ウィッチマウンテン 地図から消された山

新宿武蔵野館3 ★★

■信じているのはオヤジだが、実は子供向き映画

『星の国から来た仲間』(1975)のリメイク(注1)だが、それは今調べてわかったことで、情報をほとんど仕入れずに映画を観ているため、ディズニーのマークが出てきて、あれ、もしかして子供が主役?となって、はじめて子供向け映画だったことを知る。けど、それにしちゃ、そんな売り方をしてたっけな? 観客だって大人ばかりだし……なのだった。

タクシー運転手のジャック・ブルーノ(彼が主役かなぁ)は、乗せたつもりのない(気がついたら乗っていた)兄妹に、お金は払うからと荒野のど真ん中(の廃屋)まで連れて行ってくれるよう頼まれる。実は、というかすぐ正体は明かされてしまうのだが、セスとサラは宇宙人なのだった。

セスは分子密度を変えて物体をすり抜けられるし、逆に車にぶつかってその車を粉々にしてしまう。サラは念力で、ジャックの代わりに車を操ったりもするし、一番近くの人間の心が読め、動物とも話ができるのだ。もっともこれらは禁じ手に近いから、最初からこんなのを見せられるとげんなりで、宇宙人であることの証明はもっと違うことでしてくれりゃいいのに、と思ってしまう。

話の方もいきなりカーチェイスになるなど、テンポを優先しているから展開は大雑把。三人を追うのが、政府の特殊機関に宇宙人の暗殺者、そしてマフィアまで出てきてだからややこしい。UFOや宇宙人の存在を知られたくない政府は、とにかくセスとサラを確保しようとするし、暗殺者はセスとサラを追って地球にやって来て二人の行動を邪魔しようとする。マフィアの妨害はおまけみたいなものだが(ジャックはその世界から足を洗って運ちゃんになってたのね)、じゃまくさいことにはかわりがない。

追跡者は入り乱れているが、話はわかりやすい(単純というべきか。言葉で説明しただけのものだし)。高度な文明をもつセスとサラの星(地球とは三千光年離れているがワームホールを利用してやってきたという)だが、ひどい大気汚染で死にかけていた。地球の気候に目をつけ科学的な再生をはかろうとしているのたが、軍がてっとりばやい侵略を主張していて(文明は高度でも似たような問題をかかえているわけだ)、セスとサラが実験結果を持ち帰らないととんでもないことになってしまう、のだと。

何の実験なのか(汚染撤去のヒントなんだろうが? 最初に行った廃屋の秘密の地下に巨大な植物が育っていたから、実験は成功したってことなのか?)、何故子供のセスとサラ(見た目じゃわからないが、両親が、と言っていた)を寄越したのかは聞き漏らしてしまったのだけど(言ってた?)。

話としてはそれだけなんだが、派手なアクション場面はいくつも散りばめてあるし、円盤や基地なども丁寧に作られているからSFファンなら楽しめる。

が、やはり展開は単純すぎだろう。UFOの存在を主張しても信じてもらえないフリードマン博士(注2)などを話に強引に巻き込んではいるが、原題通り一直線に宇宙船の隠し場所であるウィッチマウンテンをめざしちゃうんだもの。

それにしても、これはやはり子供向け映画として宣伝すべきではないか。アクション映画の要素は多いが暴力に繋がるイメージはなく、だから死体がゴロゴロということもない。そこらへんの配慮はディズニーなんで行き届いているから、夏休み映画にはぴったりなのにねぇ。でも今時の子供はこの程度の話じゃ納得しないのかもね(私が小学生なら大喜びしてたはずだ)。

子供映画としての配慮があると書いたが、ロボットのような敵の暗殺者がヘルメットを取った時には、おぞましい頭部が見えてぞっとした。一瞬だからよかったものの……ってことは、セスもサラも同じような形状なんだよね(ええっ!?)。それとか、セスとサラが捕まったら解剖される、なんていうけっこう気味の悪い発言もあった。もちろん子供映画だからって、綺麗事だけで作れるなどとは思っちゃいないが。

