東京フレンズ The Movie

TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★

■1番最初に描いた夢などとっくに忘れてしまった身としては

題名にThe Movieとあるのは先行してDVD作品があるかららしいのだが、もちろんそれは未見。最初の方で、それまでのバンドの経緯などが少し駆け足気味だったり涼子(真木よう子)の場合結婚が決まっていたりするのは、映画用にダイジェストにしたのだろう。ほかの部分でも続編扱いのようなところがあった。

高知から上京してきた玲(大塚愛)が、東京でバイトをしながら自分の夢をかなえていくという話。他の女の子3人も同じ居酒屋のバイト仲間(1人はアメリカにいたから違うのかも)で、玲が音楽なら、芝居に結婚に絵と、結婚(これも雰囲気からすると玉の輿願望だったような)はともかく、じいさん視線で見るとどれもハードルが高く少々浮ついたもの。

もっともそれを言ってしまったらおしまいか。何度も繰り返される「1番最初に描いた夢をあなたは覚えてる?」というセリフがこの映画の言いたいことらしいから。そう言われてしまうと、夢を具象化することすら出来なかった身としてはぐうの音も出ないのだが。

4人の中で話のメインになっている玲だが、彼女にとっては夢が描けなかったのは田舎にいた過去のことであり、バンドが成功の道を駆け上がりつつある今、あの頃よりはずっと幸せなのだと言う。そんな玲だが、「お前の声が好き」と自分のことを認めてくれた隆司(瑛太)のことがいつまでも忘れられない。彼は自分の詩で歌いたいとバンドを去り、そのあともトラブルを起こして姿を消したままだったのだ。

隆司が消えたのは、移籍したメジャーデビュー目前だった「フラワーチャイルズ」というバンドで、メンバーが暴行事件を起こしたことによる。が、これはあとでわかることなのだが、そもそもは「サバイバルカンパニー」が玲のバンドになってしまうことを恐れていたからのようだ。

このあと真希(小林麻央)の情報で、ニューヨークに渡った玲は隆司を見つけ、彼に自分の気持ちをやっと伝える。思いっ切り予定通りの展開だよ。しかも街で見かけただけという曖昧な情報(旅行だったらどうするんや)だけで土地勘もない(真希も手伝ってはくれたが)イーストビレッジを歩き回って探し出してしまうんだからねぇ。そして東京からはライブの予定が迫っているというファクスが。どうする!

というわけで、甘ーい時間を楽しんだあと、ひと通りの悶着があって(隆司の生き方はそう簡単には決められないものね)、でも結末はとりあえずは玲1人で日本に帰るという、これはいい意味で裏切ってくれたわけだけど、言っていないことがあったからと空港で「アイ、ラブ、ユーッ!」と大声で叫けばれては、じいさんとしてはついていけないのだな。しかも「日本語で言ってよ」と返してたけど、あれは私にもわかるくらいの正真正銘の日本語ではなかったかと。

最後はライブシーン。これはさすがに様になっていて、挽回しようとしてか3曲フルで流していた。

他の子たちにも簡単にふれておくと、ひろの(松本莉緒)は先輩にふられて新しい劇団に移る。ここで詐欺事件に巻き込まれ、先輩を見返してやろうとした公演はあえなくオジャンとなってしまう。が、その過程で人に頼らず自分自身で生きていく足がかりを見つける。涼子は結婚生活の現実に直面し、真希は実はニューヨークでは絵は1枚も売れてはおらず、同居の彼、小橋亨(佐々木蔵之介)がハードゲイだったという新事実も……。

こうやってながめてみると、そうは甘い話にはなっていないのだけど、何か違和感が。たぶん夢について必要以上に言葉で語りすぎているからではないだろうか。最後のライブシーンになっても、まだ「あなたのために」とか「隆司が見つけてくれた夢だから」とか言ってたもんなー。

  

【メモ】

バイトの居酒屋は「夢の蔵」。

「結婚式も新婚旅行もなし……じゃあ何のための結婚?」(涼子)。

ニューヨーク行きは、涼子が新婚旅行(1人で行く?)のチケットを玲に譲ってくれて実現する。HISのチケット。宣伝はもう少しさらっと見せんか!

再会した隆司は記憶喪失になったとか馬鹿なことを言う。言うだけでなく、行動も。

2006年 115分 サイズ:■

監督:永山耕三 脚本:衛藤凛 撮影:猪本雅三 美術:磯見俊裕 音楽:佐藤準
 
出演:大塚愛(岩槻玲)、松本莉緒(羽山ひろの)、真木よう子(藤木涼子)、小林麻央(我孫子真希)、瑛太(新谷隆司)、平岡祐太(田中秀俊)、伊藤高史(奥田孝之)、中村俊太(永瀬充男)、佐藤隆太(里見健一)、佐々木蔵之介(小橋亨)、北村一輝(笹川敬太郎)、勝村政信(笹川和夫)、古田新太(和田岳志)

僕の、世界の中心は、君だ。

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■ヘンな設定はなくなっているが

細かいことはもう忘れたが、あり得ない偶然の連続にうんざりだった『世界の中心で、愛をさけぶ』。あんな馬鹿げた話をわざわざリメイクするって? 不純な興味で観ることにしたのだが、とても同じ話とは思えず、狐につままれたような気分だった(確かに同じだという部分も、だんだん思い出してはきたけどね)。

婚約者の失踪もなければ、婚約者と主人公の初恋のつながりもない。そりゃそうだ、婚約者そのものがこの映画には出てこないのだから。さすがにリメイクだ、あのどうしようもない設定をきれいさっぱり取っ払ってしまったのね。が、そうなると難病ものという陳腐きわまりないメロドラマだけが残ってしまうことになるが……。

10年ぶりのテミョン高校の同窓会に出席したスホ(チャ・テヒョン)は、いまだに初恋の人の思い出を引きずっていて、仲間からも半分は親愛の気持ちからとはいえ、からかわれてしまう。そして、物語は10年前に飛ぶ……。

マドンナ的存在のスウン(ソン・ヘギョ)がまさか自分のような平凡な男に、というスホのとまどいが微笑ましい。これは男にとっては究極の設定かも。が、仲間のはからいで島へふたりきりで旅行、ファーストキス、そして突然の発病、と続く展開はあまりにもありきたり。

難病だからといってめちゃめちゃ暗くなるわけでもないし、日本版のようにヘンな小細工(病気を装ったラジオの投稿など)がないのはいいが、だからといってこれだと物足りない。その反動か、快復の見込みがなくなったスウンを台風で欠航になっているというのに島に連れて行こうとする場面の強引さは何なのだろう。スウンは苦しがっているし、で、ここは観ているのが辛くなってしまったぞ。

スウンが撒いた種が一面の花を咲かせるラストも、日記の存在を際だたせるほどにはなっていない。まあ、これは初恋的味付けということで。

しかし、この終わり方では結局初恋の想いがそのまま残って、ようするに巻頭の同窓会からただ過去に戻ってお終いということになり、構成上からも回想した意味がなくなってしまう。今どんなふうに生きているのかというようなことでもいいと思うのだが、何故何も付け加えないのだろう。現在のシーンがなければ、主人公だってもっと若い人を使えただろうに。

ところでこの映画には、葬儀屋をしているスホの祖父(イ・スンジェ)の初恋の話もあって、これが挿話というよりはサイドストーリーに近い扱いとなっている。祖父の場合は、初恋の人の娘からその人の想いを知って感謝する(「ありがとう。君も僕を覚えていてくれて」)のだが、これも扱いの大きさの割には意味があるとは思えなかった。

