フロスト×ニクソン

新宿武蔵野館2 ★★★☆

■遠い映画

予告篇で「インタビューという名の決闘」と言っていただけのことはある。地味な題材をこんなに面白く見せてくれるんだから。大物といえどニクソンが登場するくらいじゃ、そのインタビューが娯楽映画(は言い過ぎか)になるとは思わないだろう。けれど、いつの間にか身を乗り出して、二人のやりとりを聞き逃すまいとしていた。それなのに、映画が終わってみると意外にも、そんなに感慨が残ることはなかった。

というわけで、映画に想いを巡らすまでにはなかなかならず、何故そんな気持ちになるのかという一歩手前を考えてしまうのだった。それでいてその考えに捕らわれるまでにもならなかったのは、要するに、面白くても私には遠い映画だったのだろう。

トークショーの司会者である英国人のフロストは、掛け持ちでオーストラリアの番組も持っている人気者だ。ニクソン辞任の中継を見ていたフロストは、その視聴率に興味を持ち、ニクソンとの単独テレビインタビューを企画する。が、ニクソン側は出演料をつり上げてくるし、三大ネットワークへの売り込みは失敗するしで、自主製作という身銭を切っての賭とならざるを得なくなる。

成功すれば名声と全米進出を手にすることができる(アメリカで成功することは意味が違うというようなことを言っていた)わけで、彼がそれにのめり込むのも無理はないのだが、負けず嫌いなのか、プレイボーイを気取っているのか、飛行機でものにした彼女には苦境にあることはそぶりも見せない。インタビュー対決はもちろんだが、こうしたそこに至る道筋がインタビュー以上にうまく描けている。

巨悪のイメージのあるニクソンだが、やはりすでに過去の人でしかないからか。フロストのインタビューやその前後の様子からは、老獪さよりは人間味が感じられてしまい、え、ということは、私もあっさり(映画の)ニクソンに籠絡されてしまったことになるのだろうか。だとしたらそのままでは終わらせなかったフロストは、やはり大した人物だったのかもしれない。

が、フロストとニクソンとの白熱(とは少し違う。三日目まではニクソンの完勝ペースだし)したやりとりも、結果としてニクソンの失言待ち(フロストが引き出したものだとしても)だった印象が強いのだ。うーん、これもあるよなぁ。

それにすでにニクソンは失脚しているわけで、このことで政界復帰の道は完全に閉ざされたにしても、日本にいる身としは、このインタビューがそれほどの意味があったとは思えなかったのだ(映画では政界復帰の野望を秘めていたことになっている。ついでながらこの話に乗ったのは金のこともあるが、フロストを与しやすい相手と判断したようだ)。それにしつこいけど、過去のことだし。

アメリカ人にとっては意味合いが全然違うのだろうな。そもそも大統領に対する人々の持つイメージや、メディアなどでの扱いが日本における首相とは比べものにならないと、これは常々感じていることだけど。だから、ま、仕方ないってことで。あ、でもフロストは英国人。いや、でも同じ英語圏だし、兄弟国みたいなもんだから、って映画からはずれちゃってますね。

書き漏らしてしまったが、ニクソンの失言は「大統領がやるのなら非合法ではない」というもの。フロストはこれを突破口にして「国民を失望させた」という謝罪に近い言葉をニクソンから引き出す。もっともこの展開は少し甘い。ニクソンならいくらでも弁解できたはずで、逆に言うとニクソンは告白したがっていたという映画(深夜の電話の場面を入れたのはそういうことなのだろう)なのが、私としては気に入らない

罪を認めたからって軽くはならないのだから、どうせならニクソンには沈黙したままの悪役でいてほしかった、のかなぁ私は。ニクソンのことよく知らないんで、どこまでもいい加減な感想なんだけど。

 

原題:Frost / Nixon

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松岡葉子

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ピーター・モーガン、マシュー・バイアム・ショウ、デブラ・ヘイワード、ライザ・チェイシン、カレン・ケーラ・シャーウッド、デヴィッド・ベルナルディ、トッド・ハロウェル 脚本・原作戯曲:ピーター・モーガン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:マイケル・コレンブリス 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:マイク・ヒル、ダン・ハンリー 音楽:ハンス・ジマー

出演:フランク・ランジェラ(リチャード・ニクソン)、マイケル・シーン(デビッド・フロスト)、ケヴィン・ベーコン(ジャック・ブレナン)、レベッカ・ホール(キャロライン・クッシング)、トビー・ジョーンズ(スイフティー・リザール)、マシュー・マクファディン(ジョン・バード)、オリヴァー・プラット(ボブ・ゼルニック)、サム・ロックウェル(ジェームズ・レストン)、ケイト・ジェニングス・グラント、アンディ・ミルダー、パティ・マコーマック

フェイク シティ ある男のルール

新宿武蔵野館3 ★★☆

■真実より、それぞれの正義

キアヌ・リーヴス演じるラドローは、飲んだくれの少々危険な刑事(またかよって感じ)。飲んだくれに関しては、過去を引きずってのことが多少あるにしても(注1)、冒頭の単独捜査はやり過ぎもいいとこで、刑事というよりはまるで射殺魔だ。双子の姉妹の救助で、かろうじて釈明が成立する程度。それは本人もわかっているから、正当防衛の偽装にも躊躇することがない。

そんな彼に何かと目をかけてくれるのが上司のワンダーで、今回のこともラドローを警察苦情相談所に移動させ、お前の尻ぬぐいをしてやったと恩を着せてくるのだが、何のことはない、自分が上り詰めるためにラドローを道具として使っていただけのことだった。

こうしたワンダーのふるまいは内務調査官のビッグスがすでに目を付けていて、ラドローの元同僚ワシントンがビッグスに協力したことから、コンビニ強盗を装った2人組の警官に、ワシントンはあろうことか、ラドローの目前で殺されてしまう(注2)(ラドローはワシントンの真意をこの時点では知らず、彼の行動を疑ってさえいいて、で、後を付けていたのだが、そんなだから事件の直前のコンビニでは2人の間には険悪な空気が漂って、つかみ合いになっていた)。

要するに、警察内部にはすでにワンダーによるネットワークができていて、すべてのことがデッチ上げで進行し、ワンダーの思いのままとなっていたのだった。

真相を書いてしまったが(隠しておくようなものでもないってこともある)、何も知らないラドローは、疑念や後悔の残る犯人捜しをしないではいられない。というわけで、映画はワシントン殺しの謎解きを軸に進んでいくが、この過程は時間はかかるものの、謎解きというほどのものではないから、場面場面は派手に作ってあっても、盛り上がらない。入り組んでいるだけで行き着く先の見えている、つまり遠回りしているだけの迷路だろうか。ラドローの飲んだくれ頭でも解けてしまうのだ。だからかもしれない、ラドローの捜査に付き合ってくれたディスカントは、話の飾り付けで、あえなく殉職となる。

悪玉のワンダーに魅力がないのも痛い。最後にラドローに問い詰められて、話をそらすように金を埋め込んだ壁を壊せと言うのだが、秘密を明かして状況が変わるとは思えない。もっともこれ以前に、あのワシントン襲撃の一部始終が映っているディスクをラドローに手渡してしまったことの方が問題かも。後で必死になって取り戻そうとしてたからね。ラドローを信用させるために渡したのなら危険すぎるし、ラドローが疑問を抱いて入手しようとした二人組の逮捕歴のデータなどはシュレッダーにかけさせてしまうなど、一貫性もない。

逮捕するよりは殺し(邦題の「ある男のルール」だよね)のラドローによって、結局ワンダーは殺されてしまうのだが、そこへビッグスが駆けつけてくる。しかし、ラドローの罪を問いもせず、ワンダーの共犯者が金目当てで殺した、とビッグスまでがデッチ上げで締めくくろうとする。君だけが頼りだったと言うのだ(注3)。なんだかなー。さらにはワンダーに弱みをにぎられていた署長にも感謝されるかもしれない、というようなことも言っていた(これは皮肉だろう。でなきゃ、こわい)。

正義が貫かれるのなら真実などどうでもいい、とでもいいたいのだろうか。まあその前に本当に正義なのか、って問題もあるが。だって「それぞれの正義」にすぎないんだもの。ふうむ。こんな微妙な結末で締めくくるとはね。この部分は掘り下げがいがあるはずなんだけどな。

注1:不倫をしていた妻が脳血栓を起こしたのに放っておいて死んでしまった、というようなことをラドローは、ワシントンの妻に話したと思うのだが、この話が出てくるのはここだけなので、ちょっと不確か。

注2:まったくいい加減にしか観ていないことがわかってしまうが、何故目前で殺されるというような状況になってしまったのか。また、ラドローが襲われなかったのは偶然なのかどうか、思い返してみるのだが、これまたよくわからない。

注3:確かにラドローも途中で、「法を越えた仕事は誰がやる、俺が必要だろ?」とビッグスに言ってはいたが。

原題:Street King

2008年 109分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス映画 PG-12 日本語字幕:戸田奈津子

監督:デヴィッド・エアー 製作:ルーカス・フォスター、アレクサンドラ・ミルチャン、アーウィン・ストフ 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ミシェル・ワイズラー 原案:ジェームズ・エルロイ 脚本:ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス 撮影:ガブリエル・ベリスタイン プロダクションデザイン:アレック・ハモンド 編集:ジェフリー・フォード 音楽:グレーム・レヴェル

出演:キアヌ・リーヴス(トム・ラドロー)、フォレスト・ウィッテカー(ジャック・ワンダー)、ヒュー・ローリー(ジェームズ・ビッグス)、クリス・エヴァンス(ポール・ディスカント)、コモン(コーツ)、ザ・ゲーム(グリル)、マルタ・イガレータ(グレイス・ガルシア)、ナオミ・ハリス(リンダ・ワシントン)、ジェイ・モーア(マイク・クレイディ)、ジョン・コーベット(ダンテ・デミル)、アマウリー・ノラスコ(コズモ・サントス)、テリー・クルーズ(テレンス・ワシントン)、セドリック・ジ・エンターテイナー(スクリブル)、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン

ブロークン・イングリッシュ

銀座テアトルシネマ ★☆

■運命の人をたずねて三千里(行きました!パリへ)

仕事にも友達にもめぐまれているのに運命の人にはめぐり会えなくって(男運が悪い)、とノラは言うのだけれど、あれだけ片っ端から恋していっては、切実感などなくなろうというものだ(いや、切実だからこそそうしてるのか)。というか、気持はわかるのだけれど、なんか恋愛をはき違えているような。

