蟹工船

テアトル新宿 ★

SABU監督のコメントと撮影で使われた歯車とシンボルマークが描かれた旗。

■なまぬるさは現代的?

年に何本か体質的に受け入れられない映画にぶつかるが、この作品もそうだった。映画が素晴らしければそれを堪能すればよく、駄作であっても作品をけなしまくる楽しみというのがあって、意外とそれが面白かったりする。が、そういう気が起きない映画というのもあって、もうメモをとるのすら憂鬱なんである。あー、何から書きゃいいんだ。

とりあえず原作を読んだときに感じた悲惨さがまるでなかったことでも書いておくか。けど、私が原作を読んだのは四十年近くも前の話で、ほとんどと言っていいくらい何も覚えてないのだが。それに原作に忠実であればいいってもんでもなし……。

「今は何時だ。今日は何曜日だ」というセリフは、重労働が続いて時間の感覚がなくなっていることを訴えているのだろうが、この映画の蟹工船内にそんな感じはない。どころか、歯車(これも俺たちは歯車だ、というセリフにリンクさせたのだろうけどねぇ)を回している者はまだしも、蟹缶の仕分け作業など、見た目通りの軽作業にしか見えない。軽作業だから楽とは限らないが、その描きこみがない(言葉ではあっても)んじゃ話にならない。ま、それ以前にこの蟹工船での操業が、カムチャッカという凍り付くような北の海(特にこの部分)での、つまり逃げ場のない労働なのだ、ということすらあまり伝わってこないのだが。

長時間労働にしては全員で議論したり愚痴り合ったりする時間が案外たっぷりあるようで、だから労働はきついのだろうが、搾取されているという図式までにはならない。なにしろ、みんなが語り出すこれまでの貧乏生活自慢の方が、蟹工船より悲惨に見えてしまうのだ。このイメージ映像は逆効果としか思えないものではあるが、貧乏比べになっているだけまだ見ていられるのだが、これと対になっているかのようなお金持ち(に生まれ変わったら)イメージ映像の陳腐さといったらなく、監督の感性を疑いたくなった。

その貧乏自慢を後ろ向きと決めつける新庄が、前向きだからと提案するのが集団自殺。どうやっても勝てないから来世に賭けるというのだが、そんな妄想でみんなを煽動するなんてどうかしている。お前が一番後ろ向きだとか、死にたくないという奴もいたのに、そろそろ楽になろうぜと、という新庄の言葉に、いつのまにか全員で首つりをしようとしているのだからたまらない。船が大きく揺れたものだから踏み台が外れて未遂に終わる、って、これも馬鹿らしい。

運良くロシア船に救助された新庄と塩田は、ロシア船で歌って踊って思想転換?し、またまた運良く帰ってきて、今度は死ぬ話ではなく生きる話、とみんなが夢を語る方向へと持って行く。けど、やっていることに真実味がないし、自殺に比べたら大分マシな話とはいえ、またしても煽動されてしまう労働者どもの主体性の無さも気になる。

こんなだから彼らは、監督の浅川の言動の矛盾にも気づきもしないのだろう。浅川は蟹工船の操業を国家的事業と位置づけ、人口増に対する食料政策は日本とロシアの戦争でもあるという。そのくせ同じ蟹工船の秩父丸が救助を求めてきた時も、沈んだら保険金が入ってかえって得するなどと言っていた(これは船長への脅し文句だが)。浅川にとっては日本とロシアの戦争ではなく、他の蟹工船との戦争(=自分の成績)にすぎないことは他の場面でも明らかなのに、これについては追求されることがない。

「俺は人間の体力の限界を知っている」などと言ってはキレまくっている浅川だが、彼のしごきが空回りに見えてしまうのは、労働者の方に最初に書いたような切実さがないからだろう。だから、浅川によって絶望感がもたらせられる、という図にはならず、「俺たちの未来は俺たちの手で勝ち取ろう」という蜂起にどう繋がっていったのかもよくわからない。新しい言葉が発せられて、それになびいただけ、という印象なのだ。

だから、どうしてそうなったかがわかりにくいのだが、労働者たちは団結して浅川たちを追い詰める。が、これは日本軍の駆逐艦がやってきて、あっけなく鎮圧されてしまう。

代表者となっていた新庄の死で「代表者なんか決めなければよかった。俺たちは全員が代表者なんだ」と再度みんなが目覚めたところで終わりになるのは、多分原作がそうなのだろうが、いかにも甘い。もう一度同じことが起きたらどうするつもりなのか、何の回答も示されてないというのに。原作は悲惨さは描けていたからまだしも(というかそれ以上の比較が私には出来ないだけなのだが)、映画にはそれがないから、団結場面はおよそ現実感のないものにしか見えなかったのである。

こう言ってしまっては悪いが、映画が小説の人気に便乗したのは間違いなく、そして小説がワーキングプアに受け入れられたにしても、入場料が千八百円の映画を彼らが観るかといえばそれはあまり考えられないし、となるとこの映画は誰に観てもらいたくて制作したのかという話になってしまう(とりあえず『蟹工船』ブームで、『蟹工船』が何かを知りたい人とかは観るのかしら。でもだとしたらもう遅いような?)。

むきだしの歯車を並べた現場や、太い管が積み上げられたような労働者に割り当てられたベッド、こういうセットも内容で躓いているので、ただ奇異なものとしか映らない。タコ部屋的状況を表したいのだとしたらいかにも中途半端だろう。歯車の中に人の手を三本組み合わせた旗や鉢巻きにさえ、労働者たちの妙な余裕に思えてしまう。やはり過酷な労働という部分をおろそかにしたことが全てを台無しにしてしまったようだ。

が、よくよく考えてみると現代の労働環境が、小林多喜二の『蟹工船』ほど過酷とは考えられず、このなまぬるさは案外現代的なのかもしれない。

 

2009年 109分 ビスタサイズ 配給:IMJエンタテインメント

監督・脚本:SABU プロデューサー:宇田川寧、豆岡良亮、田辺圭吾 エグゼクティブプロデューサー:樫野孝人 原作:小林多喜二 撮影:小松高志 美術:磯見俊裕、三ツ松けいこ 編集:坂東直哉 音楽:森敬 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:NICO Touches the Walls『風人』 VFXスーパーバイザー:大萩真司 スクリプター:森直子 スタイリスト:杉山まゆみ ヘアメイク:河野顕子 音響効果:柴崎憲治、中村佳央 照明:蒔苗友一郎 装飾:齊藤暁生 録音:石貝洋 助監督:原桂之介 スーパーバイジングプロデューサー:久保田修 共同エグゼクティブプロデューサー:永田勝治、麓一志、山岡武史、中村昌志

出演:松田龍平(新庄/漁夫)、西島秀俊(浅川/監督)、高良健吾(根本/雑夫)、新井浩文(塩田/漁夫)、柄本時生(清水/雑夫)、木下隆行(久米〈TKO〉/雑夫)、木本武宏(八木〈TKO〉/雑夫)、三浦誠己(小堀/雑夫)、竹財輝之助(畑中/雑夫)、利重剛(石場/漁夫)、清水優(木田/漁夫)、滝藤賢一(河津/雑夫)、山本浩司(山路/雑夫)、高谷基史(宮口/雑夫)、手塚とおる(ロン/支那人)、皆川猿時(雑夫長)、矢島健一(役員)、宮本大誠(船長)、中村靖日(無電係)、野間口徹(給仕係)、貴山侑哉(中佐)、東方力丸(大滝/釜焚き係)、谷村美月(ミヨ子)、奥貫薫(清水の母親)、滝沢涼子(石場の妻)、内田春菊(久米の妻)、でんでん(和尚)、菅田俊(畑の役人)、大杉漣(清水の父親)、森本レオ(久米家の通行人)

