ディア・ドクター

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

写真1:西川美和、笑福亭鶴瓶、瑛太、八千草薫のサイン入りポスター。写真2、3:「実際の撮影で使われた神和田診療所の看板や、鶴瓶師匠が演じたDr.伊野愛用のドクターバッグや聴診器、その他の小道具を展示しております。」(写真3にある黒いプレートにあった説明文)

■人を判断するもの

『ゆれる』に続いてのこの『ディア・ドクター』(『蛇イチゴ』は未見だし『ユメ十夜』の[第九夜]は、短すぎてピンとこなかったが)、やはり西川美和は只者ではなかった。最後の方にちょっとした疑問はあるが、傑作なのは間違いない。溶け出したアイスという小道具にまで目が行き届いた演出に、『ゆれる』でのたくっていたホースを思い出した。

話は単純だ。伊野が無医村に来て三年、彼の評価は上々で、どころか上がるばかりだったのに、突然失踪してしまい、刑事が行方を調べはじめる。映画は、その聞き込み調査と、伊野のところに研修医の相馬がやってきて来てからの、つまり現在と少し前の過去を巧みに組み合わせた構造になっていて、この二つは、ところどころで、伊野(だけではない)の実像と虚像とを対比する。

虚像とはむろん伊野が偽医者だったことを指す(と書いてしまったが、これは周囲が勝手に作り上げたもののようでもあり、なかなかに難しい)。伊野の虚像部分に対する松重豊演じる刑事の歯に衣着せぬ物言いは的を射たものだが、反面、伊野に対する村人たちの見方や反応を限定してしまいそうで、心配になる。

伊野を連れてきて鼻高々だった村長の落胆は大きく、伊野様々だった村人たちでさえ、もう陰口をききはじめる始末だ。そういう光景を散々見ながらも、刑事は、いま伊野がここに戻ったら、案外袋だたきになるのは僕らの方かも、と漏らす。失踪調査で偽医者であることが判明して、すぐにこんな状況なのは、結局のところ、伊野への評価もすべて肩書きがあったからということになってしまう。それとも刑事の発言は、村人たちの反応が、刑事である自分へ向けた表向きの顔であることを見透かしてのものなのか(なら、自分の発言の及ぼす力のこともわかっているのだろう)。

もっとも映画の主眼は、そういうことの追求ではなさそうである(付随した効果という意味では大いに意識してやっているのだろうが)。また逆に、偽医者に対する関係者の反応を面白がっているというのでもなく、ただ、事例を並べていったという感じなのだ。まあ、それこそ巧妙に並べられているのではあるが。

他にも薬屋(問屋?)の営業マンとの怪しい関係など、なんとも興味深いものもあるが、結局、伊野が何を考えていたのかはわからない。推測するならば、高給(年二千万円もの大金を村は支払っていた)に見合ったことくらいは多少なりともしようと思ったのか(偽物としては本物以上の気配りが必要だったはずだ)。あるいは(またはその結果として)人に喜ばれることの楽しさを知ってしまったのだろう(これは大いにありうることだ)。

そして映画は、その喜ばれていることが一筋縄ではいかないことを描くのも忘れていない。

死にかけている老人を前に伊野は手を尽くそうとする。が、家族の方はもう大往生なのだからと、死んでくれることを願っている場面がある。臨終宣言のあと、伊野が老人を抱きかかえて「よう頑張った」と背中をさすってやると、つかえていた物がとれ息を吹き返す。集まっていた村人の万歳三唱の中、帰って行く伊野。万歳の中に家族の姿があったかどうか思いだせないのだが、たとえあったとしても、もうそれは伊野には知られてしまったことで、だからってそれすら家族は何とも思ってはいないのだろうが……。

伊野の命取りとなる鳥飼かづ子の場合にも、それぞれの事情が存在する。胃の調子の悪いかづ子は、娘たちの、とりわけ東京で女医になったりつ子には心配をかけまいと思っていて、伊野に一緒に嘘ついてくれと言う。りつ子の方は、父の死の時にも取り返しのつかないことをしてしまったという想いがあるらしく、知らないまま何かがあってはと、医者のはしくれとしての恐れもあるのだった。

伊野の必死の勉強(偽医者だからね)にもかかわらず、当然ながらかづ子の胃癌は進行し、盆休み?で帰ったりつ子と伊野の間で、偽(薬屋)の胃カメラの写真を前に、医学的見解が述べられ、りつ子も伊野の意見に納得する(勉強の成果なんだろう)。が、このあと、りつ子の次の帰省が早くて一年後ということを知ると、急に慌てたように、ここで待つようにりつ子言い残して伊野は姿を消してしまうのだった(この、ここで待ては、自分の代わりに村で診療し、母親を診ろと言っているようにもみえるが、これは考えすぎか)。

伊野は、経験豊かな看護婦の大竹主導で気胸の患者を救い(この場面は見物だった)、街の総合病院に運んで手術が行われている時にも姿を消そうとしているかのようだった。だから伊野は慌ててはいたが、逃げ出すタイミングを計っていたのかもしれず、でなければ相馬に僕は免許がない(これは車のだったが)とか、偽医者だ、とは冗談にでも言えなかったのではないか。

伊野の失踪で、診療所の看板は下ろさざるを得なくなる。なにしろ年収二千万でもなり手がいないのだ。ってことは、それ以上に医者は儲かるのか。または、やはり僻地生活などしたくないってことなのだろう。必要以上に多くを語らないのがこの映画だが、こういう誰もが抱く疑問や無医村の問題については、なるほどと思う。しかしそれにしても、大竹や相馬の失踪後の伊野評がはっきりしないのは何故か。一番の関係者たちなのに時間もそう長くとっていないから、これはわざとなのか。

大竹は地元での職を失うわけで、といって伊野を弁護しても何も得られないことくらいはわきまえていそうである。刑事も大竹には伊野との関係に話題を振っていた(大竹は否定)。相馬は伊野に入れ込んでいて、将来はここにこようと思っていたくらいだから、しどろもどろなのも無理はない。そしてやはり研修医という立場では自分を取り繕うしかなかったのだろう。こんなだから「伊野を本物に仕立てようとしたのはあんたらの方じゃないのか」と刑事に毒づかれてしまう。

意外なことに(かづ子の家族としてなら意外でも、医者としてなら必然なんだろう)最後になって伊野を信頼(そこまではいっていないのかも)しようとしたのはりつ子で、「あの先生なら、どんなふうに母を死なせたのかなぁ」と刑事に伊野を捕まえたら聞いてほしいと頼んでいた。

ここでどうにも気になるのがかづ子の応対で、刑事の事情徴収に、伊野を信用したことを怖いと言い、あなたに何かをしてくれたかという問いには、何も、と答えているのだ。何もしてくれないように頼んだのは他ならぬかづ子自身で、だからその答えは間違いではないにしても、伊野は彼の持てる力以上のことをしてくれたのではなかったか。だからかづ子の答えは、成り行きで言ってしまったにしても、そう簡単には受け入れられないものだ(これが最初に浮かんだ疑問である)。

このあと、伊野と刑事たちが駅のプラットホームで、気付くこともなくすれ違う場面がある。そして最後は、入院中のかづ子と伊野が鉢合わせして、二人が笑って、映画はお終いとなる。

この場面のためにホームでのすれ違い場面を用意したのだろう。これは気が利いた処理である。が、二人の笑顔で終わらせたいのであれば、かづ子の刑事に対する答えはもう少し違ったものでなければ、と思ってしまう。そうでないのなら、このラストは外してしまうべきではないか。

ただ、伊野が東京の、それもわざわざりつ子が勤務する病院の職員(それとも出入りの業者か何かなのか)になっているのが、大いに引っかかるところである。伊野はりつ子の勤務先までは知らなかったのだろうか。そうでなくても病院に出入りした場合の危険性は考慮するのが当然ではないか。それともこれはわかっていてのことなのか。職員でなく、単にかづ子に会いに行ったのだとしたら……。