余談になってしまうが、祖父がこの話をはじめるきっかけが妙ちくりんだ。学校に危篤(ただ具合が悪いだったか?)の電話が入ってスホがあわてて戻るのだが、祖父はぴんぴんしていて「ビールを飲みながら話がしたかっただけ」などと言うのだ。本人がそんなことのために電話? そりゃないでしょ。

    

【メモ】

スウンは、ポケベルのボイスメッセージでスホに想いを告げる。ポケベルは映画ではピッピと言われていた。

名前の漢字を訊くのは、日本版では違和感があるが、韓国はハングル表記が普通だからぴったりのような。

貧血姫(スホがスウンに付けた呼び名)。

無菌室に隔離されたりはするが、病気そのものの映像としては、抜けた髪の毛をスウンが手にしている場面がある程度。

エンディングは『瞳をとじて』(作詞・作曲:平井堅、歌:チャ・テヒョン)。

(06/9/8追記) 気が付かなかったが「竹島」が写っている(撮影された?)ことがネットで問題になっているようだが?? 映画では旅行で行った島は「アンゲ島」(架空の島)だし、ロケ地も巨済島(コジェド)なのにね。

原題:甯誤梠・シ・俯ウエ(波浪注意) 英題:My Girl & I2005年 97分 韓国 シネマスコープ 日本語字幕:根本理恵

監督:チョン・ユンス 脚本:ファン・ソング 撮影:パク・ヒジュ 音楽:イ・ドンジュン
 
出演:チャ・テヒョン(スホ)、ソン・ヘギョ(スウン)、イ・スンジェ(キム・マングム/スホの祖父)、キム・ヘスク(スホの母親)、ハン・ミョング(スウンの父親)、パク・ヒョジュン(ソンジン)、キム・ヨンジュン(ヒソン)、ソン・チャンウィ(ジョング)、キム・シニョン(民宿のおばあさん

佐賀のがばいばあちゃん

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★

■辛い話は昼にせよ(収穫はこれのみ)

漫才コンビ“B&B”の島田洋七による同名の自伝的小説の映画化。「がばい」は佐賀弁ですごいの意。

明広(池田壮磨→池田晃信→鈴木祐真)は原爆症で父を亡くし、兄と共に居酒屋で働く母(工藤夕貴)に育てられていたが、泣き虫で母の足手まといになることが多かった。伯母の真佐子(浅田美代子)が見かねてのことか母が頼んだのか、新しい服を着せられ新しい靴を履かされたうれしい日に、騙されるように真佐子に連れられて佐賀の祖母のもとにやってくる。

着いたとたん挨拶もそこそこに、しかも夜だというのに次の日からの飯炊き係を言い渡される明広。こうして2人の生活がはじまることになるのだが、ようするに昭和30年代の佐賀を舞台にしたばあちゃんと少年の話で、映画は昔流行った『おばあちゃんの知恵袋』の貧乏生活篇的様相を帯びる。

夫の死後7人の子を育てたというがばいばあちゃん語録を列記すると、「川はうちのスーパーマーケット」(上流にある市場で捨てられたくず野菜や盆流しの供物が流れずに引っかかるように工夫してある)、「この世の中、拾うものはあっても捨てるものはない」(外出時には道に磁石をたらすことを忘れない)、「悲しい話は夜するな、どんない辛い話でも昼したら大したことない」、「今のうち貧乏をしとけ、金持ちになったら大変よ、よかもん食べたり、旅行へ行ったり、忙しか」などとなる。

貧乏についても「暗い貧乏と明るい貧乏」があって「うちは明るい貧乏」なのだと説く。まあ、たしかに。もっともばあちゃんの家は門構えも立派なら垣根も堂々たるもので、台所は敷地内の「スーパーマーケット」小川を渡った先にあるのだ。こんな広い家に住んでいて貧乏とはね。今とは違う価値観の中に放り込まれて、それは頭ではわかるのだが貧乏を実感できない恨みは残る。

明広が剣道をやりたいと言えば、竹刀や防具にお金がかかるといい、明広が柔道に格下げ?しても柔道着がいるからだめで、ばあちゃんから許しが出るのは走ることだった。それも靴が磨り減るから素足にしろ、全力疾走は腹が減るからダメ、とこんな調子の話が続く。

ただ明広が中学の野球部でキャプテンになったことを知って、スパイクを買いに行く話はどうか。夜、閉店しているスポーツ用品店をたたき起こし、店の親父に1番高いのが2500円と言われて1万円にならんかと詰め寄る。必要なものにはお金を惜しまないところを見せたかったのだろうが、この演出は白ける。

他にも先生たちとの弁当交換話や、マラソン大会での母との再会などがあるが、ばあちゃん語録からそういう話に格上げされたものはどれも出来が悪い。この積み重ねが、最後の中学を卒業し母の所へ帰ることになる明広とばあちゃんの別れの場面を、薄めてしまったのではないか。

母との再会(何と長い年月! それも1度も会っていないのだ)では、明広の兄が何故来ないのか(単純に金がなかったのかもしれないが)、そして明広を兄と差別したことの後ろめたさを、母に語らせてもよかったのではないかと思うのだが。

しかし、この映画の1番の難点は、吉行和子ががばいばあちゃんのイメージにそぐわないことではないだろうか。そして大人の明広も、本人の島田洋七ではなく、何で三宅裕司なんだろう。本人でないのなら、この大人の視線部分は不要だろう。とんでもない事件が起きるわけではないので、演出が平坦になることを避けたのかもしれないが、意味があるとは思えない。

【メモ】

明広の弁当が貧弱なのは有名らしく、先生が今日は腹具合が悪いからと明広に腹に負担のかからない弁当と交換してくれと言うのだが、これが何人も……。不思議がる明広に、ばあちゃんは「人に気付かれないのが、本当の優しさ、親切」と解説する。

「明広、行くな」最後に残されたばあちゃんは、号泣しながら叫ぶ。

2006年 104分 サイズ:■

監督:倉内均 脚本:山元清多、島田洋七 原作:島田洋七『佐賀のがばいばあちん』 撮影:三好保彦 美術:内藤政市 編集:阿部亙英 音楽:坂田晃一
 
出演:吉行和子(ばあちゃん)、工藤夕貴(岩永明広の母)、浅田美代子(真佐子)、鈴木祐真(中学生の明広)、池田晃信(小学校高学年の明広)、池田壮磨(小学校低学年の明広)、穂積ぺぺ(小2担任教師)、吉守京太(警官)、石川あずみ(看護婦)、緒形拳(豆腐屋)、三宅裕司(大人の明広)、島田紳助(スポーツ店主)、島田洋八、山本太郎(中野先生)

ユナイテッド93

新宿武蔵野館1 ★★★

■比較できないということにおいて等価なもの

結末を観客全員が知っている映画は他にもあるだろうが、この作品の場合は事件としての結末であり、同時多発テロ時にハイジャックされた4機のうち1機が、目的を果たせずペンシルヴェニア州に墜落したという、およそ劇映画の題材としてはふさわしくないと思われるものだ。確かにその時の乗客の携帯電話などから、英雄的行為があったのではないかということは報道されていたが、だからといってそれが映画になるとは思ってもいなかった。