考えてみるとジャックなんて、基本的には最初から二人を信じて行動していたからねぇ。どちらかというとセスの方が、人間を信じていいのかどうか再三迷っていたけれど、これはセスの方が正しいだろう。人間の少年少女に化けたのも正解。お人好しのジャックでも化け物だったら信じなかったろうから。

注1:オフィシャル・サイトにいくと、オリジナル版で兄妹を演じたアイク・アイゼンマンとキム・リチャーズとに、保安官とウェイトレスの役をあてたらしい(英語なんで違ってたらごめん)。これが日本語のサイトにないのは(ざっと見ただけだが)、二人が日本では知名度がないからなんだろうけど、でも教えて欲しいよね(プログラムには書いてあるのかも)。昔の映画の方が兄妹が幼いのは、実年齢にあった層を狙ってのことで、当時はこういう作りの映画が今よりずっと多かったと記憶する。

注2:ラスベガスのSFオタクの集まりで自説を熱く語るのだけど、オタクたち、というよりUFOを見たとか乗ったとか言ってるだけの人たちは、博士の話などロクに聞いちゃいなくて、結局、UFO隠しにやっきになっている政府もいけないが、UFOがいると言っている人たちもほとんどがインチキなのだと、フォローしてたような。

原題:Race to Witch Mountain

2009年 98分 シネスコサイズ 配給:ディズニー 日本語字幕:林完治

監督:アンディ・フィックマン 製作:アンドリュー・ガン 製作総指揮:マリオ・イスコヴィッチ、アン・マリー・サンダーリン 原作:アレグサンダー・ケイ 原案:マット・ロペス 脚本:マット・ロペス、マーク・ボンバック 撮影:グレッグ・ガーディナー プロダクションデザイン:デヴィッド・J・ボンバ 衣装デザイン:ジュヌヴィエーヴ・ティレル 編集:デヴィッド・レニー 音楽:トレヴァー・ラビン 音楽監修:リサ・ブラウン

出演: ドウェイン・ジョンソン(ジャック・ブルーノ)、アンナソフィア・ロブ(サラ)、アレクサンダー・ルドウィグ(セス)、カーラ・グギーノ(アレックス・フリードマン博士)、キアラン・ハインズ(ヘンリー・パーク)、トム・エヴェレット・スコット(マシスン)、クリストファー・マークエット(ポープ)、ゲイリー・マーシャル(ドナルド・ハーラン博士)、ビリー・ブラウン、キム・リチャーズ、アイク・アイゼンマン、トム・ウッドラフ・Jr

ウォーロード 男たちの誓い

新宿ミラノ3 ★★☆

■投名状の誓いの重さ

『レッドクリフ』二部作の物量攻勢の前では影が薄くなってしまうが、こちらもジェット・リー、アンディ・ラウ、金城武の共演する歴史アクション大作である。アクション映画としての醍醐味はもちろんだが(物量ではさすがにかなわないが、リアルさではこちらが上だ)、戦いの本質や指導者の力量といったことにまで踏み込んだ力作になっている。

時は十九世紀末、外圧によって大国清の威信は大いにぐらつき、足元からも太平天国の乱などが相次いで起きていた。

友軍の助けを得られず、千六百人の部下を失った清軍のパン将軍は、ある女に介抱され一夜を共にしたことで、再び生きていることを実感する。そしてウーヤンという盗賊に見いだされ、アルフ率いる盗賊団の仲間となり、三人は投名状という誓いの儀式(これも『三国志』の桃園の誓いと似たようなものだものね)を交わし義兄弟となる。また、アルフに会ったことでパンは、あの時の女リィエンがアルフの妻だったことも知るのだった。

アルフは盗賊団となった村人たちからの信望が厚く、統率力もあるのだが、所詮やっていることは盗賊行為のため、クイの軍隊(清)がやってきてそのことを咎められ、逆に食料を持ち去られてしまう。軍に入れば俸禄がもらえるのだから、盗賊行為はやめようというパンの助言で清軍に加わることになり(三人が投名状の誓いをするのはこの時)、手土産に太平軍を襲うことを決める。

