レスラー

シャンテシネ1 ★★★★

■ランディ・ロビンソンというミッキー・ローク

ミッキー・ローク渾身の一作。

プロレスなんて好きじゃないし(半世紀前のならよく見ていたが)、全盛期を過ぎたレスラーの話って、誰しもロッキーもどきを予想してしまうと思うのだが、見事に裏切られた。

極端に言ってしまうと、俳優というのは、映画の中では与えられた役割の一つくらいにしか思っていない私だが、この映画のミッキー・ロークは、そのままランディ・ロビンソンその人で、それは観終わった今も変わっていない。『フランチェスコ』(1989)のロークも熱演ではあったが、ロークはフランチェスコではなかった。けれど、ランディ・ロビンソンをロークと言われたら、うん、そうだね、と答えてしまいそうなのだ。

八十年代にはスタープロレス選手だったランディ「ザ・ラム」ロビンソンだが、今ではトレーラー暮らしの身で、その家賃の支払いもままならない。週末にある小規模インディー団体の興行ではとても足りず、スーパーでバイトまでしている有様だ。それでもステロイドを欠かさず、日焼けサロンにまでいく姿は哀れでしかないのだが、興行でのランディは仲間から一目置かれる存在で、このあたりの書き込みが素晴らしく、ランディが最も生き生きする場としてのリングをうまくイメージさせている。

このレスリング場面が、試合風景はもちろんだが、控え室を含めてひどく生々しい。ショーとはいえ試合だから、お互いの肉体を痛めつけ合うのは当然で、いくら口裏を合わせているにしても私のように暴力慣れしていない人間(映画は別物だけど、これはそう見えないのだ)には目を塞ぎたくなる場面が続く。

ただ一方で、老眼鏡に補聴器となると(これは職業病なのかもしれないが)、さすがにどうにかしなくちゃ駄目だろ、と言いたくなってくる。そして、ある日、試合後にロッカーで急に気分が悪くなってもどした彼は、そのまま意識を失い、医師からは試合は死を意味すると宣告されてしまう。

レスラーのように鍛え抜かれた肉体がなくては成り立たない職業にとっての老いは、一層悲しいものがある。そんな時、よりどころになるのは、過去の名声でもプロレス仲間でもなく、やはり家族なのだろうか。ランディが娘と連絡を取り、やっとのことで二人で出かけるようになるまでの場面はいじらしくなってしまうが(これには馴染みのストリッパー
キャシディの手助けもある)、それだけ今までのランディは、娘にとっては受け入れがたい存在だったのだ。

ランディが娘に電話をする時に手にしていたのは、娘が七歳くらいの時の小さな写真で、その裏にある電話番号は五つほど書き換えられていた。古い写真しか手元にないのは、ランディがどう娘と接してきたを示しているし、いくつもの電話番号は、住まいが一定することなく生きてきた娘の状況を物語っている。

せっかくたぐり寄せた娘の気持ちを、ランディはちょっとした誘惑に負けてフイにしてしまう。約束をしたレストランで待ちぼうけをさせてしまうことなど、むろん悪いことには違いないが、こんなことだけで娘に一切のことを拒絶させてしまうのは、今までのことがあるからに他ならない。

そのこともあって、真面目に勤めていたスーパーで、怒りが爆発してしまうのだが、この場面がすごい。行く先のことも考えていたのだろう、仕事の欲しいランディは時間延長を申し出て、接客係をやらされるようになっていた。自分の指をスライサーに突っ込んで血まみれにしてしまう描写のすごさもあるが、それまで客の言いなりになっているところをドキュメンタリー風(この映画は他の場面もそうだ)に追っていたことが、この場面を効果的に見せているのだ。

一度決めた引退を撤回し、ボロボロの身体で記念試合に臨むランディは、痛々しいとしか言いようがないのだが、もうここまでくると、こちらも死が目の前にあるのに引き留める術も知らず、そうそれでいいんだよ、ランディ、と言ってしまっていたのだった。ストリッパーのキャシディが観客の代わりになって試合会場に駆けつけてくれたのだから、それでもう十分じゃないかと、私はランディではないのに、自分に言い聞かせていたのである。