ストレンジャーズ 戦慄の訪問者

新宿ミラノ3 ★

■未解決事件をデッチ上げ解釈してみました(そうかよ)

プロポーズの場を演出した自分の別荘に、クリスティンを連れてきたジェームズだが、結婚に踏み切れるまでにはクリスティンの気持ちはなっていなかった。申し出を断られたジェームズは落胆し、頭を冷やそうと別荘を出ていく。

二人の微妙な位置関係がわかったところで、深夜の訪問者による恐怖に巻き込まれていく(実は最初のノックがあった時は少しだけいい雰囲気になりかけていた)のだが、手をかけて説明した二人の関係やその心理状態が、まったくといっていいくらい生かされていないのはどうしたことか。

どころか、恐怖に遭遇したことで、愛していると言い合ったりでは、あまりに情けないではないか。いや、人間なんてそんなものかもしれず、だからそこまで踏み込んで描けたら、それはそれで面白い映画になったような気もするのだが……。

思わせぶりな演出は、この手の映画にはつきものだからとやかく言わないが、相手は現実の三人で、そうか、「実際の事件」(これについては後述)と断っていただけあって、心霊現象なんていうインチキで逃げることはしないのだな、といい方に納得できてからは、逆にますますつまらなくなっていく。

ジェームズの親友のマイクが早めに来てしまったことで誤射事件という悲劇くらいしかアイデアがなく、あとはおどかしだけで突っ走ろうっていうんだから、虫が良すぎ。85分という短めの上映時間なのに、それが長く感じられてしまう。

電話も車も壊されてしまったため、納屋にある無線機で外部と連絡を取ろうとするのは納得だが、別行動をとる必要があるんだろうか。いくらなんでも進んで、餌食になりますよ、はないだろう。

巻頭、「実際の事件に基づく物語」という字幕に続いてもっともらしい解説があったが、未解決でほとんど何もわかっていない実際の事件、って、そりゃどうにでもできるよね。

で、映画のデッチ上げは、犯人たちは車で移動しているストレンジャーで、殺人もしくは人を恐怖に陥れるのが趣味の三人組の犯行、なんだって。はいはい。そして、主人公たちは見事彼らにやられてしまう。んー、怖い話じゃないですか。けど、出来た映画は怖いどころか退屈。

最後の付けたし場面も意味不明の、いいとこなし映画だ。

原題:The Strangers

2008年 85分 アメリカ シネスコサイズ 配給:プレシディオ PG-12 日本語字幕:川又勝利

監督・脚本:ブライアン・ベルティノ 製作:ダグ・デイヴィソン、ロイ・リー、ネイサン・カヘイン 製作総指揮:ケリー・コノップ、ジョー・ドレイク、ソニー・マリー、トレヴァー・メイシー、マーク・D・エヴァンズ 撮影:ピーター・ソーヴァ プロダクションデザイン:ジョン・D・クレッチマー 衣装デザイン:スーザン・カウフマン 編集:ケヴィン・グルタート 音楽:トムアンドアンディ 音楽監修:シーズン・ケント

出演:リヴ・タイラー(クリスティン・マッケイ)、スコット・スピードマン(ジェームズ・ホイト)、ジェマ・ウォード(ドールフェイス)、キップ・ウィークス(マン・イン・ザ・マスク)、ローラ・マーゴリス(ピンナップガール)、グレン・ハワートン(マイク)

恋極星

新宿武蔵野館2 ★

武蔵野館に掲示してあった戸田恵梨香と加藤和樹のサイン入りポスター(部分)

■思い出なんかいらないって言ってるのに

戸田恵梨香と加藤和樹のファン以外はパスでいいかも。

菜月を男で一つで育ててくれた父も今は亡く、残された弟の大輝は精神障害があり施設で暮らしているが、何かある度に施設を抜け出しては父の経営していたプラネタリウムへ行ってしまう。菜月は、大輝のことで気の抜けない毎日を繰り返していた。そんなある日、菜月は幼なじみの颯太と再会するが、彼も難病を抱えていて……。

こんな設定ではうんざりするしかないのだが、それは我慢するにしても颯太の行動はかなり一人よがりで(カナダから日本に4年前に帰っていて、このことは菜月もけっこうこだわっていたが、そりゃそうだよね)、病気ということを差し引いても文句が言いたくなってくる。

デートで菜月を待ちぼうけにさせてしまったのは病気が悪化してのことだからともかく、問題はそのあと態度だ。こうなることは早晩わかっていたはずではないか。いや、颯太の気持ちはわからなくはないんだけどね。私だってこんな状況にいたら自分の我が儘を通してしまいそうだから。でも映画の中ではもっとカッコよく決めてほしいじゃないのさ。

「私は思い出なんかいらない。もう置いてきぼりはいや」と菜月は言っていたのに。颯太はその時「もう1回この町に来たかった」と自分の都合を優先させていたけれど、菜月の言葉もそれっきり忘れてしまったのだろうか。

颯太の甘え体質(並びに思いやりのなさ)は母親譲りのようだ。颯太の死後、菜月に遺品を渡すのだが(「つらいだけかなぁ」と言いながら、でも「やっぱりもらってほしい」と)、それは菜月が望んだらでいいのではないか。菜月には思い出を押しつけるのではなく、嘘でも颯太のことは忘れて、新しい人生を生きてほしいと言うべきだった。

で、恋人の死んでしまった菜月だが、父親のプラネタリウムを再開して(取り壊すんじゃなかったの)健気に生きてます、だとぉ。生活していけるんかい。

菜月が流星群を見るために、町の人たちに必死で掛け合って実現した暗闇も、ちょっとだけど明かりを消してくれる人もいたんだ、というくらいにしておけば納得できたのにね(だって、ふんっていうような対応をされる場面を挟んでいるんだもの)。こういう映画にイチャモンをつけても仕方がないのかもしれないが、もう少しどうにかならんもんかいな。

2009年 103分 ビスタサイズ 配給:日活

監督:AMIY MORI プロデューサー:佐藤丈 企画・プロデュース:木村元子 原案:ミツヤオミ『君に光を』 脚本:横田理恵 音楽:小西香葉、近藤由紀夫 主題歌:青山テルマ『好きです。』

出演:戸田恵梨香(柏木菜月)、加藤和樹(舟曳颯太)、若葉竜也(柏木大輝/菜月の弟)、キムラ緑子、吹越満(柏木浩一/菜月の父)、熊谷真実(舟曳弥生/颯太の母)、鏡リュウジ

そのときは彼によろしく

テアトルダイヤ ★

■そのときは、ってそんなもんあるかい

遠山智史(山田孝之)が経営するアクアプランツ(水草)ショップ「トラッシュ」に、押しかけるようにやってきて居座ってしまった森川鈴音(長澤まさみ)は「世の中の8割の人が彼女のことを知っている」という人気モデル(智史は知らないのだな)だったが、何故か引退してしまったという。それにしてもどうして雑誌に紹介されても客が増えないようなこの店に、彼女はやってきたのか?