考え出すと切りがなくなるのだが、笑顔の裏にある伊野という男のある部分がちらついて仕方がなくなってくる。そこまでを含めたラストということなら、これはこれで人間の業を考えさせる怖い結末だろう。

  

2009年 127分 ビスタサイズ 配給:エンジンフィルム、アスミック・エース

監督・原作・脚本:西川美和 プロデューサー:加藤悦弘 企画:安田匡裕 撮影:柳島克己 美術:三ツ松けいこ 編集:宮島竜治 音楽:モアリズム 音楽プロデューサー:佐々木次彦 衣裳デザイン:黒澤和子 照明:尾下栄治 録音:白取貢、加藤大和

出演:笑福亭鶴瓶(伊野治)、瑛太(相馬啓介/研修医)、余貴美子(大竹朱美/看護婦)、八千草薫(鳥飼かづ子)、井川遥(鳥飼りつ子/かづ子の娘、医師)、香川照之(斎門正芳/薬屋の営業)、松重豊(刑事)、岩松了(刑事)、笹野高史(村長)、中村勘三郎(総合病院の医師)

愛を読むひと

109シネマズ木場シアター4 ★★★★☆

■娘に聞かせる自分の物語

原作を読んだのは五年くらい前だったと思うが、例によって細部はすっかり忘れていて(恨めしい記憶力! しかもその文庫本もどこへ行ったのやら)、でもそれだからマイケルがハンナに出会うところから全部を、まるで自分の回想のように、ああそうだった、と確かめるような感じで観ることができた(すべてが原作と一緒というのではないのだろうが、曖昧な記憶力がちょうどいい作用をしてくれたようだ)。

これはちょっとうれしい経験だった。なにしろ前半は甘美で、舞い上がりながらも年上のハンナに身を任せていればいいのだから……。そうして、その先に起きることも知っているのに、映画にひき込まれていたのだった。

それにしてもハンナは何故自殺してしまったのか。無期懲役の判決で希望はなくても生きていたというのに。坊やからのカセットで、罪と引き換えにしてまでも隠そうとした文盲であることの恥からも解放されていたというのに。坊やの態度があまりにも他人行儀だったからか。生まれた希望が消えそうになった時、人は死を選ぶのだろう。

映画はマイケルの回想でもあるから現代ともリンクしていて、だからそこにはマイケルの主観が強く反映されているはずなのに、心理的な説明には意外と無頓着でさえある。けれど、そのことによって、マイケルの、そしてハンナの気持ちも探らずにはいられなくなるのである。

十五歳の時に二十一歳年上の女を愛せたマイケルは、七十三歳のハンナには惹かれることのない五十二歳になっていたのか。皮肉なことにケイト・ウィンスレットは私の目には三十六歳の時よりも七十三歳のメイクの時の方が美しく見えたのだが……(まあ、これは本当の年齢を知ってるからかもしれないが)。

それはともかく、マイケルのハンナに対する感情はそんな簡単なものではなかったのだろう。マイケルは、ハンナが着せられた罪が真っ当でないことは知っていたが、しかし、彼の学友がハンナを糾弾したように(注1)、程度の差こそあれナチスに加担したハンナを、いくら時間が経過したとしても、喜んで受け入れられはしなかったのではないか(注2)。

話がそれたが、問題はハンナがマイケルの心象についてどこまで考えていたかだが、もしかしたら、そんなにも問題視していなかったような気もする。

罪は法的な意味合いしかないにしても償ったわけだし、少なくともハンナはハンナに罪をなすりつけた元同僚たちのような、相手を貶めるような嘘はついていない(文盲についての嘘はついたが)。また、例えばマイケルの前から姿を消してしまったのも、市電の勤務状態がよく、昇進してしまっては文盲などすぐバレてしまうからなのだが、経歴詐称をしていたことなどは考えられないだろうか。これは考えすぎにしても、ドイツが戦争に対する反省を繰り返して来たことからも、ハンナが普通の人間であれば、罪の意識は十分あったはずである(だからといって、過去の行為を深く反省していたかどうかはまた別の問題ではあるが)。

けれど、ハンナの自殺は、そんなことではなくて、マイケルの手に重ねた自分の老いた手を引っこめなければならなかったことにあったような気がする。女性看守が「昔はきちんとしていたのに、最近はすっかりかまわなくなってしまって」とマイケルに言っていたが、ハンナの部屋はすべてが整然としていた。ここでの映画の説明は、荷物を片付けなかったのはハンナがここを出て行くつもりがなかったこととしていたが、身辺にかまわなくなったハンナにしては、マイケルによってもたらされた文字という世界を知った喜びを表現したような部屋になっていた(注3)。

私としては、身の回りのことをかまわなくなったハンナが、マイケルの来訪を知って、出来る限りのことをしたのではないかと思いたいのだが……。でもだからこの部屋はハンナにとって、もう悲しみ以外の何物でもなくなっていたのではないか。

もうひとつ。これは本がそうだったかどうかの記憶がないのだが、つまりすっかり忘れてしまったのだが、この物語が、マイケルが娘に語る自分に関する話になっていることで、これだけの話を娘に語れるのであれば、マイケルと娘との関係はそうは心配しなくてもいいのではないだろうか。妻とは別れてしまっていて、その影すらほとんど出てこないのは気がかりではあるが(作品としてはこれでいいにしても)。

しかし作品の中でケイト・ウィンスレットがいかに好演したにしても(デヴィッド・クロスもよかったが、十五歳はきついか)、これはやはりドイツ語によって演じて欲しかった。その弊害がいろいろなところで出てしまっているのだ(注4)。語学に疎い私ではあるが、マイケル・バーグという名のドイツ人といわれてもしっくりこない。やはりミヒャエル・ベルグでなくては(ハンナ・シュミッツは同じなのかしら)。

注1:この裁判は目くらましで、たまたま生き残った囚人が本を書いたからスケープゴートにされたに過ぎないと言っていた。また、この学生は君が見ていたあの女(ハンナ)を撃ち殺したい。出来れば全員を撃ち殺したいとも発言している。

この作品ではナチス狩りの正義が、まるで魔女狩りの如くだったことも描かれていて、これも重要なテーマの一つとなっている。ロール教授の法的見解(問題は悪いことかどうかではなく法に合っているかどうか)もそれを踏まえたものになっている。

注2:だから最初の面会も手続きをすませながら、マイケルは姿を消してしまったのだろう。ただ、これについてはあまり自信がない。単純にかつて愛したハンナの老いに、やはり戸惑ったととるべきか。ただし、ハンナの秘密を守ったのはハンナの意志を尊重したマイケルの愛で、だからこそハンナにカセットテープを送り続けたのだろう。

注3:ハンナが文字を覚えていく過程は、涙が出るくらい素晴らしい感動に溢れていた。

注4:注3で触れた場面だが、ハンナが本の「the」の部分に印を付けていったり、もっと前ではマイケルに朗読をせがむ場面では、ハンナはラテン語やギリシャ語を美しいとまで言うのだ。こんな言葉にこだわったセリフがあるのに、ドイツ語を英語にしてしまう神経がわからない。

 

原題:The Reader

2008年 124分 アメリカ、ドイツ 配給:ショウゲート 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンスプロダクションデザイン:ブリジット・ブロシュ 衣装デザイン:アン・ロス 編集:クレア・シンプソン 音楽:ニコ・ムーリー

出演:ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ)、レイフ・ファインズ(マイケル・バーグ)、デヴィッド・クロス(青年時代のマイケル・バーグ)、レナ・オリン(ローズ・メイザー/イラナの母親、イラナ・メイザー)、アレクサンドラ・マリア・ララ(若き日のイラナ・メイザー)、ブルーノ・ガンツ(ロール教授)、ハンナー・ヘルツシュプルング(ユリア/マイケルの娘)、ズザンネ・ロータ(カーラ/マイケルの母)

パフューム ある人殺しの物語

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■神の鼻を持った男はいかにして殺人鬼となったか-臭気漂う奇譚(ホラ話)

