レベル・サーティーン

シネセゾン渋谷 ★★★★

■もう引き返せない。「レベル最低」ゲームは、最後に融合する!

すごい映画を観てしまったものだ。グロで下品で、性的な場面こそないが、それ以外での傍若無人さは目に余るものがあって書くのもためらわれるのだが、観てしまったのだから、もう引き返せない。映画館を出なかった私もゲームをやめなかった主人公のプチット(クリサダ・スコソル・クラップ)と同じようなものだ。って、そんなわけはないのだが、人間が暴走していく要因など案外にたようなもので、単なる怖いもの見たさだったりするのではないかと、ふと、思ってしまったのだった。

プチットは輸入楽器のセールスマンだが、要領のいい同僚には出し抜かれるし、営業成績がちっとも上がらない。なのに、故郷の母親との電話では課長への昇進を匂わせて、いいところ見せてしまうような男で、だから逆に金を無心されて、それにもいい返事をしていた。車のローンすら滞納しているっていうのにね。車を取り上げられてバスで出社すれば、机には請求書の束が届いているし、おまけにクビを言い渡されてしまう。

にっちもさっちも行かなくなって非常階段で苦悩していると、突然ケータイが鳴る。ケータイの見知らぬ声は、幸運にもゲームの参加者に選ばれたことと、ゲームをクリアしていくと超高額の賞金を手にすることができることを語り、プチットはゲームに参加するかどうかを促される。

プチットがゲームに心を動かされる状況にあることはすでに述べた通り。その説明がちゃんとあるのはこのあとの展開を考えると意外な感じもする。そんなに追い詰められていない人間でもこのゲームを始めてしまいそうだからなのだが、プチットの性格付けという意味もそこに込めた上での流れと考えれば無難なとこか。

そして、最低のゲームが始まっていく、レベル1は手元にある新聞で壁の蠅を叩き落とすというもの。これで1万バーツ。レベル2は叩き落とした蠅を飲み込むことで5万バーツ。

ゲーム(というより課題である)がエスカレートしていくことは容易に想像が付くが、プチットはもう引き返せない(ゲームは、1.ゲームの終了を申し出たら、2.誰かにゲームのことを教えたら、3.ゲームの正体を探ろうとしても中止になると前置きされるが、できれば中途退場の場合のルールについてももう少し詳しく触れておいてもらいたいところだ)。

というのもレベル5で、大便を食材にした料理を食すというとんでもない課題が出てくるからだ(それも繁盛しているレストラン内でのことなのだ)。この難問(映画作品とする時の難問にはならなかったのだろうか)は、この後に出てくるいくつかのゲームよりかなりハードルが高い(これについては時間制限はなかったが)こともあって、この段階で登場するのは少々疑問なのだが、プチットはそれも決行するに至る。

プチットにしても、この時点でこのゲームがどのくらい巧妙に仕組まれたものなのかは推理したはずだ。というか、そもそも最初のゲームからして並大抵の設備と準備がなければ、ゲームを成立させる状況にはならないし、進行中の不確定要素も入れると、このゲームがどれほどの規模で行われているのか、いくら「とろい」プチットといえども考えただろう。

この謎については、プチットに好意を持つ同僚のトン(アチタ・シカマナ)が、プチットの行動に疑問を抱き、テレビでプチットがバスで大喧嘩(レベル6)をして警察に追われているニュースも見て、ネットで事件を調べていくうちに、怪しげな会員制のサイト(http://www.13beloved.com/ このアドレスはこの映画のタイ語の公式サイトになっていた)に行き着き、少しずつ判明していく。が、これすらもある程度予想(もしくは途中から組み込んだのか。会員制のサイトなのに、「侵入者を信用」してしまうのだ)されていたフシがあるのだ(トンも最後の方でゲームの一部として登場する)。

プチットのゲームは、途中、数の推理(これこそゲームらしいが、これは13のうちには含まれないようだ)や井戸に落ちた老人の救出などをこなしながら(昔の恋人の現在の彼を叩きのめすというのもあった。レベル8)、痴呆の老婆を病院から連れ出した(レベル9)ことから起きる惨劇(レベル10)へ一気に突っ走る(老婆の行動はどこまでが演出なのだ!)。ここではワイヤで首を落とされた暴走族の1人がのたうち回るかなり気味の悪い場面も用意されている。ここまで、多少のモタモタ感がないわけではないが、課題も内容に富んだよく考えられたものだ。

トンの犬を殺すのがレベル11で、このあと牛を殺してその肉を食べることを経て(やはりこの順番は難ありだ。もっともそれもちゃんとわかっていて、この賞金は5000バーツである)、いよいよ最後のレベル13に到達する(実はトンも拉致されてその場、別室だが、に連れてこられている)。

プチットに課せられたのは父親殺しで、その当人が目の前に顔に袋を被せられて現れる。プチットにとって父親は飲んだくれで、オモチャを壊し、愛犬をころし、虐待されてきた憎むべき相手だったから、この決断は意外と簡単と思われたが、何故かプチットに父を肯定する思い出が過ぎって(愛犬殺しも狂犬病故のことだった)、父殺しなど出来ないと自覚する。が、プチットがそこに至ったとき、プチットは自分が殺すべき相手に、反対に殺されてしまうのである。

つまり父親の方も、多分プチットと同じようにゲームを経て、この最後のレベル13に到達していたのだろう。ゲームの主催者(サイト管理者)にとっては、ここまでは細心の注意を払いながら課題を設定し進めてきたが、ここに至ってはどちらかがレベル13をクリヤーすればそれで十分なのは改めて言うまでもないことだ。

このアイディアの非情さには舌を巻くしかないのだが、ゲームの主催者を中学生くらいに設定しているのも憎いばかりだ。その少年「キース様」はトンに「今まで何人が犠牲になったか知ってるか」と詰め寄られるのだが、「ゲームだ。僕は知らない、プレーヤーがやった。心配ない。法は僕側だ」と言って憚らない。人殺しという言葉にも「僕じゃない、みんなだよ」と同じことを繰り返すだけだ。

もっともトンは解放されたようだ。内情をあそこまで知っている(教えたという方が正しい)トンを解放したのは、キー様に絶対の自信があるということなのだろう。そう、最後の場面で彼女に近づいていったのは、未確認ながら多分「過去に同様の事件があった」と言ってこの事件を捜査していた警官のようだったから。

ところでここまできて、巻頭に、横断歩道で老婆の手助けをしてケータイを落としてしまう場面があったことを思い出したのだが、あれにはどういう意味があったのだろう。誰か教えて欲しいのだが。

 

【メモ】

本文で書き漏らしたゲームは次の通り。レベル3は、3人以上の子供を泣かす。レベル4は乞食の小銭を奪う。

このゲームが成立するには相当数の隠しカメラが市内(いや郊外にもだった)に張り巡らされている必要がある。また、ゲームのプレイヤーへの連絡はケータイだから充電を心配して、プチットにも途中でケータイを替えるような指示が出ていた。

トンの通報で警察もサイトを調べるが、ページすら見つからない。もっともその警察のファイルに13という数字と怪しげなマークがあるので、ここもゲームの主催者のもとにあることがわかる。

不思議だが、トンに対しては「手荒な真似をしてすまない」などと言っていた。「気付いたのは君がはじめて。ウィークポイントを教えてくれた」とも言っていたから、キー様はトンに敬意を払っていたのだろうか。

プチットは昔の彼女に会って「お袋が会いたがっているし、やり直そう」と言うのだが、彼女からは「その話、前にも聞いたけど嘘だったわ。それにその話が本当だとしても、私を有名歌手にはできないでしょ」と言い返されてしまう(すごいよね、これ)。そして、彼女の彼がろくでもない男なのに、彼女が男を好きなことを知ってショックを受けることになる。

原題:13 BELOVED

2006年 114分 ビスタサイズ タイ R-15 配給:ファインフィルムズ、熱帯美術館 宣伝協力:スローラーナー 日本語版字幕:風間綾平

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル 製作総指揮:ソムサック・デーチャラタナプラスート 原作:エカシット・タイラット 脚本:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル、エカシット・タイラット 音楽:キティ・クレマニー

出演:クリサダ・スコソル・クラップ(プチット)、アチタ・シカマナ(トン)、サルンヨー・ウォングックラチャン(スラチャイ警部)、ナターポン・アルンネトラ(ミク)、フィリップ・ウィルソン(ジョン・アダムス/プチットの父)、スクルヤ・コンカーウォン(プチットの母)

アコークロー

シアターN渋谷-2 ★★☆

■許すということ

鈴木美咲(田丸麻紀)は、東京から沖縄で一緒に生活するために村松浩市(忍成修吾)の元へやってくる。浩市ももとは東京人。4年前から沖縄で働いていたが、遊びにきていた美咲を海岸でナンパして、願ってもない状況になったらしい。浩市の友達の渡嘉敷仁成(尚玄)とその子の仁太に喜屋武秀人(結城貴史)と彼のおばば(吉田妙子)という仲間に囲まれて、美咲の沖縄での新しい生活がはじまる。

まず重要なのは、美咲には東京から逃げ出したい事情があったということである。実はベビーシッター中の姉(清水美砂)の子を、事故で亡くしてしまったのだ。この事故は発端が姉からのケータイへの連絡であり、偶然が重なったものと「姉もわかっているがでも許せないでいる」と美咲が認識しているもので、この問題が一筋縄ではいかないことは想像に難くない。

が、この先に起きるキジムナー(沖縄の伝説の妖怪)奇譚との関わりが(もちろんそれは精神的なものであっていいのだが)いまひとつはっきりしないため、見せる部分での怪奇映画としてはある程度成功していながら、やはりそこまでの映画にしかなっていない。つまり、この理屈付けさえ明確にできたならば、十分傑作たり得たのではないか。

仁成の前妻松田早苗(菜葉菜)が急に現れ、仁太に接触したことで仁成は怒りをあらわにする。早苗を殴ってしまうのだから、根は深そうだ。「話してもわかる相手ではない」らしい。そして、いったんは早苗を追い返すのだが、その言葉通りに同じことが繰り返される。

ただ早苗は、この直前に猫の死骸が木に吊されたところ(沖縄では昔よくあった風習と説明されていた)で、キジムナーに取り憑かれているのだ。早苗が鎌を持っていた(キジムナーのせいか)ことで予想外の惨劇となる。もみ合っていて、まず浩市が早苗を刺し、それを抜いた早苗が仁成に襲いかかるのを制しようとして美咲がとどめを刺す形になってしまう。

事件が発覚したらこの村では生きていけないと、浩市と仁成は警察に届けることを拒み(男が3人も傷を負っているのだから正当防衛を主張するのは簡単そうなのだが)、浩市と美咲とで早苗の死体を森の中にある沼に運び、沈めることになる。

話が前後するが、仁成は早苗をビニール袋に包んでいるところを、家に帰ってきた仁太に見られてしまう。目があった仁太は驚いて逃げるが、早苗に鎌で足に傷を付けられている仁成が追いつけないでいるうちに、仁太はサトウキビ畑でハブに噛まれる。仁成は車で病院に向かうが、右側から合流してきた車と激しく接触する(単純ながらこの場面のデキはいい)。

秀人は早苗の死そのものを疑い、茫然としたまま家に帰っていくが、姿を消してしまう。浩市と美咲が秀人を捜してまたあの沼に行くと、「これをあげるから、でもとても痛くて取れないんだ」と言いながら自分の目玉をえぐり取ろうとしている秀人を見つける。

魚の目玉がキジムナーの好物だというのは、おばあが読み聞かせてくれた絵本に、また、仁成の同級生で元ユタだったことから紹介された作家の比屋定影美(エリカ)に、浩市と美咲がキジムナーの話を聞きに行き、比屋定からキジムナーは裏切った人間の目玉をくり抜くのだ、と言われていたことをなぞっているから非常に不気味だ。

仁成は仁太が入院したことすらわからなくなっていて(自分足の傷さえわかっていないようだ)首を吊って死んでしまう。早苗の幻影を見るようになった浩市は、仕事も手に付かない状態になっている。そして、美咲にも早苗の姿が見える時がやってきて、2人は比屋定の助けを求める。

美咲にも早苗が見えるようになる前にある、美咲カが外から浩市の所に帰ってくる3度同じ内容を別のパターンで繰り返す場面は、意味はわからないが怖い。

最後の早苗と比屋定の対決場面は、比屋定のお祓いによって早苗の口から出てきた異物(これがキジムナーなんだろう)を、比屋定がまた食べてしまうというグロな展開となる。ここは映画として面白いところである。ただ逆にここにこだわったことで、作品としてはよくわからないものになってしまった。というのも、キジムナーが何故早苗に取り憑いたのかが、まったく説明されていないからだ(説明不可という立場をとったのかもしれないが)。

かつて(仁太が2歳の時)お腹の子を自分の不注意で死なせてしまったという早苗に、気持ちのやり場のないことはわかるが、だからといって彼女の行動を肯定できるかといえばもちろんそんなことはなく、浩市が自分たちの正当性と早苗を非難したことの方が正論に決まっているのである。もちろんそこまでは、だが。これは比屋定も言っていることだ。

とにかく細かいことを気にしだすと何が何だかわからなくなってくる。ここはやはりキジムナーから離れて、美咲の問題に限定した方がよかったのではないか。そうすれば美咲がどうしてキジムナーに興味を持ったのかということだって曖昧にせずにすみ、早苗に自分の犯した罪(姉の子を殺してしまった)を重ね合わせる美咲の心境を中心にした映画が出来たのではないか。

もっともそうしたからといって、それですべてが解決するかというと全然そんなことはない。美咲のもう前しか見ないという決意(これは病院で仁太の経過を仁成に聞いたあとのこと)にしても、美咲に途中から早苗の亡霊が見えるようになる理由も、やはりすっきりしないままだろうから。

ただ付け加えるなら、早苗と美咲の心の交流がまったくないわけではない。浩市はやはり自分の目玉を刺すことになるが、美咲が自分を刺そうとしたときには、早苗はその包丁を自分に向け、自分を刺すのだ。これは美咲が自分のことをわかってくれたと思ったからだろう。

早苗の遺体が発見されたのは美咲たちの犯行から1ヶ月も経ってで、その日が死亡推定時刻になっているので、警察も困っているという比屋定の報告を、美咲は拘置所の面会室できく。ここでもその理由をキジムナーと結びつけているのだが……。

この刑務所に美咲を姉が訪ねて来ていることには、やはり胸をなで下ろす。姉との関係が戻ることはないにしても(もう至近距離では生活しない方がいいだろうから)、2人は了解だけは取り合っておくべきと思うから。

許されることのないものは存在する。というか、許すか許さないかという認識は他者との関係性で発生するが、その関係性は閉じてしまっても存在する。この場合許す(許さない)側と許される(許されない)側は同一となって、この部分で納得出来なければ、いくら他者から許されても救われないはずだ(もっとも自分の正当性のみしか主張しないまったく無反省な人間もいるようだが、この映画ではそういう人間は登場しない)。

少し映画とは離れた感想になってしまった。

実はこの映画については「決定稿」と印刷された台本が売られていて、それを読んだのだが、とても決定稿とは思えないほど完成した映画とは違っていた。もちろん、それは悪いことではないだろう。特に前半は、台本よりずっと整理されたいいものになっている。

が、後半になると手を入れたところが必ずしもよくなっているとは思えないのだ。映画は1度観ただけだし、この違う部分が多すぎる台本を読んでしまったことで、私が多少混乱していることもあるが、ここまで手をいれたのは監督も作りながらまだ迷っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

たとえば、いままでに書きそびれたことでキジムナーについてもう1度だけ述べると、美咲は「森へ逃げて2度と現れないって、なんかすごく消極的。キジムナーがかわいそう」と絵本のキジムナーに同情しているのだが、映画に出てくるキジムナーは、とても人間の思慮の及ぶ存在ではなかった。また比屋定はキジムナーの存在より、キジムナーに対する人間の想いに興味があると発言していたのに、対決場面ではその存在が当然かのように振る舞っていて、ちょっと面食らってしまったのである。

さらに決定稿だと、最後のクライマックスでは美咲も早苗(キジムナー)に目玉を差し出している(これは比屋定が早苗が吐き出したものを飲み込んだあとなのだ)。そして早苗のはやく楽にしてという言葉に、美咲が早苗を刺すのだ。

ね。ちょっと混乱するでしょ。私も書いててますますわからなくなってきた。

最後は美咲の姉が美咲に面会に行く場面ではなく、片腕を失った仁太が友達にからかわれているところに比屋定が居合わせて、仁太に片腕を亡くしたのならもう片方の腕で生きろと言う。現実を見据えた阿ることのない決意のある場面だが、うーん、やっぱりキジムナーにこだわりすぎて、途中の説明を誤ったよね。飛行機雲がくっきりの、どこまでも明るい沖縄の空の下にある程度恐怖を提示できていたのに、ちょっともったいなかったような。

 

【メモ】

「アコークロー」は、昼と夜の間の黄昏時を意味する沖縄の方言だという。沖縄の言葉の多くは古い時代に本土方言から変化してできたものだと金田一春彦の『日本語』で教えられたが、とするとこれは「明るくて、暗い」なのか。キジムナーもキは木で、ジムナーの方は人を化かす狢がムジナーになって、ムジナーがジムナーと入れ替わることはよくあるから木の狢という意味ではないかと。ま、これはまったくの推論。「木のもの」が語源という説が多いようだ。

偶然の重なった事故は、姉からケータイに連絡が入ったことで、美咲はちょうどその時飛び出してきた自転車にハンドルをぶつけられてベビーカーの手を離してしまい、そこにトラックが突っ込んできて……と映像で説明されていた。

警察に届けない理由を浩市は美咲に次のように説明する。手遅れだし、母親が死んで父親はブタ箱行きでは仁太が救われない、というものだが、お前の姉さんはこの事件を聞いてどう思うというセリフは、そうすんなりとは入ってこなかった。

美咲はイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という方言をあまり好きになれずにいたが、拘置所で比屋定からこの言葉を聞くことになる。

2007年 97分 ビスタサイズ PG-12 配給:彩プロ

監督・脚本:岸本司 製作:高澤吉紀、小黒司 プロデューサー:津島研郎、有吉司 撮影:大城学 特殊メイク:藤平純 美術:濱田智行 編集:森田祥悟 主題歌:ji ma ma『アカリ』 イラスト:三留まゆみ 照明:金城基史 録音:岸本充 助監督:石田玲奈

出演:田丸麻紀(鈴木美咲)、忍成修吾(村松浩市)、エリカ(比屋定影美)、尚玄(渡嘉敷仁成)、菜葉菜(松田早苗)、手島優(亜子)、結城貴史(喜屋武秀人)、村田雄浩(藤木)、清水美砂(美咲の姉)、山城智二(山城)、吉田妙子(喜屋武シズ)

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

新宿ミラノ1 ★★☆

■もう勝手にしてくれぃ

なんでこのシリーズがヒットするんだろ。私にはけっこうな謎だ。海賊映画の伝統があるアメリカならいざ知らず、日本人に食指が動くのかなーと。近年は『ONE PIECE』のようなマンガもあるし(内容は知らん)、ディズニーランドのアトラクションでもお馴染みだから(いや映画はこれが元でしたっけ)、それほど違和感はないのかも。内容重視というのではなく、アトラクションムービーとして楽しめればそれで十分なのだろうか。

そうはいっても170分間全部をその調子でやられてはたまらない。たしかに流れに身をまかせているだけで、退屈することもなく最後まで観せてはくれるが、でも何も残らないんだよな。

デイヴィ・ジョーンズの心臓を手に入れた東インド会社のベケット卿によって窮地に立たされた海賊たちは、死の世界にいるジャック・スパロウを救い出すことにし、ってそうだった、2作目の最後でジャック・スパロウを当然どうにかしなければならないことはわかってはいたんだけど、あらためてこれはないよなー、と思う。早々にもうどうでも良い気分になってしまったもの。

何でもありのいい加減な映画の筋など書く気分じゃないのでもうお終いにしちゃえ。それにしても3作まで作り、ヒットし(金もつぎ込んでるか)、キャラクターも育ったというのに、結局は話に振り回されているだけの印象って、あーもったいない。

 

原題:Pirates of the Caribbean: At Worlds End

2007年 170分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オマン、ブルース・ヘンドリックス、エリック・マクレオド 脚本: テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー キャラクター原案:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、スチュアート・ビーティー、ジェイ・ウォルパート 視覚効果:IKM プロダクションデザイン:リック・ハインリクス 衣装デザイン:ペニー・ローズ 編集:クレイグ・ウッド、スティーヴン・リフキン 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(キャプテン・ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ジェフリー・ラッシュ(キャプテン・バルボッサ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、チョウ・ユンファ(キャプテン・サオ・フェン)、ステラン・スカルスガルド(ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ジェームズ・ノリントン)、トム・ホランダー(ベケット卿)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、デヴィッド・スコフィールド(マーサー)、ケヴィン・R・マクナリー(ギブス航海士)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、マッケンジー・クルック(ラゲッティ)、デヴィッド・ベイリー(コットン)、キース・リチャーズ

300

新宿ミラノ2 ★★☆

■スパルタ教育って優性思想なのか!?