結束した三人は次々と戦果をもたらし、パンを将軍とした彼らの力は清の三大臣も認めるところとなる。そして、ハイライトともいうべき蘇州城攻めになるのだが、ここには終戦を望まない三大臣や、どこまでも状況を見てからでないと動かないクイ軍らの思惑がからんだものになっていて、いってみればアルフのような盗賊の首領としてなら通用するような世界ではないところに、三人は来てしまっていたのだった(でありながら、開城はアルフの力によるという皮肉な流れとなっている)。

この戦いはお互いが共倒れになりそうな壮絶なものとなり、結果は投降兵の殺害という、アルフが蘇州城主を騙したようなことになってしまう(パンにとっては四千人の捕虜を養う食料がないという、当然の理由になるのだが)。このことがあって、信義を重んじるアルフと、大義のためなら手段を選ばないパン、という亀裂となっていく。ウーヤンはパンの野望の中にも希望を見ていて、だからパンの正しさを何度も口にするのだったが、パンとリィエンの密会現場を目の当たりにしたことで、リィエンを殺してしまう。

実はここにもクイたちの陰謀があって、アルフは闇討ちにあってしまうのだが、それをパンの仕業と思ったウーヤンは、南京攻略の功績により西太后から江南と江北両江の総督に任命されたパン(これはウーヤンも望んでいたことだったのに)までを殺してしまうことになる。

投名状の誓いをした三人の、それぞれの考え方の違いを鮮明にした図式的構成は申し分ないのだが、ウーヤンの行動がそれをぶち壊している。リィエン殺害も、アルフがパンに殺されないようにと思ってのことなのだが、そしてそれには投名状という絶対守られねばならないものがあるにしても、ウーヤンの行動はそうすんなりとは理解出来ない。ナレーションをウーヤン当人にしているにしては、手際の悪いものだ。

理解しづらいのはリィエンもで、冒頭のパン介護はすでにアルフの妻なのだから(パンは知らなかったこととこの時点では弁解もできようが)ずいぶんな感じがして、観ている間中、ずっと気になっていた。が、リィエンについては、ウーヤンに殺害されると知って、「来年は二十九」で「私を殺すと夫を救えるの」か、と彼に子供っぽい抗いの言葉を口にしている場面があり、これで、それこそ何となくではあるが、彼女の心情がわかるような気になってしまったのだった。

両江総督の馬新貽の暗殺事件(千八百七十年四月十八日)が基になっているとサイトにある。手元の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(中央公論社)をあたってみたが、この程度の概略世界史では簡単な記述にもならないようだ。けれど、この時期の列強と清の関係、また太平天国の乱など、どれも驚くような興味深い話ばかりで、もちろん、この映画で敵になる太平天国側についてほとんど何も触れていないのは、時間的制約からも正しい選択なのだが、もっともっと映画にされていい題材(時代)だろう。

もう当たり前になってしまった日本語版エンディングテーマ曲だけど、いい加減やめてほしいよね。

原題:投名状 英題:The Warlords

2008年 113分 中国、香港 シネスコサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:税田呑介

監督:ピーター・チャン 共同監督:イップ・ワイマン アクション監督:チン・シウトン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 脚本:スー・ラン、チュン・ティンナム、オーブリー・ラム 撮影:アーサー・ウォン プロダクションデザイン:イー・チュンマン 衣装:イー・チュンマン 音楽:ピーター・カム、チャン・クォンウィン

出演:ジェット・リー(パン・チンユン)、アンディ・ラウ(ツァオ・アルフ)、金城武(チャン・ウーヤン)、シュー・ジンレイ(リィエン)、グオ・シャオドン(蘇州城主ホアン)

ウォッチメン

新宿ミラノ ★★★★

■スーパーヒーローがいたら……って、いねーよ

ぶっ飛びすぎのトンデモ映画のくせして(だから?)ムズカシイっていうのもなぁ(わかりにくいだけ?)。なんだけど、これだけ仰天場面を続出されては、はい降参、なのだった。ま、トンデモ映画好き以外には勧められないが。