俳優との一夜のアバンチュール(でないことをノラはもちろん願ってはいたけれど)や、失恋から抜け出せない男とのデートを経て、でもなんとかこれぞと思うような相手に行きつくが、でもそのジュリアンはフランス人で、仕事が終われば帰国という現実が当然(知り合って2日目だからノラにとっては突然)やってくる。実を言うとジュリアンが何故、ノラにそんなに執心になるのかがわからないのだけど、それはまた別の話になってしまうのでやめておく。

恋に臆するような伏線があるから情熱的なジュリアンには引いてしまう(ノラ自身がニューヨークで築いてきたことを諦めなければならないということも大きいとは思うが)、という流れにしたのだろうけど、でもここにくるまでに観ている方はちょっとどうでもよくなってきてしまったのだ。筋がどうのこうのじゃなく、恋探しゲームでくたびれてしまったのかどうか、それが三十路だかアラフォーだかしらないけれど、そういった年代の恋なのか。ようするに私にはよくわからないだけなのだが。

親友は結婚してしまうし、母親からは「その歳でいいものは残っていない」なんて言われてしまうし。じゃないでしょ。で、まあ、そういう、じゃなくなる映画を監督は撮ったつもりなのかもしれないのだけれど。

どこにでもあるような話でしかないとなると、あとは結末で勝負するしかなく、実際そう思って観ていたのだが(というか、こんな覚めた目で恋愛映画を観てしまったらもうダメだよね)、結局は「偶然」でまとめてしまうのだから芸がない。もちろん、ノラがパリへ行ったからこその偶然と強弁できなくもないが、それを裏づけたり生かすような演出は残念ながら私には見つけられなかった。例えば、バーで紳士から「自分の中に愛と幸せを見つけろ」みたいな忠告はもらって、それはそうにしても、ここまできてこれかよ、なんである。

この「偶然」に照れてしまったのは案外監督自身だったか。だからか、パリへ行ってからの演出は生彩を欠いていて(好き嫌いでいったらニューヨーク篇の方がいやだけど)、ノラに対しては表面的な優しさばかりの、それこそ異国人に対するお出迎えになってしまったのだろうし、地下鉄の偶然の場面でも、ノラの内面ほどにはカメラは動揺しなかったのだろう。

原題:Broken English

2007年 98分 ビスタサイズ アメリカ/フランス/日本 配給:ファントム・フィルム 日本語字幕:■

監督・脚本:ゾーイ・カサヴェテス 製作:アンドリュー・ファイアーバーグジェイソン・クリオット、ジョアナ・ヴィセンテ 製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キューバン 撮影:ジョン・ピロッツィ プロダクションデザイン:ハッピー・マッシー 衣装デザイン:ステイシー・バタット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:スクラッチ・マッシヴ

出演:パーカー・ポージー(ノラ・ワイルダー)、メルヴィル・プポー(ジュリアン)、ドレア・ド・マッテオ(オードリー・アンドリュース)、ジャスティン・セロー(ニック・ゲーブル)、ピーター・ボグダノヴィッチ(アーヴィング・マン)、ティム・ギニー(マーク・アンドリュース)、ジェームズ・マキャフリー、ジョシュ・ハミルトン、ベルナデット・ラフォン、マイケル・ペインズ、ジーナ・ローランズ(ヴィヴィアン・ワイルダー・マン)

ファウンテン 永遠に続く愛

銀座テアトルシネマ ★☆

■永遠の勘違い男

そうわかりにくい話ではないのに、現実と物語を交錯させ、さらにもう1つ主人公の精神世界のような映像も散りばめ、そしてそれらの境目までも曖昧にしてしまう。しかもそこにある概念といえば仏教の輪廻もどきのもの。これではダーレン・アロノフスキーとの相性が多少はいい人でも観るのは相当キツイのではないか。とにかく初見(かどうかは関係ないか)の私にはとてもついていけなかったのである。だから粗筋すら書く気が失せているのだが……。

医師のトム・クレオ(ヒュー・ジャックマン)は、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)が脳腫瘍の末期にあることを知って、死は病気の1つという信念で研究に冒頭していく。が、イジーの方は、残された短い時間を夫と一緒に過ごせれば、もう死を受け入れる覚悟ができていた。

イジーが書き進めていた物語は、そのことをトミーにわからせたいが故のものだろう。そして未完成部分の第12章をトミーに完成して欲しいと願うのだ。映画の中で何度もイジーの「完成して」という言葉が繰り返されるが、それはきっとそういう単純なことだったのではないか。観ている時は何かあるのかもれないと思っていたのだが、そもそもこの映画は、構成こそ入り組んでいるが、伏線らしきものは見あたらないのである。

トミーといえば、行き過ぎた猿への実験で上司のリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)に休日を言いわたされる始末。が、そのことで手がかりを掴めそうになると、さらに狂気のごとくその研究にのめり込んでいく。しかしこんな実験で、余命幾ばくもない人間の命を救えることになるなどと実際に医療にたずさわっている者が本気で考えるだろうか。新薬が日の目をみるには、動物実験を経た後も、治験を繰り返す必要があることくらい常識だろうに。

かくの如く、まったく奇妙なことにこの現実部分は、イジーの書いた物語より現実離れしているのだ(これには何か意味でもあるのだろうか)。それもと体裁としては現実ながら、イジーの物語と同列扱いにしたかったのかもしれない。

イジーの書いた『ファウンテン』と題された物語は、16世紀のスペインのイザベル女王が、騎士トマスに永遠に生きられる秘薬を探せと命じるというもの。11章まで書いたというのに、映画では最初の命令部分と任務途中でのアクション場面があ少しあるだけのものでしかない。これをイジーとトミーがそれぞれ演じていて(ここはヒュー・ジャックマンとレイチェル・ワイズがと書かなくてはいけないのかもしれないが)、イジーの顔のアップとイザベル女王のアップを交互に見せたりしている。

そしてトミーはマヤに古くから言い伝えのある生命の木にたどり着き、花を蘇生させるその樹液でもって、永遠の命を得ようとする。現実部分のトミーが新しい治療法の手がかりを見つける(やはりある樹皮を猿に投与する)のもこのことと重なっている。またこれとは別にトミーの精神世界のような場所でも、同じような行為が繰り返される。

球体に囲まれた小さな世界の中に、イジーが横たわっていて(すでに死んでいるのか?)、そこには剃髪したトミーがいて、その球体の中に聳えている生命の木の樹液を飲むのだ。樹液を飲んだトミー(いや、これは騎士のトマスだったか)は歓喜の表情となるのだが、直後、トミーの全身からは花が芽吹き、トミーは花に包まれてしまう。この場面は単純なものだが、この映画唯一の見所となっている。

繰り返しになるが、イジーが「完成して」と言った意図は11章まで物語を丹念に読むこと、つまりイジーが何を考え、生き、トミーと生活してきたかを自分がしたように辿ってほしかっただけなのだ。そうすれば12章は自動的に完成したはずなのだ。まあ、勘違い男のトミーが、不死の秘薬探しを即自分の職業に結びつけてしまったのは無理からぬところではある。しかしイジーからペンとインクまでプレゼントされて「完成して」と言われたら、さすがにわかりそうなものなんだけどね。

実は私の中ですでに混乱してしまっていているので断言できないのだが、トミーが花にとって変わってしまう場面が騎士トマスにもあったとしたら、物語を書いたイジーもそのことを予言していたことになる。永遠の命はその樹にとってのもので、トマスはただ養分になったにすぎないことを。

映画はトミーの暴走によって不死というテーマへと脱線していくのだが、そこで語られる不死観に具体的なものは何もない。生命が渦巻いているような光の洪水の中に漂う球体は美しいけれど、ただそれだけなのである。輪廻の映像化というよりは、小さな閉じた世界にとどまっているようにしかみえないのだ。

剃髪したトミーが座禅し黙想する姿は仏教そのもののようだが、生命の木についてはマヤの言い伝えとしているし、スペインによる南米搾取はキリスト教の布教絡みでもあったわけだから、何がなんだかわからなくなる。

とにもかくにも、最後になって一応はトミーも死を受け入れても精神は死なないという世界観を会得したらしいのだが、イメージだけでみせているからそれだって大いに疑問。それにすでにそこに至る前に、イジーのメッセージを読みとれずにいるトミーには、永遠に勘違いしていろ、と何度も言ってしまっていた私なのだった。

(070801 追記)公式サイトに次のような文章があった。

    「舞台を現代だけにして、不死の探求についての物語を伝えるのは難しかった。そこで、トミーの物語を16世紀、21世紀、そして26世紀と、3つの時代を舞台にすることにした」とアロノフスキー監督は語る。「しかしこの映画は、伝統的な意味での時空を超えた物語ではない。むしろ、1人の人間の3つの側面を体現する各キャラクターを異なる時代に描いて、3つの物語を結合させている」

私が精神世界と思っていたのは26世紀なのか! それはまったくわかりませんでした。もう少しヒントをくれてもいいと思うのだが。

原題:The Fountain

2006年 97分 ビスタサイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー 製作:エリック・ワトソン、アーノン・ミルチャン、イアイン・スミス 製作総指揮:ニック・ウェクスラー 原案:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル 撮影:マシュー・リバティーク プロダクションデザイン:ジェームズ・チンランド 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ジェイ・ラビノウィッツ 音楽:クリント・マンセル

出演:ヒュー・ジャックマン(トマス/トミー/トム・クレオ)、レイチェル・ワイズ(イザベル/イジー・クレオ)、エレン・バースティン(リリアン・グゼッティ博士)、マーク・マーゴリス、スティーヴン・マクハティ、フェルナンド・エルナンデス、クリフ・カーティス、ショーン・パトリック・トーマス、ドナ・マーフィ、イーサン・サプリー、リチャード・マクミラン、ローン・ブラス

不完全なふたり

新宿武蔵野館2 ★★

■黒いカットはNGか

ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)とマリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)という結婚して15年になる金持ちの夫婦が、友達の結婚式に出席するためにリスボンからパリにやってくる。映画はホテルに向かうタクシーの映像で始まる。

交わされる会話はありきたりで他愛のないものだが、この映像は撮り方が印象的(進行方向は右。車全体ではなく顔がわかるところまで近づいたもの。一応会話を追っているのにわざわざ外側から撮っている)なだけでなく、このあとに展開される2人の気持ちのゆらぎや夾雑物を、タクシーのガラス窓に映し込んでいた。

