MW ムウ

2009/8/2 新宿ミラノ3

■成立しない、毒ガス暴走人間物語

脚本も駄目なら演出も駄目。なんで、書く気がしないのだが……。

十六年前に沖之真船島で、米軍の毒ガス兵器「MW」が微量ながら流出し、島民が虐殺されるという事件が起きるが、その真相は政府により闇に葬られたはずだった。が、島から奇跡的に逃げ延びた二人の少年がいて、彼らが大人になった今、二人はまったく正反対の道を歩んでいたのだった。結城美智雄は優秀な銀行員で、しかし裏では復讐に生きる悪魔のような存在となり、賀来裕太郎は神に身を捧げる神父となっていた……。

映画が駄目なのは、何故二人がそうなったかという部分で手を抜いたからで、二人の関係に踏み込めていないことにある。もちろん一通りの説明はあって、結城が賀来を助けた時にMWを吸ってしまい、死には至らなかったものの後遺症が残ってしまったことが、賀来の結城に対する遠慮となっているとしている。

結城のそれが後遺症というのなら、MWには殺人科学兵器だけではなく、人を悪へと走らせる効果があることになる。ここだけを膨らませても話としては面白くなりそうなのだが、そういうところは軽く流してしまっているので、ドラマは深化せず、どころか成立していない部分までいくつもあって、ただただ結城が暴走していくだけの映画になっていた。

賀来が言うように「人間ではなくなった」結城は、自分たちをこんな目に合わせた者たちへの復讐の鬼と化す。そして、最初は関係者の殺害だったのに、MWを手に入れてからは世界の滅亡へと結城の目的が変わってしまうのだが、ここだって説明不足だろう(「お前にはわからないだろうが、異様に喉が渇くんだ」と賀来には言っていたが)。

原作の主眼は、二人の対比にあったと思われる(MWという毒ガスの名前もそれをイメージして付けられたのだろう。カタカナのムとウもアルファベットと同様、相似形になっているのが面白い)。だから、本来なら半分は賀来の映画なのに、彼は結城の前ではなすすべもなく(時には片棒まで担がされ)苦悩するばかり……って、苦悩している場合じゃないだろうに。いくら山田孝之を配して玉木宏とのキャスティング的なバランスをとっても(とれているかどうかは私にはわからないが)、これではどうしようもない。

人間ドラマの部分を捨て、アクション映画として割り切ったのだろうか。だったらこの原作を選んだ意味がないではないか。ポスターには「手塚治虫、禁断の問題作」という字があるが、禁断の部分(結城と賀来の同性愛)を描かないで、問題作とは恐れ入る。

しかもアクション映画として評価できるのは、冒頭のタイでの捕り物劇(沢木はいいところで結城を逃がしてしまう)と小型飛行機がビルに翼をぶつけながら飛んでいく場面くらいなのだ。それにタイの場面は、終わってみると浮いてしまっていて、取って付けたような印象だ。

沖之真船島でのMWの発見や、そこで米軍のヘリに攻撃を受ける場面(隠れ場所もないのに、逃げられっこないって)、また、米軍の東京基地への潜入など、あまりに都合よく展開してしまうため、いろいろなことは起きるが大して盛り上がらない。

セリフも大袈裟だ。賀来が記者の牧野(彼女も別の方向からMWに迫っていた)に言う「国家が僕たちを脅そうとしているんじゃなくて、彼(結城)が国家を脅そうとしているんだ」とか、結城の沢木に言うセリフ「撃ちたければ撃て、ただ撃てば、あなたが歴史的な犯罪者だ」は、大袈裟だけでなくピントまでずれている。

沢木が米軍基地に乗り込んで行くと「君たちの争いだ。君たちで解決してくれ」と言われてしまうのだが、米軍が大いに関わっている事件で、それも基地内でのことに、こんな鷹揚にしてくれるだろうか(沖之真船島では侵入者をヘリで射殺しようとしていたわけだし)。

最後は、結城が生き延びての犯行予告(予行演習)なんだけど、まさか続編を作る気じゃないよね。

岩本仁志監督のことは知らなかったが、調べてみると日本テレビの演出家で、その前はフジテレビでも演出を手がけていて、相当数のドラマにかかわっていたとある。テレビドラマの延長らしいが『明日があるさTHE MOVIE』(2002年)という映画まで監督しているのだ。で、この醜態なの?

例えば、これは予告篇でいくらでも観ることが出来るのでサイトに行って確認してほしいのだが、結城がビルの屋上から落とした人間が下のトラックに激突する場面がある。屋上からのカットだと、下には人通りはほとんどないし、トラックも停車していないんだよね。第一突き落とされたのではなくロープを切られての落下なのに、歩道ではなくトラックが停車している車道にどうしたら移動できるのだろう。

筋が繋がっていればいいくらいの感覚で、適当に撮っているのだとしたら、いい作品など出来るはずがない。監督は猛省すべきだ。

2009年 130分 シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ PG-12

監督:岩本仁志 製作:松崎澄夫、宇野康秀、白井康介、阿佐美弘恭、堀越徹、李于錫、樫野孝人、松谷孝征、竹内茂樹、久松猛朗、島村達雄、菅野信三 プロデューサー:松橋真三 エグゼクティブプロデューサー:橘田寿宏 原作:手塚治虫 脚本:大石哲也、木村春夫 撮影監督:石坂拓郎 Bカメ撮影:迫信博 特殊メイク:飯田文江 美術:太田喜久男 編集:浅原正志 音楽:池頼広 主題歌:flumpool『MW ~Dear Mr.& Ms.ピカレスク~』 VFXスーパーバイザー:田口健太郎 スクリプター:湯沢ゆき スタイリスト:村上利香 スタントコーディネーター:釼持誠 ヘアメイク:細川昌子 照明:舘野秀樹 整音:佐藤忠治 装飾:竹内正典 録音:原田亮太郎 助監督:戸崎隆司

出演:玉木宏(結城美智雄/銀行員)、山田孝之(賀来裕太郎/神父)、石田ゆり子(牧野京子/新聞記者)、石橋凌(沢木和之/刑事)、山本裕典(溝畑/新聞記者、牧野の部下)、山下リオ(美香)、風間トオル(三田/新聞記者、牧野の同僚)、鶴見辰吾(松尾/望月大臣の秘書)、林泰文(橘誠司/刑事、沢木の部下)、中村育二(岡崎俊一/建設会社役員)、半海一晃(山下孝志/銀行員、結城の上司)、品川徹(望月靖男/大臣)、デヴィッド・スターズィック

群青 愛が沈んだ海の色

新宿武蔵野館3 ★☆

長澤まさみ、佐々木蔵之介、良知真次、田中美里、中川陽介監督のサイン入りポスター。

■呪いのサンゴが沈んだ海の色

じじい係数が上がって、ゆったり映画の方が受け入れやすくなっているのだが、でもこの作品ように大した内容ではないのに長いのは困りものである。

第一章は、病気で南風原島に帰ってきたピアニストの由紀子と漁師(ウミンチュ)の恋。漁師の仲村龍二は由紀子のピアノの演奏を聞いて夢中になってしまう。「芸術というのはいいものだ」などとぬかしちゃったりしてさ。すさんだ由紀子の演奏に乱れがなかったかどうか気になるところではあるが、私と同じく龍二にそこまで聞き分ける耳があったとも思えない、じゃ話にならないから、そんなことはわざわざ言ってなかったが。

それはともかく、自棄になっていた由起子だが、龍二の想いが次第に彼女を癒していく。龍二は由起子のために、女のお守りであるサンゴを二日がかりで採ってくる。「身につけていれば病気が治る」はずであったが、そして二人は結ばれはするのだが、由紀子は赤ん坊の娘を残して死んでしまう。

その娘涼子が育って、同年代が他に上原一也と比嘉大介の男二人だけの、兄弟のように育った三人の複雑な恋物語になるのかと思っていると、仲良しと好きは違って、で、あっさり決着。失恋した大介は島を去って行く。が、涼子の心を掴んだ一也も、十九歳にもなっていないのは若すぎると、結婚の許しを龍二からもらえない。龍二のようにサンゴを探してくれば一人前の漁師として認めてもらえるのではないかと懸命になる一也だったが、十日目に命を落としてしまう。これが第二章。

第三章は、一也の死のショックで精神に異常をきたしてしまった涼子のもとに、一年ぶりで大介が戻ってくる(巻頭の場面にもなっていた)。島で昔作られていた焼き物を復元したいという理由はともかく(そういや大介は那覇の芸術大学へ行ったのだった)、龍二の家に居候っていうのがねぇ。龍二には大介の力を借りてでも涼子を何とかしたいという思いがあったのだろうが……。

どの話も中途半端で深味がないかわりに(事故という大袈裟な設定はあるが)、誰にでも思い当たる部分はありそうで、だから共感が出来ないというのではないのだが(って無理に褒めることもないのだけど)、各章の要となる部分が恐ろしく嘘っぽいため、せっかく積み上げてきた挿話が実を結ぶには至らない。

なにより酷いのが死を安易に使いすぎていることで、特に一也の無駄死には、経験は少なくても彼が一応漁師の端くれであることを考えるとあんまりだろう。素潜りが得意と言っていたから過信があったのかもしれないが。そして、他にも説明がうまくいっていない部分が沢山あるのだ。

龍二は涼子に、サンゴを採ったからって一人前の漁師になれるわけではないし、家族を守るためにはまず自分を守らなければいけないと言う(これは、事故が起きる直前の会話)のだが、考えてみれば龍二のサンゴ採りも嵐の中、二日も連絡なしでやっていたのだから褒められたものではないのだが、まあ、若さというのはそんなものか。

大介の事故に至っては、その行為が唐突で、何で龍二が大介を見つけられたのかもわからないし(島のみんなが総出で探してたのにね)、涼子には母の由紀子が、そして大介には一也が来て(現れて)助かった、って、何だこれってオカルト映画だったのか、とも。

大介の行為を唐突と書いてしまったが、大介は涼子の精神が破綻しているのをいいことに彼女を抱こうとした自分への嫌悪感があった(これはわかる)。このことの少し前に、大介の焼き物作りが涼子の心を少し開いたかと思わせる場面(涼子も花瓶を作り、大介と一緒に一也の家に届ける)があるのだが、「涼子のためだったら何でもする」と大介が言った時の涼子の答えは「一也を連れてきて」だった。

けれど、だからといって大介までもがサンゴ探しとなるのは飛躍しすぎで、これではやはり呪いのサンゴ説としかいいようがなくなってしまう。

映画が茫洋としていてつかみどころがないのは涼子の精神荒廃そのもののようでもあるが、もしかしたら誰に焦点を当てているのかがはっきりしないからではないか。語り手を大介にしたのなら第一章はなくてもすみそうだし、でもだったら主人公は涼子なのか、龍二なのか。そもそもこの映画の言いたいことは何なのか。もっとしゃんとして映画を作ってほしいものだ。

あとこれはどうでもいいことなのだが、私の観たフィルムでは、題名は原作と同じ『群青』のみで、副題はどこにも表示されていなかった。

 

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス

監督:中川陽介 プロデューサー:山田英久、山下暉人、橋本直樹 アソシエイトプロデューサー:三輪由美子 原作:宮木あや子『群青』 脚本:中川陽介、板倉真琴、渋谷悠 撮影:柳田裕男 美術:花谷秀文 衣裳:沢柳陽子 編集:森下博昭 音楽:沢田穣治 主題歌:畠山美由紀『星が咲いたよ』 スタイリスト:安野ともこ ヘアメイク:小林博美 ラインプロデューサー:森太郎 音響効果:勝俣まさとし 照明:宮尾康史 装飾:谷田祥紀 録音:岡本立洋 助監督:橋本光二郎

出演:長澤まさみ(仲村凉子)、佐々木蔵之介(仲村龍二/凉子の父)、福士誠治(比嘉大介)、良知真次(上原一也)、田中美里(仲村由起子/凉子の母)、洞口依子、玉城満、今井清隆、宮地雅子

バンコック・デンジャラス

新宿ミラノ2 ★☆

映画宣伝シール(トイレ用)

■自分がデンジャラス

引き際を考えはじめた殺し屋が、バンコクに最後の仕事でやってくる。映画は、自己紹介風に始まる。安定して報酬もいいが万人向きではない孤独な殺し屋をやっていること。名前はジョーで、仕事には「質問するな」「堅気の人間と交わるな」「痕跡は残すな」というルールを課していること……。自分の殺しの哲学を披瀝しているのだが、別に出会い系サイトや結婚紹介所に釣書を提出しているわけではないし、こんなことを言い出すこと自体が、いくら内面の声とはいえ、殺し屋らしくないので笑ってしまう。

ま、それはいいにしても、ジョーは自分で言っていたことを、ことごとく破ってしまうのだ。いつもなら平気で使い捨てにしてきた(つまり殺していた)通訳兼連絡係に雇ったコンというチンピラを、「あいつの目の中に自分を見た」と、殺さないどころか、何を血迷ったか弟子にしてしまうのだ。コンはジョーのメガネにかなった男にはとても見えないのだが……。

もう一つはフォンという耳の聞こえない女性に惹かれてしまうことで、これも四つの依頼の最初の仕事で、傷を負ったジョーが立ち寄った薬局でのことだからねぇ。自分の潮時を意識してしまうとこうも変わってしまうものなのだろうか。そうではなく、それだけフォンが魅力的だったと言いたいのか。たとえそうであっても、少なくともフォンに関しては、仕事が終わるまで待つくらいの自制心もないのだろうか(あったら映画にならないって。まあね)。

とにかく理由らしい理由もないまま、まるで塒にしている家にある像の絵が悪いとでもいうかのように、ことごとくルールを破ってしまうのだ(像の鼻が下を向いていると縁起が悪いとコンに言われて、ジョーもそれを気にするのだが、これもねぇ)。いままでミスをしたことのない完璧な殺し屋がどうして変わっていったのか、これこそがこの映画の狙いのはずなのに、そこが何一つきちんと描けていないのではどうしようもない。

四つめのターゲットは次期大統領候補で、政治的な暗殺は契約外と言っておきながら、ここでもルールを犯してしまう。これで最後と思ったからなのかどうか。こういう説明が足らなすぎるのだ。

違和感を覚えて暗殺に失敗したことで(ついにやってしまったのね)依頼人のスラットからも狙われ、コンと彼の恋人を人質にされてしまう(スラッとは、彼らから足が付くのを恐れたのだった)。

そして壮絶な銃撃戦(でもないんだよな、これが。やたら銃はぶっ放してたけど)の末、最後はスラットと道連れ、っていくらなんでもあきれるばかり。何かあるだろうとは思っていたが、こんな終わり方じゃあね。

見せ場は「猥雑で堕落した街」バンコクと水上ボートのチェイスだが、これだけ大げさなことになっちゃったら「痕跡は残すな」どころか沢山残っちゃうよね。

原題:Bangkok Dangerous

2008年 100分 アメリカ ビスタサイズ 配給:プレシディオ R-15 日本語字幕:川又勝利

監督:ザ・パン・ブラザーズ(オキサイド・パン、ダニー・パン) 製作:ジェイソン・シューマン、ウィリアム・シェラック、ニコラス・ケイジ、ノーム・ゴライトリー 製作総指揮:アンドリュー・フェッファー、デレク・ドーチー、デニス・オサリヴァン、ベン・ウェイスブレン 脚本:ジェイソン・リッチマン オリジナル脚本:ザ・パン・ブラザーズ 撮影:デーチャー・スリマントラ プロダクションデザイン:ジェームズ・ニューポート 編集:マイク・ジャクソン、カーレン・パン 音楽:ブライアン・タイラー

出演:ニコラス・ケイジ(ジョー)、シャクリット・ヤムナーム(コン)、チャーリー・ヤン(フォン)

ラ・ボエーム

テアトルタイムズスクエア ★☆

■なぜ映画化したのだろう

ジャコモ・プッチーニの作曲した同名四幕オペラの映画化だが、オペラファンというのは、こんな単調な物語であっても、歌や楽曲がよければ満足できてしまうのだろうか。歌詞で繋いでいくだけだから、こねくりまわした話というわけにはいかないのだろうが、それ以前の内容というか精神が、あまりに子供じみたものでびっくりしてしまったのだった(オペラ無知の私が勝手なことを書くのは憚れるので、一応オペラの方の筋書きを調べてみたが、どうやらこの映画、舞台をかなり忠実になぞって作っているようなのだ)。

時は十九世紀半ば、パリの屋根裏部屋に暮らす詩人のドロルフォと画家のマルチェロたちはあまりの寒さに、芝居の台本を燃やして暖をとる。この幕開きは、まあご愛敬で楽しめる。哲学者のコッリーネもうらぶれた体で帰って来るが、音楽家のショナールがたまたまお金を稼いで戻ってきたものだからみんなで大騒ぎとなる。

そこに、溜まった家賃を取り立てに家主がやって来るのだが、払う金が出来たというのに、おだて、酒で誤魔化し、酔った勢いで家主が漏らした浮気のことを聞くや、妻子持ちのくせしてけしからんと追い返し、クリスマス・イブの町へ繰り出す算段をはじめる。ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになって、蝋燭の火を借りにきたミミと知り合い、二人はたちまち恋に落ちる。これが第一幕(むろん、映画にはこういう仕切はないが)のハイライトで、鍵を落としたとか、見つけたのに二人でもう少しいたいからと隠してしまったりで、まあ、勝手にいちゃいちゃしてろ場面。ま、これは許せるんだけど。

