ユナイテッド93

新宿武蔵野館1 ★★★

■比較できないということにおいて等価なもの

結末を観客全員が知っている映画は他にもあるだろうが、この作品の場合は事件としての結末であり、同時多発テロ時にハイジャックされた4機のうち1機が、目的を果たせずペンシルヴェニア州に墜落したという、およそ劇映画の題材としてはふさわしくないと思われるものだ。確かにその時の乗客の携帯電話などから、英雄的行為があったのではないかということは報道されていたが、だからといってそれが映画になるとは思ってもいなかった。

結末を知っていることが、大きな意味を持つことは、映画がはじまってすぐ感じることだ。緊張を持続させられるのも、逆に、何も知らない乗客としてそこにいたならばという想像を働かせることができるのも、事件を知っていればこそだからで、そして、そういういくつもの視点(乗員、乗客、テロリスト、管制官……)を可能にしたつくりに映画はなっているのだ。

しかし、この映画の飛行機内(+テロリストたちの出発前の光景)の出来事はまったくの想像にすぎない。わかりきったことなのだが、あたかも事実を積み上げてつくったかのような映像が提出されているので、一応ことわりを入れておかねばという意識が働いたまでで、とはいえ、この方法は成功しているといっていいだろう。

乗客の英雄的行為は、製作者の願望でもあるだろう。が、そこで選ばれたのはヒーローではなく、生きたいと願った乗客の等価な気持ちだった。機内で自分たちの運命を知って一旦は茫然とする彼らだが、パイロットの死を知ってからは、まるで了解事項のように役割分担が決まり、操縦桿を奪還するという目的に向かって、生きたいと願う、その部分においては等価な気持ちが発露されることになる。

一方で、映画はテロリストの行動を丁寧に追うことも忘れない。そして何とも虚しくなるのは、テロリストの祈りと乗客の祈りが、それぞれの神に向けられることだ。祈りにどれだけの差があるのだろう。比べることが出来ないということにおいて、これまた等価といってしまっていいのではないか。ここまで言ってしまうと、製作者や被害者の家族などからは反発を食らうかもしれないのだが。

映画は事実を装った想像が重要部分を占めるが、地上部分については可能な限り事実を再現したはずである。93便が飛び立ったニューアーク空港管制塔や連邦航空管制センター、それに軍関係者の混乱ぶりが生々しい。特に目の前で世界貿易センタービルの惨状を見せつけられた空港管制塔の職員たちの驚き。この映像を目にしたのは私自身も久しいが、何度観ても釘付けになる。

空港管制塔の表示板が繰り返し映される場面からも目が離せない。アメリカ上空に4200機もの航空機が飛んでいるという事実にも驚くが、それをどの程度正確に把握して運行しているのだろうか。そのあたりの興味も尽きないが、93便の離陸が30分ほど遅れたことが結果として、乗客に世界貿易センタービルの情報を伝え、そのことが彼らを蜂起させ、ホワイトハウスは災難から免れたようだ。

そういう細部については忘れていたが、そのこととは別に、どうしても問題になるのは国防という部分で、映画もそのことについては手厳しい。

『M:i:III』で、アメリカ国内であれだけ乱暴なことをしでかしたら、アメリカ軍が黙っていないだろうと安直な脚本を批判的に書いてしまったが、ここで再現されたことが事実なら、あの部分を批判したのは間違いだったことになる。それだけ現場と上層部との距離は遠く、また現場と直結していたにしても、指揮官が自らの責任においてどれだけの裁量を揮えるのかという、初歩的で難しい問題がどこまでもついてまわるのだろう。

こういう映画を採点するのは気が引けるが、とりあえずということで。

  

原題:Flight 93

2006年 111分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本: ポール・グリーングラス 撮影: バリー・アクロイド 編集: クレア・ダグラス、リチャード・ピアソン、クリストファー・ラウズ 音楽: ジョン・パウエル

深海 Blue Cha-Cha

新宿武蔵野館2 ★★

■頭の中のスイッチを切れない女の物語

刑期を終え刑務所から出たアユー(ターシー・スー)だが、行くあてもなく、入所時に慕っていたアン姉さん(ルー・イーチン)を訪ねるほかない。アンはアユーを自分の家に住まわせ、自分の経営するクラブで働かせることにする。