孤児のジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、13歳の時7フランで皮鞣職人に売られるが、落ち目の調香師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)に荷物を届けたことで、彼に自分の才能を印象付けることに成功し、50フランで買い取ってもらい晴れて弟子となるが……。

巻頭の拘置所にいるグルヌイユの鼻を浮かび上がらせた印象的なスポットライトに、死刑宣告の場面をはさんで1転、彼の誕生場面に移る。パリで1番悪臭に満ちた魚市場で、彼はまさに「産み落とされる」のだ。この場面に限らず、匂いにこだわって対象をアップでとらえた描写は秀逸で、匂いなどするはずのない画面に思わず鼻腔をうごめかしてしまうことになる。そして、なんと次は産まれたばかりの血にまみれた赤ん坊が演技をする(これはCGなのだろうけど)という、映画史上初かどうかはともかく、とにかくもう最初から仰天続きの画面が続く。

こんな筆致で、どんな物も嗅ぎ分ける神の鼻を持った男が殺人鬼となるに至った一部始終を描いていくのだが、おぞましいとしか言いようのない内容を扱いながらギリギリのところで観るに耐えうるものにしているのは、この映画が全篇ホラ話の体裁をまとっているからだろう。

例えば、次のような描写がある。孤児院に連れて行かれた赤ん坊のグルヌイユは、そこの子が差し出した指を握り、匂いを嗅ぐ。だいぶ大きくなったグルヌイユが、他の子がいたずらで彼にぶつけようとしたりんごを、後ろ向きなのにもかかわらず、匂いを感知してよける。

グルヌイユの桁違いの嗅覚については、この後も枚挙にいとまがないほどだ。バルディーニが秘密で研究していた巷で人気の香水が、彼の服についていることを言い当てることなどグルヌイユにとっては何でもないことで、瓶に密封された香料までわかるし(多少は瓶に付着しているということもあるのかもしれないが)、調合すら自在。そんなだから、人の気配までもが匂いでわかってしまうし、これはもっとあとになるが、何キロも先に姿を消した人間まで、匂いで追跡してしまうのである。

次のような例もある。グルヌイユに関わった人間は次々と死んでしまう。まず母。グルヌイユの最初に発した(泣き)声で、母親は子捨てが発覚し絞首刑。彼を売った孤児院の女は、その金を狙われて殺されるし、鞣職人は思わぬ金を手にして酔って溺死。職人証明書を書く代わりにグルヌイユから100種類の香水の処方箋をせしめたバルディーニは、幸せのうちに眠りにつくが、橋が崩れてしまう(この橋の造型を含めた川の風景は見事。セーヌにかかる橋の上が4、5階ほどのアパートになっていて、そういえば時たま天井から土が落ちてきていた)。

バルディーニから、グラース(これはどのあたりの町を想定しているのだろう)で冷浸法を学べば生き物の体臭を保存できるかもしれないと聞いていたグルヌイユは、究極の匂いを保存しようとその地を目指す。途中の荒野で彼は自分自身が無臭だということに気付く。彼にとって無臭は、誰にも存在を認められないということを意味するようである。なるほどね。ただ、この場面はやや哲学的で私にはわかりずらかった。

グラースで職に就いたグルヌイユは、女性の匂いを集めるために次々と殺人を犯すようになる(パリでの1番はじめの殺人こそ成り行きだったが)のだが、そのすべてが完全犯罪といっていい巧みさでとりおこなわれていく。匂いで察知し、追いかけ、家に忍び込んでからは、もう嗅覚がすぐれているからという理由では説明がつかないようなことを、最後の犠牲者になるローラ(レイチェル・ハード=ウッド)には用心深い父親のリシ(アラン・リックマン)が付いているにもかかわらず、すべてを手際よくやりのけてしまうというわけである。

リシの厳しい追及でグルヌイユは捕まり死刑台に登るのだが、彼はあわてることなく完成した香水(拷問までされていたのに隠し持っていたこと自体もホラ話というしかない)で、まず死刑執行人に「この男は無実だ」と叫ばせる。匂いを含ませたハンカチを投げると、ハンカチは広場を舞い、司祭は「人間でなく天使」と言い、500人を越すと思われる死刑見物人たち(全員がグルヌイユの死を望んでいた)はふりまかれた匂いに酔ったのか服を脱ぎ捨て、司祭も含め広場では乱交状態となる(グルヌイユ自身は、生涯にわたって性行為とは無縁だったようだ)。そして、私は騙されんぞと言っていたリシまで、最後には「許してくれ、我が息子よ」となってしまう。

ホラ話は最後まで続く。この香水で世界を手にすることもできたグルヌイユだが、パリに戻って行く。香水で手に入れた世界など虚構とでも思ったのだろうか。彼は産まれた場所に出向き、香水を全部自分にふりかけてしまうのである。

そうか、無臭でいままで存在していなかった彼(犬にも気付かれないのだ)は、このことによって、今やっと誕生したのかもしれない(もっともそう感じるのは彼だけのような気もするのだが。しかし人はその人の価値観でしか生きられないわけで、彼には必要な行為だったのだろう)。と、そこにいた50人くらいの人が「天使だわ、愛している」と言いながら彼に殺到する。

グルヌイユが彼らに食われてしまったのか、ただ単に姿を消してしまったのかはわからないのだが(翌日残っていた上着も持ち去られてしまう)、もはやそんなことはどうでもいいことなのだろう。なにしろホラ話なのだから。

グルヌイユの倫理観を問うことが正しいことかどうかはさておき、ローラから採った香りを、殺害場所からそうは離れていないところで抽出している彼の姿は美しく崇高ですらあった。彼は捕まって殺害理由を問われても、必要だったからとしか答えないのである。

(071018追記)
17日にやっと原作を読み終えることができた(読むのに時間がかかったわけではない)。グルヌイユが無臭であることは、原作だと生まれたときからの大問題であって、飛び抜けた嗅覚の持ち主であること以上にこのこと自体が、彼の生涯を決めたことがわかる。

なにしろ彼が忌み嫌われる原因は「無臭」だからというのだ。これについてはちゃんとした説明があって、その時はふむふむと読み進んでしまったのだが、でも説得力があるかというとどうか。グルヌイユの嗅覚が天才的ということとは別に、当時の人々にも相当な嗅覚がないと「無臭」に反応したり、グルヌイユ(の香水にか)を愛したりは出来ないことになると思うのだが。

グルヌイユが7年間を1人山で過ごすことになるのも、このこと故なのだが、これもわかったようでやっぱりわからなかった。

というようなことを考えると、映画は多少の誤魔化しがあるにしても、うまく伝えられない部分は最小限にして、挿話も目立たないところは書き換え(彼を売った孤児院の女などそのあと52年も生きるのだ)、壮大なホラ話に仕立て上げていたと、改めて感心したのだった。

  

【メモ】

果物売りの女の匂いを知った(服を剥ぎ取り、体をまさぐり、すくい取るように匂いを嗅ぐ場面がある)ことで、惨めなグルヌイユの人生に崇高な目的が生まれる。それが、香りの保存だった。

グルヌイユの作った香水だが、そもそもバルディーニから聞いた伝説による。その香料は、何千年も経っているのに、まわりの人間は楽園にいるようだと言ったとか。12種類の香料はわかっているが13番目が謎らしい。

グルヌイユの殺人対象は処女のようだが、娼婦も餌食になっている。

グルヌイユのとった香りの保存法は、動物の脂を体中に塗りたくり、それを集めて抽出するというもの。

犠牲者が坊主姿なのは、体毛を全部取り除いたということなのだろうか。犠牲者の飼っていた犬が、埋めてあった頭髪(死体)を掘り起こして、彼の犯罪が明るみとなる。

原題:Perfume:The Story of a Murderer

2006年 147分 シネスコサイズ ドイツ、フランス、スペイン 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トム・ティクヴァ 製作:ベルント・アイヒンガー 製作総指揮:フリオ・フェルナンデス、アンディ・グロッシュ、サミュエル・ハディダ、マヌエル・マーレ、マーティン・モスコウィック、アンドレアス・シュミット 原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』 脚本:トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー 撮影:フランク・グリーベ 美術監督:ウリ・ハニッシュ 衣装デザイン:ピエール=イヴ・ゲロー 編集:アレクサンダー・ベルナー 音楽:トム・ティクヴァ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:サイモン・ラトル ナレーション:ジョン・ハート