結末を知っていることが、大きな意味を持つことは、映画がはじまってすぐ感じることだ。緊張を持続させられるのも、逆に、何も知らない乗客としてそこにいたならばという想像を働かせることができるのも、事件を知っていればこそだからで、そして、そういういくつもの視点(乗員、乗客、テロリスト、管制官……)を可能にしたつくりに映画はなっているのだ。

しかし、この映画の飛行機内(+テロリストたちの出発前の光景)の出来事はまったくの想像にすぎない。わかりきったことなのだが、あたかも事実を積み上げてつくったかのような映像が提出されているので、一応ことわりを入れておかねばという意識が働いたまでで、とはいえ、この方法は成功しているといっていいだろう。

乗客の英雄的行為は、製作者の願望でもあるだろう。が、そこで選ばれたのはヒーローではなく、生きたいと願った乗客の等価な気持ちだった。機内で自分たちの運命を知って一旦は茫然とする彼らだが、パイロットの死を知ってからは、まるで了解事項のように役割分担が決まり、操縦桿を奪還するという目的に向かって、生きたいと願う、その部分においては等価な気持ちが発露されることになる。

一方で、映画はテロリストの行動を丁寧に追うことも忘れない。そして何とも虚しくなるのは、テロリストの祈りと乗客の祈りが、それぞれの神に向けられることだ。祈りにどれだけの差があるのだろう。比べることが出来ないということにおいて、これまた等価といってしまっていいのではないか。ここまで言ってしまうと、製作者や被害者の家族などからは反発を食らうかもしれないのだが。

映画は事実を装った想像が重要部分を占めるが、地上部分については可能な限り事実を再現したはずである。93便が飛び立ったニューアーク空港管制塔や連邦航空管制センター、それに軍関係者の混乱ぶりが生々しい。特に目の前で世界貿易センタービルの惨状を見せつけられた空港管制塔の職員たちの驚き。この映像を目にしたのは私自身も久しいが、何度観ても釘付けになる。

空港管制塔の表示板が繰り返し映される場面からも目が離せない。アメリカ上空に4200機もの航空機が飛んでいるという事実にも驚くが、それをどの程度正確に把握して運行しているのだろうか。そのあたりの興味も尽きないが、93便の離陸が30分ほど遅れたことが結果として、乗客に世界貿易センタービルの情報を伝え、そのことが彼らを蜂起させ、ホワイトハウスは災難から免れたようだ。

そういう細部については忘れていたが、そのこととは別に、どうしても問題になるのは国防という部分で、映画もそのことについては手厳しい。

『M:i:III』で、アメリカ国内であれだけ乱暴なことをしでかしたら、アメリカ軍が黙っていないだろうと安直な脚本を批判的に書いてしまったが、ここで再現されたことが事実なら、あの部分を批判したのは間違いだったことになる。それだけ現場と上層部との距離は遠く、また現場と直結していたにしても、指揮官が自らの責任においてどれだけの裁量を揮えるのかという、初歩的で難しい問題がどこまでもついてまわるのだろう。

こういう映画を採点するのは気が引けるが、とりあえずということで。

  

原題:Flight 93

2006年 111分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本: ポール・グリーングラス 撮影: バリー・アクロイド 編集: クレア・ダグラス、リチャード・ピアソン、クリストファー・ラウズ 音楽: ジョン・パウエル

深海 Blue Cha-Cha

新宿武蔵野館2 ★★

■頭の中のスイッチを切れない女の物語

刑期を終え刑務所から出たアユー(ターシー・スー)だが、行くあてもなく、入所時に慕っていたアン姉さん(ルー・イーチン)を訪ねるほかない。アンはアユーを自分の家に住まわせ、自分の経営するクラブで働かせることにする。

「頭の中のスイッチを切れない」という心の病を持つアユーは、アンに「会うのはいいけど、好きになってはいけない」と釘をさされるが、羽振りのいい常連客のチェン(レオン・ダイ)に誘われるとすぐ夢中になり、度を超した愛情で相手を縛ろうとしてトラブルを起こしてしまう。

アンは上客を失うが、アユーには新しい仕事(電子基板の検査)を世話し、就職祝いだといってケータイまでプレゼントする。

次のアユーの恋人は仕事場の上司のシャオハオ(リー・ウェイ)だ。はじめのうちこそアユーは誘われてもシャオハオを無視していたが、彼の積極的な行動と甘いメールで、ひとたび関係を持ち一緒に住んでもいいという言葉を引き出すと、次の日にはアンと喧嘩するように彼のアパートに引っ越してきてしまう。

が、アユーは無意識のうちに相手を過剰な関係に引きずり込み、破局はあっけなく訪れる。シャオハオはチェンのような暴力男でもないし真面目な青年なのだが、世界には2人しかいないと思い込んでしまうようなアユーの気持ちは到底理解できない。アンからアユーの思いもよらぬ過去(夫を殺して服役)を明かされたこともあるが、それ以前にシャオハオにはアンとやっていけないことがわかっていたはずだ。

アユーという女の悲しさが出せればこの映画は成功したはずだ。が、残念なことにいやな女とまでは言わないが、私にはやっぱりうっとおしい女にしか見えない。アユーの心の病は薬が必要なほどだからと説明されても、それは変わらない。

変わらないのはアユーの陰の部分を見てしまっているからで、それを知らなければアユーに惹かれ、彼女を振り向かせようとしてしまうのかもしれない。そして振り向かせてしまったら、興味が半減してしまういやな男になってしまうのだろうか。

といって、映画にどう手を入れればよいのか、それは見当もつかないのだが。愛することで自制心を失い壊れてしいく女を魅力的に描くことは難しいのかもしれない。が、せっかくの題材を生かせなかったことは惜しまれる。

再びアンの元で生活をはじめるアユー。2人はある朝、旅回りの人形劇団の爆竹に起こされる。人形つかいに興味を示すアユー。そばで見守るアンに、弟も病気で自分の殻にこもるのだとそこにいる兄が話しかける。

もっとも、この出会いが再生につながるという安易な終わり方にはさすがにしていない。旅回り故の別れがすぐにやってきて、あとには「海は広大ですべてを癒す」という取って付けたような言葉が残るだけである。

こういう終わり方はとんでもなくずるいのだが、この映画の場合は、海というイメージの先にほのかにアンの存在が見えるので、ただごまかしているというわけでもなさそうだ。自分の美貌は去って久しい中年女で、クラブを経営しているとはいっても景気がよくないのか家賃を心配し、タバコと宝くじを楽しみにしているアン。掃除もしないで遊んでばかりのアユーに文句を言い、家出にも本気で怒ったくせに、でも何事もなかったかのようにまたアユーを受け入れているアン。

アユーとアンが抱き合いながら人形劇団の船を見送るシーンに、だからもっと素直に女性たちの深い愛情を感じればいいのかもしれないのだが、でもやっぱりそういう気分にはなれなかった。

これは些細なことなのだが、エンドロールの前半は、岸壁に残された人形劇の舞台で、でもいくら何でも舞台を忘れて去っていくことはあり得ないだろう。映像としては恰好がついても、これはいただけない。映画に入っていけなかったのは、こういう映像優先の姿勢が全体に見え隠れしていたせいもありそうだ。

 

