俗なものまで。で、ここにあるのはそういうのとは無関係の(低俗には引っかかるものはあるか)、笑いの1つ1つが響き合うこともなく、だから筋道のある笑いではなくて、独立しているのである。でもそれでもおかしいのだけど。

1つだけにしておくが、たとえば「岡っていう字がアザラシに似ている」と唐突に言われてしまうのである。で、それをおかしいでしょ、と押し売りされたら臍を曲げたくなるかもしれないのだけど、やっぱりおかしいのだ。だってアザラシなんだもの(もっともつまらなかったり、よくわからないものもあるのだが、とにかくそういうのがものすごい量詰まっているのである)。

三木聡は『イン・ザ・プール』『亀は意外と速く泳ぐ』で「脱力系」映画作家ということになっているらしいが、これもそんなところか。脱力系という言葉もよくわからないが、脱力とはいえそこに力がないかというとそんなことはなくて、でも大勢には影響しない力というか。そうか。笑いの質もこれかな。

ね。だからこういうのっていくら書いてもしかたのないことになってしまう。ただちょっと付け加えておきたいのは、この映画を見ていると俺とエンドーの、あんなにいい加減であっても、そこにはある信頼関係のようなものがあって、それがじんわりと伝わってくるということだ。あとはサヨコが母の死を思い違いしていたような映像もあるのだけど、全体のくだらない雰囲気に飲まれて、よくわからにままに終わってしまったのだった。

以下、おまけ。

図という字は、泳いでいるエイで、
鑑という字は、大金を前にガハハと大笑いしている顔で、
載という字は、車に寄っかかってタバコを吸っている人で、
映という字は、昔ウチにもよく来ていた野菜を担いで売りに来ていたおばさんで、
画という字は、リニアモーターカー(玉電にしかみえない)が正面から突っ込んでくるところ……。

真似してみたけど、やっぱ、才能ないみたいなので、ヤメ。

 

2007年 103分 ビスタサイズ 

製作:葵プロモーション、ビクターエンタテインメント、日活、IMAGICA、ザックプロモーション 配給:日活

監督・脚本:三木聡 製作:相原裕美、大村正一郎、高野力、木幡久美、宮崎恭一 プロデューサー:原田典久、渋谷保幸、佐藤央 協力プロデューサー:林哲次 撮影:小松高志 美術:丸尾知行 編集:高橋信之 音楽:坂口修 コスチュームデザイン:勝俣淳子 ラインプロデューサー:鈴木剛、姫田伸也 照明:松岡泰彦 録音:永口靖

出演:伊勢谷友介(俺)、松尾スズキ(エンドー)、菊地凛子(サヨコ)、岩松了(目玉のおっちゃん)、ふせえり(チョロリ)、水野美紀(美人編集長)、松重豊(真島)、笹野高史(モツ煮込み屋の親父)、三谷昇(種田師匠)、渡辺裕之(船長)、高橋恵子(サヨコの母親)、村松利史(半分男)、片桐はいり(SMの女王様)、森下能幸、志賀勝、嶋田久作、つぐみ、園子温、山崎一、田中哲司、マメ山田、佐々木すみ江、新屋英子

不完全なふたり

新宿武蔵野館2 ★★

■黒いカットはNGか

ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)とマリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)という結婚して15年になる金持ちの夫婦が、友達の結婚式に出席するためにリスボンからパリにやってくる。映画はホテルに向かうタクシーの映像で始まる。

交わされる会話はありきたりで他愛のないものだが、この映像は撮り方が印象的(進行方向は右。車全体ではなく顔がわかるところまで近づいたもの。一応会話を追っているのにわざわざ外側から撮っている)なだけでなく、このあとに展開される2人の気持ちのゆらぎや夾雑物を、タクシーのガラス窓に映し込んでいた。

次はホテルの1室。簡易ベッドを運び込ませている。これについては合意事項らしいのに、どちらがそれを使うかで、くだらない意地を張り合う。

夜のレストランに2人の友人夫婦ときている。2人は彼らにとって理想の夫婦だったようだ。新しい仕事の話が出たところだったが、ニコラの切り出した離婚という言葉でその場の雰囲気が変わってしまう。