戦闘シーンの迫力に目を奪われていたら、117分はあっけなく過ぎていて、つまりこの映画の映像にはそれだけの迫力があったということなのだが、しかし物語の方は心もとないものだった。

まずスパルタではどのように子供を育てるかという話が出てくる(スパルタ教育を復習)。発育不全や障害は排除され、7歳で母親から離され暴力の世界で生きることを学ばされる。そして、今のスパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、そういう意味でも完璧だったというのだ。

そのレオニダスのもとにペルシャ王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)からの使者が訪れる。西アジアやエジプトなどを手中にしたペルシャは100万という大軍をもってギリシャに迫り、属国になることを要求するのだが、レオニダスはためらうことなく使者を殺してしまう。彼にとって戦うことは当然だったが、好色な司祭たちはクセルクセスの餌(スパルタが滅んだ時は生娘を毎日届けるというすごいもの)に、託宣者(オラクル)のお告げと称してレオニダスにスパルタ軍の出兵を禁じてしまう。

スパルタの滅亡が目に見えているレオニダスは苦悩するが、「戦争はしない。散歩だ」と言って、でも王妃には別れを告げ、親衛隊と北に向かう。それをきいたアルカディア軍も駆けつけてくるが、レオニダスが動かせる兵はわずか300。が、敵の進路にあたる海岸線が狭くなる地点で敵と対峙すれば単純な数の比較は成立しない……たってねー。

で、このあとあらかた戦闘場面についやされるのだが、腑に落ちないのが王妃ゴルゴ(レナ・ヘディ)の行動だ。自分が議会で派兵の要請をしても説得できる可能性が少ないとみてセロン(ドミニク・ウェスト)に接近し、我が身と引き換えに協力を得ようとするのだが、セロンからは逆に王妃に誘惑されたと発言されてしまう。首飾りを渡し「骸となっても戻ってきて」とレオニダスに言っていたのにあまりではないか。

ま、これは男性観客へのサービスみたいなものか。密会場面で王妃は「いい夜ですね」と切り出すがセロンは「話相手に呼んだのではない」とばっさり。王妃は「わかってます」と強気に答えるが、「法を破り議会を無視して進軍したのだから」とすぐ主導権を奪われて、「現実主義者の見返りはおわかりのはず」「すぐにはすまない。苦痛だぞ」だもんね。東映のチャンバラ時代劇にもあるいたぶって喜ぶ悪代官みたいな感じ。

セロンの発言のひどさに、怒りに燃えた王妃が、剣で彼を刺し殺してしまうのだが、セロンの懐からペルシア金貨がこぼれ落ちたことから、セロンが裏切り者だったことがわかる。いや、もう、なんともわかりやすい説明(こんな時に持ってるなよ、ペルシャ金貨)。

物語は他の部分ではもっと単純。とにかく戦闘場面に集中しろということか。確かにその映像は一見に値する。茶を基調に色数を抑えたざらついた質感の画面に、スパルタ兵のまとうケープや血しぶきの赤を強調するところなど『シン・シティ』(この原作もフランク・ミラーだ)にもあった手法だが、戦闘場面にこだわった映画だけに、これがものすごく効いている。スローモーションと速送りを自在に組み合わせることで、獲物を仕留める正確さと速度の尋常ならざることの両方をきっちりと描く。

無茶なアップや雑なカメラ移動もないから安心して観ていられるのだ。すべてが計算された動きの中にある感じで、いかに敵を仕留めたかを観客にわからせようとしているようでもある。そしてこれを徹底させることが、画面から現実味をなくし、よりゲームに近い世界を作り上げることになった。首が、腕が、飛び、血しぶきが舞いながら、残虐性より美しさが演出されていたと言ったら褒めすぎか。実写をデジタル処理したマンガと思えば(そこまではいってないが)いいのかも。

このことに関係しているはずだが、ペルシャ軍の秘密兵器の飾り立てられたサイや象なども、もはや常識の大きさではなく、まるでゲイのようなクセルクセスの高い背、戦場とは思えない御輿なども、すべてがゲームやマンガに近い。1人が100人を殺しても(疲れちゃうものね)3万人の犠牲ですみそうなのに、ペルシャ軍はありえない巨大動物だけでなく、怪力男、忍者?部隊なども繰り出してくる。それを次々と撃破してしまうんだからねー。

とはいえ、敵に山羊の道を知られたことで退却者も出、スパルタの勇士たちにも力の尽きる時がくる。レオニダスは無数の矢に射られて命を落とし、王妃の元には使者によって首飾りが届けられる。

ただ、このあとの「神秘主義と専政政治から世界を救う」というメッセージには同調しかねる。最初の方でも「世界の手本である民主主義」などという言葉が出てきたが、そこまで言っては思い上がりというものだ。

一般のペルシア兵が仮面軍隊というのは、面白さとわかりやすさから採用されたのだとは思うが、見方を変えると個性剥奪というずいぶんな扱いであるし、それに巻頭にあった、スパルタでは弱者は生かしてもらえないという部分は、ナチスなどの優性思想に通じるものだもね。2500年前にはそうでもなきゃ生きていけなかったのかもしれないけど、こうあからさまに言われてしまうと聞き捨てならなくなる。

  

原題:300

2006年 117分 シネスコサイズ アメリカ R-15 配給:ワーナー・ブラザーズ映画 日本語字幕:林完治

監督:ザック・スナイダー 製作:ジャンニ・ヌナリ、マーク・キャントン、バーニー・ゴールドマン、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:フランク・ミラー、デボラ・スナイダー、クレイグ・J・フローレス、トーマス・タル、ウィリアム・フェイ、スコット・メドニック、ベンジャミン・ウェイスブレン 原作:フランク・ミラー、リン・ヴァーリー 脚本:ザック・スナイダー、マイケル・B・ゴードン、カート・ジョンスタッド 撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイン:ジェームズ・ビゼル 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:ジェラルド・バトラー(レオニダス)、レナ・ヘディ(ゴルゴ/王妃)、デヴィッド・ウェンハム(ディリオス)、ドミニク・ウェスト(セロン)、ミヒャエル・ファスベンダー(ステリオス)、ヴィンセント・リーガン(隊長)、トム・ウィズダム(アスティノス)、アンドリュー・プレヴィン(ダクソス)、アンドリュー・ティアナン(エフィアルテス)、ロドリゴ・サントロ(クセルクセス)、マリー=ジュリー・リヴェス、スティーヴン・マクハティ、タイロン・ベンスキン、ピーター・メンサー

しゃべれども しゃべれども

新宿武蔵野館1 ★★★★

■落語の味わい、ながら本気度満点

この映画を文章で説明してもあまり面白くなりそうもないのだが、しかし目的はまず自分のための忘備録なのであるからして、やはり粗筋くらいは書いておくか(書き出せばなんとかなるだろう)。

二つ目で今昔亭三つ葉という名をもらっている外山達也(国分太一)が、師匠の小三文(伊東四朗)に弟子入りしたのは18の時だから、もうすでに10年以上が経っている。達也は古典落語にこだわり、常に着物を着る、根っからの落語好き。なのに、どう喋ったらいいかがなかなか掴めずにいた。そんな彼が、よりによっておかしな3人を相手に話し方教室を開くことになるという、まるで落語の題材のような映画だ。

まずは、村林優(森永悠希)という大阪からの転校小学生。言葉の問題でいじめにあっているらしい。心配になって達也に相談してきたのが彼の叔母の実川郁子(占部房子)。彼女は達也の祖母春子(八千草薫)のお茶の生徒で、優が落語を覚えれば人気者になって問題解決と思ったらしい(これが彼女らしさなのかも)。達也は郁子に秘かに想いを寄せていたのだが、展開の糸口も見せてくれないうちに「来年結婚することにした」という郁子の宣言を達也は聞かされることになる(はい、残念でした)。

2人目は十河五月(香里奈)という若い女性。小三文が講師となったカルチャースクールの話し方教室を中途退席した失礼なヤツ。達也は「師匠はいつもあんなもん」と弁護するのだが、五月は「本気でしゃべってない」から「つまらない」と手厳しい。2人の掛け合いが、実際に自分がその内の1人だったらとてもこうはいかないと思うのだが、ギリギリのところで繋がっていて面白い。

五月のように、こうぶっきらぼうに話されてはたまったものではないし、だから話し方教室はぜひとも必要と思わせるのだが、しかし彼女の口から出る言葉は常に本音だから、達也も正面からぶつかっていったのだろう。事実、何故か一緒に行くことになったほおずき市でも、楽しかったと正直な感想を述べていた(達也は郁子の気持ちをこの時はまだ知らない。五月の方は、男にフラれた話を達也にしたところだった)。

3人目は元野球選手の湯河原太一(松重豊)。現役時代は「代打の湯河原」として湧かせたらしいが、話し下手であがり症だから解説者としての前途は暗澹たるもので、教室の噂を聞きつけて飛び込みでやってきたのだった。

3人が教室で一緒になる設定は、強引といえば強引。だけど、この取り合わせの妙は捨てがたいものがある。優は小学生ながら、口は達者でお調子乗り。湯河原太一とは相性が悪く険悪ムードが漂うが、でも優のいじめっ子宮田との野球対決に湯河原が一役買ってという流れにはちゃんと2人の本気度が感じられる。結局、アドバイスはもらったものの宮田には三振で負けてしまうのだが、このあと優の失踪騒動(達也の部屋にいただけだった)では、達也が優に手を出してしまうことになる。

こんなだから、教室の発表会の開催はあやしくなる。達也にも、師匠から一門会があるという話があって、集中しなければならない事情があった。なにしろ達也はあろうことか師匠の十八番である『火焔太鼓』をやると決めてしまったのだ。これを決める少し前に達也が「俺、師匠の噺が好きです」と師匠に言う素晴らしい場面がある。この達也の真っ直ぐな気持ちには泣けてしまう。

クライマックスというほどのものなどないのだが、結局達也(ここは三つ葉と書くべきか)は体調を崩していたことも幸いしたのか、一門会で自分なりの『火焔太鼓』をものにする。そして、教室の発表会も無事行われることとなった。

優は『饅頭こわい』で宮田から笑いを取り、姿をなかなか見せずに心配させた五月も、演目を変え達也と同じ『火焔太鼓』を披露する。教室には何しにきていたのかわからないような湯河原だったが、彼も来年からはコーチをやることになったという。不器用な彼ら(優は最初から器用だったけどね)だったが、五月の言ったとおり「みんな、本気でなんとかしたいって思って」いて、本当になんとかしたのだった。

最後は達也を追いかけるようにして五月が水上バスに乗り込んできて、言わないと一生後悔する気がすると、ほおずきがうれしかったことを告げる。いらないと言い張っていたほおずきを、達也が買って五月の家に届けてやっていたのだ。2人が結ばれる結末は予想どおりにしても、ここまではっきりとした意思表示を五月が見せるとは思いもしなかった。ということは『饅頭こわい』を『火焔太鼓』にしたのにも、同様の意味があったということか。ずっと練習していた『饅頭こわい』ではなく、達也が悩み苦しんでいた『火焔太鼓』を五月も一緒になって演じたかったのだ。

一方的に五月に攻勢をかけられてしまっては、達也が心配になるが、『火焔太鼓』を30点評価にして「『饅頭こわい』はどこに行った」と切り返すあたり、さすがにそれはわかっていたらしい。で、「ウチにくるか、祖母さんがいるけどな」となる。

もっとも、そこまでわかっているなら、達也がもう少し気をきかせてやってもよかったような。じゃないか、五月が自分で意思表示することが1番大切なことだと、達也にはわかっていたのだよね(そういうことにしておこう)。

しかしくだらないことだが、達也が豊島区の家を出ると、次には江東区の水上バスに乗っているというのがどうもね。深川図書館や水上バスが出てくる風景は、私にとっては日常の延長線のものだからそれだけでうれしいのだが、だからよけい気になってしまうのである。

  

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:平山秀幸 プロデューサー:渡辺敦、小川真司 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎、藤島ジュリーK.、奥田誠治、田島一昌、渡辺純一、大月昇 原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』 脚本:奥寺佐渡子 撮影:藤澤順一 美術:中山慎 編集:洲崎千恵子 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ゆず『明日天気になぁれ』 照明:上田なりゆき 装飾:松本良二 録音:小松将人 助監督:城本俊治 落語監修・指導:柳家三三、古今亭菊志ん

出演:国分太一(外山達也/今昔亭三つ葉)、香里奈(十河五月)、森永悠希(村林優)、松重豊(湯河原太一)、八千草薫(外山春子)、伊東四朗(今昔亭小三文)、占部房子(実川郁子)、外波山文明(末広亭の師匠)、建蔵(今昔亭六文)、日向とめ吉(今昔亭三角)、青木和代(八重子)、下元史朗(十河巌)、水木薫(十河みどり)三田村周三

ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

監督・ばんざい!

銀座テアトルシネマ ★☆

■壊れてます

ヤクザ映画を封印した「馬鹿監督」(とナレーターに言わせている)のタケシが、それならといろいろなジャンルの映画に挑戦する。小津映画、昭和30年代映画、恐怖映画、時代劇にSF映画(他にもあったか?)。それぞれにまあまあの時間をとり、配役もタケシの力かそれなりに凝ったものにしてあるが、ちっとも面白くない。

いろいろなパターンを見せてくれるから飽きはしないのだが、笑えないのだ。映画をジャンル分けで考えていること自体そもそもどうかと思うのだが、それを片っ端からやって(ある意味では偉い!)否定してみせる。でもこの発想はあまりに幼稚で、観ているのがいやになってしまう。その否定の理由も、「何故女が男に尽くす映画ばかりなんだろう」とか「またギャング(ギャグではない)が出てきてしまった」とかいったもので(これもナレーターに言わせているのだな)、まともな批評になっていないのだ。批評になっていないのは自分の作品まで引っ張り出してしまっているからだろうか。

わずかに『コールタールの力道山』(劇中映画の1つ)に、『三丁目の夕日』の懐古趣味の甘さは耐えられないと言わんばかりの切り口があるが、他はひどいものばかり。特に小津映画を真似たものなんて見ちゃいられなくって(だいいち、あんな昔の映画に今頃何を言いたいのか)、これって大学の映研レベルではないかと。

で、何をやってもうまくいかないでいたのだが(いや、現実にそうなっていた?)、詐欺師の母娘が東大泉という得体の知れない人物に近づくという話だけは、どんどん進行していって……なんだけど、これがどこにもない映画なの。東大泉の秘書との恋や、何でもありの井手博士展開って、奇想天外というより安直なんですが。そりゃ面白いでしょ、タケシは。大金使って遊んでるだけなんだもの。だから「監督・ばんざい!」なのか。

最後のオチも最低。流れ星が光に包まれて爆発。全員が吹っ飛ぶと「GLORY TO THE FILMMEKER」というタイトルが表れる。これはタケシの妄想だったらしいのだ。先生にどうですか、なんて訊いていて、壊れてますという答えが返ってくる。やれやれ。自分で言うなよな。

巻頭で、タケシは等身大の人形を持って登場するのだが、この人形は何なのか。タケシでなく、人形が病院で診察を受けCTスキャンに入るのだが、まったく意味不明。もちろん勝手な解釈でいいというなら適当にデッチ上げることは出来る(いつもしてることだけど)。例えば、タケシは観客が自分のことをちゃんと見ているはずがなく、人形に置き換えてもきっと誰も気付くまいと思っているのだ、とか。あるいは、人形という分身を持ち歩かないではいられないと訴えたいのだ、とか。

でも、それもそこまでで、よーするにこねくり回してでも何かを書いておきたいという気になれないのよね。

  

2007年 104分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル、オフィス北野

監督・脚本:北野武 プロデューサー:森昌行、吉田多喜男 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 衣裳:岩崎文男 編集:北野武、太田義則 音楽:池辺晋一郎 VFXスーパーバイザー:貞原能文 ラインプロデューサー:小宮慎二 音響効果:柴崎憲治 記録:吉田久美子 照明:高屋齋 装飾:尾関龍生 録音:堀内戦治 助監督:松川嵩史 ナレーション:伊武雅刀

出演:ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、宝田明、藤田弓子、内田有紀、木村佳乃、松坂慶子、大杉漣、寺島進、六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、蝶野正洋、天山広吉

素晴らしき休日

銀座テアトルシネマ ★★☆

■畑の中の映画館

『監督・ばんざい!』の上映前にかかった短篇。カンヌ映画祭60周年を記念して、35人の映画監督に映画館をテーマに持ち時間3分で短篇の依頼があって作られたものらしい。

田舎の畑の三叉路にあるヒカリ座という映画館に1人の男(モロ師岡)がやってくる。ちょっとうっかりしていて定かではないのだが、男は「農業1枚」(こんなこと言うかな)と言って切符を買う。ちなみに映画は『Kids Return キッズ・リターン』で料金は大人500円、学生400円、子供200円。農業はいくらなんだ。

上映となるが、すぐにトラブルがあって、映写技師(北野武)がちょっと待ってくださいと言う。が、タバコ数本分は待たされてしまう。しかしどうでもいいのだが、この映画館のボロさはただ者ではないのだな。朽ちかけた椅子もあるし。で、再開されるのだが、今度はフィルムが焼けてしまう(いまだに可燃フィルム?)。男も怒るでもなく、犬にパンなどをやっているのだ。

「はい、いきまーす」のかけ声で映画がまた始まる。

私は観ていないからわからないのだが、多分『Kids Return キッズ・リターン』がそのままかかっていて、「俺たち終わっちゃったのかな」「まだ始まっちゃいねえよ」という場面が映る。

外はもう夕方になっていて、男が1本道を画面の奥に向かって帰って行く。

これだけの映画(3分だからね)だが、タイトルが『素晴らしき休日』ということは、男は十分満足して帰ったということなのか。映画がよっぽど素晴らしかったのか。ってそれだと自画自賛だけど、客1人のために映画を上映するというのがなんだかいい。客の方も映画を観にとぼとぼとやってきたわけで。

むふふ映画館もこんな畑の中に作ればよかったかなー、と思ってしまったのだな(まったく気が多い)。んで、私も短篇を作って客に強制的に観せてしまうというのはどうかな、と。こういう短篇は妄想がふくらむから、幸せな気分になれる。

2007年 3分 ビスタサイズ

監督:北野武

出演:モロ師岡、北野武

ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

女帝[エンペラー]

有楽座 ★★☆

■様式美が恨めしい

『ハムレット』を基に、唐王朝崩壊後の五代十国時代の中国に移し替えた作品ということだが、話自体にかなり手を入れていることもあって、印象はまったく違うものとなった。

皇太子ウールアン(ダニエル・ウー)の妻だったのに、どうしてか彼の父の王妃となっていたワン(チャン・ツィイー)は、王の謎の死で、今度は新帝となった王の弟リー(グォ・ヨウ)のものとなる。ウールアンからすると、父と叔父に妻を取られるという図である。

「そちを手に入れたから国も霞んで見える」とリーに言わせるほどのワンではあるが(傾国の美女ってやつね)、この設定はいただけない。チャン・ツィイーを主役にするための『ハムレット』の改変だが、恋人だったウールアンを救うためにワンがリーの妻になるというのがはじまりでは、観客はもう最初からどうにでもなれという心境になる。話をいたずらに込み入らせるばかりで、気持ちの整理がつかなくなると思うのだが。

ワンが妻から義理の母になったことで、ウールアンは呉越で隠棲し、ただ歌と舞踏の修行に打ち込んでいたらしいのだが、兄を殺害(死の真相)したリーは、魔の手をウールアンにも差し向ける。

ウールアンの修行の地で繰り広げられる、舞踏集団とリーの送り込んだ暗殺団とのアクション場面は、舞踏集団の白面に白装束の舞が戦闘場面とは思えぬ優美さを演出するのだが、しかしやはりそれは舞踏にすぎないのか、暗殺団の手によって次々と命を落としていく様は、その美しさが恨めしくなるほどだ。彼らが積んできた修行の結果のその舞は、ほとんど何の役にも立たないのである。そして、それは皮肉なことにこの映画を象徴しているかのようである。

衣装や宮殿の豪華さを背景に、ワイヤーを多用した様式化された映像は、最近では多少鼻についてはきたものの息を呑むような仕上がりになっている。が、肝腎のドラマが最後まで機能していないのだ。

都に戻ったウールアンはワンに再会したのに「父上のお悔やみを言うべきか、母上にはお祝いを言うべきか」などと皮肉をいう始末。ウールアンにしてみればワンの行動が自分の安全と引き換えになっているなどとはとても思えない(現に暗殺されそうになった)から当然なのだが、でもここまで言ってしまうとちょっとという気になる(ここで演じられるワンとウールアンの舞踏?も物語と切り離して見る分には素晴らしいのだけどね)。