次はホテルの1室。簡易ベッドを運び込ませている。これについては合意事項らしいのに、どちらがそれを使うかで、くだらない意地を張り合う。

夜のレストランに2人の友人夫婦ときている。2人は彼らにとって理想の夫婦だったようだ。新しい仕事の話が出たところだったが、ニコラの切り出した離婚という言葉でその場の雰囲気が変わってしまう。

ホテルでもレストランでもカメラは動こうとしない。長回しはいい意味で俳優に緊張感を強いる場面で使われることが多いが、ここでは言葉が途切れた、その時を際立たせるために使用しているように思えた。あるいは、大まかな流れの中で、セリフを俳優たちにまかせて撮っていったことの結果かもしれない。具体的な撮影方法について知っているわけではないので、憶測でしかないが、もしかしたらこの黒い画面はNG部分だったのかとも思えてしまう。全体で10カットもなかったと思われるが、でもこれだけあるとやはり気になる。監督の意図が知りたくなる。

この長回しは、最後のホームの場面まで続くから、カット数は相当少なそうである。だからといって、全篇それで押し通そうとしているというのではなく、顔のアップなどでは手持ちカメラも含めて、わりと自在にカメラをふっている。

ニコラとマリーの離婚話に戻るが、ニコラの言い出したそれは、マリーには唐突だったらしい(まさかとは思うが、友達に話したのが最初だったとか?)。部屋に鍵を置いたまま出かけてしまったニコラを責めるのは当然としても、結婚パーティーに出かけるのにドレスや靴のことであんなに情緒的になられては(私と行きたい?とマリーはニコラに何度か訊いていた。しかしこのセリフはものすごく理論的でもある)、ニコラとしてもやりきれなくなるだろう。

ふくれっ面で結婚式を通したらしいマリーに、今度はニコラがあたって、夜の街に飛び出していく。着信履歴があったからとカフェに女性を呼びだし、結局何もなかったのだが、ホテルに戻ったら夜明けになっていた。

眠れなかったというマリーと帰ったニコラの会話は、自由を感じたかったというニコラと何年も孤独だったというマリーの、もう刺々しくはない穏やかな、でも接点のないものだ。

マリーはその日、2日続けで来たロダン美術館で、古い友達のパトリック(アレックス・デスカス)に声をかけられる。娘を連れてきている彼に妻を亡くした話を聞き涙するマリー。流れがうまく読めないのだが、それにしてもこの涙には危うさを感じないではいられない。

なにしろ、場面の空気はわかっても映画は説明することをしないから、観客は自分に引きつけて考えるしかなくなるのだが、とはいえニコラは建築家でマリーは写真家だったらしいし、なにより裕福そうだから、私などそう簡単には映画に入っていけない。少なくともニコラが離婚を言い出した理由くらいは明らかにしてくれないと、もやもやするばかり(でもこれで十分という見方もできるのが人間関係のやっかいさかも)。また、説明は排除しても俳優の個性は残るから、普遍性を持たせた(かどうかは知らないが)ことにもならないと思うのだが。

マリーが別に部屋をとったからか、自分の知らない旧友に会ったからかどうか、ニコラがマリーにキスの雨を降らせる場面があるのだが、ベッドに移りながら何故かそれはそこで中断となって、ニコラはマリーに、明日はボルドーに行くから1人で帰ってと言われてしまう。

次の日駅にやって来た2人はホームで見つめ合う。荷物は乗せたのに、いつまでも見つめ合っているものだから、列車は行ってしまうのだ。で、ふふとか言って笑いだすのだけど、いやもう勝手にしてくれという感じ。

『不完全なふたり』は原題だと『完全なふたり』のようだけど、これはどっちでも大差ないということか。だったら「完全な」の方がよくないか。「私たち何をしたの? 何をしなかったの?」という問いかけを、あんな笑いにかえられるんだもの。これ以上の完全はないでしょ。

ところでびっくりしたことに、監督はフランス語がほとんどわからないのだそうだ。公式ページのインタビューでそう答えている(http://www.bitters.co.jp/fukanzen/interview.html
)。「もし全能の立場を望むのであればこの映画をフランスで撮りはしなかった」とも。なるほどね、やはりそういう映画なんか。しかし私としては、監督はあくまで全能であってほしいと思うのだけどね。

原題:Un Couple Parfait

2005年 108分 ビスタサイズ フランス 日本語字幕:寺尾次郎 製作:コム・デ・シネマ、ビターズ・エンド 配給:ビターズ・エンド

監督:諏訪敦彦 プロデューサー:澤田正道、吉武美知子 構成:諏訪敦彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 衣裳:エリザベス・メウ 編集:ドミニク・オーヴレ、諏訪久子 音楽:鈴木治行

出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(マリー)、ブリュノ・トデスキーニ(ニコラ)、アレックス・デスカス(パトリック)、ナタリー・ブトゥフー(エステール)、ジョアンナ・プレイス(ナターシャ)ジャック・ドワイヨン(ジャック)、レア・ヴィアゼムスキー(エヴァ)、マルク・シッティ(ローマン)、デルフィーヌ・シュイロット(アリス)

プレステージ

新宿厚生年金会館(試写会) ★★

■手品はタネがあってこそ

100年前ならいざ知らず(ってこの映画の舞台は19世紀末なのだが)、手品というのはタネも仕掛けもあって、それはわかっていながら騙されることに快感があると思うのだが、この映画はそれを放棄してしまっている。

巻頭に「この映画の結末は決して誰にも言わないで下さい」と監督からのことわりがあるが、そりゃ言いふらしはしないけど(もちろんここはネタバレ解禁にしているので書くが)、そんな大した代物かいな、という感じなのだ。

売れっ子奇術師のアルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベイル)が、同じ奇術師で長年のライバルだったロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)を殺した容疑で逮捕される。

ボーデンとアンジャーは、かつてミルトンという奇術師の元で助手をしていた間柄だったが、舞台でアンジャーの妻であるジュリア(パイパー・ペラーポ)が事故死したことで、2人は反目するようになる。水中から脱出する役回りになっていたのがジュリアで、彼女の両手を縛ったのがボーデンだったのだ。

このハプニングにあわてて水槽を斧で割ろうとするのがカッター(マイケル・ケイン)。彼は奇術の考案者で、この物語の語り部的存在だが、映画は場面が必要以上に交錯していて、まるで作品自体を奇術にしたかったのかしら、と思うような作りなのだ(ここまでこね回すのがいいかどうかは別として、そう混乱したものにはなっていないのは立派と褒めておく)。

アンジャーの復讐心は、ボーデンが奇術をしている時に、客になりすましてボーデンを銃撃したりと、かなり陰湿なものだ。アンジャーの気持ちもわからなくはないが、ボーデンにしてみれば奇術師としては命取りとなりかねない左手の指を2本も失うことになって、こちらにも憎しみが蓄積されていくこととなる。しかも2人には奇術師として負けられないという事情もあった(このあたりは奇術が今よりずっと人気があったことも考慮する必要がある)。

ボーデンはサラ(レベッカ・ホール)と出会い家庭を築いて子供をもうけるのだが、アンジャーにとってはそれも嫉妬の対象になる。ボーデンの幸せは、「僕が失ったもの」だったのだ。アンジャーは、敵のトリックを調べるのもマジシャンの仕事だからと、オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)という新しい弟子を、ボーデンのもとに送り込み、彼の「瞬間移動」の秘密を探ろうともする。

オリヴィアにボーデンの日記を持ち出させ、それをアンジャーが読むのだが、映画は、物語のはじめで捕まったボーデンも刑務所で死んだアンジャーの日記を読むという、恐ろしく凝った構成にもなっている。しかしこれはすでに書いたことだが、そういう部分での脚本は本当によくできている(ただ、ジュリアの死についてのボーデンの弁明はわからない。こんなんでいいの、って感じがする。ジュリアとボーデンで目配せしてたしねー、ありゃ何だったんだろ)。

ボーデンの「瞬間移動」は、実は一卵性双生児(ファロン)を使ったもので、ここだけ聞くとがっかりなんだが、ボーデンは奇術のために実人生をも偽って生きていて、このことは妻のサラにも明かさずにきたという。しかしサラは彼の2重人格は嗅ぎ取っていて(すべて知っていたのかも)、結局ボーデンが真実を語ろうとしないことで自殺してしまう。

ボーデンとファロンの2人は、愛する対象もサラとオリヴィアというように使い分けていたというのだが、いやー、これはそういうことが可能かどうかということも含めて、この部分を取り出して別の映画にしたくなる。それとか、オリヴィアの気持ちにもっと焦点を当てても面白いものが出来そうではないか。

アンジャーの「瞬間移動」も、オリヴィアから紹介された売れない役者のルートを替え玉にしたものだから、タネは似たようなものなのだが、当然ボーデンの一卵性双生児にはかなわず、アンジャーはトリックが見破れずに焦るというわけだ。ルートの酒癖は悪くなるし、アンジャーを脅迫しだしてと、次第に手に負えなくなりもする。

で、最初の方でアンジャーがのこのことコロラドのスプリングスまで発明家のニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)を訪ねて行った理由がやっとわかる。このきっかけもボーデンの日記なんだけど、でもこのことで嘘から誠ではないが、アンジャーは本物の「瞬間移動」を手に入れることになる。

テスラの発明品は、別の場所に複製を作るというもの(物質複製電送機?)で、瞬間移動とは意味が違うのだが、奇術の応用にはうってつけのものだった。って実在の人物にこんなものを発明させちゃっていいんでしょうか。それにこれは禁じ手でしかないものねー。いくらその機械を使ってボーデンを陥れようが(彼に罪を着せるのは難しそう)、またその機械を使用することで、複製された方のアンジャーが自分の元の遺体を何人も始末する、理解を超えた痛ましい作業を経験することになる、という驚愕の物語が生み出せるにしてもだ。

この結末(機械)を受け入れられるかどうか、は大きいが、でもそれ以上に問題なのが、復讐に燃えるアンジャーにも、嘘を重ねて生きていくしかなかったボーデンにも感情移入できにくいことではないか。

〈070710 追記〉「MovieWalkerレポート」に脚本家の中村樹基による詳しい解説があった。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4897.html
サラに見せたマジックの謎はわからなかったけど、そうだったのか。ただ、映画としては説明しきれていないよね、これ。他にも(これと関連するが)ボーデンがいかに実生活で、いろいろ苦労していたかがわかるが、やはり映画だとそこまで観ていくのは相当大変だ。