ホテルでもレストランでもカメラは動こうとしない。長回しはいい意味で俳優に緊張感を強いる場面で使われることが多いが、ここでは言葉が途切れた、その時を際立たせるために使用しているように思えた。あるいは、大まかな流れの中で、セリフを俳優たちにまかせて撮っていったことの結果かもしれない。具体的な撮影方法について知っているわけではないので、憶測でしかないが、もしかしたらこの黒い画面はNG部分だったのかとも思えてしまう。全体で10カットもなかったと思われるが、でもこれだけあるとやはり気になる。監督の意図が知りたくなる。

この長回しは、最後のホームの場面まで続くから、カット数は相当少なそうである。だからといって、全篇それで押し通そうとしているというのではなく、顔のアップなどでは手持ちカメラも含めて、わりと自在にカメラをふっている。

ニコラとマリーの離婚話に戻るが、ニコラの言い出したそれは、マリーには唐突だったらしい(まさかとは思うが、友達に話したのが最初だったとか?)。部屋に鍵を置いたまま出かけてしまったニコラを責めるのは当然としても、結婚パーティーに出かけるのにドレスや靴のことであんなに情緒的になられては(私と行きたい?とマリーはニコラに何度か訊いていた。しかしこのセリフはものすごく理論的でもある)、ニコラとしてもやりきれなくなるだろう。

ふくれっ面で結婚式を通したらしいマリーに、今度はニコラがあたって、夜の街に飛び出していく。着信履歴があったからとカフェに女性を呼びだし、結局何もなかったのだが、ホテルに戻ったら夜明けになっていた。

眠れなかったというマリーと帰ったニコラの会話は、自由を感じたかったというニコラと何年も孤独だったというマリーの、もう刺々しくはない穏やかな、でも接点のないものだ。

マリーはその日、2日続けで来たロダン美術館で、古い友達のパトリック(アレックス・デスカス)に声をかけられる。娘を連れてきている彼に妻を亡くした話を聞き涙するマリー。流れがうまく読めないのだが、それにしてもこの涙には危うさを感じないではいられない。

なにしろ、場面の空気はわかっても映画は説明することをしないから、観客は自分に引きつけて考えるしかなくなるのだが、とはいえニコラは建築家でマリーは写真家だったらしいし、なにより裕福そうだから、私などそう簡単には映画に入っていけない。少なくともニコラが離婚を言い出した理由くらいは明らかにしてくれないと、もやもやするばかり(でもこれで十分という見方もできるのが人間関係のやっかいさかも)。また、説明は排除しても俳優の個性は残るから、普遍性を持たせた(かどうかは知らないが)ことにもならないと思うのだが。

マリーが別に部屋をとったからか、自分の知らない旧友に会ったからかどうか、ニコラがマリーにキスの雨を降らせる場面があるのだが、ベッドに移りながら何故かそれはそこで中断となって、ニコラはマリーに、明日はボルドーに行くから1人で帰ってと言われてしまう。

次の日駅にやって来た2人はホームで見つめ合う。荷物は乗せたのに、いつまでも見つめ合っているものだから、列車は行ってしまうのだ。で、ふふとか言って笑いだすのだけど、いやもう勝手にしてくれという感じ。

『不完全なふたり』は原題だと『完全なふたり』のようだけど、これはどっちでも大差ないということか。だったら「完全な」の方がよくないか。「私たち何をしたの? 何をしなかったの?」という問いかけを、あんな笑いにかえられるんだもの。これ以上の完全はないでしょ。

ところでびっくりしたことに、監督はフランス語がほとんどわからないのだそうだ。公式ページのインタビューでそう答えている(http://www.bitters.co.jp/fukanzen/interview.html
)。「もし全能の立場を望むのであればこの映画をフランスで撮りはしなかった」とも。なるほどね、やはりそういう映画なんか。しかし私としては、監督はあくまで全能であってほしいと思うのだけどね。

原題:Un Couple Parfait

2005年 108分 ビスタサイズ フランス 日本語字幕:寺尾次郎 製作:コム・デ・シネマ、ビターズ・エンド 配給:ビターズ・エンド

監督:諏訪敦彦 プロデューサー:澤田正道、吉武美知子 構成:諏訪敦彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 衣裳:エリザベス・メウ 編集:ドミニク・オーヴレ、諏訪久子 音楽:鈴木治行

出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(マリー)、ブリュノ・トデスキーニ(ニコラ)、アレックス・デスカス(パトリック)、ナタリー・ブトゥフー(エステール)、ジョアンナ・プレイス(ナターシャ)ジャック・ドワイヨン(ジャック)、レア・ヴィアゼムスキー(エヴァ)、マルク・シッティ(ローマン)、デルフィーヌ・シュイロット(アリス)

