マン・オン・ワイヤー

テアトルタイムズスクエア ★★★

テアトルタイムズスクエア通路での作品に関する展示。写真1の中央下は、日本にやってきたフィリップ・プティが、5/19に渋谷区の桜丘公園で大道芸を披露したときのもの。

■人生を変えた伝説の綱渡り

昔のマンガ故(四十年以上前か)うろ覚えなので申し訳ないのだが、一峰大二の忍者マンガに次のような場面があった。殿様が忍者に術を見せてくれとせがむと、その忍者は襖の敷居の上をスタスタと歩いてみせるのだ。殿様が、そんなことなら儂にもできると言うと、忍者は敷居の左右が断崖絶壁でも同じように出来るでしょうか、と平然と答えるのである。

綱渡りは、敷居歩きとは違ってさらなる技もいりそうだが、でもたとえそれが五メートルや十メートルの高さで出来たからといって、地上四百十一メートルで同じことが可能かというと、やはり別問題のような気がしてしまう。で、マンガを思い出してしまったのだが、しかし達人にとってはやはり同じことのようなのだ。これは、私にそのことを証明してくれた映画なのでもあった。

やってしまったことがいくら大それたことであっても、そしてその行為が「四十五分間とどまり八回渡った」という予想外に長い時間におよんだにしても、でも、それだけでは映画にはなるはずがないと思っていたが(実際その場面は、四十五分よりずっとずっと短いものであった)、そんな心配は杞憂にすぎず、すこぶる面白いドキュメンタリーに仕上がっていた。

今となってはワールド・トレード・センターのツインタワーが9.11(二千一年)で姿を消してしまったことも、直接関係はなくてもこの綱渡り伝説の一部を彩っていそうである。が、むろんそれはたまたま付加された一挿話にすぎない。そのことより、フィリップ・プティがこの計画を閃いたのが、ツインタワーの完成予想図を見てのことだったのには、なるほどと思ってしまう。なにしろツインタワーという形状が、綱渡りを可能にしているのだから。ツインタワーの頂上を目指したのはキングコングだけじゃなかったのだ。

当時の関係者(恋人や友達など)がいまだに興奮状態で語っている様子をみても、その行為のとんでもなさがわかるのだが、偽の身分証を作ったり、まだ建築中(完成間近)の建物に忍び込んでも二つのタワーの間にワイヤーをかけなくてはならないなど、意外と綱渡りの前までにクリヤーしなければならない関門が多いのだった。

そしてこれがさながらサスペンス映画ばりの侵入映像(犯罪だからね)で語られていく。チームには雇われ要員?までいて何やら不穏な雰囲気にもなって、って、まるで銀行強盗映画ではないか。この再現が巧みで、一瞬とはいえ当時のフィルムかと思ってしまったくらいなのだが(でもまあ芸術的すぎたかしらね)、綱渡りの瞬間でさえ、至近からのものは写真しか残っていないのだから、そんなわけはないのだった。

今のようにムービーが身近なものではなく(その他の映像はいくつも残っていて、この映画でも使われているから、珍しいというのではないのだが)、そして千九百七十四年当時、世界はまだまだ遠くにあったのだ。日本にもこのニュースは流れたというが、私がぼんやり人生を送っていたからにしても、こんな快挙が伝わってなかったなんて今では考えられないことだからだ。

映画としてはこのハイライト部分で終わりのはずだが、この行為によって人気者(実体は犯罪者なのだが)になったプティの、犯罪としてではない過ち場面を、映画は再現フィルムにしてまで、あえて付け加えている。それは昂揚したプティが、彼の前に現れた女性ファンとどこかのベッドへ行った、というものだ。この場面を入れたということは、プティは今では過ちとは思っていないのだろうか。「アニー(恋人の名)への裏切り」と、はっきり言っていたが。そしてそのアニーも「二人の愛はそこが終点」と。

伝説になるようなことをしてしまったら、やはり何かが変わってしまうのだろう。そうに違いない。

が、またそれとは別に、あれから何年も経ってしまったという、ただ単に時間が経ってしまったということもあるだろう。プティはあのあとツインタワーの永久入場証をもらったらしいが、ツインタワーが丸ごと無くなってしまっては永久も何もないではないか。時の前では、不変であることの方が難しいようだから。

ところで、綱渡り場面のプティはパンタロン姿だった。そういや、あの頃、流行ってたよなぁパンタロン。パンタロンって風の影響を受けやすそうなんだけど(考えすぎ?)、若いプティは、それよりスタイルを気にしたんだろうね。

 

原題:Man on Wire

95分 イギリス ビスタサイズ 配給:エスパース・サロウ 日本語字幕:?

監督:ジェームズ・マーシュ 製作:サイモン・チン 製作総指揮:ジョナサン・ヒューズ 原作:フィリップ・プティ 撮影:イゴール・マルティノヴィッチ 編集:ジンクス・ゴッドフリー 音楽:マイケル・ナイマン

出演:フィリップ・プティ

真夏のオリオン

109シネマズ木場シアター6 ★★☆

■生きるために戦う

すでに敗戦となってから六十四年。現代に結びつけるためには主人公の孫娘に登場願わないではいられないほど昔のことになってしまった(孫娘でもきついような?)。これほど時が経ってしまうと、すぐそこにあったはずの太平洋戦争(もちろん私だって知らないのだが、戦争はそんな私にとっても、そう古くない時期にあったのである)も、映画などには次第に現代風な装飾がほどこされていくのだろうか。

女教師の倉本いずみが古い楽譜を手に鈴木老人を訪ね、祖母有沢志津子の名(署名も欧文というのがねぇ)のある楽譜を、何故アメリカ兵が持っていたかを聞き出す。楽譜にはイタリア語で「オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように」と書いてあるのだが、まずこの構成(楽譜が悪いというのではない。お守りとして適切かどうかはともかく)が気に入らない。戦争映画のくせに何故か格好を付けているような気がしてしまうのだ。

格好の話でいけば、相変わらず戦争映画なのに長髪で、まあそれは目をつぶるにしても、とても出演者があの頃の戦争当事者には見えない。これは時代劇なのにお歯黒じゃなかったりするのと同じと、そろそろ観念しなくてはならないのかもしれないのだが。

というわけで、戦争映画にしては泥臭さのまったくない作品となった。舞台がイ-77潜水艦なので、その艦長である倉本に言わせると、潜水艦乗りは「いったん海に出てしまえば自由」な場所だからということもあって(倉本がそういう自由な雰囲気を作っていたこともあって)、日本軍につきもののしごきなどの場面もなく、目の前には戦争という個人ではぬぐいきれない困難こそあるものの、その他は善意でなんとかなってしまう世界にしてしまっているのだ。

もっとも同乗している回天の乗組員たちはそんな空気にはなじめずにいるのだが、倉本は特攻兵器の回天でさえ、端っから特攻させる気などなく(軍法会議ものなのじゃないかしら)、駆逐艦の攻撃を受けて動けなくなり酸欠になれば、回天にある高圧酸素を使ってしまうし、攻撃の際には、偽装のため二基の回天を(スクリュー音の数を潜水艦に合わせるため)、乗組員なしで発鑑させてしまう(二つともなかなかのアイデアだった)。