カフェでは先のことも考えずに散財し、勘定書が高いなると、誰が払うのだとわめくし(歌ってるだけか)、結局はマルチェッロの元恋人だったムゼッタの連れ(パトロン)の老人に押しつけて得意顔。当時の富裕層と貧乏人(しかも夢も前途もある?若い芸術家たちなんで、大目に見ているとか)にあっただろう格差のことも勘案しなくてはいけないのかもしれないが、ユーモアと呼ぶような品はない。しかし、ともあれマルチェッロはムゼッタを取り戻す。浮かれ気分の第二幕。

舞台だと幕間の休憩でもありそうな。ならいいのだが、映画の第3幕は、幕間という感覚もないから話が急展開すぎで、少々戸惑う。ロドルフォは「愛らしい頬が月の光に包まれている」とおくめんもなくミミのことを歌い上げていたのに、もう根拠のない嫉妬でミミを罵ったりもしているらしい(ホントに急展開だったのな)。ロドルフォがミミを置いて家から出てしまったため、ミミは雪の中、ロドルフォがいるとは知らず、マルチェッロのところに助けを求めて訪ねて来たのだ。

ロドルフォはミミの病のことも知っているのに、だから貧乏人の自分といてはダメと思ったにしても、第三幕でのこの別れはあんまりではないか。助かる見込みがないとまでロドルフォは言っているのに(ミミはそれを物陰で聞いてしまいショックを受けていた)。二人が別々にマルチェッロを相手に心境を語る場面は、舞台なら凝った演出でも、それを奥行きがあって当然の映画で再現すると奇妙なものにしか見えない。「歌と笑いが愛の極意」だとか「俺たちを見習え」と言っていたマルチェッロだが、ムゼッタとはまたしても大喧嘩となって、愛憎半ばする第三幕が閉じていく(どうせなら、本当に幕を下ろす演出にすればよかったのに)。

第四幕はまた屋根裏である。ロドルフォとマルチェッロが別れた恋人のことを想っているところに、ショナールとコッリーネがパンと鰊を持って帰ってくる。みんなでふざけ合っていると、ムゼッタが、階段でミミが倒れたと駆け込んでくる。子爵の世話になっていたが、死ぬ前にロドルフォに一目会いたいとわざわざやって来たという。子爵の世話ってなんなのだ? そういう道があったからロドルフォは別れようとしたのか? 何がなんだかなのだけど、まあ、いいか。で、それぞれがミミのために手を尽くす(ここはみんながいいところを見せるのだな)が、ミミは息をひきとってしまう。

ところでこの部分、最後だけ歌でなく普通のセリフになっていた。特別意味のあるセリフとも思えないが、全体の構成を崩してまでやった意味がわからない。

死を前にしては力強いロドルフォとミミの抱擁、って別にそんなどうでもいいことにまで文句をつけるつもりはないが、せっかく映画にしたのだから、もう少しは舞台とは違った感覚で場面を切り取れなかったものか。四幕という構成にこだわるのはいいにしても、ほとんど舞台をそのまま持って来たようなセットと演出(推測です。そうとしか思えないのだな)というんじゃねぇ。

ミミが死んで、カメラが宙に引いていくとすごく広い部屋(というより床が広がっているだけだが)になって寂寥感を際立たせるが、映画の醍醐味であるカメラワークがこの場面くらいというのではもったいなさすぎる。ま、それは言い過ぎで、カメラが不動なわけではない。ロドルフォとミミの二重唱など、シネスコ画面を分割して二人のアップを並べたりしているが、映画的な面白にはなっていない。

それでも退屈はしないのは、歌の力か。アンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンは現代最高のドリーム・カップルなんだそうである。

そういえばエンドロールは無音だった。館内も全部ではないがかなり明るくなって、もしかしたらこんなところまで舞台を意識して同じようにしたのだろうか(舞台にはエンドロールなどないからね)。

原題:La Boheme

2008年 114分 オーストリア、ドイツ シネスコサイズ 配給:東京テアトル、スターサンズ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ロバート・ドーンヘルム 原作:アンリ・ミュルジェール 撮影:ウォルター・キンドラー 音楽:ジャコモ・プッチーニ 指揮:ベルトラン・ド・ビリー 合唱:バイエルン放送合唱団、ゲルトナープラッツ州立劇場児童合唱団 演奏:バイエルン放送交響楽団

出演:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ:ミミ/お針子)、ローランド・ビリャソン(テノール:ロドルフォ/詩人)、ジョージ・フォン・ベルゲン(バリトン:マルチェッロ/画家)、ニコル・キャベル(ソプラノ:ムゼッタ/マルチェッロの恋人)、アドリアン・エレード(バリトン:ショナール/音楽家)、ヴィタリ・コワリョフ(バス:コッリーネ/哲学者)、イオアン・ホーランダー(アルチンドーロ/枢密顧問官、ムゼッタのパトロン)

ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー

新宿ミラノ3 ★☆

新宿ミラノ3では字幕版と吹替版の交互上映だった。私が確認した時間帯だと字幕版の圧勝。私はそうこだわっていないが、日本人は字幕が好きらしい。

■怒りを消せ、と言うのだが

大ヒットしたカプコンの対戦型格闘ゲームを元にして作った映画。

ゲームのことは名前しか知らないので、チュンリー(春麗)のキャラクターや彼女がどんな位置づけをされていたのかはさっぱり。もちろんそんなことはわからなくてもいいように映画はできているのだが、話は荒っぽいし、何より見えない力に導かれて、的な要素が強すぎるので、師匠となるゲンを探す過程も、いろいろあったというモノローグで納得するしかなく、興味をそそられるには至らない。

裕福な家庭に育ち、自分もピアニストとして成功していたのに、ある日届いた謎の巻物に隠されていた情報でやってきたバンコクではもう金に困っているって言われてもですねぇ(実際こんなふうに一文で説明されたような気分なのだ)。ゲンを探すためには過去に決別しろ、みたいなことがあって財産を処分したらしいのだが(別れの場面はある)、要するに話の繋ぎが悪いからしっくりこないのだな。ま、そんなであっても手に蜘蛛の入れ墨のある人(スパイダー・ウェブの仲間)が食べ物をくれたりするんだけどね。

やっとゲン(スパイダー・ウェブの元締め?)を探し出すが「怒りが消えたら教える」って、呼び寄せた(?)くせして突き放されてしまう。いや、まあ、それはいいにしても、あとになっても怒りがチュンリーから本当に消えたかどうかはよくわからなかったのだ。というか、真相を知れば知るほど怒りが増して当然と思うし、ゲンにしても怒りの存在がなければ、ベガと闘う根本のところのものがなくなってしまうのではないか。怒りという感情に流されてはいけないという教えなのだろうが、説明がヘタというしかない。

ゲンには特殊な力があって、傷口は塞いでしまうし、ミサイル攻撃にあっても死なないし、そうじゃありませんでしたって、簡単にやり直してしまうところは、ゲーム感覚なんだろうか(映画にするなら、一番マネしてほしくないところだけどね)。

チュンリーに武術の手ほどきをした実業家の父は、彼女が幼い時にベガに拉致され、娘の安全を餌にいいように操られてきたらしいのだが、その父にそれほど長い間利用価値があったのだろうか。他にも曖昧なことが多く、説明はあっても中途半端だから、話は軽くなるばかりである。地元の女刑事にインターポールの刑事などは完璧な添え物で、まあ、本当にひどい脚本なのだ(書き出すのが億劫になってきた)。

が、一番わからないのは、ベガが生まれる前の娘に自分の良心を移してしまったという件。悪人として生きるためには必要なことだったらしい。妊娠している妻の腹を引き裂く儀式めいた場面がむごたらしい。で、その娘が、何でかはわからないのだが(このくらいはちゃんと説明してくれぃ)大きくなってベガの元に帰ってくるのである。いや、これはベガが呼び寄せたのだったか。

どうせなら、純粋培養した良心である実の娘を抹殺することで、さらなる巨悪になれるというような話にでもしてくれれば盛り上がるのだが(自分で書いていて、これいいアイデアじゃん、と自画自賛したくなった)、バンコクの臨海地域の治安を悪くして安値で買い占めたという話までもが、この娘(わざわざホワイト・ローズというコードネームで呼んでいた)が出てきたことでうやむやになってしまっては開いた口が塞がらなくなる。

チュンリーの前で父を殺したベガが、同じ目にあうことになるという結末(そのためだけのホワイト・ローズだったりして。まさかね)になっては、怒りが消えたらという話はどうなったのさ、と突っ込みを入れたくなった。だって純粋培養良心(これは私が勝手にそう呼んでるだけだが)の娘の前での殺害だよー。この娘につけた傷はどうすんだい! 続編に繋がりそうな終わり方をしていたから、今回は「怒りの鉄拳篇」にしておいて、次でそれはどうにかすればよかったのではないかと……。

まあとにかく、事件は解決しまして、チュンリーは怒りからではなく、戦う価値のあるものを見つけたようなんである。けどこのデキじゃ続編は無理かしらね。

アクションシーンはさすがに迫力のあるものだったが、ゲームファンから見たらどうなんだろ。ポスターにある「可憐にして最強」というキャッチコピーは、本当に再現できたら、それこそ黙っていてもヒットしそうなのだが……。アクションシーンもちゃんとこなしていたまあ可愛い(って、褒め言葉になってないか)クリスティン・クルックだけど、可憐となると微妙かなぁ。

原題:Streetfighter:The Legend of Chun-li

2009年 97分 アメリカ シネスコ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、アミューズソフトエンタテインメント 日本語字幕:伊東武司

監督:アンジェイ・バートコウィアク アクション監督:ディオン・ラム 製作:パトリック・アイエロ、アショク・アムリトラジ 製作総指揮:辻本春弘、稲船敬二、徳丸敏弘 脚本:ジャスティン・マークス 撮影:ジェフ・ボイル プロダクションデザイン:マイケル・Z・ハナン 編集:デレク・G・ブレッシン、ニーヴン・ハウィー 音楽:スティーヴン・エンデルマン

出演:クリスティン・クルック(チュンリー)、ニール・マクドノー(ベガ)、ロビン・ショウ(ゲン/チュンリーの師匠)、マイケル・クラーク・ダンカン(バイソン/ベガの用心棒)、タブー(バルログ)、クリス・クライン(ナッシュ/インターポール刑事)、ジョジー・ホー、チェン・ペイペイ、エドマンド・チャン、ムーン・ブラッドグッド

雷神 RAIJIN

新宿ミラノ3 ★☆

■雷神パパって素敵!?

体に爆弾を埋め込まれた女性を助ける冒頭のアクション場面で、早くもこの映画の駄作ぶりが確信できた。

メンフィス市警の刑事ジェイコブ・キングは女性が苦しんでいるのを犯人が楽しんでいるはず、と現場前にあるアパートに乗り込んで行くのだが、タイムリミットはたった4分。沢山ある部屋からどう割り出したのかってこともだけど、そこに行くまでだって2、3分はかかってしまうだろうに。

犯人のビリー・ジョーと対峙しても、起爆装置の外し方は、彼をいたぶることで聞き出そうとするばかり。ビリーが白状したからいいようなものの(もう爆発してる時間じゃないの?)、けれどジェイコブは、ビリーの答えとは違う線を切らせる(おい、おい)。ビリーを女性のところに連れて行けば(そんな時間はなかったか)ビリーは起爆装置を止める他なくなるのに、頭が悪すぎでしょ。

そうしなかったのは、単にジェイコブの格闘場面を挿入したかっただけみたいなのだが、けれどこれが、殴る動作ごとにカメラの位置を切り替えるという極端なカット割りになっていて、まるでこうでもしないと、もはやなまってしまったスティーヴン・セガールの動きをカバーできないと白状してしまっているかのようなのだ。だってこのカット割り、最後まで全部これなんだもの。苦肉の策にしてもなぁ。

ジェイコブの次なる使命は、これまた女性を狙った狂信的な犯人で、被害者の女の体には必ず占星術の記号が残されていた。ジェイコブは図書館に行ったりして、その謎解きにも精を出す。ちゃんと頭を使っていることをひけらかしたいのだろうが、そして女っ気も断って努力しているみたいなのだが、それ以上にヒントが向こうからやってくるような展開だから、余裕なんである。図書館の女性司書が歌詞の出どこを教えてくれるし、犯人のラザラスは逃げるときに手がかりの財布を落としちゃう!し。

そのラザルスだが、神の領域にまで達している(勘違いにしても)っていうんだが、まるで怖くないのだ。ジェイコブのような相手を「待ってい」て、だから居場所を隠そうとしないのは納得なのだが、なのに結局は逃げまくっていてだから、だらしない。

だからか、最後に冒頭のビリー・ジョーが釈放となって、役者不足の敵役補強とばかりに復帰してくるのだが、最初と同じケリの付け方で終わってはあきれるばかりだ。芸のないことは作り手も自覚しているようで、ジェイコブはビリー・ジョーに「この前と同じだ、懲りないな」と言うのである(だから懲りろよ)。

プロファイリングが専門で現場に不慣れな女FBIのフランキー・ミラー捜査官や、ジェイコブの豪邸に同居しているセリーヌ巡査や図書館司書など、女性を装飾品のように配置しながら、でも添え物の女FBI以外は、犯人たちの餌食になってしまう。

女FBIによって連続猟奇殺人事件の嫌疑がジェイコブにかけられるが、その時はすでにジェイコブによって犯人が挙げられていて、それはピンチのピの字にもならず、でもジェイコブは姿を消してしまう。

姿を消す意味がまったくもって不明なのだが、このあとにあるオマケ映像で、はぁはぁーん、と納得。なんだけど、これがまたまた噴飯ものなのだ。なんとジェイコブには2人の子供と若い妻がいて、その家にプレゼントを抱えて帰ってきたらしいのだ。若妻も若妻で、子供をナニーにまかせると、自分は全裸になって体にリボンをかけジェイコブを手招きする……。

うわあ、どおりでセリーヌ巡査のキスを避けていたわけだ。というかあの豪邸は何だったのよ。セリーヌ巡査とは同棲してたんじゃ? 刑事の仕事は仮の姿? だから姿を消したのか? え、なに、脚本はスティーヴン・セガール本人? それで、全裸リボン若妻なんだ!

3人組の男が私の横の席で爆笑鑑賞していたが、なーるほど、こんなふうに友達と一緒になって馬鹿笑いしながら観たら楽しいのかも。1人で観た私(いつものことだけど)は大馬鹿野郎なんでした。

原題:Kill Switch

2008年 96分 ビスタサイズ アメリカ/カナダ 配給:ムービーアイ エンタテインメント 日本語字幕:岡田壮平 R-15

監督:ジェフ・F・キング 製作:カーク・ショウ 製作総指揮:スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン、キム・アーノット、リンジー・マカダム 脚本:スティーヴン・セガール 撮影:トーマス・M・ハーティング プロダクションデザイン:エリック・フレイザー 衣装デザイン:カトリーナ・マッカーシー 編集:ジェイミー・アラン 音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、ホリー・エリッサ・ディグナード(フランキー・ミラー/FBI捜査官)、クリス・トーマス・キング(ストーム/ジェイコブの相棒)、マイケル・フィリポウィッチ(ラザルス/犯人)、アイザック・ヘイズ(コロナー/検死官)、フィリップ・グレンジャー(ジェンセン警部)、マーク・コリー(ビリー・ジョー/犯人)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ/巡査)

劇場版 カンナさん大成功です!