王妃の即位式でのウールアンの当てつけがましい先帝暗殺劇に、拍手を贈る裏でまたもウールアンの暗殺をもくろむリー(しかしここはそのまま人質交換要員として送り出してしまった方がよかったのではないか)。ワンはウールアンの許嫁チンニー(ジョウ・シュン。これがオフィーリアになるんだろうか)の兄イン・シュン将軍(ホァン・シャオミン)に、暗殺の阻止とリーへの偽りの報告をさせ、自らは毒薬を手に入れ、夜宴の席でリーの盃に注ぐ。

これがチンニーの死を招くことになってしまうのだが、真相を知ったリーは「そちが注いでくれた酒だ。飲まぬわけにはいくまい」と自ら毒杯を仰ぐ。ここもワンへのリーの想いがここまでになっていたことを表す場面なのだが、そういう気持ちに入り込むことより、ここに至るお膳立ての方ばかりに目が行ってしまうのだ。リーがワンの復讐心に気付かなかったのは不思議でもあるが、しかしそう思いなおしてみるとワンの復讐心がきちっと描かれていなかった気もしてくる。

といってワンに復讐心ではなく権力欲があったとも思えないのだが、チンニー、リー、ウールアン、イン将軍と、あれよあれよという間に登場人物がどんどん死んでいって、女帝陛下ワンが誕生することになる。これはワンが望んでいたものではなかったはずだが、欲望の色である茜色が好きで「私だけがこの色に燃えて輝く」などと言わしているところをみると、案外そうでもなかったのか。

しかしそのワンも、その言葉を口にしたとたん、やはり誰かに殺されてしまうのである。映画は額に血管の浮き出たワンの表情を捉えるが、殺した者を明かすことなく終映となる。しかし、ここのカットだけ長くして彼女の気持ちを汲み取れと言われてもなー。それに、チャン・ツィイーは今回ちょっと見慣れぬ化粧(時代考証の結果?)ということもあって、この最後の場面はともかく、表情とかよくわからなかったのね。

 

原題:夜宴 英題:The Banquet

2006年 131分 シネスコサイズ 中国、香港 PG-12 日本語字幕:水野衛子 字幕監修:中島丈博 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:フォン・シャオガン[馮小剛] アクション監督:ユエン・ウーピン[袁和平] 撮影:レイモンド・ラム 美術・衣装デザイン:ティミー・イップ[葉錦添] 音楽:タン・ドゥン[譚盾]

出演:チャン・ツィイー[章子怡](ワン)、ダニエル・ウー[呉彦祖](ウールアン)、グォ・ヨウ[葛優](リー)、ジョウ・シュン[周迅](チンニー)、ホァン・シャオミン(イン・シュン将軍)、リー・ビンビン、マー・チンウー、チン・ハイルー

GOAL! 2

新宿ミラノ3 ★

■おそろしくつまらない

ここまでつまらない映画というのも珍しい。最初から3部作ということが決まっていることが裏目に出たか。こんなことでワールドカップ篇が作れるのか心配になる(ちゅーか、今は観たくない気分)。

ガバン・ハリス(アレッサンドロ・ニヴォラ)の不振が続くレアル・マドリードは、補強策としてニューカッスルでゴールを量産しているサンティアゴ・ムネス(クノ・ベッカー)に白羽の矢を立てる(一足先にハリスはレアルに移籍してたのね)。日本での契約交渉を経てサンティは晴れてスター軍団レアルの一員となるのだが、婚約者のロズ・ハーミソン(アンナ・フリエル)に相談もなく決めてしまったものだから、彼女に不満がくすぶることになる。

契約に縛られたサンティの代わりにロズがイギリスからスペインに行ってばかりなのに、サンティの方は豪邸を買い、ランボルギーニを乗り回し、おまけに独身男ハリスの気ままな生活に影響されてと、ロザの疎外感には気付かなくはないのだが、まるで自分たちのことではないような気分でいるのだ。

第1作で成功への道を掴むまでの過程に比べると、すでにニューカッスルではスターで、さらにレアルの一員になって、スタメンとしては使ってもらえないものの「スーパーサブ」として活躍中とあっては、その華やかさに触れないわけにはいかなかったのだろうが、やはりこんなではサンティの心境同様に浮ついたものになるしかない。

それではあんまりと、ロザとの行き違いの他、エージェントのグレン・フォイ(スティーヴン・ディレイン)との決別などでサンティを苦しめるのだが、さらにサンティにとって父の違う弟エンリケ(ホルヘ・ガルシア・フラド)を登場させている。家を捨てた母のロサ(エリザベス・ペーニャ)がスペインで生んだ子という。

ただこのエンリケの描き方は雑で、話を壊している。父親がちゃんと酒場を経営しているのに、エンリケは貧困が不満で、兄なら何故助けてくれないとロサにあたる。それだけでなく、財布は盗むし、サンティのランボルギーニを乗り回して事故まで起こしてしまうのだ。まだ子供とはいえ、ここまでやらせてしまうと同情しにくくなる。ロサは、サンティは別世界の人とエンリケを諭すのだが、とはいえサンティが兄ということを教えたのはそのロサではないか。

母親との再会は、家族を捨てた女をどう説明するかにかかっていると思うのだが、これはロサを暴行した2人の1人が伯父で、父にも言えず家を飛び出し、3週間たって戻ってみたら誰もいなかった、と納得の理由を用意してみせる。が、ロサにただ弁解させているだけだから芸がない。物語は作れても、それをどう見せるかがわかっていないのである。

この他にも、初先発でのレッドカード、遅刻、監督との確執、エージェントに騙されたハリスがサンティの元に来ての共同生活、サンティの怪我、記者への暴行、美人キャスター、ジョルダナ(レオノア・バレラ)とのパパラッチ写真といろいろあるのだが、全部が何事もなかったかのようにおさまってしまうのだ。

なにしろ、1番難題なはずのロザとのことも、サンティの謝りの電話であっさり和解、ではね。で、そこには身重になっている彼女のカットが入っていた。女はどうしても男に振り回される立場になるものね。だから、そもそもロザの要求はサンティには酷。サンティがレアルに入ることを決めた時点で(これはロザでなくサッカーを選んだのだから)結婚を解消するか、ロザがスペインに行くしかなかったのだ。

あと話題(?)のベッカム、ラウール・ゴンサレス、ジダン、ロナウドたちとの夢の共演だが、ほとんどがロッカールーム要員という肩すかし。ベッカムはちょっと特別扱いになっていて(チラシもサンティ、ハリス、ベッカムの3人だものね)最後にはゴールを決め、レアルはアーセナルを破ってヨーロッパチャンピオンに。まあ、いいけどさ。それにそのベッカムももうレアルを離れる(た)んだよね。

それほど熱心なサッカーファンではないのでよくわからないのだが、サッカー場面は映像的にも一応様になっていたのではないか。ただ、試合の中でのそれを見せていたとはとても思えない。試合を映画で見せるのが難しいから、いろいろな要素を詰め込まざるを得なかったのだろうけど、それもことごとく失敗してたのはもうすでに述べたとおりだ。

原題:GOAL II: living the Dream

2007年 114分 スコープサイズ イギリス 配給:ショウゲート 日本語字幕:岡田壮平

監督:ジャウム・コレット=セラ 製作:マット・バーレル、マーク・ハッファム、マイク・ジェフリーズ 製作総指揮:スチュアート・フォード 原案:マイク・ジェフリーズ 脚本:エイドリアン・ブッチャート、マイク・ジェフリーズ、テリー・ローン 撮影:フラヴィオ・マルチネス・ラビアーノ プロダクションデザイン:ジョエル・コリンズ 音楽:スティーヴン・ウォーベック
 
出演:クノ・ベッカー(サンティアゴ・ムネス/サンティ)、アレッサンドロ・ニヴォラ(ガバン・ハリス)、アンナ・フリエル(ロズ・ハーミソン)、スティーヴン・ディレイン(グレン・フォイ/エージェント)、レオノア・バレラ(ジョルダナ・ガルシア/キャスター)、ルトガー・ハウアー(ルティ・ファン・デル・メルベ/監督)、エリザベス・ペーニャ(ロサ・マリア/サンティの母)、ホルヘ・ガルシア・フラド(エンリケ/弟)、ニック・キャノン(TJ・ハーパー)、カルメロ・ゴメス(ブルチャガ/コーチ)、フランシス・バーバー(キャロル・ハーミソン/ロズの母)、ミリアム・コロン(メルセデス/祖母)、キーラン・オブライエン、ショーン・パートウィー、デヴィッド・ベッカム、ロナウド、ジネディーヌ・ジダン、ラウール・ゴンサレス、イケル・カシージャス、イバン・エルゲラ、ミチェル・サルガド

眉山

2007/05/29 109 ★★

■かっこいい母であってくれたなら(願望)

母の死に至る数ヶ月を娘の目で綴った作品。

32歳の河野咲子(松嶋菜々子)は母の龍子(宮本信子)が入院したという知らせを受けて東京から徳島へ帰る。慌ただしく着いた病室からは、龍子の看護師の仕事ぶりに対する叱責が聞こえてきて、咲子はいきなりイヤな気分になる。

神田生まれの江戸っ子の龍子は、徳島に来てからは小料理屋を切り盛りしながら、女手ひとつで咲子を育ててきた。気っぷがよくて分け隔てのない性格でファンの多い龍子だが、その遠慮のない物言いで衝突することも少なくなかった。娘にとってはそれが耐えられないのだ。

この母を見る娘の視点は大いにうなずけるもので、この場面に親近感を持った人は多いのではないか。ただずるいのは、龍子がちょっとかっこよすぎることだろうか。私の母も龍子と少しながら似た要素を持っているのだが、遙かに年上で、だから加齢による偏狭さも加わっていて(じゃないのかなー。もともとの性格かしらね)、そしてその息子である私も映画の咲子ほどには母のことを本心から考えていないから、それは納得なんだけど。

話がだいぶそれてしまったが、そもそもそういう想いを抜きにしては観られない映画で、作り手もそれを意識していると思われるところがある。映画という完成度は低くなるが、それでもいいかなという、割り切りが感じられるのだ。

咲子は東京でひとりながらちゃんと生活しているキャリアウーマンである。旅行代理店の企画という仕事の厳しさを導入できっちり描いているのに、一旦徳島に帰ってしまうと、会社に連絡をとっている場面こそあるものの、もうそのあとは仕事のことなどすっかり忘れてしまったかのようなのだ。余分と思われるものは思いきって削ぎ落として、母と娘に直接関係するものだけに絞り込んでいるのである。

この母娘は「仕事は女の舞台」(これは龍子のセリフ)と考えていて手を抜かないし(だから仕事の場面が最初だけというのがねー)、互いに相手を頑固と思っていそうだし、やはり似ているのだろう。だから余計父のこととなると素直にはなれず対立してしまうのかもしれない。咲子はかすかに記憶のある父に会いたくて仕方のない時期があったのだが、母には死んだと言われていたのだ。お父さんとは結婚していないけれど、大好きな人の子だからお前を産んだ、と。

そう言われてそのまま長い年月が経ってしまっていたが、龍子の店の元板前で今も信頼関係にある松山(山田辰夫)から、死後渡すように言われていた「遺品」を受け取り、そこにあった篠崎孝次郎(夏八木勲)という男からの手紙の束を読んで、その男が父で、多分まだ生きていることを確信する。

思い切って問いただすと、龍子はお互い様だと言う。咲子が末期ガンを告知しないでいることを知っていたのだ。

映画とはいえ、2人の関係は羨ましい。龍子は、人様の世話にはなりたくないと車椅子に乗ることを拒否したり、人形浄瑠璃では客席で舞台に合わせて小さいとはいえ声を出したり、我が儘な部分も見せるのだが、私の母もこれくらいなんだったら許しちゃうんだけどな(あれ、また自分のことを書いてるぞ)。

咲子が東京に戻って父を訪ねたり、病院の医師寺澤大介(大沢たかお)と恋人になっていく過程を織り込みながら、しかし情報量としては最小限にとどめているため、観客は自分の中にある母への想いという個人的な感情を思い出しながら映画を観ることができるのだ(弁解してやんの)。

そうして映画は、2つの見せ場を用意する。1つは阿波踊りの中での母と父との再会だ。迫力ある阿波踊りが繰り広げられているところを横断する咲子という暴挙もあれば、そもそもこんな混乱の中で出会うという設定自体がボロいのだが、ここでも阿波踊りを隔てた遠景で篠崎と再会を果たした龍子が寺澤に「そろそろ帰りましょうか。十分楽しませてもらったから」というセリフが爽快で、まあいいかという気持ちになる。

2つ目は、龍子が死んで2年後に、献体依頼時に龍子が書いていたメッセージを咲子が読む場面。「娘河野咲子は私の命でした」と書かれたその紙は、本来医学生宛のもので、咲子が読むべきものではないという説明がすでにされていて、この抜け目のなさは感涙度を高めている。

献体はこの作品のもう1つのテーマで、咲子の父が医師であることが龍子に献体をさせたのだし、彼女が咲子の相手の寺澤医師に信頼を寄せた(むろん軽はずみな失言に対してすぐ詫びを入れてきたという部分が大きかったのだろうが)理由があるというわけだ(医学や医師への理解は、篠崎への愛の揺るぎなさからきているはずだから)。

流れであまりけなしていないが、全体として説明不足なのは否めない。30年ぶりに徳島に帰ってきたのだから篠崎にだってもっと語ってもらいたいところだが、語らせたら結局はどこにでもある不倫話にしかならないと逃げてしまっていては、映画にいい点はあげられない。

なのに、こんなダメ映画に泣いてしまった私って……。

   

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:犬童一心 原作:さだまさし『眉山 -BIZAN-』 脚本:山室有紀子 撮影:蔦井孝洋 美術:瀬下幸治 編集:上野聡一 音楽:大島ミチル 主題歌:レミオロメン『蛍』 照明:疋田ヨシタケ 録音:志満順一
 
出演:松嶋菜々子(河野咲子)、宮本信子(河野龍子)、大沢たかお(寺澤大介)、夏八木勲 (篠崎孝次郎)、円城寺あや(大谷啓子)、山田辰夫(松山賢一)、黒瀬真奈美(14歳の咲子)、永島敏行(島田修平)、中原丈雄(小畠剛)、金子賢(吉野三郎)、本田博太郎(綿貫秀雄)

初雪の恋 ヴァージン・スノー

2007/05/27  TOHOシネマズ錦糸町-7 ★

■京都名所巡り絵葉書

陶芸家である父の仕事(客員講師として来日)の都合で韓国から京都にやってきた高校生のキム・ミン(イ・ジュンギ)は、自転車で京都巡りをしていて巫女姿の佐々木七重(宮﨑あおい)に出会って一目惚れする。そして彼女は、ミンの留学先の生徒だった。

都合はいいにしてもこの設定に文句はない。が、この後の展開をみていくと、おかしくないはずの設定が、やはり浮ついたものにみえてくる。これから書き並べるつもりだが、いくつもある挿話がどれも説得力のないものばかりで、伴一彦(この人の『殴者』という映画もよくわからなかったっけ)にはどういうつもりで脚本を書いたのか訊いてみたくなった。それに、ほとんどミンの視点で話を進めてるのだから、脚本こそ韓国人にすべきではなかったか。

ミンは留学生という甘えがあるのか、お気楽でフラフラしたイメージだ。七重の気を引こうとして彼女の画の道具を誤って川に落としてしまう。ま、それはともかく、チンドン屋のバイトで稼いで新しい画材を買ってしまうあたりが、フラフライメージの修正は出来ても、どうにも嘘っぽい。バイトは友達になった小島康二(塩谷瞬)の口添えで出来たというんだけどね。

他にも、平気で七重を授業から抜け出させたりもするし(出ていった七重もミンのことがすでに好きになっているのね)、七重が陶器店で焼き物に興味を示すと、見向きもしなかった陶芸をやり出す始末(ミンが焼いた皿に七重が絵をつける約束をするのだ)。いや、こういうのは微笑ましいと言わなくてはいけないのでしょうね。

七重が何故巫女をしていたのかもわからないが、それより彼女の家は母子家庭で、飲んだくれの母(余貴美子)がヘンな男につけ回され、あげくに大騒動になったりする。妹の百合(柳生みゆ)もいるから相当生活は大変そうなのに、金のかかりそうな私立に通っているし、しかも七重は暢気に絵なんか描いているのだな。

結局、母の問題で、七重はミンの前から姿を消してしまうのだが、いやなに、そのくらい言えばいいじゃん、って。ま、あらゆる連絡を絶つ必要があったのかもしれないのでそこは譲るが、その事情を書いたお守りをあとで見てと言われたからと飛行機では見ずに(十分あとでしょうに)、韓国で祖母に私のお土産かい、と取られてしまう、ってあんまりではないか。メッセージが入っているのは知っていてだから、これは罪が重い。

2年後に七重の絵が日韓交流文化会で入選し、2人は偶然韓国で再会するのだが、少なくてもミンがあのあと日本にいても意味がないと2学期には帰ってしまったことを友達の香織(これも偶然の再会だ)からきいた時点で、ミンに連絡することは考えなかったのか(学校にきくとか方法はありそうだよね)。ミンがすぐ韓国に帰ってしまったのもちょっとねー。それに七重が消えたことで、よけいお守りのことが気になるはずなのに。

再会したものの以前のようにはしっくりできない2人。なにしろ言葉が不自由だからよけいなんだろうね。ミンは荒れて七重の描いた絵は破るし、七重に絵を描いてもらうつもりで作っていた大皿も割ってしまう。お守りの中の紙を見た祖母が(この時を待ってたのかや)、これはお前のものみたいだと言って持ってくる(簡単だが「いつか会える日までさようなら」と七重の気持ちがわかる内容だ)。

ミンは展覧会場に急ぐが、七重の姿はなく、彼女の絵(2人で回った京都のあちこちの風景が描かれたもの)にはミンの姿が描き加えられていた。しかし、これもどうかしらね。夜中の美術館に入って入選作に加筆したら、それは入選作じゃあなくなってしまうでしょ。まったく。自分たちの都合で世界を書き換えるな、と言いたくなってしまうのだな。

ミンは七重を追うように京都に行き、七重が1番好きな場所といっていたお寺に置いてあるノートのことを思い出す。そこには度々七重が来て、昔2人で話し合った初雪デート(をすると幸せになるという韓国の言い伝え)のことがハングルで書いてあり、ソウルの初雪にも触れていた。

そして、ソウルに初雪が降った日に2人は再会を果たす。

難病や死といううんざり設定は避けていても、こう嘘くさくて重みのない話を続けられると同じような気分になる。まあ、いいんだけどさ、どうせ2人を見るだけの映画なのだから。と割り切ってはみてもここまでボロボロだとねー。言葉の通じない恋愛のもどかしさはよく出ていたし、京都が綺麗に切り取られていたのだが。

【メモ】

初級韓国語講座。ジャージ=チャジ(男根)。雨=ピー。梅雨=チャンマ。約束=ヤクソク。

韓国式指切り(うまく説明できないのだが、あやとりをしているような感じにみえる)というのも初めて見た。

七重の好きな寺にいる坊さんとミンが自転車競争をしたのが、物語のはじまりだった。

2006年 101分 ビスタサイズ 日本、韓国 日本語版字幕:根本理恵 配給:角川ヘラルド映画

監督:ハン・サンヒ 製作:黒井和男、Kim Joo Sung、Kim H.Jonathan エグゼクティブ・プロデューサー:中川滋弘、Park Jong-Keun プロデューサー:椿宜和、杉崎隆行、水野純一郎 ラインプロデューサー:Kim Sung-soo 脚本:伴一彦 撮影:石原興 美術:犬塚進、カン・スン・ヨン 音楽:Chung Jai-hwan 編集:Lee Hyung-mi 主題歌:森山直太朗

出演:イ・ジュンギ(キム・ミン)、宮﨑あおい(佐々木七重)、塩谷瞬(小島康二)、森田彩華(厚佐香織)、柳生みゆ(佐々木百合)、乙葉(福山先生)、余貴美子(佐々木真由美)、松尾諭(お坊さん)

俺は、君のためにこそ死ににいく

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★

■靖国で会おう

戦争について語るのは気が重い。ましてや特攻となるとなおさらで、まったく気が進まないのだが……(実は映画もそんなには観たくなかった)。

この映画の最大の話題は、やはり製作総指揮と脚本に名前の出る石原慎太郎だろう。タカ派として知られる石原が戦争映画を作れば、戦争肯定映画になると考える人がまだいるようだが、それはあまりに短絡すぎる。新聞の読者欄にもそういう投書を見かけたが、的外れで自分の結論を押しつけたものでしかなく、かえって見苦しさを感じた。

私は石原嫌いだが、しかし石原であっても特攻を正面から描いたら、真反対の立場の人間が作ったものとそう違ったものは出来まいと思っていたが、この想像は外れてはいなかった。ちゃんとした反戦映画になっているのである。

