60歳のラブレター

楽天地シネマズ錦糸町シネマ3 ★★

■映画的飾り付けが逆効果

三十代後半ですら探すのが難しい、ほぼ全員五十歳以上という(何のことはない、自分もこの現象の一部を担ってるのな)、その割には客の入った客席で画面を見つめながら、あー、やだな、こういう映画に泣かされて(くだらない映画にも泣かされてしまう口なのでそれはいいんだが)、しかも高評価を与えなきゃならなくなったら(ってそれはいいことなのに)、恥ずかしいものなーと、しょうもないことを考えていたら、やってくれました。映画の方で勝手にこけちゃってくれました。

熟年の恋三つがそれぞれ多少交差する形で描かれるのだが、粗筋を書くほどのものではないので、いきなり問題場面について書くことにする。

自分のことは棚に上げてちひろ(旧妻)の恋を邪魔するのに、あの大きな布に書いたラベンダーの絵はないだろう。運良く花はみんな刈り取られていて、って、そういう問題じゃなくて、わざわざ北海道まで行って、しかも夜っぴいて描き上げた絵を丘に飾ったってねぇ(橘孝平本人も言っていたが、「(絵が)見えたかな」なんだもの)。

孝平は若い時には画家志望だったらしいので、絵を買くのはいいにしても、でもそんなことより一番は、ちひろが北海道に麻生圭一郎と出かける前にそれを阻止することではないか。で、最悪なことに、二人(というのは幸平となのだけど)でやり直してみるか、となった時に、刈り取られたはずのラベンダーが咲き乱れている中に二人がいる場面になるのだ。なるほど、これがやりたかったのね。けど外してるよなぁ。

それにしても、ちひろは何で元旦那を選んだのだろう。どう考えても、ちひろを無視し続けてきた孝平よりは、若くておしゃれな麻生(それに売れっ子作家だし、って関係ないか)にするのが自然ではないか。いや、すべきではないかとさえ思うのだ。「すべてを捨ててきた」という幸平に、「もう遅い」とちひろもいったんは言っていたのにね。映画的に見栄えのする場面を演出することより、こういうちひろの心境こそきちっと描いてもらいたいのだが。

二つ目は、娘からの英語の手紙を医師の佐伯静夫が読み上げて、翻訳家の長谷部麗子が訳していく場面。この演出もひどくて、恥ずかしくなった。「娘がどうしても訳してほしいからって」と手紙を渡すくらいが関の山で、読んでも黙読のはず。こんな場面がどうやったら成立するっていうのだろう、ってやっちゃってたけど。映画的だからという理由でやられてもなぁ。

結局、病室で、妻の光江に買ってもらったマーチンをかき鳴らし、ミッシェルを歌い続ける魚屋の松山正彦が一番カッコよかった、かな(でもこれもわずかだけど長めだ)。

あと、ちひろが大昔に新婚旅行先で書いた手紙を30年後に届ける話も、もう少しうまい説明が考えられなかったものか。ストーカーのような青年はずっと不気味だったもの。で、何だよそんなことか、じゃあね(一応この手紙が幸平の気持ちを切り替える一つのきっかけにはなっているのだが)。

2009年 129分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:深川栄洋 エグゼクティブプロデューサー:葉梨忠男、秋元一孝 プロデューサー:鈴木一巳、三木和史 共同プロデューサー:松本整、上田有史 脚本:古沢良太 原案:『60歳のラブレター』(NHK出版) 撮影:芦澤明子 美術:黒瀧きみえ 編集:坂東直哉 照明:長田達也 録音:南徳昭 監督補:武正晴 助監督:菅原丈雄 音楽:平井真美子 主題歌:森山良子『candy』 協力:住友信託銀行 制作プロダクション:ビデオプランニング 製作:テレビ東京、松竹、博報堂DYメディアパートナーズ、大広、ビデオプランニング、テレビ大阪

出演:中村雅俊(橘孝平)、原田美枝子(橘〈小山〉ちひろ)、井上順(佐伯静夫)、戸田恵子(長谷部麗子)、イッセー尾形(松山正彦)、綾戸智恵(松山光江)、星野真里(橘マキ/孝平の娘)、内田朝陽(八木沼等)、石田卓也(北島進)、金澤美穂(佐伯理花/静夫の娘)、佐藤慶(京亜建設・会長)、原沙知絵(根本夏美/孝平の愛人)、石黒賢(麻生圭一郎/作家)

ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

LOFT ロフト

テアトル新宿 ★

■全部が妄想って、そりゃないよね

春名礼子(中谷美紀)は芥川賞作家だが、編集者の木島(西島秀俊)からは通俗的な恋愛小説を要求されている。が、スランプ中だし体調も思わしくない。泥のようなものを吐くが医者はなんともないと言うし、自分でも幻覚かなどと達観している。引っ越しでもして気分転換を図ろうかと思っていると木島に相談すると、彼はぴったりの場所を探してきた。

使われることがあるのかと思われる不思議な建物がそばにあるだけの、緑の中の静かな屋敷。すっかり気分がよくなった礼子だが、前の住人が残していった荷物の中に小説らしい原稿を見つけ、建物に不審な人物が出入りしているのを見る。

調べてみると、建物は相模大学の研修所で、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授だった。彼は沼から引き上げた1000年前のミイラを、何故か研修所に持ち込んでいて、研究生が研修所を使う2、3日の間、礼子にそのミイラを預かってほしいと言ってくる。

木島の礼子に対するストーカーまがいの行動から、水上亜矢(安達祐実)という、やはり作家志望の女性がここに住んでいたことが判明(木島に弄ばれたらしい)するのだが、このあたりから少しずつ混乱が始まって、何がなんだかわからなくなってくる。礼子と吉岡の恋もえらく唐突な感じで、吉岡は亜矢を殺したと言っているのに、そのあとあっさり礼子と吉岡が絶対的関係になっているのでは(この芝居は大げさだ)、感情移入以前の段階でついていけなくなってしまう。

亜矢を殺した原因も「ちょっとした混乱が……彼女はよくわからないやり方ですっと僕の中に入ってきた」そして「僕の科学者としての立場を突き崩した」ので、口を塞ごうとして……というもの。こういうことはあるだろう。でもここでの説明にはなっていないと思うのだ。

だいたい礼子が最初に泥を吐くことからしてずるい。ミイラを預かってからそういう現象が起きるのならまだわかるのだが。私がずるいと思うのが間違いというのなら、礼子とミイラの関係だけでも説明してほしいものだ。そう思うと、どこもごまかしで満ちているような気がしてならない。ミイラと亜矢の幽霊という2本立てがそうだし。夢の映像は2ヶ所だったと思うが、それだってはっきり断っていないのが他にもあるのだとしたら……。

わかりにくい映画だからと切って捨てるつもりはないが、少なくともわかりたくなるように仕向けるのが監督の仕事のはずだ。もう1度観れば少しは氷解するのかもしれないが、その気が起きないのでは話にならない。

編集者と女流作家に絞って、出てきた原稿から秘密が解き明かされていくというような、ありがちではあるけれど、そんな単純な話の方がずっと怖かったと思うのだ。画面に集中出来ないこともあって、嘘くさいミイラにメスを突き刺す豊川悦司が気の毒になってくる。最後もしかり。「全部妄想だったのか」と大げさに言わせておいて『太陽がいっぱい』と同じどんでん返し……これはコメディだったのか、と突っ込みたくなってしまうのだな。

でもくどいのだが、亜矢のことでミイラに取り憑かれた吉岡というのならまだわかる。でも礼子の方はねー(実は最初は吉岡のことの方がわからなかったのだが)。あと、これはそのこととは関係ないが、礼子と吉岡の救う立場が最初と最後では逆転しているというのが面白い。

【メモ】

袋に入っていた原稿の題名は『愛しい人』。これは原稿用紙に書かれたものだが、礼子はワープロで書く。礼子はこの『愛しい人』を流用していたが? そういえば完成した原稿を、木島は傑作に決まっているからまだ読んでいないとか言っていた。

大学のものなのか、大きな消却施設がある。

建物と男に興味を持った礼子は、昭和初期のミイラの記録映画の存在を知り、教育映画社の村上(加藤晴彦)を友人の野々村めぐみ(鈴木砂羽)と共に訪ねる。

映っていたのはミドリ沼のミイラをコマ落としで撮った短い(実際は3日?)もの。「何を監視していたんだろう」。結局この件はこれっきり。

腐敗を止めるために泥を飲む?

