ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

女帝[エンペラー]

有楽座 ★★☆

■様式美が恨めしい

『ハムレット』を基に、唐王朝崩壊後の五代十国時代の中国に移し替えた作品ということだが、話自体にかなり手を入れていることもあって、印象はまったく違うものとなった。

皇太子ウールアン(ダニエル・ウー)の妻だったのに、どうしてか彼の父の王妃となっていたワン(チャン・ツィイー)は、王の謎の死で、今度は新帝となった王の弟リー(グォ・ヨウ)のものとなる。ウールアンからすると、父と叔父に妻を取られるという図である。

「そちを手に入れたから国も霞んで見える」とリーに言わせるほどのワンではあるが(傾国の美女ってやつね)、この設定はいただけない。チャン・ツィイーを主役にするための『ハムレット』の改変だが、恋人だったウールアンを救うためにワンがリーの妻になるというのがはじまりでは、観客はもう最初からどうにでもなれという心境になる。話をいたずらに込み入らせるばかりで、気持ちの整理がつかなくなると思うのだが。

ワンが妻から義理の母になったことで、ウールアンは呉越で隠棲し、ただ歌と舞踏の修行に打ち込んでいたらしいのだが、兄を殺害(死の真相)したリーは、魔の手をウールアンにも差し向ける。

ウールアンの修行の地で繰り広げられる、舞踏集団とリーの送り込んだ暗殺団とのアクション場面は、舞踏集団の白面に白装束の舞が戦闘場面とは思えぬ優美さを演出するのだが、しかしやはりそれは舞踏にすぎないのか、暗殺団の手によって次々と命を落としていく様は、その美しさが恨めしくなるほどだ。彼らが積んできた修行の結果のその舞は、ほとんど何の役にも立たないのである。そして、それは皮肉なことにこの映画を象徴しているかのようである。

衣装や宮殿の豪華さを背景に、ワイヤーを多用した様式化された映像は、最近では多少鼻についてはきたものの息を呑むような仕上がりになっている。が、肝腎のドラマが最後まで機能していないのだ。

都に戻ったウールアンはワンに再会したのに「父上のお悔やみを言うべきか、母上にはお祝いを言うべきか」などと皮肉をいう始末。ウールアンにしてみればワンの行動が自分の安全と引き換えになっているなどとはとても思えない(現に暗殺されそうになった)から当然なのだが、でもここまで言ってしまうとちょっとという気になる(ここで演じられるワンとウールアンの舞踏?も物語と切り離して見る分には素晴らしいのだけどね)。

王妃の即位式でのウールアンの当てつけがましい先帝暗殺劇に、拍手を贈る裏でまたもウールアンの暗殺をもくろむリー(しかしここはそのまま人質交換要員として送り出してしまった方がよかったのではないか)。ワンはウールアンの許嫁チンニー(ジョウ・シュン。これがオフィーリアになるんだろうか)の兄イン・シュン将軍(ホァン・シャオミン)に、暗殺の阻止とリーへの偽りの報告をさせ、自らは毒薬を手に入れ、夜宴の席でリーの盃に注ぐ。

これがチンニーの死を招くことになってしまうのだが、真相を知ったリーは「そちが注いでくれた酒だ。飲まぬわけにはいくまい」と自ら毒杯を仰ぐ。ここもワンへのリーの想いがここまでになっていたことを表す場面なのだが、そういう気持ちに入り込むことより、ここに至るお膳立ての方ばかりに目が行ってしまうのだ。リーがワンの復讐心に気付かなかったのは不思議でもあるが、しかしそう思いなおしてみるとワンの復讐心がきちっと描かれていなかった気もしてくる。

といってワンに復讐心ではなく権力欲があったとも思えないのだが、チンニー、リー、ウールアン、イン将軍と、あれよあれよという間に登場人物がどんどん死んでいって、女帝陛下ワンが誕生することになる。これはワンが望んでいたものではなかったはずだが、欲望の色である茜色が好きで「私だけがこの色に燃えて輝く」などと言わしているところをみると、案外そうでもなかったのか。

しかしそのワンも、その言葉を口にしたとたん、やはり誰かに殺されてしまうのである。映画は額に血管の浮き出たワンの表情を捉えるが、殺した者を明かすことなく終映となる。しかし、ここのカットだけ長くして彼女の気持ちを汲み取れと言われてもなー。それに、チャン・ツィイーは今回ちょっと見慣れぬ化粧(時代考証の結果?)ということもあって、この最後の場面はともかく、表情とかよくわからなかったのね。

 

原題:夜宴 英題:The Banquet

2006年 131分 シネスコサイズ 中国、香港 PG-12 日本語字幕:水野衛子 字幕監修:中島丈博 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:フォン・シャオガン[馮小剛] アクション監督:ユエン・ウーピン[袁和平] 撮影:レイモンド・ラム 美術・衣装デザイン:ティミー・イップ[葉錦添] 音楽:タン・ドゥン[譚盾]

出演:チャン・ツィイー[章子怡](ワン)、ダニエル・ウー[呉彦祖](ウールアン)、グォ・ヨウ[葛優](リー)、ジョウ・シュン[周迅](チンニー)、ホァン・シャオミン(イン・シュン将軍)、リー・ビンビン、マー・チンウー、チン・ハイルー