善き人のためのソナタ

シネマライズ(地下) ★★★★

■監視しているだけではすまなくなった男の物語

東独崩壊の5年前(1984年)から始まる国家保安省(シュタージ)という秘密警察・諜報機関にまつわる映画だが、監視という低俗かつスリリングな部分の興味だけでなく(これだけでも十分面白いのに)、物語としての工夫もちゃんとあって、堪能させられた。

国家保安省のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は上司のグルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)に劇作家で演出家のゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の盗聴による監視を命じられる。そもそもドライマンの監視に対しては、彼はシロだから墓穴を掘ることになると乗り気でなかったグルビッツだが、ヘムプフ大臣の人気女優でドライマンの同棲相手でもあるクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)狙いという思惑で、急遽実行に移されることになる。

この屋根裏での盗聴を通して、体制派だったヴィースラーが、何故か次第にドライマンとクリスタの2人を擁護する行動に出る、というのが映画の見所になっている。盗聴者のできることなど、限られているはずなのだが……。

ここで効果を上げているのがヴィースラーの無表情だ。彼がどうして、あるいはいつ、そういう気持ちになったのかはもうひとつよくわからないのだが、彼の内面が見えにくいことが薄っぺらな理解を排除しているし、ついでに心変わりを推理する楽しさまで提供してくれているのである。

車に誘い込み強引に関係を結んだクリスタを目撃させるために、ベルを誤作動させてドライマンをアパートの下に向かわせるとは、まったくいけすかない大臣の考えそうなことだが、ヴィースラーもこの時点では、単純にこれから起きる事件を面白がっていたようにみえる。

イェルスカという今では目を付けられて干されている演出家がドライマンに贈ったブレヒトの本をヴィースラーが持ち出して読んでいるのはそれから間もなくのことで、さらにこれもイェルスカが贈った楽譜「善き人のためのソナタ」を弾くシーンでは「この曲を本気で聴いた者は悪人になれない」という説明がつく。しかしその直前に、ヴィースラーは本の贈呈者イェルスカの死(自殺)を聴いている。音楽が変節の契機になるというのは話としては出来すぎで、だから私は本とイェルスカに影響を受けたのだと判断した(もちろん、それだけでなくドライマンを取り巻くいろいろな事柄からなのだろうが)。

事情を知ったドライマンと、大臣の所に行こうとするクリスタとで口論になるのだが、ヴィースラーの盗聴は部下のライエ軍曹との交代時間になってしまう。ヴィースラーはいても立ってもいられなくなり(観客も同じ気持ちにさせる)、近くのバーで飲み始めるのが、そこにクリスタがあらわれる。クリスタを翻意させるのに使った「あなたのファン」という言葉は、観ている時には方便なのだろうと思ったのだが、今となってみるとファンというのは本当だった可能性もある。

次の日、「いい報告書だ」と交代するライエを褒めるヴィースラー。そこには「クリスタが戻り、ドライマンは喜びに包まれ激しいセックスが続いた……新しい作品を生む創作意欲が……」と書かれていた。

イェルスカの自殺も大いに影響したのだろう、ドライマンは東ドイツで多発している自殺についての文章を書き、西側の雑誌に匿名で発表する。この時盗聴の有無を調べようとして、ドライマンたちがガセネタを流して当局の動きを知ろうとする場面があるのだが、ここでもヴィースラーは、今日だけは見逃してやるなどと言っているのだ。しかし、その一方でドライマンたちの行動に不審を感じたライエに、彼らは台本を書いているだけだと言いくるめ、余計な詮索をしないよう釘を刺す。

薬物を常用しているクリスタは、その入手にかかわって捕まり、脅かされ、雑誌の記事はドライマンが書いたことを認めたため、家宅捜査となるが、何も見つけられずに終わる。盗聴しながら見破れなかったヴィースラーの立場は悪くなるが、優秀な尋問者だった彼にはチャンスが与えられる。

尋問で対面したヴィースラーのことをクリスタが覚えているかどうかという興味もあるが、それには触れることなく、ヴィースラーは証拠のタイプライターの隠し場所をききだすことに成功する。が、なんとそれを持ち出してしまう。彼に先回りする時間があったのはおかしい気もするが、とにかくドライマンは罪を問われずにすむ。が、自責の念にかられたクリスタは、ふらふらとアパートから外に出たところで車に轢かれてしまう。

