トリック 劇場版2

2006/8/6 銀座テアトルシネマ ★★★

■自虐陶酔片平なぎさショー

仲間由紀恵と阿部寛主演の人気テレビドラマを映画化(しかも2作目)したものなので、テレビも観なければ1作目の映画も知らない私には取っ付きにくいかと心配したが、そこらへんのサービスは心得ていて、まったく問題なく観ることができた(見落としもあるだろうし、劇中に散りばめられた山ほどの小ネタも相当見逃していると思われるが)。

というか、その程度の作品。いかにもテレビ的というか、どこから参加しても一応は楽しめてしまうという造りになっている。そして、くだらない話になるが、タダのテレビだったらともかく、1800円の正規料金で観たら腹が立ってしまうということも。

いや、しかし私はこういうハチャメチャな作品は好きだなー、ふざけすぎと思う人も多いだろうけどね、って、え、はい、私? うん、タダ観。はは。

自称「売れっ子」奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)だが、花やしきでの興行もクビになって家賃滞納をどうするかが目下の悩み。そこに物理学者の上田次郎(阿部寛)が、おいしい話(とも思えないのだが)を持ってくる。肩書きこそすごいが、上田が山田に頼り切りなのは、どうやらお約束のようだ。

勘違いで、上田に事件解決を依頼してきたのは富毛村の青沼(平岡祐太)という青年で、10年前に神隠しにあった幼なじみの美沙子(堀北真希)を筐神佐和子(片平なぎさ)から取り戻してほしいというもの。で、「よろしくね」教団じゃなかった「ゆーとぴあ」教団のある筺神島に乗り込んで行く。

筋はあってなきがごとし、というかどうでもいい感じ。連れ去られたというが、美佐子は筐神佐和子の実子だし(それより何故捨てたんだ?)、確かに筺神島の島民を騙す形でそこに居座ってしまったのだが、特別この教団が悪いことをしている様子もない。

奥行きのない部屋に閉じ込めて生活させていたというよくわからない話も出てくるが、佐和子は美佐子に自分の跡を継がせたくて、霊能力の素質がないものかと悩んでいたわけだし(ということは全部がインチキというのでもないのかや)、美佐子の方も昔のことを思い出し母親を受け入れる気になったというのに、佐和子は「私は汚れた人間です」と、最後は自虐陶酔路線を突っ走る。片平なぎさショーだな、こりゃ。

一応トリックとその種明かしも見せ場になっているようだが、すべて予想の範囲内のもの(それにこれは明かされた時点で陳腐化してしまうしね)。だから苦しいのはわかるのだけどね。山田の立場もなくなるわけで。それに、別のシリーズになってしまうか。

でも私としては、そんなことより、自著がブックオフに出回っていることを喜ぶ上田や、北平山市を北ヒマラヤ市と思い込んでいた山田里見(野際陽子)というお馬鹿映画であってくれることの方が喜ばしい。ただし、貧乳と巨根(両方とも変換しない。ATOKは品性があるのね)はやめた方がいいような(『トリック』は下ネタもウリらしいが)。

最後は河川敷で、ふたりの不器用なロマンス(以前?)が繰り広げられるが、あれ、山田と上田の乗っていない車が動いている!? と思ったらその横に大きく「完」の字が……。

  

【メモ】

巻頭ではヒトラーを悩ましたというイギリスの手品師ジャスパー・マスケリンを簡潔に紹介。でもそれだけ、なんだが。

筐神島は九十九里浜のかなり沖合にある(ってここは何もないところだが)。「リゾート開発に失敗し捨てられたホテルを我々(教団)が接収」したという。

山の頂上にある巨大な岩(張りぼてっぽく見える)は佐和子ひとりが1晩で海岸から持ち上げたもの。これで島民の支持を得る。トリックはこんなものにしても、その時使った袋はすぐ回収するでしょ、普通。

美佐子の「素敵な殿方」は上田なの。このシーンの他、頭が大きくなったり、腕が伸びたりするCGも。

美佐子が捨てられてから長野の富毛村(不毛村)で起きるようになった災いというは?

