リリィ、はちみつ色の秘密

シャンテシネ2 ★★★

■少女は安らぎの地を見つける

いくら四歳の時とはいえ、そしてそれが暴発(らしいのだが)であったにしても、大好きなママを銃で撃ち殺してしまったのだとしたら……。そんな拭いきれない悪夢を抱えてずっと生きていかなければならないとしたら……。考えただけでも気が遠くなりそうになる。しかも当のリリィはまだ十四歳なのだ。だから、ということはもう十年間もそうやって生きてきたことになるわけで、そんな少女時代を、私は想像することすらできない。

誕生日にも関心を示してくれないパパT・レイに、リリィはママデボラの話をせがむが、デボラはお前を捨てたとにべもない。その日、投票権の登録に町へ出かけた使用人のロザリンが、今からは考えられないような(とはいえまだ五十年も経っていないんだよね)(注1)黒人蔑視のリンチにあったこともあって、リリィはロザリンを病院から連れ出し、置き手紙を残して一緒に家を出る。

さらに待ち受ける困難、と早とちり予想をしていたら、それは杞憂で、母親の形見の木札にある絵に似たハチミツのラベルに導かれるように、そのハチミツを作っているオーガスト、ジューン、メイの黒人三姉妹の家にたどり着く。オーガストが受け入れてくれたことで(ジューンはそう快くは思っていなかった)、ロザリンとも別れることなく、ミツバチの世話をしながらの落ち着いた日々がはじまる。

リリィとロザリンが家を出てからの流れが安直すぎるきらいはあるし、三姉妹の意外な裕福さが(よほどハチミツ商売があたったのだろう)、当時の黒人の置かれた状況からは恵まれすぎているようで、切り口が甘くならないかと心配になったが、これまた杞憂だった。姉妹を裕福にすることで、甘くなるどころか、安易な同情の対象としての黒人に貶めることなく、より普遍的な人間のつながりを描きえているからだ。

三姉妹の生活は、黒人の聖母像を崇めるちょっと風変わりな信仰によっても満たされている。信仰のあるなしはともかく、今の我々にとっても羨ましいくらいの生活といえそうだ。

むろん、裕福であることと社会にある偏見は別問題である。公民権法案にジョンソン大統領が賛成した(リリィとロザリンがこのニュースをテレビで見ている場面が最初の方にある)とはいえ、なにしろ偏見色の強い南部のことである。養蜂場で友達になったザックと行った映画館で、一緒に座ってポップコーンを食べながら映画を観ているところを見つかり、ザックが拉致されてしまうという騒動となる(注2)。

翌朝になって、知人の弁護士と共にザックは戻ってくるのだが、このことが引き金になって(注3)、前日の夜、病的に繊細だったメイは「この世の重みに疲れた」と命を絶ってしまう。

また、独立心がありプライドの高いジューンは、恋人ニールのプロポーズを素直に受けられずにいる。彼女たちにもそれなりに悩みや問題があるのである。そんなことは当然で、でも少なくとも肌の色の違いなどというものさしで人を差別したりはしない。だから彼女たちは、リリィを家に受け入れたのだ。

もうひとつにはオーガストが、幼いデボラを家政婦として七年間も世話をしていたということがあった(注4)。オーガストがリリィをデボラの娘と認識したのがどの時点なのかは明かにされないが、リリィはデボラに瓜二つという設定になっている。初見でオーガストは何かを感じとっていたのかもしれない。

そしてこれは最後に近い場面になるが、T・レイがリリィを探し当てた時、リリィが付けていたブローチで、リリィのことをデボラと見間違え錯乱してしまうところがある(注5)。ただでさえ粗暴なT・レイのこの錯乱は悲しい。が、このことでT・レイは、あの日デボラはリリィを迎えに来たのだと、真実を語る。嘘をついたのは俺を見捨てたからだとも白状し、力ずくでも連れ帰るつもりでいたリリィを残して一人帰って行く。

母親を殺してしまった罪悪感とは別に、リリィの中には、母親に捨てられたという思いが棘のようにあったのだが、母はちゃんと自分を愛してくれていたのだ。

が、このことはすでにオーガストから聞いていたことではなかったか。その話を聞いたあと、部屋に戻ったリリィは「ママなんて嫌い」「何故愛してくれなかったの!」とハチミツの瓶をドアに投げつけていたが、私にはこの行為はよくわからなかったし、瓶が壊れてハチミツがドアを流れ落ちていく場面は不快ですらあった。父ならよくてオーガストからでは何故駄目だったのだろう。そもそも「お前を捨てた」発言は、父からのものではなかったか。