といって映画として褒めらるものかどうかはまったく別の話で、まあ凡作だろう。

太平洋戦争末期に陸軍の特攻基地となった鹿児島県の知覧。基地のそばの富屋食堂の女将鳥濱トメは、若い特攻隊員たちから母と慕われていた。生前の彼女から話を聞く機会を得た石原が長年あたためてきた作品ということもあって、彼女を中心にした話が大部分を占める。が、何人もの挿話を配したそれは、やはりとりとめのないものになってしまっていた。

何度も出撃しながら整備不良や悪天候で帰還せざるを得ず、最後は本当に飛び立った直後に墜落してしまう田端(筒井道隆)、長男故に父親に特攻を志願したことを言えず、トメ(岸惠子)に父(寺田農)への伝言を頼みにくる板東(窪塚洋介)、朝鮮人という負い目を持ちながらトメの前ではアリランを歌って志願し出撃して行った金山(前川泰之)など、どれもおろそかに出来ない挿話ながら、逆に焦点が絞りきれていない。

そこに、この特攻作戦を立案した大西中将(伊武雅刀)などの特攻を作戦にしなければならなかった事情などもとりあえずは入れて、となっているからよけいそうなってしまう。また、先の挿話も、映画にすることで私などどうしても鬱陶しさを感じざるをえないし、だれてしまうのである。

そうはいっても私の観た映画館では館内の至るところで啜り泣きの声がもれていたから、多くの観客の心に訴えていたのだろうと思われる。

ただ、最後にある、先に特攻で死んでいった人たちが生き残って軍神から特攻くずれになった中西(徳重聡)を出迎える演出や、蛍になって帰ってくるといっていた河合(中村友也)の挿話などは、やはり古臭いとしか思えない。それがトメから聞いた話そのままだとしても、映画にするにはもう一工夫が必要ではないか。

この映画に石原らしさがあるとすれば「靖国で会おう」だろうか(「靖国で待ってる」というセリフもあった)。ある時期まで戦争映画では「天皇陛下万歳」と言いながら兵士は死んでいったらしい(そう言われるとそうだったような)。しかしそれは嘘で「お母さん」と言っていたのだと誰かが批判し(誰なんだろ)、そうだそうだとなったようだが、本当にそうなのか。というより、どちらにも真実があって、それをとやかくいってもはじまらない気がする。それに、死ぬ時に本心を言うかといえば、人間はそんなに単純なものでもないだろうから。

ではあるが、「靖国で会おう」となると話は少し違ってくる。もちろんこれだって否定はしないが、中国や韓国からいろいろ言われるのが石原としては癪なんだろう。ま、私などはそもそも無神論者であるし、靖国神社自体にどうこういう思い入れもないので、靖国参拝問題以前からあっさりしたものなのだが、とはいえ、これについては書き出すと長くなるのでやめておく。

やはりここはせっかく鳥濱トメに焦点を当てたのだから、彼女の目線だけで特攻を語ってほしかった。いままでにも何度か映画にも登場している大西中将などをもってきて概要を述べさせるよりは、庶民にとって特攻がどういうふうに認知されていたかだけを描くだけでも(そうすれば何を知らされなかったかもわかる)、十分映画になったと思うのだ。

でなければ、逆に戦後明らかになった統計データで、特攻の犬死度の高さ(成功率の低さ)をはっきりさせるか、富永恭次陸軍中将のような敵前逃亡将校による特攻作戦があったことなどを描くというのはどうだろうか。

ところで『俺は、君のためにこそ死ににいく』という題名もなんだかあやふやだ。ここにある「君」は何で、映画の中にあったのかどうか。

 

【メモ】

VFX場面は上出来。本物の設計図から作ったという隼も大活躍していた。

2007年 140分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:新城卓 製作総指揮:石原慎太郎 企画:遠藤茂行、高橋勝 脚本:石原慎太郎 撮影:上田正治、北澤弘之 特撮監督:佛田洋 美術:小澤秀高 音楽:佐藤直紀 主題歌:B’z『永遠の翼』 監督補:中田信一郎
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出演:岸惠子(鳥濱トメ)、徳重聡(中西正也少尉)、窪塚洋介(板東勝次少尉)、筒井道隆(田端絋一少尉)、多部未華子(鳥濱礼子/トメの娘)、前川泰之(金山少尉)、中村友也(河合惣一軍曹)、渡辺大(加藤伍長)、木村昇(安部少尉)、蓮ハルク(松本軍曹)、宮下裕治(石倉伍長)、田中伸一(荒木少尉)、古畑勝隆(大島茂夫)、中越典子(鶴田一枝)、桜井幸子(板東寿子)、戸田菜穂(田端良子)、宮崎美子(河合の母)、寺田農(板東真太次)、勝野雅奈恵(鳥濱美阿子)、中原丈雄(憲兵大尉)、遠藤憲一(川口少佐)、江守徹(田端由蔵)、長門裕之(大島の祖父)、石橋蓮司(鶴田正造)、勝野洋(東大佐)、的場浩司(関行男海軍大尉)、伊武雅刀(大西瀧治郎中将)

主人公は僕だった

新宿武蔵野館2 ★★★

■魔法のタイプライター

作家の書いた物語通りに動く男がいるなんて、ホラーならともかく、至極真面目な話に仕上げるとなると、やはり相当な無理がある。だからその部分が納得出来るかどうかで、作品の評価は決まる。で、私はダメだった(そのわりには楽しんじゃったけど)。

最初に「ハロルド・クリック(ウィル・フェレル)と彼のリスト・ウォッチの物語」と出るように、国税庁の検査官である彼は、もう12年間も、同じ時間に起き、同じ回数歯を磨き、同じ歩数でバス停まで行き……同じ時間に眠り、仕事以外は人と関わらない生活を送っていた。ある日、彼の1日のはじまりである歯磨きをしていて「1日のはじまりは歯磨きから」という女性の声を聞く……。

声の主はカレン・アイフル(エマ・トンプソン)という作家で、実はスランプ中。といったってもう10年も新作を出せていないのだが、それでも出版社がペニー・エッシャー(クイーン・ラティファ)という見張り役(助手と言っていたが)をよこすくらいだから実力はあるのだろう。問題なのは彼女の作風で、彼女の作品の主人公は、常に最後は死んでしまうのだ。それは現在執筆中の作品も同様だったが、しかしまだその方法を思いつけずに悩んでいたのである。

ところで、ハロルドは何故そんな声を聞いたのだろう。規則正しい単調な生活を送っていて、何かを考えるようなこととはほとんど無縁だったからではないか(いや、そういう生活をしていたからって声が聞こえるはずはないんだけど、そう言ってるんだと思う、この映画は)。

しかし、声が聞こえるようになって、しかもその声の語る内容が自分の行動そのものを書いた小説としか思えなくなっていたハロルドに、「このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった」という声は、もう無視できないものとなっていた。

このままでは自分は死んでしまうと、ハロルドは自分の力で考え行動し始める。文学研究家(プールの監視員もしてたけど)のジュールズ・ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)の力を借りて。

最初こそハロルドの言うことを信じなかったヒルバートだが、ハロルドの聞く声に文学性を感じとり、その声の内容を分析して、これは悲劇だから死を招くのであって喜劇にすればいいと助言する。喜劇は結婚で、それには敵対する相手と恋に落ちるのがいいと言うのだ(飄々としてどこか楽しげなダスティン・ホフマンがいい。私はあんまり彼が好きではないんだけどね)。

実はハロルドには敵対する相手がいて、しかもお誂え向きに恋にも落ちかかっていたのだ。その相手は、未納の国税があると出かけて行ったパン屋の店主のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)で、未納の22%は軍事費など納得出来ない金額を差し引いたものというのが彼女の主張だった。

右肩から上腕にかけてお大きな刺青のあるアナにはちょっとぎょっとさせられるが、彼女の人柄で店は繁盛していて、貧しい人にも優しく接している。アナの当たり前の好意(であり、税務調査に意地悪したことのお詫び)のクッキーのプレゼントも、杓子定規のハロルドは受け取れず、お金を払うと言ってしまう。ハロルド、というかウィル・フェレルのぎこちなさが微笑ましい。

が、益々彼女に嫌われてしまっては「悲劇」になってしまう。その報告を聞いたヒルバートは、今度は、その声は君の行動をなぞっているだけなのだから何も行動するなと言う。何もしないで物語が進行するかどうかを見極めようというのだ。

仕事を休み、電話にも出ず、テレビも消せないでいるハロルドを襲ったのはクレーン車で、ハロルドの家の壁をいきなり壊してしまう。番地を間違えただけだったのだが、このアパートに穴の開いた場面が美しく見えてしまって、妙な気分を味わえる。「ひどい筋書き」という彼に、ヒルバートはもっといろんなことをやってみろと言う。

ハロルドは壊れた家を出、同僚の所に転がり込み、やってみたかったギターを弾き、アンの気持ちも射止めるのだが(すげー変わりよう!)、それは「幾多のロックに歌われているようにハロルドは人生を謳歌した」にすぎない。と、やはりアイフルの声で説明されちゃうのである。

このあとハロルドはヒルバートの仕事場で見たテレビ番組によって声の主を突き止め、アイフルに電話する。物語を書きながら自分に電話がかかってくるのにびっくりするアイフルというのもヘンなのだが(それより前提がおかしいのだけどさ)、この場面はまあ楽しい。

だけどここから先はちょっと苦しい。アイフルはシンプルで皮肉に満ちた最高のハロルドの死に方を思いつき『死と税金』(これがアイフルの書いていた小説の題)を完成させる(最後の部分は紙に書いただけ)。それを読んだヒルバートは、最高傑作と持ち上げ、他の結末は考えられないから君は死ぬとハロルドに言う。いつかは死ぬのだから死は重要ではないけれど、これほど意味のある死はない、気の毒とは思うが悲劇とはこういうもの、って、おいおい。で、文学にうといハロルドまでそれを読んで同じような感想を持ち、アイフルにどうか完成してくれと言うのだ。

こうなってしまっては映画は、もはやアイフルの心変わりに頼るしかなくって、死んだはずのハロルドはリストウォッチの破片が動脈を押さえて(えー!)救われることになる(とアイフルが書くのね)。

こんな陳腐な結末にしてしまったものだから、小説は「まあまあの出来」になってしまうのだが(映画もだよ)、アイフルは納得のようだ。大傑作ではなくなってしまったが、このことにより作家も自分の生を取り戻したのではないか(彼女自身が死にたがり病だったのではないかと思わせるエピソードもあった)、そんなことを思わせる結末だった。でも、しつこいんだが、これでこの映画も価値を低めてしまったような……。

もう1つ気になったのはハロルドの行動を規定するのが、アイフルではなく彼女の使っているタイプライターであることだ。物語をアイフルが変えても、紙に書きつけてもハロルドには何も起こらないが、それをタイプで文字を打って文章となって意味が成立した時点で、それは起きるのだ(ハロルドからの電話の場面)。だがこの映画では、そのことにはあまり触れようとはしない。わざわざアイフルの肉声をハロルドに聞かせているのは恣意的ではないだろうから、そこまでは考えていなかったのかもしれない。うーむ。

哲学的考察をユーモアで包んだ脚本は、すっかり忘れていた未納の税金についても、死を決意したハロルドがアナに、ホームレスにパンをあげていた分が控除になるから未払いでなくなる、と最後にフォローするよく出来たものだ。だけど、そもそも発想に無理があるとしかいいようがないのだな。

【メモ】

「私のおっぱいを見ないで」とアナに言われたハロルドは「アメリカの役人として眺めていたんです」と答えていた。

カレン・アイフルはヘビー・スモーカー。ペニー・エッシャーがニコチンパッチをすすめても「長生きなんて興味がない」と言う。

画面にはデータ処理をイメージした白い情報がときたま入る。これが作家が作った世界を意味しているのかどうかは確認していないが、あまりうるさくないスタイリッシュなもの。

原題:Stranger than Fiction

2006年 112分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:梅野琴子

監督:マーク・フォースター 製作:リンゼイ・ドーラン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン、エリック・コペロフ 脚本:ザック・ヘルム 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:ケヴィン・トンプソン 編集:マット・チェシー 音楽:ブリット・ダニエル、ブライアン・レイツェル 音楽スーパーバイザー:ブライアン・レイツェル
 
出演:ウィル・フェレル(ハロルド・クリック)、エマ・トンプソン(カレン・アイフル)、マギー・ギレンホール(アナ・パスカル)、ダスティン・ホフマン(ジュールズ・ヒルバート)、クイーン・ラティファ(ペニー・エッシャー)、リンダ・ハント、トニー・ヘイル、クリスティン・チェノウェス、トム・ハルス

プレステージ

新宿厚生年金会館(試写会) ★★

■手品はタネがあってこそ

100年前ならいざ知らず(ってこの映画の舞台は19世紀末なのだが)、手品というのはタネも仕掛けもあって、それはわかっていながら騙されることに快感があると思うのだが、この映画はそれを放棄してしまっている。

巻頭に「この映画の結末は決して誰にも言わないで下さい」と監督からのことわりがあるが、そりゃ言いふらしはしないけど(もちろんここはネタバレ解禁にしているので書くが)、そんな大した代物かいな、という感じなのだ。

売れっ子奇術師のアルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベイル)が、同じ奇術師で長年のライバルだったロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)を殺した容疑で逮捕される。

ボーデンとアンジャーは、かつてミルトンという奇術師の元で助手をしていた間柄だったが、舞台でアンジャーの妻であるジュリア(パイパー・ペラーポ)が事故死したことで、2人は反目するようになる。水中から脱出する役回りになっていたのがジュリアで、彼女の両手を縛ったのがボーデンだったのだ。

このハプニングにあわてて水槽を斧で割ろうとするのがカッター(マイケル・ケイン)。彼は奇術の考案者で、この物語の語り部的存在だが、映画は場面が必要以上に交錯していて、まるで作品自体を奇術にしたかったのかしら、と思うような作りなのだ(ここまでこね回すのがいいかどうかは別として、そう混乱したものにはなっていないのは立派と褒めておく)。

アンジャーの復讐心は、ボーデンが奇術をしている時に、客になりすましてボーデンを銃撃したりと、かなり陰湿なものだ。アンジャーの気持ちもわからなくはないが、ボーデンにしてみれば奇術師としては命取りとなりかねない左手の指を2本も失うことになって、こちらにも憎しみが蓄積されていくこととなる。しかも2人には奇術師として負けられないという事情もあった(このあたりは奇術が今よりずっと人気があったことも考慮する必要がある)。

ボーデンはサラ(レベッカ・ホール)と出会い家庭を築いて子供をもうけるのだが、アンジャーにとってはそれも嫉妬の対象になる。ボーデンの幸せは、「僕が失ったもの」だったのだ。アンジャーは、敵のトリックを調べるのもマジシャンの仕事だからと、オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)という新しい弟子を、ボーデンのもとに送り込み、彼の「瞬間移動」の秘密を探ろうともする。

オリヴィアにボーデンの日記を持ち出させ、それをアンジャーが読むのだが、映画は、物語のはじめで捕まったボーデンも刑務所で死んだアンジャーの日記を読むという、恐ろしく凝った構成にもなっている。しかしこれはすでに書いたことだが、そういう部分での脚本は本当によくできている(ただ、ジュリアの死についてのボーデンの弁明はわからない。こんなんでいいの、って感じがする。ジュリアとボーデンで目配せしてたしねー、ありゃ何だったんだろ)。

ボーデンの「瞬間移動」は、実は一卵性双生児(ファロン)を使ったもので、ここだけ聞くとがっかりなんだが、ボーデンは奇術のために実人生をも偽って生きていて、このことは妻のサラにも明かさずにきたという。しかしサラは彼の2重人格は嗅ぎ取っていて(すべて知っていたのかも)、結局ボーデンが真実を語ろうとしないことで自殺してしまう。

ボーデンとファロンの2人は、愛する対象もサラとオリヴィアというように使い分けていたというのだが、いやー、これはそういうことが可能かどうかということも含めて、この部分を取り出して別の映画にしたくなる。それとか、オリヴィアの気持ちにもっと焦点を当てても面白いものが出来そうではないか。

アンジャーの「瞬間移動」も、オリヴィアから紹介された売れない役者のルートを替え玉にしたものだから、タネは似たようなものなのだが、当然ボーデンの一卵性双生児にはかなわず、アンジャーはトリックが見破れずに焦るというわけだ。ルートの酒癖は悪くなるし、アンジャーを脅迫しだしてと、次第に手に負えなくなりもする。

で、最初の方でアンジャーがのこのことコロラドのスプリングスまで発明家のニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)を訪ねて行った理由がやっとわかる。このきっかけもボーデンの日記なんだけど、でもこのことで嘘から誠ではないが、アンジャーは本物の「瞬間移動」を手に入れることになる。

テスラの発明品は、別の場所に複製を作るというもの(物質複製電送機?)で、瞬間移動とは意味が違うのだが、奇術の応用にはうってつけのものだった。って実在の人物にこんなものを発明させちゃっていいんでしょうか。それにこれは禁じ手でしかないものねー。いくらその機械を使ってボーデンを陥れようが(彼に罪を着せるのは難しそう)、またその機械を使用することで、複製された方のアンジャーが自分の元の遺体を何人も始末する、理解を超えた痛ましい作業を経験することになる、という驚愕の物語が生み出せるにしてもだ。

この結末(機械)を受け入れられるかどうか、は大きいが、でもそれ以上に問題なのが、復讐に燃えるアンジャーにも、嘘を重ねて生きていくしかなかったボーデンにも感情移入できにくいことではないか。

〈070710 追記〉「MovieWalkerレポート」に脚本家の中村樹基による詳しい解説があった。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4897.html
サラに見せたマジックの謎はわからなかったけど、そうだったのか。ただ、映画としては説明しきれていないよね、これ。他にも(これと関連するが)ボーデンがいかに実生活で、いろいろ苦労していたかがわかるが、やはり映画だとそこまで観ていくのは相当大変だ。

そして、私がすっきりしないと感じていたジュリアの死についてのボーデンの弁明。なるほどね。でもこれこそきちんと映画の中で説明してくれないと。

あと、ルートの脅迫はボーデンのそそのかしにある、というんだけど、観たばかりなのにすでに記憶が曖昧なんでした。そうだったっけ。

【メモ】

原作は世界幻想文学大賞を受賞を受賞したクリストファー・プリーストの『奇術師』。

冒頭でカッターによるタイトルに絡んだ説明がある。1流のマジックには3つのパートがあって、1.プレージ 確認。2.ターン 展開、3.プレステージ 偉業となるというもの。

原題:The Prestige

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:菊池浩司

監督:クリストファー・ノーラン 製作:クリストファー・ノーラン、アーロン・ライダー、エマ・トーマス 製作総指揮:クリス・J・ボール、ヴァレリー・ディーン、チャールズ・J・D・シュリッセル、ウィリアム・タイラー 原作:クリストファー・プリースト『奇術師』 脚本:クリストファー・ノーラン、ジョナサン・ノーラン 撮影:ウォーリー・フィスター プロダクションデザイン:ネイサン・クロウリー 衣装デザイン:ジョーン・バーギン 編集:リー・スミス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:ヒュー・ジャックマン(ロバート・アンジャー/グレート・ダントン)、クリスチャン・ベイル(アルフレッド・ボーデン/ザ・プロフェッサー)、マイケル・ケイン(カッター)、スカーレット・ヨハンソン(オリヴィア)、パイパー・ペラーボ(ジュリア・マッカロー)、レベッカ・ホール(サラ)、デヴィッド・ボウイ(ニコラ・テスラ)、アンディ・サーキス(アリー/テスラの助手)、エドワード・ヒバート、サマンサ・マハリン、ダニエル・デイヴィス、ジム・ピドック、クリストファー・ニーム、マーク・ライアン、ロジャー・リース、ジェイミー・ハリス、ロン・パーキンス、リッキー・ジェイ、モンティ・スチュアート

リーピング

新宿ミラノ1 ★☆

■映画でなくチラシに脱帽

映画でなく、映画のチラシの話をしたら笑われちゃいそうなんだが、「イナゴ少女、現る。」のコピーはともかく、「虫とか出しちゃうよ」というのにはまいりました。うはぁ、これはすごい。作った人を褒めたくなっちゃうな。

って、どうでもいい話から入ったのは、そう、特に新鮮味のない映画だったってことなんだけど。でもまあ、今は映像的なチャチさがそうは目立たないから(よくできているのだ)、画面を見ている分には退屈はしないのだな。

ルイジアナ州立大学教授のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、かつてはキリスト教の宣教師としてスーダンで布教活動をしていたこともあるが、布教中に夫と娘を亡くしたことから信仰から遠ざかり、今では無神論者として世界中で起きている「奇跡」を科学的な調査で解き明かすことで有名になっていた。

そんな彼女に、ヘイブンというルイジアナの小さな町で起きている不可解な事件の調査依頼が、ダグ(デヴィッド・モリッシー)という地元の数学と物理の教師から舞い込む。キャサリンはベン(イドリス・エルバ)とまず流れが血に変わってしまったという川を調べはじめるのだが、そこに大量の蛙が降ってくる……。