ヴィースラーにも疑惑は向けられ、地下室での郵便物の開封作業が彼の仕事となる。これから20年という脅しはあったが、彼への疑惑が曖昧なままですんでしまったのは、クリスタの死で大臣の興味が他に移ってしまったからだろうか。

このあとは5年後にベルリンの壁が崩れ、ドライマンがある舞台で大臣に会い、盗聴の事実を知るくだりへと進む。盗聴が本当なら彼が無事なはずはなく、そのことは当人が1番よくわかっていることなのだ。しかし、大臣は監視を認め、アパートの電灯スイッチを調べればわかることだと言う。そして、さらに情報公開されたファイルをめくるうちに、ドライマンは「彼の単独行動は信用するな……昇進はやめ、M室の勤務に……」という男の存在を知ることになる。

ドライマンは男を捜し出すが結局声をかけることなく、今度はさらに2年後に、郵便配達中のヴィースラーが、劇作家ドライマンの新作の広告を目にすることになる。彼が書店で『善き人のためのソナタ』という本を手にし、表紙をめくるとそこには……。

店員に贈答ですかときかれ、いや私のための本だ、と答えるヴィースラーがちょっと誇らしげになるのだけれども、それをうれしく感じてしまった私は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督(脚本も)にしてやられたことになる。

先にヴィースラーの変節はイェルスカの影響が大きいのではないかと書いたが、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』の中では、それはきっと曲の演奏になっているのではないか。まあ、どうでもいいことなんだけど。

繰り返しになるが、やはりこの映画ではヴィースラーの描き込みが素晴らしい。彼は巻頭では、尋問の教官として生徒に自分の尋問風景を撮影したものを見せている。生徒のひとりがそれをあまりに非人道的と発言すると、その生徒の名前にチェックをするような男なのだ。

また自宅に娼婦を呼んでいる場面もある。娼婦にもう少しいてくれとヴィースラーは言うのだが、彼女は時間厳守だと帰ってしまう。これだけの場面なのだが、表情を変えない彼の孤独感がよく出ていた。表情を変えないからかどうか、子供にはシュタージの人で、友達を刑務所に送る悪い人だとも言われていたが、彼は傷ついていたのだろうか。そういえば、これはソナタを聴いたあとのことだったが……。

【メモ】

第79回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞受賞

原題:Das Leben der Anderen(他人の人生)

2006年 138分 シネスコサイズ ドイツ 日本語字幕:古田由紀子 監修:高橋秀寿

監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 製作:クイリン・ベルク、マックス・ヴィーデマン 撮影:ハーゲン・ボグダンスキー 衣装:ガブリエル・ビンダー 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
 
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)、ウルリッヒ・トゥクール(グルビッツ部長)、トマス・ティーマ、ハンス=ウーヴェ・バウアー、フォルカー・クライネル、マティアス・ブレンナー

シネセゾン渋谷 ★☆

■共有できない「意味」

去年公開の『LOFT ロフト』に続く黒沢清監督作品。『LOFT ロフト』もだが、この映画も私の理解を超えていた。

東京湾の埋立地で身元不明の女の他殺死体が発見される。担当刑事の吉岡(役所広司)は、捜査現場で赤い服を着た謎の女(葉月里緒菜)を見る。そして、同様の手口(わざわざ埋め立て地に運び海水を飲ませる)と思われる殺人事件が次々と起きるのだが、手口以外の共通点が見つけられぬうち、思わぬ容疑者が浮上する。

映画は初めのうち、吉岡がいかにも犯人かのような証拠(コートの釦や指紋など)を提示し、同僚の宮地(伊原剛志)に疑わせ、そして吉岡自身もその証拠に困惑するという手の込んだことをしてみせるのだが、これは観客をわざと混乱させるだけのものだったらしい。

本人が知らないうちに犯行を重ねていたというのは、この手の話にはありがちにしても、きちんと向き合うのであれば、それは何度作られてもいいテーマだろう。なのに、ここではそれが、ただの飾りか混乱の道具にしかなっていないのである。

もっとも事件が吉岡とまったく無関係かというと、さすがにそんなことはなく、連続殺人の調べが進んで、吉岡の過去とも繋がりのあることがわかってくる。が、それは15年も前のことで、何故今頃という気もするのだが、一応説明すると次のようになる。

