罪とか罰とか

テアトル新宿 ★★★☆

■さかさまなのは全部のページ

まず、どうでもいいことかもしれないが、『罪とか罰とか』って題名。これが『罪と罰』だったら、それはドストエフスキーということではなくて、って、こう書くまで気がつかなかったのだけど、無理矢理恩田春樹をラスコーリニコフにしてしまえば円城寺アヤメはソーニャ的とも言えなくはないが、って言えない。

書くことが整理できてないんで、いきなり脱線してしまった。(気を取り直して)『罪と罰』だと、『罪と罰』だ、『罪と罰』である、『罪と罰』でしょ、みたく断定になるが、『罪とか罰とか』だと、『罪とか罰とか』だったり、『罪とか罰とか』かもしれない、って曖昧になっちゃう。って、ならない? 私的にはそんな気がしちゃってるんで。

えー、のっけからぐだぐだになってますが、要するによくわからない映画だったのね。めちゃくちゃ面白かったけど……でも、終わってみたら?で。

(もいちど気を取り直して)だってこの映画を真面目に論じたら馬鹿をみそうなんだもん。ギャグ繋ぎで出来ているんで、あらすじを書いたら笑われちゃうかなぁ。でも実のところそうでもなくて、物語は時間軸こそいじってはいるが、ものの見事に全部がどこかで繋がっていて、練りに練った脚本だったのね、と最後にはわかるのだが、とはいえ、あらすじを書いて果たして意味があるかどうかは、なのだな。

ですが、それは面倒なだけ、と見透かされてしまうのは癪なので、ちょっとだけ書くと、まず冒頭で、加瀬という46歳の男が朝起きてからの行動を、やけに細かくナレーション入りで延々と語りだす。これは忘れてはならぬと、頭の中で復誦していると、女が空から降ってきて、加瀬はトラックにはねられて、「加瀬の人生は終わり、このドラマは始まる」って。で、本当に加瀬はほぼ忘れ去られてしまって、そりゃないでしょうなのさ。

女が降ってきた(突き落とされたのだ)そのアパートの隣部屋では3人組がスタンガンコントを、これまたけっこう時間を使ってやってみせる。コンビニ強盗を計画しているっていうんだが、結果は見え見え。

んで、このあとやっと崖っぷちアイドル(これは映画の宣伝文句にある言葉)の円城寺アヤメ主人公様がコンビニで雑誌をチェックしている場面になる(この前にも登場はしてたんだが)。アヤメとは同級生で、スカウトされたのも一緒だった耳川モモは表紙を飾っているというのに、掲載ページのアヤメは印刷がさかさま! 思わずその雑誌を万引きして(なんでや?)逮捕されてしまうアヤメ。

このあたりの撒き餌部分は多少もたもたかなぁ。だからか、こっちもどうやって映画に入り込んでいったらいいのかまだ迷っていて(最初の加瀬の部分でもやられていたので)、時間がかかってしまったが、いつの間にかそんなことは忘れてしまって、だからもうここから先は完全に乗せられてたかしらね。

アヤメは万引きの罪の帳消しに、見越婆(みこしば)警察署の一日署長にさせられてしまう。一日署長はきっかり日付が変わるまでで、長期署長も可。むしろ署員はそれを希望してるし、かつ一日署長の指示待ち状態。そこの強制捜査班の恩田春樹刑事はアヤメの元カレで殺人鬼(女を突き落としたのもこいつ)。春樹は自首しなきゃと思ってはいるが、副署長にはとっくに見抜かれていて、お前だけコレにしとくってわけにいかないから、と取り合ってもらえない。お前だけって見越婆警察署は全員が犯罪者なの? 春樹の正体というか殺人癖はアヤメも昔から知っていて(注1)、もう何がなんだか展開。で、そこに「殺したら(撃たれたら)射殺してやる」回路標準装着者のいる三人組によるコンビニ襲撃事件が発生する。

ここまですべてをありえない展開にしてしまうと、いくらブラックジョークといえど、いろいろ困るのではないかと余計なお世話危惧をしなくもなかったが、見越婆警察署の内部が自白室や測量室(別に高級測量室というのもあったが?)のある古びた病院だか魔窟のようになっていたことで、私はあっさり了解することにしましたよ。なーんだ、これは異世界なんだって。

ところがその異世界でアヤメは、いろいろなことに違和感を抱いていて、でも昔は殺人鬼の春樹と平気で付き合っていたわけだし、耳川モモとも対等だったはずなのに、なんでアヤメだけが、と考えてみると、これはですね、アヤメがグラビア雑誌に反対に印刷されてしまったことで、異世界の住人とは妙にズレた感覚が身についてしまったのではないかと?