ところで(これは断じて付け足しではない)、マリサ・トメイの熱演ぶりにも頭が下がった。考えてみれば、ストリッパーも身体が資本だから、キャシディも年齢のことを考えずにはいられなかっただろう。そしてなにより、自分の子供が母親についていろいろ知ってしまう年頃になっていて、そう長くはこの仕事を続けているわけにはいかない状況なのだ。キャシディについて、多く語られることはなかったが、キャシディがランディを放っておけなくなるのは、二人が似た者同士だからなのである。

原題:The Wrestler

2008年 109分 アメリカ シネスコサイズ 配給:日活 R-15 日本語字幕:太田直子

監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 製作総指揮:ヴァンサン・マルヴァル、アニエス・メントレ、ジェニファー・ロス 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ プロダクションデザイン:ティム・グライムス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:クリント・マンセル 音楽監修:ジム・ブラック、ゲイブ・ヒルファー 主題歌:ブルース・スプリングスティーン

出演:ミッキー・ローク(ランディ・ロビンソン)、マリサ・トメイ(キャシディ)、エヴァン・レイチェル・ウッド(ステファニー)、マーク・マーゴリス、トッド・バリー、ワス・スティーヴンス、ジュダ・フリードランダー、アーネスト・ミラー、ディラン・サマーズ

レッドクリフ Part II 未来への最終決戦

上野東急 ★★☆

■決戦の運命は女二人に託される

CGがどこでもドアになって以来、スペクタクル物には不感症気味になっているので、そのことについてはあえて書かない(つまらないと言っているのではないよ。そりゃ大したものなのだ。それにCGを否定するつもりはないし、どころか使い方によっては歓迎さえしているのだが)。

前篇で赤壁の戦いを前にして、次のおたのしみはこの後篇で、とはちゃっかりしたものだが、とはいえ、大方の人が知っている話を二部作にしたわけだから工夫は必要で、Part IIでは大決戦を女二人に託すこととなった。これには孔明の風読みの知恵もかすれ気味だ(まあね。だって気象学の知識はすごくても、偶然待ちには違いないんで)。

まず、孫権の妹尚香は、大胆にも敵地に乗り込んでいってスパイ活動をする。これが、男装もだけど体型まで誤魔化してだから(体に敵の戦力配置をしたためた紙を巻いて太っちょになっている)もうマンガでしかない。けれど尚香と蹴鞠(といってもサッカーに近いものになっていた)がうまくて千人部隊の隊長に抜擢された孫叔材との恋は微笑ましかった。もっとも孫叔材の方は尚香をデブ助と呼んでいるくらいで、女とは思っていないから彼にとっては友情なのだが。

もう一人は、周瑜の妻の小喬。そもそも曹操は彼女を狙ってこの戦いを挑んできたという噂があるくらいだった。この時代にそんな噂が遠くまで飛び交うとは思えないが、けれど、噂というのはあなどれないからねぇ。で、小喬はこれまた単身で(お腹の子は勘定に入れなければね)、こちらは正面から曹操の元へと出向いて行く。

曹操の機嫌を取りにね。そして、それは夫を想うが故ながら、しかし考えようによっては思い上がりもはなはだしい。じゃないか、ちゃんと「夫の為でなく民の為に来た」と曹操に向かって正義を説いてはいたが、でもそれだって、私には思い上がりにみえてしまったのだった。小喬が曹操を評して「お茶を解さない方」と言ったのが、引っかかっているからなんだけど。映画だと口に出さないといけないからにしても、こういうのは言ってしまうとなぁ。

結局、小喬がお茶の相手をしたことが、風向きが変わるまでの時間稼ぎとなる。これが呉蜀連合軍が、数で圧倒する魏軍を火攻めで打ち負かす要因になるのだが、小喬はそこまで知っていたのだろうか。ま、それはともかく、結果、小喬大活躍の巻なのだった。尚香のスパイ活動共々、どこまで三国志に書かれているのかはよく知らないのだが、もう少し控え目でよかったのではないか。