【メモ】

鼓山フェリー乗り場

「僕を信じてくれ、すべてうまくいくから。シャオハオ」(アユーに送られてきたメール)。

「人生が思い通りに行かない時には、チャチャを踊ろう」(アン)。

英題:Blue Cha Cha

2005年 108分 ヴィスタ(1:1.85) 台湾 日本語字幕:■

監督:チェン・ウェンタン/鄭文堂 脚本:チェン・ウェンタン/鄭文堂、チェン・チンフォン/鄭瀞芬 撮影:リン・チェンイン/林正英 編集:レイ・チェンチン/雷震卿 音楽:シンシン・リー/李欣芸
 
出演:ターシー・スー[蘇慧倫](アユー[阿玉])、ルー・イーチン[陸奕静](アン[安姐])、リー・ウェイ[李威](シャオハオ[小豪])、レオン・ダイ[戴立忍](チェン[陳桑])

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

新宿ミラノ1 ★★☆

■目まぐるしいし、遊びすぎ

情けないが、前作(2003)の記憶はもうすでにほとんどない。海賊+ファンタジー的要素のイメージが残っているだけ。自分の好みとしないところが残っているということは、つまりそんなに評価できなかったのだろう。結論から言ってしまうと、今回も似たようなものかも。が、ファンタジー部分で前回ほどの抵抗は感じなかった。骸骨海賊よりは半魚人の方がいいかなという程度なのだけど。

ウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、結婚式の直前にジャック(ジョニー・デップ)を逃した罪で投獄されてしまう。提督がウィルに示した放免の条件は、ジャックの持つ羅針盤を手に入れることだった。これで3人が出会うお膳立ては完了。だって、ほらね、エリザベスは脱獄してウィルのあとを追ったもの。

そのジャックだが、前作で海賊バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)との死闘のすえブラックパール号には戻れたものの、幽霊船フライング・ダッチマン号の船長デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と契約した13年の支払期限が迫っていた。ジャックはブラックパール号を手に入れるため自分の魂を負債にしていたのだ。

この幽霊デイヴィ・ジョーンズとの約束もだけど、彼の心臓が入った宝箱(デッドマンズ・チェスト)やジャックの不思議な羅針盤、さらにはこれまたジャックとの関係も怪しげな女霊媒師?ティア・ダルマ(ナオミ・ハリス)なども現れて、いくらでも設定自由ときてるから、逆にどうしても本気で観る気になれない。ましてや最後になって、この作品が次回作への橋渡し的位置にあることがわかっては、力が抜けざるを得ないというしかない。

そうはいってもさすがに夏の本命作ということで、見せ場は山とある。前作から3年も経つのに主要配役はすべて確保してだから、力の入れ具合もわかるというものだ。

デイヴィ・ジョーンズの操るクラーケンという大ダコの怪物はド迫力(でかすぎて全体像も見えないのだ)だし、デイヴィ・ジョーンズのタコ足あごひげの動きにもつい見とれてしまう。ただ、人食い人種族から逃げ出すところや、外れてころがる水車の上での3つ巴の剣戟などは、それ自体はよく出来ていても大筋には関係ない余興で、だから観客も例えば宝箱の鍵の争奪戦という目的を忘れかねない話の拡散ぶりなのだ。また笑いの要素もそうで、それがこの映画の持ち味にしても、全体に遊びすぎだろう。

ウィルの父親ビル・ターナーまで登場(バルボッサの怒りを買って靴紐を砲弾に縛られて海中に沈められていた)して、話はますますややこしくなるばかり。ウィルは鍛冶屋見習いだったはずだが、父親は元海賊なんだ(私が忘れているだけなら、ごめん)。詰め込みすぎだから、ジャックの手に表れる黒丸の意味も忘れていて、なんだよせっかくのラブシーンなのに、となってしまう。

それにしてもウィルと式直前までになりながら、ジャックにも惹かれてしまうエリザベスっていうのもねー。ウィルは今回活躍場面も少なかったし、ジャックとエリザベスのキスシーンまで見せられちゃうわで、同情申し上げますです。

あと、デイヴィ・ジョーンズが、海で死んだすべての男の魂を牛耳っている(海で命を落とし適切に埋葬されなかった者が、命は尽きているのに死ぬことは出来ずに彼の船員にされてしまう)のであれば、前作の海賊バルボッサたちとはどういう関係にあるのだろう。

演出で気になったのは、クラーケンの出現にジャックがブラックパール号から早々に逃げ出してしまう部分。こんな簡単に捨ててしまうものを、自分の魂と引き換えにしてたのかよ。まあジャックは、ちゃんと引き返してくるんだけど、でもあの場面では相当ボートを漕いでいたんだけどねー。

帰ってきたジャックはクラーケンとの闘いで姿を消す。で、このあとは3作目を乞うご期待、だって。はぁ、さいですか。

 

【メモ】

自分の魂でなければ、100人分が必要。

ジャックに「いざとなったらあなたは正しいことをする」とエリザベス。

「(デイヴィ・ジョーンズが近づけないように)陸を持ち歩きなさい」とビンに土を入れる。

エンドロールのあとの映像は、犬が酋長の椅子に座っている場面。やっぱり捕まっちゃったんだ。んで、ジャックの代わりに食べられちゃうのだな。

原題:Pirates of the Caribbean: Dead Man’s Chest

2006 151分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ゴア・ヴァービンスキー 制作:ジェリー・ブラッカイマー 脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー 編集:スティーヴン・E・リフキン、クレイグ・ウッド 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、ステラン・スカルスガルド(“ブーツストラップ”・ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ノリントン)、ケヴィン・マクナリー(ギブス)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、マッケンジー・クルック(ラジェッティ)、トム・ホランダー(ベケット卿)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、ジェフリー・ラッシュ(バルボッサ)

時をかける少女

テアトル新宿 ★★★☆

■リセットで大切なものがなくなって

3度目の映画化らしいが、この作品は原作を踏まえたオリジナルストーリーで『時をかける少女2』という位置づけのようだ。というのもそもそものヒロイン芳山和子が、この映画のヒロインである紺野真琴の叔母という設定だからだ。

真琴は東京の下町に住むごくごく普通の高校2年生。クラスメートの間宮千昭と津田功介とめちゃ仲がよくて、3人で野球の真似事をする毎日。って普通じゃないような。男友達が1番の親友なのは真琴のさっぱりした性格と、友達から恋に発展する過程に絶好の設定と思ったのだろうが、今時の高校生という感じが私にはしないんだけど。

ま、それはともかく、真琴は夏休み前の踏切事故で自分にタイムリープの能力があることを知る(能力を手に入れたのは学校の理科室なのだが、まだこの時にはそのことはわかっていない)。そしてその力を真琴はおもちゃで遊ぶように使ってしまう。自分の都合の悪いことが起きると、その少し前に戻ってリセットしてしまうわけだ。

真琴の安易な発想が『サマータイムマシン・ブルース』(05)的なのには笑ってしまうが、この小さなタイムリープの繰り返しは、私たちが何気なく過ごしてしまう日常に、多くの反省点が潜んでいるということを教えてくれる。反省点と言うと大げさだが、見落としていることが多いのは確かで、真面目くさってやり直しを続ける真琴に馬鹿笑いしながらも、そんなことを感じていたのだ。

であるからして、見落としたことが沢山あるにしても、くれぐれもプリンを取り戻すようなことには使わないように。そう、真琴も「いい目をみている自分」がいることで「悪い目をみている人」が出来てしまうことに気が付くのだ。