できるだけ予備知識は持たずに映画と対面するようにしている私だが、今回は概略だけでも頭に入れておけばよかったと後悔した。殺人事件の謎解き話で始まるのに、背景説明が多く、物語が進まなくてくたびれてしまったからだ。だからってゆったりというのではなく、二時間四十三分をテンポよくすっ飛ばして行くのだけれど、これでは息つく暇がない。

というわけで、詳しく書く自信はないので、気になったいくつかをメモ程度に残しておく(機会があればもう一度観るか、原作を読んでみたいと思っている)。

スーパーヒーローがいたら世界はどうなっていたか、じゃなくて、こうなっていたというアメリカ現代史が語られるのだが、そのスーパーヒーローがヒーローらしからぬ者共で、そう、彼(彼女)らは複数でチームまで組んで活躍していたらしい(アメコミヒーローの寄せ集め的設定なのか)。私にはこの設定からして受け入れがたいのだけど、まいいか。

彼らの行動原理は正義の御旗の元に、というより悪人をこらしめることに喜びを感じる三文自警団程度のもので、制裁好きがただ集まっただけのようにもみえるし、どころか、コメディアンが自分が手をつけたベトナム女性を撃ち殺してしまうという話まであるくらいなのだ。そんなだから市民の方も嫌気がさして、ヒーロー禁止条約なるものまで出来てしまう。

Dr.マンハッタンだけは放射能の影響で神の如き力を得(だから厳密にスーパーヒーローというと彼だけになってしまう)、ベトナム戦争を勝利へと導く(ニクソンが三期目の大統領って、憲法まで変えたのね)が、とはえい冷戦が終了するはずもなく、だもんだから(かどうか)話のぶっとび加減は加速、フルチンDr.マンハッタン(火星を住居にしちゃうのな)は、自らの存在をソ連(というか人類)に対する核抑止力とすべく……。

イメージは充満しているのに細部を忘れてるんで(観たばかりなのに!)うまく書けないのだが、神に近づいたDr.マンハッタンは人間的感覚が薄くなっていて、だから恋人だったシルク・スペクターも離れていくし(んで、ナイトオウルのところに行っちゃうんだな)、それは個に対する関心がないってことなんだろうか。これはオジマンディアスも似たようなもので、人間という種が生き残ればいいらしい(1500万人も見殺しだからなぁ)。そして、それを平和と思っているらしいのだ。

神に近づくってーのは(本人は否定してたけどね)、そんなものなのかと思ってしまうが、聖書のノアの方舟など、案外これに近いわけで、でもその辺りを考えていくには、最初の方で神経を磨り減らしてしまっていて、後半のあれよあれよ展開には茫然となってしまったのだった(このことはもう書いたか)。なんで唐突なんだけど、おしまい(あちゃ! これじゃロールシャッハが浮かばれないか)。

そうだ、驚愕のビジュアルっていうふれこみだけど、そうかぁ。確かにそいうところもふんだんにあるが、ベトナム戦争の場面など、半分マンガみたいだったよね?

まともな感想文になってないが、今はこれが限界。正義の振りかざし方に明快な答えでもあるんだったら書けそうな気がするんだけど、それは無理なんで。

8/7追記:やっと原作を読むことができた。思っていた以上に作り込まれた作品で、やはり映画の相当部分を見落としていたことがわかった。原作を知らないとよく理解できない映画というのもどうかと思うが(もっとも今や映画が一回限りのものとは誰も認識していないのかも)、特にジオマンディアスの陰謀という核になる部分が、今(もう四ヶ月も経ってしまったから余計なのだが)、かなり薄ぼんやりしていて、よくそんなで感想を書いてしまったものだと後悔しているくらいなのだ。やはりこの作品はもう一度観なくては。けどDVDとかを観る習慣がないんでねぇ。いつのことになるかは?

  

原題:Watchmen

2009年 163分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント R-15 日本語字幕:?

