眉山

2007/05/29 109 ★★

■かっこいい母であってくれたなら(願望)

母の死に至る数ヶ月を娘の目で綴った作品。

32歳の河野咲子(松嶋菜々子)は母の龍子(宮本信子)が入院したという知らせを受けて東京から徳島へ帰る。慌ただしく着いた病室からは、龍子の看護師の仕事ぶりに対する叱責が聞こえてきて、咲子はいきなりイヤな気分になる。

神田生まれの江戸っ子の龍子は、徳島に来てからは小料理屋を切り盛りしながら、女手ひとつで咲子を育ててきた。気っぷがよくて分け隔てのない性格でファンの多い龍子だが、その遠慮のない物言いで衝突することも少なくなかった。娘にとってはそれが耐えられないのだ。

この母を見る娘の視点は大いにうなずけるもので、この場面に親近感を持った人は多いのではないか。ただずるいのは、龍子がちょっとかっこよすぎることだろうか。私の母も龍子と少しながら似た要素を持っているのだが、遙かに年上で、だから加齢による偏狭さも加わっていて(じゃないのかなー。もともとの性格かしらね)、そしてその息子である私も映画の咲子ほどには母のことを本心から考えていないから、それは納得なんだけど。

話がだいぶそれてしまったが、そもそもそういう想いを抜きにしては観られない映画で、作り手もそれを意識していると思われるところがある。映画という完成度は低くなるが、それでもいいかなという、割り切りが感じられるのだ。

咲子は東京でひとりながらちゃんと生活しているキャリアウーマンである。旅行代理店の企画という仕事の厳しさを導入できっちり描いているのに、一旦徳島に帰ってしまうと、会社に連絡をとっている場面こそあるものの、もうそのあとは仕事のことなどすっかり忘れてしまったかのようなのだ。余分と思われるものは思いきって削ぎ落として、母と娘に直接関係するものだけに絞り込んでいるのである。

この母娘は「仕事は女の舞台」(これは龍子のセリフ)と考えていて手を抜かないし(だから仕事の場面が最初だけというのがねー)、互いに相手を頑固と思っていそうだし、やはり似ているのだろう。だから余計父のこととなると素直にはなれず対立してしまうのかもしれない。咲子はかすかに記憶のある父に会いたくて仕方のない時期があったのだが、母には死んだと言われていたのだ。お父さんとは結婚していないけれど、大好きな人の子だからお前を産んだ、と。

そう言われてそのまま長い年月が経ってしまっていたが、龍子の店の元板前で今も信頼関係にある松山(山田辰夫)から、死後渡すように言われていた「遺品」を受け取り、そこにあった篠崎孝次郎(夏八木勲)という男からの手紙の束を読んで、その男が父で、多分まだ生きていることを確信する。

思い切って問いただすと、龍子はお互い様だと言う。咲子が末期ガンを告知しないでいることを知っていたのだ。

映画とはいえ、2人の関係は羨ましい。龍子は、人様の世話にはなりたくないと車椅子に乗ることを拒否したり、人形浄瑠璃では客席で舞台に合わせて小さいとはいえ声を出したり、我が儘な部分も見せるのだが、私の母もこれくらいなんだったら許しちゃうんだけどな(あれ、また自分のことを書いてるぞ)。

咲子が東京に戻って父を訪ねたり、病院の医師寺澤大介(大沢たかお)と恋人になっていく過程を織り込みながら、しかし情報量としては最小限にとどめているため、観客は自分の中にある母への想いという個人的な感情を思い出しながら映画を観ることができるのだ(弁解してやんの)。

そうして映画は、2つの見せ場を用意する。1つは阿波踊りの中での母と父との再会だ。迫力ある阿波踊りが繰り広げられているところを横断する咲子という暴挙もあれば、そもそもこんな混乱の中で出会うという設定自体がボロいのだが、ここでも阿波踊りを隔てた遠景で篠崎と再会を果たした龍子が寺澤に「そろそろ帰りましょうか。十分楽しませてもらったから」というセリフが爽快で、まあいいかという気持ちになる。

2つ目は、龍子が死んで2年後に、献体依頼時に龍子が書いていたメッセージを咲子が読む場面。「娘河野咲子は私の命でした」と書かれたその紙は、本来医学生宛のもので、咲子が読むべきものではないという説明がすでにされていて、この抜け目のなさは感涙度を高めている。

献体はこの作品のもう1つのテーマで、咲子の父が医師であることが龍子に献体をさせたのだし、彼女が咲子の相手の寺澤医師に信頼を寄せた(むろん軽はずみな失言に対してすぐ詫びを入れてきたという部分が大きかったのだろうが)理由があるというわけだ(医学や医師への理解は、篠崎への愛の揺るぎなさからきているはずだから)。

流れであまりけなしていないが、全体として説明不足なのは否めない。30年ぶりに徳島に帰ってきたのだから篠崎にだってもっと語ってもらいたいところだが、語らせたら結局はどこにでもある不倫話にしかならないと逃げてしまっていては、映画にいい点はあげられない。

なのに、こんなダメ映画に泣いてしまった私って……。

   

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:犬童一心 原作:さだまさし『眉山 -BIZAN-』 脚本:山室有紀子 撮影:蔦井孝洋 美術:瀬下幸治 編集:上野聡一 音楽:大島ミチル 主題歌:レミオロメン『蛍』 照明:疋田ヨシタケ 録音:志満順一
 
出演:松嶋菜々子(河野咲子)、宮本信子(河野龍子)、大沢たかお(寺澤大介)、夏八木勲 (篠崎孝次郎)、円城寺あや(大谷啓子)、山田辰夫(松山賢一)、黒瀬真奈美(14歳の咲子)、永島敏行(島田修平)、中原丈雄(小畠剛)、金子賢(吉野三郎)、本田博太郎(綿貫秀雄)

初雪の恋 ヴァージン・スノー

2007/05/27  TOHOシネマズ錦糸町-7 ★

■京都名所巡り絵葉書

陶芸家である父の仕事(客員講師として来日)の都合で韓国から京都にやってきた高校生のキム・ミン(イ・ジュンギ)は、自転車で京都巡りをしていて巫女姿の佐々木七重(宮﨑あおい)に出会って一目惚れする。そして彼女は、ミンの留学先の生徒だった。

都合はいいにしてもこの設定に文句はない。が、この後の展開をみていくと、おかしくないはずの設定が、やはり浮ついたものにみえてくる。これから書き並べるつもりだが、いくつもある挿話がどれも説得力のないものばかりで、伴一彦(この人の『殴者』という映画もよくわからなかったっけ)にはどういうつもりで脚本を書いたのか訊いてみたくなった。それに、ほとんどミンの視点で話を進めてるのだから、脚本こそ韓国人にすべきではなかったか。

ミンは留学生という甘えがあるのか、お気楽でフラフラしたイメージだ。七重の気を引こうとして彼女の画の道具を誤って川に落としてしまう。ま、それはともかく、チンドン屋のバイトで稼いで新しい画材を買ってしまうあたりが、フラフライメージの修正は出来ても、どうにも嘘っぽい。バイトは友達になった小島康二(塩谷瞬)の口添えで出来たというんだけどね。

他にも、平気で七重を授業から抜け出させたりもするし(出ていった七重もミンのことがすでに好きになっているのね)、七重が陶器店で焼き物に興味を示すと、見向きもしなかった陶芸をやり出す始末(ミンが焼いた皿に七重が絵をつける約束をするのだ)。いや、こういうのは微笑ましいと言わなくてはいけないのでしょうね。

七重が何故巫女をしていたのかもわからないが、それより彼女の家は母子家庭で、飲んだくれの母(余貴美子)がヘンな男につけ回され、あげくに大騒動になったりする。妹の百合(柳生みゆ)もいるから相当生活は大変そうなのに、金のかかりそうな私立に通っているし、しかも七重は暢気に絵なんか描いているのだな。

結局、母の問題で、七重はミンの前から姿を消してしまうのだが、いやなに、そのくらい言えばいいじゃん、って。ま、あらゆる連絡を絶つ必要があったのかもしれないのでそこは譲るが、その事情を書いたお守りをあとで見てと言われたからと飛行機では見ずに(十分あとでしょうに)、韓国で祖母に私のお土産かい、と取られてしまう、ってあんまりではないか。メッセージが入っているのは知っていてだから、これは罪が重い。

2年後に七重の絵が日韓交流文化会で入選し、2人は偶然韓国で再会するのだが、少なくてもミンがあのあと日本にいても意味がないと2学期には帰ってしまったことを友達の香織(これも偶然の再会だ)からきいた時点で、ミンに連絡することは考えなかったのか(学校にきくとか方法はありそうだよね)。ミンがすぐ韓国に帰ってしまったのもちょっとねー。それに七重が消えたことで、よけいお守りのことが気になるはずなのに。

再会したものの以前のようにはしっくりできない2人。なにしろ言葉が不自由だからよけいなんだろうね。ミンは荒れて七重の描いた絵は破るし、七重に絵を描いてもらうつもりで作っていた大皿も割ってしまう。お守りの中の紙を見た祖母が(この時を待ってたのかや)、これはお前のものみたいだと言って持ってくる(簡単だが「いつか会える日までさようなら」と七重の気持ちがわかる内容だ)。

ミンは展覧会場に急ぐが、七重の姿はなく、彼女の絵(2人で回った京都のあちこちの風景が描かれたもの)にはミンの姿が描き加えられていた。しかし、これもどうかしらね。夜中の美術館に入って入選作に加筆したら、それは入選作じゃあなくなってしまうでしょ。まったく。自分たちの都合で世界を書き換えるな、と言いたくなってしまうのだな。

ミンは七重を追うように京都に行き、七重が1番好きな場所といっていたお寺に置いてあるノートのことを思い出す。そこには度々七重が来て、昔2人で話し合った初雪デート(をすると幸せになるという韓国の言い伝え)のことがハングルで書いてあり、ソウルの初雪にも触れていた。

そして、ソウルに初雪が降った日に2人は再会を果たす。

難病や死といううんざり設定は避けていても、こう嘘くさくて重みのない話を続けられると同じような気分になる。まあ、いいんだけどさ、どうせ2人を見るだけの映画なのだから。と割り切ってはみてもここまでボロボロだとねー。言葉の通じない恋愛のもどかしさはよく出ていたし、京都が綺麗に切り取られていたのだが。

【メモ】

初級韓国語講座。ジャージ=チャジ(男根)。雨=ピー。梅雨=チャンマ。約束=ヤクソク。

韓国式指切り(うまく説明できないのだが、あやとりをしているような感じにみえる)というのも初めて見た。

七重の好きな寺にいる坊さんとミンが自転車競争をしたのが、物語のはじまりだった。

2006年 101分 ビスタサイズ 日本、韓国 日本語版字幕:根本理恵 配給:角川ヘラルド映画

監督:ハン・サンヒ 製作:黒井和男、Kim Joo Sung、Kim H.Jonathan エグゼクティブ・プロデューサー:中川滋弘、Park Jong-Keun プロデューサー:椿宜和、杉崎隆行、水野純一郎 ラインプロデューサー:Kim Sung-soo 脚本:伴一彦 撮影:石原興 美術:犬塚進、カン・スン・ヨン 音楽:Chung Jai-hwan 編集:Lee Hyung-mi 主題歌:森山直太朗