そんなタイムリープ乱用中の真琴に、千昭から告白されるという思わぬ展開がやってくる。狼狽のあまりタイムリープで告白自体をなかったことにしてしまうのだが、そこ(新たに現れた過去)では今度、千昭に同級生の早川友梨が告白し、千昭もまんざらではない様子なのだ。好きだと言われたばかりの真琴は複雑な気分だ。ボランティア部の下級生藤谷果穂からは功介に対する相談まで受けて……。

リセットで大切なものをなくしてしまったことに思い至る真琴だが、実はタイムリープも限界に近づいていて(体にチャージして使用する)、どうやら腕に出てくるサインが本当なら、あと1度しか使えないらしいのだ。

このあと千昭が未来人で、和子叔母さんが修復している絵を見にここ(現在)にやってきたことなど、いろいろな謎が解き明かされていく。千昭にも残されたタイムリープはあと1度で、でもそれは自分の帰還にではなく、功介と果穂を助けるために使われることになる。そして真琴に残された1度のタイムリープは……。

千昭との別れは必然であるようだが、でも自分勝手な私はそう潔くはなれない。「未来で待ってる」「うん、すぐに行く。走って行く」でいいのかよ、って。いいラストなんだけどね。

で、やっぱり気になってしまうのは、「魔女おばさん」(真琴がそう呼んでいる)の和子だろう。博物館で絵画の修復の仕事をしている30代後半の未婚の女性という設定だと、まだ何かを待っているということになるが(ということは真琴も?)。

それにしては、真琴から相談を受けても落ち着いたものだ。タイムリープを「年頃の女の子にはよくあること」にしてしまうし、「よかった。たいしたことには使っていないみたいだから」と野放しにしていても平然としている。真琴を信頼しているにしても、この達観はどこから来ているのだろう。落ち着いてる場合じゃないよ。だって自分のことにも使えるかもしれないし、とにかくもっといろいろ聞き出したくなるが、ほじくり出してしまっては収拾がつかなくなってしまって、やはりまずいのかも。ここは単なる原作や前作へのリスペクトとわきまえておくべきなのだろう。

タイムマシンものはどうしても謎がつきまとって、これをやりだすとキリがないが、この映画で描かれるタイムリープは、過去に戻っても自分と遭遇することはない。つまりそこにいるのは未来の記憶を持った(その分だけ余計に生きた)自分のようだ。うーむ。これは考え出すと困ったことになるのだが、ということは真琴も千昭も互いにタイムリープしていると、どんどん違う世界を作り出していって、結局は自分の概念の中にしか住めない狭量な世界観の持ち主ってことになってしまうんでは。ま、いっか。

   

【メモ】

学校の黒板にあった文字。Time waits from no one.

津田功介は幼なじみで、医学部志望の秀才。千昭は春からの転校生。

「真琴、俺と付き合えば。俺、そんなに顔も悪くないだろ」(千昭)。

「世界が終わろうとした時に、どうしてこんな絵が描けたのかしらね」(修復した絵を前にして和子が言う)。

絵は千昭によると、この時代だけにあるという。絵が失われてしまうような希望のない未来。

「お前、タイムリープしていない?」千昭は、真琴のタイムリープに気付く。何故? これは不可能なのでは。千昭の説明だとタイムリープの存在を明かしてはいけないことになっているが?

腕に表れるサイン。90。50。01。

「人が大事なことをはなしているのに、なかったことにしちゃったの」と千昭の告白をリセットしてしまったことを後悔する真琴。

「(絵が)千昭の時代に残っているように、なんとかしてみる」(真琴)。

2006年 100分 配給:角川ヘラルド映画 製作会社:角川書店、マッドハウス

監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子 原作:筒井康隆『時をかける少女』 美術監督:山本二三 音楽:吉田潔 キャラクターデザイン:貞本義行 制作:マッドハウス

声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、 石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、 原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、 垣内彩未(早川友梨)、 関戸優希(紺野美雪)

ディセント

シネセゾン渋谷 ★★★

■出てこなくても怖かったのに

渓流下りを仲間の女性たちと楽しんだサラ(シャウナ・マクドナルド)だが、帰路の交通事故で、夫と娘を1度になくしてしまう(これがかなりショッキングな映像なのだ)。

1年後、立ち直ったことを証明する意味も込めて(仲間からは励ましの気持ちで)、サラはジュノ(ナタリー・メンドーサ)が計画した洞窟探検に参加する。メンバーは、冒険仲間のレベッカ(サスキア・マルダー)とサム(マイアンナ・バリング)の姉妹にベス(アレックス・リード)、そしてジュノが連れてきたホリー(ノラ=ジェーン・ヌーン)。アパラチア山脈の奥深くに大きく口を開けて、その洞窟は6人の女たちを待っていた。

まず、素人には単純にケイビング映画として楽しめる。彼女たちの手慣れた動作が安心感を与えてくれるのだろう、いっときホラー映画であることを忘れ、洞窟の持つ神秘的な美しさに感嘆の声を上げていた。広告のコピーのようにとても地下3000メートルまでもぐったとは思えないのだが、それでも洞窟場面はどれもが、恐怖仕立てになってからも、臨場感のある素晴らしいものだ。

人ひとりがやっとくぐり抜けられる場所が長く続き、精神状態の安定していないサラが身動きできなくなり錯乱状態に。ベスの助けで窮地を脱するが、その時落盤が起き、帰り道を完全にふさがれてしまう。このことで、ここは未踏の洞窟であり、このケイビングが功名心と冒険心の固まりのジュノによって仕組まれたものだったことが判明する。役所への申請もしていないから、救助隊も望めないというわけだ。

奈落の底を真下に、装備が不十分(崩落で一部を失ってしまう)なままで天井を伝わって向こう側へ渡ったり、1番元気なホリーの骨折など、ますます出口からは遠ざかるような状況の中、映画はとんでもない展開をみせる。

本当に息が詰まりそうな閉塞感の中で女同士の確執が爆発、とはせず(むろんそういう要素もふんだんにある)、凶暴な肉食地底人を登場させたのことには文句は言うまい。いや、私的にはそういうのが好きだから、結構歓迎なのだ。が、地底人が出てこなくても今まで十分恐ろしかったことが、よけい不満をそれに持っていきたくなってしまうのだ。

地底人は人間が退化して目が見えなくなっているという設定のようだから、おのずと造型も決まってこよう。で、それはまあまあだ。が、その分嗅覚や聴覚が発達していなければ地底の中で素早く動き回ることもできないし、地上から獲物を捕ってくることもできないわけで(生息数からいって相当量の食物が必要になる)、となると息をひそめて横たわっている上を地底人が気付かずに通って行く場面などでは、怖さの演出が裏目になってしまっている。ここは確信的に獲物に気付き、確実に仕留める場面を用意してほしかった。その方が恐怖感は倍増したはずである。

そして、彼らは意外にも弱かった! 女性たちが冒険マニアで少しは鍛えているにしても、地の利もある地底人と互角以上に戦えてしまっては興醒めだ。ジュノが誤って仲間に重症を負わせてしまい、見捨ててしまうという場面も入れなくてはならないから、そう簡単に殺されてしまっては人数が足らなくなってしまうのかもしれないが、もう少し地底人についての考察を製作者は深めるべきではなかったか。

そうすることで、伏線として置いた壁画(これは地底人の目が退化する前に描いたものなのだろうか)や人間の残した矢印(残っていたハーケンは100年前のものという説明もあった)をもっと活かすことができたはずなのだ。

