300

新宿ミラノ2 ★★☆

■スパルタ教育って優性思想なのか!?

戦闘シーンの迫力に目を奪われていたら、117分はあっけなく過ぎていて、つまりこの映画の映像にはそれだけの迫力があったということなのだが、しかし物語の方は心もとないものだった。

まずスパルタではどのように子供を育てるかという話が出てくる(スパルタ教育を復習)。発育不全や障害は排除され、7歳で母親から離され暴力の世界で生きることを学ばされる。そして、今のスパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、そういう意味でも完璧だったというのだ。

そのレオニダスのもとにペルシャ王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)からの使者が訪れる。西アジアやエジプトなどを手中にしたペルシャは100万という大軍をもってギリシャに迫り、属国になることを要求するのだが、レオニダスはためらうことなく使者を殺してしまう。彼にとって戦うことは当然だったが、好色な司祭たちはクセルクセスの餌(スパルタが滅んだ時は生娘を毎日届けるというすごいもの)に、託宣者(オラクル)のお告げと称してレオニダスにスパルタ軍の出兵を禁じてしまう。

スパルタの滅亡が目に見えているレオニダスは苦悩するが、「戦争はしない。散歩だ」と言って、でも王妃には別れを告げ、親衛隊と北に向かう。それをきいたアルカディア軍も駆けつけてくるが、レオニダスが動かせる兵はわずか300。が、敵の進路にあたる海岸線が狭くなる地点で敵と対峙すれば単純な数の比較は成立しない……たってねー。

で、このあとあらかた戦闘場面についやされるのだが、腑に落ちないのが王妃ゴルゴ(レナ・ヘディ)の行動だ。自分が議会で派兵の要請をしても説得できる可能性が少ないとみてセロン(ドミニク・ウェスト)に接近し、我が身と引き換えに協力を得ようとするのだが、セロンからは逆に王妃に誘惑されたと発言されてしまう。首飾りを渡し「骸となっても戻ってきて」とレオニダスに言っていたのにあまりではないか。

ま、これは男性観客へのサービスみたいなものか。密会場面で王妃は「いい夜ですね」と切り出すがセロンは「話相手に呼んだのではない」とばっさり。王妃は「わかってます」と強気に答えるが、「法を破り議会を無視して進軍したのだから」とすぐ主導権を奪われて、「現実主義者の見返りはおわかりのはず」「すぐにはすまない。苦痛だぞ」だもんね。東映のチャンバラ時代劇にもあるいたぶって喜ぶ悪代官みたいな感じ。

セロンの発言のひどさに、怒りに燃えた王妃が、剣で彼を刺し殺してしまうのだが、セロンの懐からペルシア金貨がこぼれ落ちたことから、セロンが裏切り者だったことがわかる。いや、もう、なんともわかりやすい説明(こんな時に持ってるなよ、ペルシャ金貨)。

物語は他の部分ではもっと単純。とにかく戦闘場面に集中しろということか。確かにその映像は一見に値する。茶を基調に色数を抑えたざらついた質感の画面に、スパルタ兵のまとうケープや血しぶきの赤を強調するところなど『シン・シティ』(この原作もフランク・ミラーだ)にもあった手法だが、戦闘場面にこだわった映画だけに、これがものすごく効いている。スローモーションと速送りを自在に組み合わせることで、獲物を仕留める正確さと速度の尋常ならざることの両方をきっちりと描く。

無茶なアップや雑なカメラ移動もないから安心して観ていられるのだ。すべてが計算された動きの中にある感じで、いかに敵を仕留めたかを観客にわからせようとしているようでもある。そしてこれを徹底させることが、画面から現実味をなくし、よりゲームに近い世界を作り上げることになった。首が、腕が、飛び、血しぶきが舞いながら、残虐性より美しさが演出されていたと言ったら褒めすぎか。実写をデジタル処理したマンガと思えば(そこまではいってないが)いいのかも。

このことに関係しているはずだが、ペルシャ軍の秘密兵器の飾り立てられたサイや象なども、もはや常識の大きさではなく、まるでゲイのようなクセルクセスの高い背、戦場とは思えない御輿なども、すべてがゲームやマンガに近い。1人が100人を殺しても(疲れちゃうものね)3万人の犠牲ですみそうなのに、ペルシャ軍はありえない巨大動物だけでなく、怪力男、忍者?部隊なども繰り出してくる。それを次々と撃破してしまうんだからねー。