彼女が実は幼なじみの花梨だったことを「鈍感な」智史が知るのは、かなり経ってから。開業医の父遠山悟郎(小日向文世)の心臓が悪くなり、閉院の為の片付けで昔の思い出の品が出てきて、思い出に浸ったばかりなのだから、この鈍感さは筋金入りだ。パン屋の柴田美咲(国仲涼子)が好意を抱いてくれているのにもまったく気付いていないのだから。

花梨がモデルを辞めたのは、眠るとだんだん起きられなくなるという奇病(何なのだこれは)が悪化して、死を予感したからで、13年前からずっと好きだった智史に会いにきたのだった。トラッシュが紹介された雑誌で智史のことを知ったのだ。なにしろ、智史は有名なモデルになっても気づいてくれないんではね。

そしてその雑誌は、絵の好きだったもう1人の友達五十嵐佑司(塚本高史)の目にも止まっていた。彼は智史を個展に呼ぶとはりきっていたが、母とその愛人による詐欺に会い、さらにバイト先の画材店からの帰り道でオートバイが転倒して入院先で昏睡状態でいるのだと、佑司の恋人葛城桃香(北川景子)から連絡が入る。

あらすじを書くのもかったるいので端折るが、タイトルの『そのときは彼によろしく』は、以下に書くことによる。花梨が眠りにつくのと入れ替わるように目を覚ました佑司は、夢の中で花梨に会い、早く帰れと言われたのだと言う。ただの夢なのだが花梨が救ってくれたのだと思いたい、とも。そして、花梨がスケッチブックに残していったメッセージを、見せたら花梨に怒られてしまうかもと言いながら智史に渡す。

目を覚ましたら読んでもらえることを、という書き出しで、そこには花梨の智史への想いと、好きだと伝えられなかったが、目を覚まして智史に会えたら、そのときは、彼によろしくと書いてあった。ただ、この「彼によろしく」は生きているうちに書くのではなく(好きだというのは構わないのだが)、夢の中で佑司が聞いてきたことにしないと効果が半減してしまわないだろうか。

さらに眠っている花梨には智史の父が死ぬことで、花梨に、智史が待っているからもどってやってくれ、そして智史を愛していた、花梨ちゃんはまた智史にあえるだろうから、そのときは智史によろしく伝えてほしいと言われたというのだ。

そう、花梨は5年間の眠りのあと、そのまま死んでしまうことなく、智史のところに戻ってくるのである。え、いや、そんな(ってオニバスの種でもうわかっちゃてたけどさ)。

まったく強引な話なのだが、それに目をつぶれば市川拓司らしい愛に満ちた世界に浸れるってことなのかも。ま、「そのときは、彼によろしく」を2度使うには(2度の登場でやっと一人前になるセリフっていうのもねー)ああするしかなかったのかもしれないけど、話を創ったのが見え見え。難病ものということだけでも文句を付けたくなるのに、その病気までが現実離れしていているんだもの。

3人は物理学でも解明できない強い力で引き合っていたと父に言わせて誤魔化そうったって、そうはいかないのだな。そういう意味では、「眠ったままでもかまわない」から「このまま待ってていいんだよね」に変わっていた時の智史や、佑司の「花梨はお前(智史)が待ち続けることを望んでいるかな」というセリフの方にこそ真実はあるのだと思うのだが。でもそれじゃ、映画にはならないか。

映画は9歳の時の3人(そうだ、9歳の花梨のファーストキスというのもあった)と13年後の現在が目まぐるしく入れ替わりながら少しずつ状況を説明していくという構成。これは、前半は智史が花梨のことを思い出す過程にもなっているのだろうが、ちょっとうるさくもある。もっともこれくらい何かしないと、いくら死(描写としてはないが、智史の母の死もある)がばらまかれていても、あまりに平板にすぎてしまうのかも。

ところで『フランダースの犬』(これは智史が花梨からもらってタイムカプセルにしまっていた)ならパトラッシュと思うのだが、何でトラッシュなんだろ。

  

2007年 114分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:平川雄一朗 製作:島谷能成、信国一朗、亀井修、安永義郎、久安学、原裕二郎、井上良次、沢井和則 プロデューサー:神戸明、山中和成、川村元気 プロデュース:春名慶 エグゼクティブプロデューサー:市川南、濱名一哉 アソシエイトプロデューサー:大岡大介 企画:春名慶 原作:市川拓司『そのときは彼によろしく』 脚本:いずみ吉紘、石井薫 撮影:斑目重友 美術:磯田典宏 編集:今井剛 音楽:松谷卓 音楽プロデューサー:北原京子 主題歌:柴咲コウ『プリズム』 VFXスーパーバイザー:小坂一順 スクリプター:鈴木一美 ラインプロデューサー:竹山昌利 照明:上妻敏厚 装飾:河合良昭 録音:横溝正俊 助監督:塩崎遵 プロダクション統括:金澤清美

出演:長澤まさみ(滝川花梨/森川鈴音)、山田孝之(遠山智史)、小日向文世(遠山悟郎)、塚本高史(五十嵐佑司)、国仲涼子(柴田美咲)、北川景子(葛城桃香)、黄川田将也(夏目貴幸)、本多力(松岡郁生)、黒田凛(子供時代の花梨)、深澤嵐(子供時代の智史)、桑代貴明(子供時代の佑司)、和久井映見(遠山律子)

GOAL! 2

新宿ミラノ3 ★

■おそろしくつまらない

ここまでつまらない映画というのも珍しい。最初から3部作ということが決まっていることが裏目に出たか。こんなことでワールドカップ篇が作れるのか心配になる(ちゅーか、今は観たくない気分)。

ガバン・ハリス(アレッサンドロ・ニヴォラ)の不振が続くレアル・マドリードは、補強策としてニューカッスルでゴールを量産しているサンティアゴ・ムネス(クノ・ベッカー)に白羽の矢を立てる(一足先にハリスはレアルに移籍してたのね)。日本での契約交渉を経てサンティは晴れてスター軍団レアルの一員となるのだが、婚約者のロズ・ハーミソン(アンナ・フリエル)に相談もなく決めてしまったものだから、彼女に不満がくすぶることになる。

契約に縛られたサンティの代わりにロズがイギリスからスペインに行ってばかりなのに、サンティの方は豪邸を買い、ランボルギーニを乗り回し、おまけに独身男ハリスの気ままな生活に影響されてと、ロザの疎外感には気付かなくはないのだが、まるで自分たちのことではないような気分でいるのだ。

第1作で成功への道を掴むまでの過程に比べると、すでにニューカッスルではスターで、さらにレアルの一員になって、スタメンとしては使ってもらえないものの「スーパーサブ」として活躍中とあっては、その華やかさに触れないわけにはいかなかったのだろうが、やはりこんなではサンティの心境同様に浮ついたものになるしかない。

それではあんまりと、ロザとの行き違いの他、エージェントのグレン・フォイ(スティーヴン・ディレイン)との決別などでサンティを苦しめるのだが、さらにサンティにとって父の違う弟エンリケ(ホルヘ・ガルシア・フラド)を登場させている。家を捨てた母のロサ(エリザベス・ペーニャ)がスペインで生んだ子という。

ただこのエンリケの描き方は雑で、話を壊している。父親がちゃんと酒場を経営しているのに、エンリケは貧困が不満で、兄なら何故助けてくれないとロサにあたる。それだけでなく、財布は盗むし、サンティのランボルギーニを乗り回して事故まで起こしてしまうのだ。まだ子供とはいえ、ここまでやらせてしまうと同情しにくくなる。ロサは、サンティは別世界の人とエンリケを諭すのだが、とはいえサンティが兄ということを教えたのはそのロサではないか。

母親との再会は、家族を捨てた女をどう説明するかにかかっていると思うのだが、これはロサを暴行した2人の1人が伯父で、父にも言えず家を飛び出し、3週間たって戻ってみたら誰もいなかった、と納得の理由を用意してみせる。が、ロサにただ弁解させているだけだから芸がない。物語は作れても、それをどう見せるかがわかっていないのである。

この他にも、初先発でのレッドカード、遅刻、監督との確執、エージェントに騙されたハリスがサンティの元に来ての共同生活、サンティの怪我、記者への暴行、美人キャスター、ジョルダナ(レオノア・バレラ)とのパパラッチ写真といろいろあるのだが、全部が何事もなかったかのようにおさまってしまうのだ。