吉岡は湾岸航路を使って通勤していたことがあり、その途中にある、戦前には療養所だった黒い建物(アパート)の中にいた女(赤い服の女)と目が合っていたというのだ。療養所は元の収容者たちが住み着いていて、そこでは規律を守らないと洗面器に海水を入れ窒息するまで体罰をしていたという噂があったとも。しかしその噂を吉岡が知ったのは最近のことなのだ(風景と同じように忘れてしまっていただけなのかもしれないが)。

赤い服の女(といったって幽霊なんだが)の言い分はこうだ。「ずーっと前、あなたは私を見つけて、私もあなたを見つけた……それなのに、みんな私を見捨てた」と。目が合っただけなのに。言いがかりもいいとこで、女の勝手な思い込みなのに。しかも1対1の関係を強調しているようで、何故か「みんな」になってしまっているのだ。で、その「みんな」というのが、他の被害者(同じ航路を利用していた)なのだろう。

この女の指摘は一方的で怖いが、確かに人間関係のある側面を捉えてはいる。個別の人間が行為や言葉を、本当に同じ意味で共有できるかどうかは、考え出すと途方もなく大きな問題だからだ。

しかし、後になって吉岡がその建物に行ったことで、女は吉岡に「やっと来てくれたのね。あなただけ許します」と言うのである。他の被害者たちとの差はここ(元療養所)へ来てくれたことだけなのか。「できることがあった」と言っていたのは、そんなことだったのか。女にとっては、それだけで許せてしまうのか。それとも許されることで背負うことになる罪を描いているのか。死ならば「すべてなしに」もできるが、許されてしまうとそうはならなくなるというのか。

ところで映画は吉岡のプライベートな部分の描写で、春江(小西真奈美)という存在を最初から登場させている。彼女と吉岡は恋人以上の関係で、吉岡は春江を信頼しきっているようなのだが、春江はいつも吉岡には距離おいているのか、時間がないとか言ったりで、どこかよそよそしい。しかしそれなのに、ふたりだけになれるからと海外へ誘った吉岡は、逆に搭乗口で春江ひとりを行かせてしまうのだ。

平行して語られていたこの春江が実はやはり幽霊で、吉岡は半年前に恨まれるような何かしたらしいのだが、それは明らかにされない。ここでも同じように見て見ぬ振りをすることはできない、というような関係性が問われているようなのだが、でも、また春江も吉岡を許すのである(吉岡もどうして俺だけが、と言う)。いや、春江は最初から許していたのではなかったか。が、赤い服の女とは対極にいるような春江も、最後には叫んでいた。何を叫んでいたのかはわからないのだが。

で、さらにわからないのは洗面器に宮地が引っ張り込まれてしまうことだ。この場面は確かにすごいのだけど、でも何にもわからない。なんで宮地なんだ。「私は死んだ。だからみんなも死んでください」って何なのだ。

また、何の役にも立たない精神科医(オダギリジョー)や、反対に吉岡の案内役になる作業船の男(加瀬亮)も、すべてが思わせぶりなだけとしか思えない。赤い服の女の描写も好きになれなかったし、彼女が登場する時に起きていた地震も何だったのだろう。

すべては私の勘違いなのかもしれないのだが、だからってもう1度観直す気分にもなれない。それに、ここまでわかりにくくすることもないと思うのだが。何だかどっと疲れてしまったのだな。

2006年 104分 ビスタサイズ 

監督・脚本:黒沢清 プロデューサー:一瀬隆重 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉、小谷靖、千葉龍平 撮影:芦澤明子 特殊効果:岸浦秀一 美術:安宅紀史 編集: 高橋信之 音楽:配島邦明 音楽プロデューサー:慶田次徳 主題歌:中村中『風になる』  VFXスーパーバイザー:浅野秀二 照明:市川徳充 特殊造型:松井祐一 録音:小松将人  助監督:片島章三

出演:役所広司(吉岡登)、小西真奈美(仁村春江)、葉月里緒菜(赤い服の女)、伊原剛志 (宮地徹)、オダギリジョー(精神科医・高木)、加瀬亮(作業船の船員)、平山広行(若い刑事・桜井)、奥貫薫(矢部美由紀)、中村育二(佐久間昇一)、野村宏伸(小野田誠二)