新宿ミラノ2 ★☆

■全身整形で美醜問題にケリ、とまではいかず

化粧嫌いで整形などもっての外と思っていたので、初対面の人に、プチ整形など当然という話をやけに明るい口調で直接聞かされたときは、開いた口をどう閉じたものか思案に窮したことがあった(一家でそうなのだと。もう5年以上も前の話だ)。化粧をすることで自分が楽になったとは、ある女性がテレビで話していたことだが、ことほど左様に美醜問題というのは、改めて言うまでもなく、理不尽で罪の重い難しいものなのである。

人は見かけではないのは正論でも、別の基準が存在するのは周知のことで、だからって私のように、化粧は嫌いといいつつ、可愛い人(基準にかなりの振幅があるのでまだ救われるのだが)がやっぱり好きなんて、たとえ悪意なく言ったにしても、いや、悪意がないのだとしたら余計奥の深い、許されがたい問題発言なんだろう。

容姿という、今のところは個性の一部と認識されているものから解放されるためには(お互いその方がいいに決まってるもの)、日々衣服をまとうのと同じように、それが自由に選択でき、TPOに合わせた顔で出かけるようになってもいいのではないか。

前置きが長くなったが、この映画の主人公の神無月カンナは、いきなり「全身整形美人」として画面に登場する。容姿による過去の長いいじめられっ子人生が、カンナにそんなには暗い影を落としていないのは、過去については回想形式で人形アニメ処理(デジタルハリウッドだから)になっていることもあるが、でも一番は、やはり整形美人化効果が、カンナをして明るい過去形で語らせてしまうからではないか。

むろんもともとカンナには行動力があって、一目惚れした男に好意をもたれたい程度ではとどまっていられないからこそ、整形に踏み切って(500万近い金を注ぎ込んで)までその男をゲットしようと考えたのだろう。男の勤めるアパレル会社の受付嬢としてちゃっかり入社してしまうあたりの、カンナのどこまでも前向きな、でもお馬鹿としかえいない性格は、原作のマンガ(未読)を踏襲しているにしても、結果として、整形をどう考えるかという問題を置き去りにしてしまう。

こんなだから物語の流れだって、いい加減なものだ。ただ、お気楽な中にもハウツー本のような教えや美人の条件とやらが挿入されていて、これもマンガからの拝借としたら、マンガがヒットした理由も多少は頷けるというものだ。

天然美人集団の隅田川菜々子がライバル出現を思わせるが、彼女はあっさりいい人で、これは肩すかしだし、カリスマ女社長橘れい子がカンナの全身整形(カンナの出世を妬んだ社員によってカンナの過去が明かされてしまう)まで商品にしようとするしたたかさも、どうってことのない幕切れで終わってしまう。大いにもの足らないのだが、全体の薄っぺら感が逆に、マンガのページをめくるのに似た軽快さとなっていて、文句を付ける気にならない。

ではあるのだけれど、自然体のまま(カンナと同じ境遇だったのに)カンナと一緒にデザインを認められ成功してしまう(これまた安直な筋立て)カバコの方が受け入れやすいのはどうしたことか。これではせっかくカンナを主人公にした意味が……ここは何が何でもカンナに優位性を!って、ま、どうでもいいのだけれど。

ところで、カンナの目を通した画面が、昔の8ミリ映像なのは何故か。整形したら、世界はあんなふうに薄暗い色褪せたものになってしまうとでもいいたいのか。それとも、お気楽なお馬鹿キャラに見えたカンナだが、まだ過去にいじめられていた時の抑圧されて屈折したものの見方が消えずにいたということなのだろうか。明快な説明がつけられないのであれば、下手な細工はやめた方がいいのだが。

蛇足になるが、全身整形による「完全美人」として選ばれた山田優に、私はまるで心が動かされなかったのである。美醜問題は、ことほど左様に難しい……。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:ゴーシネマ

監督:井上晃一 プロデューサー:木村元子 原作:鈴木由美子 脚本:松田裕子 撮影:百束尚浩 美術:木村文洋 編集:井上晃一 音楽監督:田中茂昭 主題歌:Honey L Days『君のフレーズ』 エンディングテーマ:山田優『My All』

出演:山田優(神無月カンナ)、山崎静代(伊集院ありさ=カバコ)、中別府葵(隅田川菜々子)、永田彬(蓮台寺浩介)、佐藤仁美(森泉彩花)、柏原崇(綾小路篤)、浅野ゆう子(橘れい子)

ラーメンガール

テアトル新宿 ★☆

■ラーメンの具はトマトなり!?

彼氏を追いかけてアメリカから東京にやって来たものの、何となくそっけなくされて、というところで何故か『ロスト・イン・トランスレーション』(こっちは若妻だったし夫婦で来日した設定だった)を思い出してしまったのだが、似ても似つかぬがさつな映画だった。

ふられ気分でいた時に食べた近所のラーメン屋の味に感動してアビーのラーメン修行が始まるのだが、アビーにこんな大胆な行動をさせておきながら、言葉の行き違いや異文化の問題に踏み込むこともなく、どころか、ラーメン屋の店主とアビーが、相手を無視して(言葉が通じないというのに)互いに一方的に自分のことを喋る場面まで何度かあって、さすがにそれはないでしょう、と言いたくなった。

驚くべきことに、このふたりの意思疎通の悪さは、1年経ってもあまり改善されていないようなのだ。ラーメン修行の極意を、魂だかの精神論にしてしまったので、言葉が通じるかどうかは大した問題ではないにしても、そしてそれなりの信頼関係は生まれたのだろうけど、アビーにはラーメンだけでなく、日本語ももう少しは習得してほしかった。

修行がいじめみたいなのも気になった。アビーは飲んだくれの店主(ラーメンを作りながらタバコっていうのもね)に掃除ばかりさせられ、それが徹底していないことを指摘されるのだが、鍋はいざ知らず、それ以外のところにこの店が気を使ってきたとはとても見えないのだ。

それと、映像で表現するのは難しいとは思うのだが、悲しいことにラーメンがうまそうに見えないのである。それでいて、気分が楽しくなるラーメン、なんて言われてもですねぇ(ちなみにアビーが悲しい気持ちで作ったラーメンは、食べた者を悲しくさせてしまうのだ。はは。コメディ、コメディ)。

もちろん店主は頑固オヤジだが、腕はいいし、ちゃんとアビーのことも評価しているという流れ。だから自分と同じことをしているのに味に何かが足りないことに疑問を抱いて、わざわざ自分の母親のところまで連れて行き、助言を求めたりもするのだが……。

同業者との因縁ラーメンバトルに、ラーメンの達人を登場させたり、パリに逃げた店主の息子の話や、アビーの在日朝鮮人との恋愛まで押し込んだのは、単調になるのを避けようとしたのだろう。が、はじめっからミスマッチが楽しめればいい程度の発想しかないから、そのどれもが、どうでもいい具どまり。スープの作り方から修行しなおさないと及第点はあげられない。

ところで、アビーが辛い修行の末作りあげたラーメンは、具にコーンやトマトを使ったものだった。このこだわりは、自分らしさを失わないためと強調していたが、どうでもいい具どころか……いや、まあそもそも味なんて人それぞれだものね。

原題:The Ramen Girl

2008年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ワーナー

監督:ロバート・アラン・アッカーマン 製作:ロバート・アラン・アッカーマン、ブリタニー・マーフィ、スチュワート・ホール、奈良橋陽子 製作総指揮:小田原雅文、マイケル・イライアスバーグ、クリーヴ・ランズバーグ 脚本:ベッカ・トポル 撮影:阪本善尚 美術:今村力 衣装:ドナ・グラナータ 編集:リック・シェイン 音楽:カルロ・シリオット 照明:大久保武志 録音:安藤邦男

出演:ブリタニー・マーフィ(アビー)、西田敏行(マエズミ)、余貴美子(レイコ)、パク・ソヒ(トシ・イワモト)、タミー・ブランチャード(グレッチェン)、ガブリエル・マン(イーサン)、ダニエル・エヴァンス(チャーリー)、岡本麗(ミドリ)、前田健(ハルミ)、石井トミコ(メグミ)、石橋蓮司(ウダガワ)、山崎努(ラーメンの達人)

我が至上の愛 アストレとセラドン

銀座テアトルシネマ ★☆
銀座テアトルシネマにあった主役2人のサイン入りポスター

■古臭くて退屈で陳腐

エリック・ロメールが巨匠であることを知らない私には、えらく退屈で陳腐な作品だった。

まずわざわざ17世紀の大河ロマン小説を原作に持ってきた意味がわからない。古典に題材を求めたのは、ロメールがそこに「愚かなほど絶対的なフィデリテ(貞節や忠誠を意味する)」を見い出したからと、朝日新聞の記事(2009年1月15日夕刊)にあったが、映画から私が感じたのは、古典によくある、言葉を弄ぶ大仰さであって(こういうのが面白い場合ももちろんあるが)、現実感に乏しいものでしかなかった。

浮気と誤解され「姿を見せるな」と言われたのでアストレには会えない、とセラドンに言わせておきながら、もちろんそのことでセラドンは川に身を投げるし、助け出されても村には戻らずに隠遁生活のような暮らしを送ったりはするのだが、結局は、僧侶の差し金があったとはいえ、女装までしてアストレに近づくという笑ってしまうような行動に出る。

アストレもセラドンが死んだと思い込んでいたのに、僧侶の娘(セラドンが化けた)にはセラドンに似ているからにしてもぞっこんで、ふたりでキスをしまくってのじゃれようを見ていると、セラドンよ、喜んでいていい場合なのかと言いたくなってしまうのだが、当人は自分に気づかぬアストレの振る舞いを見て楽しんでいるふしさえあって、これではさすがにげんなりしてくる。

髭を薄くする薬があったというのはご愛敬としても、5世紀という時代設定なのにペンダントの中は写真だし、この時代の物とは思えない金管楽器に、印刷物としか思えない石版の文字……。

細かいことに文句を付けたくはないが、原作に忠実にガリア地方で撮影したかったが、手つかずの自然がなかったのでそれは断念した、などと言わずもがなのことをわざわざ映画の巻頭で述べていての、この時代考証の無視には頭をひねるしかない。

映画の虚構性についての、これがロメールの言及というのなら、少々幼稚と言わねばなるまい。テーマが古臭くとも今の時代に十分価値があると思っての「引退作」は、しかしそれなりの現代的な解釈や味付けが必要だったはずである。

原題:Les Amours D’astree et de Celadon

2007年 109分 35ミリスタンダード フランス/イタリア/スペイン 配給:アルシネテラン 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:エリック・ロメール 製作:エリック・ロメール、ジャン=ミシェル・レイ、フィリップ・リエジュワ、フランソワーズ・エチュガレー 原作:オノレ・デュルフェ 撮影:ディアーヌ・バラティエ 衣装:ピエール=ジャン・ラローク 編集:マリー・ステファン 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ

出演:アンディ・ジレ(セラドン)、ステファニー・クレイヤンクール(アストレ)、セシル・カッセル(レオニード)、ジョスラン・キヴラン、ヴェロニク・レモン、ロセット、ロドルフ・ポリー、マティルド・モスニエ、セルジュ・レンコ

ブロークン・イングリッシュ

銀座テアトルシネマ ★☆

■運命の人をたずねて三千里(行きました!パリへ)

仕事にも友達にもめぐまれているのに運命の人にはめぐり会えなくって(男運が悪い)、とノラは言うのだけれど、あれだけ片っ端から恋していっては、切実感などなくなろうというものだ(いや、切実だからこそそうしてるのか)。というか、気持はわかるのだけれど、なんか恋愛をはき違えているような。

俳優との一夜のアバンチュール(でないことをノラはもちろん願ってはいたけれど)や、失恋から抜け出せない男とのデートを経て、でもなんとかこれぞと思うような相手に行きつくが、でもそのジュリアンはフランス人で、仕事が終われば帰国という現実が当然(知り合って2日目だからノラにとっては突然)やってくる。実を言うとジュリアンが何故、ノラにそんなに執心になるのかがわからないのだけど、それはまた別の話になってしまうのでやめておく。

恋に臆するような伏線があるから情熱的なジュリアンには引いてしまう(ノラ自身がニューヨークで築いてきたことを諦めなければならないということも大きいとは思うが)、という流れにしたのだろうけど、でもここにくるまでに観ている方はちょっとどうでもよくなってきてしまったのだ。筋がどうのこうのじゃなく、恋探しゲームでくたびれてしまったのかどうか、それが三十路だかアラフォーだかしらないけれど、そういった年代の恋なのか。ようするに私にはよくわからないだけなのだが。

親友は結婚してしまうし、母親からは「その歳でいいものは残っていない」なんて言われてしまうし。じゃないでしょ。で、まあ、そういう、じゃなくなる映画を監督は撮ったつもりなのかもしれないのだけれど。

どこにでもあるような話でしかないとなると、あとは結末で勝負するしかなく、実際そう思って観ていたのだが(というか、こんな覚めた目で恋愛映画を観てしまったらもうダメだよね)、結局は「偶然」でまとめてしまうのだから芸がない。もちろん、ノラがパリへ行ったからこその偶然と強弁できなくもないが、それを裏づけたり生かすような演出は残念ながら私には見つけられなかった。例えば、バーで紳士から「自分の中に愛と幸せを見つけろ」みたいな忠告はもらって、それはそうにしても、ここまできてこれかよ、なんである。

この「偶然」に照れてしまったのは案外監督自身だったか。だからか、パリへ行ってからの演出は生彩を欠いていて(好き嫌いでいったらニューヨーク篇の方がいやだけど)、ノラに対しては表面的な優しさばかりの、それこそ異国人に対するお出迎えになってしまったのだろうし、地下鉄の偶然の場面でも、ノラの内面ほどにはカメラは動揺しなかったのだろう。

原題:Broken English

2007年 98分 ビスタサイズ アメリカ/フランス/日本 配給:ファントム・フィルム 日本語字幕:■

監督・脚本:ゾーイ・カサヴェテス 製作:アンドリュー・ファイアーバーグジェイソン・クリオット、ジョアナ・ヴィセンテ 製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キューバン 撮影:ジョン・ピロッツィ プロダクションデザイン:ハッピー・マッシー 衣装デザイン:ステイシー・バタット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:スクラッチ・マッシヴ

出演:パーカー・ポージー(ノラ・ワイルダー)、メルヴィル・プポー(ジュリアン)、ドレア・ド・マッテオ(オードリー・アンドリュース)、ジャスティン・セロー(ニック・ゲーブル)、ピーター・ボグダノヴィッチ(アーヴィング・マン)、ティム・ギニー(マーク・アンドリュース)、ジェームズ・マキャフリー、ジョシュ・ハミルトン、ベルナデット・ラフォン、マイケル・ペインズ、ジーナ・ローランズ(ヴィヴィアン・ワイルダー・マン)

恋とスフレと娘とわたし

新宿武蔵野館2 ★☆

■子離れ出来ない過干渉母親と末娘の××話

いくら末娘のミリー(マンディ・ムーア)に男運がないからってネットで娘にかわって恋人を募集し自ら面接って、もうそれだけでげんなりしてしまう話なのだが、母親のダフネ(ダイアン・キートン)はそんなことをするくらいだから、一事が万事で、すべてに過干渉。ダイアン・キートンはよくこんな役を引き受けたものだ。

もっとも親娘4人はすこぶる仲良しで、揃って買い物やエステに出かけているから、ネットでの恋人募集まではダフネもそうはひどい母親ではなかったのか。コメディだから大げさにせざるを得ない弊害かもしれないが、「私の言葉は絶対」という神経にはついていけない。

ネット効果?でミリーの男運は急転。今までの相手といえばゲイか既婚者か異常者ばかりだったのに、数撃ちゃ当たる(とんでもない男達を次々に見せていくあたりは芸がない)でダフネのメガネにもかなう建築家のジェイソン(トム・エヴェレット・スコット)は現れるし、面接現場に居合わせたミュージシャンのジョニー(ガブリエル・マクト)までがダフネのやっていることに興味を持って、結果、2人共ミリーに好意を寄せてくることになる。

ジョニーは子持ちで右手の甲に刺青があって、だからかダフネには「浮気なギタリスト」と最初から嫌われてしまうのだが、「偏見あるコメントをありがとう」とジョニーの方は余裕の受け答え。この優しさと安心感がミリーを二股へと進ませるのだけど、二股はないでしょ。

当然それはバレて、でもミリーも本当の愛に気付いてという流れなのだけど、そしてミリーにもそれなりのお仕置きはあるのだけれど、バレてからの右往左往だから後味は悪い。

救いはジェイソンをイヤなヤツにしていなかったことだろうか。曾祖父のキャンドルをミリーが壊してしまって不機嫌になってしまうのだが、次には別の形見をミリーへのプレゼントとして持ってきて、ちゃんと謝っていた。なかなか見上げたものなのだ。ま、とはいえ相性が合わないのでは仕方ないんだが、でも「あなたといると自分じゃない」というミリーの断り方は、ひどいなんてもんじゃない。

ダフネは一時的に声が出なくなって大人しくなるのかと思ったら大間違いで、それでも最後にはミリーへのおせっかいは「あなたを私にしたくなかった」からで、もう二度とミリーの人生には干渉しないと言ってはいた。でもあなたを私にしたくないというセリフも、とどのつまりは娘を自分と同じと考えているようで、私には感心できないのだけど。

だから、改善されるかどうか疑わしいよね、ダフネのそれ。ただ彼女もこの騒動でジョニーの父といい仲になってしまったので、当分は自分のことに忙しいだろうから、観ている方はげんなりでも、この親娘にとってはこれでハッピーエンドなんでしょう。

スフレが何なのか知らなかった私。くだらない映画でも勉強になります。

原題:Because I Said So

2007年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:東北新社 日本語字幕:佐藤恵子 字幕演出:川又勝利

監督:マイケル・レーマン 製作:ポール・ブルックス、ジェシー・ネルソン 製作総指揮:マイケル・フリン、スコット・ニーマイヤー、ノーム・ウェイト 脚本:カレン・リー・ホプキンス、ジェシー・ネルソン 撮影:ジュリオ・マカット プロダクションデザイン:シャロン・シーモア 衣装デザイン:シェイ・カンリフ 編集:ポール・セイダー、トロイ・タカキ 音楽:デヴィッド・キティ

出演:ダイアン・キートン(ダフネ)、マンディ・ムーア(ミリー)、ガブリエル・マクト(ジョニー)、パイパー・ペラーボ(メイ/次女)、トム・エヴェレット・スコット(ジェイソン)、ローレン・グレアム(マギー/長女)、スティーヴン・コリンズ(ジョー/ジョニーの父)、タイ・パニッツ、マット・シャンパーニュ、コリン・ファーガソン、トニー・ヘイル

憑神

2007/07/30 109シネマズ木場シアター7 ★☆

■のらりくらりと生き延びてきたカスが人類(映画とは関係のない結論)