出演:イ・ジュンギ(キム・ミン)、宮﨑あおい(佐々木七重)、塩谷瞬(小島康二)、森田彩華(厚佐香織)、柳生みゆ(佐々木百合)、乙葉(福山先生)、余貴美子(佐々木真由美)、松尾諭(お坊さん)

俺は、君のためにこそ死ににいく

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★

■靖国で会おう

戦争について語るのは気が重い。ましてや特攻となるとなおさらで、まったく気が進まないのだが……(実は映画もそんなには観たくなかった)。

この映画の最大の話題は、やはり製作総指揮と脚本に名前の出る石原慎太郎だろう。タカ派として知られる石原が戦争映画を作れば、戦争肯定映画になると考える人がまだいるようだが、それはあまりに短絡すぎる。新聞の読者欄にもそういう投書を見かけたが、的外れで自分の結論を押しつけたものでしかなく、かえって見苦しさを感じた。

私は石原嫌いだが、しかし石原であっても特攻を正面から描いたら、真反対の立場の人間が作ったものとそう違ったものは出来まいと思っていたが、この想像は外れてはいなかった。ちゃんとした反戦映画になっているのである。

といって映画として褒めらるものかどうかはまったく別の話で、まあ凡作だろう。

太平洋戦争末期に陸軍の特攻基地となった鹿児島県の知覧。基地のそばの富屋食堂の女将鳥濱トメは、若い特攻隊員たちから母と慕われていた。生前の彼女から話を聞く機会を得た石原が長年あたためてきた作品ということもあって、彼女を中心にした話が大部分を占める。が、何人もの挿話を配したそれは、やはりとりとめのないものになってしまっていた。

何度も出撃しながら整備不良や悪天候で帰還せざるを得ず、最後は本当に飛び立った直後に墜落してしまう田端(筒井道隆)、長男故に父親に特攻を志願したことを言えず、トメ(岸惠子)に父(寺田農)への伝言を頼みにくる板東(窪塚洋介)、朝鮮人という負い目を持ちながらトメの前ではアリランを歌って志願し出撃して行った金山(前川泰之)など、どれもおろそかに出来ない挿話ながら、逆に焦点が絞りきれていない。

そこに、この特攻作戦を立案した大西中将(伊武雅刀)などの特攻を作戦にしなければならなかった事情などもとりあえずは入れて、となっているからよけいそうなってしまう。また、先の挿話も、映画にすることで私などどうしても鬱陶しさを感じざるをえないし、だれてしまうのである。

そうはいっても私の観た映画館では館内の至るところで啜り泣きの声がもれていたから、多くの観客の心に訴えていたのだろうと思われる。

ただ、最後にある、先に特攻で死んでいった人たちが生き残って軍神から特攻くずれになった中西(徳重聡)を出迎える演出や、蛍になって帰ってくるといっていた河合(中村友也)の挿話などは、やはり古臭いとしか思えない。それがトメから聞いた話そのままだとしても、映画にするにはもう一工夫が必要ではないか。

この映画に石原らしさがあるとすれば「靖国で会おう」だろうか(「靖国で待ってる」というセリフもあった)。ある時期まで戦争映画では「天皇陛下万歳」と言いながら兵士は死んでいったらしい(そう言われるとそうだったような)。しかしそれは嘘で「お母さん」と言っていたのだと誰かが批判し(誰なんだろ)、そうだそうだとなったようだが、本当にそうなのか。というより、どちらにも真実があって、それをとやかくいってもはじまらない気がする。それに、死ぬ時に本心を言うかといえば、人間はそんなに単純なものでもないだろうから。

ではあるが、「靖国で会おう」となると話は少し違ってくる。もちろんこれだって否定はしないが、中国や韓国からいろいろ言われるのが石原としては癪なんだろう。ま、私などはそもそも無神論者であるし、靖国神社自体にどうこういう思い入れもないので、靖国参拝問題以前からあっさりしたものなのだが、とはいえ、これについては書き出すと長くなるのでやめておく。

やはりここはせっかく鳥濱トメに焦点を当てたのだから、彼女の目線だけで特攻を語ってほしかった。いままでにも何度か映画にも登場している大西中将などをもってきて概要を述べさせるよりは、庶民にとって特攻がどういうふうに認知されていたかだけを描くだけでも(そうすれば何を知らされなかったかもわかる)、十分映画になったと思うのだ。

でなければ、逆に戦後明らかになった統計データで、特攻の犬死度の高さ(成功率の低さ)をはっきりさせるか、富永恭次陸軍中将のような敵前逃亡将校による特攻作戦があったことなどを描くというのはどうだろうか。

ところで『俺は、君のためにこそ死ににいく』という題名もなんだかあやふやだ。ここにある「君」は何で、映画の中にあったのかどうか。

 

【メモ】

VFX場面は上出来。本物の設計図から作ったという隼も大活躍していた。

2007年 140分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:新城卓 製作総指揮:石原慎太郎 企画:遠藤茂行、高橋勝 脚本:石原慎太郎 撮影:上田正治、北澤弘之 特撮監督:佛田洋 美術:小澤秀高 音楽:佐藤直紀 主題歌:B’z『永遠の翼』 監督補:中田信一郎
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出演:岸惠子(鳥濱トメ)、徳重聡(中西正也少尉)、窪塚洋介(板東勝次少尉)、筒井道隆(田端絋一少尉)、多部未華子(鳥濱礼子/トメの娘)、前川泰之(金山少尉)、中村友也(河合惣一軍曹)、渡辺大(加藤伍長)、木村昇(安部少尉)、蓮ハルク(松本軍曹)、宮下裕治(石倉伍長)、田中伸一(荒木少尉)、古畑勝隆(大島茂夫)、中越典子(鶴田一枝)、桜井幸子(板東寿子)、戸田菜穂(田端良子)、宮崎美子(河合の母)、寺田農(板東真太次)、勝野雅奈恵(鳥濱美阿子)、中原丈雄(憲兵大尉)、遠藤憲一(川口少佐)、江守徹(田端由蔵)、長門裕之(大島の祖父)、石橋蓮司(鶴田正造)、勝野洋(東大佐)、的場浩司(関行男海軍大尉)、伊武雅刀(大西瀧治郎中将)

主人公は僕だった

新宿武蔵野館2 ★★★

■魔法のタイプライター

作家の書いた物語通りに動く男がいるなんて、ホラーならともかく、至極真面目な話に仕上げるとなると、やはり相当な無理がある。だからその部分が納得出来るかどうかで、作品の評価は決まる。で、私はダメだった(そのわりには楽しんじゃったけど)。

最初に「ハロルド・クリック(ウィル・フェレル)と彼のリスト・ウォッチの物語」と出るように、国税庁の検査官である彼は、もう12年間も、同じ時間に起き、同じ回数歯を磨き、同じ歩数でバス停まで行き……同じ時間に眠り、仕事以外は人と関わらない生活を送っていた。ある日、彼の1日のはじまりである歯磨きをしていて「1日のはじまりは歯磨きから」という女性の声を聞く……。

声の主はカレン・アイフル(エマ・トンプソン)という作家で、実はスランプ中。といったってもう10年も新作を出せていないのだが、それでも出版社がペニー・エッシャー(クイーン・ラティファ)という見張り役(助手と言っていたが)をよこすくらいだから実力はあるのだろう。問題なのは彼女の作風で、彼女の作品の主人公は、常に最後は死んでしまうのだ。それは現在執筆中の作品も同様だったが、しかしまだその方法を思いつけずに悩んでいたのである。

ところで、ハロルドは何故そんな声を聞いたのだろう。規則正しい単調な生活を送っていて、何かを考えるようなこととはほとんど無縁だったからではないか(いや、そういう生活をしていたからって声が聞こえるはずはないんだけど、そう言ってるんだと思う、この映画は)。

しかし、声が聞こえるようになって、しかもその声の語る内容が自分の行動そのものを書いた小説としか思えなくなっていたハロルドに、「このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった」という声は、もう無視できないものとなっていた。

このままでは自分は死んでしまうと、ハロルドは自分の力で考え行動し始める。文学研究家(プールの監視員もしてたけど)のジュールズ・ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)の力を借りて。

最初こそハロルドの言うことを信じなかったヒルバートだが、ハロルドの聞く声に文学性を感じとり、その声の内容を分析して、これは悲劇だから死を招くのであって喜劇にすればいいと助言する。喜劇は結婚で、それには敵対する相手と恋に落ちるのがいいと言うのだ(飄々としてどこか楽しげなダスティン・ホフマンがいい。私はあんまり彼が好きではないんだけどね)。

実はハロルドには敵対する相手がいて、しかもお誂え向きに恋にも落ちかかっていたのだ。その相手は、未納の国税があると出かけて行ったパン屋の店主のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)で、未納の22%は軍事費など納得出来ない金額を差し引いたものというのが彼女の主張だった。

右肩から上腕にかけてお大きな刺青のあるアナにはちょっとぎょっとさせられるが、彼女の人柄で店は繁盛していて、貧しい人にも優しく接している。アナの当たり前の好意(であり、税務調査に意地悪したことのお詫び)のクッキーのプレゼントも、杓子定規のハロルドは受け取れず、お金を払うと言ってしまう。ハロルド、というかウィル・フェレルのぎこちなさが微笑ましい。

が、益々彼女に嫌われてしまっては「悲劇」になってしまう。その報告を聞いたヒルバートは、今度は、その声は君の行動をなぞっているだけなのだから何も行動するなと言う。何もしないで物語が進行するかどうかを見極めようというのだ。

仕事を休み、電話にも出ず、テレビも消せないでいるハロルドを襲ったのはクレーン車で、ハロルドの家の壁をいきなり壊してしまう。番地を間違えただけだったのだが、このアパートに穴の開いた場面が美しく見えてしまって、妙な気分を味わえる。「ひどい筋書き」という彼に、ヒルバートはもっといろんなことをやってみろと言う。

ハロルドは壊れた家を出、同僚の所に転がり込み、やってみたかったギターを弾き、アンの気持ちも射止めるのだが(すげー変わりよう!)、それは「幾多のロックに歌われているようにハロルドは人生を謳歌した」にすぎない。と、やはりアイフルの声で説明されちゃうのである。

このあとハロルドはヒルバートの仕事場で見たテレビ番組によって声の主を突き止め、アイフルに電話する。物語を書きながら自分に電話がかかってくるのにびっくりするアイフルというのもヘンなのだが(それより前提がおかしいのだけどさ)、この場面はまあ楽しい。

だけどここから先はちょっと苦しい。アイフルはシンプルで皮肉に満ちた最高のハロルドの死に方を思いつき『死と税金』(これがアイフルの書いていた小説の題)を完成させる(最後の部分は紙に書いただけ)。それを読んだヒルバートは、最高傑作と持ち上げ、他の結末は考えられないから君は死ぬとハロルドに言う。いつかは死ぬのだから死は重要ではないけれど、これほど意味のある死はない、気の毒とは思うが悲劇とはこういうもの、って、おいおい。で、文学にうといハロルドまでそれを読んで同じような感想を持ち、アイフルにどうか完成してくれと言うのだ。

