西遊記

109シネマズ木場シアター7 ★★

■私たちの旅はただ天竺に着けばいいというのではない

昔々テレビでやっていた『西遊記』を1回も観ていないのでわからないのだが、三蔵法師を夏目雅子がやったように、深津絵里という女性にしたのはあのテレビ作品を継承しているのだろうか。ともかく、また新たな西遊記を作ったのは、この話にそれだけ魅力があるということなのだろう。というか、この映画は2006年のテレビ版の映画化で、出演者もほとんど全員映画に移って作ったもののようだ(何も知らなくてすんません。それに三蔵法師は夏目雅子だけじゃなく、そのあとも宮沢りえ、牧瀬里穂がやっていたのね。ということは日本では女性が演じるのが常識なのか)。

仏典を天竺に求めて旅する三蔵法師、沙悟浄(内村光良)、猪八戒(伊藤淳史)、孫悟空(香取慎吾)の一行は、砂漠の中にある虎誠(フーチェン)へとやってくる。この都の玲美(多部未華子)という姫のたっての頼みで、一行は険しい山の頂に住むという金角大王(鹿賀丈史)銀角大王(岸谷五朗)退治に出かけることになるのだが、そこには玲美の祖父劉星(小林稔侍)がいるだけで、すでに虎誠は金角銀角の手中となっていたのだった。

玲美は両親を助けたいが為に悟空たちを利用し、金角銀角の言われるままに「無玉」を持ち帰ろうとする。「無玉」には、この世から太陽を封じ込める力があり、金角銀角はそれで全世界を我が物にしようとしていた。玲美が金角銀角の手先にならざるを得なかったこと、その玲美が悟空との信頼を築くことは、前半の要になっているのだが、これがあまりに杜撰な話で、観ていてつらくなってくる。

玲美が山に行くのに悟空たちの助けがいるのはわかるが、でも金角銀角にとっては何も玲美に無玉を取りに行かせることもないことで、どうしても玲美がそのことに必要というのであれば、自分たちが玲美を連れて行った方がてっとり速いはずだ。虎誠の城内に「三蔵法師求む」などというビラを貼って、わざわざやっかいな悟空たちを引き留めておく理由など何もないではないか。

金角銀角が虎誠の宮殿にいるという情報も、わざわざ凛凛(水川あさみ)に持ってこさせ(テレビ版の常連を引っ張ってきただけ)、玲美と「約束」をした悟空には、三蔵法師を破門(!)させる。悟空を残して下山した三蔵法師だが、「天竺に行こうと思うあまり」悟空を叱ってしまったことを悔い、沙悟浄と猪八戒は再び山に出向いていく。だが、そのため1人になった三蔵法師は、銀角によって吸引瓢箪(これは何ていうのだ)の中に閉じこめられてしまう。

巨大ナマズの棲む河や、入山を拒むかのように険しい階段や崖、さらにはインディ・ジョーンズばりの仕掛けが襲ってくる(難を逃れるのは横に隠れるだけというのがねー)、容易には到達できないはずの場所なのに、コンビニに行く感覚で入山下山が出来てしまうのでは(ではなく省いているだけなのでしょうけど)難所であることを強調してきた意味がなってしまう。

そうして、銀角はもっとあっさり山にやってきて(ほらね)無玉を奪っていくのである。銀角の乗るエアーバイクの出す黒雲(これ、いいよね)と、悟空の隗箔l雲(エアーボードか)はイメージが逆のような気もするが、ここはなかなかの見せ場になっている。

が、他のCGは総じてチャチ。というか、CGが必要でない普通の部分の絵に奥行きがないものだから(最後に三蔵法師の鈴の音と共に悟空たちが出てくるキメの絵などがいい例だ)、映画全体に安っぽいイメージが漂ってしまうのだ。

金角銀角の強さなどはよく出ていたと思うが、やられてしまった悟空がいくつも刺さっていた小刀を抜いてやり返す、ってあんまりだ。悟空に底知れぬパワーがあるのはいいとしても、こんなヘタクソな見せ方はないだろう。瞬間移動する銀角を、繰り出す如意棒で仕留められずにいたのなら、次は如意棒に円形運動をさせるなり、何か工夫させろってんだ。

とにかく三蔵法師には「生きるということは戦うこと」、悟空には弱い人間にもすごい力があってそれは「なまか(仲間)を作れるってこと」だと偉そうなことを言わせて、金角銀閣を退治。封印を解かれて巨大化していた龍のようなものは吸引瓢箪に収めて、虎誠は以前の緑と水源に囲まれた国に、人々は虎の民と呼ばれていた尊厳を取り戻し、玲美の父と母は亀から人間に。はい、目出度し目出度し。で、三蔵法師の一行は天竺めざして砂漠の旅を続けるのでありました。