このあとも出エジプト記にある10の災厄が次々に起こる。ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、イナゴ、闇、初子の死、というのは聖書の写しだが、映画でもほとんど同じような展開となる。映像的には、血の川というのが、何ということはないのだが意外なインパクトがある。逆に1000,000,000匹(これもチラシだけど、よく勘定したもんだ)のイナゴや最後の火の玉が落ちてくる天変地異はどうでもよくって、でもBSEで刷り込まれてしまっているのかもしれないが、へたれこむ牛や、牛の死体を燃やしている場面などは単純に怖い。

出エジプト記では10の災厄はエジプト王に神の存在を知らしめ、イスラエルの民をエジプトから去らせるためのものだったと思うが、ここではキャサリンに信仰心を取り戻させようとしているのか。一定の条件で有毒になる微生物などで超常現象を証明しようとしたり、聖書を持ち出すのはやめて、と言っていたキャサリンだが、分析の結果、川の血は本物で、20~30万人分の血が必要だという事実の前にはあっさりそれを認めるしかなかったのか。兄のブロディ(マーク・リンチ)を殺害した(このことがあって川の水が血になったらしい)というローレン(アンナソフィア・ロブ)に触れたとたん、いろいろなイメージをキャサリンが感じとったからなのか。また、ブロディのミイラ化がどうしても証明できなかったからか。

超常現象の原因と町の人々から決めつけられたローレンは、母親のマディ(アンドレア・フランクル)からも見放されているのだが(キャサリンは娘を殺してと言われるのだ。でもこの母親は何故か自殺してしまう)、娘を救えなかったことがトラウマとなっていたキャサリンは、ローレンに死んだ娘のイメージを重ね、結局このことがローレンを救う契機になるのだが、ってつまりローレンは災いの元ではなくて、町の人たちの方が悪魔崇拝者だったのね。

だとすれば超常現象はやはり神が起こしたものとなる。では何故? 悪魔崇拝者たちの目を覚まさせるためなのか。イナゴはローラを守るためとも思えなくはないが、火の玉は、ベンを殺した悪魔のダグの仕業のようでもあって何が何だかわからない(聖書には火の玉などないからこれは悪魔の反撃なのか)。

そして、キャサリンとローレンは生き残り、家族として生きる決意をするのだが、キャサリンのお腹には男の子が宿っていて、第2子はサタンになるという……。何だ、これだと『ローズマリーの赤ちゃん』ではないか(それとも続篇でも作る気か)。ダグが悪魔とすると、事件の究明のためにキャサリンを呼び寄せた意味がよくわからないのだが、このためもあったとか(もしくはスーダンのコスティガン牧師の死に繋がる因縁でもあるのだろうか)。

そういえばキャサリンがダグと打ちとけてお互いの家族のことを話す場面で、キャサリンは夫と娘がスーダンで生贄になり、神を恨んだらはじめて眠れたと語っていた。そして、そのあとキャサリンはダグとセックスするのだが、なるほど、あのセックスはあの時、キャサリンは神を捨て悪魔と結託したという意味があったのだろうか。

ローレンは第2子(だから初子のブロディは死んだのだ。ってそれもひどいが)で、無事に思春期を過ぎた子はサタンに生まれ変わるというような説明もあったのはそういうことだったのね。そして、キャサリンによって悪魔でなくなった、と(とはいえ、これだと町の人から嫌われるのがわからなくなる)。あと、ダグはもちろん悪魔だったのだろうが、初子としても死ぬ運命だったということなのか。もう1度観たら少しはすっきりしそうなんだが、そんな気にはならないんでした。はは。

【メモ】

チラシでは、Reapingを1.刈り取り 2.善悪の報いをうけること 3.世界の終末における最後の審判、と説明されている。

原題:The Reaping

2007年 100分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナーブラザース 日本語字幕:瀧の瀬ルナ

監督:スティーヴン・ホプキンス 製作:ジョエル・シルヴァー、ロバート・ゼメキス、スーザン・ダウニー、ハーバート・W・ゲインズ 製作総指揮:ブルース・バーマン、エリック・オルセン、スティーヴ・リチャーズ 原案:ブライアン・ルーソ 脚本:ケイリー・W・ヘイズ、チャド・ヘイズ 撮影:ピーター・レヴィ プロダクションデザイン:グレアム・“グレイス”・ウォーカー 編集:コルビー・パーカー・Jr. 音楽:ジョン・フリッゼル
 
出演:ヒラリー・スワンク(キャサリン・ウィンター)、デヴィッド・モリッシー(ダグ)、 イドリス・エルバ(ベン)、アンナソフィア・ロブ(ローレン・マッコネル)、ウィリアム・ラグズデール(シェリフ・ケイド)、スティーヴン・レイ(コスティガン神父)、アンドレア・フランクル(マディ・マッコネル)、マーク・リンチ(ブロディ・マッコネル)、ジョン・マコネル(ブルックス/町長)

歌謡曲だよ、人生は

シネマスクエアとうきゅう ★★

■オムニバスとしては発想そのものが安直

[オープニング ダンシング・セブンティーン(歌:オックス)] 阿波踊りの映像で幕が開く。

[第一話 僕は泣いちっち(歌:守屋浩)] 東京が「とんでもなく遠く」しかも「青春は東京にしかな」かった昭和30年代の北の漁村から沙恵(伴杏里)を追うようにして真一(青木崇高)も東京に出るが、歌劇部養成所にいる沙恵は彼に冷たかった。ボクシングに賭ける真一。が、2人には挫折が待っていた。設定も小道具も昔の映画を観ているような内容で、作り手もそこにこだわったのだろうが、それだけの印象。

[第二話 これが青春だ(歌:布施明)] エアギターに目覚めた大工見習いの青年(松尾諭)が、一目惚れした施工主の娘(加藤理恵)を、出場することになったエアギター選手権に招待する。しかし、掃除のおばさんのモップが偶然にも扉を押さえたことで、青年は会場のトイレから出られなくなり、娘にいい格好を見せることが出来ずに終わる(公園でも閉じこめられてしまうという伏線がある)。選手権の終わった誰もいない舞台で1人演じ、掃除のおばさんに拍手してもらって、これが青春だ、となる。エアギター場面で『これが青春だ』の元歌がかかるわけではないから、題名オチの意味合いの方が強い。これも皮肉か。

[第三話 小指の想い出(歌:伊東ゆかり)] 中年男(大杉漣)が若い娘(高松いく)とアパートで暮らしているというどっきり話だが、実はその娘はロボットだった。うーん、それにこれはとんでもなく前に読んだ江口寿のマンガにあったアイディアと同じだし、イメージでも負けているんではないかと。

[第四話 ラブユー東京(歌:黒沢明とロス・プリモス)] 原始時代から現代の渋谷に飛ぶ、わけわからん映画。石を彫っている男に惚れた女。渋谷にいたのもその太古の昔に噴火で別れた2人なのか。つまらなくはないが、もう少し親切に説明してくれないと頭の悪い私にはゴマカシとしか受け取れない。

[第五話 女のみち(歌:宮史郎)] 銭湯のサウナ室に入ってきたヤクザ(宮史郎)が『女のみち』を歌っていて歌詞が出てこなくなり、学生(久野雅弘)を無理強いして一緒に歌詞を思い出させようとする。ヤクザには好きな女がいて、刑務所にいた6年間、週2回も来てくれたので彼女の誕生日に歌ってやりたいのだという。いやがっていた学生もその気になって……。最後は思い出した歌詞を銭湯にいる全員で歌う。さっぱりとした気分になって外に出ると、そこには和服姿の女がいて、「待たせたな」と声をかけたヤクザと一緒に去っていく。当の歌手に、歌詞が思い出せなくなるというギャグをやらせているのも面白いが、とにかく必死で歌詞を思い出そうと、いや、コメディを作ろうとしているのには好感が持てた。

[第六話 ざんげの値打ちもない(歌:北原ミレイ)] 不動産屋の女(余貴美子)がアパートに若い男を案内してくる。それをバイクに乗った若い女が遠くから見ている。女は2人に自分の過去を重ね合わせているのだろうか。そこへ昔の男が訪ねてきて、海岸の小屋で乱暴されたことで、男を刺してしまう。アパートに戻ると、若い女が自分と同じような行動をとろうとしていて、女はそれを押しとどめる。雰囲気は出ているんだけど、やはり省略された部分が知りたくなる。

[第七話 いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー(歌:荒木一郎)] デザイン会社に勤める沢口良子(久保麻衣子)は、今日も3人の同僚の女に地味だとか存在が無意味と因縁をつけられていた。いじめはエスカレートし、屋上で服を剥ぎ取られてしまう。それを見ていた一郎(武田真治)の思いが爆発する。真っ赤な服を持って下着姿の女の所に駆けつけ、好きなんだと言ったあと、公園(なんで公園なんだ)で制作中のポスター(だっせー)を検討をしている同僚たちに「君たち、沢口さんに失礼なんだよ」と言いながら殴り(ついでに上司の男も)、全員を血祭りに上げてしまう。蛭子能収監督のマンガ(も画面に入る)そのものといった作品。映画も自分のマンガと同じ作風にしているのはえらい(だからマンガのカットはいらないでしょ。ちょっとだが、この分だけ遠慮してたか)。

[第八話 乙女のワルツ(歌:伊藤咲子)] 喫茶店のマスター(マモル・マヌー)が1人で麻雀ゲームをしていると、常連が女性とやって来て彼女だと紹介する。女性に昔の彼女の面影をみ、バンドを組んでいた遠い昔の「つらいだけだった初恋」を思い出す。彼が心惹かれていたリカは若くして死んでしまったのだ。昔の想いにひたっていたマスターだったが、女房の声に現実に引き戻される。凡作。というかこのひねりのなさが現在のマスターそのものなんだろう。

[第九話 逢いたくて逢いたくて(歌:園まり)] これはちゃんとした映画になっていた。カラオケ用映像ではないのだから、他もこのくらいのレベルで勝負してほしいところだ。アパートに越してきたばかりの鈴木高志(妻夫木聡)は、ゴミ置き場から文机を拾ってくるが、これは前の住人五郎丸(ベンガル)が粗大ゴミとして出したものだった。妻の恵美(伊藤歩)に止められながらも、高志は引っ越しの手伝いにきた仲間と、机の中にあった大量の手紙を読んでしまう。手紙は梅田さち子という女性に五郎丸が出したもので、宛先不明で戻ってきてしまったものだった。みんなで、こいつはストーカーだと決めつけたところにその五郎丸が挨拶をしておきたいとやってきて、机をあわてて隠す高志たち……。前の住人と引っ越してきた人間は普通顔を会わせることはないだろうと思うのだが、でもこの場面はおっかしい。ウーロン茶をごちそーになったお礼を言って、思い出が多すぎてつらいという場所から、五郎丸はやってきたトラックで去って行くのだが、入れ違いで梅田さち子からの葉書が舞い込み、全員で五郎丸を追いかけるという感動のラストシーンになる。この追っかけが気持ち長いのだけど、尺がないながらうまくまとめている。

[第十話 みんな夢の中(歌:高田恭子)] 同窓会に集まった人たちが小学校の校庭で40年前のタイムカプセルを掘り出す。思い出の品に混じって8ミリフィルムも入っていた。遅れてやって来た美津江(高橋惠子)も一緒になって、さっそく上映会が開かれる。案内役のピエロから演出まで、すべてにうんざりしてしまう内容と構成だった。

[エンディング 東京ラプソディ(歌:渥美二郎)] 藤山一郎でないとしっくりこないと思うのは人間が古いのか。瀬戸朝香扮のバスガイドと一緒にはとバスで東京をまわる。歌詞付き画面だから完全にカラオケ映像だ。

 

2007年 130分 ビスタサイズ PG-12 配給:ザナドゥー

製作: 桝井省志 プロデューサー:佐々木芳野、堀川慎太郎、土本貴生 企画:沼田宏樹、迫田真司、山川雅彦 音楽プロデューサー:和田亨
[オープニング]撮影:小川真司、永森芳伸 編集:宮島竜治
[第一話]監督・脚本:磯村一路 撮影:斉藤幸一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:青木崇高、伴杏里、六平直政、下元史朗
[第二話]監督・脚本:七字幸久 撮影:池内義浩 編集:森下博昭 音楽:マーティ・フリードマン、荒木将器 出演:松尾諭、加藤理恵、池田貴美子、徳井優、田中要次
[第三話]監督・脚本:タナカ・T 撮影:栢野直樹 編集:森下博昭 出演:大杉漣、高松いく、中山卓也
[第四話]監督・脚本:片岡英子 撮影:長田勇市 編集:宮島竜治 出演:正名僕蔵、本田大輔、千崎若菜
[第五話]監督・脚本:三原光尋 撮影:芦澤明子 編集:宮島竜治 音楽:林祐介 出演:宮史郎、久野雅弘、板谷由夏
[第六話]監督・脚本:水谷俊之 撮影:志賀葉一 美術:新田隆之 編集:菊池純一 出演:余貴美子、山路和弘、吉高由里子、山根和馬
[第七話]監督・脚本:蛭子能収 撮影:栢野直樹 編集:小林由加子 音楽:林祐介 出演:武田真治、 久保麻衣子、インリン・オブ・ジョイトイ、矢沢心、希和、長井秀和
[第八話]監督・脚本:宮島竜治 撮影:永森芳伸 美術:池谷仙克 編集:村上雅樹 音楽:林祐介 音楽:松田“ari”幸一 出演:マモル・マヌー、内田朝陽、高橋真唯、山下敦弘、エディ藩、鈴木ヒロミツ、梅沢昌代
[第九話]監督・脚本:矢口史靖 撮影:柴主高秀 編集:森下博昭 出演:妻夫木聡、伊藤歩、ベンガル、江口のりこ、堺沢隆史、寺部智英、小林トシ江
[第十話]監督・脚本:おさだたつや 撮影:柴主高秀 編集:菊池純一 音楽:林祐介 出演:高橋惠子、烏丸せつこ、松金よね子、キムラ緑子、本田博太郎、田山涼成、北見敏之、村松利史、鈴木ヒロミツ
[エンディング]監督・脚本:山口晃二 原案:赤松陽構造 撮影:釘宮慎治 編集:菊池純一 出演:瀬戸朝香、田口浩正

こわれゆく世界の中で

シャンテシネ2 ★★☆

■インテリの愛は複雑だ。で、これで解決なの

ウィル(ジュード・ロウ)は、ロンドンのキングス・クロス再開発地区のプロジェクトを請け負う建築家で、仕事は順調ながらやや中毒気味。リヴ(ロビン・ライト・ペン)とはもう同棲生活が10年も続いていたが、リヴとその連れ子ビーの絆の強さにいまひとつ踏み込めないでいた。そのことが彼を仕事に没頭させていたのかも。

リヴはスエーデン人の映像作家。ドキュメンタリー賞を受賞していて腕はいいらしいが、ビーが注意欠陥・多動性障害(ADHD)で、そのこともあってかリヴ自身もセラピーを受けている。ウィルにとってはセラピーのことさえ初耳だが、リヴからは「仕事に埋もれ身勝手」と言われてしまう。ウィルは、僕もビーを愛していると言うのだが、言葉は虚しく2人の間を流れていくばかりだ。

そんな時、ウィルが新しくキングス・クロスに開設した事務所が、初日に窃盗に入られてしまう。実は警報機の暗証番号を替えるところを外から盗み見されていて、また被害にあいそうになるのだが、共同経営者のサンディ(マーティン・フリーマン)が事務所に戻ってきたため、泥棒たちは逃げ出す。

いくら治安の悪い地区とはいえ、ということで暗証番号をセットしたエリカに疑惑の目が向けられたり、でもあとでそのエリカとサンディが恋に落ちたり、また事務所を見張っているウィルが、この世で信じられるのはコンドームだけという娼婦と知り合いになって哲学的会話をするなど、物語は枝葉の部分まで丁寧に作られているのだが、とはいえどれもあまり機能しているとはいえない。

夜警でウィルは1人の少年(ラフィ・ガヴロン)のあとをつけることに成功する。彼の身辺を調べるうちに彼の母親のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い、ウィルは彼女に惹かれていく。ウィルの中にあった家庭での疎外感がアミラに向かわせたのだし、アミラもウィルをいい人と認識していたのだが、息子のミルサドが部屋にあったウィルの名刺を見て、ミルサドは自分のやっていたことが暴かれるとアミラにすべてを打ち明ける。

アミラとミルサドはボスニア内戦でサラエボから逃れてきて、今は服の仕立屋として生計を立てているという設定。ミルサドにロンドンに来なかった父のことを訊かれてサラエボの話は複雑とアミラも答えていた。当人がそうなら日本人にはさらにわかりにくい話なのは当然で、といってすんなりそう書いてしまっては最初から逃げてしまっているだけなのだが、彼らの話に入りにくいのは事実だ。

アミラのとった行動がすごい。ウィルと関係をもってそれを写真に収めミルサドを救う手段としようとする。「弱みにつけ込むなんて、私を利用したのね」と言っておいての行動なのだから決然としている。女友達の部屋を借り証拠写真でも手助けしてもらっていた。ボスニア内戦を生き延びてきただけのしたたかさが垣間見られるのだが、しかしそれだけで関係をもったのでもあるまい。

ここはもう少し踏み込んでもらいたかったところだが、結局ミルサドは別の形で捕まってしまい、物語は表面的には案外平穏なものに収束していくことになる。ウィルがアミラとの関係をリヴに打ち明け、つまりリヴの元に帰って行き、ミルサドを救う形となる。

あくまで誘われたからにしても、ミルサドから窃盗の罪が消えたとは思えない。15歳という十分責任能力のある人間に、これではずいぶん甘い話ではないか。が、ウィルによって「人生を取り戻せた」のも真実だろう(ラストシーンにもそれは表れている)。ミルサドが盗んだウィルのノートパソコンにあった、ビーの映像を見ている場面が入れておいたのは甘いという批判を避ける意味もあったろう。そして、被害者に想いを寄せられる人間であるなら、甘い決断もよしとしなければならないとは思うのだが、ま、これは私が人には厳しい人間ということに尽きるかもしれない。

ウィルとアミラのことがよく整理できないうちに、ビーがウィルの仕事現場で骨折するという事故が起き、このあとリヴがウィルに「あなたを責めないことにし」「悪かった」と言って、前述のウィルの告白に繋がるのだが、この流れもよくわからなかった。

ようするにこれは、いつのまにかお互いを見なくなっている(巻頭にあったウィルのモノローグ)夫婦が、愛を取り戻す話だったのだな。だけど、これを誰にも感情移入出来ないまま観るのは、かなりしんどいのである。最後にリヴが何もなかったように家に帰るのかとウィルを問いつめるくだりは新趣向なんだけど、基本的なところで共感できていないから、装飾が過ぎたように感じてしまうのだ。だって、ウィルとリヴの問題が本当に解決したとは思えないんだもの。

【メモ】

Breaking and Enteringは、壊して侵入する。不法侵入、住居侵入罪を意味する法律用語。

アミラは仕立屋をしているが、時間があると紙に書いたピアノの鍵盤を弾くような教養ある人間として描かれている。

キングスクロスについても何度も語られていたが、これも土地勘がまったくないのでよくわからない。「荒れ果てた地を僕たちが仕上げて、最後に緑をちらす」などというウィルの設計思想も映画で理解するには少々無理がある。

原題:Breaking and Entering

2006年 119分 シネスコサイズ イギリス、アメリカ PG-12 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ 製作:シドニー・ポラック、アンソニー・ミンゲラ、ティモシー・ブリックネル 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、コリン・ヴェインズ 撮影:ブノワ・ドゥローム プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:ナタリー・ウォード 編集:リサ・ガニング 音楽:ガブリエル・ヤレド 、UNDERWORLD

出演:ジュード・ロウ(ウィル)、ジュリエット・ビノシュ(アミラ)、ロビン・ライト・ペン(リヴ)、マーティン・フリーマン(サンディ)、レイ・ウィンストン(ブルーノ刑事)、ヴェラ・ファーミガ(オアーナ)、ラフィ・ガヴロン(ミロ/ミルサド)、ポピー・ロジャース(ビー)、マーク・ベントン、ジュリエット・スティーヴンソン、キャロライン・チケジー、ラド・ラザール

スパイダーマン3

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■超人がいっぱい

スパイダーマン(トビー・マグワイア)の今回の敵は3人?+自分。

まずはいまだ父親を殺害したと誤解しているハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)がニュー・ゴブリンとして登場する。しかしどうやってニュー・ゴブリンとなったかは省いてしまっている(ハリーも父親と同じ薬を飲んだとか。だったら彼も邪悪になってしまうけど)。そんなことを一々説明している暇はないのだろうけど、まあ乱暴だ。