よく知りもしないでこんなことを書くのもどうかと思うのだが、私は浅田次郎にあまりいいイメージを持っていない。たしかに『ラブ・レター』には泣かされたが、あの作品が入っている短篇集の『鉄道員(ぽっぽや)』には同じような設定の話が同居していて、読者である私の方が、居心地が悪くなってしまったのである(こういうのは書き手にこそ感じてほしい、つまりやってほしくないことなのだが)。

で、そのあとは小説も読むことなく、でも映画の『地下鉄(メトロ)に乗って』で、やっぱりなという印象を持ってしまったので(映画で原作を判断してはいけないよね)、この作品も多分に色眼鏡で見てしまっている可能性がある。だって、今度は神様が取り憑く話っていうんではねー。

下級武士(御徒士)の別所彦四郎(妻夫木聡)は、配下の者が城中で喧嘩をしたことから婿養子先の井上家を追い出され、無役となって兄の左兵衛(佐々木蔵之介)のところに居候をしている。妻の八重(笛木優子)や息子の市太郎にも会えないばかりか、左兵衛はいい加減な性格だからまだしも兄嫁の千代(鈴木砂羽)には気をつかいと、人のよい彦四郎は身の置き場のない生活をしていた。

母のイト(夏木マリ)が見かねて、わずかな金を持たせてくれたので町に出ると、昌平坂学問所で一緒だった榎本武揚と再会する。屋台の蕎麦屋の甚平(香川照之)に、榎本が出世したのは向島の三囲(みめぐり)稲荷にお参りしたからだと言われるが、彦四郎はとりあわない。帰り道、酒に酔った彦四郎が川岸の葦原の中に迷い込むと、そこに三囲(みめぐり)稲荷ならぬ三巡(みめぐり)稲荷があるではないか。つい「なにとぞよろしゅう」とお願いしてしまう彦四郎だったが、こともあろうにこれが災いの神だったという話(やっぱり腰が引けるよな)。

で、最初にやってきたのが、伊勢屋という呉服屋とは名ばかりの貧乏神(西田敏行)。これ以上貧乏にはなりようがないと安心していた彦四郎だが、左兵衛が家名を金で売ると言い出すのをきいて、貧乏神の実力を知ることになる(眉唾話に左兵衛が騙されていたのだ)。この災難は宿替えという秘法で、貧乏神が彦四郎から彼を陥れた井上家の当主軍兵衛に乗り移って一件落着となる(井上家の没落で、彦四郎は妻子を心配しなければならなくなってしまうのだが)。

次に現れたのは、九頭龍為五郎という相撲取りの疫病神(赤井英和)。長年の手抜き癖が問題となって左兵衛がお役変えとなり、彦四郎に出番が回ってくるのだが、疫病神に祟られて全身から力が抜け、榎本と勝に新しい世のために力を貸してほしいと言われてもうなずくのが精一杯という有様。だが、これも結局は疫病神が左兵衛に宿替えしてくれることになる。

神様たちが彦四郎に惚れて考えを少しだけだが変えてしまうのも見所にしているらしい。でもそうかなー、なんかこういうのにわざとらしさを感じてしまうのだが。井上家の使用人で彦四郎の味方である小文吾(佐藤隆太)が、幼い頃から修験者の修行を積んでいて、呪文で貧乏神を苦しめるあたりの都合のよさ。宿替えは10年だか100年に1度の秘法だったはずなのに2神ともそれを使ってしまうんだから、何とも安っぽい展開ではないか。

死神(森迫永依)をおつやという可愛い女の子にしたのにも作為を感じてしまう。おつやは子供の姿でありながら、彦四郎の命を市太郎に狙わせるという冷酷な演出に出る。自分で手をくだしちゃいけないからと言い訳をさせていたが、それにしても、こんなことをされたというのに、このおつやにも彦四郎はあくまで優しく接する。彦四郎が本当にいいヤツだということをいいたいのだろうし、だからこそ3神もらしからぬ行動を取ることになるのだが。

結局、彦四郎は死を受け入れる心境になるのだが、これがあまり説得力がないのだ。というより宿替え(おつやは1度しか使えないと言ってた気がするが、使っていないよね?)のことも含めて、誤魔化されてしまったような。終わった時点でもうよくわからなくなっていたから。彦四郎は最低の上様である徳川慶喜(妻夫木聡)に会い、彼と瓜二つであることを確認し(これもねー。影武者が別所家の仕事ではあったことはいってたが)、当人から「しばらく代わりをやってくれ」と言われて、その気になるような場面はあるのだが、どうにもさっぱりなのだ。

彦四郎は、犬死にだけはしたくないと言っていたのに、上野の山に立て籠もった人たちの心の拠り所になれればと考えたのか。やはり上野の山に馳せ参じようとした市太郎と左兵衛の息子の世之介に、そこに行っても何の意味もなく、新しい世の中を作るために残らなくてはならないと諭す。この矛盾は対子供においては納得できるが、彦四郎自身への説明にはなっていただろうか。

また彦四郎に、死神に会って生きる意味を知り、神にはできぬが人は志のために死ぬことができる、とおつやに語らせていることも話をややこしくしている。そーか、彦四郎にとってはやはり影武者としての家業をまっとうすることが、武士の本懐なのか、と。なんだかね。死ぬことによって輝きを増すとかさ、もう語りすぎなんだよね。

おつやも神様稼業がいやになり、相対死をするつもりで彦四郎の心の中に入り込む。とはいえ、彦四郎は官軍の砲弾で命を散らすが、神様は死なないのだった。で、急に画面は現代に。何故かここに原作者の浅田次郎がいて、おつやの「おじちゃん(彦四郎)はすごく輝いていたんだよ」というセリフが被さって終わりとなる。これはもちろん憶測だが、降旗康男もあまりの臆面のなさにまとめきれず、全部を浅田次郎に振ってしまったのではないか(ま、ここにのこのこ出てくる浅田次郎も浅田次郎なんだけど)。でないとこの最後はちょっと説明がつかない。

こんな結論では、疫病神に取り憑かれてものらりくらりと生き延びてしまう左兵衛に、決して輝いてなどいないけれど、そうして肩入れだって別にしたくもないけれど、人間というのはもしかしたら、こういういい加減な人種だけが生き延びてきてしまったのかもしれないと、と思ってしまったのだった(うん、そうに違いない)。

  

2007年 107分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:降旗康男 プロデューサー:妹尾啓太、鈴木俊明、長坂勉、平野隆 協力プロデューサー:古川一博 企画:坂上順、堀義貴、信国一朗 原作:浅田次郎『憑神』 脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文 撮影監督:木村大作 美術:松宮敏之 編集:園井弘一 音楽:めいなCo. 主題歌:米米CLUB『御利益』 照明:杉本崇 録音:松陰信彦 助監督:宮村敏正

出演:妻夫木聡(別所彦四郎/徳川慶喜)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、赤井英和(九頭龍/疫病神)森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、上田耕一、鈴木ヒロミツ、本田大輔、徳井優、大石吾朗、石橋蓮司、江口洋介(勝海舟)

ファウンテン 永遠に続く愛

銀座テアトルシネマ ★☆

■永遠の勘違い男

そうわかりにくい話ではないのに、現実と物語を交錯させ、さらにもう1つ主人公の精神世界のような映像も散りばめ、そしてそれらの境目までも曖昧にしてしまう。しかもそこにある概念といえば仏教の輪廻もどきのもの。これではダーレン・アロノフスキーとの相性が多少はいい人でも観るのは相当キツイのではないか。とにかく初見(かどうかは関係ないか)の私にはとてもついていけなかったのである。だから粗筋すら書く気が失せているのだが……。

医師のトム・クレオ(ヒュー・ジャックマン)は、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)が脳腫瘍の末期にあることを知って、死は病気の1つという信念で研究に冒頭していく。が、イジーの方は、残された短い時間を夫と一緒に過ごせれば、もう死を受け入れる覚悟ができていた。

イジーが書き進めていた物語は、そのことをトミーにわからせたいが故のものだろう。そして未完成部分の第12章をトミーに完成して欲しいと願うのだ。映画の中で何度もイジーの「完成して」という言葉が繰り返されるが、それはきっとそういう単純なことだったのではないか。観ている時は何かあるのかもれないと思っていたのだが、そもそもこの映画は、構成こそ入り組んでいるが、伏線らしきものは見あたらないのである。

トミーといえば、行き過ぎた猿への実験で上司のリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)に休日を言いわたされる始末。が、そのことで手がかりを掴めそうになると、さらに狂気のごとくその研究にのめり込んでいく。しかしこんな実験で、余命幾ばくもない人間の命を救えることになるなどと実際に医療にたずさわっている者が本気で考えるだろうか。新薬が日の目をみるには、動物実験を経た後も、治験を繰り返す必要があることくらい常識だろうに。

かくの如く、まったく奇妙なことにこの現実部分は、イジーの書いた物語より現実離れしているのだ(これには何か意味でもあるのだろうか)。それもと体裁としては現実ながら、イジーの物語と同列扱いにしたかったのかもしれない。

イジーの書いた『ファウンテン』と題された物語は、16世紀のスペインのイザベル女王が、騎士トマスに永遠に生きられる秘薬を探せと命じるというもの。11章まで書いたというのに、映画では最初の命令部分と任務途中でのアクション場面があ少しあるだけのものでしかない。これをイジーとトミーがそれぞれ演じていて(ここはヒュー・ジャックマンとレイチェル・ワイズがと書かなくてはいけないのかもしれないが)、イジーの顔のアップとイザベル女王のアップを交互に見せたりしている。

そしてトミーはマヤに古くから言い伝えのある生命の木にたどり着き、花を蘇生させるその樹液でもって、永遠の命を得ようとする。現実部分のトミーが新しい治療法の手がかりを見つける(やはりある樹皮を猿に投与する)のもこのことと重なっている。またこれとは別にトミーの精神世界のような場所でも、同じような行為が繰り返される。

球体に囲まれた小さな世界の中に、イジーが横たわっていて(すでに死んでいるのか?)、そこには剃髪したトミーがいて、その球体の中に聳えている生命の木の樹液を飲むのだ。樹液を飲んだトミー(いや、これは騎士のトマスだったか)は歓喜の表情となるのだが、直後、トミーの全身からは花が芽吹き、トミーは花に包まれてしまう。この場面は単純なものだが、この映画唯一の見所となっている。

繰り返しになるが、イジーが「完成して」と言った意図は11章まで物語を丹念に読むこと、つまりイジーが何を考え、生き、トミーと生活してきたかを自分がしたように辿ってほしかっただけなのだ。そうすれば12章は自動的に完成したはずなのだ。まあ、勘違い男のトミーが、不死の秘薬探しを即自分の職業に結びつけてしまったのは無理からぬところではある。しかしイジーからペンとインクまでプレゼントされて「完成して」と言われたら、さすがにわかりそうなものなんだけどね。

実は私の中ですでに混乱してしまっていているので断言できないのだが、トミーが花にとって変わってしまう場面が騎士トマスにもあったとしたら、物語を書いたイジーもそのことを予言していたことになる。永遠の命はその樹にとってのもので、トマスはただ養分になったにすぎないことを。

映画はトミーの暴走によって不死というテーマへと脱線していくのだが、そこで語られる不死観に具体的なものは何もない。生命が渦巻いているような光の洪水の中に漂う球体は美しいけれど、ただそれだけなのである。輪廻の映像化というよりは、小さな閉じた世界にとどまっているようにしかみえないのだ。

剃髪したトミーが座禅し黙想する姿は仏教そのもののようだが、生命の木についてはマヤの言い伝えとしているし、スペインによる南米搾取はキリスト教の布教絡みでもあったわけだから、何がなんだかわからなくなる。

とにもかくにも、最後になって一応はトミーも死を受け入れても精神は死なないという世界観を会得したらしいのだが、イメージだけでみせているからそれだって大いに疑問。それにすでにそこに至る前に、イジーのメッセージを読みとれずにいるトミーには、永遠に勘違いしていろ、と何度も言ってしまっていた私なのだった。

(070801 追記)公式サイトに次のような文章があった。

    「舞台を現代だけにして、不死の探求についての物語を伝えるのは難しかった。そこで、トミーの物語を16世紀、21世紀、そして26世紀と、3つの時代を舞台にすることにした」とアロノフスキー監督は語る。「しかしこの映画は、伝統的な意味での時空を超えた物語ではない。むしろ、1人の人間の3つの側面を体現する各キャラクターを異なる時代に描いて、3つの物語を結合させている」

私が精神世界と思っていたのは26世紀なのか! それはまったくわかりませんでした。もう少しヒントをくれてもいいと思うのだが。

原題:The Fountain

2006年 97分 ビスタサイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー 製作:エリック・ワトソン、アーノン・ミルチャン、イアイン・スミス 製作総指揮:ニック・ウェクスラー 原案:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル 撮影:マシュー・リバティーク プロダクションデザイン:ジェームズ・チンランド 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ジェイ・ラビノウィッツ 音楽:クリント・マンセル

出演:ヒュー・ジャックマン(トマス/トミー/トム・クレオ)、レイチェル・ワイズ(イザベル/イジー・クレオ)、エレン・バースティン(リリアン・グゼッティ博士)、マーク・マーゴリス、スティーヴン・マクハティ、フェルナンド・エルナンデス、クリフ・カーティス、ショーン・パトリック・トーマス、ドナ・マーフィ、イーサン・サプリー、リチャード・マクミラン、ローン・ブラス

監督・ばんざい!

銀座テアトルシネマ ★☆

■壊れてます

ヤクザ映画を封印した「馬鹿監督」(とナレーターに言わせている)のタケシが、それならといろいろなジャンルの映画に挑戦する。小津映画、昭和30年代映画、恐怖映画、時代劇にSF映画(他にもあったか?)。それぞれにまあまあの時間をとり、配役もタケシの力かそれなりに凝ったものにしてあるが、ちっとも面白くない。

いろいろなパターンを見せてくれるから飽きはしないのだが、笑えないのだ。映画をジャンル分けで考えていること自体そもそもどうかと思うのだが、それを片っ端からやって(ある意味では偉い!)否定してみせる。でもこの発想はあまりに幼稚で、観ているのがいやになってしまう。その否定の理由も、「何故女が男に尽くす映画ばかりなんだろう」とか「またギャング(ギャグではない)が出てきてしまった」とかいったもので(これもナレーターに言わせているのだな)、まともな批評になっていないのだ。批評になっていないのは自分の作品まで引っ張り出してしまっているからだろうか。

わずかに『コールタールの力道山』(劇中映画の1つ)に、『三丁目の夕日』の懐古趣味の甘さは耐えられないと言わんばかりの切り口があるが、他はひどいものばかり。特に小津映画を真似たものなんて見ちゃいられなくって(だいいち、あんな昔の映画に今頃何を言いたいのか)、これって大学の映研レベルではないかと。

で、何をやってもうまくいかないでいたのだが(いや、現実にそうなっていた?)、詐欺師の母娘が東大泉という得体の知れない人物に近づくという話だけは、どんどん進行していって……なんだけど、これがどこにもない映画なの。東大泉の秘書との恋や、何でもありの井手博士展開って、奇想天外というより安直なんですが。そりゃ面白いでしょ、タケシは。大金使って遊んでるだけなんだもの。だから「監督・ばんざい!」なのか。

最後のオチも最低。流れ星が光に包まれて爆発。全員が吹っ飛ぶと「GLORY TO THE FILMMEKER」というタイトルが表れる。これはタケシの妄想だったらしいのだ。先生にどうですか、なんて訊いていて、壊れてますという答えが返ってくる。やれやれ。自分で言うなよな。

巻頭で、タケシは等身大の人形を持って登場するのだが、この人形は何なのか。タケシでなく、人形が病院で診察を受けCTスキャンに入るのだが、まったく意味不明。もちろん勝手な解釈でいいというなら適当にデッチ上げることは出来る(いつもしてることだけど)。例えば、タケシは観客が自分のことをちゃんと見ているはずがなく、人形に置き換えてもきっと誰も気付くまいと思っているのだ、とか。あるいは、人形という分身を持ち歩かないではいられないと訴えたいのだ、とか。

でも、それもそこまでで、よーするにこねくり回してでも何かを書いておきたいという気になれないのよね。

  

2007年 104分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル、オフィス北野

監督・脚本:北野武 プロデューサー:森昌行、吉田多喜男 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 衣裳:岩崎文男 編集:北野武、太田義則 音楽:池辺晋一郎 VFXスーパーバイザー:貞原能文 ラインプロデューサー:小宮慎二 音響効果:柴崎憲治 記録:吉田久美子 照明:高屋齋 装飾:尾関龍生 録音:堀内戦治 助監督:松川嵩史 ナレーション:伊武雅刀

出演:ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、宝田明、藤田弓子、内田有紀、木村佳乃、松坂慶子、大杉漣、寺島進、六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、蝶野正洋、天山広吉

リーピング

新宿ミラノ1 ★☆

■映画でなくチラシに脱帽

映画でなく、映画のチラシの話をしたら笑われちゃいそうなんだが、「イナゴ少女、現る。」のコピーはともかく、「虫とか出しちゃうよ」というのにはまいりました。うはぁ、これはすごい。作った人を褒めたくなっちゃうな。

