酔いどれ詩人になるまえに

銀座テアトルシネマ ★★★

■書くことにおいて選ばれし者

説明のしにくい映画は、好きな作品が多いのだけど、これはどうかな。かなり微妙。だって、やる気のない男のだらしない生活、それだけなんだもの。それにその生活は私の理解を超えたものだし。

けれど、こういうだらしない生活は、できないからではあるが、どこか憧れてしまうところがある。だからなんだろう、気分でみせるような映画なのに(そこがいいのかもね)意外と客の入りがいいのには驚いた。2005年作品を今頃公開するのは、配給会社も悩んでいたんだろうけど、ちゃんと需要はあるみたいだ。

飲んだくれては失業を繰り返すチナスキー(マット・ディロン)だが、バーで知り合ったジャン(リリ・テイラー)をはじめ、女には不自由しないようだし、ある時期などよほど運がついていたのか競馬の天才ギャンブラー「ミスタービッグホースプレイヤー」(これはジャンの言葉)となって、高級な靴と服できめまくる。

もっとも「小金を稼いだらすっかり別人」とジャンには不評で、そのせいかどうか2人は別れてしまう(形としてはチナスキーがジャンをふっていたみたいだが)。

ジャンの生き方もチナスキーに負けないものだ。先のことなど考えずにセックスにあけくれる方がいいのだろうか。理解不能なのにこんな2人がなんだかうらやましくもなってきて、やっとよりを戻したのにまた別れるときけば、それはそれで悲しくなるし、ジャンが結局は生活のために好きでもない男(競馬場でチナスキーと一悶着あったヤツじゃないか)と暮らしている場面では目をそむけたくなった。

チナスキーはローラ(マリサ・トメイ)という女との縁で金持ち連中の道楽仲間になったりもするのだが、基本的には惨めすぎる毎日の繰り返しだ。2日でいいから泊めてもらえればと家に帰れば、母は黙って食事を出してくれるが、父親にはすぐ追い出されてしまう。

こんなどん底生活でも、チナスキーには言葉があふれ出てくるらしい。ノートに、メモ帳に、紙切れに、それこそ気が付くと何かを書き綴っている姿が描かれる。凡人には書く行為はなにより苦痛を伴うし客観的な視点だって生まれてしまうから、チナスキーのような生活を送っていて、なおかつ書くというのは、信じがたいものがあるのだが、なにしろ彼には「言葉が湧き上が」ってくるのだ。

きっとチナスキーは選ばれし者なのだろう。それを自覚しているからこそ、週に2、3本も短篇や詩をニューヨークタイムズに投稿し続け、職業を尋ねられれば作家と名乗っていたのだ。なにしろ「言葉を扱う能力に自信がなくなった時は、他の作家の作品を読んで心配ないと思い直した」というんだから。なにが自信がなくなっただか。

それとも「言葉が湧き上が」ってくると言っていたのは照れなのか。自分の才能を信じ、努力を怠らなかったからの、最後の場面の採用通知なのかもしれないのだが。でも凡人の私には「愛なんていらない」と、毛虱をうつされた仲のジャンに言ってしまう部分がやっぱり気になってしまうから、選ばれし者にしておいた方が安心なんである。

これが作家の修業時代さ、と言われてしまうと、いやそうは言ってないんだけど、どうもねー。

  

原題:Factotum

2005年 94分 ビスタサイズ アメリカ、ノルウェー 配給:バップ、ロングライド 日本語字幕:石田泰子

監督:ベント・ハーメル 製作:ベント・ハーメル、ジム・スターク 製作総指揮:クリスティン・クネワ・ウォーカー 原作:チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』 脚本:ベント・ハーメル、ジム・スターク 撮影:ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド プロダクションデザイン:イヴ・コーリー 衣装:テラ・ダンカン 編集:パル・ジェンゲンバッハ 音楽:クリスティン・アスビョルンセン、トルド・グスタフセン

出演:マット・ディロン(ヘンリー・チナスキー)、リリ・テイラー(ジャン)、マリサ・トメイ(ローラ)、フィッシャー・スティーヴンス、ディディエ・フラマン、エイドリアン・シェリー、カレン・ヤング

善き人のためのソナタ

シネマライズ(地下) ★★★★

■監視しているだけではすまなくなった男の物語

東独崩壊の5年前(1984年)から始まる国家保安省(シュタージ)という秘密警察・諜報機関にまつわる映画だが、監視という低俗かつスリリングな部分の興味だけでなく(これだけでも十分面白いのに)、物語としての工夫もちゃんとあって、堪能させられた。

国家保安省のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は上司のグルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)に劇作家で演出家のゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の盗聴による監視を命じられる。そもそもドライマンの監視に対しては、彼はシロだから墓穴を掘ることになると乗り気でなかったグルビッツだが、ヘムプフ大臣の人気女優でドライマンの同棲相手でもあるクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)狙いという思惑で、急遽実行に移されることになる。

この屋根裏での盗聴を通して、体制派だったヴィースラーが、何故か次第にドライマンとクリスタの2人を擁護する行動に出る、というのが映画の見所になっている。盗聴者のできることなど、限られているはずなのだが……。

ここで効果を上げているのがヴィースラーの無表情だ。彼がどうして、あるいはいつ、そういう気持ちになったのかはもうひとつよくわからないのだが、彼の内面が見えにくいことが薄っぺらな理解を排除しているし、ついでに心変わりを推理する楽しさまで提供してくれているのである。

車に誘い込み強引に関係を結んだクリスタを目撃させるために、ベルを誤作動させてドライマンをアパートの下に向かわせるとは、まったくいけすかない大臣の考えそうなことだが、ヴィースラーもこの時点では、単純にこれから起きる事件を面白がっていたようにみえる。