異世界にあってそれは危機なのだが、一日署長を体験したことで、アヤメは自信を取り戻し、すっかり元に戻って、つまり全部がさかさまのページとなって(注2)、彼らの異世界の調和は保たれたのでありました。

と、勝手な屁理屈で謎解きしてみたが、これは全然当たってないかも。だって春樹に対するアヤメのことだけを取ってもそう簡単には説明がつかないもの。いや、そうでもないのかな。万引きという初歩的犯罪が認められての一日署長だし、迷宮のような見越婆警察署の署長室にたどり着いても、誰もがなりたがる権力者たる署長は本当に不在。「春樹も自首とか考えないで前向きに」と言っといての逮捕、は完全に「春樹の味方」に戻ったよな、アヤメ(当時は自首していい人になってはいけないということがアヤメにはわかっていたのだ)。ね、やっぱりすべてが逆転してるもの。

でもまぁ、単に面白かったってことでいいのかもね。私のは屁理屈にしても、理屈拒否の為の異世界設定は当たってるんじゃないかな。真面目に考えたり論じたりするべからず映画というのが正しそうだから。
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注1:昔のアヤメは、春樹が自首すると言っても見つからなければわからないと、副署長と同じ見解だった。当初の春樹はだからずっとマトモだった。が、すぐ殺人は「ボーリングより簡単」になってしまう。

注2:コンビニに居合わせたため、耳川モモと一緒に強盗の人質となっていた風間マネージャーが「他のページがさかさまなの!」と言っていたが、こういうことを言ってはいけない。私の『罪とか罰とか』における異世界理論が崩れてしまうではないの。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 企画:榎本憲男 撮影:釘宮慎治 美術:五辻圭 音楽:安田芙充央 主題歌:Sowelu『MATERIAL WORLD』 照明:田辺浩 装飾:龍田哲児 録音:尾崎聡

出演:成海璃子(円城寺アヤメ)、永山絢斗(恩田春樹/見越婆署刑事)、段田安則(加瀬吾郎/コンビニの客)、犬山イヌコ(風間涼子/マネージャー)、山崎一(常住/コンビニ強盗)、奥菜恵(マリィ/コンビニ強盗)、大倉孝二(立木/コンビニ強盗)、安藤サクラ(耳川モモ)、市川由衣(コンビニバイト)、徳井優(コンビニ店長)、佐藤江梨子(春樹に殺される女)、六角精児(巡査部長)、みのすけ(警官)、緋田康人、入江雅人、田中要次(芸能プロ社長)、高橋ひとみ、大鷹明良(トラック運転手)、麻生久美子(助手席の女)、石田卓也、串田和美(海藤副署長)、広岡由里子

ラ・ボエーム

テアトルタイムズスクエア ★☆

■なぜ映画化したのだろう

ジャコモ・プッチーニの作曲した同名四幕オペラの映画化だが、オペラファンというのは、こんな単調な物語であっても、歌や楽曲がよければ満足できてしまうのだろうか。歌詞で繋いでいくだけだから、こねくりまわした話というわけにはいかないのだろうが、それ以前の内容というか精神が、あまりに子供じみたものでびっくりしてしまったのだった(オペラ無知の私が勝手なことを書くのは憚れるので、一応オペラの方の筋書きを調べてみたが、どうやらこの映画、舞台をかなり忠実になぞって作っているようなのだ)。

時は十九世紀半ば、パリの屋根裏部屋に暮らす詩人のドロルフォと画家のマルチェロたちはあまりの寒さに、芝居の台本を燃やして暖をとる。この幕開きは、まあご愛敬で楽しめる。哲学者のコッリーネもうらぶれた体で帰って来るが、音楽家のショナールがたまたまお金を稼いで戻ってきたものだからみんなで大騒ぎとなる。

そこに、溜まった家賃を取り立てに家主がやって来るのだが、払う金が出来たというのに、おだて、酒で誤魔化し、酔った勢いで家主が漏らした浮気のことを聞くや、妻子持ちのくせしてけしからんと追い返し、クリスマス・イブの町へ繰り出す算段をはじめる。ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになって、蝋燭の火を借りにきたミミと知り合い、二人はたちまち恋に落ちる。これが第一幕(むろん、映画にはこういう仕切はないが)のハイライトで、鍵を落としたとか、見つけたのに二人でもう少しいたいからと隠してしまったりで、まあ、勝手にいちゃいちゃしてろ場面。ま、これは許せるんだけど。