って、どうでもいい話から入ったのは、そう、特に新鮮味のない映画だったってことなんだけど。でもまあ、今は映像的なチャチさがそうは目立たないから(よくできているのだ)、画面を見ている分には退屈はしないのだな。

ルイジアナ州立大学教授のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、かつてはキリスト教の宣教師としてスーダンで布教活動をしていたこともあるが、布教中に夫と娘を亡くしたことから信仰から遠ざかり、今では無神論者として世界中で起きている「奇跡」を科学的な調査で解き明かすことで有名になっていた。

そんな彼女に、ヘイブンというルイジアナの小さな町で起きている不可解な事件の調査依頼が、ダグ(デヴィッド・モリッシー)という地元の数学と物理の教師から舞い込む。キャサリンはベン(イドリス・エルバ)とまず流れが血に変わってしまったという川を調べはじめるのだが、そこに大量の蛙が降ってくる……。

このあとも出エジプト記にある10の災厄が次々に起こる。ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、イナゴ、闇、初子の死、というのは聖書の写しだが、映画でもほとんど同じような展開となる。映像的には、血の川というのが、何ということはないのだが意外なインパクトがある。逆に1000,000,000匹(これもチラシだけど、よく勘定したもんだ)のイナゴや最後の火の玉が落ちてくる天変地異はどうでもよくって、でもBSEで刷り込まれてしまっているのかもしれないが、へたれこむ牛や、牛の死体を燃やしている場面などは単純に怖い。

出エジプト記では10の災厄はエジプト王に神の存在を知らしめ、イスラエルの民をエジプトから去らせるためのものだったと思うが、ここではキャサリンに信仰心を取り戻させようとしているのか。一定の条件で有毒になる微生物などで超常現象を証明しようとしたり、聖書を持ち出すのはやめて、と言っていたキャサリンだが、分析の結果、川の血は本物で、20~30万人分の血が必要だという事実の前にはあっさりそれを認めるしかなかったのか。兄のブロディ(マーク・リンチ)を殺害した(このことがあって川の水が血になったらしい)というローレン(アンナソフィア・ロブ)に触れたとたん、いろいろなイメージをキャサリンが感じとったからなのか。また、ブロディのミイラ化がどうしても証明できなかったからか。

超常現象の原因と町の人々から決めつけられたローレンは、母親のマディ(アンドレア・フランクル)からも見放されているのだが(キャサリンは娘を殺してと言われるのだ。でもこの母親は何故か自殺してしまう)、娘を救えなかったことがトラウマとなっていたキャサリンは、ローレンに死んだ娘のイメージを重ね、結局このことがローレンを救う契機になるのだが、ってつまりローレンは災いの元ではなくて、町の人たちの方が悪魔崇拝者だったのね。

だとすれば超常現象はやはり神が起こしたものとなる。では何故? 悪魔崇拝者たちの目を覚まさせるためなのか。イナゴはローラを守るためとも思えなくはないが、火の玉は、ベンを殺した悪魔のダグの仕業のようでもあって何が何だかわからない(聖書には火の玉などないからこれは悪魔の反撃なのか)。

そして、キャサリンとローレンは生き残り、家族として生きる決意をするのだが、キャサリンのお腹には男の子が宿っていて、第2子はサタンになるという……。何だ、これだと『ローズマリーの赤ちゃん』ではないか(それとも続篇でも作る気か)。ダグが悪魔とすると、事件の究明のためにキャサリンを呼び寄せた意味がよくわからないのだが、このためもあったとか(もしくはスーダンのコスティガン牧師の死に繋がる因縁でもあるのだろうか)。

そういえばキャサリンがダグと打ちとけてお互いの家族のことを話す場面で、キャサリンは夫と娘がスーダンで生贄になり、神を恨んだらはじめて眠れたと語っていた。そして、そのあとキャサリンはダグとセックスするのだが、なるほど、あのセックスはあの時、キャサリンは神を捨て悪魔と結託したという意味があったのだろうか。

ローレンは第2子(だから初子のブロディは死んだのだ。ってそれもひどいが)で、無事に思春期を過ぎた子はサタンに生まれ変わるというような説明もあったのはそういうことだったのね。そして、キャサリンによって悪魔でなくなった、と(とはいえ、これだと町の人から嫌われるのがわからなくなる)。あと、ダグはもちろん悪魔だったのだろうが、初子としても死ぬ運命だったということなのか。もう1度観たら少しはすっきりしそうなんだが、そんな気にはならないんでした。はは。

【メモ】

チラシでは、Reapingを1.刈り取り 2.善悪の報いをうけること 3.世界の終末における最後の審判、と説明されている。

原題:The Reaping

2007年 100分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナーブラザース 日本語字幕:瀧の瀬ルナ

監督:スティーヴン・ホプキンス 製作:ジョエル・シルヴァー、ロバート・ゼメキス、スーザン・ダウニー、ハーバート・W・ゲインズ 製作総指揮:ブルース・バーマン、エリック・オルセン、スティーヴ・リチャーズ 原案:ブライアン・ルーソ 脚本:ケイリー・W・ヘイズ、チャド・ヘイズ 撮影:ピーター・レヴィ プロダクションデザイン:グレアム・“グレイス”・ウォーカー 編集:コルビー・パーカー・Jr. 音楽:ジョン・フリッゼル
 
出演:ヒラリー・スワンク(キャサリン・ウィンター)、デヴィッド・モリッシー(ダグ)、 イドリス・エルバ(ベン)、アンナソフィア・ロブ(ローレン・マッコネル)、ウィリアム・ラグズデール(シェリフ・ケイド)、スティーヴン・レイ(コスティガン神父)、アンドレア・フランクル(マディ・マッコネル)、マーク・リンチ(ブロディ・マッコネル)、ジョン・マコネル(ブルックス/町長)

フライ・ダディ

銀座シネパトス1 ★☆

■父よ、あなたは弱かった

娘のダミ(キム・ソウン)をカラオケボックスで同じ高校生のカン・テウク(イ・ジュ)に暴行されたチャン・ガピル(イ・ムンシク)は、「深く反省している」相手のあまりに不遜な態度に復讐を誓い、包丁を手にチョンソル高校に乗り込むが、居合わせたコ・スンソク(イ・ジュンギ)に簡単に気絶させられてしまう。が、このことでスンソクと彼の同級生チェ・スビン(キム・ジフン)とオ・セジュン(ナム・ヒョンジュン)は、ガピルに力を貸すことになる。

テウクは3年連続優勝を目指す高校ボクシングのチャンピオンで、取り巻きもいれば、高校の教頭も彼の味方。息子が不祥事を起こしても姿を見せない「国の仕事」で忙しい両親(事件すら知らないのかも)と憎まれ役に相応しい陣容だ。

対する39歳のガピルは平凡なサラリーマン。二流大学出ながら仕事ではまあまあ活躍しているようで営業部長にもなれそうだ。マンションのローンはあと7年。堅実なのね。でも禁煙がなかなか成功しないのは意志薄弱なのか。命をかけて妻と娘を守るつもりでいたが、気が付けば体はぶよぶよで、テウクとまともに戦えるとはとても思えない。

師匠に対する礼儀を守り一切質問はしないという条件の上で、スンソクの与えた指示は特訓の繰り返し。体はなまっているし非力すぎのガピルだから、まずは正攻法でいくしかないのだろう。それはわかるが、だったら余計、方法や見せ方に工夫がほしいところだ。が、特別なアイディアなどはない。荒唐無稽路線を取りたくなかったのかもしれないが、映画としては少しさびしい。

食事療法を取り入れて体重と体脂肪を減らすところは、イ・ムンシクが身をもって体を引き締めたのがわかるので(実際には体重を15キロ増やし、映画の撮影に会わせてまた減らしていったという)、本当に応援したくなる。が、あとは反射神経を養うくらいだし、ボクシング(何も相手の得意とするもので戦わなくてもね)での対策はラグビーみたいにタックルしろ、では何とも心許ない。

しかもこの対決を、日にちの制限があるわけではないのに、なぜか25日後(いくらなんでもね無理でしょ)に設定してしまうし、「明日の作戦を訊いて俺はあきれかえった」とガピルは言うのだが、体育館を占拠して生徒たちだけの前で行うだけの、ま、ホントにあきれかえっちゃうもので、実際の戦いになってもガピルは一方的に殴られるばかりでいいところがない。あれ、なのにガピルが勝ってたけど。なんでや。見せ場が結果として誤魔化しのようになってしまっては、盛り上がるはずもない。

これだったら前日のバスとの競争の方がまだ見せてくれたものね。そのバスの運転手(ペク・ソンギ)がいつの間にかローラーブレードができるようになっているのは、ちょっとした映像だからいいのであって、ガピルの特訓には乗り気でなかったスンソクが、娘のために戦うという姿勢に、小学生のとき離婚して出ていってままの父親を重ね合わせていたのだとか、ガピルにも「お前みたいな息子がいたら」などと言わせて妙な味付けをしてしまうと、急につまらないものになってしまう。

韓国でならば『フライ,ダディ,フライ』(未見)のリメイクは、それなりの興行価値があるのかもしれないが、元の作品が2005年に公開されたばかりの日本にもってくる意味があったとはとても思えない。現に、まあ、銀座シネパトスということもあるのかもしれないが、イ・ジュンギだけではとても売れそうもないくらいガラガラの初日だったのだけどね。かわいそ。

 

原題:嵓誤攵・エ ・€・煤@英題:Fly,Daddy,Fly

2006年 117分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チェ・ジョンテ 原作:金城一紀『フライ、ダディ、フライ』 脚本:チェ・ジョンテ 撮影:チェ・ジュヨン 音楽:ソン・ギワン
 
出演:イ・ムンシク(チャン・ガピル)、イ・ジュンギ(コ・スンソク)、イ・ジュ(カン・ウテク)、キム・ジフン(チェ・スビン)、ナム・ヒョンジュン(オ・セジュン)、イ・ヨンス(ガピルの妻)、キム・ソウン (チャン・ダミ/娘)、イ・ジェヨン(イ・ドックン/教頭)、ペク・ソンギ(バスの運転手)

バッテリー

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★☆

■勝手にふてくされてれば

ピッチャーとして天才的な素質を持つ原田巧(林遣都)が、引っ越し先の岡山県新田市(新見市か)で中学に進み、成長していく姿を描く。

病弱な弟の青波(鎗田晟裕)のことだけで精一杯の家族や、管理野球の中学野球部監督、先輩や同級生とのトラブル、ライバルの登場に、信頼していたキャッチャーの永倉豪(山田健太)との軋轢……。

こんな書き方では何もわからないのだが、手抜き粗筋にしてしまったのは、どうにも気が進まないからで、といってこの作品がそんなにひどいかといえばそんなことはないのだが、ようするに私が中学生の悩みに付き合えるほど人間ができていないということだろうか。

「野球に選ばれた人間」である巧。いくら速い球を投げても、それを受けとめてくれる者がいなくては自分の存在理由もなくなる。そんな自分を誰もわかっちゃくれないとばかりにふてくされてみせるのは、多感な中学生が、でも表現は追いつかないということなのだろう。が、祖父の井岡洋三(菅原文太)のようにはしっかり付き合えない私としては、いつまでもそうしてれば、と突き放すしかない。

話にしてもたとえば、丸刈りにしなければ退部なのに、監督の戸村(萩原聖人)をショートフライに打ち取ったことで、それをなしにしてしまうというのが、はなはだ面白くない。生徒にそそのかされて対決してしまう戸村もどうかしているのだが、中学の野球部の監督が野球を実力だけで評価してしまっていいのか。

巧を嫉む上級生の描き方もひどくて、部活に入っていれば内申書がよくなるから野球をやっていた、っていうのがね。巧への暴行も見捨てておけるものではないが、「言いてぇこと言って、やりたいことやって、我慢しないでいきなりレギュラーか」という彼の言い分はわかる。で、そのことにはちゃんと答えてやっていないのだ。

さらに問題なのは、最後のまとめ方だろうか。青波の病気が悪化したは巧のせいだという母の真紀子(天海祐希)に、頼りなさそうだった父の広(岸谷五朗)が、どうしてそんなに巧につらく当たるのかと問いただす。真紀子は「八つ当たり」を認め、「好きなものに打ち込める巧を見ているとイライラする」と答える。

ここまでならわかるのだが、広は調子に乗って「野球って自分の気持ちを伝えるスポーツなんだ。ぼくはこの発見を巧に伝えたいんだ。君だって伝えたいんだろ、お前だってお母さんの大切な子供だって」とまで言う。小中学生向けとしてなら、まあこれもアリだろう。でも大人の広が「発見」してもねー。

そう言われて球場に駆けつけてしまう真紀子、という演出もどうかと思うのだけど……。

いやなところばかりを書いてしまったが、『バッテリー』というタイトル部分の巧と豪の関係はよく描けていたように思う。「ボールの成長に追いつけない」豪の自分への叱責。それはわかっていてもやはり「手抜きのボールはキャッチャーへの裏切り」なのだ。でも、こんな豪の葛藤に比べると、巧のは単なる苛立ちのようにしかみえないのがねー。

映像としては、巧の剛速球はうまく表現出来ていたと思う。投球フォームをじっくり見せるのもいい。だけど、毎回これではあきてしまう。あれ、またけなしてしまったか。ここまでボロクソに言うつもりはなかったのだけどね。

  

2006年 118分 シネスコサイズ

監督:滝田洋二郎 製作:黒井和男 プロデューサー:岡田和則、岡田有正 エグゼクティブプロデューサー:井上文雄、濱名一哉 企画:信国一朗、島谷能成 原作:あさのあつこ『バッテリー』 脚本:森下直 撮影:北信康 美術:磯見俊裕 編集:冨田信子 音楽:吉俣良 主題歌:熊木杏里『春の風』 CGIプロデューサー:坂美佐子 スクリプター: 森直子 照明:渡部篤 録音:小野寺修 助監督:足立公良
 
出演:林遣都(原田巧)、山田健太(永倉豪)、鎗田晟裕(原田青波/弟)、蓮佛美沙子(矢島繭)、天海祐希(原田真紀子/母)、岸谷五朗(原田広/父)、萩原聖人(戸村真/監督)、菅原文太(井岡洋三/祖父)、上原美佐(小野薫子)、濱田マリ(永倉節子)、米谷真一(沢口文人)、太賀(東谷啓太)、山田辰夫(草薙)、塩見三省(阿藤監督)、岸部一徳(校長)

シネセゾン渋谷 ★☆

■共有できない「意味」

去年公開の『LOFT ロフト』に続く黒沢清監督作品。『LOFT ロフト』もだが、この映画も私の理解を超えていた。

東京湾の埋立地で身元不明の女の他殺死体が発見される。担当刑事の吉岡(役所広司)は、捜査現場で赤い服を着た謎の女(葉月里緒菜)を見る。そして、同様の手口(わざわざ埋め立て地に運び海水を飲ませる)と思われる殺人事件が次々と起きるのだが、手口以外の共通点が見つけられぬうち、思わぬ容疑者が浮上する。

映画は初めのうち、吉岡がいかにも犯人かのような証拠(コートの釦や指紋など)を提示し、同僚の宮地(伊原剛志)に疑わせ、そして吉岡自身もその証拠に困惑するという手の込んだことをしてみせるのだが、これは観客をわざと混乱させるだけのものだったらしい。

本人が知らないうちに犯行を重ねていたというのは、この手の話にはありがちにしても、きちんと向き合うのであれば、それは何度作られてもいいテーマだろう。なのに、ここではそれが、ただの飾りか混乱の道具にしかなっていないのである。

もっとも事件が吉岡とまったく無関係かというと、さすがにそんなことはなく、連続殺人の調べが進んで、吉岡の過去とも繋がりのあることがわかってくる。が、それは15年も前のことで、何故今頃という気もするのだが、一応説明すると次のようになる。

吉岡は湾岸航路を使って通勤していたことがあり、その途中にある、戦前には療養所だった黒い建物(アパート)の中にいた女(赤い服の女)と目が合っていたというのだ。療養所は元の収容者たちが住み着いていて、そこでは規律を守らないと洗面器に海水を入れ窒息するまで体罰をしていたという噂があったとも。しかしその噂を吉岡が知ったのは最近のことなのだ(風景と同じように忘れてしまっていただけなのかもしれないが)。

赤い服の女(といったって幽霊なんだが)の言い分はこうだ。「ずーっと前、あなたは私を見つけて、私もあなたを見つけた……それなのに、みんな私を見捨てた」と。目が合っただけなのに。言いがかりもいいとこで、女の勝手な思い込みなのに。しかも1対1の関係を強調しているようで、何故か「みんな」になってしまっているのだ。で、その「みんな」というのが、他の被害者(同じ航路を利用していた)なのだろう。

この女の指摘は一方的で怖いが、確かに人間関係のある側面を捉えてはいる。個別の人間が行為や言葉を、本当に同じ意味で共有できるかどうかは、考え出すと途方もなく大きな問題だからだ。

しかし、後になって吉岡がその建物に行ったことで、女は吉岡に「やっと来てくれたのね。あなただけ許します」と言うのである。他の被害者たちとの差はここ(元療養所)へ来てくれたことだけなのか。「できることがあった」と言っていたのは、そんなことだったのか。女にとっては、それだけで許せてしまうのか。それとも許されることで背負うことになる罪を描いているのか。死ならば「すべてなしに」もできるが、許されてしまうとそうはならなくなるというのか。