こうなってしまっては映画は、もはやアイフルの心変わりに頼るしかなくって、死んだはずのハロルドはリストウォッチの破片が動脈を押さえて(えー!)救われることになる(とアイフルが書くのね)。

こんな陳腐な結末にしてしまったものだから、小説は「まあまあの出来」になってしまうのだが(映画もだよ)、アイフルは納得のようだ。大傑作ではなくなってしまったが、このことにより作家も自分の生を取り戻したのではないか(彼女自身が死にたがり病だったのではないかと思わせるエピソードもあった)、そんなことを思わせる結末だった。でも、しつこいんだが、これでこの映画も価値を低めてしまったような……。

もう1つ気になったのはハロルドの行動を規定するのが、アイフルではなく彼女の使っているタイプライターであることだ。物語をアイフルが変えても、紙に書きつけてもハロルドには何も起こらないが、それをタイプで文字を打って文章となって意味が成立した時点で、それは起きるのだ(ハロルドからの電話の場面)。だがこの映画では、そのことにはあまり触れようとはしない。わざわざアイフルの肉声をハロルドに聞かせているのは恣意的ではないだろうから、そこまでは考えていなかったのかもしれない。うーむ。

哲学的考察をユーモアで包んだ脚本は、すっかり忘れていた未納の税金についても、死を決意したハロルドがアナに、ホームレスにパンをあげていた分が控除になるから未払いでなくなる、と最後にフォローするよく出来たものだ。だけど、そもそも発想に無理があるとしかいいようがないのだな。

【メモ】

「私のおっぱいを見ないで」とアナに言われたハロルドは「アメリカの役人として眺めていたんです」と答えていた。

カレン・アイフルはヘビー・スモーカー。ペニー・エッシャーがニコチンパッチをすすめても「長生きなんて興味がない」と言う。

画面にはデータ処理をイメージした白い情報がときたま入る。これが作家が作った世界を意味しているのかどうかは確認していないが、あまりうるさくないスタイリッシュなもの。

原題:Stranger than Fiction

2006年 112分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:梅野琴子

監督:マーク・フォースター 製作:リンゼイ・ドーラン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン、エリック・コペロフ 脚本:ザック・ヘルム 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:ケヴィン・トンプソン 編集:マット・チェシー 音楽:ブリット・ダニエル、ブライアン・レイツェル 音楽スーパーバイザー:ブライアン・レイツェル
 
出演:ウィル・フェレル(ハロルド・クリック)、エマ・トンプソン(カレン・アイフル)、マギー・ギレンホール(アナ・パスカル)、ダスティン・ホフマン(ジュールズ・ヒルバート)、クイーン・ラティファ(ペニー・エッシャー)、リンダ・ハント、トニー・ヘイル、クリスティン・チェノウェス、トム・ハルス

プレステージ

新宿厚生年金会館(試写会) ★★

■手品はタネがあってこそ

100年前ならいざ知らず(ってこの映画の舞台は19世紀末なのだが)、手品というのはタネも仕掛けもあって、それはわかっていながら騙されることに快感があると思うのだが、この映画はそれを放棄してしまっている。

巻頭に「この映画の結末は決して誰にも言わないで下さい」と監督からのことわりがあるが、そりゃ言いふらしはしないけど(もちろんここはネタバレ解禁にしているので書くが)、そんな大した代物かいな、という感じなのだ。

売れっ子奇術師のアルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベイル)が、同じ奇術師で長年のライバルだったロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)を殺した容疑で逮捕される。

ボーデンとアンジャーは、かつてミルトンという奇術師の元で助手をしていた間柄だったが、舞台でアンジャーの妻であるジュリア(パイパー・ペラーポ)が事故死したことで、2人は反目するようになる。水中から脱出する役回りになっていたのがジュリアで、彼女の両手を縛ったのがボーデンだったのだ。

このハプニングにあわてて水槽を斧で割ろうとするのがカッター(マイケル・ケイン)。彼は奇術の考案者で、この物語の語り部的存在だが、映画は場面が必要以上に交錯していて、まるで作品自体を奇術にしたかったのかしら、と思うような作りなのだ(ここまでこね回すのがいいかどうかは別として、そう混乱したものにはなっていないのは立派と褒めておく)。

アンジャーの復讐心は、ボーデンが奇術をしている時に、客になりすましてボーデンを銃撃したりと、かなり陰湿なものだ。アンジャーの気持ちもわからなくはないが、ボーデンにしてみれば奇術師としては命取りとなりかねない左手の指を2本も失うことになって、こちらにも憎しみが蓄積されていくこととなる。しかも2人には奇術師として負けられないという事情もあった(このあたりは奇術が今よりずっと人気があったことも考慮する必要がある)。

ボーデンはサラ(レベッカ・ホール)と出会い家庭を築いて子供をもうけるのだが、アンジャーにとってはそれも嫉妬の対象になる。ボーデンの幸せは、「僕が失ったもの」だったのだ。アンジャーは、敵のトリックを調べるのもマジシャンの仕事だからと、オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)という新しい弟子を、ボーデンのもとに送り込み、彼の「瞬間移動」の秘密を探ろうともする。

オリヴィアにボーデンの日記を持ち出させ、それをアンジャーが読むのだが、映画は、物語のはじめで捕まったボーデンも刑務所で死んだアンジャーの日記を読むという、恐ろしく凝った構成にもなっている。しかしこれはすでに書いたことだが、そういう部分での脚本は本当によくできている(ただ、ジュリアの死についてのボーデンの弁明はわからない。こんなんでいいの、って感じがする。ジュリアとボーデンで目配せしてたしねー、ありゃ何だったんだろ)。

ボーデンの「瞬間移動」は、実は一卵性双生児(ファロン)を使ったもので、ここだけ聞くとがっかりなんだが、ボーデンは奇術のために実人生をも偽って生きていて、このことは妻のサラにも明かさずにきたという。しかしサラは彼の2重人格は嗅ぎ取っていて(すべて知っていたのかも)、結局ボーデンが真実を語ろうとしないことで自殺してしまう。

ボーデンとファロンの2人は、愛する対象もサラとオリヴィアというように使い分けていたというのだが、いやー、これはそういうことが可能かどうかということも含めて、この部分を取り出して別の映画にしたくなる。それとか、オリヴィアの気持ちにもっと焦点を当てても面白いものが出来そうではないか。

アンジャーの「瞬間移動」も、オリヴィアから紹介された売れない役者のルートを替え玉にしたものだから、タネは似たようなものなのだが、当然ボーデンの一卵性双生児にはかなわず、アンジャーはトリックが見破れずに焦るというわけだ。ルートの酒癖は悪くなるし、アンジャーを脅迫しだしてと、次第に手に負えなくなりもする。

で、最初の方でアンジャーがのこのことコロラドのスプリングスまで発明家のニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)を訪ねて行った理由がやっとわかる。このきっかけもボーデンの日記なんだけど、でもこのことで嘘から誠ではないが、アンジャーは本物の「瞬間移動」を手に入れることになる。

テスラの発明品は、別の場所に複製を作るというもの(物質複製電送機?)で、瞬間移動とは意味が違うのだが、奇術の応用にはうってつけのものだった。って実在の人物にこんなものを発明させちゃっていいんでしょうか。それにこれは禁じ手でしかないものねー。いくらその機械を使ってボーデンを陥れようが(彼に罪を着せるのは難しそう)、またその機械を使用することで、複製された方のアンジャーが自分の元の遺体を何人も始末する、理解を超えた痛ましい作業を経験することになる、という驚愕の物語が生み出せるにしてもだ。

この結末(機械)を受け入れられるかどうか、は大きいが、でもそれ以上に問題なのが、復讐に燃えるアンジャーにも、嘘を重ねて生きていくしかなかったボーデンにも感情移入できにくいことではないか。

〈070710 追記〉「MovieWalkerレポート」に脚本家の中村樹基による詳しい解説があった。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4897.html
サラに見せたマジックの謎はわからなかったけど、そうだったのか。ただ、映画としては説明しきれていないよね、これ。他にも(これと関連するが)ボーデンがいかに実生活で、いろいろ苦労していたかがわかるが、やはり映画だとそこまで観ていくのは相当大変だ。

そして、私がすっきりしないと感じていたジュリアの死についてのボーデンの弁明。なるほどね。でもこれこそきちんと映画の中で説明してくれないと。

あと、ルートの脅迫はボーデンのそそのかしにある、というんだけど、観たばかりなのにすでに記憶が曖昧なんでした。そうだったっけ。

【メモ】

原作は世界幻想文学大賞を受賞を受賞したクリストファー・プリーストの『奇術師』。

冒頭でカッターによるタイトルに絡んだ説明がある。1流のマジックには3つのパートがあって、1.プレージ 確認。2.ターン 展開、3.プレステージ 偉業となるというもの。

原題:The Prestige

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:菊池浩司

監督:クリストファー・ノーラン 製作:クリストファー・ノーラン、アーロン・ライダー、エマ・トーマス 製作総指揮:クリス・J・ボール、ヴァレリー・ディーン、チャールズ・J・D・シュリッセル、ウィリアム・タイラー 原作:クリストファー・プリースト『奇術師』 脚本:クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター プロダクションデザイン:ネイサン・クロウリー 衣装デザイン:ジョーン・バーギン 編集:リー・スミス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:ヒュー・ジャックマン(ロバート・アンジャー/グレート・ダントン)、クリスチャン・ベイル(アルフレッド・ボーデン/ザ・プロフェッサー)、マイケル・ケイン(カッター)、スカーレット・ヨハンソン(オリヴィア)、パイパー・ペラーボ(ジュリア・マッカロー)、レベッカ・ホール(サラ)、デヴィッド・ボウイ(ニコラ・テスラ)、アンディ・サーキス(アリー/テスラの助手)、エドワード・ヒバート、サマンサ・マハリン、ダニエル・デイヴィス、ジム・ピドック、クリストファー・ニーム、マーク・ライアン、ロジャー・リース、ジェイミー・ハリス、ロン・パーキンス、リッキー・ジェイ、モンティ・スチュアート

リーピング

新宿ミラノ1 ★☆

■映画でなくチラシに脱帽

映画でなく、映画のチラシの話をしたら笑われちゃいそうなんだが、「イナゴ少女、現る。」のコピーはともかく、「虫とか出しちゃうよ」というのにはまいりました。うはぁ、これはすごい。作った人を褒めたくなっちゃうな。

って、どうでもいい話から入ったのは、そう、特に新鮮味のない映画だったってことなんだけど。でもまあ、今は映像的なチャチさがそうは目立たないから(よくできているのだ)、画面を見ている分には退屈はしないのだな。

ルイジアナ州立大学教授のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、かつてはキリスト教の宣教師としてスーダンで布教活動をしていたこともあるが、布教中に夫と娘を亡くしたことから信仰から遠ざかり、今では無神論者として世界中で起きている「奇跡」を科学的な調査で解き明かすことで有名になっていた。