なにしろ、1番難題なはずのロザとのことも、サンティの謝りの電話であっさり和解、ではね。で、そこには身重になっている彼女のカットが入っていた。女はどうしても男に振り回される立場になるものね。だから、そもそもロザの要求はサンティには酷。サンティがレアルに入ることを決めた時点で(これはロザでなくサッカーを選んだのだから)結婚を解消するか、ロザがスペインに行くしかなかったのだ。

あと話題(?)のベッカム、ラウール・ゴンサレス、ジダン、ロナウドたちとの夢の共演だが、ほとんどがロッカールーム要員という肩すかし。ベッカムはちょっと特別扱いになっていて(チラシもサンティ、ハリス、ベッカムの3人だものね)最後にはゴールを決め、レアルはアーセナルを破ってヨーロッパチャンピオンに。まあ、いいけどさ。それにそのベッカムももうレアルを離れる(た)んだよね。

それほど熱心なサッカーファンではないのでよくわからないのだが、サッカー場面は映像的にも一応様になっていたのではないか。ただ、試合の中でのそれを見せていたとはとても思えない。試合を映画で見せるのが難しいから、いろいろな要素を詰め込まざるを得なかったのだろうけど、それもことごとく失敗してたのはもうすでに述べたとおりだ。

原題:GOAL II: living the Dream

2007年 114分 スコープサイズ イギリス 配給:ショウゲート 日本語字幕:岡田壮平

監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:マット・バーレル、マーク・ハッファム、マイク・ジェフリーズ 製作総指揮:スチュアート・フォード 原案:マイク・ジェフリーズ 脚本:エイドリアン・ブッチャート、マイク・ジェフリーズ、テリー・ローン 撮影:フラヴィオ・マルチネス・ラビアーノ プロダクションデザイン:ジョエル・コリンズ 音楽:スティーヴン・ウォーベック
 
出演:クノ・ベッカー(サンティアゴ・ムネス/サンティ)、アレッサンドロ・ニヴォラ(ガバン・ハリス)、アンナ・フリエル(ロズ・ハーミソン)、スティーヴン・ディレイン(グレン・フォイ/エージェント)、レオノア・バレラ(ジョルダナ・ガルシア/キャスター)、ルトガー・ハウアー(ルティ・ファン・デル・メルベ/監督)、エリザベス・ペーニャ(ロサ・マリア/サンティの母)、ホルヘ・ガルシア・フラド(エンリケ/弟)、ニック・キャノン(TJ・ハーパー)、カルメロ・ゴメス(ブルチャガ/コーチ)、フランシス・バーバー(キャロル・ハーミソン/ロズの母)、ミリアム・コロン(メルセデス/祖母)、キーラン・オブライエン、ショーン・パートウィー、デヴィッド・ベッカム、ロナウド、ジネディーヌ・ジダン、ラウール・ゴンサレス、イケル・カシージャス、イバン・エルゲラ、ミチェル・サルガド

初雪の恋 ヴァージン・スノー

2007/05/27  TOHOシネマズ錦糸町-7 ★

■京都名所巡り絵葉書

陶芸家である父の仕事(客員講師として来日)の都合で韓国から京都にやってきた高校生のキム・ミン(イ・ジュンギ)は、自転車で京都巡りをしていて巫女姿の佐々木七重(宮﨑あおい)に出会って一目惚れする。そして彼女は、ミンの留学先の生徒だった。

都合はいいにしてもこの設定に文句はない。が、この後の展開をみていくと、おかしくないはずの設定が、やはり浮ついたものにみえてくる。これから書き並べるつもりだが、いくつもある挿話がどれも説得力のないものばかりで、伴一彦(この人の『殴者』という映画もよくわからなかったっけ)にはどういうつもりで脚本を書いたのか訊いてみたくなった。それに、ほとんどミンの視点で話を進めてるのだから、脚本こそ韓国人にすべきではなかったか。

ミンは留学生という甘えがあるのか、お気楽でフラフラしたイメージだ。七重の気を引こうとして彼女の画の道具を誤って川に落としてしまう。ま、それはともかく、チンドン屋のバイトで稼いで新しい画材を買ってしまうあたりが、フラフライメージの修正は出来ても、どうにも嘘っぽい。バイトは友達になった小島康二(塩谷瞬)の口添えで出来たというんだけどね。

他にも、平気で七重を授業から抜け出させたりもするし(出ていった七重もミンのことがすでに好きになっているのね)、七重が陶器店で焼き物に興味を示すと、見向きもしなかった陶芸をやり出す始末(ミンが焼いた皿に七重が絵をつける約束をするのだ)。いや、こういうのは微笑ましいと言わなくてはいけないのでしょうね。

七重が何故巫女をしていたのかもわからないが、それより彼女の家は母子家庭で、飲んだくれの母(余貴美子)がヘンな男につけ回され、あげくに大騒動になったりする。妹の百合(柳生みゆ)もいるから相当生活は大変そうなのに、金のかかりそうな私立に通っているし、しかも七重は暢気に絵なんか描いているのだな。

結局、母の問題で、七重はミンの前から姿を消してしまうのだが、いやなに、そのくらい言えばいいじゃん、って。ま、あらゆる連絡を絶つ必要があったのかもしれないのでそこは譲るが、その事情を書いたお守りをあとで見てと言われたからと飛行機では見ずに(十分あとでしょうに)、韓国で祖母に私のお土産かい、と取られてしまう、ってあんまりではないか。メッセージが入っているのは知っていてだから、これは罪が重い。

2年後に七重の絵が日韓交流文化会で入選し、2人は偶然韓国で再会するのだが、少なくてもミンがあのあと日本にいても意味がないと2学期には帰ってしまったことを友達の香織(これも偶然の再会だ)からきいた時点で、ミンに連絡することは考えなかったのか(学校にきくとか方法はありそうだよね)。ミンがすぐ韓国に帰ってしまったのもちょっとねー。それに七重が消えたことで、よけいお守りのことが気になるはずなのに。

再会したものの以前のようにはしっくりできない2人。なにしろ言葉が不自由だからよけいなんだろうね。ミンは荒れて七重の描いた絵は破るし、七重に絵を描いてもらうつもりで作っていた大皿も割ってしまう。お守りの中の紙を見た祖母が(この時を待ってたのかや)、これはお前のものみたいだと言って持ってくる(簡単だが「いつか会える日までさようなら」と七重の気持ちがわかる内容だ)。

ミンは展覧会場に急ぐが、七重の姿はなく、彼女の絵(2人で回った京都のあちこちの風景が描かれたもの)にはミンの姿が描き加えられていた。しかし、これもどうかしらね。夜中の美術館に入って入選作に加筆したら、それは入選作じゃあなくなってしまうでしょ。まったく。自分たちの都合で世界を書き換えるな、と言いたくなってしまうのだな。

ミンは七重を追うように京都に行き、七重が1番好きな場所といっていたお寺に置いてあるノートのことを思い出す。そこには度々七重が来て、昔2人で話し合った初雪デート(をすると幸せになるという韓国の言い伝え)のことがハングルで書いてあり、ソウルの初雪にも触れていた。

そして、ソウルに初雪が降った日に2人は再会を果たす。

難病や死といううんざり設定は避けていても、こう嘘くさくて重みのない話を続けられると同じような気分になる。まあ、いいんだけどさ、どうせ2人を見るだけの映画なのだから。と割り切ってはみてもここまでボロボロだとねー。言葉の通じない恋愛のもどかしさはよく出ていたし、京都が綺麗に切り取られていたのだが。