「俺たちは死ぬために戦っている」という彼らに対し、「たった一つの命なのにもったいない」「死ぬために戦っているのではない、生きるために戦っている」と倉本の言は明快なのだが、ここまで格好よくしていられただろうかと、逆に落ち着かなくなってしまうほどだ。

倉本は有沢志津子にも絶対帰ってくると言っていたし、これはやはり今の視点で太平洋戦争を解釈してみせたととった方がわかりやすそうだ。「始めた戦争を終わらせるのも軍人の仕事」とイ-81の艦長有沢(志津子の兄)と語り合うのもそういう視点でのことだったのだ、と思えばとりあえずは納得できる(もちろん、そう考えていた人もいただろうが)。

というわけで、マイク・スチュワートを艦長とする米海軍駆逐艦パーシバルとの戦いも陰湿なものではなく、お互いの存在を認め合ったゲーム的な感覚に終始したものとなっている。倉本とスチュワート艦長が互いに秘術?を尽くしたあとに、イ-77は回天の偽装で駆逐艦の船尾に最後の魚雷を命中させる。撃沈こそできなかったものの一矢を報いたのだ、とうまくまとめている。ただ、敵のソナーをかいくぐっている状況にしては音に無頓着だったり(昔のマンガや映画ではこれがもっと緊迫感ある場面として使われていたが?)、CGやミニチュア?がちゃちに見えてしまうのは残念だった。

攻撃兵器を使い果たしたイ-77はパーシバルの前に浮上するが、スチュワート艦長もいきなりの攻撃はせず、イ-77の総員退艦を待つよう命じる。そしてその時、駆逐艦上が歓声に包まれる。日本の降伏が知らされたのだ。回天搭乗員の遠山は先に行った仲間に顔向けできないと倉本に銃を向け徹底抗戦を迫るが、倉本のこれが終わりではなく始まりだという説得に銃を下ろす。結局倉本のイ-77は、事故で水雷員一人を失っただけで日本に帰ることが出来た、って、うーん、やっぱりなんか格好よすぎなんだけど……。

   

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:篠原哲雄 監修・脚色:福井晴敏 製作:上松道夫、吉川和良、平井文宏、亀井修、木下直哉、宮路敬久、水野文英、吉田鏡、後藤尚雄 プロデューサー:小久保聡、山田兼司、芳川透 エグゼクティブプロデューサー:梅澤道彦、市川南、佐倉寛二郎 企画:亀山慶二、小滝祥平 原作:池上司『雷撃深度一九・五』 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 撮影:山本英夫 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:阿部亙英 音楽:岩代太郎 主題歌:いつか『願い星 I wish upon a star』 照明:小野晃 製作統括:早河洋、島谷能成 装飾:尾関龍生 第2班監督:岡田俊二(ニューヨークユニット監督) 録音監督:橋本文雄

出演:玉木宏(倉本孝行/海軍少佐、イ-77潜水艦艦長)、堂珍嘉邦(有沢義彦/海軍少佐、イ-81潜水艦艦長)、平岡祐太(坪田誠/軍医中尉、イ-77軍医長)、黄川田将也(遠山肇/イ-77回天搭乗員)、太賀(鈴木勝海/イ-77回水雷員)、松尾光次(森勇平/イ-77水雷員)、古秦むつとし(早川伸太/イ-81水雷長)、奥村知史(小島晋吉/イ-77水測員)、戸谷公人(山下寛二/イ-81水測員)、三浦悠久(保憲明/イ-77回天搭乗員)、山田幸伸(岡山宏次/イ-77水雷員)、伊藤ふみお(有馬隆夫/イ-77機関科員)、鈴木拓(秋山吾朗/イ-77烹炊長)、北川景子(倉本いずみ、有沢志津子/有沢義彦の妹、いずみの祖母)、デヴィッド・ウィニング(マイク・スチュワート/米海軍駆逐艦パーシバル艦長)、ジョー・レヨーム(ジョセフ・フリン/パーシバル副長)吉田栄作(桑田伸作(特務機関大尉、イ-77機関長)、鈴木瑞穂(現在の鈴木勝海)、吹越満(中津弘/大尉、イ-77航海長)、益岡徹(田村俊雄/特務大尉、イ-77水雷長)

マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと

新宿武蔵野館1 ★★☆

■犬と生きた幸せな時間

副題と予告篇とで観る気を失っていたのだが(なのに観たのね)、意外にもしっかりと作られた映画だった。お話しはありきたりながら、犬と暮らした年月に重ね合わせた人間の時間を丁寧に綴ったことで、ジョン・グローガンという男の壮年期を描くことに成功している。

幸せな結婚、記者に憧れながらコラムニストに甘んじるジョン、仕事をあきらめ子育てに専念するジェニー……。どこにでも転がっている話だ。誰もが想い描いた人生を生きられるわけではないのだ。が、志を曲げたからといって必ずしも不首尾な人生というわけではないのだよ、とほんわりと包んでくれる。

それはそうなのだろう。私だって異議を唱えることではないことくらいわかっているつもりなのだが、けれど、これをそのまま映画として提出されると、いくら丁寧に作られているとはいえ、多少の疑問を感じざるをえない。実際のところ、平凡の中に幸せを見つけることは、そんなに簡単なことではないし、それこそが素晴らしいことなのだとは思うのだが……。

子供を育てるには予行演習必要だという記者仲間のセバスチャンの助言で、ジョンはラブラドール・レトリバーの子犬をジェニーの誕生日にプレゼントする。けど、このマーリーが馬鹿犬で……。まあ確かにそうなんだが、それは躾ができているかどうかという人間の都合だからなぁ。それでも、溺愛しちゃうんだろうね、わかるよな、ジョンたちの気持ち。

子犬のマーリーが海岸を全力で走る姿がとても素敵に撮れていた。

原題:Marley & Me

2008年 118分 シネスコサイズ 配給:フォックス映画 日本語字幕:松浦奈美

監督:デヴィッド・フランケル 製作:カレン・ローゼンフェルト、ギル・ネッター 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr 原作:ジョン・グローガン『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』 脚本:スコット・フランク、ドン・ルース 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:スチュアート・ワーツェル 衣装デザイン:シンディ・エヴァンス 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ

出演:オーウェン・ウィルソン(ジョン・グローガン)、ジェニファー・アニストン(ジェニー・グローガン)、エリック・デイン(セバスチャン・タンニー)、アラン・アーキン(アーニー・クライン)、キャスリーン・ターナー(ミス・コーンブラッド)、ネイサン・ギャンブル、ヘイリー・ベネット、クラーク・ピータース、ヘイリー・ハドソン、フィンリー・ジェイコブセン、ルーシー・メリアム、ブライス・ロビンソン、トム・アーウィン、アレック・マパ、サンディ・マーティン、ジョイス・ヴァン・パタン

マンマ・ミーア!

新宿ミラノ3 ★★

■結婚式(映画もか)を横取り!