イェルスカという今では目を付けられて干されている演出家がドライマンに贈ったブレヒトの本をヴィースラーが持ち出して読んでいるのはそれから間もなくのことで、さらにこれもイェルスカが贈った楽譜「善き人のためのソナタ」を弾くシーンでは「この曲を本気で聴いた者は悪人になれない」という説明がつく。しかしその直前に、ヴィースラーは本の贈呈者イェルスカの死(自殺)を聴いている。音楽が変節の契機になるというのは話としては出来すぎで、だから私は本とイェルスカに影響を受けたのだと判断した(もちろん、それだけでなくドライマンを取り巻くいろいろな事柄からなのだろうが)。

事情を知ったドライマンと、大臣の所に行こうとするクリスタとで口論になるのだが、ヴィースラーの盗聴は部下のライエ軍曹との交代時間になってしまう。ヴィースラーはいても立ってもいられなくなり(観客も同じ気持ちにさせる)、近くのバーで飲み始めるのが、そこにクリスタがあらわれる。クリスタを翻意させるのに使った「あなたのファン」という言葉は、観ている時には方便なのだろうと思ったのだが、今となってみるとファンというのは本当だった可能性もある。

次の日、「いい報告書だ」と交代するライエを褒めるヴィースラー。そこには「クリスタが戻り、ドライマンは喜びに包まれ激しいセックスが続いた……新しい作品を生む創作意欲が……」と書かれていた。

イェルスカの自殺も大いに影響したのだろう、ドライマンは東ドイツで多発している自殺についての文章を書き、西側の雑誌に匿名で発表する。この時盗聴の有無を調べようとして、ドライマンたちがガセネタを流して当局の動きを知ろうとする場面があるのだが、ここでもヴィースラーは、今日だけは見逃してやるなどと言っているのだ。しかし、その一方でドライマンたちの行動に不審を感じたライエに、彼らは台本を書いているだけだと言いくるめ、余計な詮索をしないよう釘を刺す。

薬物を常用しているクリスタは、その入手にかかわって捕まり、脅かされ、雑誌の記事はドライマンが書いたことを認めたため、家宅捜査となるが、何も見つけられずに終わる。盗聴しながら見破れなかったヴィースラーの立場は悪くなるが、優秀な尋問者だった彼にはチャンスが与えられる。

尋問で対面したヴィースラーのことをクリスタが覚えているかどうかという興味もあるが、それには触れることなく、ヴィースラーは証拠のタイプライターの隠し場所をききだすことに成功する。が、なんとそれを持ち出してしまう。彼に先回りする時間があったのはおかしい気もするが、とにかくドライマンは罪を問われずにすむ。が、自責の念にかられたクリスタは、ふらふらとアパートから外に出たところで車に轢かれてしまう。

ヴィースラーにも疑惑は向けられ、地下室での郵便物の開封作業が彼の仕事となる。これから20年という脅しはあったが、彼への疑惑が曖昧なままですんでしまったのは、クリスタの死で大臣の興味が他に移ってしまったからだろうか。

このあとは5年後にベルリンの壁が崩れ、ドライマンがある舞台で大臣に会い、盗聴の事実を知るくだりへと進む。盗聴が本当なら彼が無事なはずはなく、そのことは当人が1番よくわかっていることなのだ。しかし、大臣は監視を認め、アパートの電灯スイッチを調べればわかることだと言う。そして、さらに情報公開されたファイルをめくるうちに、ドライマンは「彼の単独行動は信用するな……昇進はやめ、M室の勤務に……」という男の存在を知ることになる。

ドライマンは男を捜し出すが結局声をかけることなく、今度はさらに2年後に、郵便配達中のヴィースラーが、劇作家ドライマンの新作の広告を目にすることになる。彼が書店で『善き人のためのソナタ』という本を手にし、表紙をめくるとそこには……。

店員に贈答ですかときかれ、いや私のための本だ、と答えるヴィースラーがちょっと誇らしげになるのだけれども、それをうれしく感じてしまった私は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督(脚本も)にしてやられたことになる。

先にヴィースラーの変節はイェルスカの影響が大きいのではないかと書いたが、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』の中では、それはきっと曲の演奏になっているのではないか。まあ、どうでもいいことなんだけど。

繰り返しになるが、やはりこの映画ではヴィースラーの描き込みが素晴らしい。彼は巻頭では、尋問の教官として生徒に自分の尋問風景を撮影したものを見せている。生徒のひとりがそれをあまりに非人道的と発言すると、その生徒の名前にチェックをするような男なのだ。

また自宅に娼婦を呼んでいる場面もある。娼婦にもう少しいてくれとヴィースラーは言うのだが、彼女は時間厳守だと帰ってしまう。これだけの場面なのだが、表情を変えない彼の孤独感がよく出ていた。表情を変えないからかどうか、子供にはシュタージの人で、友達を刑務所に送る悪い人だとも言われていたが、彼は傷ついていたのだろうか。そういえば、これはソナタを聴いたあとのことだったが……。

【メモ】

第79回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞受賞

原題:Das Leben der Anderen(他人の人生)

2006年 138分 シネスコサイズ ドイツ 日本語字幕:古田由紀子 監修:高橋秀寿

監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 製作:クイリン・ベルク、マックス・ヴィーデマン 撮影:ハーゲン・ボグダンスキー 衣装:ガブリエル・ビンダー 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
 
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)、ウルリッヒ・トゥクール(グルビッツ部長)、トマス・ティーマ、ハンス=ウーヴェ・バウアー、フォルカー・クライネル、マティアス・ブレンナー