とはいえ、敵に山羊の道を知られたことで退却者も出、スパルタの勇士たちにも力の尽きる時がくる。レオニダスは無数の矢に射られて命を落とし、王妃の元には使者によって首飾りが届けられる。

ただ、このあとの「神秘主義と専政政治から世界を救う」というメッセージには同調しかねる。最初の方でも「世界の手本である民主主義」などという言葉が出てきたが、そこまで言っては思い上がりというものだ。

一般のペルシア兵が仮面軍隊というのは、面白さとわかりやすさから採用されたのだとは思うが、見方を変えると個性剥奪というずいぶんな扱いであるし、それに巻頭にあった、スパルタでは弱者は生かしてもらえないという部分は、ナチスなどの優性思想に通じるものだもね。2500年前にはそうでもなきゃ生きていけなかったのかもしれないけど、こうあからさまに言われてしまうと聞き捨てならなくなる。

  

原題:300

2006年 117分 シネスコサイズ アメリカ R-15 配給:ワーナー・ブラザーズ映画 日本語字幕:林完治

監督:ザック・スナイダー 製作:ジャンニ・ヌナリ、マーク・キャントン、バーニー・ゴールドマン、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:フランク・ミラー、デボラ・スナイダー、クレイグ・J・フローレス、トーマス・タル、ウィリアム・フェイ、スコット・メドニック、ベンジャミン・ウェイスブレン 原作:フランク・ミラー、リン・ヴァーリー 脚本:ザック・スナイダー、マイケル・B・ゴードン、カート・ジョンスタッド 撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイン:ジェームズ・ビゼル 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:ジェラルド・バトラー(レオニダス)、レナ・ヘディ(ゴルゴ/王妃)、デヴィッド・ウェンハム(ディリオス)、ドミニク・ウェスト(セロン)、ミヒャエル・ファスベンダー(ステリオス)、ヴィンセント・リーガン(隊長)、トム・ウィズダム(アスティノス)、アンドリュー・プレヴィン(ダクソス)、アンドリュー・ティアナン(エフィアルテス)、ロドリゴ・サントロ(クセルクセス)、マリー=ジュリー・リヴェス、スティーヴン・マクハティ、タイロン・ベンスキン、ピーター・メンサー

しゃべれども しゃべれども

新宿武蔵野館1 ★★★★

■落語の味わい、ながら本気度満点

この映画を文章で説明してもあまり面白くなりそうもないのだが、しかし目的はまず自分のための忘備録なのであるからして、やはり粗筋くらいは書いておくか(書き出せばなんとかなるだろう)。

二つ目で今昔亭三つ葉という名をもらっている外山達也(国分太一)が、師匠の小三文(伊東四朗)に弟子入りしたのは18の時だから、もうすでに10年以上が経っている。達也は古典落語にこだわり、常に着物を着る、根っからの落語好き。なのに、どう喋ったらいいかがなかなか掴めずにいた。そんな彼が、よりによっておかしな3人を相手に話し方教室を開くことになるという、まるで落語の題材のような映画だ。

まずは、村林優(森永悠希)という大阪からの転校小学生。言葉の問題でいじめにあっているらしい。心配になって達也に相談してきたのが彼の叔母の実川郁子(占部房子)。彼女は達也の祖母春子(八千草薫)のお茶の生徒で、優が落語を覚えれば人気者になって問題解決と思ったらしい(これが彼女らしさなのかも)。達也は郁子に秘かに想いを寄せていたのだが、展開の糸口も見せてくれないうちに「来年結婚することにした」という郁子の宣言を達也は聞かされることになる(はい、残念でした)。

2人目は十河五月(香里奈)という若い女性。小三文が講師となったカルチャースクールの話し方教室を中途退席した失礼なヤツ。達也は「師匠はいつもあんなもん」と弁護するのだが、五月は「本気でしゃべってない」から「つまらない」と手厳しい。2人の掛け合いが、実際に自分がその内の1人だったらとてもこうはいかないと思うのだが、ギリギリのところで繋がっていて面白い。

五月のように、こうぶっきらぼうに話されてはたまったものではないし、だから話し方教室はぜひとも必要と思わせるのだが、しかし彼女の口から出る言葉は常に本音だから、達也も正面からぶつかっていったのだろう。事実、何故か一緒に行くことになったほおずき市でも、楽しかったと正直な感想を述べていた(達也は郁子の気持ちをこの時はまだ知らない。五月の方は、男にフラれた話を達也にしたところだった)。

