100,000年後の安全

ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 ★★★

■10万年という単位

今回の原発事故で、秋の公開予定が繰り上げられたとあるが、NHKのBSではすでに放映されたもののようだ(テレビはほとんど見ないし、そもそもというか、だから、BSも契約していないので何も知らないのだが)。

原発が安心かどうかという議論は、議論にならないと思っている(注1)ので、食指は動かなかったが(なら観るな、ってね。はは)、映画はそこのところは、安全など論外と素通りしていて(なんと正しいことか!)、危険極まりない放射性廃棄物が安全になるまでの10万年間、人類はそれを管理できるのかということを、フィンランドの地下最終処分場に関わった人たちにあれこれ語らせている。

興味深いのは、10万年の保存が可能かどうかではなく(固い岩盤がそれを可能にしていると、建設を始めたのだから信じているわけだが、ここは疑わなくてもいいのだろうか)、その間に未来の人類がそれを掘り起こしはしないか、あるいはそれが危険なものだということが伝わるだろうかという問い掛けだ。

とにかく10万年である。何も考えず未来の人類と書いてしまうのであるが、果たして10万年後に人類は存在しているのか。いたとしても言語や思考回路、そして外見だって違っていると考えるべきなのだろうが、10万年という単位に思いをめぐらしたことなどないから、皆目検討がつかない。

SFの世界では何世代もかけて星間移動するという話がよくでてきて、当初の目的が忘れ去られていたり、自分たちが巨大宇宙船にいるということすら分からなくなっていたりするが、10万年というのはそれどころではない単位、らしい。もちろんそういったSFも沢山あって、私も少しは読んでいるはずだが、自分たちが出した廃棄物をどう保管するかと考え出すと妙に現実を引きずってしまって、お気楽に(大好きなSFを卑下してるようで心が痛むが)SFを読んでいるようなわけにはいかなくなる(だからって、100年後なら責任を感じるかといわれると、それでも答えに窮してしまうのだが)。

原子力の厄介さは、今回の事故で嫌というほど思い知らされたが、この映画を観ると、厄介とかいうレベルの話ではなく、10万年という物差しを持っていない今の人類が扱ってはいけないものだということがよーくわかるのである。

映画の評価からは離れてしまったが、まあドキュメンタリーなんで、いいとしよう。問い掛けの部分では目を開かれたし、無機質で洗練された映像も楽しめた。もっともこの映像美は、地下施設のデザインに負うところが大きいだろうか。

http://www.uplink.co.jp/100000/
↑オフィシャルサイトだが、ここにある予告篇だと10万年後にあまり触れていないのだが。


Into Eternity – Trailer 予告篇も作り方でいろいろになる。

http://www.youtube.com/watch?v=BN25RTYjjIg&feature=related
ONKALO
施設のことだけならこの映像でもかなりのことがわかる。

http://www.jsce.or.jp/committee/rm/News/news8/Onkalo.pdf
映画とは別に、こんな文書もネットにあった。関係者にはフィンランドの処分場ことはよく知られているのだろう。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=jXNyEiw28D0#at=18
The €/Helsinki underground Master plan [Watch it to Believe it]
上の映像は、ヘルシンキの地下都市の様子。

放射性廃棄物には近寄ってはいけない=掘り起こしてはいけない、と映画の中でも言っていたが、フィンランドの地下利用は半端じゃないので(映画でこのことに触れてないのは、フィンランドの人たちには自明のことだからだろう)、10万年もの間にはニアミス?だって起きるのではないかと心配になる(処分場は、ヘルシンキからだと240kmも離れた島らしいが……)。

注1:作ったもので壊れないものはないのだから、安全などということを言うこと自体がおかしいのだ。何であれリスクはあるのだからこれはむろん極論ではあるが。とはいえ「安全」とか「事故はおきない」という姿勢や説明がまかり通ってきたのは驚きといほかない(それを見過ごしてきた我々の責任も大きい)。で、事故はおきるものという前提に立ったとしても、原子力発電の場合、他の事故と違って簡単に修復作業に入れないという問題がある(アシモ君が人間と同程度の働きができるようになれば、少しは違ってくるだろうが、それにしても放射能の拡散という問題はなくならない)。

5/27追記:今日、知人に見せてもらった資源エネルギー庁のパンフレットにも地下貯蔵所の記述があった。が、その場所は「公募中」になっている。要するに、決まらないし、どころか決められないということなんだろう。固い岩盤があるにもかかわらず10万年後の心配をしているフィンランドに比べ、地震国日本の原子力政策には、根本的な視点がまったくないようである。

原題:Into Eternity

2009年 79分 デンマーク/フィンランド/スウェーデン/イタリア ビスタサイズ 配給:アップリンク

監督・脚本:マイケル・マドセン 脚本:イェスパー・バーグマン 撮影:ヘイキ・ファーム 編集:ダニエル・デンシック

出演:T・アイカス、C・R・ブロケンハイム、M・イェンセン、B・ルンドクヴィスト、W・パイレ、E・ロウコラ、S・サヴォリンネ、T・セッパラ、P・ヴィキベリ

2010年パリ国際環境映画祭グランプリ
2010年アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭 最優秀グリーン・ドキュメンタリー賞受賞
2010年コペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭 有望監督賞受賞

マン・オン・ワイヤー

テアトルタイムズスクエア ★★★

テアトルタイムズスクエア通路での作品に関する展示。写真1の中央下は、日本にやってきたフィリップ・プティが、5/19に渋谷区の桜丘公園で大道芸を披露したときのもの。

■人生を変えた伝説の綱渡り

昔のマンガ故(四十年以上前か)うろ覚えなので申し訳ないのだが、一峰大二の忍者マンガに次のような場面があった。殿様が忍者に術を見せてくれとせがむと、その忍者は襖の敷居の上をスタスタと歩いてみせるのだ。殿様が、そんなことなら儂にもできると言うと、忍者は敷居の左右が断崖絶壁でも同じように出来るでしょうか、と平然と答えるのである。

綱渡りは、敷居歩きとは違ってさらなる技もいりそうだが、でもたとえそれが五メートルや十メートルの高さで出来たからといって、地上四百十一メートルで同じことが可能かというと、やはり別問題のような気がしてしまう。で、マンガを思い出してしまったのだが、しかし達人にとってはやはり同じことのようなのだ。これは、私にそのことを証明してくれた映画なのでもあった。

やってしまったことがいくら大それたことであっても、そしてその行為が「四十五分間とどまり八回渡った」という予想外に長い時間におよんだにしても、でも、それだけでは映画にはなるはずがないと思っていたが(実際その場面は、四十五分よりずっとずっと短いものであった)、そんな心配は杞憂にすぎず、すこぶる面白いドキュメンタリーに仕上がっていた。

今となってはワールド・トレード・センターのツインタワーが9.11(二千一年)で姿を消してしまったことも、直接関係はなくてもこの綱渡り伝説の一部を彩っていそうである。が、むろんそれはたまたま付加された一挿話にすぎない。そのことより、フィリップ・プティがこの計画を閃いたのが、ツインタワーの完成予想図を見てのことだったのには、なるほどと思ってしまう。なにしろツインタワーという形状が、綱渡りを可能にしているのだから。ツインタワーの頂上を目指したのはキングコングだけじゃなかったのだ。

当時の関係者(恋人や友達など)がいまだに興奮状態で語っている様子をみても、その行為のとんでもなさがわかるのだが、偽の身分証を作ったり、まだ建築中(完成間近)の建物に忍び込んでも二つのタワーの間にワイヤーをかけなくてはならないなど、意外と綱渡りの前までにクリヤーしなければならない関門が多いのだった。

そしてこれがさながらサスペンス映画ばりの侵入映像(犯罪だからね)で語られていく。チームには雇われ要員?までいて何やら不穏な雰囲気にもなって、って、まるで銀行強盗映画ではないか。この再現が巧みで、一瞬とはいえ当時のフィルムかと思ってしまったくらいなのだが(でもまあ芸術的すぎたかしらね)、綱渡りの瞬間でさえ、至近からのものは写真しか残っていないのだから、そんなわけはないのだった。

今のようにムービーが身近なものではなく(その他の映像はいくつも残っていて、この映画でも使われているから、珍しいというのではないのだが)、そして千九百七十四年当時、世界はまだまだ遠くにあったのだ。日本にもこのニュースは流れたというが、私がぼんやり人生を送っていたからにしても、こんな快挙が伝わってなかったなんて今では考えられないことだからだ。

映画としてはこのハイライト部分で終わりのはずだが、この行為によって人気者(実体は犯罪者なのだが)になったプティの、犯罪としてではない過ち場面を、映画は再現フィルムにしてまで、あえて付け加えている。それは昂揚したプティが、彼の前に現れた女性ファンとどこかのベッドへ行った、というものだ。この場面を入れたということは、プティは今では過ちとは思っていないのだろうか。「アニー(恋人の名)への裏切り」と、はっきり言っていたが。そしてそのアニーも「二人の愛はそこが終点」と。

伝説になるようなことをしてしまったら、やはり何かが変わってしまうのだろう。そうに違いない。

が、またそれとは別に、あれから何年も経ってしまったという、ただ単に時間が経ってしまったということもあるだろう。プティはあのあとツインタワーの永久入場証をもらったらしいが、ツインタワーが丸ごと無くなってしまっては永久も何もないではないか。時の前では、不変であることの方が難しいようだから。

ところで、綱渡り場面のプティはパンタロン姿だった。そういや、あの頃、流行ってたよなぁパンタロン。パンタロンって風の影響を受けやすそうなんだけど(考えすぎ?)、若いプティは、それよりスタイルを気にしたんだろうね。

 

原題:Man on Wire

95分 イギリス ビスタサイズ 配給:エスパース・サロウ 日本語字幕:?

監督:ジェームズ・マーシュ 製作:サイモン・チン 製作総指揮:ジョナサン・ヒューズ 原作:フィリップ・プティ 撮影:イゴール・マルティノヴィッチ 編集:ジンクス・ゴッドフリー 音楽:マイケル・ナイマン

出演:フィリップ・プティ

ターミネーター4

新宿ミラノ2 ★★★

写真:六月七日に先行上映された時のミラノ座の入口のタイムテーブル。六時十五分の回に来た強者は何人いたのかしら。

■未来の話なのに新鮮味に乏しい

シリーズものの映画感想文を書く度、記憶力のなさという弁解から始めなくてはならないのは気が引けるが、事実なのでどうしようもない。真面目な映画ファンならDVDで過去の作品をおさらいしておくのだろうが、そういうマメさを持ち合わせていないので、かなりアバウトな鑑賞になっていることをまず断っておく。

しかしながらこの作品、過去のしがらみから切り離してみると(記憶力の乏しさ故そういう観方しかできないのではあるが)なかなかよく出来ていることに気づく。

なんとも不気味なコロムビア映画のタイトルから、「審判の日」を迎えてしまった二千十八年の世界を覆い尽くしている暗さが、尋常でないことを物語る。次々と登場する人間狩りマシーンによってもたらされる殺伐とした世界の描写にはお手上げで、とてもこんなヤツらの目をかすめてなど生きていけそうもない気分になる。巨大ロボットやモトターミネーターに水中ターミネーターの出来映えが素晴らしく、つまり恐ろしいことこの上ないのだ。

が、圧倒的な機械軍(スカイネット)に対し、抵抗軍がかなりの戦力をもって組織されていることには、とりあえず安堵もできる。また対機械という戦いの、ぬぐいきれない暗澹たる気分の前で、ジョン・コナーの戦いぶりがかすかな希望となっているのもよくわかる導入部になっている。

いままでの作品が、未来から使命をおびてやってきたターミネーターといういささか荒唐無稽な設定であったのに比べ、その未来に飛んだこの作品ではそのあたりの無理矢理さがなくなり、すっきりとしたわかりやすい話になっている(むろんカイル・リースの確保が重要であったり、ジョンの母親が残した予言テープみたいなものが絡んきだりと、従来作から引き継がれたタイムスリップ的要素が出てくるのは言うまでもない)。

スカイネットのロボットを混乱させるシグナルを手に入れた総司令部が、結局は、まるで
原子力潜水艦で逃げ回ってばかりの頼りない連中だからという烙印を押されるかのように、そのシグナルは司令部の場所を探知するためのスカイネットが仕組んだ罠だったため、あっさり葬り去られてしまうのだが、総攻撃時にもジョンのような信頼感を得ているわけではないから、司令部連中の面子は丸潰れで、味方の人間がやられたというのに、あーそりゃ残念でしたと茶化し気分になってしまう。

実際、このあたりから失速しだしてしまうのだが、単純な私など、これは本当に大傑作かもと、巻頭からわくわくしながら観ていたのである。

抵抗軍の女性兵士ブレア・ウィリアムズがマーカスという男を連れて帰るのだが、実はマーカスがサイバーダイン社の謀略から生まれた機械人間で、本人も自分が人間であることを疑っていないというのが、この作品での鍵になっている。

マーカスの力を借りて捕虜になったカイル(殺しちゃえばすむのにね)を助けにスカイネットの基地に侵入するのだが、マーカスはスカイネットにとっては仲間で、だから簡単に入場許可されて(機械と認識されてしまったわけだ)、少なからず落胆したようなマーカスという図が面白い。

もっともこのマーカスの存在自体が、いくら人間の中に入り込むために作られたにしても、こうはっきり人間性を取り戻して?しまったのでは、スカイネットとしては手落ちもいいところで、ちょっと白けるところだ。マーカス自身も元はといえば死刑囚だったわけで、復活した途端善人になっていたというのでは書き込み不足だろう。

だからブレアとの恋のようなものが挟まれているのだろうが、これがブレアの一方的とも思われる積極さで、マーカスを逃がす伏線にはなってはいるが、マーカス自身の心のありようにまでは踏み込んでいないのが惜しまれる。『ターミネーター2』では、T-800のチップをいじって人間の味方としていたが、身体は機械ながら心はまだ人間のマーカスとの面白い対比となったはずである(けど、どう違うのかは難しい問題だ)。

マーカスをロボット化する医師のセレナ・コーガンが、スカイネットの反乱(これは別の技術者が絡んでいたはずだ)と重なってしまうようで気になるのだが(マーカスの前にセレナの映像を出したのはスカイネットの単なるサービスなのか)、そこらへんはもう一度観て確認したいところだ。

セレナの映像はサービスにしても、スカイネットの中枢と対峙した時の造型など、これまでにもよく出てきたものと大差がないから、まったく面白味がない。T-800の量産工場そのものがスカイネットなのだ、というような解釈でもできるような新しい発想があってもよかったのではないか。

繰り返しになるが、マーカスの苦悩が、そもそもの機械人間として誕生したところの部分がうまくないので、せっかくの設定がちっとも生きてこないのだ。マシーンの動きや世界観などがよくできているのに平凡な作品にしかみえないのは、こういうところの独創性のなさに尽きそうである。

そう思ってみると、T-800との戦いでもまた溶鉱炉が使われていて、その断末魔の動きなども、これはわざと前の作品をなぞっているのだろうが、新鮮味がないのだ。

次回作が、カイルが千九百八十四年に行く物語で(しかしこれだとまたタイムスリップものになっちゃうか)、これはその前置きというのならわからなくもないが、何だか惜しい結果となってしまった。

  

原題:Terminator Sslvation

2009年 114分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:菊池浩司

監督:マックG 製作:モリッツ・ボーマン、デレク・アンダーソン、ヴィクター・クビチェク、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:ピーター・D・グレイヴス、ダン・リン、ジーン・オールグッド、ジョエル・B・マイケルズ、マリオ・F ・カサール、アンドリュー・G・ヴァイナ キャラクター創造:ジェームズ・キャメロン、ゲイル・アン・ハード 脚本:ジョン・ブランカトー、マイケル・フェリス 撮影:シェーン・ハールバット 視覚効果スーパーバイザー:チャールズ・ギブソン プロダクションデザイン:マーティン・ラング 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:コンラッド・バフ 音楽:ダニー・エルフマン

出演:クリスチャン・ベイル(ジョン・コナー)、サム・ワーシントン(マーカス・ライト/元死刑囚の機械人間)、アントン・イェルチン(カイル・リース/ジョン・コナーの将来の?父)、ムーン・ブラッドグッド(ブレア・ウィリアムズ/抵抗軍の女性兵士)、コモン(バーンズ)、ブライス・ダラス・ハワード(ケイト・コナー/ジョン・コナーの妻)、ジェーン・アレクサンダー(ヴァージニア)、ジェイダグレイス(スター/不思議な力を持つ少女)、ヘレナ・ボナム=カーター(セレナ・コーガン/医師)、マイケル・アイアンサイド、イヴァン・グヴェラ、クリス・ブラウニング、ドリアン・ヌコノ、ベス・ベイリー、ヴィクター・ホー、バスター・リーヴス、ケヴィン・ウィギンズ、グレッグ・セラーノ、ブルース・マッキントッシュ、トレヴァ・エチエンヌ、ディラン・ケニン、マイケル・パパジョン、クリス・アシュワース、テリー・クルーズ、ローランド・キッキンジャー(T-800)

宮本武蔵 双剣に馳せる夢

2009/6/28 テアトル新宿 ★★★

■押井守流宮本武蔵論

アニメを使った宮本武蔵に関する文化映画みたいなものか。予告篇では「押井流“歴史ドキュメンタリー”登場」と紹介されていた。

アニメをベースにしたのは、作り手にとってそれが手慣れた手法ということもあるのだろうが、こういう文化映画でのアニメは、観るとわかるのだが、解説との調和が抜群で、映画を非常にわかりやすいものにしている。だからアニメがベースなのは、そういう利点を取り入れた結果でもあるのだろう。

事実、この作品にはアニメの他、実写もあれば、単純に写真も使い、ギャグキャラ押井守似宮本武蔵研究家(+役に立たない助手)の研究成果=蘊蓄(これが実にわかりやすくて面白かった)でほとんどを語っているものの、関ヶ原の合戦などでは浪曲を取り入れたりと、形にとらわれずに解説しまくっていた。まあ、こうすれば理解しやすくなるのはわかったが、構成や美的な趣味を考えると、私なら躊躇ってしまいそうだ。

内容も、いきなり有名な巌流島の決闘から始め、これについて武蔵が終生語ろうとしなかったのは何故か、という疑問で引っぱり、飽きさせない。知っているようで知らない宮本武蔵像に迫っていく。私も吉川英治の小説と、多分それを元にした映画くらいしか知らなかったからねぇ。「武蔵を巡る虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描きだすこと、それこそが、私の研究テーマであり、そしてこの映画の主題です」と、武蔵研究家がズバリ言っていたが、ここでの論に自信があるのだろう。

武蔵の剣法が合戦をイメージしたものと結論づけるのだが、そこに至るまでの道筋を武士の成り立ちから考えるなど、奥の深い整然としたものだ。西洋、東洋、日本の武士の違いから、西洋の騎士はエリート特科部隊としての騎兵であって、彼らが付けていた紋章は身代金を払うためのサインだったという、びっくり論にまで及んでいて、これを聞いただけでも観る価値があった。

他にも、明治まで武士道など存在しなかったなどという、これまた言われてみると、なるほどと思うような話があったが、だけど、何で今、武蔵なんだろね?