次は、サンドマン。ピーターの伯父を殺したフリント・マルコ(トーマス・ヘイデン・チャーチ)が刑務所から脱走してしまうのだが、彼が素粒子実験場に逃げ込んだところでちょうど実験がはじまってしまい、体を砂のように変えられるサンドマンになっちゃう。簡単に超人(怪物)を誕生させちゃうのだな。まあ、そもそもスパイダーマンもそうなのだけど。

最後は宇宙生物。隕石に乗って地球にやってきた紐状の黒い生命体がスパイダーマンに取り憑く。この生命体は寄生生物で、人間にある悪い心に働きかけてくる(宿主の特性を増幅する)らしい。ピーターは前作でメリー・ジェーン・ワトソン=MJ(キルステン・ダンスト)の愛を手に入れたし(今回はどうやって結婚を申し込むかというところからスタートしている)、スパイダーマンもヒーローと認知されていて人気も高く、前作のはじまりとはまったく逆ですべてがうまく行っていて、そこにちょっとした慢心が生まれていた。寄生生物に取り憑かれる隙があったということなのだが、これまたファーストフードよろしく、あっと言う間の出来上がりなのだ。

スパイダーマンのスーツまで赤から黒に変わってしまうというのもよくわからないが、一応ピーターはヒーローであるからして、自分の中にいる悪の魅力に惹かれながらもその悪と戦うという構図。しかし、彼が苦悩の末剥ぎ取った寄生生物は、同僚のカメラマンでピーターに敵愾心を燃やすエディ・ブロック(トファー・グレイス)に乗り移って、スパイダーマンと同等以上の能力(これもわかるようでわからない)になって襲いかかってくる。

それにしても、何故これだけ沢山の敵を登場させなければならないのか。最近のアクション大作は、最初から最後まで見せ場を作ることが義務づけられているのだろうが、今回のように安易に敵の数を増やしては、その誕生の説明からまるで流れ作業のようになっていて、ちっとも訴えかけてこない。こんなことは監督とて承知のはずだろうに、それでも盛り沢山の構成を要求(誰に?)されてしまうんではつらいだろうな。

で、増やしすぎた結果、サンドマンと寄生生物に取り憑かれたエディ(チラシだとヴェノムと称している)が手を組んで、対スパイダーマンとニュー・ゴブリンのハリーというチーム戦にしてしまってはねー。もちろん、そのためにはピーターがハリーに助けを求める(MJのためだ、とも言う)という、この映画の大切なテーマがそこにはあるのだが、ハリーのいままでの思い違いを解く鍵を、オズボーン家の執事の「黙っていましたが、私はすべてを見ていました」にしてしまっては、力が抜けるばかりだ(もう1作での状況は覚えていないので何ともいえないのだが)。

その2対2のバトルも案外あっけない。ハリーの活躍があっての勝利だったが、そのハリーは死んでしまう。ハリーとの和解という切ない場面が、サンドマンの改心も(こういう風に併記してしまうところが問題なのだな)だが、とにかくすべてが駆け足では、どうこういうべき状況以前というしかない。

しかしそうしないことには、MJとの複雑な恋の行方が描けない、つまりその部分もいままでどおりにやろうっていうのだから、もう滅茶苦茶なんである。

スパイダーマンがヒーローとして人気を集めいい気になっているピーターは、舞台が酷評だったMJの気持ちをつい見逃してしまう。スパイダーマンの祝賀パーティーで、事故から救ったグエン・ステイシー(ブライス・ダラス・ハワード)と調子に乗ってキスをするに及んで、MJの気持ちもはなれてしまい、ピーターは伯母のメイ・パーカー(ローズマリー・ハリス)がプロポーズにとくれた婚約指輪を、MJに渡せなくなってしまう。

マルコの脱走のニュースがピーターに知らされるのもこのときで、彼は憎悪をつのらせる。ピーターには慢心だけでなく、こういう部分でも寄生生物に取り憑かれる要因があったってことなのね。

MJがハリーに傾きかけたり(お互い様なのだろうけど、これはそろそろやめてほしい)、またそれをハリーに利用されたりという事件も経て、「復讐」を「赦し」に変えるテーマが伯母の助言という形で語られるというわけだ。

不良もどきのピーターは持ち前のうじうじから解放されたようで、本人はうきうきなのだろうが(笑えたけどね)、でもヒーローでありながら悩めるピーターでいてくれた方が、スパイダーマンファンとしては安心できるのである。

 

【メモ】

まるでエンディングのような導入だが、ここには1、2作のカットが入れてある。

エンドロールで確認し忘れたので吹き替えかどうかはわからないのだが、キルステン・ダンストが酷評(声が最前列までしか届かないというもの)だった舞台で「They Say It’s Wonderful」(題名は?)をけっこう長く歌っていた。

ハリーはスパイダーマンとの死闘で記憶障害になり、ピーターとの間にしばし友情が戻る。

ハリーに記憶が返ってくるのは、MJとキスし、彼女がその事実にあわてて、ご免なさいと言いながら帰ってしまってから(MJはハリーが「高校の時君のために戯曲を書いた」という言葉にまいってしまったようだ)。このあとMJは憎悪の塊となったハリーに脅かされ、ピーターに好きな人が出来たと言わされる。

エディは、偽造写真を使っていたことをピーターにばらされ、会社を解雇されてしまう。

サンドマンは水に流されてしまうが、下水から蘇る。

ピーターはMJとのことを心配して尋ねてきてくれた叔母に指輪を返すが、叔母はそれを置いて帰っていく(助言をする場面)。

サンドマンの改心は娘の存在故で、そういえば最初から弁解じみたことを言っていた。とはいえ、これでピーターがマルコを赦してしまうのは、ちょっと説明が先走った感じだ。ピーターからの赦しの言葉を得て、サンドマンは砂となって消えていく。

〈070622 追記〉CINEMA TOPICS ONLINEにサム・ライミ監督の言葉があった。これはわかりやすい。でもだったらよけい、3は死んでしまうハリーを中心に話を進めるべきだった。そうすえばサンドマンやヴェノムはいらなくなって……これじゃ迫力ないと企画で却下されてしまうのかな。

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6210

シリーズ3作のメガホンをとるサム・ライミは言う。「『スパイダーマン』は、ピーターの成長の物語だ」。スパイダーマンとしての”運命”を受け入れた『スパイダーマン』。スパイダーマンとして生きる運命に”苦悩” した『スパイダーマン2』。そして『スパイダーマン3』では、ピーターの”決意”が描かれる。たとえ、どんなに自分が傷つこうとも、正しい心を、愛を取り戻すために、自らの心の闇の化身とも言うべきブラック・スパイダーマンと闘う。まさに「自分」への挑戦である。更にサム・ライミはこうコメントする。「『スパイダーマン』の物語の中心はピーター、MJ、ハリーの3人のドラマだ」。

原題:Spider-Man 3

2007年 139分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊池浩司 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

監督:サム・ライミ 製作:ローラ・ジスキン、アヴィ・アラッド、グラント・カーティス 製作総指揮:スタン・リー、ジョセフ・カラッシオロ、ケヴィン・フェイグ 原作:スタン・リー、スティーヴ・ディッコ 原案:サム・ライミ、アイヴァン・ライミ 脚本: サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント 撮影:ビル・ポープ プロダクションデザイン:ニール・スピサック、J・マイケル・リーヴァ 衣装デザイン:ジェームズ・アシェソン 編集:ボブ・ムラウスキー 音楽:クリストファー・ヤング テーマ曲:ダニー・エルフマン

出演:トビー・マグワイア(ピーター・パーカー/スパイダーマン)、キルステン・ダンスト(メリー・ジェーン・ワトソン)、ジェームズ・フランコ(ハリー・オズボーン)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(フリント・マルコ/サンドマン)、トファー・グレイス(エディ・ブロック/ヴェノム)、ブライス・ダラス・ハワード(グウェン・ステイシー)、ジェームズ・クロムウェル(ジョージ・ステイシー)、ローズマリー・ハリス(メイ・パーカー)、J・K・シモンズ(J・ジョナ・ジェイムソン)、ビル・ナン(ロビー・ロバートソン)、エリザベス・バンクス(ミス・ブラント)、ディラン・ベイカー(カート・コナーズ博士)、テレサ・ラッセル(エマ・マルコ)、クリフ・ロバートソン(ベン・パーカー)、ジョン・パクストン(バーナード/執事)、テッド・ライミ(ホフマン)、ブルース・キャンベル(クラブのフロアマネージャー)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(ペニー・マルコ)、エリヤ・バスキン(ディトコヴィッチ氏)、マゲイナ・トーヴァ(ウルスラ)、ベッキー・アン・ベイカー(ステイシー夫人)、スタン・リー(タイムズ・スクエアの男)

ゲゲゲの鬼太郎

新宿ミラノ1 ★★☆

■『ゲゲゲの鬼太郎』というより『水木しげるの妖怪図鑑』か

妖怪ポスト経由で鬼太郎(ウエンツ瑛士)に届いた手紙は小学生の三浦健太(内田流果)からのものだった。健太の住む団地に妖怪たちが出るようになって住民が困っているという。鬼太郎が調べると、近くで建設中のテーマパーク「あの世ランド」の反対派をおどかすために、ねずみ男がバイトで雇った妖怪たちをけしかけていたのだった。

しかしこれは反対派へのいやがらせにはなっていても、稲荷神社の取り壊しによるお稲荷さんの祟りと喧伝されてしまいそうだから、「あの世ランド」側としては逆効果だと思うのだが。ま、どっちみちこのテーマパークの話はどこかへすっ飛んでしまうから関係ないんだけどね。

鬼太郎に儲け話を潰されたねずみ男は、その稲荷神社でふて寝しようとして奥深い穴に吸い込まれてしまう。そして、そこに封印されていた不思議な光る石を見つける。実はこれは人間と妖怪の邪心が詰まっている妖怪石と呼ばれるもので、修行を積んだ妖怪が持てばとてつもない力を得られるが、心の弱い者には邪悪な心が宿ってしまうのだ。

そんなことを知らないねずみ男は、少しでも金になればと妖怪石を質入れしてしまうのだが、そこに偶然来ていた健太の父(利重剛)は、工場をリストラされて困っていたのと妖怪石の魔力とで、それを盗んでしまう。

父が健太に妖怪石を預けたことで健太に魔の手が伸び、彼の勇気が試される。また、妖怪界では、妖怪石の力を手に入れようとする妖怪空(橋本さとし)の暗躍と、妖怪石の盗難の嫌疑が鬼太郎にかかって大騒動になっていくのだが、話の展開はかなりいい加減なものだ。

ねずみ男に簡単に持ち出されてしまう妖怪石の設定からして安直なのだが、それが健太の父の手に渡ってと、妖怪界を揺るがす大事件にしては狭い狭い世界での話で、でも一応、少年を準ヒーローにしているあたりは(だから世界が小さいのだけど)子供向け映画の基本を押さえている。

ただ死んだ父まで助け出してしまうのはねー(そもそもこの死は唐突でよくわからない。病気で死んだ、って言われてもね)。「健太君の願いが乗り移った」という説明は意味がないし、子供映画にしてもずいぶん馬鹿にしたものではないか。他にも沢山いた死者の行列の中から健太の父だけというのはどうなんだろ。父の釈明も釈明になっていなくて、ここはどうにも釈然としないのだな。

鬼太郎は健太の姉の三浦実花(井上真央)にちょっと惚れてしまい、猫娘(田中麗奈)の気をもませることになるが、これは妖怪界の定め(人間は死んでしまうから惚れてはいけないと言っていた)で、事件が片づいたあと、実花からは鬼太郎の記憶が消えてしまう。

この話もだが、妖怪たちが善と悪とに分かれて戦いながらも、結末はどこまでもユルイ感じで、いかにも水木しげる的世界なのだ。まあ、水木しげるの妖怪たちを配置したのなら、そうならざるを得ないのだろうけど。

それに、1番の見所はその妖怪たちなのだ。大泉洋のねずみ男を筆頭に、そのキャスティングと造型は絶妙で、子供映画ながらこの部分では大人の方が楽しめるだろう。猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、大天狗裁判長などのどれにも納得するはずだ。それはまったくのCGでも同じで、石原良純の見上げ入道ならまあ想像はつくが、石井一久のべとべとさんには感心してしまうばかりなのだ。水木しげるの妖怪画というのは、1ページに妖怪の絵と解説があって、図鑑のような趣があったけど、この映画もそれを踏襲した感じで観ることができるというのが面白い。

唯一まるで違うイメージなのがウエンツ瑛士の鬼太郎だが、演技はうまいとは言い難いものの、意外にも違和感はなかった。惜しげもなく髪の毛針を打ち尽くしてしまい、堂々の禿頭を披露しているのだが、あれ、でも片目ではないのね。さすがにそこまではダメか。だからほとんど目玉おやじとは別行動だったのかもね。

 

【メモ】

妖怪石には、滅ぼされた悪しき妖怪の幾千年もの怨念だけでなく、平将門、信長、天草四郎などの人間の邪心までも宿っているという。

父の釈明は「泥棒したっていう気はないんだ。これだけは信じてくれ、間が刺したんだ。
弱い心につけ込まれたんだ」というもの。もちろんこれではあんまりだから「でもやってしまったことはしょうがない」とは言わせているのだが。

映画の中で鬼太郎が何度か言っていたのは、「そんなにしっかりしなくてもいいんじゃない、泣きたい時は泣いちゃえば」とか「悪い人だけじゃないんだから思いっ切り甘えろ」というもの。

2007年 103分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:本木克英 製作:松本輝起・亀山千広 企画:北川淳一・清水賢治 エグゼクティブプロデューサー:榎望 プロデューサー:石塚慶生・上原寿一アソシエイトプロデューサー:伊藤仁吾 原作:水木しげる 脚本:羽原大介 撮影:佐々木原保志 特殊メイク:江川悦子 美術:稲垣尚夫 衣装デザイナー:ひびのこづえ 編集:川瀬功 音楽:中野雄太、TUCKER 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ウエンツ瑛士『Awaking Emotion 8/5』VFXスーパーバイザー:長谷川靖 アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太 照明:牛場賢二 録音:弦巻裕

出演:ウエンツ瑛士(ゲゲゲの鬼太郎)、内田流果(三浦健太)、井上真央(三浦実花/健太の姉)、田中麗奈(猫娘)、大泉洋(ねずみ男)、間寛平(子泣き爺)、利重剛(三浦晴彦/健太の父)、橋本さとし(空狐)、YOU(ろくろ首)、小雪(天狐)、神戸浩(百々爺)、中村獅童(大天狗裁判長)、谷啓(モノワスレ)、室井滋(砂かけ婆)、西田敏行(輪入道)
 
声の出演:田の中勇(目玉おやじ)、柳沢慎吾(一反木綿)、伊集院光(ぬり壁)、石原良純 (見上げ入道)、立川志の輔(化け草履)、デーブ・スペクター(傘化け)、きたろう(ぬっぺふほふ)、石井一久(べとべとさん)、安田顕(天狗ポリス)

神童

新宿武蔵野館2 ★★☆

■好きなだけじゃダメな世界

天才少女と知り合ってしまった音大受験浪人生の悲しい(?)日々……。

ピアノを演奏することが大好きな菊名和音(松山ケンイチ)は音大目指して毎日猛レッスンに励んでいる。受験に失敗したらピアノはあきらめて家業の八百屋を継がねばならないのだ。

そんな時に知りあった成瀬うた(成海璃子)は13歳ながら言葉を覚える前に楽譜が読めたという天才少女。なにしろ和音がピアノを弾くと近所からの苦情になるが、うたが弾くと八百屋の売り上げがあがるってんだから(ひぇー、普通人もそんなに耳がいいんだ。私にはなーんもわからないんだけどねー)。

そんなうただが、母親の美香(手塚理美)には唯一の望み(借金返済の)だから、レッスン中心の生活で、突き指予防で体育は見学だし、訓練の一環で左手で箸を使うよう厳命されたりしているから、「ピアノは大嫌い」という発言になるのだろう。

その一方で事実にしても天才と持ち上げられているせいか、和音にため口なのはともかく、高慢ともいえる言動が目立つ。理由はともあれ、こんなでは和音の気持ちがうたに傾くとは思えない。というのもどうやらうたは和音のことが好きらしいのだ(これについては後で書く)。

うたは和音のために秘密の練習場(うたが以前住んでいた家)を提供してくれたり、ま、このあと相原こずえ(三浦友理枝)とのことで和音とはちょっとトラブったりもするのだけど、受験の日には応援に行って、何やら霊力を授けてしまったというか、うたが和音に乗り移ったとでもいうか、和音の神懸かり的な演奏は、彼をピアノ課に主席で入学させてしまうのである(ありえねー。でもこの場面はいい)。が、和音にとってはこれが仇になって小宮山教授からも見放されてしまう(「好きなだけじゃダメなんだよ、ここでは」と言われてしまうのだ)。

またうたの方も、母親との軋轢は変わらぬまま、自分の耳の病気を疑うようになっていた。うたの父親光一郎(西島秀俊)が、やはり難聴で自殺したらしいのだ。音大の御子柴教授(串田和美)が昔光一郎と交流があってそのことがわかるのだが、しかしここからは、難解では決してないものの、意味もなくわかりにくくしているとしか思えない流れになっている。

昔光一郎に連れられていったピアノの墓場から1台のピアノを救い出した幼少時の思い出が挿入され、うたも父と同じ難聴に悩まされているような場面があるのに、それはどうでもよくなってしまうし、うたの演奏がちょうど来日していたリヒテンシュタインの耳にとまって、これが彼の不調で、うたに彼による指名の代役がまわってくるのだ。

この演奏会で、うたは自分からピアノを弾きたい気持ちになる。そしてここが、一応クライマックスになっているのだが、それではあんまりと思ったのか、うたがピアノの墓場(倉庫)に出かけて行く場面がそのあとにある。

夜歩き牛丼を食べ電車に乗り線路を歩くこの行程には、うたの同級生の池山(岡田慶太)が付いて行くのだが、彼は見つけた倉庫に窓から入る踏み台になる役でしかない(ひでー)。倉庫の中でうたはあるピアノを見つけるが、指をおろせないでいる。と、彼女の横に何故か和音が来て、ピアノを弾き始めるのだ。

「聞こえる?」「聞こえたよ、ヘタクソ」という会話で、2人の楽しそうな連弾となる。

この場面は素敵なのだが、もうエンドロールだ。うたが心から楽しそうにピアノに向き合っているというのがわかる場面なのだが(捨てられていたピアノが息を吹き返すという意味もあるのだろうか)、「大丈夫だよ、私は音楽だから」という、さすが天才というセリフはすでに演奏会の場面で使ってしまっていて、でもここはそういうことではなく、ただただ楽しんでいるということが大切なんだろうなー、と。

しかしそれにしてもちょっとばかり乱暴ではないか。倉庫のピアノの蓋が何故みんな開いているとか、和音はどうしてここに来たのかというような瑣末なこともだが、うたの耳の病気の説明もあれっきりではね(うたが気にしすぎていただけなのか)。それに、和音については途中で置き去りにしたままだったではないか。

この置き去りはいただけない。うたの再生には和音の存在が必要だったはずなのに、その説明を省いてしまっているようにみえてしまうからだ。うたと和音の関係が、恋人でも家族でもなく、友達というのともちょっと違うような、でもどこかで惹かれ合うんだろうな。この関係は、最後の連弾のように素敵なのだから、もう少しうまくまとめてほしくなる。

和音はうたよりずっと年上だから、すでに相原こずえが好きだったし(振られてたけどね)、音大に入ってからは加茂川香音(貫地谷しほり)という彼女もできて、年相応のことはやっているようだ。うたにそういう意味での関心を示さないのは、うたが和音にとってはまだ幼いからなのか。とはいえ寝ているところに急にうたが来た時はどうだったんだろ。和音も映画も、さらりとかわしているからよくわからない。けど、そういう関係が成立するギリギリの年にしたんだろうね。

耳の肥えた人ならいざしらず、私にとっては音楽の場面はすべてが素晴らしかった。和音のヘタクソらしいピアノも。

  

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:ビターズ・エンド

監督:萩生田宏治 プロデューサー:根岸洋之、定井勇二 原作:さそうあきら『神童』 脚本:向井康介 撮影:池内義浩 美術:林田裕至 編集:菊井貴繁 音楽:ハトリ・ミホ 音楽プロデューサー:北原京子 効果:菊池信之 照明:舟橋正生 録音:菊池信之
 
出演:成海璃子(成瀬うた)、松山ケンイチ(菊名和音/ワオ)、手塚理美(成瀬美香)、甲本雅裕(長崎和夫)、西島秀俊(成瀬光一郎)、貫地谷しほり(加茂川香音)、串田和美(御子柴教授)、浅野和之(小宮山教授)、キムラ緑子(菊名正子)、岡田慶太(池山晋)、佐藤和也(森本)、安藤玉恵(三島キク子)、柳英里沙(女子中学生)、賀来賢人(清水賢司)、相築あきこ(体育教師)、頭師佳孝(井上)、竹本泰蔵(指揮者)、モーガン・フィッシャー (リヒテンシュタイン)、三浦友理枝(相原こずえ)、吉田日出子(桂教授)、柄本明(菊名久)