70年代半ばから80年代初頭にかけて活躍したABBAのヒット曲に乗せておくるミュージカル。

ノリのいいABBAの曲は、私のように音楽には詳しくない人種(注1)にも耳に残っているものがいくつかあって、だからそれだけで十分楽しめそうな予感はしていた。一方で、ヒット曲を集めてミュージカルになるのだろうか、とも。しかしながら、欧米(ABBAは北欧だが)のポップスの歌詞には単純なものが多いので、今回のようなミュージカルも出来てしまうのだろう(一部は劇中のショーにして誤魔化していたが)。

物語は、ギリシャのとある島に住むソフィという結婚式を控えた女の子が、ママ(のドナはこの島で小さなホテルを経営している)の若き日の日記を盗み見したことで、会ったことのないパパに結婚式のエスコートをしてもらおうと(なんて可愛らしい望みなんでしょう! ま、それは派生的なものにすぎないにしてもさ。だってどんな男かわかったもんじゃないだろうに)、ママには秘密で呼び寄せるのだが、パパ候補は3人もいて、という仰天話。

そんな馬鹿らしい話にみんなで大騒ぎして、という内容だから目くじらを立てることもないのだが(そう思っても、すぐ次の曲が始まってしまうんだよなぁ)、ソフィと婚約者のスカイが結婚式の前にちょっとした諍いになって、でもそのまま式に、という部分は、まだ気になっている。だから最後に結婚式がとりやめになってしまっても、そんなには気にしていないのだろうか。中止が2人での旅立ちに形をかえたみたいなものだから何の問題もないのかもしれないが、どうにも釈然としない。

だいたいスカイは、影も薄いのだな。ソフィもドナもそれぞれ友達2人を助っ人にしている(特にドナの2人は強力)し、パパ候補もサム、ハリー、ビルの3人組(注2)だからってこともあるのだけれど。

ドナはいきなり現れた3人の登場にあわて、そしてお気楽パパ候補(という認識がなかったんだものねー)たちは、もしかしたら自分がソフィの父親かも知れないということにやっと気づく(ソフィは招待状をママの名前で出している)。

サムが、何故ソフィを島に縛ろうとするのか、とドナに言う場面があって(むろんこのことは、ドナが望んだというのではないのだが)、このことからソフィとスカイの結婚式がサムとドナの結婚式に取って代わってしまうという大団円になっていく。いやはや。まあ、ミュージカルなんで。

ソフィが主導していた話なものだから思い違いをしてしまったが、主役は途中からはドナになってるし、結局、中年向けの映画だったようだ(だからABBAなんだ。そっか)。けど、結婚式まで横取りって、まあ残りの人生が少ないだけあって中年(初老?)が一旦恥も外聞もなくやり出したら止められないのだな。

しかし、だったらもう少しは、ドナやサムが何故今に至ったのかをちゃんと描いてもよかったのではないか。でないとドナのは若気の過ちにしては節操がないし、当時すでに婚約していたサムの行動もドナ以上に節操がなくて、ピアース・ブロスナンはラジー賞の最低助演男優賞に耀いたそうだけれど、この役の設定だと、演技以前にそうなんだもの(彼の歌声もちょっとね)。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』でも聞き惚れたが、メリル・ストリープの歌いっぷりはなかなかだ。とはいえ私的には演歌のようには歌い込まないでほしいのだが。ジュリー・ウォルターズとクリスティーン・バランスキーもそれなりに分をわきまえての大活躍。それに比べると男優陣は見劣りがする。コリン・ファースとステラン・スカルスガルドは何しに島へやって来たんだろ。

注1:曲よりもABBAの2番目のBの字が反対向きだったことの方を思い出してしまう口なので。

注2:この3人は本来なら恋敵ということになるが、なにしろあまりに昔のことだし、それに実際に反目し合っていたわけではなく、互いに相手のことは知らないのだな。

 

原題:Mamma Mia!

2008年 108分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:石田泰子

監督:フィリダ・ロイド 製作:ジュディ・クレイマー、ゲイリー・ゴーツマン 製作総指揮:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース、リタ・ウィルソン、トム・ハンクス、マーク・ハッファム 脚本:キャサリン・ジョンソン 撮影:ハリス・ザンバーラウコス プロダクションデザイン:マリア・ジャーコヴィク 衣装デザイン:アン・ロス 編集:レスリー・ウォーカー 振付:アンソニー・ヴァン・ラースト 音楽:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァース 音楽監督:マーティン・ロウ 音楽監修:ベッキー・ベンサム

出演:メリル・ストリープ(ドナ)、アマンダ・セイフライド(ソフィ)、ピアース・ブロスナン(サム)、ジュリー・ウォルターズ(ロージー)、クリスティーン・バランスキー(ターニャ)、コリン・ファース(ハリー)、ステラン・スカルスガルド(ビル)、ドミニク・クーパー(スカイ)

マルタのやさしい刺繍

シネセゾン渋谷 ★★☆

■年寄りにも生き甲斐を!(ほのぼの系ながら痛烈)

ネットで刺繍の下着を売り出して大評判に、というのは最近ありがちな話なのだけど、主役に80歳の老女を持ってきたのは新味(だから話は主にネット通販以前のことになる)。なにより老女たちの笑顔が素敵で、元気が出る。スイス(映画なのだ。他にどんなスイス映画があったのかなかったのか、何も出てこないぞ)で大ヒットとしたというのも頷ける。

マルタにランジェリーショップを開くことをすすめた、アメリカかぶれだけど底抜けに明るかったリージの死(自殺でなくてホッとした)という悲しい出来事や、無理解の妨害やら挫折もあるが、思い通りに生きなきゃ人生の意味がないという当たり前のことを、マルタ(たち)は次第に自覚(思い出したのだともいえる)していく。

ここらへんは予想通りの展開なのだが、夫の死で生きる意味を失いかけていたマルタが、夫の禁止した刺繍で生き生きしてしまうというのが、皮肉というよりは痛烈だ。映画はそのことにそんなにこだわってはいないのだが……。

牧師である息子ヴァルターとの対立も深刻で、ヴァルターはリージの娘と浮気進行中なのだが、浮気云々より、ヴァルターが自分の都合を優先してマルタの開業したばかりのランジェリーショップを勝手に片づけてしまうことの方が、私には気になった。もっとも、その店をしれっとまた元に戻してしてしまうマルタたち、という図は喝采ものなのだが。

ハンニの息子も、党活動には熱心だが病院の送り迎えに嫌気がさして父親を施設に入れようとするし、出てくる男どもはどうかと思うようなやつばかり。そもそもスイスの田舎(お伽噺に出てくるような美しい所なのだ)がこんなに保守的だとはね(脚色ならいいのだけど)。ま、保守的なのは男どもで、彼らには妙な救いの手がさし出されることもなく、容赦がないとしか言いようがないのだが、でもだからか、かえってよけいな後を引かずにすんだのかもしれない。

マルタ役のシュテファニー・グラーザーが、役の設定では80なのに実年齢88とあって(ロビーに展示してあった雑誌の切り抜きによる。映画撮影時はもう少し若いのかも)、歩き方が若すぎないかと懸念していたものだから、びっくりしてしまった。