長野県での平成の大合併による選挙。これに山田里見が出馬。落選。対抗馬は島田洋七や志茂田景樹らだったが、誰が当選したのだったか?

2006年 111分

監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治 撮影:斑目重友 美術:稲垣尚夫 編集:伊藤伸行 音楽:辻陽

出演:仲間由紀恵 (山田奈緒子)、阿部寛 (上田次郎)、片平なぎさ (筐神佐和子)、堀北真希 (西田美沙子)、野際陽子 (山田里見)、平岡祐太 (青沼和彦)、綿引勝彦 (赤松丑寅)、上田耕一 (佐伯周平)、生瀬勝久 (矢部謙三)

ジョルジュ・バタイユ ママン

銀座テアトルシネマ ☆

■私のふしだらなさまでを愛しなさい

理解できないだけでなく、気分の悪くなった映画。なのであまり書く気がしない。

背景からしてよく飲み込めなかったのだが、適当に判断すると、次のようなことだろうか。母親を独り占めにしたいと思っていたピエール(17歳?)は、その母のいるカナリア諸島へ。そこは彼には退屈な島で、母親にもかまってもらえない(世話をしてくれる住み込み夫婦がいる)。

が、フランスに戻った父親が事故死したことが契機になったのか、母親は自分についてピエールに語り出す。「私はふしだらな女」で「雌犬」。そして「本当に私を愛しているのなら、私のふしだらなさまでを愛しなさい」と。

このあと彼女は、父親の書斎の鍵をピエールに渡したり(父親の性のコレクションを見せることが狙い? 事実ピエールはここで自慰をする)、自分の愛人でもある女性をピエールの性の相手として斡旋したりする。

というようなことが、エスカレートしながら(SMやら倒錯やらも)繰り返されるのだが、彼女が一体何をしたいのかが皆目わからないのだ。欲望の怖さを知れば、パパや私を許せるというようなセリフもあったが、それだと、ただ自分を許して欲しいだけということになってしまう。

性の形は多種多様で、自分の趣味ではないからといって切って捨てる気はないが、私にはすべてが、金持ちの時間を持て余したたわごとでしにしかみえなかった。それに息子だからといって自分の趣味(それも性愛の)を押しつけることはないだろう。

父親にしてもはじめの方で自分の「流されてしまった」生き方を後悔しながら、ピエールには「お前が生まれて私の若さは消えた、ママも同じだ」と言う。親にこんなことを言われてもねー。

最悪なのは、最後に母親の死体の横でするピエールの自慰だ。ここで、タートルズの「ハッピー・トゥギャザー」をバックに流す感覚もよくわからない。

この映画は「死」と「エロス」を根源的なテーマとするバタイユの思想を知らなければ何も理解できないのかも知れない。が、そもそも映画という素材を選んだのだから、きどった言葉をあちこちに散りばめるような、つまり言葉によりかかることは最小限にすべきだったのだ。

そして、愛と性を赤裸々に描きだすことが、その意味を問い直すことになるかといえば、それもそんな単純なものでもないだろう。扇情的なだけのアダルトビデオの方がよっぽど好ましく思えてきた。

【メモ】

巻頭は、母親の浮気からの帰りを父親が待っている場面。

アンシーは母に頼まれて自分に近づいたのではないかと、ピエールは彼女を問いつめる。

息子の前から姿を消す母。欲望が枯れると息子に会いたいと言う。

原題:Ma mere

2004年 110分 フランス ヨーロピアンビスタサイズ R18 日本語字幕:■

監督・脚本:クリストフ・オノレ 原作:ジョルジュ・バタイユ(『わが母』) 撮影:エレーヌ・ルバール

出演:イザベル・ユペール(母ヘレン)、 ルイ・ガレル(息子ピエール)、フィリップ・デュクロ(父)、エマ・ドゥ・コーヌ(恋人)、ジョアンナ・プレイス(母の愛人?)、ジャン=バティスト・モンタギュ、ドミニク・レイモン、オリヴィエ・ラブルダン