チェ 28歳の革命

テアトルダイヤ ★★★☆

■革命が身近だった時代

貧しい人たちのために革命に目覚めたゲバラが、メキシコで出会ったカストロに共感し、共にキューバへ渡り(1956)、親米政権でもあったバティスタ独裁政権と戦うことになる。大筋だけ書くと1958年のサンタ・クララ攻略(解放か)までを描いた「戦争映画」になってしまうが、エンターテイメント的要素は、最後の方にある列車転覆場面くらいしかない。全体の印象がおそろしく地味なのは、舞台のほとんどが山間部や農村でのゲリラ戦で、余計な説明を排したドキュメンタリータッチということもある。

これではあまりに単調と思ったのか、革命成就後にゲバラが国連でおこなった演説(1964)や彼へのインタビュー風景が、進行形の画面に何度も挟まれる。この映像は結果として、ゲバラの演説内容と、彼がしているゲリラ戦の間には何の齟齬もないし、ゲリラ戦の結果故の演説なのだ、とでも言っているかのようである。もっとも、この演説部分の言葉を取り出そうとすると、映画という特性もあって意外と頭に残っていないことに気づく(私の頭が悪いだけか)。

けれど、農民に直接語りかけていたゲバラの姿は、しっかり焼き付けられていく。英雄としてのゲバラではなく、彼の誠実さや弱者への視点を、つぎはぎ編集ながら、着実に積み上げているからだろう。これがゲバラの姿に重なる。こんなだからゲバラの腕の負傷も、映画は事件にはしない。まるで、事実が確認出来ていないことは映像にしない、というような制作姿勢であるかのようだ(実際のことは知らない)。

戦いは都市部に展開し(当時の状況や地理的な説明もないから、この流れ自体はやはりわかりずらい)、いろいろな勢力と共闘することも増えていく。当初から裏切り(処刑で対処する非情さもみせる)や脱落もあるのだが、常にそれ以上に人が集まってきていたのだろう。ゲバラが主導者であり続けたのは先に書いたことで十分頷けるのだが、キューバにはそれを受け入れる大きな流れがあったのだ。

革命は、それを望んでいる人々がいて、初めて成就するのだ、ということがこの映画でも実感できる(金融危機によって格差社会がさらに推し進められ、『蟹工船』がもてはやされている日本だが、今革命が起きる状況など、やはり考えられない。比較するような話ではないが)。

映画としての華やかなお楽しみは(ささやかだけど)、ゲバラの後の妻となるアレイダとのやりとり(ゲバラがはしゃいでいるように見える)と、ハバナ進軍中に「たとえ敵兵のものでも返してこい」と、オープンカーに乗った同士をゲバラが諫める場面か。ゲバラのどこまでも正しい発言には逆らえず、しぶしぶ車をUターンさせることになる。この最後の場面、勝利を手中にして、画面の雰囲気や色調までがやけに明るいのである。

PS 今日は何故か『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』に続いて革命映画?2本立てとなった。向こうは1955年のアメリカで、「レボリューショナリー・ロード」という名前の通りがあったという設定(実際にも?)だ。この年はゲバラがメキシコでカストロと出会った年でもある。Revolutionという言葉は、米国ではどんなイメージなのか、ちょっと気になる。

原題:Che Part One The Argentine

2008年 132分 アメリカ/フランス/スペイン シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス プロダクションエグゼクティブ:アンチョン・ゴメス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、サンティアゴ・カブレラ(カミロ・シエンフエゴス)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、ジュリア・オーモンド(リサ・ハワード)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)