2009年 72分 シネスコサイズ 配給:ポニーキャニオン

監督:西久保瑞穂 原作:Production I.G 原案・脚本:押井守 撮影:江面久美術監督:平田秀一 編集:植松淳一 主題歌:泉谷しげる『生まれ落ちた者へ』 CGIアニメーション:遠藤誠 キャラクターデザイン:中澤一登 音響:鶴岡陽太 作画監督:黄瀬和哉 美術監督:平田秀一 色彩設計:遊佐久美子 制作:Production I.G 浪曲:国本武春

劔岳 点の記

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■「未踏峰」かどうかではなく……

明治四十年に、前人未到の地であった立山剱岳登頂を果たした、日本陸軍参謀本部陸地測量部測量手柴崎芳太郎を主人公に、当時の陸軍内部の事情、日本山岳会との駆け引き、案内人の宇治長次郎や家族との信頼関係などを描く、新田次郎の同名小説を原作としたドラマである。

この狭い日本で、明治も三十九年になって、まだ未踏峰があったという事実にはびっくりするが、この未踏峰制覇に一番やっきだったのが陸軍のお偉いさんたちというのが面白い。日本地図の最後の空白点を埋めるべく、そこに国防という大義名分を振りかざすのだが、何の事はない、実は日本山岳会会員である小島烏水らの剱岳登頂計画を知ったからというあたり、日本がこのあと戦争に突き進んでいった元凶をみる思いがするのだが、もちろんそんな暴論で映画が進むはずもなく、もっと足に地の付いた作品になっている。

初登頂に心が動いたのは当事者たちも同じであったはずだが、しかし柴崎の淡々とした地道な仕事ぶりが変わることがない。剱岳の登頂ルートを探りながらも測量という本来の仕事を黙々とこなしていく。若い生田が焦ること方が当然のような気がするのだが、柴崎の仕事優先の態度は、日本山岳会の小島たちにも競争相手という意識を次第に薄れさせ、最後には尊敬の念を抱かせるまでになっていく。

けれど、苦労の末、やっとこ登ってみれば、そこには先人の残した錫丈があり、すでに昔から入山していたことがわかるだけであった。

この結末は、やっぱりな、という思いをもたらすが、と同時に古田盛作(三年前に引退した柴崎と同じ元測量手で、剱岳に挑むが失敗した経験を持つ)からの手紙にあった「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大切」という言葉の意味を考えずにはいられなくなる(こんなことを言われてしまっては、この映画を評価するのも躊躇われるのであるが……というか、ここにだらだらと書いている映画の感想文、全てが、だもんなぁ。……とりあえず私のことに関しては、この言葉は忘れてしまおう)。

地道な人柄を描くために柴崎を淡泊な人物にしてしまったのだろうが、ドラマとしてはいささか大人しすぎた嫌いがある。陸軍の上層部とやり合えとは言わないが、生田や小島とはやはりもう少し何かがあってもいいはずで、多少の歯がゆさが残る。

しかし、そうするとまた別な映画になってしまうわけで、一々起承転結を用意したり大袈裟な事件を持ってこなくても、生田は、子供の誕生の喜びを素直に口に出来るようになっていたし、小島たちとは、互いの登頂を喜び合う山の仲間になれた(手旗信号で合図し合うのがラストシーンになっている)ことで十分、とする謙虚さがこの映画のスタンスなのだろう。これは、自然の前での小さな人間、という位置関係とも通じるものがありそうだ。

ただ、長次郎が案内人となったことで、立山信仰のある芦峅寺集落で働く息子とは険悪になってしまい、けれど、あとでそのことを詫びる息子から食べ物と手紙が届く場面には違和感を覚えた。手紙でのやり取りは、この他にもあって、当時は手紙の他には通信手段がないのだから、例えば柴崎の妻の葉津よがそうしているのはわかるのだが、長次郎親子にそれをさせてしまうと、何か違うような気がしてしまうのだ。

だいたい長次郎(と彼の妻もなのだが)は明治の山男にしては洗練されすぎていて、まあ、これは日本映画の場合、ほとんどすべての作品に及第点をあげられないのであるが(髪型だけでもそうであることが多い)、黒澤映画に師事し、とリアリズムを学んだことを宣伝などでは強調しているのだから、もっと徹底してほしかったところである。

長年撮影監督として腕をふるってきた木村大作が監督となったことで、CGを一切排除し、空撮までしていないことが話題になっていて、確かにその映像は堂々としていて立派なのだが、相手が自然なだけに一本調子になりがちなのは否めない。嵐の中、行者が修行を積んでいるような、自然と人間が張り合っているような(そんな修行をしていたわけではないのだろうが)場面では、単調であってもそういう懸念はなくなるのだが。

登頂や陸軍内での評価など、実際の経緯については多分原作にあたった方が多くの情報を仕入れられると思うのだが、そして、だから映画では撮影にこだわったのだろう。けれどこういう映画なのだから、それこそCGでも取り入れて解説部分を増やしてくれた方が観客としてはありがたい。そうしてしまうと映画の風格は損なわれてしまいそうだが、登頂ルートについて柴崎たちが、何をどう苦労していたのかはずっとはっきりしただろう。「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」という言い伝えを教えてくれた行者の言葉が、科学的にも裏打ちできたのなら、ドラマの平坦さをも補えたのではないか。

また、西洋登山術を取り入れた当時としては最新の日本山岳会の装備や岩壁登攀方法などの解説もあれば、映画ならではの(原作以上の)情報が得られたと思うのだが、木村大作はそんな映画を撮るつもりはなかったんだろうな。

 

2008年 139分 シネスコサイズ 配給:東映

監督・撮影:木村大作 製作:坂上順、亀山千広 プロデューサー:菊池淳夫、長坂勉、角田朝雄、松崎薫、稲葉直人 原作:新田次郎『劔岳 点の記』 脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 美術:福澤勝広、若松孝市 衣装:宮本まさ江 編集:板垣恵一 音楽プロデューサー:津島玄一 音楽監督:池辺晋一郎 音響効果:佐々木英世 監督補佐:宮村敏正 企画協力:藤原正広、藤原正彦 照明:川辺隆之 装飾:佐原敦史 録音:斉藤禎一、石寺健一 助監督:濱龍也

出演:浅野忠信(柴崎芳太郎/陸軍参謀本部陸地測量部測量手)、香川照之(宇治長次郎/測量隊案内人)、松田龍平(生田信/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、モロ師岡(木山竹吉/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、螢雪次朗(宮本金作/測量隊案内人)、仁科貴(岩本鶴次郎)、蟹江一平(山口久右衛門)、仲村トオル(小鳥烏水/日本山岳会)、小市慢太郎(岡野金治郎/日本山岳会)、安藤彰則(林雄一/日本山岳会)、橋本一郎(吉田清三郎/日本山岳会)、本田大輔(木内光明/日本山岳会)、宮崎あおい(柴崎葉津よ/柴崎芳太郎の妻)、小澤征悦(玉井要人/日本陸軍大尉)、新井浩文(牛山明/富山日報記者)、鈴木砂羽(宇治佐和/宇治長次郎の妻)、笹野高史(大久保徳昭/日本陸軍少将)、石橋蓮司(岡田佐吉/立山温泉の宿の主人)、冨岡弘、田中要次、谷口高史、藤原美子、タモト清嵐、原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、前田優次、市山貴章、國村隼(矢口誠一郎/日本陸軍中佐)、井川比佐志(佐伯永丸/芦峅寺の総代)、夏八木勲(行者)、役所広司(古田盛作/元陸軍参謀本部陸地測量部測量手)

消されたヘッドライン

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■テレビじゃないんだから、じゃなかったの

よくできたサスペンスドラマと感心していたら、英BBC製作のテレビミニシリーズ『ステート・オブ・プレイ 陰謀の構図』(NHK BS2で放映されたらしい)を、舞台をアメリカにリメイクしたものだという。なるほど、よく練り込まれた脚本だ。が、ミニとはいえテレビシリーズを映画にまとめた弊害も出てしまっている。

弊害は大げさにしても、贅沢に配したキャストがもったいないくらいに、それぞれの挿話が詰め込みすぎな(というか観ている方にとってはあっさりすぎな)感じがしてしまうのだ。映画の出来が悪いというのではなく(一番悪い部分は最後だろうか)、もっともっと人物の相関図の中に入っていきたくなるのである。

女性スタッフのソニア・ベーカーが死んだという知らせに、スティーヴン・コリンズ議員が大事な公聴会で涙を見せるという出だしには、あんまりな気がしてしまったが、これと別の殺人事件が繋がっていることに気づいたワシントン・グローブ紙の記者であるカル・マカフリーが、ベテランらしい記者魂で調査を進めていく流れは、見応えがある。

カルが長髪のむさくるしいデブ男で、ちっとも颯爽としていないのもいい。『グラディエータ-』の戦士が九年でこうも変わってしまうものなのか。これがラッセル・クロウの役作りであるのならいいんだが。

新聞社の内部事情が面白い。紙媒体の新聞はもう売上増は見込めず、ウェブ版の女性新進記者デラ・フライが重用されているような雰囲気だったりするのだが、このデラが新米ながらなかなかで、カルと仕事を通して信頼関係を築いていくサブストーリーも上出来。また女編集局長のキャメロン・リンは立場上、カルの記事にいろいろな意味での圧力をかけざるを得なくなるのだが、ここらへんの匙加減もうまいものだ。

コリンズ議員に話を戻すと、彼はカルとは大学時代からの親友で、あの涙はやはりスティーヴンの不倫の証なのだった。マスコミに追われたスティーヴンは、行き場を失ってカルの家にやってくるのだが、カルにしてみればスティーヴンは情報源でもあり、しかし、それ以上にスティーヴンの妻アンにカルが惚れていたことがあり、それはお互い単純に昔のこととは割り切れずにいるようなのだ。

スティーヴンに、アンに対する愛情がもうなくなっているからいいようなものの(って書くとまずいかしら。愛情がないにしては「友達なのに俺の妻と寝た」などとも言っていた。これは相当昔の話ではないかと思うのだが?)、でもカルが、スティーヴンを助け君(アン)を守りたい、と言った時などのアンの反応にはあまり惹かれるものがなかったので、私としては少々ほっとしたのも事実。そんなだから、カルはアンにも「私はただの情報源」などと言われてしまう。

事件を追うことで、カルは自分の生き方も問われることになるのだが、そこに深入りしている暇がないのは惜しい。最初に書いたように、映画の出来がいいので、もっとこういった部分を覗きたくなってしまうのだ。現実の世界だと、人間関係は曖昧なままであることが多いのだが、小説や映画では、読者や観客はそういう部分こそを知りたいのだから。

と考えると、最後に明らかにされるコリンズ議員の企みは、やはりひねりすぎだろうか。ソニアにはいろいろ事情があって、最初こそスパイとして送り込まれたものの、スティーヴンを愛して、そして妊娠もしていては、もうそれで十分じゃないかという気になってしまったのだったが。

軍事産業の陰謀という構図が浮かんできたところで、テレビじゃないんだから、と映画の中でも言わせていたが、この結末はエンタメ指向の何物でもなく、テレビじゃないんだから、とさらに派手にしてしまったのだろうか。テレビ版にすでにあったにしても削除すべきだし(映画の方はただでさえ尺が短いのだから)、なくて加えたのなら問題だろう。

ところで、『消されたヘッドライン』という邦題はインチキで、せいぜい「消されかかった」だった。

原題:State of Play

2009年 127分 アメリカ、イギリス シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松浦美奈

監督:ケヴィン・マクドナルド 製作:アンドリュー・ハウプトマン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ポール・アボット、ライザ・チェイシン、デブラ・ヘイワード、E・ベネット・ウォルシュ 脚本:マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ オリジナル脚本:ポール・アボット 撮影:ロドリゴ・プリエト プロダクションデザイン:マーク・フリードバーグ 衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト 編集:ジャスティン・ライト 音楽:アレックス・ヘッフェス

出演:ラッセル・クロウ(カル・マカフリー/新聞記者)、ベン・アフレック(スティーヴン・コリンズ/国会議員)、レイチェル・マクアダムス(デラ・フライ/ウェブ版記者)、ヘレン・ミレン(キャメロン・リン/編集局長)、ジェイソン・ベイトマン(ドミニク・フォイ)、ロビン・ライト・ペン(アン・コリンズ/コリンズの妻)、ジェフ・ダニエルズ(ジョージ・ファーガス)、マリア・セイヤー(ソニア・ベーカー)、ヴィオラ・デイヴィス、ハリー・J・レニックス、ジョシュ・モステル、マイケル・ウェストン、バリー・シャバカ・ヘンリー、デヴィッド・ハーバー、ウェンディ・マッケナ、セイラ・ロード、ラデル・プレストン

ラスト・ブラッド

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■オニを吸血鬼とする日本観

またしても新趣向の吸血鬼映画がやって来た!? って、オニ(=鬼?)が吸血鬼なのか。で、日本が舞台なのに主演はチョン・ジヒョン(って、誰の、どういう発想なのさ。エンドロールでは名前が、欧文表記でGiannaになっていた)。おー、久しぶり『デイジー』以来か。セリフは三カ国語を流暢?に喋っていたが、吹き替えでないのなら立派。

でもいくらなんでも十六歳は無理だろうと思ったが(セーラー服まで着せられちゃってさ)、映画の質感を変えていることもあって(実際のことは知らないが)そう違和感はなかった。ま、どーせ設定では何百歳なんだから、誤差の内みたいなものなんだろうが。

出てくる風景も、看板は日本語でも見たこともない家並みで(けど『魍魎の匣』のようにはモロ中国ではなく、どこか違う国というイメージなので救われている)、浅草なのに古い丸ノ内線の車両だったりするのだ(七十年代だから形としては合ってるが、銀座線じゃないのね)。まるで嘘臭いのだが、イヤな絵になっていないので、全部許しちゃってた。

舞台も話もいい加減で、簡単なこともほとんど説明する気がないようだ。父をオニゲンに殺されたサヤは、CIAをかたるオニゲン退治の組織(このくらいもう少しは説明しろってんだ!)に、日本にある米軍基地内のアメリカンスクールに送りこまれ、教師に化けたオニゲンの手下から基地の司令官の娘アリスを救い出す。

日本人だからセーラー服って、アメリカンスクールなのにぃ、というのは野暮な話で、そうしたいからそうしちゃったんでしょう。イメージやアクションシーン優先で、後は何でもござれ状態なのだ。

そのアクションだが、今更のワイヤー使いまくりで、これもきっとうるさ方には嫌われそうなのだが、私はこの映画には合っていたように思う。

サヤの武術の先生で、育ての親でもあるカトウと、オニゲンの手下たち(オニというより忍者だし、これだとアメリカンスクールにいたオニとは別物になってしまう気がするのだが)との死闘もよくできていた。でもカトウはサヤを突き放したりはせず、最初から一緒に戦ってもよかったと思うのだが。結局サヤは戻ってきてしまうし、自分は無駄死にではね。なんかこういう話の繋ぎがすこぶる悪いのだな。

サヤとオニゲンの対決も迫力という意味ではおとなし目ながら(ちょいあっけない)、ビジュアル的にはいい感じだ。

オニゲンはサヤが現れるのを心待ちにしていたようでもあり、それはサヤが自分の娘だからなのだが、そこらへんは曖昧なままで、よくわからないうちに話が終わってしまった。オニゲンが殺してしまったというサヤの父との関係だって、解き明かしていったら面白かろうと思うのだが、そういうことには興味がないらしい。

サヤは組織が欲しいもの(血)をくれるので、彼らの命令に従うと言っていたが、この説明もわかったようでわからない。第一これだと、彼女が子供の頃はどうしていたのか、って話になってしまう。

とにかく全部がいい加減なのだが、こういうムチャクチャ映画は結構好きなのだな。雰囲気的にもこの間観た『トワイライト』よりは私向きだった。甘いの承知で★★★。

 

原題:Blood:The Last Vampire

2008年 91分 香港、フランス シネスコサイズ 配給:アスミック・エース R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督:クリス・ナオン アクション監督:コリー・ユン 製作:ビル・コン、アベル・ナミアス 原作:Production I.G 脚本:クリス・チョウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ネイサン・アマンドソン 衣装デザイン:コンスタンサ・バルドゥッシ、シャンディ・ルイフンシャン 編集:マルコ・キャヴェ 音楽:クリント・マンセル

出演:チョン・ジヒョン(サヤ)、アリソン・ミラー(アリス)、小雪(オニゲン)、リーアム・カニンガム(マイケル)、JJ・フェイルド(ルーク)、倉田保昭(カトウ)、コリン・サーモン(ミスター・パウエル)、マイケル・バーン、マシエラ・ルーシャ、ラリー・ラム

天使と悪魔

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■神を信じている悪魔

カトリック教会の法王の座を巡る陰謀に『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドン教授が巻き込まれる。ラングドンは、「あの事件(『ダ・ヴィンチ・コード』)でヴァチカンから嫌われた」はずだったが、宗教象徴学者の協力が必要と感じた警察の要請で、捜査に加わることになり、ローマへと出向いて行く。

完成したばかりの反物質が盗まれて、それを爆弾代わり(五トンの爆弾に相当する強力なもの)にヴァチカンを消滅させると脅されてしまうのだが、まずその反物質が完成するタイミングとそれを盗み出す労力を考えると、かなり馬鹿げた話になってしまう。いや、完成が確実になった時点で、って少し苦しいが、暗殺に取りかかればいいのか。でもこれだと教皇選挙(コンクラーベ)にはリンクしなくなってしまうものなぁ。

教会と対立するイルミナティの存在を暗示して目をそらすために四教皇(次期法王候補者)を殺害する設定(この最後にヴァチカン消滅の反物質というのが犯人の予告シナリオ)もどうかと思うし、ラングドンと反物質の研究にかかわっていたヴィットリアが捜査の中心になる展開も強引だ。とくに最後の真犯人がわかる録画を二人が見ることになる場面は御都合主義もいいとこで、首をひねりたくなる。

が、観ている時は次から次へと殺人が予告されているので、余計なことを考える余裕などはない(なにしろ一時間刻みの殺人予告だから、のんびりなどしていられないのだ)。しかも現場到着が、いつも五分前だったりする(わけはないが、そんな感じ。で、手遅れになっちゃったりもするのだ)。

とにかく見せ場はふんだんすぎるくらいあって、カメルレンゴ(これは役職名なのね)が反物質を持ってヘリコプターに乗り込むという、思ってもみなかった人物のスーパーマンぶりまで見ることができる(ヘリコプターの操縦までできちゃうのだ! そうか、だからユアン・マクレガーだったのね。って、違うか)。また、ラングドンが推理を間違えるので(殺人の予告場所をひとつとカメルレンゴが危ないという二つ)、こちらもそれに振り回されるっていうこともあるが、息つく暇がないくらいだ。

しかしそれ以上に興味深かったのが、ヴァチカンの記録保管所に入るための交換条件のようにカメルレンゴから突きつけられた、神を信じるかという問いと、それに対するラングドンの答えだった。正確な言葉は忘れたが、私は学者だから信じていないが、心の部分では神に感謝しているというもの(いや、贈り物と思っている、だったか)。

これはなかなか頷ける答えだ(私の答えは、「神は信じないが、神という視点で考えることを人間は忘れてはならない」だから、これだと、神を信じないで神の視点がわかるのかと反論されてしまいそうで、だから閲覧はさせてもらえそうにない)。

反物質なんて物をわざわざ持ち出した設定も、要するに科学によって人間が神の領域に踏み込んでいく象徴的な意味を込めたかったのだろう。けれど神を信じる人がこんな物語を作るだろうか。

カメルレンゴの思考は間違ったものだが、科学に宗教が抹殺されると思ってのことと、少しは肩入れしてやってもいいのだろうか。でないと、彼の英雄的行為は説明できなくなってしまうが、これくらいの博打が打てないようでは法王にはなれないと踏んだのかもしれない。もちろんだからといって、暗殺者と繋がっていいわけがないし、自分も殺人という過ちを犯してしまっている(そうは感じないのだろうが)のだから何ともやっかいだ。正義(彼にとってのだが)のためなら手段を選ばずというわけか。

作者はここに悪魔をみているのだろうか。追い詰められて自殺する時も、神の手に委ねると言っていた者に。それとも天使と悪魔というのは単なる符合にすぎないのか。

宗教に欠点があるのは人間に欠点があるのと同じ、という最後に出てくるセリフも、私には、いかにも宗教を作ったのは人間と言っているようにしか思えないのだが、そのすぐあとで、恵深い神はあなた(ラングドン)をつかわしたとも言わせていて、これはずるいよね。というか、この曖昧さ(科学と宗教の共存)を結論にしてしまったようだ。

面白かったのは、それまで馬鹿丁寧にピンセットで扱っていた古文書を、解読している暇がないとみたヴィットリアが、いきなり該当ページを引きちぎってしまう場面だ。これにはラングドンも唖然とするばかりで(観客もびっくり!)、やったのは自分ではなくヴィットリアだと、後に二度も否定していた。宗教象徴学者としては正しい見解だろうか。強く否定したお陰かどうか、ラングドンは最後にヴァチカンから、研究にお使い下さいと、彼にとっては垂涎のそれを貸し出してもらっていた。

  

原題:Angels & Demons

2009年 138分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳監修:越前敏弥

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ジョン・キャリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』 脚本:デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:アラン・キャメロン 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダン・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー

出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)、ステラン・スカルスガルド(リヒター隊長)、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ(オリヴェッティ刑事)、ニコライ・リー・コス(暗殺者)、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)、トゥーレ・リントハート、デヴィッド・パスクエジ、コジモ・ファスコ、マーク・フィオリーニ

今度の日曜日に

新宿武蔵野館2 ★★★

大麻所持で逮捕されちゃったのでポスターからも消されちゃった中村俊太

■興味を持つと見えてくる

ソウルからの留学生ソラと、中年の、まあ冴えない男との交流を描くほのぼの系映画。

ソラが実習授業で与えられた課題「興味の行方」の興味は、ヒョンジュン先輩をおいて他にないはずだったが、事情はともあれ、彼とは悲しい失恋のようなことになって、変な人物に行き当たる。それが学校の用務員の松元で、他にピザ配達と新聞配達をしているのは、彼が借金まみれだからなのだった。

交差しそうもない二人が自然と繋がりができていく過程はうまく説明されているし(でも松元のドジ加減や卑屈さは強調しすぎ。もっと普通でいい)、この組み合わせだと危ない話になってしまいそうなのだが、ユンナと市川染五郎のキャラクターがそれを救っていた。あと、松元の小学生になる息子が訪ねて来るんでね。本当に(ソラが)ただの学生だとお母さんに誓って言える、と指切りまでしちゃったら、悪いことは出来ないよな。

ソラが何故日本で映像の勉強をしているかというと(注)、母親の再婚話への反発がちょっぴりと、でも一番は、ビデオレターの交換相手で、想いを寄せる先輩と同じことをしたかったからなのだが、はるばる日本へやってくると、先輩は実家の火事で父親が亡くなり、行き違いで韓国へ戻ってしまっていたのだった。

ヒョンジュンを巡る話は、彼がソラに会うのがつらくて逃げていたという事情はあるにせよ、行き違いの部分も含めて少々無理がある。だから、最初は削ってしまった方がすっきりすると思ったのだが、でもソラの心の微妙なゆれは、留学を決めたときから最後のヒョンジュンの事故死(彼の役回りは気の毒すぎて悲しい)を聞くところまでずっと続いているわけで、そう簡単には外せない。