監督:ザック・スナイダー 製作:ローレンス・ゴードン、ロイド・レヴィン、デボラ・スナイダー 製作総指揮:ハーバート・W・ゲインズ、トーマス・タル 原作:アラン・ムーア、デイヴ・ギボンズ(画) 脚本:デヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー 撮影:ラリー・フォン 視覚効果スーパーバイザー:ジョン・“DJ”・デジャルダン プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:マリン・アッカーマン(ローリー・ジュスペクツィク/シルク・スペクター)、ビリー・クラダップ(ジョン・オスターマン/Dr.マンハッタン)、マシュー・グード(エイドリアン・ヴェイト/オジマンディアス)、カーラ・グギーノ(サリー・ジュピター/初代シルク・スペクター)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ウォルター・コバックス/ロールシャッハ)、ジェフリー・ディーン・モーガン(エドワード・ブレイク/コメディアン)、パトリック・ウィルソン(ダン・ドライバーグ/ナイトオウル)、スティーヴン・マクハティ(ホリス・メイソン/初代ナイトオウル)、マット・フルーワー(エドガー・ジャコビ/モーロック)、ローラ・メネル(ジェイニー・スレイター)、ロブ・ラベル、ゲイリー・ヒューストン、ジェームズ・マイケル・コナー、ロバート・ウィスデン(リチャード・ニクソン)、ダニー・ウッドバーン

ウィンター・ソング

新宿武蔵野館2 ★★

■錯覚関係ミュージカル

予告篇は観ていたが、まさかミュージカル(劇中劇がミュージカル映画)とはね……まあ、そんなことはどうでもいいのだが。香港製ミュージカルということがわかって危惧しなかったといえばウソになるが、その部分では堂々たる仕上がりになっている。ダンスシーンのカットが細切れなのが気になったが、ここは状況をかえた場面の繋ぎでなんとか逃げている。

物語は劇中劇に重ねるように、俳優であるリン・ジェントン(金城武)とスン・ナー(ジョウ・シュン)に、彼女の現在の恋人である映画監督ニエ・ウェン(ジャッキー・チュン)を交えた愛憎劇という趣向だ。

そこにリンとスンの10年前の過去の映像が入り込んでくるのだが、筋立てが単純なのでそうは混乱しない。劇中劇はサーカス団と設定こそ違うが、そこで踊り歌われる歌などはそっくりそのまま3人の心境に置き換えればいいという寸法だ。が、気になるところがいくつもあって、すんなり感情移入するには至らなかった。

まず、チ・ジニ演じるところの案内役(天使と書いてあるよ)の位置づけがよくわからない。「私はカットされたシーンを集めている。それが必要になった時、戻してあげるために。今もあるシーンを戻すためにここに来た」というのだが、彼はリンにとっては天使なのだが、スンやニエにとっては混乱の元でしかない。だから天使、と言われてもねぇ。結末の悲劇も当然と考えているのだろうか。

こんな案内役もいるし、流れからしても主役は金城武のリンであるはずなのに、タイトルや劇中歌の歌詞(お前は俺を愛してる。たぶん愛してるはず)を聴いていると、本当の主役はジャッキー・チュンのニエではないかと思えてくるのだが、これはまずいだろう。

もっともそのニエは、途中までスンが女優としてあるのは自分あってこそと思っているような男だし、最後は「男は自分を裏切った女は許さないものだが、復讐はしない。愛とはそういうものだ」と勝手に自己完結してしまう。そんなだから、ラストでは自分の死までも演出してしまうのだろう。

スンは、過去のある時点はともかく、野心に生きる道を選んだ女だ。偽装結婚もしてきたし、ニエ監督専門というレッテルを貼られようとも、トップ女優でいたいのだ。引き返す気などないのである。「過去は思い出さないためにある」から、回顧録はいやと言っていたのだ。なのに、ラストではそれは出版しちゃってるし。まあこれはリンとのことがあって考えがかわったということなのだろうけどさ。そして、ここを評価できればいいのだが、どうにもしっくりこないのだな。

それに比べると愛に生きてきたリンは、確かに一途ではあるが(これを「たぶん愛」と呼ぶのは簡単だが、となると何でもかんでも「たぶん愛」ということになってしまう)、それ故にやることがどうにも怪しいのだ。俳優として成功してからは、昔の思い出の場所を買い取り、そこに行く度にカセットに心情を吹き込んでいたなんて、度がすぎているとしか言いようがないではないか。