ともあれサラは、地底人だけでなくジュノとの確執にもケリを付け、ひとりだけになりながらも何とか地上にたどり着く。彼女のその凄惨な形相。無我夢中で車に乗り、がむしゃらに飛ばし、舗装道路に出る。木を積んだトラックが横切っていったあと、サラは嘔吐し、このあと何故か娘の5歳の誕生日の光景を見る。そして……。

絶望感だけが残るラストシーンだが、しかしここは、結局はジュノとふたりで出てくることになったという話にした方が、凄味があったのではないか。

【メモ】

行くはずだったのはボアム洞窟。前日には「手すりが付いているかもしれない」と笑って話していた。しかし計画はジュノに任せっきりだとしても、好きでこういうことをしているのだから他にひとりくらいは場所の確認や地図にあたっている人間がいそうなものなのだが。

洞窟は未踏にしては、入口がかなり大きなもので、現代のアメリカでは無理な設定なのでは。

ジュノに功名心があったにせよ、そして仲間は騙したにしても役所への申請はしておいてもおかしくないだろうし、未踏であるなら最初のあの狭い通路を行く決断をしたのは、リーダーとしてはやはり疑問。

医学生のサムは、ホリーの飛び出した骨を戻して治療。

ジュノはサラに「昔の友情を取り戻したくて……この洞窟にはあなたの名前を付けようと思って……」と言い訳をする。

原題:The Descent

2005年 99分 イギリス シネマスコープ R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 編集:ジョン・ハリス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:シャウナ・マクドナルド(サラ)、ナタリー・メンドーサ(ジュノ)、アレックス・リード(ベス)、サスキア・マルダー(レベッカ)、マイアンナ・バリング(サム)、ノラ=ジェーン・ヌーン(ホリー)、オリヴァー・ミルバーン(サラの夫ポール)、モリー・カイル(サラの娘ジェシー)、レスリー・シンプソン、クレイグ・コンウェイ

愛と死の間(はざま)で

シャンテシネ1 ★

■ファン御用達映画なので、あら探しはほどほどに

交通事故現場でユンサム(チャーリー・ヤン)という女性の救急活動にあたった救急隊員のコウ(アンディ・ラウ)は、彼女に何か特別なものを感じる。彼女が心臓移植を受けていることを聞いた彼は、彼女の主治医であるホー医師(アンソニー・ウォン)を問いつめ、彼女の心臓が彼の妻チーチン(シャーリーン・チョイ)のものだったことを知る。

コウには、最愛の妻チーチンを交通事故でなくすという過去があった。映画は普通に順序立てた流れだから、優秀な外科医だったはずの彼が救急隊として現れて面くらうことになるのだが、ここはちゃんとした説明がほしいところだ。チーチンのイメージショットの過剰さに比べると、あまりに手抜きではないか。もちろんその映像の中には彼の妻への想いという部分もあるし、医師を辞めたのも、失意と妻が望むような時間を共有出来なかったことへの後悔、いや罪の意識すらあったことは想像に難くない。

妻の心がユンサムの中で生きていることを感じたコウは、彼女を追い求めずにはいられない。が、夫とは別居中(ユンサムの夫に対する思いやりの別居)のユンサムは、重い病をかかえていた。

ここまでの展開は許せる。偶然は多いにしても、まあ普通だろう。だが、ユンサムの夫のデレクがコウと瓜二つ(アンディ・ラウの二役)という設定は、あまりに受け入れがたい。コウがユンサムの夫になりすまし、ユンサムも自分の元から去った夫が戻ってきたと思い込む。って、いくら瓜二つでも夫婦なんだからすぐばれるでしょうに。

映画の後半で、映写ミスでピントが合わない状態(字幕は読める)になったこともあって、この先は上の空状態。ちゅーか、こんな映画の内容に、集中しろっていう方が無理だよね。

話の作り方はとにかくくだらなすぎで、例えば妻の死後、コウが時間と規則に忠実になったことを表現するのに、目の前の交通事故を、指示された仕事ではないからと無視して帰還しようとする場面まであるのだ。さすがに思い直して引っ返し、これがユンサムとの出会いになるのだが、いくらなんでもこんな発想はないだろう。

臓器移植についてはなかなか興味深い報告があって、ユンサムのなかにチーチンの心が生きているというのは、似た事例もいくつか報告されているようだし、それを支持している学者もいるが、話が杜撰だからそこまで踏み込むまでには至っていない。

きっと、アンディの(制作者でもある)アンディによる(主演)アンディのための(自己満足かや)の映画なんでしょう。

【メモ】

コウは自身が元医師で、妻の心臓移植にも同意したはずなのに、移植相手の身元を明かさないというルールを破る。

妻が死んだあともコウは妻の両親と同居している。

宣伝コピー「妻は生きている彼女の中で。一人で逝かせてしまったから、せめて残された時間は彼女の“心”のそばにいてあげたい」

原題:再説一次我愛●(●は人偏+尓) 英題:All About Love

2005年 102分 香港 ビスタサイズ 日本語字幕:■

監督・脚本:ダニエル・ユー[余國偉]、リー・コンロッ[李公樂] 撮影:ジェイソン・クワン 音楽:ジャッキー・チャン、マルコ・ワン

出演:アンディ・ラウ[劉徳華](コウ、デレク)、チャーリー・ヤン[楊采](ユンサム)、シャーリーン・チョイ[蔡卓妍](チーチン)、アンソニー・ウォン[黄秋生](ホー医師)、ラム・シュー[林雪](救急隊の同僚)、ホイ・シウホン[許紹雄](救急隊上司/チーチンの父)、ジジ・ウォン[黄淑儀](チーチンの母)

森のリトル・ギャング

新宿ミラノ3 ★★

■人間って可愛くない

動物たちが冬眠から目覚めると、森の大部分は人間によってニュータウンになっていた。食料が少なくなって困っている動物たちの前に、流れ者のアライグマRJが現れ、人間の町にはおいしいものが沢山あると誘惑する。彼らのリーダーである亀のヴァーンは、慎重な性格もあって、なかなか乗り気になれない。が、世間知らずでお人好しな仲間たちは、RJに教えられたスナック菓子の味覚が忘れられず、ヴァーンよりRJの甘言に夢中になってしまう。

こうしてRJの指揮のもと、人間からの食料横取り作戦が開始されることになるのだが、実はRJは、横暴な熊のヴィンセントが貯め込んでいたスナック菓子に手をつけたことでそのすべてを台無しにしてしまい、ヴィンセントに1週間で食料を取り戻すという無茶な約束をさせられていたのだ。つまり、横取り作戦成功のあかつきには、それをRJが横取りしてヴィンセントに献上するという筋書きが隠されていたのだった。

このあとは、あの手この手を使った動物対人間の攻防がテンポよく展開されるので、あれよあれよという間に幕となるのだが、話の大筋に意外性がない。子供向けのアニメだし、「家族(この場合は仲間という意味だが)こそがグッドライフの1歩」というわかりやすいテーマでまとめるほかないのだろうが、攻防戦と動物のキャラクターが見所というのではつまらない。

唯一面白かったのは、人間をあくまで醜悪に描いていたことだ。害獣駆除会社の男や町の役員のヒステリックな女グラディスは最初から悪役扱いと決めていたのだろうが、子供やクッキー販売員の女の子までが可愛くないのは、あくまで動物目線の故か。そして、RJによる人間寸評が鋭い。曰く「人間は足が弱っている」「もっと食うために運動している」。が、これもそこまでだ。