そして、私がすっきりしないと感じていたジュリアの死についてのボーデンの弁明。なるほどね。でもこれこそきちんと映画の中で説明してくれないと。

あと、ルートの脅迫はボーデンのそそのかしにある、というんだけど、観たばかりなのにすでに記憶が曖昧なんでした。そうだったっけ。

【メモ】

原作は世界幻想文学大賞を受賞を受賞したクリストファー・プリーストの『奇術師』。

冒頭でカッターによるタイトルに絡んだ説明がある。1流のマジックには3つのパートがあって、1.プレージ 確認。2.ターン 展開、3.プレステージ 偉業となるというもの。

原題:The Prestige

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:菊池浩司

監督:クリストファー・ノーラン 製作:クリストファー・ノーラン、アーロン・ライダー、エマ・トーマス 製作総指揮:クリス・J・ボール、ヴァレリー・ディーン、チャールズ・J・D・シュリッセル、ウィリアム・タイラー 原作:クリストファー・プリースト『奇術師』 脚本:クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター プロダクションデザイン:ネイサン・クロウリー 衣装デザイン:ジョーン・バーギン 編集:リー・スミス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:ヒュー・ジャックマン(ロバート・アンジャー/グレート・ダントン)、クリスチャン・ベイル(アルフレッド・ボーデン/ザ・プロフェッサー)、マイケル・ケイン(カッター)、スカーレット・ヨハンソン(オリヴィア)、パイパー・ペラーボ(ジュリア・マッカロー)、レベッカ・ホール(サラ)、デヴィッド・ボウイ(ニコラ・テスラ)、アンディ・サーキス(アリー/テスラの助手)、エドワード・ヒバート、サマンサ・マハリン、ダニエル・デイヴィス、ジム・ピドック、クリストファー・ニーム、マーク・ライアン、ロジャー・リース、ジェイミー・ハリス、ロン・パーキンス、リッキー・ジェイ、モンティ・スチュアート

フライ・ダディ

銀座シネパトス1 ★☆

■父よ、あなたは弱かった

娘のダミ(キム・ソウン)をカラオケボックスで同じ高校生のカン・テウク(イ・ジュ)に暴行されたチャン・ガピル(イ・ムンシク)は、「深く反省している」相手のあまりに不遜な態度に復讐を誓い、包丁を手にチョンソル高校に乗り込むが、居合わせたコ・スンソク(イ・ジュンギ)に簡単に気絶させられてしまう。が、このことでスンソクと彼の同級生チェ・スビン(キム・ジフン)とオ・セジュン(ナム・ヒョンジュン)は、ガピルに力を貸すことになる。

テウクは3年連続優勝を目指す高校ボクシングのチャンピオンで、取り巻きもいれば、高校の教頭も彼の味方。息子が不祥事を起こしても姿を見せない「国の仕事」で忙しい両親(事件すら知らないのかも)と憎まれ役に相応しい陣容だ。

対する39歳のガピルは平凡なサラリーマン。二流大学出ながら仕事ではまあまあ活躍しているようで営業部長にもなれそうだ。マンションのローンはあと7年。堅実なのね。でも禁煙がなかなか成功しないのは意志薄弱なのか。命をかけて妻と娘を守るつもりでいたが、気が付けば体はぶよぶよで、テウクとまともに戦えるとはとても思えない。

師匠に対する礼儀を守り一切質問はしないという条件の上で、スンソクの与えた指示は特訓の繰り返し。体はなまっているし非力すぎのガピルだから、まずは正攻法でいくしかないのだろう。それはわかるが、だったら余計、方法や見せ方に工夫がほしいところだ。が、特別なアイディアなどはない。荒唐無稽路線を取りたくなかったのかもしれないが、映画としては少しさびしい。

食事療法を取り入れて体重と体脂肪を減らすところは、イ・ムンシクが身をもって体を引き締めたのがわかるので(実際には体重を15キロ増やし、映画の撮影に会わせてまた減らしていったという)、本当に応援したくなる。が、あとは反射神経を養うくらいだし、ボクシング(何も相手の得意とするもので戦わなくてもね)での対策はラグビーみたいにタックルしろ、では何とも心許ない。

しかもこの対決を、日にちの制限があるわけではないのに、なぜか25日後(いくらなんでもね無理でしょ)に設定してしまうし、「明日の作戦を訊いて俺はあきれかえった」とガピルは言うのだが、体育館を占拠して生徒たちだけの前で行うだけの、ま、ホントにあきれかえっちゃうもので、実際の戦いになってもガピルは一方的に殴られるばかりでいいところがない。あれ、なのにガピルが勝ってたけど。なんでや。見せ場が結果として誤魔化しのようになってしまっては、盛り上がるはずもない。

これだったら前日のバスとの競争の方がまだ見せてくれたものね。そのバスの運転手(ペク・ソンギ)がいつの間にかローラーブレードができるようになっているのは、ちょっとした映像だからいいのであって、ガピルの特訓には乗り気でなかったスンソクが、娘のために戦うという姿勢に、小学生のとき離婚して出ていってままの父親を重ね合わせていたのだとか、ガピルにも「お前みたいな息子がいたら」などと言わせて妙な味付けをしてしまうと、急につまらないものになってしまう。

韓国でならば『フライ,ダディ,フライ』(未見)のリメイクは、それなりの興行価値があるのかもしれないが、元の作品が2005年に公開されたばかりの日本にもってくる意味があったとはとても思えない。現に、まあ、銀座シネパトスということもあるのかもしれないが、イ・ジュンギだけではとても売れそうもないくらいガラガラの初日だったのだけどね。かわいそ。

 

原題:嵓誤攵・エ ・€・煤@英題:Fly,Daddy,Fly

2006年 117分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チェ・ジョンテ 原作:金城一紀『フライ、ダディ、フライ』 脚本:チェ・ジョンテ 撮影:チェ・ジュヨン 音楽:ソン・ギワン
 
出演:イ・ムンシク(チャン・ガピル)、イ・ジュンギ(コ・スンソク)、イ・ジュ(カン・ウテク)、キム・ジフン(チェ・スビン)、ナム・ヒョンジュン(オ・セジュン)、イ・ヨンス(ガピルの妻)、キム・ソウン (チャン・ダミ/娘)、イ・ジェヨン(イ・ドックン/教頭)、ペク・ソンギ(バスの運転手)

ブラッド・ダイヤモンド

新宿ミラノ1 ★★★

■ディカプリオが主演なのにキスシーンがない

最近アフリカを舞台にした映画が多いが、これもアフリカのダイヤモンドをめぐる利権を描いた作品。ダイヤの争奪戦が悪玉と善玉という切り口で描かれるのはこの作品も同じだが、善玉側に立場の違う3人を配して、ダイヤを通して見えてくる欲望を、ダイヤに翻弄される姿を、そしてダイヤを仲介してできた絆を、角度を変えて映しだす。

1999年のシエラレオネ。反政府軍RUFに拉致されたソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)はダイヤモンドの採掘場で強制労働をさせられる。そこで偶然100カラットほどの大粒のダイヤを見つけて隠すが、政府軍の襲撃にあって捕まってしまう。

メンデ人の漁師にすぎないソロモンにとって何より大切なのは家族。愚直な彼は見つけたダイヤを、拉致で引き離された家族を取り戻す駆け引きの道具にする、というのが映画の設定だが、彼にももう少し欲をまぶしておいた方が、流れとしては自然になったのではないか(と考えるのは私が俗なだけか)。

ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)はローデシア出身の元傭兵。アフガニスタンやボスニアにもいたという。今はシエラレオネの反政府組織から武器と交換で手に入れたダイヤを密売業者に流している。彼の立場は複雑だ。足を洗いたいと思っているが、南アフリカにある秘密の武装組織の大佐(アーノルド・ヴォスルー)にも借りがあるようで、そう簡単には今までのしがらみから抜け出せそうもない。

密輸に失敗したダニーは刑務所に投獄されるが、そこでRUFのポイズン大尉とソロモンのやりとりを聞いて巨大なピンク・ダイヤの存在を知る。ダニーにとってはピンク・ダイヤはこの世界から抜け出すチャンス。とはいえ、状況によっては長年身に染みついた悪が、どう作用するかは彼自身にもわからなさそうだ。

釈放されたダニーは、バーでアメリカ人ジャーナリストのマディー・ボウエン(ジェニファー・コネリー)と出会う。彼女はRUFの資金源となっているダイヤ密輸ルートを探っていて、ダニーの正体を知ったことで、匿名でいいからと情報提供を求めてくる。

マディーが追っているのは密輸の証拠か、ジャーナリストとしての名声か。自分の書いた記事を読んだからといって誰かが助けにくるわけではないし、また自分が悲しみを利用して記事を書いていることも自覚している。とはいえ「確かにひどい世だが、善意もある」と思っていて、ダニーにはそれがないと言い放つ。

ダニーは裏から手を回してソロモンを釈放させ、彼にはダイヤと引き換えに家族探しを手伝うことを、マディーにはジャーナリストの持つ情報でソロモンの家族を探してくれれば密売の情報を提供することを持ちかける。

それぞれの思惑を持った3人が目指すのは、ギニアにあるアフリカで2番目に大きい難民キャンプであり、ソロモンの息子ディア(カギソ・クイパーズ)がRUFによって少年兵に仕立て上げられたところであり、ピンク・ダイヤの隠し場所である。

キャンプでソロモンは妻と娘に再会するが、ディアの行方はわからない。難民が100万人もいるのに簡単に見つかってしまうのは映画だから仕方がないのか。それとも難民リストで行き先が判明したくらいだから、意外とそういう情報は整理されているのか。難民に反乱兵が紛れ込んでいる可能性があるので停戦までは解放しないというようなことも言っていたが、だとすると難民キャンプというのは収容所でもあるのか。

そんなことは考えたこともなかったが、むろん、映画はそこにとどまってなどいない。あくまで娯楽作だから、市街戦にはじまって、内戦も激化するし、少年兵の襲撃があったり、ダニーの要請した大佐の軍隊がやってきたりと、アクションシーンでも大忙しだ。が、殺伐とした風景を続けて見せられたせいか、感覚が麻痺してしまって、単調にさえ感じていたのだから困ったものだ。

ディアを見つけたソロモンが、その息子から銃を突きつけられる場面は衝撃的だが、ソロモンの説得でおさまるのを当然と思って観ていては、あきれられてしまうかも。しかし前半にあった少年兵に育てあげていく場面はすごみがあった。そうしてこれは、形こそ違え9歳で両親を殺され(母親はレイプも)、傭兵になっていたダニーの生い立ちではなかったか。

映画はRUFから子供たちを取り戻して助けている元教師のベンジャミン(ベイジル・ウォレス)を登場させて希望を語らせ、ソロモンにも「あの子が大人になって平和になればここは楽園になる」と言わせているのだが、さすがに素直にはうなずけない。