そんな彼女に、ヘイブンというルイジアナの小さな町で起きている不可解な事件の調査依頼が、ダグ(デヴィッド・モリッシー)という地元の数学と物理の教師から舞い込む。キャサリンはベン(イドリス・エルバ)とまず流れが血に変わってしまったという川を調べはじめるのだが、そこに大量の蛙が降ってくる……。

このあとも出エジプト記にある10の災厄が次々に起こる。ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、イナゴ、闇、初子の死、というのは聖書の写しだが、映画でもほとんど同じような展開となる。映像的には、血の川というのが、何ということはないのだが意外なインパクトがある。逆に1000,000,000匹(これもチラシだけど、よく勘定したもんだ)のイナゴや最後の火の玉が落ちてくる天変地異はどうでもよくって、でもBSEで刷り込まれてしまっているのかもしれないが、へたれこむ牛や、牛の死体を燃やしている場面などは単純に怖い。

出エジプト記では10の災厄はエジプト王に神の存在を知らしめ、イスラエルの民をエジプトから去らせるためのものだったと思うが、ここではキャサリンに信仰心を取り戻させようとしているのか。一定の条件で有毒になる微生物などで超常現象を証明しようとしたり、聖書を持ち出すのはやめて、と言っていたキャサリンだが、分析の結果、川の血は本物で、20~30万人分の血が必要だという事実の前にはあっさりそれを認めるしかなかったのか。兄のブロディ(マーク・リンチ)を殺害した(このことがあって川の水が血になったらしい)というローレン(アンナソフィア・ロブ)に触れたとたん、いろいろなイメージをキャサリンが感じとったからなのか。また、ブロディのミイラ化がどうしても証明できなかったからか。

超常現象の原因と町の人々から決めつけられたローレンは、母親のマディ(アンドレア・フランクル)からも見放されているのだが(キャサリンは娘を殺してと言われるのだ。でもこの母親は何故か自殺してしまう)、娘を救えなかったことがトラウマとなっていたキャサリンは、ローレンに死んだ娘のイメージを重ね、結局このことがローレンを救う契機になるのだが、ってつまりローレンは災いの元ではなくて、町の人たちの方が悪魔崇拝者だったのね。

だとすれば超常現象はやはり神が起こしたものとなる。では何故? 悪魔崇拝者たちの目を覚まさせるためなのか。イナゴはローラを守るためとも思えなくはないが、火の玉は、ベンを殺した悪魔のダグの仕業のようでもあって何が何だかわからない(聖書には火の玉などないからこれは悪魔の反撃なのか)。

そして、キャサリンとローレンは生き残り、家族として生きる決意をするのだが、キャサリンのお腹には男の子が宿っていて、第2子はサタンになるという……。何だ、これだと『ローズマリーの赤ちゃん』ではないか(それとも続篇でも作る気か)。ダグが悪魔とすると、事件の究明のためにキャサリンを呼び寄せた意味がよくわからないのだが、このためもあったとか(もしくはスーダンのコスティガン牧師の死に繋がる因縁でもあるのだろうか)。

そういえばキャサリンがダグと打ちとけてお互いの家族のことを話す場面で、キャサリンは夫と娘がスーダンで生贄になり、神を恨んだらはじめて眠れたと語っていた。そして、そのあとキャサリンはダグとセックスするのだが、なるほど、あのセックスはあの時、キャサリンは神を捨て悪魔と結託したという意味があったのだろうか。

ローレンは第2子(だから初子のブロディは死んだのだ。ってそれもひどいが)で、無事に思春期を過ぎた子はサタンに生まれ変わるというような説明もあったのはそういうことだったのね。そして、キャサリンによって悪魔でなくなった、と(とはいえ、これだと町の人から嫌われるのがわからなくなる)。あと、ダグはもちろん悪魔だったのだろうが、初子としても死ぬ運命だったということなのか。もう1度観たら少しはすっきりしそうなんだが、そんな気にはならないんでした。はは。

【メモ】

チラシでは、Reapingを1.刈り取り 2.善悪の報いをうけること 3.世界の終末における最後の審判、と説明されている。

原題:The Reaping

2007年 100分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナーブラザース 日本語字幕:瀧の瀬ルナ

監督:スティーヴン・ホプキンス 製作:ジョエル・シルヴァー、ロバート・ゼメキス、スーザン・ダウニー、ハーバート・W・ゲインズ 製作総指揮:ブルース・バーマン、エリック・オルセン、スティーヴ・リチャーズ 原案:ブライアン・ルーソ 脚本:ケイリー・W・ヘイズ、チャド・ヘイズ 撮影:ピーター・レヴィ プロダクションデザイン:グレアム・“グレイス”・ウォーカー 編集:コルビー・パーカー・Jr. 音楽:ジョン・フリッゼル
 
出演:ヒラリー・スワンク(キャサリン・ウィンター)、デヴィッド・モリッシー(ダグ)、 イドリス・エルバ(ベン)、アンナソフィア・ロブ(ローレン・マッコネル)、ウィリアム・ラグズデール(シェリフ・ケイド)、スティーヴン・レイ(コスティガン神父)、アンドレア・フランクル(マディ・マッコネル)、マーク・リンチ(ブロディ・マッコネル)、ジョン・マコネル(ブルックス/町長)

歌謡曲だよ、人生は

シネマスクエアとうきゅう ★★

■オムニバスとしては発想そのものが安直

[オープニング ダンシング・セブンティーン(歌:オックス)] 阿波踊りの映像で幕が開く。

[第一話 僕は泣いちっち(歌:守屋浩)] 東京が「とんでもなく遠く」しかも「青春は東京にしかな」かった昭和30年代の北の漁村から沙恵(伴杏里)を追うようにして真一(青木崇高)も東京に出るが、歌劇部養成所にいる沙恵は彼に冷たかった。ボクシングに賭ける真一。が、2人には挫折が待っていた。設定も小道具も昔の映画を観ているような内容で、作り手もそこにこだわったのだろうが、それだけの印象。

[第二話 これが青春だ(歌:布施明)] エアギターに目覚めた大工見習いの青年(松尾諭)が、一目惚れした施工主の娘(加藤理恵)を、出場することになったエアギター選手権に招待する。しかし、掃除のおばさんのモップが偶然にも扉を押さえたことで、青年は会場のトイレから出られなくなり、娘にいい格好を見せることが出来ずに終わる(公園でも閉じこめられてしまうという伏線がある)。選手権の終わった誰もいない舞台で1人演じ、掃除のおばさんに拍手してもらって、これが青春だ、となる。エアギター場面で『これが青春だ』の元歌がかかるわけではないから、題名オチの意味合いの方が強い。これも皮肉か。

[第三話 小指の想い出(歌:伊東ゆかり)] 中年男(大杉漣)が若い娘(高松いく)とアパートで暮らしているというどっきり話だが、実はその娘はロボットだった。うーん、それにこれはとんでもなく前に読んだ江口寿のマンガにあったアイディアと同じだし、イメージでも負けているんではないかと。

[第四話 ラブユー東京(歌:黒沢明とロス・プリモス)] 原始時代から現代の渋谷に飛ぶ、わけわからん映画。石を彫っている男に惚れた女。渋谷にいたのもその太古の昔に噴火で別れた2人なのか。つまらなくはないが、もう少し親切に説明してくれないと頭の悪い私にはゴマカシとしか受け取れない。

[第五話 女のみち(歌:宮史郎)] 銭湯のサウナ室に入ってきたヤクザ(宮史郎)が『女のみち』を歌っていて歌詞が出てこなくなり、学生(久野雅弘)を無理強いして一緒に歌詞を思い出させようとする。ヤクザには好きな女がいて、刑務所にいた6年間、週2回も来てくれたので彼女の誕生日に歌ってやりたいのだという。いやがっていた学生もその気になって……。最後は思い出した歌詞を銭湯にいる全員で歌う。さっぱりとした気分になって外に出ると、そこには和服姿の女がいて、「待たせたな」と声をかけたヤクザと一緒に去っていく。当の歌手に、歌詞が思い出せなくなるというギャグをやらせているのも面白いが、とにかく必死で歌詞を思い出そうと、いや、コメディを作ろうとしているのには好感が持てた。

[第六話 ざんげの値打ちもない(歌:北原ミレイ)] 不動産屋の女(余貴美子)がアパートに若い男を案内してくる。それをバイクに乗った若い女が遠くから見ている。女は2人に自分の過去を重ね合わせているのだろうか。そこへ昔の男が訪ねてきて、海岸の小屋で乱暴されたことで、男を刺してしまう。アパートに戻ると、若い女が自分と同じような行動をとろうとしていて、女はそれを押しとどめる。雰囲気は出ているんだけど、やはり省略された部分が知りたくなる。

[第七話 いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー(歌:荒木一郎)] デザイン会社に勤める沢口良子(久保麻衣子)は、今日も3人の同僚の女に地味だとか存在が無意味と因縁をつけられていた。いじめはエスカレートし、屋上で服を剥ぎ取られてしまう。それを見ていた一郎(武田真治)の思いが爆発する。真っ赤な服を持って下着姿の女の所に駆けつけ、好きなんだと言ったあと、公園(なんで公園なんだ)で制作中のポスター(だっせー)を検討をしている同僚たちに「君たち、沢口さんに失礼なんだよ」と言いながら殴り(ついでに上司の男も)、全員を血祭りに上げてしまう。蛭子能収監督のマンガ(も画面に入る)そのものといった作品。映画も自分のマンガと同じ作風にしているのはえらい(だからマンガのカットはいらないでしょ。ちょっとだが、この分だけ遠慮してたか)。

[第八話 乙女のワルツ(歌:伊藤咲子)] 喫茶店のマスター(マモル・マヌー)が1人で麻雀ゲームをしていると、常連が女性とやって来て彼女だと紹介する。女性に昔の彼女の面影をみ、バンドを組んでいた遠い昔の「つらいだけだった初恋」を思い出す。彼が心惹かれていたリカは若くして死んでしまったのだ。昔の想いにひたっていたマスターだったが、女房の声に現実に引き戻される。凡作。というかこのひねりのなさが現在のマスターそのものなんだろう。

[第九話 逢いたくて逢いたくて(歌:園まり)] これはちゃんとした映画になっていた。カラオケ用映像ではないのだから、他もこのくらいのレベルで勝負してほしいところだ。アパートに越してきたばかりの鈴木高志(妻夫木聡)は、ゴミ置き場から文机を拾ってくるが、これは前の住人五郎丸(ベンガル)が粗大ゴミとして出したものだった。妻の恵美(伊藤歩)に止められながらも、高志は引っ越しの手伝いにきた仲間と、机の中にあった大量の手紙を読んでしまう。手紙は梅田さち子という女性に五郎丸が出したもので、宛先不明で戻ってきてしまったものだった。みんなで、こいつはストーカーだと決めつけたところにその五郎丸が挨拶をしておきたいとやってきて、机をあわてて隠す高志たち……。前の住人と引っ越してきた人間は普通顔を会わせることはないだろうと思うのだが、でもこの場面はおっかしい。ウーロン茶をごちそーになったお礼を言って、思い出が多すぎてつらいという場所から、五郎丸はやってきたトラックで去って行くのだが、入れ違いで梅田さち子からの葉書が舞い込み、全員で五郎丸を追いかけるという感動のラストシーンになる。この追っかけが気持ち長いのだけど、尺がないながらうまくまとめている。