出演:ベン・ウィショー(ジャン=バティスト・グルヌイユ)、ダスティン・ホフマン(ジュゼッペ・バルディーニ)、アラン・リックマン(リシ)、レイチェル・ハード=ウッド(ローラ)、アンドレス・エレーラ、サイモン・チャンドラー、デヴィッド・コールダー、カロリーネ・ヘルフルト

それでもボクはやってない

テアトルダイヤ ★★★★☆

■ここは私の法廷です(うゎ)

導入に別の痴漢犯(こちらは証拠に言及されて否認をすぐ撤回する、つまり本物)を平行して置いたり、担当弁護士を女性にしたりといった細かな工夫は随所に見られるものの、まったくの直球である。描きたいことを優先して撮っていたら、余計なことをしている暇が無くなってしまったという感じがするほど密度が濃いのだ。裁判という難物を扱っての濃さなのに、143分という長さを感じさせないし、痴漢冤罪事件という身近に起こりうるもので裁判の実態を解きほぐしているのだから見事というほかはない。

会社の面接に向かうために通勤ラッシュの電車に乗った金子徹平(加瀬亮)は、乗り換えの駅のホームに降りたとたん、女子中学生に袖をつかまれ痴漢呼ばわりされる。必死になって否定するが、駅事務室に連れていかれると、警察が来て拘置され、そのまま裁判に巻き込まれることに、いや裁判を闘うことになる。

警察、検察の有無を言わせぬ取り調べ、留置場の同房者、当番弁護士、上京した母の狼狽、アパートの管理人、友人の協力、民事専門の弁護士、冤罪事件に積極的なベテラン弁護士に新任女性弁護士、対照的な裁判官、公判立会検事、同じ痴漢冤罪事件の当事者、元恋人、裁判傍聴オタク、事件の目撃者など、恐るべき数の登場人物がゆるぎなく配置され、時には役割を借りた説明役になるといった案配で、無駄と思われる場面がほとんどない。

いちいち感想を書いていくときりがないのでしないが、何といっても印象深いのは裁判官によって状況が変わってしまうことだ。刑事裁判の最大の使命は無実の人を罰してはならないことだと司法修習生に説く裁判官から、「ここは私の法廷です」(審理を静粛に行うことの妨げになると、今まで認めてくれていた定員以上の傍聴人を排除)と言って憚らない裁判官に途中で交代となる。立場の違いもだが途中交代というのも、ことがことだけに恐ろしいではないか。柔和なイメージの小日向文世にこの尊大な裁判官をやらせたのは配役の妙で、こんなヤツには裁かれたくないよな、と誰しもが思うだろう。

裁判官が無罪を出すのは、警察と検察の否認ということで、それは国家にたてつくことになる、とは傍聴人の高橋長英のセリフだが、政治色の薄い裁判でも同じ構図の上にあるということか。「裁判官は被告にだけは騙されまいと思っている」という指摘にも、そんなものかと考えさせられる。さすがにすぐ「裁判官に悪意があるとは思わない」と、同じ役所広司に言わせているが、私など過激で短絡的だから、手加減することなどないのに、と思ってしまう。裁判官という職業自体が傲慢と知るべきではないか、と。

2009年にはじまる予定の裁判員制度にはずっと懐疑的でいた私だが、考えを改めないといけないのかもしれない。刑法39条や刑事法上の時効などわからないことだらけだし、少なくとも私には裁判員になる資格などないっていうのにね。

話がそれたが、あえて難点をあげるなら、再現ビデオを作ることで被害者の証言に疑問が出てくるところだろうか。ビデオはお金もかかることであるし、これはやはり実験し確証を得た上でのビデオ製作となるのが普通だろう。あとはもうすでに触れたことだが、裁判制度ではなく裁判官によって判決が、つまり裁判官に責任が転嫁されかねないということだが、しかしまあ、これも含めて裁判制度の不備を突いていることになるだろうか。

とにかく、「すべての男には動機があるの」だから、観た方がいいと思うよ。被告になる可能性が大ありなんだから。で、それ以前に、痴漢行為はやめましょう(動機のある私が言っても説得力ないんでした)。

  

2007年 143分 サイズ■ 

監督・脚本:周防正行 製作:亀山千広 プロデューサー:関口大輔、佐々木芳野、堀川慎太郎 エグゼクティブプロデューサー:桝井省志 企画:清水賢治、島谷能成、小形雄二 撮影:栢野直樹 美術:部谷京子 編集:菊池純一 音楽:周防義和 照明:長田達也 整音:米山靖、郡弘道 装飾:鈴村高正 録音:阿部茂 助監督:片島章三
 
出演:加瀬亮(金子徹平)、役所広司(荒川正義)、瀬戸朝香(須藤莉子)、山本耕史(斉藤達雄)、小日向文世(室山省吾)、正名僕蔵(大森光明)、もたいまさこ(金子豊子)、田中哲司(浜田明)、光石研(佐田満)、尾美としのり(新崎孝三)、大森南朋(山田好二)、本田博太郎(三井秀男)、高橋長英(板谷得治)、 鈴木蘭々(土井陽子)、唯野未歩子(市村美津子)、柳生みゆ(古川俊子)、野間口徹(小倉繁)、山本浩司(北尾哲)、益岡徹(田村精一郎)、北見敏之(宮本孝)、田山涼成(和田精二)、石井洋祐(平山敬三)、大和田伸也(広安敏夫)、田口浩正(月田一郎)、徳井優(西村青児)、清水美砂(佐田清子)、竹中直人(青木富夫)、矢島健一、大谷亮介、菅原大吉

敬愛なるベートーヴェン

シャンテシネ1 ★★★★☆

■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる

導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェン(エド・ハリス)のコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエに行くことになる。

1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンに至っては激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。

音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。

女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。

シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。

今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、そうして第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しむつもりでいたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。

この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。

第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。

晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された男(思い込みにしても)と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。

そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナが譜面をベートーヴェンに見せれば、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。

アンナに非礼を詫びることになるベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことには苦言を呈する。

が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはこのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。

いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないとも思わなくもないのだが、これはこの映画を貶めることになるのかも。でないと最期までアンナに音楽を伝えようとしていた病床のベートーヴェンとアンナの場面が台無しになってしまう(それはわかってるんだけどね、私が下品なだけか)。

お終いは、アンナが草原を歩む場面である。ここは彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、アンナという架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。

 

【メモ】

アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。

甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。

原題:Copying Beethoven

2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕

監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
 
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ

虹の女神 Rainbow Song

テアトルダイヤ ★★★★☆

■成就しない恋を追体験させるなんて意地悪だ

あらかじめ運命が提示される映画はままあるが、はじまってすぐにある、ヒロイン佐藤あおい(上野樹里)の事故死のニュースは、職場にいる岸田智也(市原隼人)に感情を反芻させる間を与えず、彼をそのまま葬式の場面へと連れ込む。この念押しが、映画が進むにつれてじわじわと効いてきて、何とも切ない気持ちになる。

そういう構成上の効果もだが、切ないのは映画が自分の学生時代をやたら思い出させるからだ。あおいと同じような8ミリの自主制作に少しだが関わった経験があり、恋についてもあおいのようにうまく想いが伝えられずにいたからだろうか。そして、自分のしたいことや進路についてまったく何も決められずにいるあたりは岸田である。もっとも彼のように、ストーカーになるほどの実行力は持ち合わせていなかったから、さらにひどかったのかもしれない。