【メモ】

初級韓国語講座。ジャージ=チャジ(男根)。雨=ピー。梅雨=チャンマ。約束=ヤクソク。

韓国式指切り(うまく説明できないのだが、あやとりをしているような感じにみえる)というのも初めて見た。

七重の好きな寺にいる坊さんとミンが自転車競争をしたのが、物語のはじまりだった。

2006年 101分 ビスタサイズ 日本、韓国 日本語版字幕:根本理恵 配給:角川ヘラルド映画

監督:ハン・サンヒ 製作:黒井和男、Kim Joo Sung、Kim H.Jonathan エグゼクティブ・プロデューサー:中川滋弘、Park Jong-Keun プロデューサー:椿宜和、杉崎隆行、水野純一郎 ラインプロデューサー:Kim Sung-soo 脚本:伴一彦 撮影:石原興 美術:犬塚進、カン・スン・ヨン 音楽:Chung Jai-hwan 編集:Lee Hyung-mi 主題歌:森山直太朗

出演:イ・ジュンギ(キム・ミン)、宮﨑あおい(佐々木七重)、塩谷瞬(小島康二)、森田彩華(厚佐香織)、柳生みゆ(佐々木百合)、乙葉(福山先生)、余貴美子(佐々木真由美)、松尾諭(お坊さん)

百万長者の初恋

テアトルタイムズスクエア ★

■ヒョンビンとヨンヒを見るだけのめちゃくちゃ映画

18歳になって、祖父の作り上げた財団という莫大な遺産が転がり込むはず(住民登録証というのが必要らしい)でいたカン・ジェギョン(ヒョンビン)だが、相続には田舎にあるポラム高校を卒業しなければならないという条件(祖父の遺言)がついていた。18歳の男にこれから高校を卒業しろとは、ジェギョンというのは昔から相当の放蕩息子だったのか、祖父に先見の明があるのか、それとも脚本がいい加減なだけなのか(余計なことだが韓国の学制は6・3・3・4制である)。

しかたなく生徒になったジェギョンだが、退学処分になれば遺産が相続できるのではないかと考え、登校早々同級生のミョンシク(イ・ハンソル)に喧嘩を売って彼に殴りかかる。が、彼の父親からは男は喧嘩をして育つものだと言われ、家で夕食をご馳走になってしまう。ウォンチョル校長(チョン・ウク)には支援金を寄付するから退学させてくれとかけ合うが、信念の人である校長が動じるはずもなく、遠回りでも正しい道をと諭される。

ポラム高校と指定されていた理由を考えないジェギョンがそもそも間抜けで、だいたい卒業が条件というのに強制退学では通りっこないのだが、というより映画がすべてにアバウトなのだ。それは遺産に難病のヒロインと、臆面のない設定をしていることでもわかる。

ジェギョンのキャラクターも最初こそ金持ちを鼻にかけた嫌味なものだが、田舎に呼び寄せた悪友たちが、自分がぶつかってばかりいたイ・ウナン(イ・ヨンヒ)を悪く言うと、もうその時点ではウナンの味方になっているのである。

クラス委員でもあるウナンは、自分が育った恩恵園という施設の子供たちのためにアルバイトでミュージカルの費用を稼いでると。健気なのだ。そんで、というかなのに、彼女は肥大性心臓疾患という不治の病にかかっていた、ってねー。

深刻なのにふざけたくなるのは、映画がそうだからで、この心臓病の危険さを語った医者に、愛が恐ろしい(動悸で心臓に負担がかかるから)と言わせて、ジェギョンもウナンにきつい言葉を浴びせて別れようとするのだが、失恋は感情がたかぶらないとでもいうのだろうか。

病気のウナンはこのあとも普通に働いていたし、どころか心臓が故障したみたいと言ったかと思えばミュージカルで激しい踊りを披露したり(『サウンド・オブ・ミュージック』なのだが、映画とはイメージの違う別物)と、このいい加減さは筋金入りなのである。

なにしろ病室にいつまでも2人っきりでいたり、途中からは同棲生活のようなことまではじめてしまうし……ようするに2人の甘ったるい会話が成立さえすれば、あとは何でもありという映画なんだろう。

だから、実はジェギョンとウナンは幼なじみで、それで巻頭にあった場面の謎が解けるのだが、しかしそれが明かされたころには、もう物語などどうでもよくなってしまっているのである。

なのに飽きずに映画を観ていられたのは、ウナン役のイ・ヨンヒが可愛らしかったからだ。写真だと特に好みというわけではないのだが、画面で動いている彼女の表情や仕草にはデレッとしてしまう。なにより今の日本の女の子のような人工的な感じがしないのがいい。映画館はヒョンビン目当ての女性が多そうだった(女性率95%)が、配給会社はこのイ・ヨンヒをもっと売り込むべきではなかったか。

しかし、それにしても何故「日本版エンディング曲」をつけたがるのか。しらけるだけなのに。

 

【メモ】

http://blog.naver.com/hyunbin2005 ←映画未公開映像「ドレミの歌」。こちらは元の映画と似た作りになっている。

原題:・ア・護棗・川攪 ・ォ・ャ・曾r
英題:A Millionaires First Love

2006年 113分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:キム・テギュン 脚本:キム・ウンスク 音楽:イ・フンソク
 
出演:ヒョンビン(カン・ジェギョン)、イ・ヨンヒ(イ・ウナン)、イ・ハンソル(ミョンシク)、チョン・ウク(ウォンチョル校長)、キム・ビョンセ(ユ弁護士)

ナチョ・リブレ 覆面の神様

銀座テアトルシネマ ★

■脚本がダメ。コメディにもなってない

修道院で孤児として育てられたデブダメ男のナチョ(ジャック・ブラック)は、今は料理番になっている。お金のない修道院では子供たちに満足なものが食べさせられない。ま、それはそうなんだが、ナチョには料理の才覚はなさそうだし、しかも配膳からしてだらしなくて、とても食料を大切にしているようには見えない。食べ物を粗末にする笑いは嫌いなのだが、このナチョは他の点でも愛すべきダメ男などではなく、ただのいい加減な迷惑男にしかみえないのである。

いや、もちろんそんなふうには作ってはいないのだけどね。でもまあ生きている人を死人に見立ててしまうし、教会のチップスは奪われてしまうしで、まともにできることが何もないときてる。コメディに目くじらたてるなと言われそうだが、それ以前の問題ではないか。ナチョもさすがにそれは自覚(!?)して、運命は自分で切り開くと言って修道院をあとにする。

ナチョはまずチップスを撒き餌にして、チップス泥棒のヤセ(エクトル・ヒメネス)を捕まえる。すばしっこい彼を相棒にして、あこがれのメキシカンプロレス(ルチャ・リブレ。メキシコではプロレスが盛んらしい)の選手になろうというのだ。町でルチャドール(レスラー)募集の張り紙を見ていたナチョには、賞金200ペソという目算があったのだ。で、特訓がはじまるのだが、これが蜂の巣を投げたり牛を相手にしたりの、しかも予告篇で全部公開済みのくだらないもの。もう他に見せるべきものがないというのがねー。

プロレスラーになったとはいえ、即席の2人組が通用するはずもなく、でも負けたのにギャラだけはもらえて大満足。で、なんでかわからないのだが、ナチョは修道院に戻っていてサラダを出したりしているのだ。子供思いというのを強調したのだろうが、出て行った意味がないではないか。プロレスは修道院からは目の敵にされているので、こんな2重生活は許されっこないというのに。3人がかりの脚本で、このユルさはなんなのだ。