[第十話 みんな夢の中(歌:高田恭子)] 同窓会に集まった人たちが小学校の校庭で40年前のタイムカプセルを掘り出す。思い出の品に混じって8ミリフィルムも入っていた。遅れてやって来た美津江(高橋惠子)も一緒になって、さっそく上映会が開かれる。案内役のピエロから演出まで、すべてにうんざりしてしまう内容と構成だった。

[エンディング 東京ラプソディ(歌:渥美二郎)] 藤山一郎でないとしっくりこないと思うのは人間が古いのか。瀬戸朝香扮のバスガイドと一緒にはとバスで東京をまわる。歌詞付き画面だから完全にカラオケ映像だ。

 

2007年 130分 ビスタサイズ PG-12 配給:ザナドゥー

製作: 桝井省志 プロデューサー:佐々木芳野、堀川慎太郎、土本貴生 企画:沼田宏樹、迫田真司、山川雅彦 音楽プロデューサー:和田亨
[オープニング]撮影:小川真司、永森芳伸 編集:宮島竜治
[第一話]監督・脚本:磯村一路 撮影:斉藤幸一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:青木崇高、伴杏里、六平直政、下元史朗
[第二話]監督・脚本:七字幸久 撮影:池内義浩 編集:森下博昭 音楽:マーティ・フリードマン、荒木将器 出演:松尾諭、加藤理恵、池田貴美子、徳井優、田中要次
[第三話]監督・脚本:タナカ・T 撮影:栢野直樹 編集:森下博昭 出演:大杉漣、高松いく、中山卓也
[第四話]監督・脚本:片岡英子 撮影:長田勇市 編集:宮島竜治 出演:正名僕蔵、本田大輔、千崎若菜
[第五話]監督・脚本:三原光尋 撮影:芦澤明子 編集:宮島竜治 音楽:林祐介 出演:宮史郎、久野雅弘、板谷由夏
[第六話]監督・脚本:水谷俊之 撮影:志賀葉一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 出演:余貴美子、山路和弘、吉高由里子、山根和馬
[第七話]監督・脚本:蛭子能収 撮影:栢野直樹 編集:小林由加子 音楽:林祐介 出演:武田真治、 久保麻衣子、インリン・オブ・ジョイトイ、矢沢心、希和、長井秀和
[第八話]監督・脚本:宮島竜治 撮影:永森芳伸 美術:池谷仙克 編集:村上雅樹 音楽:林祐介 音楽:松田“ari”幸一 出演:マモル・マヌー、内田朝陽、高橋真唯、山下敦弘、エディ藩、鈴木ヒロミツ、梅沢昌代
[第九話]監督・脚本:矢口史靖 撮影:柴主高秀 編集:森下博昭 出演:妻夫木聡、伊藤歩、ベンガル、江口のりこ、堺沢隆史、寺部智英、小林トシ江
[第十話]監督・脚本:おさだたつや 撮影:柴主高秀 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:高橋惠子、烏丸せつこ、松金よね子、キムラ緑子、本田博太郎、田山涼成、北見敏之、村松利史、鈴木ヒロミツ
[エンディング]監督・脚本:山口晃二 原案:赤松陽構造 撮影:釘宮慎治 編集:菊池純一 出演:瀬戸朝香、田口浩正

こわれゆく世界の中で

シャンテシネ2 ★★☆

■インテリの愛は複雑だ。で、これで解決なの

ウィル(ジュード・ロウ)は、ロンドンのキングス・クロス再開発地区のプロジェクトを請け負う建築家で、仕事は順調ながらやや中毒気味。リヴ(ロビン・ライト・ペン)とはもう同棲生活が10年も続いていたが、リヴとその連れ子ビーの絆の強さにいまひとつ踏み込めないでいた。そのことが彼を仕事に没頭させていたのかも。

リヴはスエーデン人の映像作家。ドキュメンタリー賞を受賞していて腕はいいらしいが、ビーが注意欠陥・多動性障害(ADHD)で、そのこともあってかリヴ自身もセラピーを受けている。ウィルにとってはセラピーのことさえ初耳だが、リヴからは「仕事に埋もれ身勝手」と言われてしまう。ウィルは、僕もビーを愛していると言うのだが、言葉は虚しく2人の間を流れていくばかりだ。

そんな時、ウィルが新しくキングス・クロスに開設した事務所が、初日に窃盗に入られてしまう。実は警報機の暗証番号を替えるところを外から盗み見されていて、また被害にあいそうになるのだが、共同経営者のサンディ(マーティン・フリーマン)が事務所に戻ってきたため、泥棒たちは逃げ出す。

いくら治安の悪い地区とはいえ、ということで暗証番号をセットしたエリカに疑惑の目が向けられたり、でもあとでそのエリカとサンディが恋に落ちたり、また事務所を見張っているウィルが、この世で信じられるのはコンドームだけという娼婦と知り合いになって哲学的会話をするなど、物語は枝葉の部分まで丁寧に作られているのだが、とはいえどれもあまり機能しているとはいえない。

夜警でウィルは1人の少年(ラフィ・ガヴロン)のあとをつけることに成功する。彼の身辺を調べるうちに彼の母親のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い、ウィルは彼女に惹かれていく。ウィルの中にあった家庭での疎外感がアミラに向かわせたのだし、アミラもウィルをいい人と認識していたのだが、息子のミルサドが部屋にあったウィルの名刺を見て、ミルサドは自分のやっていたことが暴かれるとアミラにすべてを打ち明ける。

アミラとミルサドはボスニア内戦でサラエボから逃れてきて、今は服の仕立屋として生計を立てているという設定。ミルサドにロンドンに来なかった父のことを訊かれてサラエボの話は複雑とアミラも答えていた。当人がそうなら日本人にはさらにわかりにくい話なのは当然で、といってすんなりそう書いてしまっては最初から逃げてしまっているだけなのだが、彼らの話に入りにくいのは事実だ。

アミラのとった行動がすごい。ウィルと関係をもってそれを写真に収めミルサドを救う手段としようとする。「弱みにつけ込むなんて、私を利用したのね」と言っておいての行動なのだから決然としている。女友達の部屋を借り証拠写真でも手助けしてもらっていた。ボスニア内戦を生き延びてきただけのしたたかさが垣間見られるのだが、しかしそれだけで関係をもったのでもあるまい。

ここはもう少し踏み込んでもらいたかったところだが、結局ミルサドは別の形で捕まってしまい、物語は表面的には案外平穏なものに収束していくことになる。ウィルがアミラとの関係をリヴに打ち明け、つまりリヴの元に帰って行き、ミルサドを救う形となる。

あくまで誘われたからにしても、ミルサドから窃盗の罪が消えたとは思えない。15歳という十分責任能力のある人間に、これではずいぶん甘い話ではないか。が、ウィルによって「人生を取り戻せた」のも真実だろう(ラストシーンにもそれは表れている)。ミルサドが盗んだウィルのノートパソコンにあった、ビーの映像を見ている場面が入れておいたのは甘いという批判を避ける意味もあったろう。そして、被害者に想いを寄せられる人間であるなら、甘い決断もよしとしなければならないとは思うのだが、ま、これは私が人には厳しい人間ということに尽きるかもしれない。

ウィルとアミラのことがよく整理できないうちに、ビーがウィルの仕事現場で骨折するという事故が起き、このあとリヴがウィルに「あなたを責めないことにし」「悪かった」と言って、前述のウィルの告白に繋がるのだが、この流れもよくわからなかった。

ようするにこれは、いつのまにかお互いを見なくなっている(巻頭にあったウィルのモノローグ)夫婦が、愛を取り戻す話だったのだな。だけど、これを誰にも感情移入出来ないまま観るのは、かなりしんどいのである。最後にリヴが何もなかったように家に帰るのかとウィルを問いつめるくだりは新趣向なんだけど、基本的なところで共感できていないから、装飾が過ぎたように感じてしまうのだ。だって、ウィルとリヴの問題が本当に解決したとは思えないんだもの。

【メモ】

Breaking and Enteringは、壊して侵入する。不法侵入、住居侵入罪を意味する法律用語。

アミラは仕立屋をしているが、時間があると紙に書いたピアノの鍵盤を弾くような教養ある人間として描かれている。

キングスクロスについても何度も語られていたが、これも土地勘がまったくないのでよくわからない。「荒れ果てた地を僕たちが仕上げて、最後に緑をちらす」などというウィルの設計思想も映画で理解するには少々無理がある。

原題:Breaking and Entering

2006年 119分 シネスコサイズ イギリス、アメリカ PG-12 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ 製作:シドニー・ポラック、アンソニー・ミンゲラ、ティモシー・ブリックネル 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、コリン・ヴェインズ 撮影:ブノワ・ドゥローム プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:ナタリー・ウォード 編集:リサ・ガニング 音楽:ガブリエル・ヤレド 、UNDERWORLD

出演:ジュード・ロウ(ウィル)、ジュリエット・ビノシュ(アミラ)、ロビン・ライト・ペン(リヴ)、マーティン・フリーマン(サンディ)、レイ・ウィンストン(ブルーノ刑事)、ヴェラ・ファーミガ(オアーナ)、ラフィ・ガヴロン(ミロ/ミルサド)、ポピー・ロジャース(ビー)、マーク・ベントン、ジュリエット・スティーヴンソン、キャロライン・チケジー、ラド・ラザール

スパイダーマン3

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■超人がいっぱい

スパイダーマン(トビー・マグワイア)の今回の敵は3人?+自分。

まずはいまだ父親を殺害したと誤解しているハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)がニュー・ゴブリンとして登場する。しかしどうやってニュー・ゴブリンとなったかは省いてしまっている(ハリーも父親と同じ薬を飲んだとか。だったら彼も邪悪になってしまうけど)。そんなことを一々説明している暇はないのだろうけど、まあ乱暴だ。

次は、サンドマン。ピーターの伯父を殺したフリント・マルコ(トーマス・ヘイデン・チャーチ)が刑務所から脱走してしまうのだが、彼が素粒子実験場に逃げ込んだところでちょうど実験がはじまってしまい、体を砂のように変えられるサンドマンになっちゃう。簡単に超人(怪物)を誕生させちゃうのだな。まあ、そもそもスパイダーマンもそうなのだけど。

最後は宇宙生物。隕石に乗って地球にやってきた紐状の黒い生命体がスパイダーマンに取り憑く。この生命体は寄生生物で、人間にある悪い心に働きかけてくる(宿主の特性を増幅する)らしい。ピーターは前作でメリー・ジェーン・ワトソン=MJ(キルステン・ダンスト)の愛を手に入れたし(今回はどうやって結婚を申し込むかというところからスタートしている)、スパイダーマンもヒーローと認知されていて人気も高く、前作のはじまりとはまったく逆ですべてがうまく行っていて、そこにちょっとした慢心が生まれていた。寄生生物に取り憑かれる隙があったということなのだが、これまたファーストフードよろしく、あっと言う間の出来上がりなのだ。