ヒョンジュンが死んだことを聞いて、ソラは、松元が集め心のよりどころにしていたガラス瓶を積んでいる自転車を倒してしまう。落ち込むソラを松元がアパートのドアの外から執拗に語りかける場面は、ここだけ見ると、おせっかいで迷惑にも思えるが、もうこの時にはお互いに踏み込んでいい領域はわかっていたのだろう。

それに二人で松元の子供を駅に見送るあたりから、松元はソラさんは強いから大丈夫などと言っていたから、ソラがどこかに寂しさを抱えていることを見抜いていたのだろう。ソラが松元に自分の気持ちを打ち明けているような場面はなかったはずだが。興味の行方を自分のような中年男にしたことで、松元は何かを感じていたのだろうか。

やっとドアを開けたソラから瓶を割ってしまったことを聞いた松元は、ソラがなんとか修復しようとしていた瓶を「人が悲しむくらいならない方がいい」と言って全部外に持ち出して割ってしまう。「瓶なんか割れたっていいんだ。大切なのはソラさんなんだ」とも言って。

ただ、ここと、クリスマス会(瓶で音楽の演奏する練習もしていたのに)にも来ないで、ありがとうという紙切れを残していなくなってしまう松元、という結末は説明不足だし唐突だ。ソラの「興味の行方」の映像も、これでは未完成のままだろうに。

映画のテーマは何だろうか。普段見過ごしているようなこと(人)も興味を持つと見えてくる、そんなところか。あまりにも普通すぎることだけど、多分みんな見過ごしているとが沢山あるはずだと思うから……。

そういえば「興味の行方」の課題が出た授業で、せっかく韓国から来たのだからと言う級友に、ソラは「あたし、韓国代表じゃありません」と言っていた。そして映画もことさらそういうことにはこだわらず、だから別段留学生でなくてもいい話なのだが、でも隣国の韓国ともこんなふうにごく自然に付き合っていけるようになってきたのなら、それはとてもいいことだ(と書いてるくらいだからまだまだなんだろうけど)。

注:留学先は信州の信濃大学という設定である。ロケは信州大学でやったようだ(http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/2008/03/post-138.html)。

2009年 105分 ビスタサイズ 配給:ディーライツ

監督・脚本:けんもち聡 プロデューサー:小澤俊晴、恒吉竹成、植村真紀、齋藤寛朗 撮影:猪本雅三 美術:野口隆二 音楽:渡辺善太郎 主題歌:ユンナ『虹の向こう側』 企画協力:武藤起一 照明:赤津淳一 録音:浦田和治

出演:ユンナ(チェ・ソラ/留学生)、市川染五郎(松元茂/用務員)、ヤン・ジヌ(イ・ヒョンジュン/ソラの先輩)、チョン・ミソン(ハ・スジョン/ソラの母)、大和田美帆(伊坂美奈子/ソラの同級生)、中村俊太(大村敦史/ヒョンジュンのバイト仲間)、峯村リエ、樋口浩二、谷川昭一朗、上田耕一、竹中直人(神藤光司/教授)

トワイライト 初恋

楽天地シネマズ錦糸町シネマ7 ★★★

■息づかいが聞こえてくる

新感覚映画とでも呼びたくなるような、今までにない雰囲気がある映画だった。が、何がそうなのかと言われると、どう表現していいのか見当がつかなくなってしまう。多分私が旧式人間だからなんだろう。

全体に青を基調とした画面で、と表面的なことなら書けても、後が続かない。もしかしたらこれは私が今の若者を、すでにかなりの部分で理解できなくなっていることとつながっている気がする。

主人公の二人も、私の感覚だと美形というのとはちょっと違うのだが、まあ、そんなことはどうでもいいか。

脱線気味で書き始めてしまったが、話は単純だ。ヴァンパイアと人間の恋という奇異さはあるが、そしてそのヴァンパイアの説明に少し時間を使っているが(少女にとっては謎なんだから当然なのだが)、それを削ってしまうとどこにでもあるような話だろうか。

ベラ・スワンはママの結婚で、雨の多い町フォークスで警察署長をしているパパのところに戻ってきた転校生だ。新しい学校にも慣れ、友達も出来、順調なスタートをきるが、学校では別行動を取りがちな「アタックするだけ無駄」らしいエドワード・カレンに興味を持つ。

というか露骨に避けられてしまうのだが、なるほどねー、かえってハートに火がついてしまったのね。そして、無視されているはずだったのに、車の暴走から身を守ってくれたことで、エドワードの飛び抜けた身体能力と彼の秘めた想いを知ることとなる。

別行動はエドワードがヴァンパイアだからで、なるべく一族でまとまっているからだし、避けるのは「君の心だけが読めない」からと説明されるけど、じゃあ何で人間界にいるんだってことになるし、「君の心だけが読めない」というのも、どう考えても詐欺のような説明である。

矛盾だらけなのは、ヴァンパイア物の宿命だが、エドワードの情熱と抑制を際立たせようとしているからだろうか。そして「君の心だけが読めない」からこそ(心が読めちゃったら恋はできないような気がする)、ベラはエドワードにとっての初恋(「初恋」は邦題だけにあるにしても)となったのだろう。

ベラの方はもうすっかりその気になっていて、血を吸われてもかまわないと思っているのに、エドワードはあくまでベラを禁忌の対象と位置づけようとする。吸血は動物だけで人間には手を出さないベジタリアン(はぁ?)っていうのだけれど、自分だってヴァンパイアにされたわけだし、ベラも望んでいることなのだ。本当に命取りになるならともかく、これはあまり説得力がない。

欠点はあるが、情熱と抑制が交差する展開はなかなかだ。このエドワードの自制心が、若い女性観客にはたまらないのかも(そういや観客の九割が若い女性だった)。二人の踊りが近くて(他の場面でも)、息づかいが聞こえそうで胸が苦しくなってくる。ベラも一族になってくれれば二人の恋は永遠になるのでは、と思うが、もしかしたらそれだと……って映画では何も言っていないのだけど、それは続編待ちなのだろうか。

人間の血を吸う正統派?吸血鬼のグループも登場させたことだし、だから単にそのうちの一人がベラに目をつけた程度では面白味がないのだが、これは伏線貼りすぎの上で登場させたにしては、案外あっさりかたがついてしまう(ヴァンパイア流草野球や忍者もどきの木登り場面の方が印象に残ってるくらいだから)。

それにしてもうまいことバンパイア物を、学園ドラマにアレンジしてしまったっものである。古臭い十字架や棺桶に古城、ニンニクや十字架も一掃。むろん誰も燕尾服などは着ていない。雨の多いフォークスを拠点にした設定にはしてあるが、太陽の光に当たったからといって灰になったりはせず、キラキラ耀いちゃうんだから。

★三つは甘めだが、次回作の期待料込みってことで。

  

原題:Twilight

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:アスミック・エース、角川エンタテインメント 日本語字幕:石田泰子

監督:キャサリン・ハードウィック 製作:マーク・モーガン、グレッグ・ムーラディアン、ウィック・ゴッドフレイ 製作総指揮:カレン・ローゼンフェルト、マーティ・ボーウェン、ガイ・オゼアリー、ミシェル・インペラート・スタービル 原作:ステファニー・メイヤー『トワイライト』 脚本:メリッサ・ローゼンバーグ 撮影:エリオット・デイヴィス 衣装デザイン:ウェンディ・チャック 編集:ナンシー・リチャードソン 音楽:カーター・バーウェル 音楽監修:アレクサンドラ・パットサヴァス

出演:クリステン・スチュワート(ベラ・スワン)、ロバート・パティンソン(エドワード・カレン)、ビリー・バーク(チャーリー・スワン/ベラの父、警察官)、ピーター・ファシネリ(ドクター・カーライル・カレン/エドワードの養父、医師)、エリザベス・リーサー(エズミ・カレン)、ニッキー・リード(ロザリー・ヘイル)、アシュリー・グリーン(アリス・カレン)、ジャクソン・ラスボーン(ジャスパー・ヘイル)、ケラン・ラッツ(エメット・カレン)、キャム・ギガンデット(ジェームズ)、エディ・ガテギ(ローラン)、レイチェル・レフィブレ(ヴィクトリア)、アナ・ケンドリック(ジェシカ・スタンリー)、テイラー・ロートナー(ジェイコブ・ブラック)、ジル・バーミンガム(ビリー・ブラック)、サラ・クラーク、クリスチャン・セラトス、ジャスティン・チョーン、マイケル・ウェルチ、ホセ・ズニーガ、ネッド・ベラミー

リリィ、はちみつ色の秘密

シャンテシネ2 ★★★

■少女は安らぎの地を見つける

いくら四歳の時とはいえ、そしてそれが暴発(らしいのだが)であったにしても、大好きなママを銃で撃ち殺してしまったのだとしたら……。そんな拭いきれない悪夢を抱えてずっと生きていかなければならないとしたら……。考えただけでも気が遠くなりそうになる。しかも当のリリィはまだ十四歳なのだ。だから、ということはもう十年間もそうやって生きてきたことになるわけで、そんな少女時代を、私は想像することすらできない。

誕生日にも関心を示してくれないパパT・レイに、リリィはママデボラの話をせがむが、デボラはお前を捨てたとにべもない。その日、投票権の登録に町へ出かけた使用人のロザリンが、今からは考えられないような(とはいえまだ五十年も経っていないんだよね)(注1)黒人蔑視のリンチにあったこともあって、リリィはロザリンを病院から連れ出し、置き手紙を残して一緒に家を出る。

さらに待ち受ける困難、と早とちり予想をしていたら、それは杞憂で、母親の形見の木札にある絵に似たハチミツのラベルに導かれるように、そのハチミツを作っているオーガスト、ジューン、メイの黒人三姉妹の家にたどり着く。オーガストが受け入れてくれたことで(ジューンはそう快くは思っていなかった)、ロザリンとも別れることなく、ミツバチの世話をしながらの落ち着いた日々がはじまる。

リリィとロザリンが家を出てからの流れが安直すぎるきらいはあるし、三姉妹の意外な裕福さが(よほどハチミツ商売があたったのだろう)、当時の黒人の置かれた状況からは恵まれすぎているようで、切り口が甘くならないかと心配になったが、これまた杞憂だった。姉妹を裕福にすることで、甘くなるどころか、安易な同情の対象としての黒人に貶めることなく、より普遍的な人間のつながりを描きえているからだ。

三姉妹の生活は、黒人の聖母像を崇めるちょっと風変わりな信仰によっても満たされている。信仰のあるなしはともかく、今の我々にとっても羨ましいくらいの生活といえそうだ。

むろん、裕福であることと社会にある偏見は別問題である。公民権法案にジョンソン大統領が賛成した(リリィとロザリンがこのニュースをテレビで見ている場面が最初の方にある)とはいえ、なにしろ偏見色の強い南部のことである。養蜂場で友達になったザックと行った映画館で、一緒に座ってポップコーンを食べながら映画を観ているところを見つかり、ザックが拉致されてしまうという騒動となる(注2)。

翌朝になって、知人の弁護士と共にザックは戻ってくるのだが、このことが引き金になって(注3)、前日の夜、病的に繊細だったメイは「この世の重みに疲れた」と命を絶ってしまう。

また、独立心がありプライドの高いジューンは、恋人ニールのプロポーズを素直に受けられずにいる。彼女たちにもそれなりに悩みや問題があるのである。そんなことは当然で、でも少なくとも肌の色の違いなどというものさしで人を差別したりはしない。だから彼女たちは、リリィを家に受け入れたのだ。

もうひとつにはオーガストが、幼いデボラを家政婦として七年間も世話をしていたということがあった(注4)。オーガストがリリィをデボラの娘と認識したのがどの時点なのかは明かにされないが、リリィはデボラに瓜二つという設定になっている。初見でオーガストは何かを感じとっていたのかもしれない。

そしてこれは最後に近い場面になるが、T・レイがリリィを探し当てた時、リリィが付けていたブローチで、リリィのことをデボラと見間違え錯乱してしまうところがある(注5)。ただでさえ粗暴なT・レイのこの錯乱は悲しい。が、このことでT・レイは、あの日デボラはリリィを迎えに来たのだと、真実を語る。嘘をついたのは俺を見捨てたからだとも白状し、力ずくでも連れ帰るつもりでいたリリィを残して一人帰って行く。

母親を殺してしまった罪悪感とは別に、リリィの中には、母親に捨てられたという思いが棘のようにあったのだが、母はちゃんと自分を愛してくれていたのだ。

が、このことはすでにオーガストから聞いていたことではなかったか。その話を聞いたあと、部屋に戻ったリリィは「ママなんて嫌い」「何故愛してくれなかったの!」とハチミツの瓶をドアに投げつけていたが、私にはこの行為はよくわからなかったし、瓶が壊れてハチミツがドアを流れ落ちていく場面は不快ですらあった。父ならよくてオーガストからでは何故駄目だったのだろう。そもそも「お前を捨てた」発言は、父からのものではなかったか。

それとも私がうまくリリィの気持ちを汲み取れないだけなのか。私は愛するということがよくわかっていないし、だから実はこういう映画は苦手なのだ。が、この作品にある誠実さは心に止めておきたいと思ったのである。

リリィとザックの恋一歩手前のような関係も微笑ましい。リリィは作家でザックは弁護士になりたいのだと将来を語り合っていた。でも後の方では、キスのあと、十年か十五年後に君の本のサイン会で会おう、って。何だか老成しすぎじゃない? ま、弁護士志望だったら、このくらいのことは言うのかもね。

注1:映画の全米公開は2008年10月。11月にはバラク・オバマが大統領に選出されている。この映画がオバマ選出を祝う映画みたいになったとしたら、それも感慨深いものがある。
注2:別々に料金を支払い、ザックは「有色人種専用入口」から入っている。ザックと一緒にいたリリィは「黒人の愛人野郎」と罵られる。
注3:メイにはこの事実が自分には知らされていなかったことも、つまり特別扱いされていることもショックだったようだ。
注4:リリィがオーガストに「ママを愛していたか」と訊く場面がある。遺品を手渡される場面だ。オーガストの答えは「複雑だけど愛してた」というもの。「私は子守でママと住む世界が違っていた」し「偏見の時代だった」とも。考えてみると、デボラとオーガストの関係は、リリィとロザリンの関係でもある。オーガストは「偏見の時代だった」と過去形で言うが、でもこの時点では少しも変わったようには見えず、でもロザリンの方がより権利意識は芽生えた時代での関係に思えるから、リリィのことはさらに複雑に愛してくれているのだろうか。
注5: 鯨のブローチ。オーガストが渡してくれたデボラの少ない遺品の中にあったもの。T・レイが22歳のデボラにプレゼントしたものなのだった。

 

原題:The Secret Life of Bees

2008年 110分 アメリカ シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ジーナ・プリンス=バイスウッド 製作:ローレン・シュラー・ドナー、ジェームズ・ラシター、ウィル・スミス、ジョー・ピキラーロ 製作総指揮:ジェイダ・ピンケット・スミス 原作:スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』 撮影:ロジェ・ストファーズ プロダクションデザイン:ウォーレン・アラン・ヤング 衣装デザイン:サンドラ・ハーネンデス 編集:テリリン・A・シュロプシャー 音楽:マーク・アイシャム 音楽監修:リンダ・コーエン

出演:ダコタ・ファニング(リリィ・オーウェンズ)、クイーン・ラティファ(オーガスト・ボートライト)、ジェニファー・ハドソン(ロザリン)、アリシア・キーズ(ジューン・ボートライト)、ソフィー・オコネドー(メイ・ボートライト)、ポール・ベタニー(T・レイ・オーウェンズ)、ヒラリー・バートン(デボラ・オーウェンズ)、ネイト・パーカー(ニール)、トリスタン・ワイルズ(ザック・テイラー)、ションドレラ・エイヴリー(グレタ)

映画は映画だ

新宿ミラノ1 ★★★

新宿ミラノのチケット売り場前。舞台挨拶のあった回は満席

■ヤクザはヤクザだ

ポン監督からリアルな演技を求められた映画俳優のスタは、アクションシーンの立ち回り(韓国語でも「タチマワリ」なのね)で熱くなり、共演者を二人も病院送りにしてしまう。危険人物と目され相手役が見つからなくなったスタは、窮余の策でヤクザのガンペを担ぎ出す。彼の本物のリアルさには、たまたま居合わせたクラブでポン監督も驚嘆していたし、何よりガンペは元俳優志望だった。状況を聞かされてもガンペがひるむはずもなく、スタに「マジでやるなら」という条件まで出してくる。こうして演技は素人ながら喧嘩は本物のガンペと、ちょっぴり高慢なスタとの真剣勝負のような撮影が始まることになる。

スタとガンペの描き方が面白い。服装を白と黒にして映像的にも対照的な二人と印象付けているが、似たもの同士に他ならない。二人も途中で気づいたようだ。でなきゃ映画のこととはいえ、延々と意地を張って殴り合いを続けたりはしないだろう。ガンペはさすがに圧倒的な強さを見せつけるが、スタも俳優歴を武器に一歩も引こうとしない(ポン監督も同じで、ガンペに容赦のない要求をしていた。映画では妥協しないという姿勢か)。

二人の撮影現場をみていると、何故か対抗心というよりは、二人にとってどうしても必要な同化の儀式をしているのではないかと思えてくるのである。それが象徴的なのが干潟でのクライマックスシーンで、殴り合いを続けるうち全身泥まみれになって、遠目では見分けがつかなくなってしまう(この場面も白と黒の服装にするべきだった)。

二人の違いは、もしかしたら世間体を気にしているかいないかという部分だけかもしれない。もっともこれは、二人の属している世界の違いだろうか。俳優のスタは恋人のウンスンと会うのも人目をはばかってばかりだし、会えば真っ先に肉体を求めてしまうから、ウンスンとの間は険悪になるばかりだ。ガンペといえば、なりふりかまわず共演者のミナとのキスシーンを撮影前にリハーサルしてしまうし、強姦シーンでさえ、リアルに徹したつもりでいるのか、平然とやってのけてしまう(注1)。

一方私生活では、スタはウンソンとの密会をネタに強請られるが、それは結局先輩として長年付き合ってきたマネージャーの自作自演の犯行とわかる。が、そんなことも影響してか、ウンソンとの関係を隠そうとはしなくなるし、ガンペは獄中にいるペク会長の指示に逆らってまでパク社長殺しをためらい、そのことで窮地に追い込まれる(注2)。部下への温情(これは以前からだったかもしれないが)や、ミナとの関係の進展も映画の撮影が関係してのことらしい。

そもそも嘘で固めた映画が本物でないかというと、そんなことはないし、本物ばかりを撮った偽物映画はごまんとある。それくらいのことは誰もがわかっていて、それなのにこんな形で取り上げるはどうかと思うのだが、そういう意味での迷いはなく、私にはどこまでも映画のリアルさにこだわろうとするヘンな映画にみえてくる。だからか、撮影現場では相変わらず、「これは映画なのか」というような言葉が飛び交いながら、映画撮影と映画は進展していく(ただしその撮影されている映画の内容はほとんどわからない)。これは映画に対する真摯な想いなのか。それとも単なるアイデアの一つと割り切っているだけなのか。

そうして、それぞれ問題を抱えながら、先にも触れたクライマックスの干潟でのラストシーンの撮影となる。二人の執念がぶつかり合うこの場面は、リアルさを口にしているだけのことはある。が、素手での殴り合いがそう続くわけなどないから、二人が熱演すればするだけ、嘘の部分が多くなっていってしまうことになる。これで、二人の友情で終わるのか、と陳腐な結末を予想したところで、それを見透かしていたかのように、映画にはさらなる場面が付け加えられていた。

その場面とは、ガンペによる、唐突で残忍極まりないペク社長の殺害場面である。ここに至る過程のセリフがすごい。「すっかり俳優らしくなった」ガンペは、スタに行き先を聞かれて、「映画を撮りに」と答える。冗談としか思っていないスタは「カメラもないのに?」と聞き返すのだが、ガンペは「お前がカメラだ」と言うのだ。まるでこれから俺がやることをカメラになって全部記憶しておけとでもいうように。

所詮スタとは住む世界が違うのだ、映画は映画でしかない、であるのなら、ガンペの自首は不要になるが、そこまで彼を悪人にしなかったのは観客への配慮だろうか。何にしても、ガンペが少しは変わってきているような描き方をしていたので、これは思わぬ展開だった。

このラストがなければ、この映画の価値は半減していたことだろう。そうは思うのだが、このラストがもたらす不快感も相当なものがある。ガンペの行動は理解出来ないし、それにこれだと「短い人生、無駄にするな」(注3)ではなくなってしまうと思うのだが。

監督のチャン・フンはキム・ギドクの元で助監督をしていたという。そして製作・原案がそのキム・ギドクときき、なるほどそれで『悲夢』と通じる入れ子設定になっていたわけか、と。で、ついでに、同じようなわかりにくさがあることにも納得してしまったのだった。
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注1:さすがにこれはどうかと思う。というかリアルとは関係ないか。好意を持っていたミナも泣いてしまっていた(もっともその前にミナは「あれって本当にやりませんよね」と訊いていたんだよな)。反対にミナの入水を目撃して、映画の撮影と気づかずに助け出してしまう場面がある。このあと二人が関係を持つことになるきっかけにもなっているのだが、これはガンペが脚本を読んでいないことになってしまうから感心できない。ガンペはミナに惚れていたのだろう、強姦の件もミナに謝ってはいた。しかし、そうはいっても撮影にかこつけてやったことを、そんなに簡単に許してしまっていいものだろうか。ついでながら、ウンソンの扱いもひどいものだった。が、彼女の場合は、スタの心境の変化で最後に救われる。

