華魁

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■思いつくままといった筋。喜劇として観るにも無理がある

明治中期の長崎の遊廓が舞台だからか、客には外人の顔も見える。華魁の揚羽太夫(親王塚貴子)は、絵草紙売りの喜助(真柴さとし)といい仲で、八兵衛(殿山泰司)のような客にはつれない。まー殿山泰司だからねー、って失礼だ。でも久しぶりに観たけれど、この人は何をやっても三文役者。芝居しているように見えないのだな。他の出演者も揃ってひどいんだけどねー。

この遊郭に彫物師の清吉(伊藤高)という男が、究極の肌を求めて流れて来る。美代野(夕崎碧)の背中に惚れ込んだ清吉は、美代野にクロロホルムをかがせると店には居続けだと言って3日間も籠もりっきりになり、全身に蜘蛛の刺青をしてしまう。

知らぬ間に刺青を彫られた美代野だが「これがあたしの背中かい、なんて綺麗な」と、怒るでもない。「色あげ」と称して湯殿に連れて行かれ湯をかけられ、痛みにのたうちまわるが、苦しみを忘れたいから抱いてくれなどと言う。

一方の清吉は、湯殿で菖蒲太夫の肌を見るや、俺がほんとに求めていたのはこの肌なんだと、もう心変わり。理想の肌が見つからなくて長崎まで来たはずなのに、これでは手当たり次第ではないか。もちろん脚本がいい加減なのだが、思いつきで話をつくっていったとしか思えない展開なのだ。

美代野は刺青が評判となり地獄太夫として売り出すが、北斎の絵草紙で捕まりそうになった喜助は、菖蒲太夫とアメリカに逃亡する計画を立てる。が、密航の段階で現れた清吉に喜助は殺され、菖蒲太夫も膝に怪我をする。そのまま貨物船に乗せられる菖蒲太夫だが、行き先はアメリカではなく横浜で、アメリカ人の船員にチャブ屋に売り飛ばされそうになる。が、膝の傷に喜助の顔が現れると、船員は悪魔だと叫んで逃げ出してしまう。

どこに行っても体を売るしかないと最初からあきらめているのか、膝の喜助に「いつもお前と一緒だとみんな逃げてしまうだろ。どうやって生きていけるだろ。姿を消して」「私の体は切り売りしても人の女房にはなりません」とたのんで消えてもらう。

客のひとり、ニューヨークの富豪の息子ジョージ・モーガン(アレン・ケラー)は菖蒲太夫に一目惚れし、結婚を迫る。逡巡していた菖蒲太夫だが、結局は結婚を承諾する。が、「この瞬間から私はあなたの妻」と菖蒲太夫が言った(誓いを破った)ことで、今度は彼女のカントに喜助が現れる。それがジョージのペニスに噛みついたことから、神父を呼んでの悪魔払いの儀式となる。

役に立たないと神父には、呼んでおきながら異教徒だからダメと言い、喜助には「私はあなたを愛しています。あなたが魔性になって、私が死んでそっちへ行くまであの世で待っていてください」と言いきかせる菖蒲太夫。

これで、また消えてしまう喜助もどうかと思うのだが、とにかく筋はあってなきがごとし。性描写が適当に散りばめられれば、何でもよかったとしか思えない。その性描写もハードコア大作とはいうものの、えらく退屈だ。郭の場面で5組の部屋を順番に覗いてみせたり、巻末にも浮世絵にそった場面を用意したりしているが、なにしろ主演の親王塚貴子の大根ぶりが度を超していて、よくこれで商売になったものだと呆れるばかりだから、とてもそんな気分になれない。

武智鉄二は武智歌舞伎(知らん)でも名を売っていたから、背景としてはぴったりだったのだろうが、だからといってそれが活かされていたとは到底思えない。武智らしさがあったとすれば、ジョージをはじめて遊郭に連れてきた友人のエドに「心配するな、治外法権だから何をしても罪にならない」というセリフを言わせていることくらいだろうか。

公開20年後だから笑っていられるが、新作でこれを観せられたら腹が立ったと思う。

 

【メモ】

彫物師の清吉役の伊藤高は伊藤雄之助の息子とか。しかし彼もヘタだ。

揚羽太夫に「客は傷ついた心の傷を菩薩の私に求めてくる」と言い聞かせられて、「今から菖蒲は生まれ変わります。増長していました」と反省する場面がある。

遺手のお辰(桜むつ子)が「えーお披露目でござい。あんたーじごくだえはー。えーお披露目でござい」と口上?を述べながら先導していく。「じごくだえはー」と聞こえるが地獄太夫と言っているのだろう。

密航場面では荷物の中での放尿シーン(これは観客サービスのつもり?)があり、またそれをあたまからかぶってしまうところも。

このあと喜助の人面疽が現れる。この合成画像も20年前とはいえ、えらく雑なもので、喜助は額を真っ二つに割られた顔になっている。この時は菖蒲太夫も「あたしを見捨てないでアメリカまでついてきてくれたのかい。もうずーっと一緒だものね」と喜んでいたのだが。

1983年 103分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 原作:谷崎潤一郎  撮影:高田昭 美術:長倉稠 編集:内田純子 音楽:宮下伸 助監督:荒井俊昭 主題歌:徳原みつる
 
出演:親王塚貴子(菖蒲太夫)、夕崎碧(美代野/地獄太夫)、明日香浄子(山吹)、宮原昭子(千代春)、真柴さとし(喜助)、川口小枝(揚羽太夫)、伊藤高(清吉)、梓こずえ(鳴門)、アレン・ケラー(ジョージ)、桜むつ子(お辰)、殿山泰司(八兵衛)

浮世絵残酷物語

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■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている

浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。

一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。

帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。

この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。

最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。

例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。

どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。

もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。

長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。

そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。

「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。

肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。

【メモ】

兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。

お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。

一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。

賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。

最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。

1968年 84分 シネスコサイズ

監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
 
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)