ところで映画は吉岡のプライベートな部分の描写で、春江(小西真奈美)という存在を最初から登場させている。彼女と吉岡は恋人以上の関係で、吉岡は春江を信頼しきっているようなのだが、春江はいつも吉岡には距離おいているのか、時間がないとか言ったりで、どこかよそよそしい。しかしそれなのに、ふたりだけになれるからと海外へ誘った吉岡は、逆に搭乗口で春江ひとりを行かせてしまうのだ。

平行して語られていたこの春江が実はやはり幽霊で、吉岡は半年前に恨まれるような何かしたらしいのだが、それは明らかにされない。ここでも同じように見て見ぬ振りをすることはできない、というような関係性が問われているようなのだが、でも、また春江も吉岡を許すのである(吉岡もどうして俺だけが、と言う)。いや、春江は最初から許していたのではなかったか。が、赤い服の女とは対極にいるような春江も、最後には叫んでいた。何を叫んでいたのかはわからないのだが。

で、さらにわからないのは洗面器に宮地が引っ張り込まれてしまうことだ。この場面は確かにすごいのだけど、でも何にもわからない。なんで宮地なんだ。「私は死んだ。だからみんなも死んでください」って何なのだ。

また、何の役にも立たない精神科医(オダギリジョー)や、反対に吉岡の案内役になる作業船の男(加瀬亮)も、すべてが思わせぶりなだけとしか思えない。赤い服の女の描写も好きになれなかったし、彼女が登場する時に起きていた地震も何だったのだろう。

すべては私の勘違いなのかもしれないのだが、だからってもう1度観直す気分にもなれない。それに、ここまでわかりにくくすることもないと思うのだが。何だかどっと疲れてしまったのだな。

2006年 104分 ビスタサイズ 

監督・脚本:黒沢清 プロデューサー:一瀬隆重 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉、小谷靖、千葉龍平 撮影:芦澤明子 特殊効果:岸浦秀一 美術:安宅紀史 編集: 高橋信之 音楽:配島邦明 音楽プロデューサー:慶田次徳 主題歌:中村中『風になる』  VFXスーパーバイザー:浅野秀二 照明:市川徳充 特殊造型:松井祐一 録音:小松将人  助監督:片島章三

出演:役所広司(吉岡登)、小西真奈美(仁村春江)、葉月里緒菜(赤い服の女)、伊原剛志 (宮地徹)、オダギリジョー(精神科医・高木)、加瀬亮(作業船の船員)、平山広行(若い刑事・桜井)、奥貫薫(矢部美由紀)、中村育二(佐久間昇一)、野村宏伸(小野田誠二)

ハッピー フィート(日本語吹替版)

109シネマズ木場シアター6 ★☆

■タップで環境問題が解決するなら世話はない

皇帝ペンギンに1番必要な「心の歌」が歌えない音痴のマンブルだが、タップダンスなら生まれた時から天才的(卵も嘴でなく足で割って出てくる)。でも、この個性が災いして、学校も卒業させてもらえない。皇帝ペンギン界には、心の歌を歌えなければ大人になった時に最愛の人を見つけられないという常識があるのだ。

ママは理解してくれるし、幼なじみのグローリアも気にかけてはくれるのだが、なにしろ成長したのに外見も産毛のかたまり(ペンギンは見分けがつかないのと、小さい時の可愛さとのギャップでこのキャラクターなんだろか)で、あまりに皇帝ペンギンらしからぬマンブルには居場所がない。

ところが失意の中で知り合ったアデリー・ペンギンの5匹、アミーゴスの面々からは、「お前のすげーダンスを見たら女どもは寄ってくるぜ」とベタ褒めされる。イワトビペンギンのライブレイスという怪しげな愛の伝道師にも会って、マンブルはいろいろな世界を知り、自分にも次第に自信が持てるようになる。

しかし何故ヨチヨチ歩きのペンギンにタップダンスなんだろう。雰囲気は出ているが、ペンギンは足の動きがわかりずらいからね。タップはやはり不向きと思うのだが。

とはいえアニメの出来は素晴らしいもので、ここまでくると逆に細部までの描き込みすぎが心配になってくるほどだ。それに、普通は手を抜けるところなのにね。特にすごいのが、画面を埋め尽くしたペンギンの群れが歌って踊る場面だ。アニメのことはよくわからないが、この集団アニメは画期的なのではないか(一体何羽のペンギンがあの画面にはいたんだろう!)。

マンブルは皇帝ペンギンたちにも自分の特技を披露して、新しい楽しさをわかってもらいかける。が、頑固な長老たちはタップダンスを若者どもの反乱と受け入れようとしない。それどころか、秩序を乱すマンブルこそが最近の魚不足の原因と決めつけられて、誰も逆らえなくなってしまう。

ダンスと歌が満載の動物アニメには、個性の排除に立ち向かっての自分探しの旅は、無難なとこではあるのだが、それでは物足りないと考えたのだろうか、映画は思わぬ方向に突き進む。

魚が減った原因を調べると言って仲間の元を去ったマンブルは、エイリアン(人間)が魚を捕っていることを突きとめるが、結局人間に捕まって動物園に入れられてしまう。3日後に言葉を失ない3ヶ月後には心を失ったマンブルだったが、ある日タップを踊ったことが話題になって(「ショーに出したら金になる」という発言もあった)、生態調査のため発信器を付けられて南極へ戻ってくる。そして最後は何やら会議での議論の末「それでは禁漁区にする」宣言が飛び出す。

この流れはいい加減で、しかもあれよあれよという間だから、後になったら理屈がわからなくなっていた。人間だけでなく、皇帝ペンギンたちの反応もひどいんだもの。マンブルに魚を捕った犯人がわかったと報告されているのに、ヘリコプターでやってくる人間と一緒になって踊ってしまうのだから。しかも長老たちまで。誰か私にわかりやすく説明してくれないものか。

保守的だったパパが「(マンブルの個性は)もとは俺が卵を落としたせいだし、マンブルには1日だってパパらしいことをしてあげられなかった」と反省するくだりはいいのにね。「もう音楽がなってない」という表現には、さみしさがにじみ出ていた。

こういう部分をみると、ありきたりであってもはじめの路線でまとめておくべきだったと思わずにはいられない。人間と共存なんてことを言い出すから、食べられる魚の立場や、見せ場だったシャチやアザラシに襲われるシーンを、どう解釈すればいいのかわからなくなってしまうのである。

ところで人間たちは実写なのだろうか。それとも……。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 長編アニメ映画賞受賞

仕方ないのかもしれないが、出だしはドキュメンタリーの『皇帝ペンギン』そっくり。

ブラザー・トムの2役は、ロビン・ウイリアムスがそうしてることに合わせている(だから?)。

挿入歌は吹き替えされずそのまま流れていて(だからここは字幕)、最後にNEWSの『星をめざして』がイメージソングとしてついていた(これは字幕版も?)。

原題:Happy Feet

2006年 109分 シネスコサイズ アメリカ 

監督:ジョージ・ミラー 共同監督:ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 製作: ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、ビル・ミラー 製作総指揮:ザレー・ナルバンディアン、グレアム・バーク、デイナ・ゴールドバーグ、ブルース・バーマン 脚本:ジョージ・ミラー、ジョン・コリー、ジュディ・モリス、ウォーレン・コールマン 振付:セイヴィオン・グローヴァー(マンブル)、ケリー・アビー 音楽:ジョン・パウエル アニメーションディレクター:ダニエル・ジャネット
 
声の出演(日本語吹替版):手越祐也(マンブル)、ブラザー・トム(ラモン、ラブレイスの2役)、 園崎未恵(グローリア)、てらそままさき(メンフィス/パパ)、冬馬由美(ノーマ・ジーン/ママ)、水野龍司(長老ノア)、石井隆夫(アルファ・スクーア/トウゾクカモメ)、真山亜子(ミセス・アストラカン)、 さとうあい(ミス・バイオラ)、稲葉実(ネスター)、多田野曜平(ロンバルド)、小森創介 (リナルド)、高木渉(ラウル)、加藤清史郎(ベイビー・マンブル)

天国は待ってくれる

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★☆

■聖なる三角形は正三角形にあらず

宏樹が築地北小学校に転校してきた日から、薫と武志の3人は大の仲良しになった。それは成人しても変わらず、今では宏樹(井ノ原快彦)は父親の夢だった新聞記者になって朝日新聞社に勤め、武志(清木場俊介)は親(蟹江敬三)と一緒に築地市場で働く。そして薫(岡本綾)は「聖なる三角形」になるようにと「銀座のお姉さん」として和文具の老舗鳩居堂の店員になっていた。

「聖なる三角形」というのは、自分たちのことをいつまでも変わらない関係を指して彼らが小学生の時から言っていた言葉だ。だけど、といきなり脱線してしまうのだが、朝日新聞社と築地市場と鳩居堂では三角形には違いない(3点を結べばたいていは三角形になるものね)が、これだと薫の位置は2人からは遠くなり、そして薫からだと武志より宏樹の方が近い位置になってしまうのである(築地市場は広いのでブレはあるが、それにしても本願寺あたりでないとまずいだろう)。

映画はこの三角形のゆがみそのままに展開する。至近距離で働く3人だが、といって子供時代のようにそうは会えるわけではない。特に武志は働く時間帯が2人とはあまりに違いすぎて、久しぶりに3人で出かけても居眠りしてしまう始末。それでかどうか、ある日宏樹と薫を呼び出しておいて、3人の時に言いたかったと前置きし、薫にプロポーズをする。この場面は「宏樹、俺、今から薫にプロポーズする、いいか」というようになっている。つまり、武志は宏樹に向かって薫にプロポーズするというわけだ。

武志より宏樹がより好きな(より近くにいるからね)薫はあわてて「ちょっと武志なに言ってんの」とごまかそうとするが、優しい宏樹は「いいじゃん、それがいいよ、おまえらお似合いだし、な薫」と答えてしまい、つられたように薫までが「そ、そうだね」と言ってしまうのだ。いや、ちょちょっと待ってくれと当事者でなくとも口を挟みたく場面なのだが、武志は1人で舞い上がって冬の海(まだ川か)に飛び込んでしまう。え、これでごまかそうってか。

結局このまま結婚へと進んでいくのだが、なんと式の当日に武志は車の事故で植物人間となってしまう。武志の入院先は聖路加なのだろう(多分)、つまり武志が築地市場から移動することで、三角形は以前に比べより正三角形に修正されるのである。武志に意識は戻らないながら、2人は毎日のように病室に顔を出し、3人の親密な時間が帰ってくる。これには宏樹が記者から内勤の仕事に代わって、武志との時間を作るようにした(しつこいが、眠ってるだけなんだよな)ということもあるのだが、私にはすっきりしない展開だ。しかも「武志は絶対目を覚ますから」と何度も言う。気持ちはわからなくはないが、このセリフは全てを台無しにしている。

昏睡状態は3年経っても変わらず、実は周囲も宏樹と薫が相思相愛だということに気付いていたことから、宏樹も薫と一緒になることを決意する。でもこれもヘンなセリフなのだな。「俺に薫を幸せにさせてくれないか。武志の目覚めるまででいいから」って、こんなのありかよ。で、そんな馬鹿なことを言うものだから、武志は本当に目覚めてしまうのだ。おいおい。

記憶は完全ではないものの元気そうに見えた武志だが、病気が再発し……。そしてまた宏樹と薫を呼び、今度はこんなことを言う。「宏樹、薫を不幸にしたら承知しねえぞ。薫、おまえはずっと宏樹に惚れてたんだ。好きな女のことはわかるんだ」と。だったら何故プロポーズなんかしたんでしょうかねー。自分がもう永くはないということを知ってだとしたら、それもちょっとね。

こうして2人の結婚式が見たいという武志の要望で、式がとりおこなわれ、武志は天国に帰って?いく。俺と薫のために天国から戻ってきてくれたというようなことを宏樹が言っていたからそうなのだろうけど、なんだかな。『天国は待ってくれる』ってそういうことなのかよ。でも、そう言われてもよくわからんぞ。

丁寧すぎるくらいのショットの積み重ねで、ゆっくりと時間がすぎていく感じが、最初のうちは好感がもてたのだが、話があまりにもいい加減だから、途中からは退屈してしまう(築地市場の映像がそれこそ何度も繰り返されるが、これは市場の移転が決まっているからなのだろう)。

3人を囲む家族たちが、薫の母親(いしだあゆみ)や武志の妹の美奈子(戸田恵梨香)など、みな温かくていい人というのも気持ちが悪い。そのくせ病室をサロンと化してしまうような勘違い精神は持ち合わせていて、酒宴まで開いて医師(石黒賢)に酒まですすめる始末。この医師も武志が「戻って来たのは自分の意志ではないか」などと、言うことは(自覚しているのだが)まるで呪術師並ときている。

やだね、悪口ばっか書いて。でもそもそも、三角形の位置関係についてこじつけてあれこれ書いたのも、この作品がひどいからなんでした(私が多少あの近辺には詳しいということもあるのだけれど)。

  

2007年 105分 サイズ■ 

監督:土岐善將 製作:宇野康秀、松本輝起、気賀純夫 プロデューサー:森谷晁育、杉浦敬、熊谷浩二、五郎丸弘二 エグゼクティブプロデューサー:高野力、鈴木尚、緒方基男 企画:小滝祥平、遠谷信幸 製作エグゼクティブ:依田巽 原作:岡田惠和『天国は待ってくれる』 脚本:岡田惠和 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:奥原好幸 音楽:野澤孝智 主題歌:井ノ原快彦『春を待とう』、清木場俊介『天国は待ってくれる』 照明:赤津淳一 録音:小野寺修 助監督:田村浩太朗

出演:井ノ原快彦(宏樹)、岡本綾(薫)、清木場俊介(武志)、石黒賢(医師)、戸田恵梨香(美奈子/武志の妹)、蟹江敬三(武志の父)、いしだあゆみ(薫の母)、中村育ニ、佐々木勝彦

筆子・その愛-天使のピアノ

テアトル新宿 ★☆

■石井筆子入門映画

男爵渡邉清(加藤剛)の長女として育った筆子(常盤貴子)は、ヨーロッパ留学の経験もあり、鹿鳴館の華といわれるような充足した青春を過ごす。教育者として女性の地位向上に力を注ぐが、男どもは今の国に必要なのは軍隊といって憚らない富国強兵の時代だった。

高級官吏小鹿島果(細見大輔)と結婚し子を授かるが、さち子は知的障害者だった(子供は3人だが、2人は虚弱でまもなく死んだという)。「たとえ白痴だとしても恥と思わない」と言ってくれるような夫の果だったが35歳で亡くなってしまう。

石井亮一(市川笑也)が主宰していた滝乃川学園にさち子を預けたことで、次第に彼の人格に惹かれるようになり、周囲の反対を押し切って再婚。ここから2人3脚の知的障害者事業がはじまることになる。

石井筆子を知る入門映画として観るのであれば、これでもいいのかもしれない(詳しくないのでどこまでが事実なのかはわからない)が、映画としてははなはだ面白くないデキである。筆子を生涯に渡って支えることになる渡邉家の使用人サト(渡辺梓)や、後に改心する人買いの男(小倉一郎)などを配したり、石井亮一との結婚騒動(古い考えの父親とサトとの対決も)などでアクセントをつけてはいるが、所詮網羅的で、年譜を追っているだけという印象だ。

辛口になるが、常盤貴子の演技も冴えない。面白くないことがあると(この時は亮一と衝突して)鰹節を削ってストレスを発散させるのだが、この場面くらいしか見せ場がなかった。ついでながら、ヘタなズームの目立つ撮影も平凡だ。

副題の天使のピアノにしても、最初と最後には出てくるが、劇中では筆子の結婚祝いという説明があるだけで、特別な挿話が用意されているわけではないので意味不明になっている。

当時の知的障害者に対する一般認識は、隔離するか放置するかで、縛られたり座敷牢に入れられて一生を過ごすということも普通だったようだ。映画でもそのことに触れていて、さらに「一家のやっかいものだが、女は年が経てば……」と踏み込んでみせるが、それもそこまで。実際の知的障害者の出演もあるが、その扱いも中途半端な気がしてしまうのは、考え過ぎか。

亮一の死後(1937年没)、高齢ながら学園長になった筆子だが、1944年に82歳で没するまで、晩年は何かと不遇の時期を過ごしたようだ。戦時下では、戦地に行き英霊になって帰ってきた園児もいたし、そのくせ「知恵遅れには配給は回せない」と圧力がかかり何人もの餓死者が出たというのだが、1番描いてほしかったこの部分が駆け足だったのは残念でならない。

【メモ】

石井筆子(1865年5月10日~1944年1月24日)。

真杉章文『天使のピアノ 石井筆子の生涯』(2000年ISBN:4-944237-02-2)という書籍があるが、原作ではないらしい。

何故か同じ2006年に『無名(むみょう)の人 石井筆子の生涯』(監督:宮崎信恵)という映画も作られている。こちらはドキュメンタリーのようだ(プロデューサー:山崎定人、撮影:上村四四六、音楽:十河陽一、朗読:吉永小百合、ナレーション:神山繁、出演:酒井万里子、オフィシャル・サイトhttp://www.peace-create.bz-office.net/mumyo_index.htm)。