それとも私がうまくリリィの気持ちを汲み取れないだけなのか。私は愛するということがよくわかっていないし、だから実はこういう映画は苦手なのだ。が、この作品にある誠実さは心に止めておきたいと思ったのである。

リリィとザックの恋一歩手前のような関係も微笑ましい。リリィは作家でザックは弁護士になりたいのだと将来を語り合っていた。でも後の方では、キスのあと、十年か十五年後に君の本のサイン会で会おう、って。何だか老成しすぎじゃない? ま、弁護士志望だったら、このくらいのことは言うのかもね。

注1:映画の全米公開は2008年10月。11月にはバラク・オバマが大統領に選出されている。この映画がオバマ選出を祝う映画みたいになったとしたら、それも感慨深いものがある。
注2:別々に料金を支払い、ザックは「有色人種専用入口」から入っている。ザックと一緒にいたリリィは「黒人の愛人野郎」と罵られる。
注3:メイにはこの事実が自分には知らされていなかったことも、つまり特別扱いされていることもショックだったようだ。
注4:リリィがオーガストに「ママを愛していたか」と訊く場面がある。遺品を手渡される場面だ。オーガストの答えは「複雑だけど愛してた」というもの。「私は子守でママと住む世界が違っていた」し「偏見の時代だった」とも。考えてみると、デボラとオーガストの関係は、リリィとロザリンの関係でもある。オーガストは「偏見の時代だった」と過去形で言うが、でもこの時点では少しも変わったようには見えず、でもロザリンの方がより権利意識は芽生えた時代での関係に思えるから、リリィのことはさらに複雑に愛してくれているのだろうか。
注5: 鯨のブローチ。オーガストが渡してくれたデボラの少ない遺品の中にあったもの。T・レイが22歳のデボラにプレゼントしたものなのだった。

 

原題:The Secret Life of Bees

2008年 110分 アメリカ シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ジーナ・プリンス=バイスウッド 製作:ローレン・シュラー・ドナー、ジェームズ・ラシター、ウィル・スミス、ジョー・ピキラーロ 製作総指揮:ジェイダ・ピンケット・スミス 原作:スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』 撮影:ロジェ・ストファーズ プロダクションデザイン:ウォーレン・アラン・ヤング 衣装デザイン:サンドラ・ハーネンデス 編集:テリリン・A・シュロプシャー 音楽:マーク・アイシャム 音楽監修:リンダ・コーエン

出演:ダコタ・ファニング(リリィ・オーウェンズ)、クイーン・ラティファ(オーガスト・ボートライト)、ジェニファー・ハドソン(ロザリン)、アリシア・キーズ(ジューン・ボートライト)、ソフィー・オコネドー(メイ・ボートライト)、ポール・ベタニー(T・レイ・オーウェンズ)、ヒラリー・バートン(デボラ・オーウェンズ)、ネイト・パーカー(ニール)、トリスタン・ワイルズ(ザック・テイラー)、ションドレラ・エイヴリー(グレタ)

ダウト -あるカトリック学校で-

シャンテシネ2 ★★★★

■疑わしきは疑え!?

張り詰めたセリフの応酬には唸らされ(セリフに乗った言葉の面白さにも舌を巻き)、かつ人間が犯す罪の在処までずぶずぶと探られて、背筋が寒くならずにはいられなかった。戯曲の映画化と知ってなるほどと納得。何度も繰り返し演じられ、鍛えられてきたセリフには隙がない。

フリン神父は、教会に新しい風を入れようとしている意欲的な人物である。生徒からの人望が篤く、彼の説教は人気を集めていた。片や、シスター・アロイシアス校長のガチガチに固まった価値観には、息が詰まるばかりだ。校長自らが監視カメラのようになっては生徒一人一人に目を光らせていた。管理教育以上の恐怖政治(とまでは言っていなかったが)を敷いていると、新任のシスター・ジェイムズは思ったに違いない。