ゾディアック

新宿ミラノ1 ★★★★

■こちらまで取り憑かれてしまいそうになる

まず、事件の描き方がどれも巧妙かつ思い入れたっぷりだ。ただ殺人事件を提示すればすむところを被害者の背景や事件の進行状況を的確に描き出していく。映画にある最初の殺人でも女が人妻らしいことをさらりと語って、観客の心を波立たせる。あとの事件でも犯人は夜の道路で女にタイヤが弛んでいると近付き、よかったら締めてあげようと言って逆に弛めてしまうのだが、この一連の流れがものすごく怖いのだ(映画では4つの事件が描かれている)。

この映画の面白さが、犯人ゾディアックの存在にあるのは間違いないが、こういう魅力的な描写に支えられている部分も大きい。例えば、映画は時間軸に沿って機械的に年月や時刻を画面に刻印していくのだが、その年代へのこだわりは偏執狂的ですらある。時代考証だけでなく、それを映し出すカメラもで、車を真上から執拗に追いかけたり、また時にはある高層ビルが建設されていく一部始終を捉えた映像(早送りでクレーンが動き建物が出来ていく)までが出てきたりするのである。

ここまで神経が行き届いていて物語がつまらないわけがない。しかもこのゾディアックと名乗る犯人は、事件を通報し、新聞社には犯行声明を送りつけ、その中の暗号文を掲載しないと無差別殺人に移ると脅す。劇場型犯罪は映画や小説には度々登場しているが、こちらは実話(映画のはじめには「実際の事実に基づく」と出る)。私が事件をほとんど知らないこともあって、風刺漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)同様、事件の進展にどうなるのかと、息を呑んで見守ることになった。

グレイスミスは声明文が送られてきたその場所にいたことと、元々大のパズル好きだったことからその謎解きに取り憑かれてしまう。辣腕記者のポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)は、当初はグレイスミスの推理に耳を貸さずにいたが、彼の本気度とその説得力に、彼を認めるようになる。

ゾディアックを尋問しながら見逃してしまうという重大な失態を犯した警察だが(これはゾディアックによって、明らかにされてしまう)、サンフランシスコ市警の刑事デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)と相棒のビル・アームストロング(アンソニー・エドワーズ)は、大量の偽情報にうんざりしながらも、何人かの男に狙いを付けていた。

カップルが襲われた2つの事件ではいずれも男性の方は命までは奪われずにいるし、指紋に足跡、犯人が送りつけてきた被害者のシャツの切れ端、筆跡、暗号に円から飛び出した十字のマークなど手がかりも沢山あって、それにも一々触れている。謎解きの興味はいやがおうにも高まるのだが、映画はそこに固執しているのではなかった。

はじめの方にいくつかあるゾディアックの犯行描写があまりに克明だったものだから、事件に方が付くのは当然と思ってしまったのだが(つまり犯行の映像は犯人の供述に沿ったものと思っていたのだ。でないとなると、あれは……)、容疑者と特定した人物と筆跡鑑定は一致せず、証拠不足のまま、また幸い?なことに新たな犯行が行われることもなく、虚しく年月のみが過ぎていくことになる。

エイブリーは酒に溺れ新聞社を首になっている。アームストロング刑事は定時に帰りたいのだと移動願いを出して殺人課を去っていく。そして、数年経っても殺害現場に度々足を運んでいたトースキー刑事には証拠捏造嫌疑が持ち上がる。グレイスミスは最後まで執念を持ち続け、最初から資料を調べ直す(トースキーとも接触し、記者には教えられないと言われながらも助言をもらう)のだが、結局はゾディアックに翻弄された人生を送ることになる。

事件発生の1年後、グレイスミスはメラニー(クロエ・セヴィニー)と付き合うようになり、4年後の日付ではすでに結婚している。メラニーはグレイスミスのことをよく理解しているようだったが、でも結局はうまくいかなくなっている。理由はグレイスミスが自分をメディアに露出させてまでゾディアックを調べようとしたからで(無言電話がかかってくるようになっていた)、メラニーが家族の安全は二の次になっていると言っても、ゾディアック事件の真相を明かすのは僕しかいないと取り合ってもらえず、彼女は子供たちを連れて家を出ていく。

このあともう1度だけ、容疑者らしき男の住居をグレイスミスが訪ねるというちょっと怖い演出が待っているのだが、これはおまけだろうか。グレイスミスは完全に取り憑かれた男になっていて、久しぶりに訪ねてきたメラニーも「この結婚は幻」と言うしかなかったようだ。