亜矢の件は捜索願が出ていて、めぐみは殺人事件だと思うと礼子に報告する。

エンドロールは部分的に字がずれるもの(FLASH的に)。

2005年 115分 サイズ:■

監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:松本知恵 編集:大永昌弘 音楽:ゲイリー芦屋 VFXスーパーバイザー:浅野秀二

出演:中谷美紀(春名礼子)、豊川悦司(吉岡誠)、西島秀俊(木島幸一)、安達祐実 (水上亜矢)、鈴木砂羽(野々村めぐみ)、加藤晴彦(村上)、大杉漣(日野)

ローズ・イン・タイドランド

新宿武蔵野館2 ★★☆

■R-15指定の子供映画

10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が見て感じた世界をそのまま映像化したような作品。

もっともそのままかどうかはすこぶる怪しい。彼女が生きている世界がそもそも現実味に乏しいのだ。それに彼女が画面に映し出されるということは、厳密には位置関係なども違うことになる。だから、その時は現実と解釈した方がわかりやすいのだが、そこらへんは曖昧だ。

両親共ヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)がクスリの過剰摂取で死んでしまうと、父(ジェフ・ブリッジス)はテキサスにあるすでに亡くなった祖母の家へローズを連れて行く。そこは草原の中の廃屋寸前の一軒家で、父もクスリの力で「バケーション」に行くと言ってそれっきりになってしまう。なんとこのあとのジェフ・ブリッジスは、死体役を続けることになる。

ローズは父の死を認識するでもなく、家の中や黄金色に輝く草原で独り遊びを続ける。焼け焦げてひっくり返ったスクールバスを見つけ、たまに通る列車に狂喜する。学校にも行っていないローズの友達はバービー人形の頭4つだけで、別段それを苦とも思っていないようなのだが(リスとも話が出来ちゃうから?)、やがて近所に住むデル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟に出会う。

デルは黒ずくめで蜂に片目さされたという薄気味悪い女性で、ローズは最初幽霊女と思い込む。弟のディケンズは知的障害者で、この隣人たちとの交流もかなりきわどいものだ(子供が主役なのにR15指定だものね)。デルは性的行為と引き換えに食料品を男から手に入れているし、ローズはディケンズとキス遊びに興じ「結婚」する。

悪意としか思えない設定、そしてそこは死と腐臭に満ちているというのに、ローズには本当にそれらが見えていないのだろうか。だとしたらあまりに幼い。いくら社会性の乏しい環境で育ったにしても、これでは精神年齢からしたら5歳程度ではないか。いくら彼女の想像力が、大好きな『不思議の国のアリス』の影響を受けているにしてもだ。

最後は、死の集大成のような列車の脱線事故が起きる。列車はディケンズのモンスターシャーク退治(あのスクールバスはモンスターシャークにやられたらしい)にあえなく脱線してしまったのだ。この炎に包まれた光景は大がかりなもので、これがまた不思議な雰囲気を醸し出している。ローズはその事故現場を歩いていて1人の女性に乗客と間違えられ、拾われるような形となる。

この列車事故が本当であれば、ローズにとっては不幸中の幸いか。この大惨事すらも幻想というのなら、彼女の願望でもあるだろうから、いくら幻想の世界に遊んでいてもローズはやはりちっとも救われてなどいなかったということになる。

少女の想像世界の映像化は、草原に海を出現させるなど、たしかに良く出来てはいるが、それにしても長い。半分程度で十分と思ったのは私の趣味に合わなかったこともある。きっちり解読したなら何か見えてくるのかもしれないが、くたびれてしまったというのが正直なところだ。

【メモ】

tideland 【名】 干潟、低い海岸地帯  この干潟という言葉に、陸地と海(現実と夢)の境界線というような意味をもたせているのだろうか。

父親は元ロックスター。彼は昔を懐かしんで、母親のことを「グンヒルド王妃」と呼んでいるが、美貌は過去のもので下腹もたるんでいる。ローズは足をもんであげている。母親はメタドンによるショック死。

当然のように父親にクスリを持ってきて注射の手伝いをするローズ。死んだ父親の膝の上でローズが目覚めるシーンも。父親にお祖母ちゃんのかつらをつける。次の日?には死体は悪臭を放ち、ローズはおならをしたと言う。

うさぎの穴に落ちるローズは、ほぼアリスのイメージ)。草原の海の中を行くローズ。ウェットスーツ姿のディケンズ。

水平線の傾いた絵(映像)。これは何度も出てくる。

原題:Tideland

2005年 117分 スコープサイズ イギリス/カナダ R15 日本語字幕:■

監督:テリー・ギリアム、脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、原作:ミッチ・カリン、撮影:ニコラ・ペッコリーニ、音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ

出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(父親ノア)、ジェニファー・ティリー(母親グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)