ダニーはソロモンの願いを叶え、ピンク・ダイヤも手に入れるのだが、深手を負い、自分の運命を知ることになる。追っ手をひとりで迎えるちょっとかっこつけの場面ではあるが、ディカプリオいいかも。ソロモンに「息子と家に帰れ」と言うセリフは、自分のような人間を作るなと言っているようだ。

最後のマディー(はすでにダニーに密輸について書かれた手帳を託されて立ち去っていた)との電話は、ソロモンのことをたのんだ他は会えてよかったといった簡単なものだが、これも泣かせる。そういえば最初の方とはいえ、マディーには「あなたが証言を拒み、私と寝る必要がないなら去ってよ」とまで言わせていたくせに、あのまま2人はキスもしていなかったのな。

最後は、ロンドンでマディーが取引の写真を撮り、真相が書かれ、ソロモンの証言も得てダイヤ密輸のからくりが暴かれる。これが付け足しのように思えてしまうのは、ダニーによってリベリアに空輸したあとリベリア産の偽造書類で輸出というのがすでに観客(マディーに言ったのだが)には周知ということもあるが、ディカプリオを山で殺してしまったからとかね。

2003年にはキンバリープロセス(ダイヤモンド原石の国際認証制度)の導入で紛争ダイヤが阻止されるようになり、シエラレオネは平和になったが、まだ20万の少年兵がいるというような内容の字幕がでる。あまりにも簡単に平和という言葉がでてきたので、疑ってしまったが、内戦が終結したという意味でなら本当のようだ。ただこの少年兵というのは、どこにどうやっているのだろうか。

どうでもいい話だが、デビアス社の給料3ヶ月分のダイヤモンドのCMは流れなかった。ってあれが映画館であきるほどかかっていたのはもう10年?くらい前でしたね。

 

【メモ】

1999年を印象付けるのに、アフリカのテレビでもクリントンの不倫が流れていた、という演出。いつまで経ってもこうやって使われちゃいますねー。

元教師のベンジャミンがRUFから子供を助けることなど不可能そうだが、彼によると地元の司令官は昔の教え子なのだそうだ。

〈070517追記〉ウィキペディア(Wikipedia)の「ブラッド・ダイヤモンド」の項目に「この映画では、反政府勢力のRUF側にのみ少年兵が登場するが、実際にはシエラレオネ政府軍も少年たちを兵士にしていた」という記事があった。

原題:Blood Diamond

2006年 143分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:今泉恒子

監督:エドワード・ズウィック 製作:ジリアン・ゴーフィル、マーシャル・ハースコヴィッツ、グレアム・キング、ダレル・ジェームズ・ルート、ポーラ・ワインスタイン、エドワード・ズウィック 製作総指揮:レン・アマト、ベンジャミン・ウェイスブレン、ケヴィン・デラノイ 原案:チャールズ・リーヴィット、C・ギャビー・ミッチェル 脚本: チャールズ・リーヴィット 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ダニー・アーチャー)、ジャイモン・フンスー(ソロモン・バンディー)、ジェニファー・コネリー(マディー・ボウエン)、マイケル・シーン(シモンズ)、アーノルド・ヴォスルー(大佐)、カギソ・クイパーズ(ディア・バンディー)、 デヴィッド・ヘアウッド(ポイズン大尉)、ベイジル・ウォレス(ベンジャミン・マガイ)、 ンタレ・ムワイン(メド)、スティーヴン・コリンズ(ウォーカー)、マリウス・ウェイヤーズ(ヴァン・デ・カープ)

ブラックブック

テアトルタイムズスクエア ★★★☆

■事実に着想を得た「出来すぎた」物語

ハリウッド監督になっていたポール・バーホーベンがオランダに戻って作った娯楽色たっぷりのレジスタンス戦争映画(「事実に着想を得た物語」という字幕が出る)。

ユダヤ人歌手のラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)は、湖に出ていた時に隠れ家にしていたオランダ人の農家が爆撃機に攻撃され、知り合ったロブ(ミヒル・ホイスマン)という青年のところに身を寄せるが、夜にはオランダ警察のファン・ハイン(ピーター・ブロック)に知られてしまう。「オランダの警察には善人が多い」というハインの手引きで脱出することを決めたラヘルは、父に頼れと言われていた公証人のW・B・スマール(ドルフ・デ・ヴリーズ)を訪ねる。

スマールから父の金の一部を手にしたラヘルはロブと一緒に船着き場へ向かい、そこで合流した別のユダヤ人グループの中に両親や弟を発見する。が、乗り込んだ船は夜更けにドイツ軍の襲撃を受け、皆殺しのうえ金品を略奪されてしまう。川に飛び込んで難を逃れたラヘルは、農民に助けられ、チフスにかかった遺体に化けて検問を抜けハーグに着く。そこで彼女は髪をブルネットからブロンドに、名前をユダヤ人名からエリス・デ・フリースに代え、レジスタンスの青年ティム・カイパース(ロナルド・アームブラスト)と彼の父親でリーダーでもあるヘルベン・カイパース(デレク・デ・リント)の無料食堂で働くことになる。

5か月後にレジスタンスの仲間の女性が脱落したことで、エリスに白羽の矢が当たる。連合国からの投下物資の移送に女性を同伴して注意をそらすのだという。元医師のハンス・アッカーマンス(トム・ホフマン)と恋人を装って列車に同乗するが、機転をきかすうち、エリスはナチス諜報部長のムンツェ大尉(セバスチャン・コッホ)の個室に入り込んでしまう。が、そのことで2人は検閲の目をそらすことに成功する。ほどなく武器輸送が発覚してティムたちが捕まってしまう。ヘルベンは彼らの救出のため、エリスにムンツェに近づいてほしいと申し出る。

かなりすっ飛ばしたつもりだが、この調子で粗筋を書いていたら少なくてもあと3倍は書かなくてはならないだろう。とにかく密度の濃い物語で、次々に事件が待っているのだ。しかもそれが巧みに絡まって、思わぬ登場人物が思わぬところで活躍するというサービス満点の脚本になっていて、144分という長さをまったく感じさせない。

が、その盛り沢山さが、逆に観客に立ち止まる余裕を与えず、余韻にひたらせてくれないうらみにもなっている。エリスの隠れ家生活の描写で、隠れ家を提供している農家の主人が、エリスに「イエスに従えばユダヤ人は苦しまなかった」と言ったり、聖書を暗記させエリスにお祈りをさせる場面があって、私などそのあたりの事情をもっと知りたくなったものだが、映画はどんどん先に行ってしまうというわけだ。それはエリスが家族を失うところでも同じで、場面としての残虐さは叩き込まれても、感情の永続性という配慮はない。

ムンツェに取り入ったエリスはそのままパーティに行くことに成功し、そこにピアノを弾く家族を殺したフランケン(ワルデマー・コブス)を見つけるのだが、歌手のエリスは一緒に歌を歌わなければならなくなる。この場面はかなり衝撃的で演出として心憎いものだが、ここでも物語はとどまらずに進行する。

フランケンの愛人ロニー(ハリナ・ライン)と親しくなり、諜報部で働きだし、スマールによるムンツェとのティムたちの助命交渉があり、盗聴器を設置するが、ムンツェにはユダヤ人であることを見破られ、でも恋に落ち、盗聴からはファン・ハインとフランケンの陰謀が判明する。ロニーから仕入れたフランケンのユダヤ人殺害による金品の着服をカウトナー将軍(クリスチャン・ベルケル)の前で暴こうとするムンツェだが、証拠は見つけられず、逆にレジスタンス側と連絡をとっていたことで逮捕されてしまう。

さらに端折ってみたが、まだ物語を終わらすことができない。細かく書かないと公証人のスマール(彼の持っていた黒い手帳がタイトルになっている)やハンスの悪巧みを、印象的に暴くことが出来なくなってしまうのだが、それは映画を観て楽しめばいいことなのでもうやめることにする。ようするに、レジスタンス側にもドイツ軍側にも、自分さえよければと、敵と裏取引していた人間が多数いたということをいいたいのだろうが、ここまで人間関係を複雑にしてしまうと、どんでん返しや謎解きの娯楽性の方ばかりに目がいってしまわないだろうか。

物語をいじくりまわしたせいで、終戦後にナチに通じていたとみなされ虐待を受けていた(汚物まで浴びせられていた)エリスを、レジスタンスの英雄になっていたハンスが助けた意味がわからなかったりもする。多分自分で確実に始末しておかないと安心できなかったのだろう(さらに言うなら戦争中のハンス自身は危険を犯し過ぎだし、裕福なユダヤ人狙いということでは、スマールならばもっと簡単かつ安全に財産を横取り出来たのではないか)。ここでも鎮痛剤と偽られてエリスがインシュリンを打たれてしまうのだが、大量のチョコレートで難を逃れるといった見せ場がある。

英国は降伏後もドイツ軍の刑の執行を認めているという説明があって(カウトナー将軍の協力の下に)、終戦に希望を見出していたムンツェは処刑されてしまう。エリスはハンスから財宝を取り戻すが、私のものではなく死者のものだと言う。

この戦後風景の中で面白いのがロニーで、街中では髪を切られてナチの売女と晒し者になっている女性がいるというのに、彼女は戦勝パレードをしている新しい彼にちゃっかり乗り換えてしまっているのだ。それも「笑顔を振りまいていたらこうなった」というのだから彼女らしい。彼女はエリスがスパイだと知った時も、マタハリのガルボは捕まっちゃうのよ、とは言うが、エリス自身のことについてはとやかく言わなかったっけ。

ローリーは1956年10月にはイスラエルに夫とバス旅行にやってきていたから、幸せにやっているのだろう。そこでエリスと再会するというのが映画のはじまりだった。エリスも夫に2人の子供と仲良くやっているらしい。そして、このイスラエルのキブツの建設に、エリスが取り戻したユダヤ人犠牲者の資金があてられたことが述べられて終わりとなる。

1956年10月という設定は、興味深いものだ。29日にはイスラエルがシナイ半島へ侵攻を開始して第2次中東戦争がきって落とされるからだ。何事もいろいろなところで繋がっているということなのだろうが、それはまた別の話……。

【メモ】

ムンツェの趣味は切手蒐集(「占領した国の切手を集めている」)で、だから地理学者になったと言っていた。

エリスは陰毛まで染めて敵地に乗り込むが、ムンツェにはすぐ見破られてしまう。「ブロンドが流行ですもの」と言い逃れるが、ムンツェは「金髪か、完璧主義者だな」と余裕綽々だ。ムンツェにはあとにも「私を甘く見るな」というセリフがある。そりゃそうだろう。でなきゃナチス諜報部長にまでなれなかっただろうから。

ムンツェは、妻子を英国軍の爆撃で失っていた(「ゲーリングは英国の爆弾はドイツには落ちないと言っていたがハンブルグに……」)。

フランクは盗聴を知っていたから、ムンツェの行動を予測したのか?