新任のシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レゲラ)との恋物語をはさむ必要があったのだろうけどね。ナチョの最初のシスターの口説き文句は「今夜一緒にトーストをかじりませんか」というもので、この少し後にふたりがそうしてる場面があって、ま、この映画ではこれが1番笑える場面だった。

人気はでるが負けているばかりでは仕方がないと、ナチョとヤセはそれなりにいろいろ考える。ヤセの紹介でナチョはヘンな男の言うままに、崖の上にある鷲の卵を飲むのだが、しかしヤセは科学しか信じない男のはずだったのに。この脚本のいい加減さにはあきれるばかりで、もうこうなると、これはからかわれているとしか思えない。

勝つにはプロに学ぶしかないと、人気レスラーのラムセスのいるパーティ開場へもぐりこむ。ところが憧れていたラムセスは、子供たちのためのサインすらしないようなひどいヤツで、このことでナチョは、勝者がラムセスと対戦できるバトルロイヤルに挑戦することを決意する。

バトルロイヤルだから運もあるのだが、ナチョは所詮2位どまり。が、これも2位のミレンシオの悪さにヤセが車で彼の足を轢いて出場できなくさせてしまうという幸運?があって、ついにラムセスとの対戦することになる。

筋肉もりもりのラムセスに、ぶよぶよのナチョだから、勝ち目はないのだが、感動?のプランチャ(ロープから場外の相手に向かって体を預けていく飛び技)まで飛び出して何故か勝利。賞金の1万ペソを手にしたナチョはその金でバスを買い、子供たちを遠足に連れていく。シスターともいい感じで、はいおしまい。

実話をヒントにしたというのは、それはおそらく暴風神父と呼ばれたフライ・トルメンタのことのようで、彼の話はそのまま映画にした方がずっと面白そうだが、しかしそれはすでに映画になっているらしいのだ。だからこれはコメディなのか。それにしてもなー。

ジャック・ブラックは『スクール・オブ・ロック』と『キング・コング』で感心していたから、余計がっかりだった。歌の場面では彼らしさが出ていたし、プロレス場面でも最後までぶよぶよではあったが、体当たりの演技を見せてくれたんだけどさ。

【メモ】

ヤセは科学だけを信じていて、洗礼も受けていない。これはナチョが洗面器に水を入れて洗礼?させてしまうのだが。

「ぜひ彼女にこの逞しい体を見せたい」「これが俺の勝負服」

シスターも、虚栄心のための戦いだからプロレスはいけないと言っていたのに、いつ「俺たちが独身主義でないなら結婚しよう」というナチョの手紙をそっと枕の下に置くような心境になったのだ。荒野の修行?で?

シスターもサンチョと一緒に、ラムセス戦を観に来る。

原題:Nacho Libre

2006年 92分 アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジャレッド・ヘス 製作:ジャック・ブラック、デヴィッド・クローワンズ、ジュリア・ピスター、マイク・ホワイト 脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト 撮影:ハビエル・ペレス・グロベット 衣装デザイン:グラシエラ・マゾン 編集:ビリー・ウェバー
 
出演:ジャック・ブラック(イグナシオ/ナチョ)、エクトル・ヒメネス(スティーブン/ヤセ)、アナ・デ・ラ・レゲラ(シスター・エンカルナシオン)、リチャード・モントーヤ(ギレルモ)、ピーター・ストーメア(ジプシー・エンペラー)、セサール・ゴンサレス(ラムセス)、ダリウス・ロセ(チャンチョ)、モイセス・アリアス(フラン・パブロ)

LOFT ロフト

テアトル新宿 ★

■全部が妄想って、そりゃないよね

春名礼子(中谷美紀)は芥川賞作家だが、編集者の木島(西島秀俊)からは通俗的な恋愛小説を要求されている。が、スランプ中だし体調も思わしくない。泥のようなものを吐くが医者はなんともないと言うし、自分でも幻覚かなどと達観している。引っ越しでもして気分転換を図ろうかと思っていると木島に相談すると、彼はぴったりの場所を探してきた。

使われることがあるのかと思われる不思議な建物がそばにあるだけの、緑の中の静かな屋敷。すっかり気分がよくなった礼子だが、前の住人が残していった荷物の中に小説らしい原稿を見つけ、建物に不審な人物が出入りしているのを見る。

調べてみると、建物は相模大学の研修所で、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授だった。彼は沼から引き上げた1000年前のミイラを、何故か研修所に持ち込んでいて、研究生が研修所を使う2、3日の間、礼子にそのミイラを預かってほしいと言ってくる。

木島の礼子に対するストーカーまがいの行動から、水上亜矢(安達祐実)という、やはり作家志望の女性がここに住んでいたことが判明(木島に弄ばれたらしい)するのだが、このあたりから少しずつ混乱が始まって、何がなんだかわからなくなってくる。礼子と吉岡の恋もえらく唐突な感じで、吉岡は亜矢を殺したと言っているのに、そのあとあっさり礼子と吉岡が絶対的関係になっているのでは(この芝居は大げさだ)、感情移入以前の段階でついていけなくなってしまう。

亜矢を殺した原因も「ちょっとした混乱が……彼女はよくわからないやり方ですっと僕の中に入ってきた」そして「僕の科学者としての立場を突き崩した」ので、口を塞ごうとして……というもの。こういうことはあるだろう。でもここでの説明にはなっていないと思うのだ。

だいたい礼子が最初に泥を吐くことからしてずるい。ミイラを預かってからそういう現象が起きるのならまだわかるのだが。私がずるいと思うのが間違いというのなら、礼子とミイラの関係だけでも説明してほしいものだ。そう思うと、どこもごまかしで満ちているような気がしてならない。ミイラと亜矢の幽霊という2本立てがそうだし。夢の映像は2ヶ所だったと思うが、それだってはっきり断っていないのが他にもあるのだとしたら……。

わかりにくい映画だからと切って捨てるつもりはないが、少なくともわかりたくなるように仕向けるのが監督の仕事のはずだ。もう1度観れば少しは氷解するのかもしれないが、その気が起きないのでは話にならない。

編集者と女流作家に絞って、出てきた原稿から秘密が解き明かされていくというような、ありがちではあるけれど、そんな単純な話の方がずっと怖かったと思うのだ。画面に集中出来ないこともあって、嘘くさいミイラにメスを突き刺す豊川悦司が気の毒になってくる。最後もしかり。「全部妄想だったのか」と大げさに言わせておいて『太陽がいっぱい』と同じどんでん返し……これはコメディだったのか、と突っ込みたくなってしまうのだな。

でもくどいのだが、亜矢のことでミイラに取り憑かれた吉岡というのならまだわかる。でも礼子の方はねー(実は最初は吉岡のことの方がわからなかったのだが)。あと、これはそのこととは関係ないが、礼子と吉岡の救う立場が最初と最後では逆転しているというのが面白い。

【メモ】

袋に入っていた原稿の題名は『愛しい人』。これは原稿用紙に書かれたものだが、礼子はワープロで書く。礼子はこの『愛しい人』を流用していたが? そういえば完成した原稿を、木島は傑作に決まっているからまだ読んでいないとか言っていた。

大学のものなのか、大きな消却施設がある。

建物と男に興味を持った礼子は、昭和初期のミイラの記録映画の存在を知り、教育映画社の村上(加藤晴彦)を友人の野々村めぐみ(鈴木砂羽)と共に訪ねる。

映っていたのはミドリ沼のミイラをコマ落としで撮った短い(実際は3日?)もの。「何を監視していたんだろう」。結局この件はこれっきり。

腐敗を止めるために泥を飲む?