机のなかみ

テアトル新宿 ★★★

■映画に見透かされた気分になる

家庭教師をしてぐーたら暮らしている馬場元(あべこうじ)は、新しく教え子になった女子高生の望月望(鈴木美生)の可愛らしさに舞い上がってしまう。勉強そっちのけで、望に彼氏の有無や好きな男のタイプを訊いたりも。気持ちが暴走してしまって、次の家庭教師先で教え子の藤巻凛(坂本爽)に「俺、恋に落ちるかも」などと言う始末。藤巻の部屋にギターがあるのを見つけると、それを借りて俄練習に励み、望の好きな「ギターの弾ける人」になろうとする。

望への質問に、好きな戦国大名は?と訊いてしまうのは、お笑い芸人あべこうじをそのまま持ってきたのだろうが、演技という目で見るとなんとももの足りない(ちなみに望の答えは長宗我部で、馬場は俺もなんて言う)。ただ彼のこの空気の読めない感じが、後半になってなるほどとうなずかせることになるのだから面白い。

望の志望は、何故か彼女の学力では高望みの向陽大だが、秘かに期するところがあるのか成績も上がってくる。ところが馬場の方には別の興味しかないから、図書館に行く口実でバッティングセンターに連れて行っていいところを見せようとしたりと、いい加減なものだ。望も「私、魅力ないですか」とか「彼女がいる人を好きになるのっていけないことですかね」と馬場の気を引くようなことを時たま言ってはどきまぎさせる。そうはいっても望の父親の栄一郎(内藤トモヤ)は目を光らせているし、イミシン発言の割には望が馬場の話には乗ってこないから、思ってるようには進展しないのだが。

馬場には棚橋美沙(踊子あり)という同棲相手がいて、一緒に買い物をしているところを望に見られてしまう(彼女がいる人という発言はこの場面のあとなのだ)。「古くからお付き合いのある棚橋さん」などと望に紹介してしまったものだから、棚橋は大むくれとなる。

この棚橋のキャラクターが傑出している。トイレのドアを開けっぱなしで紙をとってくれと言うのにはじまって、女性であることをやめてしまったかの言動には馬場もたじたじである(というかそもそも彼はちょっと優柔不断なのだな)。ところが、馬場が本当に望に恋していることを知ると、ふざけるなといいながら泣き出してしまうのだ。この、踊子あり(扱いにくい名前だなー)にはびっくりで、他の役もみてみたくなった。違うキャラでも光ってみえるのなら賞賛ものだ。

合格を確信していた馬場と望だが、望は大学に落ちてしまう。馬場は1人で喋って慰めていたが、泣き出した望に何を勘違いしたのか肩を抱き、服を脱がせ始める。何故かされるままになっている望。帰ってきた父親がドアを開けて入ってきたのは、馬場がちょうど望の下着を剥ぎ取ったところだった。

ここでフィルムがぶれ、テストパターンのようになって、「机のなかみ」というタイトルがまたあらわれる。今までのは馬場の目線だったが、ここからは望の目線で、同じ物語がまったく違った意味合いで、はじめからなぞられていくことになる。

で、後半のを観ると、何のことはない、望が好きなのは馬場などではなく(って、そんなことはもちろんわかってたが)、やはり馬場の教え子(このことは望は知らない)の藤巻なのだった。そして、彼は親友多恵(清浦夏実)の恋人でもあったのだ。

多恵のあけすけで下品(本人がそう言っていた)な話や、望の自慰場面(最初の方でボールペンを気にしていたのはこのせいだったのね)もあって、1幕目以上に本音丸出しの挿話が続くことになる(馬場の下心だったら想像が付くが、女子高生の方はねー)。

そうはいっても、映像的にはあくまでPG-12。言葉ほどにはそんなにいやらしいわけじゃない。でもとにかく、あの1幕目の問題場面に向かって進んでいくのだが、そこに至るまでに、その場面を補足する、藤巻を巡る女の駆け引きと父親の溺愛ぶりが描かれる。

父については、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしていて、それを望が断れないでいるといったものだが、駆け引きの方は少し複雑だ。望の本心を知っている多恵は、いちゃいちゃ場面を訊かせたり、藤巻との仲が壊れそうなことを仄めかしたり、あげちゃおうか発言をしたり、そのくせ藤巻のライブには嘘を付いて望を行けなくさせたりしていたのだ。

そうして合格発表日(合格した藤巻と多恵が抱き合って喜んでいるのを望は茫然として見ていた)の夜のあの場面を迎えるのだ。しかも父と藤巻と多恵が揃って、馬場と望のいる部屋に入ってきて……というわけだったのだ。で、この修羅場が何とも恥ずかしい。それは多分私にも下心があるからなんだろうけど(しかしなんだって、こーやって弁解しなきゃいけないんだ)。

ただこのあとにある、望と大学に入った藤巻との対話はよくわからなかった。だいたいあのあとにこういう場が成り立つというのが、不自然と思うのだが、とにかく望は藤巻の態度を問い質していた。藤巻のはっきりしない、ようするに多恵と望の両方から好かれているのだからそのままでいたいという何ともずるい考えを、望は本人の口から確認するのだが、しかしこのあと「藤巻君はそのままでいいの、私が勝手に頑張るだけだから」になってしまっては、何もわからなくなる。いや、こういうことはありそうではあるが。

これだったら、別れることになった棚橋と、洗濯機をどちらが持っていくかという話しているうちに「ごめんね、俺、ミーちゃんのこと大好きなのに浮気して……」と言って棚橋とよりを戻してしまう馬場の方がまだマシのような。ま、だからって馬場がもうよそ見をしないかというと、それはまったくあてにならないのであって、そもそももう望のことは諦めるしかない現実があるからだし、あー、やだ、この映画、もう感想文書きたくないよ。

【メモ】

馬場は望の父から再三「くれぐれも間違いのないように」と釘を刺されるのだが、これってすごいことだよね。

馬場の趣味?はバッティングセンター通い。そこで1番ホームランを打っているというのが自慢のようだ。

棚橋は見かけはあんなだが、うまいカレーを作る。そのカレーを馬場は無断で、自作のものとして望月家に持っいってしまう(この日は望月家もカレーだった)。

修羅場で望にひっぱたかれた多恵は、その理由がわからない。

本当の最後は、1人でバッティングセンターに来た望がホームランを打ち、景品のタオルをもらう場面。

2006年 104分 ビスタサイズ PG-12 配給:アムモ 配給協力:トライネット・エンタテインメント

監督:吉田恵輔 製作:古屋文明、小田泰之 プロデューサー:片山武志、木村俊樹 脚本:吉田恵輔、仁志原了 撮影:山田真也 助監督:立岡直人 音楽:神尾憲一 エンディング曲:クラムボン「THE NEW SONG」
 
出演:あべこうじ(馬場元)、鈴木美生(望月望)、坂本爽(藤巻凛)、清浦夏実(多恵)、踊子あり(棚橋美沙/馬場の同棲相手)、内藤トモヤ(望月栄一郎/望の父)、峯山健治、野木太郎、比嘉愛、三島ゆたか

あかね空

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■本当に永吉と正吉は瓜二つだったのね

京都で修行を積んだ豆腐職人の永吉(内野聖陽)は江戸の深川で「京や」という店を開くが、京風の柔らかな豆腐が売れたのは開店の日だけだった。永吉がやって来たその日から彼のことが気になる同じ長屋のおふみ(中谷美紀)は、落ち込む永吉を励ます。そしてもう1人、永吉の豆腐を毎日買い続けてくれる女がいた。

女は永吉とは同業者である相州屋清兵衛(石橋蓮司)の女房おしの(岩下志麻)だった。相州屋夫婦は子供の正吉が20年前に永代橋で迷子になったきりで、おしのは永吉に成長した正吉の姿を重ねていたのだ。ちょっと苦しい説明ではあるが、ま、それだけおしのの正吉に対する思いが強かったということか。

毎日作った豆腐を無駄にしてしまうのはもったいないと永代寺に喜捨することを考え(もちろん宣伝の意味もそこにはあった)、永代寺に豆腐を納めている相州屋に永吉とおふみは許しを請いに出かける。勝手にしろと突き放す清兵衛だったが、後にこれはおしのの願いと弁解しながらも、永代寺に京やの豆腐を買ってくれるようたのみにいく。清兵衛は彼なりに正吉のことに責任を感じていて、死ぬ間際にはおしのにそのことを詫びていた。

こうして京やの基礎が出来、永吉とおふみの祝言となる(泉谷しげるがいい感じだ)。京やのことをと面白く思わない平田屋(中村梅雀)という同業者が「今のうちに始末しておきたい」と、担ぎ売りの嘉次郎(勝村政信)にもちかけるが、気持ちのいい彼は京やの豆腐の味を評価するし、悪意のある行動にはならない。また京やの実力もさっぱりだったので大事には至らずにすんだようだ。他に出てくる人も、みな人情に厚い人たちばかりといった感じで、前半は締めくくられる。

後半はそこから一気に18年後の、浅間山の噴火に江戸中が大騒ぎしている不穏な空気の漂う中に飛ぶ。永吉とおふみには長男栄太郎(武田航平)、次男悟郎(細田よしひこ)、長女おきみ(柳生みゆ)という3人の子がいるし、店は相州屋があった家作を引き継いで(永代寺から借りて)繁盛していたが、外回りを任されていた栄太郎が、寄合の集まりで顔見知りとなった平田屋の罠にはまって、一家の絆は崩れていく。

小説がどうなっているのかは知らないし、平田屋の動向については語り損ねた感じもするが、この時間のくくり方は場面転換としてはうまいものだ。

おふみが賭場に出入りするようになった栄太郎を庇うのは、彼に火傷をおわせてしまった過去も一因になっているようだが、このことで夫婦仲に亀裂が入るし(中谷美紀の怒りっぷりはすごかった)、運悪く永吉は侍の乗る馬に撥ねられて命を落としてしまう。

栄太郎の賭場の借金を肩代わりした平田屋は、栄太郎が清算したはずの証文を手に、賭場を仕切っている数珠持ちの傳蔵親分(内野聖陽)を伴って、ちょうど焼香に帰った栄太郎が弟妹とで揉めている京やに乗り込んでくる。

傳蔵の仕組んだ最後のオチで京やは救われるのだが、これが少々もの足らないのはともかく、傳蔵に平田屋を裏切らせるに至った部分が、描かれていないことはないがあまりに弱い。が、内野聖陽による2役は、おしのが永吉を正吉と思い込んだことを印象付けるなかなかのアイディアだ(傳蔵は正吉だったことを再三匂わせているわけだから)。

平野屋が悪者なのは間違いないが、浅間山の噴火の影響で江戸の豆腐屋が困っているのに京やだけが値上げしないというところでは、永吉の「値上げをしないのが信用」という言葉が単調なものにしか聞こえない。寄合の席で栄太郎が居心地が悪くなるわけだ。もっともその後の栄太郎の行動は、甘ったれた弁解の余地のないものでしかないのだが。

栄太郎が賭場で金を使い込み、その取り立てに傳蔵がきて、おふみが33両を返し(臍繰りか)、さらに金を持ち出そうとした栄太郎にそれを与えている(これで栄太郎は勘当となる)し、永代寺から借りていた家作を買わないかという話にも応じようとしていた。そんなに金を貯め込めるのだったら、値上げをしないことより、それ以前にもっと安く売るのが本筋ではないかと思ってしまう。

豆腐を作る過程をきちんと映像にしているのはいいが、CGは意識してなのかもしれないが全体に明るすぎだし、「明けない夜がないように、つらいことや悲しいことも、あかね色の朝が包んでくれる」という広告のコピーに結びつけた最後のあかね空も取って付けたみたいだった。

そしてそれ以上に落ち着かなかったのが人物描写におけるズーミングで、どれも少し急ぎすぎなのだ。カメラワークはそうは気にしていないが、時たま(今回のように)相性の悪いものに出くわすと、それだけで集中できなくなることがあって、重要さを認識させられる。

 

【メモ】

気丈なおふみの口癖は「平気、平気やで」。

「上方から来たのは下りもんといってありがたがられる」のだと、平田屋は京やの店開きを警戒する。

傳蔵の手首のあざ。

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:角川ヘラルド映画
 
監督:浜本正機 エグゼクティブプロデューサー:稲葉正治 プロデューサー:永井正夫、石黒美和 企画:篠田正浩、長岡彰夫、堀田尚平 原作:山本一力『あかね空』 脚本:浜本正機、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:川口直次 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 照明:水野研一 整音:瀬川徹夫 録音:藤丸和徳
 
出演:内野聖陽(永吉、傳蔵)、中谷美紀(おふみ)、石橋蓮司(清兵衛)、岩下志麻(おしの)、中村梅雀(平田屋)、勝村政信(嘉次郎)、泉谷しげる(源治/おふみの父)、角替和枝(おみつ/おふみの母)、武田航平(栄太郎)、細田よしひこ(悟郎)、 柳生みゆ(おきみ)、小池榮(西周/永代寺住職)、六平直政(卯之吉)、村杉蝉之介(役者)、吉満涼太(着流し)、伊藤高史(スリ)、鴻上尚史(常陸屋)、津村鷹志(上州屋)、石井愃一(武蔵屋)、東貴博〈Take2〉(瓦版屋)

バベル

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

ハンニバル・ライジング

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■常識人の創った怪物

あの「人食い(カニバル)ハンニバル」の異名を持つ殺人鬼レクター博士の誕生話。

トマス・ハリスなら最初の『レッド・ドラゴン』を書いた時点で、当然レクター像もかなり煮詰めていたはずである。といってこの作品までの構想があったかというと、むろん私にはわからないのだが、全体の輪郭が当初からあったと聞けばなるほどと思うし、後付けであるならそれもさすがと思ってしまうくらいよく出来ている(文句を書くつもりなのにほめてしまったぞ)。

そして、結論は意外と単純なものであった。あれだけの反社会的精神病質者を生みだしたのは、そのレクターの存在以上に狂気が至るところにあった戦争だったというのだから。

第二次大戦中の1944年、6歳のハンニバル・レクターは、リトアニアの我が家レクター城(名門貴族なのね)にいた。戦争は彼の恵まれた環境をいとも簡単に壊してしまう。ドイツ空軍の爆撃で父母を奪ばわれたハンニバルは、幼い妹のミーシャと山小屋に隠れ住むが、そこに逃亡兵がやってきたことで悲劇が起きる……。

戦後ソ連軍に解放された家は孤児院となり、ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)はあれから8年間をそこで過ごしていたが、他の孤児のいやがらせに脱走し、手紙の住所をたよりにフランスにいる叔父を訪ねる。

ただ、この逃避行で、彼はすでにかなりの非凡さを披露してしまう。なにしろ孤児院を抜けるだけでなく、冷戦時代の国境まで越えてしまうし、いやがらせをした相手への復讐も忘れないなど、後年のレクター博士がすでにここにいるのである。

これでは興味が半減してしまう。もちろんまだカニバルの部分での謎は残っているし、映画としての娯楽性を損ねることなく進行させねばならない、という理由もあってしたことだろうから、それには目をつぶっておく。

さて、フランスに無事たどり着いたレクターだが、叔父はすでに死んでいて、しかし日本人の未亡人レディ・ムラサキ(コン・リー)の好意で、そこに落ち着くことになる。が、肉屋の店主がムラサキに性的侮辱の言葉を浴びせたことで、彼の中の獣性が目を覚ます……。

ムラサキの下でハンニバルは日本文化の影響を受けることになる。ムラサキによる鎧と刀を使った儀式めいたものが演じられるし、ハンニバルが肉屋の首を斬りとったのもこの日本刀を使ってだった。ただ、この部分は日本人には首を傾げたくなるものでしかない。

ポピール警視の追求を受けるものの、ハンニバルは最年少で医学部に入学する。なるほど、後年、精神科医にはなるが、人間を解剖したりする知識は早くから学問として学んでいたというわけか。

このあと、度々悪夢に襲われるハンニバルは、ミーシャの復讐を次々と果たしていく。この復讐劇が予定通りに成し遂げられていくのは、青年ハンニバルがもうレクター博士になっている証拠のようなもので(フランスへの逃避行からだった)、特別な見せ場にもならないほど粛々と進行していく。

が、このことで復讐相手のグルータス(リス・エヴァンス)の口から、飢えをしのぐためにミーシャを食べたのはお前もだと逆襲されることになる。これはかなり衝撃的な事実であるし、ここを映画のクライマックスにもしているので、これをもってカニバルの説明としたいところだが、妹の人肉を食べたことがハンニバルの中で嫌悪にはならず、人肉食を追求するようになった理由にまではなっていないように思われる。

それにこれは本当に説明可能なことなのだろうか。青年ハンニバルを描くことになれば、当然それが明かされるはずと思い込んでいたが、それが簡単なものでないことは誰しも気付くことだ。

ムラサキはハンニバルの最初の殺人を容認するばかりか擁護してしまうのだが、最後は彼に復讐を断念し脱走兵を許すことを求める。が、もう耳を貸すようなハンニバルではなくなっている。けれど、それなのに、ハンニバルはムラサキに「愛している」と言うのだ。

ハンニバルもここまでは夢にうなされるし、愛という言葉を口にする人間だったのである。だから彼の犯罪もこの作品では、非礼に対する仕返しであり、妹への復讐であって、彼の側にも正当性がかろうじてあったのだ。しかしムラサキに「あなたには愛に値するものがない」と言われてしまったことで、ハンニバルにあった人間は消えてしまう。

説明つきかねるものをやっとしたという感じがなくもないが、しかしそうさせたのは、レクター博士を想像したのが常識人のトマス・ハリスだったからではなかったか。いや、これはまったくの推論だが。

なお蛇足ながら、ギャスパー・ウリエルのハンニバル像は、アンソニー・ホプキンスにひけを取らぬ素晴らしいもので、彼にだったら続編を演じてもらってもいいと思わせるものがあった。そうして、今回定義出来なかった悪をもっと語ってもらいたいと思うのだ。さらに的外れになることを恐れずにいうと、善から悪への道は『スターウオーズ エピソード3 シスの復讐』の方がよほど上で、ハンニバルは最初から悪そのものを楽しんでいたという設定にすべきではなかったか。

ところでチラシには「天才精神科医にして殺人鬼、ハンニバル・レクター。彼はいかにして「誕生(ライジング)」したのか?――その謎を解く鍵は“日本”にある」となっているのだけど、ないよ、そんなの。

原題:Hannibal Raising

2007年 121分 シネスコサイズ アメリカ、イギリス、フランス R-15 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ピーター・ウェーバー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アマール 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード 原作:トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』  脚本:トマス・ハリス 撮影:ベン・デイヴィス プロダクションデザイン:アラン・スタルスキ 衣装デザイン:アンナ・シェパード 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネッリ 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂
 
出演:ギャスパー・ウリエル(ハンニバル・レクター)、コン・リー(レディ・ムラサキ)、リス・エヴァンス(グルータス)、ケヴィン・マクキッド(コルナス)、スティーヴン・ウォーターズ(ミルコ)、リチャード・ブレイク(ドートリッヒ)、ドミニク・ウェスト(ポピール警視)、チャールズ・マックイグノン(ポール/肉屋)、アーロン・トーマス(子供時代のハンニバル)、ヘレナ・リア・タコヴシュカ(ミーシャ)、イヴァン・マレヴィッチ、ゴラン・コスティッチ、インゲボルガ・ダクネイト

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■オカンとボクと、時々、オトン、そしてミズエ

原作は未読。リリー・フランキーの自伝だろうか。そして振り返るとそこにはオカン(内田也哉子→樹木希林)がいた、というような。

小倉から筑豊の炭坑町、そして大分の美術高校時代の下宿生活を経て東京に上京し、美大時代のぐうたらな生活があって、でもなんとか稼げるようになってオカンを呼び寄せて一緒に暮らし……。料理好きで誰からも愛されたオカンのことを「ボク」(谷端奏人→冨浦智嗣→オダギリジョー)が綴っていく。

作者が最初に「小さな話」と言っているのは、特別な大それた事件というべきものなどないという謙遜と思われるが、長い年月のうちにはそれなりの事件は当然いくつもあって、それが丹念に描かれていく。むろんリリー・フランキーの子供時代は子供の目線でしかないので、上京するまでの場所は田舎なのだが、場所は違ってもこの時代の風景は私には懐かしいもので、共鳴する部分が多かった(車をハンドル操作で道を走らせるゲームってあんなにチャチだったかしらねー。かもねー、というように反応していたのね)。

そして挿話としてはどこにでもありそうな話の積み重ねながら、やはり母に対する、また母の子に対する気持ちが全編に溢れたものになっていて、でもそれは決して押しつけがましいものにはなっていなかった。