スパイダーマンのスーツまで赤から黒に変わってしまうというのもよくわからないが、一応ピーターはヒーローであるからして、自分の中にいる悪の魅力に惹かれながらもその悪と戦うという構図。しかし、彼が苦悩の末剥ぎ取った寄生生物は、同僚のカメラマンでピーターに敵愾心を燃やすエディ・ブロック(トファー・グレイス)に乗り移って、スパイダーマンと同等以上の能力(これもわかるようでわからない)になって襲いかかってくる。

それにしても、何故これだけ沢山の敵を登場させなければならないのか。最近のアクション大作は、最初から最後まで見せ場を作ることが義務づけられているのだろうが、今回のように安易に敵の数を増やしては、その誕生の説明からまるで流れ作業のようになっていて、ちっとも訴えかけてこない。こんなことは監督とて承知のはずだろうに、それでも盛り沢山の構成を要求(誰に?)されてしまうんではつらいだろうな。

で、増やしすぎた結果、サンドマンと寄生生物に取り憑かれたエディ(チラシだとヴェノムと称している)が手を組んで、対スパイダーマンとニュー・ゴブリンのハリーというチーム戦にしてしまってはねー。もちろん、そのためにはピーターがハリーに助けを求める(MJのためだ、とも言う)という、この映画の大切なテーマがそこにはあるのだが、ハリーのいままでの思い違いを解く鍵を、オズボーン家の執事の「黙っていましたが、私はすべてを見ていました」にしてしまっては、力が抜けるばかりだ(もう1作での状況は覚えていないので何ともいえないのだが)。

その2対2のバトルも案外あっけない。ハリーの活躍があっての勝利だったが、そのハリーは死んでしまう。ハリーとの和解という切ない場面が、サンドマンの改心も(こういう風に併記してしまうところが問題なのだな)だが、とにかくすべてが駆け足では、どうこういうべき状況以前というしかない。

しかしそうしないことには、MJとの複雑な恋の行方が描けない、つまりその部分もいままでどおりにやろうっていうのだから、もう滅茶苦茶なんである。

スパイダーマンがヒーローとして人気を集めいい気になっているピーターは、舞台が酷評だったMJの気持ちをつい見逃してしまう。スパイダーマンの祝賀パーティーで、事故から救ったグエン・ステイシー(ブライス・ダラス・ハワード)と調子に乗ってキスをするに及んで、MJの気持ちもはなれてしまい、ピーターは伯母のメイ・パーカー(ローズマリー・ハリス)がプロポーズにとくれた婚約指輪を、MJに渡せなくなってしまう。

マルコの脱走のニュースがピーターに知らされるのもこのときで、彼は憎悪をつのらせる。ピーターには慢心だけでなく、こういう部分でも寄生生物に取り憑かれる要因があったってことなのね。

MJがハリーに傾きかけたり(お互い様なのだろうけど、これはそろそろやめてほしい)、またそれをハリーに利用されたりという事件も経て、「復讐」を「赦し」に変えるテーマが伯母の助言という形で語られるというわけだ。

不良もどきのピーターは持ち前のうじうじから解放されたようで、本人はうきうきなのだろうが(笑えたけどね)、でもヒーローでありながら悩めるピーターでいてくれた方が、スパイダーマンファンとしては安心できるのである。

 

【メモ】

まるでエンディングのような導入だが、ここには1、2作のカットが入れてある。

エンドロールで確認し忘れたので吹き替えかどうかはわからないのだが、キルステン・ダンストが酷評(声が最前列までしか届かないというもの)だった舞台で「They Say It’s Wonderful」(題名は?)をけっこう長く歌っていた。

ハリーはスパイダーマンとの死闘で記憶障害になり、ピーターとの間にしばし友情が戻る。

ハリーに記憶が返ってくるのは、MJとキスし、彼女がその事実にあわてて、ご免なさいと言いながら帰ってしまってから(MJはハリーが「高校の時君のために戯曲を書いた」という言葉にまいってしまったようだ)。このあとMJは憎悪の塊となったハリーに脅かされ、ピーターに好きな人が出来たと言わされる。

エディは、偽造写真を使っていたことをピーターにばらされ、会社を解雇されてしまう。

サンドマンは水に流されてしまうが、下水から蘇る。

ピーターはMJとのことを心配して尋ねてきてくれた叔母に指輪を返すが、叔母はそれを置いて帰っていく(助言をする場面)。

サンドマンの改心は娘の存在故で、そういえば最初から弁解じみたことを言っていた。とはいえ、これでピーターがマルコを赦してしまうのは、ちょっと説明が先走った感じだ。ピーターからの赦しの言葉を得て、サンドマンは砂となって消えていく。

〈070622 追記〉CINEMA TOPICS ONLINEにサム・ライミ監督の言葉があった。これはわかりやすい。でもだったらよけい、3は死んでしまうハリーを中心に話を進めるべきだった。そうすえばサンドマンやヴェノムはいらなくなって……これじゃ迫力ないと企画で却下されてしまうのかな。

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6210

シリーズ3作のメガホンをとるサム・ライミは言う。「『スパイダーマン』は、ピーターの成長の物語だ」。スパイダーマンとしての”運命”を受け入れた『スパイダーマン』。スパイダーマンとして生きる運命に”苦悩” した『スパイダーマン2』。そして『スパイダーマン3』では、ピーターの”決意”が描かれる。たとえ、どんなに自分が傷つこうとも、正しい心を、愛を取り戻すために、自らの心の闇の化身とも言うべきブラック・スパイダーマンと闘う。まさに「自分」への挑戦である。更にサム・ライミはこうコメントする。「『スパイダーマン』の物語の中心はピーター、MJ、ハリーの3人のドラマだ」。

原題:Spider-Man 3

2007年 139分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊池浩司 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

監督:サム・ライミ 製作:ローラ・ジスキン、アヴィ・アラッド、グラント・カーティス 製作総指揮:スタン・リー、ジョセフ・カラッシオロ、ケヴィン・フェイグ 原作:スタン・リー、スティーヴ・ディッコ 原案:サム・ライミ、アイヴァン・ライミ 脚本: サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント 撮影:ビル・ポープ プロダクションデザイン:ニール・スピサック、J・マイケル・リーヴァ 衣装デザイン:ジェームズ・アシェソン 編集:ボブ・ムラウスキー 音楽:クリストファー・ヤング テーマ曲:ダニー・エルフマン

出演:トビー・マグワイア(ピーター・パーカー/スパイダーマン)、キルステン・ダンスト(メリー・ジェーン・ワトソン)、ジェームズ・フランコ(ハリー・オズボーン)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(フリント・マルコ/サンドマン)、トファー・グレイス(エディ・ブロック/ヴェノム)、ブライス・ダラス・ハワード(グウェン・ステイシー)、ジェームズ・クロムウェル(ジョージ・ステイシー)、ローズマリー・ハリス(メイ・パーカー)、J・K・シモンズ(J・ジョナ・ジェイムソン)、ビル・ナン(ロビー・ロバートソン)、エリザベス・バンクス(ミス・ブラント)、ディラン・ベイカー(カート・コナーズ博士)、テレサ・ラッセル(エマ・マルコ)、クリフ・ロバートソン(ベン・パーカー)、ジョン・パクストン(バーナード/執事)、テッド・ライミ(ホフマン)、ブルース・キャンベル(クラブのフロアマネージャー)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(ペニー・マルコ)、エリヤ・バスキン(ディトコヴィッチ氏)、マゲイナ・トーヴァ(ウルスラ)、ベッキー・アン・ベイカー(ステイシー夫人)、スタン・リー(タイムズ・スクエアの男)

ゲゲゲの鬼太郎

新宿ミラノ1 ★★☆

■『ゲゲゲの鬼太郎』というより『水木しげるの妖怪図鑑』か

妖怪ポスト経由で鬼太郎(ウエンツ瑛士)に届いた手紙は小学生の三浦健太(内田流果)からのものだった。健太の住む団地に妖怪たちが出るようになって住民が困っているという。鬼太郎が調べると、近くで建設中のテーマパーク「あの世ランド」の反対派をおどかすために、ねずみ男がバイトで雇った妖怪たちをけしかけていたのだった。

しかしこれは反対派へのいやがらせにはなっていても、稲荷神社の取り壊しによるお稲荷さんの祟りと喧伝されてしまいそうだから、「あの世ランド」側としては逆効果だと思うのだが。ま、どっちみちこのテーマパークの話はどこかへすっ飛んでしまうから関係ないんだけどね。

鬼太郎に儲け話を潰されたねずみ男は、その稲荷神社でふて寝しようとして奥深い穴に吸い込まれてしまう。そして、そこに封印されていた不思議な光る石を見つける。実はこれは人間と妖怪の邪心が詰まっている妖怪石と呼ばれるもので、修行を積んだ妖怪が持てばとてつもない力を得られるが、心の弱い者には邪悪な心が宿ってしまうのだ。

そんなことを知らないねずみ男は、少しでも金になればと妖怪石を質入れしてしまうのだが、そこに偶然来ていた健太の父(利重剛)は、工場をリストラされて困っていたのと妖怪石の魔力とで、それを盗んでしまう。

父が健太に妖怪石を預けたことで健太に魔の手が伸び、彼の勇気が試される。また、妖怪界では、妖怪石の力を手に入れようとする妖怪空(橋本さとし)の暗躍と、妖怪石の盗難の嫌疑が鬼太郎にかかって大騒動になっていくのだが、話の展開はかなりいい加減なものだ。

ねずみ男に簡単に持ち出されてしまう妖怪石の設定からして安直なのだが、それが健太の父の手に渡ってと、妖怪界を揺るがす大事件にしては狭い狭い世界での話で、でも一応、少年を準ヒーローにしているあたりは(だから世界が小さいのだけど)子供向け映画の基本を押さえている。

ただ死んだ父まで助け出してしまうのはねー(そもそもこの死は唐突でよくわからない。病気で死んだ、って言われてもね)。「健太君の願いが乗り移った」という説明は意味がないし、子供映画にしてもずいぶん馬鹿にしたものではないか。他にも沢山いた死者の行列の中から健太の父だけというのはどうなんだろ。父の釈明も釈明になっていなくて、ここはどうにも釈然としないのだな。

鬼太郎は健太の姉の三浦実花(井上真央)にちょっと惚れてしまい、猫娘(田中麗奈)の気をもませることになるが、これは妖怪界の定め(人間は死んでしまうから惚れてはいけないと言っていた)で、事件が片づいたあと、実花からは鬼太郎の記憶が消えてしまう。

この話もだが、妖怪たちが善と悪とに分かれて戦いながらも、結末はどこまでもユルイ感じで、いかにも水木しげる的世界なのだ。まあ、水木しげるの妖怪たちを配置したのなら、そうならざるを得ないのだろうけど。

それに、1番の見所はその妖怪たちなのだ。大泉洋のねずみ男を筆頭に、そのキャスティングと造型は絶妙で、子供映画ながらこの部分では大人の方が楽しめるだろう。猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、大天狗裁判長などのどれにも納得するはずだ。それはまったくのCGでも同じで、石原良純の見上げ入道ならまあ想像はつくが、石井一久のべとべとさんには感心してしまうばかりなのだ。水木しげるの妖怪画というのは、1ページに妖怪の絵と解説があって、図鑑のような趣があったけど、この映画もそれを踏襲した感じで観ることができるというのが面白い。