注2:殺さなかったパク社長の裏切りで、窮地に立ったガンペだが、しかし、ガンペもそのあとパク社長に手心を加えられていた(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注2:完全に立場が逆転してしまうが、しかし、ガンペもパク社長からまったく同じ扱いを受けるのだ(ペク会長からは許してもらえなかったようだが)。

注3:このセリフは二人が出会ったクラブで、「俳優を目指していた」と言うガンペにスタが返したもの。スタに共演を持ちかけられた時、ガンペにはこのセリフが頭をよぎっていたはずである。
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原題:・・剩・髏€ ・・剩・、 英題:Rough Cut

2008年 113分 韓国 ビスタサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チャン・フン[・・弡・n 製作・原案:キム・ギドク[・€・ー・普n 撮影:キム・ギテ

出演:ソ・ジソプ[・護ァ€・ュ](イ・ガンペ/ヤクザの幹部)、カン・ジファン[・菩ァ€嶹・n(チャン・スタ/映画俳優)、ホン・スヒョン[嶹作・嶸пn(カン・ミナ/女優)、コ・チャンソク[・黴€・ス・掾n(ポン/映画監督)、チャン・ヒジン[・・彧ャ・пn(ウンソン/スタの恋人)、ソン・ヨンテ[・。・ゥ夋怐n(ペク/ヤクザの会長)、ハン・ギジュン[﨑懋クー・早n(パク社長)、パク・スヨン[・菩・・=n(イ室長/スタのマネジャー)

パッセンジャーズ

新宿武蔵野館3 ★★★

■死を受け入れるためには

観てびっくり、私の嫌いな手法を使ったひどいインチキ反則映画だった。なのに不思議なことに反発心が起きることもなく、静かな安心感に包まれて映画館をあとにすることができた。

100人以上が乗った航空機が着陸に失敗し、機体がバラバラになって炎上する大惨事となる。わずかに生き残った5人のカウンセリングをすることになった精神科医のクレアは、生存者の聞き取り調査を進める過程で、不審な人物を見かけるし、会社発表の事故原因とは違う発言をする生存者がいて、不信感を強めていく。グループカウンセリングの参加者は、回を追うごとに減ってしまうし、不審者にはどうやら尾行されているようなのだった。

また、生存者の中でカウンセリングは必要ないと言って憚らないエリックの言動もクレアを悩ます。事故が原因で躁状態にあるのか、エリックはクレアを口説きまくるのだ。当然のように無視を続けるクレアだが、エリックの高校生のようなふるまいに、次第に心を許し、あろうことか精神科医としてはあってはならない関係にまでなってしまう(あれれれ)。

航空会社追求にもっと矛先を向けるべきなのに、エリックとのことを描きすぎるから、妙に手ぬるい進行になっているんだよな、と思い始めた頃、もしやという疑問と共に、話の全体像が大きく歪んでくる。そうなのか。いや、でもさ……。

何のことはない。クレアも乗客の1人であって、実際には生存者などいなかった、という話なのだ。つまり、死にきれないクレアやエリックやパイロットなどが、生と死の境界のような場所で繰り広げていた、それぞれの妄想(がそのまま映画になっている)なのだった。

最初、私はこれをクレア1人が作り上げた世界と思ってしまったのだが、そうではないようだ。自分の死が納得できない人間の住む世界を複数の人間で共有しているらしい。そして、死を受け入れられるようになるとその人は消えて、つまり死んでいくわけだ。グループカウンセリングの参加者が減ったのは、陰謀による失踪などではなかったのである。

しかしとはいえ、クレアだけは事故の生存者でなく、カウンセラーになっているのはずるくないだろうか。クレアの場合、他の乗客とは違って死を受け入れる以前に、乗客であることすらも否定していたというのだろうか。そんなふうにはみえなかったし、説明もなかったと思うのだが。

結末がわかった時点で、謎だった人物の素性も判明する。すでに他界してしまった大切な人が、死を受け入れるための手助けに来てくれていたというのだ。うれしくなる心憎い設定なのだが、その人たち(エリックにとっては犬だった)のことを本人が忘れてしまっていては意味がないような気もしてしまう。まあ、気がついてしまうということは、すべてのことがわかってしまうことになるから、他にやりようがないのだろうが。そしてむろん、そのことよりも、何故自分のためにそうまでしてくれたかということを知ることが大切と言いたいのだろう(私としてはトリックの強力な補強剤になっているので、とりあえずは文句を言っておきたかったのだな)。

また、喧嘩をしたことをずっと悔やんでいて、いくら電話をしても連絡がとれないクレアの姉エマについても、ほとんど誤解をしていた(エマも航空機の同乗者だったのではないかと思ってしまったのだ)。電話に出てこないのは、エマが生きている人間だからで、だから最後の場面になるまで(これはもう実際の世界の映像である)、エマはクレアの手紙(「姉さんのいない人生は寂しすぎる」と書かれたもの)を読んでいなかっただけなのだ。

ありもしない世界(そういいきれるのかと言われると困るが)でのことだから、いくらでも話は作れてしまうわけで、それにイチャモンをつけてもキリがないのだが、それよりそんなトリッキーなことをされて腹が立たなかったのは、この作品が、不測の死を迎えることになっても、せめて納得して(仕方がないという納得であっても)死にたいという、大方の人間が多分持っているだろう願望を、具現化してくれたことにありそうだ。

人はすべてを納得して死にたいのではないだろうか。死が幸福であるわけがないが、少なくとも不幸というのとも違うのだよ、と言っているような希有な映画に思えたのである。

と書いてきて、急に気になったことがある。クレアとエリックは死の前の航空機内であれだけ心を通わせていたのに、何故別世界の中ではカウンセラーと生存者という対照的な存在として現れたのだろう。むろんまた2人の心は繋がっていくのだが、でも、ということは、やり直してみないことにはわからないくらいの危うい関係だったのだろうか(って、こんなことは思いつかない方がよかったかも……)。

それに(もうやめた方がいいんだが)、エリックは「事故の後は、まるで生まれ変わったみたいに感じる」と言っていたが、これではクレアとのことはすっかり清算してしまったみたいで、あんまりではないか。ま、それ以上にクレアのことを賞賛して埋め合わせはしていたけれど(クレアもわかっていないのだからどっちもどっちなのだけど)。

考えてみると、エリックは死ななくてはいけないのに「生を実感」しているなんともやっかいな患者なのだった。彼に死を受け入れさせることは、クレア以上に大変だったのかもしれない。そうか、だからクレアは精神科医として(ばかりではないが)現れ、エリックを診てあげる必要があったのだ。というのは、好意的すぎる解釈かしら。それにエリックは、クレアより先に自分たちの立場に気づくから、この解釈は違ってると言われてしまいそうだ。

いままで特別感心したことのなかったアン・ハサウェイだが(好みじゃないってことが一番だが)、この作品では精神科医という役柄のせいもあり、自己抑制のきいた、あるいはきかせようという気持が伝わってくる落ち着いた演技をしていて好感が持てた。

原題:Passengers

2008年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ショウゲート 日本語字幕:松浦美奈

監督:ロドリゴ・ガルシア 製作:ケリー・セリグ、マシュー・ローズ、ジャド・ペイン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン 脚本:ロニー・クリステンセン 撮影:イゴール・ジャデュー=リロ プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:トム・ノーブル 音楽:エド・シェアマー

出演:アン・ハサウェイ(クレア・サマーズ)、パトリック・ウィルソン(エリック・クラーク/乗客)、デヴィッド・モース(アーキン/パイロット)、アンドレ・ブラウアー(ペリー/クレアの上司、先生)、クレア・デュヴァル(シャノン/乗客)、ダイアン・ウィースト(トニ/クレアの隣人、叔母)、ウィリアム・B・デイヴィス、ライアン・ロビンズ、ドン・トンプソン、アンドリュー・ホイーラー、カレン・オースティン、ステイシー・グラント、チェラー・ホースダル

いのちの戦場 ―アルジェリア1959―

新宿武蔵野館3 ★★★

武蔵野館に展示してあったブノワ・マジメルによる映画の写真展写真7枚とオリジナルポスターの一部(写真がヘタでごめんなさい)

■人殺しの戦場

ブノワ・マジメルが立案、主演したアルジェリア戦争映画。映画の最後に「フランスはアルジェリア戦争を1999年まで公式に認めなかった」という字幕が出る。だからこそ「アメリカがベトナムを描いたようにフランスもアルジェリアを描かねばならない」(これは予告篇にも出てきたブノワ・マジメルの言葉)という。アルジェリア戦争を知らない1974年生まれの彼の想いが伝わってくる、真面目な映画である(注1)。

作戦ミスだか無線連絡の食い違いだかで、同士討ちの末死んでしまった前任者(この夜間戦闘場面で映画の幕があく)の後釜として赴任してきたテニアン中尉は、日常的な戦争という不条理を前にして(そのために失敗も繰り返し)次第に理性を失っていく。

妻子持ちの設計技師が何故志願などしたのだろう。後半に、フランスに一時帰郷したテニアン中尉が、ニュース映画を見ている場面が出てくる。スクリーンには、アルジェリアを語って「平和を保証するのは心の交流」という文言が踊っていた。彼はそのスクリーンの文言に、戦場から離れた本国にいて、戦争の何たるかを知らずに、それこそ踊らされて、ゲリラ戦と化しているアルジェリアの山岳地帯(カビリア地方)まで行ってしまった自分を重ねていたはずである。

軍歴の長い下士官をさしおいて、こうやって赴任してくるのは、どこの国にもあることらしい。テニアンがどこまで中尉としての訓練を受けて来たのかはわからないが、着任早々、フランスとフェラガ=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の二重支配下にあるタイダで、多分見せしめなのだろう、井戸に隠れていたアマール少年以外の村人全員が虐殺されるという惨事が起きる。あまりの惨状を前に、部下への言葉が出てこないでいるテニアン中尉に代わって、ドニャック軍曹は「タイダでみたことを忘れるな」と言う(注2)。

タイダのような「立入禁止区域」での戦闘は、毎日がこうした疑心暗鬼の連続で、テニアン中尉は民間人にカモフラージュしたフェラガを見抜けず醜態をさらしてしまうし、常態化している拷問にも耐えられない。そしてまったくいやらしい脚本というしかなのだが、この2つの出来事をあとになってテニアン中尉に同じようにやらせている。女性と少年が怪しいと、彼はもう最初の時のようには深く疑いもせず、間違った射殺命令を出すし(「立入禁止区域」には入った方が悪いので、咎められることはないのだが)止めさせていた拷問にも自ら手を染めてしまう。

ドニャック軍曹が落ち着いて見えるのは、場数を踏んできたことはもちろんだが、部下にもアルジェリア人がいるという複雑な状況下では、割り切るしかないと腹をくくっているからなのだろう。ドニャック軍曹がフェラガから寝返らせたという者もいれば、第二次世界大戦やインドシナで同じフランス兵として戦った者もいる。裏切りが発覚し、しかしその者を「戦友」として許しても、他の者が家族を殺されたから、と撃ち殺してしまう場面がある。植民地支配による長年のねじれた関係が、すべてを一層ややこしくしているのである。

もっともそのドニャック軍曹にしてからが、最後には、軍隊から脱走してしまうのだ。休暇から戻ったテニアン中尉に「何故戻って来たんです。あんたの居場所はない」と言っていたドニャック軍曹だが、すでにその時点でこれは、テニアン中尉にというよりは、自分に言い聞かせていた言葉だったのではないか。

テニアン中尉が軍隊に戻ったのは、自分の家に居場所がないことを知ったからだろう。民間人まで殺してしまった自分の姿を、彼が家族に見せられるはずがない(声をかければ届くところにいたというのに)。狂人の一歩手前にいて、しかし皮肉なことに家族との関係では、自分とのことを正確に把握していたことになる(注3)。拷問場面では、テニアン中尉は狂ってしまったかに見えたが、そうではなかったのだ。ニュース映画の「心の交流」が戦地のどこにあるのかと、正気の心が別のところから問いかけていたのである。

死んだ仲間が撮影したフィルムをクリスマスイブにみんなで観て、最初ははしゃいでいたもののだんだんみんなの声が小さくなって、しまいには泣き出してしまう、というしょうもない(他に何て言えばいいんだ)場面がある。悪趣味な演出に違いないのだが、戦争映画なんて真面目に撮ったら、すべてが悪趣味になってしまいそうだ。

次の日の朝、テニアン中尉はドニャック軍曹の居場所を尋ねていた(すぐ後の彼のモノローグで、彼はこの日脱走したのだという)。彼を探していてのことかどうか、テニアン中尉は山肌に猪の姿を目にする。そして、双眼鏡で何かを見て笑ったその時、撃たれて絶命してしまう。静かで清々しいくらいの景色と笑顔は、せめてもの餞か。けれど、やがて現れた敵兵の中には、あのアマール少年の姿があった。

拷問を止めさせたり、息子の絵を飾っていたテニアン中尉に親近感を持ったアマール少年だが、テニアン中尉が自分を見失ってからは失望し、軍から抜け出してしまったのだった。もっともこれには、アマール少年の兄がフェラガだったという事情もあるようなのだが。

何とも重苦しい映画である。戦っている当人たちが「インドシナとここはまともじゃない」「チュニジアとモロッコは独立を認めたのに。この戦争はFLNが正しい」などと言っているのだ。テニアン中尉は純粋で真面目な人間だったにしても(ドニャック軍曹に言わせると理想主義者で、だから「中尉が死んだのは幸運」ということになる)、どこまで自分の置かれている立場を理解していたのだろうか。

注1:アルジェリア戦争を扱った映画といえば『アルジェの戦い』(1966、日本公開1967)が有名だが、観ていない。あれはイタリア映画だったはずだが、キネ旬データベース(http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=13792)では制作国がフランス、アルジェリアとなっている。これは完全な誤記だろう。

注2:しかしこれはどっちもどっちで、フランス空軍が禁止爆弾のナパーム弾(特殊爆弾と称していた)を使用し、一面黒こげの死体だらけにしてしまう場面がある。近代兵器に分があるのは当然で、アルジェリア戦争の死傷者数は、最後に出てくる数字でも15倍以上の差があった。

注3:沢山の手紙を未開封のままにしていたのは、家族を目の前にして声をかけられなかったのと同じ理由だろう。

原題:L’ennemi Intime

2007年 112分 シネスコサイズ フランス 配給:ツイン 日本語字幕:齋藤敦子

監督:フローラン・シリ 脚本:パトリック・ロットマン 撮影:ジョヴァンニ・フィオーレ・コルテラッチ 美術:ウィリアム・アベロ 音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:ブノワ・マジメル(テリアン中尉)、アルベール・デュポンテル(ドニャック軍曹)、オーレリアン・ルコワン(ヴェルス少佐)、モハメッド・フラッグ(捕虜)、マルク・バルベ(ベルトー大尉/フランス軍情報将校)、エリック・サヴァン(拷問官)、ヴァンサン・ロティエ(ルフラン)、ルネ・タザイール(サイード/フランス軍兵士、アルジェリア人)、アブデルハフィド・メタルシ(ラシード/ドニャックの部下、アルジェリア人)

旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■形にすると見えてくる

今だったら日本一有名かもしれない旭山動物園も、存続の危機が論議されたことがあったらしい。ありふれた地方動物園のひとつだったことは想像が付くが(といったら関係者は怒るだろうが)、毎年赤字を垂れ流す旭川市のお荷物で、エキノコックス症による閉園騒ぎや、ジェットコースターに頼ろうとした時期まであったという(最後の方で、動物園衰退の象徴だったジェットコースターは解体されてしまったと短く紹介されていた。賑わっている場面が入っていたから「衰退の象徴」というのはあんまりな気がするが)。

限られた予算でできることはあまりなく、冬期開園や夜間開園に、飼育係が解説者になるなどの地道な努力を続けるしかなかったようだ。新市長の誕生をチャンスと捉えた園長が新市長の説得に成功し、億という予算を回してもらったことで旭山動物園は変貌を遂げるのだが、予算獲得に比べたら見過ごしてしまいそうな、園長と飼育係たちが夜を徹して夢を語り合った日エピソードは、それに優るものがある。

たまたま飼育係の中に絵を描くのがうまい男(のちに絵本作家となる)がいたこともあって、みんなの語る夢をそれぞれ絵にし、それが職場に貼られるのだが、こんなふうに夢を、むろん絵に限らないが、具体的な形にしていくのは、とても大切なことだと気づかされるのである。形にしてみると、見えてくることって沢山あるものね。夢を夢のままにしておいても、なかなか実を結んでくれないんじゃないか。

動物の生態を間近に見せる動物園や体験型の動物園の試みは、旭山動物園の前にもいくつかあって、園長は日本各地を回ってそれをビデオに収め新市長に提言するのだが、これも形にして見せるということにつながる。最初は低い金額で釣っておいて、新市長がその気になったのをみて本当のことを言ったり(「でないと話を聞いてくれないでしょ」と)、園長はちゃっかりしたところをみせるのだが、立派なプレゼン術と言い換えるべきか。ま、結局は予算を獲得できるかどうかだったという、いじましい話にもなりかねないのだけど、対象が動物園ともなればいたしかたのない話で……。

映画は、現在の旭山動物園の紹介は最小限にとどめ(これは来園してもらった方がいいしね)、成功物語に焦点を当てている。ただし、数々あるエピソードは、実話がもとでも時間軸などは大幅にいじって適当に都合よくまとめてしまっているようだ。まあ、そのくらいしないと映画にはならなかったのかもしれないのだが。

とはいえ、人以外みんな好きという新入りの、過去のいじめの場面まで入れておいて、でも途中ではほぼ忘れたかのようで、最後になって園長が母親の手紙に触れるという演出だけは、あまり好きになれなかった。

もっとも彼の話から始めてはいても、主人公は彼だけではなく、飼育係の面々に園長だから、一人の人間に関わってもいられなかったのだろうが。飼育係同士の意地の張り合いもあれば、ゴリラの衰弱死(これもある飼育係が担当をはずれたことが原因だったようだ)やチンパンジーの妊娠中毒など、動物園をとりまく外的な問題以外にも、目の前の問題は当然いくつもあって、その配置はいい案配になっていたように思う。

マキノ雅彦は『次郎長三国志』は×だったが、『寝ずの番』とこれはまずまず。監督業も板に付いてきたのでこんな作品にも手をだしたのかもしれないが、わざわざ監督になったのだから、もっと自分の嗜好や主張のはっきりした作品に挑んでもらいたい。それと何にでも長門裕之を引っ張り出すのはやめてほしい。今回の飼育係は年寄りすぎだよね。

  

2009年 112分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督:マキノ雅彦 製作:井上泰一 プロデューサー:坂本忠久 プロデュース:鍋島壽夫 エグゼクティブプロデューサー:土川勉 製作総指揮:角川歴彦 原案:小菅正夫 脚本:輿水泰弘 撮影監督:加藤雄大 撮影:今津秀邦(動物撮影) 美術:小澤秀高 編集:田中愼二 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音楽プロデューサー:長崎行男 主題歌:谷村新司『夢になりたい』 照明:山川英明 製作統括:小畑良治、阿佐美弘恭 録音:阿部茂 監督補:石川久

出演:西田敏行(滝沢寛治/園長)、中村靖日(吉田強/獣医、飼育係)、前田愛(小川真琴/獣医、飼育係)、岸部一徳(柳原清之輔/飼育係)、柄本明(臼井逸郎/飼育係のち絵本作家)、長門裕之(韮崎啓介/飼育係)、六平直政(三谷照男/飼育係)、塩見三省(砥部源太/飼育係)、堀内敬子(池内早苗/動物園管理係)、平泉成(上杉甚兵衛/市長)、笹野高史(磯貝三郎/商工部長)、梶原善(三田村篤哉/市議会議員)、吹越満(動物愛護団体のリーダー)、萬田久子(平賀鳩子/新市長)、麿赤兒、春田純一、木下ほうか、でんでん、石田太郎、とよた真帆、天海祐希

エレジー

シャンテシネ2 ★★★

■都合がよすぎてつけ加えた負荷

60を超えたじじいが30も歳下の美女に好かれてしまうという、男には夢としかいいようのない内容の映画である。原作はフィリップ・ロス。知性も名声もあるロスの実体験か。そんな話を聞かされても面白くはないが、でも、覗き見+なりたい願望には勝てない私なんであった。

自分は50人以上もの女性と付き合ってきたというのに、女の、50人以上からしたらたった5人の、それも「過去の」男であっても気になってしかたない。これは笑える(って、ただ私自身のことではないのと、そして自分でも同じようなことをやりかねない気分だからなのだが)。

男の失われた若さがそうさせている面もあるだろう。女のちょっとした言動にもやきもきしてしまうのだが、女は自分の家族に男を紹介しようとする。つまり本気。けれど、この恵まれた状況を、過去の人間関係にうんざりしている男は、見え透いた嘘で壊してしまうことになる。