と考えていくと違うことの方が多いのだが、にもかかわらず自分に近づけて観ることができるのが、この映画の魅力だろう。

横道にそれたが、切なさはあおいが学生時代に作った『The End of the World』という8ミリ作品の内容に重なることで増幅される。8つ(これまで8ミリにかけているわけじゃないよね)の章立てのある映画(本編)は、あおいの葬式から学生時代にもどり、また葬式に戻ってくるという構成となっていて、葬式のあとで仲間が観るという形でこの8ミリの全編が映写されるのだ。

その『The End of the World』は、巨大隕石が地球を襲った20XX年の最後の7日間を描いた物語で、いかにも映研のサークルが撮りそうな作品(脚本もあおい)だ。あおいの父親(小日向文世)が、へたくそな演技の坊主役で登場するのが実にそれっぽい。地球最後の日が迫っているのに恋人のマコトと離ればなれのヒロインが、やっとマコトに会い抱き合って長いキスをかわすのだが、実はそれは幻想で、ヒロインはひとり病院で息をひきとっていく。「終わったのは私だけだった」というナレーションが、あおいの死という現実に重なり、うらめしくなる。

このマコトを岸田が演じているのだが、門外漢の彼が何故準主役に抜擢されたのかを考えると興味深い。岸田があおいと知り合ったのは、彼があおいの友達(鈴木亜美)にストーカー行為をしてで、あおいは恋の対象ではなかった。そのあとも岸田は8ミリ映画の最初のヒロイン役だった今日子(酒井若菜)に恋心を抱き、しかもあおいに背中を押してもらったりするのだが、あおいの方はどうやらかなり早い段階(ふたりで手を握りっぱなしにして虹に見とれていた時か)から岸田のことが好きだったようなのだ。

『The End of the World』での長いキスシーンを今日子が拒むことは、今日子の性格をあおいが読んでいてのことで、代わりにあおい自身がヒロインになり岸田のキスの相手になることは、賭ではあるが、最初からのあおいのもくろみ(希望)だったのではないか。

そんなあおいを前にして、岸田は本当に鈍感なヤツだったのだろうか。あおいに「女を感じない」と言ったのは言いすぎだが、あれには照れもあったと思われる。デートカフェの取材の帰りには、あおいからは猛烈な反発を食らってしまうが、岸田は冗談交じりながらも結婚という言葉まで口にしているのだ。

岸田はあおいに負い目を感じていたのだと思う。女の尻ばかり追っていたし、まともな就職もできず、唯一あおいに映画の道を進むように言ったことくらいしか貢献していないようで。だからあおいが日本を離れてアメリカで映画の勉強をすることを聞いても、行くなとは言えず「日本にいればいいじゃん」と曖昧な返事で誤魔化すしかない。あおいは「日本なんだ。そばじゃないんだ」と彼女にしてみれば精一杯の発言(これは仕事より恋を取るという決断以上に、岸田への告白なのだから)をするのだが、岸田はあおいの気持ちに気づきながらも「(あおいに紹介された仕事を)辞めようと思ったけど続けてみる。だからお前も頑張れ」と言うしかなかったのだ。

もっともこの解釈は、違うと言われてしまいそうだ。押しかけの年上女(34歳)千鶴(相田翔子)との長目のエピソードがあるし、8ミリの上映、さらにはあおいの妹かな(蒼井優)から手渡された遺品の中に、岸田が代筆を頼んだ今日子へのラブレター(これは下書き? それとも手紙は出さなかったのか)がでてくるからだ。ラブレターの中にあおいの本心が残されていて、これを読んであおいの気持ちにやっと岸田が気付くというのが、妥当なところだろうか。

千鶴との関係を通して、岸田が主体性のない自分に気付くというのはそうなのだが(でないとこのエピソードは冗長ととられてしまう)、8ミリに関してはすでに学生時代にあおいと一緒に観ている(これもすごいことだよね)のだし、だから少なくともあおいの渡米前には、十分あおいの気持ちには気付いていたはずなのだ。

好き同士であっても、次の段階に行けないことはあるだろう。ましてやあおいはアメリカに行ってしまってどんなことを考えていたのか。岸田からの虹の写真のメールを見てどう思ったのか。でもなにしろ、死んでしまうんだものねー。

次から次へといろいろなことを考えてしまうのは、映画がよくできている証拠だろう。ただ、ふたりのことは何もかもお見通しで見守っていたかのようなかなについては、役割を重くしすぎた感がある。

途中にある、あおいとかなと岸田の夜祭りのエピソードは楽しいものだが、最後のラブレターになると、かなが盲目では困ることになるからだ。事故のためアメリカに行く場面でも、岸田に姉のために同行して欲しいと言わせているから、彼女の存在は監督にとってはどうしても必要だったのだろうが(父親でもいいはずだ)、盲目は彼女の神秘性を際だたせても、説明としては苦しくなってしまった。

  

【メモ】

岸田はストーカーだが、彼に言わせると、最初はサユミの方がストーカーだったらしい。3回デートして、あっさりふられたのだと。しかしそのあとバイト先の斡旋と移籍金として1万円を用意するというあたりは、ある意味なかなかではないか。

1万円札の指輪は、そのやりとりでうまれたもの。

あおいの上司である樋口(佐々木蔵之介)が、自分の煽りを真に受けてアメリカ行きを決心したあおいに驚く場面がいい。樋口の愛すべき上司ぶりはうれしくなる。

その樋口があおいの部屋にあるZC1000を見つけて服部(尾上寛之)と交わすオタク談義がたまらない。ZC1000にコダクローム40を入れる(シングル8のマガジンに詰め替える)とはねー。ただ時代が違うとはいえZC1000を学生の身分で使えるんだろうか。才能が漲っていて、小川伸介超えたかも、のあおいなのだから(死んだ人間への賛辞にしてもさ)、飯を切り詰めてでもそのくらいのことはしていたのかも。そういえば映画には「コダック娘」という名前の章もあった。

2006年 118分 サイズ■ 

監督:熊澤尚人 プロデューサー:橋田寿宏 プロデュース:岩井俊二 原案:桜井亜美脚本:桜井亜美、齊藤美如、網野酸 撮影:角田真一、藤井昌之 美術川村泰代 音楽:山下宏明 主題歌:種ともこ『The Rainbow Song ~虹の女神~』 CG:小林淳夫 VE:さとうまなぶ スタイリスト:浜井貴子 照明:佐々木英二 装飾:松田光畝 録音:高橋誠
 
出演:市原隼人(岸田智也)、上野樹里(佐藤あおい)、蒼井優(佐藤かな)、相田翔子(森川千鶴)、小日向文世(佐藤安二郎)、佐々木蔵之介(樋口慎祐)、酒井若菜(麻倉今日子)、鈴木亜美(久保サユミ)、尾上寛之(服部次郎)、田中圭(尾形学人)、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩

トリスタンとイゾルデ

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■丁寧なつくりの重厚なドラマが楽しめる(苦しめられる)

(↓ほとんど粗筋ばかりなので読まない方がいいかも)

ローマ軍が撤退したあと、強大なアイルランド王に対抗する連合を打ち立てられないイギリスは、暗黒時代が続いていた。トリスタン(ジェームズ・フランコ)は幼い時に両親をアイルランド軍に殺され、命の恩人であるコーンウォールの領主マーク(ルーファス・シーウェル)のもとで成長する。トリスタンは自分の立てた作戦で、アイルランド王の片腕であるモーホルトを仕留めるが、自身も傷つき、毒薬のため死んだと思われて船葬で海に流される。

アイルランドに流れ着いたトリスタンを見つけたのはアイルランド王の娘イゾルデ(ソフィア・マイルズ)で、解毒の方法に詳しい彼女によって彼は一命を救われる。彼女の献身的な看病のうち、ふたりは恋に落ち海岸の小屋で結ばれる。

トリスタンを最初に発見したのがイゾルデというあたりに多少無理はあるものの(イギリスと敵対しているのに海岸線の防備はどうなっているのだ)、よく練られた脚本で、導入部から無理なく物語に入っていくことができる。歴史的な背景もわかりやすく説明してある。