ただ、動物たちのやっていることも、人間たちに生活圏を奪われたという大義名分はあるにしても、ようするに盗みでしかないわけで、子供向けアニメとしてはこのままでは手落ちではないか。

柵に囲まれて生活圏を大幅に制限させられている様は、意図したことではないにしても、イスラエルが築いたパレスチナ人居住区との分離壁を連想させる。が、とてもそんな大それた問題には踏み込むつもりはないのだろう。なにしろ、恰好のテーマとなるはずの環境破壊にさえ、ほとんど触れようとさえしないのだから。

 

【メモ】

炭酸飲料でメチャ元気になるリスのハミー。死んだふりが得意なオポッサムのオジーに娘のヘザー。強力な武器を持ち、人間の飼い猫に、猫になりすまして色仕掛けにでるスカンクのステラ。3つ子がやんちゃなベニーとルーのハリネズミ夫婦。

原題:Over the Hedge

2006年 84分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■

監督:ティム・ジョンソン、キャリー・カークパトリック 脚本:レン・ブラム、ローン・キャメロン、デヴィッド・ホセルトン、キャリー・カークパトリック 原作:マイケル・フライ、T・ルイス 音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ

声の出演:ブルース・ウィリス(RJ)、ギャリー・シャンドリング(ヴァーン)、スティーヴ・カレル(ハミー)、ワンダ・サイクス(ステラ)、アヴリル・ラヴィーン(ヘザー)、ウィリアム・シャトナー(オジー)、ユージン・レヴィ(ルー)、キャサリン・オハラ(ペニー)、ニック・ノルティ(ヴィンセント)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(ドウェイン)、アリソン・ジャネイ(グラディス)

ハチミツとクローバー

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■あきらめなければいい

浜美大に通う竹本祐太(櫻井翔)は、教師である花本修司(堺雅人)の研究室で花本の従兄弟の娘という花本はぐみ(蒼井優)に出会い、一目惚れ状態となる。そこにちょうど寮では隣部屋で8年生の森田忍(伊勢谷友介)が帰国してくる。はぐみの才能を、「俺以外に、久々いい」と絶賛する森田。ふたりはすぐに特別な世界を共有してしまうのだった。

一方、山田あゆみ(関めぐみ)が想いを募らせる真山巧(加瀬亮)は、バイト先の年上の女性原田理花(西田尚美)にこれまた片想い。山田も真山も、相手の気持ちを知ることになるが、でも自分の想いをかえることはできない。

要するに、美大生のそれぞれの恋模様が綴られていくわけだが、どれもがほぼ片想いで、さらにその段階で止まっていることが、ありえない健全さのままで映画を進行させていくことになる。真山の行動がストーカーまがいで、自分でも警察に捕まって取り調べを受けるという妄想から逃れられないでいるという、お遊び的な映像も入るが、実際キスシーンですら、森田がはぐに一方的にする場面があるだけで、しかもそれも遠景にとどめているという控えめさなのだ。

原作が少女コミックということもあるのだろうが、でもこの健全さは微笑ましいし、清涼感すらある。山田が真山におぶってもらいながら、好き、大好きという場面の切なさは痛いくらいだ。関めぐみは『8月のクリスマス』でも不思議な魅力を見せてくれたが、ここでの彼女は本当に可愛らしい。

その清涼感も、竹本のように海に向かって「青春サイコー」とやられては、恥ずかしくなるばかりだが、これは森田の「俺サイコー」と対比させている部分なので目をつぶるほかなさそうだ。竹本は雰囲気からしても美大生には見えないし、ここまでくると普通の大学であってもつまらないヤツになってしまいそうなのだ。それに比べると森田に与えられた天賦の才能は、彼の奔放さや傲慢さまでも身方にしてしまうのだから、竹本の挫折感は想像するにあまりある。

もっともこの芸術家としての天才部分は、映画で描くとなると、やはりやっかいなのだろう。森田のスケッチブックはそれなりの迫力があるが、はぐの絵はキャンパスの大きさに完全に負けてしまっている。森田とはぐの合作場面の絵も子供の遊びでしかない。才能を掛け合わせたからといって傑作が誕生するわけではないのだから、これは当然なような気もするし、そしてつまりふたりには恋が成立しないという暗示のようでもある。そう思うと、森田のキスにはぐが逃げたのもうなずける。

竹本のような普通の人間を主人公にするのは大変で、それが途中までこの映画の弱さになっている。が、はぐのスランプに、彼は自分が彼女にできることは何かを真剣に考え、彼女を支えられるのは森田さんだけと、彼に詰め寄るのだ。「その時僕が彼女にできるのはそれだけだった」というモノローグには、片想いとは別の深い悲しみが満ちている。

そこから逃げ出す竹本だが、しかし旅先(説明不足)のお寺で修復作業をしている男(中村獅童)から、これからの生きていく指標を見いだすのだ。竹本らしさが生かせる道を。真山もクビになったバイト先に再挑戦するし、この映画の主題はどうやらあきらめないことらしい。そういえば、映画の途中にも「あきらめるにはどうしたらいい」という問いに「あきらめなければいいじゃない」というセリフが用意されていた。

【メモ】

エミリー・ディッキンソン「草原をつくるにはハチミツとクローバーが必要だ」。

竹本(浜美大建築科3年生)、はぐみ(油絵科1年生)、森田(彫刻科8年生)、真山(建築科4年生)、山田(陶芸科3年生)。

竹本の趣味は、お城のプラモデル造り。

森田の彫刻(制作過程で)に、1週間前の方がよかったというはぐ。森田も悪びれずにばれたか、と答える。

真山は原田デザイン事務所をクビになる。理由は「僕があなたを好きだから」。

「いいかげんに負けることを覚えないと、これからの人生苦労しますよ」。竹本も森田にこんなことが言えるのだ。

森田の彫刻には500万円の値が付く。「ギャラリーが値段を付ける。だから俺は全然悪くねぇ」。それを燃やす森田のセリフ「今燃えているのは作品じゃない、札束だ」。

最後、森田「俺は国を出る」。

2006年 116分 

監督:高田雅博 脚本:河原雅彦、高田雅博 原作:羽海野チカ 撮影:長谷川圭二  音楽:菅野よう子 美術:中村桃子

出演:櫻井翔(竹本祐太)、伊勢谷友介(森田忍)、蒼井優(花本はぐみ)、加瀬亮(真山巧)、関めぐみ(山田あゆみ)、堺雅人(花本修司)、西田尚美(原田理花)、銀粉蝶(幸田先生)、中村獅童(修復士)、利重剛(喫茶店マスター)、田辺誠一(原田)

トリック 劇場版2

2006/8/6 銀座テアトルシネマ ★★★

■自虐陶酔片平なぎさショー

仲間由紀恵と阿部寛主演の人気テレビドラマを映画化(しかも2作目)したものなので、テレビも観なければ1作目の映画も知らない私には取っ付きにくいかと心配したが、そこらへんのサービスは心得ていて、まったく問題なく観ることができた(見落としもあるだろうし、劇中に散りばめられた山ほどの小ネタも相当見逃していると思われるが)。