唯一まるで違うイメージなのがウエンツ瑛士の鬼太郎だが、演技はうまいとは言い難いものの、意外にも違和感はなかった。惜しげもなく髪の毛針を打ち尽くしてしまい、堂々の禿頭を披露しているのだが、あれ、でも片目ではないのね。さすがにそこまではダメか。だからほとんど目玉おやじとは別行動だったのかもね。

 

【メモ】

妖怪石には、滅ぼされた悪しき妖怪の幾千年もの怨念だけでなく、平将門、信長、天草四郎などの人間の邪心までも宿っているという。

父の釈明は「泥棒したっていう気はないんだ。これだけは信じてくれ、間が刺したんだ。
弱い心につけ込まれたんだ」というもの。もちろんこれではあんまりだから「でもやってしまったことはしょうがない」とは言わせているのだが。

映画の中で鬼太郎が何度か言っていたのは、「そんなにしっかりしなくてもいいんじゃない、泣きたい時は泣いちゃえば」とか「悪い人だけじゃないんだから思いっ切り甘えろ」というもの。

2007年 103分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:本木克英 製作:松本輝起・亀山千広 企画:北川淳一・清水賢治 エグゼクティブプロデューサー:榎望 プロデューサー:石塚慶生・上原寿一アソシエイトプロデューサー:伊藤仁吾 原作:水木しげる 脚本:羽原大介 撮影:佐々木原保志 特殊メイク:江川悦子 美術:稲垣尚夫 衣装デザイナー:ひびのこづえ 編集:川瀬功 音楽:中野雄太、TUCKER 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ウエンツ瑛士『Awaking Emotion 8/5』VFXスーパーバイザー:長谷川靖 アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太 照明:牛場賢二 録音:弦巻裕

出演:ウエンツ瑛士(ゲゲゲの鬼太郎)、内田流果(三浦健太)、井上真央(三浦実花/健太の姉)、田中麗奈(猫娘)、大泉洋(ねずみ男)、間寛平(子泣き爺)、利重剛(三浦晴彦/健太の父)、橋本さとし(空狐)、YOU(ろくろ首)、小雪(天狐)、神戸浩(百々爺)、中村獅童(大天狗裁判長)、谷啓(モノワスレ)、室井滋(砂かけ婆)、西田敏行(輪入道)
 
声の出演:田の中勇(目玉おやじ)、柳沢慎吾(一反木綿)、伊集院光(ぬり壁)、石原良純 (見上げ入道)、立川志の輔(化け草履)、デーブ・スペクター(傘化け)、きたろう(ぬっぺふほふ)、石井一久(べとべとさん)、安田顕(天狗ポリス)

神童

新宿武蔵野館2 ★★☆

■好きなだけじゃダメな世界

天才少女と知り合ってしまった音大受験浪人生の悲しい(?)日々……。

ピアノを演奏することが大好きな菊名和音(松山ケンイチ)は音大目指して毎日猛レッスンに励んでいる。受験に失敗したらピアノはあきらめて家業の八百屋を継がねばならないのだ。

そんな時に知りあった成瀬うた(成海璃子)は13歳ながら言葉を覚える前に楽譜が読めたという天才少女。なにしろ和音がピアノを弾くと近所からの苦情になるが、うたが弾くと八百屋の売り上げがあがるってんだから(ひぇー、普通人もそんなに耳がいいんだ。私にはなーんもわからないんだけどねー)。

そんなうただが、母親の美香(手塚理美)には唯一の望み(借金返済の)だから、レッスン中心の生活で、突き指予防で体育は見学だし、訓練の一環で左手で箸を使うよう厳命されたりしているから、「ピアノは大嫌い」という発言になるのだろう。

その一方で事実にしても天才と持ち上げられているせいか、和音にため口なのはともかく、高慢ともいえる言動が目立つ。理由はともあれ、こんなでは和音の気持ちがうたに傾くとは思えない。というのもどうやらうたは和音のことが好きらしいのだ(これについては後で書く)。

うたは和音のために秘密の練習場(うたが以前住んでいた家)を提供してくれたり、ま、このあと相原こずえ(三浦友理枝)とのことで和音とはちょっとトラブったりもするのだけど、受験の日には応援に行って、何やら霊力を授けてしまったというか、うたが和音に乗り移ったとでもいうか、和音の神懸かり的な演奏は、彼をピアノ課に主席で入学させてしまうのである(ありえねー。でもこの場面はいい)。が、和音にとってはこれが仇になって小宮山教授からも見放されてしまう(「好きなだけじゃダメなんだよ、ここでは」と言われてしまうのだ)。

またうたの方も、母親との軋轢は変わらぬまま、自分の耳の病気を疑うようになっていた。うたの父親光一郎(西島秀俊)が、やはり難聴で自殺したらしいのだ。音大の御子柴教授(串田和美)が昔光一郎と交流があってそのことがわかるのだが、しかしここからは、難解では決してないものの、意味もなくわかりにくくしているとしか思えない流れになっている。

昔光一郎に連れられていったピアノの墓場から1台のピアノを救い出した幼少時の思い出が挿入され、うたも父と同じ難聴に悩まされているような場面があるのに、それはどうでもよくなってしまうし、うたの演奏がちょうど来日していたリヒテンシュタインの耳にとまって、これが彼の不調で、うたに彼による指名の代役がまわってくるのだ。

この演奏会で、うたは自分からピアノを弾きたい気持ちになる。そしてここが、一応クライマックスになっているのだが、それではあんまりと思ったのか、うたがピアノの墓場(倉庫)に出かけて行く場面がそのあとにある。

夜歩き牛丼を食べ電車に乗り線路を歩くこの行程には、うたの同級生の池山(岡田慶太)が付いて行くのだが、彼は見つけた倉庫に窓から入る踏み台になる役でしかない(ひでー)。倉庫の中でうたはあるピアノを見つけるが、指をおろせないでいる。と、彼女の横に何故か和音が来て、ピアノを弾き始めるのだ。

「聞こえる?」「聞こえたよ、ヘタクソ」という会話で、2人の楽しそうな連弾となる。

この場面は素敵なのだが、もうエンドロールだ。うたが心から楽しそうにピアノに向き合っているというのがわかる場面なのだが(捨てられていたピアノが息を吹き返すという意味もあるのだろうか)、「大丈夫だよ、私は音楽だから」という、さすが天才というセリフはすでに演奏会の場面で使ってしまっていて、でもここはそういうことではなく、ただただ楽しんでいるということが大切なんだろうなー、と。

しかしそれにしてもちょっとばかり乱暴ではないか。倉庫のピアノの蓋が何故みんな開いているとか、和音はどうしてここに来たのかというような瑣末なこともだが、うたの耳の病気の説明もあれっきりではね(うたが気にしすぎていただけなのか)。それに、和音については途中で置き去りにしたままだったではないか。

この置き去りはいただけない。うたの再生には和音の存在が必要だったはずなのに、その説明を省いてしまっているようにみえてしまうからだ。うたと和音の関係が、恋人でも家族でもなく、友達というのともちょっと違うような、でもどこかで惹かれ合うんだろうな。この関係は、最後の連弾のように素敵なのだから、もう少しうまくまとめてほしくなる。

和音はうたよりずっと年上だから、すでに相原こずえが好きだったし(振られてたけどね)、音大に入ってからは加茂川香音(貫地谷しほり)という彼女もできて、年相応のことはやっているようだ。うたにそういう意味での関心を示さないのは、うたが和音にとってはまだ幼いからなのか。とはいえ寝ているところに急にうたが来た時はどうだったんだろ。和音も映画も、さらりとかわしているからよくわからない。けど、そういう関係が成立するギリギリの年にしたんだろうね。

耳の肥えた人ならいざしらず、私にとっては音楽の場面はすべてが素晴らしかった。和音のヘタクソらしいピアノも。

  

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:ビターズ・エンド

監督:萩生田宏治 プロデューサー:根岸洋之、定井勇二 原作:さそうあきら『神童』 脚本:向井康介 撮影:池内義浩 美術:林田裕至 編集:菊井貴繁 音楽:ハトリ・ミホ 音楽プロデューサー:北原京子 効果:菊池信之 照明:舟橋正生 録音:菊池信之
 
出演:成海璃子(成瀬うた)、松山ケンイチ(菊名和音/ワオ)、手塚理美(成瀬美香)、甲本雅裕(長崎和夫)、西島秀俊(成瀬光一郎)、貫地谷しほり(加茂川香音)、串田和美(御子柴教授)、浅野和之(小宮山教授)、キムラ緑子(菊名正子)、岡田慶太(池山晋)、佐藤和也(森本)、安藤玉恵(三島キク子)、柳英里沙(女子中学生)、賀来賢人(清水賢司)、相築あきこ(体育教師)、頭師佳孝(井上)、竹本泰蔵(指揮者)、モーガン・フィッシャー (リヒテンシュタイン)、三浦友理枝(相原こずえ)、吉田日出子(桂教授)、柄本明(菊名久)

机のなかみ

テアトル新宿 ★★★

■映画に見透かされた気分になる

家庭教師をしてぐーたら暮らしている馬場元(あべこうじ)は、新しく教え子になった女子高生の望月望(鈴木美生)の可愛らしさに舞い上がってしまう。勉強そっちのけで、望に彼氏の有無や好きな男のタイプを訊いたりも。気持ちが暴走してしまって、次の家庭教師先で教え子の藤巻凛(坂本爽)に「俺、恋に落ちるかも」などと言う始末。藤巻の部屋にギターがあるのを見つけると、それを借りて俄練習に励み、望の好きな「ギターの弾ける人」になろうとする。

望への質問に、好きな戦国大名は?と訊いてしまうのは、お笑い芸人あべこうじをそのまま持ってきたのだろうが、演技という目で見るとなんとももの足りない(ちなみに望の答えは長宗我部で、馬場は俺もなんて言う)。ただ彼のこの空気の読めない感じが、後半になってなるほどとうなずかせることになるのだから面白い。

望の志望は、何故か彼女の学力では高望みの向陽大だが、秘かに期するところがあるのか成績も上がってくる。ところが馬場の方には別の興味しかないから、図書館に行く口実でバッティングセンターに連れて行っていいところを見せようとしたりと、いい加減なものだ。望も「私、魅力ないですか」とか「彼女がいる人を好きになるのっていけないことですかね」と馬場の気を引くようなことを時たま言ってはどきまぎさせる。そうはいっても望の父親の栄一郎(内藤トモヤ)は目を光らせているし、イミシン発言の割には望が馬場の話には乗ってこないから、思ってるようには進展しないのだが。

馬場には棚橋美沙(踊子あり)という同棲相手がいて、一緒に買い物をしているところを望に見られてしまう(彼女がいる人という発言はこの場面のあとなのだ)。「古くからお付き合いのある棚橋さん」などと望に紹介してしまったものだから、棚橋は大むくれとなる。