だから、抗癌剤の副作用で苦しむ壮絶な場面になっても素直に受け止められたのだろう。また、オカンに手を引かれる側だったのが「ボク」が引く側になっているベタな映像すら、とても愛しく思えたのだった。

映画の題材としてなら「この人より自由な人をボクはいまもって見たことがない」オトン(小林薫)の方がずっと料理のしがいがありそうだが、しかしこの程度の人材ならあの時代にはいくらでもゴロゴロしていた記憶があるが(人付き合いの密度が高かっただけかも)、これは映画とは別の話。それに、オトンは、後半どんどん立派なオトンになっていくんだよね。

話としては誰にでも思い当たるような部分がいくつも出てきて、その普遍性が原作をベストセラーにしたのだろう。それをまた私が引っ張り出しては、同じことの繰り返しになってしまうので、1番気になったミズエ(松たか子)の存在についてだけ書いておく。

放蕩生活の借金完済も近づき、オカンの上京が決まった頃に「新しい彼女」として登場したミズエは、「いろんなことがうまく回りはじめている」その中にいて、でも、その楽しい時間が「足早に過ぎて」オカンの癌が再発したときにはミズエと「ボク」とは、もう「私たちが別れたこと……」「まだ言っていないんだ」という会話になっている。ミズエはオカンに指輪をもらっていて、そのことを気にするのだが、はめる時とはめない時があっていいからもらっといてよ、と「ボク」は答える。

オカンの闘病生活の時にも病室を訪れるミズエの姿があるし、約束を果たすために最後に「ボク」がオカンの位牌を持って東京タワーの展望台にのぼる時にも、待ち合わせには少し遅れながらミズエはやって来るのだ。

こんな時にも彼女が来ているのは、オカンと彼女とにあった絆が大きかったことがもちろんあるが、恋人ではなくなった「ボク」とは今でも信頼関係が残っているのだろう。ミズエについては多くは語られていないので、観客の想像に委ねられているのだが、そのことがかえって彼女の存在を際だたせていたし、映画にとってもいいアクセントになっていたと思うのだ。

    

2007年 142分 シネスコサイズ 配給:松竹

監督:松岡錠司 原作:リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 脚本:松尾スズキ 撮影:笠松則通 美術:原田満生 衣装:宮本まさ江 編集:普嶋信一 音楽:上田禎 主題歌:福山雅治『東京にもあったんだ』 メイク:豊川京子 照明:水野研一 録音:柿澤潔
 
出演:オダギリジョー(中川雅也/ボク)、樹木希林(中川栄子/オカン)、内田也哉子(若い頃の栄子)、松たか子(ミズエ)、小林薫(オトン)、冨浦智嗣(中学、高校時代の雅也)、田中祥平(小学校時代の雅也)、谷端奏人(幼少時代の雅也)、渡辺美佐子(筑豊のばあちゃん)、佐々木すみ江(小倉のばあちゃん)、原知佐子(ノブエおばさん)、結城美栄子(みえ子おばさん)、猫背椿(ブーブおばさん)、伊藤歩(タマミ)、勝地涼(平栗)、平山広行(磯山)、荒川良々(えのもと)、辻修(ホセ)、寺島進(ハイカラな男)、小島聖(若い頃のノブエおばさん)、吉本菜穂子(若い頃のみえ子おばさん)、光石研(小料理屋の客)、千石規子(病院の借家の老婆)、仲村トオル(ラジオ局のディレクター)、土屋久美子(高校の女教師)、小泉今日子(不動産屋の事務員)、板尾創路(「かっぱ」の客)、六角精児(編集長)、宮﨑あおい(アイドルDJ)、田口トモロヲ(郵便配達)、松田美由紀(中目黒の大家)、柄本明(笹塚の診療所の医者)、田中哲司(東京の病院の医者)、塩見三省(葬儀屋)、岩松了(催促する編集者の声)、江本純子(風俗嬢C)、安藤玉恵(風俗嬢A)、栗原瞳(風俗嬢B)、麻里也(堕落した日々の彼女)、竹下玲奈(大学時代の彼女)、小林麻子(似顔絵教室の女子社員)、ぼくもとさきこ(東京の看護婦)

ナイト ミュージアム

シネセゾン渋谷 ★★☆

■オモチャのチャチャチャin博物館

ラリー・デリー(ベン・スティラー)は、離婚したエリカ(キム・レイヴァー)との間にもうけた10歳になるニッキー(ジェイク・チェリー)という息子がいる。エリカの再婚話はともかく、その相手(株のトレーダーなのな)にニッキーがなついているらしく、いや、そんなことより転職ばかりで現在も失業中の自分にあきれられてしまって、さすがに危機感をつのらせる。とにかく新しい仕事を探すしかないと職業訓練所を訪れた彼は、自然史博物館の警備の仕事に就くことになる……。

設定は違うものの『ジュマンジ』『ザスーラ』と似た作品。ゲームが博物館になっただけで、夜になると動き出す博物館の展示物が朝には戻っているというある種のお約束の上に成立しているのも、家族の絆を取り戻すというテーマが潜んでいるのも、まったく同じだ。

子供向け映画という方針がはっきりしているから、いきなり恐ろしいテラノサウルス(骨格標本なんだけどね)に襲われるもののそれは勘違いで、相手はまったく犬レベル。骨を投げて遊んでほしかっただけだったりする。

そもそもラリーと入れ替わりに退職するというセシル(ディック・ヴァン・ダイク)、ガス(ミッキー・ルーニー)、レジナルド(ビル・コッブス)の先輩老警備員たちから渡されたマニュアルを、いたずら好きのサルに鍵束と一緒に持ち去られたというのがのがいけなかったのだが……。

博物館だから展示物が所狭しと置いてあるわけで、つまり限られた空間に限られた人物で少し先は他の展示物の領域だったりするから、動きだしてもお互いに適当に調和をとっていたり我関せずというのがおっかしい。もっとも西部開拓史とローマ帝国のジオラマでは双方ともが領土の拡大をはかっていて、大乱闘になったりもする。このミニチュアのアイディアでは、ラリーがガリバーのように小人たちに磔にされ、鉄道に轢かれたり、ローマ軍の矢を沢山浴びせられてしまったするのが、なかなか愉快だ。

もちろんこれだけでは映画としては芸がないので、3人の先輩老警備員たちがアクメンラーの石板を持ち出そうとするのを、全員で阻止するというクライマックスが用意されている。この石板がなくなると、これによって毎晩息を吹き込まれていた展示物の、唯一の楽しみが奪われてしまうのだ。

ここで1番活躍するのがルーズベルト大統領(ロビン・ウィリアムズ)だろうと思っていると、彼は硝子の中に展示されているアメリカ先住民のサカジャウィア(ミズオ・ペック)に片想いをしていたという役回り。「私もただの蝋人形でルーズベルトじゃない。女に告白もできん」と言うのだ(蝋人形でよかったよ、というような傷を負う)。え、何。それにしちゃ他の展示物はかなり役に成りきっているんじゃないか。いや、でもこれが正しい解釈なんだろうけどねぇ(考え出すと複雑なことになりそうだから、やめておこう)。

ミニチュア(ジオラマ)のカーボーイとオクタヴィウスの大活躍もあって石板は無事戻ってくるし、ラリーは学芸員レベッカ(カーラ・グギーノ)の論文の手助けや、もちろんニッキーにもいいところを見せられて(ニッキーとその友達が見ている前でクビを言いわたされたラリーは汚名返上とニッキーを博物館に連れてきていた)、しかも博物館外での石板争奪戦の痕跡が博物館の宣伝にもなってラリーにはお咎めがないばかりか……と予定通りの結末を迎える。

老警備員たちもラリーの温情で床掃除だけの罰と、まあ、すべてが善意による大団円なのは、どこまでも健全な子供映画ってことなのだろう。

余談だが、アメリカ自然博物館だけあって日本人には馴染みの薄い人物が出てくる。サカジャウィアもだが、彼女を通訳として西部開拓史時代にアメリカを探検したメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラーク。しかし調べてみるとサカジャウィアは人妻ではないの(http://sitting.hp.infoseek.co.jp/sakaja.htm)。ルーズベルト、まずいよ、それは。あ、だから違う人格の蝋人形って言ってたんだっけ。

  

【メモ】

ラリーに仕事を斡旋する職業紹介員を演じるアン・メアラはベン・スティラーの実母。

原題:Night at the Museum

2006年 108分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ショーン・レヴィ 製作:ショーン・レヴィ、クリス・コロンバス、マイケル・バーナサン 製作総指揮:マーク・A・ラドクリフ 原作:ミラン・トレンク 原案・脚本:ロバート・ベン・ガラント、トーマス・レノン 撮影:ギレルモ・ナヴァロ プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ドン・ジマーマン 音楽:アラン・シルヴェストリ
 
出演:ベン・スティラー(ラリー・デリー)、カーラ・グギーノ(レベッカ)、ディック・ヴァン・ダイク(セシル)、ミッキー・ルーニー(ガス)、ビル・コッブス(レジナルド)、ジェイク・チェリー(ニック・デリー)、ロビン・ウィリアムズ(セオドア・ルーズベルト)、ミズオ・ペック(サカジャウィア)、ラミ・マレック(アクメンラ)、リッキー・ジャーヴェイス(マクフィー博士)、アン・メアラ(デビー)、キム・レイヴァー(エリカ・デリー)、スティーヴ・クーガン、ポール・ラッド、オーウェン・ウィルソン(クレジットなし)

13/ザメッティ

シネセゾン渋谷 ★★☆

■ランプが点灯したら引き金を引け!

青年が謎のチケットに導かれるように行った先は……というミステリー仕立ての物語だが、謎解きというほどのものはないし、展開も順を追った単純なものだ。大方の人間は観る前に、内容はともかく集団ロシアンルーレットがあるということは知っているから、それについての驚きがあるわけでもない。が、何も知らない青年が狂気の場に放り込まれ、しかし後戻りは出来ずにゲームが進んでいく中で、観客のほとんどは完全に青年と一体になり、青年と同じ恐怖を味わうことになる。

ただ、残念なのは、それだけの映画でしかないということだろうか。

青年はグルジア移民の22歳のセバスチャン(ギオルギ・バブルアニ)で、屋根修理の仕事中に依頼主のジャン=フランソワ・ゴドン(フィリップ・パッソン)が大金が手に入る話をしているのを耳にする。が、その金儲けの連絡の手紙をまっていたゴドンは薬物中毒で死んでしまう。ロシアンルーレットの恐怖に耐えられず、参加者の多くはモルヒネを打っていたという話があとで出てくるが、しかしゴドンの薬物中毒がそうかどうかはわからない。生き残りであるならすでに大金を手にしていそうなものだが、妻や友人との会話からはとてもそういう状況には見えない。

ゴドンの急死で、セバスチャンが内容もわからない手紙を盗み、その中にあったホテルの領収証とパリ行きの指定券(しか入っていない)に誘われるように列車に乗り込みホテルに向かったのは何故か。仕事は中止になるし、今までの賃金すらすんなりとは払ってもらえそうもなさそうなので、セバスチャンも金に困っていることは確かなのだが、1番はやはり単なる好奇心ではないか。この状況でこの行動にでる人間はいくらでもいそうだからだ。

映画はすべてセバスチャンの目線になっていることもあって、肝腎なことはわからず終いのことが多い。しかし矛盾することを言うようだが、この説明はもう少しだけなら削ぎ落とした方がよかったような気もする。どこと言われても困るし、淡々とした流れだって決して悪くないとは思うのだが、この内容なら1時間くらいに収めるべきだろう。

警察が追っていることは主催者も気付いているらしく、ひとつ前の駅で降ろさせたり、駅のロッカーに指示書をおいたり、車を乗り継がせて、セバスチャンを郊外にある館に連れていく。そこにはアラン(フレッド・ユリス)という男が待っていてゴドンでないことを不思議がる。異様な雰囲気にさすがに身の危険を感じたセバスチャンは帰ろうとするが、許されるはずもない。

ここからやたらリアルで緊張を強いられた集団ロシアンルーレット場面に入っていくのだが、後になって考えてみると意外に雑なゲームのような気もしてくる。

優勝者にも85万ユーロの金が出るのだから、単純にお金の問題だけではなく(中には切実そうな者もいたが)命を賭けたショーを見たいという気持ちがかなり強そうなのだ。金持ちの暇つぶしなのか。参加者が13人なのはたまたまで、トルコでは42人だったという。

最初は1発から始まりゲームが進むと弾数を増やしているが、ショーという意味だけなら、それでは進行が速すぎないか。そして、それなのに4人残った後はくじで、2人の対決にさせているのもわからない。最後の2人での勝負など、2人とも死んでしまうことだってありそうなのだが(だから予備として、2人を残したのか)。

ロシアンルーレットをやっている当人たちにとっては、最初のうちは自分が相手を殺すことよりも相手から殺されないことが重要になる。といったってこれもすべて運次第で、だからフライングもそうは意味がないし、恐怖でなかなか引き金を引けずにいたセバスチャンが撃たれずに残ることにもなる。が、ここで本当に恐怖を味わったのはセバスチャンの前にいた男なのだが。

セバスチャンは、いままでに3度このゲームを勝ち抜いてきた(理由が明かされないのであればこんな設定にしない方がいい)というジャッキー(オーレリアン・ルコワン)との戦いにも勝利(というよりただ運がよかっただけなのだが)し、賞金を手にする。

解放されたセバスチャンは賞金を家族に郵送し電話するが、ホームで警察に捕まり尋問を受ける。警察はゴドンの代わりに行ったが拒否されたというセバスチャンの言葉など信じてはいなかったが、金も持っていないし、彼がそこにあった車のナンバーを供述したことで放免となる。が、悪運もここまで。駅でジャッキーの弟に見つかり殺されてしまう。

このオチは安易だ。もうひとひねりがないと、集団ロシアンルーレットだけ、といつまでも言われてしまうだろう。

【メモ】

予告篇では、集団ロシアンルーレット場面で画面が暗くなるので、てっきりランプが消えるのが合図になって行われるのだと思い込んでいて、それだと別の方向に撃ったりしゃがんでしまったりしないかといらぬ心配をしていたが、まったくの思い違いだった。そりゃそうだよね。

監督自身の手によるハリウッドでのリメイクが決定している。

原題:13 Tzameti [グルジア語で数字の13]

2005年 93分 シネスコサイズ モノクロ フランス、グルジア R-15 日本語字幕:■

監督・脚本・制作:ゲラ・バブルアニ 撮影:タリエル・メリアヴァ 編集:ノエミー・モロー 音楽:イースト
 
出演:ギオルギ・バブルアニ(セバスチャン)、パスカル・ボンガール(闇のゲーム進行役)、 オーレリアン・ルコワン(ジャッキー)、フィリップ・パッソン(ジャン=フランソワ・ゴドン)、オルガ・ルグラン(クリスティーヌ・ゴドン/ゴドンの妻)、フレッド・ユリス(アラン)、ニコラス・ピグノン、ヴァニア・ヴィレール、クリストフ・ヴァンデヴェルデ、オーグスタン・ルグラン、ジョー・プレスティア、ジャック・ラフォリー、セルジュ・シャンボン、ディディエ・フェラーリ、ゲラ・バブルアニ

ホリデイ

109シネマズ木場シアター5 ★★☆

■何故かエピソードが噛み合わない

恋に行き詰まった女性が、憂さ晴らしにと、ネットで流行の家交換(ホーム・エクスチェンジ)をし、2週間のクリスマス休暇に「別世界」を手にする。日本では発想すら難しそうな家交換だが、家具付き賃貸物件が一般的という欧米ではそれほど違和感はないのかも(それにしてもね)。

ロンドンで新聞社の編集の仕事をしているアイリス(ケイト・ウィンスレット)は、3年も想い続けているジャスパー(ルーファス・シーウェル)の仕事場での婚約発表(つまり相手も職場の人間)に、目の前が真っ暗になって……。

ロサンジェルスで映画の予告篇製作会社を経営するアマンダ(キャメロン・ディアス)は、仕事中毒故か恋人のイーサン(エドワード・バーンズ)とはしばらくセックスレス状態。だからってイーサンの浮気を許せるはずもなく……。

アイリスはプール付きの大邸宅にびっくりで大喜びだが、アマンダはロンドンの田舎のお伽話に出てくるような1軒屋には6時間で飽きてしまい、帰国を考え出す始末(雑誌ではなく本が読みたいと言ってたのだから、うってつけなのにね)。が、アイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)の突然の出現で、たちまち恋に落ちてしまう。

2週間ながら新天地でのそれぞれの生活+多分新しい恋は、家交換のアイディアが示された時点で誰もが先を読める展開で、だからこちらのワクワク度が先に高まってしまうからなのか、そうは盛り上がってくれなし、アイリスとグラハムの熱愛ぶりに煽られて、かえって腰が引けてしまったりもする。

謎だらけでやきもきさせられたグラハムには、ソフィとオリビアという2人の娘(子役がいい)がいて、家に押しかけたアマンダは4人で楽しい時を過ごす。三銃士のイメージは重なるし、オリビアの「女の人が来たのは初めて、うれしいな」というグラハムへの応援にもなるセリフには本当にうれしくなるし、グラハム演じるナプキンマンの微笑ましいこと。

アマンダとアイリスの電話中にグラハムからもかかってきて、アイリスが中継役になるアイディアもいいし、2人は最初こそいきなりセックスになってしまったものの、途中からはキスそのものを楽しんでいるようで好感が持てる(あれ、腰が引けてたって書いたのに)。

そういう工夫は沢山あるのに、何でなんだろ。

一方のアイリスもただ豪邸を楽しんでいるだけでなく、アマンダの元カレの友達で作曲家のマイルズ(ジャック・ブラック)と知り合いになる。マイルズはやはり浮気されての失恋病男で、アイリスと同じように「便利でいい人」なのがミソ。だからこちらは2人共、元の恋人に決着を付けてからやっと恋が始まる。2人共恋人に復縁を迫られるあたりも似ているのだな(ジャスパーはわざわざロンドンからやってくるのだ)。

アイリスはまた、たまたま知り合った90歳の元脚本家アーサー(イーライ・ウォラック)にも、君が主演女優だと励まされる。実はこの老脚本家がらみの挿話は、アイリスが家にこもっていた彼に手を貸して、祝賀会に出かけていくようになる場面があるように、時間もそれなりに使っているのだが、何故か機能しているとはいえない。その証拠に、アーサーが祝賀会の壇上で話しているのに、アイリスとマイルズでお喋りしてしまう場面があるのだけど、これはないでしょう。

マイルズには、いつものジャック・ブラック調で映画ネタをふんだんに語らせたり(『卒業』ではビデオ屋で、ダスティン・ホフマンに「顔がバレたか」と言わせるわかりやすいカメオシーンまである)、アマンダには映画の予告篇のように自己分析してしまう場面が何度かあったりと、先にも書いたように細かな工夫が多い。

極めつけは、15歳で親が離婚したことから強くならねばと頑張って泣けなくなっていたアマンダが、泣き虫のグラハムと大泣きすることだろうか。でもね。

この噛み合わなさは何故なのか。結末が読めていたから。切実さが伝わらないから。ふむ。
よくわからんのだが、とにかくそういう印象のまま終わってしまったのだな。基本的には女性の目線での願望映画だから私には合わなかったのかも。

2週間が終わったらどうするのかって問題が残るとは思うのだけど、最後は4人共(子供たちも)ロンドンで楽しそうにしていました。ここから先は、考えてもしょーがないしょーがない。

【メモ】

グラハムは妻とは2年前に死別。謎だったのは、週末に子供を預けて独身男のように振る舞っていたからで、携帯に違う2人の女性の名前を見たアマンダは余計勘違いしてしまう。

三銃士のように暮らしていたというアマンダのセリフが、子供たちによってなぞられる。

映画ネタは『炎のランナー』『ミッション』など。他にリンジー・ローハンとジェームズ・フランコの映画の予告篇(これは架空か)も。それと元脚本家の机にはオスカー像が見えた。

原題:The Holiday

2006年 135分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ナンシー・マイヤーズ 製作:ナンシー・マイヤーズ、ブルース・A・ブロック 製作総指揮:スザンヌ・ファーウェル 撮影:ディーン・カンディ 美術:ジョン・ハットマン 衣装デザイン:マーリーン・スチュワート 編集:ジョー・ハッシング 音楽:ハンス・ジマー
 
出演:キャメロン・ディアス(アマンダ)、ケイト・ウィンスレット(アイリス)、ジュード・ロウ(グラハム)、ジャック・ブラック(マイルズ)、イーライ・ウォラック(アーサー)、エドワード・バーンズ(イーサン)、ルーファス・シーウェル(ジャスパー)、ミフィ・イングルフィールド(ソフィ/グラハムの長女)、エマ・プリチャード(オリビア/グラハムの次女)、シャニン・ソサモン(マギー)、サラ・パリッシュ(ハンナ)、ビル・メイシー(アーニー)、シェリー・バーマン(ノーマン)、キャスリン・ハーン(ブリストル)