女二人に活躍の場を与えてしまったので、その皺寄せは呉蜀連合の男共にきてしまう。ヒーローたりうる頭数はいるのに、話が分散気味なのだ。周瑜が一応中心なのはわかるが、小喬のことで足を引っぱられているような気がしなくもない。もしや、小喬はすすんで曹操の元に行ったとか、って、そういう話にはなりっこないのだが、個人的に小喬があまり好ましく思えなかったものだから、ついそのことを気にしてしまっていたようだ。

曹操はやることが冷酷だし、なにしろ兵隊は沢山いるし(注)、判官贔屓で悪役になるしかないのだが、部下の志気を高める心遣いなど天性のものがあったのか、呉に勝ったら税は三年免除、などと太っ腹なことを言っていた。が、曹操自ら疫病が蔓延しているところに行って、病気の兵士に粥を食べさせたり家族の話を聞かせたりはやりすぎで、話が途端に嘘臭くなる。

判官贔屓で悪役と書いたが、最後になってくると一人で悪役を引き受けているようで、曹操が逆に気の毒に見えてくる。「たった一杯の茶で大義を失った。皇帝の命で来たのだぞ」と自嘲気味に言う場面では少なからず同情してしまう。彼なりの大義で天下を統一しようとしていただけなのに、と。

それにしても『未来への最終決戦』とは、ひどい副題を付けたもんだ。史実はともかく、映画だと「去れ! お前の地に戻るがよい」と曹操を解放してしまうんで(そりゃないよね)、未来への最終決戦だったのに、また争いの種を蒔いてるようなものなんだもの。

注:映画だと八十万対五万、二千隻対二百隻。どこまで本当かは知らないが、この数字が確かなら関ヶ原の戦いの五倍ほどの規模になる。以前なら眉唾に却下してしまったはずだが、故宮や万里の長城を実際に目にしてきた今は、あながちデッチ上げとは思えずにいる。

原題:RED CLIFF: PART II 赤壁

2009年 144分 アメリカ、中国、日本、台湾、韓国 シネスコサイズ 配給:東宝東和、エイベックス・エンタテインメント 翻訳:鈴木真理子 日本語字幕:戸田奈津子 日本語版監修:渡邉義浩

監督:ジョン・ウー[呉宇森] アクション監督:コリー・ユン 製作:テレンス・チャン[張家振]、ジョン・ウー 製作総指揮:ハン・サンピン[韓三平]、松浦勝人、ウー・ケボ[伍克波]、千葉龍平、デニス・ウー、ユ・ジョンフン、ジョン・ウー 脚本:ジョン・ウー、チャン・カン[陳汗]、コー・ジェン[郭筝]、シン・ハーユ[盛和煜] 撮影:リュイ・ユエ[呂楽]、チャン・リー[張黎] アクション監督:コリー・ユン[元奎]  編集:デビット・ウー、アンジー・ラム[林安児]、ヤン・ホンユー[楊紅雨] VFX監督:クレイグ・ヘイズ VFX:オーファネージ 美術・衣装デザイン:ティム・イップ[葉錦添] 音楽:岩代太郎 主題歌:アラン

出演:トニー・レオン[梁朝偉](周瑜)、金城武(孔明/諸葛亮)、チャン・フォンイー[張豊毅](曹操)、チャン・チェン[張震](孫権)、ヴィッキー・チャオ[趙薇](尚香/孫権の妹)、フー・ジュン[胡軍](趙雲)、中村獅童(甘興)、リン・チーリン[林志玲](小喬/周瑜の妻)、ユウ・ヨン[尤勇](劉備)、ホウ・ヨン[侯勇](魯粛)、トン・ダーウェイ[菴汨蛻ラ](孫叔材/曹操軍の兵士)、ソン・ジア[宋佳](驪姫/曹操の側室)、バーサンジャプ[巴森扎布](関羽)、ザン・ジンシェン[臧金生](張飛)、チャン・サン[張山](黄蓋)

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)

レベル・サーティーン

シネセゾン渋谷 ★★★★

■もう引き返せない。「レベル最低」ゲームは、最後に融合する!