この棚橋のキャラクターが傑出している。トイレのドアを開けっぱなしで紙をとってくれと言うのにはじまって、女性であることをやめてしまったかの言動には馬場もたじたじである(というかそもそも彼はちょっと優柔不断なのだな)。ところが、馬場が本当に望に恋していることを知ると、ふざけるなといいながら泣き出してしまうのだ。この、踊子あり(扱いにくい名前だなー)にはびっくりで、他の役もみてみたくなった。違うキャラでも光ってみえるのなら賞賛ものだ。

合格を確信していた馬場と望だが、望は大学に落ちてしまう。馬場は1人で喋って慰めていたが、泣き出した望に何を勘違いしたのか肩を抱き、服を脱がせ始める。何故かされるままになっている望。帰ってきた父親がドアを開けて入ってきたのは、馬場がちょうど望の下着を剥ぎ取ったところだった。

ここでフィルムがぶれ、テストパターンのようになって、「机のなかみ」というタイトルがまたあらわれる。今までのは馬場の目線だったが、ここからは望の目線で、同じ物語がまったく違った意味合いで、はじめからなぞられていくことになる。

で、後半のを観ると、何のことはない、望が好きなのは馬場などではなく(って、そんなことはもちろんわかってたが)、やはり馬場の教え子(このことは望は知らない)の藤巻なのだった。そして、彼は親友多恵(清浦夏実)の恋人でもあったのだ。

多恵のあけすけで下品(本人がそう言っていた)な話や、望の自慰場面(最初の方でボールペンを気にしていたのはこのせいだったのね)もあって、1幕目以上に本音丸出しの挿話が続くことになる(馬場の下心だったら想像が付くが、女子高生の方はねー)。

そうはいっても、映像的にはあくまでPG-12。言葉ほどにはそんなにいやらしいわけじゃない。でもとにかく、あの1幕目の問題場面に向かって進んでいくのだが、そこに至るまでに、その場面を補足する、藤巻を巡る女の駆け引きと父親の溺愛ぶりが描かれる。

父については、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしていて、それを望が断れないでいるといったものだが、駆け引きの方は少し複雑だ。望の本心を知っている多恵は、いちゃいちゃ場面を訊かせたり、藤巻との仲が壊れそうなことを仄めかしたり、あげちゃおうか発言をしたり、そのくせ藤巻のライブには嘘を付いて望を行けなくさせたりしていたのだ。

そうして合格発表日(合格した藤巻と多恵が抱き合って喜んでいるのを望は茫然として見ていた)の夜のあの場面を迎えるのだ。しかも父と藤巻と多恵が揃って、馬場と望のいる部屋に入ってきて……というわけだったのだ。で、この修羅場が何とも恥ずかしい。それは多分私にも下心があるからなんだろうけど(しかしなんだって、こーやって弁解しなきゃいけないんだ)。

ただこのあとにある、望と大学に入った藤巻との対話はよくわからなかった。だいたいあのあとにこういう場が成り立つというのが、不自然と思うのだが、とにかく望は藤巻の態度を問い質していた。藤巻のはっきりしない、ようするに多恵と望の両方から好かれているのだからそのままでいたいという何ともずるい考えを、望は本人の口から確認するのだが、しかしこのあと「藤巻君はそのままでいいの、私が勝手に頑張るだけだから」になってしまっては、何もわからなくなる。いや、こういうことはありそうではあるが。

これだったら、別れることになった棚橋と、洗濯機をどちらが持っていくかという話しているうちに「ごめんね、俺、ミーちゃんのこと大好きなのに浮気して……」と言って棚橋とよりを戻してしまう馬場の方がまだマシのような。ま、だからって馬場がもうよそ見をしないかというと、それはまったくあてにならないのであって、そもそももう望のことは諦めるしかない現実があるからだし、あー、やだ、この映画、もう感想文書きたくないよ。

【メモ】

馬場は望の父から再三「くれぐれも間違いのないように」と釘を刺されるのだが、これってすごいことだよね。

馬場の趣味?はバッティングセンター通い。そこで1番ホームランを打っているというのが自慢のようだ。

棚橋は見かけはあんなだが、うまいカレーを作る。そのカレーを馬場は無断で、自作のものとして望月家に持っいってしまう(この日は望月家もカレーだった)。

修羅場で望にひっぱたかれた多恵は、その理由がわからない。

本当の最後は、1人でバッティングセンターに来た望がホームランを打ち、景品のタオルをもらう場面。

2006年 104分 ビスタサイズ PG-12 配給:アムモ 配給協力:トライネット・エンタテインメント

監督:吉田恵輔 製作:古屋文明、小田泰之 プロデューサー:片山武志、木村俊樹 脚本:吉田恵輔、仁志原了 撮影:山田真也 助監督:立岡直人 音楽:神尾憲一 エンディング曲:クラムボン「THE NEW SONG」
 
出演:あべこうじ(馬場元)、鈴木美生(望月望)、坂本爽(藤巻凛)、清浦夏実(多恵)、踊子あり(棚橋美沙/馬場の同棲相手)、内藤トモヤ(望月栄一郎/望の父)、峯山健治、野木太郎、比嘉愛、三島ゆたか

あかね空

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■本当に永吉と正吉は瓜二つだったのね

京都で修行を積んだ豆腐職人の永吉(内野聖陽)は江戸の深川で「京や」という店を開くが、京風の柔らかな豆腐が売れたのは開店の日だけだった。永吉がやって来たその日から彼のことが気になる同じ長屋のおふみ(中谷美紀)は、落ち込む永吉を励ます。そしてもう1人、永吉の豆腐を毎日買い続けてくれる女がいた。

女は永吉とは同業者である相州屋清兵衛(石橋蓮司)の女房おしの(岩下志麻)だった。相州屋夫婦は子供の正吉が20年前に永代橋で迷子になったきりで、おしのは永吉に成長した正吉の姿を重ねていたのだ。ちょっと苦しい説明ではあるが、ま、それだけおしのの正吉に対する思いが強かったということか。

毎日作った豆腐を無駄にしてしまうのはもったいないと永代寺に喜捨することを考え(もちろん宣伝の意味もそこにはあった)、永代寺に豆腐を納めている相州屋に永吉とおふみは許しを請いに出かける。勝手にしろと突き放す清兵衛だったが、後にこれはおしのの願いと弁解しながらも、永代寺に京やの豆腐を買ってくれるようたのみにいく。清兵衛は彼なりに正吉のことに責任を感じていて、死ぬ間際にはおしのにそのことを詫びていた。

こうして京やの基礎が出来、永吉とおふみの祝言となる(泉谷しげるがいい感じだ)。京やのことをと面白く思わない平田屋(中村梅雀)という同業者が「今のうちに始末しておきたい」と、担ぎ売りの嘉次郎(勝村政信)にもちかけるが、気持ちのいい彼は京やの豆腐の味を評価するし、悪意のある行動にはならない。また京やの実力もさっぱりだったので大事には至らずにすんだようだ。他に出てくる人も、みな人情に厚い人たちばかりといった感じで、前半は締めくくられる。

後半はそこから一気に18年後の、浅間山の噴火に江戸中が大騒ぎしている不穏な空気の漂う中に飛ぶ。永吉とおふみには長男栄太郎(武田航平)、次男悟郎(細田よしひこ)、長女おきみ(柳生みゆ)という3人の子がいるし、店は相州屋があった家作を引き継いで(永代寺から借りて)繁盛していたが、外回りを任されていた栄太郎が、寄合の集まりで顔見知りとなった平田屋の罠にはまって、一家の絆は崩れていく。

小説がどうなっているのかは知らないし、平田屋の動向については語り損ねた感じもするが、この時間のくくり方は場面転換としてはうまいものだ。

おふみが賭場に出入りするようになった栄太郎を庇うのは、彼に火傷をおわせてしまった過去も一因になっているようだが、このことで夫婦仲に亀裂が入るし(中谷美紀の怒りっぷりはすごかった)、運悪く永吉は侍の乗る馬に撥ねられて命を落としてしまう。

栄太郎の賭場の借金を肩代わりした平田屋は、栄太郎が清算したはずの証文を手に、賭場を仕切っている数珠持ちの傳蔵親分(内野聖陽)を伴って、ちょうど焼香に帰った栄太郎が弟妹とで揉めている京やに乗り込んでくる。

傳蔵の仕組んだ最後のオチで京やは救われるのだが、これが少々もの足らないのはともかく、傳蔵に平田屋を裏切らせるに至った部分が、描かれていないことはないがあまりに弱い。が、内野聖陽による2役は、おしのが永吉を正吉と思い込んだことを印象付けるなかなかのアイディアだ(傳蔵は正吉だったことを再三匂わせているわけだから)。

平野屋が悪者なのは間違いないが、浅間山の噴火の影響で江戸の豆腐屋が困っているのに京やだけが値上げしないというところでは、永吉の「値上げをしないのが信用」という言葉が単調なものにしか聞こえない。寄合の席で栄太郎が居心地が悪くなるわけだ。もっともその後の栄太郎の行動は、甘ったれた弁解の余地のないものでしかないのだが。

栄太郎が賭場で金を使い込み、その取り立てに傳蔵がきて、おふみが33両を返し(臍繰りか)、さらに金を持ち出そうとした栄太郎にそれを与えている(これで栄太郎は勘当となる)し、永代寺から借りていた家作を買わないかという話にも応じようとしていた。そんなに金を貯め込めるのだったら、値上げをしないことより、それ以前にもっと安く売るのが本筋ではないかと思ってしまう。

豆腐を作る過程をきちんと映像にしているのはいいが、CGは意識してなのかもしれないが全体に明るすぎだし、「明けない夜がないように、つらいことや悲しいことも、あかね色の朝が包んでくれる」という広告のコピーに結びつけた最後のあかね空も取って付けたみたいだった。

そしてそれ以上に落ち着かなかったのが人物描写におけるズーミングで、どれも少し急ぎすぎなのだ。カメラワークはそうは気にしていないが、時たま(今回のように)相性の悪いものに出くわすと、それだけで集中できなくなることがあって、重要さを認識させられる。

 

【メモ】

気丈なおふみの口癖は「平気、平気やで」。

「上方から来たのは下りもんといってありがたがられる」のだと、平田屋は京やの店開きを警戒する。

傳蔵の手首のあざ。

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:角川ヘラルド映画
 
監督:浜本正機 エグゼクティブプロデューサー:稲葉正治 プロデューサー:永井正夫、石黒美和 企画:篠田正浩、長岡彰夫、堀田尚平 原作:山本一力『あかね空』 脚本:浜本正機、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:川口直次 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 照明:水野研一 整音:瀬川徹夫 録音:藤丸和徳
 
出演:内野聖陽(永吉、傳蔵)、中谷美紀(おふみ)、石橋蓮司(清兵衛)、岩下志麻(おしの)、中村梅雀(平田屋)、勝村政信(嘉次郎)、泉谷しげる(源治/おふみの父)、角替和枝(おみつ/おふみの母)、武田航平(栄太郎)、細田よしひこ(悟郎)、 柳生みゆ(おきみ)、小池榮(西周/永代寺住職)、六平直政(卯之吉)、村杉蝉之介(役者)、吉満涼太(着流し)、伊藤高史(スリ)、鴻上尚史(常陸屋)、津村鷹志(上州屋)、石井愃一(武蔵屋)、東貴博〈Take2〉(瓦版屋)