2006年 119分 ビスタサイズ

監督・製作総指揮:山田火砂子 プロデューサー:井上真紀子、国枝秀美 脚本:高田宏治 撮影:伊藤嘉宏 美術監督:木村威夫 編集:岩谷和行 音楽:渡辺俊幸 照明:渡辺雄二 題字:小倉一郎 録音:沼田和夫 特別協力:社会福祉法人 滝乃川学園

出演:常盤貴子(石井筆子)、市川笑也(石井亮一)、加藤剛(渡邉清)、渡辺梓(藤間サト)、細見大輔(小鹿島果)、星奈優里、凛華せら、アーサー・ホーランド、平泉成、小倉一郎、磯村みどり、堀内正美、有薗芳記、山田隆夫、石濱朗、絵沢萠子、頭師佳孝、鳩笛真希、相生千恵子、高村尚枝、谷田歩、大島明美、田島寧子、石井めぐみ、和泉ちぬ、南原健朗、本間健太郎、板倉光隆、真柄佳奈子、須貝真己子、小林美幸、星和利、草薙仁、山崎之也、市原悦子(ナレーション)

ハミングライフ

テアトル新宿 ★☆

■習作メルヘン

洋服を作る仕事につくのだと上京したものの、面接に落ち続けてばかりの22歳の桜木藍(西山茉希)は、背にメロンパンはかえられぬ(蛙の置物にひかれて、か)と、通りすがりの雑貨屋でアルバイトをはじめることになった。そんなある日、雑貨屋の近くの公園で藍は、粗大ゴミと犬の餌の皿と、その持ち主?の野良犬(っぽくない)を、そして樹のうろには宝箱を見つける。中には可愛い犬の絵にHollow. What a beautiful would.と書かれたメッセージ。楽しくなった藍が返事を書くと……。

手紙は託児所グーチョキで働く小川智宏(井上芳雄)が書いたもので、いつもひとり託児所に残っているのは、仕事で帰りが遅いくせに子供に当たり散らす母親がいるせいなのか。だからって藍と智宏がまるっきりすれ違いってことはないはずなのに、ふたりは文通だけで名乗り合い、親交を深めていく。

樹のうろを通しての文通なんて大昔の少女漫画にもあったよなー。でも都会の公園の、そんな見つけやすい場所でさあ。オーナーの結婚話で雑貨屋が閉店になってしまうのに会わせたように、粗大ゴミの撤去があって、ドドンパ(ふたりが犬に付けた名前。ひでー)と宝箱も消えてしまう。ドドンパは保健所が捕獲してしまいそう(だから、犬だとまずくないか)だけど、宝箱が一緒になくなってしまうというのはどういうことなのだ。

ということで、お会いしませんかと書いた藍に、さっそくだけど明日の夕方6時に、という智宏の返事は、彼の一方的な約束となってしまう。すっかり綺麗になってしまった公園を前に、文通ができなくなって落ち込む藍だが、服が完成したらぜひ見たいという智宏の言葉を思い出して服作りに励む。雑貨屋では先輩だった後藤理絵子(佐伯日菜子)が訪ねてきて(恋も終わった、友達もいないと言ってた藍だったのにね)、服ができたらそれを持って就職先をあたれば、とうれしいアドバイスをしてくれる。

完成した服を着て藍が街に出ると、ドドンパという共通記号によって智宏と出会う、というのが最後の場面だ。

どこまでもほんわかメルヘン仕立て。別にそれが悪いというのではないが、どれも奥行きがない。そしてそれ以前に、細かいことを書いても仕方ないと思ってしまうくらい、すべてがまだ習作という範囲を出ていない。演技の点でも、西山茉希だけでなく、もうベテランのはずの佐伯日菜子までがヘタクソなのには閉口した。

ただ、文通の中で語られる智宏が作ったお話しは素敵だ。必要がなくなったからとギターを売りにやってきた青年に、質屋が曲を所望し、青年がそれで歌を歌うと、このギターを買えるほどのお金はない、という話はまあ普通(演出は最悪)だが、大きな木の下に残された青年の話はいい。

この青年は、実は前に木の下にずっといた少年に代わってあげたのだった。この子の存在はみんな知っていたのだけど、声をかける人はいなくて、青年はそのこと(無視していたこと)を気にしていた。少年は「ボクに話しかける人を待っていたんです」と言って、青年を残して行ってしまう。でも青年は代わってあげられたことがうれしくて仕方がない。大きな木だから雨が降っても大丈夫だし、おいしい実もなるし……というだけの話なのだけどね。

智宏は自分でお話しを作ったことに勇気づけられるように、子供を叱ってばかりの母親に「少しでいいんです。やさしくあげてほしいんです」と言うのだが、現実部分になるとしっくりこない。「この世界には様々な営みがあって……自分だけが気付く小さな小さな営み」に藍は惹かれているのだけど、だったら映画もそこにこだわって欲しかった。

2006年 65分 シネスコ

監督・編集:窪田崇 原作:中村航『ハミングライフ』 脚本:窪田崇、村田亮 撮影:黒石信淵 音楽:河野丈洋 照明:丸山和志
 
出演:西山茉希(桜木藍)、井上芳雄(小川智宏)、佐伯日菜子(後藤理絵子)、辛島美登里
(雑貨屋のオーナー)、石原聡(大きな木に残された青年)、坂井竜二(ギター弾きの男)、 里見瑶子、長曽我部蓉子、マメ山田、諏訪太朗(質屋)、秀島史香(声のみ)

旅の贈りもの-0:00発

シネセゾン渋谷 ★☆

■あの頃町に若者がいないのは

大阪駅を午前0:00に出発する行き先不明の列車。これに乗り込んだ何かしらの問題を抱えた人たちが、山陰の小さな漁村の風町駅に着き、そこの風景や住人と接するうちに、次第に元気をもらい生きる希望を見つけるという話。

乗客は、年下の恋人に浮気されたキャリアウーマンの由香(櫻井淳子)、自殺願望の女子高生華子(多岐川華子)、リストラを妻に言い出せず、居場所を失った会社員の若林(大平シロー)など。一応各種用意しましたという感じにはなっているが、ここから先の工夫がない。

架空の風町は「あの頃町」と言われているように、都会人が無くしてしまった温かさの残る町という設定。レトロな映画館などがある懐かしい町並みの中に、お節介でやさしい人たちが楽しそうに暮らしている。ファンタジーにふさわしい理想の町といいたいところだが、風町には若者の姿がひとりも見えないのは何故か。

風町は、若者が逃げ出してしまった町なのではないか。そんな意地悪な疑問が浮かんだ。自分たちの問題も解決できていないのに、旅人にあれこれお節介をやいていていいのだろうかと。青年医師ちょんちょ先生(徳永英明)の存在で、このことはしばらく気付かずに観ていたのだが、実は彼も都会から流れてきたよそ者で「ぼくだって君たちと同じ旅人だよ。まだ旅の途中」なのだと言っていた。

それに子供もいない。だから祖父に預けられている翔太少年は友達もいなくて、華子を追い回した(直接の理由は逆上がりを教えて欲しくてだが)のか。

この、逆上がりができるようになったら翔太のパパが帰ってくるという話は、何のひねりもないひどいものだ。若林の自殺場面はヘタクソでかったるいし、最後にまた車掌が登場してきて「皆様、大切なものは見つかりましたでしょうか」というくくりにもうんざりした。

鉄道ファン向け映画という側面も意識して作っているのだと思っていたが、「鉄ちゃん」は途中で姿を消してしまってと(帰っただけだが)、これも制作側が持て余してしまったのだろうか。

 

【メモ】

EF58-150(イゴマル)の牽引するミステリートレイン。「行き先は不明です。お帰りは1ヶ月以内にお好きな列車で」。列車は何故か1駅(玉造温泉)だけ止まる。料金は9800円。

「何か大切なものを見つける旅になりますように」と車掌の挨拶がある。

風町で降りたのは20人くらいか。

「乙女座」という映画館がある。風町は海辺などのインフラが整っていて、それも内容に合わないような。

華子は若林に、決心したら一緒に死のうというメールを送る。葉子はネットで自殺者の募集を知り、同行するはずだったが約束の時間に遅れてしまう。

タレントになりたくて、そのあげくがイメクラ嬢のセーラちゃん。

2006年 109分 ビスタサイズ

監督:原田昌樹 原案:竹山昌利 脚本:篠原高志 撮影:佐々木原保志 編集:石島一秀 音楽:浅倉大介 主題歌:中森明菜『いい日旅立ち』 照明:安河内央之 挿入歌:徳永英明『Happiness』
 
出演:櫻井淳子(由香)、多岐川華子(華子)、徳永英明(越智太一/ちょんちょ先生)、大平シロー(若林)、大滝秀治(真鍋善作・元郵便局長)、黒坂真美(ミチル)、樫山文枝(本城多恵)、梅津栄(本城喜助)、石丸謙二郎(車掌)、石坂ミキ、小倉智昭、細川俊之(網干)、正司歌江(浜川裕子・翔太の祖母)

待合室-Notebook of Life-

銀座テアトルシネマ ★☆

■生きていればいいことがある?

朝日新聞に載った記事を元にして作った映画らしいが、記事の記憶はまったくない。興味のあるものでもどんどん忘れていくから、この手の話はまず覚えていない。いわゆるいい話というやつである。新聞にも多分そういう趣旨で載ったと思われる。

東北の小繋(こつなぎ)という無人駅の待合室に置かれたノートに、旅人や近所の人が雑感や悩みなど書き残こしていて、こういうノートはよく見かけるが記事になったのは、駅前にある売店の女主人が、それに丁寧に返事を書いていたということにあるようだ。そのノートには「命のノート」という名前が付けられていて、もうそれだけで私には重苦しいのだが、これはそのノートを始めに置いていった人の命名らしい。

女主人の「おばちゃん」役が富司純子で、彼女が40年前に遠野から小繋に嫁いできた若い時を寺島しのぶが演じている。娘時代をもってきたのは映画としての骨格が足らなかったかったのと、母娘初共演という話題性狙いだろう。もっとも実の親子ながらふたりは、顔立ちも演技の質もあまり似ていないから、別に同じ人物でなくてもよかったような気がする。タイムマシンものではないのだから、母と娘は正確には共演しないのだし。

おばちゃんの現在(老いた母親の話も)と過去に混じるように、ノートに死をほのめかして去る妻と娘を失った男、おばちゃんを取材に来たフリーの女性ライター、同じ町の「鞍馬天狗」と名乗る女房を大切にしてやれなかったという男の挿話などが語られる。どれも心温まる話なのだろうが、全体として突き抜けるようなものはひとつもない。まあ、そういう映画ではないのだが。

唯一批判的なのが若い晶子(あきこ)で、彼女の「生きていればいいことがあるってホントなの」という問いかけはあまりに当然で、ひねくれ者としては少女のこの批判に肩入れしたくなる。もちろんこれはあとに用意されている、晶子と死をほのめかしていた旅人の会話で打ち消されるのだが、説明調ではあるし、こういう問題には答えなど無いから歯切れは悪い。

おばちゃんにしても昔幼い娘を失い、実直な旦那には先立たれるという悲しい過去の出来事に、現在は年老いた遠野にいる母が気がかりで、自身は不自由な足を庇いながら仕事をする毎日、と書き並べれば暗い部分ばかりが目につく。映画が浮ついていないからだろうが、観ていてもっと単純に暖かくなるような話にしてほしくなってしまったのである。

 

【メモ】

ホームページには、「フランスのトムソン社製のフィルムストリームカメラ『VIPER』によってHD非圧縮フルデジタルシネマとして完成。最先端のデジタルシネマ技術は驚くべき映像美を可能にしている」とある。言われてみないとわかならないのね。そんなに目の覚めるような美しさだったかしらん。

いわて銀河鉄道 

昭和39年春 夫は元教師、おばちゃんは看護婦だった

2005年 107分 サイズ■

監督・脚本:板倉真琴 撮影:丸池納 美術:鈴木昭男 音楽:荻野清子 主題歌:綾戸智絵『Notebook of Life』  照明:赤津淳一  録音:長島慎介
 
出演:富司純子(夏井和代)、寺島しのぶ(夏井和代)、ダンカン(夏井志郎)、あき竹城(山本澄江)、斉藤洋介(山本康夫)、市川実和子(堀江由香)、利重剛(塚本浩一)、楯真由子(木本晶子)、桜井センリ(小堀善一郎)、風見章子(浅沼ノブ)、仁科貴(梶野謙造)

雨音にきみを想う

新宿武蔵野館3 ★☆

■チョッカンはそんなにいいヤツだろうか

ウィンイン(フィオナ・シッ)は、同居の兄フェン(チャン・コッキョン)が全身麻痺で、彼の介護だけでなく姪のシウヤウ(チャン・チンユー)の世話をしながら縫製の仕事をしている。その仕事もミスを咎められ(美人なんだから外で働けばと嫌味まで言われ)賃金を下げられてしまう。そして自身も兄と同じ遺伝性の病気(動脈炎。体温低下で血管が収縮してしまう)にいつならないとも限らないという、まさに悲劇のヒロイン。眉間の皺が痛々しい。

チョッカン(ディラン・クォ)は路地で迷子になったシウヤウと出会い、少女を家に送り届けたことで、そんなウィンインと知り合うことになる。フェンはチョッカンに何かを感じたのか、彼が帰ったあとウィンインに「明日お茶を買ってこい」と言う。そしてチョッカンは数日後、フェンに職場にあったからと電動車椅子を持ってやってくる。

実はチョッカンの家は金持ちなのだが、家族の愛情を知らずに育ち、今では絶縁状態らしい。ウィンインたちの家族愛、もっといえばシウヤウに対するウィンインに、母親の愛をみて惹かれたのかも知れない。

そんなチョッカンだが、一匹狼と言えば聞こえはいいが、ヤクザのフー兄貴(サミュエル・パン)から目を付けられるほど腕のいい泥棒でしかない。当然ウィンインに身を明かすことなどできるわけもなく(表向きはバイクショップを経営)、しかしあっけなくバレてしまうと、こうやって生きてきたのだから今さら無理と、平然としたものなのだ。

しかもそのバレ方からして、ウィンインがちょっと見ていたクマのぬいぐるみを盗んできてしまうような、罪悪感のかけらもない程度の低いものなのだ。このあと少しして、ふたりのキスシーンになるのだが、ウィンインの「頼っていいのか迷う」理由が、チョッカンが真っ当でないことではなくて、「もしあなたに何かあったら」と、すでにチョッカンを好きになってしまっているのでは、恋の当事者にとっては障害でも何でもないのかもしれないが、観ている方としてはついていけなくなる。

チョッカンは盗みが生業ながら優しい男という位置づけなのだろうが、それにしては夜中に物音を立てる(ウィンインの家の2階を借りて倉庫にする)し、電気はつけっぱなしで、ウィンインの評価だってそう高くはなかったはずなのだ……。いや、これは違うか。もうこの時点ではウィンインはチョッカンのことが気になって仕方がなかったのだろう。

物語は、逃げた妻にもどる気持ちがないことを知ったフェンの自殺(これはちょっとあんまりだ)という、さらに悲劇的な状況をはさんだあと、チョッカンとヤクザの対決へと進む。ウィンインもそれに巻き込まれ、冷たい雨にも打たれてしまう。が、彼女には最後になってある贈り物が……。でもこれだってね、最初のクマのぬいぐるみと本質的には何も変わっていないではないかと。ま、彼女の涙はそのことを含めてなのかもしれないのだけどさ。

【メモ】

動脈炎という言葉もあったが、体温低下で血管が収縮してしまうという設定だ。

舞台は香港だが、ウィンインたちは広州出で、チョッカンは台湾出身という設定。ウィンインはフェン(発病前はバイオリニストだった)に広州に帰ろうと言うが、逃げた女房から金を取り戻してからでないと帰れないとフェンは答えていた。

原題:摯愛
英題:Embrace Your Shadow

2005年 102分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:鈴木真理子

監督・脚本:ジョー・マ
 
出演:ディラン・クォ(チョッカン)、フィオナ・シッ(ウィンイン)、チャン・コッキョン[張國強](フェン)、チャン・チンユー[張清宇](シウヤウ)、サミュエル・パン(フー)

華魁

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■思いつくままといった筋。喜劇として観るにも無理がある

明治中期の長崎の遊廓が舞台だからか、客には外人の顔も見える。華魁の揚羽太夫(親王塚貴子)は、絵草紙売りの喜助(真柴さとし)といい仲で、八兵衛(殿山泰司)のような客にはつれない。まー殿山泰司だからねー、って失礼だ。でも久しぶりに観たけれど、この人は何をやっても三文役者。芝居しているように見えないのだな。他の出演者も揃ってひどいんだけどねー。

この遊郭に彫物師の清吉(伊藤高)という男が、究極の肌を求めて流れて来る。美代野(夕崎碧)の背中に惚れ込んだ清吉は、美代野にクロロホルムをかがせると店には居続けだと言って3日間も籠もりっきりになり、全身に蜘蛛の刺青をしてしまう。

知らぬ間に刺青を彫られた美代野だが「これがあたしの背中かい、なんて綺麗な」と、怒るでもない。「色あげ」と称して湯殿に連れて行かれ湯をかけられ、痛みにのたうちまわるが、苦しみを忘れたいから抱いてくれなどと言う。