二人の違いは食事風景に歴然とあらわれる。フリン神父たちの賑やかで楽しげな食卓。校長の方は大人数の時でさえ静まりかえっている。生徒たちの歌はつまらなさそうに聞くし、目の仇の果てはボールペンにまで及んで、いったいどこまで憎たらしい人物に仕立て上げれば気が済むのかと思ってしまうが、目の悪い老シスターには気遣いを忘れない。彼女の素晴らしいところはもしかするとこれくらいだろうか。が、この気遣いが、彼女をギリギリのところで、信頼するに値する人間にしている(というか、そう思わせている、のか)。

ところで題名になっているダウト(疑惑)の部分であるが、それ自体は単純なものだった。フリン神父が個人的に生徒のドナルド・ミラーと「不適切な関係」をもったのではないかという疑惑を、ガチガチ校長が追求するという映画なのである(注1)。

二人のやり取りがすこぶるスリリングで、目が放せなくなるが、でもフリン神父がどこまでも鉄壁かというとそんなこともなく、いまにも落ちそうだったり、泣きまで入れてくるのだが、しかし肝心なことは認めようとはしないから、すべては計算ずくのことなのか(もしくはシロってことなのだが)。

校長が追求を止めないのは、彼女の確信による。そう、証拠ではなく確信があるだけなのだ。確信を後押ししたのは、授業時間にドナルドを呼びつけたとシスター・ジェイムズが言ったことでだが、その報告がなくても校長自身は、フリン神父がウィリアムという生徒の手首をつかみ、ウィリアムが手を引っ込めたところを見ていて、もうそれで確信していたらしいから、早晩追求を始めていたはずである。

この映画を観ていると、すべてのことを疑ってかかるよう強要されている気分になってくる。だものだから逆に、フリン神父の弁解(注2)を信じてしまうシスター・ジェイムズの単純さを純粋さと理解したくなる。

が、そのシスター・ジェイムズからして、フリン神父がドナルドの下着をロッカーに戻したことは校長に話さず、あとになって一人でフリン神父に問い質している。シスター・ジェイムズもやはり疑惑を捨てきれなかったのか。それとも、校長の確信があまりに強すぎたので、話すことを躊躇したのだろうか。もっとも彼女は最初の時と同様に、この時もフリン神父の言葉を素直に受け入れていた。エンドロールには「元シスター・ジェイムズに捧ぐ」という言葉があったから、彼女目線の物語と判断するのが一番無難なはずなのだが。

校長はドナルドの母親のミラー夫人にも連絡を取り、あれこれ聞き出そうとする。この時のやり取りがまたまたすごく、見応えのあるものになっている。校長は、神父がドナルドを誘惑していた可能性を告げるが、ミラー夫人は涙目になりながら、それを望んでいる子もいるのだと答える。それを知って夫が息子を殴るが、神が与えた性質で息子を責められない、とも。ミラー夫人には、息子を気にかけてくれる人が必要なのであって、校長の追求などは余計なおせっかいでしかないのだ。許さない、と校長が執拗に食い下がると、それなら神父を追放してくれという発言まで飛び出す。

校長の追求を、フリン神父は相手を攻撃することで躱そうとし、校長のことを「不寛容」と言い放つ(キリスト教の教義に沿うものかどうか、これだけでもいくらでも書けそうだが、私が問うことではないのでやめておく)。フリン神父はまた「罪を犯したことは」と逆に校長に詰め寄りもする(注3)。「自分もどんな罪であれ告白し罪を受けてきた」のだから「我々は同じ」ではないかと。不寛容発言以上にこの質問はいやらしい。校長もたじろぐが、結局はきっぱりと、同じではないし噛みつく犬の習性は直らないと答える。

校長は、フリン神父とのやり取りでは勝利を勝ち取るが、結末は、フリン神父の栄転という形で終わる。彼の辞任は告解と同じだと校長はシスター・ジェイムズに語り、彼を追い出したことに満足しているようにもみえる(それでいいの!)のだが、ここからが少し難解だった(もう一度観て確認したいくらいだ)。

このあと映画は、校長が自分の確信を証明するためについた嘘についても言及している(注4)。フリン神父が前にいた教会に電話して、そこの司祭と彼がしたことについて話したというのは嘘だったというのだ。が、これまたキリスト教の教義にからめて語る資格などないので(別にからめなくてもいいのかもしれないが)、深入りはしないでおく。