原題:Die Herbstzeitlosen 英題:Late Bloomers

2006年 89分 ビスタサイズ スイス 配給、宣伝:アルシネテラン 日本語字幕:(株)フェルヴァント

監督:ベティナ・オベルリ 原案:ベティナ・オベルリ 脚本:ザビーヌ・ポッホハンマー 撮影:ステファン・クティ 美術:モニカ・ロットマイヤー 衣装:グレタ・ロデラー 音楽:リュク・ツィマーマン

出演:シュテファニー・グラーザー(マルタ・ヨースト)、ハイジ・マリア・グレスナー
(リージ・ビーグラー)、アンネマリー・デューリンガー(フリーダ・エッゲンシュワイラー)、モニカ・グブザー(ハンニ・ビエリ)、ハンスペーター・ミュラー=ドロサート(ヴァルター・ヨースト)

魔笛

テアトルタイムズスクエア ★★

■オペラはわからん

私がオペラに出かけることなど今まで同様これからもまずないと思われるが、映画でとなると、そういう状況も可能になってしまうのだから面白い。

しかもこの映画は、舞台俳優出ながら映画のことも知り尽くしたケネス・ブラナーによるモーツァルトのオペラ『魔笛』の映画化だから、私のようなオペラ知らずが観るのにもちょうどよさそうである。

ブラナーもオペラの映画化については相当意識しているのだろう、巻頭の序曲をバックに出現する映画絵巻ともいうべき光景は一見に値する。鳥をとらえていたカメラはパンダウンし、花を摘む男に移ったかと思うとそのまま塹壕の上に出、伝令を追う。上にパンし、次には左へと自在に跳び回る。幾重にも広がる塹壕を俯瞰するが、ちょっと別なところでは蝶が舞うのどかな戦場で、でも軍楽隊が現れ銃砲が上を向くと、雲の中からは複葉機が現れカメラも空に飛ぶ。演奏の下で戦争が繰り広げられ、そこを拳銃1挺のタミーノ(ジョセフ・カイザー)がうろつく様は滑稽でもある。

これをワンカットで見せられては期待が高まざるを得ないのだが、残念なことにこの凝ったカメラが機能しているのもここまでだった。もちろんこの後も、何度か似たような試みはなされている(やはり戦場や、城に侵入した人物の位置関係や状況をカメラの移動で説明している)し、上部からのカメラを多用するなどの工夫もあるが、オペラ部分になるとアップが主体となって、空間も結局は舞台のような狭いところに押し込められたような印象になってしまうのである。

それと、これはもともとの『魔笛』というオペラの問題らしいのだが、話がずいぶんとヘンテコリンだ(これもあくまで映画を観た限りでの感想なのだが)。

前線で毒ガスに倒れていたところを夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)の侍女3人に助けられたタミーノは、さらわれた娘パミーナの救出を女王に依頼される。これは当然タミーノがもともと女王側の兵士ということなのだろうが、これが意外と曖昧なのだ(第一次世界大戦への移植はブラナーの責任だけどね)。それはともかく、やはり女王のために鳥を捕っていたパパゲーノ(ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス)と一緒にパミーナの救出に向かう。

ところが悪役のはずのザラストロ(ルネ・パーペ)は、実は善政を行い国民からは慕われており、夜の女王こそが悪なのだという。ザラストロの部下に邪悪な心を持ったモノスタトス(トム・ランドル)がいて、そいつがパミーナに悪さを働こうとしてはいたが、これでは何が何だかわからない。しかもそのザラストロは最初、タミーノの前で自分の身を偽ってみせるのだ。胡散臭いだけでなくこんな大人げのないところを見せられてしまったし、善政が布かれているにしては国民の行動もどこか画一的に見えたから、私などしばらくはザラストロを独裁者と決めつけてしまっていた。

そもそも題名の魔笛をタミーノは夜の女王から贈り物として受け取っている(パパゲーノのチャイムも同じ)。そして、この魔笛(チャイムも)は、音楽によってこの地に平和と協調をもたらすのだ。だったら、夜の女王がそれをわざわざタミーノやパパゲーノに授けたりするだろうか。また2人を導く3人の少年も、この流れだと女王に遣わされたように見えるのだが(実はよくわからない)。

音楽がすべてを解決してくれるのであるから(そんな単純なことを言われてもねー)、些細なことなどどうでもいいと考えたのだろうか。

パパゲーノとパパゲーナ(シルヴィア・モイ)の恋の話もまったく意味不明。もともとパパゲーノの役割は道化とは思うのだが、話もずいぶんとおちゃらけている。パパゲーナが最初は老婆として登場し、でも18なのだと言って私と一緒にならないと地獄に堕ちると迫り、パパゲーノがしかたなく同意すると若い娘に変身する。

こんな馬鹿馬鹿しい話を延々と見せられては、肝腎の音楽がちっとも楽しめないのだが、オペラ通の人たちには、そういうことはすでに了解事項なのだろうか。沈黙の誓いにしても、タミーノとパミーナの恋にしても、どれも稚気溢れたもので、途中でうんざりしてしまったのだ。

第一次世界大戦という背景をもってきて、戦場を前に広がる墓標(戦死者の名前は若者ばかりなのだが、そこに日本人の名前も刻まれている)を見せることで、反戦というテーマを前面に押し出したかったようだが、『魔笛』の持つ本来の内容とは落差がありすぎたのではないか。

最後は、夜の女王がモノスタトスや3人の侍女とで奇襲をかけてくるが、魔笛がそれを守ってくれ(やっぱりこれはないだろ)、女王たちは城壁から真っ逆様に落ちていく。英知が世を治めたことで、緑が地をおおっていくのだった。でも実際には第二次大戦が起きてしまうわけだから、この設定はほとんど意味がなかったとしか思えないのだ。

 

原題:The Magic Flute

2006年 139分 シネスコサイズ イギリス、フランス 日本語字幕:松浦奈美 オペラ監修:増田恵子 配給:ショウゲート

監督:ケネス・ブラナー 製作:ピエール=オリヴィエ・バルデ 製作総指揮:スティーヴン・ライト 脚本:ケネス・ブラナー、スティーヴン・フライ 撮影:ロジャー・ランサー プロダクションデザイン:ティム・ハーヴェイ 衣装デザイン:クリストファー・オラム 編集:マイケル・パーカー 音楽:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 音楽監督・指揮:ジェームズ・コンロン 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 英語脚色:スティーヴン・フライ 音楽プロデューサー:ダニエル・ザレイ

出演:ジョセフ・カイザー(タミーノ)、エイミー・カーソン(パミーナ)、ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス(パパゲーノ)、ルネ・パーペ(ザラストロ)、リューボフ・ペトロヴァ(夜の女王)、シルヴィア・モイ(パパゲーナ)、トム・ランドル(モノスタトス)、テゥタ・コッコ(侍女1)、ルイーズ・カリナン(侍女2)、キム=マリー・ウッドハウス(侍女3)