話が少しそれるが、別れた妻との息子が、男の元に不倫の相談に来たりする。男は面倒そうにしている。この息子はファザコンなんだろうか。父親に不倫の相談というのも笑止千万なのだけれど、要するに、こういうやっかいな関係を昔作って今に至っていることを、男は後悔しているというわけだ。

また、別の女性(これまた自分の生徒だった時にものにしている。ただ相手も歳をそれなりに重ねているので老いを負い目に感じるようなことはない)と、長年にわたるある種の性的信頼関係が出来ていて(もっともこの女性も、女の存在に感づいて男を責めていた)、この理想的と思ってきた関係と、もしかしたら単なる若い女への欲望とを、比較しての選択だったか。

仲間の教授から注意されても、女との関係は断ち切れずにいたくらいで、だから男のこの感情は私にはわからなかった。もしかしたらこんな都合のよすぎる話では厚かましすぎると思ったのかもしれない(まさか)。

で、2年という時を経て女が再び男の前に現れる際に、男の老いに相当するような、乳癌という負荷を、女にもかけたのだろうか。

どちらも負い目を持った末に、純粋な愛という形を手にするというのがラストの海岸のシーンに要約されているのだけど(多分)、こじつけのような気がしてならなかった。

どうでもいいことだけど、ペネロペ・クルスは、ゴヤの「着衣のマハ」には似てないよねぇ。

原題:Elegy

2008年 112分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ムービーアイ 日本語字幕:松浦美奈

監督:イザベル・コイシェ 製作:、トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、アンドレ・ラマル 製作総指揮:エリック・リード 原作:フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』 脚本:ニコラス・メイヤー 撮影:ジャン=クロード・ラリュー プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:エイミー・ダドルストン

出演:ペネロペ・クルス(コンスエラ・カスティーリョ)、ベン・キングズレー(デヴィッド・ケペシュ)、パトリシア・クラークソン(キャロライン)、デニス・ホッパー(ジョージ・オハーン)、ピーター・サースガード(ドクター・ケニー・ケペシュ)、デボラ・ハリー(エイミー・オハーン)

007 慰めの報酬

新宿ミラノ1 ★★★

■続篇であって、続篇にあらず

話が前作からほとんど時間をおくことのない展開ということもあって、前作で確立した生身のボンド像を継承している。今回は拷問があるわけはないので、生身ではあっても多少スーパー度は戻ってきている。が、基本は前作と変わっていない、つまり『007 カジノ・ロワイヤル』で書いた感想と同じになるので、これについては繰り返さない。

ボンドは使命を遂行しながらもヴェスパーの復讐を胸に秘めていたというのが、今回のキモ。Mたちにはそれがボンドの暴走に見えてしまう(最後に本当のことがわかる)。

にしてはヴェスパーの映像が出ることもなく、それはギャラや肖像権の問題なのかどうかはわからないが、映画としては説明不足ではないか。作品の一部であるMはともかくとして、CIA役のジェフリー・ライトだって続き出だっていうのにさ。

まあ、前作は観ていなくても(忘れていても、つまり私のことだ)そんなには違和感はないのだけどね。ヴェスパーとミスター・ホワイトのことはそうなんだと思ってしまえば、悪役は表舞台にも立つドミニク・グリーンという人物で、全くの別な(というのではないが悪の世界も入り組んではびこっているのだな)わけだし。

怪物用心棒も出てこなければ、メドラーノ将軍にしても使い捨てにすぎないので、悪役たちが手薄な感じもしなくはない。利権話も、石油や鉱物資源などではなく水。金になれば対象が何であれかまわないわけで、これは1999年にボリビアで実際にあった事件を元にしているのだが、利権も含めてごくごく普通のもので駒を並べた印象だ(手詰まり故の逆転の発想なのかも)。

でありながらMI6にはスパイまで忍ばせているしたたかさ。ってほらね、やはりこういうのには不感症になっているから、そんなには驚けないでしょ。

その分アクションをエスカレートさせたのかもしれないが、私のように歳をとってきたものにはめまぐるしすぎた。しかも同時進行しているものにかぶせるような演出が2つも入っているのはどうしたことか。カーアクションなど多少ゆるくなっても、引いたカメラで位置関係をはっきりさせてくれた方が、緊張感は生きてくるはずなのだが。

ボンドガール(イメージとしては違うが)は、魅力的なオルガ・キュリレンコ(エヴァ・グリーンよりずっといい)だが、ボンドはヴェスパーの影を引きずった設定だからベッドを共にするわけにはいかなかったのか、キスまで。カミーユは復讐という目的のためには悪役の相手も辞さずにやってきたというのにね。もっともボンドも、フィールズ嬢とは豪勢なホテルで楽しんでるので、そういう部分ではヴェスパーの影を引きずってなどいない。

小道具は高機能携帯電話やMI6のコンピュータくらいだが、でもこのおかげでMとの連係(でなかったりの)プレーや、世界をそれこそ股に掛けての活躍が可能になっている。股に掛けた部分はカーアクションに似て目まぐるしくて、そこまですることもないと思うが、娯楽作としては十分なデキだ。

が、この作品最大の見所はラストのボンドとMのやり取りだろうか。ボンドは今回の行動とこれからの自分についてMに簡潔に答える。弁明なんだけどグッとくる。

 

原題:Quantum of Solace

2008年 106分 シネスコサイズ イギリス/アメリカ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:マーク・フォースター 製作:マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ 製作総指揮:カラム・マクドゥガル、アンソニー・ウェイ 原作:イアン・フレミング 脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:デニス・ガスナー 衣装デザイン:ルイーズ・フログリー 編集:マット・チェシー、リチャード・ピアソン 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ) 主題歌:アリシア・キーズ、ジャック・ホワイト

出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、オルガ・キュリレンコ(カミーユ)、マチュー・アマルリック(ドミニク・グリーン)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト(フィリックス・レイター)、ジェマ・アータートン(フィールズ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト)、デヴィッド・ハーバー(ビーム)、アナトール・トーブマン(エルヴィス)、ロシー・キニア(タナー)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、ホアキン・コシオ(メドラーノ将軍)、グレン・フォスター(ミッチェル)、フェルナンド・ギーエン・クエルボ(カルロス大佐)、スタナ・カティック、ニール・ジャクソン

地球が静止する日

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■地球に優しく!?(何様のつもり)

どうかなと思う部分だらけなのだが、この手のSFものには目がないため、点数が大甘になっていることをまず断っておく。

なにしろ、胎盤のような宇宙服から複製された人間の体で異星人が現れるところや、たとえ造形が不満(というのとも違うのだが)であっても巨大ロボットが登場すると聞いてしまったら(むろん観るまで知らなかったことだが)もうそれだけでワクワクしてしまう体質なのである。

セントラルパークにやってきた球体宇宙船?には関心できない(こんなのごまかしだい!)が、スタニラフ・レムの『砂漠の惑星』を想わせる増殖型の小型昆虫ロボットにはアドレナリンが吹き出した(ただし予告扁にも使われていた、大増殖したこの昆虫ロボットが競技場を飲み込んでしまうシーンなどにも、細かい注文はつけたい気分ではある)。

とはいえ、話はとんでもなくお粗末。文明で数段優った異星人が、地球を守るために人類を抹殺するしかないというのは納得(反論出来ないもの)だけど、そのための調査に何年も前に先発隊を送り込んでおきながら、間際に異星人クラトゥ(DNAを採取して人間型となっている。でなくても表情の乏しいキアヌは宇宙人ぽいが)の判断でどうにでもなるというのだから。

地球人側(米国の対応に限られているのは映画の事情だがろうが、各国が連携してこの事態にあたれるかというと、現状では難しそうだものね)も大統領(何で最後まで出てこない!)の代理である国防長官が、あわよくば異星人をやっつけられるかも程度の認識で、交戦してしまうのだから恐ろしい。こういう行動に出そうなヤツっていそうだものね。

国防長官は異星人の圧倒的な力の前に、あっさり考えを改めるのだけれど、いくら仕方ないとはいえ、これはこれでなんだかな、なのである。

繰り返しになるが、地球を守るためには人類は不要というのはまさに正論だから、笑ってしまうしかないのだが、異星人の破壊行動だって、それが地域限定(かどうかは?)だとしても、生態系根こそぎの抹殺でしかなく、そのためにノアの箱船もどきの種の捕獲にいそしんでいたのだとしたら、異星人たちの脳味噌もお里が知れていて、技術=知性にあらず、になってしまう(って、これは映画人という人類が考えたのだった)。

そういや、すでに人類と何年も暮らしてきたという先発隊の調査員が、クラトゥに「俺は人間が好きなんだ」みたいなことを言っていたが、そんな発言を聞いてしまっては、この異星人たちの生きていく規範のようなものを訊ねてみたくなってしまうではないか(どう定義して映画を作ったのだろうか)。

異星人の目的が、旧作では核兵器の放棄(冷戦時代の終結)だったものを、地球温暖化問題に置き換えてしまうのだから、まったくもってハリウッドも商魂たくましい。最近このテーマのものが急増しているものね。まあ、それはいいことなんだけどさ。

大作B級映画だよね。私は十分楽しませてもらいました。

 

 

原題:The Day the Earth Stood Still

2008年 106分 ■サイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本語字幕:■

監督:スコット・デリクソン 製作:ポール・ハリス・ボードマン、グレゴリー・グッドマンアーウィン・ストフ 脚本:デヴィッド・スカルパ 撮影:デヴィッド・タッターサル 視覚効果スーパーバイザー:ジェフリー・A・オークン プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:ティッシュ・モナハン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:タイラー・ベイツ

出演:キアヌ・リーヴス(クラトゥ)、ジェニファー・コネリー(ヘレン)、ジェイデン・スミス(ジェイコブ)、キャシー・ベイツ(国防長官)、ジョン・ハム、ジョン・クリーズ、カイル・チャンドラー、ロバート・ネッパー、ジェームズ・ホン、ジョン・ロスマン

ベクシル 2077日本鎖国

新宿ジョイシネマ2 ★★★

■鎖国という壮大な話が最後は同窓会レベルに

ロボット産業で市場を独占していた日本はアンドロイドを開発。脅威を感じた国連は規制をかけようとするが、日本はなんと鎖国をしてしまった、というぶったまげたSFアニメ。荒唐無稽部分以外もアラの目立つ設定なんだけど、例えば『ルネッサンス』のような発想のつまらない作品に比べたらずっと評価したくなる。

舞台はハイテク技術が可能にした完全鎖国(妨害電波で衛星写真にも何も映らないようになっている)から10年後の2077年で、鎖国の間1人の外国人も入国したことのない日本が、いったいどう変貌しているのかという興味で引っ張っていく。

もっとも部分的には貿易は行われているらしく、大和重鋼のDAIWAブランドがアメリカにも入っているような描写がある。日本が市場を独占というのは、もうすでに現時点でも危うそうなのに、そして鎖国などしていたら余計取り残されてしまいそうなのに、引き合いがあるというのは大甘な設定としか思えないが、ま、これは日本人にとっての夢的発想として見逃しとこう。

しかしその10年の間に、日本人はすべてアンドロイド化されてしまったというのだ。そればかりか、日本は陸地としての形は残っているものの山も川も街もなくなっていて、わずかに東京の23区ほどの場所に押し込められた人間(じゃないか)たちが、戦後の闇市のようなスラムで生活していた。そして日本を牛耳っているのは、国家ではなく東京湾の沖合の人口島にある大和重鋼という企業体だった。

鎖国に至った経緯(国際関係)も、一研究者のように見えたキサラギが大和重鋼の社長(途中でなったのか?)で、それも昔は彼だっていったんは逮捕されるような状況(この時は日本もまだ国家として機能していた)だったのに、大和重鋼がいつ日本のすべてを支配してしまったのかもよくわからない。国土の荒廃は金属を食い尽くすジャグによるものと推測されるが、しかしそれだったら何でジャグが入れないように外壁で囲まれている東京までが平坦なのか。

どんな状況を持って来ても私は大歓迎。想像を絶するくらいの設定の方が楽しいのだけど、それに類推可能な部分だってあるのだが、でもやっぱり詳しい説明はしてくれないと。2時間近くでまとめなくてはならない制約があるにしても、ここまで情報不足ではまずいだろう。日本人がアンドロイド化された(が人間としてのかけらが残っている)ことについては説明があったが、なにしろ状況が奇異すぎるから、説明しだすときりがなくなってしまうのかもしれない。

それと関係があるのかないのか、判明したベクシル、レオン(ベクシルの恋人で日本潜入部隊の生き残り)、マリア(レオンは昔の恋人)、キサラギ(マリアとは学生時代からの知り合い)の関係は、お友達繋がりの同窓会のようで、わかりやすいけれどあまりにこぢんまりしすぎだ。その他大勢はアンドロイドなのかもしれないが、悪役はキサラギとサイトウだけで、日本にしても東京の一角と人口島しか語るべき部分が残っていないのでは、どうにもこうにも薄っぺらでなものにしかみえない。

最初に『ルネッサンス』を引き合いに出してしまったが、キサラギも「私たちは進化の最終形態」「人間を母体にした体は選ばれたものだけが進化を遂げ、今や神とは私のことだ」などと『ルネッサンス』のイローナと似たようなことを口走る。ただそう言いながらキサラギ自身は、まだ出来損ないの技術を自分に使うことはためらっていたらしい。実験材料が日本にはいなくなってアメリカにアンドロイドを送り込んだりしていたのだが、逆に感づかれ特殊部隊のSWORDに日本潜入されてしまったというわけだ(これが物語の発端)。

キサラギの正体については、妨害電波を一時的に破って確認した生体反応が3つで、ベクシルとレオンを引くと……というあたりや、キサラギがペットのジャグの頭を撫でてやっている場面があって、こういうわかりやすい観客サービスはいいのだけど、最後にジャグの力を借りて人口島を壊滅させるあたりでは、また説明不足が徒となって乗れなくなってしまう。

ジャグはこの距離は飛べないという説明がぴんとこなかったし、そもそも通路には金属がまったく使われていないのか(ジャグ対策がされているのかもね)、キサラギに通じていたスラムの議長の行動(スラムの外壁を開ける)とか、疑問だらけなのだ。

そういえば、日本に侵入したベクシルはスラムの光景を見て「みんな生き生きしている」と驚いていたが、なに、鎖国をしていない日本以外の世界も決してユートピアにはなっていないってことなのね(ま、そうだろうけど)。ベクシルは「あなたたちが守ろうとしているのは、失って初めて大切だと気づいたもの」とも言っていたけど、そっちは失う前にすでになくしてるんじゃ……。それに、ここを強調してしまうとキサラギのしてきたことを断罪できなくなってしまいそうだ。

マリアがキサラギと運命を共にして、日本は滅亡。そこに特殊部隊のヘリがやってきてベクシルとレオンは助かるのだけど、これがなんだかハリウッド的で。だいたい何でアメリカ女性(に見えないんだけど)のベクシルを主人公にしたのかしらね。

絵の方は「3Dライブアニメ」とかいう方式で作られているらしいが、そちらの興味はあまりなく、よくわからない。でもなかなか迫力のある映像になっていた。ただ表情はもの足りない。出来ればCGにして欲しかったが、それだと予算的に無理なんだろうか。

 

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:曽利文彦 プロデューサー:中沢敏明、葭原弓子、高瀬一郎 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉 脚本:半田はるか、曽利文彦 音楽:ポール・オークンフォールド 主題歌:mink『Together again』
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声の出演:黒木メイサ(ベクシル)、谷原章介(レオン・フェイデン)、松雪泰子(マリア)、朴路美(タカシ)、大塚明夫(サイトウ)、櫻井孝宏(リョウ)、森川智之(キサラギ)、柿原徹也(タロウ)

酔いどれ詩人になるまえに

銀座テアトルシネマ ★★★

■書くことにおいて選ばれし者

説明のしにくい映画は、好きな作品が多いのだけど、これはどうかな。かなり微妙。だって、やる気のない男のだらしない生活、それだけなんだもの。それにその生活は私の理解を超えたものだし。

けれど、こういうだらしない生活は、できないからではあるが、どこか憧れてしまうところがある。だからなんだろう、気分でみせるような映画なのに(そこがいいのかもね)意外と客の入りがいいのには驚いた。2005年作品を今頃公開するのは、配給会社も悩んでいたんだろうけど、ちゃんと需要はあるみたいだ。

飲んだくれては失業を繰り返すチナスキー(マット・ディロン)だが、バーで知り合ったジャン(リリ・テイラー)をはじめ、女には不自由しないようだし、ある時期などよほど運がついていたのか競馬の天才ギャンブラー「ミスタービッグホースプレイヤー」(これはジャンの言葉)となって、高級な靴と服できめまくる。

もっとも「小金を稼いだらすっかり別人」とジャンには不評で、そのせいかどうか2人は別れてしまう(形としてはチナスキーがジャンをふっていたみたいだが)。

ジャンの生き方もチナスキーに負けないものだ。先のことなど考えずにセックスにあけくれる方がいいのだろうか。理解不能なのにこんな2人がなんだかうらやましくもなってきて、やっとよりを戻したのにまた別れるときけば、それはそれで悲しくなるし、ジャンが結局は生活のために好きでもない男(競馬場でチナスキーと一悶着あったヤツじゃないか)と暮らしている場面では目をそむけたくなった。

チナスキーはローラ(マリサ・トメイ)という女との縁で金持ち連中の道楽仲間になったりもするのだが、基本的には惨めすぎる毎日の繰り返しだ。2日でいいから泊めてもらえればと家に帰れば、母は黙って食事を出してくれるが、父親にはすぐ追い出されてしまう。

こんなどん底生活でも、チナスキーには言葉があふれ出てくるらしい。ノートに、メモ帳に、紙切れに、それこそ気が付くと何かを書き綴っている姿が描かれる。凡人には書く行為はなにより苦痛を伴うし客観的な視点だって生まれてしまうから、チナスキーのような生活を送っていて、なおかつ書くというのは、信じがたいものがあるのだが、なにしろ彼には「言葉が湧き上が」ってくるのだ。

きっとチナスキーは選ばれし者なのだろう。それを自覚しているからこそ、週に2、3本も短篇や詩をニューヨークタイムズに投稿し続け、職業を尋ねられれば作家と名乗っていたのだ。なにしろ「言葉を扱う能力に自信がなくなった時は、他の作家の作品を読んで心配ないと思い直した」というんだから。なにが自信がなくなっただか。

それとも「言葉が湧き上が」ってくると言っていたのは照れなのか。自分の才能を信じ、努力を怠らなかったからの、最後の場面の採用通知なのかもしれないのだが。でも凡人の私には「愛なんていらない」と、毛虱をうつされた仲のジャンに言ってしまう部分がやっぱり気になってしまうから、選ばれし者にしておいた方が安心なんである。

これが作家の修業時代さ、と言われてしまうと、いやそうは言ってないんだけど、どうもねー。

  

原題:Factotum

2005年 94分 ビスタサイズ アメリカ、ノルウェー 配給:バップ、ロングライド 日本語字幕:石田泰子

監督:ベント・ハーメル 製作:ベント・ハーメル、ジム・スターク 製作総指揮:クリスティン・クネワ・ウォーカー 原作:チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』 脚本:ベント・ハーメル、ジム・スターク 撮影:ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド プロダクションデザイン:イヴ・コーリー 衣装:テラ・ダンカン 編集:パル・ジェンゲンバッハ 音楽:クリスティン・アスビョルンセン、トルド・グスタフセン

出演:マット・ディロン(ヘンリー・チナスキー)、リリ・テイラー(ジャン)、マリサ・トメイ(ローラ)、フィッシャー・スティーヴンス、ディディエ・フラマン、エイドリアン・シェリー、カレン・ヤング

リトル・チルドレン

シャンテシネ2 ★★★

■情熱が消えてしまったのは何故か

ナレーターがいて、ご丁寧に登場人物それぞれの心理描写までしてくれる。ベストセラーの映画化ではあるが、まるで小説をそのまま映像化しようとしたようにもみえる。

ただこの心理描写は映画に適したものかどうか。本と違って言葉での説明は、映画の場合立ち止まっている余裕がないので、ちょっとでも状況が飲み込めずにいると大変なことになる。今回もどこでどうまごついたか、話がよく理解出来ずに終わってしまった感じがするのだ。

サラ・ピアース(ケイト・ウィンスレット)は夫のリチャード・ピアース(グレッグ・エデルマン)との間にルーシー(セイディー・ゴールドスタイン)という娘がいる専業主婦だ。ビジネスに成功したリチャードと裕福で満ち足りた生活を送っていたはずだったが、ある日、リチャードのちょっと変わった性癖を目の当たりにしてしまう。

ブラッド・アダムソン(パトリック・ウィルソン)は司法試験に2年連続で失敗中。有名なドキュメンタリー映像作家の妻キャシー(ジェニファー・コネリー)と息子のアーロン(タイ・シンプキンス)がいて、だから逆に肩身が狭い。サラが妻に代わってアーロンの世話をするブラッドと出会ったのは、不思議なことでも何でもなかったが、より親密になったのは、リチャードの知られざる側面を知って通販で衝動買いをした赤い水着のせいだったかもしれない。

このあたりまでの語り口は、的確で迷いがない。夏のプールで親しくなっていく2組の親子をワンカットで追いながら、状況が少し変わった様子(違う日なのだ)を何度か繰り返すという印象深いショットもある。