一方の清吉は、湯殿で菖蒲太夫の肌を見るや、俺がほんとに求めていたのはこの肌なんだと、もう心変わり。理想の肌が見つからなくて長崎まで来たはずなのに、これでは手当たり次第ではないか。もちろん脚本がいい加減なのだが、思いつきで話をつくっていったとしか思えない展開なのだ。

美代野は刺青が評判となり地獄太夫として売り出すが、北斎の絵草紙で捕まりそうになった喜助は、菖蒲太夫とアメリカに逃亡する計画を立てる。が、密航の段階で現れた清吉に喜助は殺され、菖蒲太夫も膝に怪我をする。そのまま貨物船に乗せられる菖蒲太夫だが、行き先はアメリカではなく横浜で、アメリカ人の船員にチャブ屋に売り飛ばされそうになる。が、膝の傷に喜助の顔が現れると、船員は悪魔だと叫んで逃げ出してしまう。

どこに行っても体を売るしかないと最初からあきらめているのか、膝の喜助に「いつもお前と一緒だとみんな逃げてしまうだろ。どうやって生きていけるだろ。姿を消して」「私の体は切り売りしても人の女房にはなりません」とたのんで消えてもらう。

客のひとり、ニューヨークの富豪の息子ジョージ・モーガン(アレン・ケラー)は菖蒲太夫に一目惚れし、結婚を迫る。逡巡していた菖蒲太夫だが、結局は結婚を承諾する。が、「この瞬間から私はあなたの妻」と菖蒲太夫が言った(誓いを破った)ことで、今度は彼女のカントに喜助が現れる。それがジョージのペニスに噛みついたことから、神父を呼んでの悪魔払いの儀式となる。

役に立たないと神父には、呼んでおきながら異教徒だからダメと言い、喜助には「私はあなたを愛しています。あなたが魔性になって、私が死んでそっちへ行くまであの世で待っていてください」と言いきかせる菖蒲太夫。

これで、また消えてしまう喜助もどうかと思うのだが、とにかく筋はあってなきがごとし。性描写が適当に散りばめられれば、何でもよかったとしか思えない。その性描写もハードコア大作とはいうものの、えらく退屈だ。郭の場面で5組の部屋を順番に覗いてみせたり、巻末にも浮世絵にそった場面を用意したりしているが、なにしろ主演の親王塚貴子の大根ぶりが度を超していて、よくこれで商売になったものだと呆れるばかりだから、とてもそんな気分になれない。

武智鉄二は武智歌舞伎(知らん)でも名を売っていたから、背景としてはぴったりだったのだろうが、だからといってそれが活かされていたとは到底思えない。武智らしさがあったとすれば、ジョージをはじめて遊郭に連れてきた友人のエドに「心配するな、治外法権だから何をしても罪にならない」というセリフを言わせていることくらいだろうか。

公開20年後だから笑っていられるが、新作でこれを観せられたら腹が立ったと思う。

 

【メモ】

彫物師の清吉役の伊藤高は伊藤雄之助の息子とか。しかし彼もヘタだ。

揚羽太夫に「客は傷ついた心の傷を菩薩の私に求めてくる」と言い聞かせられて、「今から菖蒲は生まれ変わります。増長していました」と反省する場面がある。

遺手のお辰(桜むつ子)が「えーお披露目でござい。あんたーじごくだえはー。えーお披露目でござい」と口上?を述べながら先導していく。「じごくだえはー」と聞こえるが地獄太夫と言っているのだろう。

密航場面では荷物の中での放尿シーン(これは観客サービスのつもり?)があり、またそれをあたまからかぶってしまうところも。

このあと喜助の人面疽が現れる。この合成画像も20年前とはいえ、えらく雑なもので、喜助は額を真っ二つに割られた顔になっている。この時は菖蒲太夫も「あたしを見捨てないでアメリカまでついてきてくれたのかい。もうずーっと一緒だものね」と喜んでいたのだが。

1983年 103分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 原作:谷崎潤一郎  撮影:高田昭 美術:長倉稠 編集:内田純子 音楽:宮下伸 助監督:荒井俊昭 主題歌:徳原みつる
 
出演:親王塚貴子(菖蒲太夫)、夕崎碧(美代野/地獄太夫)、明日香浄子(山吹)、宮原昭子(千代春)、真柴さとし(喜助)、川口小枝(揚羽太夫)、伊藤高(清吉)、梓こずえ(鳴門)、アレン・ケラー(ジョージ)、桜むつ子(お辰)、殿山泰司(八兵衛)

浮世絵残酷物語

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている

浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。

一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。

帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。

この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。

最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。

例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。

どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。

もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。

長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。

そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。

「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。

肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。

【メモ】

兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。

お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。

一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。

賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。

最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。

1968年 84分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
 
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)

日本以外全部沈没

シネセゾン渋谷 ★☆

■思いつきで、映画も沈没

言わずもがな『日本沈没』のパロディ映画。なの? 筒井康隆の『日本以外全部沈没』は小松左京の『日本沈没』のパロディだが、この映画『日本以外全部沈没』は、筒井康隆作品の映画化ではあるけれど、2度目の映画化である東宝の『日本沈没』(2006)のパロディかというと断じてそうではなく、ようするに便乗映画のたぐい。

2011年にアメリカ大陸が1週間で沈んだあと、中国大陸、ユーラシア……と日本以外の国が次々と沈んでいった。3年後、「クラブ・ミルト」には、各国の首脳が集まり日本の安泉首相(村野武範)におべっかをつかっていた……。いやー、やっぱり威張っちゃうんだろうね、日本人。うはは。

グラミー賞歌手が落ちぶれてそこで歌っている場面に思わず笑ってしまったが、この好調な出だしは全部原作のアイデアだった。あわてて読んだ原作は、舞台もこのクラブに限定された話(全集だと11ページの短篇)で、映画はそこで話される会話を膨らませてクラブ以外の場面も用意しているのだが、ところがそれがまったく腑抜けたもの。

たとえば日本は、外国からの難民で溢れているはずなのに(原作だと人口が5億になっているし、クラブさえ満員でトム・ジョーンズは入場を断られているのだ)、映し出される光景はどれもが人影がまばらだから、説得力がまるでない。予算がないのはわかるが、見せ方があまりにもヘタクソでいやになる。挿入されるCG(というよりアニメか)にしても合成がひどいとかいう問題ではなく、アイデア自体が幼稚なのだ。

これが大学の映研作品というなら拍手喝采してしまうところだが、TV版の『日本沈没』と1973年の映画版で主演した村野武範と藤岡弘まで引っ張り出してきているのだから文句もつけたくなる。

意外にも原作に登場しない日本の首相が「ニッポン音頭」にのって終始にこやかなのは当然。田所博士(寺田農)の学説発表がそれらしい舞台なのは奮発。イスラエルのシャザール大統領のアラブ相手の乱入が、金正日率いる武装ゲリラになっているのは順当。脅かしにも動ぜずGAT(超法規的措置で生まれた外国人アタックチーム)長官(藤岡弘)の自爆で国会議事堂が吹っ飛ぶのはチャチ。停電のローソクの明かりが「世界が沈むそのちょっと前にはじめて平和が訪れる瞬間だった」かどうかは疑問。それより何でこんなところにウクライナ民話『てぶくろ』が出てくるんだ、ってもうどうでもいい気分。以上、書いてる私もかなりの手抜きだ。

それにしても原作だと、ニクソン、毛沢東、周恩来、蒋介石、朴正熙、シナトラ、エリザベス・テイラー、オードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、アラン・ドロン、カポーティ、メイラー、ボーボワール、リヒテルにケンプといった錚々たるメンバー。そっくりさん俳優がシュワルツネッガーやウィリスあたりしか見つからなかったというより、今の時代には絶対的な存在感のある政治家や俳優がいないということなのかも。

 

【メモ】

URLにある画像は、尖閣諸島、竹島、北方領土をわざわざ表示しているが、これも多分思いつきの範囲だろう。ま、それでいいのかもしれないが。

付け加えられてドラマ部分は、おれ(小橋賢児)のアメリカ人妻とオスカー俳優との恋。あと、おれの親友古賀の家庭風景など。

怪獣やヒーローが外国人エキストラを踏みつぶす『電エース』が人気を博す。この映像もあるが、ひどい。

2006年 98分 ヴィスタサイズ

監督・脚本:河崎実 原典:小松左京 原作:筒井康隆 監修:実相寺昭雄 脚本:右田昌万、河崎実 撮影監督:須賀隆 音楽:石井雅子 特撮監督:佛田洋

出演:小橋賢児(おれ)、柏原収史(古賀)、松尾政寿(後藤)、土肥美緒(古賀の妻)、ブレイク・クロフォード(ジェリー・クルージング/オスカー俳優)、キラ・ライチェブスカヤ(エリザベス・クリフト/人気女優、ジェリーの妻)、デルチャ・ミハエラ・ガブリエラ(キャサリン/おれの妻)、寺田農(田所博士)、村野武範(安泉首相)、藤岡弘(石山防衛庁長官)、イジリー岡田、つぶやきシロー(大家)、ジーコ内山(某国の独裁者)、松尾貴史(外人予報士・森田良純)、デーブ・スペクター(本人/日本語学校経営者)、筒井康隆(特別出演)、黒田アーサー、中田博久

ラフ ROUGH

テアトルダイヤ ★☆

■原作と比べたくはないが、ラフすぎる

家の和菓子屋が祖父の代からの商売敵という、大和圭介(速水もこみち)と二ノ宮亜美(長澤まさみ)の因縁の2人が、スポーツ特待生として栄泉高校の上鷺寮で出会うことになる。圭介は競泳、亜美は高飛び込みの選手。同じ寮とプールで毎日のように顔を合わせる中、反目から気になる存在へ。が、圭介には家の問題よりもずっと手強い仲西弘樹(阿部力)という相手が立ちふさがっていた。日本記録保持者で、昔から圭介のあこがれだった仲西は、亜美がおにいちゃんと慕う婚約者でもあったのだ。

『タッチ』に続くあだち充原作の映画化。話は単純だが、単行本で12巻となると、エピソードも多く、まとめるのはやはり大変だったのだろう。2人が実は幼なじみだった、という鍵を握るじいさんを脚本は抹殺している。それはともかく、2人の過去をペンダントにまつわる話だけで説明しているのは唐突で、映画だけという人にはわかりにくそうだ。

という感じでかたっぱしから原作と比較してしまうが、まあ仕方ない。でも『タッチ』もそうだったが、切り詰めながら寮長(渡辺えり子)の話などは増やしているし、伝統ある上鷺寮のデートも、原作にはあっても、ふくらませたもの。「歌謡喫茶チロルでまったり」(今時ないだろ)や次の映画館も閉館で、これはエンドロールの映像だから本編には関係ないにしてもその映画館には『海の若大将』のポスターが貼ってあったりするのだ。

一体この映画の時代設定は? ケータイも出てこないし、圭介はカセット(これは祖父の思い出とか言っていた)の愛用者。原作はもう20年以上も前になるのだから、これで正解なのだが、水泳大会は水着も含めて現代だし、伝統デート行事場面はおふざけにしてもねー。

それにここは亜美が圭介のよさを知る場面でもあるのに、それがないのでは惹かれ合っていくという過程がうやむやになってしまうではないか。

でも時代設定よりまずいのは、年月の移り変わりで、中3から高3までがまったく印象付けられずに進んでいってしまうことだ。映画でこの時期の移り変わりを描写するのは、俳優のことを考えただけでも大変なのはわかる。が、3度の日本選手権だけで年を意識させるしかないのは、あまりに芸がないだろうと用意した雪の場面などが、かえって浮いてしまっているのだ。青いプールが舞台だから、どうしても夏のイメージになってしまうのは仕方がないのだけどね。が、そのプールの描写は悪くない。清涼感を出すことにも一役かっている。

とはいえ、やはり圭介の成長物語なのだから、そこはどうにかしないと。海での人工呼吸事件のショックに続いて、仲西の交通事故。亜美は事故を自分のせいにしてその介護にかかりっきり。ライバルが不在の日本選手権では優勝するものの、目標を失った圭介は同級の緒方(石田卓也)から弱点を指摘されてしまう。この流れがうまく表現できていない気がするのだ。まあ、筋を知っている私に緊張感が欠けているということもあるかも。

そして、残念なのが仲西で、彼は亜美が尊敬してきたお兄ちゃんのようには描かれていない。選手生命が危ういほどの事故から快復したのはすごいことででも、リハビリ中の亜美への八つ当たりはフォローしておかないと。「事故はお前のせいじゃないと言うために、だから負けられない」だけじゃ弱くないかしらん。あだち充のマンガは、なによりフォローのマンガだからね。

速水もこみちの背が高すぎて、仲西が見劣りするのもマイナスだ。亜美の救助に向かう海の場面で、圭介が完全に飛び込んでから仲西がスタートするというのもダメ。ここは少し遅れくらいにしておきたかった。でないと仲西だけでなく、負けてしまった圭介にも気の毒というものだ。

最後の日本選手権のラストもマンガでは含みを持たせた終わり方だったのに、ここでははっきり圭介の勝利にしている。結果のでる前に亜美は思いを伝えたのだから、やはり蛇足かなー。出番の少なかった小柳かおり(市川由衣)にきっかけをつくらせていた(「ふたりはもう迷ってなんかいないのに」)のはよかったけどね。

あー、やっぱり原作との比較感想になっちゃったぃ!

【メモ】

幕開きは「君といつまでも」。

「あなたたちはラフ。これから何本も下書きを繰り返していくの。未完成こそあなたたちの武器」というセリフは教師から寮長のものになった。

「人殺し」のセリフは生身の人間が言うと、どっきりだ。

閉館の映画館名は「かもめ座」か。「うちわもめ座」だったりして。

「覚えているのは私だけ」「昔よく泣かされた。でもその子に急に会いたくなって、やっぱりまた泣いた」2人が昔を回想する場面でのセリフ。

エンドロール後の映像は第6回東宝シンデレラ用のもので、寮長の娘が入学する場面。「お母さん、見てこの制服」「あんたが1番似合うね。若い頃の私にそっくり!」。

2006年 106分 サイズ:■

監督:大谷健太郎 原作:あだち充 脚本:金子ありさ 撮影:北信康 美術:都築雄二 編集:今井剛 音楽:服部隆之
 
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒方剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人、田丸麻紀、徳井優、松重豊、渡辺えり子

ブレイブ ストーリー

新宿ミラノ2 ★☆

■何をやってもいいわけがない

宣伝も派手だったし、たまたま宮部みゆきの小説を続けて読んだこともあって期待してしまったが、恐ろしくつまらない作品だった。なにしろ展開が速すぎるのだ。長篇の映画化だから仕方がない面はあるにしても、緩急はつけないと。最初から最後までせっつかれていては物語に乗れない。

両親の離婚と母がそのショックで倒れてしまうという危機に直面した小学5年生のワタル。
謎の転校生ミツルの言葉に誘われるように、幽霊ビルの階段の上にある運命を変えるという扉を開く。そこはヴィジョン(幻界)と呼ばれる異世界で、ワタルは5つの宝玉を見つけ、女神のいる運命の塔を目指して旅に出る。という少年の成長物語。

宝玉の話もありきたり(どこぞのスタンプカードみたいに最初の1個はすでにあったりするのね)なら、途中、仲間ができていくくだりも定番ともいえるものだ。それはかまわないのだが、多分そこに至る過程をごっそり省略してしまっているから、キ・キーマやカッツ、それにミーナたちは、キャラクターとしての存在感も薄いし、なによりワタルとの連帯感が感じられないときてる。ミツルに至っては関係も一方的で、2人はとても友達とは思えない。

これでは「オレのためだけに生き」て、どこかで間違ったというミツルと、「願い事のためだったら何をやってもいいのかな?」と迷い、最後にはもう1人の自分と決着をつけ、運命を受け入れることになるワタルという対比が台無しだ。

せっかくのこのテーマを台無しにしているのは、ラストの描き方にもある。ワタルの運命は変わらないのに(離婚の成立、母は元気に)、ミツルの運命は変わっている(妹は生きている)のはどう解釈すればいいのだろう。一応子供向け映画でもあるのだから、ここはもっと単純でよかったのではないか。

そういえばイルダ帝国ってなんだったんだろ? 魔の力が解き放たれて戦争とかしてたよな。私には最後まで関係ない世界の話で、ワタルのようにヴィジョンを救わなきゃとは思えなかったのね。

【メモ】

雨粒がでかすぎ(雨を上からとらえたシーン)。

お試しの洞窟での「蛙は帰る」とんちはいただけない。

体力平均、勇気最低、総合評価35点で「見習い勇者」。

ドラゴンの子供の扱い。ネジオオカミ。ハイランダーになるワタル。

2005年 111分 アニメ

監督:千明孝一 、アニメーション制作:GONZO 、脚本:大河内一楼 、原作:宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』 、撮影:吉岡宏夫 、編集:瀬山武司 、音楽:Juno Reactor

声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、堤下敦[インパルス](犬ハイランダー)、板倉俊之[インパルス](若い司教)、虻川美穂子[北陽](小村克美/カッちゃん)、伊藤さおり[北陽](小川)、柴田理恵(ユナ婆)、伊東四朗(ラウ導師)、石田太郎(ダイモン司教)、樹木希林(オンバ)