で、また最初と同じような場面に戻って、悟空が「もう歩けないよー」とか馬鹿なことを言ってるところでお終いなんだけど、この悟空のだだっ子ぶりにも感心できなかったのだ。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』もだけど、香取慎吾はへんてこりんで難しい役ばっかりなのな。

「生きるということは戦うこと」については、田畑を耕す父のように赤子を育てる母のようにという補足があって、この補足部分はいいのだが、とはいえそんな簡単なことではないはずだ。「なまかを作れるってこと」も別の見方ができる(「約束は守らなければならない」というのもね)のだが、その前に虎誠の人々を「誰にも従わない勇気ある民」とし、最後に「この世で一番勇気があるのは仲間がいるやつ」と隷属することが仲間ではないとも言っているようなので、これはまあ見逃すか。

でもセリフだけ1人歩きされると困るのだな、やはり。「私たちの旅はただ天竺に着けばいいというものではない」と三蔵法師に言わせ、結果でなく過程こそ肝腎と説いていたのだから、もっといろいろなところに慎重になってほしいのである(特に脚本)。

  

2007年 120分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:澤田鎌作 製作:亀山千広 プロデューサー:小川泰、和田倉和利 プロデュース:鈴木吉弘 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 企画:大多亮 脚本:坂元裕二 撮影:松島孝助 特撮監督:尾上克郎 美術:清水剛 音楽:武部聡志 主題歌:MONKEY MAJIK『Around The World+GO!空』 照明:吉角荘介 録音:滝澤修

出演:香取慎吾(孫悟空)、深津絵里(三蔵法師)、内村光良(沙悟浄)、伊藤淳史(猪八戒)、多部未華子(玲美)、水川あさみ(凛凛)、大倉孝二(老子)、谷原章介(文徳)、三谷幸喜(国王)、小林稔侍(劉星)、鹿賀丈史(金角大王)、岸谷五朗(銀角大王)

憑神

2007/07/30 109シネマズ木場シアター7 ★☆

■のらりくらりと生き延びてきたカスが人類(映画とは関係のない結論)

よく知りもしないでこんなことを書くのもどうかと思うのだが、私は浅田次郎にあまりいいイメージを持っていない。たしかに『ラブ・レター』には泣かされたが、あの作品が入っている短篇集の『鉄道員(ぽっぽや)』には同じような設定の話が同居していて、読者である私の方が、居心地が悪くなってしまったのである(こういうのは書き手にこそ感じてほしい、つまりやってほしくないことなのだが)。

で、そのあとは小説も読むことなく、でも映画の『地下鉄(メトロ)に乗って』で、やっぱりなという印象を持ってしまったので(映画で原作を判断してはいけないよね)、この作品も多分に色眼鏡で見てしまっている可能性がある。だって、今度は神様が取り憑く話っていうんではねー。

下級武士(御徒士)の別所彦四郎(妻夫木聡)は、配下の者が城中で喧嘩をしたことから婿養子先の井上家を追い出され、無役となって兄の左兵衛(佐々木蔵之介)のところに居候をしている。妻の八重(笛木優子)や息子の市太郎にも会えないばかりか、左兵衛はいい加減な性格だからまだしも兄嫁の千代(鈴木砂羽)には気をつかいと、人のよい彦四郎は身の置き場のない生活をしていた。

母のイト(夏木マリ)が見かねて、わずかな金を持たせてくれたので町に出ると、昌平坂学問所で一緒だった榎本武揚と再会する。屋台の蕎麦屋の甚平(香川照之)に、榎本が出世したのは向島の三囲(みめぐり)稲荷にお参りしたからだと言われるが、彦四郎はとりあわない。帰り道、酒に酔った彦四郎が川岸の葦原の中に迷い込むと、そこに三囲(みめぐり)稲荷ならぬ三巡(みめぐり)稲荷があるではないか。つい「なにとぞよろしゅう」とお願いしてしまう彦四郎だったが、こともあろうにこれが災いの神だったという話(やっぱり腰が引けるよな)。

で、最初にやってきたのが、伊勢屋という呉服屋とは名ばかりの貧乏神(西田敏行)。これ以上貧乏にはなりようがないと安心していた彦四郎だが、左兵衛が家名を金で売ると言い出すのをきいて、貧乏神の実力を知ることになる(眉唾話に左兵衛が騙されていたのだ)。この災難は宿替えという秘法で、貧乏神が彦四郎から彼を陥れた井上家の当主軍兵衛に乗り移って一件落着となる(井上家の没落で、彦四郎は妻子を心配しなければならなくなってしまうのだが)。