サラを語るのにリチャードからはじめていたくらいだから、語り手の対象となるのは2人だけに限らない。映画はこの静かなボストン郊外の町ウッドワード・コートに48歳の性犯罪者が釈放されて、母親のもとに帰るという報道に及び、そのロニー・マゴーヴィー(ジャッキー・アール・ヘイリー)という男についてまで述べはじめるのだ。

またロニーを異常に敵視する元警官のラリー・ヘッジス(ノア・エメリッヒ)にも言及する。もっともブラッドはラリーのことは少しだけだが知っていて、ロニーの見張りをしていたラリーに、アメフトのチームに入るよう誘われるという繋がりにはなっているのだが……。

ロニーを常に庇う母親は、ロニーの相手にシーラ(ジェーン・アダムス)という女性をさがし息子のためにデートを演出するのだが、そのせっかくのデートで理解しがたいロニーの性癖が、シーラを傷つける場面がある。直前でシーラはロニーに彼女の最後のデートで置き去りにされた辛い思い出を語っていただけに、ロニーの行為は罪が重い。

話をサラとブラッドに戻すと、2人が不倫に走ったのはいわば必然と言いたいのだろう。そして、それは回を重ね、ついにはブラッドの司法試験当日にそれを放棄させ、1泊の不倫旅行に出かけるいう大胆な行動を2人にまでなる。

このあとアーロンの口から新しい友達の名前が出て、キャシーもサラの存在を知ることになり、ピアース一家を夕食に招くのだが、その席でキャシーはサラと夫との関係に気付いてしまう。ただ、ここから先は、話がなんだかちっともわからなくなる。

確証を得たのにキャシーのしたことといえば、自分の母親にブラッドの監視を頼むという馬鹿げたもので、その母親も流石に夜のアメフトの練習までは付き合いきれない。そしてその日、警官チームはブラッドの活躍で初勝利を収めるのだが、ブラッドがトライを決めた時、誰よりも喜んだのは試合を観に来ていたサラで、抱き合った2人は駆け落ちを決意する。

が、この決意は予期せぬ出来事で簡単に、しかも2人共覆ってしまうのである。サラは待ち合わせ場所の公園にロニーが現れたことで。ブラッドは公園に急ぐ途中で、いつもは声をかけられもしなかった若者たちにスケボーを勧められ、怪我をしてしまうからなのだが……。

ちょっと待ってくれ。この結末は一体何なのだ。ナレーターの関心も最後は2人から離れて、ロニーもラリーも悪い人ではなかったが……というあきれるような陳腐さで終わってしまうのである。

『リトル・チルドレン』は、ついぐだぐだ書いてしまったくらい人物造型のスケッチ集として観ているぶんには面白いのだが、2人の情熱がどうして消えてしまったのかはさっぱりわからない。いや現実なんてそんなものかもしれず、こんな展開もありそうな気がしてしまうのだが、映画としてはどうか。ま、2人同時というところが十分映画的ともいえるのだけど。

【メモ】

サラが公園で「主夫」として仲間の注目を集めていたブラッドにキスをしたのは、いたずら心からだったが……。

サラが感想を述べる読書会では『ボヴァリー夫人』が取り上げられていた。

原題:Little Children

2006年 137分 スコープサイズ R-15 提供・配給:ムービーアイ

監督:トッド・フィールド 製作:アルバート・バーガー、トッド・フィールド、ロン・イェルザ 製作総指揮:ケント・オルターマン、トビー・エメリッヒ、パトリック・パーマー 原作:トム・ペロッタ 脚本:トッド・フィールド、トム・ペロッタ 撮影:アントニオ・カルヴァッシュ プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:メリッサ・エコノミー 編集:レオ・トロンベッタ 音楽:トーマス・ニューマン

出演:ケイト・ウィンスレット(サラ・ピアース)、パトリック・ウィルソン(ブラッド・アダムソン)、ジェニファー・コネリー(キャシー・アダムソン)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ロニー・マゴーヴィー)、ノア・エメリッヒ(ラリー・ヘッジス)、グレッグ・エデルマン(リチャード・ピアース)、フィリス・サマーヴィル(メイ・マゴーヴィー)、ジェーン・アダムス(シーラ)、セイディー・ゴールドスタイン(ルーシー・ピアース)、タイ・シンプキンス(アーロン・アダムソン)、レイモンド・J・バリー、メアリー・B・マッキャン、トリニ・アルヴァラード、サラ・バクストン、トム・ペロッタ

ボルベール〈帰郷〉

シネフロント ★★★

■男なんていらない

映画のはじまりにある墓地の場面で、大勢の女たちがそれぞれの墓を洗い、花を飾っていた。墓石の形も花も違うのだが、スペインの風習も日本のそれとそうは変わらないようだ。強い日差しと風のせいもあるのかもしれないが、女たちの表情が、死者を想って悲しみいたむというより、自分たちの中から湧き出る生を抑えきれずにいるという印象。男たちの姿がほとんど見えないのは本篇と同じで、生と死をめぐる女たちの話にふさわしい幕開けとなっている。

15歳の娘パウラ(ヨアンナ・コボ)からの連絡で家に戻ったライムンダ(ペネロペ・クルス)は、パウラが夫のパコを殺害した事実に驚くが、パコに本当の父親ではないのだからと関係を迫られ、包丁で刺してしまったと聞くと、パウラにはパパを殺したのはママだと記憶に刻めと言って、警察には届けず遺体を始末する決意をする。

それはないだろうと思ってしまうから、居心地の悪いまま映画を観ることになるのだが、これにはちゃんとした理由があるのだった。もちろん、理由がわかるのは映画も後半になってからである。ライムンダもやはり酔った父親に強姦されて、身籠もった子がパウラだったというのだ。つまりパコの自分は父親でないという発言は本当だったわけだ。

パコは失業したというのに飲んだくれて(これは失業したから、なのかも)、自慰だけでは性欲を発散できずに娘に手を出してしまうのだから、とんでも男でしかないのだが、ライムンダはパコの死体を彼が好きだった場所に運んで埋め、そこにある木を墓に見立てて生年などを刻んでいたから、パコを全否定しているわけでもなさそうだ。

もっともいくら娘のためとはいえ、死体を隠してしまうのだからあまり褒められたものではない。たまたま休業になって鍵を預かっていた隣のレストランの冷蔵庫に、死体をとりあえず入れてしまうのはわからなくもないが、それを冷蔵庫のまま運び出すのはどうか(調べられたらすぐばれてしまうだろう)。女たちの連係プレーを演出したかったのかもしれないが、埋める時点では協力者は娼婦だけだから、穴を掘るのだって無理そうなのだ(あまりくだらないところにケチを付けたくないんだが、これはちょっとね)。

パウラが事件を起こした時に入ってきたのが、故郷のラ・マンチャに住む伯母の死の知らせ。巻頭の墓掃除は、姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)とパウラの3人でボケだした伯母を見舞った折りのことだったが、事件を抱えたライムンダは、今度は帰るに帰れず、ソーレと伯母の家のそばに住むアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)に葬儀のことを任せるしかない。

ライムンダは葬式から戻ったソーレの自宅兼美容室を訪ねるが、何故かそこに4年前に死んだはずの母イレーネ(カルメン・マウラ)の匂いと影を感じる……。

イレーネについてはソーレも死んだと思っていたのだが、本人が噂通りに現れてびっくりという展開(どうせ姿を現すのだから車のトランクに隠れることはないと思うが)。仲の悪かったライムンダには会わせられないと、映画はちょっとコメディタッチとなる。イレーネをロシア人だと客まで騙したり、というようなのもあるのだけど、そういうのではなく、たとえば、まだ死体のあるレストランにライムンダがいる時、ちょうど近所に来ていた映画の撮影隊が食事のできる場所を探していて、ライムンダはオーナーの不在をいいことに、近所の女たちの手や食料品を借りて、勝手にレストランを開いてしまったりするというような。

ペドロ・アルモドバルの作品を観るといつも感じることなのだが、この人にはやはり独特の感覚があるということだ。肯定できる時もできない時にもそれはあって、うまく表現できないのだが、自分とは違う人種だと感じざるを得ない。この作品の場合だと、死体を作っておいてのこの悠長さ、だろうか。それを恐れているのでも楽しんでいるのでもない、というのがどうもわからないのだ。

それはともかく、レストランは評判で、次の予約までもらってしまい、打ち上げパーティの席では、ライムンダはイレーネに教わったという『Volver』を歌う。歌も聴かせるが(ペネロペ・クルスが歌っているかどうかはエンドロールで確認できなかった)これを隠れていたイレーネが聞いていて、2人の和解へと繋がっていく。

ただ、ここからの展開はどうしてもイレーネによる説明となるので少々飲み込みにくい。イレーネの夫は彼女を死ぬまで裏切り続けていて、アグスティナの母親と浮気をしていたというのだ。4年前の火事で死んだのは夫と浮気相手で、イレーネはそのこと(火を付けたのも彼女)で身を隠していた。

ライムンダがイレーネと確執を持つに至ったのは、父の強姦をイレーネがどう対処したかによるだろう。ライムンダにしてみれば、自分がパウラにしたように自分を守って欲しかったはずだが、そこらへんははっきりしたことがわからない。イレーネは「許して欲しくて戻った」と言っているのだから、そしてライムンダがそのことを納得したのならそれで十分だろうか。

しかし、ライムンダの事件は彼女が10代の頃で、父とアグスティナの母親の死は4年前だから、それまでに10年という月日が経っていることになる。これはずいぶん長いから、4年前の真相をライムンダが知ったとしても気が晴れはしないだろう。イレーネもそのことはわかっているのだろう。それに2人を始末したのは、娘のためというよりはやはり自分のためだったはずだ。ライムンダと暮らすのではなく、アグスティナの最期に付き合おうとするのはそのこともあるのではないか。

複雑になるので触れなかったが、アグスティナは不治の病になってしまい、彼女にとってもヒッピーの母の失踪は気になるのだろう、ライムンダにイレーネが本当に現れたら(最初は幽霊の噂が立っていた)母のことを訊いてくれと何度も言われていたのだ。

ライムンダはイレーネにパコのことを話そうとする。イレーネの答えは「あとでゆっくり聞きましょう」というもの。この感覚はいい。

それにしても男達をここまで愚かに描く意図がわからない。アドモバルの女性讃歌。物語を作った結果。ま、どうでもいいか。それにパコなんて姿を消しても誰も気にもしないし、彼の捜索で警察が動いたという形跡もないのだ。まるで男なんていらない、といってるような映画なのである。でもさー、だったら胸を強調するような服をペネロペ・クルスに着せて、胸元を真上から撮る必要はないよね。

原題:Volver

2006年 120分 シネスコサイズ スペイン 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル 製作:エステル・ガルシア 製作総指揮:アグスティン・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 編集:ホセ・サルセド 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ペネロペ・クルス(ライムンダ)、カルメン・マウラ(イレーネ/母)、ロラ・ドゥエニャス(ソーレ/姉)、ブランカ・ポルティージョ(アグスティナ)、ヨアンナ・コボ(パウラ/娘)、チュス・ランプレアベ(パウラ伯母さん)、アントニオ・デ・ラ・トレ(パコ/夫)

12

GyaO ★★★

■ゲームの世界で生きていたティ!?

『レベル・サーティーン』の公開に合わせて、その前作にあたるというこの『12』も、パソコンテレビGyaOで配信されていたらしい。が、私が知ったのは昨日のことで、でも34分の短篇だというので、そのまますぐ観てしまったのだった(ずっと行っていなかったせいか、GyaOではまた登録するようにいわれた)。

34分の短篇ながら、キー様(ちゃんと同一人物が演じているみたい。ま、こっちでも回想場面とDVDに残っている映像だけで、ほとんど顔は見せないのだが)誕生秘話という側面も少しだけあって、なかなか興味深いものに仕上がっている。

半年前に学校から消えたキーと、今朝チャットをしてきたというチャイタワット(彼は直接はキーのことを知らない)の話を聞いたティは、バエとミクの4人でキーの家を訪ねるが、母親はキーは半年前に死んだと言う。

その晩、単なる懐かしさからか、それとも気になることでもあったのか、家でPCをしていて、課外授業の映像が入っているDVDを見始める。するとその時、キーがティのPCにアクセスしてくる。

ティが課外授業の映像を見ていることをPCの向こうにいるキーが知っているのは、すでに『レベル・サーティーン』と同等の世界を作ってしまったということなのか(ティはまわりを見渡すが、もちろん自宅に監視カメラらしいものは見あたらない)。ただ、このあと父親にPCの電源を切られてしまうことまで予言してしまうあたりの不気味さは、『レベル・サーティーン』以上だろうか(予言でないとすると父親もからんでいてのことで、それだとさらに恐ろしい話になる)。

キーはゲームにはまって、理想の空想世界の話ばかりをしていたという。そこでの彼は時間すら自由にできる全能の支配者で、そこを13と名付けていたようだ。彼が選んだ人間しか住めないその世界は、非常に遠くにあって常人は来れない(これはキーによる説明)のだが、彼は一緒に行こうと友達を誘っていたのだ。

このあとティにケータイがかかってきたところで、上から窓枠が落ちてくる事故があるのだが、これがキーの仕業なのかどうかははっきりしない(ケータイの声も違うようにも聞こえるし、そのことについてはごまかしていた)。

生物の授業中にバエが、今夜ハッキングしてキーに連絡をとろうと言い出す。するとティのケータイにキーから「僕を追跡したらバエにつきまとう」と、脅かしともとれる連絡が入る(授業中のケータイは当然教師の怒りを買うことになるが、これはミクがティの身代わりになってくれる)。

この晩、ティはまたキーとチャットをするのだが、ティのPCにバエが割り込んできて、キーのIPアドレスから場所を特定したと報告が入る。そして、それは学校だという。が、そこに昨日と同じようにいつまでもPCをやめないことを怒った父親がやってきて、ティはPCをやめざるをえなくなる。

翌日学校へ行くとバエが来ていない。そのうち学校へ警察とバエの両親がやってくる(ティの父親は警官だったのだな)。バエの行方がわからないらしい。

そしてその夜、ミクから誘われたティは彼と一緒に学校へ乗り込んで行く……。

『レベル・サーティーン』の最後にある際立ったアイディアこそないが、ゲームとして進行して行く構成にはなっていないので、もちろん単純に比較などできないのだが、こちらの方が怖い。少なくともティは自分からゲームに参加したわけではないのだ。ティの父親が絡んでいるのなら別だが、そうでないとするとオカルト色も強い。でありながら、こちらの方がまだ入りやすいのは、『レベル・サーティーン』のように引いてしまいたくなる要素がうまく隠されているからだ。

生物学教師によるキーに対する性的いたずらという事件(学校で見たPCには課外授業映像の続編があった)もうまく織り込んで、しかしここではミクがキーによってゲームに参加させられていて、ティは焼却炉でバエの二の舞になる(焼却炉の中でティが見つけるバエの持ち物がよくわからなかった)という結末となる。

『レベル・サーティーン』を観てしまっているので、結末自体の衝撃度はそう高くないのだが、ミクがこれでレベル12を終えたとなると、その先の13には何が待っているのかはやはり知りたくなる。ミクに13の課題をすぐに与えるというキーのセリフがあって、TO BE CONTINUEDという文字があらわれる。で、それが『レベル・サーティーン』ということになるのだろうが、この映画の続きも観たいではないか。

ミクがゲームをしていたとなると、それはいつからで、どんなことをしてきたのか。考え出すときりがなくなってくる。

ティの父の関与もだけど、もしかしたら教師だってゲームをやっていた可能性がありだからだ。とはいえこれは「先生はバエとティが脅迫メールを送ったので彼らを殺しに来たが、自分の行動に反省し自殺した」と、完璧な筋書きができたとことをキーが喜んでいたから違いそうだ。でもこれだって、全部キーの演出とこじつけることはできるだろう。

原題:12

2006年 33分48秒 ビスタサイズ タイ

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル

出演:(資料がないので、役名のみ書いておく)ティ、ミク、バエ、チャイタワット、キー、ティーの父/警察官、サク先生

主人公は僕だった

新宿武蔵野館2 ★★★

■魔法のタイプライター

作家の書いた物語通りに動く男がいるなんて、ホラーならともかく、至極真面目な話に仕上げるとなると、やはり相当な無理がある。だからその部分が納得出来るかどうかで、作品の評価は決まる。で、私はダメだった(そのわりには楽しんじゃったけど)。

最初に「ハロルド・クリック(ウィル・フェレル)と彼のリスト・ウォッチの物語」と出るように、国税庁の検査官である彼は、もう12年間も、同じ時間に起き、同じ回数歯を磨き、同じ歩数でバス停まで行き……同じ時間に眠り、仕事以外は人と関わらない生活を送っていた。ある日、彼の1日のはじまりである歯磨きをしていて「1日のはじまりは歯磨きから」という女性の声を聞く……。

声の主はカレン・アイフル(エマ・トンプソン)という作家で、実はスランプ中。といったってもう10年も新作を出せていないのだが、それでも出版社がペニー・エッシャー(クイーン・ラティファ)という見張り役(助手と言っていたが)をよこすくらいだから実力はあるのだろう。問題なのは彼女の作風で、彼女の作品の主人公は、常に最後は死んでしまうのだ。それは現在執筆中の作品も同様だったが、しかしまだその方法を思いつけずに悩んでいたのである。

ところで、ハロルドは何故そんな声を聞いたのだろう。規則正しい単調な生活を送っていて、何かを考えるようなこととはほとんど無縁だったからではないか(いや、そういう生活をしていたからって声が聞こえるはずはないんだけど、そう言ってるんだと思う、この映画は)。

しかし、声が聞こえるようになって、しかもその声の語る内容が自分の行動そのものを書いた小説としか思えなくなっていたハロルドに、「このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった」という声は、もう無視できないものとなっていた。

このままでは自分は死んでしまうと、ハロルドは自分の力で考え行動し始める。文学研究家(プールの監視員もしてたけど)のジュールズ・ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)の力を借りて。

最初こそハロルドの言うことを信じなかったヒルバートだが、ハロルドの聞く声に文学性を感じとり、その声の内容を分析して、これは悲劇だから死を招くのであって喜劇にすればいいと助言する。喜劇は結婚で、それには敵対する相手と恋に落ちるのがいいと言うのだ(飄々としてどこか楽しげなダスティン・ホフマンがいい。私はあんまり彼が好きではないんだけどね)。

実はハロルドには敵対する相手がいて、しかもお誂え向きに恋にも落ちかかっていたのだ。その相手は、未納の国税があると出かけて行ったパン屋の店主のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)で、未納の22%は軍事費など納得出来ない金額を差し引いたものというのが彼女の主張だった。

右肩から上腕にかけてお大きな刺青のあるアナにはちょっとぎょっとさせられるが、彼女の人柄で店は繁盛していて、貧しい人にも優しく接している。アナの当たり前の好意(であり、税務調査に意地悪したことのお詫び)のクッキーのプレゼントも、杓子定規のハロルドは受け取れず、お金を払うと言ってしまう。ハロルド、というかウィル・フェレルのぎこちなさが微笑ましい。

が、益々彼女に嫌われてしまっては「悲劇」になってしまう。その報告を聞いたヒルバートは、今度は、その声は君の行動をなぞっているだけなのだから何も行動するなと言う。何もしないで物語が進行するかどうかを見極めようというのだ。

仕事を休み、電話にも出ず、テレビも消せないでいるハロルドを襲ったのはクレーン車で、ハロルドの家の壁をいきなり壊してしまう。番地を間違えただけだったのだが、このアパートに穴の開いた場面が美しく見えてしまって、妙な気分を味わえる。「ひどい筋書き」という彼に、ヒルバートはもっといろんなことをやってみろと言う。

ハロルドは壊れた家を出、同僚の所に転がり込み、やってみたかったギターを弾き、アンの気持ちも射止めるのだが(すげー変わりよう!)、それは「幾多のロックに歌われているようにハロルドは人生を謳歌した」にすぎない。と、やはりアイフルの声で説明されちゃうのである。

このあとハロルドはヒルバートの仕事場で見たテレビ番組によって声の主を突き止め、アイフルに電話する。物語を書きながら自分に電話がかかってくるのにびっくりするアイフルというのもヘンなのだが(それより前提がおかしいのだけどさ)、この場面はまあ楽しい。

だけどここから先はちょっと苦しい。アイフルはシンプルで皮肉に満ちた最高のハロルドの死に方を思いつき『死と税金』(これがアイフルの書いていた小説の題)を完成させる(最後の部分は紙に書いただけ)。それを読んだヒルバートは、最高傑作と持ち上げ、他の結末は考えられないから君は死ぬとハロルドに言う。いつかは死ぬのだから死は重要ではないけれど、これほど意味のある死はない、気の毒とは思うが悲劇とはこういうもの、って、おいおい。で、文学にうといハロルドまでそれを読んで同じような感想を持ち、アイフルにどうか完成してくれと言うのだ。

こうなってしまっては映画は、もはやアイフルの心変わりに頼るしかなくって、死んだはずのハロルドはリストウォッチの破片が動脈を押さえて(えー!)救われることになる(とアイフルが書くのね)。

