ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

監督・ばんざい!

銀座テアトルシネマ ★☆

■壊れてます

ヤクザ映画を封印した「馬鹿監督」(とナレーターに言わせている)のタケシが、それならといろいろなジャンルの映画に挑戦する。小津映画、昭和30年代映画、恐怖映画、時代劇にSF映画(他にもあったか?)。それぞれにまあまあの時間をとり、配役もタケシの力かそれなりに凝ったものにしてあるが、ちっとも面白くない。

いろいろなパターンを見せてくれるから飽きはしないのだが、笑えないのだ。映画をジャンル分けで考えていること自体そもそもどうかと思うのだが、それを片っ端からやって(ある意味では偉い!)否定してみせる。でもこの発想はあまりに幼稚で、観ているのがいやになってしまう。その否定の理由も、「何故女が男に尽くす映画ばかりなんだろう」とか「またギャング(ギャグではない)が出てきてしまった」とかいったもので(これもナレーターに言わせているのだな)、まともな批評になっていないのだ。批評になっていないのは自分の作品まで引っ張り出してしまっているからだろうか。

わずかに『コールタールの力道山』(劇中映画の1つ)に、『三丁目の夕日』の懐古趣味の甘さは耐えられないと言わんばかりの切り口があるが、他はひどいものばかり。特に小津映画を真似たものなんて見ちゃいられなくって(だいいち、あんな昔の映画に今頃何を言いたいのか)、これって大学の映研レベルではないかと。

で、何をやってもうまくいかないでいたのだが(いや、現実にそうなっていた?)、詐欺師の母娘が東大泉という得体の知れない人物に近づくという話だけは、どんどん進行していって……なんだけど、これがどこにもない映画なの。東大泉の秘書との恋や、何でもありの井手博士展開って、奇想天外というより安直なんですが。そりゃ面白いでしょ、タケシは。大金使って遊んでるだけなんだもの。だから「監督・ばんざい!」なのか。

最後のオチも最低。流れ星が光に包まれて爆発。全員が吹っ飛ぶと「GLORY TO THE FILMMEKER」というタイトルが表れる。これはタケシの妄想だったらしいのだ。先生にどうですか、なんて訊いていて、壊れてますという答えが返ってくる。やれやれ。自分で言うなよな。

巻頭で、タケシは等身大の人形を持って登場するのだが、この人形は何なのか。タケシでなく、人形が病院で診察を受けCTスキャンに入るのだが、まったく意味不明。もちろん勝手な解釈でいいというなら適当にデッチ上げることは出来る(いつもしてることだけど)。例えば、タケシは観客が自分のことをちゃんと見ているはずがなく、人形に置き換えてもきっと誰も気付くまいと思っているのだ、とか。あるいは、人形という分身を持ち歩かないではいられないと訴えたいのだ、とか。

でも、それもそこまでで、よーするにこねくり回してでも何かを書いておきたいという気になれないのよね。

  

2007年 104分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル、オフィス北野

監督・脚本:北野武 プロデューサー:森昌行、吉田多喜男 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 衣裳:岩崎文男 編集:北野武、太田義則 音楽:池辺晋一郎 VFXスーパーバイザー:貞原能文 ラインプロデューサー:小宮慎二 音響効果:柴崎憲治 記録:吉田久美子 照明:高屋齋 装飾:尾関龍生 録音:堀内戦治 助監督:松川嵩史 ナレーション:伊武雅刀

出演:ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、宝田明、藤田弓子、内田有紀、木村佳乃、松坂慶子、大杉漣、寺島進、六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、蝶野正洋、天山広吉

素晴らしき休日

銀座テアトルシネマ ★★☆

■畑の中の映画館

『監督・ばんざい!』の上映前にかかった短篇。カンヌ映画祭60周年を記念して、35人の映画監督に映画館をテーマに持ち時間3分で短篇の依頼があって作られたものらしい。

田舎の畑の三叉路にあるヒカリ座という映画館に1人の男(モロ師岡)がやってくる。ちょっとうっかりしていて定かではないのだが、男は「農業1枚」(こんなこと言うかな)と言って切符を買う。ちなみに映画は『Kids Return キッズ・リターン』で料金は大人500円、学生400円、子供200円。農業はいくらなんだ。

上映となるが、すぐにトラブルがあって、映写技師(北野武)がちょっと待ってくださいと言う。が、タバコ数本分は待たされてしまう。しかしどうでもいいのだが、この映画館のボロさはただ者ではないのだな。朽ちかけた椅子もあるし。で、再開されるのだが、今度はフィルムが焼けてしまう(いまだに可燃フィルム?)。男も怒るでもなく、犬にパンなどをやっているのだ。

「はい、いきまーす」のかけ声で映画がまた始まる。

私は観ていないからわからないのだが、多分『Kids Return キッズ・リターン』がそのままかかっていて、「俺たち終わっちゃったのかな」「まだ始まっちゃいねえよ」という場面が映る。

外はもう夕方になっていて、男が1本道を画面の奥に向かって帰って行く。

これだけの映画(3分だからね)だが、タイトルが『素晴らしき休日』ということは、男は十分満足して帰ったということなのか。映画がよっぽど素晴らしかったのか。ってそれだと自画自賛だけど、客1人のために映画を上映するというのがなんだかいい。客の方も映画を観にとぼとぼとやってきたわけで。

むふふ映画館もこんな畑の中に作ればよかったかなー、と思ってしまったのだな(まったく気が多い)。んで、私も短篇を作って客に強制的に観せてしまうというのはどうかな、と。こういう短篇は妄想がふくらむから、幸せな気分になれる。

2007年 3分 ビスタサイズ

監督:北野武

出演:モロ師岡、北野武