マリー・アントワネット

新宿武蔵野館2 ★★★

■わかりあえるはずがない

ルイ15世(リップ・トーン)の孫のルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)に嫁ぐことになった14歳のマリア・アントーニア(キルステン・ダンスト)は、長旅のあと、フランス国境で「お引き渡しの行事」(いきなりこの面倒な儀式ではね)をすませ、はじめてのことに戸惑いながらも1770年にはベルサイユ宮殿で結婚式がとりおこなわれ、無事フランス王太子妃マリー・アントワネットとなる。

母のマリア・テレジア(マリアンヌ・フェイスフル)によって画策されたこの結婚は、オーストリアとフランスの同盟関係強化の意味があった。マリーに課せられたのは世継ぎの生産だったが、錠前作りが趣味のルイ16世(即位は1774年)は性的なことには関心がなく、マリーの努力の甲斐も虚しく、その機会はなかなかおとずれない。

マリーから逃げるかのように狩猟ばかりしているルイ16世とは接点も少ないだけでなく、宮廷では朝目覚めた後、服も自分で着ることができずに寒さに震えるばからしくも制約の多い毎日。おまけに不妊症で不感症と陰口をたたかれては、マリーの興味が、靴、扇子、服、お菓子、酒、カードゲーム(ギャンブル)に向かっても無理はない。このあたりの描写はカタログ的で、きれいでうっとりだし、次から次だし、だから浪費でしかないのだな、と思わせるものだ。

果ては、アメリカの戦勝会で知り合ったスウェーデン貴族のフェルセン伯爵(ジェイミー・ドーナン)との浮気まで。ただ、これもマリーの喜びの表情などはあるものの、そうは深入りした描写にはなってはいない。授かることのなかった子供も出来て、とどこまでもカタログ的な見せ方だ(音楽もやたらポップなもの)。

マリー・アントワネットについては今でも悪評の方が高いのだろうか。この映画のマリーは、ヒロインということもあるし、また少女時代からはじまったこともあってごく普通の素直な愛らしい女の子として描かれている(とはいえキルステン・ダンストひとりに13歳?から37歳までを演じさせるのはやはり無理。が、映画の眼目はそこにはないのでこれは仕方ないだろうか)。不自由で悪意が渦巻く中にあっては堂々としたものだ。

オーストリアからやってきたマリーという状況は、ソフィア・コッポラの前作『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)に通じるものがある。宮殿に幽閉された彼女が外界を知る手だてなども、映画を観ている限りでは兄からの手紙くらいで、そういう意味でもマリーも「ロスト・イン・トランスレーション」状態にあったといいたいのだろう。

映画はほとんど彼女の視点に沿ったもので、アメリカの独立戦争のための援助がルイ16世と側近によって検討される場面もあるが、そこに切迫感などはない。「浪費でフランスを破滅に導く!」などという民衆の声もポスターとしては出てくるが、どこまで彼女に届いていたのだろうか。彼女にとって自分の評価が知り得たのは、オペラで拍手をした時の他の観衆の反応(最初にあった同じような場面では続いて拍手が起きたものが、最後では彼女ひとりだけである)くらいだったという映画の批判(ではなく同情か)があるが、そんなものだったのかもしれない。

フランス革命のざわめきが宮殿の外に聞こえて、はじめてことの異常さに気付いたのではないか。映画はそういっているようである。暴徒がやって来るという時まで狩をしていたルイ16世も似たようなものだったのだろうか。側近に逃亡をうながされても我々はここに残ると言い、マリーもそれに従うのだが、運命を知らないからこその言動ともとれる。映画は、だから破壊された宮殿の一室は映し出すが、飢餓に苦しんだ民衆や革命の様子は最後まで描こうとはしないのである。

宮殿に閉じこめられていたマリーに民衆の姿など見えるはずもなく、彼らのことがわかるはずもないのだといっているようなのだが、でもしかし、これって、ただただゴージャスなだけの映画を作ってしまったソフィア・コッポラ自身、ともいえるような。

 

【メモ】

第79回米アカデミー賞 衣装デザイン賞受賞

原題:Marie-Antoinette

2006年 123分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ソフィア・コッポラ 製作:ソフィア・コッポラ、ロス・カッツ 共同製作: カラム・グリーン 製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ、ポール・ラッサム、フレッド・ルース、マシュー・トルマック 撮影:ランス・アコード プロダクションデザイン:K・K・バレット 衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ 編集:サラ・フラック 音楽プロデューサー:ブライアン・レイツェル 音楽監修:ブライアン・レイツェル
 
出演:キルステン・ダンスト(マリー・アントワネット)、ジェイソン・シュワルツマン(ルイ16世)、リップ・トーン(ルイ15世)、ジュディ・デイヴィス(ノアイユ伯爵夫人)、アーシア・アルジェント(デュ・バリー夫人)、マリアンヌ・フェイスフル(マリア・テレジア女帝)、ローズ・バーン(ポリニャック公爵夫人)、モリー・シャノン(ヴィクトワール内親王)、シャーリー・ヘンダーソン(ソフィー内親王)、ダニー・ヒューストン(ヨーゼフ2世)、スティーヴ・クーガン(メルシー伯爵)、ジェイミー・ドーナン(フェルゼン伯爵)、クレメンティーヌ・ポワダッツ(プロヴァンス伯爵夫人)、オーロール・クレマン、メアリー・ナイ、アル・ウィーヴァー、ギョーム・ガリアンヌ

松ヶ根乱射事件

テアトル新宿 ★★★★

■事件が起きても起きなくても

90年代にさしかかろうという頃。鈴木光太郎(新井浩文)は、「いのししと伝説のまち」松ヶ根の警察官だ。轢き逃げにあった赤い服の女(川越美和)の検死に立ち会っていると、女は息を吹き返してしまう。池内みゆきというその女は、刑事(光石研)の質問をはぐらかしたまま、翌日には西岡佑二(木村祐一)のいる宿に帰っていった。

光太郎には双子の兄の光(山中崇)がいて、母みさ子(キムラ緑子)と姉夫婦(西尾まり、中村義洋)の鈴木畜産の仕事を手伝っている。家族は他に痴呆の祖父豊男(榎木兵衛)に父の親豊道(三浦友和)。が、豊道は愛人国吉泉(烏丸せつこ)の理容室に家出中で、泉の娘の春子(安藤玉恵)を妊娠させてしまったらしい。

らしいと書いたのは、知的障害の春子は町の人間の共有物となっていて、泉も自分の管轄下に春子がいる時は、客から堂々と金をせしめている。だから本当は誰が父親なのかわからないというわけだ。なのに、これはもう最後の方なのだが、春子がいざ出産となり泉が呼びにくると、(祖父の死からまた家に戻っている)豊道はいそいそと出かけていくのである。

ところで、例の轢き逃げ犯だが、なんと光だったのだ。それが池内みゆきにわかってしまったものだから、西岡に脅迫され、氷を割った湖に潜らされるはめになる。湖底からボストンバッグを引き上げると、中からは沢山の金の延べ棒と生首が入っていた。

西岡とみゆきは金の延べ棒を銀行で換金しようとするが、それはかなわず、が、光の世話で祖父が以前住んでいた家に堂々と居着き、さらに光に金まで要求する。で、光は鈴木畜産の金に手を付けてしまうし、幼なじみにモテるようになるからと延べ棒を20万で売りつけたりする。