こんな陳腐な結末にしてしまったものだから、小説は「まあまあの出来」になってしまうのだが(映画もだよ)、アイフルは納得のようだ。大傑作ではなくなってしまったが、このことにより作家も自分の生を取り戻したのではないか(彼女自身が死にたがり病だったのではないかと思わせるエピソードもあった)、そんなことを思わせる結末だった。でも、しつこいんだが、これでこの映画も価値を低めてしまったような……。

もう1つ気になったのはハロルドの行動を規定するのが、アイフルではなく彼女の使っているタイプライターであることだ。物語をアイフルが変えても、紙に書きつけてもハロルドには何も起こらないが、それをタイプで文字を打って文章となって意味が成立した時点で、それは起きるのだ(ハロルドからの電話の場面)。だがこの映画では、そのことにはあまり触れようとはしない。わざわざアイフルの肉声をハロルドに聞かせているのは恣意的ではないだろうから、そこまでは考えていなかったのかもしれない。うーむ。

哲学的考察をユーモアで包んだ脚本は、すっかり忘れていた未納の税金についても、死を決意したハロルドがアナに、ホームレスにパンをあげていた分が控除になるから未払いでなくなる、と最後にフォローするよく出来たものだ。だけど、そもそも発想に無理があるとしかいいようがないのだな。

【メモ】

「私のおっぱいを見ないで」とアナに言われたハロルドは「アメリカの役人として眺めていたんです」と答えていた。

カレン・アイフルはヘビー・スモーカー。ペニー・エッシャーがニコチンパッチをすすめても「長生きなんて興味がない」と言う。

画面にはデータ処理をイメージした白い情報がときたま入る。これが作家が作った世界を意味しているのかどうかは確認していないが、あまりうるさくないスタイリッシュなもの。

原題:Stranger than Fiction

2006年 112分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:梅野琴子

監督:マーク・フォースター 製作:リンゼイ・ドーラン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン、エリック・コペロフ 脚本:ザック・ヘルム 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:ケヴィン・トンプソン 編集:マット・チェシー 音楽:ブリット・ダニエル、ブライアン・レイツェル 音楽スーパーバイザー:ブライアン・レイツェル
 
出演:ウィル・フェレル(ハロルド・クリック)、エマ・トンプソン(カレン・アイフル)、マギー・ギレンホール(アナ・パスカル)、ダスティン・ホフマン(ジュールズ・ヒルバート)、クイーン・ラティファ(ペニー・エッシャー)、リンダ・ハント、トニー・ヘイル、クリスティン・チェノウェス、トム・ハルス

机のなかみ

テアトル新宿 ★★★

■映画に見透かされた気分になる

家庭教師をしてぐーたら暮らしている馬場元(あべこうじ)は、新しく教え子になった女子高生の望月望(鈴木美生)の可愛らしさに舞い上がってしまう。勉強そっちのけで、望に彼氏の有無や好きな男のタイプを訊いたりも。気持ちが暴走してしまって、次の家庭教師先で教え子の藤巻凛(坂本爽)に「俺、恋に落ちるかも」などと言う始末。藤巻の部屋にギターがあるのを見つけると、それを借りて俄練習に励み、望の好きな「ギターの弾ける人」になろうとする。

望への質問に、好きな戦国大名は?と訊いてしまうのは、お笑い芸人あべこうじをそのまま持ってきたのだろうが、演技という目で見るとなんとももの足りない(ちなみに望の答えは長宗我部で、馬場は俺もなんて言う)。ただ彼のこの空気の読めない感じが、後半になってなるほどとうなずかせることになるのだから面白い。

望の志望は、何故か彼女の学力では高望みの向陽大だが、秘かに期するところがあるのか成績も上がってくる。ところが馬場の方には別の興味しかないから、図書館に行く口実でバッティングセンターに連れて行っていいところを見せようとしたりと、いい加減なものだ。望も「私、魅力ないですか」とか「彼女がいる人を好きになるのっていけないことですかね」と馬場の気を引くようなことを時たま言ってはどきまぎさせる。そうはいっても望の父親の栄一郎(内藤トモヤ)は目を光らせているし、イミシン発言の割には望が馬場の話には乗ってこないから、思ってるようには進展しないのだが。

馬場には棚橋美沙(踊子あり)という同棲相手がいて、一緒に買い物をしているところを望に見られてしまう(彼女がいる人という発言はこの場面のあとなのだ)。「古くからお付き合いのある棚橋さん」などと望に紹介してしまったものだから、棚橋は大むくれとなる。

この棚橋のキャラクターが傑出している。トイレのドアを開けっぱなしで紙をとってくれと言うのにはじまって、女性であることをやめてしまったかの言動には馬場もたじたじである(というかそもそも彼はちょっと優柔不断なのだな)。ところが、馬場が本当に望に恋していることを知ると、ふざけるなといいながら泣き出してしまうのだ。この、踊子あり(扱いにくい名前だなー)にはびっくりで、他の役もみてみたくなった。違うキャラでも光ってみえるのなら賞賛ものだ。

合格を確信していた馬場と望だが、望は大学に落ちてしまう。馬場は1人で喋って慰めていたが、泣き出した望に何を勘違いしたのか肩を抱き、服を脱がせ始める。何故かされるままになっている望。帰ってきた父親がドアを開けて入ってきたのは、馬場がちょうど望の下着を剥ぎ取ったところだった。

ここでフィルムがぶれ、テストパターンのようになって、「机のなかみ」というタイトルがまたあらわれる。今までのは馬場の目線だったが、ここからは望の目線で、同じ物語がまったく違った意味合いで、はじめからなぞられていくことになる。

で、後半のを観ると、何のことはない、望が好きなのは馬場などではなく(って、そんなことはもちろんわかってたが)、やはり馬場の教え子(このことは望は知らない)の藤巻なのだった。そして、彼は親友多恵(清浦夏実)の恋人でもあったのだ。

多恵のあけすけで下品(本人がそう言っていた)な話や、望の自慰場面(最初の方でボールペンを気にしていたのはこのせいだったのね)もあって、1幕目以上に本音丸出しの挿話が続くことになる(馬場の下心だったら想像が付くが、女子高生の方はねー)。

そうはいっても、映像的にはあくまでPG-12。言葉ほどにはそんなにいやらしいわけじゃない。でもとにかく、あの1幕目の問題場面に向かって進んでいくのだが、そこに至るまでに、その場面を補足する、藤巻を巡る女の駆け引きと父親の溺愛ぶりが描かれる。

父については、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしていて、それを望が断れないでいるといったものだが、駆け引きの方は少し複雑だ。望の本心を知っている多恵は、いちゃいちゃ場面を訊かせたり、藤巻との仲が壊れそうなことを仄めかしたり、あげちゃおうか発言をしたり、そのくせ藤巻のライブには嘘を付いて望を行けなくさせたりしていたのだ。

そうして合格発表日(合格した藤巻と多恵が抱き合って喜んでいるのを望は茫然として見ていた)の夜のあの場面を迎えるのだ。しかも父と藤巻と多恵が揃って、馬場と望のいる部屋に入ってきて……というわけだったのだ。で、この修羅場が何とも恥ずかしい。それは多分私にも下心があるからなんだろうけど(しかしなんだって、こーやって弁解しなきゃいけないんだ)。

ただこのあとにある、望と大学に入った藤巻との対話はよくわからなかった。だいたいあのあとにこういう場が成り立つというのが、不自然と思うのだが、とにかく望は藤巻の態度を問い質していた。藤巻のはっきりしない、ようするに多恵と望の両方から好かれているのだからそのままでいたいという何ともずるい考えを、望は本人の口から確認するのだが、しかしこのあと「藤巻君はそのままでいいの、私が勝手に頑張るだけだから」になってしまっては、何もわからなくなる。いや、こういうことはありそうではあるが。

これだったら、別れることになった棚橋と、洗濯機をどちらが持っていくかという話しているうちに「ごめんね、俺、ミーちゃんのこと大好きなのに浮気して……」と言って棚橋とよりを戻してしまう馬場の方がまだマシのような。ま、だからって馬場がもうよそ見をしないかというと、それはまったくあてにならないのであって、そもそももう望のことは諦めるしかない現実があるからだし、あー、やだ、この映画、もう感想文書きたくないよ。

【メモ】

馬場は望の父から再三「くれぐれも間違いのないように」と釘を刺されるのだが、これってすごいことだよね。

馬場の趣味?はバッティングセンター通い。そこで1番ホームランを打っているというのが自慢のようだ。

棚橋は見かけはあんなだが、うまいカレーを作る。そのカレーを馬場は無断で、自作のものとして望月家に持っいってしまう(この日は望月家もカレーだった)。

修羅場で望にひっぱたかれた多恵は、その理由がわからない。

本当の最後は、1人でバッティングセンターに来た望がホームランを打ち、景品のタオルをもらう場面。

2006年 104分 ビスタサイズ PG-12 配給:アムモ 配給協力:トライネット・エンタテインメント

監督:吉田恵輔 製作:古屋文明、小田泰之 プロデューサー:片山武志、木村俊樹 脚本:吉田恵輔、仁志原了 撮影:山田真也 助監督:立岡直人 音楽:神尾憲一 エンディング曲:クラムボン「THE NEW SONG」
 
出演:あべこうじ(馬場元)、鈴木美生(望月望)、坂本爽(藤巻凛)、清浦夏実(多恵)、踊子あり(棚橋美沙/馬場の同棲相手)、内藤トモヤ(望月栄一郎/望の父)、峯山健治、野木太郎、比嘉愛、三島ゆたか

クィーン

シャンテシネ1 ★★★

■興味などないが、しかし驚きの英王室映画

1997年8月31日に起きたダイアナ元皇太子妃の事故死がもたらした英王室の騒動を、女王エリザベス2世(ヘレン・ミレン)を主人公にして描いた作品。

まず何よりエリザベス女王を映画に登場させてしまったことにびっくりする。なにしろ事件からはまだ10年しか経っていないわけで、第三者にとってさえこれほど記憶の新しい事件となると、対象が王室であろうがなかろうが至るところに差し障りが出るのは当然で、しかしうがった見方をするなら、すでにその時点で第1級の話題作になっているのだから、興行成績の約束された企画が日の目を見ただけということになる。

それにしても日本ではとても考えられないことで、大衆紙では王室スキャンダルや批判が常態化しているイギリスならではか(むろんよくは知らない)。しかも王室ばかりでなく、最近では求心力が低下したとはいえ現役の首相を(070511追記:ブレア首相は6月27日に退陣することを表明)を俎上に乗せているのだから、驚くしかない。

そして映画は、時間軸としては1997年の5月に英国首相にトニー・ブレア(マイケル・シーン)が勝利する時期から始めているし、最後もエリザベス女王とブレアが事件の2ヶ月後に散歩する場面となっている。題名は『クィーン』ながら、主役はこの2人だろうか。

国が総選挙に湧く中、エリザベス女王に投票権のないことに触れ「1度でいいから自分の意見を表明してみたい」と彼女につぶやかさせ、女王の特殊な地位と不自由さを強調する。ダイアナはすでに民間人、と声明を出さずにいると王室に非難が集中する。このあと、エリザベス女王がひとりで運転していた車が川で立ち往生してしまい、涙を流す場面がある。その時、彼女は立派で美しい鹿を見る。他愛のない演出だが、これが意外にぴったり決まっていた。

人気絶頂で首相になったブレアは、ダイアナの事故に対してはエリザベス女王とは対照的な行動を取り(「国民のプリンセス」とダイアナを称す)、ブレア人気をうかがわせるのだが、エリザベス女王には敬意を払い続け、助言を惜しまない。すでに「国民を理解することが出来なくなったら、政権交代の時期かも」と自問していたエリザベス女王はブレアの意見を入れて、世論も好転するのだが、新聞の見出しは「女王、ブレアに跪く」と容赦がない。しかし当のブレアは「彼女は神によって女王になったと信じている」とそれ以前からエリザベス女王を弁護しているように描かれている。

当人たちは否定しそうだが、2人にはかなり好意的な内容ではないか。立場がないのは、「ダイアナは生きていても死んでもやっかいだ」と悪態をつき鹿狩りばかりしているフィリップ殿下(ジェームズ・クロムウェル)や、意見はあってもエリザベス女王には頭の上がらないチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)であり、エリザベス女王に夫がそこまで気をつかわなくてもいいと思っていそうなブレア夫人(ヘレン・マックロリー)で、この3人はあのままだと少し可哀想だ。

とはいえ、実際どこまでが本当でどこまでが創作なのだろう。ニュース場面をまぶしてダイアナの事故死から1週間を切り取った脚本は、正攻法の素晴らしいものである。が、そう言ってしまっていいものかどうか。イギリスのことなどさっぱりの私には何もわからないし、映画には感心したものの興味はほとんどないし。

ところで、エリザベス女王の見た鹿はロンドンの投資銀行家に撃たれてしまうのだが、彼女はあの鹿に蹂躙されている自分の姿を見たのだろうか。でも事実は、多分ブレアが去っても、まだ彼女は死ぬまで女王として君臨するのだろう(ブレアは「私が迎える10人目の首相」なのだそうな)。それとダイアナ人気だって、ある意味では王室人気が根強いということになると思うのだが。

原題:The Queen

2006年 104分 ビスタサイズ イギリス、フランス、イタリア 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・フリアーズ 製作:アンディ・ハリース、クリスティーン・ランガン、トレイシー・シーウォード 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、スコット・ルーディン 脚本:ピーター・モーガン 撮影:アフォンソ・ビアト プロダクションデザイン:アラン・マクドナルド 衣装デザイン:コンソラータ・ボイル 編集:ルチア・ズケッティ 音楽:アレクサンドル・デプラ
 
出演:ヘレン・ミレン(エリザベス女王)、マイケル・シーン(トニー・ブレア)、ジェームズ・クロムウェル(フィリップ殿下)、シルヴィア・シムズ(皇太后)、アレックス・ジェニングス(チャールズ皇太子)、ヘレン・マックロリー(シェリー・ブレア)、ロジャー・アラム(サー・ロビン・ジャンヴリン)、ティム・マクマラン(スティーヴン・ランポート)

ブラッド・ダイヤモンド

新宿ミラノ1 ★★★

■ディカプリオが主演なのにキスシーンがない

最近アフリカを舞台にした映画が多いが、これもアフリカのダイヤモンドをめぐる利権を描いた作品。ダイヤの争奪戦が悪玉と善玉という切り口で描かれるのはこの作品も同じだが、善玉側に立場の違う3人を配して、ダイヤを通して見えてくる欲望を、ダイヤに翻弄される姿を、そしてダイヤを仲介してできた絆を、角度を変えて映しだす。

1999年のシエラレオネ。反政府軍RUFに拉致されたソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)はダイヤモンドの採掘場で強制労働をさせられる。そこで偶然100カラットほどの大粒のダイヤを見つけて隠すが、政府軍の襲撃にあって捕まってしまう。

メンデ人の漁師にすぎないソロモンにとって何より大切なのは家族。愚直な彼は見つけたダイヤを、拉致で引き離された家族を取り戻す駆け引きの道具にする、というのが映画の設定だが、彼にももう少し欲をまぶしておいた方が、流れとしては自然になったのではないか(と考えるのは私が俗なだけか)。

ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)はローデシア出身の元傭兵。アフガニスタンやボスニアにもいたという。今はシエラレオネの反政府組織から武器と交換で手に入れたダイヤを密売業者に流している。彼の立場は複雑だ。足を洗いたいと思っているが、南アフリカにある秘密の武装組織の大佐(アーノルド・ヴォスルー)にも借りがあるようで、そう簡単には今までのしがらみから抜け出せそうもない。

密輸に失敗したダニーは刑務所に投獄されるが、そこでRUFのポイズン大尉とソロモンのやりとりを聞いて巨大なピンク・ダイヤの存在を知る。ダニーにとってはピンク・ダイヤはこの世界から抜け出すチャンス。とはいえ、状況によっては長年身に染みついた悪が、どう作用するかは彼自身にもわからなさそうだ。

釈放されたダニーは、バーでアメリカ人ジャーナリストのマディー・ボウエン(ジェニファー・コネリー)と出会う。彼女はRUFの資金源となっているダイヤ密輸ルートを探っていて、ダニーの正体を知ったことで、匿名でいいからと情報提供を求めてくる。

マディーが追っているのは密輸の証拠か、ジャーナリストとしての名声か。自分の書いた記事を読んだからといって誰かが助けにくるわけではないし、また自分が悲しみを利用して記事を書いていることも自覚している。とはいえ「確かにひどい世だが、善意もある」と思っていて、ダニーにはそれがないと言い放つ。

ダニーは裏から手を回してソロモンを釈放させ、彼にはダイヤと引き換えに家族探しを手伝うことを、マディーにはジャーナリストの持つ情報でソロモンの家族を探してくれれば密売の情報を提供することを持ちかける。

それぞれの思惑を持った3人が目指すのは、ギニアにあるアフリカで2番目に大きい難民キャンプであり、ソロモンの息子ディア(カギソ・クイパーズ)がRUFによって少年兵に仕立て上げられたところであり、ピンク・ダイヤの隠し場所である。

キャンプでソロモンは妻と娘に再会するが、ディアの行方はわからない。難民が100万人もいるのに簡単に見つかってしまうのは映画だから仕方がないのか。それとも難民リストで行き先が判明したくらいだから、意外とそういう情報は整理されているのか。難民に反乱兵が紛れ込んでいる可能性があるので停戦までは解放しないというようなことも言っていたが、だとすると難民キャンプというのは収容所でもあるのか。

そんなことは考えたこともなかったが、むろん、映画はそこにとどまってなどいない。あくまで娯楽作だから、市街戦にはじまって、内戦も激化するし、少年兵の襲撃があったり、ダニーの要請した大佐の軍隊がやってきたりと、アクションシーンでも大忙しだ。が、殺伐とした風景を続けて見せられたせいか、感覚が麻痺してしまって、単調にさえ感じていたのだから困ったものだ。

ディアを見つけたソロモンが、その息子から銃を突きつけられる場面は衝撃的だが、ソロモンの説得でおさまるのを当然と思って観ていては、あきれられてしまうかも。しかし前半にあった少年兵に育てあげていく場面はすごみがあった。そうしてこれは、形こそ違え9歳で両親を殺され(母親はレイプも)、傭兵になっていたダニーの生い立ちではなかったか。

映画はRUFから子供たちを取り戻して助けている元教師のベンジャミン(ベイジル・ウォレス)を登場させて希望を語らせ、ソロモンにも「あの子が大人になって平和になればここは楽園になる」と言わせているのだが、さすがに素直にはうなずけない。

ダニーはソロモンの願いを叶え、ピンク・ダイヤも手に入れるのだが、深手を負い、自分の運命を知ることになる。追っ手をひとりで迎えるちょっとかっこつけの場面ではあるが、ディカプリオいいかも。ソロモンに「息子と家に帰れ」と言うセリフは、自分のような人間を作るなと言っているようだ。

最後のマディー(はすでにダニーに密輸について書かれた手帳を託されて立ち去っていた)との電話は、ソロモンのことをたのんだ他は会えてよかったといった簡単なものだが、これも泣かせる。そういえば最初の方とはいえ、マディーには「あなたが証言を拒み、私と寝る必要がないなら去ってよ」とまで言わせていたくせに、あのまま2人はキスもしていなかったのな。

最後は、ロンドンでマディーが取引の写真を撮り、真相が書かれ、ソロモンの証言も得てダイヤ密輸のからくりが暴かれる。これが付け足しのように思えてしまうのは、ダニーによってリベリアに空輸したあとリベリア産の偽造書類で輸出というのがすでに観客(マディーに言ったのだが)には周知ということもあるが、ディカプリオを山で殺してしまったからとかね。

2003年にはキンバリープロセス(ダイヤモンド原石の国際認証制度)の導入で紛争ダイヤが阻止されるようになり、シエラレオネは平和になったが、まだ20万の少年兵がいるというような内容の字幕がでる。あまりにも簡単に平和という言葉がでてきたので、疑ってしまったが、内戦が終結したという意味でなら本当のようだ。ただこの少年兵というのは、どこにどうやっているのだろうか。

どうでもいい話だが、デビアス社の給料3ヶ月分のダイヤモンドのCMは流れなかった。ってあれが映画館であきるほどかかっていたのはもう10年?くらい前でしたね。

 

【メモ】

1999年を印象付けるのに、アフリカのテレビでもクリントンの不倫が流れていた、という演出。いつまで経ってもこうやって使われちゃいますねー。

元教師のベンジャミンがRUFから子供を助けることなど不可能そうだが、彼によると地元の司令官は昔の教え子なのだそうだ。

〈070517追記〉ウィキペディア(Wikipedia)の「ブラッド・ダイヤモンド」の項目に「この映画では、反政府勢力のRUF側にのみ少年兵が登場するが、実際にはシエラレオネ政府軍も少年たちを兵士にしていた」という記事があった。

原題:Blood Diamond

2006年 143分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:今泉恒子

監督:エドワード・ズウィック 製作:ジリアン・ゴーフィル、マーシャル・ハースコヴィッツ、グレアム・キング、ダレル・ジェームズ・ルート、ポーラ・ワインスタイン、エドワード・ズウィック 製作総指揮:レン・アマト、ベンジャミン・ウェイスブレン、ケヴィン・デラノイ 原案:チャールズ・リーヴィット、C・ギャビー・ミッチェル 脚本: チャールズ・リーヴィット 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ダニー・アーチャー)、ジャイモン・フンスー(ソロモン・バンディー)、ジェニファー・コネリー(マディー・ボウエン)、マイケル・シーン(シモンズ)、アーノルド・ヴォスルー(大佐)、カギソ・クイパーズ(ディア・バンディー)、 デヴィッド・ヘアウッド(ポイズン大尉)、ベイジル・ウォレス(ベンジャミン・マガイ)、 ンタレ・ムワイン(メド)、スティーヴン・コリンズ(ウォーカー)、マリウス・ウェイヤーズ(ヴァン・デ・カープ)