こんなに3人がバラバラなのに、愛といわれてもねー。「たぶん愛」じゃないよ、これ。錯覚だもん。

度々挿入されるプールのイメージもよくわからないままだった(ついでながら青島の塩水湖の話も不明)。

 

【メモ】

リンは10年前に、香港から北京へ映画監督になるためにやって来るが果たせず、香港で大スターになる。

スンは歯ぎしり女。

プロデューサーが難色を示すにもかかわらず、ニエ監督は団長役を自分で演じることにする。
原題:如果・愛 
英題:Perhaps Love

2005年 109分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:水野衛子

監督:ピーター・チャン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 撮影:ピーター・パウ 編集:ヴェンダース・リー、コン・チールン 音楽:ピーター・カム、レオン・コー
 
出演:金城武(リン・ジェントン[林見東])、ジョウ・シュン[周迅](スン・ナー[孫納]、ジャッキー・チュン[張學友](ニエ・ウェン[聶文])、チ・ジニ[池珍熙](天使)

浮世絵残酷物語

イメージフォーラムシアター2 ★☆

■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている

浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。

一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。

帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。

この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。

最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。

例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。

どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。

もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。

長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。

そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。

「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。

肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。

【メモ】

兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。

お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。

一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。

賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。

最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。

1968年 84分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
 
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)

UDON

新宿スカラ座1 ★

■主人公の思いつきに付き合ってはいられない

「ここに夢なんかない、うどんがあるだけや」という四国の香川から、コメディアンでBIGになってやろうとニューヨークへ渡った松井香助(ユースケサンタマリア)だが、現実は甘くなく、すごすごと故郷へ戻ってくるしかなかった。借金だらけの彼は、親友の鈴木庄助(トータス松本)の紹介もあって地元でタウン誌を発行している会社に就職することになる。

映画の語り手は宮川恭子(小西真奈美)で、香助とは偶然道に迷いうどんを啜りあっただけの関係だったが、ライターとして働くタウン誌の職場に、ある日香助がやってくるという寸法。ここで香助たちがはじめた讃岐うどんのコラムが注目を集め、ついに全国的なブームを巻き起こす。

ここまでは予想通りとはいえ、まあまあの展開。映画自体がタウン誌のコラム的構成になっていて、でもグルメに興味のない私でも楽しめた。まあ、讃岐うどんというハードルの低い食べ物だということもあるのだが。製麺所に器持参で、ネギはそこの畑にあるのを、となるとハードルが低すぎて、逆に畏れ多くて注文できなくなりそうだが、とにかくそういう話がこれでもかというくらいあり、評論家の「ブームには聖地が必要」というなるほど発言も挿入されていて、思わずにんまり。

が、ブームには終わりがある、と。発行部数を誇ったタウン誌も廃刊が決まり、仲間もそれぞれの道を探すことになる。

ブームの終わりにまで触れようとしているのか、これは並の成功物語というのでもないのだな、と思っていると……。話は一転、香助と実家の製麺所の頑固親父(木場勝己)との確執に移る。

香助にはニューヨークで失敗した弱みもあるし、その時の自分の借金を父が代わりに返してしまったことが面白くない。しかしこれはそんなに怒るようなことだろうか。父の返済で借金が消えたと思うことが甘いのであって、返済相手が代わったと思わなければ。とりあえずは父に感謝すべきだろう。母(の写真は笠置シズ子か?)の死因も父が原因と思っていて、これは姉(鈴木京香)にたしなめられる。

そんな状況の中、香助は意を決して、はじめて自分の気持ちを父に話し、製麺所を「継いでやってもいい。だから教えてくれないか」とまで言う(照れなのかもしれないが傲慢発言だ)。が、まさにその時、父は仕事場で倒れ、あっけなく死んでしまう。