光太郎は光を問いつめ、生首の存在まで確認するのだが、警官のくせに光に止められるとなんのことはない、そのことに関わるのをやめてしまうのである。この時、自分の恋人が親を連れて鈴木家にやってきて(もちろんそういう話になっていた)結婚の話をまとめるはずだったらしいのが、豊道のでしゃばり(饒舌になったのは彼のサービス精神らしい)でなんとなくヘンな空気が流れ、そのことで春子の妊娠を咎めると、逆に豊道から「なんで俺の子だって決めつけられるんだ。お前もだろ」と言われてしまうというショックなことがあったからではあるのだが。

三浦友和演じる豊道というだらしない父親は、ただ明るくて憎めないだけの男かと思っていたので、この逆襲には凄味すらあった。光太郎の追求に前回はただただとぼけていただけだからよけいそう感じてしまう。豊道のように生き生きと振る舞われては、ヤクザ者の西岡だって負けてしまいそうではないか(この対立は実現しないが)。

それにしても光太郎の中身のなさはなんなのだ。いくらなんでも豊道に指摘されるまで、春子の子のことを考えもしないとは(映像としてのヒントはあった)。光太郎が惚けたようになったからというのではないだろうが、光は単身西岡とみゆきの所へ殴り込みに行く。が、これは予想通り成功しない……。

西岡佑二と池内みゆきの出現で、平和な町がどこかおかしくなっていく、というのがこの映画の骨組みと見当をつけていたのだが、どうやらそんな簡単なものではなさそうだ。

西岡とみゆきは、どう話を付けたのか、駅の売店で本物の金を使っていますというキーホルダーを1ヶ5000円で売り出すし、あのまま祖父の家にふたり名前の表札まで飾って、見事におさまってしまうからだ。春子には子供が生まれ、恥ずかしくて外を歩けないといっていたみさ子も、多分もう平気で近所の人たちとお喋りをしているのではないか。

この町(といっても物語自体はもう少し狭い範囲で進行しているようだが)の豊道的空気の中に、あんなに異質だった流れ者の2人も取り込まれてしまったということなのだろうか。

収束した町にあって光太郎だけには、まだ派出所に出没する鼠の動き回る音が聞こえるらしい(罠にはかからないので存在は確認できていない)。彼は春子のこともそうだったように、自分に都合のいいようにしか頭を働かせられないのか、役所を訪ね、元から断たないとだめなんです、などと言いながらコロリンX(農薬か?)を撒こうとするのである。しかしこんな大それたことをしても問題にはならなかったらしい。というのもそこから場面はフェードアウトし、町の遠景となり、そのあと(私の文だと前後してしまったが)キーホルダーと表札のカットになってしまうからだ。

ああ、これで終わってしまうのか(あくまで観ている側の感覚はユルくなっている)と思っていると、突如光太郎が派出所から道に出て、拳銃を乱射する。で、すみません、もうしませんからとまた派出所に戻っていくのだ。ああ、そうだった(乱射があってもまだユルいままなのね)と、これでタイトルの乱射事件が起きていなかったことにやっと気が付くというわけである(冒頭に轢き逃げ事件があったからうっかりしてたのだな)。

それにしてもコロリンXを手にしての行動すら相手にされないのだから、こんな乱射など事件にもなるまいて。光太郎はもうそれで納得なのだろうか。

こういう映画は解釈する余地が大きいから、いくらでもいろいろなことが言えるし、勝手に遊んでしまっても楽しめる。作り手もずるいから「多少の脚色は職業上の悪癖……」といきなり断っていたしね。でもそれは置いておくにしても、やはりこの町の収束ぶりが、松ヶ根特有というのではなく、私のいる世界にもあてはまるような気がして、ちょっぴり恐ろしくなったのである。

2006年 112分 サイズ■ PG-12

監督:山下敦弘 製作:山上徹二郎、大和田廣樹、定井勇二、大島満 プロデューサー:渡辺栄二 企画:山上徹二郎 脚本:山下敦弘、向井康介、佐藤久美子 撮影:蔦井孝洋 美術:愛甲悦子 衣装:小林身和子 編集:宮島竜治 共同編集:菊井貴繁 音楽:パスカルズ エンディング曲:BOREDOMS『モレシコ』 照明:疋田ヨシタケ 装飾:龍田哲児 録音:小川武 助監督:石川久

出演:新井浩文(鈴木光太郎)、山中崇(鈴木光/双子の兄)、川越美和(池内みゆき)、木村祐一(西岡佑二)、三浦友和(鈴木豊道/父)、キムラ緑子(鈴木みさ子/母)、烏丸せつこ(国吉泉/父の愛人)、安藤玉恵(国吉春子/泉の娘)、西尾まり(富樫陽子/姉)、康すおん(立原勇三/光太郎の同僚)、光石研(刑事)、でんでん(青山周平/弁当屋)、榎木兵衛(鈴木豊男/祖父)、中村義洋(富樫圭一/姉の夫)、鈴木智香子(荻野セツ子/恋人)、宇田鉄平(坂部進/べーやん)、桜井小桃(富樫真由)

待合室-Notebook of Life-

銀座テアトルシネマ ★☆

■生きていればいいことがある?

朝日新聞に載った記事を元にして作った映画らしいが、記事の記憶はまったくない。興味のあるものでもどんどん忘れていくから、この手の話はまず覚えていない。いわゆるいい話というやつである。新聞にも多分そういう趣旨で載ったと思われる。

東北の小繋(こつなぎ)という無人駅の待合室に置かれたノートに、旅人や近所の人が雑感や悩みなど書き残こしていて、こういうノートはよく見かけるが記事になったのは、駅前にある売店の女主人が、それに丁寧に返事を書いていたということにあるようだ。そのノートには「命のノート」という名前が付けられていて、もうそれだけで私には重苦しいのだが、これはそのノートを始めに置いていった人の命名らしい。

女主人の「おばちゃん」役が富司純子で、彼女が40年前に遠野から小繋に嫁いできた若い時を寺島しのぶが演じている。娘時代をもってきたのは映画としての骨格が足らなかったかったのと、母娘初共演という話題性狙いだろう。もっとも実の親子ながらふたりは、顔立ちも演技の質もあまり似ていないから、別に同じ人物でなくてもよかったような気がする。タイムマシンものではないのだから、母と娘は正確には共演しないのだし。

おばちゃんの現在(老いた母親の話も)と過去に混じるように、ノートに死をほのめかして去る妻と娘を失った男、おばちゃんを取材に来たフリーの女性ライター、同じ町の「鞍馬天狗」と名乗る女房を大切にしてやれなかったという男の挿話などが語られる。どれも心温まる話なのだろうが、全体として突き抜けるようなものはひとつもない。まあ、そういう映画ではないのだが。

唯一批判的なのが若い晶子(あきこ)で、彼女の「生きていればいいことがあるってホントなの」という問いかけはあまりに当然で、ひねくれ者としては少女のこの批判に肩入れしたくなる。もちろんこれはあとに用意されている、晶子と死をほのめかしていた旅人の会話で打ち消されるのだが、説明調ではあるし、こういう問題には答えなど無いから歯切れは悪い。