すごい映画を観てしまったものだ。グロで下品で、性的な場面こそないが、それ以外での傍若無人さは目に余るものがあって書くのもためらわれるのだが、観てしまったのだから、もう引き返せない。映画館を出なかった私もゲームをやめなかった主人公のプチット(クリサダ・スコソル・クラップ)と同じようなものだ。って、そんなわけはないのだが、人間が暴走していく要因など案外にたようなもので、単なる怖いもの見たさだったりするのではないかと、ふと、思ってしまったのだった。

プチットは輸入楽器のセールスマンだが、要領のいい同僚には出し抜かれるし、営業成績がちっとも上がらない。なのに、故郷の母親との電話では課長への昇進を匂わせて、いいところ見せてしまうような男で、だから逆に金を無心されて、それにもいい返事をしていた。車のローンすら滞納しているっていうのにね。車を取り上げられてバスで出社すれば、机には請求書の束が届いているし、おまけにクビを言い渡されてしまう。

にっちもさっちも行かなくなって非常階段で苦悩していると、突然ケータイが鳴る。ケータイの見知らぬ声は、幸運にもゲームの参加者に選ばれたことと、ゲームをクリアしていくと超高額の賞金を手にすることができることを語り、プチットはゲームに参加するかどうかを促される。

プチットがゲームに心を動かされる状況にあることはすでに述べた通り。その説明がちゃんとあるのはこのあとの展開を考えると意外な感じもする。そんなに追い詰められていない人間でもこのゲームを始めてしまいそうだからなのだが、プチットの性格付けという意味もそこに込めた上での流れと考えれば無難なとこか。

そして、最低のゲームが始まっていく、レベル1は手元にある新聞で壁の蠅を叩き落とすというもの。これで1万バーツ。レベル2は叩き落とした蠅を飲み込むことで5万バーツ。

ゲーム(というより課題である)がエスカレートしていくことは容易に想像が付くが、プチットはもう引き返せない(ゲームは、1.ゲームの終了を申し出たら、2.誰かにゲームのことを教えたら、3.ゲームの正体を探ろうとしても中止になると前置きされるが、できれば中途退場の場合のルールについてももう少し詳しく触れておいてもらいたいところだ)。

というのもレベル5で、大便を食材にした料理を食すというとんでもない課題が出てくるからだ(それも繁盛しているレストラン内でのことなのだ)。この難問(映画作品とする時の難問にはならなかったのだろうか)は、この後に出てくるいくつかのゲームよりかなりハードルが高い(これについては時間制限はなかったが)こともあって、この段階で登場するのは少々疑問なのだが、プチットはそれも決行するに至る。

プチットにしても、この時点でこのゲームがどのくらい巧妙に仕組まれたものなのかは推理したはずだ。というか、そもそも最初のゲームからして並大抵の設備と準備がなければ、ゲームを成立させる状況にはならないし、進行中の不確定要素も入れると、このゲームがどれほどの規模で行われているのか、いくら「とろい」プチットといえども考えただろう。

この謎については、プチットに好意を持つ同僚のトン(アチタ・シカマナ)が、プチットの行動に疑問を抱き、テレビでプチットがバスで大喧嘩(レベル6)をして警察に追われているニュースも見て、ネットで事件を調べていくうちに、怪しげな会員制のサイト(http://www.13beloved.com/ このアドレスはこの映画のタイ語の公式サイトになっていた)に行き着き、少しずつ判明していく。が、これすらもある程度予想(もしくは途中から組み込んだのか。会員制のサイトなのに、「侵入者を信用」してしまうのだ)されていたフシがあるのだ(トンも最後の方でゲームの一部として登場する)。

プチットのゲームは、途中、数の推理(これこそゲームらしいが、これは13のうちには含まれないようだ)や井戸に落ちた老人の救出などをこなしながら(昔の恋人の現在の彼を叩きのめすというのもあった。レベル8)、痴呆の老婆を病院から連れ出した(レベル9)ことから起きる惨劇(レベル10)へ一気に突っ走る(老婆の行動はどこまでが演出なのだ!)。ここではワイヤで首を落とされた暴走族の1人がのたうち回るかなり気味の悪い場面も用意されている。ここまで、多少のモタモタ感がないわけではないが、課題も内容に富んだよく考えられたものだ。