このあと香助は、恭子や父のやり方を盗みしていたという義兄(小日向文世)の助けを借りて、父のうどんの味を出そうと奮戦するのだが、姉は「今さら勝手なことを」と、いい顔をしない。

カレンダーに付けた四十九日の印を、休業とは知らずに来た客が勘違いして、新規オープンの日と思い込むなんていう嘘っぽい話を織り込みながら、香助たちの試行錯誤は続き、ついに開店の日(!)を迎えることになる。

姉が同意しなかったのも無理はない、このあとこれが結末となるのだが、香助はまたニューヨークへ旅立つのだ。しかし、これはないだろう。死んでしまったとはいえ、父親に跡を継いでもいいとはっきり宣言したのだから。

前半のカタログ的部分はいいとしても、ドラマ部分は弱くダレを感じたのだが、原因は主人公に魅力がないからに他ならい。結末もそうだが、その時々の思いつきで行動しているようにしか見えないのだ。タウン誌の社員になったのも、讃岐うどんを取り上げたことも。それがたまたま成功してしまった場合はいいにしてもねー。そういえば恭子にも「俺、恭子ちゃんにはこの町にいてほしい」と言っておきながら、自分はまたニューヨークへ行くって?

このニューヨーク行きの結末は本当に腹が立つ。自分の実力のなさをいやと言うほど味わって帰国したのではなかったのか。親父のうどんの味を復活させたことと芸人になるというのはまったく違う話と思うのだが。やっぱりタクシー料金を先輩のくせして踏み倒すようなヤツなんだ、と虚しく納得。どういうつもりでこんなラストにしたのか監督に訊いてみたくなる。

義兄のように、心から麺が打ちたくて、それでもなかなか言い出せずにいる人間まで用意しているというのにさ。この映画では彼が1番いい感じなのだ。

で、さすがにこのままというわけにはいかないのだろう、くくりになるおまけが付く。恭子は念願の、それも『UDON』という本を出版。「これが彼女と彼の物語です」って。続いてニューヨークに彼女が着いて、香助が「キャプテンUDON」になって街角の大きなスクリーンに映っているという場面。お、成功したんだ。

でもなんか、つまらん。成功したんだから文句ないでしょ、みたいで。それに、どこが彼女と彼の物語だったのかな。タウン誌の取材や編集に一緒にうどん作り……でも、気持ちの部分は描かれてなかったよね。

  

【メモ】

香川県=日本で一番小さな県。

タイトルはUDONのNとうどんのんを1つの文字で表したもの。The Endもdとおわりのおを同じようにまとめたもの。The Endは無理があるが、最初のはなかなかだ。

ブームで忙しくなった店が、客の回転をよくするため、麺を細くして茹でる時間を減らしたという辛口批評も。すべてが讃岐うどんヨイショでもないのね。

宇高連絡船のうどんはおいしくないが、挨拶代わりのうどんなのだ(タウン誌編集長のミミタコ話)。

父親の死因は急性心筋梗塞。

香助は仏間で寝てしまい、幽霊になった父親と対面する。

うどん作りなのに恭子は長い髪を束ねもしない。

香助の妄想(最後は違うか)「キャプテンUDON」も2度ほど登場。

2006年 134分 シネスコサイズ

監督:本広克行 脚本:戸田山雅司 撮影:佐光朗 美術:相馬直樹 編集:田口拓也 音楽:渡辺俊幸

出演:ユースケ・サンタマリア(松井香助)、小西真奈美(宮川恭子)、トータス松本(鈴木庄介)、鈴木京香(姉・藤元万里)、升毅(大谷昌徳)、片桐仁(三島憲治郎)、要潤(青木和哉)、小日向文世(義兄・藤元良一)、木場勝己(父・松井拓富)、江守徹(評論家・綾部哲人)、二宮さよ子(馬渕嘉代)、明星真由美(淳子)、森崎博之(牧野)、中野英樹(中西)、永野宗典(水原宗典)、池松壮亮(水沢翔太)、ムロツヨシ(石松)、与座嘉秋(新美)、川岡大次郎 (小泉)