おばちゃんにしても昔幼い娘を失い、実直な旦那には先立たれるという悲しい過去の出来事に、現在は年老いた遠野にいる母が気がかりで、自身は不自由な足を庇いながら仕事をする毎日、と書き並べれば暗い部分ばかりが目につく。映画が浮ついていないからだろうが、観ていてもっと単純に暖かくなるような話にしてほしくなってしまったのである。

 

【メモ】

ホームページには、「フランスのトムソン社製のフィルムストリームカメラ『VIPER』によってHD非圧縮フルデジタルシネマとして完成。最先端のデジタルシネマ技術は驚くべき映像美を可能にしている」とある。言われてみないとわかならないのね。そんなに目の覚めるような美しさだったかしらん。

いわて銀河鉄道 

昭和39年春 夫は元教師、おばちゃんは看護婦だった

2005年 107分 サイズ■

監督・脚本:板倉真琴 撮影:丸池納 美術:鈴木昭男 音楽:荻野清子 主題歌:綾戸智絵『Notebook of Life』  照明:赤津淳一  録音:長島慎介
 
出演:富司純子(夏井和代)、寺島しのぶ(夏井和代)、ダンカン(夏井志郎)、あき竹城(山本澄江)、斉藤洋介(山本康夫)、市川実和子(堀江由香)、利重剛(塚本浩一)、楯真由子(木本晶子)、桜井センリ(小堀善一郎)、風見章子(浅沼ノブ)、仁科貴(梶野謙造)

マッチポイント

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■面白くなるのはマッチポイントになってから

プロテニスプレイヤーとして限界を感じていたクリス・ウィルトン(ジョナサン・リス・マイヤーズ)は会員制のテニスクラブのコーチとして働きだす。そこでトム・ヒューイットという英国の上流階級の若者と親しくなる。オペラファンということを知られてボックス席に誘われたことから、今度はトムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)に好かれるという幸運を得る。

上流社会には縁のなかったアイルランド青年のクリスだが、クロエが積極的なことから結婚だけでなく、彼女の父親アレックス(ブライアン・コックス)の会社で働くことにもなってと、話はトントン拍子に進んでいく。が、クリスが本当に惹かれたのは、トムの婚約者であるアメリカ人のノラにだった。

この映画、見所は最後の方に集中している。退屈こそしないが、終盤まではごくありきたりの展開で、アレンらしくないのだ。物語が『罪と罰』にかぶることと、ノラの名前がイプセンの『人形の家』の主人公を連想させるから、そこらあたりに仕掛けがあるのかもしれないが、詳しいことは私にはわからない(あとはオペラだが、こちらの知識はさらにないので)。

『罪と罰』と並んでクリスは『ケンブリッジ版ドストエフスキー入門』も読んでいて、これがさっそくアレックスとの会話に役に立つことになる。クリスの付け焼き刃を解説本で揶揄しているのだから、オペラ好きまでが彼の演出の一部と言いたげだ。テニスをあきらめたのは「勝負の執念がない」はずだったのに、しかしノラとの最初の出会いとなった卓球では「僕は競争心が強い」と、違うことを言っているのだ。アレックスが勧める新部門の役員ポストをまずは断るあたり、すべてに周到な計算が働いていたともとれる。無理して家賃の高いアパートにしたのもそのためだったか。

ノラに対する情熱はクリスに思わぬチャンスをもたらす。ノラは女優志望なのだがなかなか芽が出ず、彼女がバツイチなこともあってトムの母親エレノア(ペネロープ・ウィルトン)からそのことを攻撃される。雨の中を泣きながら歩いているノラをクリスが目にとめ、ふたりは激情の赴くまま関係を持つ。この時点ではノラにはまだトムという存在が確固としてあったため、これだけで終わってしまうのだが……。

この場面の前にも実はノラがオーディションに行くのにクリスが付き合う場面があって、唐突さは避けている。手抜きのない描写は、感情の流れをそこなわず自然なのだが、いささか冗長だ。

冗長と感じるのは、最初に書いたように、浮気の最初の情熱がこじれていくのも、どうしようもなくなって殺害に至るのもありきたりだからだ。この冗長さは、クリスが感じるイライラさに被せているからで、ってそれはどうだろ。クリスの周到さは、ノラという魅力的な女性の前ではもろくも崩れてしまうわけだが、これもいまさらという感じである。

もっともさすがにこのままでは観客を納得させられないと心得ていて、ちょっとしたひねりが用意されている。

ヤク中の突発的犯行と見せかけるべく、クリスはノラのアパートの老女に続いて、指定時間に帰らせたノラを猟銃で殺害する。老女宅には押し入り、ノラは偶然エレベーターを降りたところを見つかって、という筋書きだ。クリスそのままクロエの待つ劇場にタクシーで駆けつけ、苦しいながらもアリバイを確保する。あとで老女宅から奪った薬の瓶やネックレスなどの証拠品は川に投げ捨てる。ここで最後に投げた指輪が、川岸の欄干に当たりこちら側に落ちるのだが、クリスは気付かずに去る。

このスローモーションは冒頭のテニス場面に重なるので、観客はこれが主人公の犯行の動かぬ証拠になるという予測をどうしても立ててしまう。ノラの日記からクリスを追求する刑事も、夢の中にまで事件を見、その筋書きを得意がって説明する。が同僚からは、昨日ヤク中が殺されそいつが老女の指輪を持っていたと告げられ、自説を撤回せざるをえなくなる(これはやられました)。

クリスも夢の中でノラと老女と対峙する。しかし、戦争の巻き添え死を引き合いに出しての弁明はどうか。逮捕されても罪をつぐなえるかどうかはわからないという言い逃れは、クリスの罪を認めないわけではなく、皮肉を言いたいだけなのだろうが、まったくの蛇足だ。運のいいクリスに、最後まで運の悪いノラ(老女についてまでは言及できないが)という簡単な対比ではないのだよ、ということだろうか。

そうか。ということは、刑事が日記を読んでいながらノラの妊娠に触れてこなかったのは、妊娠がノラのでっち上げだった可能性もある。となるとノラもただの悲劇のヒロインではなく、したたかに生きた上での運命のいたずら、といいたいのか。「私は特別な女なの。絶対後悔させない」って言ってたものなー。

 

【メモ】

クロエは美術に関心があり、クリスとの初デートはサーチ・ギャラリーだった。

エレノアはノラだけでなく、はじめのうちはクリスにも懐疑的。

ノラに会いたくて、乗り気でないクロエを説得して無理矢理映画になだれ込むクリス。映画の題名を訊きだして、それなら観たいと言っていた。映画は『モーター・サイクル・ダイアリーズ』。ノラは頭痛で来なかった。

トムはノラとの婚約を解消する。母に屈したし、出会い(ヴィクトリア)もあったからと。

ヴィクトリアはすぐ妊娠し、トムとの結婚式となる。一方クロエはなかなか妊娠しない。

仕事漬けだからか、クリスは秘書に自分が高所恐怖症のようなことを匂わす(アスピリンを2錠くれ)。職場も家(でもここは迷路になりそうだと、絶賛していたのにね)もでは、慣れない上流社会同様、足が地に着かない気分なのかも。