グレイスミスは本も書き、生き残った被害者のマイクの証言(顔写真を見て言い当てる)も得、どう考えても怪しいとしか思えないアーサー・リー・アレン(ジョン・キャロル・リンチ)に結局舞い戻るのだが(すでに事件から22年が経過しているのだ)、リーは心臓発作で死んでしまう。しかしDNAは一致しないなど物的証拠は1つも得られなかったようだ。エイブリーが肺気腫で死んだことや、リーの死後グレイスミスには無言電話がかかってこなくなったという説明もつく(原作はグレイスミスながら、この部分でそれも含めて映画を作ったと言っているようだ)が、この徒労感は癒されることがない。

もちろんのめり込んでいったことに本人たちは納得しているのだろうが、その人生を考えると複雑な思いにかられるのだ。映画は徒労感を漂わせながら、しかし強力に観客をゾディアック事件にいざなう。で、こんなにいつまでも引きずられてしまっては、ちょっと危ないかもだ。

犯人は映画でも言っていたが、もしかしたら2人なのかも。そうすればDNA鑑定の矛盾なども説明できそうだ。こういう猟奇事件は犯行がエスカレートするといわれているが、ある時からやめてしまったことも、犯人が複数であればお互いを牽制しあって可能だったのではないか。いや、もうやめよう、本当に。でも映画はまた観たい。

 

【メモ】

映画の中で『ダーティハリー』(犯人のサソリ)がこのゾディアックをモデルにしているという話が出てくる。この映画を観に行った時のグレイスミスは、メラニーとはまだデートをしている間柄である。

ゾディアックは ゾディアックブランドの時計からの命名ではないかと推理していた。この時計をリーは腕に付けていた。

ゾディアックについてはこの他にも(映画の中だけでも)、メモしておきたいことが沢山あるのだが、それをしだすと私も本当に取り憑かれてしまいそうなので、やめ。というか、それぼどマメでなくてよかった。よかった。

原題:Zodiac

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ PG-12 配給:刊ワーナー・ブラザース映画 日本語版字幕:杉山緑

監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブラッドリー・J・フィッシャー、ジェームズ・ヴァンダービルト、シーン・チャフィン 製作総指揮:ルイス・フィリップス 原作:ロバート・グレイスミス 脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト 撮影:ハリス・サヴィデス プロダクションデザイン:ドナルド・グレアム・バート 衣装デザイン:ケイシー・ストーム 編集:アンガス・ウォール 音楽:デヴィッド・シャイア

出演:ジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス)、マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー)、アンソニー・エドワーズ(ウィリアム・アームストロング刑事)、ブライアン・コックス(ベルビン・ベリー)、イライアス・コティーズ(ジャック・マラナックス巡査部長)、クロエ・セヴィニー(メラニー)、ドナル・ローグ(ケン・ナーロウ)、ジョン・キャロル・リンチ(アーサー・リー・アレン)、ダーモット・マローニー(マーティ・リー警部)

そのときは彼によろしく

テアトルダイヤ ★

■そのときは、ってそんなもんあるかい

遠山智史(山田孝之)が経営するアクアプランツ(水草)ショップ「トラッシュ」に、押しかけるようにやってきて居座ってしまった森川鈴音(長澤まさみ)は「世の中の8割の人が彼女のことを知っている」という人気モデル(智史は知らないのだな)だったが、何故か引退してしまったという。それにしてもどうして雑誌に紹介されても客が増えないようなこの店に、彼女はやってきたのか?

彼女が実は幼なじみの花梨だったことを「鈍感な」智史が知るのは、かなり経ってから。開業医の父遠山悟郎(小日向文世)の心臓が悪くなり、閉院の為の片付けで昔の思い出の品が出てきて、思い出に浸ったばかりなのだから、この鈍感さは筋金入りだ。パン屋の柴田美咲(国仲涼子)が好意を抱いてくれているのにもまったく気付いていないのだから。

花梨がモデルを辞めたのは、眠るとだんだん起きられなくなるという奇病(何なのだこれは)が悪化して、死を予感したからで、13年前からずっと好きだった智史に会いにきたのだった。トラッシュが紹介された雑誌で智史のことを知ったのだ。なにしろ、智史は有名なモデルになっても気づいてくれないんではね。