美しき運命の傷痕

銀座テアトルシネマ ★★★★

■愛に見放された三姉妹とその母

長女のソフィ(エマニュエル・ベアール)は夫(ジャック・ガンブラン)の浮気に見境のない行動にでてしまうが、離婚を決意する。恋をすることもなく療養所に通って母(キャロル・ブーケ)の世話をしている次女のセリーヌ(カリン・ヴィアール)だが、謎の男につきまとわれる。三女のアンヌ(マリー・ジラン)は不倫相手の大学教授(ジャック・ペラン)に別れを告げられ激しく動揺するが、相手は死んでしまう。

愛に見放されたこの三姉妹の苦悩を、映画は幼い時に父親を失ったトラウマに結びつける。ソフィの行動は夫=父親を失うことへの恐れ、セリーヌは事件の目撃者であるが故の男性不信、アンヌは父親への思慕だろうか。

謎の男の告白で、父親が自殺に至った事件の真相が判明する。疎遠になっていた三姉妹が集まり、母親に誤解だったことを告げるのだが、彼女は「自分は後悔していない」と言う。

ここでやっと巻頭のタイトルバックが、カッコウの託卵の様子を克明に写した映像だった理由がわかる。つまり三姉妹は母の不倫の子だったのだ。

そういえば、先に孵化したカッコウは、残りの卵を巣の外に落とすのだが、自分も転落してしまう。そこにちょうど刑務所から出てきた父親が通りかかり、転落した雛を巣に戻すのが映画のはじまりだった。彼は託卵が成就する手助けをする運命にあったということになる。この場合、自殺こそが手助けだったとしたらずいぶんな話だ。

少なくとも三姉妹にとっては霧が晴れ、再生の道が開けたと思うのだが、母親の後悔していないという一言をどう受け止めるかという問題は残る。観客には不倫の子だということはわかっても、彼女たちは知らないのだし。そう考えていくと、だんだん怖くなってくる。

クシシュトフ・キエシロフスキの遺稿をダニス・タノヴィッチ監督が映画化したというこの作品は、映像も意味深で仕掛けが多い。思わせぶりな展開もどうかと思う。そのぶん間の悪い車掌などを登場させてバランスをとってはいるが、話の基調がこんなだからとても好きにはなれない。

それはたとえば、アンヌが、教授の娘(親友なのだ)に恋の相手を悟らせようとするのだが、そして彼女の父親を独占したいという気持ちがそうさせたのだと理解できても、彼女の行為を弁護する気になれないのと同じだ。

アンヌが受ける口頭試問のテーマが、たまたま夫の愛した子を殺す「王女メディア」だったのにはドキリとするが、教授は試験場に姿を現さずアンヌの妊娠も確定ではないようだから、これはソフィを連想させようとしているのか。いずれにしても、少しばかりうっとうしい。

でも、それはそうなんだが、十分面白い映画であることは間違いない。しっかり筋を頭にたたき込んだら、もう一度今度はあら探しをするつもりで観てみたい作品だ。

原題:L’ Enffr

2005年 102分 サイズ■ フランス、イタリア、ベルギー、日本 日本語字幕:■

監督:ダニス・タノヴィッチ 製作:マルク・バシェ、マリオン・ヘンセル、セドミール・コラール、定井勇二、ロザンナ・セレーニ 原案:クシシュトフ・キエシロフスキー、クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚色:ダニス・タノヴィッチ 撮影:ローラン・ダイヤン プロダクションデザイン:アリーヌ・ボネット 編集:フランチェスカ・カルヴェリ 音楽:ダスコ・セグヴィッチ
 
出演:エマニュエル・ベアール(ソフィ)、カリン・ヴィアール(セリーヌ)、マリー・ジラン(アンヌ)、キャロル・ブーケ(母)、ジャック・ペラン(フレデリック)、ジャック・ガンブラン(ピエール)、ジャン・ロシュフォール(ルイ)、ミキ・マノイロヴィッチ(父)、ギョーム・カネ(セバスチャン)、マリアム・ダボ(ジュリー)、ガエル・ボナ(ジョセフィーヌ)、ドミニク・レイモン(ミシェル)