「戦争は終わったよ。僕たちにははじまりだ」というのはエリスへの慰めか。ムンツェにしては甘い予測だ。

父にもらったライターをハンスのところで見つけるラヘル(エリス)。

1942年からハンスはユダヤ人を助けていた。ラヘルの弟はハンスの手術を受けたようだ。この時すでにフランケンと取引していたことになる。

原題:Zwartboek / Black Book

2006年 144分 スコープサイズ オランダ、ドイツ、イギリス、ベルギー 日本語字幕:松浦美奈 オランダ語監修:池田みゆき

監督:ポール・バーホーベン 製作:テューン・ヒルテ、サン・フー・マルサ、ジョス・ヴァン・ダー・リンデン、イエルーン・ベーカー、イェンス・モイラー、フランス・ヴァン・ヘステル 製作総指揮:グレアム・ベッグ、ジェイミー・カーマイケル、アンドレアス・グロッシュ、ヘニング・モルフェンター、アンドレアス・シュミット、マーカス・ショファー、チャーリー・ウォーケン、サラ・ギルズ 原案: ジェラルド・ソエトマン 脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・バーホーベン 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ 衣装デザイン:ヤン・タックス 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(W・B・スマール/公証人)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)、ロナルド・アームブラスト(ティム・カイパース)、スキップ・ゴーリー(ジョージ/ロニーの夫)

不都合な真実

TOHOシネマズ六本木ヒルズ ★★★☆

■これだけの事例を取り上げながら、意外と楽観的!?

民主党クリントン政権下の副大統領で、2000年の大統領選挙では共和党のジョージ・W・ブッシュと激戦を展開し、「一瞬だけ大統領になったアル・ゴア」(これは彼の自己紹介)。彼は、自ら「打撃だった」と語る大統領選敗北のあと、「人々の意識が変わると信じて」地球温暖化問題のスライド講座を始め、米国のみならずヨーロッパやアジアなどにも足をのばし、すでに1000回以上の講演を行ったという。

それを記録したのが本作品だが、ゴアが出版物や放送などのメディアではなく、直接聴衆に語りかけるスタイルをとっているのが興味深い。選挙運動で培ったものなのかどうかはわからないが、人々の意識を変える方法としてこれが1番と思ったようだ。ゴアはもう大領党選には出馬しないようだが、このまま選挙用としても使えそうなデキである。

講座は、この14年間に暑さが集中していること、ほとんど消えてしまったキリマンジャロの雪、海水面の上昇、ハリケーンの大型化、多発する竜巻、モンバイで起きた24時間に940ミリという記録的大雨、溺死したホッキョクグマ、南極の棚氷の縮小……などの事例や予測が、ユーモアを交えた力強い、いかにも政治家らしい口調で語られている。格別目新しい情報というのではないが、スライドを効果的に使ったわかりやすいものになっている(ただし、字幕でゴアの解説とスライドの画面を追うのは大変で、日本人がより内容を知りたいと思うのなら、同時に発売された本を見た方がずっといいだろう)。

温暖化かどうかは、地球規模で考えると誤差の範囲内でしかないという見方もあるが、とはいえ近年の異常現象は人為的なものが大いに影響しているとみるべきで、だからやはり手は打たなければなるまい。

この映画が立派なのは(というか米国があまりにもだらしなさすぎるからなのだが)、米国の責任に言及していることだ。米国人の意識の低さは度を超しているからね(だからってこれを観て、日本は米国よりマシなんて思う人がでませんように)。そしてその矛先は当然ブッシュにも向けられる。ブッシュの側近が気象報告を改竄したのは、彼らがそこに「不都合な真実」を発見したからだ、とはっきり言っていた。巻頭では「政治の問題ではなくモラルの問題」のはずだったのだけど、ここだけは譲れなかったのだろう。

そしてゴアらしいというか、やはり元政治家であり米国人だなと思うのは、正しい温暖化対策を講じさえすれば、それは防げるし経済も発展すると思っているようなのだ(私自身は悲観的。努力はしているつもりだが)。オゾンホール対策の時のようなことができる(フロン削減は実現できたが、だからって間に合ったかどうかはまだわかっていないのだ)はずだとも言っていた。そして、それを米国の民主的プロセスを使って変えよう。危機回避を提案している議員に投票を。ダメなら自ら立候補しよう、と繰り返す。

ゴア自身について語られていた部分も多い。そもそもゴアがどうして環境問題に本気で取り組むようになったかというと(政治家としての関わりは相当古いらしいが)、それは1989年に起きた6歳の息子の交通事故がきっかけという。その時、当たり前の存在(地球)を子供たちに残せなくなることの危機感を強く感じたらしい。

また、豊かな少年時代を送ったゴアであったが、10歳年上の姉がタバコによる肺ガンで亡くなったこと。そのことで父親は家業のタバコ栽培をやめたという話もあった。

この映画を観た誰しもが「あの選挙でゴア氏が当選して大統領になっていたら」と思いそうだが、あ、でもゴアも昔はブッシュのイラク戦争を認めていなかったっけ(記憶が曖昧)。ま、それでもブッシュよりはずっとマシだったろうけどね。

(070228追記) アカデミー賞の「最優秀長編ドキュメンタリー賞」に輝いたのは何はともあれ喜ばしい。新聞によると、授賞式でゴアは「政治の問題ではなくモラルの問題」と映画にあったメッセージを繰り返していたようだが、これは政治を信じている映画としか思えないのだけど。大統領選の立候補もきっぱり否定とあるが、自ら立候補しろって言っていてこれではな。

(070401追記) 2001年11月12日付の朝日新聞夕刊に「ゴア氏、今ごろ大統領だった 激戦のフロリダ 報道機関が州票再点検」という記事があった(今頃こんな古い新聞を見ているというのがねー)。そこには「調査結果について、ゴア氏は、『昨年の大統領選は終わっている。現在、わが国はテロとの戦いに直面しており、私はブッシュ大統領を全力で支える』と語った。」と書かれている。

 

【メモ】

「エコサンデーキャンペーン」:日本テトラパック株式会社のサポートで500円で鑑賞できた。「地球温暖化」へのメッセージを一人でも多くの方にご覧頂きたく実現した画期的な企画です!-とのことだ。TOHOシネマズ六本木ヒルズ、TOHOシネマズ川崎、TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、ナビオTOHOプレックス、TOHOシネマズ二条の5館だけだが、1月21日から2月11日までの4回の日曜日に実施された。

第79回アカデミー賞2部門受賞。「最優秀長編ドキュメンタリー賞」「最優秀歌曲賞
“I Need to Wake Up” byメリッサ・エスリッジ(Melissa Etheridge)」

原題:An Inconvenient Truth

2006年 96分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平+(世良田のり子)

監督:デイヴィス・グッゲンハイム 製作:ローレンス・ベンダー、スコット・Z・バーンズ、ローリー・デヴィッド 製作総指揮:デイヴィス・グッゲンハイム、ジェフ・スコール 編集:ジェイ・キャシディ、ダン・スウィエトリク 音楽:マイケル・ブルック
 
出演:アル・ゴア

プラダを着た悪魔

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■ファッションセンスはあるのかもしれないが

ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、何故か一流ファッション誌「ランウエイ」のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のセカンドアシスタントに採用される。大学では学生ジャーナリズム大賞もとった優秀なアンディだが、ファッションには興味がないし(どころか見下してもいた)、「ランウエイ」など読んだことがなく、世間では憧れの人であるミランダのことも知らないという有様。話を面白くしているのだろうが、ここまでやるとアンディがお粗末な人になってしまっている。

腰掛け仕事のつもりでいたアンディだが、ミランダの容赦のない要求に振り回され、ジャーナリストとはほど遠い雑用の毎日を送ることになる。が、次第にプロとしての自覚が出て、という話はありがちながら、わかりやすくて面白い。

ミランダの悪魔ぶりとアンディの対応。冷ややかな目の周囲と思いきや、案外心遣いのある先輩たち。アンディの負けん気は、当然仕事か私生活かという問題にもなるし、仕事絡みで一夜のアバンチュールまで。ミランダの意外な素顔に、思いがけない内紛劇。1つ1つに目新しさはないものの、次から次にやってくる難題が、観ている者には心地よいテンポになっている。

だからアンディと同じような、ファッションに興味のない人間も十分楽しめる。が、サンプル品(でもブランド品)で着飾ったアンディより、おばあちゃんのお古を着ているアンディの方が可愛く見えてしまう私などには、車が横切ったり建物に隠れたりする度に、違う服で現れるアンディという演出は効果がない(それに着飾っただけで変わってしまうのだったら安直だ)。

そんな街角ファッションショーはどうでもいいが、ミランダが毛皮などをアンディの机に毎度のように乱暴に置いていくのは気になってしかたがない。ミランダがただの悪魔ではなく、部下の資質ややる気などを試し、そして育てようとしていることを伝えたいのだろう。それはわかるのだが、細かい部分で文句付けたいところがあっては、悪魔の本領を発揮する前に品格を問われてしまうことになる。

自分の(双子の)子供にハリーポッターの新作を誰よりも先に(出版前に)読ませたい、という難題をアンディに課すのは公私混同でしかないし、なによりミランダには食べ物に対するセンスが欠けている。職場にステーキやスタバのコーヒーを持ち込ませて、果たしておいしいだろうか。予定が変わって、あの冷めたステーキは食べずにすんだようだが、頭に来たアンディがそれをごみ箱行きにしてしまうのは、食べ物を粗末にするアメリカ人をいやというほど見せつけられているからもう驚きはしないが、やはりがっかりだ。

アンディの私生活部分がありきたりなのもどうか。ネイト(エイドリアン・グレニアー)との関係がもう少しばかり愛おしいものに描けていればと思うのだが、それをしてしまうとクリスチャン(サイモン・ベイカー)とパリで寝てしまうのが難しくなってしまうとかね。クリスチャンに誘われて、「あなたのことはよく知らないし……異国だし……言い訳が品切れよ」と言っていたが、こういうセリフはネイトと一緒の場面にこそ使ってほしい。それにしてもこういう女性のふるまいを、ごんな普通の映画でもさらっと描く時代になったのか、とこれはじいさんのつまらぬ感想。