というか、その程度の作品。いかにもテレビ的というか、どこから参加しても一応は楽しめてしまうという造りになっている。そして、くだらない話になるが、タダのテレビだったらともかく、1800円の正規料金で観たら腹が立ってしまうということも。

いや、しかし私はこういうハチャメチャな作品は好きだなー、ふざけすぎと思う人も多いだろうけどね、って、え、はい、私? うん、タダ観。はは。

自称「売れっ子」奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)だが、花やしきでの興行もクビになって家賃滞納をどうするかが目下の悩み。そこに物理学者の上田次郎(阿部寛)が、おいしい話(とも思えないのだが)を持ってくる。肩書きこそすごいが、上田が山田に頼り切りなのは、どうやらお約束のようだ。

勘違いで、上田に事件解決を依頼してきたのは富毛村の青沼(平岡祐太)という青年で、10年前に神隠しにあった幼なじみの美沙子(堀北真希)を筐神佐和子(片平なぎさ)から取り戻してほしいというもの。で、「よろしくね」教団じゃなかった「ゆーとぴあ」教団のある筺神島に乗り込んで行く。

筋はあってなきがごとし、というかどうでもいい感じ。連れ去られたというが、美佐子は筐神佐和子の実子だし(それより何故捨てたんだ?)、確かに筺神島の島民を騙す形でそこに居座ってしまったのだが、特別この教団が悪いことをしている様子もない。

奥行きのない部屋に閉じ込めて生活させていたというよくわからない話も出てくるが、佐和子は美佐子に自分の跡を継がせたくて、霊能力の素質がないものかと悩んでいたわけだし(ということは全部がインチキというのでもないのかや)、美佐子の方も昔のことを思い出し母親を受け入れる気になったというのに、佐和子は「私は汚れた人間です」と、最後は自虐陶酔路線を突っ走る。片平なぎさショーだな、こりゃ。

一応トリックとその種明かしも見せ場になっているようだが、すべて予想の範囲内のもの(それにこれは明かされた時点で陳腐化してしまうしね)。だから苦しいのはわかるのだけどね。山田の立場もなくなるわけで。それに、別のシリーズになってしまうか。

でも私としては、そんなことより、自著がブックオフに出回っていることを喜ぶ上田や、北平山市を北ヒマラヤ市と思い込んでいた山田里見(野際陽子)というお馬鹿映画であってくれることの方が喜ばしい。ただし、貧乳と巨根(両方とも変換しない。ATOKは品性があるのね)はやめた方がいいような(『トリック』は下ネタもウリらしいが)。

最後は河川敷で、ふたりの不器用なロマンス(以前?)が繰り広げられるが、あれ、山田と上田の乗っていない車が動いている!? と思ったらその横に大きく「完」の字が……。

  

【メモ】

巻頭ではヒトラーを悩ましたというイギリスの手品師ジャスパー・マスケリンを簡潔に紹介。でもそれだけ、なんだが。

筐神島は九十九里浜のかなり沖合にある(ってここは何もないところだが)。「リゾート開発に失敗し捨てられたホテルを我々(教団)が接収」したという。

山の頂上にある巨大な岩(張りぼてっぽく見える)は佐和子ひとりが1晩で海岸から持ち上げたもの。これで島民の支持を得る。トリックはこんなものにしても、その時使った袋はすぐ回収するでしょ、普通。

美佐子の「素敵な殿方」は上田なの。このシーンの他、頭が大きくなったり、腕が伸びたりするCGも。

美佐子が捨てられてから長野の富毛村(不毛村)で起きるようになった災いというは?

長野県での平成の大合併による選挙。これに山田里見が出馬。落選。対抗馬は島田洋七や志茂田景樹らだったが、誰が当選したのだったか?

2006年 111分

監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治 撮影:斑目重友 美術:稲垣尚夫 編集:伊藤伸行 音楽:辻陽

出演:仲間由紀恵 (山田奈緒子)、阿部寛 (上田次郎)、片平なぎさ (筐神佐和子)、堀北真希 (西田美沙子)、野際陽子 (山田里見)、平岡祐太 (青沼和彦)、綿引勝彦 (赤松丑寅)、上田耕一 (佐伯周平)、生瀬勝久 (矢部謙三)

ジョルジュ・バタイユ ママン

銀座テアトルシネマ ☆

■私のふしだらなさまでを愛しなさい

理解できないだけでなく、気分の悪くなった映画。なのであまり書く気がしない。

背景からしてよく飲み込めなかったのだが、適当に判断すると、次のようなことだろうか。母親を独り占めにしたいと思っていたピエール(17歳?)は、その母のいるカナリア諸島へ。そこは彼には退屈な島で、母親にもかまってもらえない(世話をしてくれる住み込み夫婦がいる)。

が、フランスに戻った父親が事故死したことが契機になったのか、母親は自分についてピエールに語り出す。「私はふしだらな女」で「雌犬」。そして「本当に私を愛しているのなら、私のふしだらなさまでを愛しなさい」と。

このあと彼女は、父親の書斎の鍵をピエールに渡したり(父親の性のコレクションを見せることが狙い? 事実ピエールはここで自慰をする)、自分の愛人でもある女性をピエールの性の相手として斡旋したりする。

というようなことが、エスカレートしながら(SMやら倒錯やらも)繰り返されるのだが、彼女が一体何をしたいのかが皆目わからないのだ。欲望の怖さを知れば、パパや私を許せるというようなセリフもあったが、それだと、ただ自分を許して欲しいだけということになってしまう。

性の形は多種多様で、自分の趣味ではないからといって切って捨てる気はないが、私にはすべてが、金持ちの時間を持て余したたわごとでしにしかみえなかった。それに息子だからといって自分の趣味(それも性愛の)を押しつけることはないだろう。

父親にしてもはじめの方で自分の「流されてしまった」生き方を後悔しながら、ピエールには「お前が生まれて私の若さは消えた、ママも同じだ」と言う。親にこんなことを言われてもねー。

最悪なのは、最後に母親の死体の横でするピエールの自慰だ。ここで、タートルズの「ハッピー・トゥギャザー」をバックに流す感覚もよくわからない。

この映画は「死」と「エロス」を根源的なテーマとするバタイユの思想を知らなければ何も理解できないのかも知れない。が、そもそも映画という素材を選んだのだから、きどった言葉をあちこちに散りばめるような、つまり言葉によりかかることは最小限にすべきだったのだ。

そして、愛と性を赤裸々に描きだすことが、その意味を問い直すことになるかといえば、それもそんな単純なものでもないだろう。扇情的なだけのアダルトビデオの方がよっぽど好ましく思えてきた。

【メモ】

巻頭は、母親の浮気からの帰りを父親が待っている場面。

アンシーは母に頼まれて自分に近づいたのではないかと、ピエールは彼女を問いつめる。

息子の前から姿を消す母。欲望が枯れると息子に会いたいと言う。

原題:Ma mere

2004年 110分 フランス ヨーロピアンビスタサイズ R18 日本語字幕:■

監督・脚本:クリストフ・オノレ 原作:ジョルジュ・バタイユ(『わが母』) 撮影:エレーヌ・ルバール

出演:イザベル・ユペール(母ヘレン)、 ルイ・ガレル(息子ピエール)、フィリップ・デュクロ(父)、エマ・ドゥ・コーヌ(恋人)、ジョアンナ・プレイス(母の愛人?)、ジャン=バティスト・モンタギュ、ドミニク・レイモン、オリヴィエ・ラブルダン