船葬が発見されてしまったため、イゾルデの正体を知ることもなく、一旦はイギリスに戻るトリスタン。死んだと思っていたマーク王は、我がことのように喜ぶ。一方アイルランド王はモーホルトを失った(実は王との間で、イゾルデを妻にする約束が出来ていたのだが)ことから体勢を立て直す意味もあって、イゾルデと領地を餌にイギリスの領主たちに最強戦士を決める試合を開催するという知らせを出す。

褒美に釣られて半数の領主が参加するなか、自分の愛した女性がイゾルデであることを知らないトリスタンは、マーク王に「自分が名代になって出場して勝ち、イギリスの盟主と目されているあなたがアイルランド王女を妻に迎えることになれば、血を流さずに平和がもたらされる」と説く。

筋ばかり追ってしまっているが、これが巧妙なのだ。イゾルデをモーホルトから守ったのがトリスタンならば、そのイゾルデを親代わりであるマーク王に嫁がせたのもトリスタンということになるからだ。

王女争奪戦でのトリスタンの活躍はなかなかだ。仕組まれたインチキ試合に勝ち上がっていくトリスタンをカメラは魅力的に追う。恋愛劇の側面が強調されているが、この試合だけでなく、森での戦いや、城攻めの場面などどれも正攻法ながら迫力がある。また、俯瞰で捉えた城の内部や夜の挙式など、静の部分の美しさにも魅せられる。

「ここが忠義のない世界だったら私と結婚してくれた?」「そんな世界などない」「初夜がつらいわ」人目を忍んで交わされるトリスタンとイゾルデの会話が切ない。というか、
マーク王と睦まじくしているイゾルデを、地獄にいるトリスタンは「妻を演じるのに少しは苦労するかと」となじってしまう。

そしてマーク王の立派さが、さらに悲劇を際だたせる。トリスタンにとってマーク王は忠義以上に尊敬の対象(王としての資質のみならず、トリスタンを救う時に右手まで失っている)だし、イゾルデもトリスタンと知り合っていなければマーク王の愛を受け入れていたはず(優しくて憎めない人)なのだ。なのに、初恋の情熱故か、イゾルデはトリスタンに「愛に生きる」ことを宣言させてしまう。

密会を重ねる当のトリスタンに、マーク王はイゾルデの素行調査を依頼する。いや、詳しく書くのはもうやめるが(書くだけでもつらい話だ)、とにかく、この隙をつくようにアイルランド王と裏切り者が動きだし、マーク王は事実に直面する。が、イゾルデからトリスタンが瀕死の時に知り合ったことを訊いて、何も言わずふたりを解放しようとする。

しかし、トリスタンは「愛が国を滅ぼしたと伝えられる」と言ってマーク王のために戦うことを選ぶ。マーク王の寛容さに応えずにはいられなかったのだろうが、結局は彼には死が待っていた。「生は死より尊い。だが愛はもっと尊い」「ふたりの愛は国を滅ぼさなかった」という、ここだけ聞いたらおちゃらかしたくなるような結末なのだが、素直にしんみりできる。

アイルランド王の、娘を将棋の駒の1つとしか考えていない酷薄さや、トリスタンと同い年で、彼の存在故に常に2番手に甘んずるしかなかったマーク王の甥の悲しさなども、きちんと描かれていた。これでイギリスの部族間の抗争がもう少し深く捉えられていたら言うことがないのだが。

私の書いた文章からだと重たくるしい映画というイメージしか残りそうもないが、例えばトリスタンを人肌で温めようとするイゾルデが乳母にも裸になるように言うと、乳母は嬉々として「男と抱き合うのは15年ぶりよ」と言う。このあとトリスタンの正体を知って乳母が「イギリス人ですよ」と窘めると、イゾルデは「捕虜にしたの」と答えるのだ。まだ恋のはじめのはじめ、楽しい予感に満ちたひととき……。

 

原題:Tristan + Isolde

2006年 125分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:ケヴィン・レイノルズ 脚本:ディーン・ジョーガリス 撮影:アルトゥール・ラインハルト 編集:ピーター・ボイル 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:ジェームズ・フランコ(トリスタン)、ソフィア・マイルズ(イゾルデ)、ルーファス・シーウェル(マーク)、 デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ストロング、ヘンリー・カヴィル、ブロナー・ギャラガー、ロナン・ヴィバート、ルーシー・ラッセル

記憶の棘

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

■転生なんてどうでもいい。アナと少年が愛し合っていたのなら

アナ(ニコール・キッドマン)が最愛の夫ショーンをジョギング中の心臓発作で亡くしたのは10年前。夫への想いを断ち切れずにいたアナだが、自分の心が開くのを待ち続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)の愛を受け入れ、その婚約発表パーティがアナの豪華なアパートで開かれようとしていた。ショーンの友人だったクリフォード(ピーター・ストーメア)とその妻クララ(アン・ヘッシュ)もやって来るが、クララはプレゼントのリボンを忘れたといって外に飛び出していく。公園の林にプレゼントを埋めるクララ。それを見ている少年(キャメロン・ブライト)。クララは別のプレゼントを買う……。

次は、アナの母エレノア(ローレン・バコール)の誕生日パーティが開かれているアパート(パーティ続きだが、なにしろ金持ちだからね)。そこに突然見知らぬ少年が現れ、アナとふたりだけで話したいと申し出、「僕はショーン、君の夫だ」と告げる。あきれて最初こそ相手にしないアナだったが、何度か接していくうちに本当に夫の生まれ変わりかもしれないと思い始め、次第にそれは確信へと変わっていった。

カメラが巻頭から素晴らしいが、アナの動揺を捕らえた劇場の場面は特筆ものだ。少年への説得がうまくいかず、劇場の開演に遅れてしまうジョセフとアナだが、少年の倒れた所を目にしてしまったアナの気持ちの揺れは大きくなるばかりだ。引いたカメラが整然とオペラを鑑賞している客席を映しているところにふたりが現れる。指定席にたどり着くには、まるで波紋が広がるように何人もの客を立たせることになる。狭い客席の前を進む時にはカメラはかなりふたりに近づき、着席した時にはアナのアップになっている。そして、ここからが長いのだ。ジョセフが2度ほどアナに耳打ちするが、アナには多分何も聞こえていない。アナにも見えていなかったようにオペラの舞台は最後まで映ることなく、場面は観客がその長さに耐えられなくなったのを見計らったように突然切り替わる。

こんな調子で書いていくとキリがないのではしょるが、少年がふたりしか知らないことまで答えるに及んでアナの心は乱れに乱れ、夫への愛が再燃し、少年をアパートに泊めたりもする。無視されたジョセフが大人げない怒りを爆発させる(きっかけは少年が椅子を蹴るという子供っぽいいたずら)が、すでにこの時にはアナには少年しか見えなくなっていた。

ところが、死んだショーンが実は浮気をしていて、少年の知っていた秘密の謎が、クララが埋めたプレゼントの手紙を掘り出して仕入れたものによることがわかる。クララによると、この手紙はアナがショーンに送ったもので、それをショーンは封も切らずにクララに渡していたのだという。「ショーンが本当に愛していたのは私。だからもしあなたが生まれ変わりなら、真っ先に私の元に来るはず。だからあなたはショーンではない」というクララに、少年の心は簡単に崩れてしまう。

そしてアナは、何と、今回のことは私のせいではないとジョセフに復縁を懇願する。少年からは2度と迷惑はかけないし、たまに精神科の医師に診てもらっているのだという手紙が届く(この場面は学校の個人写真の撮影風景。このカットがまた素晴らしい)。ラストはアナとジョセフの結婚式だが、海岸にはウエディングドレスを着たままのアナが取り乱している姿がある。ジョセフがアナに近づき、なだめるようにアナを連れて行く……。

1番はじめにショーンの講義のセリフで転生は否定されるのだが、すぐその当人の死を見せ、そのまま出産の場面に繋いでいるのは、転生をイメージさせていることになるのではないか。原題もBirthだし。こうやって周到に主題を提示しての逆転劇はあんまりという気もするが、しかしだからといってあっさり転生でした、というのはさすがにためらわれたということか。