トンの犬を殺すのがレベル11で、このあと牛を殺してその肉を食べることを経て(やはりこの順番は難ありだ。もっともそれもちゃんとわかっていて、この賞金は5000バーツである)、いよいよ最後のレベル13に到達する(実はトンも拉致されてその場、別室だが、に連れてこられている)。

プチットに課せられたのは父親殺しで、その当人が目の前に顔に袋を被せられて現れる。プチットにとって父親は飲んだくれで、オモチャを壊し、愛犬をころし、虐待されてきた憎むべき相手だったから、この決断は意外と簡単と思われたが、何故かプチットに父を肯定する思い出が過ぎって(愛犬殺しも狂犬病故のことだった)、父殺しなど出来ないと自覚する。が、プチットがそこに至ったとき、プチットは自分が殺すべき相手に、反対に殺されてしまうのである。

つまり父親の方も、多分プチットと同じようにゲームを経て、この最後のレベル13に到達していたのだろう。ゲームの主催者(サイト管理者)にとっては、ここまでは細心の注意を払いながら課題を設定し進めてきたが、ここに至ってはどちらかがレベル13をクリヤーすればそれで十分なのは改めて言うまでもないことだ。

このアイディアの非情さには舌を巻くしかないのだが、ゲームの主催者を中学生くらいに設定しているのも憎いばかりだ。その少年「キース様」はトンに「今まで何人が犠牲になったか知ってるか」と詰め寄られるのだが、「ゲームだ。僕は知らない、プレーヤーがやった。心配ない。法は僕側だ」と言って憚らない。人殺しという言葉にも「僕じゃない、みんなだよ」と同じことを繰り返すだけだ。

もっともトンは解放されたようだ。内情をあそこまで知っている(教えたという方が正しい)トンを解放したのは、キー様に絶対の自信があるということなのだろう。そう、最後の場面で彼女に近づいていったのは、未確認ながら多分「過去に同様の事件があった」と言ってこの事件を捜査していた警官のようだったから。

ところでここまできて、巻頭に、横断歩道で老婆の手助けをしてケータイを落としてしまう場面があったことを思い出したのだが、あれにはどういう意味があったのだろう。誰か教えて欲しいのだが。

 

【メモ】

本文で書き漏らしたゲームは次の通り。レベル3は、3人以上の子供を泣かす。レベル4は乞食の小銭を奪う。

このゲームが成立するには相当数の隠しカメラが市内(いや郊外にもだった)に張り巡らされている必要がある。また、ゲームのプレイヤーへの連絡はケータイだから充電を心配して、プチットにも途中でケータイを替えるような指示が出ていた。

トンの通報で警察もサイトを調べるが、ページすら見つからない。もっともその警察のファイルに13という数字と怪しげなマークがあるので、ここもゲームの主催者のもとにあることがわかる。

不思議だが、トンに対しては「手荒な真似をしてすまない」などと言っていた。「気付いたのは君がはじめて。ウィークポイントを教えてくれた」とも言っていたから、キー様はトンに敬意を払っていたのだろうか。

プチットは昔の彼女に会って「お袋が会いたがっているし、やり直そう」と言うのだが、彼女からは「その話、前にも聞いたけど嘘だったわ。それにその話が本当だとしても、私を有名歌手にはできないでしょ」と言い返されてしまう(すごいよね、これ)。そして、彼女の彼がろくでもない男なのに、彼女が男を好きなことを知ってショックを受けることになる。

原題:13 BELOVED

2006年 114分 ビスタサイズ タイ R-15 配給:ファインフィルムズ、熱帯美術館 宣伝協力:スローラーナー 日本語版字幕:風間綾平

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル 製作総指揮:ソムサック・デーチャラタナプラスート 原作:エカシット・タイラット 脚本:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル、エカシット・タイラット 音楽:キティ・クレマニー

