イカとクジラ

新宿武蔵野館 ★★★★

■この家の子だったらたまらない

1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。

冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。

共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。

バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。

子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。

悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。

「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。

最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。

(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。

 

【メモ】

オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。

原題:The Squid and The Whale

2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
 
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー

硫黄島からの手紙

新宿ミラノ1 ★★★

■外国人スタッフによる日本映画

この作品が第二次世界大戦における硫黄島の戦いを描いた2部作で、アメリカ側の視点である『父親たちの星条旗』と対をなす日本側の視点を持つ作品であることは当然わかってはいたが、タイトルまでが日本語で出てきたのには驚いた(向こうの公開時ではどうなのだろう)。ついでながら『父親たちの星条旗』は特異な作品だから、この作品と合わせ鏡になることはない。つまり、こちらは表面的には普通の作品となっている。

スタッフはすべてアメリカ人(日系の脚本家などはいるが)ながら、俳優はともかくとしてセリフまでが日本語というのは、これまでのアメリカ映画から考えると画期的だ(『SAYURI』にはそういう面が少しあった)。どこの国の話でも英語のまま作ってしまう無頓着さにあきれていたからだが、しかし例えば日本の映画会社が日露戦争や日中戦争などを、相手国の視点で、しかも劇映画(興行としては少なくとも赤字であってはならない)で撮ろうとすれば、それが相当困難だという結論にすぐ達するはずである。

そして、内容的にも日本人の心情をかなり代弁してくれているという、心憎いものとなっている(日本のマーケットがあるからという発想もあったか)。多用された回想部分はクリント・イーストウッド監督らしからぬ情緒的なものが多いので、日本人が作ったといわれても違和感がないくらいなのだ。

気になる部分をしいて上げるなら、アメリカ留学経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)とロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリストの西竹一中佐(伊原剛志)が共に西洋かぶれだということぐらいか。もちろんそんなふうには描かれていない。少し意地悪く言ってみただけだ。敵を知る人間が日本にもいたというところか。逆に、ほとんどの兵は敵を知らずに戦っていたのだと、映画は繰り返していた。

そして、だからこそ最後に天皇陛下万歳と叫びながら玉砕する栗林中将の姿に、複雑な思いが交錯することになる。ただ、西中佐が馬を連れて硫黄島にやって来ているというのは、どうもね。馬が可哀想だし、他に運ぶべきものがあったのでは、と思ってしまうからだ。

そうはいっても栗林中将を中心とした守備隊の上層部の視点だけでなく、西郷(二宮和也)や清水(加瀬亮)といった一兵卒に目が向けられているのは、映画を2部作としてアメリカ側と日本側から描いたのと同じ配慮だろう。とくに西郷にはかなりの時間を割いていて、彼が着任早々の栗林の体罰禁止令によって救われ、2度、3度と接点を持って最後の場面に至るあたりは映画的なお約束となっている。映画は2005年に硫黄島で大量の手紙が発見される場面ではじまるが、映画の中では手紙を書くのは西郷と栗林の2人で、そういう意味でも2人が主役ということになるだろうか。

もちろん一兵卒の西郷に劇的なことなどできるはずもなく、穴掘りに不満をぶつけ、内地に残してきた身重の妻に思いを馳せる場面にしかならないが、絶望という地獄の中で生き続けようとする彼の姿(見方を変えると自決も出来ず、投降も辞さない愛国心のない頼りない男ということになる)をなにより描きたかったのだろう。

対して栗林は、着任早々旧来の精神論的体制を合理的なものに改め、戦法も水際に陣地を築くというやり方から島中に地下壕を張り巡らせるという方法をとるなど、指揮官故に見せ場も多い。もっとも無意味な突撃や自決も禁じたため、西中佐のような理解者も現れるが、古参将兵からは反発を買うことになる。

伊藤中尉(中村獅童)がその代表格で、アメリカの腰巾着で腰抜けと栗林を評し、奪われた摺鉢山を奪還するのだと、命令を無視して逸脱した行動に出る。が、無謀なだけの精神論でそれが果たせるはずもなく、最後はひとり死に場所を求めてさまようのだが、ここらあたりから自分が何をしているのかわからなくなっていく。

おもしろいことに映画の描き方としてもここは少しわかりにくくなっている(これは嫌味)のだが、西郷と同じところに配属されてきた元憲兵の清水の運命と考えあわせると、ここにも戦争(に限らないが)というものの理不尽さをみることができるだろう。捕虜を殺してしまう米兵、自決が強要される場面や西中佐が米兵の手紙を読む挿話など、すべてがその理不尽さに行き着く。

しかし実をいうと、2部作としての意義は認めるものの、私には凡庸で退屈な部分も多い映画だった。そして『父親たちの星条旗』と同じく、この作品でも(つまり両方の作品を観ても)硫黄島の戦いの全貌がわからないという不満が残った。もちろんこれはイーストウッドと私の興味の差ではあるが、できれば情緒的な挿話は少し減らしてでも、客観的事実を配すべきではなかったか。そのことによって日本兵のおかれていた立場の馬鹿馬鹿しさが際だったはずだし、画面にも緊迫感が生まれたと思うからだ。

 

【メモ】

「家族のためにここで戦うことを誓ったのに、家族がいるからためらう」(西郷のセリフ)

原題:Letters from Iwo Jima

2006年 141分 シネスコ アメリカ

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ポール・ハギス 原作:栗林忠道(著)、吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
 
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(バロン西/西竹一中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)、裕木奈江(花子)