「頭の中のスイッチを切れない」という心の病を持つアユーは、アンに「会うのはいいけど、好きになってはいけない」と釘をさされるが、羽振りのいい常連客のチェン(レオン・ダイ)に誘われるとすぐ夢中になり、度を超した愛情で相手を縛ろうとしてトラブルを起こしてしまう。

アンは上客を失うが、アユーには新しい仕事(電子基板の検査)を世話し、就職祝いだといってケータイまでプレゼントする。

次のアユーの恋人は仕事場の上司のシャオハオ(リー・ウェイ)だ。はじめのうちこそアユーは誘われてもシャオハオを無視していたが、彼の積極的な行動と甘いメールで、ひとたび関係を持ち一緒に住んでもいいという言葉を引き出すと、次の日にはアンと喧嘩するように彼のアパートに引っ越してきてしまう。

が、アユーは無意識のうちに相手を過剰な関係に引きずり込み、破局はあっけなく訪れる。シャオハオはチェンのような暴力男でもないし真面目な青年なのだが、世界には2人しかいないと思い込んでしまうようなアユーの気持ちは到底理解できない。アンからアユーの思いもよらぬ過去(夫を殺して服役)を明かされたこともあるが、それ以前にシャオハオにはアンとやっていけないことがわかっていたはずだ。

アユーという女の悲しさが出せればこの映画は成功したはずだ。が、残念なことにいやな女とまでは言わないが、私にはやっぱりうっとおしい女にしか見えない。アユーの心の病は薬が必要なほどだからと説明されても、それは変わらない。

変わらないのはアユーの陰の部分を見てしまっているからで、それを知らなければアユーに惹かれ、彼女を振り向かせようとしてしまうのかもしれない。そして振り向かせてしまったら、興味が半減してしまういやな男になってしまうのだろうか。

といって、映画にどう手を入れればよいのか、それは見当もつかないのだが。愛することで自制心を失い壊れてしいく女を魅力的に描くことは難しいのかもしれない。が、せっかくの題材を生かせなかったことは惜しまれる。

再びアンの元で生活をはじめるアユー。2人はある朝、旅回りの人形劇団の爆竹に起こされる。人形つかいに興味を示すアユー。そばで見守るアンに、弟も病気で自分の殻にこもるのだとそこにいる兄が話しかける。

もっとも、この出会いが再生につながるという安易な終わり方にはさすがにしていない。旅回り故の別れがすぐにやってきて、あとには「海は広大ですべてを癒す」という取って付けたような言葉が残るだけである。

こういう終わり方はとんでもなくずるいのだが、この映画の場合は、海というイメージの先にほのかにアンの存在が見えるので、ただごまかしているというわけでもなさそうだ。自分の美貌は去って久しい中年女で、クラブを経営しているとはいっても景気がよくないのか家賃を心配し、タバコと宝くじを楽しみにしているアン。掃除もしないで遊んでばかりのアユーに文句を言い、家出にも本気で怒ったくせに、でも何事もなかったかのようにまたアユーを受け入れているアン。

アユーとアンが抱き合いながら人形劇団の船を見送るシーンに、だからもっと素直に女性たちの深い愛情を感じればいいのかもしれないのだが、でもやっぱりそういう気分にはなれなかった。

これは些細なことなのだが、エンドロールの前半は、岸壁に残された人形劇の舞台で、でもいくら何でも舞台を忘れて去っていくことはあり得ないだろう。映像としては恰好がついても、これはいただけない。映画に入っていけなかったのは、こういう映像優先の姿勢が全体に見え隠れしていたせいもありそうだ。

 

【メモ】

鼓山フェリー乗り場

「僕を信じてくれ、すべてうまくいくから。シャオハオ」(アユーに送られてきたメール)。

「人生が思い通りに行かない時には、チャチャを踊ろう」(アン)。

英題:Blue Cha Cha

2005年 108分 ヴィスタ(1:1.85) 台湾 日本語字幕:■

監督:チェン・ウェンタン/鄭文堂 脚本:チェン・ウェンタン/鄭文堂、チェン・チンフォン/鄭瀞芬 撮影:リン・チェンイン/林正英 編集:レイ・チェンチン/雷震卿 音楽:シンシン・リー/李欣芸
 
出演:ターシー・スー[蘇慧倫](アユー[阿玉])、ルー・イーチン[陸奕静](アン[安姐])、リー・ウェイ[李威](シャオハオ[小豪])、レオン・ダイ[戴立忍](チェン[陳桑])