表面的にせよ転生を否定する結論を取っているので、その可能性を考えてみたが、これだと少年が何故そんなことを言い出したのかがまるでわからなくなる。いくらアナに好意を感じたといっても、家族との決別も含めて10歳の少年がそこまで手の込んだことをやるだろうか。

逆に生まれ変わりだという根拠ならいくつか見つけることが出来る。婚約パーティに現れたクララの後を追った(つまりクララを知っていた。これは偶然ということもあるかも)。クリフォードのことも知っていた。ショーンの死亡場所を知っていた。そしてなにより手紙からの知識では(アナのことは同じアパートだから知っていたにしても)ショーンが死んだということまではわからないはずなのだ。

確かにクララの言い分は気になるが、ショーンがジョセフに妻を取られることに嫉妬した(あるいは許せない)というのはどうだろう。これはエレノアが彼を嫌っていたということからの、ショーンの性格が悪かったという私の勝手な推論だが。また、転生はしたものの全部の記憶が残ったというわけではないという説明もちょっとずるいが成り立たなくはない。これなら純粋にアナを愛している少年がクララの暴露発言にショックを受けて(自分が将来するべき裏切りを予想するというのは無理だとしても、単純に混乱はするだろう)、結末にあるような学校生活をするしかないという説明にはなる。

あとはクララの発言が全部嘘だということも考えられる。もっともこれだと手紙の入手方法や、暴露する意味がまったくわからなくなる(嘘でない場合でもショーンが死んで10年もしてこの発言は?)し、もしそうだというのなら映画としてもなんらかのヒントを用意しておく必要があるだろう。

こんなふうにどこまでも疑問が残ってしまうようでは、映画としては上出来とはいえないのだが、といって簡単に却下する気にはなれない映画なのだ。

手紙の封も切らずそれを愛人に渡すショーンも不遜でいやなヤツだが、封を切らなくてもわかるような手紙しか書けなかったアナという部分はなかったか。ショーンの不倫を見抜けなかったというのもね。少年の出現であれだけ心が動かされたというのに、復縁の許しを請うだろうか。それも私が悪いのではない、って最低でしょ。その時、なかなか返事をしないジョセフもものすごくいやなのだけど、それよりラストシーンをみると、もうアナは狂気の1歩手前なのかもと思ってしまう。

つい沢山書いてしまったが、実は転生かどうかということよりも、アナと少年は本当に惹かれあったのか、ということが問題にされるべきなのだ。そしてアナと少年はやはりちゃんと愛し合った、のだと思う。夫だと言われても、秘密を知っていても、それだけでは愛せるはずなどないということぐらい、誰だって知っていることではないか。

  

【メモ】

「もし妻のアナが亡くなり、その翌日窓辺に小鳥が飛んできて僕を見つめ、こう言ったら?『ショーン、アナよ。戻って来たの』僕はどうするか? きっとその鳥を信じ一緒に暮らすだろう」(巻頭のショーンの講演でのセリフ)

少年はアナに結婚は間違っているという手紙を渡す。

アナがそのことをジョセフに言わなかったのはたまたま、それとも……。

アナと同じアパートの202号室(コンテ家)が少年の家。ジョゼフは事情を話し、少年にアナに近づかないと約束させようとするが、少年は言うことをきかない。このあとオペラに出かけ、少年が倒れる。

電話でアナに「公園のあの場所で君を待っている」と告げる少年。あの場所とはショーンが息を引き取った場所だった。

少年はアナの義兄のボブに会うことを希望し、彼のテストを受ける。

原題:Birth

2004年 100分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ジョナサン・グレイザー 脚本:ジョナサン・グレイザー、ジャン=クロード・カリエール、マイロ・アディカ 撮影:ハリス・サヴィデス 編集:サム・スニード、クラウス・ウェーリッシュ 音楽:アレクサンドル・デプラ

出演:ニコール・キッドマン(アナ)、キャメロン・ブライト(ショーン少年)、ダニー・ヒューストン(ジョゼフ/婚約者)、ローレン・バコール(エレノア/母)、アリソン・エリオット(ローラ/姉)、アーリス・ハワード(ボブ/姉の夫)、アン・ヘッシュ(クララ クリフォードの妻)、ピーター・ストーメア(クリフォード/ショーンの親友)、テッド・レヴィン(コンテ/少年の父)、カーラ・セイモア(少年の母)、マイロ・アディカ(ジミー/ドアマン)

DEATH NOTE デスノート 前編

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■デスノートというアイディアの勝利

原作の力なのだろうが、とてつもない面白さだ。マンガ10巻で1400万部というのもうなずける。

「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という「DEATH NOTE」を手に入れた夜神月(やがみらいと=藤原竜也)。法律を学び警察官僚を目指す正義感の強い彼が、神の力(この場合は死神だが)を手に入れたことで、どんどん傲慢になっていく。

デスノートを手に入れる前の彼がどんな人物なのかはいまひとつわからないのだが、司法試験一発合格という頭脳を持っているのであれば、ラスコリーニコフになっても不思議はない。しかもはじめのうちは服役中の凶悪犯や法の網からくぐり抜けたと思われる人物を始末していくわけだから、法による正義の限界を感じていた彼にとっては大義名分とカタルシスの両方が得られていたというわけだ。

もっともいくら処刑されるのが凶悪犯とはいえ、警察としてはキラ(いつしか巷ではそう呼ばれるようになっていて、信者までが現れる人気者となっていた)の行動を見逃すわけにはいかない。犯罪の大量死が世界中をターゲットにしていることから各国の警察やFBIも動きだし、インターポールは天才的頭脳を持つ探偵L(松山ケンイチ)を警視庁に送り込んでくる。

犯人が日本にいることが特定される理由も、もちろんLによって示されるのだが、Lが日本人(だよな。松山ケンイチは適役)ということもあって、急に世界が狭くなってしまう。些細なことなのだが、あまりに話が面白いので、日本に限定してしまうことが惜しく感じられたのだ。

Lの登場によって、キラ(月)との駆け引きは、天才対天才という側面を持ち、壮絶な頭脳戦となっていく。この設定は面白いに決まっているが、内容がともなわないといけないわけで、だからそういう意味でもすごいのだ(アラはあるけどね。でも着想とたたみかけるようなテンポで、観ているときはゾクゾクものなのだ)。

しかしこのことで、キラは自分を守るためにデスノートを使うようになってしまう。FBI捜査官レイ(細川茂樹)に、彼の婚約者でやはり元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)と次々と手を下していくことになる。

ここまでくると本当にキラ(月)が犯罪のない理想社会を作り出そうとしているのかどうかはわからなくなっている。すでに彼にとってはLに勝つことが(自分の身を守ること以上かもしれない)最大の目的になっているように見えるからだ。

前編でのハイライトは、キラ(月)が幼なじみ秋野詩織(香椎由宇)までも手にかけてしまうことだ。流れとしては必然ながら、ここでも彼は冷酷なままなのだ。果たしていいことなのかどうか。彼の心理描写に時間を割いてもいいと思う反面、極力説明を排除した方がこの場合には合っていそうに思えるのだ。

ついでに言うと、芝居はCGの死神も含めて全員が大げさで、映画自体の雰囲気をテレビドラマ並のチャチなものにしている。でもそれがかえっていい。なにしろデスノートの存在が架空なのだから、リアリティはこの際不要。でないと警察があそこまでハッキングされっぱなしということなどもおかしいわけで、そういう部分の枝葉の説明に終始しだしたら、とたんにつまらなくなってしまうだろうから。

ということは、デスノートの存在につきるのかもね。そこには詳細なルールのようなことまで書かれていて、死因だけでなく死に至る行動までを決めることができるのだ。これをどのように操るかというのも見所で、Lとの攻防はまさにゲームのような面白さをみせる。キラ(月)はページの一部だけをちぎって使ったりもするのだ。