出演:クリサダ・スコソル・クラップ(プチット)、アチタ・シカマナ(トン)、サルンヨー・ウォングックラチャン(スラチャイ警部)、ナターポン・アルンネトラ(ミク)、フィリップ・ウィルソン(ジョン・アダムス/プチットの父)、スクルヤ・コンカーウォン(プチットの母)

レディ・イン・ザ・ウォーター

新宿ミラノ1 ★★★

■アパートは世界なんだ。シャマランでなく、あの映画評論家に作ってもらいたかった

物語だけをたどってみると、そのくだらなさにうんざりしてしまうのだが、真剣に見てしまったのは何故か。でっちあげおとぎ話なのにね。

アパートの管理人をしているクリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)の前にストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗る女性が現れる。彼女は水の精で、素晴らしき未来をもたらす能力を秘めた若者に、その直感を与える使命を持って人間の世界にやってきたのだが、いまだ目的を果たせず、恐ろしい緑の狼に追われて、自分の世界にも戻れずにアパートの中庭のプールに身を潜めていたのだという。

いきなり、何だこりゃというような話になる。突飛だからか、巻頭に子供の絵みたいなもので、水の精の解説をしてくれてはいたが。そればかりか、韓国人系住人に伝わるおとぎ話までもってきて、しかもその通りに物語が展開していくんだから開いた口がふさがらない。

ヒープは、ストーリーの話が韓国人老婆の語るおとぎ話に符合することや、彼女と一緒だと吃音にならないこと、そして緑の狼を見るに及んで、ストーリーの話を信じ、アパートの住人と協力して彼女が無事元の世界に戻れるようにしようとする。

当然、ファンタジーらしい鍵がいくつもちりばめられていて、記号論者、守護者、職人、治癒者という、いわば世界を救う勇者探しがまずは急務となる。勇者たちが勇者であることを自覚していないのはお約束で、ヒープもストーリーを救ったことから自分を守護者と勘違いするくだりがある。もっとも記号論者がクロスワードパズル好きの親子だったように、この役割分担に特別の意味があるわけではなく、それは実際パズルのようなもので、その謎解き(よくわからんのだ)よりは、アパートの住人たちの中に勇者がいるということが大切なようだ。

ヒープは管理人という特技?を活かして協力者を捜し出す。選ばれし者たちの中には、彼にとっては厄介者だった若者のグループがいたりする。アパートには様々な人種がいるし、このアパートは小さいながら世界そのものを表しているのだろう。と考えると、これだけ壮大なテーマに、怪物まで引っ張り出しながら、アパートから1歩も出ないで映画が成立しているわけがわかろうというものだ。

それぞれはバラバラで孤独なようだけど、みんな繋がっているし、困っている人を差しのべることが、世界を救うことになる。きっと、こういうことが言いたいのではないだろうか。それに、これって当たってるよね。

ただ、その仕上げに重なるようにヒープの過去の重石まで解放されるあたりは、もうこれは好みの問題なのだが、まるで集団治癒の1場面みたいで感心できないし、緑の狼が猿のようなものに退治されるのも(もう少しマシなのを用意しろよな)、巨大な鷲につかまってストーリーが去る場面(あれっ、水の世界に戻るんじゃ)も、つまらなくて拍子抜けするばかりである。

要するに、立ち上がる、そのことが重要な訳だから、あとは韓国人老婆の語るおとぎ話通りでも問題ないのだろう(というかストーリーが物語をたずさえてやってきたと解釈すればいいわけだ)。でも、このおとぎ話にすでに結末があったということは、世界はすでに救われていることにならないだろうか。そうでないのなら、若者の著作によってみんなが目覚め、世界が救済されるのだという結末は避けるべきだった。

それにしても、あの映画評論家(ボブ・バラバン)は気の毒でした。読みが外れて、緑の狼の餌食とは(唯一の犠牲者じゃん)。シャマランにとっては、高慢な自説で好き勝手に映画を切り捨てるようなヤツは許し難いのかもしれないが、私は憧れちゃうな。あの映画評論家のような確固たる自説が持てるのであれば、世間に裏切られようとも、怪物の餌食になろうとも、さ。