3人目は元野球選手の湯河原太一(松重豊)。現役時代は「代打の湯河原」として湧かせたらしいが、話し下手であがり症だから解説者としての前途は暗澹たるもので、教室の噂を聞きつけて飛び込みでやってきたのだった。

3人が教室で一緒になる設定は、強引といえば強引。だけど、この取り合わせの妙は捨てがたいものがある。優は小学生ながら、口は達者でお調子乗り。湯河原太一とは相性が悪く険悪ムードが漂うが、でも優のいじめっ子宮田との野球対決に湯河原が一役買ってという流れにはちゃんと2人の本気度が感じられる。結局、アドバイスはもらったものの宮田には三振で負けてしまうのだが、このあと優の失踪騒動(達也の部屋にいただけだった)では、達也が優に手を出してしまうことになる。

こんなだから、教室の発表会の開催はあやしくなる。達也にも、師匠から一門会があるという話があって、集中しなければならない事情があった。なにしろ達也はあろうことか師匠の十八番である『火焔太鼓』をやると決めてしまったのだ。これを決める少し前に達也が「俺、師匠の噺が好きです」と師匠に言う素晴らしい場面がある。この達也の真っ直ぐな気持ちには泣けてしまう。

クライマックスというほどのものなどないのだが、結局達也(ここは三つ葉と書くべきか)は体調を崩していたことも幸いしたのか、一門会で自分なりの『火焔太鼓』をものにする。そして、教室の発表会も無事行われることとなった。

優は『饅頭こわい』で宮田から笑いを取り、姿をなかなか見せずに心配させた五月も、演目を変え達也と同じ『火焔太鼓』を披露する。教室には何しにきていたのかわからないような湯河原だったが、彼も来年からはコーチをやることになったという。不器用な彼ら(優は最初から器用だったけどね)だったが、五月の言ったとおり「みんな、本気でなんとかしたいって思って」いて、本当になんとかしたのだった。

最後は達也を追いかけるようにして五月が水上バスに乗り込んできて、言わないと一生後悔する気がすると、ほおずきがうれしかったことを告げる。いらないと言い張っていたほおずきを、達也が買って五月の家に届けてやっていたのだ。2人が結ばれる結末は予想どおりにしても、ここまではっきりとした意思表示を五月が見せるとは思いもしなかった。ということは『饅頭こわい』を『火焔太鼓』にしたのにも、同様の意味があったということか。ずっと練習していた『饅頭こわい』ではなく、達也が悩み苦しんでいた『火焔太鼓』を五月も一緒になって演じたかったのだ。

一方的に五月に攻勢をかけられてしまっては、達也が心配になるが、『火焔太鼓』を30点評価にして「『饅頭こわい』はどこに行った」と切り返すあたり、さすがにそれはわかっていたらしい。で、「ウチにくるか、祖母さんがいるけどな」となる。

もっとも、そこまでわかっているなら、達也がもう少し気をきかせてやってもよかったような。じゃないか、五月が自分で意思表示することが1番大切なことだと、達也にはわかっていたのだよね(そういうことにしておこう)。

しかしくだらないことだが、達也が豊島区の家を出ると、次には江東区の水上バスに乗っているというのがどうもね。深川図書館や水上バスが出てくる風景は、私にとっては日常の延長線のものだからそれだけでうれしいのだが、だからよけい気になってしまうのである。

  

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:平山秀幸 プロデューサー:渡辺敦、小川真司 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎、藤島ジュリーK.、奥田誠治、田島一昌、渡辺純一、大月昇 原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』 脚本:奥寺佐渡子 撮影:藤澤順一 美術:中山慎 編集:洲崎千恵子 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ゆず『明日天気になぁれ』 照明:上田なりゆき 装飾:松本良二 録音:小松将人 助監督:城本俊治 落語監修・指導:柳家三三、古今亭菊志ん

出演:国分太一(外山達也/今昔亭三つ葉)、香里奈(十河五月)、森永悠希(村林優)、松重豊(湯河原太一)、八千草薫(外山春子)、伊東四朗(今昔亭小三文)、占部房子(実川郁子)、外波山文明(末広亭の師匠)、建蔵(今昔亭六文)、日向とめ吉(今昔亭三角)、青木和代(八重子)、下元史朗(十河巌)、水木薫(十河みどり)三田村周三