説明がふらついていて申し分けないが、結局映画の中でのフリン神父の疑惑は疑惑のままにしておき、それについての答えは、観客がそれぞれ出すよう仕向けているのだろう。

私の答えは、フリン神父はクロ。人間のやることなど信じられっこないんだもの。前歴がなければともかく、それこそ校長と同じく、噛みつく犬の習性は直らないと、とりあえずは言い切ってしまおう。というのも、フリン神父は問題が起きなくても、誤解を招くような行為だけは絶対してはいけなかったと思うからである。悪ふざけされたドナルドを廊下で抱きしめてやるのはいいが(この場面があることでフリン神父を信じたくもなるが)、少なくとも部屋に呼ぶべきではなかった。神父なのだからそこまで考える必要があるし、疑惑を持たれることをしてしまった時点で、すべてが言い訳にしかならないことを知るべきなのだ。

ただ彼の行いがたとえ「不適切な関係」であっても、それが責められることかどうかは、ドナルドが決めることである。だから、私の考えはミラー夫人に近いかもしれない。

となると、最後に校長がシスター・ジェイムズの前で泣き崩れる場面はなんなのだろうか(難解なのはここ)。校長は、フリン神父を追いやった嘘についての償いをするというのだが? もしかしたら校長にも同性愛的嗜好があるということなのか。そしてその対象がシスター・ジェイムズだったとしたら? 最初のは多分当たっているはずである。これなら大げさな涙を説明できるからだ。が二つ目のはどうか。話としては俄然面白くなるが、これはやはり深読みしすぎだろうか(やはりもう一度観て確認したいところだ)。

シスター・ジェイムズは校長に手を差し伸べ、身を寄せ、カメラは鳥瞰になってエンドロールとなる。ここだけを観ていると、シスター・ジェイムズが校長の告解だか告白を受け入れたようには思えないが、でもどうなのだろう(深読みと言っておきながら、まだこだわってら)。それとももっと単純に、やはり嘘をついて神から遠ざかったことを悔いているだけなのだろうか。罪は意識した人にだけにあるのだ。校長の涙が大げさに見えて、そこからとんでもない憶測をしてしまった私は、罪を意識する気持が薄いのだろう。

エイミー・アダムスって『魔法にかけられて』のお姫様なの? 同一人物とはねぇ。彼女には癒されたけど、この映画は観客をへとへとにさせるよね。感想書くのも疲れました。

そうだ。強風が校長を襲う?のと、羽根が舞う映像効果に、電球が二度切れるオカルト?場面があったが、どれもなくてもよかったような。嫌悪するようなものではなかったけれど。
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注1:舞台は1964年のニューヨーク市ブロンクスのニコラス・スクールというカトリック学校。フリン神父の説教に「去年、ケネディが暗殺された時」という言葉が出て来る。ドナルドは校内で唯一の黒人男子生徒。公立では殺されるのでこの学校へ来たのだとミラー夫人があとで校長に語っている。

注2:ドナルドから酒の臭いがしたのは彼がミサのワインを飲んだからで、フリン神父はそのことを庇おうとしたというのだ。この弁解は自己美化めいて見えるし、またドナルドの行為を知らしめることになるから、弁解が本当ならフリン神父がなかなか言おうとしなかったのも頷ける。

注3:厳密に言うと、ここからは二度目の対決場面で、シスター・ジェイムズは兄の見舞いで故郷に帰っていて同席していない。校長とフリン神父は真っ向からぶつかり合う。

注4:校長は、最初にシスター・ジェイムズがフリン神父のことを言い淀んでいた時にも、悪いことをなくすなら神から遠ざかってもいいのではないかと言って、シスター・ジェイムズに発言を促していた。

原題:Doubt

2008年 105分 アメリカ ビスタサイズ 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本・原作戯曲(『ダウト 疑いをめぐる寓話』):ジョン・パトリック・シャンリー 製作:スコット・ルーディン、マーク・ロイバル 製作総指揮:セリア・コスタス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:アン・ロス 編集:ディラン・ティチェナー 音楽:ハワード・ショア

出演:メリル・ストリープ(シスター・アロイシアス)、フィリップ・シーモア・ホフマン(フリン神父)、エイミー・アダムス(シスター・ジェイムズ)、ヴィオラ・デイヴィス(ミラー夫人/ドナルドの母親)、アリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスター二世、ブリジット・ミーガン・クラーク