  

【メモ】

体の右側だけを鍛えている若者(何だーコイツは)が守護者だった。

原題:Lady in the Water

2006年 110分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:クリストファー・ドイル 編集:バーバラ・タリヴァー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:ポール・ジアマッティ(クリーブランド・ヒープ)、ブライス・ダラス・ハワード(ストーリー)、フレディ・ロドリゲス(ジェフリー・ライト)、ボブ・バラバン(映画評論家)、サリタ・チョウドリー、ビル・アーウィン、ジャレッド・ハリス、M・ナイト・シャマラン、シンディ・チャン、メアリー・ベス・ハート、ノア・グレイ=ケイビー、ジョセフ・D・ライトマン

RENT レント

銀座テアトルシネマ ★★

■歌詞レベルの深みのないミュージカル

場面を限った力強い予告篇(「Seasons of Love」が歌われるシーン)に訴えるものを感じたのだが、楽曲を単純に楽しむという点に絞ればともかく、本篇の中身はさっぱりだった。

「Seasons of Love」で52万5,600分-1年を何で数えるか?(Five hundred twenty-five thousand Six hundred minutes. How do you measure, measure a year?)という問いかけに、歌詞と同じように曖昧にしか答えていないのだ。昼、夕焼け、深夜、飲んだコーヒー、インチ、マイル、笑い、喧嘩(In daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles, in laughter, in strife.)……なんじゃそりゃ。だいたい欧米の曲の歌詞は単純なものが多い(?)し、そんなことを言ってもはじまらないのだけど、映画にするのであれば、そこはもう少し掘り下げてくれなきゃ。

家賃(Rent)が払えないのに芸術家きどりでいるロジャー(アダム・パスカル)とマーク(アンソニー・ラップ)をはじめてとして、その恋人や仲間が何とも子供っぽい。マークはドキュメンタリー映像作家を目指しているから8ミリ撮影なのだろうが、家賃に優先させている神経がね。もっともこれは後に、フィルムがテレビ局に売れることになるのだが……。

店の迷惑などおかまいなしに騒ぎまくるなんていうのは、はじめにミュージカルシーンありきと考えれば些細なことと見逃せるが、ロジャーとミミ(ロザリオ・ドーソン)の恋の行く末などはなんとも危なっかしい。エイズであることが屈折した心境になっているにしてもね。昔の男ベニー(テイ・ディグス)とよりを戻したり、ドラッグに走ったり……。マークの元を去ってレズ同士で結婚したモーリーン(イディナ・メンゼル)とジョアンヌ(トレイシー・トムス)のカップルもしかり。結婚式でもう喧嘩ではね。

いろいろなことが起こるのだけど、すべてが歌詞レベル。好きになって、別れて、でも忘れられなくて……。場面と楽曲が替わるように上っ面な言葉だけで切り替えられても困るのだ。

少ししゃんとしているのはドラッグクイーンエンジェル(ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア)とコリンズ(ジェシー・L.マーティン)くらいのものか。が、これもエンジェルに金銭的余裕があるからという、うがった見方もできるのだけどね。

物語の設定が89.12.24から90.12.24だから、今から観ると若者の悩みというにはなんとなく古めかしいものがある。またキャストの多くがトニー賞受賞(96年)のオリジナルメンバーということもあるだろうか。舞台ならともかく映画では年齢詐称はちょっときついから、ついやっていることが子供っぽいという感想になってしまうのだ。

でもそういうことではなく、そもそもミュージカルに深刻な話はやはり似合わない気がするのだ。空腹なのに声を張り上げるのはまだしも、生死の場面ではその歌唱力が邪魔くさいものに思えてしまうから。モーリーンのベニーが進める立ち退き計画に対する抗議ライブなどは、よかったものね。

原題:Rent

2005年 135分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:クリス・コロンバス/脚本:スティーヴン・チョボスキー/台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン/振付:キース・ヤング

出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ジェシー・L・マーティン、イディナ・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、トレイシー・トムズ、サラ・シルヴァーマン