次に現れたのは、九頭龍為五郎という相撲取りの疫病神(赤井英和)。長年の手抜き癖が問題となって左兵衛がお役変えとなり、彦四郎に出番が回ってくるのだが、疫病神に祟られて全身から力が抜け、榎本と勝に新しい世のために力を貸してほしいと言われてもうなずくのが精一杯という有様。だが、これも結局は疫病神が左兵衛に宿替えしてくれることになる。

神様たちが彦四郎に惚れて考えを少しだけだが変えてしまうのも見所にしているらしい。でもそうかなー、なんかこういうのにわざとらしさを感じてしまうのだが。井上家の使用人で彦四郎の味方である小文吾(佐藤隆太)が、幼い頃から修験者の修行を積んでいて、呪文で貧乏神を苦しめるあたりの都合のよさ。宿替えは10年だか100年に1度の秘法だったはずなのに2神ともそれを使ってしまうんだから、何とも安っぽい展開ではないか。

死神(森迫永依)をおつやという可愛い女の子にしたのにも作為を感じてしまう。おつやは子供の姿でありながら、彦四郎の命を市太郎に狙わせるという冷酷な演出に出る。自分で手をくだしちゃいけないからと言い訳をさせていたが、それにしても、こんなことをされたというのに、このおつやにも彦四郎はあくまで優しく接する。彦四郎が本当にいいヤツだということをいいたいのだろうし、だからこそ3神もらしからぬ行動を取ることになるのだが。

結局、彦四郎は死を受け入れる心境になるのだが、これがあまり説得力がないのだ。というより宿替え(おつやは1度しか使えないと言ってた気がするが、使っていないよね?)のことも含めて、誤魔化されてしまったような。終わった時点でもうよくわからなくなっていたから。彦四郎は最低の上様である徳川慶喜(妻夫木聡)に会い、彼と瓜二つであることを確認し(これもねー。影武者が別所家の仕事ではあったことはいってたが)、当人から「しばらく代わりをやってくれ」と言われて、その気になるような場面はあるのだが、どうにもさっぱりなのだ。

彦四郎は、犬死にだけはしたくないと言っていたのに、上野の山に立て籠もった人たちの心の拠り所になれればと考えたのか。やはり上野の山に馳せ参じようとした市太郎と左兵衛の息子の世之介に、そこに行っても何の意味もなく、新しい世の中を作るために残らなくてはならないと諭す。この矛盾は対子供においては納得できるが、彦四郎自身への説明にはなっていただろうか。

また彦四郎に、死神に会って生きる意味を知り、神にはできぬが人は志のために死ぬことができる、とおつやに語らせていることも話をややこしくしている。そーか、彦四郎にとってはやはり影武者としての家業をまっとうすることが、武士の本懐なのか、と。なんだかね。死ぬことによって輝きを増すとかさ、もう語りすぎなんだよね。

おつやも神様稼業がいやになり、相対死をするつもりで彦四郎の心の中に入り込む。とはいえ、彦四郎は官軍の砲弾で命を散らすが、神様は死なないのだった。で、急に画面は現代に。何故かここに原作者の浅田次郎がいて、おつやの「おじちゃん(彦四郎)はすごく輝いていたんだよ」というセリフが被さって終わりとなる。これはもちろん憶測だが、降旗康男もあまりの臆面のなさにまとめきれず、全部を浅田次郎に振ってしまったのではないか(ま、ここにのこのこ出てくる浅田次郎も浅田次郎なんだけど)。でないとこの最後はちょっと説明がつかない。

こんな結論では、疫病神に取り憑かれてものらりくらりと生き延びてしまう左兵衛に、決して輝いてなどいないけれど、そうして肩入れだって別にしたくもないけれど、人間というのはもしかしたら、こういういい加減な人種だけが生き延びてきてしまったのかもしれないと、と思ってしまったのだった(うん、そうに違いない)。

  

2007年 107分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:降旗康男 プロデューサー:妹尾啓太、鈴木俊明、長坂勉、平野隆 協力プロデューサー:古川一博 企画:坂上順、堀義貴、信国一朗 原作:浅田次郎『憑神』 脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文 撮影監督:木村大作 美術:松宮敏之 編集:園井弘一 音楽:めいなCo. 主題歌:米米CLUB『御利益』 照明:杉本崇 録音:松陰信彦 助監督:宮村敏正

出演:妻夫木聡(別所彦四郎/徳川慶喜)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、赤井英和(九頭龍/疫病神)森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、上田耕一、鈴木ヒロミツ、本田大輔、徳井優、大石吾朗、石橋蓮司、江口洋介(勝海舟)