デスノートに触れた者だけにしか見えないという死神は、フルCGでいかにもという姿形なのだが、この存在感もなかなかだった。死神が何故デスノートを自分で使わないのか(使えないのか?)は不思議なのだが、彼の行動をみていると納得がいく。彼はあくまで傍観者を装い、デスノートを手にした者の意志に任せているのだ。が、夜神月に拾わせるようにし向けたのも間違いなさそうだ。死神の勘で、月が自分の意に叶った人物であることを見抜いていたのだろう。

となると次は弥海砂(あまねみさ=戸田恵梨香)をどう扱うかだが、前編ではほとんど明らかにならず(前編だけだと彼女は話をわかりにくくしているだけだ)、キラ(月)の運命と共に後編を待つしかない。それにしても10月までお預けとはねー。

  

【メモ】

南空ナオミが月を追いつめる。月の手が動きペンに伸びるが、南空ナオミは偽名を名乗っていた。

ポテトチップスの袋のトリック。隠しカメラの段階ではLが敗北するが、あとのシーンでは月の前に、Lは袋を持って登場する。

詩織の死。「キス、人前でしちゃった」

2006年 126分 ビスタサイズ

監督:金子修介、脚本:大石哲也、原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画)、撮影:高瀬比呂志、及川一、編集:矢船陽介、音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、瀬戸朝香(南空ナオミ)、香椎由宇(秋野詩織)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、細川茂樹(FBI捜査官レイ)、藤村俊二(ワタリ)、戸田恵梨香(弥海砂)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、中原丈雄(松原)、顔田顔彦(渋井丸拓男)、皆川猿時(忍田奇一郎)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、中村獅堂(死神リューク:声のみ)

ゆれる

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■みんな吊り橋を渡りたいらしい

「なんで兄ちゃんあの吊り橋渡ったの」という早川猛(たける=オダギリジョー〉のセリフは予告篇にも登場するのであるが、観終わったあとも暫くはこの意味がはっきりしないままだった。

でも何のことはない、吊り橋を渡って(田舎を捨て)東京でカメラマンという華やかな仕事をしている(まあ成功しているようだ)弟の猛と、吊り橋を渡れずに(田舎にとどまって)いる兄の稔(香川照之)と単純に考えればよかったのだ。

実家で頑固な父親(伊武雅刀)とガソリンスタンドを経営している稔は、温厚で優しい性格で、だからいろいろなしがらみの中にいる。田舎町という閉塞的な環境で折り合いをつけながら生活していることは、母の一周忌の場面であきらかだ。服装のことも気にせず(少しはしてたか)久しぶりに帰った法事の場でさっそく父と衝突してしまう猛とは好対照で、稔はふたりの取りなしにやっきとなる。

今はガソリンスタンドで働く川端智恵子(真木よう子)は、猛と昔付き合いがあり、その日も法事のあとスタンドに寄った猛の送っていくという口実のままに、結局は彼をアパートに上げ関係を持ってしまう。他人行儀でいようとしていたのに、猛の「(兄貴と)ふたり息が合ってるね、嫉妬しちゃったよ俺」という悪魔のような囁きに応えてしまうのだ。実は彼女も、昔猛と一緒に東京に出ようとしたことがあったのに、「吊り橋を渡ることができなかった」のだ。

翌日は3人で近くの渓谷に遊びに行くことになっていて、ここの吊り橋で問題の事故が起きる。

先に吊り橋を渡った猛を探しに行くかのように智恵子が渡り始めると、背後から追ってきた稔がしがみつく。稔はゆれる吊り橋が怖いのだが、智恵子にはそれがわからない。いや、知っていたのかもしれないが、猛が見ている可能性のあるところで抱きつかれたくないという気持ちも働いたのではないか。

この吊り橋を渡る、渡ろうとする関係性はあまりに図式的ではあるが(なのに最初に書いたように暫くの間わからなかったのだが)、そこで起きる智恵子の転落が過失なのか故意なのかという興味へ映画は突き進んでゆく。猛は現場を見ているのに、観客にはその場面はあかされない。だから裁判を通して、場面が二転三転すると観客もそれに引きずられ、真実がどこにあるのかと考えさせられるというわけだ。

話をまとめると、事実は次のようになるだろうか。

稔は智恵子と結婚を考えていた。彼はそれを言い出せないでいたが、彼女も周囲もそう思っていてくれたはずだ。が、猛の帰省で状況は一変する。あの晩、猛が智恵子と酒を飲んだと嘘をついたことで稔にはすべてがわかってしまったのだ(稔が背中をまるめるように洗濯物をたたんでいた場面は印象深い)。

智恵子の心も川原では、すでに東京に行って猛と新しい人生を始めていた。なのに猛ははぐらかすようにその場から去り、吊り橋を渡って行ってしまう。ふたりのことはおかまいなしに、花の写真を撮ることに夢中になっているのは東京での生活を暗示しているかのようだ。

稔にとって智恵子が猛を追うことはたまらないことだったろう。智恵子は希望の光だったのだから。稔だって吊り橋を渡って、猛のように生きていきたかったのだから。拘置所で猛に向かって、仕事は単調で女にもてず家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈を聞き、とぶちまけるのも当然だ。それでもやはり智恵子が死んでしまったことでは、自責の念に駆られたはずである。

そして稔は、自分が吊り橋を渡れないばかりか(猛には何故渡ったと言われるが)、引き返す場所さえもないことを悟って判決を受け入れるのだ。もしかしたら猛が裁判に熱心で、弁護士の伯父(蟹江敬三)を担ぎ出したことにもいらついたのではないか。

次第に、猛にとっては知らない兄が姿を現してくる。人を信じないのがお前だとか自分が人殺しの弟になるのがいやなだけとまで言われて、彼も兄が智恵子を突き落としたと証言してしまう。自分の兄貴を取り戻すために。しかしその兄貴とは、自分にとって都合のいい兄ではなかったか。「兄のことだけは信じられたし、繋がっていた」と言うけれど、彼には何も見えていなかったのだ。

法事で見つけた母の8ミリフィルムを、何故か7年後に見ている猛。そこには、幼い猛が怖がる稔の手を引いて吊り橋を渡ろうとしている映像が残こされていた。

刑期を終えた稔をやっと見つけた猛が、道の向こう側から大声で呼びかける。猛に気付いて、とりあえず稔は笑ってしまうのだ。たぶん昔からの癖で。笑顔はやって来たバスに隠れてしまう。稔はバスに乗ったのだろうか、残ったのだろうか。

猛としては兄を今度こそ本当の意味で取り戻そうとしているのだろうけどね。この時点では「最後まで僕が奪い、兄が奪われた」と認識しているわけだから。でも、どうなんだろ。私が稔ならもうそんなことには関わりたくない気がする。兄弟というものがよくわかっていないし、必要性も感じていない私としては、少々食いつきにくい最後だ。

結末は観る人によっていくらでもつけられるだろう。強いて言うならその部分と、映像的な面白味に乏しいこと(これは全体にいえる)が惜しまれる。あとは智恵子が忘れ去られてしまったことが、悲しくて可哀想だ。彼女の母親も言っていた。「智恵子は殺されるような子だったのかな」と。

  

【メモ】

巻頭の東京の事務所での猛。冷蔵庫は開けっ放しで平気だし、女性の存在も。

渓谷は蓮美渓谷(架空の場所?)。

智恵子の母親は再婚(アパート暮らしだが、智恵子も居場所がない?)。

「怖いよ、あの人もう気付いているんじゃないかな」(智恵子のセリフ)。

猛に小遣いを渡す稔。

水を流しながら動くホース。

8ミリ撮影が趣味だった母が残したフィルムの日付はS55.9.8。

2006年 119分 1:1.85(ビスタサイズ)

原案・監督・脚本:西川美和、撮影:高瀬比呂志 、編集:宮島竜治 、美術:三ツ松けいこ 、音楽:カリフラワーズ

出演:オダギリジョー(早川猛)、香川照之(早川稔)、伊武雅刀(早川勇)、新井浩文(岡島洋平)、真木よう子(川端智恵子)、蟹江敬三(早川修/弁護士)、木村祐一(検察官)、ピエール瀧(船木警部補)、田口トモロヲ(裁判官)