亜矢の件は捜索願が出ていて、めぐみは殺人事件だと思うと礼子に報告する。

エンドロールは部分的に字がずれるもの(FLASH的に)。

2005年 115分 サイズ:■

監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:松本知恵 編集:大永昌弘 音楽:ゲイリー芦屋 VFXスーパーバイザー:浅野秀二

出演:中谷美紀(春名礼子)、豊川悦司(吉岡誠)、西島秀俊(木島幸一)、安達祐実 (水上亜矢)、鈴木砂羽(野々村めぐみ)、加藤晴彦(村上)、大杉漣(日野)

UDON

新宿スカラ座1 ★

■主人公の思いつきに付き合ってはいられない

「ここに夢なんかない、うどんがあるだけや」という四国の香川から、コメディアンでBIGになってやろうとニューヨークへ渡った松井香助(ユースケサンタマリア)だが、現実は甘くなく、すごすごと故郷へ戻ってくるしかなかった。借金だらけの彼は、親友の鈴木庄助(トータス松本)の紹介もあって地元でタウン誌を発行している会社に就職することになる。

映画の語り手は宮川恭子(小西真奈美)で、香助とは偶然道に迷いうどんを啜りあっただけの関係だったが、ライターとして働くタウン誌の職場に、ある日香助がやってくるという寸法。ここで香助たちがはじめた讃岐うどんのコラムが注目を集め、ついに全国的なブームを巻き起こす。

ここまでは予想通りとはいえ、まあまあの展開。映画自体がタウン誌のコラム的構成になっていて、でもグルメに興味のない私でも楽しめた。まあ、讃岐うどんというハードルの低い食べ物だということもあるのだが。製麺所に器持参で、ネギはそこの畑にあるのを、となるとハードルが低すぎて、逆に畏れ多くて注文できなくなりそうだが、とにかくそういう話がこれでもかというくらいあり、評論家の「ブームには聖地が必要」というなるほど発言も挿入されていて、思わずにんまり。

が、ブームには終わりがある、と。発行部数を誇ったタウン誌も廃刊が決まり、仲間もそれぞれの道を探すことになる。

ブームの終わりにまで触れようとしているのか、これは並の成功物語というのでもないのだな、と思っていると……。話は一転、香助と実家の製麺所の頑固親父(木場勝己)との確執に移る。

香助にはニューヨークで失敗した弱みもあるし、その時の自分の借金を父が代わりに返してしまったことが面白くない。しかしこれはそんなに怒るようなことだろうか。父の返済で借金が消えたと思うことが甘いのであって、返済相手が代わったと思わなければ。とりあえずは父に感謝すべきだろう。母(の写真は笠置シズ子か?)の死因も父が原因と思っていて、これは姉(鈴木京香)にたしなめられる。

そんな状況の中、香助は意を決して、はじめて自分の気持ちを父に話し、製麺所を「継いでやってもいい。だから教えてくれないか」とまで言う(照れなのかもしれないが傲慢発言だ)。が、まさにその時、父は仕事場で倒れ、あっけなく死んでしまう。

このあと香助は、恭子や父のやり方を盗みしていたという義兄(小日向文世)の助けを借りて、父のうどんの味を出そうと奮戦するのだが、姉は「今さら勝手なことを」と、いい顔をしない。

カレンダーに付けた四十九日の印を、休業とは知らずに来た客が勘違いして、新規オープンの日と思い込むなんていう嘘っぽい話を織り込みながら、香助たちの試行錯誤は続き、ついに開店の日(!)を迎えることになる。

姉が同意しなかったのも無理はない、このあとこれが結末となるのだが、香助はまたニューヨークへ旅立つのだ。しかし、これはないだろう。死んでしまったとはいえ、父親に跡を継いでもいいとはっきり宣言したのだから。

前半のカタログ的部分はいいとしても、ドラマ部分は弱くダレを感じたのだが、原因は主人公に魅力がないからに他ならい。結末もそうだが、その時々の思いつきで行動しているようにしか見えないのだ。タウン誌の社員になったのも、讃岐うどんを取り上げたことも。それがたまたま成功してしまった場合はいいにしてもねー。そういえば恭子にも「俺、恭子ちゃんにはこの町にいてほしい」と言っておきながら、自分はまたニューヨークへ行くって?

このニューヨーク行きの結末は本当に腹が立つ。自分の実力のなさをいやと言うほど味わって帰国したのではなかったのか。親父のうどんの味を復活させたことと芸人になるというのはまったく違う話と思うのだが。やっぱりタクシー料金を先輩のくせして踏み倒すようなヤツなんだ、と虚しく納得。どういうつもりでこんなラストにしたのか監督に訊いてみたくなる。

義兄のように、心から麺が打ちたくて、それでもなかなか言い出せずにいる人間まで用意しているというのにさ。この映画では彼が1番いい感じなのだ。

で、さすがにこのままというわけにはいかないのだろう、くくりになるおまけが付く。恭子は念願の、それも『UDON』という本を出版。「これが彼女と彼の物語です」って。続いてニューヨークに彼女が着いて、香助が「キャプテンUDON」になって街角の大きなスクリーンに映っているという場面。お、成功したんだ。

でもなんか、つまらん。成功したんだから文句ないでしょ、みたいで。それに、どこが彼女と彼の物語だったのかな。タウン誌の取材や編集に一緒にうどん作り……でも、気持ちの部分は描かれてなかったよね。

  

【メモ】

香川県=日本で一番小さな県。

タイトルはUDONのNとうどんのんを1つの文字で表したもの。The Endもdとおわりのおを同じようにまとめたもの。The Endは無理があるが、最初のはなかなかだ。

ブームで忙しくなった店が、客の回転をよくするため、麺を細くして茹でる時間を減らしたという辛口批評も。すべてが讃岐うどんヨイショでもないのね。

宇高連絡船のうどんはおいしくないが、挨拶代わりのうどんなのだ(タウン誌編集長のミミタコ話)。

父親の死因は急性心筋梗塞。

香助は仏間で寝てしまい、幽霊になった父親と対面する。

うどん作りなのに恭子は長い髪を束ねもしない。

香助の妄想(最後は違うか)「キャプテンUDON」も2度ほど登場。

2006年 134分 シネスコサイズ

監督:本広克行 脚本:戸田山雅司 撮影:佐光朗 美術:相馬直樹 編集:田口拓也 音楽:渡辺俊幸

出演:ユースケ・サンタマリア(松井香助)、小西真奈美(宮川恭子)、トータス松本(鈴木庄介)、鈴木京香(姉・藤元万里)、升毅(大谷昌徳)、片桐仁(三島憲治郎)、要潤(青木和哉)、小日向文世(義兄・藤元良一)、木場勝己(父・松井拓富)、江守徹(評論家・綾部哲人)、二宮さよ子(馬渕嘉代)、明星真由美(淳子)、森崎博之(牧野)、中野英樹(中西)、永野宗典(水原宗典)、池松壮亮(水沢翔太)、ムロツヨシ(石松)、与座嘉秋(新美)、川岡大次郎 (小泉)

佐賀のがばいばあちゃん

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★

■辛い話は昼にせよ(収穫はこれのみ)

漫才コンビ“B&B”の島田洋七による同名の自伝的小説の映画化。「がばい」は佐賀弁ですごいの意。

明広(池田壮磨→池田晃信→鈴木祐真)は原爆症で父を亡くし、兄と共に居酒屋で働く母(工藤夕貴)に育てられていたが、泣き虫で母の足手まといになることが多かった。伯母の真佐子(浅田美代子)が見かねてのことか母が頼んだのか、新しい服を着せられ新しい靴を履かされたうれしい日に、騙されるように真佐子に連れられて佐賀の祖母のもとにやってくる。