カフェでは先のことも考えずに散財し、勘定書が高いなると、誰が払うのだとわめくし(歌ってるだけか)、結局はマルチェッロの元恋人だったムゼッタの連れ(パトロン)の老人に押しつけて得意顔。当時の富裕層と貧乏人(しかも夢も前途もある?若い芸術家たちなんで、大目に見ているとか)にあっただろう格差のことも勘案しなくてはいけないのかもしれないが、ユーモアと呼ぶような品はない。しかし、ともあれマルチェッロはムゼッタを取り戻す。浮かれ気分の第二幕。

舞台だと幕間の休憩でもありそうな。ならいいのだが、映画の第3幕は、幕間という感覚もないから話が急展開すぎで、少々戸惑う。ロドルフォは「愛らしい頬が月の光に包まれている」とおくめんもなくミミのことを歌い上げていたのに、もう根拠のない嫉妬でミミを罵ったりもしているらしい(ホントに急展開だったのな)。ロドルフォがミミを置いて家から出てしまったため、ミミは雪の中、ロドルフォがいるとは知らず、マルチェッロのところに助けを求めて訪ねて来たのだ。

ロドルフォはミミの病のことも知っているのに、だから貧乏人の自分といてはダメと思ったにしても、第三幕でのこの別れはあんまりではないか。助かる見込みがないとまでロドルフォは言っているのに(ミミはそれを物陰で聞いてしまいショックを受けていた)。二人が別々にマルチェッロを相手に心境を語る場面は、舞台なら凝った演出でも、それを奥行きがあって当然の映画で再現すると奇妙なものにしか見えない。「歌と笑いが愛の極意」だとか「俺たちを見習え」と言っていたマルチェッロだが、ムゼッタとはまたしても大喧嘩となって、愛憎半ばする第三幕が閉じていく(どうせなら、本当に幕を下ろす演出にすればよかったのに)。

第四幕はまた屋根裏である。ロドルフォとマルチェッロが別れた恋人のことを想っているところに、ショナールとコッリーネがパンと鰊を持って帰ってくる。みんなでふざけ合っていると、ムゼッタが、階段でミミが倒れたと駆け込んでくる。子爵の世話になっていたが、死ぬ前にロドルフォに一目会いたいとわざわざやって来たという。子爵の世話ってなんなのだ? そういう道があったからロドルフォは別れようとしたのか? 何がなんだかなのだけど、まあ、いいか。で、それぞれがミミのために手を尽くす(ここはみんながいいところを見せるのだな)が、ミミは息をひきとってしまう。

ところでこの部分、最後だけ歌でなく普通のセリフになっていた。特別意味のあるセリフとも思えないが、全体の構成を崩してまでやった意味がわからない。

死を前にしては力強いロドルフォとミミの抱擁、って別にそんなどうでもいいことにまで文句をつけるつもりはないが、せっかく映画にしたのだから、もう少しは舞台とは違った感覚で場面を切り取れなかったものか。四幕という構成にこだわるのはいいにしても、ほとんど舞台をそのまま持って来たようなセットと演出(推測です。そうとしか思えないのだな)というんじゃねぇ。

ミミが死んで、カメラが宙に引いていくとすごく広い部屋(というより床が広がっているだけだが)になって寂寥感を際立たせるが、映画の醍醐味であるカメラワークがこの場面くらいというのではもったいなさすぎる。ま、それは言い過ぎで、カメラが不動なわけではない。ロドルフォとミミの二重唱など、シネスコ画面を分割して二人のアップを並べたりしているが、映画的な面白にはなっていない。

それでも退屈はしないのは、歌の力か。アンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンは現代最高のドリーム・カップルなんだそうである。

そういえばエンドロールは無音だった。館内も全部ではないがかなり明るくなって、もしかしたらこんなところまで舞台を意識して同じようにしたのだろうか(舞台にはエンドロールなどないからね)。

原題:La Boheme

2008年 114分 オーストリア、ドイツ シネスコサイズ 配給:東京テアトル、スターサンズ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ロバート・ドーンヘルム 原作:アンリ・ミュルジェール 撮影:ウォルター・キンドラー 音楽:ジャコモ・プッチーニ 指揮:ベルトラン・ド・ビリー 合唱:バイエルン放送合唱団、ゲルトナープラッツ州立劇場児童合唱団 演奏:バイエルン放送交響楽団

出演:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ:ミミ/お針子)、ローランド・ビリャソン(テノール:ロドルフォ/詩人)、ジョージ・フォン・ベルゲン(バリトン:マルチェッロ/画家)、ニコル・キャベル(ソプラノ:ムゼッタ/マルチェッロの恋人)、アドリアン・エレード(バリトン:ショナール/音楽家)、ヴィタリ・コワリョフ(バス:コッリーネ/哲学者)、イオアン・ホーランダー(アルチンドーロ/枢密顧問官、ムゼッタのパトロン)