また、アンディにミランダとの決別を選ばせたのは、サクセスストーリーとしてはどうなのだろう(仕事を投げ出すことは負けになってしまうという意味で)。ま、これがないとミランダがアンディのことをミラー紙にファクスで推薦していてくれていたという、悪魔らしからぬ「美談」が付けられないのだけどね。

文句が先行してしまったが、離婚話でアンディにミランダの弱気な部分を見せておいて(仕事に取り憑かれた猛女と書かれるのはいいが、娘のことは……と気にしていた)、最後に危機をしたたかに乗り切る展開は鮮やかだ。アンディの心配をよそにちゃんと手を打っていたとは、さすが悪魔。一枚上手だ。ただ、とまた文句になってしまうが、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の昇進話とこの最後のからくりの繋がりは少々わかりづらかった。

先輩アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)の挿話もよく考えられたもので納得がいく。ミランダがナイジェルにした仕打ちをアンディがなじると、あなたもエミリーにもうやったじゃない、と切り返される場面では、仕事の奥深さ、厳しさというものまで教えてくれるのである。

  

【メモ】

見間違いかもしれないが、久々にスクリーンプロセス処理を観たような。

原題:The Devil Wears Prada

2006年 110分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督:デヴィッド・フランケル 製作:ウェンディ・フィネルマン 製作総指揮:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、カーラ・ハッケン、カレン・ローゼンフェルト 原作: ローレン・ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』 脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール 衣装デザイン:パトリシア・フィールド 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ
 
出演:アン・ハサウェイ(アンドレア・サックス)、メリル・ストリープ(ミランダ・プリーストリー)、エミリー・ブラント(エミリー)、スタンリー・トゥッチ(ナイジェル)、エイドリアン・グレニアー(ネイト)、トレイシー・トムズ(リリー)、サイモン・ベイカー(クリスチャン・トンプソン)、リッチ・ソマー(ダグ)、ダニエル・サンジャタ(ジェームズ・ホルト)、レベッカ・メイダー、デヴィッド・マーシャル・グラント、ジェームズ・ノートン、ジゼル・ブンチェン、ハイジ・クラム

武士の一分

新宿ジョイシネマ1 ★★★

■武士の一分とは何か

最初に毒味役についての説明が字幕で出る。「鬼役」という別名があることは知らなかったが、このあと丁寧なくらいに毒味場面が進行するから、説明はまったく不要だ。言葉としても推測可能と思うのだが。対して「一分」がわかる現代人はどれほどいるだろうか。新明解国語辞典には「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳」とある。広辞苑では「一人の分際。一身の面目、または職責」だ。ふーん。あ、よくわかっていないことがバレてしまったか。いや、何となくは知ってたのだけどさ。

東北の小藩で三十石の下級武士である三村新之丞(木村拓哉)は、毒味役に退屈しきっていたが、その毒味の場で毒にあたって失明してしまう。この時代に失明することがいかに大変なことか。新之丞は命を絶とうとするが、妻の加世(檀れい)に、死ねば自分もあとを追う、と言われては思いとどまるしかない。実入りは減っても「隠居して、道場を作って子供に剣を教えたい」などと、中間の徳平(笹野高史)に話していたのに。

親戚連中が集まっての善後策は、全員が面倒を見たくないだけだから、ろくな話にならない。叔母の以寧(桃井かおり)も、失明という事実が判明するまではただの口うるさいおっせかいと片付けられたのだが。

誰かの口添えで少しでも家禄をもらえるようにするしかないという無策な結論に、加世はつい先日声をかけてもらった島田藤弥(坂東三津五郎)を思い出し、屋敷を訪ねる。藩では上級職(番頭)の島田は、加世には嫁入りする前から想いを寄せていて、チャンスとばかりに加世を手篭めにしてしまう。

物語の進行は静かだ。時間軸が前後することもほとんどない(加世の回顧場面くらいか)。新之丞の暮らしぶり、加世との仲睦まじいやり取り、父の代から仕える徳平とにある信頼関係と、事件が起きる前、そこにあるのは平和ボケともいえる風景である。なのに5人も毒味役がいて大仰なことよ、と思ったがこれは食材によって割り当てが違うことによる。

もっとも新之丞が毒にあたったことで、城内は戒厳令が布かれたかと思うほどの大騒ぎとなる。赤粒貝という危険な食材を時期もわきまえずに使ったことがわかって一件落着と思いきや、上司の樋口作之助(小林稔侍)の切腹というおまけがつく。居眠りばかりしていて、年をとったと新之丞たちにささかれるような樋口ではあったが、一角の武士だったのだ。

毒にあたった場面での新之丞の行動が不可解だ。毒味役ならば異変に気付いた段階ですぐ申し出なければならないはずなのに、大丈夫などと言っているのである。新之丞は何恰好をつけているのか。他に説明もなくこれで終わってしまうのだが、どう考えてもおかしい。事実、藩主は食事を口にする寸前だったのだ。これだと、家名存続、三十石の家禄はそのままで生涯養生に精を出せという「思いもかけぬご沙汰」には繋がらないではないか。

ねぎらいの言葉があるということで新之丞は久々に登城し、廊下のある庭で藩主を待つ。この場面がいい。藪蚊の大群と闘いながら、同僚(上役か)と2人で座して延々と待つのだが、やっと現れた藩主は新之丞たちを目に止めるでもなく「御意」と言い残しただけですたすたと消えてしまうのである。この歯牙にもかけぬ振る舞いに、馬鹿殿様と観客にも思わせておいて、あとで、新之丞の事故は職務上のこと故、と見るべき所はちゃんと見ていたのだよ、という演出だ。

そう、「思いもかけぬご沙汰」は島田の口添えからではなく、藩主の意思だったのである。このこととは別に、以寧の告げ口から加世の行動(島田にあのあとも2度も呼び出されていた)に疑念を抱いた新之丞は、徳平に加世を尾行させる。詰問した加世からすべてが語られるが、俺の知っている加世は死んだと離縁(新之丞はまだこの時、口添えではなく、藩主直々の裁可であったことは知らない)、島田との果たし合いへと進んでいく。

いくら新之丞が剣の達人といっても今や盲目。しかも相手は藩の師範でもある。師匠の木部孫八郎(緒形拳)の道場で執念の稽古にも励むが、勝ち目があるとはとても思えない。新之丞のただならぬ気迫を感じ取った木部は、事情によっては加勢を、と申し出るが、新之丞は「勘弁してくんねぇ、武士の一分としか」と答えるのみ。

期待を高めておいて、しかし、決闘場面はつまらないものだった。がっかりである。腕を切られた島田は、事情を誰にもうち明けることなく切腹。「あの人にも武士の一分があったのか」となるのだが、そう言われてもねぇ。

新之丞の武士の一分も、理由はともかくようするに私憤にすぎず、だからといって助太刀を断ったことだけをいっているとも思えない。島田に至っては事情など証せるはずもなく、しかしあの傷のまま何も語らないではすまないだろうから、生き恥をさらすよりはまし程度であって、それが果たして武士の一分といえるようなものなのか。武士の一分が、潔い死に方というのなら(違うか)この場合は説明がつくが、それだと「必死すなわち生くるなり」で島田にむかっていった新之丞は?と何もわからなくなる。もはや武家社会そのものが面倒で、現代人には理解不能なものともいえるのだが。

このあとは徳平のはからいで身を隠していた加世が、芋がらの煮物を作ったことで、新之丞の知るところとなり……という結末を迎える。

いい映画なのに、タイトルにこだわったことでアラが目立ってしまった気がするのだ。加世にしても徳平に尾行されているのを知っていたのなら、何故その時点で白状してしまわなかったのか。それと新之丞の行動は、加世を大切に思ってというよりは、自分本位な気がしなくもない。これでも江戸時代の男にしては上出来なのだろうが。

  

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:山田洋次 原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』 脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎 撮影:長沼六男 美術:出川三男 衣裳:黒澤和子 編集:石井巌 音楽:冨田勲 音楽プロデューサー:小野寺重之 スチール:金田正 監督助手:花輪金一 照明:中須岳士 装飾:小池直実 録音:岸田和美
 
出演:木村拓哉(三村新之丞)、檀れい(三村加世)、笹野高史(徳平)、坂東三津五郎(島田藤弥)、岡本信人(波多野東吾)、左時枝(滝川つね)、綾田俊樹(滝川勘十郎)、桃井かおり(波多野以寧)、緒形拳(木部孫八郎)、赤塚真人(山崎兵太)、近藤公園(加賀山嘉右衛門)、歌澤寅右衛門(藩主)、大地康雄(玄斎)、小林稔侍(樋口作之助)

フラガール

シネマスクエアとうきゅう ★★★

■「常磐ハワイアンセンター」誕生秘話

常磐ハワイアンセンターは今でもスパリゾートハワイアンズとして健在なのだと。私の世代だと常磐ハワイアンセンターは超有名だ。行ったことはないが、東北にハワイを作るという奇抜さに加え、その垢抜けなさを話題にしていた記憶がある。

その日本のテーマパーク(もちろんこんな言葉などなかったし、規模としてはどうなんだろう)の草分け的存在(初となると明治村だろうか)であるリゾート施設がオープンしたのが、昭和41(1966)年1月で、そこでの呼び物がフラダンスだったというのだから、なんとも驚きだ。そして、これが石炭産業の斜陽化からの脱却という苦肉の策で、温泉としてはもともとあったものの、坑内から湧出しているものを利用してのものだということもはじめて知った。

炭鉱の娘の紀美子(蒼井優)は、「ここから抜け出すチャンス」という早苗(徳永えり)に誘われてフラダンサーに応募する。父を落盤事故で失い、母(富司純子)と兄(豊川悦司)も炭坑で働いている紀美子の将来は決まっていたようなものだったが……。

ど素人の踊り子候補者たちに、訳ありのダンス教師の平山まどか(松雪泰子)。不況産業なのはわかっていても炭坑にしがみ付くしかない者と、ハワイアンセンターに就職した元炭鉱夫たちを配して、しかし映画は、すべてが予定調和に向かって進む。早苗が志半ばにして夕張に越して行かなければならなくなるのは例外で、幸せなことにハワイアンセンターをきっかけにした全員の再生物語になっているというわけだ。

もちろんリストラや落盤事故の悲哀も背景に描かれているし、紀美子の兄のことなどは、こと仕事に関していえば、まあテキトーに忘れ去られているのではあるが、なにしろ炭坑そのものがとっくの昔になくなってしまっていて、だからうやむやになっていてもいたしかたない面はある。それに痛みは当然だったにせよ、ハワイアンセンターは成功し、リストラの受け皿としてもそれなりに機能したのだから。