着いたとたん挨拶もそこそこに、しかも夜だというのに次の日からの飯炊き係を言い渡される明広。こうして2人の生活がはじまることになるのだが、ようするに昭和30年代の佐賀を舞台にしたばあちゃんと少年の話で、映画は昔流行った『おばあちゃんの知恵袋』の貧乏生活篇的様相を帯びる。

夫の死後7人の子を育てたというがばいばあちゃん語録を列記すると、「川はうちのスーパーマーケット」(上流にある市場で捨てられたくず野菜や盆流しの供物が流れずに引っかかるように工夫してある)、「この世の中、拾うものはあっても捨てるものはない」(外出時には道に磁石をたらすことを忘れない)、「悲しい話は夜するな、どんない辛い話でも昼したら大したことない」、「今のうち貧乏をしとけ、金持ちになったら大変よ、よかもん食べたり、旅行へ行ったり、忙しか」などとなる。

貧乏についても「暗い貧乏と明るい貧乏」があって「うちは明るい貧乏」なのだと説く。まあ、たしかに。もっともばあちゃんの家は門構えも立派なら垣根も堂々たるもので、台所は敷地内の「スーパーマーケット」小川を渡った先にあるのだ。こんな広い家に住んでいて貧乏とはね。今とは違う価値観の中に放り込まれて、それは頭ではわかるのだが貧乏を実感できない恨みは残る。

明広が剣道をやりたいと言えば、竹刀や防具にお金がかかるといい、明広が柔道に格下げ?しても柔道着がいるからだめで、ばあちゃんから許しが出るのは走ることだった。それも靴が磨り減るから素足にしろ、全力疾走は腹が減るからダメ、とこんな調子の話が続く。

ただ明広が中学の野球部でキャプテンになったことを知って、スパイクを買いに行く話はどうか。夜、閉店しているスポーツ用品店をたたき起こし、店の親父に1番高いのが2500円と言われて1万円にならんかと詰め寄る。必要なものにはお金を惜しまないところを見せたかったのだろうが、この演出は白ける。

他にも先生たちとの弁当交換話や、マラソン大会での母との再会などがあるが、ばあちゃん語録からそういう話に格上げされたものはどれも出来が悪い。この積み重ねが、最後の中学を卒業し母の所へ帰ることになる明広とばあちゃんの別れの場面を、薄めてしまったのではないか。

母との再会(何と長い年月! それも1度も会っていないのだ)では、明広の兄が何故来ないのか(単純に金がなかったのかもしれないが)、そして明広を兄と差別したことの後ろめたさを、母に語らせてもよかったのではないかと思うのだが。

しかし、この映画の1番の難点は、吉行和子ががばいばあちゃんのイメージにそぐわないことではないだろうか。そして大人の明広も、本人の島田洋七ではなく、何で三宅裕司なんだろう。本人でないのなら、この大人の視線部分は不要だろう。とんでもない事件が起きるわけではないので、演出が平坦になることを避けたのかもしれないが、意味があるとは思えない。

【メモ】

明広の弁当が貧弱なのは有名らしく、先生が今日は腹具合が悪いからと明広に腹に負担のかからない弁当と交換してくれと言うのだが、これが何人も……。不思議がる明広に、ばあちゃんは「人に気付かれないのが、本当の優しさ、親切」と解説する。

「明広、行くな」最後に残されたばあちゃんは、号泣しながら叫ぶ。

2006年 104分 サイズ:■

監督:倉内均 脚本:山元清多、島田洋七 原作:島田洋七『佐賀のがばいばあちん』 撮影:三好保彦 美術:内藤政市 編集:阿部亙英 音楽:坂田晃一
 
出演:吉行和子(ばあちゃん)、工藤夕貴(岩永明広の母)、浅田美代子(真佐子)、鈴木祐真(中学生の明広)、池田晃信(小学校高学年の明広)、池田壮磨(小学校低学年の明広)、穂積ぺぺ(小2担任教師)、吉守京太(警官)、石川あずみ(看護婦)、緒形拳(豆腐屋)、三宅裕司(大人の明広)、島田紳助(スポーツ店主)、島田洋八、山本太郎(中野先生)

愛と死の間(はざま)で

シャンテシネ1 ★

■ファン御用達映画なので、あら探しはほどほどに

交通事故現場でユンサム(チャーリー・ヤン)という女性の救急活動にあたった救急隊員のコウ(アンディ・ラウ)は、彼女に何か特別なものを感じる。彼女が心臓移植を受けていることを聞いた彼は、彼女の主治医であるホー医師(アンソニー・ウォン)を問いつめ、彼女の心臓が彼の妻チーチン(シャーリーン・チョイ)のものだったことを知る。

コウには、最愛の妻チーチンを交通事故でなくすという過去があった。映画は普通に順序立てた流れだから、優秀な外科医だったはずの彼が救急隊として現れて面くらうことになるのだが、ここはちゃんとした説明がほしいところだ。チーチンのイメージショットの過剰さに比べると、あまりに手抜きではないか。もちろんその映像の中には彼の妻への想いという部分もあるし、医師を辞めたのも、失意と妻が望むような時間を共有出来なかったことへの後悔、いや罪の意識すらあったことは想像に難くない。

妻の心がユンサムの中で生きていることを感じたコウは、彼女を追い求めずにはいられない。が、夫とは別居中(ユンサムの夫に対する思いやりの別居)のユンサムは、重い病をかかえていた。

ここまでの展開は許せる。偶然は多いにしても、まあ普通だろう。だが、ユンサムの夫のデレクがコウと瓜二つ(アンディ・ラウの二役)という設定は、あまりに受け入れがたい。コウがユンサムの夫になりすまし、ユンサムも自分の元から去った夫が戻ってきたと思い込む。って、いくら瓜二つでも夫婦なんだからすぐばれるでしょうに。

映画の後半で、映写ミスでピントが合わない状態(字幕は読める)になったこともあって、この先は上の空状態。ちゅーか、こんな映画の内容に、集中しろっていう方が無理だよね。

話の作り方はとにかくくだらなすぎで、例えば妻の死後、コウが時間と規則に忠実になったことを表現するのに、目の前の交通事故を、指示された仕事ではないからと無視して帰還しようとする場面まであるのだ。さすがに思い直して引っ返し、これがユンサムとの出会いになるのだが、いくらなんでもこんな発想はないだろう。

臓器移植についてはなかなか興味深い報告があって、ユンサムのなかにチーチンの心が生きているというのは、似た事例もいくつか報告されているようだし、それを支持している学者もいるが、話が杜撰だからそこまで踏み込むまでには至っていない。

きっと、アンディの(制作者でもある)アンディによる(主演)アンディのための(自己満足かや)の映画なんでしょう。

【メモ】

コウは自身が元医師で、妻の心臓移植にも同意したはずなのに、移植相手の身元を明かさないというルールを破る。

妻が死んだあともコウは妻の両親と同居している。

宣伝コピー「妻は生きている彼女の中で。一人で逝かせてしまったから、せめて残された時間は彼女の“心”のそばにいてあげたい」

原題:再説一次我愛●(●は人偏+尓) 英題:All About Love

2005年 102分 香港 ビスタサイズ 日本語字幕:■

監督・脚本:ダニエル・ユー[余國偉]、リー・コンロッ[李公樂] 撮影:ジェイソン・クワン 音楽:ジャッキー・チャン、マルコ・ワン

出演:アンディ・ラウ[劉徳華](コウ、デレク)、チャーリー・ヤン[楊采](ユンサム)、シャーリーン・チョイ[蔡卓妍](チーチン)、アンソニー・ウォン[黄秋生](ホー医師)、ラム・シュー[林雪](救急隊の同僚)、ホイ・シウホン[許紹雄](救急隊上司/チーチンの父)、ジジ・ウォン[黄淑儀](チーチンの母)