クロエと待ち合わせた美術館でノラを見つけ、強引に電話番号を訊き出すクリス。

株で損をしたクリスに、アレックスは娘にも君にも苦労させたくないので援助すると言う。

クリスはノラから妊娠したと伝えられる。今度(若い時とトムとの間にも。つまり3度目)は産むと言う。

猟銃はアレックスのもの。テニスラケットのケースに隠して持ち出す。

クロエと観る約束をしたミュージカルの舞台は『白衣の女』。

原題:Match point

2005年 124分 ビスタサイズ イギリス、アメリカ、ルクセンブルグ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン 衣装デザイン:ジル・テイラー 編集:アリサ・レプセルター
 
出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ(クリス・ウィルトン)、スカーレット・ヨハンソン (ノラ・ライス)、エミリー・モーティマー(クロエ・ヒューイット)、マシュー・グード(トム・ヒューイット)、ブライアン・コックス(アレックス・ヒューイット)、ペネロープ・ウィルトン(エレノア・ヒューイット)、ユエン・ブレムナー、ジェームズ・ネスビット、マーガレット・タイザック

マイアミ・バイス

TOHOシネマズ錦糸町-6 ★★☆

■恋は17歳の時からの唯一の世界をも奪う

80年代の同名TVシリーズの映画化。マイケル・マンはTVシリーズの製作総指揮を務めていたという。

ソニー・クロケット(コリン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)は、マイアミ警察特捜課(バイス)の刑事だが、彼らの使っている情報屋が家族を殺されたことで自殺してしまうという事件が起きる。囮捜査をしていたFBIの潜入捜査官も殺されたことから、合衆国司法機関による合同捜査に情報漏洩の疑いがもたれる。FBIのフジマ(キアラン・ハインズ)から、合同捜査とは無関係な郡警察に潜入捜査の打診が入り、上司のカステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)は反対するが、ふたりはその任務を引き受ける。

潜入までの経緯を一気に説明するのだが、これがわかりづらい。TVを観ていない者には、クロケットとタブスの関係すらよくわかっていないというのに。潜入捜査で相棒になるくらいだから、相当信頼関係がないとやっていけないと思うのだ。だからふたりのエピソードはもっとあってもいいと思うのだが。タイプの違うふたりという設定を、女性との接し方だけで強調されてもなーという感じ。特にクロケットの方は、まあ刑事としては優秀なのかもしれないが、どうもこれといった特徴がないという印象だ。

なのに黒幕のボスモントーヤ(ルイス・トサル)の女イザベラ(コン・リー)と恋に落ちてしまうのだから……って別に妬いているわけではないが。

ボスの女と書いたが、彼女に言わせると「私はビジネスウーマン」なのだそうだ。とはいえモントーヤの命令は絶対だから、その相手もしないわけにはいかない。しかもその場面の直前に、イザベラはモントーヤに、クロケットとはハバナで寝たと報告しているのだ。イザベラと同格かそれより上の地位と思われるホセ・イエロ(ジョン・オーティス)にも何やらイザベラに対する複雑な感情があるようで、クロケットとイザベラのダンスシーンにただならぬものを感じて涙目になる場面があるのだが(イエロはこの時点でクロケットとタブスを相当疑っている)、それ以上のことはわからず仕舞いだ。

このあたりをもう少し丁寧に描けばかなり面白いものが出来そうなのに、映画はクロケットとイザベラのベッドシーンを長々と見せるのだけだから能がない。そのイザベラの描き方も中途半端で、中国系なのにハバナに親戚があると言っていたからその説明もしてほしいし(簡単な説明でもあれば逆に組織の大きさを強調できそうではないか)、「私は17歳の時からの唯一の世界を失うのよ」というセリフだってもっと効果のあるものにできたはずなのだ。

最後の大がかりな銃撃戦では女捜査官ジーナ(エリザベス・ロドリゲス)の活躍ぶりが際だっているから、マイケル・マンは女性を描くのが苦手というのではなく、恋物語が苦手なのだろう。

都合で潜入捜査の模様を後回しにしてしまったが、これはじっくり見せてくれて、緊張させられた。お互いの探り合いにはじまって、腕試しの運びから、だんだんと大掛かりな運びへ。相手はさすがに用心深く少しずつしか仕事をくれない。ここでは観ている方までじりじりとした気分にさせられる。が、駆け引きの間に入る運びの場面では、船や飛行機を使った爽快さも挟んでと、うまい演出だ。

ただ、情報屋を殺った相手は始末するものの、結局モントーヤは逃がしてしまうし(イグアスの滝のアジトも空っぽ)、内部から情報を流していた犯人も特定できないままだから、不満が残る。どころか、タブスの恋人トルーディ(ナオミ・ハリス)が誘拐されてしまうような不完全な潜入のやり方って甘くないだろうか(恋人が割れてしまうくらいなら本人の素性などわけないだろう)。このことでトルーディは大怪我を負ってしまうし、クロケットはイザベラをハバナへ逃がして助けたつもりになっているが、敵の組織力や規模を考えたらお気楽すぎる。

事件を完全に解決しなかったのは、もしかしたらヒット次第では続編というのが頭にあるのかもしれないが、それはともかくとしても、今の状況はクロケットとタブスの潜入捜査前よりも悪くなっているとしか思えないのだが……。

『マイアミ・バイス』は、とにかく夜の場面の多い映画だった。高速ボートが疾走する場面まで夜だったりする。高感度カメラを使用しているらしいが、それほど粗い感じはなく、明かりに彩られた夜景は艶めかしい殺気をはらんでいた。

  

【メモ】

マイアミは観光地のイメージだが、この映画では中南米と北米を結ぶ密輸の中継地として国際犯罪組織の温床になっているという面が強調されている。

クロケットだけでなくタブスのベッドシーンもちゃんとある。

ふたりは高速ボートやジェット機の操縦まで何でもこなす。007並のスーパーデカなのだ。

タブスはトルーディの件については相当反省していたが、となると続編は無し?

原題:Miami Vice

2006年 132分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:菊池浩司

監督・脚本:マイケル・マン オリジナル脚本:アンソニー・ヤーコヴィック 撮影:ディオン・ビーブ 編集:ウィリアム・ゴールデンバーグ、ポール・ルベル 音楽:ジョン・マーフィ
 
出演:コリン・ファレル(ソニー・クロケット)、ジェイミー・フォックス(リカルド・タブス)、コン・リー(イザベラ)、ナオミ・ハリス(トルーディ・ジョプリン)、エリザベス・ロドリゲス(ジーナ)、ジョン・オーティス(ホセ・イエロ)、ルイス・トサル(モントーヤ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(マーティン・カステロ)、 ジャスティン・セロー(ラリー・ジート)、ドメニク・ランバルドッツィ(スタン・スワイテク)、キアラン・ハインズ(フジマ)、ジョン・ホークス(アロンゾ)、エディ・マーサン(ニコラス)