紀美子だったりまどかだったりと、多少視点が定まらないうらみはあるが、ひとつひとつの話はうまくまとまっていて、オープン日のフラダンスシーンに結実している。「オレの人生オレのもんだ」と家族に啖呵を切った紀美子が、正座の痺れで立ち去れなくなったりするような笑いは心得たものだし、早苗に暴力をふるう父親に怒ってまどかが男湯に乗り込んでいくというびっくり場面も上出来だ。

ただし、別れの場面や泣きの演出になるとこれが毎回のように冗長で、昔のこの地方の国鉄なら電車の発車を待っていてくれたのかもしれないが、こちらとしては、そうは付き合っていれない気分になる。

ほとんど知らなかった松雪泰子が根性のあるところを見せてくれた。センターの吉本部長役の岸部一徳もいい。「(ヤマの男たちは)野獣です。山の獣(けだもの)です。実は私も半年前までは獣でした」というセリフからしておいしいのだが、最後の方でもはや「よそものの先生」ではなくなったまどかに「先生、いい女になったな」というあたり、ちゃんと見る目があることをうかがわせる。富司純子はセリフに力がありすぎだ。

画面に再現された炭坑町(炭坑長屋?)やボタ山の遠景にも見とれたし、昨今あまり聞くことがなかった福島弁が新鮮だった。

   

【メモ】

フラにはダンスという意味も含まれているので、フラダンスという言い方をやめて「フラ」に統一しようとしているらしいが、フラダンスと日本語で発音しているもの(つまりは日本語なのだ)を無理矢理変える意味があるのだろうか。

画面上のタイトルは『HURA GIRL』。

この時点(映画の説明)で、全体の4割、2000人の人員削減が目標。社運を賭けたハワイアンセンターは、18億円を投じても雇用は500人。

ダンサー募集に人は集まったものの、フラダンスの映像を見て「オラ、ケツ振れねぇ」「ヘソ丸見えでねえか」とストリップと混同して逃げ出してしまい、最初に残ったのは3人(早苗と紀美子に子持ちの初子)のみ。それと会社の役に立って欲しいと男親が連れてきた小百合が「厳しい予選を勝ち残った者」(吉本部長がまどかにした説明)となる。

東京からきた平山まどかは、フラダンスはハワイ仕込みでSKD(松竹歌劇団)で踊っていたというふれこみだが、それは本当らしく、「SKDではエイトピーセス(何これ?)だったの」というセリフも。「自分は特別だと思っていたのに、笑っちゃうよね」というのがそのあとに続く。

宣伝キャラバンツアーではまだまだ半人前。ドサ回り(ドサからドサへ、だが)までやっていたのね。

紀美子の母は婦人会の会長で、最初は紀美子のフラダンスに猛反対していたが、娘の練習風景を見て「あんなふうに踊って人様に喜んでもらってもええんじゃないかって」と思うようになり、寒さで椰子の木が枯れそうだと聞くと「ストーブ貸してくんちゃい」とリヤカーを引いて家々をまわって歩く。

まどかはしつこくヤクザに付きまとわれるが、紀美子の兄が借用書を破ってしまう。

2006年 120分 (ビスタ)

監督:李相日(リ・サンイル) 脚本:李相日、羽原大介 撮影:山本英夫 美術:種田陽平 編集:今井剛 音楽:ジェイク・シマブクロ

出演:松雪泰子(平山まどか)、蒼井優(谷川紀美子)、豊川悦司(谷川洋二朗)、富司純子(谷川千代)、岸部一徳(吉本紀夫)、徳永えり(早苗)、山崎静代(熊野小百合)、池津祥子(初子)、三宅弘城、寺島進、志賀勝、高橋克実

ブレイブ ストーリー

新宿ミラノ2 ★☆

■何をやってもいいわけがない

宣伝も派手だったし、たまたま宮部みゆきの小説を続けて読んだこともあって期待してしまったが、恐ろしくつまらない作品だった。なにしろ展開が速すぎるのだ。長篇の映画化だから仕方がない面はあるにしても、緩急はつけないと。最初から最後までせっつかれていては物語に乗れない。

両親の離婚と母がそのショックで倒れてしまうという危機に直面した小学5年生のワタル。
謎の転校生ミツルの言葉に誘われるように、幽霊ビルの階段の上にある運命を変えるという扉を開く。そこはヴィジョン(幻界)と呼ばれる異世界で、ワタルは5つの宝玉を見つけ、女神のいる運命の塔を目指して旅に出る。という少年の成長物語。

宝玉の話もありきたり(どこぞのスタンプカードみたいに最初の1個はすでにあったりするのね)なら、途中、仲間ができていくくだりも定番ともいえるものだ。それはかまわないのだが、多分そこに至る過程をごっそり省略してしまっているから、キ・キーマやカッツ、それにミーナたちは、キャラクターとしての存在感も薄いし、なによりワタルとの連帯感が感じられないときてる。ミツルに至っては関係も一方的で、2人はとても友達とは思えない。

これでは「オレのためだけに生き」て、どこかで間違ったというミツルと、「願い事のためだったら何をやってもいいのかな?」と迷い、最後にはもう1人の自分と決着をつけ、運命を受け入れることになるワタルという対比が台無しだ。

せっかくのこのテーマを台無しにしているのは、ラストの描き方にもある。ワタルの運命は変わらないのに(離婚の成立、母は元気に)、ミツルの運命は変わっている(妹は生きている)のはどう解釈すればいいのだろう。一応子供向け映画でもあるのだから、ここはもっと単純でよかったのではないか。

そういえばイルダ帝国ってなんだったんだろ? 魔の力が解き放たれて戦争とかしてたよな。私には最後まで関係ない世界の話で、ワタルのようにヴィジョンを救わなきゃとは思えなかったのね。

【メモ】

雨粒がでかすぎ(雨を上からとらえたシーン)。

お試しの洞窟での「蛙は帰る」とんちはいただけない。

体力平均、勇気最低、総合評価35点で「見習い勇者」。

ドラゴンの子供の扱い。ネジオオカミ。ハイランダーになるワタル。

2005年 111分 アニメ

監督:千明孝一 、アニメーション制作:GONZO 、脚本:大河内一楼 、原作:宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』 、撮影:吉岡宏夫 、編集:瀬山武司 、音楽:Juno Reactor

声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、堤下敦[インパルス](犬ハイランダー)、板倉俊之[インパルス](若い司教)、虻川美穂子[北陽](小村克美/カッちゃん)、伊藤さおり[北陽](小川)、柴田理恵(ユナ婆)、伊東四朗(ラウ導師)、石田太郎(ダイモン司教)、樹木希林(オンバ)

不撓不屈

上野東急 ★★☆

■もやもやの残る飯塚事件

高杉良の同名の原作の映画化。この手の作品は、時間があるのなら原作を読んだ方がずっと面白そうだ。森川時久の名前は私には懐かしいものだったが、演出も古色蒼然としたもの。もっともこの映画の場合には、あながち間違った選択とは言い切れないだろう。それが、内容的にも昭和30年代という時代にも合致したものに見えたからだ。

ここで描かれる「飯塚事件」というのは、って何も知らなかったのだが映画によれば、税理士の飯塚毅(滝田栄)が経営基盤の脆弱な顧客の中小企業に勧めていた「別段賞与」や日当について、国税局との見解の相違があり、行き過ぎた国税局の嫌がらせの末、7年にもわたる裁判(税理士法違反で事務所の職員が4人も逮捕起訴される)闘争となった事件を指す。

国税局のふるまいにはあきれるばかりだが、中小企業が大企業に伍していくためには合法的節税に精励すべきという飯塚の主張にも、手放しで賛同できなかった。身近に脱税して当然と言って憚らない人間を何人も見てきた(あくどい税理士もいた)からだが、飯塚のすべきことはそういう言いがかりを付けられそうなことを推奨するよりは(合法ならどんな節税でもいいのだろうか)、税理士としてまぎらわしい税制を正すことではなかったかと思うのだ(専門外なので難しいつっこみはご勘弁。訊いてみたいことはいくつもあるが)。

映画にも飯塚の顧客が内緒で不正していたことが明るみ出てしまう話があり、飯塚は取引を中止するという「正しい」選択をするのだが、私にはどこまでももやもやが残った。が、映画からはそれることなので、これ以上は深く触れないでおく。

衆議院大蔵委員会税制小委員会であれだけ追求されながら、国税局に対してはどのようなお咎めがあった(なかった?)のかがはっきりしないので、映画としての爽快感には欠ける。自分の正しさが裁判で証明されただけで十分という飯塚の姿勢もこの展開も、事実を踏まえる必要があったにしても歯痒いばかりだ。

社会党の岡本代議士(田山涼成)はあれだけ怒ってたのに、矛先をおさめちゃったんでしょうか。いかにも政治家(おさめてしまったことも含めて)という感じの熱演だったのにね。永田議員の偽メール事件の轍を踏まないよう(って逆だけど)飯塚の妻(松坂慶子)が持ってきた情報の信憑性は確かめると、ちゃんと言ってましたがな。

滝田栄がさえないのは、愚直な人間を演じることの難しさか。助言されたこととはいえホテルに身を隠してしまうというのもねー。堂々としてないじゃん。この映画でよかったのは、顧客の1人であるエド山口や「良識ある」国税庁職員の中村梅雀でしょうか。

気になったのは、国会を映した映像に高層ビルがあったことで、セットやバスにいくらこだわっても、こういうことをするとせっかくの雰囲気が台無しになってしまう。CGには抵抗があるのかもしれないが、どちらがいいかは明白だ。

監督が森川時久で、国税庁告発というこの内容。けれどエンドロールには協賛企業の名前も連なっているのは、やはり時代かしらね。

 

【メモ】

一円の取りすぎた税金もなく、一円の取り足らざる税金もなからしむべし」(飯塚の事務所に掛かっていた言葉)

2006年 119分 角川ヘラルド映画

監督:森川時久 製作・企画:綾部昌徳 原作:高杉良『不撓不屈』 脚本:竹山洋 撮影:長沼六男 美術:金田克美 音楽:服部克久

出演:滝田栄(飯塚毅)、松坂慶子(飯塚るな子)、夏八木勲(法学博士・各務)、三田村邦彦(関東信越国税局直税部長・竹内)、中村梅雀(国税庁職員・重田)、田山涼成(岡本代議士)、北村和夫(植木住職)