そしてその雑誌は、絵の好きだったもう1人の友達五十嵐佑司(塚本高史)の目にも止まっていた。彼は智史を個展に呼ぶとはりきっていたが、母とその愛人による詐欺に会い、さらにバイト先の画材店からの帰り道でオートバイが転倒して入院先で昏睡状態でいるのだと、佑司の恋人葛城桃香(北川景子)から連絡が入る。

あらすじを書くのもかったるいので端折るが、タイトルの『そのときは彼によろしく』は、以下に書くことによる。花梨が眠りにつくのと入れ替わるように目を覚ました佑司は、夢の中で花梨に会い、早く帰れと言われたのだと言う。ただの夢なのだが花梨が救ってくれたのだと思いたい、とも。そして、花梨がスケッチブックに残していったメッセージを、見せたら花梨に怒られてしまうかもと言いながら智史に渡す。

目を覚ましたら読んでもらえることを、という書き出しで、そこには花梨の智史への想いと、好きだと伝えられなかったが、目を覚まして智史に会えたら、そのときは、彼によろしくと書いてあった。ただ、この「彼によろしく」は生きているうちに書くのではなく(好きだというのは構わないのだが)、夢の中で佑司が聞いてきたことにしないと効果が半減してしまわないだろうか。

さらに眠っている花梨には智史の父が死ぬことで、花梨に、智史が待っているからもどってやってくれ、そして智史を愛していた、花梨ちゃんはまた智史にあえるだろうから、そのときは智史によろしく伝えてほしいと言われたというのだ。

そう、花梨は5年間の眠りのあと、そのまま死んでしまうことなく、智史のところに戻ってくるのである。え、いや、そんな(ってオニバスの種でもうわかっちゃてたけどさ)。

まったく強引な話なのだが、それに目をつぶれば市川拓司らしい愛に満ちた世界に浸れるってことなのかも。ま、「そのときは、彼によろしく」を2度使うには(2度の登場でやっと一人前になるセリフっていうのもねー)ああするしかなかったのかもしれないけど、話を創ったのが見え見え。難病ものということだけでも文句を付けたくなるのに、その病気までが現実離れしていているんだもの。

3人は物理学でも解明できない強い力で引き合っていたと父に言わせて誤魔化そうったって、そうはいかないのだな。そういう意味では、「眠ったままでもかまわない」から「このまま待ってていいんだよね」に変わっていた時の智史や、佑司の「花梨はお前(智史)が待ち続けることを望んでいるかな」というセリフの方にこそ真実はあるのだと思うのだが。でもそれじゃ、映画にはならないか。

映画は9歳の時の3人(そうだ、9歳の花梨のファーストキスというのもあった)と13年後の現在が目まぐるしく入れ替わりながら少しずつ状況を説明していくという構成。これは、前半は智史が花梨のことを思い出す過程にもなっているのだろうが、ちょっとうるさくもある。もっともこれくらい何かしないと、いくら死(描写としてはないが、智史の母の死もある)がばらまかれていても、あまりに平板にすぎてしまうのかも。

ところで『フランダースの犬』(これは智史が花梨からもらってタイムカプセルにしまっていた)ならパトラッシュと思うのだが、何でトラッシュなんだろ。

  

2007年 114分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:平川雄一朗 製作:島谷能成、信国一朗、亀井修、安永義郎、久安学、原裕二郎、井上良次、沢井和則 プロデューサー:神戸明、山中和成、川村元気 プロデュース:春名慶 エグゼクティブプロデューサー:市川南、濱名一哉 アソシエイトプロデューサー:大岡大介 企画:春名慶 原作:市川拓司『そのときは彼によろしく』 脚本:いずみ吉紘、石井薫 撮影:斑目重友 美術:磯田典宏 編集:今井剛 音楽:松谷卓 音楽プロデューサー:北原京子 主題歌:柴咲コウ『プリズム』 VFXスーパーバイザー:小坂一順 スクリプター:鈴木一美 ラインプロデューサー:竹山昌利 照明:上妻敏厚 装飾:河合良昭 録音:横溝正俊 助監督:塩崎遵 プロダクション統括:金澤清美

出演:長澤まさみ(滝川花梨/森川鈴音)、山田孝之(遠山智史)、小日向文世(遠山悟郎)、塚本高史(五十嵐佑司)、国仲涼子(柴田美咲)、北川景子(葛城桃香)、黄川田将也(夏目貴幸)、本多力(松岡郁生)、黒田凛(子供時代の花梨)、深澤嵐(子供時代の智史)、桑代貴明(子供時代の佑司)、和久井映見(遠山律子)