マリー・アントワネット

新宿武蔵野館2 ★★★

■わかりあえるはずがない

ルイ15世(リップ・トーン)の孫のルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)に嫁ぐことになった14歳のマリア・アントーニア(キルステン・ダンスト)は、長旅のあと、フランス国境で「お引き渡しの行事」(いきなりこの面倒な儀式ではね)をすませ、はじめてのことに戸惑いながらも1770年にはベルサイユ宮殿で結婚式がとりおこなわれ、無事フランス王太子妃マリー・アントワネットとなる。

母のマリア・テレジア(マリアンヌ・フェイスフル)によって画策されたこの結婚は、オーストリアとフランスの同盟関係強化の意味があった。マリーに課せられたのは世継ぎの生産だったが、錠前作りが趣味のルイ16世(即位は1774年)は性的なことには関心がなく、マリーの努力の甲斐も虚しく、その機会はなかなかおとずれない。

マリーから逃げるかのように狩猟ばかりしているルイ16世とは接点も少ないだけでなく、宮廷では朝目覚めた後、服も自分で着ることができずに寒さに震えるばからしくも制約の多い毎日。おまけに不妊症で不感症と陰口をたたかれては、マリーの興味が、靴、扇子、服、お菓子、酒、カードゲーム(ギャンブル)に向かっても無理はない。このあたりの描写はカタログ的で、きれいでうっとりだし、次から次だし、だから浪費でしかないのだな、と思わせるものだ。

果ては、アメリカの戦勝会で知り合ったスウェーデン貴族のフェルセン伯爵(ジェイミー・ドーナン)との浮気まで。ただ、これもマリーの喜びの表情などはあるものの、そうは深入りした描写にはなってはいない。授かることのなかった子供も出来て、とどこまでもカタログ的な見せ方だ(音楽もやたらポップなもの)。

マリー・アントワネットについては今でも悪評の方が高いのだろうか。この映画のマリーは、ヒロインということもあるし、また少女時代からはじまったこともあってごく普通の素直な愛らしい女の子として描かれている(とはいえキルステン・ダンストひとりに13歳?から37歳までを演じさせるのはやはり無理。が、映画の眼目はそこにはないのでこれは仕方ないだろうか)。不自由で悪意が渦巻く中にあっては堂々としたものだ。

オーストリアからやってきたマリーという状況は、ソフィア・コッポラの前作『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)に通じるものがある。宮殿に幽閉された彼女が外界を知る手だてなども、映画を観ている限りでは兄からの手紙くらいで、そういう意味でもマリーも「ロスト・イン・トランスレーション」状態にあったといいたいのだろう。

映画はほとんど彼女の視点に沿ったもので、アメリカの独立戦争のための援助がルイ16世と側近によって検討される場面もあるが、そこに切迫感などはない。「浪費でフランスを破滅に導く!」などという民衆の声もポスターとしては出てくるが、どこまで彼女に届いていたのだろうか。彼女にとって自分の評価が知り得たのは、オペラで拍手をした時の他の観衆の反応(最初にあった同じような場面では続いて拍手が起きたものが、最後では彼女ひとりだけである)くらいだったという映画の批判(ではなく同情か)があるが、そんなものだったのかもしれない。

フランス革命のざわめきが宮殿の外に聞こえて、はじめてことの異常さに気付いたのではないか。映画はそういっているようである。暴徒がやって来るという時まで狩をしていたルイ16世も似たようなものだったのだろうか。側近に逃亡をうながされても我々はここに残ると言い、マリーもそれに従うのだが、運命を知らないからこその言動ともとれる。映画は、だから破壊された宮殿の一室は映し出すが、飢餓に苦しんだ民衆や革命の様子は最後まで描こうとはしないのである。

宮殿に閉じこめられていたマリーに民衆の姿など見えるはずもなく、彼らのことがわかるはずもないのだといっているようなのだが、でもしかし、これって、ただただゴージャスなだけの映画を作ってしまったソフィア・コッポラ自身、ともいえるような。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 衣装デザイン賞受賞

原題:Marie-Antoinette

2006年 123分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ソフィア・コッポラ 製作:ソフィア・コッポラ、ロス・カッツ 共同製作: カラム・グリーン 製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ、ポール・ラッサム、フレッド・ルース、マシュー・トルマック 撮影:ランス・アコード プロダクションデザイン:K・K・バレット 衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ 編集:サラ・フラック 音楽プロデューサー:ブライアン・レイツェル 音楽監修:ブライアン・レイツェル
 
出演:キルステン・ダンスト(マリー・アントワネット)、ジェイソン・シュワルツマン(ルイ16世)、リップ・トーン(ルイ15世)、ジュディ・デイヴィス(ノアイユ伯爵夫人)、アーシア・アルジェント(デュ・バリー夫人)、マリアンヌ・フェイスフル(マリア・テレジア女帝)、ローズ・バーン(ポリニャック公爵夫人)、モリー・シャノン(ヴィクトワール内親王)、シャーリー・ヘンダーソン(ソフィー内親王)、ダニー・ヒューストン(ヨーゼフ2世)、スティーヴ・クーガン(メルシー伯爵)、ジェイミー・ドーナン(フェルゼン伯爵)、クレメンティーヌ・ポワダッツ(プロヴァンス伯爵夫人)、オーロール・クレマン、メアリー・ナイ、アル・ウィーヴァー、ギョーム・ガリアンヌ

ダーウィンの悪夢

新宿武蔵野館3 ★★★

■「悪夢」として片付けられればいいのだが……

『ダーウィンの悪夢』というタイトルは、映画の舞台となったヴィクトリア湖が「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていることからとられたようだ(これについては、ティス・ゴールドシュミット著、丸武志訳『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』という恰好の本があるので詳しくはそれを参照されたい。読んだのは紹介文だけだが、なかなか興味深かそうな本である)。ここのナイルパーチは、日本のブラックバスと同じく、外来種の導入が既存の生態系を破壊した例として有名だが、そのナイルパーチを肴にタンザニアの現状を切り取って見せたドキュメンタリーである。

肉食のナイルパーチの放流(漁獲高をあげる目的で導入されたらしいが、正確なことはもはや不明という)で、在来種のシクリッド・フィッシュ(熱帯魚)は絶滅の危機に直面する一方、ナイルパーチによってその捕獲から加工、輸出までの一大産業が成立するに至る。

映画はムワンザ市のその周辺をくまなく描写していく。加工業者と工場、輸出に不向きな部分の行き先、EUに魚を空輸する旧ソ連地域のパイロットたち、その相手をする娼婦たち、蔓延するエイズ、ストリートチルドレンなど。目眩のするような内容なので、詳しく書く気分ではないのだが、そのうち印象的なものをいくつかあげておく。

一番の衝撃はナイルパーチのアラがトラックで運び込まれる集積場だ。アラを天日干しにしているのだが、蛆だらけだし、煙があちこちで充満している。残骸からはアンモニアガスも出るという。加工場の清潔さに比べるとなんともはなはだしい差である。

子供たちが食べ物を奪い合う場面がある。ただでさえ少ない量なのに、一部では取っ組み合いになって、それは地べたにまかれ、口にはほとんど入らない。

前任者が殺されたため職にありつけたという漁業研究所の夜警の男は、戦争を待ち望んでいる。夜警よりずっと稼げるからだと言う。

パイロットたちと酒場で興じる娼婦たち。その中のひとりは客に殺されてしまい、後では画面に姿を見せることがない。

飛行場のそばにいくつも散らばる飛行機の残骸。まるで飛行機の墓場のようだ。なるほどと思うほど頻繁に飛行機が飛び立っていく。事故は荷の積み過ぎが原因らしい(管制塔の描写もあって、それを見ているとそればかりとは思えないのだが)。

飛行機は空でやってきてナイルパーチを目一杯積み込んでいく。往路では武器が満載されていて途中のアンゴラなどで降ろされているのではないか。製作者はそれを証明したかったようで、ジャーナリストやパイロットの証言も出てくるが、限りなく怪しいというだけで決定打にまではなっていない。

映画ではこれらがまるでナイルパーチによってもたらされたかのような印象を与えるが(宣伝方法のせいもあるかも)、これだけで判断してしまうのはやはり一面的で手落ちだろう。タンザニアのことをあまりに知らなさすぎる私に言えることは何もない。ただたとえ一面的ではあっても、切り取られていた風景はどれも寒々しいものばかりで、当分脳裏から離れてくれそうにない。短絡的と言われてしまうかもしれないが、人類は滅亡するしかないという気持ちになってしまう映画だった。

【メモ】

2004年 ヴェネツィア国際映画祭 ヨーロッパ・シネマ・レーベル賞
2005年 山形国際映画祭 審査員特別賞 コミュニティシネマ賞
2006年 セザール賞 最優秀初監督作品賞、アカデミー賞 長編ドキュメンタリー賞ノミネート

原題:Darwin’s Nightmare

2004年 112分 ビスタサイズ オーストリア、ベルギー、フランス

監督・脚本:フーベルト・ザウバー

ユメ十夜

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■松尾スズキのひとり勝ち

漱石の『夢十夜』を10組11人の監督で映像化。映画にはプロローグとエピローグもあるが、これだけテンでバラバラなものを無理にくくる必要があったとは思えない(とやかくいうほどのことではないのだが)。

原作は400字詰で50枚程度のもので、映画も1話にして10分少々の計算になる。尺も短いし、なにしろ夢なのだからと割り切れるからか、料理方法は自在という感じで実に楽しめた。

ただ、しばらくするとその印象は驚くほどあせてしまう。1度に10話ということもあるし、いくら凝った画面を創り出しても所詮断片だからか。ま、そういう意味では記憶に残らない方が私には夢らしくみえる(そうでない人もいるかもしれないが)。

原作で面白かったものが映画でも面白かったのは、自在に料理しつつ、とはいえやはり原作に囚われてしまったからなんだろうか。

[第一夜] 妻のツグミは「100年可愛がってくれたんだから、もう100年、待っててくれますか?」と言って死んでしまう。何度も時間が逆行しているイメージが入る。なのに作家の百聞は、100年はもう来ていたんだな、と言う。実相寺昭雄(遺作となった)の歪んだり傾いた映像もこのくらいの時間だとうるさくなく、時間の歪みと相対しているようで効果的だ。外に見えるメンソレータムの広告のある観覧車が安っぽいのだけど、あんなものなのかも。松尾スズキが百閒……イメチェンだ。

[第二夜] モノクロ(短刀の鞘は赤になっている)、サイレント映画仕立て(音はある)。侍なら悟れるはずと和尚に挑発された男が受けて立つが、無とは何かがわからぬまま時間が来てしまう。切腹も出来ずにいると、それでいいのだと言われる。字幕説明ということもあり原作に近い感じがする。が、原作がひとり相撲的なのに、こちらは対決ムードが強い。「それでいいのだ」という救いはあるが、それでいいのかとも。

[第三夜] 子供を背負っていると、その子の目が潰れる。「お父さん、重くない。そのうち重くなるよ」と言われるが、逃げ場などない。そうして言われるがままに着いた先で、自分は人殺しで、子供だった自分を殺したのだと知る。殺した対象が100年前の1人の盲から28年前の自分になっていてよりホラー度が強くなっているが、映像は怖さでは文字にかなわない。6人目の子を身籠もっている鏡子に、子をあやして背負う漱石の部分は、付け足しながらうまい脚本なのだが。最後に「書いちゃおー」とおどけさせなくってもさ。

[第四夜] バスで講演にやってきた漱石だが、そこは何故か面影橋4丁目だった。「見てて、蛇になるから」と言う老人に子供たちが歌いながらついていく。漱石も後を追いながら、昔転地療養をしていた所と思い出す。飛行機が超低空でやってきて爆発する。イメージはバラバラながら、くっきりしたものだ。最近行ったばかりの佐原市の馬場酒造がロケ地として出てくるせいもある。私も子供の頃、蛇になるところ(むろん別のことだが)がどうしても見たくてしかたがなかった記憶がある。この感覚がひどく懐かしい。映画は神隠しをブーメランの笛吹に結びつけているようだ。「夢って忘れちゃうんですよね」(と言って正の字を書いていた)。ですね。

[第五夜] 原作もだが、映画はさらにわからない。「夜が明けて、鶏が鳴くまで待つ」という夫からの電話を受けた側の妻の話にしている(森の中で事故を起こした車に乗っていた夫婦が見た夢)。もうひとりの自分の醜い姿を認めろといっているのが、どうも。あ、でも夫もいいねと言ってました。勝手にしろ。馬に乗る市川実日子に包帯女のイメージははっきり残っているのだが。

[第六夜] ダントツの面白さ。原作でもこれが1番好きだ。仁王を彫る運慶を見た男が、自分にも出来るような気がして挑戦するが、出てきたのは木彫りの熊だった。TOZAWAが披露するアニメーションダンスがとにかく素晴らしいのだが、このオチがいい。何も出てこないどころか、木彫りの熊!とは。うへへ。でも「結局彫る人間にあったサイズのものしか埋まっていない」という解説は(石原良純も)必要かどうかは。

[第七夜] アニメ。特に絵柄が好きというのではないし、原作と同じくらい退屈。巨大な船で旅をしている青年が、自分の居場所を見つけられなくて海に飛び込むまでは同じだが、男が感じるものはまったく逆で、世界って広いんだなというもの。英語のセリフにした意味がわからない。

[第八夜] 床屋の鏡越しに見えた幻影を、子供が巨大なミミズのような生物を捕まえて育てる話に変えている。原稿用紙を前に悩む41歳の漱石。塀の向こうで、女の子たちに「鴎外せんせー」と言われてしまう。よくわからん度はこれまた原作に同じ。

[第九夜] 赤紙が来て戦争に行った夫のためにお百度参りをする妻。死んでいたことを知らずに続けているのが原作なら、こちらは浮気を受け入れられないという意思表示か。子がその扉を開ける。夢らしくない。

[第十夜] 女にたぶらかされて豚に鼻を舐められる話を、ブスは死んで当然と思っている色男が美女に化けたブタの怪物に仕返しされる話に改変している。理屈は付いたが、わかったとはいいずらい。不思議なイメージが消えてしまったのは残念だが、私の見る夢も悪ノリしていることが多いからね(こんなに下品ではないよ)。女に案内された豚丼しかない食堂で、その豚丼のおいしさにはまるが、豚丼のだし汁は汗で、痰入りというおぞましいものだった(豚丼ではなくハルマゲ丼だそうな)。女が正体をあらわしリングで対決となる。ごめんなさい、もう人は殺しません、と言いながら豚をやっつけようとするのだからこの色男もくわせものだ。

 

【メモ】

以下、漱石の『夢十夜』テキトーダイジェスト。

[第一夜] 「100年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と女は死んでいく。言われたとおりにして、日が昇り落ちるのを勘定し、勘定しつくせないほどになっても100年はやって来ない。女に騙されたかと思っていると、石の下から茎が伸び、見る間に真っ白い百合の花が咲き、骨にこたえるような匂いを放つ。花びらに接吻し、遠い空を見ると暁の星がたった1つ瞬いていて、100年はもう来ていたことに気づく。

[第二夜] 侍のくせに悟れぬのは人間の屑と和尚に言われた男が、悟って和尚の首を取ってやろうと考えるが、どうあがいても一向に無の心境になれぬ。次の刻を打つまでに悟らねば自刃するつもりでいた、その時計の音が響く。

[第三夜] 6つになる自分の子を背負っているのだが、目は潰れているし、青坊主である。言葉付きは大人だし、何でも解るので怖くなり、どこかへ打遣ゃってしまおうと考えると、見透かされたように、「重くない」と問われる。否定するが「今に重くなる」と言われてしまう。……森の中の杉の根の処で、ちょうど100年前にお前に殺されたと言われ、1人の盲を殺したことを思い出す。

[第四夜] 年は「いくつか忘れ」、家は「臍の奧」だという爺さんが、柳の下にいる3、4人の子供たちに、手ぬぐいをよったのを見せ「蛇になるから見ておろう」と言う。飴屋の笛を吹き手ぬぐいの周りを回るが一向に変わらない。今度は手ぬぐいを箱に入れ、「こうしておくと箱の中で蛇になる。今に見せてやる」と言いながら河原へ向かい、川に入っていった。向岸に上がって見せるのだろうと思っていつまでも待っていたが、とうとう上がって来なかった。

[第五夜] 神代に近い昔、軍(いくさ)で負け生けどりになるが、女に会いたいと敵の大将にたのむと、夜が明けて鶏が鳴くまでなら待つという。女は白い裸馬に乗ってやってくるが、鶏の鳴く真似をした天探女(あまのじゃく)に邪魔され岩の下の深い淵に落ちてしまう。蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。

[第六夜] 護国寺で運慶が仁王を刻んでいるという評判をきき出かけると、鎌倉時代とおぼしき背景に、運慶が鑿と槌を動かしていた。見物人に運慶は彫るのではなく、掘り出しているのだときかされ、それならと帰って自分でも試すが、明治の木には仁王など埋まっていないと悟る。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

[第七夜] 大きな船に乗っている男が自殺する。海めがけて飛び降りた途端、乗っていた方がよかったと後悔する。

[第八夜] 床屋で髪を切ってもらいながら、鏡に映る女を連れた庄太郎や豆腐屋、芸者、人力車の梶棒を見るが、粟餅屋は餅を引く音だけだ。女が10円札を勘定しているが、いつまでも100枚と言っている。髪を洗いましょうと言われて立ち上がって振り返るが、女の姿はない。代を払って外に出ると金魚屋がいて、金魚を眺めたまま動かない。

[第九夜] 帰ってこない侍の夫を案じて若い妻は3つの子を欄干に縛り、幾夜もお百度を踏むが、夫はとうの昔もう殺されていた。夢の中で母から聞いた悲しい話。

[第十夜] 女にさらわれた庄太郎が7日目の晩に帰ってくるが、熱も出たと健さんが知らせに来た。庄太郎は女と電車に乗って遠くの原へ行き、絶壁(きりぎし)に出たところで、女に飛び込めと言われる。辞退すると嫌いな豚が襲ってくる。豚の鼻頭を洋杖で打てば絶壁の下に落ちていくが、豚は無尽蔵にやってきて7日6晩で力尽き、豚に鼻を舐められ倒れてしまったという。「庄太郎は助かるまい。パナマ帽は健さん(が狙っていた)のものだろう」。

2006年 110分 ビスタサイズ 

原作:夏目漱石
[プロローグ&エピローグ]監督・脚本:清水厚
[第一夜]監督:実相寺昭雄 脚本:久世光彦
[第二夜]監督:市川崑 脚本:柳谷治
[第三夜]監督・脚本:清水崇
[第四夜]監督:清水厚 脚本:猪爪慎一
[第五夜]監督・脚本:豊島圭介
[第六夜]監督・脚本:松尾スズキ
[第七夜]監督:天野喜孝、河原真明
[第八夜]監督:山下敦弘 脚本:長尾謙一郎、山下敦弘
[第九夜]監督・脚本:西川美和
[第十夜]監督:山口雄大 脚本:山口雄大、加藤淳也 脚色:漫☆画太郎

出演:
[プロローグ&エピローグ]戸田恵梨香(女学生)、藤田宗久
[第一夜]小泉今日子(ツグミ)、松尾スズキ(百閒)、浅山花衣、小川はるみ、堀内正美、寺田農
[第二夜]うじきつよし(侍)、中村梅之助(和尚)
[第三夜]堀部圭亮(夏目漱石)、香椎由宇(鏡子)、佐藤涼平、辻玲花、飯田美月、青山七未、櫻井詩月、野辺平歩
[第四夜]山本耕史(漱石)、菅野莉央(日向はるか)、品川徹、小関裕太、浅見千代子、市川夏江、児玉貴志、高木均、柳田幸重、五十嵐真人、渡辺悠、谷口亜連、原朔太郎、佐藤蘭、宇田川幸乃、鶴屋紅子、佐久間なつみ、日笠山亜美、樹又ひろこ
[第五夜]市川実日子(真砂子)、大倉孝二(庄太郎)、三浦誠己、牟禮朋樹、辻修、鴨下佳昌、新井友香
[第六夜]阿部サダヲ(わたし)、TOZAWA(運慶)、石原良純
[第七夜]声の出演:sascha(ソウセキ)、秀島史香(ウツロ)
[第八夜]藤岡弘(正造/漱石)、山本浩司、大家由祐子、柿澤司、土屋匠、櫻井勇人、梅澤悠斗、森康子、千歳美香子、森島緑、小川真凛、水嶋奈津希、広瀬茉李愛
[第九夜]緒川たまき(母)、ピエール瀧(父)、渡邉奏人、猫田直、菊池大智
[第十夜]松山ケンイチ(庄太郎)、本上まなみ(よし乃)、石坂浩二(平賀源内)、安田大サーカス、井上佳子